ハロプロやねん(Berryz工房)
2005年4月1日 アイドル
ラジオ「ハロプロやねん」今月はベリーズ工房が担当する。
今日は夏焼、桃子、徳永、清水の4人。
オープニングトークは、それぞれの見た変な夢のこと。
イモムシが大量に発生したり、嫌いなピーマンが家を食べたり、成長期の少女が見そうな夢を次々と言い合う。
「スッペシャルジェネレ〜ション」かけた後、ベリーズナンバー1。「おしゃれな人」は夏焼。「大人の女性」は熊井に決定。
「恋してる時はいつも…」(カップリング曲)
ベリーズの部屋は、一番背が高い、納豆好きのメンバー、ということで、熊井だと一目瞭然。
明日のベリーズ工房のイベントに向けて、期待が高まる。
僕はベリーズ工房では須藤と夏焼を便宜的に応援しているのだが、この放送を聞いていると、桃子の魅力に圧倒されてしまう。
いつも幼いと言われてしまうので、普段ならドンッと椅子に坐るのもおしとやかに腰かけて、大人だね、と言われようとしているのだという。
喫煙や飲酒、性行為、ギャンブルなど、いわゆる大人だけに許されている行為は、大人になりたい、と思う子供たちが背伸びして手を出す行為でもある。で、実際に大人になってみるとわかるのだが、これら中毒性のある嗜好というのは、「おさえることができないダメ人間」の証し以外の何ものでもないのである。そういうものに耽溺してしまうのは、大人ではなく、幼児性の証明なのだ。子供というのは、そういう事情を知らない者のことを言う。
桃子が「大人と言われたい」という発言が、とても子供っぽくて可愛いのは、そういうメカニズムだ。そこまで計算して発言しているなら、桃子はとんでもなく大人なのだが。なんて、ついついアイドルや芸能人について裏を読みたがるのも、幼児性のあらわれだ。大人なら表にあらわれているものをそのまま飲み込んであげよう。裏を読むのは臆病のしるしなのだから。
今日は四月馬鹿だったので、mixiでは自分の名前を「ネモル又」とか「巨乳りん」とか「馬なみ」とかいろいろ変えて遊んでいた。迷惑な話だ。プロフィールの写真もいろいろ変えた。こどもっぽい悪戯だ。
そうそう、「ストラトス4」の第1話を見た。
今まで気にはなっていたが、見る機会がなかったアニメだ。
さて、最終話まで見切ることができるのか。
今日は夏焼、桃子、徳永、清水の4人。
オープニングトークは、それぞれの見た変な夢のこと。
イモムシが大量に発生したり、嫌いなピーマンが家を食べたり、成長期の少女が見そうな夢を次々と言い合う。
「スッペシャルジェネレ〜ション」かけた後、ベリーズナンバー1。「おしゃれな人」は夏焼。「大人の女性」は熊井に決定。
「恋してる時はいつも…」(カップリング曲)
ベリーズの部屋は、一番背が高い、納豆好きのメンバー、ということで、熊井だと一目瞭然。
明日のベリーズ工房のイベントに向けて、期待が高まる。
僕はベリーズ工房では須藤と夏焼を便宜的に応援しているのだが、この放送を聞いていると、桃子の魅力に圧倒されてしまう。
いつも幼いと言われてしまうので、普段ならドンッと椅子に坐るのもおしとやかに腰かけて、大人だね、と言われようとしているのだという。
喫煙や飲酒、性行為、ギャンブルなど、いわゆる大人だけに許されている行為は、大人になりたい、と思う子供たちが背伸びして手を出す行為でもある。で、実際に大人になってみるとわかるのだが、これら中毒性のある嗜好というのは、「おさえることができないダメ人間」の証し以外の何ものでもないのである。そういうものに耽溺してしまうのは、大人ではなく、幼児性の証明なのだ。子供というのは、そういう事情を知らない者のことを言う。
桃子が「大人と言われたい」という発言が、とても子供っぽくて可愛いのは、そういうメカニズムだ。そこまで計算して発言しているなら、桃子はとんでもなく大人なのだが。なんて、ついついアイドルや芸能人について裏を読みたがるのも、幼児性のあらわれだ。大人なら表にあらわれているものをそのまま飲み込んであげよう。裏を読むのは臆病のしるしなのだから。
今日は四月馬鹿だったので、mixiでは自分の名前を「ネモル又」とか「巨乳りん」とか「馬なみ」とかいろいろ変えて遊んでいた。迷惑な話だ。プロフィールの写真もいろいろ変えた。こどもっぽい悪戯だ。
そうそう、「ストラトス4」の第1話を見た。
今まで気にはなっていたが、見る機会がなかったアニメだ。
さて、最終話まで見切ることができるのか。
マリア様がみてる―チェリーブロッサム
2005年3月31日 読書
今野緒雪の『チェリーブロッサム』を読んだ。大河津くんに借りているマリア様がみてるシリ−ズ9冊め、とりあえずの前半戦最後の本。卒業式を終えて、学年が1つずつ進級。
本書では「銀杏の中の桜」とその裏バージョン「BGN」の2編が入っている。
志摩子の悩みが、キリスト教の学校に通っているのに家が寺だということ。乃梨子はキリスト教の学校に入学したのに、趣味は仏像鑑賞。
こういうことで女子高校生が悩むなんて、なんて、デリケートなんだろう。
でも、この悩みは微笑ましいもんではない。
たまたまこれがカトリックと仏教という、まあ馴染みのある宗教だからよかったけど、これがオルフェウス教とブードゥーだとしても、読者は微笑ましく読めるのか?統一教会とオウムでも可愛さを感じとれるのか?彼女たちは敬虔な信者なのかもしれないが、多くの宗教の中から選び取った結果としての信仰ではないのだ。
そして、結論は、「そんなこと気にしなくても大丈夫だよ」というのは、あまりにも宗教をないがしろにした無責任な話ではないか。そもそも仏教徒が自分の信仰を隠してまで高校に通う必要があるのか?
このシリーズでは、本来えらいことになるはずの大問題を、肩すかししておさめてしまうことが多い。
まあ、そんなこといちいち気にしていてはつまらないけど。
で、この巻まで読んで痛感したのは、卒業してしまった3人の薔薇たちの存在の大きさだ。好感度ベスト3を選んだら、その3人が並んでしまう。
今の学年の薔薇たちときては、まったく魅力に欠ける。特に、黄薔薇とそのつぼみなんて酷い。唯一の美点たるお嬢さま気質皆無ではないか。
本書では「銀杏の中の桜」とその裏バージョン「BGN」の2編が入っている。
志摩子の悩みが、キリスト教の学校に通っているのに家が寺だということ。乃梨子はキリスト教の学校に入学したのに、趣味は仏像鑑賞。
こういうことで女子高校生が悩むなんて、なんて、デリケートなんだろう。
でも、この悩みは微笑ましいもんではない。
たまたまこれがカトリックと仏教という、まあ馴染みのある宗教だからよかったけど、これがオルフェウス教とブードゥーだとしても、読者は微笑ましく読めるのか?統一教会とオウムでも可愛さを感じとれるのか?彼女たちは敬虔な信者なのかもしれないが、多くの宗教の中から選び取った結果としての信仰ではないのだ。
そして、結論は、「そんなこと気にしなくても大丈夫だよ」というのは、あまりにも宗教をないがしろにした無責任な話ではないか。そもそも仏教徒が自分の信仰を隠してまで高校に通う必要があるのか?
このシリーズでは、本来えらいことになるはずの大問題を、肩すかししておさめてしまうことが多い。
まあ、そんなこといちいち気にしていてはつまらないけど。
で、この巻まで読んで痛感したのは、卒業してしまった3人の薔薇たちの存在の大きさだ。好感度ベスト3を選んだら、その3人が並んでしまう。
今の学年の薔薇たちときては、まったく魅力に欠ける。特に、黄薔薇とそのつぼみなんて酷い。唯一の美点たるお嬢さま気質皆無ではないか。
ムービー・スタジオ・アドベンチャー、フーコーとクイア理論
2005年3月30日 読書
大阪高島屋で開催中の「ムービー・スタジオ・アドベンチャー〜映画の世界に飛び込もう〜」を見に行った。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンのミニアトラクションとグッズ販売。バックドラフトとかユニバーサル・モンスターのアトラクションはいかにもチャチだし、特に欲しいグッズを売っているわけでもなかったが、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに長く行っていないことを思い出し、そろそろ行こうかな、という気になった。まんまと思うつぼである。
タムシン・スパーゴの『フーコーとクイア理論』を読んだ。岩波書店から出ているポストモダン・ブックスの1冊だ。ミシェル・フーコーが死んだのは1984年。クイア(変態?おかま?)にも変化があるだろうし、フーコーの理論にも批判なり発展なりがあるはずだ。フーコー以降の動向にも本書は触れている。ただし、原書は1999年に出ている。それから5年以上たった今、さらに変化があるはずである。
フーコーについてもゲイについても詳しくないので、あくまでも本書を読んでいて覚え書きに残しておきたいところを挙げてみる。
「セクシュアリティは生まれつきの資質でも、人生における事実でもない。それは生物学的な起源というよりも、むしろ歴史的、社会的、文化的な起源を持つ、経験の構築されたカテゴリーである」これはフーコーの典型的な考え方だ。
「男色者は一時的な異常者にすぎなかったが、同性愛者はひとつの種族である」これはフーコーの『性の歴史』から。16世紀の男色者はソドミーの実践者を意味したが、19世紀以降の同性愛者は、心の半陰陽を意味するのだ。
「理論上クイアは、支配的な異性愛であれ、ゲイ/レズビアンのアイデンティティであれ、正常なものや規範とは永久に両立しない。それは決定的に中心から離れ、正常からは程遠いものなのである」クイアは同化、許容ではなく、その差違を強調するのだ。
「クイア理論とは、対立の外側に移動したり、対立を転倒させたりするよりも、むしろこの二項対立が知と権力の道徳的、政治的なヒエラルキーを形成してきた経緯を考察することだと言えるだろう」これはフーコー以後の動向。クイア理論は99年当時、その抽象性、日常生活への明らかな侮蔑により、攻撃されているという。埒のあかないポストモダン的言説に人々は業を煮やしたのだ。一方、エイズ以来同性愛嫌悪が噴出している。
本書の解説部分は土屋恵一郎が書いている。これが今の日本の状況を一番あらわしているはずで、書いてある内容も興味深い。日本社会は同性愛について寛容だという気分を、解説者は否定する。パゾリーニの映画みたいに、ホモだという理由でよってたかって殺されることはないが、寛容ではない。本書の「われわれはここにいる。われわれはクイアだ。当然と思ってほしい」との声はいつまで続くのか。
タムシン・スパーゴの『フーコーとクイア理論』を読んだ。岩波書店から出ているポストモダン・ブックスの1冊だ。ミシェル・フーコーが死んだのは1984年。クイア(変態?おかま?)にも変化があるだろうし、フーコーの理論にも批判なり発展なりがあるはずだ。フーコー以降の動向にも本書は触れている。ただし、原書は1999年に出ている。それから5年以上たった今、さらに変化があるはずである。
フーコーについてもゲイについても詳しくないので、あくまでも本書を読んでいて覚え書きに残しておきたいところを挙げてみる。
「セクシュアリティは生まれつきの資質でも、人生における事実でもない。それは生物学的な起源というよりも、むしろ歴史的、社会的、文化的な起源を持つ、経験の構築されたカテゴリーである」これはフーコーの典型的な考え方だ。
「男色者は一時的な異常者にすぎなかったが、同性愛者はひとつの種族である」これはフーコーの『性の歴史』から。16世紀の男色者はソドミーの実践者を意味したが、19世紀以降の同性愛者は、心の半陰陽を意味するのだ。
「理論上クイアは、支配的な異性愛であれ、ゲイ/レズビアンのアイデンティティであれ、正常なものや規範とは永久に両立しない。それは決定的に中心から離れ、正常からは程遠いものなのである」クイアは同化、許容ではなく、その差違を強調するのだ。
「クイア理論とは、対立の外側に移動したり、対立を転倒させたりするよりも、むしろこの二項対立が知と権力の道徳的、政治的なヒエラルキーを形成してきた経緯を考察することだと言えるだろう」これはフーコー以後の動向。クイア理論は99年当時、その抽象性、日常生活への明らかな侮蔑により、攻撃されているという。埒のあかないポストモダン的言説に人々は業を煮やしたのだ。一方、エイズ以来同性愛嫌悪が噴出している。
本書の解説部分は土屋恵一郎が書いている。これが今の日本の状況を一番あらわしているはずで、書いてある内容も興味深い。日本社会は同性愛について寛容だという気分を、解説者は否定する。パゾリーニの映画みたいに、ホモだという理由でよってたかって殺されることはないが、寛容ではない。本書の「われわれはここにいる。われわれはクイアだ。当然と思ってほしい」との声はいつまで続くのか。
小川勝己の短編集『あなたまにあ』を読んだ。
残酷で猟奇的な話が収められている。
例によって、ネタバレをしているので、読んでない人は怒らないように。
「蝦蟇蛙」は蛙が大嫌いな女の子の物語。いたずらで蛙を飲み込んでしまった女の子は、体内を無数の蛙に占拠されてしまう。って、これクリープショーと似たような発想じゃないか。クリープショーは清潔好きの人間がゴキブリに体内を占拠されてしまう。無数のゴキブリが人間の皮をかぶったような感じ。小川作品は童話のような語り口で、描いている。でも、蛙では可愛くて、メルヘンみたい。
「聖夜」は芸能界で徒花を咲かせる女性の話。デビューに際して、つきあっていた男とは別れる。クリスマスイブに思い出の場所で再会した2人。安い女性と、そんな馬鹿女に惹かれる馬鹿男の話だ。どうとでもなれ。
「春巻」食べ物アイディアというと、結局はスカトロかカニバリズムになってしまうという好例。
「壁紙」借金をかえすためにヤクザの幹部を殺した男。残した妻子は愛想をつかせて離れる。自分が父親だと名乗ることもはばかられる状況で、男は再びやばい仕事に手をそめる。仕事は失敗。携帯電話の壁紙に使っていた息子の写真を撃ち抜いて、息子と自分のつながりを隠す。まるで韓国ドラマなベタベタさ。
「諧謔の死」ドッキリネタ。教え子に誘われて飲みにいった後、教え子はその教師に恨みを抱いていたことを告白。生徒を教育的指導する教師にも、それに負けてしまう生徒も、駄目人間だ。もろともに滅びよ。
「蘆薈」(ろかい)と読むが、アロエのこと。アロエは人肉を養分として生長。日野日出志の漫画みたいな話。
「あなたまにあ」幼女とごっこ遊びしながら自分の欲望を果たす「お兄ちゃん」。お兄ちゃんは「まにあ星人」として、女の子を囚われの身とするのだ。
短編集に描かれた人物たちの薄い人間性は、「こいつらまとめて死んでしまえ」と思わせるに足りる。僕は小川作品を短編集ばかり読んでいて、長篇は未読だ。きっと長篇は面白いのだろう。
残酷で猟奇的な話が収められている。
例によって、ネタバレをしているので、読んでない人は怒らないように。
「蝦蟇蛙」は蛙が大嫌いな女の子の物語。いたずらで蛙を飲み込んでしまった女の子は、体内を無数の蛙に占拠されてしまう。って、これクリープショーと似たような発想じゃないか。クリープショーは清潔好きの人間がゴキブリに体内を占拠されてしまう。無数のゴキブリが人間の皮をかぶったような感じ。小川作品は童話のような語り口で、描いている。でも、蛙では可愛くて、メルヘンみたい。
「聖夜」は芸能界で徒花を咲かせる女性の話。デビューに際して、つきあっていた男とは別れる。クリスマスイブに思い出の場所で再会した2人。安い女性と、そんな馬鹿女に惹かれる馬鹿男の話だ。どうとでもなれ。
「春巻」食べ物アイディアというと、結局はスカトロかカニバリズムになってしまうという好例。
「壁紙」借金をかえすためにヤクザの幹部を殺した男。残した妻子は愛想をつかせて離れる。自分が父親だと名乗ることもはばかられる状況で、男は再びやばい仕事に手をそめる。仕事は失敗。携帯電話の壁紙に使っていた息子の写真を撃ち抜いて、息子と自分のつながりを隠す。まるで韓国ドラマなベタベタさ。
「諧謔の死」ドッキリネタ。教え子に誘われて飲みにいった後、教え子はその教師に恨みを抱いていたことを告白。生徒を教育的指導する教師にも、それに負けてしまう生徒も、駄目人間だ。もろともに滅びよ。
「蘆薈」(ろかい)と読むが、アロエのこと。アロエは人肉を養分として生長。日野日出志の漫画みたいな話。
「あなたまにあ」幼女とごっこ遊びしながら自分の欲望を果たす「お兄ちゃん」。お兄ちゃんは「まにあ星人」として、女の子を囚われの身とするのだ。
短編集に描かれた人物たちの薄い人間性は、「こいつらまとめて死んでしまえ」と思わせるに足りる。僕は小川作品を短編集ばかり読んでいて、長篇は未読だ。きっと長篇は面白いのだろう。
メン・イン・ブラック2
2005年3月28日 映画
テレビで放送していたバリー・ソネンフェルド監督の「メン・イン・ブラック2」を見た。ウィル・スミス主演、2002年作品。3年前の作品とは思えないほど、SFXが粗雑に見えるところもあり、すっかりB級のこども向け映画になったようだ。テレビムービーっぽいぬるさがたまらない。睾丸の化け物のような(?)エイリアンが多数出て来たり、まさしく睾丸を顎の先にぶらさげたエイリアンがいたり、駄菓子屋で売っている珍味の味付けもある。犬の顔までが睾丸っぽい。トミー・リー・ジョーンズの顔もだ!
こんな大衆娯楽の映画は、2年に1本ずつくらい続編が出るシリーズにして、キャノンボールみたいな正月番組の地位を確保してもらいたい。
僕はララ・フリン・ボイルが好きなので、ちょっとうれしかった。
つまり、この映画はボイルした睾丸映画なのだ。(違)
こんな大衆娯楽の映画は、2年に1本ずつくらい続編が出るシリーズにして、キャノンボールみたいな正月番組の地位を確保してもらいたい。
僕はララ・フリン・ボイルが好きなので、ちょっとうれしかった。
つまり、この映画はボイルした睾丸映画なのだ。(違)
キャレス城天、殺るかやられるか、寺山修司、アバウト・シュミット
2005年3月27日 アイドル
大阪城公園の城天で、キャレスのライブがあった。
午後1時からの回を見に行った。以下、出演ユニット。基本的に男性ユニットはメモをとらず。(調べればわかるかもしれないが、そんな手間も惜しい)
1、こめつぶ(自己紹介のときにみんな名前のうしろに〜ケルとつけていた。ゴリケルの影響らしい)
2、RAVE(男)
3、Shakeeen(初ストリート)
4、Jhiss(中学生だからジュニアハイスクールから命名)
5、ハバネロ隊長(児玉愛良はテレビのため欠席)
6、不明(男)
7、Secret Love(ゼッタイとか踊ってた!)
8、不明(男)
9、JUMPING PANATSUP
10、DASH!(男)
11、子スペラーズ(「さくら」とか歌ったが、隣のロックバンドの音大きすぎ)
12、PARADISE GO!GO!(新曲ファラウェイも披露)
実はキャレスの城天は何度も見逃していて、ちゃんと見たのはこれが最初になる。アイドル好きの僕にとっては、キャレスはダンス寄りで、ちっとも可愛い曲を歌ってくれないのだが、、じゅうぶんに可愛い子たちだ。遠くからしか見ることができなかったので、特定の個人に思い入れすることはできなかった。僕はちょっとした表情とか、しぐさとか、ダンスでもうまさよりも独特の持ち味にセンサーが反応するのだ。センサーがはたらく射程距離内でとらえてみたい。
野村孝監督の「殺るかやられるか」(1966年)を見た。高橋英樹主演。
身代わりで刑務所に入った男。服役中に弟の怪死を知る。出所したら組は冷たい。男は弟の死の真相を探る。芦川いづみや加藤武が重要な役柄で出ているが、梶芽衣子も太田雅子名義で出演している。
クライマックスで、待ち伏せの危険を知らせる為、こどもが道に白墨で「おじちゃん、かえるな」と書くのだが、ある箇所では、その文字の上にトラックがとまっていて見えず、またある箇所では高橋英樹が通る直前に散水車が通って字を消してしまうなど、ハラハラさせる演出がきいていた。高橋英樹は待ち伏せている悪の組織につかまり、拉致されて車で移動する。その際、こどもが「もう大丈夫だ」と安心して道で遊んでいるすぐ脇を通るのだ。
高橋英樹は弟の仇をうち、世話になった親子の慰留を振り切って一人立ち去っていく。それを寂し気に見送るオバQ。
スト−リ−とは関係ないのだが、横浜ドリームランドがこの映画で出てくる。1966年というと、僕が親に連れられて奈良ドリームランドによく遊びに行っていた頃だ。今、見ると遊園地の乗り物が既にレトロで危険なもののように見えてしまう。また、バー「まろうど」で歌手が歌うシーンは、そのまま大西ユカリではないか。
人は過去の出来事を美化するというが、この映画を見て思ったのは、「人は昔の物事を、当時から既に古かったものと誤認してしまう」ということだ。この映画に限ったことなのかもしれないけど。
NHK映像ファイル「あの人に会いたい」で寺山修司をとりあげていた。寺山修司のしゃべる言葉を文字に書き起こすのはいいが、あまりにも誤字が多すぎる。特にひどかったのが、作者は物語を半分しか作らない、という半世界の下りで、「物語は半分作ってあとの半分を観客が保管して一つの世界になっていく」って、どういうことだ。「保管」じゃなくて「補完」だろう。
アレクサンダー・ペイン監督の「アバウト・シュミット」を見た。ジャック・ニコルソン主演。2002年作品。定年退職、妻の急死、娘はバカ男と結婚。男は自分の個人的なことを手紙に書くことをきっかけにして、人生をみつめなおす。
キャシー・ベイツのヌードが衝撃的。あんなに年行ってたんだ、と。
あと、愚鈍な青年が着ていた特撮怪獣映画まがいのTシャツも注意をひく。
主人公は仕事一途のつまらない男。そういう人間には、仕事も家庭も自分も、満足して得られない悲惨な末路が待っていることなんて、誰もがわかっている。それでも最終的には自分の人生にイエスと言うラストが待っている。それこそ、救いは蜘蛛の糸のようなものだったのだ。
さて、この映画、退屈だとか、つまらない、とか言う評判だということを、映画見たあとにネットで調べて、知った。おそらくはネットで多く語られているんだから、若い人の意見なのだろう。青二才の言うことは全く半可通で困る。今までどんな映画を見て来たんだ、と言いたい。僕はラストシーンでジャック・ニコルソンと同じタイミングで泣いた。これぞ彼の名優っぷりをあらわすものなのか、それとも、僕が年老いていることの証しなのか。
そう言えば、寺山修司は47才で死んだ。僕の父親は42才で死んだ。46才の僕は既に年老いて生き恥さらしているわけだ。若いうちは若さゆえの生き恥、年老いては老いゆえの生き恥。いやはや。
午後1時からの回を見に行った。以下、出演ユニット。基本的に男性ユニットはメモをとらず。(調べればわかるかもしれないが、そんな手間も惜しい)
1、こめつぶ(自己紹介のときにみんな名前のうしろに〜ケルとつけていた。ゴリケルの影響らしい)
2、RAVE(男)
3、Shakeeen(初ストリート)
4、Jhiss(中学生だからジュニアハイスクールから命名)
5、ハバネロ隊長(児玉愛良はテレビのため欠席)
6、不明(男)
7、Secret Love(ゼッタイとか踊ってた!)
8、不明(男)
9、JUMPING PANATSUP
10、DASH!(男)
11、子スペラーズ(「さくら」とか歌ったが、隣のロックバンドの音大きすぎ)
12、PARADISE GO!GO!(新曲ファラウェイも披露)
実はキャレスの城天は何度も見逃していて、ちゃんと見たのはこれが最初になる。アイドル好きの僕にとっては、キャレスはダンス寄りで、ちっとも可愛い曲を歌ってくれないのだが、、じゅうぶんに可愛い子たちだ。遠くからしか見ることができなかったので、特定の個人に思い入れすることはできなかった。僕はちょっとした表情とか、しぐさとか、ダンスでもうまさよりも独特の持ち味にセンサーが反応するのだ。センサーがはたらく射程距離内でとらえてみたい。
野村孝監督の「殺るかやられるか」(1966年)を見た。高橋英樹主演。
身代わりで刑務所に入った男。服役中に弟の怪死を知る。出所したら組は冷たい。男は弟の死の真相を探る。芦川いづみや加藤武が重要な役柄で出ているが、梶芽衣子も太田雅子名義で出演している。
クライマックスで、待ち伏せの危険を知らせる為、こどもが道に白墨で「おじちゃん、かえるな」と書くのだが、ある箇所では、その文字の上にトラックがとまっていて見えず、またある箇所では高橋英樹が通る直前に散水車が通って字を消してしまうなど、ハラハラさせる演出がきいていた。高橋英樹は待ち伏せている悪の組織につかまり、拉致されて車で移動する。その際、こどもが「もう大丈夫だ」と安心して道で遊んでいるすぐ脇を通るのだ。
高橋英樹は弟の仇をうち、世話になった親子の慰留を振り切って一人立ち去っていく。それを寂し気に見送るオバQ。
スト−リ−とは関係ないのだが、横浜ドリームランドがこの映画で出てくる。1966年というと、僕が親に連れられて奈良ドリームランドによく遊びに行っていた頃だ。今、見ると遊園地の乗り物が既にレトロで危険なもののように見えてしまう。また、バー「まろうど」で歌手が歌うシーンは、そのまま大西ユカリではないか。
人は過去の出来事を美化するというが、この映画を見て思ったのは、「人は昔の物事を、当時から既に古かったものと誤認してしまう」ということだ。この映画に限ったことなのかもしれないけど。
NHK映像ファイル「あの人に会いたい」で寺山修司をとりあげていた。寺山修司のしゃべる言葉を文字に書き起こすのはいいが、あまりにも誤字が多すぎる。特にひどかったのが、作者は物語を半分しか作らない、という半世界の下りで、「物語は半分作ってあとの半分を観客が保管して一つの世界になっていく」って、どういうことだ。「保管」じゃなくて「補完」だろう。
アレクサンダー・ペイン監督の「アバウト・シュミット」を見た。ジャック・ニコルソン主演。2002年作品。定年退職、妻の急死、娘はバカ男と結婚。男は自分の個人的なことを手紙に書くことをきっかけにして、人生をみつめなおす。
キャシー・ベイツのヌードが衝撃的。あんなに年行ってたんだ、と。
あと、愚鈍な青年が着ていた特撮怪獣映画まがいのTシャツも注意をひく。
主人公は仕事一途のつまらない男。そういう人間には、仕事も家庭も自分も、満足して得られない悲惨な末路が待っていることなんて、誰もがわかっている。それでも最終的には自分の人生にイエスと言うラストが待っている。それこそ、救いは蜘蛛の糸のようなものだったのだ。
さて、この映画、退屈だとか、つまらない、とか言う評判だということを、映画見たあとにネットで調べて、知った。おそらくはネットで多く語られているんだから、若い人の意見なのだろう。青二才の言うことは全く半可通で困る。今までどんな映画を見て来たんだ、と言いたい。僕はラストシーンでジャック・ニコルソンと同じタイミングで泣いた。これぞ彼の名優っぷりをあらわすものなのか、それとも、僕が年老いていることの証しなのか。
そう言えば、寺山修司は47才で死んだ。僕の父親は42才で死んだ。46才の僕は既に年老いて生き恥さらしているわけだ。若いうちは若さゆえの生き恥、年老いては老いゆえの生き恥。いやはや。
柿崎正澄の漫画『RAINBOW〜二舎六房の七人』を5巻、第1章完まで読んだ。安部譲二原作。
特別少年院に放り込まれた少年7人が、サディスト看守とホモ嘱託医による地獄の責め苦にあいながら、出所するまでを描く。6人の新入りを導いてくれたアンチャンは命を落としてしまい、第2章からは6人の少年たちの娑婆での生活が描かれるのであろう。
浪花節的な友情物語が展開される壮絶な青春ドラマ。
実にオーソドックス。教育的というか、良質な漫画だ。読んでいて、くだらないことでうじうじしている自分に喝をいれたくなった。
この漫画を読むきっかけは、つい昨日、日本橋百景で斎藤くんがすすめてくれたからだ。
さらにその本を死神ちゃんが読んだ、となれば、興味も湧いて来ようというものだ。
なーんて、僕はいつまでこんなことを書いてるんだ。
今日は行こうと予定していたイベントがいくつもあったのだが、心身ともに落ち込んでしまい、身動きがとれなかった。
『RAINBOW』の惹句をもじると、「明日の昼は…シャバにいてェよな」
特別少年院に放り込まれた少年7人が、サディスト看守とホモ嘱託医による地獄の責め苦にあいながら、出所するまでを描く。6人の新入りを導いてくれたアンチャンは命を落としてしまい、第2章からは6人の少年たちの娑婆での生活が描かれるのであろう。
浪花節的な友情物語が展開される壮絶な青春ドラマ。
実にオーソドックス。教育的というか、良質な漫画だ。読んでいて、くだらないことでうじうじしている自分に喝をいれたくなった。
この漫画を読むきっかけは、つい昨日、日本橋百景で斎藤くんがすすめてくれたからだ。
さらにその本を死神ちゃんが読んだ、となれば、興味も湧いて来ようというものだ。
なーんて、僕はいつまでこんなことを書いてるんだ。
今日は行こうと予定していたイベントがいくつもあったのだが、心身ともに落ち込んでしまい、身動きがとれなかった。
『RAINBOW』の惹句をもじると、「明日の昼は…シャバにいてェよな」
今日はベアーズで「キシベ46」
やすみあけ、丼野M美、保山宗明玉、自分BOX、北紫子、邪王院弘、佐伯誠之助、阿僧祇1905、ヘルメッツ、めがねっ娘クラブ。
10組も出ているが、各10分程度の持ち時間なので、進行が早い、早い。
このイベントは僕の生誕46年を祝って自ら開催したもので、おかげでプレゼントをくれる人もおり、願ったり叶ったりだった。
僕も本番直前に思い付いたパフォーマンスでビデオカセットを割りまくった。
だいたいイベントの前には焦りでイライラすることが多いのだが、つい数時間前までは自分が出演する予定がなかった為、幸いにもそのイライラは起きなかった。でも、問題はイベント後の自己嫌悪だ。これが酷い。そんな感情をひき起こしてまで、何故イベントするのかというと、イベントしなければ、より酷いからなのだ。自分はいったい何の為に生きているのか、なんてどうでもいいことを考えたくなってくる。自分の存在が誰かに影響でも与えているんだろうか。与えているとしても、悪影響だとどうだ。僕は人に影響を与えようとして行動しているのではないか。それはみっともない。
なーんて、ライブがどんなに楽しくても、どうして自分はステージで爆死するくらいの度胸を示せなかったのか、と自分を責めてしまう。
ライブというのは命がけなのだ。どんなにおちゃらけたパフォーマンスでも。
でも、その命がけを生き延びるのが、アーチストの条件なのだ。
そこで死んでしまったり、リタイアするのは、自己嫌悪以上に避けたいことだ。
どんなに格好良く見えても、死者は負けだ。もう1回ライブしてみろ!と僕はシド・ヴィシャスにもカート・コバーンにも言ってやりたい。
次回のライブはなんばベアーズで7月8日(金)
今度こそ、僕は死にかけて生き延びてやる。
やすみあけ、丼野M美、保山宗明玉、自分BOX、北紫子、邪王院弘、佐伯誠之助、阿僧祇1905、ヘルメッツ、めがねっ娘クラブ。
10組も出ているが、各10分程度の持ち時間なので、進行が早い、早い。
このイベントは僕の生誕46年を祝って自ら開催したもので、おかげでプレゼントをくれる人もおり、願ったり叶ったりだった。
僕も本番直前に思い付いたパフォーマンスでビデオカセットを割りまくった。
だいたいイベントの前には焦りでイライラすることが多いのだが、つい数時間前までは自分が出演する予定がなかった為、幸いにもそのイライラは起きなかった。でも、問題はイベント後の自己嫌悪だ。これが酷い。そんな感情をひき起こしてまで、何故イベントするのかというと、イベントしなければ、より酷いからなのだ。自分はいったい何の為に生きているのか、なんてどうでもいいことを考えたくなってくる。自分の存在が誰かに影響でも与えているんだろうか。与えているとしても、悪影響だとどうだ。僕は人に影響を与えようとして行動しているのではないか。それはみっともない。
なーんて、ライブがどんなに楽しくても、どうして自分はステージで爆死するくらいの度胸を示せなかったのか、と自分を責めてしまう。
ライブというのは命がけなのだ。どんなにおちゃらけたパフォーマンスでも。
でも、その命がけを生き延びるのが、アーチストの条件なのだ。
そこで死んでしまったり、リタイアするのは、自己嫌悪以上に避けたいことだ。
どんなに格好良く見えても、死者は負けだ。もう1回ライブしてみろ!と僕はシド・ヴィシャスにもカート・コバーンにも言ってやりたい。
次回のライブはなんばベアーズで7月8日(金)
今度こそ、僕は死にかけて生き延びてやる。
アルファベット・パズラーズ
2005年3月24日 読書
大山誠一郎の『アルファベット・パズラーズ』を読んだ。
「Pの妄想」「Fの告発」「Yの誘拐」の3つの中短編が収められている。
「Pの妄想」毒殺されると思い込んで疑心暗鬼の人物が、毒殺される。お茶会でも缶紅茶を飲むほどの徹底ぶりだったのに、いったい犯人はどうやって毒を入れたのか?
「Fの告発」指紋認証でセキュリティ万全の部屋の中で人が殺された。犯行可能な人物はその時間に部屋にいないことが証される。
「Yの誘拐」児童誘拐で身代金1億円を犯人指定の場所に置いたが、警察が監視していることを見抜いた犯人により、人質もろとも爆破。迷宮入りした事件を再調査すると、意外な真相が明らかになる。
3編とも、マンションオーナー峰原の部屋に集まる刑事・後藤、翻訳家・奈良井、精神科医・竹野、計4人による推理合戦により真相が導かれる。
これは近来稀にみる大傑作だった。
思いもよらぬ方向から推理がなされ、とんでもない真相が待っているのだ。
新本格以降のバリエーションとはまったく出自が異なると思わせる思考方法がとても新鮮だ。フェアプレイかと言われると、そうでもないのだが、推理小説は推理クイズではないのだ。無理がないのかと言われると、そうでもないのだが、パズラーは日常のエッセイではないのだ。はじめて山口雅也を読んだときに、同様の感覚を覚えたように思う。
以下、各作品のネタバレ。読んでいない人は注意。
「Pの妄想」被害者は被毒妄想など抱いていなかった。お茶会に缶紅茶を用意したのは、屋敷が傾いていることを隠すためだった。じゅうたんの中心に缶紅茶を巻き込んで、それが平たくなることで、部屋の中で缶紅茶による毒殺が演出されたのだ。「P」はそのときのじゅうたんを横から見た形。苦しい!
「Fの告発」指紋を登録している人物のうちで、一人二役があった。指紋を登録されているが名前のない人物がいたのだ。犯人は、一人二役の二人を同時に見たと証言した人物。推理によって出たデータをもとに推理をするのはチトつらい。
「Yの誘拐」犯人の目的は、1億円を爆破によって焼いてしまうことだった。その金は偽札だったのだ。犯人は1億円を用意した銀行の人物。そして、その犯人こそが、マンションオーナーの峰原だったのだ。「Y」は福沢諭吉の「ユキチ」の「Y」これ、絶対こどもが犯人だと思ってたんだけどなー。
うわー。奇想じゃないか。
「Pの妄想」「Fの告発」「Yの誘拐」の3つの中短編が収められている。
「Pの妄想」毒殺されると思い込んで疑心暗鬼の人物が、毒殺される。お茶会でも缶紅茶を飲むほどの徹底ぶりだったのに、いったい犯人はどうやって毒を入れたのか?
「Fの告発」指紋認証でセキュリティ万全の部屋の中で人が殺された。犯行可能な人物はその時間に部屋にいないことが証される。
「Yの誘拐」児童誘拐で身代金1億円を犯人指定の場所に置いたが、警察が監視していることを見抜いた犯人により、人質もろとも爆破。迷宮入りした事件を再調査すると、意外な真相が明らかになる。
3編とも、マンションオーナー峰原の部屋に集まる刑事・後藤、翻訳家・奈良井、精神科医・竹野、計4人による推理合戦により真相が導かれる。
これは近来稀にみる大傑作だった。
思いもよらぬ方向から推理がなされ、とんでもない真相が待っているのだ。
新本格以降のバリエーションとはまったく出自が異なると思わせる思考方法がとても新鮮だ。フェアプレイかと言われると、そうでもないのだが、推理小説は推理クイズではないのだ。無理がないのかと言われると、そうでもないのだが、パズラーは日常のエッセイではないのだ。はじめて山口雅也を読んだときに、同様の感覚を覚えたように思う。
以下、各作品のネタバレ。読んでいない人は注意。
「Pの妄想」被害者は被毒妄想など抱いていなかった。お茶会に缶紅茶を用意したのは、屋敷が傾いていることを隠すためだった。じゅうたんの中心に缶紅茶を巻き込んで、それが平たくなることで、部屋の中で缶紅茶による毒殺が演出されたのだ。「P」はそのときのじゅうたんを横から見た形。苦しい!
「Fの告発」指紋を登録している人物のうちで、一人二役があった。指紋を登録されているが名前のない人物がいたのだ。犯人は、一人二役の二人を同時に見たと証言した人物。推理によって出たデータをもとに推理をするのはチトつらい。
「Yの誘拐」犯人の目的は、1億円を爆破によって焼いてしまうことだった。その金は偽札だったのだ。犯人は1億円を用意した銀行の人物。そして、その犯人こそが、マンションオーナーの峰原だったのだ。「Y」は福沢諭吉の「ユキチ」の「Y」これ、絶対こどもが犯人だと思ってたんだけどなー。
うわー。奇想じゃないか。
無形工房展「乱反射回廊」
2005年3月23日 趣味仕事に行く前に上本町のフィネガンズウェイクに寄った。
カレイドスコープ協賛の無形工房作品展「乱反射回廊」
この店は引き出しバーで、僕もオープン以来自分の引き出しを持っており、時限爆弾アートを忍ばせている。
作品は引き出しの中に外に混在している。
僕のお目当ては3D担当の野中宏恵ちゃんの作品だ。人形の顔と指がぽろぽろと出ている。
引き出しの列が顔を持ち、手指を伸ばしてきた。しばらく来ないうちに、フィネガンズウェイクが生命を持って成長をはじめたかのようだ。ぶら下がって橙色に店内を照らす電球。歯の欠けたオルゴールが聞いたことのない音楽を奏でる。四方は漂流物で占められている。僕はピノキオが飲み込まれた鯨の体内にいるような錯覚に陥った。
中で語られる話は、およそ20年以上前のニューウェイブの話。
僕がかつて出入りしていたロックマガジンの話。
ピノキオの鯨の中での「ニューウェイブ」は「新しい波」であり、「ロック」は「岩礁」である。僕達はあの日、確実に海の中にいたのだ。
カレイドスコープ協賛の無形工房作品展「乱反射回廊」
この店は引き出しバーで、僕もオープン以来自分の引き出しを持っており、時限爆弾アートを忍ばせている。
作品は引き出しの中に外に混在している。
僕のお目当ては3D担当の野中宏恵ちゃんの作品だ。人形の顔と指がぽろぽろと出ている。
引き出しの列が顔を持ち、手指を伸ばしてきた。しばらく来ないうちに、フィネガンズウェイクが生命を持って成長をはじめたかのようだ。ぶら下がって橙色に店内を照らす電球。歯の欠けたオルゴールが聞いたことのない音楽を奏でる。四方は漂流物で占められている。僕はピノキオが飲み込まれた鯨の体内にいるような錯覚に陥った。
中で語られる話は、およそ20年以上前のニューウェイブの話。
僕がかつて出入りしていたロックマガジンの話。
ピノキオの鯨の中での「ニューウェイブ」は「新しい波」であり、「ロック」は「岩礁」である。僕達はあの日、確実に海の中にいたのだ。
戸梶圭太の『自殺自由法』を読んだ。
近い未来のこと、日本は個人の意思による自殺行為を止めるのを禁止した。そして、自治体は自殺したい人に対してしかるべき施設(自逝センター)を提供し、自殺を幇助することが義務づけられる。そうした状況で起こるいろんなエピソードを重ねていく。
人気絶頂期に自殺を記者会見で発表し、無駄のない人生を送りたいと述べる俳優が出てくる。
自逝センターに並ぶ少女をナンパする若者。
自逝センターの中をレポートするため、ギリギリまで内部に入ろうとする売れない芸人。
自殺直前の女の子のヌード写真集で一発当てようとする出版社。
刑務所では人減らしのため、囚人を追い込んで自逝センターに送り込む。
その他、数多くの「自殺したい」と思うシチュエーションが描かれ、自殺を止めるいろんな理屈を全部ひっくりかえしていく。
ここでは死ねない者だけが生きているのだ、というような逆転がまかりとおっている。
これは兵隊になって戦争に加わることが国のためになる、と思い込むのと同様、陥りがちな錯覚である。
この本はシチュエーションで読ませる小説なので、一応、自逝センターの内部が危険な秘密を抱えているらしいという1本筋の通った謎はあるが、断片の寄せ集めで楽しませるエンタテインメントになっている。
シチュエーション物だけに、ラストは唐突で投げ捨てたような印象がある。あんな同人作家が書きそうなラストじゃなくて、もっとプロらしいお手並みを拝見したかったが、まあ、これは丁寧に仕上げるべき物語でもない、という判断なのだろう。いつものエグイ描写はいくぶん控えめなように感じた。これは慣れか。
この本を読んでも、自殺願望なんて湧いて来ない。登場人物が安い人間ばかりだから、「死にたい奴は死んどけ。死にたくなくても死ね」と思うだけだ。
むしろ、バイタリティーを注入されたようだ。
近い未来のこと、日本は個人の意思による自殺行為を止めるのを禁止した。そして、自治体は自殺したい人に対してしかるべき施設(自逝センター)を提供し、自殺を幇助することが義務づけられる。そうした状況で起こるいろんなエピソードを重ねていく。
人気絶頂期に自殺を記者会見で発表し、無駄のない人生を送りたいと述べる俳優が出てくる。
自逝センターに並ぶ少女をナンパする若者。
自逝センターの中をレポートするため、ギリギリまで内部に入ろうとする売れない芸人。
自殺直前の女の子のヌード写真集で一発当てようとする出版社。
刑務所では人減らしのため、囚人を追い込んで自逝センターに送り込む。
その他、数多くの「自殺したい」と思うシチュエーションが描かれ、自殺を止めるいろんな理屈を全部ひっくりかえしていく。
ここでは死ねない者だけが生きているのだ、というような逆転がまかりとおっている。
これは兵隊になって戦争に加わることが国のためになる、と思い込むのと同様、陥りがちな錯覚である。
この本はシチュエーションで読ませる小説なので、一応、自逝センターの内部が危険な秘密を抱えているらしいという1本筋の通った謎はあるが、断片の寄せ集めで楽しませるエンタテインメントになっている。
シチュエーション物だけに、ラストは唐突で投げ捨てたような印象がある。あんな同人作家が書きそうなラストじゃなくて、もっとプロらしいお手並みを拝見したかったが、まあ、これは丁寧に仕上げるべき物語でもない、という判断なのだろう。いつものエグイ描写はいくぶん控えめなように感じた。これは慣れか。
この本を読んでも、自殺願望なんて湧いて来ない。登場人物が安い人間ばかりだから、「死にたい奴は死んどけ。死にたくなくても死ね」と思うだけだ。
むしろ、バイタリティーを注入されたようだ。
デュシャン、制服向上委員会、UTAKATA
2005年3月21日 アイドル東京最終日。
まずは横浜美術館でマルセル・デュシャン展。
会場に入ると、「でっかい、でっかい、でっかい」と声が聞こえる。見ると、マース・カニングハムの踊る姿が。ナム・ジュン・パイクだ。
前日の瀧口展の印象が残っていたので、駆け足でまわったら、意外にもあっというまに出口に到達してしまった。入口に戻って、もう1回見直す。
「大ガラス」が思ったよりも「小ガラス」だったのが面白かった。「中ガラス」くらいかな。
現代は規模によって芸術的感銘を与えうる恵まれた時代なんだなあ、と思った。
もちろん、デュシャンは現代の芸術家ではない。規模の振幅はその分、少ない。
制服向上委員会、3月は北沢タウンホールで2回公演。いつもの駒場と違って立ち寄りたい店がいっぱいなのが嬉しい。
まずは午後2時から「New Ski’s Spring Concert」
開演前のアナウンスは古賀美雪。
以下、曲目。かっこ内はメインボーカル。
制服宣言(真冬)
ダイエット号に乗って
若き知恵を讃えた天使たちの詩(真冬)
何かのために
スカイブルーカー(りりか)
一人ふたり
ここでコーナー、公開生徒総会。議長はりりか。テーマは「ライブドアーVSフジテレビ」発言がボケに次ぐボケ。どこまでボケ続けるのかと思っていたら、いきなりリ−ダ−伶奈が登場して「メンバーは何でも知っているコーナー」を無理矢理はじめてしまう。「BGM」は何の略かをメンバーに聞く。ひかるが「ブラックガム」とかむちゃくちゃ答えるが、この伶奈によるコーナージャックはドッキリだったようで、メンバーの動揺が伝わってきて面白かった。
コーナー明けはアコースティック。休憩時間みたいに客がロビーに出て行く。
つかめそうでつかめないもの(美香)
イムジン江(美香、真冬)
オブラディオブラダ
アメリカ
ワールドピースナウ
ここから3曲は次に出るカヴァーアルバムから。
なごり雪(ひなっち)
秋桜(真冬)
バラが咲いた
あいうえおβ(りりか、千歌、ひなっち)これ、アルゴリズム体操みたいだ。
かわってない わかってない
表裏一体(伶奈)
レッツゲットスター(伶奈、ひなっち)
マイジェネレーション(美雪)梢の名曲を美雪が引き継いだ!
同級生(美香、伶奈、真冬)
以下、おまけ。
まぁまぁ
ボランティアスピリッツ(真冬)
以上。
午後5時からは「最終章!純愛・寿隊」最終章って何?
開演前のアナウンスは梶原ひかる。
まず最初は「西部劇」から。西部劇!?ストーリーは堤清二等が登場する物語。西部劇じゃなくて、「西武劇」だったのだ。
20分程、西武騒動顛末のお芝居の後、いきなり20分の休憩。なんじゃそりゃー。
以下、ライブの曲目。かっこ内はメインボーカル。
狸(真冬)
お気の毒(れいな)
どっちもどっち(りりか)
どさくさ文明すたこら文化(真冬)
逃げだそう(真冬、れいな)
寄り道(真冬)
らしくらしく
最中は最高(真冬)
嗚呼!無情(れいな、梢)
歩行喫煙禁止!(れいな)
15秒の愛(美雪)
ですます小唄(真冬、ひな)
もう一度会いたい(れいな)
たった一度のSOS!ペンギン物語(あやか)
世にも不思議な鶴と亀の物語(真冬)
夢を喰べ過ぎた(真冬)
シロクマ日記(まいまい)
何故?なぜ?(真冬)
波乱万丈(あやか)
嘘つき音頭(あやか)
ナニっ?それっ!(りな、ひな)
いざっ!鎌倉(美雪)
蟻は死して巣を残す(あやか)
華の乱(れいな、梢)
世界をなめると痛い目にあうぜっ!(真冬)
怠惰(まいまい)
歯が痛いっ!(ひな、梢)後半は梢に替わって、りな。
寿梁山泊(真冬)後半はあやか。
生きた軌跡は天然化石(まいまい、あやか、真冬)カタムキ隊も一瞬登場。
正義の味方!寿隊(まいまい、あやか、真冬)
以上。
このライブに駆け付けたOGは吉田梢、高橋里奈、遠藤舞香、秋山文香。
つい先月まで現役バリバリだった吉田梢は当然としても、他のOGも、現役に負けない大活躍っぷりだ。特に文香は寿隊のいきなりのトップたる実力を見せつけた。ラスト曲は寿隊トップ3揃い踏みだったのだが、文香のパンチ力の強さには誰も太刀打ちできない。
アップリンクXでレイトショー「UTAKATA」を見た。
中村うさぎのドキュメンタリー。
足の踏み場もない部屋とか、豊胸手術とかの映像もある。テレビで慣れない司会しているときと違って、この映画で見られる普段の中村うさぎは、とても自然で親しみやすい。セックスの相手としては僕では役不足だろうが、友達にならいつでもなれそうな気さえする。
でも、人間、僕くらいの年齢(40代後半)にもなると、中村うさぎのような人物にはどこかで知り合っている。おそらくは若い世代であろう監督のビックリポイントが僕にとっては「ああ、あれはまるで、だみあんみたいだな」とか「CHAMIちゃんを彷佛とさせるな」とか、親しみこそ覚えても、驚きはしないのだ。だから、監督が中村うさぎのことを「極端から極端に走る」と評しても、そんなのはごく普通のことなんじゃないの?と思う。テレビサイズの生き方をしている人にとっては、中村うさぎは規格外かもしれないが。
まずは横浜美術館でマルセル・デュシャン展。
会場に入ると、「でっかい、でっかい、でっかい」と声が聞こえる。見ると、マース・カニングハムの踊る姿が。ナム・ジュン・パイクだ。
前日の瀧口展の印象が残っていたので、駆け足でまわったら、意外にもあっというまに出口に到達してしまった。入口に戻って、もう1回見直す。
「大ガラス」が思ったよりも「小ガラス」だったのが面白かった。「中ガラス」くらいかな。
現代は規模によって芸術的感銘を与えうる恵まれた時代なんだなあ、と思った。
もちろん、デュシャンは現代の芸術家ではない。規模の振幅はその分、少ない。
制服向上委員会、3月は北沢タウンホールで2回公演。いつもの駒場と違って立ち寄りたい店がいっぱいなのが嬉しい。
まずは午後2時から「New Ski’s Spring Concert」
開演前のアナウンスは古賀美雪。
以下、曲目。かっこ内はメインボーカル。
制服宣言(真冬)
ダイエット号に乗って
若き知恵を讃えた天使たちの詩(真冬)
何かのために
スカイブルーカー(りりか)
一人ふたり
ここでコーナー、公開生徒総会。議長はりりか。テーマは「ライブドアーVSフジテレビ」発言がボケに次ぐボケ。どこまでボケ続けるのかと思っていたら、いきなりリ−ダ−伶奈が登場して「メンバーは何でも知っているコーナー」を無理矢理はじめてしまう。「BGM」は何の略かをメンバーに聞く。ひかるが「ブラックガム」とかむちゃくちゃ答えるが、この伶奈によるコーナージャックはドッキリだったようで、メンバーの動揺が伝わってきて面白かった。
コーナー明けはアコースティック。休憩時間みたいに客がロビーに出て行く。
つかめそうでつかめないもの(美香)
イムジン江(美香、真冬)
オブラディオブラダ
アメリカ
ワールドピースナウ
ここから3曲は次に出るカヴァーアルバムから。
なごり雪(ひなっち)
秋桜(真冬)
バラが咲いた
あいうえおβ(りりか、千歌、ひなっち)これ、アルゴリズム体操みたいだ。
かわってない わかってない
表裏一体(伶奈)
レッツゲットスター(伶奈、ひなっち)
マイジェネレーション(美雪)梢の名曲を美雪が引き継いだ!
同級生(美香、伶奈、真冬)
以下、おまけ。
まぁまぁ
ボランティアスピリッツ(真冬)
以上。
午後5時からは「最終章!純愛・寿隊」最終章って何?
開演前のアナウンスは梶原ひかる。
まず最初は「西部劇」から。西部劇!?ストーリーは堤清二等が登場する物語。西部劇じゃなくて、「西武劇」だったのだ。
20分程、西武騒動顛末のお芝居の後、いきなり20分の休憩。なんじゃそりゃー。
以下、ライブの曲目。かっこ内はメインボーカル。
狸(真冬)
お気の毒(れいな)
どっちもどっち(りりか)
どさくさ文明すたこら文化(真冬)
逃げだそう(真冬、れいな)
寄り道(真冬)
らしくらしく
最中は最高(真冬)
嗚呼!無情(れいな、梢)
歩行喫煙禁止!(れいな)
15秒の愛(美雪)
ですます小唄(真冬、ひな)
もう一度会いたい(れいな)
たった一度のSOS!ペンギン物語(あやか)
世にも不思議な鶴と亀の物語(真冬)
夢を喰べ過ぎた(真冬)
シロクマ日記(まいまい)
何故?なぜ?(真冬)
波乱万丈(あやか)
嘘つき音頭(あやか)
ナニっ?それっ!(りな、ひな)
いざっ!鎌倉(美雪)
蟻は死して巣を残す(あやか)
華の乱(れいな、梢)
世界をなめると痛い目にあうぜっ!(真冬)
怠惰(まいまい)
歯が痛いっ!(ひな、梢)後半は梢に替わって、りな。
寿梁山泊(真冬)後半はあやか。
生きた軌跡は天然化石(まいまい、あやか、真冬)カタムキ隊も一瞬登場。
正義の味方!寿隊(まいまい、あやか、真冬)
以上。
このライブに駆け付けたOGは吉田梢、高橋里奈、遠藤舞香、秋山文香。
つい先月まで現役バリバリだった吉田梢は当然としても、他のOGも、現役に負けない大活躍っぷりだ。特に文香は寿隊のいきなりのトップたる実力を見せつけた。ラスト曲は寿隊トップ3揃い踏みだったのだが、文香のパンチ力の強さには誰も太刀打ちできない。
アップリンクXでレイトショー「UTAKATA」を見た。
中村うさぎのドキュメンタリー。
足の踏み場もない部屋とか、豊胸手術とかの映像もある。テレビで慣れない司会しているときと違って、この映画で見られる普段の中村うさぎは、とても自然で親しみやすい。セックスの相手としては僕では役不足だろうが、友達にならいつでもなれそうな気さえする。
でも、人間、僕くらいの年齢(40代後半)にもなると、中村うさぎのような人物にはどこかで知り合っている。おそらくは若い世代であろう監督のビックリポイントが僕にとっては「ああ、あれはまるで、だみあんみたいだな」とか「CHAMIちゃんを彷佛とさせるな」とか、親しみこそ覚えても、驚きはしないのだ。だから、監督が中村うさぎのことを「極端から極端に走る」と評しても、そんなのはごく普通のことなんじゃないの?と思う。テレビサイズの生き方をしている人にとっては、中村うさぎは規格外かもしれないが。
東京3日め。大阪から持って来た本を読み終えた。
岩波文庫の『バガヴァッド・ギータ−』
かなり前に、違うバージョンで読んだことがあったが、本書の内容を死神ちゃんに教えてあげようとしたら、おおざっぱなあらすじしか伝えられなかった。ほとんど読んでいないも同然だな、と思ったので、新しい翻訳のものを読んでみた。
表紙には「ひとは社会人たることを放棄することなく現世の義務を果たしつつも窮極の境地に達することが可能である、と説く」と書いてある。僕が以前読んだときもほぼ同様の理解だった。
アルジュナは戦争に際して、なぜ同族同士が命を奪いあわねばならないのか、と悩み、敵の命を奪うくらいなら、むしろ自分の命を奪われる方がいい、と思う。
そのとき、クリシュナがヨーガの秘説を説いて、アルジュナの迷いを断つのだ。
「いったい何のために戦うのだ」と迷い悩む主人公、という図式は後年、ロボットアニメなどでさんざん使われる。
で、ここにそのヨーガの秘説について覚え書きを残しておくべきなのだが、どうも僕にはまだまだ要約が困難なようだ。
人には生まれながらなすべき行為が決まっており、それを見返りなしに行為することが大切なのだ、という教えはわかる。俗世を捨てずに、「窮極の境地」に達する事ができるのだ。
でも、バガヴァッド・ギーターには知識の最高の帰結として、「自己を制御し、音声などの感官の対象を捨て、また愛憎を捨て、人里離れた場所に住み、節食し」「常に瞑想のヨーガに専念し」等々で、ブラフマン(最高の存在)と一体化する、と書いてある。こんなことしようと思ったら、俗世を捨てねばならないんじゃないか。
ヨーガの奥義はわからぬまでも、本書には面白い記述が多々ある。
「純質(サットヴァ)」「激質(ラジャス)」「暗質(タマス)」を三要素という。
純質が増大したときは知識の光明が得られ、純質的な者は油質で腹持ちがいい食べ物を好む。
激質が増大したときは活動、躁状態、切望が生ずる。激質的な者が好むのは、苦く、酸っぱく、塩辛く、刺激性の食べ物だ。
暗質が増大したときは怠慢、迷妄、無知が生ずる。暗質的なものの好物は、前日調理された、悪臭をはなつ、食べ残し。
食べ物の好みで、どの要素(グナ)が多いのかが逆算できるってことだ。
インドの話だから、カレーでたとえると、激辛なんかが好きな人はラジャス的な貪欲で偽善的に尊敬されたがる人物。3日めのカレーが一番旨いなんて言う人はタマス的で、無活動、睡眠がもっとも快楽と思える人物なのだ。
そうか?でも、この本にしたがえば、そうなのだ。
世田谷美術館に「瀧口修造 夢の漂流物」を見に行った。ちょうど『バガヴァッド・ギーター』読了後で、ヨーガの真髄について考えていたときだったので、世田谷美術館に行くのはタイムリーだった。最寄り駅は「用賀(ヨウガ)」なのだ。瀧口修造は詩人であり、現代美術の評論家である。本展では、瀧口自身の作品と、1950年代から70年代にかけて、前衛美術家たちが瀧口修造に贈った作品が大量に展示してある。
大量に展示してある、とわかったのは、見れども見れども出口にたどりつかないからだ。膨大な数の漂流物があったものだ。これは一大現代美術展の様相を呈している。デュシャンにミロに合田佐和子に野中ユリに。
また、瀧口の詩や評論文が展示してあれば、読んでしまう。いくら時間があっても足りない。
だがしかし、よく考えてみると、これら作品は瀧口修造個人に贈られたものが大半のはずだ。美術館サイズの倉庫があるなら別だが、これら漂着物はごちゃごちゃのまま、鑑賞する術もなく堆積していたのではないか。もったいない。ひるがえって自分の部屋の中で堆積したまま冬眠している本の数々を思い出すと胸が痛む。
早稲田に出て、流山児祥原作、高取英脚本、天野天街演出の「テロルのオペレッタ 夢の肉弾三勇士」を見に行った。爆弾三勇士に朝鮮人虐殺に、タイムスリップしてきた真田十勇士が絡む。お客さんの鞄を奪い取って穴の中に投げ込む役者たち、お客さんを拉致して穴に放り込む役者。前日の「邪宗門」で拉致されたお客さんは、客のふりをした役者だったが、今回は、本当に客を無理矢理穴に放り込むのだ。途中で這い出してくる客もまた芝居の一部になってしまう。アングラ演劇ここにあり、という王道だった。これを見ると、寺山の「邪宗門」は綺麗すぎる。泥くさくないというか。でも、それは寺山の特異性を示すものなのだろう。
銀座に出て、資生堂ギャラリーで「ローラ・オーエンズ展」
フェルトや紙など、平面を重ねることで不思議な立体感を持たせた可愛い絵画。
平面プラス平面でアンチ立体を実現している、という感じ。
続けて、プラスマイナスギャラリーで「以心伝心 原倫太郎展」
ポンプをスイッチがわりに押すことで液体を動かし、それがさらに何かのスイッチを入れる、連動型の作品が並んでいる。あるスイッチでは色水がチューブの中を走り、スニーカーの靴ひも(チューブ)に色をつける。あるスイッチでは洗濯機のスイッチを入れて、中のものの様子をカメラで見せる。またあるものはシーソーを動かし、その上をボールが転がることで、別のものをまた動かす等々。何が何のスイッチになっているやら。それは因果関係とかブラックボックスとか、いろんな意味づけが可能だろう。でも、これは芸術を鑑賞するというよりも、おもちゃで遊ぶ感覚に近い。
渋谷に出て、中島らも追悼写真展「彼の世でアンコール!」を見た。
若い頃の写真から、原稿、部屋の再現模型など、中島らもは死んでからも人気がある。
僕は追悼ライブに参加できなかったので、焼香でもするような気分で、記帳してきた。
ポータブルラジオで「現代の音楽」を聞こうと思ったが、渋谷は毒電波が飛び交っており、まともに聞くことができなかった。ブツブツと切れる。
ライズXで「アラキメンタリ」を見た。
トラヴィス・クローゼ監督のドキュメンタリー映画。(2004年)
荒木経惟を追った作品。アラーキーの精力的な活動や、妻との死別、その愛については、周知の事実であろう。だからそういう面を描かれても、「へえ、そんな一面があったんだ」もないし、「おお、こんな人が存在しているのか」も、もちろん無い。つまらなかったわけではない。でも、アラーキーを追い掛ければ面白いに決まっているので、その予定調和がいかがなものかと思ったのだ。アメリカ人にとってはものめずらしいのかもしれない。
今日は先日ワークルームでピープショーの展示などされた吉田稔美さんのところに泊めていただいた。彼女は学生時代からの友人で、今は国際的にも優れた仕事をされているが、僕の中ではいつまでもその頃の印象が強い。僕の中で彼女は年をとるのを忘れている人なのだ。
吉田邸にて、サラ・ムーンの映画「サーカス」を見せてもらった。途中からマッチ売りの少女の話になってしまう物語。愛しの女性がいなくなり、ピエロが背中に「Fin」と書いて両手に花火を持って去っていくシーンは印象的。情けないけどね。その他、山田勇男のビデオとか、辻直之のアニメとか貴重な秘蔵映像上映会みたいになった。
その他、彼女の秘蔵の人形だの作品だの、ざっと見せてもらった。まだまだありそうだ。ここでも僕は夢の漂流物をかいま見せてもらったことになる。
岩波文庫の『バガヴァッド・ギータ−』
かなり前に、違うバージョンで読んだことがあったが、本書の内容を死神ちゃんに教えてあげようとしたら、おおざっぱなあらすじしか伝えられなかった。ほとんど読んでいないも同然だな、と思ったので、新しい翻訳のものを読んでみた。
表紙には「ひとは社会人たることを放棄することなく現世の義務を果たしつつも窮極の境地に達することが可能である、と説く」と書いてある。僕が以前読んだときもほぼ同様の理解だった。
アルジュナは戦争に際して、なぜ同族同士が命を奪いあわねばならないのか、と悩み、敵の命を奪うくらいなら、むしろ自分の命を奪われる方がいい、と思う。
そのとき、クリシュナがヨーガの秘説を説いて、アルジュナの迷いを断つのだ。
「いったい何のために戦うのだ」と迷い悩む主人公、という図式は後年、ロボットアニメなどでさんざん使われる。
で、ここにそのヨーガの秘説について覚え書きを残しておくべきなのだが、どうも僕にはまだまだ要約が困難なようだ。
人には生まれながらなすべき行為が決まっており、それを見返りなしに行為することが大切なのだ、という教えはわかる。俗世を捨てずに、「窮極の境地」に達する事ができるのだ。
でも、バガヴァッド・ギーターには知識の最高の帰結として、「自己を制御し、音声などの感官の対象を捨て、また愛憎を捨て、人里離れた場所に住み、節食し」「常に瞑想のヨーガに専念し」等々で、ブラフマン(最高の存在)と一体化する、と書いてある。こんなことしようと思ったら、俗世を捨てねばならないんじゃないか。
ヨーガの奥義はわからぬまでも、本書には面白い記述が多々ある。
「純質(サットヴァ)」「激質(ラジャス)」「暗質(タマス)」を三要素という。
純質が増大したときは知識の光明が得られ、純質的な者は油質で腹持ちがいい食べ物を好む。
激質が増大したときは活動、躁状態、切望が生ずる。激質的な者が好むのは、苦く、酸っぱく、塩辛く、刺激性の食べ物だ。
暗質が増大したときは怠慢、迷妄、無知が生ずる。暗質的なものの好物は、前日調理された、悪臭をはなつ、食べ残し。
食べ物の好みで、どの要素(グナ)が多いのかが逆算できるってことだ。
インドの話だから、カレーでたとえると、激辛なんかが好きな人はラジャス的な貪欲で偽善的に尊敬されたがる人物。3日めのカレーが一番旨いなんて言う人はタマス的で、無活動、睡眠がもっとも快楽と思える人物なのだ。
そうか?でも、この本にしたがえば、そうなのだ。
世田谷美術館に「瀧口修造 夢の漂流物」を見に行った。ちょうど『バガヴァッド・ギーター』読了後で、ヨーガの真髄について考えていたときだったので、世田谷美術館に行くのはタイムリーだった。最寄り駅は「用賀(ヨウガ)」なのだ。瀧口修造は詩人であり、現代美術の評論家である。本展では、瀧口自身の作品と、1950年代から70年代にかけて、前衛美術家たちが瀧口修造に贈った作品が大量に展示してある。
大量に展示してある、とわかったのは、見れども見れども出口にたどりつかないからだ。膨大な数の漂流物があったものだ。これは一大現代美術展の様相を呈している。デュシャンにミロに合田佐和子に野中ユリに。
また、瀧口の詩や評論文が展示してあれば、読んでしまう。いくら時間があっても足りない。
だがしかし、よく考えてみると、これら作品は瀧口修造個人に贈られたものが大半のはずだ。美術館サイズの倉庫があるなら別だが、これら漂着物はごちゃごちゃのまま、鑑賞する術もなく堆積していたのではないか。もったいない。ひるがえって自分の部屋の中で堆積したまま冬眠している本の数々を思い出すと胸が痛む。
早稲田に出て、流山児祥原作、高取英脚本、天野天街演出の「テロルのオペレッタ 夢の肉弾三勇士」を見に行った。爆弾三勇士に朝鮮人虐殺に、タイムスリップしてきた真田十勇士が絡む。お客さんの鞄を奪い取って穴の中に投げ込む役者たち、お客さんを拉致して穴に放り込む役者。前日の「邪宗門」で拉致されたお客さんは、客のふりをした役者だったが、今回は、本当に客を無理矢理穴に放り込むのだ。途中で這い出してくる客もまた芝居の一部になってしまう。アングラ演劇ここにあり、という王道だった。これを見ると、寺山の「邪宗門」は綺麗すぎる。泥くさくないというか。でも、それは寺山の特異性を示すものなのだろう。
銀座に出て、資生堂ギャラリーで「ローラ・オーエンズ展」
フェルトや紙など、平面を重ねることで不思議な立体感を持たせた可愛い絵画。
平面プラス平面でアンチ立体を実現している、という感じ。
続けて、プラスマイナスギャラリーで「以心伝心 原倫太郎展」
ポンプをスイッチがわりに押すことで液体を動かし、それがさらに何かのスイッチを入れる、連動型の作品が並んでいる。あるスイッチでは色水がチューブの中を走り、スニーカーの靴ひも(チューブ)に色をつける。あるスイッチでは洗濯機のスイッチを入れて、中のものの様子をカメラで見せる。またあるものはシーソーを動かし、その上をボールが転がることで、別のものをまた動かす等々。何が何のスイッチになっているやら。それは因果関係とかブラックボックスとか、いろんな意味づけが可能だろう。でも、これは芸術を鑑賞するというよりも、おもちゃで遊ぶ感覚に近い。
渋谷に出て、中島らも追悼写真展「彼の世でアンコール!」を見た。
若い頃の写真から、原稿、部屋の再現模型など、中島らもは死んでからも人気がある。
僕は追悼ライブに参加できなかったので、焼香でもするような気分で、記帳してきた。
ポータブルラジオで「現代の音楽」を聞こうと思ったが、渋谷は毒電波が飛び交っており、まともに聞くことができなかった。ブツブツと切れる。
ライズXで「アラキメンタリ」を見た。
トラヴィス・クローゼ監督のドキュメンタリー映画。(2004年)
荒木経惟を追った作品。アラーキーの精力的な活動や、妻との死別、その愛については、周知の事実であろう。だからそういう面を描かれても、「へえ、そんな一面があったんだ」もないし、「おお、こんな人が存在しているのか」も、もちろん無い。つまらなかったわけではない。でも、アラーキーを追い掛ければ面白いに決まっているので、その予定調和がいかがなものかと思ったのだ。アメリカ人にとってはものめずらしいのかもしれない。
今日は先日ワークルームでピープショーの展示などされた吉田稔美さんのところに泊めていただいた。彼女は学生時代からの友人で、今は国際的にも優れた仕事をされているが、僕の中ではいつまでもその頃の印象が強い。僕の中で彼女は年をとるのを忘れている人なのだ。
吉田邸にて、サラ・ムーンの映画「サーカス」を見せてもらった。途中からマッチ売りの少女の話になってしまう物語。愛しの女性がいなくなり、ピエロが背中に「Fin」と書いて両手に花火を持って去っていくシーンは印象的。情けないけどね。その他、山田勇男のビデオとか、辻直之のアニメとか貴重な秘蔵映像上映会みたいになった。
その他、彼女の秘蔵の人形だの作品だの、ざっと見せてもらった。まだまだありそうだ。ここでも僕は夢の漂流物をかいま見せてもらったことになる。
ミュージカルギャラクシーエンジェル、邪宗門
2005年3月19日 演劇東京2日目はまず、新宿サザンシアターで「ミュージカル ギャラクシーエンジェル」を見た。昨日のWのミュージカルとは微妙に色合いの違うファンたちが大勢グッズ売り場に並んでいる。ギャラクシーエンジェルはアニメを見ていて、そのストーリーは大きく評価していたので、今回もミュージカルを見ることに決めたのだ。
伝説のロストテクノロジー「アワーズ」を使って、銀河ケーキコンテスト用にケーキを作ろうとするミルフィーユ。アワーズはまるで泡立て器そっくりなのだ。
ステージは途中でアイキャッチャーが入ったり、リアクションがまるでアニメ調だったり、かつらと衣装がそのままコスプレとしてキャラクターをあらわしていたり、アニメを見ているみたいだった。
キャストに「ウゴウゴルーガ」の小出由華がおり、蘭花・フランボワーズの役をしている。
帰阪後、「ルーガちゃんが出ていたんでしょう?どうなってた」といろんな人から聞かれたが、あんまり印象に残っていない。普通に綺麗なお姉さんに成長しているのだ。それ以上に、大阪在住の僕にとって「ウゴウゴルーガ」がほとんど見たことのない番組で、なじみが薄いということもあるのだろう。
今回のミュージカルで好感を抱いたのは、明坂聡美演ずるヴァニラ・Hだった。
役も役者もどっちも良い。
いずれ写真などを購入したりするんじゃないか、と自分の行動を予測して、おそろしい。
新宿の紀伊国屋書店でかなり長時間にわたって立ち読みなどしていた。いつも行く本屋と並び方が違うので、欲しくなる本も違ってくる。これは刺激的な読書体験だった。
夜からは池の下プロジェクト公演「邪宗門」を見る。
新宿スペース107に行くまでに、「ダメ、ゼッタイ」のムチャチータの看板を見て、以前このあたりを死神ちゃんとうろうろ歩いていたことを思い出してしまった。僕にとって東京は非日常のイベントだ。なのに、大阪にいるときと同じようなことばかり頭に浮かぶのは、何故だ。
「邪宗門」は寺山修司の作品で、黒子が役者を操り、最後には芝居であることを解体してしまう演劇だ。
客席のお客さんがつかまって、無理矢理役を与えられる。悲鳴をあげるお客さん。
客席を走り回る黒子。
桜吹雪が最後の舞台解体で客席に強風とともに吹き付けられ、客は全員桜まみれになる。
僕は最前列で見ていたので、全身桜になった。
僕はこのまま桜に埋もれていたかった。
マルタ君宅に戻る際、夜景の綺麗な長い橋を渡る。一人の移動時には僕はポータブルラジオでFM聞きながら歩くのだが、橋にさしかかったとき、まるで主題歌のようにデヴィッド・ボウイの「スターマン」がかかった。それはまさに天の配剤。長い長い橋を渡りきるまで、僕は涙を流しっぱなしだった。
伝説のロストテクノロジー「アワーズ」を使って、銀河ケーキコンテスト用にケーキを作ろうとするミルフィーユ。アワーズはまるで泡立て器そっくりなのだ。
ステージは途中でアイキャッチャーが入ったり、リアクションがまるでアニメ調だったり、かつらと衣装がそのままコスプレとしてキャラクターをあらわしていたり、アニメを見ているみたいだった。
キャストに「ウゴウゴルーガ」の小出由華がおり、蘭花・フランボワーズの役をしている。
帰阪後、「ルーガちゃんが出ていたんでしょう?どうなってた」といろんな人から聞かれたが、あんまり印象に残っていない。普通に綺麗なお姉さんに成長しているのだ。それ以上に、大阪在住の僕にとって「ウゴウゴルーガ」がほとんど見たことのない番組で、なじみが薄いということもあるのだろう。
今回のミュージカルで好感を抱いたのは、明坂聡美演ずるヴァニラ・Hだった。
役も役者もどっちも良い。
いずれ写真などを購入したりするんじゃないか、と自分の行動を予測して、おそろしい。
新宿の紀伊国屋書店でかなり長時間にわたって立ち読みなどしていた。いつも行く本屋と並び方が違うので、欲しくなる本も違ってくる。これは刺激的な読書体験だった。
夜からは池の下プロジェクト公演「邪宗門」を見る。
新宿スペース107に行くまでに、「ダメ、ゼッタイ」のムチャチータの看板を見て、以前このあたりを死神ちゃんとうろうろ歩いていたことを思い出してしまった。僕にとって東京は非日常のイベントだ。なのに、大阪にいるときと同じようなことばかり頭に浮かぶのは、何故だ。
「邪宗門」は寺山修司の作品で、黒子が役者を操り、最後には芝居であることを解体してしまう演劇だ。
客席のお客さんがつかまって、無理矢理役を与えられる。悲鳴をあげるお客さん。
客席を走り回る黒子。
桜吹雪が最後の舞台解体で客席に強風とともに吹き付けられ、客は全員桜まみれになる。
僕は最前列で見ていたので、全身桜になった。
僕はこのまま桜に埋もれていたかった。
マルタ君宅に戻る際、夜景の綺麗な長い橋を渡る。一人の移動時には僕はポータブルラジオでFM聞きながら歩くのだが、橋にさしかかったとき、まるで主題歌のようにデヴィッド・ボウイの「スターマン」がかかった。それはまさに天の配剤。長い長い橋を渡りきるまで、僕は涙を流しっぱなしだった。
ふしぎ探偵キャラ&メル、ドラジュビス
2005年3月18日 アイドル夜勤明けに新幹線で横浜へ。
辻希美、加護亜依主演のミュージカル「ふしぎ探偵キャラ&メル」の初日だ。
横浜BLITZにたどりついたら、既に開場待ちのファンたちがいる。欲しいグッズを買った後、近くのベイサイド迎賓館をのぞきに行ったら、OHAガ−ルの聖来が歩いていた。なんともまあ、格好良い子だ。「可愛い」という印象でなく、颯爽としていて、「格好良い」のだ。「キャラ&メル」初日だけに、おはスタの仕事があったのだろう。開場して中に入ると、中沢プロデューサーも客席で鑑賞していた。
さて、ミュージカルの中味だが、イリュージョンあり、アクションありで、かなり楽しめた。おそらく毎回変わるであろうアドリブの時間もあって、初日は「キャラメル探検隊」のネタ(レギュラー!)で初日のドキドキを語り、フットサルについての話題をしたり。
犬のマキアートも登場し、達者な演技を披露する。人が背中踏んで通ったり、ドアに当たって気絶する演技したり、挙げ句の果てには、客席に向かって手(前足)を振ったりする。気になったのは、犬とは思えない後肢で、まるで人間が膝をついているような関節の曲り方をしていた。ひょっとしたら人間が中に入っているんじゃないか、と思えた。でも、まさかね。
ミュージカル後にはWのシングル曲メドレーも披露された。
今日、明日と泊めてもらうマルタ君のところで、6月にフランスから来日するドラジュビスの曲を聞かせてもらった。これがまたおもちゃっぽくて可愛いのだ。こういうのはトイ・ポップっていうんだろうか。キリンとかペンギンの着ぐるみで女の子が歌う、ロリポップ。
自分のイベントと重なってしまうので、あいにくとその来日ライブは見に行けないのだが、必見と書いておこう。
辻希美、加護亜依主演のミュージカル「ふしぎ探偵キャラ&メル」の初日だ。
横浜BLITZにたどりついたら、既に開場待ちのファンたちがいる。欲しいグッズを買った後、近くのベイサイド迎賓館をのぞきに行ったら、OHAガ−ルの聖来が歩いていた。なんともまあ、格好良い子だ。「可愛い」という印象でなく、颯爽としていて、「格好良い」のだ。「キャラ&メル」初日だけに、おはスタの仕事があったのだろう。開場して中に入ると、中沢プロデューサーも客席で鑑賞していた。
さて、ミュージカルの中味だが、イリュージョンあり、アクションありで、かなり楽しめた。おそらく毎回変わるであろうアドリブの時間もあって、初日は「キャラメル探検隊」のネタ(レギュラー!)で初日のドキドキを語り、フットサルについての話題をしたり。
犬のマキアートも登場し、達者な演技を披露する。人が背中踏んで通ったり、ドアに当たって気絶する演技したり、挙げ句の果てには、客席に向かって手(前足)を振ったりする。気になったのは、犬とは思えない後肢で、まるで人間が膝をついているような関節の曲り方をしていた。ひょっとしたら人間が中に入っているんじゃないか、と思えた。でも、まさかね。
ミュージカル後にはWのシングル曲メドレーも披露された。
今日、明日と泊めてもらうマルタ君のところで、6月にフランスから来日するドラジュビスの曲を聞かせてもらった。これがまたおもちゃっぽくて可愛いのだ。こういうのはトイ・ポップっていうんだろうか。キリンとかペンギンの着ぐるみで女の子が歌う、ロリポップ。
自分のイベントと重なってしまうので、あいにくとその来日ライブは見に行けないのだが、必見と書いておこう。
14th. moon
2005年3月17日 趣味14th. moonで「モノクロームの本棚〜藤川功二」展を見に行った。
「不思議の国のアリス」や「十二夜」などの挿し絵原画を展示したいた。
奇妙な悪意が感じとれる、面白い作品が並んでいた。
なお、先週来たときに飲んだ「バナナショコラシェイク」は、正しくは「チョコバナナオーレ」だったことが判明した。どうでもいいか。
隣のマニフェストギャラリーで「ENCHANTE」白石千絵展。
音楽だと、日本の作品には日本的なるものをわりと感じ取りやすいのだが、こういうイラストレーションや絵本の作品になると、本当に国籍なんてないんだなあ、と思った。
ギャラリーセンテニアルで原あいみ作品展「ハラショのショ」
これは可愛い、人形とイラストの数々。「ゼクシィ」や「住宅情報」などで立体イラストを見ることができたり、人気者であることが納得できるキュートさだ。作者と思しき人も見かけたが、美人である。
と、いうか、なぜ、僕はまた夜勤と夜勤の合間を縫ってまで、この界隈に来てしまったんだろう。場所の思い出というのが根強く残っているのだ。14th.moonは4月いっぱいで改装工事に入るそうだ。それ以降、僕がこの辺に来るための口実は何かあるのだろうか。改装工事だけに、回想が嵩じるのか。なんちゃってー。
「不思議の国のアリス」や「十二夜」などの挿し絵原画を展示したいた。
奇妙な悪意が感じとれる、面白い作品が並んでいた。
なお、先週来たときに飲んだ「バナナショコラシェイク」は、正しくは「チョコバナナオーレ」だったことが判明した。どうでもいいか。
隣のマニフェストギャラリーで「ENCHANTE」白石千絵展。
音楽だと、日本の作品には日本的なるものをわりと感じ取りやすいのだが、こういうイラストレーションや絵本の作品になると、本当に国籍なんてないんだなあ、と思った。
ギャラリーセンテニアルで原あいみ作品展「ハラショのショ」
これは可愛い、人形とイラストの数々。「ゼクシィ」や「住宅情報」などで立体イラストを見ることができたり、人気者であることが納得できるキュートさだ。作者と思しき人も見かけたが、美人である。
と、いうか、なぜ、僕はまた夜勤と夜勤の合間を縫ってまで、この界隈に来てしまったんだろう。場所の思い出というのが根強く残っているのだ。14th.moonは4月いっぱいで改装工事に入るそうだ。それ以降、僕がこの辺に来るための口実は何かあるのだろうか。改装工事だけに、回想が嵩じるのか。なんちゃってー。
今日は死ぬのにもってこいの日
2005年3月16日 読書
プエブロ・インディアンの古老の言葉をナンシー・ウッドが詩に仕立て上げた本。
自然とともに生きる彼らの生き方、考え方は、アメリカの進めるグローバリズムとは全く違う視点を提供してくれる。
たとえば。
わたしは世界の進歩よりも
一匹のアリの旅行に
もっと深い意味を見た、
世界の進歩なんてものは
今やスタートラインのはるか後方へ落伍している
なるほど。現代資本主義のストレスに疲れている人には、癒しの本になるのだろう。
でも、これって、プエブロ・インディアンに語ってもらわないといけないことなのか?ナンシー・ウッドがプエブロ・インディアンが語ったこととして、自分でいろいろ書いているんじゃないか?インディアンが語ることによって、やっと人々は耳を傾けるから、そうやって出版した方便みたいなもんじゃないか、と思った。
たとえば、読むに耐えない下らない文章でも、脳性麻痺の子供が書いたことにして出せば、それは興味本位であれ何であれ、読まれてしまうのだ。そして、批判のためのネタとして使うためであったとしても、読んでしまったら、読者は思うツボにはまったことに変わりは無いのだ。
この本がナンシー・ウッドの創作であることは間違い無いが、プエブロ・インディアンの死生観、考え方を反映していることは疑いない。
そして、プエブロ・インディアンがどのような人々であるかが無知な僕にとっては、ここに書かれていることは、ナンシー・ウッドによるバイアスがかかっていることを勘定に入れたとしても、興味深い。
自分の人生がわからなくなったときには大地に話しかける、とか、自分の人生はダンスだったとか、いかにもインディアンが言いそうなことだが、インディアン以外にこんなこと言う奴がいても、うさんくさくて、聞く耳もたないのだから、たまにはこういうのを読むのもいいものだ。
実際に共感を覚えるのなら、インディアンみたいな生活をはじめればいい。そんなこと今さら出来ない、というなら、こうした言葉で癒してもらうしかないのだ。
僕などは、この本が70年代にアメリカで大ヒットしたことが、アメリカの駄目っぷりを証明しているのに、あまり軌道修正されていないように思える部分に興味がある。
どうやれば、人の心を変えることができるのだろう。
人の心を変えることが、国を変えることにつながるという一見自明な等式は、成立するのか。
自然とともに生きる彼らの生き方、考え方は、アメリカの進めるグローバリズムとは全く違う視点を提供してくれる。
たとえば。
わたしは世界の進歩よりも
一匹のアリの旅行に
もっと深い意味を見た、
世界の進歩なんてものは
今やスタートラインのはるか後方へ落伍している
なるほど。現代資本主義のストレスに疲れている人には、癒しの本になるのだろう。
でも、これって、プエブロ・インディアンに語ってもらわないといけないことなのか?ナンシー・ウッドがプエブロ・インディアンが語ったこととして、自分でいろいろ書いているんじゃないか?インディアンが語ることによって、やっと人々は耳を傾けるから、そうやって出版した方便みたいなもんじゃないか、と思った。
たとえば、読むに耐えない下らない文章でも、脳性麻痺の子供が書いたことにして出せば、それは興味本位であれ何であれ、読まれてしまうのだ。そして、批判のためのネタとして使うためであったとしても、読んでしまったら、読者は思うツボにはまったことに変わりは無いのだ。
この本がナンシー・ウッドの創作であることは間違い無いが、プエブロ・インディアンの死生観、考え方を反映していることは疑いない。
そして、プエブロ・インディアンがどのような人々であるかが無知な僕にとっては、ここに書かれていることは、ナンシー・ウッドによるバイアスがかかっていることを勘定に入れたとしても、興味深い。
自分の人生がわからなくなったときには大地に話しかける、とか、自分の人生はダンスだったとか、いかにもインディアンが言いそうなことだが、インディアン以外にこんなこと言う奴がいても、うさんくさくて、聞く耳もたないのだから、たまにはこういうのを読むのもいいものだ。
実際に共感を覚えるのなら、インディアンみたいな生活をはじめればいい。そんなこと今さら出来ない、というなら、こうした言葉で癒してもらうしかないのだ。
僕などは、この本が70年代にアメリカで大ヒットしたことが、アメリカの駄目っぷりを証明しているのに、あまり軌道修正されていないように思える部分に興味がある。
どうやれば、人の心を変えることができるのだろう。
人の心を変えることが、国を変えることにつながるという一見自明な等式は、成立するのか。
写真にコメントをつけるお得意のシリーズ。
掲載誌が『EQ』だっただけあって、トマソンとは違って、日常の謎を解くミステリーを読んでいるかのような味わいがある。
写真を見せただけで、説明なしで笑えてしまうのではなく、何でもないように思える写真の中に、謎を見い出すのだ。おそらく、写真だけを見せられたら、単なる風景写真集として、見過ごしてしまうだろう。
たとえば、「東南アジア(仮)」では、都内で撮った草むらの写真に、タイ土産の猫の置き物を配置して、たちまちそれが東南アジアの風景写真になってしまうことを語る。
「風景のリズム」で本人も書いているように、「それがどうした、といわれても、どうもしてない。それがどうした問題と、気持ちいい問題とは、ときどき食い違うのである」
掲載誌が『EQ』だっただけあって、トマソンとは違って、日常の謎を解くミステリーを読んでいるかのような味わいがある。
写真を見せただけで、説明なしで笑えてしまうのではなく、何でもないように思える写真の中に、謎を見い出すのだ。おそらく、写真だけを見せられたら、単なる風景写真集として、見過ごしてしまうだろう。
たとえば、「東南アジア(仮)」では、都内で撮った草むらの写真に、タイ土産の猫の置き物を配置して、たちまちそれが東南アジアの風景写真になってしまうことを語る。
「風景のリズム」で本人も書いているように、「それがどうした、といわれても、どうもしてない。それがどうした問題と、気持ちいい問題とは、ときどき食い違うのである」
BEARSにライブ見に行く。
自分BOX with ララボンゴ , みゆき4世紀 , いちご時代 , アリスセイラー&HIDE with 山崎春美
以上のラインナップ。
うむ。面白い。
自分BOXは安定した不安定さで、見ていて気持ちがいい。
みゆき4世紀はティンゲリーかと思わせるグッド・ノイズ。
いちご時代は、5才児ポップでヨカ!
アリスセイラー&HIDE with山崎春美。これはすごかった。アリスセイラーはアングラロックの女王降臨!HIDE一人舞台!山崎春美十八番の海老シャウト!どれもこれもすごい。見どころばかりで、捨てるところがない。まるで、クジラだ。クジラは海の王様だ!
僕も乗ってきて、15年間、あまりにも危険ゆえに封印していたダンスを踊ってしまった。何が危険かというと、「あいつはアブナイ」とカタカナで言われるような危険さなのだ。なーんだ。
ライブ中、ちょっと抜け出して、ラジオを聞いた。午後7時45分からの「ラジチャイム」(ラジオ関西)だ。これは、こどもモデルのエンジェルプロの番組で、今日の「密着ジュニアモデルの素顔」コーナーでは、社長とともにユリエちゃんがインタビューにこたえていた。ユリエちゃんはミュージカルのオーディションに受かったそうだ。モデルの仕事をして、モデル友達が増えて、よかった、と思っているそうだ。
まあ、小学生だから、この程度のインタビューだろう。
インタビューといえば、スタジオSTSライブにスペシャルゲストで出て来てインタビュー答えていた栃東関が、まったく勝てないじゃないか。
ジュニアアイドルイベントに来ると負ける、というジンクスでもあるのか?
自分BOX with ララボンゴ , みゆき4世紀 , いちご時代 , アリスセイラー&HIDE with 山崎春美
以上のラインナップ。
うむ。面白い。
自分BOXは安定した不安定さで、見ていて気持ちがいい。
みゆき4世紀はティンゲリーかと思わせるグッド・ノイズ。
いちご時代は、5才児ポップでヨカ!
アリスセイラー&HIDE with山崎春美。これはすごかった。アリスセイラーはアングラロックの女王降臨!HIDE一人舞台!山崎春美十八番の海老シャウト!どれもこれもすごい。見どころばかりで、捨てるところがない。まるで、クジラだ。クジラは海の王様だ!
僕も乗ってきて、15年間、あまりにも危険ゆえに封印していたダンスを踊ってしまった。何が危険かというと、「あいつはアブナイ」とカタカナで言われるような危険さなのだ。なーんだ。
ライブ中、ちょっと抜け出して、ラジオを聞いた。午後7時45分からの「ラジチャイム」(ラジオ関西)だ。これは、こどもモデルのエンジェルプロの番組で、今日の「密着ジュニアモデルの素顔」コーナーでは、社長とともにユリエちゃんがインタビューにこたえていた。ユリエちゃんはミュージカルのオーディションに受かったそうだ。モデルの仕事をして、モデル友達が増えて、よかった、と思っているそうだ。
まあ、小学生だから、この程度のインタビューだろう。
インタビューといえば、スタジオSTSライブにスペシャルゲストで出て来てインタビュー答えていた栃東関が、まったく勝てないじゃないか。
ジュニアアイドルイベントに来ると負ける、というジンクスでもあるのか?
ダンシングBANANA、ヒロこてん
2005年3月13日 アイドル
朝からなんだか寒いけど、ハローモーニング見た後、鶴見はなぽーとブロッサムに行く。おお、途中から雪が降ってきた。
目的は、ダンシングBANANAのライブ。2回ステージがあり、僕が見たのは2回目のみ。しかも、駅の出口を間違えたので、辿り着くのが遅れ、メンバーが自己紹介をしている最中に到着。
自己紹介後は、元気メドレー、キセキ、真実の宝石。
川崎クラブチッタでのロコドルフェスティバルの宣伝など。
4月30日。行きたいなあ。
このブロッサムのステージは、野外というわけではないのだが、完全に屋根に覆われているわけでもない。おりから降りを強めた雪がフワフワと降り込んできて、さながらよく出来た舞台演出であるかのような効果をあげていた。
ミナミに戻って、堀江のARTHOUSEで「ヒロこてん」
1階の恋文展ものぞく。ホワイトデーのシーズンなので、男のアーチストがオリジナルの便箋でラブレターを書いている。うわあ、喉がかゆい。こんなの女の子に送ったら、「さぶっ」と気持ち悪がられること必至である。宛先を母親にしているような、姑息なまねをしているのもあった。逃げるな!いや、しかし、実際に恋文書くときは、こんな手紙書いてしまうんだろうなあ。それが恋文の醍醐味だしなあ、とアンビバレントな思い。恋文出すのって、自分の気持ちを伝える以上に、「一緒に狂ってくれませんか」というリトマス試験紙みたいなものなんだ、と思い至った。
さて、2階はヒロこてん。靴脱いであがる。可愛いものに囲まれた女の子の部屋がそこにあった。かつて僕はこんなキュートでキッチュな部屋で、女の子と何ヶ月も一緒にいたことがあった。そのときの甘酸っぱい気持ちが甦ってくる。そのときの僕は恥ずかしながら、渋谷系というか、村上春樹というか、そんな恋愛関係の中にいたのだ。
ケッ、そんなことはどうでもいいや。
ヒロこてんは、可愛い靴下や可愛いバッグや可愛いシールや可愛いぬいぐるみや可愛いコミックや可愛い絵などでいっぱいだった。
ここで住みたい、と思った。ひとりではいやだけど。
気をきかせてくれたのか、モダンチョキチョキズの「ボンゲンガンバンガラビンゲンの伝説」がBGMで流れてくる。うわあ、久々に聞くと、これ、めちゃくちゃ名盤じゃないか。こんなバンドが今いたら、絶対におっかけする、と感動。こんな名曲に日常接していた、モダチョキ時代ってのは、僕にとっては宝なんだな、と思った。でも、おい、僕が詩の朗読してるとこ、カットしてなかったか?
ヒロこてんから出たら、モダチョキのホーン隊をまとめていた河村くんが、チンドンやってるのに遭遇した。おお。意味のある偶然の一致ってやつか。河村くんはラブホテルのビラをくれた。これ、いつ使えるのやら。
目的は、ダンシングBANANAのライブ。2回ステージがあり、僕が見たのは2回目のみ。しかも、駅の出口を間違えたので、辿り着くのが遅れ、メンバーが自己紹介をしている最中に到着。
自己紹介後は、元気メドレー、キセキ、真実の宝石。
川崎クラブチッタでのロコドルフェスティバルの宣伝など。
4月30日。行きたいなあ。
このブロッサムのステージは、野外というわけではないのだが、完全に屋根に覆われているわけでもない。おりから降りを強めた雪がフワフワと降り込んできて、さながらよく出来た舞台演出であるかのような効果をあげていた。
ミナミに戻って、堀江のARTHOUSEで「ヒロこてん」
1階の恋文展ものぞく。ホワイトデーのシーズンなので、男のアーチストがオリジナルの便箋でラブレターを書いている。うわあ、喉がかゆい。こんなの女の子に送ったら、「さぶっ」と気持ち悪がられること必至である。宛先を母親にしているような、姑息なまねをしているのもあった。逃げるな!いや、しかし、実際に恋文書くときは、こんな手紙書いてしまうんだろうなあ。それが恋文の醍醐味だしなあ、とアンビバレントな思い。恋文出すのって、自分の気持ちを伝える以上に、「一緒に狂ってくれませんか」というリトマス試験紙みたいなものなんだ、と思い至った。
さて、2階はヒロこてん。靴脱いであがる。可愛いものに囲まれた女の子の部屋がそこにあった。かつて僕はこんなキュートでキッチュな部屋で、女の子と何ヶ月も一緒にいたことがあった。そのときの甘酸っぱい気持ちが甦ってくる。そのときの僕は恥ずかしながら、渋谷系というか、村上春樹というか、そんな恋愛関係の中にいたのだ。
ケッ、そんなことはどうでもいいや。
ヒロこてんは、可愛い靴下や可愛いバッグや可愛いシールや可愛いぬいぐるみや可愛いコミックや可愛い絵などでいっぱいだった。
ここで住みたい、と思った。ひとりではいやだけど。
気をきかせてくれたのか、モダンチョキチョキズの「ボンゲンガンバンガラビンゲンの伝説」がBGMで流れてくる。うわあ、久々に聞くと、これ、めちゃくちゃ名盤じゃないか。こんなバンドが今いたら、絶対におっかけする、と感動。こんな名曲に日常接していた、モダチョキ時代ってのは、僕にとっては宝なんだな、と思った。でも、おい、僕が詩の朗読してるとこ、カットしてなかったか?
ヒロこてんから出たら、モダチョキのホーン隊をまとめていた河村くんが、チンドンやってるのに遭遇した。おお。意味のある偶然の一致ってやつか。河村くんはラブホテルのビラをくれた。これ、いつ使えるのやら。