制服向上委員会カウントダウン100
2005年2月20日 アイドル制服向上委員会のカウントダウン100を見に行った。吉田梢の卒業式でもある。
入場時にファンと思しき人がお客さん全員に赤いサイリウムを配っていた。卒業式がはじまったらサイリウムで「こづ」を送るのだ。ハロプロではおなじみだが、制服向上委員会でははじめて。
開場前に流れていたのはボブ・ディランのライブ。開演5分前の場内アナウンスは吉田梢によるものだったが、既に涙声で、1秒前まで泣いていたことがうかがわれるが、気丈にアナウンスをつとめていた。
以下、曲順。午後2時開演。括弧内はメインボーカル。☆は吉田梢参加の楽曲。
☆悲しみを風に乗せて(梢。いきなり梢のソロからはじまって、卒業ムードが盛り上がる)
☆傷だらけの青春(梢)
☆君だけの道(梢。これは吉成圭子の歌。梢特集の3曲だった)
ここから卒業式。司会は松尾真冬。花束贈呈はサプライズで月蝕歌劇団の一ノ瀬めぐみ、元5期生の石澤彩乃が出て来た。りりか、ひなっち、リーダー、会長がメッセージを贈り、梢がみんなに答えてメッセージを贈った。このあたり、涙、涙。
ともだち(真冬。卒業式にふさわしい歌)
ここから、いよいよカウントダウン。制服向上委員会のレパートリー約860曲の中から、ベスト100を発表する。
津軽海峡冬景色(れいな。伶奈はこれからも演歌に挑戦していくとか)
小江戸唄(れいな。川越をアピールする)
愛の誓い(美香)
長い間(美香)
☆さよならは出逢いの明日へのしるし(真冬)
純愛第2章(れいな。寿隊)
☆見た目は男かすかに女(りりか。寿隊)
ここで休憩。
HELPの季節(真冬。HELLOW)
キューティーキャット(りりか。HELLOW)
☆春風に乗って(4人1組。ユニット紹介で「4人1組ですが何か?」)
☆はんぶん不思議(4人1組。cocoのカバーですよ!この日の4人1組は梢、ひなっち、千歌、れいな)
空に星があるように(美香、真冬)
この世で一番キレイなもの(美香、真冬)
☆お散歩(梢、古賀美雪。どんぐりの復活!卒業した元6期生の古賀美雪が参加)
Sleeping(りりか。リーカとWAWAWA)
今の声を聞かせて(美香、真冬)
さよならへの旅立ち(真冬)
☆まぁまぁ
☆南十字星(美香)
Lovely eyes(真冬)
☆Dancing with devil(れいな)
☆もう一度ふたりで…(梢)
知識のハーモニー(真冬)
一人ぼっち(りりか)
言えない気持ち(真冬)
☆かわってないわかってない
☆巡り逢い(美香)
☆黒い瞳(真冬)
以下、ベスト10カウントダウン。
☆Volunteer Spirit
☆キャッチ&スマイル(梢。客席から登場して歌った。これはskiとしては異例)
魔法が使えたら(ひなっち。バックにJ.A.TRIPの二人。千歌、りりか)
☆信じてるから(美香)
☆歌って歌って!踊って踊って!
☆時代はサーカスの象に乗って
☆sky(美香)
☆地球に愛を
☆skiのテーマ
☆天使の翼
三本じめで終了。午後8時半過ぎ。
吉田梢が参加した24曲、僕は吉田梢をしっかりと目に焼きつけようと、梢ばかりを追っていた。今までいろんなアイドルの卒業ライブを見てきたが、今回だけは泣いた。
さて、このライブで、いくつかの驚きの発表があった。まず、PANTA&中川五郎with制服向上委員会というユニットでCDが出て、全国ツアーもするらしい。曲の内容はなんと、憲法9条!
次に、制服向上委員会が某政治家を応援するパーティでライブをするらしい。リーダーの伶奈は、これは特定の政党を支持してのものではなく、その政治家が高橋プロデューサーの友人だから、賑やかしでライブするのだ、という意味の釈明をしていたが、釈明になっていない。でも、このパーティには誰でも見に行くことができるらしいので、ちょっと面白いかも。「某政治家」と濁したのは、はっきり覚えていないから。大久保とかいう名前だったかな。政党は社民党だったかな。(うろおぼえ)
「悲しいおしらせ」として、高田唯ちゃんが、この3月のファンクラブイベントを最後に、退会することになった。家庭の事情らしい。と、いうことは、僕が唯ちゃんをステージで見るのは、これが最後なのだ。ベスト10の途中で発表があり、これは驚いた。唯ちゃん、最後の「天使の翼」のときなど、大泣きに泣いていた。正義の味方、IQアイドル唯ちゃんの姿はもう見ることができないのだ。
そして、最大のサプライズが、元6期生の古賀美雪ちゃんが、制服向上委員会に復帰することが決まったのだ!今回のライブでも、「どんぐり」だけでなく、美雪ちゃんが多くの楽曲で参加して歌い踊っていた。その即戦力ぶりは、梓や唯ちゃん以上で、このままレギュラーで出ればいいのに、と思っていたら、やっぱり!うれしい!
入場時にファンと思しき人がお客さん全員に赤いサイリウムを配っていた。卒業式がはじまったらサイリウムで「こづ」を送るのだ。ハロプロではおなじみだが、制服向上委員会でははじめて。
開場前に流れていたのはボブ・ディランのライブ。開演5分前の場内アナウンスは吉田梢によるものだったが、既に涙声で、1秒前まで泣いていたことがうかがわれるが、気丈にアナウンスをつとめていた。
以下、曲順。午後2時開演。括弧内はメインボーカル。☆は吉田梢参加の楽曲。
☆悲しみを風に乗せて(梢。いきなり梢のソロからはじまって、卒業ムードが盛り上がる)
☆傷だらけの青春(梢)
☆君だけの道(梢。これは吉成圭子の歌。梢特集の3曲だった)
ここから卒業式。司会は松尾真冬。花束贈呈はサプライズで月蝕歌劇団の一ノ瀬めぐみ、元5期生の石澤彩乃が出て来た。りりか、ひなっち、リーダー、会長がメッセージを贈り、梢がみんなに答えてメッセージを贈った。このあたり、涙、涙。
ともだち(真冬。卒業式にふさわしい歌)
ここから、いよいよカウントダウン。制服向上委員会のレパートリー約860曲の中から、ベスト100を発表する。
津軽海峡冬景色(れいな。伶奈はこれからも演歌に挑戦していくとか)
小江戸唄(れいな。川越をアピールする)
愛の誓い(美香)
長い間(美香)
☆さよならは出逢いの明日へのしるし(真冬)
純愛第2章(れいな。寿隊)
☆見た目は男かすかに女(りりか。寿隊)
ここで休憩。
HELPの季節(真冬。HELLOW)
キューティーキャット(りりか。HELLOW)
☆春風に乗って(4人1組。ユニット紹介で「4人1組ですが何か?」)
☆はんぶん不思議(4人1組。cocoのカバーですよ!この日の4人1組は梢、ひなっち、千歌、れいな)
空に星があるように(美香、真冬)
この世で一番キレイなもの(美香、真冬)
☆お散歩(梢、古賀美雪。どんぐりの復活!卒業した元6期生の古賀美雪が参加)
Sleeping(りりか。リーカとWAWAWA)
今の声を聞かせて(美香、真冬)
さよならへの旅立ち(真冬)
☆まぁまぁ
☆南十字星(美香)
Lovely eyes(真冬)
☆Dancing with devil(れいな)
☆もう一度ふたりで…(梢)
知識のハーモニー(真冬)
一人ぼっち(りりか)
言えない気持ち(真冬)
☆かわってないわかってない
☆巡り逢い(美香)
☆黒い瞳(真冬)
以下、ベスト10カウントダウン。
☆Volunteer Spirit
☆キャッチ&スマイル(梢。客席から登場して歌った。これはskiとしては異例)
魔法が使えたら(ひなっち。バックにJ.A.TRIPの二人。千歌、りりか)
☆信じてるから(美香)
☆歌って歌って!踊って踊って!
☆時代はサーカスの象に乗って
☆sky(美香)
☆地球に愛を
☆skiのテーマ
☆天使の翼
三本じめで終了。午後8時半過ぎ。
吉田梢が参加した24曲、僕は吉田梢をしっかりと目に焼きつけようと、梢ばかりを追っていた。今までいろんなアイドルの卒業ライブを見てきたが、今回だけは泣いた。
さて、このライブで、いくつかの驚きの発表があった。まず、PANTA&中川五郎with制服向上委員会というユニットでCDが出て、全国ツアーもするらしい。曲の内容はなんと、憲法9条!
次に、制服向上委員会が某政治家を応援するパーティでライブをするらしい。リーダーの伶奈は、これは特定の政党を支持してのものではなく、その政治家が高橋プロデューサーの友人だから、賑やかしでライブするのだ、という意味の釈明をしていたが、釈明になっていない。でも、このパーティには誰でも見に行くことができるらしいので、ちょっと面白いかも。「某政治家」と濁したのは、はっきり覚えていないから。大久保とかいう名前だったかな。政党は社民党だったかな。(うろおぼえ)
「悲しいおしらせ」として、高田唯ちゃんが、この3月のファンクラブイベントを最後に、退会することになった。家庭の事情らしい。と、いうことは、僕が唯ちゃんをステージで見るのは、これが最後なのだ。ベスト10の途中で発表があり、これは驚いた。唯ちゃん、最後の「天使の翼」のときなど、大泣きに泣いていた。正義の味方、IQアイドル唯ちゃんの姿はもう見ることができないのだ。
そして、最大のサプライズが、元6期生の古賀美雪ちゃんが、制服向上委員会に復帰することが決まったのだ!今回のライブでも、「どんぐり」だけでなく、美雪ちゃんが多くの楽曲で参加して歌い踊っていた。その即戦力ぶりは、梓や唯ちゃん以上で、このままレギュラーで出ればいいのに、と思っていたら、やっぱり!うれしい!
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金子國義展、スタジオSTSライブ
2005年2月19日 アイドル
阪急17番街ギャラリーアクシズで金子國義展「L’ELEVATION」
今日は金子國義がサイン会も開いてくれている。お客さんの数は小さなギャラリーに入りきる程度で、作品を鑑賞することもできるし、ちょうどいい人数だった。
案内の葉書は2004年の「放蕩息子の帰還」、展示は男性をモデルにした作品が前面に押し出されていた。お客さんも耽美なたたずまいで、田舎のフリーマーケットで入手した服を着ていた僕だけが、迷いこんだ単なるおっさんだった。
スタジオSTSライブ
まずは代表の工藤幸子から、ハローキティバレンタインワールドでのコンテストのことについて報告。前日のリハーサルでは「グランプリはいちごっ娘だな」と確信したと言う。当日は「グランプリはTOUCHだな」と確信したと言う。ただし、審査員のあと2人がグランプリ候補としてあげたいくつかのユニット名で、二人ともにあげたのがブラックベリーズだったので、グランプリはブラックベリーズに決定したと言う。
工藤幸子の話はよく聞けば含蓄があるのかもしれないが、校長先生の朝礼の話みたいで、もっと手短かにお願いしたい、と思わせてしまう。なぜだ。
以下、プログラム。
スケーターボーイズ/AKI組
モーニングコーヒー/マシェリ
ALARM/トレード
ジュテーム☆ジュテーム/ミニバブ(今日は5人だ)
OUR RELATION/PHRASE
トラ トラ トラ/ペトラキッズ
魔法のじゅうたんブットラソ/ブットラソ選抜
みんなに一番/ミニミニclub
Just Lovin’ You/桐生彩加
Uki Uki Baby/いちごっ娘
キッズクリエイション/ファッションズ
Quincy/TOUCH(新曲披露)
IF YOU WERE HERE/TOUCH & フレンズ
can’t be stopped/ブラックベリーズ
STEADY/クランベリーズ(新曲披露)
瞳は元気なブルースカイ/ミューズ
アンコ−ルはTOUCHとミューズ。
LOVE★ RASPBERRY JUICE/TOUCH
ちょっとだけMY LOVE/ミューズ
スタジオSTSライブは1曲ずつのライブなので、最初はめまぐるしい印象があったのだが、慣れてしまうと、とてもまったりしたライブに思えてくる。今日もなんだかゆったりとしたイベントだったような印象が残った。安定したイメージがついたのだろうか。
アンケートで今日のベスト3を書いて出す。僕が選んだ今日の3つはTOUCH、いちごっ娘、ペトラキッズ。ソロで歌った桐生彩加もよかった。前回は彼女をベスト3に書いた。
今日は雨がしとしと降っていて、天王寺近鉄のジュニアファッションのセールなどものぞきに行った。花粉症は出ないけど、雨は外出意欲を削ぐなあ。
今日の早朝、というか、昨日の深夜、ラジオ「ハロプロやねん」のパーソナリティは美勇伝の3人。ハロプロナンバー1のコーナーで、カッチョイイ人として石川を選んでいた。それにしても岡田唯って面白いなあ。
あと、アニメ関連の番組聞いているうちに就寝。
今日は金子國義がサイン会も開いてくれている。お客さんの数は小さなギャラリーに入りきる程度で、作品を鑑賞することもできるし、ちょうどいい人数だった。
案内の葉書は2004年の「放蕩息子の帰還」、展示は男性をモデルにした作品が前面に押し出されていた。お客さんも耽美なたたずまいで、田舎のフリーマーケットで入手した服を着ていた僕だけが、迷いこんだ単なるおっさんだった。
スタジオSTSライブ
まずは代表の工藤幸子から、ハローキティバレンタインワールドでのコンテストのことについて報告。前日のリハーサルでは「グランプリはいちごっ娘だな」と確信したと言う。当日は「グランプリはTOUCHだな」と確信したと言う。ただし、審査員のあと2人がグランプリ候補としてあげたいくつかのユニット名で、二人ともにあげたのがブラックベリーズだったので、グランプリはブラックベリーズに決定したと言う。
工藤幸子の話はよく聞けば含蓄があるのかもしれないが、校長先生の朝礼の話みたいで、もっと手短かにお願いしたい、と思わせてしまう。なぜだ。
以下、プログラム。
スケーターボーイズ/AKI組
モーニングコーヒー/マシェリ
ALARM/トレード
ジュテーム☆ジュテーム/ミニバブ(今日は5人だ)
OUR RELATION/PHRASE
トラ トラ トラ/ペトラキッズ
魔法のじゅうたんブットラソ/ブットラソ選抜
みんなに一番/ミニミニclub
Just Lovin’ You/桐生彩加
Uki Uki Baby/いちごっ娘
キッズクリエイション/ファッションズ
Quincy/TOUCH(新曲披露)
IF YOU WERE HERE/TOUCH & フレンズ
can’t be stopped/ブラックベリーズ
STEADY/クランベリーズ(新曲披露)
瞳は元気なブルースカイ/ミューズ
アンコ−ルはTOUCHとミューズ。
LOVE★ RASPBERRY JUICE/TOUCH
ちょっとだけMY LOVE/ミューズ
スタジオSTSライブは1曲ずつのライブなので、最初はめまぐるしい印象があったのだが、慣れてしまうと、とてもまったりしたライブに思えてくる。今日もなんだかゆったりとしたイベントだったような印象が残った。安定したイメージがついたのだろうか。
アンケートで今日のベスト3を書いて出す。僕が選んだ今日の3つはTOUCH、いちごっ娘、ペトラキッズ。ソロで歌った桐生彩加もよかった。前回は彼女をベスト3に書いた。
今日は雨がしとしと降っていて、天王寺近鉄のジュニアファッションのセールなどものぞきに行った。花粉症は出ないけど、雨は外出意欲を削ぐなあ。
今日の早朝、というか、昨日の深夜、ラジオ「ハロプロやねん」のパーソナリティは美勇伝の3人。ハロプロナンバー1のコーナーで、カッチョイイ人として石川を選んでいた。それにしても岡田唯って面白いなあ。
あと、アニメ関連の番組聞いているうちに就寝。
耳に残るは君の歌声、トリック大作戦、呪怨
2005年2月18日 映画
「耳に残るは君の歌声」を見た。イギリスとフランスの映画、サリー・ポッター監督で、クリスティーナ・リッチ、ジョニー・デップが共演している。ユダヤ人のリッチとジプシーのデップ。時代はナチス台頭の時代。結末でリッチは生き別れになった父親との再会も果たす。ハリウッド映画ならおおげさにお涙ちょうだい、とやるところだが、映画はクリスティーナ・リッチひとりの人生の小さな物語として淡々と描かれる。憎むべき悪人が出てくるわけでもなく、ジョニー・デップとの恋愛も劇的な展開をみせるわけではない。それが、見ていて気持ちがよかった。
僕がクリスティーナ・リッチを大好きなのは、かつてつきあっていた女の子と似ているからだ、と思い込んでいた。今冷静になって考えてみると、似ているのはあのブタ鼻だけだということに気づき、ちょっとショックだった。
チャウ・シンチーの「トリック大作戦」を見た。これは1991年の香港映画。アンディ・ラウと大爆笑の映画を作っている。チャウ・シンチーはトリックを使う専門家、詐欺師である。チャウ・シンチーは、アンディ・ラウ、ン・マンタ親子をだまして、自分もマンタの子どもだと思い込ませる。それにはもちろん、れっきとした目的があったのだが、映画はこの3人の親子の面白いやりとりを楽しく見せてくれて、裏の目的とか、不要に思えてくる。突然京劇で会話をはじめたり、「パパ」という言葉に全身で反応したりする、オーバーなありえない笑いが横溢している。
映画を監督の名前や出ている俳優で判断して見るような行動は「バカだ」と思っていたが、何としたことだ。僕こそ、クリスティーナ・リッチとかチャウ・シンチーという名前につられて、映画を選択して見ているのだ。バカとは僕のことに他ならない。
ついでに、「呪怨」も見た。劇場で「呪怨2」の方をなぜか先に見てしまっていた。そのとき、あまり怖くないなあ、と思っていたが、「呪怨」を見てもやっぱり怖くなかった。白塗りの子どもと女性が出てくるのが怖いらしいのだが、それが幽霊であるよりも、生きた人間が勝手に家に上がりこんでウロウロしている方がよっぽど怖い。その幽霊にまつわる話自体が単なる殺人の被害者でしかないというところが、ちっとも怖くさせない大きな要因なのだろう。子どもは単なる子どもだ。女も単なる女だ。それが生きていようと死者であろうと、見ている他人としてはどっちでもいい。なぜ彼、彼女がここという場所にあらわれたのか、そのバックにはいったいどんな想像を絶した恐ろしい話がひそんでいるのか、が怖いはずなのに、単なる殺しとは。これなら、現実に男女の三角関係で藁人形に釘を打たれる経験の方が実害があって、気持ちが悪い。まあ、それでもちっとも怖くはないけれど。
僕がクリスティーナ・リッチを大好きなのは、かつてつきあっていた女の子と似ているからだ、と思い込んでいた。今冷静になって考えてみると、似ているのはあのブタ鼻だけだということに気づき、ちょっとショックだった。
チャウ・シンチーの「トリック大作戦」を見た。これは1991年の香港映画。アンディ・ラウと大爆笑の映画を作っている。チャウ・シンチーはトリックを使う専門家、詐欺師である。チャウ・シンチーは、アンディ・ラウ、ン・マンタ親子をだまして、自分もマンタの子どもだと思い込ませる。それにはもちろん、れっきとした目的があったのだが、映画はこの3人の親子の面白いやりとりを楽しく見せてくれて、裏の目的とか、不要に思えてくる。突然京劇で会話をはじめたり、「パパ」という言葉に全身で反応したりする、オーバーなありえない笑いが横溢している。
映画を監督の名前や出ている俳優で判断して見るような行動は「バカだ」と思っていたが、何としたことだ。僕こそ、クリスティーナ・リッチとかチャウ・シンチーという名前につられて、映画を選択して見ているのだ。バカとは僕のことに他ならない。
ついでに、「呪怨」も見た。劇場で「呪怨2」の方をなぜか先に見てしまっていた。そのとき、あまり怖くないなあ、と思っていたが、「呪怨」を見てもやっぱり怖くなかった。白塗りの子どもと女性が出てくるのが怖いらしいのだが、それが幽霊であるよりも、生きた人間が勝手に家に上がりこんでウロウロしている方がよっぽど怖い。その幽霊にまつわる話自体が単なる殺人の被害者でしかないというところが、ちっとも怖くさせない大きな要因なのだろう。子どもは単なる子どもだ。女も単なる女だ。それが生きていようと死者であろうと、見ている他人としてはどっちでもいい。なぜ彼、彼女がここという場所にあらわれたのか、そのバックにはいったいどんな想像を絶した恐ろしい話がひそんでいるのか、が怖いはずなのに、単なる殺しとは。これなら、現実に男女の三角関係で藁人形に釘を打たれる経験の方が実害があって、気持ちが悪い。まあ、それでもちっとも怖くはないけれど。
竹田青嗣の『愚か者の哲学』を読んだ。サブタイトルに「愛せない場合は通り過ぎよ!」というニーチェの言葉が掲げてある。
一般人が日常生活を送る上での、役立つ哲学を展開しようとする著者の態度が、この本をとても読みやすいものにしている。
著者は人生を「こども」「若者」「大人」の3つの段階にわけて、そのときどきに直面する人生の問題に哲学がどんなふうに考えてきたかをわかりやすく解説している。
まず、「子どもの哲学」では、子どもにとっての「いたずら」の意味を探ったり、学校に行く意味を考えたりしている。それぞれの短い章には哲学者の言葉がまず引用されて、それにそって1つ1つ問題を考えていく体裁をとっている。
たとえば「自己愛〜ほめられたいという欲望」の章では、ラ・ロシュフーコーの「自己愛は、あらゆるおべっか使いのなかで、最も力強い者だ」という言葉がひかれる。自己愛が人間最初の欲望で、人間独自のものであることを解説したうえで、人間の自我がルールの束によって成立することを説明し、「ルールを守る」と「ほめられる(自己愛)」の関係から、自我が「他者から評価される」ことにより成立していく事情を明かしていく。
この「子どもの哲学」で興味深かったのは、「なぜ学校に行くのか」を考えた部分だ。学校は子どもの個性を引き出したり、人間性を伸ばすことが目的の場所なのではない。親、生まれといった与件をリセットして、生徒みんなが同じ条件でスタートすることのできるモデルとして存在しているのだ。
次の「若者の哲学」では「自己意識」「人間関係」「初恋」「恋愛」といったテーマが扱われる。ここらは著者の得意分野だろう。
「大人の哲学」では「失恋」「絶望」「ルサンチマン」「死の恐怖」「ニヒリズム」「不幸」などについて考察されている。おいおい、大人ってあんまり楽しそうじゃないなあ。
哲学は愚かであることから脱却することを目的としていない。この本では、自分だけは愚かでない、と考えることの危険性を繰り返して説いている。
サブタイトルのニーチェ『ツァラトゥストラ』からの引用「愛せない場合は通り過ぎよ」は、ツァラトゥストラがある愚か者に出会ったときの言葉である。愚か者は、世の中の人間はみんな俗物で、野心家と戯れ言使い、悪徳にまみれていると嘆く。でも、それを聞いたツァラトゥストラは、彼が自分一人高貴な魂の持ち主であるかのような口ぶりを肯定しようとしない。愚か者の心は恨み、ルサンチマンに満ちているのだ。そんなことでは、言ってることがたとえ正しくても、誰も耳を傾けない。ツァラトゥストラは「愛せないのなら、通り過ぎよ」と言うのだ。どれほど相手が理不尽で間違っていると感じても、愛せなければ、どんな試みも無駄だ、と著者は説いている。
なお、この本で一番面白かったのは、知的スノッブ(俗物)について書かれた章でひかれたモンテーニュの言葉だ。
「ハムは飲みたくさせる。飲めば渇きが癒される。故にハムは渇きを癒す。もし若者がこんなことを言い出したら、相手にしないのが賢明である」(『エセー』より)
一般人が日常生活を送る上での、役立つ哲学を展開しようとする著者の態度が、この本をとても読みやすいものにしている。
著者は人生を「こども」「若者」「大人」の3つの段階にわけて、そのときどきに直面する人生の問題に哲学がどんなふうに考えてきたかをわかりやすく解説している。
まず、「子どもの哲学」では、子どもにとっての「いたずら」の意味を探ったり、学校に行く意味を考えたりしている。それぞれの短い章には哲学者の言葉がまず引用されて、それにそって1つ1つ問題を考えていく体裁をとっている。
たとえば「自己愛〜ほめられたいという欲望」の章では、ラ・ロシュフーコーの「自己愛は、あらゆるおべっか使いのなかで、最も力強い者だ」という言葉がひかれる。自己愛が人間最初の欲望で、人間独自のものであることを解説したうえで、人間の自我がルールの束によって成立することを説明し、「ルールを守る」と「ほめられる(自己愛)」の関係から、自我が「他者から評価される」ことにより成立していく事情を明かしていく。
この「子どもの哲学」で興味深かったのは、「なぜ学校に行くのか」を考えた部分だ。学校は子どもの個性を引き出したり、人間性を伸ばすことが目的の場所なのではない。親、生まれといった与件をリセットして、生徒みんなが同じ条件でスタートすることのできるモデルとして存在しているのだ。
次の「若者の哲学」では「自己意識」「人間関係」「初恋」「恋愛」といったテーマが扱われる。ここらは著者の得意分野だろう。
「大人の哲学」では「失恋」「絶望」「ルサンチマン」「死の恐怖」「ニヒリズム」「不幸」などについて考察されている。おいおい、大人ってあんまり楽しそうじゃないなあ。
哲学は愚かであることから脱却することを目的としていない。この本では、自分だけは愚かでない、と考えることの危険性を繰り返して説いている。
サブタイトルのニーチェ『ツァラトゥストラ』からの引用「愛せない場合は通り過ぎよ」は、ツァラトゥストラがある愚か者に出会ったときの言葉である。愚か者は、世の中の人間はみんな俗物で、野心家と戯れ言使い、悪徳にまみれていると嘆く。でも、それを聞いたツァラトゥストラは、彼が自分一人高貴な魂の持ち主であるかのような口ぶりを肯定しようとしない。愚か者の心は恨み、ルサンチマンに満ちているのだ。そんなことでは、言ってることがたとえ正しくても、誰も耳を傾けない。ツァラトゥストラは「愛せないのなら、通り過ぎよ」と言うのだ。どれほど相手が理不尽で間違っていると感じても、愛せなければ、どんな試みも無駄だ、と著者は説いている。
なお、この本で一番面白かったのは、知的スノッブ(俗物)について書かれた章でひかれたモンテーニュの言葉だ。
「ハムは飲みたくさせる。飲めば渇きが癒される。故にハムは渇きを癒す。もし若者がこんなことを言い出したら、相手にしないのが賢明である」(『エセー』より)
ジェノサイドの丘―ルワンダ虐殺の隠された真実
2005年2月16日 読書
フィリップ・ゴーレイヴィッチの『ジェノサイドの丘』を読んだ。1994年に起きたルワンダの虐殺を取材した圧倒的な本だ。上巻では主に94年4月からの虐殺について書かれ、下巻は虐殺以降について主に書かれている。
ルワンダはアフリカの内陸国で「千の丘の国」と呼ばれている。ルワンダの多数を占めるフツ族が、突然狂ったように少数派のツチ族を無差別に殺しはじめた。民族間の紛争もなく、宗教の違いも特になかった。つい昨日まで一緒に暮らしていたのに。一部の狂った人間によって行われたのではなく、フツ族の大半が虐殺に手をそめたのだ。これはつい10年ほど前の話である。有史以前の野蛮な部族同士の殺しあいではないのだ。
結局3ヶ月あまりで100万人ものツチ族が虐殺された。ルワンダの人口は820万人である。
これだけでも相当な話なのに、ここに国際社会というのがからんできて、腹立たしさは倍増。
ツチ族を殺しまくったフツ族は、国境に集まる。国際社会は、虐殺のときにはまったく無視していたのに、殺害者集団のフツ族を「難民」として援助を与える。ルワンダ国内でまっとうに働いて得られる以上の暮らしをフツ族たちは働かずして手にいれたのだ。しかも、この段階でもフツ族たちは夜な夜なツチ族を殺しに出かけて、大勢の者を手にかけていたのだ。フツ族たちは、「虐殺なんかなかった」と知らんふりするし、認めたとしても「仕方がなかった」なんて言い訳する。ツチ族とフツ族は今や元通りの隣人として一緒に暮らしているが、それもまた、想像を絶する心の闇を見てしまう。そんな闇を見てしまうこと自体が、部外者の自分を証明しているようで、もう何が何だかわからない。
虐殺に対して国際的な介入はほとんどなされなかった。アメリカ(マデリーン・オルブライト)は自国アメリカが積極的に介入しない方針をとっていたばかりか、他国の介入を妨害していたのだ。すべてが終わってから、クリントンは謝罪したが、あくまでも、すべてが終わった後で、だ。
ただ、救いなのは、国際社会があてにならない、と自ら国のたてなおしをはかるルワンダ人もいた。カガメ現大統領もその一人で、彼に対するインタビューを本書で読んでいると、その政治的姿勢には頭のさがる思いである。
ルワンダの虐殺の頃、日本では細川首相が辞任し、ボキャブラ天国と茶髪が流行していた。
いったい何を見ていたのだ!
それよりも、この本を読むまで、ルワンダでこんな大虐殺があったことを知らなかった僕は、いったいどこに目玉をつけて、何を見聞きしていたのか、と思う。
ルワンダはアフリカの内陸国で「千の丘の国」と呼ばれている。ルワンダの多数を占めるフツ族が、突然狂ったように少数派のツチ族を無差別に殺しはじめた。民族間の紛争もなく、宗教の違いも特になかった。つい昨日まで一緒に暮らしていたのに。一部の狂った人間によって行われたのではなく、フツ族の大半が虐殺に手をそめたのだ。これはつい10年ほど前の話である。有史以前の野蛮な部族同士の殺しあいではないのだ。
結局3ヶ月あまりで100万人ものツチ族が虐殺された。ルワンダの人口は820万人である。
これだけでも相当な話なのに、ここに国際社会というのがからんできて、腹立たしさは倍増。
ツチ族を殺しまくったフツ族は、国境に集まる。国際社会は、虐殺のときにはまったく無視していたのに、殺害者集団のフツ族を「難民」として援助を与える。ルワンダ国内でまっとうに働いて得られる以上の暮らしをフツ族たちは働かずして手にいれたのだ。しかも、この段階でもフツ族たちは夜な夜なツチ族を殺しに出かけて、大勢の者を手にかけていたのだ。フツ族たちは、「虐殺なんかなかった」と知らんふりするし、認めたとしても「仕方がなかった」なんて言い訳する。ツチ族とフツ族は今や元通りの隣人として一緒に暮らしているが、それもまた、想像を絶する心の闇を見てしまう。そんな闇を見てしまうこと自体が、部外者の自分を証明しているようで、もう何が何だかわからない。
虐殺に対して国際的な介入はほとんどなされなかった。アメリカ(マデリーン・オルブライト)は自国アメリカが積極的に介入しない方針をとっていたばかりか、他国の介入を妨害していたのだ。すべてが終わってから、クリントンは謝罪したが、あくまでも、すべてが終わった後で、だ。
ただ、救いなのは、国際社会があてにならない、と自ら国のたてなおしをはかるルワンダ人もいた。カガメ現大統領もその一人で、彼に対するインタビューを本書で読んでいると、その政治的姿勢には頭のさがる思いである。
ルワンダの虐殺の頃、日本では細川首相が辞任し、ボキャブラ天国と茶髪が流行していた。
いったい何を見ていたのだ!
それよりも、この本を読むまで、ルワンダでこんな大虐殺があったことを知らなかった僕は、いったいどこに目玉をつけて、何を見聞きしていたのか、と思う。
ペヨトル興亡史―ボクが出版をやめたわけ
2005年2月15日 読書
今野裕一の『ペヨトル興亡史』を読んだ。
本屋や出版の事情がいろいろ書いてあるが、ペヨトル工房の本を読んでいた自分としては、別にそんなことはどっちでもいいことである。はっきり言って興味がない。音楽の話をするときに、音楽業界がどうであるとかいう裏話に興味が湧かないのと同じだ。それとも、他の人たちは、そういう裏の話とか好きなのだろうか。ベルメールに関する文章は読みたくても、それを出す出版側の話なんか、別にどうでもいい。じゃあ、最初からこんな本、読むな、という話なのだが、好きな本をいっぱい出してくれていたペヨトルだから、もうちょっと他の出版とは違う話が出てくるかと思っていたのだ。読者としての自分の目から見た「ペヨトル興亡史」を考えてみよう。
大学生の頃に『夜想』が創刊され、愛読していたが、90年代に入り、いつしか読まなくなってしまった。マンディアルグやベルメールの特集雑誌が出れば、今でもきっと買おうと思うのだから、自分の興味に触れない特集が多くなってきたからだと思われる。そこに本屋がどうとか、出版業界がどうとかいう要素はあまり入っていない。今から思えば、マンディアルグの特集が3回続いても読者の僕としてはよかったのである。ペヨトルの本は好きだが、ペヨトルの側からそれを自慢するような、あるいは自負するような書き方をされるのは、興醒めだった。スタッフ同士のほめあいもやめてくれ、と思った。『夜想』「銀星倶楽部』『WAVE』等々でとりあげられる人物や事柄には興味があるが、「ペヨトル工房」そのものには別に何の思いいれもないのだ。
この本で面白いなあ、と思ったのは寺山修司や中井英夫のエピソードの部分だ。
やはり僕は虚構が好きなのだ。
本屋や出版の事情がいろいろ書いてあるが、ペヨトル工房の本を読んでいた自分としては、別にそんなことはどっちでもいいことである。はっきり言って興味がない。音楽の話をするときに、音楽業界がどうであるとかいう裏話に興味が湧かないのと同じだ。それとも、他の人たちは、そういう裏の話とか好きなのだろうか。ベルメールに関する文章は読みたくても、それを出す出版側の話なんか、別にどうでもいい。じゃあ、最初からこんな本、読むな、という話なのだが、好きな本をいっぱい出してくれていたペヨトルだから、もうちょっと他の出版とは違う話が出てくるかと思っていたのだ。読者としての自分の目から見た「ペヨトル興亡史」を考えてみよう。
大学生の頃に『夜想』が創刊され、愛読していたが、90年代に入り、いつしか読まなくなってしまった。マンディアルグやベルメールの特集雑誌が出れば、今でもきっと買おうと思うのだから、自分の興味に触れない特集が多くなってきたからだと思われる。そこに本屋がどうとか、出版業界がどうとかいう要素はあまり入っていない。今から思えば、マンディアルグの特集が3回続いても読者の僕としてはよかったのである。ペヨトルの本は好きだが、ペヨトルの側からそれを自慢するような、あるいは自負するような書き方をされるのは、興醒めだった。スタッフ同士のほめあいもやめてくれ、と思った。『夜想』「銀星倶楽部』『WAVE』等々でとりあげられる人物や事柄には興味があるが、「ペヨトル工房」そのものには別に何の思いいれもないのだ。
この本で面白いなあ、と思ったのは寺山修司や中井英夫のエピソードの部分だ。
やはり僕は虚構が好きなのだ。
大阪オートメッセでデジッ娘、サクラ大戦 エコール・ド・巴里
2005年2月13日 アイドル
インテックス大阪で大阪オートメッセ。
目指すはダンロップ、2005年のDIGICCO!
僕が見た回では「YOU THE WINNER」「BEGIN EVERYDAY」の2曲を歌った。
今年のDIGICCOは、前年のDIGICCOから「シズカ」が残ってリーダーをつとめている。思えば、去年のこのオートメッセでDIGICCOを見たときは、シズカもデビュ−直後で、笑顔が可愛いが、ちょっと笑い過ぎじゃないか、と思っていた。今年はすっかり笑顔も自然で、余裕がみてとれた。さすが1年で成長したんだ!
あとの3人はオ−ディションで選ばれた子たちだと思う。
ノリ(香港出身)池見典子。背がちっちゃくて、お茶目。ムードメーカーか。
うみ(千葉県出身)栗原海。ダンスが得意か。
アイミ(青森県出身)岡元愛美。すらりとした美人。
デジッ娘のライブは毎回歌が少しずつ変わったり、いろんなものくれたりするので、1回たりとも見逃すことはできないのだが、こんな超満員で、死にかけの僕にはつらい。
ほうほうのていで逃げ帰り、3月の神戸のイベントで再会することを心に誓った。
予想以上に早く家に帰りついたので、「サクラ大戦エコール・ド・巴里」をひととおり見ることにした。
いやー、面白いなー。この「サクラ大戦」のシリーズ、永遠に続いてほしいなあ。エリカ、可愛いじゃないか。コクリコもね。
目指すはダンロップ、2005年のDIGICCO!
僕が見た回では「YOU THE WINNER」「BEGIN EVERYDAY」の2曲を歌った。
今年のDIGICCOは、前年のDIGICCOから「シズカ」が残ってリーダーをつとめている。思えば、去年のこのオートメッセでDIGICCOを見たときは、シズカもデビュ−直後で、笑顔が可愛いが、ちょっと笑い過ぎじゃないか、と思っていた。今年はすっかり笑顔も自然で、余裕がみてとれた。さすが1年で成長したんだ!
あとの3人はオ−ディションで選ばれた子たちだと思う。
ノリ(香港出身)池見典子。背がちっちゃくて、お茶目。ムードメーカーか。
うみ(千葉県出身)栗原海。ダンスが得意か。
アイミ(青森県出身)岡元愛美。すらりとした美人。
デジッ娘のライブは毎回歌が少しずつ変わったり、いろんなものくれたりするので、1回たりとも見逃すことはできないのだが、こんな超満員で、死にかけの僕にはつらい。
ほうほうのていで逃げ帰り、3月の神戸のイベントで再会することを心に誓った。
予想以上に早く家に帰りついたので、「サクラ大戦エコール・ド・巴里」をひととおり見ることにした。
いやー、面白いなー。この「サクラ大戦」のシリーズ、永遠に続いてほしいなあ。エリカ、可愛いじゃないか。コクリコもね。
ハローキティバレンタインワールド
2005年2月12日 アイドル大阪ドームで「ハローキティバレンタインワールド」
ピューロランド出張版みたいなものだ。
グッズ販売とステージがメインになる。会場にはサンリオキャラクターが出て来たり、なぜか北海道の物産市もやってる。
僕の目的は、STSダンスコンテストだ。
コンテストと言っても、出場するのは全部創叡のチームで、いつもの創叡イベントをコンテスト仕立てに演出しただけ、な感じ。
エントリーされているチームを見ると、いちごっ娘とTOUCHの一騎討ちではないか、と予想していた。さて、どうなるか。今回は歌は全部あらかじめ録音してあり、歌いながらのダンス、といういつものスタイルではなかった。少し違和感があった。
まずはハローキティ選抜による「そんでもってファンファンファン」
以下、コンテストのエントリーナンバー順。
ミューズ「ニセモノダイヤモンド」(つなみちゃんがおらず、4人でのステージは、寂しかった)
クランベリーズ「ファイナルファンボーイ」(表情バッチリ!ダンスというより、振り付けですが)
トレード「アラーム」
ファッションズ「キッズクリエイション」(サンリオのイベントとしては、こういうのをみんなは見たいのかもしれない)
いちごっ娘「UKI UKI BABY」(今川奈美ちゃん、今日もとばしてるねー!)
ミニバブ「BOYS」(1人欠席。この日の宮ノ前綾乃のダンスは、MVPに値する出来だった。ダイナミックで、熱意がビンビン伝わってくる。あまりに見事なダンスに涙が出そうになった)
PHRASE「アワーリレイション」(あれ?めちゃくちゃいいのでは)
ブラックベリーズ「Can’t be Stopped」
TOUCH「If You Were Here」(伊藤貴恵ちゃん、5人並んだとき、一番後ろじゃなかったんだ。新発見)
以上。
審査の時間に、ミニミニclubが「みんなにいちばん」を踊る。
グランプリはブラックベリーズだった。確かに、この日のブラックベリーズはステージに映えていた。順当なところかもしれない。ダンスの実力は主に三木幸美が担っているのだが、ブラックベリーズとしてのアイデンティティーは、以前からのメンバー、松山絢香、北田佳愛の2人にあるのだ。そこが微妙なところ。三木が加入してから、ブラックベリーズのメンバーに異動が多すぎるのがとても気になる。大好きな池真衣ちゃんもイチオシの野間佳代ちゃんもやめてしまったし、スリーピークスの詩織が入ったかと思うと次からもう出ていないし。
優勝の表彰状と、キティちゃんの激励の握手!
いちごっ娘とTOUCHはいつもながらの最高のダンスだったのだが、いつもどおりでは駄目だったのだろうか。今、チーム名と曲名を見ると、表記の正確さが、好みのチームとそれ以外で差があるのに気づいた。まあ、いいか。
その後のサンリオステージもダンス満載(こちらはプロのダンスだ。さすが!)ウサハナの夢はカラフルワールドに行くことなのだそうだ。僕と一緒だ!
キティのワッフルに長蛇の列ができていたのにはあきれた。
北海道物産市では、食べたいものが試食しほうだいだった。
僕は体調が悪くて、固形物を食べることができなかったので、泣く泣くあきらめたが、おいしそうなものがいっぱいだった。
コンテスト後のSTSの子らが、私服に着替えて会場に遊びに三々五々やってくる。「放流!」と心の中で思った。カメラをかかえた釣り人たちが放流された稚魚を追い掛ける。微笑ましい光景だ。
私服のアイドルたちはさすが、おしゃれ!
TOUCHだけはなぜか入口のところで5人揃って待機していた。誰かを待っていたのだろうか?小学生がサンリオのイベント会場の入口で1時間近くおあずけ食って、それを守っているのは、とてつもない自制心だと思う。TOUCHはこんなところでもストイックさを見せてくれていたのだ。
ピューロランド出張版みたいなものだ。
グッズ販売とステージがメインになる。会場にはサンリオキャラクターが出て来たり、なぜか北海道の物産市もやってる。
僕の目的は、STSダンスコンテストだ。
コンテストと言っても、出場するのは全部創叡のチームで、いつもの創叡イベントをコンテスト仕立てに演出しただけ、な感じ。
エントリーされているチームを見ると、いちごっ娘とTOUCHの一騎討ちではないか、と予想していた。さて、どうなるか。今回は歌は全部あらかじめ録音してあり、歌いながらのダンス、といういつものスタイルではなかった。少し違和感があった。
まずはハローキティ選抜による「そんでもってファンファンファン」
以下、コンテストのエントリーナンバー順。
ミューズ「ニセモノダイヤモンド」(つなみちゃんがおらず、4人でのステージは、寂しかった)
クランベリーズ「ファイナルファンボーイ」(表情バッチリ!ダンスというより、振り付けですが)
トレード「アラーム」
ファッションズ「キッズクリエイション」(サンリオのイベントとしては、こういうのをみんなは見たいのかもしれない)
いちごっ娘「UKI UKI BABY」(今川奈美ちゃん、今日もとばしてるねー!)
ミニバブ「BOYS」(1人欠席。この日の宮ノ前綾乃のダンスは、MVPに値する出来だった。ダイナミックで、熱意がビンビン伝わってくる。あまりに見事なダンスに涙が出そうになった)
PHRASE「アワーリレイション」(あれ?めちゃくちゃいいのでは)
ブラックベリーズ「Can’t be Stopped」
TOUCH「If You Were Here」(伊藤貴恵ちゃん、5人並んだとき、一番後ろじゃなかったんだ。新発見)
以上。
審査の時間に、ミニミニclubが「みんなにいちばん」を踊る。
グランプリはブラックベリーズだった。確かに、この日のブラックベリーズはステージに映えていた。順当なところかもしれない。ダンスの実力は主に三木幸美が担っているのだが、ブラックベリーズとしてのアイデンティティーは、以前からのメンバー、松山絢香、北田佳愛の2人にあるのだ。そこが微妙なところ。三木が加入してから、ブラックベリーズのメンバーに異動が多すぎるのがとても気になる。大好きな池真衣ちゃんもイチオシの野間佳代ちゃんもやめてしまったし、スリーピークスの詩織が入ったかと思うと次からもう出ていないし。
優勝の表彰状と、キティちゃんの激励の握手!
いちごっ娘とTOUCHはいつもながらの最高のダンスだったのだが、いつもどおりでは駄目だったのだろうか。今、チーム名と曲名を見ると、表記の正確さが、好みのチームとそれ以外で差があるのに気づいた。まあ、いいか。
その後のサンリオステージもダンス満載(こちらはプロのダンスだ。さすが!)ウサハナの夢はカラフルワールドに行くことなのだそうだ。僕と一緒だ!
キティのワッフルに長蛇の列ができていたのにはあきれた。
北海道物産市では、食べたいものが試食しほうだいだった。
僕は体調が悪くて、固形物を食べることができなかったので、泣く泣くあきらめたが、おいしそうなものがいっぱいだった。
コンテスト後のSTSの子らが、私服に着替えて会場に遊びに三々五々やってくる。「放流!」と心の中で思った。カメラをかかえた釣り人たちが放流された稚魚を追い掛ける。微笑ましい光景だ。
私服のアイドルたちはさすが、おしゃれ!
TOUCHだけはなぜか入口のところで5人揃って待機していた。誰かを待っていたのだろうか?小学生がサンリオのイベント会場の入口で1時間近くおあずけ食って、それを守っているのは、とてつもない自制心だと思う。TOUCHはこんなところでもストイックさを見せてくれていたのだ。
芦原橋のウィングでHELP!。アイドル3人と遊ぶオタクとサブカルと死にかけのイベント。
この「死にかけ」こそ僕で、風邪に花粉症、それに言われなき呪い、睡眠不足、空腹などで体調はガタガタ。用意しておくべきCDとか道具とか考えておかねばならない質問とか、ボロボロ忘れまくって、イベントがよく成り立ったものだ、と、残りの出演者たちに感謝することしきりだった。
前回来てくれたお客さんのうち、半分は今回、来てくれなかった。あまりのゲスさにあきれはてて見捨てられたのだろう。その反面、今回はじめて来てくださったお客さんも相当数いらっしゃった。ゲスさを聞きつけたのか?でも、残念。今回はゲスなイベントではなく、まっとうなアイドルイベントをめざしていたのです。これはこれで面白かったはずですよね!?
今回はアイドル3人のそれぞれのパフォーマンス、アイドル秘蔵映像(今回用意したビデオは、きっとお客さんも喜んでいただけたんじゃないだろうか。なにを上映したかは秘密)、そしてアイドル3人による特製のお好み焼きをステージで作り、お客さんにプレゼントした。ジョジョ川ちゃんはお客さん全員に生チョコレートを作ってきていたし、CHAMIちゃんもお菓子を作ってきた。よく出来たアイドルたちだ。
僕は打ち上げにも出られず、撃沈。
次回は3月5日。それまでには何とか健康になっておこう。
この「死にかけ」こそ僕で、風邪に花粉症、それに言われなき呪い、睡眠不足、空腹などで体調はガタガタ。用意しておくべきCDとか道具とか考えておかねばならない質問とか、ボロボロ忘れまくって、イベントがよく成り立ったものだ、と、残りの出演者たちに感謝することしきりだった。
前回来てくれたお客さんのうち、半分は今回、来てくれなかった。あまりのゲスさにあきれはてて見捨てられたのだろう。その反面、今回はじめて来てくださったお客さんも相当数いらっしゃった。ゲスさを聞きつけたのか?でも、残念。今回はゲスなイベントではなく、まっとうなアイドルイベントをめざしていたのです。これはこれで面白かったはずですよね!?
今回はアイドル3人のそれぞれのパフォーマンス、アイドル秘蔵映像(今回用意したビデオは、きっとお客さんも喜んでいただけたんじゃないだろうか。なにを上映したかは秘密)、そしてアイドル3人による特製のお好み焼きをステージで作り、お客さんにプレゼントした。ジョジョ川ちゃんはお客さん全員に生チョコレートを作ってきていたし、CHAMIちゃんもお菓子を作ってきた。よく出来たアイドルたちだ。
僕は打ち上げにも出られず、撃沈。
次回は3月5日。それまでには何とか健康になっておこう。
遠藤徹の『姉飼』を読んだ。
体調を崩して熱出して寝込んでいるときに読むには恰好の読み物だ。
第10回日本ホラー小説大賞を受賞した短編「姉飼」と、「キューブ・ガールズ」「ジャングル・ジム」「妹の島」の4編を収録している。
「キューブ・ガールズ」は心をもったインスタントダッチワイフの話。
「ジャングル・ジム」は不器用な恋をしたジャングルジムの話。
「妹の島」は果実と昆虫が人間をこやしとする話。
大雑把すぎて、あらすじとしても正しくないのだが、この3編については、これで充分だ。
印象に残るのは表題作の「姉飼」
テキ屋で売っている串ざしの姉。人はこの「姉」を買って帰っては、むち打ったり、いじめたりして育てるのだ。
この小説の面白いところは、世界観を埋めていくさまざまなディテイルだ。
この世界には蚊吸豚という臭い豚がおり、蚊をエサにしているため、何十万匹ものボウフラを池で養殖している。レポートにきた女子アナが池にはまって喉がつまるほどボウフラを飲んで発狂した、というエピソード。
脂祭りでは脂神輿が出る。わっしょいわっしょいとやってる内に脂がとけて、担ぎ手は脂に埋もれていく。窒息するので皆空気抜きの筒をくわえているのだ。
こんなふうな描写が重なって、この小説世界を作り上げていく。これがとても面白い。
面白いけど、ストーリーらしいストーリーは希薄なので、結末はちっとも不思議でも意外でもなく、もうこれくらいで充分でしょう、という終わり方をしている。だから、この短編の長篇化は断じて反対である。この短さでも終盤あたりではそろそろ飽きてきたくらいだ。これ以上欲望にまかせて書き続けると、それこそ家畜人ヤプーの二の舞いである。
おや、明日はイベントだ。
困ったなあ。
体調を崩して熱出して寝込んでいるときに読むには恰好の読み物だ。
第10回日本ホラー小説大賞を受賞した短編「姉飼」と、「キューブ・ガールズ」「ジャングル・ジム」「妹の島」の4編を収録している。
「キューブ・ガールズ」は心をもったインスタントダッチワイフの話。
「ジャングル・ジム」は不器用な恋をしたジャングルジムの話。
「妹の島」は果実と昆虫が人間をこやしとする話。
大雑把すぎて、あらすじとしても正しくないのだが、この3編については、これで充分だ。
印象に残るのは表題作の「姉飼」
テキ屋で売っている串ざしの姉。人はこの「姉」を買って帰っては、むち打ったり、いじめたりして育てるのだ。
この小説の面白いところは、世界観を埋めていくさまざまなディテイルだ。
この世界には蚊吸豚という臭い豚がおり、蚊をエサにしているため、何十万匹ものボウフラを池で養殖している。レポートにきた女子アナが池にはまって喉がつまるほどボウフラを飲んで発狂した、というエピソード。
脂祭りでは脂神輿が出る。わっしょいわっしょいとやってる内に脂がとけて、担ぎ手は脂に埋もれていく。窒息するので皆空気抜きの筒をくわえているのだ。
こんなふうな描写が重なって、この小説世界を作り上げていく。これがとても面白い。
面白いけど、ストーリーらしいストーリーは希薄なので、結末はちっとも不思議でも意外でもなく、もうこれくらいで充分でしょう、という終わり方をしている。だから、この短編の長篇化は断じて反対である。この短さでも終盤あたりではそろそろ飽きてきたくらいだ。これ以上欲望にまかせて書き続けると、それこそ家畜人ヤプーの二の舞いである。
おや、明日はイベントだ。
困ったなあ。
小林正樹監督の「息子の青春」を見た。1952年の作品。
石浜朗が息子役。
ガ−ルフレンドがいることを親に報告するのに一大決心が必要だったり、2人でデートするとき、レストランに入ることにもおじけづいて逃げ帰ったり、まあ、50年前の青少年たちの純情なことと言ったら。今、学生のカップルがおじけづいてしまうとしたら、SMバーに入るとき、とか?ラストシーンで兄弟が庭で相撲をとっているのも、昔の日本の光景だなあ、と思った。今なら相撲じゃなくて、総合格闘技だろう。
体調が非常に悪い。風邪と花粉症、呪いと睡眠不足、仕事もあるし、あまり食欲がなくて物が食べられない。
11日のイベント「HELP!」までに回復できるのか。
石浜朗が息子役。
ガ−ルフレンドがいることを親に報告するのに一大決心が必要だったり、2人でデートするとき、レストランに入ることにもおじけづいて逃げ帰ったり、まあ、50年前の青少年たちの純情なことと言ったら。今、学生のカップルがおじけづいてしまうとしたら、SMバーに入るとき、とか?ラストシーンで兄弟が庭で相撲をとっているのも、昔の日本の光景だなあ、と思った。今なら相撲じゃなくて、総合格闘技だろう。
体調が非常に悪い。風邪と花粉症、呪いと睡眠不足、仕事もあるし、あまり食欲がなくて物が食べられない。
11日のイベント「HELP!」までに回復できるのか。
黒沢清監督の「カリスマ」を見た。
「カリスマ」は木の名前である。その木は自ら生きるために、森を滅ぼしてしまう。何かが生きるときには、別の何かが殺されるのだ。
木を守ろうとする青年と、切ってしまおうとする人々。
この映画は、別の映画と間違っているのかもしれないが、とにかく「長い」という印象をどこかで読んだことがあったので、体調が悪くてどこにも出かけられず、ちょうどいいや、と思って、随分前に録画してあったのを引っぱりだしてきて見たのだ。ところが、たったの2時間程度の映画で、「あれ?もう終わり?」とあっけなかった。まるで短編映画を見ているかのようだった。ストーリーが複雑に進行するわけでもなく、難解な部分もなかった。
木を生かすために森を殺すのか、その逆か、という問いに対する映画である。
映画では、そのような問いを発すること自体が無意味だととりあえず結論づける。
すべてを敵か味方かでとらえるような大馬鹿な考え方は今どき、誰もしていない。
あれかこれか、という二者択一を迫る発想も無効なのは、みんな知っている。
でも、それが万人の共通の理解でなかった時代というのが確かに歴史的に存在していた。
「カリスマ」は今では全員が了解していることが、親の世代には当たり前ではなかったことを映画として残しておこうとした、まあ寓話みたいな話なのだ。
カリスマを守ろうとする者と、カリスマを倒そうとする者。映画はカリスマが任意で、交換可能なものであることをちゃんと描いているし、すべての主義が無効だということも描いている。
今どき誰かをカリスマだと思ったりする人間は脳に損傷があるとしか思えない。
でも、ちょっと前にはカリスマを求めて、床屋をまつりあげたりもしていたのだ。まさしく狂気の沙汰である。脳神経をファジーカットしてもらえ、と言いたい。(今、言った)
「カリスマ」は木の名前である。その木は自ら生きるために、森を滅ぼしてしまう。何かが生きるときには、別の何かが殺されるのだ。
木を守ろうとする青年と、切ってしまおうとする人々。
この映画は、別の映画と間違っているのかもしれないが、とにかく「長い」という印象をどこかで読んだことがあったので、体調が悪くてどこにも出かけられず、ちょうどいいや、と思って、随分前に録画してあったのを引っぱりだしてきて見たのだ。ところが、たったの2時間程度の映画で、「あれ?もう終わり?」とあっけなかった。まるで短編映画を見ているかのようだった。ストーリーが複雑に進行するわけでもなく、難解な部分もなかった。
木を生かすために森を殺すのか、その逆か、という問いに対する映画である。
映画では、そのような問いを発すること自体が無意味だととりあえず結論づける。
すべてを敵か味方かでとらえるような大馬鹿な考え方は今どき、誰もしていない。
あれかこれか、という二者択一を迫る発想も無効なのは、みんな知っている。
でも、それが万人の共通の理解でなかった時代というのが確かに歴史的に存在していた。
「カリスマ」は今では全員が了解していることが、親の世代には当たり前ではなかったことを映画として残しておこうとした、まあ寓話みたいな話なのだ。
カリスマを守ろうとする者と、カリスマを倒そうとする者。映画はカリスマが任意で、交換可能なものであることをちゃんと描いているし、すべての主義が無効だということも描いている。
今どき誰かをカリスマだと思ったりする人間は脳に損傷があるとしか思えない。
でも、ちょっと前にはカリスマを求めて、床屋をまつりあげたりもしていたのだ。まさしく狂気の沙汰である。脳神経をファジーカットしてもらえ、と言いたい。(今、言った)
これもそろそろ上映終了間際の「カンフーハッスル」を見に行った。
香港のカンフー映画でさんざん「ありえねー」のを見てきて、ドラゴンボールをはじめとした「ありえねー」漫画も多数読んでいるのが、ごく一般の日本人だから、その観客に「ありえねー」と言わせるには、ものすごい不可能な出来事を演出しなくてはならず、これはたいへんだぞ、と思っていた。でも、最近の若い人たちは簡単に「ありえねー」と言うんだろう。口調からして東京の人だ。東京の人はすぐに「ありえねー」とか言うんだろう。大阪の人間に「ありえへん」と言わせることはまず不可能だ。このキャッチコピー、東京の渋谷あたりでは大当たりかもしれないが、大阪に住む者にとってはとても不愉快だった。せっかくのいい映画が汚された気分だ。せめて「不可能」ならよかった。「ありえねー」なんて発言する人間が身近にいたら、僕はそいつを一生軽蔑するだろう。
主演、監督はチャウ・シンチー。それだけで、もう僕の中では必見の名作と決まった。
僕は尊敬する2大映画人がいて、1人はチャウ・シンチー、もう1人はジェリー・ルイスなのだ。この2人に比べたら、ヒッチコックもゴダールも黒澤もチャップリンも雑魚のうちだ。
映画は面白かった。チャウ・シンチーの中で一番面白いかと言われると、もっと面白かったのがあるが、決して評価が低いわけではない。役者やスタッフにも見るべきものがあった。
でも、僕はこの映画については、あまり語りたくないのだ。
語っている時間があるなら、もう1回見たい。
なお、ポスターのチャウ・シンチーの髪の毛が風圧で額が出ているのと、出ていないの2種類あるのは、いったいどういう理由なのだろう。気になった。
香港のカンフー映画でさんざん「ありえねー」のを見てきて、ドラゴンボールをはじめとした「ありえねー」漫画も多数読んでいるのが、ごく一般の日本人だから、その観客に「ありえねー」と言わせるには、ものすごい不可能な出来事を演出しなくてはならず、これはたいへんだぞ、と思っていた。でも、最近の若い人たちは簡単に「ありえねー」と言うんだろう。口調からして東京の人だ。東京の人はすぐに「ありえねー」とか言うんだろう。大阪の人間に「ありえへん」と言わせることはまず不可能だ。このキャッチコピー、東京の渋谷あたりでは大当たりかもしれないが、大阪に住む者にとってはとても不愉快だった。せっかくのいい映画が汚された気分だ。せめて「不可能」ならよかった。「ありえねー」なんて発言する人間が身近にいたら、僕はそいつを一生軽蔑するだろう。
主演、監督はチャウ・シンチー。それだけで、もう僕の中では必見の名作と決まった。
僕は尊敬する2大映画人がいて、1人はチャウ・シンチー、もう1人はジェリー・ルイスなのだ。この2人に比べたら、ヒッチコックもゴダールも黒澤もチャップリンも雑魚のうちだ。
映画は面白かった。チャウ・シンチーの中で一番面白いかと言われると、もっと面白かったのがあるが、決して評価が低いわけではない。役者やスタッフにも見るべきものがあった。
でも、僕はこの映画については、あまり語りたくないのだ。
語っている時間があるなら、もう1回見たい。
なお、ポスターのチャウ・シンチーの髪の毛が風圧で額が出ているのと、出ていないの2種類あるのは、いったいどういう理由なのだろう。気になった。
雅、e-maid、アンサンブル・ノマド
2005年2月6日 音楽
日本橋ディスクピアで雅(ミヤビ)のイベントがあった。
これは決して「大胆素敵」を歌っていた「雅」の復活などではなく、あの野田社長のプロデュースによる新しい女子ユニットなのだ。
1月26日に出たばかりのCDから3曲歌い踊った。実際に見た印象は、踊る女子十二楽房、なのだが、プロジェクトのコンセプトはあくまでも「和製小悪魔」しかも、ディスクピアのフライヤーには「女性版一世風靡セピア」と書いてあった。もう何がなんだかわかりません。野田社長も来ており、取材を受けていた。
僕にとってあまり縁のない音楽とパフォーマ−だったので、頑張ってください、とエールだけ送っておこう。
日本橋にまた1つメイド喫茶ができた。e-maidだ。
ここはもともと喫茶店だったところが、メイドを導入することになった店だ。つまり、喫茶店のノウハウ、イロハは既にクリアしているはずなので、あとはメイドさんの質と躾にすべてがかかっている、と予想して、行ってみた。
結論から言うと、がっかりだ。
意外にも、メイドさんの立ち居振る舞いや、言葉使いは見事だった。他の店との差別化もはかっている。メイド喫茶特有のあの風俗寄りの嫌らしさはみじんもない。珈琲にミルクを入れるのもお客さんが自らだが、客層が、以前からの常連さんもいるので、これは妥当なところ。
ただ、この店、メイドさんが店の真中に3人も4人もただ突っ立って、旦那さまのお帰りを待っているのはいいが、すでに帰ってきた旦那さまに対しては、あまり目もくれない。注文を取りにくるのも遅く、出てくるのも遅かった。僕は珈琲とケーキを頼んだのだが、まず出て来た珈琲をすっかり飲み終えて、何度か水のおかわりを入れてもらってから、やっとケーキが出て来た。つまり、まずクリアできていると思い込んでいた喫茶店としての質が駄目だったのだ。これはがっかりと同時に意外だった。ちゃんとした喫茶店にメイドを導入することで駄目になる、なんて、予想つかなかったのだ。
ただし、この店はオープンしたばかりなので、きっと日々改善されていくに違いない。
少し日を置いてまた来ることにしよう。
今日聞いた音楽は、東京オペラシティ・リサイタルホールで収録されたアンサンブル・ノマド定期演奏会から。
「ナタラジャ」ジョナサン・ハーヴェイ作曲
ナタラジャというのは踊るシヴァ神で、片足あげて踊り、もう片足は邪神を踏んづけているポーズでおなじみ。破壊と創造の神をこの音楽によって十全にあらわしているかどうかは、この音楽が現代音楽のくくりに入っていることをもってしても、達成されたとは言い難い。「破壊!」とか「デストロイ!」などを音楽で表現したいなら、まずは音楽のジャンルを破壊、デストロイしてから言え、と言いたい。この「ナタラジャ」について言えば、使っているのが「ピアノ」「フルート」という明らかに「楽器」なのが致命的だと思う。楽器とは思われていないものを使って音を出すことからはじめよう。そして、出てくるのが音である必要もないのだ。しかし、それを音楽と呼べるのか?いやいや、音楽である必要などどこにもないのだ。
「アリア・フォー・アス」米倉香織・作曲
これは一転して、我々の日常の中に「アリア」を見い出そうという、日常の音楽をめざしたもの。特定の場所に行かねば聞けない音楽、というのは、イベント好きの僕にとってはとても好ましいコンセプトなのだが、冷静に考えると、単に商売としての視点であることもありうる。「金を出してCDを買った者だけが、音楽を聞ける」というようなシステムみたいなものだ。この「アリア・フォー・アス」はコンセプトこそ素晴らしいのだが、実際にこの音楽を聞くことは、いつもと変わらぬ日常生活を送っているかぎり絶対に実現しないのが問題なのだ。
「甘い夢」マデルナ作曲
世界的に有名なフルート奏者にセヴェリーノ・ガッツェローニがいる。この「甘い夢」は原題が「Honeyreves」で、逆から読むと、Severino をもじった言葉になっているのだそうだ。言葉遊びの解釈にとらわれているうちに、音楽は終わっていた。作戦か?
「3つの小品」シルヴェストレ・レブエルタス作曲
メキシコの現代音楽なのだが、小品すぎて印象に残っていない。
これは決して「大胆素敵」を歌っていた「雅」の復活などではなく、あの野田社長のプロデュースによる新しい女子ユニットなのだ。
1月26日に出たばかりのCDから3曲歌い踊った。実際に見た印象は、踊る女子十二楽房、なのだが、プロジェクトのコンセプトはあくまでも「和製小悪魔」しかも、ディスクピアのフライヤーには「女性版一世風靡セピア」と書いてあった。もう何がなんだかわかりません。野田社長も来ており、取材を受けていた。
僕にとってあまり縁のない音楽とパフォーマ−だったので、頑張ってください、とエールだけ送っておこう。
日本橋にまた1つメイド喫茶ができた。e-maidだ。
ここはもともと喫茶店だったところが、メイドを導入することになった店だ。つまり、喫茶店のノウハウ、イロハは既にクリアしているはずなので、あとはメイドさんの質と躾にすべてがかかっている、と予想して、行ってみた。
結論から言うと、がっかりだ。
意外にも、メイドさんの立ち居振る舞いや、言葉使いは見事だった。他の店との差別化もはかっている。メイド喫茶特有のあの風俗寄りの嫌らしさはみじんもない。珈琲にミルクを入れるのもお客さんが自らだが、客層が、以前からの常連さんもいるので、これは妥当なところ。
ただ、この店、メイドさんが店の真中に3人も4人もただ突っ立って、旦那さまのお帰りを待っているのはいいが、すでに帰ってきた旦那さまに対しては、あまり目もくれない。注文を取りにくるのも遅く、出てくるのも遅かった。僕は珈琲とケーキを頼んだのだが、まず出て来た珈琲をすっかり飲み終えて、何度か水のおかわりを入れてもらってから、やっとケーキが出て来た。つまり、まずクリアできていると思い込んでいた喫茶店としての質が駄目だったのだ。これはがっかりと同時に意外だった。ちゃんとした喫茶店にメイドを導入することで駄目になる、なんて、予想つかなかったのだ。
ただし、この店はオープンしたばかりなので、きっと日々改善されていくに違いない。
少し日を置いてまた来ることにしよう。
今日聞いた音楽は、東京オペラシティ・リサイタルホールで収録されたアンサンブル・ノマド定期演奏会から。
「ナタラジャ」ジョナサン・ハーヴェイ作曲
ナタラジャというのは踊るシヴァ神で、片足あげて踊り、もう片足は邪神を踏んづけているポーズでおなじみ。破壊と創造の神をこの音楽によって十全にあらわしているかどうかは、この音楽が現代音楽のくくりに入っていることをもってしても、達成されたとは言い難い。「破壊!」とか「デストロイ!」などを音楽で表現したいなら、まずは音楽のジャンルを破壊、デストロイしてから言え、と言いたい。この「ナタラジャ」について言えば、使っているのが「ピアノ」「フルート」という明らかに「楽器」なのが致命的だと思う。楽器とは思われていないものを使って音を出すことからはじめよう。そして、出てくるのが音である必要もないのだ。しかし、それを音楽と呼べるのか?いやいや、音楽である必要などどこにもないのだ。
「アリア・フォー・アス」米倉香織・作曲
これは一転して、我々の日常の中に「アリア」を見い出そうという、日常の音楽をめざしたもの。特定の場所に行かねば聞けない音楽、というのは、イベント好きの僕にとってはとても好ましいコンセプトなのだが、冷静に考えると、単に商売としての視点であることもありうる。「金を出してCDを買った者だけが、音楽を聞ける」というようなシステムみたいなものだ。この「アリア・フォー・アス」はコンセプトこそ素晴らしいのだが、実際にこの音楽を聞くことは、いつもと変わらぬ日常生活を送っているかぎり絶対に実現しないのが問題なのだ。
「甘い夢」マデルナ作曲
世界的に有名なフルート奏者にセヴェリーノ・ガッツェローニがいる。この「甘い夢」は原題が「Honeyreves」で、逆から読むと、Severino をもじった言葉になっているのだそうだ。言葉遊びの解釈にとらわれているうちに、音楽は終わっていた。作戦か?
「3つの小品」シルヴェストレ・レブエルタス作曲
メキシコの現代音楽なのだが、小品すぎて印象に残っていない。
ウィングで童貞しゃべり場。
オナニー48手や、1回の射精の費用の話。
エロビデオを1本レンタルしてくる値段で1回、とカウントするオナニーと、女性をナンパして食事おごってホテル代出す、あるいは風俗に行くセックスとでは、えらい値段に差がある、というお話。
彼女と自分の部屋でセックスすれば無料なので、セックスが一概に高値だとは言い切れない。
それとも、彼女なんてものは存在しない、と前提しているのか。
僕が逆に興味を持つのは、セックスにそれだけ金額をかけるが、それ以上にゴージャスなオナニーを考えてみる、ということだ。
器具にお金を費やすケースもあるだろう。(高級ダッチワイフとか)
シチュエーションに凝ることもあるだろう。(月面でオナニーとか)
童貞版カーマスートラを作ってもらいたい。
こればかりは、僕がどんなに頑張っても出来ないのだ。
オナニー48手や、1回の射精の費用の話。
エロビデオを1本レンタルしてくる値段で1回、とカウントするオナニーと、女性をナンパして食事おごってホテル代出す、あるいは風俗に行くセックスとでは、えらい値段に差がある、というお話。
彼女と自分の部屋でセックスすれば無料なので、セックスが一概に高値だとは言い切れない。
それとも、彼女なんてものは存在しない、と前提しているのか。
僕が逆に興味を持つのは、セックスにそれだけ金額をかけるが、それ以上にゴージャスなオナニーを考えてみる、ということだ。
器具にお金を費やすケースもあるだろう。(高級ダッチワイフとか)
シチュエーションに凝ることもあるだろう。(月面でオナニーとか)
童貞版カーマスートラを作ってもらいたい。
こればかりは、僕がどんなに頑張っても出来ないのだ。
ジャン・ピエール・ジュネ監督の「アメリ」を見た。衛星で放送していたものだ。
冒頭のシーンで、両手をあわせて、中指だか薬指をキコキコ動かす遊び、小学生のときによく遊んで、今でもよく遊んでいる。フランスにも同じ遊びがあったんだ。
上映当時から、評判のいい映画だとは知っていたのだが、内容はほとんど知らずに見た。
まいりました。
今まで見た映画の中で一番好きかもしれない。
もう少し生きていてもいいかな、と思った。
冒頭のシーンで、両手をあわせて、中指だか薬指をキコキコ動かす遊び、小学生のときによく遊んで、今でもよく遊んでいる。フランスにも同じ遊びがあったんだ。
上映当時から、評判のいい映画だとは知っていたのだが、内容はほとんど知らずに見た。
まいりました。
今まで見た映画の中で一番好きかもしれない。
もう少し生きていてもいいかな、と思った。
グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ
2005年2月3日 読書
昨日『NANA』を読んで、幸子が可愛い、と書いたばかりだが、今年、『NANA』が実写映画化されるらしい。そして、なんと、幸子役は、現在ピザーラカニマヨのコマーシャル出演中のサエコなのだ。これは楽しみだ。
バーバラ・M・スタフォードの『グッド・ルッキング』を読んだ。サブタイトルが「イメージング新世紀へ」うーむ、これじゃビジネス書みたいじゃないか。彼女の本は以前『アートフル・サイエンス』を読んだときに感想を書いたと思うが、どんなこと書いたか忘れてしまった。どうせつまらんことを書いたんだろう。本書『グッド・ルッキング』はいろんなところに発表した原稿をまとめたものだが、通底しているのは、『アートフル・サイエンス』と同様、視覚イメージにつきものの「いかがわしさ」「レベルの低さ」に対して、「いつまで、おんなじ事言うてんねん。ええかげんにせえ」と反論しているところだ。
本書のあちこちから引用すると。
学者は光学装置のテクノロジーを非難する。
「ビデオゲームには『頭は要らない』、ヴァーチャルリアリティーの娯楽は『一人ぽっち』、テレビ信号は『人を操作する』−機器からつくりだされる映像を良しとするのは偽の世界を支持するも同じという知と道徳の思い込み(バイアス)に力を与えている」
その非難たるや、マスコミでご存じのとおり、
「誤情報、暴力、ポルノ、おなじみの商品広告」「のぞき趣味」「詐欺」
一方、彼女たちイマジストのめざすのは、
「親近の原理をさぐろう、精神のアートと科学に関係を結ばせよう」としているのだが、周囲の非難はあまりにも強い。どうすればいいのか。
「(本書は)イマジストたちに、イメージというもののイメージを再創造する根本的な仕事に取りかかれと呼びかけようとする。ただの消費ゲームだ、堕落だ、まやかしだ、倫理と無縁だと叫んで止まぬ大雑把そのものの支配的論法からグラフィックを救えというのは、芸術、人文諸学、そしてもろもろの科学の境界を越えざるを得ない課題であろう」
要するに、
「図解科学からオンラインの双方向性まで、視覚的コミュニケーションがちゃんと頭を使うものであることを宣言(マニフェスト)しよう」としているのだ。
テクスト中心の考えを払拭して、イメージの力を認めようということらしい。
でも、テクスト中心の考えなんて、いまどき年寄りしか持っていないのではないか。その年寄りがいろんなことの決定権を持っているのが問題なのかもしれない。また、イメージを非難するのはイメ−ジの力をわかっていて、怖がっているからだと思えるし、イメージ復権を彼女も結局はテクストで展開せざるを得ない矛盾はどう解決するべきなのか。テクスト中心主義者を改宗させるには、こういう手を使うしかない、ということなのかなあ。
なお、彼女がとりあげるオランダの美学者、ユンベール・ド・シューペルヴィルの名前を見て、『ノアの方舟』のジュール・シュペルヴィエルを思い出した。(スペルは一緒)血でもつながっているのかと調べようとしたけど、よくわからなかった。思ったよりも、この「Superville」という人名は一般的だったのだ。
バーバラ・M・スタフォードの『グッド・ルッキング』を読んだ。サブタイトルが「イメージング新世紀へ」うーむ、これじゃビジネス書みたいじゃないか。彼女の本は以前『アートフル・サイエンス』を読んだときに感想を書いたと思うが、どんなこと書いたか忘れてしまった。どうせつまらんことを書いたんだろう。本書『グッド・ルッキング』はいろんなところに発表した原稿をまとめたものだが、通底しているのは、『アートフル・サイエンス』と同様、視覚イメージにつきものの「いかがわしさ」「レベルの低さ」に対して、「いつまで、おんなじ事言うてんねん。ええかげんにせえ」と反論しているところだ。
本書のあちこちから引用すると。
学者は光学装置のテクノロジーを非難する。
「ビデオゲームには『頭は要らない』、ヴァーチャルリアリティーの娯楽は『一人ぽっち』、テレビ信号は『人を操作する』−機器からつくりだされる映像を良しとするのは偽の世界を支持するも同じという知と道徳の思い込み(バイアス)に力を与えている」
その非難たるや、マスコミでご存じのとおり、
「誤情報、暴力、ポルノ、おなじみの商品広告」「のぞき趣味」「詐欺」
一方、彼女たちイマジストのめざすのは、
「親近の原理をさぐろう、精神のアートと科学に関係を結ばせよう」としているのだが、周囲の非難はあまりにも強い。どうすればいいのか。
「(本書は)イマジストたちに、イメージというもののイメージを再創造する根本的な仕事に取りかかれと呼びかけようとする。ただの消費ゲームだ、堕落だ、まやかしだ、倫理と無縁だと叫んで止まぬ大雑把そのものの支配的論法からグラフィックを救えというのは、芸術、人文諸学、そしてもろもろの科学の境界を越えざるを得ない課題であろう」
要するに、
「図解科学からオンラインの双方向性まで、視覚的コミュニケーションがちゃんと頭を使うものであることを宣言(マニフェスト)しよう」としているのだ。
テクスト中心の考えを払拭して、イメージの力を認めようということらしい。
でも、テクスト中心の考えなんて、いまどき年寄りしか持っていないのではないか。その年寄りがいろんなことの決定権を持っているのが問題なのかもしれない。また、イメージを非難するのはイメ−ジの力をわかっていて、怖がっているからだと思えるし、イメージ復権を彼女も結局はテクストで展開せざるを得ない矛盾はどう解決するべきなのか。テクスト中心主義者を改宗させるには、こういう手を使うしかない、ということなのかなあ。
なお、彼女がとりあげるオランダの美学者、ユンベール・ド・シューペルヴィルの名前を見て、『ノアの方舟』のジュール・シュペルヴィエルを思い出した。(スペルは一緒)血でもつながっているのかと調べようとしたけど、よくわからなかった。思ったよりも、この「Superville」という人名は一般的だったのだ。
矢沢あいの『NANA』を読んだ。人気の漫画なのだが、どんな話なのか、まったく予備知識無しで11巻まで読んだ。
面白い。
でも、ストーリーが進むにつれて、音楽業界の裏とか、したたかに振る舞わねばいけない場面が増えてきて、息がつまりそうだった。
ぼくはメジャーな音楽業界に接したことがあるが、ほんのわずかな期間だったし、裏の醜い部分はほとんど見ずに済んでいる。それでも、「もう、そんな話はうんざりだ」と思ってしまった。
だから、一番好きなのは、第1巻。そして、ストーリー上、もっとも不必要とも思える幸子が愛しくてしかたがない。
悪口やスキャンダルなんて、言わせておけばいいんだ。
裏や駆け引きなんて、いらない。
面白い。
でも、ストーリーが進むにつれて、音楽業界の裏とか、したたかに振る舞わねばいけない場面が増えてきて、息がつまりそうだった。
ぼくはメジャーな音楽業界に接したことがあるが、ほんのわずかな期間だったし、裏の醜い部分はほとんど見ずに済んでいる。それでも、「もう、そんな話はうんざりだ」と思ってしまった。
だから、一番好きなのは、第1巻。そして、ストーリー上、もっとも不必要とも思える幸子が愛しくてしかたがない。
悪口やスキャンダルなんて、言わせておけばいいんだ。
裏や駆け引きなんて、いらない。
Mr.インクレディブル、人殺しの女の子の話
2005年2月1日 映画
映画の日だったので、そろそろ上映が終わそうな「Mr.インクレディブル」を見て来た。
ディズニー、ピクサーの映画。映像のきれいさ、面白さは期待を裏切らない。
監督はブラッド・バード。
一般人にとけこんで生活するため、スーパーヒーローは自分の力を隠して暮らさなければならない。それが、悪人登場によって、スーパーヒーローたちが本来の力を発揮して、ひと皮むける話。
悪人がそもそもスーパーヒーローの邪険な仕打ちが生み出した、自業自得みたいな存在だったことは、何を意味しているのか。結局、その悪人をこらしめることによって、スーパーヒーローは復権を果たすのだ。強い者は、人に酷い仕打ちをすることによって、さらに強くなるのだ。弱者が仕返ししようとしても、それは強者のこやしになるだけだ。ここでの悪人は「自業自得」と言うよりも「マッチポンプ」と言うべきなのだろう。
もともと、スーパーヒーローと言っても、徳の高い聖者ではなく、精神はきわめて小市民的だ。こんな小市民にリベンジをはかること自体が、悪人の器の小ささをあらわしている。悪人がロケットとか作る財力の持ち主なら、会社を作って、スーパーヒーローを社員として雇い、一生うだつのあがらぬサラリーマンとして飼っておくだけで、リベンジは成功していたのだ。器の小さい者同士の争いは、傍らで見ている分には、とても愉快だ。
この映画の面白いところは、「家族愛の絆」なんて馬鹿馬鹿しいゴタクではない。むしろ、家族愛はスーパーヒーローたちにとって手枷足枷になっていたのだ。自由に生きることで復権する痛快さを僕は感じ取った。どんなスーパーヒーローも、家族なんてものを持ったとたんに、駄目になってしまうのだ。
つくづく、家族なんてものに縛り付けられていては駄目なんだなあ、と思った。
スーパーヒーローの親子それぞれの能力も面白かった。
ただ、一つ思ったのは、バリアと透明化の力を持った娘は、今回の冒険によって、存在感の薄い女の子から、ハキハキした女の子に変貌する。そんな変化する前の、耳も顔の半分も髪の毛で隠していたときの方が、可愛かったぞ。
西岡兄妹の『人殺しの女の子の話』を読んだ。
家族愛の欺瞞映画を見たあとには、家族の絆なんて交換可能なオプションとしかとらえていない女の子の話。これといった理由もなく両親を殺して、自ら死刑をのぞんで死ぬ。絵本なのだが、当然、いかなる教訓もない。親子の愛も家族のたいせつさも命の尊さも糞くらえだ。
ディズニー、ピクサーの映画。映像のきれいさ、面白さは期待を裏切らない。
監督はブラッド・バード。
一般人にとけこんで生活するため、スーパーヒーローは自分の力を隠して暮らさなければならない。それが、悪人登場によって、スーパーヒーローたちが本来の力を発揮して、ひと皮むける話。
悪人がそもそもスーパーヒーローの邪険な仕打ちが生み出した、自業自得みたいな存在だったことは、何を意味しているのか。結局、その悪人をこらしめることによって、スーパーヒーローは復権を果たすのだ。強い者は、人に酷い仕打ちをすることによって、さらに強くなるのだ。弱者が仕返ししようとしても、それは強者のこやしになるだけだ。ここでの悪人は「自業自得」と言うよりも「マッチポンプ」と言うべきなのだろう。
もともと、スーパーヒーローと言っても、徳の高い聖者ではなく、精神はきわめて小市民的だ。こんな小市民にリベンジをはかること自体が、悪人の器の小ささをあらわしている。悪人がロケットとか作る財力の持ち主なら、会社を作って、スーパーヒーローを社員として雇い、一生うだつのあがらぬサラリーマンとして飼っておくだけで、リベンジは成功していたのだ。器の小さい者同士の争いは、傍らで見ている分には、とても愉快だ。
この映画の面白いところは、「家族愛の絆」なんて馬鹿馬鹿しいゴタクではない。むしろ、家族愛はスーパーヒーローたちにとって手枷足枷になっていたのだ。自由に生きることで復権する痛快さを僕は感じ取った。どんなスーパーヒーローも、家族なんてものを持ったとたんに、駄目になってしまうのだ。
つくづく、家族なんてものに縛り付けられていては駄目なんだなあ、と思った。
スーパーヒーローの親子それぞれの能力も面白かった。
ただ、一つ思ったのは、バリアと透明化の力を持った娘は、今回の冒険によって、存在感の薄い女の子から、ハキハキした女の子に変貌する。そんな変化する前の、耳も顔の半分も髪の毛で隠していたときの方が、可愛かったぞ。
西岡兄妹の『人殺しの女の子の話』を読んだ。
家族愛の欺瞞映画を見たあとには、家族の絆なんて交換可能なオプションとしかとらえていない女の子の話。これといった理由もなく両親を殺して、自ら死刑をのぞんで死ぬ。絵本なのだが、当然、いかなる教訓もない。親子の愛も家族のたいせつさも命の尊さも糞くらえだ。
ハイナー・ミュラー『カルテット』、テルミン
2005年1月31日 読書
ハイナー・ミュラーの『カルテット』を読んだ。ハイナー・ミュラー・テクスト集の3冊目で、シェイクスピアやギリシア以外に題材をとった劇作品を集めている。昨日、「現代の音楽」でハイナー・ミュラーの名前が頭に残っていて、読んでみることにした。
収録作品は「カルテット」「グンドリングの生涯 プロイセンのフリードリヒ レッシングの眠り夢叫び」「ヴォロコラムスク幹線路」の3作。
「カルテット」はラクロに題材をとっているが、フランス革命前のサロン、しかも第三次世界大戦後のシェルターという時空設定で演じられる。男女のすっかり熟し切った(熟し過ぎて、腐って落ちかけ)恋愛の愛憎を描いているが、途中で男女がお互いの役割を交代して、相手の立場に立っていさかいを繰り広げるプレイが、いかにも完熟。
「グンドリングの生涯 プロイセンのフリードリヒ レッシングの眠り夢叫び」はプロイセン(ドイツ)の歴史の断片をいささか狂った視点で描いている。残念ながら、プロイセンもレッシングも詳しくないので、十全に味わえたとは言い難い。これはリベンジ項目だ。
「ヴォロコラムスク幹線路」は、直接つながりのない5つの話によって構成されている。ドイツとソ連の戦争を主に題材に極限状況の人間を描いており、1つの物語ではないのだが、お互いに連絡しあっていそうな塊を読んだ、という感じだ。
3作とも、とても面白かったので、他の作品も読んでみようと思った。
ハイナー・ミュラーの劇作は、上演時にいかに料理するか、というところにみどころがある。かの有名な「ハムレット・マシーン」だって、本で読めばたったの数ページだ。本書収録で、一番興味をもった「ヴォロコラムスク幹線路」だって、別の劇の中に埋め込まれる形で上演されたりする。だから、本当はこうやって本を読むんじゃなくて、劇を見たい。
夜、衛星放送で「テルミン」を見る。スティーブン・M・マーティン監督のドキュメンタリー。レオン・テルミン博士とクララ・ロックモアがいい雰囲気を出している。クララの誕生日に、近付くと回りだすケーキを用意するテルミン博士がお茶目だ。
この映画は上映当時に映画館で見たはずなのだが、ほとんど覚えていなかった。それでなくても記憶力皆無の僕なのに、「テルミン」といえば「テルミンで安眠」とまで言われた睡眠導入映画である。きっと眠くてもうろうとしていたのだろう。眠かった、という記憶もないのでさだかではないが。なお、「テルミンで安眠」は、今僕が思い付いたものだ。
収録作品は「カルテット」「グンドリングの生涯 プロイセンのフリードリヒ レッシングの眠り夢叫び」「ヴォロコラムスク幹線路」の3作。
「カルテット」はラクロに題材をとっているが、フランス革命前のサロン、しかも第三次世界大戦後のシェルターという時空設定で演じられる。男女のすっかり熟し切った(熟し過ぎて、腐って落ちかけ)恋愛の愛憎を描いているが、途中で男女がお互いの役割を交代して、相手の立場に立っていさかいを繰り広げるプレイが、いかにも完熟。
「グンドリングの生涯 プロイセンのフリードリヒ レッシングの眠り夢叫び」はプロイセン(ドイツ)の歴史の断片をいささか狂った視点で描いている。残念ながら、プロイセンもレッシングも詳しくないので、十全に味わえたとは言い難い。これはリベンジ項目だ。
「ヴォロコラムスク幹線路」は、直接つながりのない5つの話によって構成されている。ドイツとソ連の戦争を主に題材に極限状況の人間を描いており、1つの物語ではないのだが、お互いに連絡しあっていそうな塊を読んだ、という感じだ。
3作とも、とても面白かったので、他の作品も読んでみようと思った。
ハイナー・ミュラーの劇作は、上演時にいかに料理するか、というところにみどころがある。かの有名な「ハムレット・マシーン」だって、本で読めばたったの数ページだ。本書収録で、一番興味をもった「ヴォロコラムスク幹線路」だって、別の劇の中に埋め込まれる形で上演されたりする。だから、本当はこうやって本を読むんじゃなくて、劇を見たい。
夜、衛星放送で「テルミン」を見る。スティーブン・M・マーティン監督のドキュメンタリー。レオン・テルミン博士とクララ・ロックモアがいい雰囲気を出している。クララの誕生日に、近付くと回りだすケーキを用意するテルミン博士がお茶目だ。
この映画は上映当時に映画館で見たはずなのだが、ほとんど覚えていなかった。それでなくても記憶力皆無の僕なのに、「テルミン」といえば「テルミンで安眠」とまで言われた睡眠導入映画である。きっと眠くてもうろうとしていたのだろう。眠かった、という記憶もないのでさだかではないが。なお、「テルミンで安眠」は、今僕が思い付いたものだ。