スタジオSTSライブ3月
2005年3月12日 アイドル佐伯誠之助くんに会う用事があったのだが、結局本人には会えず、彼が今日ライブするバー、日本橋百景にブツを届けに行く。と、これまた、鍵がかかっているではないか。取られないように、こっそり看板の裏にブツを隠して、メモを残して去る。ブツの行方は誰も知らない。いや、僕は知らない。
今日は創叡のスタジオSTSライブ。開演は午後7時だが、いつものように、4時過ぎから並んで、良席を確保にかかる。意外と並んでいる人の数が少なく、いつもよりもいい席に座れそうだ。でも、寒い。いきなりのこの寒さにはまいった。あわてて100円均一店で使い捨てカイロを買い、自動販売機で暖かいドリンクを入手した。震えて待て、とはこのこと。
以下、プログラム。
SHOW TIME/ステッパーズ
ジュテーム☆ジュテーム/ミニバブ(次のユニットへのつなぎで「BOYS」を途中まで)
憧夢〜風に向かって/トレード(新曲。Be-Bのカバー、「毎度ゴメンなさぁい」)
ミスターU.S.A/PHRASE(新曲。マイクの頭が取れるハプニング)
can’t take my eyes/プリッツ(新曲。振り付けはミニバブ風)
モーニングコーヒー/マシェリー(PHRASEが落としたマイクの頭を帰り際にやっと回収)
トラ トラ トラ/ペトラキッズ
スケーターボーイズ/AKI組(PHRASEのチヒロが、ブラックベリーズのユキミが、ミューズのシオリが、RISAKOが、こりゃすごい!)
ここで、いったん休憩。
第2部はなんと特別ゲスト、大関の栃東が登場した!インタビューに答えるだけの登場だが、なぜ、ここに?という登場。
Just Lovin’ You/桐生彩加
交差点/杉本めぐみ
すき/松本毬
テネシーワルツ/松本毬
STEADY/クランベリーズ(中山阿友欠席!残りのメンバーでヴォーカルを分担していたが、抜けた穴は大きい!)
キッズクリエイション/ファッションズ
Uki Uki Baby/いちごっ娘
can’t be stopped/ブラックベリーズ(5人になった!)
Quincy/TOUCH(奥側の席に坐ったので、ごひいきの伊藤貴恵ちゃんでなく、松下実那子ちゃんのステージアクトをたっぷり堪能したが、すごいね!一緒に歌うときの口の開け方なんて、センターにいないのに、堂々のメインです)
IF YOU WERE HERE/TOUCH&フレンズ(これ、最高!)
バイク/Super Bubblez(新生!ミューズとブラックベリーズとマシェリーの顔ぶれが見られる。ラズベリーズの子はどうしたのかな)
今日はアンコール無し。
ただし、舞台の上ではマツケンサンバにあわせて踊って遊ぶ子供あり。
ユニット別のポスターを1枚千円で販売していた。また、会場外での私的なユニット撮影も禁止になっていた。僕はカメラやビデオで撮影しようという思想があまりないので、痛くもかゆくもないが、客席に林立するビデオやカメラの数を考えると、「えーっ」なのだろう。
前回のライブでの人気投票結果は、1位がいちごっ娘、2位ブラックベリーズ、3位TOUCHここまでは僅差で、名実ともに今の創叡の三強と言っていいだろう。これに続いて、全国展開をはかる4位ミューズと、チビあゆの5位ファッションズが続く、というかたち。
で、今回僕が選んだベスト3には、今までアンケートに記入したことのないユニットが絡んで来た。トレードだ。今回の新曲を得て、大きく化けるんじゃないか、と期待させる。
今日は創叡のスタジオSTSライブ。開演は午後7時だが、いつものように、4時過ぎから並んで、良席を確保にかかる。意外と並んでいる人の数が少なく、いつもよりもいい席に座れそうだ。でも、寒い。いきなりのこの寒さにはまいった。あわてて100円均一店で使い捨てカイロを買い、自動販売機で暖かいドリンクを入手した。震えて待て、とはこのこと。
以下、プログラム。
SHOW TIME/ステッパーズ
ジュテーム☆ジュテーム/ミニバブ(次のユニットへのつなぎで「BOYS」を途中まで)
憧夢〜風に向かって/トレード(新曲。Be-Bのカバー、「毎度ゴメンなさぁい」)
ミスターU.S.A/PHRASE(新曲。マイクの頭が取れるハプニング)
can’t take my eyes/プリッツ(新曲。振り付けはミニバブ風)
モーニングコーヒー/マシェリー(PHRASEが落としたマイクの頭を帰り際にやっと回収)
トラ トラ トラ/ペトラキッズ
スケーターボーイズ/AKI組(PHRASEのチヒロが、ブラックベリーズのユキミが、ミューズのシオリが、RISAKOが、こりゃすごい!)
ここで、いったん休憩。
第2部はなんと特別ゲスト、大関の栃東が登場した!インタビューに答えるだけの登場だが、なぜ、ここに?という登場。
Just Lovin’ You/桐生彩加
交差点/杉本めぐみ
すき/松本毬
テネシーワルツ/松本毬
STEADY/クランベリーズ(中山阿友欠席!残りのメンバーでヴォーカルを分担していたが、抜けた穴は大きい!)
キッズクリエイション/ファッションズ
Uki Uki Baby/いちごっ娘
can’t be stopped/ブラックベリーズ(5人になった!)
Quincy/TOUCH(奥側の席に坐ったので、ごひいきの伊藤貴恵ちゃんでなく、松下実那子ちゃんのステージアクトをたっぷり堪能したが、すごいね!一緒に歌うときの口の開け方なんて、センターにいないのに、堂々のメインです)
IF YOU WERE HERE/TOUCH&フレンズ(これ、最高!)
バイク/Super Bubblez(新生!ミューズとブラックベリーズとマシェリーの顔ぶれが見られる。ラズベリーズの子はどうしたのかな)
今日はアンコール無し。
ただし、舞台の上ではマツケンサンバにあわせて踊って遊ぶ子供あり。
ユニット別のポスターを1枚千円で販売していた。また、会場外での私的なユニット撮影も禁止になっていた。僕はカメラやビデオで撮影しようという思想があまりないので、痛くもかゆくもないが、客席に林立するビデオやカメラの数を考えると、「えーっ」なのだろう。
前回のライブでの人気投票結果は、1位がいちごっ娘、2位ブラックベリーズ、3位TOUCHここまでは僅差で、名実ともに今の創叡の三強と言っていいだろう。これに続いて、全国展開をはかる4位ミューズと、チビあゆの5位ファッションズが続く、というかたち。
で、今回僕が選んだベスト3には、今までアンケートに記入したことのないユニットが絡んで来た。トレードだ。今回の新曲を得て、大きく化けるんじゃないか、と期待させる。
石井輝男監督の「女体桟橋」を見た。
女体桟橋とは、いったい何のことなのか?
赤線廃止で、日本には海外のコールガール組織が暗躍することになる。海外の組織が日本人の客を相手にするためのクラブは、いわば女体を外国から日本へと橋渡しする桟橋なのだ。
女体!桟橋〜!
クラブでのセクシーなダンスは、今から見るとクラシックなのだが、エロチックこのうえない。
女体桟橋とは、いったい何のことなのか?
赤線廃止で、日本には海外のコールガール組織が暗躍することになる。海外の組織が日本人の客を相手にするためのクラブは、いわば女体を外国から日本へと橋渡しする桟橋なのだ。
女体!桟橋〜!
クラブでのセクシーなダンスは、今から見るとクラシックなのだが、エロチックこのうえない。
野火迅の『仏鬼』を読んだ。
目の前で親を殺された男が真如宗という仏教のカリスマ教祖となって、日本を大きく変えようとする。その教えは過激にしてラジカル。命を重くとらないのだ。信者たちは、平気で命を奪う殺人集団になる。この宗教のすごいところは、他人の命を理由なく奪うだけでなく、自分の命でも簡単に捨ててしまえるのだ。
およそ、命のやりとりにためらいがない。
「死にたがるのではありません。ただ、おのれの命を重んじないのです」と言ってのける。
「何ものをも戒めはしない。蟻の群が蟷螂の巣を襲おうともそこにはいかなる罪もありはしない。すべて有為無情の営みである」
しかし、人を殺す仏教なんてものを認めてよいものなのか。
このラジカル宗教に立ち向かうのは、明恵上人と、若き道元。
仏教とは何か、という討論&バイオレンス小説で、頭脳も肉体も大バトル状態の快作だ。無念無想の道元と夢と瞑想の明恵による議論も展開される。
かつてオウム騒動があったとき、世俗的な仏教の立場から、宗教の本質とはかけはなれた視点で批判がされたことがあった。宗教が人の命を奪うケースなんて、ありふれすぎている。ワイドショーレベルではしかたがないとは言え、そんな道徳の立場から宗教を糾弾することなど不可能だと思っていた。
だがしかし、一般にはラジカルな問いに身をさらして日々を過ごしている人なんて、ほとんどいない。一般に理解されない宗教が、人間にとってどんな意味があるというのだろう。
目の前で親を殺された男が真如宗という仏教のカリスマ教祖となって、日本を大きく変えようとする。その教えは過激にしてラジカル。命を重くとらないのだ。信者たちは、平気で命を奪う殺人集団になる。この宗教のすごいところは、他人の命を理由なく奪うだけでなく、自分の命でも簡単に捨ててしまえるのだ。
およそ、命のやりとりにためらいがない。
「死にたがるのではありません。ただ、おのれの命を重んじないのです」と言ってのける。
「何ものをも戒めはしない。蟻の群が蟷螂の巣を襲おうともそこにはいかなる罪もありはしない。すべて有為無情の営みである」
しかし、人を殺す仏教なんてものを認めてよいものなのか。
このラジカル宗教に立ち向かうのは、明恵上人と、若き道元。
仏教とは何か、という討論&バイオレンス小説で、頭脳も肉体も大バトル状態の快作だ。無念無想の道元と夢と瞑想の明恵による議論も展開される。
かつてオウム騒動があったとき、世俗的な仏教の立場から、宗教の本質とはかけはなれた視点で批判がされたことがあった。宗教が人の命を奪うケースなんて、ありふれすぎている。ワイドショーレベルではしかたがないとは言え、そんな道徳の立場から宗教を糾弾することなど不可能だと思っていた。
だがしかし、一般にはラジカルな問いに身をさらして日々を過ごしている人なんて、ほとんどいない。一般に理解されない宗教が、人間にとってどんな意味があるというのだろう。
大阪合同庁舎の食堂で昼食をとった。合同庁舎で働く死神ちゃんのお導きによる。
お役所仕事に精を出すホワイトカラーのお歴々と一緒にランチだ。加齢臭と整髪料の強烈な匂い、きき過ぎの暖房がもたらす汗の香りがあいまって、アジアの大衆食堂っぽい活気がある。死神ちゃんは制服姿で、制服の上に着たカーディガンが、いつもと違う死神ちゃんをコーディネートしており、砂糖菓子みたいで、とても可愛い。ランチの質や量については、あまりお薦めできないが、死神ちゃんと一緒なら、たとえテニアン島(どこ?)でランチでも大満足なのだ。死神ちゃん、またお昼休みにランチ食べよう。
今日はいくつかのギャラリーをサウンドアーター、あっ間違えた、サウンドアーチストの安井献くんと巡った。まずはマニフェストギャラリーで宮脇賀子(みやわき・のりこ)の「パラダイス展」海洋堂の動物や鳥などのフィギュアを多用したジオラマと立体コラージュ。ジオラマなのだが、印象はパノラマ。そうか。のぞきからくりの押絵と旅したいにしえの人は、現在ならジオラマのフィギュアに恋をするんじゃないか。
隣の14th moonで伊藤正道の「わくせいリベット原画展」伊藤正道は大阪ガスのコマーシャルのイラストでおなじみ。海洋堂からオリジナルフィギュアも出している。おや、海洋堂からの花は両方に届いていたのか。絵柄はいかにも星を要求している。サンテグジュペリの世界と言おうか。顔のあるアーチストだ。
ここでちょっとお茶を。僕は店のオリジナルメニュー、ショコラバナナシェイク(名前は微妙に違うかも)。アイスで飲むドリンクなのだが、無理を言ってホットにしてもらった。店の人も面白がって、ホットにしてくれた。おいしい。でも、バナナの繊維にショコラで色付けされ、ババッと自爆したような惨状が容器の中で展開されていた。レギュラーメニューにするのは避けた方がいいだろう。
店を出て並びのギャラリ−センティニアルで一瀬ヨシロウ、かづせみき二人展「植物系天使」色の糸を駆使した造型と、にじんだ感じが素敵な絵。子供が描いた絵もいくつか展示してあり、これがシュルレアリズムの素描っぽい。カエルの子はカエルか。
大阪府立現代美術センターで「カレイドスコープ〜交通するアート・万華鏡的複眼思考のススメ」加藤義夫氏による「イズムからスコープへ」という文章を読むと、20世紀前半の美術はイズム。21世紀のアートは複眼的で拡がりを持ち、かつ万華鏡のように光輝き変幻自在な世界へ。なんてことが書いてある。こういう文章を書かねばならないところに、現代アートのどんづまり感が出ているんじゃないか。ちょっと前はポストモダンの波の中で、ここでも取り上げられる「交通」や「ハイブリッド」あるいは「テクスト=織物」「横超」なんて言葉が舞い踊っていた。ところが、今や時代はオタクの時代だ。複眼どころか、特定のジャンルへの専門家が時代のキーを握っている。ところが、いかんせん、オタクは消費し、受容するのは得意だが、新しいものを創造し、発信することはオタク道からも外れた行為になる。新しいものなど存在するのか、とか、新しいことに価値があるのか、という議論はあろう。僕が今考えているのは、新しいものをありがたがる気持ちは、つまらない。でも、新しいものは存在する。源氏物語は古いものか?でも、読んだことのない人がはじめて読めば、それは新しいものなのではないのか。つまり、不特定多数にとっての新しさなんて相手にしているから、話がややこしくなるのだ。新しいかどうかは、自分にとってどうなのか、だけだ。はじめての体験は、他人が同じ体験を何百回していようと、それとは無関係に新しい体験のはずである。それは新しい、でも価値とは無関係なのだ。
なーんて、どうでもいいことだったかなー。
展示は万華鏡の展示や、平田泰規による映写機などの視覚玩具展示、植松琢麿による展示、等。はっきり言って、未見のCASOの展示の方が刺激的に思える。こちらの展示は、面白いものもあったし、貴重な展示もあったのだが、それにまつわる理屈がうっとうしいなあ、と思ったのだ。人の事は言えないが。
で、会場に置いてあるアラン・ジョンストンのインタビュー読むと、このカレイドスコ−プ展に、アートと科学というテーマを見い出しているようだ。おや、このテーマなら僕の興味と少しかぶるじゃないか。僕の目は節穴か。
お役所仕事に精を出すホワイトカラーのお歴々と一緒にランチだ。加齢臭と整髪料の強烈な匂い、きき過ぎの暖房がもたらす汗の香りがあいまって、アジアの大衆食堂っぽい活気がある。死神ちゃんは制服姿で、制服の上に着たカーディガンが、いつもと違う死神ちゃんをコーディネートしており、砂糖菓子みたいで、とても可愛い。ランチの質や量については、あまりお薦めできないが、死神ちゃんと一緒なら、たとえテニアン島(どこ?)でランチでも大満足なのだ。死神ちゃん、またお昼休みにランチ食べよう。
今日はいくつかのギャラリーをサウンドアーター、あっ間違えた、サウンドアーチストの安井献くんと巡った。まずはマニフェストギャラリーで宮脇賀子(みやわき・のりこ)の「パラダイス展」海洋堂の動物や鳥などのフィギュアを多用したジオラマと立体コラージュ。ジオラマなのだが、印象はパノラマ。そうか。のぞきからくりの押絵と旅したいにしえの人は、現在ならジオラマのフィギュアに恋をするんじゃないか。
隣の14th moonで伊藤正道の「わくせいリベット原画展」伊藤正道は大阪ガスのコマーシャルのイラストでおなじみ。海洋堂からオリジナルフィギュアも出している。おや、海洋堂からの花は両方に届いていたのか。絵柄はいかにも星を要求している。サンテグジュペリの世界と言おうか。顔のあるアーチストだ。
ここでちょっとお茶を。僕は店のオリジナルメニュー、ショコラバナナシェイク(名前は微妙に違うかも)。アイスで飲むドリンクなのだが、無理を言ってホットにしてもらった。店の人も面白がって、ホットにしてくれた。おいしい。でも、バナナの繊維にショコラで色付けされ、ババッと自爆したような惨状が容器の中で展開されていた。レギュラーメニューにするのは避けた方がいいだろう。
店を出て並びのギャラリ−センティニアルで一瀬ヨシロウ、かづせみき二人展「植物系天使」色の糸を駆使した造型と、にじんだ感じが素敵な絵。子供が描いた絵もいくつか展示してあり、これがシュルレアリズムの素描っぽい。カエルの子はカエルか。
大阪府立現代美術センターで「カレイドスコープ〜交通するアート・万華鏡的複眼思考のススメ」加藤義夫氏による「イズムからスコープへ」という文章を読むと、20世紀前半の美術はイズム。21世紀のアートは複眼的で拡がりを持ち、かつ万華鏡のように光輝き変幻自在な世界へ。なんてことが書いてある。こういう文章を書かねばならないところに、現代アートのどんづまり感が出ているんじゃないか。ちょっと前はポストモダンの波の中で、ここでも取り上げられる「交通」や「ハイブリッド」あるいは「テクスト=織物」「横超」なんて言葉が舞い踊っていた。ところが、今や時代はオタクの時代だ。複眼どころか、特定のジャンルへの専門家が時代のキーを握っている。ところが、いかんせん、オタクは消費し、受容するのは得意だが、新しいものを創造し、発信することはオタク道からも外れた行為になる。新しいものなど存在するのか、とか、新しいことに価値があるのか、という議論はあろう。僕が今考えているのは、新しいものをありがたがる気持ちは、つまらない。でも、新しいものは存在する。源氏物語は古いものか?でも、読んだことのない人がはじめて読めば、それは新しいものなのではないのか。つまり、不特定多数にとっての新しさなんて相手にしているから、話がややこしくなるのだ。新しいかどうかは、自分にとってどうなのか、だけだ。はじめての体験は、他人が同じ体験を何百回していようと、それとは無関係に新しい体験のはずである。それは新しい、でも価値とは無関係なのだ。
なーんて、どうでもいいことだったかなー。
展示は万華鏡の展示や、平田泰規による映写機などの視覚玩具展示、植松琢麿による展示、等。はっきり言って、未見のCASOの展示の方が刺激的に思える。こちらの展示は、面白いものもあったし、貴重な展示もあったのだが、それにまつわる理屈がうっとうしいなあ、と思ったのだ。人の事は言えないが。
で、会場に置いてあるアラン・ジョンストンのインタビュー読むと、このカレイドスコ−プ展に、アートと科学というテーマを見い出しているようだ。おや、このテーマなら僕の興味と少しかぶるじゃないか。僕の目は節穴か。
久山秀子探偵小説選〈2〉
2005年3月8日 読書
今年は久山秀子の生誕百年にあたる。
本書では隼シリーズ以外に、後年に書かれた捕物小説が読める。
捕物の方が小説としては出来がよく、文章力や構成力というのはいくらでも上達するんだなあ、と思わせる。でも、魅力はやはり隼シリーズにあるところを考えると、小説の魅力って何なんだろうか。
また、雑誌掲載のアンケート回答なども入っており、これはまさしく久山秀子全集である。
この久山秀子、実は男性なのだが、女性の写真を著者近影に使っていたり、読者を欺くお遊びが徹底している。これは『わが師はサタン』の先駆なのか。それとも、ネットで性別を変えて別人になりすまして書き込みしたりするお手本なのか。
ひとつ余談として面白かったこと。手相を見てやろうと言って、女性の手に触れようとすることを、本書作品では知恵のない月並みな行為として、切り捨てられている。
大昔から、そんなオヤジ行為はダサくて嫌がられていたのだ。
今の時代、まだそんなことをやろうとしている人は、大いに反省すべきである。この本でも読んで、顔洗って出直せ。
本書では隼シリーズ以外に、後年に書かれた捕物小説が読める。
捕物の方が小説としては出来がよく、文章力や構成力というのはいくらでも上達するんだなあ、と思わせる。でも、魅力はやはり隼シリーズにあるところを考えると、小説の魅力って何なんだろうか。
また、雑誌掲載のアンケート回答なども入っており、これはまさしく久山秀子全集である。
この久山秀子、実は男性なのだが、女性の写真を著者近影に使っていたり、読者を欺くお遊びが徹底している。これは『わが師はサタン』の先駆なのか。それとも、ネットで性別を変えて別人になりすまして書き込みしたりするお手本なのか。
ひとつ余談として面白かったこと。手相を見てやろうと言って、女性の手に触れようとすることを、本書作品では知恵のない月並みな行為として、切り捨てられている。
大昔から、そんなオヤジ行為はダサくて嫌がられていたのだ。
今の時代、まだそんなことをやろうとしている人は、大いに反省すべきである。この本でも読んで、顔洗って出直せ。
北村薫の『語り女たち』を読んだ。
いろんな女性が語る話を集めた態の短編集。ちょっといい話、ちょっと怖い話、ちょっと泣ける話、ちょっと可笑しい話、ちょっと不思議な話等々、全部で17編書かれている。
さすがに話がうまい。
「さんずい」に「鳥」の文字の名前の話とか、梅の木の生まれ変わりを探す老人の話とか、ありえない電車に乗ってあの世に行く父親の話とか、最初の設定が違うためにえらい違いになった走れメロスの話とか。
今まであまり気にしなかったのだが、伊坂作品などを読んでいると、文章にちりばめられた喩えに注意を向けさせられる。北村薫のこの本ではちょっと気のきいた喩えのオンパレードだった。うるさいくらいにオンパレードだ。
「遠近法の手本のように真っすぐに通った国道」(文字)
「わたしには、中学時代からの親友がいます。学生時代には、靴と足跡のように、いつもくっついて行動していました」(Ambarvalia)
「暗くなったおかげで、流れる螢の灯が見られました。細い筆の先に夜光塗料を含ませ、黒い布に遠い国の文字を書いているようでした」(夏の日々)
「誰もが一年経てば、一年分の年を、自分の体の上に加えて行く。透明と思えるシートでも、何十枚と重ねて載せれば、微妙な色合いを見せ、下の模様を隠すものだ」(体)
「不眠症にとっては、眠らないことが当たり前です。苦闘の末に、眠りの世界に入ろうとしても、不眠という名の獣が身を擦り寄せて来ます。ごごごごご…と遠く嵐のように鳴きながら、撫でつけられた心の毛並みを逆さに押し戻してくるのです」(眠れる森)
その他の気に入ったフレーズは、いつか会話で使って、気のきいた奴と思われるようにしよう。
ああ、でも、もうほとんど何が書いてあったのか忘れた。
いろんな女性が語る話を集めた態の短編集。ちょっといい話、ちょっと怖い話、ちょっと泣ける話、ちょっと可笑しい話、ちょっと不思議な話等々、全部で17編書かれている。
さすがに話がうまい。
「さんずい」に「鳥」の文字の名前の話とか、梅の木の生まれ変わりを探す老人の話とか、ありえない電車に乗ってあの世に行く父親の話とか、最初の設定が違うためにえらい違いになった走れメロスの話とか。
今まであまり気にしなかったのだが、伊坂作品などを読んでいると、文章にちりばめられた喩えに注意を向けさせられる。北村薫のこの本ではちょっと気のきいた喩えのオンパレードだった。うるさいくらいにオンパレードだ。
「遠近法の手本のように真っすぐに通った国道」(文字)
「わたしには、中学時代からの親友がいます。学生時代には、靴と足跡のように、いつもくっついて行動していました」(Ambarvalia)
「暗くなったおかげで、流れる螢の灯が見られました。細い筆の先に夜光塗料を含ませ、黒い布に遠い国の文字を書いているようでした」(夏の日々)
「誰もが一年経てば、一年分の年を、自分の体の上に加えて行く。透明と思えるシートでも、何十枚と重ねて載せれば、微妙な色合いを見せ、下の模様を隠すものだ」(体)
「不眠症にとっては、眠らないことが当たり前です。苦闘の末に、眠りの世界に入ろうとしても、不眠という名の獣が身を擦り寄せて来ます。ごごごごご…と遠く嵐のように鳴きながら、撫でつけられた心の毛並みを逆さに押し戻してくるのです」(眠れる森)
その他の気に入ったフレーズは、いつか会話で使って、気のきいた奴と思われるようにしよう。
ああ、でも、もうほとんど何が書いてあったのか忘れた。
DIGICCO、桜三世、少年マルタ
2005年3月6日 音楽
神戸ハーバーランドで開催されたKISS-FMイベント、神戸モータースポーツフェスティバルを見に行った。
お目当てはDIGICCO。
まず午後2時の回。
「You! the winner」
「ニガイナミダ」
「空っぽポケットワンダーランド」
の3曲とビンゴゲーム。MCは元町(たぶん中華街)で蛙食べた話など。新しいDIGICCOを見るのは2度め。今年はあと何回見ることができるだろう。
続いてス−パ−耐久のキャンペーンガール「桜三世」のステージ。
こちらもレースクイーン4人(浅見薫、斎藤優、三浦唯、篠崎まゆ)が撮影会モードでポーズとったり、歌を歌ったりした。
曲名はよく知らない。
「恋の果実」(勝手に僕がつけた)
「フューチャー・オブ・ドリーム」
「キープ・マイ・ステップ」
はっきり言って、こういうレースクイーン系、グラビア系は、男性の劣情を刺激することに血道をあげているのが何だか下衆で嫌なのだ。この桜三世もしかり。篠崎まゆちゃん以外はホットパンツから尻の肉をはみださせ、中の水着だか下着だかをのぞかせていた。おまえらは、阿婆擦れか。売女か。色仕掛けか。と、いうわけで、容貌や雰囲気もそうなのだが、僕は断然、篠崎まゆちゃんのファンだ。
このイベントには、ネットラジオ「BSもてもてラジ袋」のネモルヌ氏も桜三世目当てで来ていた。彼はリーダーの浅見薫のファンらしい。浅見薫も上品な部類で、小林幸子を若返らせて当世風にしたような顔貌である。これもまた好感がもてる。
とか言ってるうちに、DIGICCOの2回目のステージ。
「You! the winner」
「天使よりもはやく」
「Begin Everyday」
いいなあ。
さて、今日は芦原橋ウィングで「ロック古文書」安井献くんと、一緒にやっている音楽トークイベントだ。今回は谷口マルタ正明氏、そう、あの少年マルタくんをお招きしてのトーク。
ソノシートかけたり、イキルのライブ映像見たり、ああ、自分自身のその頃を思い出して、せつなくなってくる。その頃、僕は今の自分以上にまったくの未熟者で、自分の都合で多くの人に迷惑ばかりかけていたなあ。その頃のみなさん、許してください。今、ここに15年くらい前の自分がのこのこ現われたら、ぶち殺してさしあげます。
閑話休題。
マルタくんとは、かなり以前にファンダンゴのライブで御一緒させてもらってから、プノンペンモデルのライブを見に行ったりはしたものの、ちゃんとおしゃべりするのは本当に十年ぶりくらい。
それでも、マルタ君の人柄と、僕の厚顔無恥がうまく噛み合って、僕としては、もはや古くからの親友のつもりである。
イベント後も朝までうだうだ。
お目当てはDIGICCO。
まず午後2時の回。
「You! the winner」
「ニガイナミダ」
「空っぽポケットワンダーランド」
の3曲とビンゴゲーム。MCは元町(たぶん中華街)で蛙食べた話など。新しいDIGICCOを見るのは2度め。今年はあと何回見ることができるだろう。
続いてス−パ−耐久のキャンペーンガール「桜三世」のステージ。
こちらもレースクイーン4人(浅見薫、斎藤優、三浦唯、篠崎まゆ)が撮影会モードでポーズとったり、歌を歌ったりした。
曲名はよく知らない。
「恋の果実」(勝手に僕がつけた)
「フューチャー・オブ・ドリーム」
「キープ・マイ・ステップ」
はっきり言って、こういうレースクイーン系、グラビア系は、男性の劣情を刺激することに血道をあげているのが何だか下衆で嫌なのだ。この桜三世もしかり。篠崎まゆちゃん以外はホットパンツから尻の肉をはみださせ、中の水着だか下着だかをのぞかせていた。おまえらは、阿婆擦れか。売女か。色仕掛けか。と、いうわけで、容貌や雰囲気もそうなのだが、僕は断然、篠崎まゆちゃんのファンだ。
このイベントには、ネットラジオ「BSもてもてラジ袋」のネモルヌ氏も桜三世目当てで来ていた。彼はリーダーの浅見薫のファンらしい。浅見薫も上品な部類で、小林幸子を若返らせて当世風にしたような顔貌である。これもまた好感がもてる。
とか言ってるうちに、DIGICCOの2回目のステージ。
「You! the winner」
「天使よりもはやく」
「Begin Everyday」
いいなあ。
さて、今日は芦原橋ウィングで「ロック古文書」安井献くんと、一緒にやっている音楽トークイベントだ。今回は谷口マルタ正明氏、そう、あの少年マルタくんをお招きしてのトーク。
ソノシートかけたり、イキルのライブ映像見たり、ああ、自分自身のその頃を思い出して、せつなくなってくる。その頃、僕は今の自分以上にまったくの未熟者で、自分の都合で多くの人に迷惑ばかりかけていたなあ。その頃のみなさん、許してください。今、ここに15年くらい前の自分がのこのこ現われたら、ぶち殺してさしあげます。
閑話休題。
マルタくんとは、かなり以前にファンダンゴのライブで御一緒させてもらってから、プノンペンモデルのライブを見に行ったりはしたものの、ちゃんとおしゃべりするのは本当に十年ぶりくらい。
それでも、マルタ君の人柄と、僕の厚顔無恥がうまく噛み合って、僕としては、もはや古くからの親友のつもりである。
イベント後も朝までうだうだ。
大阪プレアイドルライブ〜HELP!
2005年3月5日 アイドル森ノ宮プラネットホール「Osaka Pre-Idol Live〜春よ来い〜」を見に行った。
今回参加したのは3組。以下、出演者と歌った歌。
大野敦子
「10 years after」(米倉千尋)
南雲由美
「I’m proud」(華原朋美)
Chu*ララ(星ら香澄&橋本なな)
「HIRAKATA SANKA」(この歌、au着うたでダウンロードできるらしい。ダンスしての枚方讃歌である。他にも「ひらかた しか」という持ち歌があるが、これは枚方市歌か)
大野敦子(再登場)
「それぞれの未来(あした)へ」(中司雅美、To Heartのエンディング)
「離れていても」(自分で作詞したというオリジナル)
以上。
あれ?もう終わり?
今回、3曲歌った大野敦子はこのイベントの顔とも呼べる人なので、安定感というか、安心感がある。でも、やっぱり収穫はChu*ララだ。
Chu*ララは3月13日に桜ノ宮で手作りお弁当つきの撮影会とか、4月3日にワッハ上方で漫才に挑戦したり、星ら香澄ちゃんはちばテレビの「なりギャル.TV」にレギュラーで出たり、「TOKYOデジタルニュース」の水着アナウンサーやったり、神楽坂ティンカーベルの「カリスマ芸人待ち合い室」に出ていたり、と、とにかく活発に活動している。
寒いライブでもいっきに盛り上げてしまうパワーをもっていた。こういうのをプロというのだ。
で、今日は芦原橋ウィングで「HELP!」
出演はいつもの草壁コウジ氏、ぶっちょカシワギ氏と僕の3人が進行、アイドルちゃんたちはジョジョ川ちゃん、丼野M美ちゃん、CHAMIちゃんと、CHAMIちゃんが連れて来た最終兵器シウォンちゃん。
まずは今月のアイドルニュースとして、栗羽美来復帰と、制服向上委員会の吉田梢卒業、同じく高田唯退会、同じく古賀美雪復帰、という今年の十大ニュースに残るビッグな情報を解説したり、小林久子ネタとか。
アイドルちゃんそれぞれが10分程度歌を歌ったり、自分の時間を使って大いにアピール。
今日のHELP!は各アイドルちゃんが持ち寄った秘蔵ビデオを見ながら、お食事会。
アイドルちゃんがものを食べている光景はそそるらしい。お客さんからのリクエストでこの企画は決まったのだ。それぞれ持ち寄ったビデオもこれまた濃い秘蔵映像ばかりで、非常にマニアック。
「追いつけ追い越せあびる優」のコーナーでは、アイドルちゃんの旧悪を自ら懺悔。
これもまた、あびる優を既に追いこしている告白続きで会場が湧いた。
あと、いわゆる大喜利形式でアイドルにちなんだ問題に答えてもらったが、みんな芸達者というか、会場は爆笑の渦。
お題はたとえば。
「なっちの新曲のタイトル」
「あびる優のダンボールの中には何が入っていたか」
「カントリー娘。と次にコラボするのは誰か」等々。
ここまでさらけだしていいのか、というアイドルちゃんたちの捨て身の攻撃に、お客さんはノックアウトされたのではないか。
3時間を超える狂騒イベントだった。
イベント後も、事務所で打ち上げを兼ねたネットラジオ収録。打ち上げすぎて、使えるかどうかわからぬまま、しゃべる。
このHELP!では随時出演したいアイドルを募集しているが、立候補してきた女の子がいた。次回4月23日(土)に出てもらうことになった。
このアイドルちゃんは、どんな子かと言うと、こりん星から来たスレンダーな原田桜怜という感じの子だ。なによりも、僕自身がすっかりファンになってしまった。
早く4月にならないかなあ。
今回参加したのは3組。以下、出演者と歌った歌。
大野敦子
「10 years after」(米倉千尋)
南雲由美
「I’m proud」(華原朋美)
Chu*ララ(星ら香澄&橋本なな)
「HIRAKATA SANKA」(この歌、au着うたでダウンロードできるらしい。ダンスしての枚方讃歌である。他にも「ひらかた しか」という持ち歌があるが、これは枚方市歌か)
大野敦子(再登場)
「それぞれの未来(あした)へ」(中司雅美、To Heartのエンディング)
「離れていても」(自分で作詞したというオリジナル)
以上。
あれ?もう終わり?
今回、3曲歌った大野敦子はこのイベントの顔とも呼べる人なので、安定感というか、安心感がある。でも、やっぱり収穫はChu*ララだ。
Chu*ララは3月13日に桜ノ宮で手作りお弁当つきの撮影会とか、4月3日にワッハ上方で漫才に挑戦したり、星ら香澄ちゃんはちばテレビの「なりギャル.TV」にレギュラーで出たり、「TOKYOデジタルニュース」の水着アナウンサーやったり、神楽坂ティンカーベルの「カリスマ芸人待ち合い室」に出ていたり、と、とにかく活発に活動している。
寒いライブでもいっきに盛り上げてしまうパワーをもっていた。こういうのをプロというのだ。
で、今日は芦原橋ウィングで「HELP!」
出演はいつもの草壁コウジ氏、ぶっちょカシワギ氏と僕の3人が進行、アイドルちゃんたちはジョジョ川ちゃん、丼野M美ちゃん、CHAMIちゃんと、CHAMIちゃんが連れて来た最終兵器シウォンちゃん。
まずは今月のアイドルニュースとして、栗羽美来復帰と、制服向上委員会の吉田梢卒業、同じく高田唯退会、同じく古賀美雪復帰、という今年の十大ニュースに残るビッグな情報を解説したり、小林久子ネタとか。
アイドルちゃんそれぞれが10分程度歌を歌ったり、自分の時間を使って大いにアピール。
今日のHELP!は各アイドルちゃんが持ち寄った秘蔵ビデオを見ながら、お食事会。
アイドルちゃんがものを食べている光景はそそるらしい。お客さんからのリクエストでこの企画は決まったのだ。それぞれ持ち寄ったビデオもこれまた濃い秘蔵映像ばかりで、非常にマニアック。
「追いつけ追い越せあびる優」のコーナーでは、アイドルちゃんの旧悪を自ら懺悔。
これもまた、あびる優を既に追いこしている告白続きで会場が湧いた。
あと、いわゆる大喜利形式でアイドルにちなんだ問題に答えてもらったが、みんな芸達者というか、会場は爆笑の渦。
お題はたとえば。
「なっちの新曲のタイトル」
「あびる優のダンボールの中には何が入っていたか」
「カントリー娘。と次にコラボするのは誰か」等々。
ここまでさらけだしていいのか、というアイドルちゃんたちの捨て身の攻撃に、お客さんはノックアウトされたのではないか。
3時間を超える狂騒イベントだった。
イベント後も、事務所で打ち上げを兼ねたネットラジオ収録。打ち上げすぎて、使えるかどうかわからぬまま、しゃべる。
このHELP!では随時出演したいアイドルを募集しているが、立候補してきた女の子がいた。次回4月23日(土)に出てもらうことになった。
このアイドルちゃんは、どんな子かと言うと、こりん星から来たスレンダーな原田桜怜という感じの子だ。なによりも、僕自身がすっかりファンになってしまった。
早く4月にならないかなあ。
デッド・ハズバンド、I am Sam
2005年3月4日 映画
今日は朝からベランダ工事で、部屋を作業衣着た人が夕方まで何度も通過、ギイーングオーンという大きな音。
午後5時までどこにも出かけられず、また、寒くて天気も悪いので出かける気にもなれず、かと言ってテレビの音は騒音で聞こえず、音楽もまたしかり、読書もはかどらず、夜勤明けなのに眠ることもできず。
夜になってからやっと落ち着いてビデオを見ることができた。
まずは、明日のイベント「HELP!」の映像さがし。イベントには使わない制服向上委員会の2001年のカウントダウン100のビデオ(全4巻)を見てしまったりして、道草ばかり。
アイドル映像を選び終わった勢いのまま、映画(ビデオ)も見た。
「デッドハズバンド」ポール・シャピーロ監督、ジョン・リッター主演。98年。
夫を殺害するのを目的に作られた秘密の「亭主殺人互助組合」。チェーンメール式にリストの上から殺していき、ラストに殺したい夫を付け加えていくシステム。その殺人クラブに入った主婦と、その夫のコメディ。未公開のTVムービーだったが、案外集中して見てしまった。ヒューイ・ルイスもちょこっと出演。
かなり前に録画したまま見ていなかったビデオなのだが、タイトル見て、てっきりゾンビ物だと勘違いして見始めたのだ。サブタイトルの「亭主殺人互助組合」で「おや?」と思ったが、まあ、見始めたのだから、最後まで見よう、と決心したのだ。こんな思い違いは、つい最近見た「3年目の浮気」でもそうだった。歌謡曲のタイトルだとはわかっていたのだが、見始めたきっかけは、これをタイトルだけ見て、「七年目の浮気」みたいなハリウッドのコメディだと勘違いしたからだ。
テレビで「アイ・アム・サム」を放送していたので、見た。
ジェシー・ネルソン監督、ショーン・ペン、ダコタ・ファニング主演。2001年。
7才児の知能の父親とリアル7歳の娘の親子愛。ソーシャルワーカーが親子を引き離そうとする。
障害者ネタ、親子ネタでお安くお涙ちょうだい、という批判もあろう。だが、僕は泣いた。
障害者で笑いをとる部分は否定的要素ではなく、むしろ、もっとやれ!と思うし、親子ネタも「今さら」なんて斜にかまえた見方が流行ったのは、せいぜいが80年代までじゃないかと思う。今はそれをマジに受け取るのが当世風なのだ。
なによりも、ダコタ・ファニングの可愛さったらない。ガールスカウトの恰好して出て来たり、コスプレもちゃんとしてくれているのだ。彼女の他の出演作も追い掛けようと決めた。
深夜のラジオ「ハロプロやねん」は美勇伝がパーソナリティー。かかった曲は「カッチョイイゼ!JAPAN」とそのカップリング「美〜Hit Parade〜」
ハロプロナンバー1のコーナーは、オヤジキャラが誰なのかを決める。美勇伝の三好も候補にあがったが、ナンバー1はカントリー娘。の里田まい。
テレビで「ダイナマイト関西」これはライブの面白さなんだろうなあ。面白いのに、絶賛するのはちょっと違和感がある。今回は心に残るフレーズがあったのかな。前回のは、会話のアクセントで「石井竜也デザイン」をよく使わせてもらった。何か無意識に残っているものがあるかも。今のところ、特に何も思い付かない。
午後5時までどこにも出かけられず、また、寒くて天気も悪いので出かける気にもなれず、かと言ってテレビの音は騒音で聞こえず、音楽もまたしかり、読書もはかどらず、夜勤明けなのに眠ることもできず。
夜になってからやっと落ち着いてビデオを見ることができた。
まずは、明日のイベント「HELP!」の映像さがし。イベントには使わない制服向上委員会の2001年のカウントダウン100のビデオ(全4巻)を見てしまったりして、道草ばかり。
アイドル映像を選び終わった勢いのまま、映画(ビデオ)も見た。
「デッドハズバンド」ポール・シャピーロ監督、ジョン・リッター主演。98年。
夫を殺害するのを目的に作られた秘密の「亭主殺人互助組合」。チェーンメール式にリストの上から殺していき、ラストに殺したい夫を付け加えていくシステム。その殺人クラブに入った主婦と、その夫のコメディ。未公開のTVムービーだったが、案外集中して見てしまった。ヒューイ・ルイスもちょこっと出演。
かなり前に録画したまま見ていなかったビデオなのだが、タイトル見て、てっきりゾンビ物だと勘違いして見始めたのだ。サブタイトルの「亭主殺人互助組合」で「おや?」と思ったが、まあ、見始めたのだから、最後まで見よう、と決心したのだ。こんな思い違いは、つい最近見た「3年目の浮気」でもそうだった。歌謡曲のタイトルだとはわかっていたのだが、見始めたきっかけは、これをタイトルだけ見て、「七年目の浮気」みたいなハリウッドのコメディだと勘違いしたからだ。
テレビで「アイ・アム・サム」を放送していたので、見た。
ジェシー・ネルソン監督、ショーン・ペン、ダコタ・ファニング主演。2001年。
7才児の知能の父親とリアル7歳の娘の親子愛。ソーシャルワーカーが親子を引き離そうとする。
障害者ネタ、親子ネタでお安くお涙ちょうだい、という批判もあろう。だが、僕は泣いた。
障害者で笑いをとる部分は否定的要素ではなく、むしろ、もっとやれ!と思うし、親子ネタも「今さら」なんて斜にかまえた見方が流行ったのは、せいぜいが80年代までじゃないかと思う。今はそれをマジに受け取るのが当世風なのだ。
なによりも、ダコタ・ファニングの可愛さったらない。ガールスカウトの恰好して出て来たり、コスプレもちゃんとしてくれているのだ。彼女の他の出演作も追い掛けようと決めた。
深夜のラジオ「ハロプロやねん」は美勇伝がパーソナリティー。かかった曲は「カッチョイイゼ!JAPAN」とそのカップリング「美〜Hit Parade〜」
ハロプロナンバー1のコーナーは、オヤジキャラが誰なのかを決める。美勇伝の三好も候補にあがったが、ナンバー1はカントリー娘。の里田まい。
テレビで「ダイナマイト関西」これはライブの面白さなんだろうなあ。面白いのに、絶賛するのはちょっと違和感がある。今回は心に残るフレーズがあったのかな。前回のは、会話のアクセントで「石井竜也デザイン」をよく使わせてもらった。何か無意識に残っているものがあるかも。今のところ、特に何も思い付かない。
今日は僕の誕生日。
でも、自分からアピールしまくったり、自分でイベント組んだりしないと、誰も祝ってくれなくなった。いい感じの忘却のされ方だ。
嶽本野ばら君の『ミシン2カサコ』を読んだ。『ミシン』の続編になっているが、前作を読んでいなくても面白く読める。なぜそう断言できるかと言うと、僕も『ミシン』読んだけど、どんな話なのかすっかり忘れてしまった状態で読んだからだ。
パンクのヴォーカル、ミシンちゃんをステージで撲殺したカサコ。
ありゃ、死んだはずなのに、その続きって。と、本のタイトルを見た知り合いの野ばらフリークはつぶやいていた。あれはあれで完結していてほしかった、という思いがあったのだろう。でも、僕はどんな話なのか忘れていたので、先入観なしで読めた。
キティちゃんのギターで殴ったのに、ミシンは死ななかったのだ。
パンクの反逆精神の塊、ミシンと、彼女に思いを寄せる鈍臭いレズ少女、カサコ。
ミシンが死なずに生き延びた物語は、そのまま、彼女の再生の物語になる。
あいかわらずの野ばらワールドが展開する。すらすら読めるのだが、途中まではまったく乗り切れなかった。まず、バンドの名前「死怒靡瀉酢」(シドヴィシャス)というのが、コミックバンドにしか思えない。しかも、初期パンクとかセックスピストルズとか、まったく死んだ音楽をやってるのが頭悪すぎる。カサコというネーミングも、ロートレアモンをひいてくるあたり、ダサすぎる。カサコのキャラクターが鈍臭すぎてイライラする。もしも身近にカサコみたいな女の子がいたら、ブランコをカサコの頭めがけて振ってぶつけたり、底なし沼に落としたり、海に行ったら崖から突き落としたりしているだろう。周囲に迷惑をかけるパフォーマンスも、メジャーに対する反感も古臭い。昔からのファンの死に対する痛みもうざい。きっと、これらに共感を覚える人間は、むしろパンクも聞いたことのない、センスの悪いカサコの同類なんじゃないか、と思った。
と、悪口めいたことを書いてみたが、この小説は、大傑作だ。
なぜなら、ここまで僕の好みでない設定なのに、僕は最終的に泣いたのだ。
追加公演のライブあたりから、僕の印象は一変した。
こいつら死にたいのなら勝手にみんな死ね、と思っていた登場人物たちがいとおしくなってきた。カサコが勝手に曲名をシャウトしてギター弾きはじめるシーンでは鳥肌がたった。思うに、このシーンはベタベタな名シーンなのだろうが、そんなことかまうものか。ライブでこれをやられたら、きっと号泣するんじゃないか、と思った。
僕は小説を読んでいるつもりだったのに、いつのまにか、ライブに参加していたのだ。
でも、自分からアピールしまくったり、自分でイベント組んだりしないと、誰も祝ってくれなくなった。いい感じの忘却のされ方だ。
嶽本野ばら君の『ミシン2カサコ』を読んだ。『ミシン』の続編になっているが、前作を読んでいなくても面白く読める。なぜそう断言できるかと言うと、僕も『ミシン』読んだけど、どんな話なのかすっかり忘れてしまった状態で読んだからだ。
パンクのヴォーカル、ミシンちゃんをステージで撲殺したカサコ。
ありゃ、死んだはずなのに、その続きって。と、本のタイトルを見た知り合いの野ばらフリークはつぶやいていた。あれはあれで完結していてほしかった、という思いがあったのだろう。でも、僕はどんな話なのか忘れていたので、先入観なしで読めた。
キティちゃんのギターで殴ったのに、ミシンは死ななかったのだ。
パンクの反逆精神の塊、ミシンと、彼女に思いを寄せる鈍臭いレズ少女、カサコ。
ミシンが死なずに生き延びた物語は、そのまま、彼女の再生の物語になる。
あいかわらずの野ばらワールドが展開する。すらすら読めるのだが、途中まではまったく乗り切れなかった。まず、バンドの名前「死怒靡瀉酢」(シドヴィシャス)というのが、コミックバンドにしか思えない。しかも、初期パンクとかセックスピストルズとか、まったく死んだ音楽をやってるのが頭悪すぎる。カサコというネーミングも、ロートレアモンをひいてくるあたり、ダサすぎる。カサコのキャラクターが鈍臭すぎてイライラする。もしも身近にカサコみたいな女の子がいたら、ブランコをカサコの頭めがけて振ってぶつけたり、底なし沼に落としたり、海に行ったら崖から突き落としたりしているだろう。周囲に迷惑をかけるパフォーマンスも、メジャーに対する反感も古臭い。昔からのファンの死に対する痛みもうざい。きっと、これらに共感を覚える人間は、むしろパンクも聞いたことのない、センスの悪いカサコの同類なんじゃないか、と思った。
と、悪口めいたことを書いてみたが、この小説は、大傑作だ。
なぜなら、ここまで僕の好みでない設定なのに、僕は最終的に泣いたのだ。
追加公演のライブあたりから、僕の印象は一変した。
こいつら死にたいのなら勝手にみんな死ね、と思っていた登場人物たちがいとおしくなってきた。カサコが勝手に曲名をシャウトしてギター弾きはじめるシーンでは鳥肌がたった。思うに、このシーンはベタベタな名シーンなのだろうが、そんなことかまうものか。ライブでこれをやられたら、きっと号泣するんじゃないか、と思った。
僕は小説を読んでいるつもりだったのに、いつのまにか、ライブに参加していたのだ。
平賀源内が、夜になると別人格になって、オカルチックな領域とも交通できる闇の存在として、いろんな事件に関わっていく、伝奇短編集。
腹を裂いて内臓をあらわにした状態で、生きている人間が出て来たり、首の骨を折って死んでしまったはずの人物が生き返ったり、起こる出来事はまさに超常的。これに挑むのが「非常の人」たる源内である。
杉田玄白が出て来たり、物産会の記述があったり、転びバテレンのクリストファー・フェレイラが出て来たり、最低限の下調べはしているようだが、内容は荒唐無稽なアクションだ。
外国の知識をいちはやく取り入れた源内は、西洋のボクシングの情報を得て、格闘時にボクシングの技術をとりいれる。日本ではボクシングなど誰も知らないので、みんなやられてしまう。研究される前のグレイシー柔術に、誰も勝てなかったようなものだ。
こうした、私だけが知っている技術もので、僕が一番面白く読んだのが、カーの『ビロードの悪魔』で、タイムスリップした主人公が過去には存在しなかったフェンシング技術で中世の騎士と戦うシーンが出てくる。そのときのワクワクは、残念ながら、この『逢魔が源内』にはなかった。
ボクシングだけでなく、エレキテルで敵を撃退したりする、格好良い源内は、どうも僕の持っている源内像と大きくずれているのだ。
ルイス・キャロルが銭形平次よろしくカードやチェスの駒を飛ばして悪と戦うみたいな設定で、まったくもって無理がある。
なお、この本は、最初著者と編集とのやりとりなどから話がはじまり、急に江戸時代に話が飛ぶ。エッセイから小説への飛躍が澁澤龍彦のように巧妙ではないので、「おいおい、いきなりか」と毎回思った。シリーズものを多数書いている著者だが、あいにくと、このシリーズはこの1冊で打ち切りになるようだ。もうちょっと面白くなるはずのシリーズだと思ったので、実に残念だ。ボクシングとかに頼り過ぎたのが、敗因か。
腹を裂いて内臓をあらわにした状態で、生きている人間が出て来たり、首の骨を折って死んでしまったはずの人物が生き返ったり、起こる出来事はまさに超常的。これに挑むのが「非常の人」たる源内である。
杉田玄白が出て来たり、物産会の記述があったり、転びバテレンのクリストファー・フェレイラが出て来たり、最低限の下調べはしているようだが、内容は荒唐無稽なアクションだ。
外国の知識をいちはやく取り入れた源内は、西洋のボクシングの情報を得て、格闘時にボクシングの技術をとりいれる。日本ではボクシングなど誰も知らないので、みんなやられてしまう。研究される前のグレイシー柔術に、誰も勝てなかったようなものだ。
こうした、私だけが知っている技術もので、僕が一番面白く読んだのが、カーの『ビロードの悪魔』で、タイムスリップした主人公が過去には存在しなかったフェンシング技術で中世の騎士と戦うシーンが出てくる。そのときのワクワクは、残念ながら、この『逢魔が源内』にはなかった。
ボクシングだけでなく、エレキテルで敵を撃退したりする、格好良い源内は、どうも僕の持っている源内像と大きくずれているのだ。
ルイス・キャロルが銭形平次よろしくカードやチェスの駒を飛ばして悪と戦うみたいな設定で、まったくもって無理がある。
なお、この本は、最初著者と編集とのやりとりなどから話がはじまり、急に江戸時代に話が飛ぶ。エッセイから小説への飛躍が澁澤龍彦のように巧妙ではないので、「おいおい、いきなりか」と毎回思った。シリーズものを多数書いている著者だが、あいにくと、このシリーズはこの1冊で打ち切りになるようだ。もうちょっと面白くなるはずのシリーズだと思ったので、実に残念だ。ボクシングとかに頼り過ぎたのが、敗因か。
tokyo sora、ラスベガスをやっつけろ、3年目の浮気
2005年3月1日 映画
今日は映画の日だ!でも仕事の時間とのかねあいで、ちょうどいい映画ってのがない。今映画館で上映されているのは全部見ていないので、どれでもいいのに、どうしてみんな同じような時間に上映しているんだろう。で、「花粉を浴びなくてもすむように、家でビデオ見よう」と決定。映画の日の恩恵なし。
見たのは「tokyo.sora」石川寛監督。本上まなみ、井川遥が出ており、音楽は菅野よう子。
東京のどこにでもありそうな女の子たちの生活を淡々と綴っている。その場に居合わせたかのような映像の距離の取り方、音声の聞こえ方で、映画を見ているという意識は消え、登場人物たちと同じ場所にいるかのような錯覚をおぼえる。ストーリーも劇的ではなく、あくまでも日常的だ。おいしいものを食べて、面白い本を読んで、楽しいテレビ見て、眠くなったら寝る。そんな平和な生活って、1日単位ではけっこう実現されているように思うのだが、どうして寂しくてたまらない日があったり、悲しくなったりするんだろう。人生には苦しいときなんて必要ないし、避けられるはずなのに、どうして苦しんでしまうんだろう。女の子たちのなんでもない日常でも、涙の日が存在するのだ。
でも、思うに、劇的な日常を送るように心がければ、案外と苦しみは回避できるんじゃないか。「平凡な」毎日を送ることそのものに、苦しみのタネはあるのだと思う。
次に見たのは「ラスベガスをやっつけろ」テリー・ギリアム監督、ジョニー・デップ、ベニキオ・デル・トロ。クリスティーナ・リッチやエレン・バーキン他多くの共演者が怪演を見せる。時代は70年代初頭。ドラッグと酒に溺れてサイケな狂騒状態のジャーナリストと弁護士がラスベガスで恥のかきすて。
うわー、98年のこの映画も公開当初から必見だったのに、やっと今見るか!僕は何年前から映画も見られないほどの極貧になったのか!
サイケな映像、無茶苦茶な行動はとても魅力的だ。でも、ドラッグはいけません。なぜなら、滅法面白いはずなのに、苦しむ時間がそれに応じて出来てしまうからだ。今、とても楽しいのに、なにゆえに苦しい時間とか、何もできない時間を作らねばならないのか。気持ちのいい睡眠時間ですらもったいなくて削っているというのに。
とかなんとか言いながら、この映画の主人公のような生き方はかなり好きだ。
破滅的な生き方がいけない、なんてちっとも思わない。生きるということが、破滅という言葉に値する程のものなのか、と思うから。
じっと耐える人生なんて送るくらいなら、世界が破滅しても、一瞬の楽しさを選ぶだろう。
次は中原俊監督の「3年目の浮気」にっかつロマンポルノ。
性的なものと言えば、最近、アブノーマルや鬼畜とほぼ同義であった僕の感覚を癒してくれた。ここには、「まっとうな」エロスがある。屈折のないセックス観はそればかりでは退屈だろうけど、最低限、これはおさえておかなくちゃね、と思った。
映画は実の人生をうつすものであって、その逆ではない。なのに、映画から逆算して人生を営むのが流行りのようだ。AVの影響なしに顔射なんてするか?あんなの「私はAVばかり見てて実践には乏しいです」というのを証明する行為じゃないか。
まあ、どっちでもいいけど。
見たのは「tokyo.sora」石川寛監督。本上まなみ、井川遥が出ており、音楽は菅野よう子。
東京のどこにでもありそうな女の子たちの生活を淡々と綴っている。その場に居合わせたかのような映像の距離の取り方、音声の聞こえ方で、映画を見ているという意識は消え、登場人物たちと同じ場所にいるかのような錯覚をおぼえる。ストーリーも劇的ではなく、あくまでも日常的だ。おいしいものを食べて、面白い本を読んで、楽しいテレビ見て、眠くなったら寝る。そんな平和な生活って、1日単位ではけっこう実現されているように思うのだが、どうして寂しくてたまらない日があったり、悲しくなったりするんだろう。人生には苦しいときなんて必要ないし、避けられるはずなのに、どうして苦しんでしまうんだろう。女の子たちのなんでもない日常でも、涙の日が存在するのだ。
でも、思うに、劇的な日常を送るように心がければ、案外と苦しみは回避できるんじゃないか。「平凡な」毎日を送ることそのものに、苦しみのタネはあるのだと思う。
次に見たのは「ラスベガスをやっつけろ」テリー・ギリアム監督、ジョニー・デップ、ベニキオ・デル・トロ。クリスティーナ・リッチやエレン・バーキン他多くの共演者が怪演を見せる。時代は70年代初頭。ドラッグと酒に溺れてサイケな狂騒状態のジャーナリストと弁護士がラスベガスで恥のかきすて。
うわー、98年のこの映画も公開当初から必見だったのに、やっと今見るか!僕は何年前から映画も見られないほどの極貧になったのか!
サイケな映像、無茶苦茶な行動はとても魅力的だ。でも、ドラッグはいけません。なぜなら、滅法面白いはずなのに、苦しむ時間がそれに応じて出来てしまうからだ。今、とても楽しいのに、なにゆえに苦しい時間とか、何もできない時間を作らねばならないのか。気持ちのいい睡眠時間ですらもったいなくて削っているというのに。
とかなんとか言いながら、この映画の主人公のような生き方はかなり好きだ。
破滅的な生き方がいけない、なんてちっとも思わない。生きるということが、破滅という言葉に値する程のものなのか、と思うから。
じっと耐える人生なんて送るくらいなら、世界が破滅しても、一瞬の楽しさを選ぶだろう。
次は中原俊監督の「3年目の浮気」にっかつロマンポルノ。
性的なものと言えば、最近、アブノーマルや鬼畜とほぼ同義であった僕の感覚を癒してくれた。ここには、「まっとうな」エロスがある。屈折のないセックス観はそればかりでは退屈だろうけど、最低限、これはおさえておかなくちゃね、と思った。
映画は実の人生をうつすものであって、その逆ではない。なのに、映画から逆算して人生を営むのが流行りのようだ。AVの影響なしに顔射なんてするか?あんなの「私はAVばかり見てて実践には乏しいです」というのを証明する行為じゃないか。
まあ、どっちでもいいけど。
ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読
2005年2月28日 読書
「ピンチランナー」の那須博之監督が亡くなった。享年53才。「デビルマン」見て「ウヒャー、なんじゃこの映画!映画?」と思ってたのだが、悪魔にとりつかれていたのか?「真説タイガーマスク」が遺作になるのだろうか。これもまた、黄色い悪魔の話だ。
で、昨日から気になっていた、オタクのバーチャル好きを考えてみようと思って読んだのが『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』多木浩二。制服向上委員会も「なんで?」と疑問に思うことでも「ベンヤミンなら知ってる」と歌っているし。でも、ちょっと目的とは違う本の選択のような気もするが、まあ、いいか。
ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』は1933年に書かれている。うひゃー、70年以上前だ。芸術が大衆の鑑賞するものになり、礼拝的価値から展示的価値へと移行することで、アウラ(芸術のかもしだす権威とか重みとかオーラとか)が消えていく。アウラの喪失は複製技術、写真や映画によってもたらされたものなのだ。
と、言っても写真や映画を否定的に糾弾するのではなく、それによって得られる気散じや、知覚の拡大など、積極的に受容する態度もみせている。
『複製技術時代の芸術作品』のラストで語られる「政治の耽美主義」は、まんま僕が卒論で書いた「経済の耽美主義」とかぶるのに驚いた。大学生のときにベンヤミン読んでおくべきだった!遅い!25年遅れてる!
この本を読んで考えさせられたのは、芸術の受容についてだ。
複製によって、芸術の一回性は失われる。そして現代では少数の芸術家と多数の受容者という関係は崩れ、受容者はいつでも発信者になりかわる。
僕が勝手に浅い思考で考えていたのは、伝統的文化とサブカルチャー、オタクの違いは受容者にあるんじゃないか、ということだ。当たり前かな。少数の発信者と多数の受容者という関係が、伝統的文化。観客もまた世界を作るのだとする「半世界」の思想がサブカルチャー、受容者だけのパラダイスがオタク。おおざっぱすぎるうえに、正しくないとか?
ありきたりのことを考えていたら、エンジェルプロのラジオを聞き逃してしまった。
ガックシ。
で、昨日から気になっていた、オタクのバーチャル好きを考えてみようと思って読んだのが『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』多木浩二。制服向上委員会も「なんで?」と疑問に思うことでも「ベンヤミンなら知ってる」と歌っているし。でも、ちょっと目的とは違う本の選択のような気もするが、まあ、いいか。
ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』は1933年に書かれている。うひゃー、70年以上前だ。芸術が大衆の鑑賞するものになり、礼拝的価値から展示的価値へと移行することで、アウラ(芸術のかもしだす権威とか重みとかオーラとか)が消えていく。アウラの喪失は複製技術、写真や映画によってもたらされたものなのだ。
と、言っても写真や映画を否定的に糾弾するのではなく、それによって得られる気散じや、知覚の拡大など、積極的に受容する態度もみせている。
『複製技術時代の芸術作品』のラストで語られる「政治の耽美主義」は、まんま僕が卒論で書いた「経済の耽美主義」とかぶるのに驚いた。大学生のときにベンヤミン読んでおくべきだった!遅い!25年遅れてる!
この本を読んで考えさせられたのは、芸術の受容についてだ。
複製によって、芸術の一回性は失われる。そして現代では少数の芸術家と多数の受容者という関係は崩れ、受容者はいつでも発信者になりかわる。
僕が勝手に浅い思考で考えていたのは、伝統的文化とサブカルチャー、オタクの違いは受容者にあるんじゃないか、ということだ。当たり前かな。少数の発信者と多数の受容者という関係が、伝統的文化。観客もまた世界を作るのだとする「半世界」の思想がサブカルチャー、受容者だけのパラダイスがオタク。おおざっぱすぎるうえに、正しくないとか?
ありきたりのことを考えていたら、エンジェルプロのラジオを聞き逃してしまった。
ガックシ。
SweetS、カフェドール、OTAKU
2005年2月27日 アイドル
ディスクピア日本橋でSweetSのミニアルバム「Keep on movin’」発売記念イベント。
1日に2回のイベントで、僕は2回目、午後4時から参加した。各回150人限定で、僕の整理番号は151番。えっ?ミニアルバム買ったのに参加できないの?と思ったが、1人で5枚も6枚も買っているファンがいるので、人数としては余裕があったのだ。
このミニアルバムに収録された5thシングル「sky」は「幻星神ジャスティライザー」のエンディングテーマだ。僕はジャスティライザーのジャケットを着てイベントに参加した。
SweetSイベント、ライブの曲順は次のとおり。
resistance〜マケナイキモチ〜
Tear "Lemon" Drop
oursong〜別れの詩〜
countdown
Love like candy floss
アンコールにこたえて、
Never ending story
以上6曲。ミニアルバム8曲中、イベントでやったのは3曲。1回目のライブではまた違ったセットリストで、2回あわせるといっぱしのライブほどのボリュームだ。関西でソロライブ開催されることを希望する。
途中のおしゃべりでは、1回目のイベントの後、道頓堀に行って、「KINDAI」用に写真をいっぱい撮ってきたそうだ。家から5分なので、道頓堀に行けばよかった。
ミニアルバムを買った人は、イベント参加券がもらえ、このイベントの参加と、握手会、ステッカー1枚と、抽選でサイン入りポスターがもらえる。2枚買えば参加券は2枚、3枚買えば3枚。その枚数分だけ、握手できて、ステッカーをもらえ、ポスターの抽選にも参加できる。ステッカーが、これまた、5人のメンバーそれぞれのものと、集合したのとがあって、コンプリートしようと思ったら、6枚以上買わねばならない。ステッカーは好きなのを選べるわけではなく、ひいてみて何がゲットできたのかがわかるシステムなのだ。ファンはそれでなくても同じCDを何枚も買うものだが、 SweetSはそれを誘導した商法なのだ。僕のように1枚しか買えないファンから見ると、そんなあざといことしなくてもなあ、と思う。トレーディングステッカーが1枚しか入手できず、1回しか握手できないひがみなのだが。ただし、僕がひいたステッカーは、「みおり」ちゃんのステッカーだった。SweetSの中で一番好きな子だったので、これはラッキー。「アキ」も捨てがたいのだが。
草壁くんがメイド喫茶カフェドールに誘ってくれて、新しいイベントの打ち合わせ。イベントに興味を示してくれたのは、メイドの「さき」ちゃん。でも、コミュニケーションノートは草壁くんご推薦の「えり」ちゃんのに記帳して帰る。
録画しておいた「新日曜美術館」ヴェネツィア・ビエンナーレ第9回国際建築展の日本館で展示されていた「OTAKU」展のレポートを見た。展示を指揮した森川嘉一郎と、オタクとは縁遠い司会者との会話が、とても歯がゆかった。視聴者の大半はオタクではないのだから、しかたないのだろうが。思うに、この番組を見て興味を持った人は、「OTAKU」展を見に行くのではなく、秋葉原に行けばより面白いはずだ。
と、すれば、山を描いた風景画を見に行くくらいなら、実際に山に行け、ということなのか。
恋愛小説を読むくらいなら、実際に恋愛をしろ、ということなのか。
でも、オタクというのは、そんな風に実地にアプローチしない人たちを指していう言葉なんじゃないか、との思いもある。最初から不可能性の世界で生き抜いてしまうのがオタクなんじゃないか。
うーむ。やっぱり僕はオタクにはなれないなあ。それとも、上に書いた「オタク」観そのものが間違ってる?
1日に2回のイベントで、僕は2回目、午後4時から参加した。各回150人限定で、僕の整理番号は151番。えっ?ミニアルバム買ったのに参加できないの?と思ったが、1人で5枚も6枚も買っているファンがいるので、人数としては余裕があったのだ。
このミニアルバムに収録された5thシングル「sky」は「幻星神ジャスティライザー」のエンディングテーマだ。僕はジャスティライザーのジャケットを着てイベントに参加した。
SweetSイベント、ライブの曲順は次のとおり。
resistance〜マケナイキモチ〜
Tear "Lemon" Drop
oursong〜別れの詩〜
countdown
Love like candy floss
アンコールにこたえて、
Never ending story
以上6曲。ミニアルバム8曲中、イベントでやったのは3曲。1回目のライブではまた違ったセットリストで、2回あわせるといっぱしのライブほどのボリュームだ。関西でソロライブ開催されることを希望する。
途中のおしゃべりでは、1回目のイベントの後、道頓堀に行って、「KINDAI」用に写真をいっぱい撮ってきたそうだ。家から5分なので、道頓堀に行けばよかった。
ミニアルバムを買った人は、イベント参加券がもらえ、このイベントの参加と、握手会、ステッカー1枚と、抽選でサイン入りポスターがもらえる。2枚買えば参加券は2枚、3枚買えば3枚。その枚数分だけ、握手できて、ステッカーをもらえ、ポスターの抽選にも参加できる。ステッカーが、これまた、5人のメンバーそれぞれのものと、集合したのとがあって、コンプリートしようと思ったら、6枚以上買わねばならない。ステッカーは好きなのを選べるわけではなく、ひいてみて何がゲットできたのかがわかるシステムなのだ。ファンはそれでなくても同じCDを何枚も買うものだが、 SweetSはそれを誘導した商法なのだ。僕のように1枚しか買えないファンから見ると、そんなあざといことしなくてもなあ、と思う。トレーディングステッカーが1枚しか入手できず、1回しか握手できないひがみなのだが。ただし、僕がひいたステッカーは、「みおり」ちゃんのステッカーだった。SweetSの中で一番好きな子だったので、これはラッキー。「アキ」も捨てがたいのだが。
草壁くんがメイド喫茶カフェドールに誘ってくれて、新しいイベントの打ち合わせ。イベントに興味を示してくれたのは、メイドの「さき」ちゃん。でも、コミュニケーションノートは草壁くんご推薦の「えり」ちゃんのに記帳して帰る。
録画しておいた「新日曜美術館」ヴェネツィア・ビエンナーレ第9回国際建築展の日本館で展示されていた「OTAKU」展のレポートを見た。展示を指揮した森川嘉一郎と、オタクとは縁遠い司会者との会話が、とても歯がゆかった。視聴者の大半はオタクではないのだから、しかたないのだろうが。思うに、この番組を見て興味を持った人は、「OTAKU」展を見に行くのではなく、秋葉原に行けばより面白いはずだ。
と、すれば、山を描いた風景画を見に行くくらいなら、実際に山に行け、ということなのか。
恋愛小説を読むくらいなら、実際に恋愛をしろ、ということなのか。
でも、オタクというのは、そんな風に実地にアプローチしない人たちを指していう言葉なんじゃないか、との思いもある。最初から不可能性の世界で生き抜いてしまうのがオタクなんじゃないか。
うーむ。やっぱり僕はオタクにはなれないなあ。それとも、上に書いた「オタク」観そのものが間違ってる?
芦原橋のウィングホールで「苺のはらわた」と題するトークイベントが開催された。
ストロベリーソングオーケストラの宮悪戦車座長と、サブカルチャーノートの草壁氏によるホラー対談。途中、「死霊のはらわた」の迷シーンなども見ながら、デモンズやデッドリースポーン、ゾンゲリアなど、懐かしい名前がどんどん出て来た。
最近のホラーやスプラッタ映画はあんまり見ていなくて、日本橋道楽に行っても、聞いたこともないホラー映画が山のようにあって、まだまだ未踏の地があることを思い知らされる。
宮悪氏による寺山修司風アングラな詩の朗読もあり、なかなかお得なイベントだった。
宮悪座長は風邪のため、イベント終了後すぐに帰宅されたが、僕たちは日本橋百景で打ち上げ。そこで椿屋のぐりこちゃんが話題にした「集団殺人クラブ」はツタヤに行っても貸し出し中だったので、道楽に探しに行くか。
いやいや、日本橋百景では草壁氏、カシワギ氏とHELP!の打ち合わせを主にしたのだった。
日本橋百景においてある漫画を2冊も読んだ。打ち上げとか打ち合わせの最中に漫画2冊読むとは、なにごとか、と今になって思うけど、そのときは、ついつい面白くてのめりこんでしまったのだ。
読んだのは「ホムンクルス」の4巻と、「PLUTO」1巻だ。
「ホムンクルス」の方は人間の外見と実際の姿のギャップを描いていて、はやりの占いや精神分析、つまりは分析もの流行にうまくのっかった漫画なのだ。これこそ、今読まないと面白みが薄れてしまう漫画なのかもしれない。
「Pluto」は浦沢直樹の作品で、鉄腕アトムの「地上最大のロボット」をモチーフにしている。1巻読んだところでは最後のシーンでアトムが出てくる。サスペンスに満ちた作品で、これは滅茶苦茶面白かった。
僕はほとんど漫画を読まないので、たまに読むと滅茶苦茶興味が湧いてくる。でも、本屋に行っても中味を読むことができず、タイトルしか情報がなく、内容のわからない漫画に囲まれて、ああ、右も左もわからない。「わたしはどこにいるのでしょう?本がいっぱいありすぎる〜」
道端でアフタヌーンをひろったので、読もうっと。
ストロベリーソングオーケストラの宮悪戦車座長と、サブカルチャーノートの草壁氏によるホラー対談。途中、「死霊のはらわた」の迷シーンなども見ながら、デモンズやデッドリースポーン、ゾンゲリアなど、懐かしい名前がどんどん出て来た。
最近のホラーやスプラッタ映画はあんまり見ていなくて、日本橋道楽に行っても、聞いたこともないホラー映画が山のようにあって、まだまだ未踏の地があることを思い知らされる。
宮悪氏による寺山修司風アングラな詩の朗読もあり、なかなかお得なイベントだった。
宮悪座長は風邪のため、イベント終了後すぐに帰宅されたが、僕たちは日本橋百景で打ち上げ。そこで椿屋のぐりこちゃんが話題にした「集団殺人クラブ」はツタヤに行っても貸し出し中だったので、道楽に探しに行くか。
いやいや、日本橋百景では草壁氏、カシワギ氏とHELP!の打ち合わせを主にしたのだった。
日本橋百景においてある漫画を2冊も読んだ。打ち上げとか打ち合わせの最中に漫画2冊読むとは、なにごとか、と今になって思うけど、そのときは、ついつい面白くてのめりこんでしまったのだ。
読んだのは「ホムンクルス」の4巻と、「PLUTO」1巻だ。
「ホムンクルス」の方は人間の外見と実際の姿のギャップを描いていて、はやりの占いや精神分析、つまりは分析もの流行にうまくのっかった漫画なのだ。これこそ、今読まないと面白みが薄れてしまう漫画なのかもしれない。
「Pluto」は浦沢直樹の作品で、鉄腕アトムの「地上最大のロボット」をモチーフにしている。1巻読んだところでは最後のシーンでアトムが出てくる。サスペンスに満ちた作品で、これは滅茶苦茶面白かった。
僕はほとんど漫画を読まないので、たまに読むと滅茶苦茶興味が湧いてくる。でも、本屋に行っても中味を読むことができず、タイトルしか情報がなく、内容のわからない漫画に囲まれて、ああ、右も左もわからない。「わたしはどこにいるのでしょう?本がいっぱいありすぎる〜」
道端でアフタヌーンをひろったので、読もうっと。
スコルピオンの恋まじない、ターミネーター 3
2005年2月25日 映画
ウディ・アレン監督、主演の「スコルピオンの恋まじない」をケーブルテレビで放送していたので、見た。
催眠術によってあやつられて犯罪をはたらいてしまう男女は、同時にお互いを好きになってしまうまじないもかけられていた。催眠術で動いているあいだの記憶は何も残っていないのだ。男女は会社内での天敵なのだが、犯罪調査をすすめる内に、実際に魅かれあっていく。
と、まあ、このあらすじが正しいかどうかは別として、ウディ・アレンは保険調査員、催眠術によるあやつり犯罪、というレトロな探偵風味を生かすために、時代設定は1940年代。ウディ・アレンの十八番を並べたようなラブコメディで、お気楽に見られる楽しい映画だった。
この映画見てて感心したのは、ウディ・アレンの対話術の面白さだ。仲の悪いヘレン・ハントがウディ・アレンを、チビで風采のあがらない年寄り、とけなすと、ウディ・アレンは「しかも抜け毛がはげしい」と、自分のことなのに弱点を重ねるのだ。このシーンだけで、僕は「まいりました」とひれふした。
テレビで放送していた「ターミネーター3」を録画して、見た。このようなハリウッドの大作は、大々的にロードショーやって宣伝やっていたはずなので、既に見に行っていたものと思っていたが、もう冒頭のシーンだけで、「あっ、この映画、見たことない」と決定した。
ジョナサン・モストウ監督、アーノルド・シュワルツネッガー、クレア・デーンズ、クリスタナ・ローケン出演の2003年の作品。そうか、かつて僕は1ヶ月に平均60本くらい映画を見に行っていたが、すっかり貧乏になってしまって、映画館に行く機会も激減し、家で録画した映画を見るにも、家族とのチャンネル権が発生してしまい、それすらめったに見られなくなっていたのだ。(それまでは自分のテレビがあったので、1日中ビデオ見ていることもできたのだ)そんなわけで、僕のストレスはたまっていく一方なのだ。この「ターミネーター3」も先日見た「猿の惑星」も、せめて3本立てに落ちてきたときや、レンタル料金の安いときなどに、見ておいてしかるべき作品だったのだ。もともと話題作はあえて後回しにする僕だが、ターミネーター3を見ていなかったとは、ひどい。作品そのものは、期待せずに見たせいか、けっこう満足できた。本シリーズでも3本の指に入る出来だ。(2本の指なら、入らない)特に、ラストの逆転は「なーるほど」とうなった。1週間後には忘れてしまうので、書いておこう。ネタバレするので、未見の人は要注意。
世界を核戦争による破滅から救うために、主人公は行動している。そのためには、スカイネットと呼ばれるシステムを破壊しなくてはならない。これは言わば人間に反抗する機械、という古くからのテーマだ。スカイネットの中枢システムの存在は、主人公の父親が知っていた。スカイネットの責任者なのだ。その父親はスカイネットが発動し、叛乱をおこしたロボットによって襲われる。虫の息の父親は、ある場所の名を告げる。主人公はスカイネットの中枢を破壊するため、爆弾を持って、その場所に行く。ところが、辿り着いてみると、そこは政府要人が使用するために作られた核シェルターだった。インターネットを見てもわかるように、「中枢」なんて最初から無かったのだ。主人公の為すべき運命は、スカイネットを破壊することではなく、核攻撃から自らの生命を守ることにあったのだ。
うすれゆく記憶でよく書ききった、と自分をほめてやりたい。
「ハロプロやねん」担当は3人そろった美勇伝。誰と一緒に住みたいか、というハロプロナンバー1のコーナーでは、かおりんが決定。
3月も美勇伝が担当することが決まったようだ。岡田唯のしゃべりの面白さが味わえるので、これは大歓迎。「マジカル美勇伝」とか放送してなかったので、音楽番組くらいでしか美勇伝を見ることができず、やっとのことで、その魅力がわかったところなのだ。
催眠術によってあやつられて犯罪をはたらいてしまう男女は、同時にお互いを好きになってしまうまじないもかけられていた。催眠術で動いているあいだの記憶は何も残っていないのだ。男女は会社内での天敵なのだが、犯罪調査をすすめる内に、実際に魅かれあっていく。
と、まあ、このあらすじが正しいかどうかは別として、ウディ・アレンは保険調査員、催眠術によるあやつり犯罪、というレトロな探偵風味を生かすために、時代設定は1940年代。ウディ・アレンの十八番を並べたようなラブコメディで、お気楽に見られる楽しい映画だった。
この映画見てて感心したのは、ウディ・アレンの対話術の面白さだ。仲の悪いヘレン・ハントがウディ・アレンを、チビで風采のあがらない年寄り、とけなすと、ウディ・アレンは「しかも抜け毛がはげしい」と、自分のことなのに弱点を重ねるのだ。このシーンだけで、僕は「まいりました」とひれふした。
テレビで放送していた「ターミネーター3」を録画して、見た。このようなハリウッドの大作は、大々的にロードショーやって宣伝やっていたはずなので、既に見に行っていたものと思っていたが、もう冒頭のシーンだけで、「あっ、この映画、見たことない」と決定した。
ジョナサン・モストウ監督、アーノルド・シュワルツネッガー、クレア・デーンズ、クリスタナ・ローケン出演の2003年の作品。そうか、かつて僕は1ヶ月に平均60本くらい映画を見に行っていたが、すっかり貧乏になってしまって、映画館に行く機会も激減し、家で録画した映画を見るにも、家族とのチャンネル権が発生してしまい、それすらめったに見られなくなっていたのだ。(それまでは自分のテレビがあったので、1日中ビデオ見ていることもできたのだ)そんなわけで、僕のストレスはたまっていく一方なのだ。この「ターミネーター3」も先日見た「猿の惑星」も、せめて3本立てに落ちてきたときや、レンタル料金の安いときなどに、見ておいてしかるべき作品だったのだ。もともと話題作はあえて後回しにする僕だが、ターミネーター3を見ていなかったとは、ひどい。作品そのものは、期待せずに見たせいか、けっこう満足できた。本シリーズでも3本の指に入る出来だ。(2本の指なら、入らない)特に、ラストの逆転は「なーるほど」とうなった。1週間後には忘れてしまうので、書いておこう。ネタバレするので、未見の人は要注意。
世界を核戦争による破滅から救うために、主人公は行動している。そのためには、スカイネットと呼ばれるシステムを破壊しなくてはならない。これは言わば人間に反抗する機械、という古くからのテーマだ。スカイネットの中枢システムの存在は、主人公の父親が知っていた。スカイネットの責任者なのだ。その父親はスカイネットが発動し、叛乱をおこしたロボットによって襲われる。虫の息の父親は、ある場所の名を告げる。主人公はスカイネットの中枢を破壊するため、爆弾を持って、その場所に行く。ところが、辿り着いてみると、そこは政府要人が使用するために作られた核シェルターだった。インターネットを見てもわかるように、「中枢」なんて最初から無かったのだ。主人公の為すべき運命は、スカイネットを破壊することではなく、核攻撃から自らの生命を守ることにあったのだ。
うすれゆく記憶でよく書ききった、と自分をほめてやりたい。
「ハロプロやねん」担当は3人そろった美勇伝。誰と一緒に住みたいか、というハロプロナンバー1のコーナーでは、かおりんが決定。
3月も美勇伝が担当することが決まったようだ。岡田唯のしゃべりの面白さが味わえるので、これは大歓迎。「マジカル美勇伝」とか放送してなかったので、音楽番組くらいでしか美勇伝を見ることができず、やっとのことで、その魅力がわかったところなのだ。
斎藤貴男の『非国民のすすめ』を読んだ。
ジャーナリストである著者が噛み付いているのは、数多いが、目次から一部拾ってみると、たとえばこんな調子。
「全行動を監視するユビキタスの恐怖」
「がんじがらめの監視網があなたを覆いつくす(なぜ住基ネットは実施されたか)」
「首相の靖国参拝の本当の意味」
「テロのレッテルを貼りたがる人々」
「拉致事件で北朝鮮を絶対悪視する愚かさ」
「まるで徴兵制のような裁判員制度」
「人間を臣民化する日の丸、君が代教育」
「定時制高校への差別的な発言」
「新聞、TVのイラク映像にダマされるな」
「ジャーナリズムが権力追随から脱するために」
これらの主張は、ちょっと考えれば誰でもが到達する視点でもありうるのだが、これらのことを発言する者は少ない。先日の北朝鮮とのサッカーでも、サッカーチームに憎悪むきだしの態度をとる日本人が多かった。アメリカがイラク空爆をはじめたとき、やむをえないと判断した輩も多かった。北朝鮮で放送されているテレビ番組を嘲笑するワイドショーもある。
著者のこれらの視点、怒りを僕はベースとして考えていこうと思っている。
この本を読んで、なるほど、と思えたのは、著者が主張する「生活保守主義批判」だ。
自分たちの生活水準を守ることが最優先の関心事になるのが、生活保守主義。
これは裏返しの全体主義である。自ら進んで国家側の視点に立ち、監視すら厭わない人々が目につく。
たとえば反戦運動のデモを見て、迷惑としか感じない人々。
イラク戦争に「しかたがない」で納得した人々。
これで思い出したのが、先日読んだ『どうせ死んでしまう』でとりあげられていたカントの「根本悪」の問題だ。
根本悪とは、真実よりも幸福を優先する態度である。たとえば、人を殺すことは悪である。これはいかなる場合においても、悪なのだ。しかし、イラクが大量破壊兵器を隠しているかもしれない、となると、イラク人を1万人殺して平気なのである。殺しは悪かもしれないが、自分の身を守るため、あるいは、世界の秩序のため、つまりは、幸福のためには殺してしまう選択をしてしまうのだ。これをカントは「根本悪」として問題にした。イラクを例にあげたので、話はわかりやすいが、これが、誰が見ても善いことのように思えることであっても、事情は同じだ。カントは「たしかにそれは悪いことかもしれないけど、しかたがなかったんだ」というような言い訳するような輩を根本悪にまみれた者としているのだ。家族を守るために嘘をつく、など人間味あふれる悪であっても、それはヒトラーのユダヤ人虐殺と何ら変わるところのない悪なのだ。
ジャーナリストである著者が噛み付いているのは、数多いが、目次から一部拾ってみると、たとえばこんな調子。
「全行動を監視するユビキタスの恐怖」
「がんじがらめの監視網があなたを覆いつくす(なぜ住基ネットは実施されたか)」
「首相の靖国参拝の本当の意味」
「テロのレッテルを貼りたがる人々」
「拉致事件で北朝鮮を絶対悪視する愚かさ」
「まるで徴兵制のような裁判員制度」
「人間を臣民化する日の丸、君が代教育」
「定時制高校への差別的な発言」
「新聞、TVのイラク映像にダマされるな」
「ジャーナリズムが権力追随から脱するために」
これらの主張は、ちょっと考えれば誰でもが到達する視点でもありうるのだが、これらのことを発言する者は少ない。先日の北朝鮮とのサッカーでも、サッカーチームに憎悪むきだしの態度をとる日本人が多かった。アメリカがイラク空爆をはじめたとき、やむをえないと判断した輩も多かった。北朝鮮で放送されているテレビ番組を嘲笑するワイドショーもある。
著者のこれらの視点、怒りを僕はベースとして考えていこうと思っている。
この本を読んで、なるほど、と思えたのは、著者が主張する「生活保守主義批判」だ。
自分たちの生活水準を守ることが最優先の関心事になるのが、生活保守主義。
これは裏返しの全体主義である。自ら進んで国家側の視点に立ち、監視すら厭わない人々が目につく。
たとえば反戦運動のデモを見て、迷惑としか感じない人々。
イラク戦争に「しかたがない」で納得した人々。
これで思い出したのが、先日読んだ『どうせ死んでしまう』でとりあげられていたカントの「根本悪」の問題だ。
根本悪とは、真実よりも幸福を優先する態度である。たとえば、人を殺すことは悪である。これはいかなる場合においても、悪なのだ。しかし、イラクが大量破壊兵器を隠しているかもしれない、となると、イラク人を1万人殺して平気なのである。殺しは悪かもしれないが、自分の身を守るため、あるいは、世界の秩序のため、つまりは、幸福のためには殺してしまう選択をしてしまうのだ。これをカントは「根本悪」として問題にした。イラクを例にあげたので、話はわかりやすいが、これが、誰が見ても善いことのように思えることであっても、事情は同じだ。カントは「たしかにそれは悪いことかもしれないけど、しかたがなかったんだ」というような言い訳するような輩を根本悪にまみれた者としているのだ。家族を守るために嘘をつく、など人間味あふれる悪であっても、それはヒトラーのユダヤ人虐殺と何ら変わるところのない悪なのだ。
養老孟司とテリー伊藤の対談をおさめた本『オバサンとサムライ』を読んだ。
元気のない日本、日本人への提言が語られている。
養老孟司は日本を卑下する必要はない、こんないい国はない、と言う。
先進国の国々と比べてみると、世界に対してあんまり迷惑をかけていないし、戦後の悲惨な状況からこれだけやってきて、こんなに不幸の少ない国はない、と言う。
それ以外にも。
たとえばイラク復興支援について、「イラクのような石油埋蔵量が豊富な国の復興を日本が支援する必要はない。日本は石油も何もでない土地で裸一貫でここまで戻したんだ」
たとえば日本のアジア植民について、「日本以外に植民地に国家予算の40%も投入した国はない。日本以外に植民地にまともなインフラ作った国があるのか」
たとえばテルアビブの赤軍テロで日本政府が見舞金を出したことについて、「自分の国の国民が犯した罪について償いをする政府なんて、世界にいくつある?」
などと言っている。
元気のない日本人への処方箋は、まず、体を動かすことを提唱し、今までの「サムライ」的生き方から「オバサン」的生き方への転換を提唱している。
オバサンの代表例は、扇千景で、巻末には扇千景とテリー伊藤の短い対談、オバサン道10箇条も載せてある。
見栄っぱりのサムライから好奇心旺盛なオバサンへの転換は、そのまんま大阪のパワフルな生き方への転換にも通じるように思える。
養老孟司は本の出し過ぎで、この本もまだ売れ筋なのかどうかよくわからないが、引き出しがそんなに豊富でも無さそうなのに、よく続くものだと感心する。本書以外でも書いているのかもしれないけれど、参勤交代復活の提唱は面白かった。
この本で一番気になったのは、そういった本筋のところではなく、養老孟司が医学部の後輩から聞いたという話。本を読んだ後に、その内容をちっとも説明できない人が異常に増えているという、まだ名前のない症候群が存在しているらしい。自分では読書しているつもりなのだが、内容が全然頭に入っていないのだと言う。
これ、僕のことじゃないか。
せっかく読んだ本なのに何が書いてあったのかさっぱり思い出せないのが多発しているので、僕はこうやって本の内容とか感想などを備忘録として書いているのだ。
危ない。
つい先日も、僕の愛読書を人に説明するとき、全然内容や面白さを伝えることができなかった。一方、相手は面白かった漫画について、きっちりとその面白さまで僕に教えてくれた。「へえ」と感心したが、その漫画、かつて僕も読んだことがあるものだったのだ。すっかり忘れている。名もなき症候群だ。
僕はその愛読書をバージョン違い(翻訳者が違う)で読み直すことを心に誓った。
再読したら、ちゃんとここに書き留めておこう。
元気のない日本、日本人への提言が語られている。
養老孟司は日本を卑下する必要はない、こんないい国はない、と言う。
先進国の国々と比べてみると、世界に対してあんまり迷惑をかけていないし、戦後の悲惨な状況からこれだけやってきて、こんなに不幸の少ない国はない、と言う。
それ以外にも。
たとえばイラク復興支援について、「イラクのような石油埋蔵量が豊富な国の復興を日本が支援する必要はない。日本は石油も何もでない土地で裸一貫でここまで戻したんだ」
たとえば日本のアジア植民について、「日本以外に植民地に国家予算の40%も投入した国はない。日本以外に植民地にまともなインフラ作った国があるのか」
たとえばテルアビブの赤軍テロで日本政府が見舞金を出したことについて、「自分の国の国民が犯した罪について償いをする政府なんて、世界にいくつある?」
などと言っている。
元気のない日本人への処方箋は、まず、体を動かすことを提唱し、今までの「サムライ」的生き方から「オバサン」的生き方への転換を提唱している。
オバサンの代表例は、扇千景で、巻末には扇千景とテリー伊藤の短い対談、オバサン道10箇条も載せてある。
見栄っぱりのサムライから好奇心旺盛なオバサンへの転換は、そのまんま大阪のパワフルな生き方への転換にも通じるように思える。
養老孟司は本の出し過ぎで、この本もまだ売れ筋なのかどうかよくわからないが、引き出しがそんなに豊富でも無さそうなのに、よく続くものだと感心する。本書以外でも書いているのかもしれないけれど、参勤交代復活の提唱は面白かった。
この本で一番気になったのは、そういった本筋のところではなく、養老孟司が医学部の後輩から聞いたという話。本を読んだ後に、その内容をちっとも説明できない人が異常に増えているという、まだ名前のない症候群が存在しているらしい。自分では読書しているつもりなのだが、内容が全然頭に入っていないのだと言う。
これ、僕のことじゃないか。
せっかく読んだ本なのに何が書いてあったのかさっぱり思い出せないのが多発しているので、僕はこうやって本の内容とか感想などを備忘録として書いているのだ。
危ない。
つい先日も、僕の愛読書を人に説明するとき、全然内容や面白さを伝えることができなかった。一方、相手は面白かった漫画について、きっちりとその面白さまで僕に教えてくれた。「へえ」と感心したが、その漫画、かつて僕も読んだことがあるものだったのだ。すっかり忘れている。名もなき症候群だ。
僕はその愛読書をバージョン違い(翻訳者が違う)で読み直すことを心に誓った。
再読したら、ちゃんとここに書き留めておこう。
ここにないもの―新哲学対話
2005年2月22日 読書
野矢茂樹の『ここにないもの』を読んだ。いとう瞳の挿し絵がついた童話風の物語だが、内容はサブタイトルのとおり、「新哲学対話」になっている。
登場するのはミューとエプシロン。2人が語るのは実在論。人生について考え、自分について考え、過去、現在、未来について考え、死について考える。
目次は「『人生は無意味だ』って、どういう意味なのだろう」
「十年前のぼくも、ぼくなんだろうか」
「ことばで言い表せないもの」
「自分の死を想像することはできるか」
「未来は存在しない?」
となっている。人生論や、日常に役立つ哲学、というスタンスではなく、絵本じたてになっている割に、頭の中だけで思考をつきつめる、机上の空論に近い議論が展開されている。
童話風キャラクターが、「現れが視点位置と身体状態の関数になっている」と言ったり、「世界の外部を死は完全にゼロにしちまう」とか「未来は予期される形で存在する」とか、いちいち言葉が硬いのが違和感あって面白い。
終始この調子ならまだいいのだが、メルヘンのような描写も不器用にされているので、ますます無理してる感が漂う。
挿し絵も動物など顔のついたものを描くのではない、数学的なイラストで、ちっとも童話っぽくなく、作り手の意図がどこにあるのかわかりにくい奇書だった。
登場するのはミューとエプシロン。2人が語るのは実在論。人生について考え、自分について考え、過去、現在、未来について考え、死について考える。
目次は「『人生は無意味だ』って、どういう意味なのだろう」
「十年前のぼくも、ぼくなんだろうか」
「ことばで言い表せないもの」
「自分の死を想像することはできるか」
「未来は存在しない?」
となっている。人生論や、日常に役立つ哲学、というスタンスではなく、絵本じたてになっている割に、頭の中だけで思考をつきつめる、机上の空論に近い議論が展開されている。
童話風キャラクターが、「現れが視点位置と身体状態の関数になっている」と言ったり、「世界の外部を死は完全にゼロにしちまう」とか「未来は予期される形で存在する」とか、いちいち言葉が硬いのが違和感あって面白い。
終始この調子ならまだいいのだが、メルヘンのような描写も不器用にされているので、ますます無理してる感が漂う。
挿し絵も動物など顔のついたものを描くのではない、数学的なイラストで、ちっとも童話っぽくなく、作り手の意図がどこにあるのかわかりにくい奇書だった。
どうせ死んでしまう・・・・・・私は哲学病
2005年2月21日 読書
中島義道の『どうせ死んでしまう…私は哲学病』を読んだ。
雑文を集めた本だというが、内容を見ると、一貫したテーマはないものの、著者の多くの著作のカタログとして読むこともできる。
「ウィーン半隠遁」という文章はウィーンに学び、ウィーンと日本を今も往復している著者のウィーン愛憎を描く『ウィーン愛憎』にリンクしている。ウィーンは20年たっても何も変わらない街なのだそうだ。
「学生たちよ、真剣にぐれよ!」「死ぬ前にぐれてはどうだろう」「上手にぐれるための10冊」は『ぐれる!』を受けての文章だ。やりたいことをやろう、という趣旨だ。著者は冠婚葬祭、親戚づきあい、年賀状も知人からの電話も断って、自分の時間を作っているのだそうだ。それは『人生を半分降りる』にもつながっている。
だが、この本の読みどころは、タイトルにもある「どうせ死んでしまう」について書かれた文章だ。
人間はいつか死んでしまう。ならば、なぜ、今死んではいけないのか。自殺してはいけないのはなぜなのか。著者の結論は「自殺してはいけない理由は論理的にはない」
生きていれば人生、いいことある、というのは自殺を止める理由にはならない。人生、楽しいこともあるだろうことなんかわかっている。それでも、もうそんな人生にうんざりなのだ。
不治の病だと知った人が自殺する場合、その気持ちがわかるとすれば、どうせ人間、必ず死ぬのだ。同じじゃないか。今死んでも納得のはずだ。止める理由はない。
自殺を思いとどまる理由として、周囲の人間、たとえば家族や恋人が悲しむから、というのが最も一般的だが、自分の人生よりも他人の一時的な感情を優先するのか、という話になると、これも納得しがたい。
これら自殺と死について考察を重ねた著者が自殺志願の人にどんな思いを抱き、どう声をかけるのか。
露悪が過ぎるような気もするが、物事をなんでも悲観的にとらえる変わり者の哲学者の考えることはとても面白い。
本書で共感したのは、家族至上主義批判の部分「全力をもって家族から、その暴力から、その支配から、その掟からみずからを解放しよう」、そして、正しいひきこもりの条件「ひきこもっている者が、自分のほうが世間であくせく働いている者より偉い」と思うようならば「ひきこもっている資格はない」と喝破する部分。そんな奴は「さっさと世間に出て、世間に揉まれ、悲嘆に暮れ、いさぎよく抹殺されればいい」
また、「弱いこと自体は美しいが、『自分は弱いから』という自己弁護の刀をいつも懐に忍ばせて謙虚に生きている輩は、いささかも美しくない」とするところ。守りに入りがちなのが、醜いのである。
雑文を集めた本だというが、内容を見ると、一貫したテーマはないものの、著者の多くの著作のカタログとして読むこともできる。
「ウィーン半隠遁」という文章はウィーンに学び、ウィーンと日本を今も往復している著者のウィーン愛憎を描く『ウィーン愛憎』にリンクしている。ウィーンは20年たっても何も変わらない街なのだそうだ。
「学生たちよ、真剣にぐれよ!」「死ぬ前にぐれてはどうだろう」「上手にぐれるための10冊」は『ぐれる!』を受けての文章だ。やりたいことをやろう、という趣旨だ。著者は冠婚葬祭、親戚づきあい、年賀状も知人からの電話も断って、自分の時間を作っているのだそうだ。それは『人生を半分降りる』にもつながっている。
だが、この本の読みどころは、タイトルにもある「どうせ死んでしまう」について書かれた文章だ。
人間はいつか死んでしまう。ならば、なぜ、今死んではいけないのか。自殺してはいけないのはなぜなのか。著者の結論は「自殺してはいけない理由は論理的にはない」
生きていれば人生、いいことある、というのは自殺を止める理由にはならない。人生、楽しいこともあるだろうことなんかわかっている。それでも、もうそんな人生にうんざりなのだ。
不治の病だと知った人が自殺する場合、その気持ちがわかるとすれば、どうせ人間、必ず死ぬのだ。同じじゃないか。今死んでも納得のはずだ。止める理由はない。
自殺を思いとどまる理由として、周囲の人間、たとえば家族や恋人が悲しむから、というのが最も一般的だが、自分の人生よりも他人の一時的な感情を優先するのか、という話になると、これも納得しがたい。
これら自殺と死について考察を重ねた著者が自殺志願の人にどんな思いを抱き、どう声をかけるのか。
露悪が過ぎるような気もするが、物事をなんでも悲観的にとらえる変わり者の哲学者の考えることはとても面白い。
本書で共感したのは、家族至上主義批判の部分「全力をもって家族から、その暴力から、その支配から、その掟からみずからを解放しよう」、そして、正しいひきこもりの条件「ひきこもっている者が、自分のほうが世間であくせく働いている者より偉い」と思うようならば「ひきこもっている資格はない」と喝破する部分。そんな奴は「さっさと世間に出て、世間に揉まれ、悲嘆に暮れ、いさぎよく抹殺されればいい」
また、「弱いこと自体は美しいが、『自分は弱いから』という自己弁護の刀をいつも懐に忍ばせて謙虚に生きている輩は、いささかも美しくない」とするところ。守りに入りがちなのが、醜いのである。