図説写真小史

2005年5月11日 読書
ヴァルター・ベンヤミンの『図説・写真小史』を読んだ。
1931年に発表されたベンヤミンによる写真史と、その中で触れられた3冊の写真集の序文が翻訳されている。図版も多数だ。
この時代、新しい技術として台頭してきた写真をどこに落ち着ければいいのか。ベンヤミンはもちろん、3冊の写真集の序文を書いた面々も、写真の意義や居場所を必死になってプレゼンテーションしている。
その3つの序文から見てみよう。
カール・ブロースフェルト『芸術の原形』の序文はカ−ル・ニーレンドルフが書いている。
この写真集は「写真機の助けを借りて植物の部分を拡大することで、芸術と自然の関係を明るみに出して」いる。ブロースフェルトの写真は自然と芸術において創造意志が一致していることを明らかにしている。ニーレンドルフによると、これらの写真は独特なやり方で今日われわれに与えられている最も重要な課題に貢献していることになる。その課題とは何かというと「われわれの現在が持っているより深い意味を捉えること」どういうことか。「われわれの現在は、生、芸術、技術のあらゆる領域において、ある新たな統一を認識し実現することを目指す、という意味を持っているのである」だって。写真そのものは、植物のクローズアップで、それが枢機卿の杖のデザインを思わせるとか、建物の柱そのものだとか、自然の中にデザインを見ている面白写真だ。それにこんな大仰な意義を付さないことには、当時の人々は写真を受け入れることができなかったのだ。
ウジェーヌ・アジェ『写真集』の序はカミーユ・レヒトが書いている。
瀧口修造が「アトジェ」とか「アッジェ」と表記していた写真家が、このアジェだ。
アジェは撮り溜めた写真を「芸術家のための資料」という看板掲げて画家に販売していた。
当時の写真家は写真を芸術作品として発表していたが、それはカミーユ・レヒトに言わせれば、絵画への依存なのだ。アジェは「絵を描く」ことをしなかった写真家だった。「写真それ自体へ向かう勇気をもった者がひとりいた。写真にすべてを与えた者がひとりいた」と、まるで救世主扱いだ。アジェの写真はひと気の無い街を写真に撮った。資料として用いるために無人の店などを撮影したのだが、出来上がった写真は無気味で犯行現場めいて見える。
アウグスト・ザンダー『時代の顔』の序文「顔、映像、それらの真実について」はアルフレード・デーブリーンが書いている。ザンダーの写真は人間の顔の集大成。写真集の予約申込書の宣伝文句によると「彼の全作品は現在の社会構成に対応する7つのグループからなっており、それぞれ12枚の写真を含む約45のファイルというかたちで刊行される」
デーブリーンはこの人面集を「比較写真学」とまで呼ぶ。
ベンヤミンがこのザンダーの人面集の社会的機能として書き記したのは、これこそ権力移動の時期に備えて観相学の訓練のための演習用地図帳だ、という使い道だ。
これら3つのそれぞれのパターンで、写真をめぐる承認と存在意義と可能性を模索するドタバタが演じられたことがよくわかろう。
バウハウスのモホイ=ナジは、新しいものの創造的可能性が、新しいもの自体の急進的な動きによって開かれていくのではなく、「新しいものの出現によって基本的にはすでに用済みになっていながらも、兆しつつある新しいものに圧迫されたため、かえって一時的な狂い咲きを強いられる古い形式、古い道具や古い造型分野において、そうした発見がなされる」と言っている。写真の登場により、既存の芸術分野は大騒ぎになり、盛り上がりすら見せたのだ。
これって、CG技術が発達してからのアニメや映画や、携帯電話普及後のコミュニケーションなど、歴史は繰り返し、応用はいかようにも可能だ。

なお、ベンヤミンは写真の標題に特別な価値を見い出している。
カメラが発達し、小型化し、一瞬の映像を定着する能力が向上していけば、写真を見る人の連想メカニズムが停止してしまう、という。その段階で要請されるのが「写真の標題」で、これによって写真は生活状況全体の文書化の一環になるのだ。さらにこう言う。「標題がなければ写真における構成はいずれも曖昧なものにとどまってしまうにちがいない」
モホイ=ナジは「文字に不案内な者ではなく、写真に不案内な者が、未来の文盲ということになろう」と言っている。自分の撮った写真に標題もつけられない写真家は、同じく文盲とみなされるのだ。
でも、これは写真を芸術の軛から解放した後に待っている文学の陥穽のように思えてならない。
写真はひょっとしたら未だに落ち着く場所を求めてふらついているのかもしれない。
『ジジェク自身によるジジェク』を読んだ。スロヴェニアの思想家スラヴォイ・ジジェクが政治学のグリン・デイリーのインタビューに答えて縦横無尽に語った本だ。
ラカンの現実界の話から、政治まで、好き勝手に語っており、ときに暴論とも思える展開に走ったりもする。つまり、ジジェクの持ち味が存分に出た1冊なのだ。
十代の頃なら、本に線を山ほどひいて読んでいただろう。
今は線引きのかわりに、ここにいくつか抜粋してみる。

「哲学に対話はないのだとわかったとき、自分は真に哲学者になったのだと思っています。学際的プロジェクトとしての哲学を私は信じていませんし、そんなものは究極の悪夢なのです。それを哲学とは呼びません。私たち哲学者は気違いなのです。」

「隣人への愛などといった寛容に関する説教は、隣人との遭遇を避ける究極の戦略であるということです。好きな例の一つに喫煙があります。私はあらゆる禁煙プロパガンダにかなり深い疑いを抱いています。私が釈然としないのは、煙草を吸わない人がどれほど影響を受けるかということに焦点をあてた受動喫煙という考え方です。何が真の論点かというと、喫煙を通して非常に自己破壊的な方法で楽しんでいる<他者>がいるということです。そしてこれこそが耐えがたいことなのでしょう」

「今日典型的な現象として、いわゆる自傷行為者と呼ばれる人がいます。長い間心理学者はこの現象を、自殺したいが徹底してやるのは怖いという、自殺行為の企てを阻む現象ではないかと仮定していました。しかし今日そうではないことが明らかになりつつあります。むしろ自分を傷つけるという行為は<現実界>との接触を再度図ろうとするひどく屈折した戦略として機能しているのです」

また、ロッシーニとワーグナーの対立を数学的崇高と力学的崇高の違いで説明する考察でのたとえで、クンニリングスをあげたりする。女性が「そこ、そこ、そう、もっとお願い!」と言ったとき、男性はついつい力学的、つまり激しくそこを責めようとするが、それは間違っているのだそうだ。もっと量的に攻めねばならないのだ。男性は力学的に考え、女性は数学的(量的)に考えるからだ。

ある箇所では、全体主義をチョコエッグにたとえて説明する。中の玩具を手にするためにチョコを捨ててしまう光景を全体主義にあてはめてこう言う。
「その子どもは、人間の『本質』を解放するために『本質的ではない』歴史的で偶発的なコーティングを取り除こうとする、いわゆる『全体主義』の化身になってはいないでしょうか。究極の『全体主義』のヴィジョンとは、かつて崩壊した人間性が徹底的に壊滅した瓦礫の堆積のなかから生まれた<新しい人間>のヴィジョンではないでしょうか」

かつて、学会を一つでっちあげて、会合もせず、出版のための資金管理だけしていた、というエピソードも語られた。学会の活動報告などは、1日で会議のレポートを捏造し、過去の日付けをつけて提出したらしい。その方が無駄がなくてスムーズだからだ。

ジジェクは面白い!と以前からさんざん言ってきたが、年に1冊か2冊しか読んでいないことに気づいた。ほとんど読んでいないくせに、勝手なことを言い散らしてきたわけだ。もうちょっと読もうっと。
なお、この本で、「なーるほど!そういうことか!」と目からウロコが落ちたことがあったのだが、それはしっかりと心に焼きつけたので、ここには書かない。あまりにもプライベートな領域に関わることだし、戦略を公けにするのは得策とは言えないからだ。
高島屋で今日まで開催の「ディズニー・キャラクター・テディベア&ドール・コンベンション2005」を見に行った。
シュタイフやハーマン、カンタベリーベアなどのメーカーによる限定版と、アーティスト限定版の展示即売。
ほとんどがウィニー・ザ・プーかミッキーマウスを作っているのが、なんだか興醒めだった。そんな中で面白かったのはジョー・グリーノのドナルドダック。彼女のテディベアはあんまり好きじゃないけど、このドナルドダックは愉快だった。ベアと違って目がパッチリしてるしね。
あと、メリーソート社の出品したのは、ミッキーマウス、ウィニー・ザ・プー、ドナルドダックの3種類だが、全部チーキーベアがそれらディズニーキャラクターの着ぐるみを着ているドール。ディズニーのキャラクターよりも自分のところのチーキーの方が可愛いに決まっている、という自信がうかがわれて痛快。実際、チーキーの方が可愛いし。
一番安いドールでもチーキーミニサイズの8925円だから、おいそれとは手が出ない。いくら限定品だからといっても。

ジャン・ボードリヤールとエドガール・モランの『ハイパーテロルとグローバリゼーション』を読んだ。講演を書き起こしたものなので、読みやすい。
「世界の暴力」ボードリヤール
「エドガール・モランの発言によせて」フランソワ・リヴォネ
「世界危機のさなかにあって」エドガール・モラン
「司会者フランソワ・リヴォネの挨拶」
「エドガール・モランとの討論」
ボードリヤールはお得意の象徴論を展開する。
あと、興味をひいたのはこんなところ。
「テロリズムの主張が、かつて言われたように世界秩序とか国家を不安定化するというのであれば、それはばかげています」なぜかというと、世界秩序、国家は既にほとんどないも同然だから。こういう断言が気持ちいい。テロリズムは愚行にちがいない。でも、無秩序に対して新たな安全保障上の措置を講ずるというのも愚行だし、国家の秩序や管理を強化するのは安全保障という名の恐怖政治にほかならないから、危険だという。
ボードリヤールによるとテロリズムとは普遍化された交換システムの中心部に還元不能な特殊性を復元する行為である。
しめくくりはこうだ。
「今、世界秩序にテロリズムという妖怪が徘徊している。耐え難いのは、不幸、苦悩、貧困というよりも、権力そのものとその傲岸さだ」

エドガール・モランが主張するのは、グローバリゼーション(世界化)は、ハードウェアはあるがソフトウェアがないこと。下部構造を設置したとしても、世界社会を確立することができず、さらにその出現を阻害することもある。
モランのしめくくりの提案は、次のようなものになる。
ありえないことを信じてみよう。しかしまた、そのために行動をしてみましょう。
ボードリヤールは1929年生まれ、モランは1921年生まれ。この本が出たときにはそれぞれ75才、83才。そんな年齢の老人にアジられないと行動一つ起こせない、いや、それでも無力感に襲われて何もできない我々って、何なんだろう。我々が動かないから、手段としてはテロリズムを選択するしかないのではないか。テロリズムを許容しているのは、何もせずに「テロってこわいねえ」なんて言っているだけの我々なのだ。
小型ロボット競技会「ロボファイトin日本橋」を見に行った。でんでんタウンにはロボット専門店の「ロボットファクトリー」という店があり、エルエルパレスのホビーロボット事業部「ロボットフォース」と共同主催で開かれた。最初にこのイベントがあると聞いたとき、「えっ、あの狭いロボットファクトリーのどこで闘うんだ?」と思ったが、開催場所はインディペンデントシアタ−2ndだった。ふだんよく演劇を上演している場所だ。
さて、このイベントの僕的目玉は「すーぱーメイドカフェ大戦」。最近日本橋に増えてきたメイドカフェのメイドさんたちがロボット使って闘う試合だ。
動かすのも覚束ない戦いで、お祭りで赤ん坊同士の「泣き相撲」してるの見たり、訓練されていない動物のレースを見るようなハラハラ感がある。
優勝はeめいどの「イーメイダー」、準優勝はccoちゃの「ジャスティス」
3位はCafe Doll、4位はメイドじゃないけどまんだらけだった。
この競技会の司会をつとめたのはレイパ−佐藤だった。何年も前に渋谷で東京プリンや鳥肌実などが出たイベントでたまたま僕もミック宮川と出演させてもらった。そのときに楽屋が一緒になったのが、このレイパー佐藤。後日、渋谷でまた会ったり、スパイキッズのイベントで司会しているのを見たりはしたが、実際に会うのはかなり久しぶりだった。テレビで「芸人になってすみません」と親に謝る番組に出てるのは見たけど。
このメイドカフェ大戦の応援席に、大好きなメイドの純ちゃんも来ていたらしいのだが、後で知った。この純ちゃんは、僕が見守ってあげないと、すぐに鬱に入ってしまうのだ。って、僕の勝手な妄想?

夢枕獏編の『空海曼陀羅』を読んだ。
「五大にみな響きあり」松岡正剛
「弘法大師」菊池寛
「空海密教の思想」藤巻一保
「沙門空海」吉田絃二郎
「空海」清水義範
「空海の言霊狩り」荒俣宏
「空海の飛白体」岡本光平
「弘法大師空海」ジョージ秋山
「ミイラ信仰の研究」内藤正敏
「ブッダの方舟(はじめに)」夢枕獏
が収められている。思想の基礎から伝記から漫画、バラエティーに富んだ空海が味わえる。
昨日読んだ『まんだら探偵空海』はアクの強さよりも、飄々とした感じが横溢していたが、この本の中の空海像もまた、いろいろだ。
「沙門空海」は戯曲だが、主人公はほとんど高岳親王で、空海はなんだか情けない。
「ミイラ信仰の研究」の空海は晩年に水銀の副作用でひどい皮膚病になり、威厳のかけらもない。
松岡正剛や荒俣宏の空海像はとにかく超人なのだ。
面白かったのは菊池寛の「弘法大師空海」で、これは空海の作品を書こうとして結局書けなかった言い訳をえんえんと書いてあるのだ。なぜ書けないかという理由を読んでいると、いつのまにか空海がどういう人物なのかわかるという不思議な作品。
以前、空海の十住心論に影響されて、階梯抜きで意識のパターンを種類に分けた「新・意識裡」という小冊子を作ったことがある。題名が駅名「新石切」のもじりであることでわかるように、意識のパターン名も全部ことば遊びだった。
たとえば、連想を包含したイメージで意識するものを「包連想」(ホウレンソウ)と名付けて例をあげたり。自分で書いたものなのに、手元に残ってなくて、思い出すたびに、「僕ってすごい!」と自画自賛するのだが、実物が手元にない特権と言えよう。心の中では美化される一方である。
それはともかく、空海に関するものを読んでいると、不思議に思うことがある。みんな、そんなに真理を知りたいんだ!という思いだ。本当はどうなんだ、真理は何だ、なんてどうでもいいことのように思う。ましてや、それを神や仏や教祖や教師に聞こうなんて思わない。真理があるとすれば、それは僕が自分で作る!と思っているのだ。それ以前に、真理なんて不要だと考えてるけど。
鯨統一郎の『まんだら探偵空海 いろは歌に暗号』を読んだ。一休さん探偵のシリーズの一つだが、空海とは時代が違うので、「こんな秘話がある」という形で聞く体裁をとっている。そこまでしてシリーズにしなくてもいいのに。
いろは歌はアクロスティックで「咎なくて死す」という言葉があぶりだされる。これはいったい誰のことを指しているのか。
鯨統一郎が用意したのは、藤原薬子だ。
本書の前半は薬子の変を描いている。これがなかなか面白い。そうか。僕はもともと時代小説が大好きだったんだ。
薬子という女性は薬に詳しく、妖術も使える。空海との超能力合戦で、空海が何もない釜から、湯気のたつ粥を出してみせると、薬子は大日如来を含む仏像5体を消してみせる。
このへんのトリックは奇術をそのまんま使っている。
粥は釜のふたの方に仕込んであったものだし、仏像は並べなおして壁の中にしまわれていた。
薬子は平城上皇の寵愛を受けていた。まさに平城情交。薬子は平城上皇を唆して謀反を企てた。上皇にその決心をさせたのは、薬子が嵐山を消してみせたからだ。それだけの奇跡的力があれば、何でも可能だと思わせたのだ。
この嵐山消失トリックはクイーンの有名な中編をそのまんま使っている。
上皇には影武者がおり、まったく同じ建物が2つあったのだ。薬子はその薬学知識で上皇を眠らせ、目覚めるまでに別の建物まで運び、偽の上皇と入れ替えたのだ。
作品の後半は、このトリックの解明を命じられた空海の活躍になる。最澄との推理合戦だ。
前半は薬子との闘い、後半は最澄との闘い。
空海は、薬子のトリックだけでなく、薬子の変のからくりも見破る。
平城上皇は薬子に操られていた。その薬子は坂上田村麻呂に操られていた。さらに田村麻呂は神野帝(嵯峨天皇)に操られていたのだ。
ここで明かされるのが、もうひとつのいろは歌で、これはアクロスティックで「かみのあやつり」になる。神野帝の操りだ。推理小説好きには嵐山消失トリックの元ネタ「神の灯」を連想させる。
全体に、推理小説としてはトリックが既存のものばかりで物足りないが、歴史小説としての面白みがあった。鯨統一郎はカーのような作家になってきたのか。

テレビで映画「陰陽師」を放送していたので、見た。
滝田洋二郎監督、野村萬斎、伊藤英明、真田広之、小泉今日子出演。
これもまたオカルト超能力合戦。
早良親王を甦らせて都を崩壊させようとする真田広之。そんなことどうでもいいけど、伊藤英明のために真田広之と闘う野村萬斎。
特撮不要の野村萬斎の身体のさばき方はさすが。
この「陰陽師」シリーズから、いったいどれほどのやおいが生産されたかと思うと、目がくらむ思いだ。また、「さあ、やおい本作ってくださいよ!腐女子のみなさん、何度でも楽しんでくださいよ!」という作り手側の姿勢もはっきりと見てとれる。安倍晴明が式を使って美少年に酌をさせていなかったのが、一応一般向けにも対応した苦心の跡だと思う。

魔王城殺人事件

2005年5月6日 読書
歌野晶午の『魔王城殺人事件』を読んだ。
ミステリーでもこの日記ではネタバレを平気でするので、注意。むしろ、ネタを記憶しておくための覚え書きだから、ネタは積極的に書いておきたい。
上から見たら漢字の「田」の字に見える、4つの部屋。
部屋を出入りする扉は外側にしかついていなくて、部屋同士をつなぐ扉はない。
ある部屋に入ったはずの人間が、入ってみるといなかったり、部屋の中で発見された死体が、もう一度見に行ったら消えていたりする。
この謎をどう解く!
ええ?どう解く!森ビルさんよ!
作中、こどもたちがあるクイズを出す。ウサギとカメみたいな話だが、2匹のアリの話だ。
歩くのが遅い蟻が、速い蟻よりもゴールに先んじたのは、いったいどういうからくりがあったのか、というクイズだ。
答えは人間の靴に乗って、人間の歩くスピードで移動したから。
最近、テレビはこういう頓智のきいたクイズ番組が多い。だいたい考える制限時間は1分程度でおさまるんじゃないか。このクイズも、出題が終わると同時に、「ひょっとして、こうじゃないのか」と思い付く答だから、それをラストまで引っ張る理由がよくわからなかった。こどもの方がこういう問題には強いはずだ。
ミステリファンなら、電車でも車でも時間が足りない場所に到着するためには、飛行機を使えばいい、という『点と線』のトリックは基本のはず。高速の移動手段によってアリバイを崩す、という例を子どもたちは、まずこの本によって知ることになるのだろうか。
謎があり、それが解ける、と言うシンプルな小説で、ネタとしてはショートショートで済みそうな問題だ。5分間ミステリー、くらいか。
ただ、某理系ミステリー作家みたいに、いい大人相手に奇術ネタを応用しただけの短編向けトリックで自画自賛的長篇をものしていないだけ、歌野は良心的だと言える。こどもが読むにはもっとも面白いパターンだということがよくわかっているのだ。
ゴールデンウィークの天王寺公園は、いろいろステージイベントがあった。
「春の動物と花のフェスティバル2005」というのだそうだ。昨日のメイビーマックスは見たが、4月29日にはダンスプロジェクト「サイクル」のショーがあり、5月1日はかずみお姉さんのしあわせコンサート、3日はチェリーズによるうたのおもちゃ箱コンサートがあった。連日かよっていても、それなりの楽しいイベントだったのだ。来年はちゃんとチェックしておこう。
今日はSTSのダンスライブ。
以下、出演ユニットと曲目。
ハローキティ選抜/そんでもってFUN FUN FUN
ブラックベリーズ/Can’t Be Stopped
〃/Sexy,Naughty,Bitchy
ペトラキッズ/トラ トラ トラ
RISAKO & REINA/センチ・メタル・ボーイ
ペトラキッズ/ラブリーフレンドシップ
ファッションズ/キッズクリエイション
TOUCH/Far Away
〃/LOVE RASPBERRY JUICE
〃/If You WERE Here
全ユニット/ショータイム

RISAKO &REINAのレパートリーをいつまでも「センチメンタルボーイ」と言い張るのはいいかげんに直してほしい。これだと舟木一夫の歌ではないか。
ファッションズは、ちびあゆこと宮崎里央菜抜き。阪神百貨店でキッズファッションショーに出演していたために、欠席したものと思われる。
TOUCHはメンバーの1人の衣装が途中ではだけてしまうアクシデントがあったが、衣装をなおしながら踊り続けるテクニックは神業だった。たとえば腕を使わずに足と身体の動きだけでダイナミックさを失わないダンスを見せてくれたり、腕を大きく使う箇所だけ、腕をダンスに参加させたりして、ものおじ一つしない。こりゃ、半端な技術じゃないぞ!

鶴見はなぽーとブロッサムに移動し、ダンシングBANANAを見る。
鉄腕アトムの歌の「アトム」を「バナナ」にした替え歌でまず登場。
イッツオーライト
てのひらを太陽に
キセキ
真実の宝石
世界中のこどもたちが

ロコフェスのオムニバスCDや、メンバーのサイン入りプレートなどを販売していた。
地域密着で、学校のにおいがするのがダンシングBANANAの持ち味だ。
来月18日も同じブロッサムでステージがあるらしい。

今日も今日とて夜勤と夜勤のあいだにイベント見にきているので、睡眠不足が蓄積している。いろいろ行きたいところもあったが、身体の凝りが癒せないので、とっとと帰る。
最近、夜中に半透明の男の子が坐っているのを見たり、首のないワンピース少女が立っていたり、絶対に誰もいない場所での走る足音聞いたり、壁から1メートルほどの大きさの顔(口を大きくあけている)が3つ重なって出て来たり、妙な体験ばかりするのは、きっと疲れているせいだ。
休みの日にはまとめて睡眠をとろう。
夜勤明けでいったん帰宅。職場からORC200に直行すればdreamのリハーサルでも見れたのかもしれないが、さすがにそれは身体がもたない。入浴し、楽な格好に着替えて、朝食とってから行動。

天王寺公園にMAY BE MAX。
歌った曲は次のとおり。
春一番〜プレイバックパート2〜青い珊瑚礁〜さくらんぼ〜ペッパー警部のメドレー
熱い予感〜クリムゾンスター
私の阪神タイガース
フルチャンス
携帯電話

本ライブには、新メンバーとして、元ブラックベリーズの池真衣ちゃんがセンターで歌っていた。まいちゃんの動向を気にしてたので、これはうれしい。あおいちゃんイチオシだったが、これからはまいちゃんとダブル一押しで行こう。

八尾西武で「stsキッズカーニバル」
今日は2回公演で、2回目のみ観戦。
いちごッ娘/Uki Uki Baby
ブラックベリーズ/Can’t be Stopped
マシェリ/モーニングコーヒー
ペトラキッズ/トラ トラ トラ
プリティーズ/渚の「…」
クランベリーズ/Final Fun Boy
ミニミニclub/みんなに一番
ミューズ/ちょっとだけMY LOVE

ここでファッションショー。
西尾捺、九鬼沙和(エンジェルブルー)
玉岡沙梨(メゾピアノJr.)
田中千智(ポムポネットJr.)
今西彩(デイジーラバー)
池田佳鈴未(ブルークロスガール)
ナルミヤインターナショナルの勢ぞろい。

ミニバブ/ジュテーム、ジュテーム
プリッツ/Can’t Take My Eyes
トレード/憧夢〜風に向かって
ミューズ/瞳は元気なブルースカイ
ブラックベリーズ/Sexy Naughty Bitchy
いちごっ娘/Get’s your Groove
Super Bubblez/バイク
以上。

クランベリーズは加藤愛彩がおらず、3人。
ファッションショーは夏を意識してか、どのモデルさんのファッションにもサンバイザーをとりいれていた。やはり、この夏はサンバイザーか!
プリッツのこのレパートリーは、振り付けが適当すぎていただけない。他のユニットの他の曲で使った振り付けをつぎはぎして作ったのがミエミエだからだ。
ブラックベリーズといちごっ娘は新曲。ブラックベリーズのはタタ・ヤングの曲。いちごっ娘は新曲を星条旗にような新衣装で。

八尾西武で創叡のライブが終わった段階で、弁天町のイベントで、既にdreamのライブは終盤の時間だったので、急いで行っても、イベントが全部終わっている可能性が強かった。しかし、行ってみないと無駄足かどうかはわからない。
弁天町ORC200に駆け付け、dreamとすれ違う。
今日はヴォーカルクイーンコンテストのレディーズ部門。
かろうじてグランプリの山岡由佳ちゃんの「雪の華」だけを聞くことができた。
dreamをすぐ目と鼻の先で見ることができ、グランプリ曲を聞くことができたのだから、行っただけの価値はあったのだ。
帰宅後、1時間だけ睡眠をとって、再び仕事へ。
弁天町ORC200で第9回ヴォーカルクイーンコンテスト、ティ−ンズ部門。
予選を勝ち抜いた12人でグランプリを競う。
出場順
豊田祥子/一番星(オリジナル)
河野真実/コエヲキカセテ(SAKURA)
泉彩世子/くちばしにチェリー(EGO-WRAPPIN)
山中志真/There You’ll Be(Faith Hill)
木田麻悠子/Tears Rain(Tina)
碧山麻衣子/ウナイ(Cocco)
乾志帆/雪の華(中島美嘉)
中島早紀/Don’t go please(オリジナル)
谷口晴菜/Boy friend -part2-(クリスタル・ケイ)
赤井仁美/涙星(オリジナル)
田中里奈/コエヲキカセテ(SAKURA)
増田有華/ハナミズキ(一青窈)

グランプリ 赤井仁美
準グランプリ 田中里奈
店舗会賞 木田麻悠子
特別賞 豊田祥子
特別賞 泉彩世子
特別賞 乾志帆

特別賞の豊田祥子はフェスティバルゲートの歌姫、ショーコ。おばちゃんギャグ健在。
田中里奈はヨーデルが得意で何度もヨーデル歌わされていた。
グランプリの赤井仁美は以前にもこのコンテストに出ているが、中島美嘉の歌をうたって選に洩れている。それから自分で作詞作曲した曲でグランプリという飛躍はすごい。才能のある子なんだな、と思った。

ゲストライブはまず増井千晶(第8回準グランプリ)が4曲。うち3曲(「希望」「リアリティー」「最後の笑顔」)は自分で作詞したもの。
増井千晶は今日の「歌スタ」に登場するらしい。夜勤なのでリアルタイムでは見れないが、録画しておこう。
次に脇阪真由(第4回グランプリ)で3曲。脇阪真由は「プロファイル」というテレビ番組で競った結果サマーソニックに出場している。そのときは「スタジオAチーム」でした。
最後にmyu(第3回グランプリ)も3曲。

スペシャルミニライブでSweetSが登場。
Tear "Lemon" Drop 〜ダンス
countdown
暑中お見舞い申し上げます
未来へ
Sky
Grow into Shinin’ Stars
Love like candy floss
ミエナイツバサ
pieces of peace
resistance〜マケナイキモチ〜
Never Ending Story

えっ、11曲分もやった?これはすごい。「ミエナイツバサ」は新曲で大阪では初披露。SweetSのアヤとアキは大阪出身で、アヤはこの弁天町のカラオケ大会でステージに立ったこともあるというエピソードを紹介していた。新譜のジャケット撮影でハワイに行ったとき、みおりがセスナを操縦して、あわや墜落と言う危険なエピソードも。
客席もみものだった。Never Ending Storyでは着席していたはずの3列目くらいまでが、ある部分で一挙にジャンプ!これは壮観。
客席にはリトルッキャットの子とか、あとTOUCHが5人並んで見ていたり、楽しむ要素満載だった。TOUCHがレパートリーにしている曲をしなかったのが残念。
オリヴィエーロ・ディリベルトの『悪魔に魅入られた本の城』を読んだ。
タイトルはものものしいが、内容は本に関する本だ。
テオドール・モムゼンはドイツの歴史家で、ノーベル文学賞も受賞している。モムゼンの蔵書の数奇な運命を描いたのが本書だ。(実話!)
モムゼンは自分のうっかりミスで蔵書4万冊を火事でなくしてしまう。
23年かけて収集しなおした蔵書をまたもや自分のミスで焼いてしまう。蝋燭の火が自分の髪の毛に燃え移っていることに気づかなかったのだ。
これだけでもたいがいひどいエピソードだが、ここからがひどい。
モムゼンの蔵書の一部がイタリアで発見された。なぜ、ドイツのモムゼンの蔵書がイタリアで?
盗難した本を売り捌いた、というのがまず考え付く答だが、事実はそうではなかった。
蔵書の運命はまず戦争によって狂わされたが、一番の原因は、蔵書を保管すべき図書館員の怠慢にあったのだ。図書館はどこも過剰な本をかかえて困っている。作者からの寄贈などで複数ある本は処分されたりする。モムゼンの蔵書は、その価値を見出せない図書館員によって、二重に所有しているわけでもないのに、処分されてしまったのだ。
以前、マーク・ダイオンの驚異の部屋の本でも、価値がわからない人間によって、大切なものが処分されている現状がレポートされていたが、同じことがここでも起こっていたのだ。こうなると、盗難の方がまだいい。盗むということは、その物に価値を認めているわけだから。

本書には、池田浩士の特別エッセイ「蔵書という自己疎外」も収録されている。蔵書、愛書のエピソードがいっぱい紹介されている。中でも面白かったのはオスカー・マリーア・グラーフのエピソードだ。ヴァイマル期の反体制作家だが、ヒトラーによる焚書リストに自分の著作が入っていなかった。屈辱に耐えかねて、新聞に「私を焼け!」と声明を発表したという。

盗難でも焚書でも、その本に価値を認めるからこそ、盗んだり破壊しようとするのである。
コレクターの最大の敵は親だという。価値もわからず、捨ててしまおうとするからだ。
僕の父親が残した蔵書も、今ではほとんど残っていない。あのとき自分は小学生だったから価値判断ができなかったのだが、今から考えると、プルタークやミルトン、ゲーテなど、捨てるべきではなかった本が多数あった。僕自身の蔵書も何年か前に死ぬ思いで2万冊ほど処分した。僕はそれ以来、知的にはすっかり腑抜けだ。脳みそや心は自分の体内にあるとはかぎらない。蔵書という形で外に存在しているかもしれないのだ。
新神戸オリエンタルアベニューでキッズファッションショー、午後1時と3時の2回。
4月29日、新神戸オリエンタルアベニュー2階にチャイルドガーデン「Chamit」(チャミット)がニューオープンした。そのショップから選ばれた一般モデルさんと、STSのモデルさんがステージにたつ。
STSのモデルさんはヨーロッパテイストの「Oeuf Oeuf」(ウフウフ)とアメリカ輸入の「パラニーニョ」のステージで登場した。
男の子はチェックしなかったので、女の子のみ紹介。
大畠紗梨那(オオハタ・サリナ)、西村美紅(ニシムラ・ミク)、中野亜瞳(ナカノ・アミ)、永井玲奈(ナガイ・レイナ)、小椋沙彩(オグラ・サアヤ)、春原綾乃(スノハラ・アヤノ)、住吉由佳(スミヨシ・ユカ)、森麻衣子(モリ・マイコ)、吉田愛来(ヨシダ・アイナ)
「パラニーニョ」のステージではドレスを着たり、バービーのリュックやエルモのバルーンを小道具で使ったり、カラフルで気に入った。
チャミットに入っている「奏」(かなで)という和風の店の一般モデルさんで、「アベ・ナゴム」ちゃんという子が出てきたが、琉球柄のファッションにテンガロンハットで、とても可愛かった。
今日は雨模様で、せっかく神戸まで来たのに、他にどこにも寄らず帰宅。
K1ラスベガスでグラウベ・フェイトーザ応援したり、「アタック・ザ・ガス・ステーション!」見たり。
「アタック・ザ・ガス・ステーション!」はキム・サンジン監督の1999年韓国映画。イ・ソンジュ、ユ・オソン、ユ・ジテ等出演。
退屈だからという理由でガソリンスタンド襲って、人質をとる若者4人。ガソンリンスタンドだけに、次々と人がやってくる。これは動かないロードムーヴィーだ。
暴力が後に遺恨を残さない少年らしさが気持ちいい。
敵味方がいつでも交換可能な融通性に富んでいる。これこそ、殴り合いの大げんかした後に友情を育むことのできる少年らしさだ。
僕だって、十代の頃は人並みに抗争の急先鋒で闘ったが、次の日には何のわだかまりもなく友達になれた。わんぱく戦争だったのだ。いつまでも恨み抱いていたり、被害者ぶるなんて思いもよらなかった。
この映画も、犯罪を描いていながらコミカルで、楽しく見れた。きっと僕の人生を映画にしたら、ノワールなんかじゃなく、コメディになってしまうんだろう。願わくばラブコメであってほしい。さらに、観客を感動させられたら、最高だ。そのためになら僕はどんなに悲惨な境遇になっても笑っていられる。
大阪府立現代美術センターで第9回田中浩一個展「ドコカラ来テ、ドコニ行クノ」を見に行った。この20年間に描いた作品の中から、大作を中心に展示されている。
青を基調にした作品には、ルドルフ・ハウスナーばりの自画像っぽい人物が随所にあらわれ、中が空洞になった身体を無数の人間が通り抜けて行くさまが描かれている。
主体は主観性を駆動する構成的空無であるが、究極的には主観性によって満たされることのない空無なのである。と、これはラカンの対象aを語るジジェクの言葉だが、筒の中の通過が田中氏にとっての人間像なのだろう。
あるいは、流動する人間関係もあらわしているのかもしれない。卑近な例で言えば、毎年のアドレス帳の更新にも似た人間関係の変動。田中浩一氏とは、かれこれ20年以上前、つまり、田中氏が美術で頭角をあらわす以前に、「ロックマガジン」という雑誌関連で知り合った。田中氏はいったん音楽の世界に携わっていた自分をリセットして、美術の世界に入っていった。僕は美術の荒野に身を投じた田中氏の個展を折にふれてのぞいたりしていたが、今回は最終日で田中氏本人に20年ぶりに会うことができた。身体筒をいったん出て行った僕も、そこが開かれた口をもつ筒であるかぎり、また訪れることだってできるのだ。

14th moonで「ちいさなしずく+たまご」出版記念、太田朋展を見に行った。隣のマニフェストギャラリーも同じく太田朋。
イラストと言葉を組み合わせた作品が多い。
この手の作品は、武者小路実篤や、やなせたかしのような日々の言葉、アドバイスものか、さもなくば一コマ漫画になると思う。太田朋の作品はその2つをミックスしたような印象だが、どちらかと言えば後者に傾いている。これがよかった。
作品から直接言葉をかけてくるのは、それを見ている鑑賞者を馬鹿にしているしお節介だと思える。何かありがたそうな忠告くれるくらいなら、その作品売って稼いだ金をくれ!その方がよっぽど助かる!と思うのだ。
命の尊さやエコロジーっぽい内容だと、もう目もあてられない。
自分のナイーブさに陶酔するのは勝手だが、それを他人に見せてどうするのか。単なるマゾか。
弱さを売りにする作品を見ると、反射的にそれを踏みつぶして、「そんなに被害者が好きなら、もっとひどい目にあわせてあげよう」と、気配りしたくなる。
14th moonは今日を持って、しばらくはリニューアルのために閉廊。
ぎりぎりにすべりこんだ形。ジャスティライザーの布地で作ったジャケットにスポンジボブのリュック姿だったのが目に止まり、いきなり写真モデルになりました。

帰宅後、3日ほど前に録画しておいた香港映画「少林寺十八銅人」を見た。
1995年作品、トゥ・パクフォン、ユェン・フォン監督
これがまた無茶苦茶な映画で爆笑。
主人公はアメリカ帰りの「ロッキー」彼の格好は赤いキャップに腕を出したベスト姿。まんま「餓狼伝説」のテリー・ボガードだ。バーンナックル!

「十八銅人」ってのが何かというと、6歳くらいの少年たちが18人、金属のコーティングをして人間ピラミッドみたいなのを作る。万全な体勢で組み上がったら電気エネルギーが発生するのだ。失敗したら、放尿して陣が崩れる。

童子たちを集めて、マージャン遊び。頭にマージャン牌描かれていて、牌をまぜる際も童子たちがぐちゃぐちゃ自らシャッフルするのだ。遊んでいる主人公たちは指でまず牌を読む。

少林寺の童子たちはボコボコにした相手を救うため、相手に尿をひっかける。これがマジで放尿してるのだ。

童子たちはビルの屋上に飛び上がる。そんな超人技には秘密がある。浣腸してもらって、そのときの「ヒャッ」という反応で屋上まで飛んでいくのだ。

ヒロインはなぜかキリスト教の修道女で、少林寺にかくまわれる、というわけのわからない展開。途中でギターひいて童子達とミュージカルめいたシーンまで演じる。サウンド・オブ・ミュージック。

クライマックスでは童子たちがびゅんびゅん空を飛んで闘う。実際に子供をぶらさげて空を飛ばしている。絶叫マシン以上。物あつかい。
ラストのボスは爆弾で吹っ飛んで、鐘に頭を打ち、ゴーン!その衝撃で敵は頭がおかしくなっていきなり木魚をたたきながら仏教に帰依する。

なんじゃ、こりゃ?
千里南公園で開催の「37回せんりこどもカーニバル」に遊びに行く。
大きな池をぐるりと巡らして縁日が並んでいて賑わっている。
ステージではちんどんをやっていた。あっ、あれは友達だ!と遠目にわかったが、僕が芝生広場に入っていくのと、ちんどんが舞台を降りて周辺を練り歩いていくのが入れ違いになってしまった。そのままステージを鑑賞しやすい場所に腰をおろす。
ステージではLITTLE CATのダンス&歌。
チアーの「ミッキー」からはじまって、「クインシー」のディスコダンス、LITTLE CATからデビューした玉置成実の「Reason」「Shining Star 忘れないから」などを歌い踊る。
15分のステージ。2ステージめもあるのだが、時間がかなりあくので、出店をまわる。東京コロッケ(5コ串に刺して200円)とかアイスクリン(ダブルで150円)広島風お好み焼き(300円)いか焼き(200円)うっかり買い食いしてしまった。
リトルキャットのTシャツを着た女の子たちが大挙していろいろ買い食いしている。
南千里駅前のガーデンモール南千里に戻って、足湯を楽しむ。オープンしたてで、特別に無料で開放しているのだ。ふだんの値段は何円なのか。ゆるやかに流れる温泉に足をつけ、ここのオリジナルだという冷たいパイプに 足の裏をつけて、冷暖の差をつけて血行をよくする仕組みだ。

あべのルシアスに移動して、HOPCLUBのイベント。
司会は番ことみと堀朱里。
まず2人でヴィヴァーチェの「On My Own」で踊る。
高校生チーム(加美真陽、滝口ミラ、星野真希、寺田有希)による「スプリングメドレー」では、加美(ギター)滝口(ソプラノリコーダー)星野(キーボード)寺田(アルトリコーダー)と楽器演奏もあって、「さくら(独唱)」「春よ、来い」「桜坂」「花」をメドレーで。
加美真陽と滝口ミラの「ミラクルマヨネーズ」はいつもの出囃しの後、いつもの歌を今日だけバージョンの「あいさつ」の歌にしていた。
安藤絵里菜と実はる那が安室奈美恵の歌で大人のダンスを披露。
実はる那と滝口ミラがアンガールズ風ショートコント。
高校生チーム再登場で、「翼をください」を手話コーラス。
最後にHOPCLUB8人揃って「AOZORA.RINGO」
なんだなんだ、えらい盛り沢山でこんなに充実したイベントを無料で見れるなんて、すごいことだ!
写真の撮影タイムが設けられ、DVDを買った人には握手会もあった。
前の方で見ていたのでよくわからなかったが、お客さんの集まり具合も半端じゃなく多かったようだ。

心斎橋まで戻って、都市生活工房で谷敦志写真展。
谷敦志はゴシックカルチャーの文脈で取り上げられることの多い写真家で、『夜想』や『BURST』などでその作品を見ることができる。
ピアッシングなどの身体改造、ファッション、アクション、表情、写真技術による多重のメタモルフォーズが作品としてあらわされている。だがしかし、あくまでもそれは夜、あるいは密室での閉ざされた光の中で密やかに変容しているものである。これらの写真を見て、僕は「時間を止める」とか「定着」なんてものを想起しなかった。たとえぞれが廃虚であっても、動く廃虚なのだ。たとえそれが死体であっても、動く屍なのだ。作品ひとつひとつが平面の巣箱めいていた。悪夢を見ている最中でも身体は水平で動かない、みたいな二律背反をそのまま映し出している。寝ていると思っていたら、閉じたまぶたの下で眼球だけがめまぐるしく動いている、というイメージ。
お茶をごちそうさまでした。
中沢新一と赤坂憲雄の対談をおさめた本『網野善彦を継ぐ』を読んだ。
網野氏の研究の成果は学問の世界では異端扱い。網野氏生前でも学界からのバッシングがひどかった。没後、下手すりゃ抹殺されるかもしれない。という危機感からこの本は出版されている。
僕自身、網野氏の本は1冊しか読んだことがなくて、しかも内容を忘れているので、もっと読まねば、という気にさせた。
なかでも刺激的なのは、マルクスの『資本論』の口ぶりからもわかるという、人間は根本的に都市型だという考えだ。土地にしばりつけられず移動する人間像を頭に描いている。貨幣が生まれたのはそれゆえだという。定住中心、水田稲作中心のものの考え方はもはや通用しない。それが古いからではない。古くすらないのだ。
古来よりの伝統だの慣習などは変わっていくものだし、それらが「古来」であるというのも間違いだ、とされると、何を頼りにすればいいのか。
自分しかない。
何かを頼りにしなくては駄目だというのは、それこそ駄目なのではないだろうか。
古来、「ナンバー1でなくていい、それぞれがオンリー1なのだ」という言葉がある。
本当にオンリー1か?
町に出て人を見ていると、君たちは誰かのコピーなのか?と思うような似たような人でごったがえしている。
それぞれが特別なオンリー1だなんてどこを見ればそんな腐った考え方ができるのか。
それぞれが特別なオンリー1だと思ってるなら、僕の格好を見て笑ったり後ろ指さしたりするな。
それぞれが特別なオンリー1なら、「変」なんて言葉は成り立たないはずだ。
僕のファッションに「変」と言う人が存在するかぎり、僕はその人たちのために、変なファッションを貫いていきたいと思う。

みんな元気。

2005年4月27日 読書
舞城王太郎の『みんな元気。』を読んだ。5つの話が収録されている。
表題作「みんな元気。」は一方的な子供の交換に揺れる空飛ぶ一家の話。流れるような文章の氾濫はいつもどおり。これだけ文章が多いと、ついついひっかかってしまう部分も出てくる、というわけで、ピックアップしたいのは、次の部分。

宮本いさおも野口健司もその他元彼たちも、恋愛の不可能性においてこそ私を惹きつけるらしい。「ゆりちゃんの元彼とか今彼となんて絶対嫌と言いながら、その絶対嫌なところでしか枇杷は相手を選べなかった訳よ」と南田は言う。「と言うか、選ばなかった訳だ。うまくいかないからこそいいんだよな」

恋愛に必ずと言っていいほどつきまとう「恋愛の不可能性」の問題だ。
具体的に不可能な条件を作中人物は選びとって、不可能性をはっきりした形で手にいれる。
でも、どんな恋愛でも、不可能性はつきまとっている。その気持ち悪さをふっきるために、はっきりと不可能なシチュエーションを自分のためにお膳立てするのだ。
それは別の言葉で言うと「臆病」にもつながる。
空を飛べない、という不可能性を確実にするために、足をあらかじめ骨折させるようなものだ。
ところが不思議なことに、恋愛で不可能性が意識されるのは、恋愛こそが「不可能を可能にする」行為だからなのだ。頭がいいと、かえって恋愛はしにくい。ちょっと僕と一緒に愚かになってみませんか?アフターケアはちゃんとしますよ。

「Dead for Good」にも気になる文章があった。

ああなってこうなってって利緒から話を進行してもらってるときには結構へえ、へえと思ってのめり込んだりもするのに、話が終わってみると、で、何だっけ?と俺は思う。何かうまいオチだった気もするのに、それがどう良かったのかが判らない。思うに物語を楽しむ力もまた物語についての知識と経験に大部分を負っているんだろう。

読むのは楽しいのに、それがどう面白いのやらよくわからないし、人に面白さを説明するのもまた困難だ。わが愛しの死神ちゃんなどは、見てきた映画や読んだ漫画の話を説明させたら天下一品で、「これ、きっと原作よりも面白い!」と思わせる。そんな話術なり分析力がほしいところだ。僕の方からも死神ちゃんにお返しで面白かったことを伝えたいのに、僕は自分が楽しむだけで、伝える能力に欠けている。何を伝えたいのかも忘れてしまうしね。うわ、そりゃどうしようもない。

この本についても、全然面白さを伝えることができない。どんな本だった?と聞かれたら、こんなことしか言えない。
「とにかく、根拠なくめちゃくちゃ前向きな作品集です」
「海女の戦慄」(1957年)を見た。志村敏夫監督、志賀弘原案、前田通子、三ツ矢歌子、天城竜太郎などが出ている。
海女のエロスは言うまでもないが、僕がこの映画を見て感心したのは、ヒーローの天城竜太郎のカッコ良さだ。時代劇かと思わせる大時代的な顔だちだが、荒くれ者と闘う際に、ニコニコと爽やかに笑いながら、私は逃げますよ、と宣言して闘わないのだ。勝ち負けなんかどっちでもいい、という態度は僕自身おおいに見習わなくてはならない。変にプライドとか自尊心とかあると、軽く見られたときにムカッとするものだ。でも、それは心の余裕の無さをあわらしているに過ぎない。
反日デモの報道を見ていて、ふとそんなことを思った。中国がそんなにあやまってほしいのなら、爽やかに「中国さん、あんたの言うとおりだ。あんたが正しいですよ。ごめんなさい。これから仲良くやっていきましょう」と言えばいいのに、と思う。「そんなこと何故言わねばならないんだ!」と憤慨するのは、自尊心の罠に囚われている。謝るのは簡単だ。どっちが正しいかなんて、当事者同士で決めずに、第三者が決めればいいことなのだ。国と国の関係、外交は闘いじゃないのだ。弱みを見せまいとすることが弱味そのものだということを、天城竜太郎は教えてくれている。
ほんまかいな。

「キンキンのルンペン大将」(1976年)も見た。石井輝男監督。愛川欣也、坂口良子などが出ている。
これもまた、昨日見た「わが恋せし乙女」同様、恋するキンキンが、坂口良子とうまくくっつくかと思いきや、坂口良子にはそんなつもりが全然なくて、他に恋人を作ってしまうのだ。リメイクかと思ったほどだ。
キンキンの格好ははっきりとチャップリンを意識したもので、ギャグは底抜けシリーズ。ベタ映画のエキスパート、石井輝男の本領が発揮されているのだが、そのギャグが笑えない。これはキンキンではペーソスがききすぎていて、いろんな失敗に素直に笑えないからだ。笑いのセンスが汚くて、キンキンがあぶらぎっているのがダメだ。
ただし、最後に坂口良子の恋を祝福して、キンキンと坂口良子が夜の遊園地で踊るシーンはなかなか見せる。キンキンはその遊園地の蝋人形館のナポレオンの人形のふりをするバイトをしている。そして、シンデレラのようなドレスを坂口良子に着せて、ナポレオンとシンデレラの華麗なダンスが繰り広げられる。遊園地の噴水がバックを彩る。
それと、ひとつ気づいたことがある。
「わが恋せし乙女」の女性は捨て子だった。
「キンキンのルンペン大将」は出稼ぎで都会に出て来て、頼る人のない2人が主人公だ。
「キンキンのルンペン大将」で面白いシーンが出てくる。出稼ぎのため、セーラー服姿で列車に乗って都会に出てきた少女が、都会でトルコ嬢になって働いている。母親がそれを見つけて、田舎に連れて帰ろうとする。だが、少女はきつい言葉で親を帰らせてしまう。母親にあきらめてもらうために、わざときつい言葉を使ったものだ。母親もそれを察して、泣きながら帰っていく。
都会で生活するということ、恋することに、家族は障害であり、邪魔だということがはっきりと描かれる。これは、家族を悪しきものだと言っているのではない。大好きで愛すべきものなのだが、人間として生きていく上では、切り離さねばならないものなのだ。
「昭和元禄TOKYO196X年」(1968年)をケーブルテレビで見た。恩地日出夫監督。伊丹十三、橋本功、吉田未来などが出ている。脚本に倉本聡。
殺人犯の少年を囮取材し、彼が自殺するスクープをとろうとする記者。
伊丹十三演じる記者はベトナム帰りで、日本の平和、昭和元禄ぶりを痛感し、この取材も気乗りせぬまま引き受けている。だが、伊丹十三を説得する際の橋本功の弁がふるっている。それを僕なりに言ってみると、こうだ。
「世界を見れば、あっちこっちで戦争や紛争が起きている。中国は反日感情をつのらせているし、北朝鮮はミサイルを日本に向けている。日本は平和ボケとしか言えない、とみんなは思っているだろう。でも、考えてみろ。戦争や紛争を起こす国が正常で、平和な日本が異常なのか?違うだろう。平和な日本が国の姿としては正しくて、武力で物事を解決しようとしている国の方が間違っているんじゃないか。間違っている異常な国に日本をあわせてどうする」
理想はいつも現実の前で無力化されてしまうが、これこそ考え方ひとつ、というやつで、現実ならば変革可能じゃないか。気に食わない現実なら変えればいいだけだ。

「わが恋せし乙女」(1946年)も見た。木下恵介監督。井川邦子、原保美などが出ている。
戦争から帰ってきた男、原保美は、幼なじみの井川邦子に恋心を抱いていた。だが、彼がいない間に、井川邦子は将来を約束する恋人を作っていたのだ。無邪気な井川邦子は、原保美に結婚のことを相談したりするのだ。井川邦子の恋人は、足が不自由な男で、それが結婚のときに反対されるんじゃないか、と悩んでいるのだ。
その際の会話は次のとおり。
「どういう人だ」
「戦地で負傷してひどいビッコになってしまったの」
「ビッコ?」
「でも立派な人よ。文化会を作って村の青年を指導してるの」
「そんなびっこの男なんか」
「ううん、ようこ、びっこでもいいの。足が悪くたって、お金がなくたって」
「今はそんなこと言ってたって、長い間には後悔するときがあるよ」
「そのことは、あの人も言ってたわ。でも、ようこ、けして後悔なんかしやしない。あの人はカタワでも、心は誰よりもまっすぐな人なんだもの」
この会話の前に、原保美は井川邦子に恋を打ち明けてプロポーズしようとしていたのに、先にこんな相談を持ちかけられたのだ。こんな力強い愛情の表明を聞かされては、彼も反対できない。
原保美は、悩んで彼女の結婚を祝福しようと頑張る。自分が結婚してくれ、と言えば、当時の田舎の風潮では、きっと結婚もできただろう。だが、そんなつらい思いをさせて結婚するくらいなら、彼女に幸せな結婚をさせてあげて、自分はいつまでも「おにいちゃん」と慕ってくれる方がいいのだ。(井川邦子は捨て子で、2人は兄妹として育てられたのだ)
なんとまあ、つらい話。でもよくある話だ。
失恋はつらいなあ。この映画みたいに、告白前に終わってしまう恋だってつらいのだ。ラストで、既にふっきれているかと思った彼が、ちょっとやそっとじゃ癒されない心の傷を負っていることが示されるシーンが出てくる。一方、乙女の方はどこまでも無邪気で、彼の心中にまったく気づかない。
恋というのは簡単だけど難しいなあ。
でも、どんなに傷ついても、恋をあきらめたりできない。
僕は46才の今も恋の現役だ。若くして結婚した人たちは、そのあたり、どう処理しているんだろう。結婚することで障害は増えるだけなのに、なぜ結婚するんだろう。
これは60年ほど前の映画だから、こんな心情が描かれるのだが、現代ではどうだろう。
エウレカ7みたいに、唐突に恋の告白をあっけらかんとしてしまうのだろう。
僕もそうだった。でも冗談にしか思われないんだなあ。
昨日HELP!に出てくれた新アイドルの野中ひゆちゃんは、大阪日本橋の某メイド喫茶のメイドさんだ。
知り合ったときは学生で芸術家さんだったのだが、親しくなってまもなくメイド喫茶で働きだしたのだ。
僕の私見だが、この子はとにかく見守ってあげなくてはならない。
逆にいうと、特別なことをしなくても、見守ってあげるだけで、自分でなんでもこなすし、へこんでも回復できる少女なのだ。と、思う。
今日も朝からメイドで入っているというので、これは何としても「ご帰宅」しなくては。
ここのメイド喫茶は、複数のメイドさんを、マスターのおじさん(料理を作ったりしてる)が、「あそこのテーブルを片付けなさい」とか「〜しなさい」とリモートコントロールしている。オートマチック・メイド・コントロール。略して「オーメイコ」
おいしさを満喫する一杯の珈琲。おいしい・満喫・コーヒー。略して、えーっと、やめとこう。

今日は神戸ポ−トピアランドで創叡のライブ。
2回公演の2回目だけを見る。
ざっと演目紹介。正式の表記じゃないものもあるが、まあ、いいか。
ステッパーズ/ショータイム
ミニバブ/ジュテーム、ジュテーム
トレード/憧夢
プリティーズ/渚の「…」
クランベリーズ/恋してるって感じ
プリッツ/can’t take my eyes
フレーズ/ダンシング・ジャンク
ペトラキッズ/トラ トラ トラ
ハローキティ選抜/そんでもってファンファンファン
アーミーズ/Yeah
ミニミニclub/みんなに一番
マシェリ/モーニングコーヒー
リサコ&レイナ/センチメタルボーイ
ミューズ/瞳は元気なブルースカイ
ファッションズ/キッズクリエイション
いちごっ娘/Uki Uki Baby
ブラックベリーズ/Can’t be Stopped
TOUCH/ラブ・ラズベリージュース
TOUCH&FRIENDS/IF YOU WERE HERE
スーパーバブルス/バイク
ポ−トピア名物の通路でのショータイムがなかった。
そんなことより、今日、暑くないか?日焼け止めの本格的出動初日だ。

帰宅してFM「現代の音楽」はブーレーズ。
見たテレビで書き留めておきたいのは映画「アンドリューNDR114」
ロボットが人間の感情を持ち、人間として認められたいと望む。
そのためには、不老不死の身体を捨てて、老いて死ぬ身体を手にいれるのだ。
だがしかし、このロボットがなりたかったのは、「人間」ではなく、「アメリカ人」なんじゃないか、と思った。
人間として認めてあげよう、ただし、パレスチナ人だぞ、と言われて、このロボットは承諾するのか?アフガニスタン人だぞ、と言われて承諾するか?
この映画を見るかぎり、ロボット以下の境遇にある民族で、虫ケラ以下の扱いで人権を無視され、殺されている人間にでも、このロボットはなりたいのか?
もしも人間の自由を素晴らしいものだとこのロボットが判断したのなら、やるべきことは、自分を人間として認めてもらうことなどではなく、人間として扱われていない、自由を奪われた人間たちのために、その不死の身体を使うべきではなかったか。
それと、ロボットゆえの情報のインプットの速さはうらやましく思った。
本は手を止めずにペラペラとページをめくっていって、頭に叩き込むことができるのだ。
頭のいい人は、似たような速読力を有しているらしい。
うらやましい。

HELP!

2005年4月23日 アイドル
ISBN:4757700296 コミック 羽生生 純 エンターブレイン 2000/04 ¥924 自称「漫画芸術家」男とコスプレイヤーOLの怒濤(どとう)の恋愛サバイバル。人一倍自尊心の強いオタク気質同士の2人の恋は、一見キワモノ的に見えるかもしれないが、ここに描かれているのは、あまりにも純粋な自分の宝物を心に抱えてしまった、愛すべき人間同士のまっすぐで不器用な純愛である。 お互いに相手の大切にしているこだわ…

えい、うるさい!最後の「こだわ…」って何だ。
今日は芦原橋ウィングでアイドルイベントHELP!
今回から新アイドルの野中ひゆちゃんが参加。ゆうこりんの歌を歌ったり、ゲームに参加してもらったり。
今日は各アイドルたちに自分撮りのビデオを用意してもらって鑑賞した。
これがまたアイドルたちの意外な一面とか、親しみなど、いい方に作用したようで、イベントはとても気持ちいい雰囲気で進行した。
それもこれも、こんな僕のイベントにこころよく出演してくれているアイドルちゃんたちの人徳によるものだ。ありがたい。
放課後の部活みたいに、1ヶ月に1回と言わず、しょっちゅうこのメンバーで集まりたいなあ、と思った。

で、打ち上げで行った日本橋百景で、6月くらいにこのメンバーでアイドルイベントをすることに決めて、いろいろ考えた。
こうやってイベントを企画しているときって、とても楽しい。
タイトルもほぼ決まった。
僕はたいてい内容よりもまずタイトルが先に決まるのだ。
打ち上げだというのに、僕は店においてある漫画『恋の門』の第1巻をまるまる読んだ。
今日のイベント「HELP!」は僕が企画しているイベントだというのに、みんなの輪に入らず、カウンターでひとりで漫画を読んでいたのだ。いったい僕はどういうつもりなのか。
イベントは大成功で、とても楽しかったのだが、あいにくと睡眠不足が蓄積していて、とても頭が回らない。
脳味噌への栄養のつもりで漫画を読んでいた。
最近、漫画欠乏症なのだ。
24時間漫画喫茶で過ごしたい。

NHKにようこそ!

2005年4月22日 読書
滝本竜彦の2冊目『NHKにようこそ!』を読んだ。
ひきこもりを主人公にした小説。
この1冊の中には、ひきこもり、陰謀、ロリコン、クスリ、エロゲー、新宗教、自殺、といった、オタクたちにとって甘い餌がふんだんに仕込まれており、それがまためちゃくちゃ美味しい。
最初の方に、自分がダメ人間である証拠をこれでもかというほど実例を列挙する描写が出てくる。
「昨日、久しぶりに朝の七時というまともな時間に目を覚ましたものの、ベッドに横になったまま、昼すぎまで物思いに耽ってしまったこの俺に、まともな社会生活なんて不可能だ」
「その後、軽く昼寝をしようと思って目を閉じたら、今朝の五時までぐっすり熟睡してしまったこの俺に、まともな社会生活なんて不可能だ」云々。
反省しなくちゃならないこととして、身につまされる、というより、なんだか暖かい布団にくるまっているような、共感を覚えてしまう僕もまた、まともな社会生活なんて不可能なダメ人間なのだ。
「NHK」は、「日本ひきこもり協会」の略で、このNHKの陰謀によって、主人公はダメ人間になってしまった、と思い込んでいる。
自分のふがいなさを陰謀で理由づけようとしているのだ。
これこそダメ人間の証しみたいなものだが、逃げ場として甘美だ。
さて、自分は何の陰謀によってこんな人間に成り下がってしまったのか。
「日本ひとでなし協会」NHK?
「日本へたれ協会」NHK?
「日本半ズボン協会」NHK?

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