ドクトル・マブゼ

2004年10月12日 読書
ノルベルト・ジャックの『ドクトル・マブゼ』を読んだ。フリッツ・ラング監督の映画でおなじみの犯罪物だ。1921年の作品。
不世出の犯罪組織の首領、マブゼ博士。このマブゼ博士がどんなに悪い奴かというと、インサイダー取引で財テクに励んだり、催眠術で賭博で儲けたり、人妻に横恋慕して略奪したり。せこいぞ!
正義の味方は、そんなせこいマブゼ博士よりもはるかにキャラクターが小さく、マブゼ博士にすっかりのまれてしまう。このあたり、オウム騒動のときの麻原とワイドショーに出ていたオウムウォッチャーによく似ている。マブゼは決して最強キャラではないのだが、正義の主人公が弱っちいので、相対的にマブゼが犯罪王に見えるのだ。
結局、女を自分のものにすることができず、裏切られて墓穴を掘るマブゼはどこまでもドジな犯罪王に見えるのだが、悪はその程度のものなのかもしれない。まあ、作者がマブゼの視点から不安な心情などを描いたりするから、弱味が見えてしまった、ということなんだろうけど。

アニメ「げんしけん」第1回を見た。わりと期待できるんじゃないか?
新番組のアニメでは「スクールランブル」と並んで、有望株だ。
「ファンタジック・チルドレン」は次も見るけど面白いのかどうかわからない。

家の中に小さな虫がよく飛んでいるので、出所を探ってみたら、猫のドライフードだった。袋ごと埋葬。
長距離バスで大阪に戻る。
風邪がなおっていない上に、疲労が重なり、体調は最悪だ。
こんなときは動きまくるにかぎるのだが、あいにくと、長時間にわたってバス。
じっとしていると、体はすっかりお休みモードに入ってしまう。
そんな、くたーっとした状況で読んだバスのおともは『マリア様がみてる 黄薔薇革命』だ。
革命と言っても、ウテナみたいなものではなく、姉妹の関係を妹の方からいったんチャラにする、という些細な話。誰と誰がなかよくて、誰と誰が破局した、とかいうような話題は、男の僕からすると、世の中で最もどうでもいい話のように思えるのだが、少女たちには重要らしい。ワイドショーや女性週刊誌って、そんな話題多いしね。そういうまるで無価値に思える部分に価値を認めることができるのは、ある意味、特殊な能力だと思う。僕も修行して、芸能界のゴシップに興味を持てるような心の余裕を持ちたいものだ。
いや、これは女性に限ったことではない。オタクの人って、邪推による噂が大好物ではなかったか。ああ、僕もオタクや女性みたいに広い心の持ち主になりたい。
さて、『黄薔薇革命』は、人間関係の綾を描いていて、ストーリーの作り方もうまい。僕はレスビアンの世界については不案内で、どこまで彼女たちの心理を描ききっているのかわからないが、男が読んでもじゅうぶんに物語は面白かった。
新幹線で東京に移動。
向かうはザムザ阿佐ヶ谷、月蝕歌劇団「ステーシー」だ。
今日は「詩劇ライブ」もあり、祝日、昨日の台風などの条件が重なり、満員御礼だった。
「ステーシー」は大槻ケンヂの小説の演劇化で、驚くほど原作に忠実だった。その分、「なんじゃそりゃ」というような飛躍がなくて、スケールの野方図な大きさが味わえなかったのは残念だ。歌のシーンも少ないように思った。血が飛び散るお約束も、いつもと同じくらいの血量だったか。でも、役者の素晴らしさは特筆に値した。
森永理科のアングラ体術は他の追随を許さない。
一ノ瀬めぐみの吸引力はブラックホール並みだ。
木塚咲はすっかりアングラ女優としての王道を歩んでいる。
制服向上委員会からの客演、星川りりか(愛娘)、高田唯(奇形)、河野伶奈(ゾンビ)の演技もこなれていた。
そして、今回気になったのは、外連からの客演、ミューを演じた天正彩だ。
こんな存在感のある女優さんがいたんだ!森永理科がアニメで正義の主人公を演ずるとすれば、それに立ちふさがる悪の首領は天正彩だろう。そして、人気投票では主人公と1、2位を常に争うのだ。
さて、そんなことより、この演劇は2時間30分くらいあったかと思うが、満員ゆえ、僕は終演までピシッと正座したまま、足を1度もくずせなかった。せめて左右の足の上下くらい変えることができればなんとかなったのだが、ピクリとも動かせない。これは苦痛だった。2時間30分の正座を終えてわかったことがある。ピークを越えてしまうと、正座を解いたとき、既にしびれは起こらない。膝や足首は痛いが、ちっともしびれていないのだ。つまり、正座して、しびれるのは、まだピークを迎えていない、たいしたことのない段階なのではないか。
演劇に続けて、「詩劇ライブ・魔少女凍結」を見る。
劇中歌や、詩の朗読の月蝕歌劇団世界が展開する。制服向上委員会のライブが急遽中止になったので、高取英のトークに変更。
ライブ自体は可も不可もなし、というところ。楽しみにしていただけに残念。
女優陣の充実ぶりに比べて、なぜか印象に残らない今回の公演だった。思うに、これは原作『ステーシー』と月蝕歌劇団との相性がよすぎたためなんじゃないか。ステーシーは月蝕の世界の縮小再生産なので、あまり大きな変更もせず、楽に作ってしまうことができたんじゃないか。「ステーシー」は「捨子物語」とでもしてお得意のタイムスリップものにすればよかったんじゃないか。

夜は高円寺無力無善寺でライブ。
芋煮会も兼ねており、芋煮とだみあんの沖縄土産、ちんすこう、泡盛などいただきながら、コズミック☆ファラオ、ハグルマル、めがねっ娘クラブなど、おや、これは難波ベアーズのライブか?というライブ。僕もついさっき考えた、というネタでライブした。
演劇で両足が破壊されていたわりには、楽しく過ごせた1日だった。
ホテルにチェックインして、「怪奇大家族」の2回目など。
ここ数日不調続きだと思っていたら、どうやらアイドル分が不足していたようだ。楽しみにしていた土曜の朝の「美少女クラブ31」も釣り番組に変わってたし。
今日はひさびさのSTSスタジオライブ。
今回からチケットは前売り、当日ともに隣の本屋さんで購入するシステムになった。開演2時間くらい前に行って券を購入し、並ぶ。この時間だとビデオ、カメラの機材を抱えた常連さん達がほとんどなので、10番目くらいには入れる。以下、演目と感想。
1、「SHOW TIME」ステッパーズ
今日のステッパーズは10人。
2、「LITTLE BIRD」ラズベリーズ
創叡一のダンサ−、豆タンクことワカナが抜けた後のラズベリーズ。僕的にはこのユニットは西口あかりの1人勝ち状態である。ちなみに「豆タンク」は僕が勝手に若菜がバブルスにいた頃から秘かにつけていたニックネームなので、誰も彼女が豆タンクなのは知りません。
3、「イントロ」AKI組
プチプリンやブラックベリーズやタイフーンjr.からの選抜。
4、「Our Relation」PHRASE
フレーズはチヒロをメインに据えてきた。顔の変わりやすい年頃だけに、今可愛くてもいつそうでなくなるか不明のあやうさがある。
5、「Final Fun-Boy」クランベリーズ
クランベリーズの新曲。フォルダー5の名曲がうまくはまった。オレンジ色のコスチュームもキュートだ。中山阿友メインの体制がうまく行ってると思う。
6、「ラブリーフレンドシップ」ペトラキッズ
安定感あり。そろそろ新曲を。
7、「カメレオン・アーミー」AKI&RISAKO
AKIの大人っぽいダンスに、ああ、めまいが。
8、「魔法のじゅうたんブットラソ」いちごっ娘&ブットラソ選抜
いちごっ娘はまるでハッピーサマーウェディングみたいな黄色の衣装。ブットラソ選抜はクランベリーズやフレーズからのメンバーが、以前のいちごっ娘衣装で共に踊る。
9、「運命」Qcu
ひさしぶりのQcu、ひさしぶりの「運命」(メロディーとかMTKでおなじみですが、Qcuのレパートリーとしても久々)
10、「ミッキーマウスマーチ」プリッツ&プチプリン&ミニミニclub
チャビーギャングの服を着るプチプリンの子、ミニミニclubオリジナルのシャツを着るミニミニclubの子。
11、「イントロ」NAO組
曲はケミカルブラザーズだった。NAO組にはいちごっ娘とか、AKIがいる。AKI組でなく、NAO組にAKIがいるのが面白い。
12、「can’t be stopped」ブラックベリーズ
新曲。池真衣、三木幸美を2トップにしている。歌の池真衣、ダンスの三木幸美、という色分けがはっきり出た。僕のイチ押しは野間佳代で、何も考えていなさそうに楽しく踊りまくる姿は見ていて痛快だ。
13、「Boys」ミニバブ
いつものチアダンスで、僕は大好きな宮之前綾乃ばかり見ていたので、なかなかわからなかったが、メンバー変わった?いつもいるはずのあの子もあの子も見当たらないよー。
14、「Faraway」TOUCH
中堅の風格さえ出てきた。イチ押しの伊藤貴恵も可愛さ健在だ。
15、「IF YOU WERE HERE」TOUCH & Friends
そのままステージに残ったTOUCHと、AKI&RISAKO、フレーズ、いちごっ娘からメンバー選抜でキレのいいダンスを披露。
16、「ちょっとだけMY LOVE」ミューズ
イベントで行けなかった前回のアンケートで1位だったミューズがトリをとる。登場するなり鳥肌が立った。なんなんだ、このオーラは!しょっちゅう見ているはずだったのに、創叡の中では頭1つ抜けたか。
プログラムには以上16曲が書いてあったが、これでは足りないと判断したのか、急遽アンコールというか、おまけで3曲。
「can’t be stopped」ブラックベリーズ
「ニセモノダイヤモンド」ミューズ
「Final Fun-Boy」クランベリーズ
全国的に売り出し中のミューズと、今回新曲を披露したブラックベリーズとクランベリーズという今回のライブでの事実上トップ3が歌ったことになる。でも、僕が今回のアンケートで書いたベスト3は、この3組ではない。
明日も湊町でライブだが、僕は遥か東京でライブだ。

「出没アド街ック天国」で秋葉原を特集していた。あまり魅力を感じなかったのは、マヒしているせいか。本当の良さが見えてこない番組だ。
昨日に続いて格闘技観戦。と言っても「女子レスリングワールドカップ」。いくら見ていても相手を半殺しにしてしまうシーンは出て来ない。
台風番組の影響で、シャラポワの試合は深夜番組になった。録画したので、後日見るか。
今日からはじまったアニメ「月詠」は渋谷系ロリータ吸血鬼もの。1回目を見ただけでは、面白いのかどうか判断できない。
「魔法少女リリカルなのは」は第2回。ストーリーはわかりやすいのだが、次も絶対見なくちゃ、という気にならない。まだゲームをはじめたばっかりで、ルールとかをうろ覚えで1つ1つ確かめながら遊んでいるような感じ。
一方、「ガンダムSEEDデスティニー」は見逃した。ケチがついたので、もう見ない。
体調も悪く、お金も底をついたので、閉館まで図書館にいた後は、家で録画しておいたビデオを見て過ごした。帰り道で傘もろとも飛ばされそうになった。危ない、危ない。
まずはパンクラス9月24日後楽園ホール。謙吾がアレックス・ロバーツに負けた試合(謙吾には何も期待していない。何かハッとさせる試合でもしてみろ)、北岡悟がヒース・シムズと引き分けた試合(これ、北岡の完敗じゃないのか?本人も引き分け判定にびっくりしてたぞ)くらいが印象に残った。パンクラスの選手というと、プライドなどに出場しては破れて帰ってくる「負け役」みたいな印象がある。ジョシュ・バーネットはそのジンクスを破ることが出来るのか?
次は全日本キックボクシング9月23日後楽園ホール。面白かったのは、ヘビー級王者の西田和嗣が掣圏武芸トーナメント王者桜木裕司に負けた試合だ。お互い闘いきった、という清清しさがある。メインの試合で快勝した白鳥忍(モンゴル)には、K1に出てもらい、その実力を試してきてもらいたい。

人間講座の10月〜11月のラインナップはどれも面白そうだ。
月曜は安野光雅の「絵とイマジネーション」学生時代はよく安野光雅の本を読んでいた。15年くらいは彼の世界からは離れていたので、懐かしい一方、今は彼がどんな位置にいるのかを確認したい。
火曜は最上敏樹の「いま平和とは〜新しい戦争の時代に考える」何か刺激的な視点を出してくれるか期待。
水曜は米長邦雄の「大局を観る〜米長流将棋と人生」これは1回目からすごかった。僕は囲碁にもチェスにもマージャンにも興味が湧かないが、将棋は大好きだ。米長永世棋聖は1回目の放送で、将棋が他のゲームと何が違うのかを説明してくれる。テレビ見ていて「おおーっ!」と何度も感心した。その内の1つを書き留めておこう。メモメモ。戦後、占領軍が将棋指しの升田幸三に対して、次のように言った。「チェスにはキングもいるが、クイーンもいる。それに比べて、将棋は王しかいなくて殺伐としているじゃないか」それに答えて升田幸三は、どう切り返したか。見逃した人は再放送で確認を。将棋のルールでは取った駒を自分の手駒として使うことができる。それに戦争捕虜の問題を絡めて、「将棋流の考えでは、捕虜をコキ使っても平気だということになるな」と揶揄されて、升田幸三はどう切り返したか。未見の人は再放送で。

ABC朝日放送で「ハロプロやねん」の2回目。メロン記念日が進行する。柴田の声はガラガラ。27日発売の「シャンパンの恋」と「スキップ」がかかる。料理が下手そうなハロプロメンバーは、平べったい玉子焼きしか作れない村田は当たり前すぎるということで除外の後、紆余曲折を経た後、料理をしそうにない人ということで、チャーミーに決定。

本当ならもっと本を読むかビデオで映画でも見たかったのだが、睡眠不足のうえ風邪薬が効いてきた。外は大雨っぽい。今日は3時で早くもダウンだ。
バーバラ・マリア・スタフォードの『アートフル・サイエンス』を読んだ。サブタイトルに「啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育」とあるように、18世紀西洋での啓蒙時代から現代にわたるビジュアルの毀誉褒貶を描いている。視覚に訴える方法は、わかりやすいが、一方で、それゆえの浅さ、軽さ、いかがわしさを孕んでいる。難しい文章を読むよりも、映像で見る方がはるかに頭に入ってくる。しかし、無学な人間をだますのに、ビジュアルは絶大な力を持つ。啓蒙とぺてんは地続きなのだ。ビジュアルのぺてん、とは、東方の妖術を指しており、西洋にとっては東洋は邪教の蛮族が住む土地なのだ。
現代、自分自身にとじこもってしまいがちな知の世界をなんとか開かれたものにするには、19世紀のテクスト至上主義では埒があかない。それよりも18世紀、ビジュアルを使って娯楽を加えた教育の方法こそが有効なのではないか、と、スタフォードは主張しているようだ。
そんな主張は、僕にとってどうでもいい。
この本は啓蒙時代のビジュアルの数々、鏡にレンズ、ボーガンソンのアヒルからファンタスマゴリア、博物学等々が面白くてたまらない。それが単なるカタログには終わらず、オリエンタリズムと、フェミニズムにからんで、未来につなげられているのだ。

うーむ。風邪のせいにしておこう。まったく頭が回っていない文章だ。風邪薬のせいだろうか。

蜷川実花が撮った栗山千明の写真集『プリンセス』が楽しかった。
シンデレラや赤ずきんに扮する栗山千明。
こんなレベルでコスプレされたら、オタクたちはひれ伏すしかないのでは。
20才記念とか(そう言わず、いつでも冒険してください)
「こわい」イメージを崩したいとか(バトルロワイヤルで「きんたま!」と言ったり、GOGO夕張がはまりすぎてたりするからねー。今度のあずみにしろ、殺し屋がよく似合うその「こわさ」は武器です)
可愛いこと言うじゃないか!
誕生日の10月10日は、高円寺で祝ってあげるよ!
BSで放送していた「六月の夜」を見た。
ベル・リンド・ベルイ監督。これもまたスウェーデン時代のイングリッド・バーグマン主演。痴情のもつれの刃傷沙汰で男に撃たれた女(バーグマン)。人生をやりなおそうと、違う名前で違う土地に行くが、撃った男は刑務所を出て追ってくるし、センセーショナルな事件をスクープしたい記者はバーグマンの素性をあばくし、会う男がみんなバーグマンに色目を使ってくるし、休まる暇がない。結局、友人の彼氏とアバンチュールの旅に出てしまう。
バーグマンは自分がひとりぼっちだと孤独を嘆くが、男も女もみんなバーグマンが好きで、新聞記事をボツにしたり、バーグマンを助けに駆け付けたりしてくれる。これで「ひとりぼっち」だなんて言うのはどう考えても心得違いだと思う。
この映画を見て思ったのは、女性はきっとバーグマンに辛い点をつけるんじゃないか、と言うことだ。だって、仲良しの友人の彼氏と旅に出て、友人はふられちゃうのだ。友人はバーグマンの力になってあげることはあったが、悪いことは何もしていない。しかし、よく考えてみると、バーグマンは自らだれも誘惑していない。男たちがかってにバーグマンの魅力にとりつかれて、バーグマンに強引にアタックしている。バーグマンはとことん巻き込まれているだけなのだ。バーグマンのその優柔不断さ、弱さは叱責されてしかるべきだが、それよりも、まわりの男の情けなさを責めるべきなのだ。つきあっている男が肉体関係をせまるとそれを拒み「愛してほしいだけなのに、からだが目当てだったんだわ!」なんて泣く女なんて、不幸になっても当然、それよりも運命を受け入れるかのように男に引っ張られていくバーグマンに幸せが訪れてもかまわないんじゃないか、と思う。1940年の男女では、まだこんなに旧弊な考えに縛られていたのか、と思うと、それを破るバーグマンがますます魅力的に見えてくる。

大河津くんに借りている本、今野緒雪の『マリア様がみてる』を読んだ。1冊目だ。この後18冊ほどこの世界に浸れるかと思うと、わくわくする。
現代の話とは思えない設定だが、ぼくが女子学園に勤めていた10年前には、あり得る世界だった。今では女子学園そのものがすっかり無用な存在だし、キリスト教が世界の厄病神なのもブッシュ大統領のおかげでばれてしまった。貞操には意味がなく、気品は弱さの代名詞になった。よっぽど時代遅れで頭のかたい田舎者でもないかぎり、このような女子学園に価値を認めないだろう。つまり私立リリアン女学園は実際にはありえないユートピアなのだ。リリアン女学園にくらべれば、まだクロマティ高校の方がリアリティがある。ユートピアの物語だから、『マリア様がみてる』シリーズはSFなのだ。ほとんどSFを読んだことのない僕は、やっとここにSFを読むにいたったのである。1冊目の出来は、最高。アニメも見ていたが、小説の方が僕の感性にはあっているようだ。原作をこえる映像作品なんてめったにないけど。

秋の番組改編で新番組が続々と放送されている。いくつか見たうちで注目すべきは「スクールランブル」だった。エンディングを小倉優子が歌っている。かなり面白かったので、原作も読んでみよう。新番組ではないが、「少年チャンプル」でESSEの子たちがダンスを踊っていた。そのキレのいいダンスは賞賛すべきだが、目立ったのは、「レゲエダンス」という奴。洋楽のPVなどで見ていると違和感なかったのだが、日焼けが好き(=センス悪い)な日本人の女が踊るレゲエダンスは、ギャグにしか見えなかった。吉本新喜劇でタツじいがあんな風にこけてたなあ、とかいう印象。あれはみんなで笑うところですよね?
中山元の『ぼくと世界をつなぐ哲学』を読んだ。
目次に添って
「アイデンティティの迷宮」
ぼくという存在の唯一性を保証するはずのアイデンティティは、一見その唯一性をおびやかすかに見える分身、影、双子によって、閉じ込められる。仮の姿を想定することで、永遠なる本当の自分を明確に輪郭づけるからだ。
「記憶の思想史」
自分が次の瞬間も同一の自分であると言えるのは、記憶によるのか、それとも神によるのか。それとも、そんなことは言えないのか。
「言語と独我論」
世界が意味を持つのは、このぼくが体験するかぎりにおいてだけだ。ぼくが死ねば世界は意味を失う。ただし、他人の心はぼくには届かないところにあり、理解できない。
「言語の起源」
人間は生まれながらに言語能力を持っているのか、また、言語はその社会、民族に特有なものなのか。
「他者と相互承認」
他者からの承認によって、ぼくはぼくになる。
「他者の異貌」
他者は恐ろしき地獄なのかもしれない。しかし、他者によってはじめて、約束したぼくとそれを遂行したぼくが連続していることを証明してくれるのだ。
「共同体と友愛」
人間が複数いるとはどういうことか。群集は醜いが共同体や結社は望ましく思える。その違いは何か。
「共同体の内と外から」
ぼくは共同体無しでは存在できない。では共同体に常に縛られたままなのか。ぼくの唯一性はいったいどこに。
えらいこっちゃ。目次に添って内容を要約しようと思っていたのに、全然要約になってない。
自分の殻という小さな世界から、世界によって居場所を確保し、さらに先へと進む自分への論旨の進行が、ギリシア哲学、デカルトからデリダやレヴィナス等20世紀の哲学へのページ進行に対応しているようだ。
あいにくと風邪がひどくて頭が働かない。
自意識過剰でひきこもり気味のいわゆる「セカイ系」がこだわる「ぼく」なんて、ちょっと哲学を読めば、その何倍も深い考察と新たな視点と反論が転がっているのだと思う。哲学を読むことで世界をこむずかしく考え、暗い思考に陥るのは、その論旨を理解できていないがゆえである。哲学って、とても明晰なのだ。読めば読むほど明るくなってくる。
この本は哲学クロニクルの中山元氏によるざっとした哲学史で、読書案内としても役立つ。読みたい本が何冊も出て来たし。(あまり哲学の本を読んでいないことがバレバレだ)中山元氏のメールマガジンを購読しているが、最近とんと御無沙汰なのが寂しい。本を書くために、メールマガジンやホームページが滞っていると思われるが、せめて本を出したときにその宣伝だけでも送ってほしい。
数日前から風邪をひいており、心身の消耗が激しい。鼻はすっかり壊滅状態、喉は荒れ放題。今の僕の身体はまるでアフガニスタンだ。こんな日は日記もダラダラ長くなる。
深夜放送のラジオげんしけんで、テレビアニメ主題歌を聞く。日本ブレイク工業の社歌作った萬Zによるオイパンクだった。UNDER17は解散しちゃうみたいだけど、クアトロ見に行くだけの持ち合わせがないなあ。
おとなしく寝ていてはつまらないので、日本橋を巡回。
今キャンペーン中の杏仁娘のマックシェイクは、ロッテリアの小梅ちゃんシェーキに似ていた。
ウェンディーズのキッズミールは今、ガーフィールドがついてくるが、その紙袋に書いてあるクイズはとうていキッズには解けないと思った(英語で書いてあるので)。でも、最近の小学生は英語ペラペラなんだろうか。
いくつかの店をまわったが、でんぢゃらすじーさんのカードが見つからなかった。確かに電車にも乗れない役たたずのカードだが、置いていないとはどういうことだ。
昨日ゲーマーズなんば店に谷川流氏が来て、サイン会をしていた。僕はそっちに寄れなかったので、『涼宮ハルヒの暴走』のサイン本でも置いていないかと行ってみたが、そんなものはなかった。信長書店とはわけが違うのだ。

BSで放送していたスウェーデン映画「間奏曲」(1936年)を見た。グスタフ・モランデル監督。この映画でイングリッド・バーグマンは一躍スタ−になった。
ストーリーはと言うと、妻子持ちのバイオリニストが若い女性(これがバーグマン)と恋仲になり、家庭を捨てる。しかし、結局離婚もせずにずるずるしている男の姿を見て、バーグマンは「この人の人生にとって、私は間奏曲なんだ」と悟り、別れる。男はあっさり家庭に戻る。家族は許してくれる。
どこかで聞いたようなよくある話だが、このバイオリン弾きがなぜ結局家庭に迎え入れられて、何事もなかったかのように罪を許されるのか、僕には合点がいかない。
結婚して子供まで作る、ということは、不倫をすればそれが不幸になり、地獄に落ちる覚悟を持つということなのである。この妻子持ちのバイオリン弾きは、地獄の火炎に焼かれ、看護婦に毎日生爪を1枚ずつ剥がされればいいのだ。
情けないバイオリン男に比べて、バーグマンの方はと言うと、もともと妻子ある男性に恋をすること自体が大馬鹿以外のなにものでもなく、一生苦しんで生きろと言いたいところだが、自ら身をひいて自分の人生を歩きだそうとすることで、救われている。それに、この映画でのバーグマンの美しさったらない。美は誰にも何にも似ていないところに生まれるものなのだろう。既にある美しさ、レールに敷かれた美しさ、「男って、こういうのが好きなんでしょ」的な美しさに粧うのは、しょせんニセモノで、性欲を抑えられない中学生ならいざ知らず、成人男性がだまされるものではない。バーグマンと、バイオリニストの妻役の女性がその差を歴然とあらわす証拠物件である。このニセモノの美は、つまり、美しくはない人がせいいっぱい美しくなろうとする健気な努力ととれないこともない。僕は偏見からか、声優やネットアイドルに、この必死系美人を感じてしまう。かと言って必死系が嫌いじゃないのが厄介なところだ。

今日はあと、S-CUPトーナメント(アンディ・サワー優勝)を見た。
そして「漫画映画の世界」と題する戦前、戦中、戦後まもなくの日本の漫画映画短編集をケーブルテレビで見たりした。放送されたのは「動絵狐狸達引」「オモチャ箱シリーズ第3話」「協力防空戦」「古池絵巻蛙と狐」「トラちゃんのカンカン虫」「ポン助の腕くらべ」の6話。ろくすっぽ今のアニメも見ずに、こんな古臭いものばかり触手が動くのだ。「オモチャ箱シリーズ第3話」は、島に攻め入ったミッキーマウス似の悪人たちを、日本の昔話の登場人物たちが力をあわせて退治するストーリー。戦勝祝いに花咲か爺さんが咲かせた満開の桜の下でみんなが東京音頭を踊る。「協力防空戦」は3種類の焼夷弾について解説しており、勉強になった。(油脂焼夷弾、エレクトロン焼夷弾、黄燐焼夷弾)

録画しておいた「ウルトラマンネクサス」「ジャスティライザー」「神無月の巫女」のそれぞれ第1回等を見た。「漫画映画の世界」とは全然違う、別世界だった。「神無月の巫女」は、「マリア様がみてる」みたいな出だしだった。10年以上女子学園で勤務した経験から言うと、こういう学校のお嬢様世界、驚くべきことに、まだ実在するのである。「マリア様がみてる」とは違って、「神無月の巫女」は巨大ロボットものだが。そして、10年以上女子学園で勤務した経験から言うと、こういう巨大ロボ世界、どうやら実在しないようだ。展開が無茶苦茶な話っぽいので、要チェックだ。

鶴岡法斎くんの『マンガロン』を読み終えた。70年代生まれの漫画体験から好きな漫画について語っている。面白い。僕が小中学生の頃好きで読んでいた漫画って、冒険ダン吉とか、コグマノコロスケとか、のらくろ、あとは貸本の「影」シリーズとか、台風五郎、K元美津とかだったなあ、と思うと、世代ってあるんだなあ、と思う。僕は中学生の頃から古本屋で漫画買って読んでいたので、ラインナップが古いのだ。
国立民族学博物館に行き、みんぱく映画会「21世紀のアラビアンナイト」を見て来た。
特別展「アラビアンナイト大博覧会」関連のイベントで、第一部はCGアニメ「ヤング・シェヘラザード」(18分)の上映と、その原作(?)のモンキー・パンチ氏と脚本、監督のおおすみ正秋氏を招き、民博研究戦略センターの西尾哲夫助教授が司会をつとめた。
「ヤング・シェヘラザード」は「黒檀の馬の物語」をモチーフとしたもので、シェヘラザードが千夜一夜にわたって語りはじめる以前の物語として描かれている。このアニメは特別展で毎日上映されているので、また来月にでも行ってもう1回くらい見ようかな、と思っている。おおすみ正秋監督はアラビアンナイトの世界はセルアニメでは質感が出ないので、作るならCGアニメにしたかったと述べていた。しかし、ピクサーでも「トイストーリー」や「バグズライフ」を代表とした「表面が硬いもの」を選んで描いていることからわかるように、生地、ふわふわしたものの表現は一苦労だったと苦心談も。
モンキ−・パンチ氏はできるだけ原作に近い作品を描こうと心がけていたが、イスラムをいかにして描くかについて四苦八苦したと、これも苦心談。
上映後の質疑応答では、なぜかルパン3世に関する質問がされていた。おおすみ正秋監督はテレビの「ルパン3世」の第1シリーズを作った人なのだ。
そこでわかったのは、モンキー・パンチ氏はやはり原作に近いテイストでルパンを描いてほしいと要望を出し、それをおおすみ監督は極力かなえて行ったそうだ。最初のシリーズが終わり、いわゆる「新ルパン」になってからは視聴者の年齢層にあわせたい局の意向により、ルパンのハードボイルドさがなくなってしまった。おおすみ監督に至っては、「新ルパン」には興味もなく、見ていないと言っていた。
そして、「ルパン3世のジャケットの色が第1シリーズでは緑なのに、なぜ新ルパンから赤色になったのか」についても語っていた。原作は紙印刷で、黒と赤しか使えなかったから赤にした、とモンキー・パンチ氏は述べ、テレビのブラウン管では赤色がにじみやすいので緑色にしてもいいかとおおすみ監督から打診され、決めたとのこと。あと、泥棒が赤色の目立つジャケット着るのも不自然なので、赤を避けたということだ。トリビアや1行知識でよく取り沙汰される「スポンサーの浅田飴のカラー、緑色を使った」という見解については、「そんなこと考えたこともなかった」と一笑に付していた。誰が言い出したことなんだろう。
さて、上映会第2部はルードウィッヒ・ベルガー、マイケル・パウエル、ティム・フェーラン3人の監督による「バグダッドの盗賊」(1940年)が上映された。監督は3人だが、話は長篇1本だ。ダグラス・フェアバンクスの同名映画もアラビアンナイトを題材にしているが、話に直接つながりはないらしい。この1940年版の「バグダッドの盗賊」はアカデミーカラー撮影賞、美術賞、特殊技術賞、音響効果賞を受賞している。
空飛ぶじゅうたん、封印されていた大魔神と3つの願い、空駆ける機会仕掛けの馬、からくりで殺人を犯す女神像、魔法の数々、予言などなど、ファンタスティックな世界が展開される。主人公の若きア−マド王、恋する姫、純真なちびっこ泥棒もいい味出しているが、何といってもこの映画は邪悪なジャファーを演じたコンラート・ファイトがすごい。コンラート・ファイトはドイツの名優で、「旅愁」「会議は踊る」「カサブランカ」「笑う男」などに出演している。
映画会は楽しかったが、肝心の「アラビアンナイト大博覧会」を見る時間がなかった。これは、もう1回足を運ばねばなるまい。

今日読んだ本は、嶽本野ばら君の『カルプス・アルピス』。
内容はいつものように、精神的に問題を抱えている女性と、同じく精神の弱い男性の話。主人公の男性はいつも最悪の選択をしてしまい、状況を悪化させまくり、それによるカタストロフとカタルシスによってどうにか物語に決着をつける。野ばら君本人は感情に流されてしまうような自分を論理によって操作できる人だ。作中の主人公がとる行動について「こんなことをしても何の解決にもならないことはわかっているのです」とか、冷静に判断しており、作品で主人公に愚行を演じさせることで、私生活を救っている風情すらある。
また、この作品が連載だったこともあって、章ごとの展開で、「あ、先月は野ばら君、調子悪かったな」とか「おや、何だか今月はスムーズにものを考えられているじゃないか」と、占うこともできて、面白かった。
この本はちょうど1年前に出版されており、読むのなら「来年の今月今夜」と決めていたのだ。10月3日はこの本の装画、田仲容子さんの命日なのだ。田仲さんとは、一緒に「アケボノ」という芸術集団を作って、大阪をカイワレダイコンの森にする「緑化計画」、法善寺の水掛け不動尊の苔を落としてピカピカにする「勝手にお身ぬぐい」など、結局は実行しなかった計画をいっぱいたてていたのだ。形になったのは、繁昌花形本舗から出た僕の「保山宗明王ボックス」(僕が作った経典のコピーと、カセットテープなどを詰め合わせにしたもの)でビジュアルを担当してもらったくらいだ。この『カルプス・アルピス』でも最終章で田仲さんのことが書かれている。読んでも、それが僕の知っている田仲さんとはなかなか重ならないのには驚いた。
田仲さん、本当に死んだの?
このblog読んだら連絡ください。
今日は西宮大谷記念美術館で藤本由紀夫さんの「美術館の遠足」がある。
でも、西宮に往復するだけの持ち合わせがなかった。
予定を変更して、大阪歴史博物館に行き、特別展「生人形と松本喜三郎」を見に行くことにした。
生人形というと、リアルな人形で、イメージとしては等身大のもののことを指すのかと思っていたが、この展覧会を見るかぎり、必ずしもそうではないようだ。手のひらに乗るような大きさの「泣く児」なんていう作品もあった(二代目平田郷陽)。もっとも、それは「生人形」とは別に呼ばれなかった可能性もある。
松本喜三郎は熊本出身だが、難波新地で「生人形松本喜三郎一座」で活躍、浅草や関西地方を巡業したという。東京大学医学部(当時は大学東校)の依頼で人体模型を作り、義足も日本人ではじめて作った。
この展覧会では、生人形の代名詞たる松本喜三郎の作品と、ライバル安本亀八、弟子や影響を受けた人たちの作品が展示されていた。
生首がずらりと並ぶさまは、江戸川乱歩の「白昼夢」的世界に片足突っ込んだ感覚を覚えた。また、鼠屋伝吉の「農夫、農婦全身像」は、おっさんとおばはんのリアルな等身大全裸像で、そのただ呆然と立ち尽くしている姿は衝撃的だ。
松本喜三郎の作品で感心したのは、そのリアルな人形ではなく、「須弥視実等象儀」と題する、仏教的天動説の模型だった。
ポスターにもなっていた谷汲観音像の前には、お賽銭が山と積まれていた。そんな無駄金があるなら、僕に恵んでくれ、と思い、観音像と同じポーズをとって立っていたが、誰も賽銭をくれなかった。

今日見た映画は録画しておいた内出好吉監督「柳生武芸帳・剣豪乱れ雲」(1963年)だ。
柳生武芸帳とは、豊臣の残党と手を組もうとした公家を殺した犯人たちを記した文書である。家康の命令により、柳生家の者が手を下したのだ。
この映画の見どころは、近衛十四郎演じる柳生十兵衛が無刀どりの極意をつかむことにある。山形勲演じる浮月斎はかつて柳生石舟斎の刀を折ったことのある剣豪で、十兵衛との一騎討ちシーンは迫力だ。いきなり嵐になって雷が落ちるほどのすごさなのだ。
この映画には、チャンバラトリオの南方英二が出ていることが配役の画面からわかったので目をこらして見ていたが、特定できなかった。おそらく、柳生武芸帳を狙って藤純子演じる佐々木とよの屋敷に押し入った3人(トリオ!)のうちの1人だと思うが、はっきりしない。なぜなら、その一味たちがアジトに戻ると、同じようなメイクをしている人物が大勢いて、あれ、間違ったかな、と思えてきたからだ。

夜になり、BEARSに行って、ACE、自分BOX with ララボンゴ、ファンクラブ・オーケストラ・ジャパン、HELICOID0222MBを見た。
ガンジーや須原くんや竹内くんに会い、きわめてベアーズ的空気。
ファンクラブ・オーケストラ・ジャパンはゲームボーイを使って演奏していた。ACEを見ているときに、「あっ、いいこと思い付いた。次のライブではゲームボーイを使おう」と思っていた矢先、先にやられてしまった。僕がやるよりも遥かに音楽的だったので、先にやってもらってよかった。
人間椅子の15周年アルバム「三悪道中膝栗毛」を聞いた。
ドラムがドミンゴスのナカジマノブに変わった。あまり従来のアルバムと変わったところもなく、15周年としての特別の趣向もないようだったが、まあ、こういうのは様式美ですから。

録画しておいたサイレント映画「ファントマの偽判事」を見た。1914年のフランス映画、ルイ・フイヤード監督。脱獄した悪党、ファントマが判事に化けてやりたい放題。最初の脱獄は、ファントマ一味を装って、警察がファントマを逃がす。これはベルギーでつかまったファントマをいったん逃がして、泳がせてフランスでまた捕まえるのが目的なのだ。脱獄したファントマには当然、尾行がつくのだが、あっさりファントマは尾行をまいて、判事になりすます。最終的に判事の変装がバレて逮捕されるのだが、判事になりすましている時に「逮捕されたのは本物の判事なので、解放してやれ。これは秘密の任務だ」と命令されていた警察の人間によってまたもや自由の身になっちゃう。ミステリーなのに、コメディみたいだ。
BSではこのファントマのシリーズを5話放送していたが、初日は東京から大阪に向かうバスの中にいたため、2本録画しそこなっている。再放送しないかなあ。
ちなみにルイ・フイヤード監督は1924年の最後の作品まで、短編が大半ではあるが700本以上作ったらしい!1925年2月に52才の誕生日を迎えた1週間後に死んでいるので、現役バリバリのときに死んでしまったと思われる。
ジョルジュ・フランジュ監督の「ジュデックス」(1963年)の脚本家ジャック・シャンプルーはルイ・フイヤードの孫にあたる。ジュデックスは犬を操る正義の味方。ルイ・フイヤード自身、1916年から「ジュデックス」のシリーズを撮っており、63年の「ジュデックス」はこの作品へのオマージュなのだ。ジャック・シャンブルーの他の脚本作品にはオマー・シャリフ主演の「ミステリ−島探検/地底人間の謎」がある。この原作はジュール・ヴェルヌの「神秘の島」で、レイ・ハリーハウゼンの「SF巨大生物の島」と同じ原作になる。また、ジャック・シャンプルーは「シャドウマン」の脚本、出演もしており、とことん活劇の血筋と知れる。なお、「ファントマ」以外でルイ・フイヤードの代表作というと「吸血ギャング団」シリーズだと思うが、この作品の女主人公こそ、イルマ・ヴェップなのだ。(あの、マギー・チャン主演「イルマ・ヴェップ」の!イルマ・ヴェップは原題「ヴァンパイア」のアナグラムで、オリジナルのイルマ・ヴェップは元ダンサーのミュジドラが演じた)あと、ミステリー活劇ではないが、ベベという子供が活躍する映画を山ほど撮っているので、特集上映でもしてくれないかなあ。

ABCラジオの新番組「ハロプロやねん」を聞いた。
以前、期間限定の特別番組で放送されていたものが、ついにレギュラー番組になったのだ。1回目はメロン記念日が担当。柴田あゆみの声がガラガラだー!メロン記念日の選ぶ「ハロプロで一番落ち着きのない人」はリーダーの斎藤瞳をおさえて辻希美が選ばれた。ひとりではいられないタイプなんだって。辻ちゃんは!後藤真希のメッセージとともに後浦なつみの「恋愛戦隊シツレンジャー」がかかる。また、サイン入りポラロイドプレゼントのクイズがあった。次回登場するのは果たして誰?

熊の場所

2004年9月30日 読書
舞城王太郎の『熊の場所』を読んだ。
新刊でもないし、人気の作家でもあるので、あえてここで感想を残すつもりなどなかったのだが、書くことにする。3つの短編が収録されているのだが、3つめの書き下ろし作「ピコーン」が矢鱈に面白かったのだ。
表題の「熊の場所」とは、恐怖に対処するには、その恐怖の原因に立ち戻らねばならない、ということ。神社の裏でリンチされた人は、恐怖のあまり一生神社の裏には行けないだろう。しかし、リンチされた直後に、自ら神社の裏に出かけていけば、その恐怖は形を変えるのだ。神社の裏を脱構築するといってもいいだろう。なぜ作中では熊に襲われた場所のことを例にひいているのに、「神社の裏」などと中途半端なたとえを僕が持ち出したかというと、僕にとっての「熊の場所」が「神社の裏」だったからである。もちろん僕は神社の裏をすぐに脱構築した。作中、猫のしっぽを集めている少年が出てくるが、猫は頭も可愛いのだ。コレクションするなら、猫の頭かな。
次の「バット男」は、弱いところを見つけて発散する今の世相を描いている。恋愛における男女のすれ違いもわかりやすい。カップルはみんなバカップルなのだ。
この2つの話を読むかぎり、舞城の作品を純文学として売りたい気持ちもよくわかる。老人にも理解できる世界だからだ。
さて、最後の「ピコーン」、これは面白かった。男が残虐な殺され方をする。それは推理小説でいう見立て殺人が行われたからなのだが、ミステリーの要素が入ったことで、純文学を一歩越えた優れた作品になっているのだ。人間の心理や感情をそのまま饒舌に書いていても、しょせんは純文学にしかならない。きっと舞城は最初の2編で老人や頭の固い読者向けに、純文学を書いてあげたのだ。だから、読者は最後の「ピコーン」だけ読んで、楽しめばいいのかもしれない。
「ピコーン」でわかるように、男ってフェラチオが大好きなんだなあ、と思い知った。ラスト3ページではフェラチオの素晴らしさに思わず落涙したくらいだ。
フェラチオ万歳!
ビバ!フェラチオ!

挑発する知

2004年9月29日 読書
姜尚中と宮台真司によるトークセッションを収めた『挑発する知』を読んだ。
1年前の本で、出版当初から読みたくてしかたがなかったのだが、やっと読むことができた。テーマは「ナショナリズムをどう評価するか」で、目次を見ると「戦争と暴力」「非暴力の社会はありえるのか」「右翼と左翼」「国家を考える」「丸山眞男からアジア主義へ」「メディアと正義」「知識人を考える」と、興味深い項目が並んでいる。興味深すぎて、読み終えたはずなのに、「へーえ、何が書いてあるんだろう?」と今思ったくらいだ。
1年前の話題のはずなのだが、イラク戦争の正当性の無さ、アメリカべったりの日本政府、北朝鮮に対する外交の失敗など、今にいたるも何の進展もない事柄が多くて、今現在の話としてじゅうぶんに読める。いまだにイラク戦争は正当だったなんて考える人は皆無だろう(たとえ大量破壊兵器が発見されたとしても、だ)。北朝鮮の脅威などという妄言を信じる頭カラッポの人も今は皆無だろう。(マスコミでは今なお北朝鮮がミサイルの準備をしているなどとヨタ話を流しているが、さすがにそれを鵜呑みにする人はいないだろう。一般大衆を馬鹿にするのもいいかげんにしろ、と言いたい)
この本の内容をひとことで言えば「ちょっと待て」だろう。マスコミが流している情報をそのまま信じて、周囲の風潮に感情的に同調していないか。物事はそんなに単純なのか。われわれはいっときの感情に流されて目を曇らされてはならないのだ。専門家の分析や見解を大衆にわかりやすく解説する「ミドルマン」としての知識人の役割が語られる。
丸山眞男については、僕はまったく読んでいないので、これを機会に挑戦してみよう。2年くらい前から、「今年こそ丸山眞男全集を読もう」と決意しては、1行も読まずに過ごしている。丸山眞男なんて今さら古い、という声もあるだろうが、それをこの本を読んだ後に言うのは、相当に勇気がいる。本書の中で、そんなことは承知の上で、現代日本ではまだ丸山的な課題をクリアされていないことが説かれているからだ。全然丸山を読んでいない僕にとって「丸山的課題」とは、とにかく丸山を読むことだ。たしかにまだクリアされていない課題に違いない。
宮台真司と言えば、「朝まで生テレビ」で最近見たときに、他のパネラーにやりこめられている姿を見て、「ああ、討論では誰にも負けないと豪語していたのに」と意外な思いをしたものだ。丸くなった?
『松本恵子探偵小説選』を読んだ。
松本恵子は探偵小説作家の松本泰の妻。1891年生まれ。ディケンズやクリスティーの翻訳で有名だが、この本には創作短編とマッカレーの翻訳や、短い随筆などが収められている。
創作部門について、簡単に感想を書いておこう。例によってネタバレするので、未読の人はここまで。
「皮剥獄門」顔のない死体の珍しいバージョン。真犯人をあぶりだすために、大岡越前守が他の囚人の死体を利用する。
「真珠の首飾り」会社の金の使い込みと真珠の首飾り。ありがちな勘違い。
「白い手」電車内のスリの動機が、痴漢への仕返し。女性らしい発想に思えるが、常日頃から僕は痴漢を極刑に処すべき3大犯罪の1つだと思っている。(あとの2つは万引きと駐車違反)
「万年筆の由来」看板娘目当てに通っていただけなのに、裏で賭博をしていたタバコ屋は主人公を刑事と勘違いする。
「手」轢死体の手を見て、死体の素性に疑問を抱く画家。彼は手にも顔同様の個性を見てとっていたのだ。はたして死体の正体はまったくの別人。別に殺人を犯していた犯人が、轢死者を被害者と認定し、被害者もろとも土葬するもくろみだったのだ。
「無生物がものを云ふとき」現場に落ちていたビラ(生きているときにビラが入っていたら、被害者は必ずそのままにせず机の上に置いていたはず)など、証拠をもとに冤罪をはらす。
「赤い帽子」赤い帽子でモダンガールに変装し、軟派の男を釣ってお灸をすえる。
「子供の日記」ママが毒で死んだのは、ママが殺そうとして毒を仕込んだ箸を、子供が取り替えたため。毒の赤いしるしを綺麗なしるしだと思い、気をきかせてママの箸と交換したのだ。
「雨」男は事件の発見者ではなく、犯人だった。外を歩いてきたなら、雨で靴が濡れていたはずだから。
「黒い靴」万事に常識的な許嫁がふられる。
「ユダの歎き」現世の成功しか考えられないユダは、イエスなら簡単に奇跡で逆襲できると信じて、イエスを裏切る。
地下鉄サムというと、文庫の中でもかなり薄っぺらい方だったので、小学生時代に、僕の本棚に並んでいた。たしか読んだはずなのだが、今から考えるとあの軽妙洒脱なコントを小学生の僕が理解できていたはずがない。読み返したくても、蔵書はほとんど処分した後だ。あたりまえのことだが、捨てることで失うものは大きい。特に精神的なダメージは甚大だ。いつでも図書館や書店などで入手して読み直すことができる、と自分に言い聞かせて捨てたのだが、いったん手放した本はなかなか再会できないことを思い知らされる昨今だ。
こうしてマッカレーの作品を現在読むと、そんなことをつらつら考えた。
捨てたり、処分したりするのは、少なくとも文化的な行為ではないのだ。ビジネス本しか読まない場合は、捨てても支障はないが、ビジネス書やハウツー本はそれ自体、文化的ではないからね。
大阪へ昼バスに乗って帰る。
東京で行った店は中野ブロードウェイのタコシェとかまんだらけとか諸々と渋谷109-2のエンジェルブルー、メゾピアノ、コスメティックパーラー、ジューシープリンセス。109-2のは全部ナルミヤだ。コスメティックパーラーは近鉄あべの店にも出来たばっかり。ジューシープリンセスは神戸阪急にできたばっかり。
お金がないので、何も買わず。

バスの中で読んだ本は谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』だ。この夏に4冊めが出たシリーズものの第1作。これが滅法面白かった。
涼宮ハルヒは思い込んだら周囲の迷惑もかえりみずわがままを押し通す高校生。退屈な日常が嫌で、宇宙人やエスパーと出会って仲良くなり、一緒に遊びたいと強烈に願っている。同級生の僕(キョン)は、ハルヒのペースに乗せられて、学校にSOS団なるクラブを作らされる。「SOS」は「世界をおおいに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」の頭文字だ。活動内容は、休日に町に出てそんな不思議な存在を探すこと。1人しか部員がいない文芸部の部室を乗っ取り、超常的事件に出会うためには萌え要素のある美少女が必要だと言う理由で女の子が無理矢理部員にされたり、ハルヒやりたいほうだい。
本ばかり読んでいる文芸部員も勝手にSOS団の部員として数えられる始末。
と、まあ、ここまでは凡百の学園ものとたいして変わらないストーリーに思えるだろう。僕も決してこういう学園ものが嫌いじゃないので、気軽に読んでいた。ところが、途中からあれよあれよと言う間に、話のスケールが大きくなっていく。うわー、こんな大ネタ、ありかよー!とびっくりした。
ネタバレを平気で書くこのblogだが、この本だけは、実際に読んで、その破天荒さを味わってほしいと思った。
ただ、心配なのは、この本、この1作であまりにも壮大に完結しているので、いかにしてこのテンションというかレベルを保ったまま、シリーズ化可能なのか、ということだ。
2作めの『涼宮ハルヒの溜息』も府立図書館で借りていたので、早速読みはじめると、なんと、挿し絵があったであろうページがきれいに切り取られているではないか。挿し絵の裏はもちろん、本文が1ページ分あるのだ。そんな欠けたページが数ページあることが判明し、「こりゃ、読んでられない」と諦めた。図書館の本に線をひいたり、破ったりする奴は、死刑の上、さらし首にし、一族郎党もろとも切腹にすればいいのだ。

帰宅後、録画して見ていなかった「ミュージックステーション」とか「ポップジャム」とか。最近、全然映画を見ていないので、見たくてうずうずしてきた。

生誕12年祭

2004年9月26日 アイドル
今日は制服向上委員会の「生誕12年祭」
チラシを持参すれば無料招待の特典を利用して、入場した。
入場の際、橋本美香、吉田梢、河野伶奈が並んで、握手でお客さんを迎え入れる。
物販コーナーでは、今回は大バザール祭と称して、ビデオやパンフレットなど、グッズを安売りしていた。また、Ski基金の募金箱のところにずらっとメンバーが並び、100円以上寄付したお客さんに握手とかしていた。
開演前に流れていた音楽はモーツァルトのレクイエムで、リーダー伶奈の説明で「わたしたち制服向上委員会にぴったり」だと言っていたのが、意味深長だった。
以下、ライブの曲目リスト。括弧内はメインボーカル。
制服宣言(真冬)
恋のインビテーション(伶奈)
青春ラプソディー(新)(りりか)
ダイエット号にのって
涙のエンブレム(美香)
ここでメンバー全員登場して挨拶、最近感激したことを言いながら自己紹介。レッスン生の山中優莉菜ちゃんがやめてしまったとのこと。もともと制服ファッションショーのモデルとして応募してきた子なので、それが終わったら、いつやめてもおかしくなかったのだ。あと、山越千歌ちゃんが内耳性の病気でめまいがするとのことで、家を出ることもやっとの状態らしい。挨拶とMCには出てくるが、ライブには参加できないとのことだった。さらに高田唯ちゃんの両足がはげしい筋肉痛らしい。「未完のトップ」優莉菜、「精密機械」千歌、「IQアイドル」唯の故障は生誕祭の雲行きを怪しく感じさせる。
伶奈が「今日のライブはコーナーを少なくして、曲中心でいきます」と宣言し、客席からは拍手。曲に戻る。
きらめきの後で
さて、この1曲だけ歌って、早くもコーナー。制服向上委員会12年をふりかえるというテーマ。このコーナーの時間が長くて、伶奈の「曲中心」がボケだったことが判明する。
遠き山に日は落ちて
旅愁
空に星があるように(ここからアコースティックコーナー)
風に吹かれて
アライブ
言えない気持ち(真冬。真冬作詞の新曲で作曲はパンタ)
ちょうちょ
オクトパスガーデン(りりか日本語詞)
ここで休憩。
ワルツ・フォー・バレリーナ(美香)
何かのために(なんと、この曲、出だしを失敗して、最初からやり直した!)
ラブ
ここでゲストコーナー。4期生の伊藤嘉代子ちゃんが登場。プロダクションに入り、今後女優として頑張っていくらしい。(ノーリーズンプラネットという事務所で、芸名は暁麻衣)
「ごっつ」こと石澤綾乃ちゃん登場。お客さんとして来たのにステージに突然上がらされた。
月蝕歌劇団から高取英氏と一ノ瀬めぐみさん。「ステーシー」の一場面を寸劇で。
約束(真冬)
遥かなる想い(美香)
ミステリアスな夜(梢)
とってもいっぱい(真冬、りりか)
マスターヨーロッパ(真冬)
悲しみを風に乗せて(梢)
生誕祭の歌(梢)
かわってない わかってない
(ここで残り少なくなってきました、とアナウンスがあり「生誕祭記念ライブ」に突入)
プロローグ
黒い瞳(真冬)
心の行方(伶奈)
Very Happy(真冬)
LOVE IS WORM(梢)
メランコリー(真冬)
今こそ立ち上がれ
(ここから後は「おまけ」)
時代はサーカスの象にのって
マイジェネレーション(梢)
エメラルドの伝説
(ここから後は「もうひとつおまけ」)
さよならへの旅立ち(真冬)
信じてるから(美香)
天使の翼(真冬)
清く正しく美しく(美香)
skiのテーマ(真冬)
以上。終演後、お客さん全員に、メンバーがずらっと並んで握手でお見送り。
このライブのみどころは多々あったが、いくつか書いておこう。
松尾真冬から「重大な発表」があった。言葉をつまらせながらの発表には、客席も固唾を飲んで見守る。しかし、その内容は、サイパンツアーだった。メンバーの水着が見られるというのが、重大だったらしい。
そんな真冬がライブ後半では壊れかけた。Very Happyのときに既に泣いていたが、メランコリーではダンスを1人間違える。
このライブ、何かあるんじゃないか、と思わせたのは、早い段階でリーダーの伶奈が泣いていたことだ。梢も涙を流していた。
飯盛水月ちゃんも泣いてMCが出来なかったが、それは、自分のマイクが無くて泣いたのだった。次のMCのときに元気にしゃべっていたので、ほっと安心。
さて、このライブ、楽曲は「真夏の祭典」の方が僕の好きな曲をいっぱい歌ってくれたのだが、ライブ自体の出来は、今日の方が上だったように思う。両足を破壊されながらも懸命に踊る唯ちゃんの姿も感動したし、3人のレッスン生のアイドル性もじゅうぶんに発揮されていた。今年見たライブの中でも文句なくナンバー1だ。
午後3時開演で終了は午後8時過ぎ。
パンフレットを読みながらホテルに戻る。パンフレットには、退会した優莉菜の「本公演への抱負」が書かれていて寂しい。
ライブ打ち上げを朝5時に終えたのもつかのま、入浴と準備の後、バスで東京に向かう。
26日の制服向上委員会ライブが目的なのだ。
バスの中で読んでいた本は、芦辺拓の『紅楼夢の殺人』
中国の古典『紅楼夢』の世界で連続して起こる不可能、不可解な謎の事件。
「あるいは衆目を前にして死し
あるいは死して宙に浮かび
あるいは忽然として屍を現わし
あるいは己の死せるを知らずして死せんか
その終わるところを知らず」
云々という書き付けの通りに起こる不思議な事件を解くべくやってきたのは、犯罪捜査で実績のある名探偵たる頼尚栄(らい・しょうえい)。この事件の起こる人工楽園の大観園に住む変わり者の男性、宝玉もどうやら事件のからくりを追っているようだ。
さて、この小説、トリックは特に目新しくないものの、その既視感が心地よい。また、名探偵のあり方を問う物語の構成も面白い。物語としてじゅうぶんに面白いのが、とてもいい。本格推理の収穫と言っていいだろう。
芦辺拓の作品はあまり読んでいなかったので、いずれ集中的に読もう。

東京に着いて、深夜番組で「ジェネジャン」を見た。
ロリコンアイドルとオタク、秋葉原をテーマにした下りでは、気持ちの悪いオタクたちの中に彩月貴央が登場して、天性のアイドルぶりを発揮したり、ピチピチパニックがオタクたちにサービスしたり、秋葉原のコスプレ衣裳店にネットアイドルとして竹田眞弓が出て来たり、あとはオタクたちの運動神経の無さとかが赤裸々に暴かれていた。
いかにもテレビ的に誇張され、実態を伝えていない映像だったが、この映像を手本にしてコピーする「オタク」が出て来てしまうのも、これまた、つまらない現象だが、予想できる。
彩月貴央は以前から知っていたから大丈夫だが、ピチピチパニックはこのテレビではじめてどんな感じの子たちなのか知った。その印象は、「こんなもの、脱がない風俗じゃないか」だった。僕はアイドルは好きだが、AV女優には何の興味も湧かない。セックスしたかったら彼女を作ればいいだけなのに、なぜ、AVに頼るのか。可愛い女の子と遊びたいのなら、彼女を作ればいいだけなのに、なぜアイドルにはまるのか。アイドルはあのテレビでのピチピチパニックみたいに、「お仕事」としてオタクたちに媚びてはいけないのだ。「ジェネジャン」ではメイド喫茶にも行っていたが、このメイド喫茶というのも不思議な感じだ。形を変えたホストクラブみたいな印象しかない。もしも自分に仕えてくれる女性が心地よいなら、こんな「お仕事」として割り切ってやっている女の子なんかに頼らず、私生活で奴隷を作ればいいだけじゃないか。
この番組は面白く見たのだが、ワイドショーと同様、何も伝えていないことは断言できるだろう。むしろ、オタクをわかりやすい範疇に押し込めて、間違ったレッテルを貼ろうとしているようだ。「オタク」「萌え」を誤解させるのにかっこうの番組だったんじゃないか。

丼ちゃん騒ぎ

2004年9月24日 ライブ
「丼ちゃん騒ぎ」当日。
出演は、過呼吸、コズミック☆ファラオ、自分BOX、ヘルメッツ、Y’s、佐伯誠之助、最藤パラ、西代彩、杉本あやみ、ババロワ、めがねっ娘クラブ、高西知泰、ハグルマル、The Last Ruffers、丼野M美の15組。
持ち時間が10分程度のザッピング・ショーケースみたいなものだが、僕の感性にはぴったりだ。どうせなら、同時に3組くらいライブしているのを見たいくらいだ。
これだけ出演者がいると、まるで歌番組じゃないか。
アングラのフジロックかもしれない。
このライブのためにだけ東京から駆け付けてくれる出演者、お客さんもいて、非常に喜ばしい。こうでなくっちゃ。
このライブイベントの主催は僕なのだが、はじめてライブを見るユニットが半分くらいあった。その中でも気になったのは「ババロワ」だ。即興フラワーアレンジメントのライブというのが珍しい。
ヘルメッツのよっしーはミニコミ「実験アキレス」を配付した。僕も1ページ書かせてもらっている。僕のページがなんと言っても僕の感性にハマッてベストなのだが、全体に面白い。
丼野はライブとどっちが主なのかわからないほどグッズ販売に燃えていた。「ドンプラ」と称するプラモデル「鼓動戦士ドンダム」を販売したり、ゴスロリユニット「バッハ」が東京でやった人形劇「タコ4年」のビデオを販売したり。
僕も10年近く前に作った「だみあんヘアヌ−ド写真集」を販売したりした。
次回は12月24日(金)にベアーズでまたライブをやらかすことになる。
今回の丼ちゃん騒ぎはめちゃくちゃ面白かったが、きっと次回はさらにすごいことになるだろう。楽しみだ。
ライブ後の打ち上げで朝5時まで。
打ち上げはライブ以上に僕的には盛り上がるのだ。
僕のライブは10月10日に高円寺の無力無善寺で。いつもの芦原橋ウィングホールの「HELP!」は10月16日。バッハも出演予定。
あべのルシアスでHOP CLUBの秋祭りがあったので、見に行った。
リーダーの番ことみが番組収録のため携帯電話のメッセージだけ参加。
今日の出演はしたがって、堀朱里(ピンク)、加美真陽(オレンジ)、滝口ミラ(紺)、星野真希(グリーン)、安藤絵里菜(紫)の5人。新人も入ったとのことだが、ホップクラブは「ゲキバン」が終わったし、「放課後ダイアリー」が最終回を迎えるので、その後、どういう形でホップクラブとして登場するのか、不明。撮影会ばっかりになるのかな。
イベントは1時間ほどステージがあり、あとはDVD購入者に握手会。これは10月に発売される「おはようパイナポー」のDVDの先行発売で、100枚限定だった。
ミラクルマヨネーズなどのユニットも登場したが、見どころはオリジナルの「AOZORA RINGO」「七色恋花火」を歌い踊ってくれたところだろう。CD化されていない曲なので、このようなイベントでもないと、聞けない曲だ。
歌がうまいわけでも、ダンスがそろっているわけでもないが、イベントとして大成功だったと思う。滝口ミラは感激のあまり、泣きながら挨拶していたし。なんて可愛いんだ。近々ソロで新しいDVDも出るという星野真希は他のメンバーの1、5倍の横幅だったが、一番好みだったかも。加美真陽もレベルの違う可愛さで魅せてくれた。あかりはさすが一期生、あかりがいなかったら、ホップクラブってわからないし。絵里菜は今、旬の顔だちの子だ。将来性ではピカイチだろう。

明日のライブ用にいろいろ選曲や、用意など。
おかげで、夜勤明けで一睡もしないまま、夜勤に行くことになった。
これだけでは淋しいので、読んだ漫画でも。
ゆうきまさみの『KUNIE パンゲアの娘』全5巻を読んだ。
SFだー!僕はSFも漫画もほとんど読まないので知らなかったのだが、ゆうきまさみの作品って、良質なSFなんだなーとはじめてわかった。「そう言えば」という感じ。『鉄腕バーディ』もSFだしなあ。
この漫画は海中から突き出した巨大な杭、絶滅したはずの古生物などが出てくる、夏休みっぽい作品。僕は「夏休み」に弱い。蝉の声やプール、エアコンですらツボだ。実生活ではエアコンなんかつけないけど。アニメに疎い僕が「エヴァンゲリオン」を全回見たのも、あれが夏休みの世界だったからだ。初号機がどうの、リリスがどうの、最終回がどうの、と言うより、学校のプールサイドのシーンなんかがツボだったのだ。
さて、明日、ライブうまくいくかな。

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