鬼火、歴史の中で語られてこなかったこと―おんな・子供・老人からの「日本史」
2005年5月31日 映画
ケーブルテレビで映画「鬼火」を見た。
「鬼火」という題名の映画というとルイ・マル監督、エリック・サティ音楽の、あの自殺映画を思い出すが、この映画はまた別物。でも、映画見た印象はきわめて暗くてこわい。
千葉泰樹監督、薄幸の女性に津島恵子、ガス集金人に加東大介、寝たきりの病人に宮口精二、というキャスト。
お金がなくてガス代を滞納している津島恵子。ガス代をチャラにするかわりに、抱かせろと迫るスケベなガス集金人加東大介。寝たきりの夫、宮口精二は、それと察しながら、津島恵子を加東大介のところに行かせる。
無邪気に銭湯で体をピカピカに磨きながらワクワクしている加東大介は、どこにでもいるおっちょこちょいの小市民でしかない。津島恵子とのやりとりを妄想しながらニヤニヤするのもコミカルだ。(この空想のシーンは、映像が鏡像になっていて、現実とはそっくりだが微妙に違う、というのをうまく表現していた)
結局、津島恵子は何もさせずに逃げてしまう。
後に残った加東大介は、「ちぇっ」というわけで、ここまで見たところ、まさかこの映画がこんなにも怖い映画だなんて思いもしなかった。
翌日、加東は津島の家に集金に行く。外から見ると、やかんも鍋もかけていないガスコンロで炎がついているのがわかる。「もったいないこと、しやがって」と、戸をあけて中に入る加東大介。
これから先は、書いてしまうと怖さを半減してしまうので、控えておこう。あまりの怖さにふるえた。文句無しに、今まで見た映画の中で一番、悪夢にみそうな映画だ。この映画、吉屋信子原作で、文庫も出ていたはずなので、また機会があれば読んでみよう。
ガスの火が「鬼火」になってしまうのか。
網野善彦と宮田登による『歴史の中で語られてこなかったこと』を読んだ。
第1部 歴史から何を学べばいいのか
1、歴史からヒントを得る「文字や映像の世界」
2、「農業中心史観」が隠蔽した女性の役割
3、女性史の常識を覆す「桑と養蚕の世界」
4、「女性と織物の歴史」を民俗学が解き明かす
5、「老人の役割」を認める歴史を発見する
6、古い伝統に裏付けられた「接待」と「談合」の歴史
7、日本人の国家意識を作った「地図の思想」
8、歴史家・清水三男の足跡をたどる
9、「従軍慰安婦」問題をめぐって
10、『日本社会の歴史』を読みなおす
第2部 歴史研究家と民俗学者の対話
◯歴史と民俗の十字路
◯「衣装」の再発見
◯渋沢敬三の仕事と意義
◯コメと日本人
◯新しい日本像を求めて
今でもニュースをにぎわす「談合」について、本書では面白い視点でとらえている。
東京の団子坂(D坂)の由来は、「談合坂」にあるらしい。このD坂の奥には根津権現の古社がある。神社に至る道は聖俗の境界で、相談事というのは、こうした聖のテリトリーたる境界で行われていたのだ。
境界には市場がたつ。市場ではすべてのものが「無縁」になり、ゆえに商品交換ができる。普通の場所では物のやりとりは贈与とお返しになって、人間の関係が緊密につながってしまうのだ。
ほほー。神社に市がたつ、というのは、「鳥居はなぜ赤い」の問答で僕が回答した根拠の出発点である。鳥居は商品交換の看板でもあったのだ。もちろん、ここには日本国内だけでなく、外国との交通も関与しているのは言うまでもなかろう。
また、この本を読んで知ったのだが、「和尚」は中世では「ワショウ」と読んでいたらしい。吉本で和尚に対して「ワショウ」と呼び掛けて笑いをとるネタがあるが、歴史的には別におかしくない呼び掛けだったのだ。
あと、この本では予言的な文言も含まれている。
「うつろいゆく時の変わり目に、子供文化の問題が社会化する」のだそうだ。これは歴史的な事実。かつて大化の改新の直前には童謡が流行したらしい。現代でも、童謡がヒットしたり、子供の犯罪が取り沙汰されたりするのは、時代が変わる予兆でもあるのだ。
僕はかつて、時代の流れはすべてテレビ時代劇の中に書き込まれている、と思って、時代劇占いなんかしていたが、こども番組にこそ、もっとストレートな形で、未来の記述がされているんじゃないか、と思った。
「鬼火」という題名の映画というとルイ・マル監督、エリック・サティ音楽の、あの自殺映画を思い出すが、この映画はまた別物。でも、映画見た印象はきわめて暗くてこわい。
千葉泰樹監督、薄幸の女性に津島恵子、ガス集金人に加東大介、寝たきりの病人に宮口精二、というキャスト。
お金がなくてガス代を滞納している津島恵子。ガス代をチャラにするかわりに、抱かせろと迫るスケベなガス集金人加東大介。寝たきりの夫、宮口精二は、それと察しながら、津島恵子を加東大介のところに行かせる。
無邪気に銭湯で体をピカピカに磨きながらワクワクしている加東大介は、どこにでもいるおっちょこちょいの小市民でしかない。津島恵子とのやりとりを妄想しながらニヤニヤするのもコミカルだ。(この空想のシーンは、映像が鏡像になっていて、現実とはそっくりだが微妙に違う、というのをうまく表現していた)
結局、津島恵子は何もさせずに逃げてしまう。
後に残った加東大介は、「ちぇっ」というわけで、ここまで見たところ、まさかこの映画がこんなにも怖い映画だなんて思いもしなかった。
翌日、加東は津島の家に集金に行く。外から見ると、やかんも鍋もかけていないガスコンロで炎がついているのがわかる。「もったいないこと、しやがって」と、戸をあけて中に入る加東大介。
これから先は、書いてしまうと怖さを半減してしまうので、控えておこう。あまりの怖さにふるえた。文句無しに、今まで見た映画の中で一番、悪夢にみそうな映画だ。この映画、吉屋信子原作で、文庫も出ていたはずなので、また機会があれば読んでみよう。
ガスの火が「鬼火」になってしまうのか。
網野善彦と宮田登による『歴史の中で語られてこなかったこと』を読んだ。
第1部 歴史から何を学べばいいのか
1、歴史からヒントを得る「文字や映像の世界」
2、「農業中心史観」が隠蔽した女性の役割
3、女性史の常識を覆す「桑と養蚕の世界」
4、「女性と織物の歴史」を民俗学が解き明かす
5、「老人の役割」を認める歴史を発見する
6、古い伝統に裏付けられた「接待」と「談合」の歴史
7、日本人の国家意識を作った「地図の思想」
8、歴史家・清水三男の足跡をたどる
9、「従軍慰安婦」問題をめぐって
10、『日本社会の歴史』を読みなおす
第2部 歴史研究家と民俗学者の対話
◯歴史と民俗の十字路
◯「衣装」の再発見
◯渋沢敬三の仕事と意義
◯コメと日本人
◯新しい日本像を求めて
今でもニュースをにぎわす「談合」について、本書では面白い視点でとらえている。
東京の団子坂(D坂)の由来は、「談合坂」にあるらしい。このD坂の奥には根津権現の古社がある。神社に至る道は聖俗の境界で、相談事というのは、こうした聖のテリトリーたる境界で行われていたのだ。
境界には市場がたつ。市場ではすべてのものが「無縁」になり、ゆえに商品交換ができる。普通の場所では物のやりとりは贈与とお返しになって、人間の関係が緊密につながってしまうのだ。
ほほー。神社に市がたつ、というのは、「鳥居はなぜ赤い」の問答で僕が回答した根拠の出発点である。鳥居は商品交換の看板でもあったのだ。もちろん、ここには日本国内だけでなく、外国との交通も関与しているのは言うまでもなかろう。
また、この本を読んで知ったのだが、「和尚」は中世では「ワショウ」と読んでいたらしい。吉本で和尚に対して「ワショウ」と呼び掛けて笑いをとるネタがあるが、歴史的には別におかしくない呼び掛けだったのだ。
あと、この本では予言的な文言も含まれている。
「うつろいゆく時の変わり目に、子供文化の問題が社会化する」のだそうだ。これは歴史的な事実。かつて大化の改新の直前には童謡が流行したらしい。現代でも、童謡がヒットしたり、子供の犯罪が取り沙汰されたりするのは、時代が変わる予兆でもあるのだ。
僕はかつて、時代の流れはすべてテレビ時代劇の中に書き込まれている、と思って、時代劇占いなんかしていたが、こども番組にこそ、もっとストレートな形で、未来の記述がされているんじゃないか、と思った。
網野善彦、佐藤進一、笠松宏至による『日本中世史を見直す』を読んだ。
(1)日本中世史を見直す〜鎌倉期から南北朝期へ(対談)
1、1960、70年代における研究状況
2、得宗専制から後醍醐専制へ
3、後醍醐専制の継承者、室町幕府
4、武家支配の外の世界
5、鎌倉、南北朝期の人物群像
(2)後醍醐と尊氏〜建武の新政から南北朝の動乱へ
はじめに−変化と流動の時代(笠松)
1、王権の危機(網野)
2、二条河原落書の世界−後醍醐の政治(笠松)
3、京都の幕府−尊氏と直義(笠松)
4、南北朝動乱の意義(網野)
付、楠木正成の実像(網野)
(3)転換期としての鎌倉末、南北朝期(網野)
参考資料
1、平政連諌草
2、花園上皇「誡大子書」
3、吉田定房奏状
4、北畠顕家奏状
この本は数日かけてやっと読み終えた。参考資料に至ってはとばし読みだ。
歴史家どうしによる対談は、今まで読んできた一般向けの本とは違って、日本史に興味のない僕にとっては少々キツかったということだ。
どれだけ僕が日本史に疎いかというと、本書で再三にわたって出てきた「顕家」を、「得宗」などと同様、どこかの一族の名前だと思い込んでいたくらいだ。「家」を文字どおりの「一家」だと思ってたのだ。
もちろん、「顕家」は北畠顕家のことである。北畠親房の子だ。「神皇正統記」ならぬ「真の小頭記」だ。
この本で感心した部分は、学界では認められていない、という前提で語られた「窪所」についての仮説だ。(笠松氏)
「窪所」は建武中興政府の役所の一つ。このネーミングが謎なのだと言う。ここでの謎ときは、あざやかだった。「窪」という文字を「穴」と「注」の合成と考える。「穴」は「問」という字に似ているから、「窪所」は「問注所」になるのだ。「穴」と「問」が似ているとは、こんな字体ではわかりにくいが。問注所は鎌倉幕府以来の役所の名前だ。
それを「窪所」と読み替えたところに、後醍醐の奇抜な感覚が見てとれるのだ。
(1)日本中世史を見直す〜鎌倉期から南北朝期へ(対談)
1、1960、70年代における研究状況
2、得宗専制から後醍醐専制へ
3、後醍醐専制の継承者、室町幕府
4、武家支配の外の世界
5、鎌倉、南北朝期の人物群像
(2)後醍醐と尊氏〜建武の新政から南北朝の動乱へ
はじめに−変化と流動の時代(笠松)
1、王権の危機(網野)
2、二条河原落書の世界−後醍醐の政治(笠松)
3、京都の幕府−尊氏と直義(笠松)
4、南北朝動乱の意義(網野)
付、楠木正成の実像(網野)
(3)転換期としての鎌倉末、南北朝期(網野)
参考資料
1、平政連諌草
2、花園上皇「誡大子書」
3、吉田定房奏状
4、北畠顕家奏状
この本は数日かけてやっと読み終えた。参考資料に至ってはとばし読みだ。
歴史家どうしによる対談は、今まで読んできた一般向けの本とは違って、日本史に興味のない僕にとっては少々キツかったということだ。
どれだけ僕が日本史に疎いかというと、本書で再三にわたって出てきた「顕家」を、「得宗」などと同様、どこかの一族の名前だと思い込んでいたくらいだ。「家」を文字どおりの「一家」だと思ってたのだ。
もちろん、「顕家」は北畠顕家のことである。北畠親房の子だ。「神皇正統記」ならぬ「真の小頭記」だ。
この本で感心した部分は、学界では認められていない、という前提で語られた「窪所」についての仮説だ。(笠松氏)
「窪所」は建武中興政府の役所の一つ。このネーミングが謎なのだと言う。ここでの謎ときは、あざやかだった。「窪」という文字を「穴」と「注」の合成と考える。「穴」は「問」という字に似ているから、「窪所」は「問注所」になるのだ。「穴」と「問」が似ているとは、こんな字体ではわかりにくいが。問注所は鎌倉幕府以来の役所の名前だ。
それを「窪所」と読み替えたところに、後醍醐の奇抜な感覚が見てとれるのだ。
STSライブ@ポートピアランド、奥 浩哉短編集 『赤』『黒』
2005年5月29日 アイドル
神戸ポートピアランドでSTSライブがあった。
まず午後1時の1回目のリスト。
ショータイム/ステッパーズ
憧夢〜風に向かって/トレード
渚の「・・・・・」/プリティーズ
ラブリーフレンドシップ/ペトラキッズ
モーニングコーヒー/マシェリー
そんでもってFUN FUN FUN/ハローキティ選抜(いちごっ娘の今川奈美ちゃんがいる!)
スタッフ/Do(神戸校からの参加)
みんなに一番/ミニミニclub
ステディー/クランベリーズ(中山阿友ちゃんが久々に参加!)
ハピネス/ファッションズ
Get your Groove/いちごっ娘
センチメタルボーイ/RISAKO & REINA
ちょっとだけMY LOVE/ミューズ
セクシー・ノーティ・ビッチー/ブラックベリーズ
クインシー/TOUCH
バイク/スーパーバブルス
午後3時からの2回目のリストで、1回目と違う部分だけあげると、
マシェリー(別衣装)
クランベリーズはこのステージで卒業。ステディーに続いて「ファイナル・ファン・ボーイ」でラストステージを飾った。
いちごっ娘「Uki Uki Baby」
ミューズ「瞳は元気なブルースカイ」
ブラックベリーズ「Can’t be Stopped」
TOUCH「ラブ☆ラズベリージュース」
クランベリーズ卒業で、メンバーは泣きながら踊る。ミューズにもその涙が感染したのか、大泣きに泣きながらのステージになった。ミューズにも異動があったのである。
2ステージ全部終わる頃から天気まで雨模様。
帰りに三宮で行きつけのビビンバ屋に行ったが、貸店舗になっていた。
石焼きビビンバもしょせんはいっときのブームが生んだ徒花だったのか。
奥浩哉の短編集『赤』と『黒』を読んだ。
なんじゃ、こりゃ。内容はほとんど『変』の3巻までの再構成で、各巻末にそれ以外の1編が入っているだけか!
でも、その未読だった『黒』収録の「観察日記」という短編がなかなか読ませる。じゅうぶんいやーな気分にさせてくれる。こんなもんでは物足りないのかもしれないが、わが愛する死神ちゃん向けの作品だった。少女監禁の話で、これといった掘り下げも新機軸もないのだが、こういう題材で作品を書く、というのが興味深かった。やっぱり奥浩哉って、変態だ。
この2冊の短編集は『変』(鈴木くんと佐藤くんの話)よりも面白く、『GANTZ』の面白さには届かない。奥浩哉の作品を読んでいると、ますます『GANTZ』に深い意味を読み取ることにどれだけ意味があるのか、と思えてくる。きっと作者は読者の予想を越えた深い真相など設定していなくて、ただただ面白い娯楽作品を書いているだけのような気がする。それはいさぎよくて、僕は好きなのだが。
まず午後1時の1回目のリスト。
ショータイム/ステッパーズ
憧夢〜風に向かって/トレード
渚の「・・・・・」/プリティーズ
ラブリーフレンドシップ/ペトラキッズ
モーニングコーヒー/マシェリー
そんでもってFUN FUN FUN/ハローキティ選抜(いちごっ娘の今川奈美ちゃんがいる!)
スタッフ/Do(神戸校からの参加)
みんなに一番/ミニミニclub
ステディー/クランベリーズ(中山阿友ちゃんが久々に参加!)
ハピネス/ファッションズ
Get your Groove/いちごっ娘
センチメタルボーイ/RISAKO & REINA
ちょっとだけMY LOVE/ミューズ
セクシー・ノーティ・ビッチー/ブラックベリーズ
クインシー/TOUCH
バイク/スーパーバブルス
午後3時からの2回目のリストで、1回目と違う部分だけあげると、
マシェリー(別衣装)
クランベリーズはこのステージで卒業。ステディーに続いて「ファイナル・ファン・ボーイ」でラストステージを飾った。
いちごっ娘「Uki Uki Baby」
ミューズ「瞳は元気なブルースカイ」
ブラックベリーズ「Can’t be Stopped」
TOUCH「ラブ☆ラズベリージュース」
クランベリーズ卒業で、メンバーは泣きながら踊る。ミューズにもその涙が感染したのか、大泣きに泣きながらのステージになった。ミューズにも異動があったのである。
2ステージ全部終わる頃から天気まで雨模様。
帰りに三宮で行きつけのビビンバ屋に行ったが、貸店舗になっていた。
石焼きビビンバもしょせんはいっときのブームが生んだ徒花だったのか。
奥浩哉の短編集『赤』と『黒』を読んだ。
なんじゃ、こりゃ。内容はほとんど『変』の3巻までの再構成で、各巻末にそれ以外の1編が入っているだけか!
でも、その未読だった『黒』収録の「観察日記」という短編がなかなか読ませる。じゅうぶんいやーな気分にさせてくれる。こんなもんでは物足りないのかもしれないが、わが愛する死神ちゃん向けの作品だった。少女監禁の話で、これといった掘り下げも新機軸もないのだが、こういう題材で作品を書く、というのが興味深かった。やっぱり奥浩哉って、変態だ。
この2冊の短編集は『変』(鈴木くんと佐藤くんの話)よりも面白く、『GANTZ』の面白さには届かない。奥浩哉の作品を読んでいると、ますます『GANTZ』に深い意味を読み取ることにどれだけ意味があるのか、と思えてくる。きっと作者は読者の予想を越えた深い真相など設定していなくて、ただただ面白い娯楽作品を書いているだけのような気がする。それはいさぎよくて、僕は好きなのだが。
幻堂創作紙芝居ウォーズ、HELP!
2005年5月28日 ライブ神戸元町の海文堂書店2階で「幻堂創作紙芝居ウォーズ」
第1部「創作紙芝居バトルロワイヤル」(タイトルは覚えているのだけ書いた)
大法螺堂
白石榮子「妻は告白する」(絵:山本精一、日向ミチヲ)
森元暢之「原罪と楽園の追放」(音楽:たらすな)
ドイツ三本「ササレさん」
山本巌
山井坂太郎「まるともさん」
中野りうし「デルフィンヌ・ソランジュ」(絵:結城春架)
竜巻竜次「高速紙芝居」
中村よお
太郎吉野「菊水山にはとまりません」
尻プロ
以上の紙芝居から投票により、山井坂太郎氏が優勝し、山本巌氏制作のチャンピオンベルトが贈呈された。
第2部
森元暢之「恋はお好みに」「こころの森」「新作」(タイトル忘れた。チュー星人が出てくる)
ドイツ三本「パイパンマン」「(題名忘れた)」
紙芝居面白いなー。竜巻竜次の「高速紙芝居」は僕の持ちネタとかぶったかと思っていたら、内容は全然違って、ほっとした。
行きも帰りもあわただしくて、いろんな人への挨拶もそこそこに、また、今日こそ寄れると思っていた、ちんき堂にも顔を出せなかった。
夕方から芦原橋でHELP!
今日は6月12日に日本橋百景で行うイベント「御花畑」に向けて、オリジナルメニューを考えるコーナー、梅雨を控えて、てるてるぼうずを作るコーナー、自己紹介歌の歌詞を考えるコーナーをやった。これがことごとくすべって、かなり落ち込んだ。宿題を与えて何かやろう、とした僕の姿勢が大間違いだったのだ。いや、それとも僕の考えた宿題に魅力がなかったのか。あまりの申し訳なさに、舞台に縄があったら、首を吊っていただろう。そして、邪魔なテルテルぼうずとして「ゆあーん」と揺れ続けるのだ。
今後は、とっさのリアクションを引き出す路線に邁進しよう。
あいかわらず、歌のコーナーは大満足。これだけは、アイドルイベントと銘打つかぎりは絶対になくしてはならない。
イベント後、来月のHELP!のゲストのことで、控え室で打ち合わせ。
家に帰って、1人でやけ酒飲んでいるつもりが、ビールがおいしくて、ちっとも自暴自棄になれなかった。くそー。せっかく落ち込んだはずなのに。
第1部「創作紙芝居バトルロワイヤル」(タイトルは覚えているのだけ書いた)
大法螺堂
白石榮子「妻は告白する」(絵:山本精一、日向ミチヲ)
森元暢之「原罪と楽園の追放」(音楽:たらすな)
ドイツ三本「ササレさん」
山本巌
山井坂太郎「まるともさん」
中野りうし「デルフィンヌ・ソランジュ」(絵:結城春架)
竜巻竜次「高速紙芝居」
中村よお
太郎吉野「菊水山にはとまりません」
尻プロ
以上の紙芝居から投票により、山井坂太郎氏が優勝し、山本巌氏制作のチャンピオンベルトが贈呈された。
第2部
森元暢之「恋はお好みに」「こころの森」「新作」(タイトル忘れた。チュー星人が出てくる)
ドイツ三本「パイパンマン」「(題名忘れた)」
紙芝居面白いなー。竜巻竜次の「高速紙芝居」は僕の持ちネタとかぶったかと思っていたら、内容は全然違って、ほっとした。
行きも帰りもあわただしくて、いろんな人への挨拶もそこそこに、また、今日こそ寄れると思っていた、ちんき堂にも顔を出せなかった。
夕方から芦原橋でHELP!
今日は6月12日に日本橋百景で行うイベント「御花畑」に向けて、オリジナルメニューを考えるコーナー、梅雨を控えて、てるてるぼうずを作るコーナー、自己紹介歌の歌詞を考えるコーナーをやった。これがことごとくすべって、かなり落ち込んだ。宿題を与えて何かやろう、とした僕の姿勢が大間違いだったのだ。いや、それとも僕の考えた宿題に魅力がなかったのか。あまりの申し訳なさに、舞台に縄があったら、首を吊っていただろう。そして、邪魔なテルテルぼうずとして「ゆあーん」と揺れ続けるのだ。
今後は、とっさのリアクションを引き出す路線に邁進しよう。
あいかわらず、歌のコーナーは大満足。これだけは、アイドルイベントと銘打つかぎりは絶対になくしてはならない。
イベント後、来月のHELP!のゲストのことで、控え室で打ち合わせ。
家に帰って、1人でやけ酒飲んでいるつもりが、ビールがおいしくて、ちっとも自暴自棄になれなかった。くそー。せっかく落ち込んだはずなのに。
拾った女、三浦悦子義躰標本室、変
2005年5月27日 映画
サミュエル・フラー監督の「拾った女」を見た。1953年アメリカ。
スリ(リチャード・ウィドマーク)が掏ったのは、共産主義スパイに渡るはずのフィルムだった。女は何も知らずに運び屋の役目を負わされていたのだ。
スリと女がデキてしまったり、共産主義が無条件に悪だと描かれていたり、共産主義スパイがとことん間抜けでしかも格闘弱いし、スパイからフィルムを取り戻したのでスリが今までに犯した罪が帳消しになったり、まあ、都合のいいこと、いいこと。そこがいい!ということも言えるが、こんな単純な映画ばかり見ていたら、そりゃアフガニスタンとかイラクとか爆撃するわなあ、と納得した。
松屋町のサブタレニアンズに行き、三浦悦子義躰標本室を見た。
サブタレニアンズに行ったのははじめて。
最近、自分の好きな店や場所が次々と消滅していく。
好きな場所というのが、人のいない店とか、古くてギシギシ鳴く建物とかなので、もともと失われる予備軍ばかり好きになっているせいかもしれない。
このサブタレニアンズはほとんど朽ち果てた空き家みたいな場所で、ありえない狭く急な階段や、子供しか入れなさそうな小さな浴槽、高い天井、ギシギシ鳴ってるし!居心地いい!
三浦悦子の人形作品は医療器具を多用したもので、サブタレニアンズが朽ちた医院、病院を思わせた。ドグラマグラやドグママグロの世界だ。
先日、法事で親戚たちの会話を聞いていると、年齢層が高くて、多くの話題は病気や病院で昭和にタイムスリップしたような眩暈を感じた。
僕の父親も祖父も病院に入院して、死んだが、その病院は上本町の赤十字病院だった。まさしく、ドグママグロの世界。病院の怪談話は大半がこの病院から生まれたんじゃないかと思わせるようなたたずまいを見せていた。異常に天井が高く、暗い。外から見ても幽霊病院だったが、中に入るとまさに迷宮だった。(現在は改装済み)
サブタレニアンズにいると、その病院に通っていた頃の自分に戻った。病院ってのは、こうでなくっちゃ。
昨日に引き続き、読書に身が入らない。
バイオリズムってのはあるんだ。きっと。
で、奥浩哉の『変』全13巻を読んだ。90年代前半の作品で、この漫画を読んでいない、ということは、いかに自分の中の漫画生活が80年代でストップしているかがうかがわれる。3巻までは作品集だが、4巻からは鈴木くんと佐藤くんの学園ホモ物語になっている。
後半になると、絵がキモくなってくる。佐藤くんがすっかりうじうじした性格になって、とる行動が女性そのものになる。最初の少年らしさはどこに行ってしまったんだ。これじゃ、連載終わってしまうぞ、と、11巻くらいで思った。
佐藤くん見ると、自分の中学高校時代を思い出してしかたがない。僕はホモじゃないけど、もしもホモであれば、どんなに学園生活をエンジョイできたかしれやしない。今や見る影もない姿に落ちぶれはてたが、あの頃はあの頃で弱い自分がとても嫌だった。戻れるとしても、学生時代には戻りたくない。
この漫画も面白かった。現在人気の漫画を追い掛けなくても、90年代の大量の漫画たちが、僕を待っているのだ。ワクワクしてきた。
スリ(リチャード・ウィドマーク)が掏ったのは、共産主義スパイに渡るはずのフィルムだった。女は何も知らずに運び屋の役目を負わされていたのだ。
スリと女がデキてしまったり、共産主義が無条件に悪だと描かれていたり、共産主義スパイがとことん間抜けでしかも格闘弱いし、スパイからフィルムを取り戻したのでスリが今までに犯した罪が帳消しになったり、まあ、都合のいいこと、いいこと。そこがいい!ということも言えるが、こんな単純な映画ばかり見ていたら、そりゃアフガニスタンとかイラクとか爆撃するわなあ、と納得した。
松屋町のサブタレニアンズに行き、三浦悦子義躰標本室を見た。
サブタレニアンズに行ったのははじめて。
最近、自分の好きな店や場所が次々と消滅していく。
好きな場所というのが、人のいない店とか、古くてギシギシ鳴く建物とかなので、もともと失われる予備軍ばかり好きになっているせいかもしれない。
このサブタレニアンズはほとんど朽ち果てた空き家みたいな場所で、ありえない狭く急な階段や、子供しか入れなさそうな小さな浴槽、高い天井、ギシギシ鳴ってるし!居心地いい!
三浦悦子の人形作品は医療器具を多用したもので、サブタレニアンズが朽ちた医院、病院を思わせた。ドグラマグラやドグママグロの世界だ。
先日、法事で親戚たちの会話を聞いていると、年齢層が高くて、多くの話題は病気や病院で昭和にタイムスリップしたような眩暈を感じた。
僕の父親も祖父も病院に入院して、死んだが、その病院は上本町の赤十字病院だった。まさしく、ドグママグロの世界。病院の怪談話は大半がこの病院から生まれたんじゃないかと思わせるようなたたずまいを見せていた。異常に天井が高く、暗い。外から見ても幽霊病院だったが、中に入るとまさに迷宮だった。(現在は改装済み)
サブタレニアンズにいると、その病院に通っていた頃の自分に戻った。病院ってのは、こうでなくっちゃ。
昨日に引き続き、読書に身が入らない。
バイオリズムってのはあるんだ。きっと。
で、奥浩哉の『変』全13巻を読んだ。90年代前半の作品で、この漫画を読んでいない、ということは、いかに自分の中の漫画生活が80年代でストップしているかがうかがわれる。3巻までは作品集だが、4巻からは鈴木くんと佐藤くんの学園ホモ物語になっている。
後半になると、絵がキモくなってくる。佐藤くんがすっかりうじうじした性格になって、とる行動が女性そのものになる。最初の少年らしさはどこに行ってしまったんだ。これじゃ、連載終わってしまうぞ、と、11巻くらいで思った。
佐藤くん見ると、自分の中学高校時代を思い出してしかたがない。僕はホモじゃないけど、もしもホモであれば、どんなに学園生活をエンジョイできたかしれやしない。今や見る影もない姿に落ちぶれはてたが、あの頃はあの頃で弱い自分がとても嫌だった。戻れるとしても、学生時代には戻りたくない。
この漫画も面白かった。現在人気の漫画を追い掛けなくても、90年代の大量の漫画たちが、僕を待っているのだ。ワクワクしてきた。
1日の使い方を計算してみる。
夜勤が約12時間、家から会社まで片道1時間(徒歩で通ってる)、往復で2時間。
仕事行く用意、食事、入浴などもろもろの雑事で1時間、と考えると、自分がやりたいことやっている時間は9時間になる。うっかり8時間睡眠とろうものなら、1時間しか使えない!食事や睡眠の時間が一番楽しい、という人がいるが、とてもうらやましい。食事や睡眠は、いやでも1日のうちに組み込まれている時間だから、1日のあいだに楽しい時間が必ずやってくるわけだ。でも、たとえば読書が好きだとか映画が好きだという場合、何も読まない1日や、1本も映画を見ない日なんてザラだ。これがストレスのもとか。
と、いうわけで、今日はこれといってどこにも行かず、読書はしたが何も読み終わらず、録画しておいたテレビ番組ばかり見ていた、という気楽な1日になった。ほとんど寝てたけど。
恋愛でもしておれば充実度も変わるのかもしれないが、あいにくと今はフリーだ。(カーロ)。
ゴロゴロしてたので、今日は漫画の感想でも。奥浩哉の『GANTZ』1巻からこの4月に出た16巻までを一気に読んだ。(今日まで全然読んでなかった、ということだ)
死者たちによる宇宙人退治ゲーム。毎回のゲームに採点が下され、百点に達するまでは何度でも通常の世界から招集される。ゲームで死んでしまえば、そのときに本当の死がおとずれる。
採点を下すのは、「ガンツ」と呼ばれる黒い球体で、これはモノリスとガンツ先生(ロボコン)からの連想なんだろうな、と思わせる。
退治すべき宇宙人も、田中星児そっくりの「田中星人」とか、ネギ星人とか、いちいち人を喰っていて、しかも無気味このうえない。
宇宙人は金剛力士像が動き出す「おこりんぼう星人」「あばれんぼう星人」とか、ビリケンそっくりの「チビ星人」、恐竜など、作者がコンピュータの3D画像を下敷きにして作画しているので、資料をコンピュータにとりこみやすいものが多くなってるんじゃないか?現に、14巻で発表されていた、読者から寄せられた「星人」ベスト10の堂々一位は「ノヴァ星人・ダヴィデ星人」で、有名な彫刻が動き出すというアイディアだ。(ノヴァ星人は「考える人」英会話学校のコマーシャルから)
ガンツ先生の採点を違う形で作品化したらどうなるか、という試みは面白いが、「なぜ、ガンツはこんな採点ゲームをはじめたのか」とか、「ガンツの正体は」なんて謎を解く段になると、面白さが失速するんじゃないかと、あやぶんでいる。そんなの明かさなくていいよ、と言っておきたい。
僕は点取り占い風の、何故これが10点?という不条理で理不尽で無意味なのが面白いと思っているのだ。
調子にのって、GANTZ占いというのをやってみた。
http://bom-ba-ye.com/c.cgi?shinpei-n=3
「あなたは玄野計タイプです。
巨乳みてチンコ立ちすぎ
加藤タイプと相性がいいですが、岸本タイプに嫌われる傾向があるようです。」
強さは105点もあるのに、度胸はマイナス1点、やる気は0点、と低得点だった。
なんとなく、当たっているような気がした。嫌われるのが岸本タイプだというのには笑った。
この「GANTZ」は今なおヤングジャンプで連載中なので、今後、どんな展開がされるのか、楽しみだ。この漫画の強みは、主人公以外みんな殺してしまって、登場人物の総替えができるところだ。うーん、ゲームっぽい。
夜勤が約12時間、家から会社まで片道1時間(徒歩で通ってる)、往復で2時間。
仕事行く用意、食事、入浴などもろもろの雑事で1時間、と考えると、自分がやりたいことやっている時間は9時間になる。うっかり8時間睡眠とろうものなら、1時間しか使えない!食事や睡眠の時間が一番楽しい、という人がいるが、とてもうらやましい。食事や睡眠は、いやでも1日のうちに組み込まれている時間だから、1日のあいだに楽しい時間が必ずやってくるわけだ。でも、たとえば読書が好きだとか映画が好きだという場合、何も読まない1日や、1本も映画を見ない日なんてザラだ。これがストレスのもとか。
と、いうわけで、今日はこれといってどこにも行かず、読書はしたが何も読み終わらず、録画しておいたテレビ番組ばかり見ていた、という気楽な1日になった。ほとんど寝てたけど。
恋愛でもしておれば充実度も変わるのかもしれないが、あいにくと今はフリーだ。(カーロ)。
ゴロゴロしてたので、今日は漫画の感想でも。奥浩哉の『GANTZ』1巻からこの4月に出た16巻までを一気に読んだ。(今日まで全然読んでなかった、ということだ)
死者たちによる宇宙人退治ゲーム。毎回のゲームに採点が下され、百点に達するまでは何度でも通常の世界から招集される。ゲームで死んでしまえば、そのときに本当の死がおとずれる。
採点を下すのは、「ガンツ」と呼ばれる黒い球体で、これはモノリスとガンツ先生(ロボコン)からの連想なんだろうな、と思わせる。
退治すべき宇宙人も、田中星児そっくりの「田中星人」とか、ネギ星人とか、いちいち人を喰っていて、しかも無気味このうえない。
宇宙人は金剛力士像が動き出す「おこりんぼう星人」「あばれんぼう星人」とか、ビリケンそっくりの「チビ星人」、恐竜など、作者がコンピュータの3D画像を下敷きにして作画しているので、資料をコンピュータにとりこみやすいものが多くなってるんじゃないか?現に、14巻で発表されていた、読者から寄せられた「星人」ベスト10の堂々一位は「ノヴァ星人・ダヴィデ星人」で、有名な彫刻が動き出すというアイディアだ。(ノヴァ星人は「考える人」英会話学校のコマーシャルから)
ガンツ先生の採点を違う形で作品化したらどうなるか、という試みは面白いが、「なぜ、ガンツはこんな採点ゲームをはじめたのか」とか、「ガンツの正体は」なんて謎を解く段になると、面白さが失速するんじゃないかと、あやぶんでいる。そんなの明かさなくていいよ、と言っておきたい。
僕は点取り占い風の、何故これが10点?という不条理で理不尽で無意味なのが面白いと思っているのだ。
調子にのって、GANTZ占いというのをやってみた。
http://bom-ba-ye.com/c.cgi?shinpei-n=3
「あなたは玄野計タイプです。
巨乳みてチンコ立ちすぎ
加藤タイプと相性がいいですが、岸本タイプに嫌われる傾向があるようです。」
強さは105点もあるのに、度胸はマイナス1点、やる気は0点、と低得点だった。
なんとなく、当たっているような気がした。嫌われるのが岸本タイプだというのには笑った。
この「GANTZ」は今なおヤングジャンプで連載中なので、今後、どんな展開がされるのか、楽しみだ。この漫画の強みは、主人公以外みんな殺してしまって、登場人物の総替えができるところだ。うーん、ゲームっぽい。
W(千里セルシー)、中世的世界とは何だろうか
2005年5月25日 読書
千里セルシーにWがやってきた!
愛の意味を教えて
恋のバカンス
愛の意味を教えて(フルバージョン)
以上3曲。新曲は「っちゅ〜ねん!」のテーマソングで、番組の上泉アナウンサーが司会で出て来た。一般関西人にはうっかりするとWよりも知名度高いかもしれない。
こんな平日の中途半端な夕方だと、仕事を持っている人や遠隔地の人は参加できないはずなのに、セルシーはけっこういっぱい。
オタクたちの応援はたいがい「濃い」はずだが、今日のオタクたちは非常に薄かった。
それでもアイドルを普段から差別して聞かない人たちにとっては、唾棄すべき 存在だったようだ。たまたま通りかかったカップルの男の方が馬鹿にしたように「もえもえ〜」と大声でオタクたちに向かって言っていた。もとよりオタクたちに聞かせるためではなく、隣の彼女へ聞かせるためのギャグだった。こんな頭の悪い彼氏を持った彼女こそいい迷惑である。
「愛の意味を教えてあげようか?」「恋のバカ」
網野善彦の『中世的世界とは何だろうか』を読んだ。
海民と遍歴する人々
源氏と平氏
後醍醐
婆娑羅の風
楠木正成の実像
「聖」と「俗」の境で〜中世の職能民
遊女、傀儡、白拍子
庭
税と交易
宴と贈り物
楽市と駆込寺
名前と系図をさかのぼる
今後の課題
海を自らの活動とした武士「海の武士団」の典型は、肥前国の松浦一族(松浦党)らしい。「浦」とか「沢」など、水の名前がつくのが海民系だとしたら、ハロープロジェクトでいうと、松浦亜弥や中澤裕子、吉澤ひとみとかが海民系か。一方、農民は稲葉、田中など。と、考えると、道々の輩、芸能民は辻や道重ということになりはしないか。僕が好きなのはやはり、芸能を天職としていた辻や道重だったってわけだ。
この肥前の松浦郡と、この一族の関係は、嵯峨源氏の源久(ヒサシ)がここに土着したのにはじまる。この源氏は名前が一文字の系譜で久(ヒサシ)の子は直(ナオス)、直の養子は連(ツラヌ)。キモス。
ここでの税についての考察は目からウロコが落ちた。
税というものが選ばれるポイントは、人々が私的所有者の奴隷になるよりも、公に対して重い負担を背負って自由の民であることを望んだことにある。のだそうだ。
税金は自分を縛る不自由なものではなくて、自由の側のものだったのだ。脱税する人間は奴隷制礼讃の、自由の敵なのだ。(そんなことは書いてない)
愛の意味を教えて
恋のバカンス
愛の意味を教えて(フルバージョン)
以上3曲。新曲は「っちゅ〜ねん!」のテーマソングで、番組の上泉アナウンサーが司会で出て来た。一般関西人にはうっかりするとWよりも知名度高いかもしれない。
こんな平日の中途半端な夕方だと、仕事を持っている人や遠隔地の人は参加できないはずなのに、セルシーはけっこういっぱい。
オタクたちの応援はたいがい「濃い」はずだが、今日のオタクたちは非常に薄かった。
それでもアイドルを普段から差別して聞かない人たちにとっては、唾棄すべき 存在だったようだ。たまたま通りかかったカップルの男の方が馬鹿にしたように「もえもえ〜」と大声でオタクたちに向かって言っていた。もとよりオタクたちに聞かせるためではなく、隣の彼女へ聞かせるためのギャグだった。こんな頭の悪い彼氏を持った彼女こそいい迷惑である。
「愛の意味を教えてあげようか?」「恋のバカ」
網野善彦の『中世的世界とは何だろうか』を読んだ。
海民と遍歴する人々
源氏と平氏
後醍醐
婆娑羅の風
楠木正成の実像
「聖」と「俗」の境で〜中世の職能民
遊女、傀儡、白拍子
庭
税と交易
宴と贈り物
楽市と駆込寺
名前と系図をさかのぼる
今後の課題
海を自らの活動とした武士「海の武士団」の典型は、肥前国の松浦一族(松浦党)らしい。「浦」とか「沢」など、水の名前がつくのが海民系だとしたら、ハロープロジェクトでいうと、松浦亜弥や中澤裕子、吉澤ひとみとかが海民系か。一方、農民は稲葉、田中など。と、考えると、道々の輩、芸能民は辻や道重ということになりはしないか。僕が好きなのはやはり、芸能を天職としていた辻や道重だったってわけだ。
この肥前の松浦郡と、この一族の関係は、嵯峨源氏の源久(ヒサシ)がここに土着したのにはじまる。この源氏は名前が一文字の系譜で久(ヒサシ)の子は直(ナオス)、直の養子は連(ツラヌ)。キモス。
ここでの税についての考察は目からウロコが落ちた。
税というものが選ばれるポイントは、人々が私的所有者の奴隷になるよりも、公に対して重い負担を背負って自由の民であることを望んだことにある。のだそうだ。
税金は自分を縛る不自由なものではなくて、自由の側のものだったのだ。脱税する人間は奴隷制礼讃の、自由の敵なのだ。(そんなことは書いてない)
日本像を問い直す―「海と列島文化」完結記念シンポジウム
2005年5月24日 読書
『日本像を問い直す』を読んだ。小学館の「海と列島文化」完結記念シンポジウムの記録。
網野善彦(歴史学)、谷川健一(民俗学)、大林太良(文化人類学)、宮田登(民俗学)、森浩一(考古学)の5人の編集委員が集まって、意見を闘わせる。途中で渡部忠世(作物学)の特別報告も入る。
第1部 提論
列島社会の新たな実像を求めて(網野善彦)
比較すべきこと(大林太良)
列島の民族文化をどうとらえるか(宮田登)
貝と日本文化(森浩一)
倭的日本人(谷川健一)
第2部 討論
列島社会の多様性
(特別報告「稲と村を東南アジア島嶼域からみる」)
日本人の特性と「島国論」
これからの課題
この本では、先日読んだ「対談」ではなく「討論」がなされる。
谷川氏が提論で「倭と言う字は女性がしゃがんで稲を刈り取る姿からきている。倭は、まっすぐでないことをあらわしているのだ。倭と言う字には醜い顔つき、捨てる、曲げる、正直でない、という意味がある」と言い、古来よりの日本人の閉鎖的島国根性を糾弾する。
それに対して、網野氏は「7世紀に日本という国号を決めてから以降の日本のあり方に問題があった。それ以前には日本も日本人もない」と、いつもの持論を展開する。
谷川氏は「倭国から日本へ変わったのは国号だけ。そこに住む民族の主体には何の変化もなかった。そんな呼称だけを問題にするのはおかしい」と噛み付いた。
網野氏は「倭という名を嫌って、日本を名乗ったことが、この国家の歴史にとって大きな意味をもっている。国家が民族意識の形成に強い影響を持っているのは間違いない」という。
網野氏は、なんとなく最初から日本人が列島にいたという見方にとらわれると、ナンセンスな建国記念の日の虚偽も明確にできない、と言いたいのだ。
網野氏の「日本の国号」にこだわる理由が、はっきりと示されたのだ。
また、日本は稲作が主流だとする農本主義の弊害を網野氏は再三にわたって力説する。
それに対して、大林氏は日本にとって稲作がどれだけ重要であるかを力説。真っ向から意見が対立する形になる。
さらに、特別報告の渡部氏が「たとえ、畑作や漁業やその他の生業をもって生きる地域が各地にあったとしても、稲作は国家の命運に関与せざるをえなかった。稲作を核とする農村において米作りの生活を共有する大多数の農民たちの労働や祭りなどが中心となって、国家レベルにおける共通の文化が形成された」と、網野氏の論を一蹴する。
網野氏がいかに学者たちから受け入れられなかったかがよくわかる。
でも、まわりがどう言おうが、まわりにあわせていれば摩擦はおきないと忠告されようが、自分の意見を変えない。
単に頑固なだけでなく、一本筋がとおっているのだ。
そんな(損な)生き方に共鳴しつつ、僕がこの本で一番「ホホー」と思ったのは、「ういろう」(外郎)が中国語だと知ったこと。なんだ。雑学の本でも読んどけってか?
網野善彦(歴史学)、谷川健一(民俗学)、大林太良(文化人類学)、宮田登(民俗学)、森浩一(考古学)の5人の編集委員が集まって、意見を闘わせる。途中で渡部忠世(作物学)の特別報告も入る。
第1部 提論
列島社会の新たな実像を求めて(網野善彦)
比較すべきこと(大林太良)
列島の民族文化をどうとらえるか(宮田登)
貝と日本文化(森浩一)
倭的日本人(谷川健一)
第2部 討論
列島社会の多様性
(特別報告「稲と村を東南アジア島嶼域からみる」)
日本人の特性と「島国論」
これからの課題
この本では、先日読んだ「対談」ではなく「討論」がなされる。
谷川氏が提論で「倭と言う字は女性がしゃがんで稲を刈り取る姿からきている。倭は、まっすぐでないことをあらわしているのだ。倭と言う字には醜い顔つき、捨てる、曲げる、正直でない、という意味がある」と言い、古来よりの日本人の閉鎖的島国根性を糾弾する。
それに対して、網野氏は「7世紀に日本という国号を決めてから以降の日本のあり方に問題があった。それ以前には日本も日本人もない」と、いつもの持論を展開する。
谷川氏は「倭国から日本へ変わったのは国号だけ。そこに住む民族の主体には何の変化もなかった。そんな呼称だけを問題にするのはおかしい」と噛み付いた。
網野氏は「倭という名を嫌って、日本を名乗ったことが、この国家の歴史にとって大きな意味をもっている。国家が民族意識の形成に強い影響を持っているのは間違いない」という。
網野氏は、なんとなく最初から日本人が列島にいたという見方にとらわれると、ナンセンスな建国記念の日の虚偽も明確にできない、と言いたいのだ。
網野氏の「日本の国号」にこだわる理由が、はっきりと示されたのだ。
また、日本は稲作が主流だとする農本主義の弊害を網野氏は再三にわたって力説する。
それに対して、大林氏は日本にとって稲作がどれだけ重要であるかを力説。真っ向から意見が対立する形になる。
さらに、特別報告の渡部氏が「たとえ、畑作や漁業やその他の生業をもって生きる地域が各地にあったとしても、稲作は国家の命運に関与せざるをえなかった。稲作を核とする農村において米作りの生活を共有する大多数の農民たちの労働や祭りなどが中心となって、国家レベルにおける共通の文化が形成された」と、網野氏の論を一蹴する。
網野氏がいかに学者たちから受け入れられなかったかがよくわかる。
でも、まわりがどう言おうが、まわりにあわせていれば摩擦はおきないと忠告されようが、自分の意見を変えない。
単に頑固なだけでなく、一本筋がとおっているのだ。
そんな(損な)生き方に共鳴しつつ、僕がこの本で一番「ホホー」と思ったのは、「ういろう」(外郎)が中国語だと知ったこと。なんだ。雑学の本でも読んどけってか?
0011ナポレオンソロ/ナポレオンソロ対シカゴギャング、ハーイ!ロンドン
2005年5月23日 映画
ジョセフ・サージャント監督の「0011ナポレオン・ソロ/ナポレオン・ソロ対シカゴギャング」(1966年)を見た。劇場版5作め。
本作で悪の組織スラッシュが狙うのは、海流逆転。重水を使ったマグネトロンの発射で海流を逆転させれば、グリ−ンランドが温暖地になり、欧米はこおりついてしまうのだ。
一方、ソロはシシリー島で敵に追われて、ピアという名の娘に助けてもらう。ピア一家は禁酒法時代のシカゴギャングの生き残りで、ピアとソロを結婚させようと、逃げたソロを追いかけてくる。
はからずもスラッシュとシカゴギャングが衝突して戦うことになる。
スラッシュの悪者、ストレイゴを演じるのはジャック・パランス。悪人なのだが、神経質。薬をしょっちゅう飲んでいるし、一刻を争うシーンでも、電話の受話器をハンカチできれいにふいてからしゃべる。
セクシーな女性部下が上半身をマッサージしている、よくあるシ−ンでは、ストレイゴは彼女に「やわらかく息をふきかけるな!」とキレ、「ちゃんと仕事できる格好をしろ」と露出の多いファッションを非難する。
そのセクシーな女秘書ダイクトンを演じるのは、「サイコ」のシャワーシーンでおなじみのジャネット・リー。
このダイクトン女史のSM趣味が面白い。わざと逃げさせておいて、ナイフ投げて処刑したり、つかまえたイリヤ・クリヤキンを電気ショックで拷問して服ボロボロにしてみたり、イリヤに首輪つけて引っ張ってつれてきたり。でも、1発のビンタでのびるし、銃を撃とうとしても全然狙いが定まらないし、銃を構えてもあっさり先に撃たれるし、ピアとのキャットファイトでも首飾りを武器に使うがあっけなく負けてしまったりして、めちゃ弱い。ラストの方ではストレイゴが計画に失敗して感電してくたばるシーンをうっとり見つめ、被弾して息絶える寸前まで「甘美な苦痛」に恍惚としているのだ。
なお、ピアとダイクトンのキャットファイト、よつんばいになって、前足(手)でジャブをくりだす、まさにキャットファイトになっていて、面白かった。
この映画、サージャント監督としてはかなり初期の仕事になる。他の作品では「サブウェイ・パニック」(74年)、「デビルゾーン」(83年)、「ジョーズ’87/復讐篇」(87年)とか撮っている。でも、このナポレオン・ソロの劇場版というのは、もともとテレビ放送(2回にわけて放送)した分をつなげて劇場公開しただけなので、映画の仕事と数えるのも微妙なところ。テレビと違って、映画では総天然色になっているが。
かなり前に録画しておいた映画「ハーイ!ロンドン」(1969年)を見た。ザ・タイガース主演、岩内克己監督。
多忙なザ・タイガースの前に、「デモン鬼太郎」という悪魔があらわれた(藤田まこと)。
悪魔は契約により、時間をストップしてくれる。その間、外(普通に時間が流れている)で自由を満喫することができる。約束の時間内に戻ってくればいいが、遅れると魂をとられてしまうのだ。ザ・タイガースはその時間(1週間)を利用してロンドンに行く。なんとか時間にまにあったかと思いきや、日付変更線の関係で、1日ずれていた!おまえは80日間世界一周か!ピンチ!
結局、世界で唯一魂を売ろうとしなかった芸術家が作った歌をうたうことで、悪魔はカエルに変わり、魂はとられずにすむ。歌で悪魔を撃退するって、おまえはマクロスか!
この映画でザ・タイガースが歌うのは映画のクレジットによると
美しき愛の掟
風は知らない
嘆き
LOV’IN LIFE(LOVIN’ LIFEが正しいような気がするが)
SMILE FOR ME
RAIN FALLS ON LONELY
だが、途中でロンドンの子供が明治製菓の「ココナッツ」を食べているのにすれちがうシーンがあり、そこではコマーシャルソングの「トースト・ココナッツ・バー」が一瞬流れた。
この映画はゲストも面白くて、作曲の村井邦彦がレコーディング風景に出演していて、棒読み丸出しでタイガースにアドバイスしていた。また、ロンドンについてすぐ、ビージーズのバリー・ギブとジュリーが握手するシーンもある。歌のゲストは、「マンチェスター」と言えば「リバプール!」(探偵ナイトスクープ)でおなじみのピンキー&フェラスが出てきて、歌っている(あの歌じゃないけど)。そして、音楽喫茶「ヤングメイツ」でアダムスが「にくい時計」を歌っている。アダムスといえば、「旧約聖書」で衝撃のデビューをしたGSバンドで、この「にくい時計」は3枚目のシングルのB面にあたる。アダムスの中心人物、水谷公生は昨年末に浜田省吾らと組んだFairlifeの1stアルバムを出したばかりだ。長いね!
あと、興味をひいたのは、当時のザ・タイガースの宣伝文句。メンバーの移動用バスには「Let’s Spark!」と書いてあった。レッツ・スパーク!そして、ラストのなんだかよくわからない大看板には「僕たちの心に太陽のロマンを」と書いてある。タイガースと言えば「銀河のロマンス」。僕たちの心には「太陽のロマン」。スケールでっか〜!
僕はタイガースの中ではピーのファンだった。「ハーイ!ロンドン」でもフィンガー5のアキラかと見まがうルックスで出てくるが、今から考えると、複雑な思いだ。と、いうのも、この映画の撮影前に、ピーが失踪した事件があったのを思い出したのだ。そして、映画公開後に、ピーはタイガースを解散させてしまうのだ。映画のストーリーみたいに、多忙がピーを押しつぶしてしまったのか?真相は薮の中だ。明かされない秘密の部分に「ピー」はつきものなのかもしれない。
本作で悪の組織スラッシュが狙うのは、海流逆転。重水を使ったマグネトロンの発射で海流を逆転させれば、グリ−ンランドが温暖地になり、欧米はこおりついてしまうのだ。
一方、ソロはシシリー島で敵に追われて、ピアという名の娘に助けてもらう。ピア一家は禁酒法時代のシカゴギャングの生き残りで、ピアとソロを結婚させようと、逃げたソロを追いかけてくる。
はからずもスラッシュとシカゴギャングが衝突して戦うことになる。
スラッシュの悪者、ストレイゴを演じるのはジャック・パランス。悪人なのだが、神経質。薬をしょっちゅう飲んでいるし、一刻を争うシーンでも、電話の受話器をハンカチできれいにふいてからしゃべる。
セクシーな女性部下が上半身をマッサージしている、よくあるシ−ンでは、ストレイゴは彼女に「やわらかく息をふきかけるな!」とキレ、「ちゃんと仕事できる格好をしろ」と露出の多いファッションを非難する。
そのセクシーな女秘書ダイクトンを演じるのは、「サイコ」のシャワーシーンでおなじみのジャネット・リー。
このダイクトン女史のSM趣味が面白い。わざと逃げさせておいて、ナイフ投げて処刑したり、つかまえたイリヤ・クリヤキンを電気ショックで拷問して服ボロボロにしてみたり、イリヤに首輪つけて引っ張ってつれてきたり。でも、1発のビンタでのびるし、銃を撃とうとしても全然狙いが定まらないし、銃を構えてもあっさり先に撃たれるし、ピアとのキャットファイトでも首飾りを武器に使うがあっけなく負けてしまったりして、めちゃ弱い。ラストの方ではストレイゴが計画に失敗して感電してくたばるシーンをうっとり見つめ、被弾して息絶える寸前まで「甘美な苦痛」に恍惚としているのだ。
なお、ピアとダイクトンのキャットファイト、よつんばいになって、前足(手)でジャブをくりだす、まさにキャットファイトになっていて、面白かった。
この映画、サージャント監督としてはかなり初期の仕事になる。他の作品では「サブウェイ・パニック」(74年)、「デビルゾーン」(83年)、「ジョーズ’87/復讐篇」(87年)とか撮っている。でも、このナポレオン・ソロの劇場版というのは、もともとテレビ放送(2回にわけて放送)した分をつなげて劇場公開しただけなので、映画の仕事と数えるのも微妙なところ。テレビと違って、映画では総天然色になっているが。
かなり前に録画しておいた映画「ハーイ!ロンドン」(1969年)を見た。ザ・タイガース主演、岩内克己監督。
多忙なザ・タイガースの前に、「デモン鬼太郎」という悪魔があらわれた(藤田まこと)。
悪魔は契約により、時間をストップしてくれる。その間、外(普通に時間が流れている)で自由を満喫することができる。約束の時間内に戻ってくればいいが、遅れると魂をとられてしまうのだ。ザ・タイガースはその時間(1週間)を利用してロンドンに行く。なんとか時間にまにあったかと思いきや、日付変更線の関係で、1日ずれていた!おまえは80日間世界一周か!ピンチ!
結局、世界で唯一魂を売ろうとしなかった芸術家が作った歌をうたうことで、悪魔はカエルに変わり、魂はとられずにすむ。歌で悪魔を撃退するって、おまえはマクロスか!
この映画でザ・タイガースが歌うのは映画のクレジットによると
美しき愛の掟
風は知らない
嘆き
LOV’IN LIFE(LOVIN’ LIFEが正しいような気がするが)
SMILE FOR ME
RAIN FALLS ON LONELY
だが、途中でロンドンの子供が明治製菓の「ココナッツ」を食べているのにすれちがうシーンがあり、そこではコマーシャルソングの「トースト・ココナッツ・バー」が一瞬流れた。
この映画はゲストも面白くて、作曲の村井邦彦がレコーディング風景に出演していて、棒読み丸出しでタイガースにアドバイスしていた。また、ロンドンについてすぐ、ビージーズのバリー・ギブとジュリーが握手するシーンもある。歌のゲストは、「マンチェスター」と言えば「リバプール!」(探偵ナイトスクープ)でおなじみのピンキー&フェラスが出てきて、歌っている(あの歌じゃないけど)。そして、音楽喫茶「ヤングメイツ」でアダムスが「にくい時計」を歌っている。アダムスといえば、「旧約聖書」で衝撃のデビューをしたGSバンドで、この「にくい時計」は3枚目のシングルのB面にあたる。アダムスの中心人物、水谷公生は昨年末に浜田省吾らと組んだFairlifeの1stアルバムを出したばかりだ。長いね!
あと、興味をひいたのは、当時のザ・タイガースの宣伝文句。メンバーの移動用バスには「Let’s Spark!」と書いてあった。レッツ・スパーク!そして、ラストのなんだかよくわからない大看板には「僕たちの心に太陽のロマンを」と書いてある。タイガースと言えば「銀河のロマンス」。僕たちの心には「太陽のロマン」。スケールでっか〜!
僕はタイガースの中ではピーのファンだった。「ハーイ!ロンドン」でもフィンガー5のアキラかと見まがうルックスで出てくるが、今から考えると、複雑な思いだ。と、いうのも、この映画の撮影前に、ピーが失踪した事件があったのを思い出したのだ。そして、映画公開後に、ピーはタイガースを解散させてしまうのだ。映画のストーリーみたいに、多忙がピーを押しつぶしてしまったのか?真相は薮の中だ。明かされない秘密の部分に「ピー」はつきものなのかもしれない。
法事、マルコムX、ナビゲーター〜ある鉄道員の物語、中世の再発見
2005年5月22日 読書
今日は保山家の祖父の三十三回忌。
親戚の三十三回忌と合同で。
お経(阿弥陀経)が途中で噛んだり、とちったりするのが気になる。歌で2番をとばして3番を歌ってしまい、そのまま知らんふりしてるような「えっ?」感があったが、まあ、しかたがない。
法事のあとは銀座アスターで食事。8種類のオードブルからはじまって、フカヒレだのアワビだの北京ダックだの海老だの蟹だの、最近シリアルですましていた僕にとってはえらい豪華なメニューだった。おいしかった。でも、こんな豪華な食事でないと「口にあわない」なんて言い出すのは、子供の頃の偏食と大差ない。なんでも食べましょう。
ケーブルテレビで映画「マルコムX」(1992年)を見た。デンゼル・ワシントン主演、スパイク・リー監督。3時間半があっというまだった。
マルコムXは白人を敵視するイライジャ師の教えを信じ、活動するが、白人だけでなく、黒人同士の嫉妬などで反感を買い、挙げ句の果てには暗殺されるに至る。
ここでも仲間割れが描かれている。裏切りは本当の敵を利する、というなまやさしい問題ではないようだ。裏切りは敵によって仕組まれるのだ。マルコムXは黒人によって殺された。しかし、その裏で白人が糸をひいていたのではないかと思われる。
今、日本人は中国や北朝鮮を敵視している。アジアの中で仲間割れすることで笑っているのは誰なのか。
なーんて。宗教的指導者イライジャ師、姦通妊娠で信頼を失ったというが、どこかで聞いたような話だ。イライジャのことは「モハメド・アリ」を名付けた人、くらいの知識しかないが、どんな無茶な思想の持ち主だったのか、ちょっと興味が湧いた。
ケン・ローチ監督の「ナビゲーター ある鉄道員の物語」(2001年)を見た。
会社の利益中心の方針によって、リストラされ、無理な仕事を強いられる鉄道労働者。
これもまた、どこかで聞いたような話。
ケン・ローチの作風がここでは炸裂。ひどい状況に落ちた労働者たちの姿を描いて、それが何も解決されないまま、淡々と映画は終わる。現実に問題が何も解決していないのに、映画の中で絵空事の解決を描いても意味がないどころか、むしろ有害なのだ。
網野善彦と阿部謹也の対談本『中世の再発見〜市・贈与・宴会』を読んだ。
1、ペルーでの体験から-子供と市
2、飛礫
3、市と芸能
4、売買と贈与
5、宴会ともてなし
6、徳政と時間意識
7、有徳の意味
8、「公」とは何か
9、社会史と歴史学の伝統
10、アチック・ミューゼアムと民間歴史学
日本中世を網野氏が語り、ヨーロッパ中世を阿部氏が語る。
後半、「公」をテーマに語るあたりから、阿部氏が果敢にアタックをかけ、網野氏は「たいへんなことになりましたな」と応戦。
阿部氏はヨーロッパを特殊なケースとする認識をしきりに強調する。たとえば、贈与について。ヨーロッパで贈与がされるケースというのは、クリスマス、復活祭、結婚、誕生日、葬式程度で、これは世界を見てみると、極端に贈与の機会が少ないのだという。一方、日本では、明治時代に板垣退助と西郷従道が作った風俗改良会で「虚飾無用の物品贈答を廃す可し」と訴えたが、百年以上たった今、「廃す」どころかますます盛んである。誰か僕にも何か贈与してチョ。
公の問題を阿部氏は他人の生死を掌握するという視点からとらえており、これはアガンベンやフーコーとどうからんでくるのか、ちょっと興味が湧く。
また、飛礫論では、石飛礫は天の声である、と考えられていたことをとりあげ、石の舗装をやめてアスファルトにしてしまうのは、天の声を排除しようとすることだ、と言う。道路を作ることと悪事が密接にからみあうのは、こんなところに元があったのだ。
この本で心強く思ったことがある。後醍醐天皇は無礼講の宴会で、裸同然のかっこうで大騒ぎしたらしい。すごいのは、その宴会において、彼は倒幕の相談を着々と重ねていったのだ。僕もライブの打ち上げが大好きで毎回楽しみにしていたが、最近、そんなことではいけないんじゃないか、とチラッと考えていたのだ。でも、この後醍醐天皇のエピソードで、ふっきれた。打ち上げの宴会でこそ、次にどうするかというプランが浮かび、それを行動に移す最初の一撃を与えることができるのだ。まったく手前勝手な感想だろうが、幸いにも既に道路はアスファルトに覆い尽くされて、飛んでくる石飛礫もない。悪ノリを止めるすべはもうない。
親戚の三十三回忌と合同で。
お経(阿弥陀経)が途中で噛んだり、とちったりするのが気になる。歌で2番をとばして3番を歌ってしまい、そのまま知らんふりしてるような「えっ?」感があったが、まあ、しかたがない。
法事のあとは銀座アスターで食事。8種類のオードブルからはじまって、フカヒレだのアワビだの北京ダックだの海老だの蟹だの、最近シリアルですましていた僕にとってはえらい豪華なメニューだった。おいしかった。でも、こんな豪華な食事でないと「口にあわない」なんて言い出すのは、子供の頃の偏食と大差ない。なんでも食べましょう。
ケーブルテレビで映画「マルコムX」(1992年)を見た。デンゼル・ワシントン主演、スパイク・リー監督。3時間半があっというまだった。
マルコムXは白人を敵視するイライジャ師の教えを信じ、活動するが、白人だけでなく、黒人同士の嫉妬などで反感を買い、挙げ句の果てには暗殺されるに至る。
ここでも仲間割れが描かれている。裏切りは本当の敵を利する、というなまやさしい問題ではないようだ。裏切りは敵によって仕組まれるのだ。マルコムXは黒人によって殺された。しかし、その裏で白人が糸をひいていたのではないかと思われる。
今、日本人は中国や北朝鮮を敵視している。アジアの中で仲間割れすることで笑っているのは誰なのか。
なーんて。宗教的指導者イライジャ師、姦通妊娠で信頼を失ったというが、どこかで聞いたような話だ。イライジャのことは「モハメド・アリ」を名付けた人、くらいの知識しかないが、どんな無茶な思想の持ち主だったのか、ちょっと興味が湧いた。
ケン・ローチ監督の「ナビゲーター ある鉄道員の物語」(2001年)を見た。
会社の利益中心の方針によって、リストラされ、無理な仕事を強いられる鉄道労働者。
これもまた、どこかで聞いたような話。
ケン・ローチの作風がここでは炸裂。ひどい状況に落ちた労働者たちの姿を描いて、それが何も解決されないまま、淡々と映画は終わる。現実に問題が何も解決していないのに、映画の中で絵空事の解決を描いても意味がないどころか、むしろ有害なのだ。
網野善彦と阿部謹也の対談本『中世の再発見〜市・贈与・宴会』を読んだ。
1、ペルーでの体験から-子供と市
2、飛礫
3、市と芸能
4、売買と贈与
5、宴会ともてなし
6、徳政と時間意識
7、有徳の意味
8、「公」とは何か
9、社会史と歴史学の伝統
10、アチック・ミューゼアムと民間歴史学
日本中世を網野氏が語り、ヨーロッパ中世を阿部氏が語る。
後半、「公」をテーマに語るあたりから、阿部氏が果敢にアタックをかけ、網野氏は「たいへんなことになりましたな」と応戦。
阿部氏はヨーロッパを特殊なケースとする認識をしきりに強調する。たとえば、贈与について。ヨーロッパで贈与がされるケースというのは、クリスマス、復活祭、結婚、誕生日、葬式程度で、これは世界を見てみると、極端に贈与の機会が少ないのだという。一方、日本では、明治時代に板垣退助と西郷従道が作った風俗改良会で「虚飾無用の物品贈答を廃す可し」と訴えたが、百年以上たった今、「廃す」どころかますます盛んである。誰か僕にも何か贈与してチョ。
公の問題を阿部氏は他人の生死を掌握するという視点からとらえており、これはアガンベンやフーコーとどうからんでくるのか、ちょっと興味が湧く。
また、飛礫論では、石飛礫は天の声である、と考えられていたことをとりあげ、石の舗装をやめてアスファルトにしてしまうのは、天の声を排除しようとすることだ、と言う。道路を作ることと悪事が密接にからみあうのは、こんなところに元があったのだ。
この本で心強く思ったことがある。後醍醐天皇は無礼講の宴会で、裸同然のかっこうで大騒ぎしたらしい。すごいのは、その宴会において、彼は倒幕の相談を着々と重ねていったのだ。僕もライブの打ち上げが大好きで毎回楽しみにしていたが、最近、そんなことではいけないんじゃないか、とチラッと考えていたのだ。でも、この後醍醐天皇のエピソードで、ふっきれた。打ち上げの宴会でこそ、次にどうするかというプランが浮かび、それを行動に移す最初の一撃を与えることができるのだ。まったく手前勝手な感想だろうが、幸いにも既に道路はアスファルトに覆い尽くされて、飛んでくる石飛礫もない。悪ノリを止めるすべはもうない。
4人の食卓、オー・ブラザー!
2005年5月21日 映画
ラジオ「ハロプロやねん」、中澤裕子と里田まいが登場。
かかった曲はWの「愛の意味を教えて」とモーニング娘。の「大阪恋の歌」
ハロプロナンバー1、「機械に強そうな人」はよっしー。
落ち込んだときにどうやって立ち直るかという質問に、里田まいは「寝たら忘れる」「おいしいものを食べまくる」、中澤裕子は「何もせず、とことん落ちる。酒にも別の何にも逃げない」うーむ、ゆうちゃんさすがに大人だ。
ケーブルテレビで韓国映画「4人の食卓」を見た。「4人の食卓」なら、椅子が4つなのは当たり前。だから、監督はイ・スヨン。(イス4)
「猟奇的な彼女」で人気のチョン・ジヒョンを前面に押し出したプロモーションがされていたが、主演は男。パク・シニャン。
インテリアデザイナーのジョンウォン(パク・シニャン)の部屋に、フィアンセのヒウン(ユ・ソン)が4人がけの食卓をしつらえた。ジョンウォンは、その食卓に、電車で毒殺された少女2人の死体が腰掛けている姿を幻視する。
ヨン(チョン・ジヒョン)は人の過去を見る力を持った女性。一方、ジョンウォンは7歳までの記憶が欠落している。
さて、この映画は謎が多いのだそうだ。公式HP見たら、「8つの謎」というコーナーもあった。あいにくとパスワードが必要なのでどんな謎があげられているのかわからない。
で、僕なりにこの映画の謎を考えてみた。
ジョンウォンは「家族」というものを信じることができない。幼い頃、ジョンウォンは父親から虐待を受けており、家を火事にして親を殺す。そのとき、妹も殺してしまう。ジョンウォンは幼いときに既に家族を破壊する人間として存在していたのだ。育ててくれた人物は宗教家で、キリスト教的な家族観にジョンウォンを押し込めようとする。しかし、ジョンウォンはその家族観を受け入れることもできない。虐待ゆえに家族を信じられないだけでなく、家族というものそのものを受け入れていないのだ。
4人がけの食卓は、言うまでもなく夫婦と2人の子供、という一般的な家族の鋳型だ。ジョンウォンはその家族の鋳型に誰を迎えることもできない。自分以外では、実際の子供2人のかわりに毒殺された死体の少女2人がすわり、妻の椅子にはフィアンセのヒウンのかわりに、死人のヨンがすわることになる。
家族の虚像を受け入れられないのはジョンウォン個人の問題なのだろうか。
これについては、ヒウンが雨乞いのエピソードで語ってくれる。そのエピソードとは、ある村で日照りが続き、雨乞いを祈祷師に依頼することになった。その結果、雨が降った。ここまでは普通のエピソードだ。でも、ヒウンは付け加える。雨乞いを見に教会に集まった人々のうち、傘を持参したのは、1人だけだったのだ。慣習上、みんなが受け入れているかのように見えることでも、そんなものは幻想だと心の底ではわかっているのだ。家族を当たり前のこととして行動しているかに見えるヒウンも、それが虚像にすぎないことがわかっている。だが、ヒウンは「でも、雨乞いして、雨は降った」という事実の方を重視する。ヒウンは雨が降るように祈って、傘を持ってきた人間なのだ。ヒウンはジョンウォンと家族をともにすることができなかった。つくづく悲運なヒウンだ。
ラストの会話で、ジョンウォンが食事について「まだ熱すぎる」と言うのは、家族を受け入れられないとする表明だ。ジョンウォンにとって家族を象徴するものは「熱」だ。虐待していた父は火事による熱、育ての親の牧師は食事は熱い方がいいと日頃から言っていた。(ヒウンがそのシーンで猫舌だと言っているのは、家族観が素直に受け止められているわけではないことを示している)ジョンウォンが毎日のように見る悪夢は、トラックがこどもを轢きつぶす暑く熱い日の出来事だった。熱=家族はこどもを殺すのだ。
衛星放送でコーエン兄弟監督、脚本の「オー・ブラザー!」(2000年)を見た。なんと原作はホメロスの『オデュッセイア』!放浪して故郷に帰る物語を、1930年代アメリカに移して映像化している。マスゲームっぽいKKKの集会や、ベビーフェイス(と呼べば激怒する)の強盗、でぶの白人政治家(みんなデブ!)、など、アメリカ南部らしさがぷんぷんとにおう。
主演はジョージ・クルーニー。脱獄囚が各地を放浪し、「ずぶ濡れボーイズ」としてライブで大喝采を受けたりしながら、故郷に戻って、妻を取り戻す(?)まで。ときどきドキッとするシーンが出てくるのがコーエン兄弟らしくていい。選挙運動に小人を使ったり、車が牛をはねたり、牛がマシンガンで撃たれたり、クライマックスの絶体絶命でいきなり洪水が起こってみんな流されたり。
ツッコミを入れたくなるお楽しみもふんだんにある。十字路で悪魔に魂を売ってしまったという黒人(トミーという名前)がストーリーに大きく関わってくるが、これはブルースのロバート・ジョンソンじゃないか。
また、「オデュッセイア」が映画でどう生かされているかについて、セイレーンだかキルケーめいた水の精のエピソード(気に入った人間がカエルに変えられてしまう!)とか、トロッコの預言者老人やラジオDJが盲目でこれがホメロス(盲目)をほうふつとさせたりする。
ジョン・グッドマンが片目の男として出てくるが、これはキュクロプスだろう。
で、これらを考えあわせると、「オデュッセイア」は原作なんかじゃなくて、一種のパロディとしてとらえるしかないんじゃないか、と思う。あえて原作「オデュッセイア」とクレジットすることで、既に笑いをとってるのだ。
この映画での「水」の使い方が面白かったので、書き留めておこう。
「水は人を変化させるもの」として、この映画では描かれている。
逆に「火」はKKKの火の十字架のように、頑固に変わらないものとして描かれるので、その対比がはっきりと見える。
主人公3人それぞれと「水=変化」の関わりはこうだった。
ティム・ブレイク・ネルソンは、洗礼で水につかることで、罪が浄化されると思い、とっさに洗礼を受ける。水によって、彼は罪人ではなくなったのだ。
ジョン・タトゥーロは、水精によって、カエルに変えられる。
そして、クライマックスの洪水で流されて、ピンチの3人は助かり、まるで洗礼を受けたかのように、逃げまわる人生にピリオドをうつのだ。
この「マグノリア」のカエルに匹敵するクライマックスでの洪水についてだが、ジョージ・クルーニーが「ダムの決壊」と明晰な推理をする。アメリカ30年代というと、ルーズベルトのニューディール政策で、ダム工事をしていてもおかしくない。
以上、登場人物それぞれに水が変化の扉としてあらわれるが、ジョ−ジ・クルーニーの場合はどうかというと、物語が全部終わったかと思ったそのときに、妻に指輪を取り戻しに行くよう命ぜられる。その指輪は湖の底に沈んでいるのだ。ジョージ・クルーニーは真人間になって妻のもとに戻ったが、妻の方では、まだ足りない、もう1回、水につかって変化しろと要求するのだ。クルーニーの指輪物語がいかなる冒険になるのかは、また別の物語だ。
かかった曲はWの「愛の意味を教えて」とモーニング娘。の「大阪恋の歌」
ハロプロナンバー1、「機械に強そうな人」はよっしー。
落ち込んだときにどうやって立ち直るかという質問に、里田まいは「寝たら忘れる」「おいしいものを食べまくる」、中澤裕子は「何もせず、とことん落ちる。酒にも別の何にも逃げない」うーむ、ゆうちゃんさすがに大人だ。
ケーブルテレビで韓国映画「4人の食卓」を見た。「4人の食卓」なら、椅子が4つなのは当たり前。だから、監督はイ・スヨン。(イス4)
「猟奇的な彼女」で人気のチョン・ジヒョンを前面に押し出したプロモーションがされていたが、主演は男。パク・シニャン。
インテリアデザイナーのジョンウォン(パク・シニャン)の部屋に、フィアンセのヒウン(ユ・ソン)が4人がけの食卓をしつらえた。ジョンウォンは、その食卓に、電車で毒殺された少女2人の死体が腰掛けている姿を幻視する。
ヨン(チョン・ジヒョン)は人の過去を見る力を持った女性。一方、ジョンウォンは7歳までの記憶が欠落している。
さて、この映画は謎が多いのだそうだ。公式HP見たら、「8つの謎」というコーナーもあった。あいにくとパスワードが必要なのでどんな謎があげられているのかわからない。
で、僕なりにこの映画の謎を考えてみた。
ジョンウォンは「家族」というものを信じることができない。幼い頃、ジョンウォンは父親から虐待を受けており、家を火事にして親を殺す。そのとき、妹も殺してしまう。ジョンウォンは幼いときに既に家族を破壊する人間として存在していたのだ。育ててくれた人物は宗教家で、キリスト教的な家族観にジョンウォンを押し込めようとする。しかし、ジョンウォンはその家族観を受け入れることもできない。虐待ゆえに家族を信じられないだけでなく、家族というものそのものを受け入れていないのだ。
4人がけの食卓は、言うまでもなく夫婦と2人の子供、という一般的な家族の鋳型だ。ジョンウォンはその家族の鋳型に誰を迎えることもできない。自分以外では、実際の子供2人のかわりに毒殺された死体の少女2人がすわり、妻の椅子にはフィアンセのヒウンのかわりに、死人のヨンがすわることになる。
家族の虚像を受け入れられないのはジョンウォン個人の問題なのだろうか。
これについては、ヒウンが雨乞いのエピソードで語ってくれる。そのエピソードとは、ある村で日照りが続き、雨乞いを祈祷師に依頼することになった。その結果、雨が降った。ここまでは普通のエピソードだ。でも、ヒウンは付け加える。雨乞いを見に教会に集まった人々のうち、傘を持参したのは、1人だけだったのだ。慣習上、みんなが受け入れているかのように見えることでも、そんなものは幻想だと心の底ではわかっているのだ。家族を当たり前のこととして行動しているかに見えるヒウンも、それが虚像にすぎないことがわかっている。だが、ヒウンは「でも、雨乞いして、雨は降った」という事実の方を重視する。ヒウンは雨が降るように祈って、傘を持ってきた人間なのだ。ヒウンはジョンウォンと家族をともにすることができなかった。つくづく悲運なヒウンだ。
ラストの会話で、ジョンウォンが食事について「まだ熱すぎる」と言うのは、家族を受け入れられないとする表明だ。ジョンウォンにとって家族を象徴するものは「熱」だ。虐待していた父は火事による熱、育ての親の牧師は食事は熱い方がいいと日頃から言っていた。(ヒウンがそのシーンで猫舌だと言っているのは、家族観が素直に受け止められているわけではないことを示している)ジョンウォンが毎日のように見る悪夢は、トラックがこどもを轢きつぶす暑く熱い日の出来事だった。熱=家族はこどもを殺すのだ。
衛星放送でコーエン兄弟監督、脚本の「オー・ブラザー!」(2000年)を見た。なんと原作はホメロスの『オデュッセイア』!放浪して故郷に帰る物語を、1930年代アメリカに移して映像化している。マスゲームっぽいKKKの集会や、ベビーフェイス(と呼べば激怒する)の強盗、でぶの白人政治家(みんなデブ!)、など、アメリカ南部らしさがぷんぷんとにおう。
主演はジョージ・クルーニー。脱獄囚が各地を放浪し、「ずぶ濡れボーイズ」としてライブで大喝采を受けたりしながら、故郷に戻って、妻を取り戻す(?)まで。ときどきドキッとするシーンが出てくるのがコーエン兄弟らしくていい。選挙運動に小人を使ったり、車が牛をはねたり、牛がマシンガンで撃たれたり、クライマックスの絶体絶命でいきなり洪水が起こってみんな流されたり。
ツッコミを入れたくなるお楽しみもふんだんにある。十字路で悪魔に魂を売ってしまったという黒人(トミーという名前)がストーリーに大きく関わってくるが、これはブルースのロバート・ジョンソンじゃないか。
また、「オデュッセイア」が映画でどう生かされているかについて、セイレーンだかキルケーめいた水の精のエピソード(気に入った人間がカエルに変えられてしまう!)とか、トロッコの預言者老人やラジオDJが盲目でこれがホメロス(盲目)をほうふつとさせたりする。
ジョン・グッドマンが片目の男として出てくるが、これはキュクロプスだろう。
で、これらを考えあわせると、「オデュッセイア」は原作なんかじゃなくて、一種のパロディとしてとらえるしかないんじゃないか、と思う。あえて原作「オデュッセイア」とクレジットすることで、既に笑いをとってるのだ。
この映画での「水」の使い方が面白かったので、書き留めておこう。
「水は人を変化させるもの」として、この映画では描かれている。
逆に「火」はKKKの火の十字架のように、頑固に変わらないものとして描かれるので、その対比がはっきりと見える。
主人公3人それぞれと「水=変化」の関わりはこうだった。
ティム・ブレイク・ネルソンは、洗礼で水につかることで、罪が浄化されると思い、とっさに洗礼を受ける。水によって、彼は罪人ではなくなったのだ。
ジョン・タトゥーロは、水精によって、カエルに変えられる。
そして、クライマックスの洪水で流されて、ピンチの3人は助かり、まるで洗礼を受けたかのように、逃げまわる人生にピリオドをうつのだ。
この「マグノリア」のカエルに匹敵するクライマックスでの洪水についてだが、ジョージ・クルーニーが「ダムの決壊」と明晰な推理をする。アメリカ30年代というと、ルーズベルトのニューディール政策で、ダム工事をしていてもおかしくない。
以上、登場人物それぞれに水が変化の扉としてあらわれるが、ジョ−ジ・クルーニーの場合はどうかというと、物語が全部終わったかと思ったそのときに、妻に指輪を取り戻しに行くよう命ぜられる。その指輪は湖の底に沈んでいるのだ。ジョージ・クルーニーは真人間になって妻のもとに戻ったが、妻の方では、まだ足りない、もう1回、水につかって変化しろと要求するのだ。クルーニーの指輪物語がいかなる冒険になるのかは、また別の物語だ。
ジャック・タチ監督・主演の「プレイタイム」を衛星放送で見た。
この映画、1回見ているはずなのに、見始めたら最後まで見てしまった。1967年フランス映画。
ジャック・タチ演じるユロ氏が、オフィスで迷い、夜を徹してのパーティに巻き込まれる。主人公はユロ氏かもしれないけれど、観客は特に誰に感情移入して、誰の視線で物を見るということもなく、都市の昼と夜の姿をまるでカタログのように見ることになる。
この映画見てると、点景人物もみんな計算されており、すべての人間に意味があるんだ、と心強くなる。僕の生き方や行動には、自ら意識しないでも、ちゃんと居場所があって、意味があるんだ、と思った。さらに言えば、世界はこのタチの映画みたいに、きれいで、可笑しなものなのだ。
ケーブルテレビでケン・ローチ監督の「ブレッド&ローズ」(2000年)を見た。
パンと薔薇。人はパンのみにて生きているわけではない。薔薇も必要だ。だが、薔薇を手にいれるには、自ら動かねばならない。
ビルサービス員たちが不当な雇用条件に対して立ち向かうストーリーで、実話をもとにしている。彼らは賃金が規定より低い、保険がない、という基本的な要求も今までしてこなかった。不法入国した者や、この仕事を失うとたちまち食うに困る者ばかりだから、クビがこわいのだ。支配者の言いなりになっていた彼らが、労働組合活動家の話に耳を傾けはじめ、デモ行進したり、ゲリラ的活動も辞さない運動をはじめる。
僕が興味深く思ったのは、そんな流れの中で、自分さえよければいい、と裏切る人間が出てくるのだ。その裏切り者も今までさんざん地獄の思いを味わってきた労働者なのだ。裏切り者は現実にひどいめにあってきたのに、現実に立ち向かうこともせず、現実の支配者側の論理にやすやすと同化する。そして、仲間を売ることになる。まるで、自分が受けてきた逆境が免罪符になると言わんばかりに。裏切り者はパンを得たかもしれないが、薔薇が咲くことはない。
深夜テレビでロイ・ボールティング監督の「マダム・グルニエのパリ解放大作戦」を見た。ピーター・セラーズ主演、初紹介時のタイトルは「これがピーター・セラーズだ!/艶笑・パリ武装娼館」
この映画の売りはピーター・セラーズ1人7役!だから「これがピーター・セラーズだ!」と言うよりも「どれがピーター・セラーズだ?」「これもピーター・セラーズか!」という感じ。
ナチスドイツ占領下のパリ、娼館のマダムがパリを守るためにあの手この手を使う。ベッドが跳ね上がってナチスの将校を落として殺したりするコメディ。拳銃で殺そうとしたら弾丸が入ってなかったが、ショックで死んでしまう、とか。
まるでバカ殿様のテレビ見ているみたいで、気軽に楽しめた。
今日読んだ本は、網野善彦の『女性の社会的地位再考』
1、女性の生産労働についての従来の見解
2、商業、金融の分野での女性の役割
3、中世における女性の生産労働-織物-
4、樹木と百姓の生活
5、中世の養蚕と絹
6、養蚕と女性
7、百姓の着た絹小袖
8、女性による生産物の売買
9、女性の社会的役割の大きさ
10、むすび-日本史、世界史の見直し
明治5年から9年にかけてとられた全国統計では、有業者中、農78%、工4%、商7%、あとは雑業、雇人という数字が出た。日本が農業主体であることをあらわす結果に見える。だが、この「農」の中に林業も漁業も含まれている。たとえば、二神島は壬申戸籍では全員が「農」だ。しかし、この島の住民は海や山で生活しており、農民ではないのだ。それを「農」の数字に組み込んだのが、先程の数字なのである。
こんな「農内」現象を長々と引用したのは、この「二神島」を説明する際の網野氏の記述が面白かったからだ。網野氏はこう言う。「進ぬ!電波少年」でロッコツマニアの降りた由利島の本島が二神島だ、と。今となっては懐かしいテレビ番組の出来事を覚えている方が難しい。明治や江戸の古い歴史よりも、テレビ番組の方が残らないものなのだ。
また、この本では女性と養蚕の関連について、語られる。14世紀の寺院の規式では、寺領に桑を植えるべからず、との決まりがある。桑は女性が携わっており、寺に桑を植えることは女性を寺の中に呼び込むことになるからだ。
そういえば、「桑の葉」という韓国映画はエロチックな映画だった。桑と女性はつながっている。これを端的にあらわす言葉として、タレントさんの名前を援用させてもらって「くわまん」なんていかが?
この映画、1回見ているはずなのに、見始めたら最後まで見てしまった。1967年フランス映画。
ジャック・タチ演じるユロ氏が、オフィスで迷い、夜を徹してのパーティに巻き込まれる。主人公はユロ氏かもしれないけれど、観客は特に誰に感情移入して、誰の視線で物を見るということもなく、都市の昼と夜の姿をまるでカタログのように見ることになる。
この映画見てると、点景人物もみんな計算されており、すべての人間に意味があるんだ、と心強くなる。僕の生き方や行動には、自ら意識しないでも、ちゃんと居場所があって、意味があるんだ、と思った。さらに言えば、世界はこのタチの映画みたいに、きれいで、可笑しなものなのだ。
ケーブルテレビでケン・ローチ監督の「ブレッド&ローズ」(2000年)を見た。
パンと薔薇。人はパンのみにて生きているわけではない。薔薇も必要だ。だが、薔薇を手にいれるには、自ら動かねばならない。
ビルサービス員たちが不当な雇用条件に対して立ち向かうストーリーで、実話をもとにしている。彼らは賃金が規定より低い、保険がない、という基本的な要求も今までしてこなかった。不法入国した者や、この仕事を失うとたちまち食うに困る者ばかりだから、クビがこわいのだ。支配者の言いなりになっていた彼らが、労働組合活動家の話に耳を傾けはじめ、デモ行進したり、ゲリラ的活動も辞さない運動をはじめる。
僕が興味深く思ったのは、そんな流れの中で、自分さえよければいい、と裏切る人間が出てくるのだ。その裏切り者も今までさんざん地獄の思いを味わってきた労働者なのだ。裏切り者は現実にひどいめにあってきたのに、現実に立ち向かうこともせず、現実の支配者側の論理にやすやすと同化する。そして、仲間を売ることになる。まるで、自分が受けてきた逆境が免罪符になると言わんばかりに。裏切り者はパンを得たかもしれないが、薔薇が咲くことはない。
深夜テレビでロイ・ボールティング監督の「マダム・グルニエのパリ解放大作戦」を見た。ピーター・セラーズ主演、初紹介時のタイトルは「これがピーター・セラーズだ!/艶笑・パリ武装娼館」
この映画の売りはピーター・セラーズ1人7役!だから「これがピーター・セラーズだ!」と言うよりも「どれがピーター・セラーズだ?」「これもピーター・セラーズか!」という感じ。
ナチスドイツ占領下のパリ、娼館のマダムがパリを守るためにあの手この手を使う。ベッドが跳ね上がってナチスの将校を落として殺したりするコメディ。拳銃で殺そうとしたら弾丸が入ってなかったが、ショックで死んでしまう、とか。
まるでバカ殿様のテレビ見ているみたいで、気軽に楽しめた。
今日読んだ本は、網野善彦の『女性の社会的地位再考』
1、女性の生産労働についての従来の見解
2、商業、金融の分野での女性の役割
3、中世における女性の生産労働-織物-
4、樹木と百姓の生活
5、中世の養蚕と絹
6、養蚕と女性
7、百姓の着た絹小袖
8、女性による生産物の売買
9、女性の社会的役割の大きさ
10、むすび-日本史、世界史の見直し
明治5年から9年にかけてとられた全国統計では、有業者中、農78%、工4%、商7%、あとは雑業、雇人という数字が出た。日本が農業主体であることをあらわす結果に見える。だが、この「農」の中に林業も漁業も含まれている。たとえば、二神島は壬申戸籍では全員が「農」だ。しかし、この島の住民は海や山で生活しており、農民ではないのだ。それを「農」の数字に組み込んだのが、先程の数字なのである。
こんな「農内」現象を長々と引用したのは、この「二神島」を説明する際の網野氏の記述が面白かったからだ。網野氏はこう言う。「進ぬ!電波少年」でロッコツマニアの降りた由利島の本島が二神島だ、と。今となっては懐かしいテレビ番組の出来事を覚えている方が難しい。明治や江戸の古い歴史よりも、テレビ番組の方が残らないものなのだ。
また、この本では女性と養蚕の関連について、語られる。14世紀の寺院の規式では、寺領に桑を植えるべからず、との決まりがある。桑は女性が携わっており、寺に桑を植えることは女性を寺の中に呼び込むことになるからだ。
そういえば、「桑の葉」という韓国映画はエロチックな映画だった。桑と女性はつながっている。これを端的にあらわす言葉として、タレントさんの名前を援用させてもらって「くわまん」なんていかが?
虚無への供物(おはぎ)、海から見た日本史像―奥能登地域と時国家を中心として
2005年5月19日 読書
図書館で群像5月号をさがし、滝本竜彦の随筆「虚無への供物(おはぎ)」を読んだ。
いやー、すごい。いい随筆を書こうとしたけど全然書けない言い訳をえんえんと書いてある。書きたいことが何もないので、ネタを求めて外出するが、無理やりな感想しか浮かばない。あげくのはてに、コンビニで買ったおはぎのおいしさを作文嫌いの小学生レベルで書く。こんなことで大丈夫か?と思わせる力量はさすが。
網野善彦の『海から見た日本史像〜奥能登地域と時国家を中心として』を読んだ。
1、日本史像の転換
2、奥能登、時国家から日本史を読み直す
3、「支配者の歴史」をこえて
実証を不可欠とする歴史学だが、本書の網野氏は、社会批評を行い、歴史から何を学ぶべきかを熱く語っている。
日本は周囲を海で囲まれているから確かに「島」ではある。でも、日本人は「島国根性」がしみついており、国際性が欠如している、との思い込みは間違っている。間違い、というよりも、支配者によってそんな風にすりこまれているのだ。
国家、支配者は自分の立場を守るためにさまざまな虚偽のイデオロギーを多様な方法で我々の内部に浸透させてくる。
海を介して外国や国内の交通は活発だった。海を障壁ととらえるのは一面的なのだ。
現在では「鎖国」という言葉も歴史家は使わない。歴史を調べると、外国人と庶民の交流があり、鎖国の実情がないのがはっきりしてきたからだ。ただし、国家にとってはあくまで「鎖国」だ。
陸を中心としたものの見方は、律令国家が主に軍事目的に、上からおしつけたものにすぎない。
さて、この本で網野氏は奥能登の「時国家」の資料をもとに語っている。「トキクニ」家である。でもパッと見たら「時」国家と読めないこともない。網野氏は「時間国家」を調べる、タイムパトロールぼんだったのか、と一瞬思った。すこし不思議だ。
いやー、すごい。いい随筆を書こうとしたけど全然書けない言い訳をえんえんと書いてある。書きたいことが何もないので、ネタを求めて外出するが、無理やりな感想しか浮かばない。あげくのはてに、コンビニで買ったおはぎのおいしさを作文嫌いの小学生レベルで書く。こんなことで大丈夫か?と思わせる力量はさすが。
網野善彦の『海から見た日本史像〜奥能登地域と時国家を中心として』を読んだ。
1、日本史像の転換
2、奥能登、時国家から日本史を読み直す
3、「支配者の歴史」をこえて
実証を不可欠とする歴史学だが、本書の網野氏は、社会批評を行い、歴史から何を学ぶべきかを熱く語っている。
日本は周囲を海で囲まれているから確かに「島」ではある。でも、日本人は「島国根性」がしみついており、国際性が欠如している、との思い込みは間違っている。間違い、というよりも、支配者によってそんな風にすりこまれているのだ。
国家、支配者は自分の立場を守るためにさまざまな虚偽のイデオロギーを多様な方法で我々の内部に浸透させてくる。
海を介して外国や国内の交通は活発だった。海を障壁ととらえるのは一面的なのだ。
現在では「鎖国」という言葉も歴史家は使わない。歴史を調べると、外国人と庶民の交流があり、鎖国の実情がないのがはっきりしてきたからだ。ただし、国家にとってはあくまで「鎖国」だ。
陸を中心としたものの見方は、律令国家が主に軍事目的に、上からおしつけたものにすぎない。
さて、この本で網野氏は奥能登の「時国家」の資料をもとに語っている。「トキクニ」家である。でもパッと見たら「時」国家と読めないこともない。網野氏は「時間国家」を調べる、タイムパトロールぼんだったのか、と一瞬思った。すこし不思議だ。
続・日本の歴史をよみなおす
2005年5月18日 読書
網野善彦週間、2冊めは『続・日本の歴史をよみなおす』
1、日本の社会は農業社会か
2、海からみた日本列島
3、荘園、公領の世界
4、悪党・海賊と商人・金融業者
5、日本の社会を考えなおす
中世社会はもっぱら農業を基礎にした封建社会と考えられていたが、それだけではとらえきれない。
まず、「百姓」はみんな農民だと思われてきたが、そうではないようだ。
土地をもっていない百姓は「水呑」と呼ばれ、貧しい農民のイメージがあるが、廻船などで大儲けしている水呑百姓も珍しくなかった。
これからは「水呑百姓」は全然悪口ではないと覚えておこう。今までは「百姓!」と言われると悪口だと思って「ヒャー、ショック!」とうちひしがれたものだが、それは、大きな船をいくつも持ち、使用人もいる金持ちのことかもしれない。これは現代において「実業家!」とか「社会人!」とか呼ぶように、幅広い範囲の人々を指す言葉なのだ。
1323年、朝鮮半島西南岸、新安の沖で沈んだ唐船から、28トンもの大量の銅銭や陶磁器が発見された。当時から海を通じて交易があったことを示している。
が、ここで僕が興味をひいたのは、新安沈没船から発見された木簡だ。ここには日本人と思われる人物の名前が書いてあり、この船が日本人と関わりあるものとわかるのだ。さて、その名前とは。
「いや二郎」
いい名前だ!芸人さんだったのか?
1、日本の社会は農業社会か
2、海からみた日本列島
3、荘園、公領の世界
4、悪党・海賊と商人・金融業者
5、日本の社会を考えなおす
中世社会はもっぱら農業を基礎にした封建社会と考えられていたが、それだけではとらえきれない。
まず、「百姓」はみんな農民だと思われてきたが、そうではないようだ。
土地をもっていない百姓は「水呑」と呼ばれ、貧しい農民のイメージがあるが、廻船などで大儲けしている水呑百姓も珍しくなかった。
これからは「水呑百姓」は全然悪口ではないと覚えておこう。今までは「百姓!」と言われると悪口だと思って「ヒャー、ショック!」とうちひしがれたものだが、それは、大きな船をいくつも持ち、使用人もいる金持ちのことかもしれない。これは現代において「実業家!」とか「社会人!」とか呼ぶように、幅広い範囲の人々を指す言葉なのだ。
1323年、朝鮮半島西南岸、新安の沖で沈んだ唐船から、28トンもの大量の銅銭や陶磁器が発見された。当時から海を通じて交易があったことを示している。
が、ここで僕が興味をひいたのは、新安沈没船から発見された木簡だ。ここには日本人と思われる人物の名前が書いてあり、この船が日本人と関わりあるものとわかるのだ。さて、その名前とは。
「いや二郎」
いい名前だ!芸人さんだったのか?
日本の歴史をよみなおす
2005年5月17日 読書
突然だが、今日から網野善彦週間に入ることにした。本を読んで、思い付いたこととか、へーと思ったことをランダムに書き留めていこう。
まず、選んだのは、『日本の歴史をよみなおす』
1、文字について
2、貨幣と商業、金融
3、畏怖と賤視
4、女性をめぐって
5、天皇と「日本」の国号
天皇の称号は7世紀の天武、持統期にはじまる。
これがどういうことかというと、天武天皇以前に天皇と呼ばれた人はいないのだ。天智天皇だって、存在しないのだ。大王ならいただろうが。
日本の国号も7世紀。
これがどういうことかというと、それ以前に「日本人」は存在しないのだ。
聖徳太子は日本人とは呼べないのだ。倭人だというならかまわないが。
これらはどうでもいいことか?
いいや、天皇や日本を今と同じようなものとして最初から存在していたと思っていては間違いなのだ。
天皇だって、時代の転換期にあっては、日本人の意志によって天皇が消える条件がうまれるのである。最初からずーっとあって、未来永劫続く、と考える根拠はどこにもない。むしろ、それは間違いであり、不自然なのだ。
「あんた、何言っ天皇〜、それで節約できるの〜、中学生のせんずりさ〜」(by 東京どりぃむらんど)
獄から放免された人を「放免」と呼ぶ。貴人の輿や柩をかつぐ八瀬童子は、この放免同様に、名前に「丸」がついている。
「丸」は子供の名前につけられる「童名」で、鷹、犬、鎧、兜、武器、笛、笙、篳篥、船などにも使われている。これは、すべて聖俗の境界にあるものばかりである。童自身、聖俗の境界にいる特異な存在と考えられていたのだ。
モーニング娘。に「。」(丸)がついているのも、彼女たちがまだ若い童であるという表面的な意味だけでなく、聖俗の境界にある特異な存在であることを示している。
このblog見て、この『日本の歴史をよみなおす』のことは何もわからない。実際に読んで、その面白さに触れていただきたい。(なぜ、宣伝?)
まず、選んだのは、『日本の歴史をよみなおす』
1、文字について
2、貨幣と商業、金融
3、畏怖と賤視
4、女性をめぐって
5、天皇と「日本」の国号
天皇の称号は7世紀の天武、持統期にはじまる。
これがどういうことかというと、天武天皇以前に天皇と呼ばれた人はいないのだ。天智天皇だって、存在しないのだ。大王ならいただろうが。
日本の国号も7世紀。
これがどういうことかというと、それ以前に「日本人」は存在しないのだ。
聖徳太子は日本人とは呼べないのだ。倭人だというならかまわないが。
これらはどうでもいいことか?
いいや、天皇や日本を今と同じようなものとして最初から存在していたと思っていては間違いなのだ。
天皇だって、時代の転換期にあっては、日本人の意志によって天皇が消える条件がうまれるのである。最初からずーっとあって、未来永劫続く、と考える根拠はどこにもない。むしろ、それは間違いであり、不自然なのだ。
「あんた、何言っ天皇〜、それで節約できるの〜、中学生のせんずりさ〜」(by 東京どりぃむらんど)
獄から放免された人を「放免」と呼ぶ。貴人の輿や柩をかつぐ八瀬童子は、この放免同様に、名前に「丸」がついている。
「丸」は子供の名前につけられる「童名」で、鷹、犬、鎧、兜、武器、笛、笙、篳篥、船などにも使われている。これは、すべて聖俗の境界にあるものばかりである。童自身、聖俗の境界にいる特異な存在と考えられていたのだ。
モーニング娘。に「。」(丸)がついているのも、彼女たちがまだ若い童であるという表面的な意味だけでなく、聖俗の境界にある特異な存在であることを示している。
このblog見て、この『日本の歴史をよみなおす』のことは何もわからない。実際に読んで、その面白さに触れていただきたい。(なぜ、宣伝?)
バタフライ・エフェクト、家宝
2005年5月16日 映画
エリック・ブレス、J・マッキー・グルーバー監督、脚本の映画「バタフライ・エフェクト」を見に行った。主演アシュトン・カッチャー。
ラブストーリーではあるが、サスペンスに富んだ、ちょっとこわい映画だった。
主人公はときどきブラックアウトする。その間の記憶が何もない。彼を救うために出てくるのが「バタフライ探検隊」だ。(嘘)
彼は自分が残した過去の日記を読むことで、その時にタイムスリップすることができる。で、過去から自分の人生をやりなおすことができるのだ。過去のある瞬間に、どんな選択をするかによって、後の人生が大幅に変わってしまう。彼は何度も人生をやりなおすが、好きな彼女を幸せにしてやることができない。ラストで彼が過去に戻り、とった行動はとてもせつない。彼女はそれで幸せになるのかもしれないが。
これじゃ、相手の幸せのために自分は身をひく、という古典的な弱虫のとる行動じゃないか。
だが、日記を読んでその頃に戻り、空白の記憶の部分に後から好きな選択をあてはめることができる、という発想は魅力的だった。僕だって、「あの時、思いきってこうしておけばよかった」と切実に思うことが多々あるからだ。でも、過去に遡ってある選択をしたことによって、自分がもう現在には存在しない(死んでしまう)場合は、どうするつもりだったんだろう。僕もこのblogを使って過去に遡ってみたい。たかだか1年の間にも、重大な転換点はいくつかあった。
マノエル・ド・オリヴェイラ監督の「家宝」を見た。
主人公のカミーラを演じたのはレオノール・バルダック。「家宝」の原作者アグシティナ・ベッサ=ルイーシュの孫娘だ。まさに家宝。
主人公カミーラはその美しさによって「家宝」と讃えられる。「家宝は自ら輝く」の言葉どおり、彼女は心の強い女性でもあった。彼女は遺産を相続したアントニオと結婚する。彼女はアントニオだけでなく、彼女を愛するジョゼ(メイドの息子)、彼女を屋敷から追い出そうとする遣り手のあばずれヴァネッサ(アントニオの元恋人)を翻弄する。カミーラがどんな女性かを、映画の中では「誠実だが、何にも関心を持てない」と表現していた。映画ではマリア様の絵画がキーポイントで映される。主人公カミーラは一見天使、実は悪魔、ところが本当は聖女だったんじゃないか、と思った。ひとことで悪と決めつけられない謎がカミーラにはある。
男は女を弱いものと決めつけて、自分の自由になると思い込むふしがある。大馬鹿だ。
好きな女性が何かを企んでいて、それが自分にとって不利になることであっても、男たるもの、その企みを過剰に達成させてあげて、企みのもつ卑しさを思い知らせてやるべきなのだ。男たるもの、なんて言葉はくだらないけど、自分の行動を自分に納得させるためのスプリングボードにはなる。これは、僕の恋愛が今まで「じゃじゃ馬ならし」パターンが多かったこととも関係しているのだろう。
この映画の撮影はレナート・ベルタ。ストローブ&ユイレやアモス・ギタイの作品などを撮影している。さすがに映像がただものじゃない。
オリヴェイラ監督(1908年生まれ)についての豆知識を一つ。
オリヴェイラ監督の初の劇映画は「アニキ・ボボ」(1942年)。いいタイトル!
ラブストーリーではあるが、サスペンスに富んだ、ちょっとこわい映画だった。
主人公はときどきブラックアウトする。その間の記憶が何もない。彼を救うために出てくるのが「バタフライ探検隊」だ。(嘘)
彼は自分が残した過去の日記を読むことで、その時にタイムスリップすることができる。で、過去から自分の人生をやりなおすことができるのだ。過去のある瞬間に、どんな選択をするかによって、後の人生が大幅に変わってしまう。彼は何度も人生をやりなおすが、好きな彼女を幸せにしてやることができない。ラストで彼が過去に戻り、とった行動はとてもせつない。彼女はそれで幸せになるのかもしれないが。
これじゃ、相手の幸せのために自分は身をひく、という古典的な弱虫のとる行動じゃないか。
だが、日記を読んでその頃に戻り、空白の記憶の部分に後から好きな選択をあてはめることができる、という発想は魅力的だった。僕だって、「あの時、思いきってこうしておけばよかった」と切実に思うことが多々あるからだ。でも、過去に遡ってある選択をしたことによって、自分がもう現在には存在しない(死んでしまう)場合は、どうするつもりだったんだろう。僕もこのblogを使って過去に遡ってみたい。たかだか1年の間にも、重大な転換点はいくつかあった。
マノエル・ド・オリヴェイラ監督の「家宝」を見た。
主人公のカミーラを演じたのはレオノール・バルダック。「家宝」の原作者アグシティナ・ベッサ=ルイーシュの孫娘だ。まさに家宝。
主人公カミーラはその美しさによって「家宝」と讃えられる。「家宝は自ら輝く」の言葉どおり、彼女は心の強い女性でもあった。彼女は遺産を相続したアントニオと結婚する。彼女はアントニオだけでなく、彼女を愛するジョゼ(メイドの息子)、彼女を屋敷から追い出そうとする遣り手のあばずれヴァネッサ(アントニオの元恋人)を翻弄する。カミーラがどんな女性かを、映画の中では「誠実だが、何にも関心を持てない」と表現していた。映画ではマリア様の絵画がキーポイントで映される。主人公カミーラは一見天使、実は悪魔、ところが本当は聖女だったんじゃないか、と思った。ひとことで悪と決めつけられない謎がカミーラにはある。
男は女を弱いものと決めつけて、自分の自由になると思い込むふしがある。大馬鹿だ。
好きな女性が何かを企んでいて、それが自分にとって不利になることであっても、男たるもの、その企みを過剰に達成させてあげて、企みのもつ卑しさを思い知らせてやるべきなのだ。男たるもの、なんて言葉はくだらないけど、自分の行動を自分に納得させるためのスプリングボードにはなる。これは、僕の恋愛が今まで「じゃじゃ馬ならし」パターンが多かったこととも関係しているのだろう。
この映画の撮影はレナート・ベルタ。ストローブ&ユイレやアモス・ギタイの作品などを撮影している。さすがに映像がただものじゃない。
オリヴェイラ監督(1908年生まれ)についての豆知識を一つ。
オリヴェイラ監督の初の劇映画は「アニキ・ボボ」(1942年)。いいタイトル!
滝本竜彦の『超人計画』を読んだ。ひきこもり作者が渋谷でナンパするに至る道を、ニーチェの駱駝〜獅子〜赤子の超人への道になぞらえる、教養(ビルドゥングス)エッセイ。
とはいうものの、ちょっとやそっとでひきこもりがナンパなど出来ない。毎回、手を替え品を替えての言い訳の数々、脳内妄想で笑わせる。ニーチェが作中よく出てくるのも面白い。最初の方はもうルサンチマン全開で、よくぞここまで書き切った、と拍手した。渋谷でナンパするよりも、部屋の中でネット三昧の方が、はるかに有意義だと思うし、作者もそう考えているに違いないのだが、あえて、超人計画と銘打ってそれを達成するでもなく遊んでいるのも楽しそうだ。作家として四苦八苦して出てきた作品だとしても。結局、教養エッセイをめざして、いつまでも足踏みしているのが痛快なのだ。
巻末の「面白くってタメになる!レイちゃんの知恵袋」も面白くってタメになった。レイちゃん、というのは作者の脳内彼女で、綾波レイ似なのだ。そういえば、最近、盲目の黒人ミュージシャン、レイ・チャールズを描いた映画「レイ」が話題になっていたが、予備知識なかったら、青い髪で眼帯した女の子が主人公かと思うよね!
途中、ヤラセのナンパ写真で登場した女の子、どこかで見たことあると思ったら、月蝕歌劇団の三坂知絵子だった!
この「超人計画」にはネット上で「超人計画2」という続編も連載されているのだが、途中で頓挫しているように見える。作者自身は雑誌に作品を出したり、ロフトプラスワンに出たりしているので、健康上の理由ではないようだ。
滝本竜彦は面白い。近々図書館にでも行って、もう書店には並んでいない『群像』5月号を探して読もう。『群像』に載った彼の作品は「虚無への供物(おはぎ)」というタイトルなのだ。読まずにはおれまい。
あと、今日は日曜、やたら現代音楽ばかり聞いてすごした休日だった。
現代音楽聞いていると、そのテーマや演奏方法に関わらず、心が落ち着くのはなぜだ。スリルとサスペンスに満ちた実験的な音楽でも、ショパンより落ち着く。幼い頃から耳に入ってきた音が、そんな脳を作りあげたのだろうか。
とはいうものの、ちょっとやそっとでひきこもりがナンパなど出来ない。毎回、手を替え品を替えての言い訳の数々、脳内妄想で笑わせる。ニーチェが作中よく出てくるのも面白い。最初の方はもうルサンチマン全開で、よくぞここまで書き切った、と拍手した。渋谷でナンパするよりも、部屋の中でネット三昧の方が、はるかに有意義だと思うし、作者もそう考えているに違いないのだが、あえて、超人計画と銘打ってそれを達成するでもなく遊んでいるのも楽しそうだ。作家として四苦八苦して出てきた作品だとしても。結局、教養エッセイをめざして、いつまでも足踏みしているのが痛快なのだ。
巻末の「面白くってタメになる!レイちゃんの知恵袋」も面白くってタメになった。レイちゃん、というのは作者の脳内彼女で、綾波レイ似なのだ。そういえば、最近、盲目の黒人ミュージシャン、レイ・チャールズを描いた映画「レイ」が話題になっていたが、予備知識なかったら、青い髪で眼帯した女の子が主人公かと思うよね!
途中、ヤラセのナンパ写真で登場した女の子、どこかで見たことあると思ったら、月蝕歌劇団の三坂知絵子だった!
この「超人計画」にはネット上で「超人計画2」という続編も連載されているのだが、途中で頓挫しているように見える。作者自身は雑誌に作品を出したり、ロフトプラスワンに出たりしているので、健康上の理由ではないようだ。
滝本竜彦は面白い。近々図書館にでも行って、もう書店には並んでいない『群像』5月号を探して読もう。『群像』に載った彼の作品は「虚無への供物(おはぎ)」というタイトルなのだ。読まずにはおれまい。
あと、今日は日曜、やたら現代音楽ばかり聞いてすごした休日だった。
現代音楽聞いていると、そのテーマや演奏方法に関わらず、心が落ち着くのはなぜだ。スリルとサスペンスに満ちた実験的な音楽でも、ショパンより落ち着く。幼い頃から耳に入ってきた音が、そんな脳を作りあげたのだろうか。
アニメ上映会、teff teff、スタジオSTSライブ
2005年5月14日 アニメ・マンガ
ディスクピア日本橋にアニメ上映会を見に行った。今日は3本立て。
「円盤皇女ワるきゅーレ〜星霊節の花嫁」第1話「乙女と眼鏡の関係について」
学校に円盤が落ちてきて刺さった!その日からファム(皇女)の侵略がはじまる。対抗するのは真田侍女長。眼鏡っ子とネコミミの戦争が勃発する!
なぜファムが学内の少女たちを眼鏡っ子化して一代勢力を築くのか真相を知って、僕は椅子から転げ落ちそうになった。なんじゃ、そりゃ!でもラストでワるきゅーレがその望みを無邪気に叶えてあげるシーンに、軽く膝を打った。DVDは5月25日発売予定。
「鴉-KARAS-」第1話「鴉開眼」
タツノコプロ40周年記念アニメーションで、力の入り方が尋常じゃない。Xファイルで妖怪退治するような話だが、アニメ技術を駆使して、まるで最近のライダーシリーズを視覚的万能にしたような印象。第1話では河童退治。でも、この第1話全体が予告編みたいなものなんだろうな、と思った。
鈴木かすみや渋谷飛鳥が重要な役で声をあてているのも僕にとってはツボ。
このイベントは無料なのに、入場者にはプレゼントがある。この「鴉」のPV(DVD)もその中にあったので帰ってから見てみたが、こりゃかっこいい。DVDは5月28日発売予定。
「これが私の御主人様」第1話
広い屋敷に1人で住む少年。家出してきた中学生姉妹はその屋敷でメイドとしてはたらくことになった。登場人物の発言がいちいち底が浅くて納得しがたいが、現実にもよくある齟齬の範囲内かもしれない。
いかにも萌え系のギャグが随所に織り込まれた作品なので、ほとんど身内ウケに近い。
4月からBS-iで放送されていたらしい。DVDは6月10日発売予定。
アニメといえば、ローゼンメイデンの第2期シリーズ「ローゼンメイデン・トロイメント」の制作決定がフロムゲーマーズなどで話題になっているが、ここ大阪では5月21日から第1期シリーズの放送がはじまる。第1話は、かなり前にこのディスクピアの上映会で見たのだ。続編が出るということは、面白いシリーズだったのだろう。チェックしてみるか。
信長書店でteff teffイベント。午後3時からの回を見に行った。
まずRiRi(岩崎梨緒奈、金山理恵)の歌「大スキ!」(広末)
小畑いおりと松涛有希が登場し、ファンクラブの説明トーク。
RiRi再登場で「Trust Your Love」(倖田來未)
サイン色紙争奪クイズ大会(クイズ内容はteff teffメンバーについての知識。僕は最後まで残ったがジャンケンで負けた!)
いおりと有希によるグッズ紹介。
RiRi「あ〜よかった」(花*花)
撮影タイム。ビデオはNGだが、デジカメ、携帯での撮影はOK。でも、僕は何も持っていなかったので、撮影できず。
小畑いおりちゃんはテレビ番組(僕の家ではうつらないが、奈良テレビ、テレビ和歌山で放送中)「ゴールデンスロット」の「ゴールデンハニー」の一員だ。人気投票があったのでランキングを見てみたら、小畑いおりちゃん、苦戦である。1票投じてランクアップを祈った。
このイベント、RiRiにはそれぞれの妹さんや親戚の子供が見に来ていた。撮影タイムでその子供(6才)が「りえちゃん、撮りたい!」とせがんでいたが、母親に「りえちゃんは家に帰ったらいくらでも写真撮れるでしょう」とたしなめられていた。面白い!
九条に行き、スタジオSTSライブ。今日はteff teffがあったので、午後5時頃から並んだ。開演は午後7時。
以下、演目とユニット。
そんでもってFUN FUN FUN/ハローキティ選抜
ジュテーム ジュテーム/ミニバブ
BOY/ミニバブ(次のトレード登場までのつなぎ)
憧夢〜風に向かって/トレード
ラブリーフレンドシップ/ペトラキッズ
イントロ/NAO組(ケミカルブラザーズ)
渚の「…」/プリティーズ
Final Fun-Boy/クランベリーズ
センチメンタルボーイ/RISAKO&REINA(曲タイトルはプログラム記載ママ)
みんなに一番/ミニミニclub
ハピネス/ファッションズ(Berryz工房。振り付けは一部取り入れているだけで、ハローキティ選抜のダンスと似ていた)
sexy,naughty,bitchu/ブラックベリーズ
can’t be stopped/ブラックベリーズ(今回は2曲踊るユニットを4組、後半にかためてきた。ブラックベリーズはアダルトなレパートリーとは逆に、自己紹介はハッチャケていた。ダンシングBANANAを極端にしたようなはしゃぎぶり。 メンバー紹介ではリカちゃんが2人いるため、それぞれ「リカONE」「リカTWO」と呼んでくれるようにお客さんにアピールしていた)
ちょっとだけMY LOVE/ミューズ
瞳は元気なブルースカイ/ミューズ(ミューズは東京ライブの感想。新メンバー川田梨由ちゃんの紹介)
Quincy/TOUCH
faraway/TOUCH(タッチも台本通りの自己紹介だが、以前のバージョンよりも面白くなっていた)
Uki Uki Baby/いちごっ娘
Get’s your Groove/いちごっ娘(東京ライブで感激のあまり泣いたことなど)
バイク/Super Bubblez
以上。
ベスト3のアンケートで一番多く票を集めたユニットは、次回のライブでトリをとり、しかも3曲踊れるとアナウンスがあった。どう考えてもプリティーズなんかがトップになったりしない(レパートリーが2曲)となめていないか?まあ、「ショータイム」とか「ミッキーマウスマーチ」なら誰でも踊れるんだろうが。
僕の選んだベスト3はTOUCH、いちごっ娘、RISAKO&REINAだった。
終演後にマツケンサンバが流れて、工藤幸子の息子がキラキラの衣装、アフロヘアで登場。以前、マツケンサンバを舞台の上で勝手に遊んで踊っていたのに気をよくして、ちゃんとコスチュームまで用意してステージに立たせたものらしい。子供だから、今日は踊りたくない、と駄々をこねて、ダンスは不発。
このライブで、ひさしぶりに安田謙一くんとイレメちゃん夫妻に会った。考えてみると、ここ2年ほど、安田夫妻に会うのは、このstsライブでだけだ。
今日はいくつものイベントが重なっていて、選択に苦しんだ。迷いはなかったのだが、行かないことに決めたイベントをあきらめねばならないのがつらかったのだ。
ザ・事情聴取も童貞しゃべり場もハーベストの丘も神戸まつりも、行きたかったなあ。
「円盤皇女ワるきゅーレ〜星霊節の花嫁」第1話「乙女と眼鏡の関係について」
学校に円盤が落ちてきて刺さった!その日からファム(皇女)の侵略がはじまる。対抗するのは真田侍女長。眼鏡っ子とネコミミの戦争が勃発する!
なぜファムが学内の少女たちを眼鏡っ子化して一代勢力を築くのか真相を知って、僕は椅子から転げ落ちそうになった。なんじゃ、そりゃ!でもラストでワるきゅーレがその望みを無邪気に叶えてあげるシーンに、軽く膝を打った。DVDは5月25日発売予定。
「鴉-KARAS-」第1話「鴉開眼」
タツノコプロ40周年記念アニメーションで、力の入り方が尋常じゃない。Xファイルで妖怪退治するような話だが、アニメ技術を駆使して、まるで最近のライダーシリーズを視覚的万能にしたような印象。第1話では河童退治。でも、この第1話全体が予告編みたいなものなんだろうな、と思った。
鈴木かすみや渋谷飛鳥が重要な役で声をあてているのも僕にとってはツボ。
このイベントは無料なのに、入場者にはプレゼントがある。この「鴉」のPV(DVD)もその中にあったので帰ってから見てみたが、こりゃかっこいい。DVDは5月28日発売予定。
「これが私の御主人様」第1話
広い屋敷に1人で住む少年。家出してきた中学生姉妹はその屋敷でメイドとしてはたらくことになった。登場人物の発言がいちいち底が浅くて納得しがたいが、現実にもよくある齟齬の範囲内かもしれない。
いかにも萌え系のギャグが随所に織り込まれた作品なので、ほとんど身内ウケに近い。
4月からBS-iで放送されていたらしい。DVDは6月10日発売予定。
アニメといえば、ローゼンメイデンの第2期シリーズ「ローゼンメイデン・トロイメント」の制作決定がフロムゲーマーズなどで話題になっているが、ここ大阪では5月21日から第1期シリーズの放送がはじまる。第1話は、かなり前にこのディスクピアの上映会で見たのだ。続編が出るということは、面白いシリーズだったのだろう。チェックしてみるか。
信長書店でteff teffイベント。午後3時からの回を見に行った。
まずRiRi(岩崎梨緒奈、金山理恵)の歌「大スキ!」(広末)
小畑いおりと松涛有希が登場し、ファンクラブの説明トーク。
RiRi再登場で「Trust Your Love」(倖田來未)
サイン色紙争奪クイズ大会(クイズ内容はteff teffメンバーについての知識。僕は最後まで残ったがジャンケンで負けた!)
いおりと有希によるグッズ紹介。
RiRi「あ〜よかった」(花*花)
撮影タイム。ビデオはNGだが、デジカメ、携帯での撮影はOK。でも、僕は何も持っていなかったので、撮影できず。
小畑いおりちゃんはテレビ番組(僕の家ではうつらないが、奈良テレビ、テレビ和歌山で放送中)「ゴールデンスロット」の「ゴールデンハニー」の一員だ。人気投票があったのでランキングを見てみたら、小畑いおりちゃん、苦戦である。1票投じてランクアップを祈った。
このイベント、RiRiにはそれぞれの妹さんや親戚の子供が見に来ていた。撮影タイムでその子供(6才)が「りえちゃん、撮りたい!」とせがんでいたが、母親に「りえちゃんは家に帰ったらいくらでも写真撮れるでしょう」とたしなめられていた。面白い!
九条に行き、スタジオSTSライブ。今日はteff teffがあったので、午後5時頃から並んだ。開演は午後7時。
以下、演目とユニット。
そんでもってFUN FUN FUN/ハローキティ選抜
ジュテーム ジュテーム/ミニバブ
BOY/ミニバブ(次のトレード登場までのつなぎ)
憧夢〜風に向かって/トレード
ラブリーフレンドシップ/ペトラキッズ
イントロ/NAO組(ケミカルブラザーズ)
渚の「…」/プリティーズ
Final Fun-Boy/クランベリーズ
センチメンタルボーイ/RISAKO&REINA(曲タイトルはプログラム記載ママ)
みんなに一番/ミニミニclub
ハピネス/ファッションズ(Berryz工房。振り付けは一部取り入れているだけで、ハローキティ選抜のダンスと似ていた)
sexy,naughty,bitchu/ブラックベリーズ
can’t be stopped/ブラックベリーズ(今回は2曲踊るユニットを4組、後半にかためてきた。ブラックベリーズはアダルトなレパートリーとは逆に、自己紹介はハッチャケていた。ダンシングBANANAを極端にしたようなはしゃぎぶり。 メンバー紹介ではリカちゃんが2人いるため、それぞれ「リカONE」「リカTWO」と呼んでくれるようにお客さんにアピールしていた)
ちょっとだけMY LOVE/ミューズ
瞳は元気なブルースカイ/ミューズ(ミューズは東京ライブの感想。新メンバー川田梨由ちゃんの紹介)
Quincy/TOUCH
faraway/TOUCH(タッチも台本通りの自己紹介だが、以前のバージョンよりも面白くなっていた)
Uki Uki Baby/いちごっ娘
Get’s your Groove/いちごっ娘(東京ライブで感激のあまり泣いたことなど)
バイク/Super Bubblez
以上。
ベスト3のアンケートで一番多く票を集めたユニットは、次回のライブでトリをとり、しかも3曲踊れるとアナウンスがあった。どう考えてもプリティーズなんかがトップになったりしない(レパートリーが2曲)となめていないか?まあ、「ショータイム」とか「ミッキーマウスマーチ」なら誰でも踊れるんだろうが。
僕の選んだベスト3はTOUCH、いちごっ娘、RISAKO&REINAだった。
終演後にマツケンサンバが流れて、工藤幸子の息子がキラキラの衣装、アフロヘアで登場。以前、マツケンサンバを舞台の上で勝手に遊んで踊っていたのに気をよくして、ちゃんとコスチュームまで用意してステージに立たせたものらしい。子供だから、今日は踊りたくない、と駄々をこねて、ダンスは不発。
このライブで、ひさしぶりに安田謙一くんとイレメちゃん夫妻に会った。考えてみると、ここ2年ほど、安田夫妻に会うのは、このstsライブでだけだ。
今日はいくつものイベントが重なっていて、選択に苦しんだ。迷いはなかったのだが、行かないことに決めたイベントをあきらめねばならないのがつらかったのだ。
ザ・事情聴取も童貞しゃべり場もハーベストの丘も神戸まつりも、行きたかったなあ。
伴先生、エボリューション、クレタ人問題
2005年5月13日 読書
今日は年に1度の健康診断の日。採血したり、検尿したり、眼圧はかったり、心電図とったり、レントゲン撮影したり。それなりの楽しさはあるけど、1年に1回でも多い。健康のために心掛けていることが何もない。生活は不規則だし、睡眠不足だし、バランスの悪い食生活してるし、運動もしていない。健康のために時間を割くなんてまさに時間の無駄だ。
吉屋信子の『伴先生』を読んだ。女学校の学園ものだ!
捨て子の親が名乗り出たり、父なし子の主人公先生の父親がわかったり、軽薄な男が改心したり、意地悪な女が悔い改めたり、仕事がうまく行かなくて酒びたりの男が生き甲斐を持つ仕事にめぐりあえたり。
これは、世界というのはこうでなくっちゃ、という白魔術小説だ。
中原淳一の絵と装幀もきれいだし、野ばら君の註釈も人をくっていて面白いし、吉屋信子の描写する意地悪女も馬鹿乙女で魅力的。
乙女は心身ともに「狭い」のだ。
テレビで映画「エボリューション」を見た。アイバン・ライトマン監督、デビッド・ドゥカブニー主演。アメリカン・ギャグはスカトロがつきまとっている。それと、人種差別ネタ。
モンスター退治にシャンプーが使われるのが面白い。アメリカ人はスカトロは好きだけど、不潔な人間(たとえばアジア人とかアフリカ、中東の人間)は嫌いだから。きっとターバンをはずしてシャンプーしてやりたい、と常日頃から考えているんじゃなかろうか。
ところで、ミクシィの日記で面白い問題を考えるきっかけができた。
(問)
あるクレタ人が言った。
「すべてのクレタ人は嘘つきだ!」
さて、このクレタ人は嘘つきなのか、そうでないのか。
数学的解答が存在するらしいのだが、僕は散文的な思考で、これについていろいろと考えを巡らせてみた。
この問題を成立させるためには、いくつかの前提条件が必要になってくる。
普通、人間は嘘つきであっても全ての発言が嘘であるとはかぎらない。
逆もまたしかり。
そして、それが嘘かどうかを誰が判断するかによっても事情は変わってくる。
同じ発言でも、みんなの前で言うときと、特定のあの娘の前で言うときでは、嘘と本当が逆転することもある。言葉を直訳した意味だけが意味ではないのだから。(月がきれいだね、という発言が、月のきれいさを意味しておらず、キスしたいという意味であるように。「すべてのクレタ人は嘘つきだ」が「おまえら、ええかげんにしろよ」という意味なのかもしれない)
また、日本語を理解していない人間が発言したのかもしれず、発言は芝居のセリフだったのかもしれない。言い間違いだったのかもしれない。
ある「クレタ人(じん)」とすべての「クレタ人(ひと)」はカテゴリーが違うのかもしれない。
このクレタ人はくだんの発言の瞬間だけクレタ人でなかったのかもしれない。
でも、そうした前提をいったん脇に置いておいて考えると、僕にはこの問題が、次のような設問に思えてしかたなかった。
(問)
すべてのクレタ人は嘘つきである。すべての発言が嘘である。
ならば、このクレタ人はいかにして、「すべてのクレタ人は嘘つきだ」などという矛盾した発言が可能だったのか。
あっ、今あるシチュエーションが頭に浮かんだ。
九官鳥のキュータロウは、鳥だから絶対に嘘をつけない。
しかし、キュータロウに「あなたのお名前は?」と聞くと、「オタケサン」と答えた。
嘘をつけないはずのキュータロウはどうしてこんな大嘘をついたのか。
まあ、これはどうでもいいとして、クレタ人だ。
1つの考え方として思い付いたのは、こう。このクレタ人は徹底的に嘘つきだった。だから、「クレタ人は常に嘘をつく」という概念に対しても嘘をつき、自分がクレタ人であるという正体についても正直でいるわけにはいかなかったのだ。つまり、このクレタ人は嘘をついたりつかなかったりすることができた。数学的には矛盾でも、人間的にはありうるのだ。
もう一つの回答は、こう。このクレタ人はクレタ人らしく、ちゃんと嘘をついていた。ただ、彼はまさか「すべてのクレタ人が嘘つき」だなんて、思ってもいなかったのだ。だから、「すべてのクレタ人は嘘つきだ」と、嘘をつけたのだ。
真偽の問題と嘘本当の問題とでは次元が違うのである。
そして、「僕の友達は全員日本人である」という発言のように、経験によって真偽はいつでも入れ替わるのだ。「すべてのクレタ人は嘘つきだ」と発言している最中に、嘘つきでないクレタ人が1人誕生すれば、この発言は偽になる。「黒人は黒い」という自明な事柄も、マイケル・ジャクソンによって、「白い黒人」が実際に可能になった。黒人とは「必ずしも黒いとはかぎらない人」のことなのである。
吉屋信子の『伴先生』を読んだ。女学校の学園ものだ!
捨て子の親が名乗り出たり、父なし子の主人公先生の父親がわかったり、軽薄な男が改心したり、意地悪な女が悔い改めたり、仕事がうまく行かなくて酒びたりの男が生き甲斐を持つ仕事にめぐりあえたり。
これは、世界というのはこうでなくっちゃ、という白魔術小説だ。
中原淳一の絵と装幀もきれいだし、野ばら君の註釈も人をくっていて面白いし、吉屋信子の描写する意地悪女も馬鹿乙女で魅力的。
乙女は心身ともに「狭い」のだ。
テレビで映画「エボリューション」を見た。アイバン・ライトマン監督、デビッド・ドゥカブニー主演。アメリカン・ギャグはスカトロがつきまとっている。それと、人種差別ネタ。
モンスター退治にシャンプーが使われるのが面白い。アメリカ人はスカトロは好きだけど、不潔な人間(たとえばアジア人とかアフリカ、中東の人間)は嫌いだから。きっとターバンをはずしてシャンプーしてやりたい、と常日頃から考えているんじゃなかろうか。
ところで、ミクシィの日記で面白い問題を考えるきっかけができた。
(問)
あるクレタ人が言った。
「すべてのクレタ人は嘘つきだ!」
さて、このクレタ人は嘘つきなのか、そうでないのか。
数学的解答が存在するらしいのだが、僕は散文的な思考で、これについていろいろと考えを巡らせてみた。
この問題を成立させるためには、いくつかの前提条件が必要になってくる。
普通、人間は嘘つきであっても全ての発言が嘘であるとはかぎらない。
逆もまたしかり。
そして、それが嘘かどうかを誰が判断するかによっても事情は変わってくる。
同じ発言でも、みんなの前で言うときと、特定のあの娘の前で言うときでは、嘘と本当が逆転することもある。言葉を直訳した意味だけが意味ではないのだから。(月がきれいだね、という発言が、月のきれいさを意味しておらず、キスしたいという意味であるように。「すべてのクレタ人は嘘つきだ」が「おまえら、ええかげんにしろよ」という意味なのかもしれない)
また、日本語を理解していない人間が発言したのかもしれず、発言は芝居のセリフだったのかもしれない。言い間違いだったのかもしれない。
ある「クレタ人(じん)」とすべての「クレタ人(ひと)」はカテゴリーが違うのかもしれない。
このクレタ人はくだんの発言の瞬間だけクレタ人でなかったのかもしれない。
でも、そうした前提をいったん脇に置いておいて考えると、僕にはこの問題が、次のような設問に思えてしかたなかった。
(問)
すべてのクレタ人は嘘つきである。すべての発言が嘘である。
ならば、このクレタ人はいかにして、「すべてのクレタ人は嘘つきだ」などという矛盾した発言が可能だったのか。
あっ、今あるシチュエーションが頭に浮かんだ。
九官鳥のキュータロウは、鳥だから絶対に嘘をつけない。
しかし、キュータロウに「あなたのお名前は?」と聞くと、「オタケサン」と答えた。
嘘をつけないはずのキュータロウはどうしてこんな大嘘をついたのか。
まあ、これはどうでもいいとして、クレタ人だ。
1つの考え方として思い付いたのは、こう。このクレタ人は徹底的に嘘つきだった。だから、「クレタ人は常に嘘をつく」という概念に対しても嘘をつき、自分がクレタ人であるという正体についても正直でいるわけにはいかなかったのだ。つまり、このクレタ人は嘘をついたりつかなかったりすることができた。数学的には矛盾でも、人間的にはありうるのだ。
もう一つの回答は、こう。このクレタ人はクレタ人らしく、ちゃんと嘘をついていた。ただ、彼はまさか「すべてのクレタ人が嘘つき」だなんて、思ってもいなかったのだ。だから、「すべてのクレタ人は嘘つきだ」と、嘘をつけたのだ。
真偽の問題と嘘本当の問題とでは次元が違うのである。
そして、「僕の友達は全員日本人である」という発言のように、経験によって真偽はいつでも入れ替わるのだ。「すべてのクレタ人は嘘つきだ」と発言している最中に、嘘つきでないクレタ人が1人誕生すれば、この発言は偽になる。「黒人は黒い」という自明な事柄も、マイケル・ジャクソンによって、「白い黒人」が実際に可能になった。黒人とは「必ずしも黒いとはかぎらない人」のことなのである。
バタイユ―魅惑する思想
2005年5月12日 読書
酒井健の『バタイユ・魅惑する思想』を読んだ。昨日はベンヤミン、今日はバタイユ。
バタイユの12冊を肴に、バタイユに即しながらも自由にエッセイを綴っている。
その12冊は「文学と悪」「内的体験」「空の青」「有罪者」「エロティシズム」「ドキュマン」「呪われた部分」「アセファル」「ラスコーあるいは芸術の誕生」「ニーチェについて」「太陽肛門」「エロスの涙」
また、「バタイユに魅せられた人々」と題するコラムをはさんでいた。モーリス・ブランショ、コレット・ペーニョ、ピエール・クロソウスキー、岡本太郎、ミシェル・フーコー、三島由紀夫とバタイユのつながりを書いている。
本書で引用されるバタイユは、酒井健自身が翻訳したもので、これがまた読みやすい。個人全訳のバタイユ全集を編んでほしいと思った。
さて、この本を読んで感じたのは、嬉しくなるほどのバタイユの駄目男っぷりだ。
バタイユは『内的体験』でこんなことを書いている。
「もしも思想史の中に私を位置づける必要がでてくるのだとしたら、それは、思うに、私が<推論的な現実の消滅>の諸事態を、私たち人間の生のなかで識別したということにある」
推論的な現実、というのは、現在から未来に延びた、目的実現のための現実のこと。未来での目的達成のために、現実を犠牲にする考えだ。
進学したいからつらい受験勉強するとか、試合で勝利するために死の特訓するとか。部屋を整理整頓してみたり、明日のためにコツコツ何かを蓄えたり。(寺山修司がかつて学習雑誌で落合恵子との対談で、「いやなら受験勉強なんかしなくていい」というようなことを語っていた。レモンちゃんは「でも志望校に受かりたい場合はどうするんですか」と聞いていたが、それに対する寺山の答えは曖昧で覚えていない。再読したいが、本になっていないような気がする)
バタイユはそれがきっちり守れなかった男なのだろう。わかっちゃいるけどやめられないのだ。仕事があるのに、愛欲に溺れて休んだりするタイプだ。
こうすればこうなる、という目論みを、しょーもないことで破ってしまう。計画性もなく、忍耐力もない。こんな男に惚れては駄目なのに、なぜか女はこういう駄目人間に魅力を感じるようだ。それは僕みたいな無能な人間にとっては一種の福音でもある。
また、バタイユは『有罪者』で「私自身、まさしく<使い道のない否定性>であるからです」と役立たずをカミングアウトしている。
バタイユは駄目な人間だが、今もなお魅力的な思想家、文学者で、最近流行りの脆弱な駄目人間とは違って、ひきこもらない。酒井健によると、バタイユの思想の核心は「体裁をかなぐり捨てた激しいコミュニケーションへの欲求」にあるそうだ。「傷つくのがこわい」ではなく、「傷つくのがわかっていながら、そうせずにはいられない」のがバタイユなのだ。
あと、『エロスの涙』で中国の百刻みの刑がとりあげられている。罪人の胸や足の肉を手刀でえぐったり、そぎ落としたりする公開刑で、写真では阿片で痛みを感じない罪人が笑みすら浮かべている。僕は学生時代にまさにその刑罰の生写真を貼りこんだスクラップ帳を古本市で買ったことがある。段ボール箱いっぱいの分量で、一括して支払えず月賦にしてもらった。刀で首を切る瞬間の写真とか、生首が吊るしてある写真とか、中国の残酷刑罰生写真がコレクションされていた。バタイユが『エロスの涙』で使っていた写真とは別物だったので、中国では絵葉書売るみたいに、こんな写真を売ってるのかな?と思っていた。
そのスクラップ帳も引っ越しのドサクサで、今どこにあるのかわからない。あんなもん盗んだら祟られるぞ!
バタイユの12冊を肴に、バタイユに即しながらも自由にエッセイを綴っている。
その12冊は「文学と悪」「内的体験」「空の青」「有罪者」「エロティシズム」「ドキュマン」「呪われた部分」「アセファル」「ラスコーあるいは芸術の誕生」「ニーチェについて」「太陽肛門」「エロスの涙」
また、「バタイユに魅せられた人々」と題するコラムをはさんでいた。モーリス・ブランショ、コレット・ペーニョ、ピエール・クロソウスキー、岡本太郎、ミシェル・フーコー、三島由紀夫とバタイユのつながりを書いている。
本書で引用されるバタイユは、酒井健自身が翻訳したもので、これがまた読みやすい。個人全訳のバタイユ全集を編んでほしいと思った。
さて、この本を読んで感じたのは、嬉しくなるほどのバタイユの駄目男っぷりだ。
バタイユは『内的体験』でこんなことを書いている。
「もしも思想史の中に私を位置づける必要がでてくるのだとしたら、それは、思うに、私が<推論的な現実の消滅>の諸事態を、私たち人間の生のなかで識別したということにある」
推論的な現実、というのは、現在から未来に延びた、目的実現のための現実のこと。未来での目的達成のために、現実を犠牲にする考えだ。
進学したいからつらい受験勉強するとか、試合で勝利するために死の特訓するとか。部屋を整理整頓してみたり、明日のためにコツコツ何かを蓄えたり。(寺山修司がかつて学習雑誌で落合恵子との対談で、「いやなら受験勉強なんかしなくていい」というようなことを語っていた。レモンちゃんは「でも志望校に受かりたい場合はどうするんですか」と聞いていたが、それに対する寺山の答えは曖昧で覚えていない。再読したいが、本になっていないような気がする)
バタイユはそれがきっちり守れなかった男なのだろう。わかっちゃいるけどやめられないのだ。仕事があるのに、愛欲に溺れて休んだりするタイプだ。
こうすればこうなる、という目論みを、しょーもないことで破ってしまう。計画性もなく、忍耐力もない。こんな男に惚れては駄目なのに、なぜか女はこういう駄目人間に魅力を感じるようだ。それは僕みたいな無能な人間にとっては一種の福音でもある。
また、バタイユは『有罪者』で「私自身、まさしく<使い道のない否定性>であるからです」と役立たずをカミングアウトしている。
バタイユは駄目な人間だが、今もなお魅力的な思想家、文学者で、最近流行りの脆弱な駄目人間とは違って、ひきこもらない。酒井健によると、バタイユの思想の核心は「体裁をかなぐり捨てた激しいコミュニケーションへの欲求」にあるそうだ。「傷つくのがこわい」ではなく、「傷つくのがわかっていながら、そうせずにはいられない」のがバタイユなのだ。
あと、『エロスの涙』で中国の百刻みの刑がとりあげられている。罪人の胸や足の肉を手刀でえぐったり、そぎ落としたりする公開刑で、写真では阿片で痛みを感じない罪人が笑みすら浮かべている。僕は学生時代にまさにその刑罰の生写真を貼りこんだスクラップ帳を古本市で買ったことがある。段ボール箱いっぱいの分量で、一括して支払えず月賦にしてもらった。刀で首を切る瞬間の写真とか、生首が吊るしてある写真とか、中国の残酷刑罰生写真がコレクションされていた。バタイユが『エロスの涙』で使っていた写真とは別物だったので、中国では絵葉書売るみたいに、こんな写真を売ってるのかな?と思っていた。
そのスクラップ帳も引っ越しのドサクサで、今どこにあるのかわからない。あんなもん盗んだら祟られるぞ!