BABY BABY

2007年7月16日 読書
ISBN:4289021484 単行本 川島 小鳥 新風舎 2007/04/20 ¥2,625
川島小鳥の写真集『BABY BABY』
1人の少女を長期にわたって追いかけて写真に残した作品。
1冊の中で、季節は変わり、少女のファッションや髪型も変わる。
読み終えたときに感じる甘酸っぱい気分は、終わってしまった恋愛をふりかえったときに感じるものに近い。
巻末に、被写体になった少女からの手紙が紹介されていた。
写真集の中の自分は既に何年も前の自分である。
僕はルイス・キャロルの被写体になったアリス・リデルが長じて後に書いた文章を想起していた。
そこには既に少女ではない女性が存在していた。
あるいは、沢渡朔の『少女アリス』の被写体になった少女を、何年か後に撮影して1冊の写真集にしたとき、そこには既にアリスでもなんでもない女性が存在していた。
アリスは写真におさめることで、アリスで在り続けることができるが、逆に、アリスがいかに非アリスにたやすく変わっていってしまうものかを思い知らされてしまう。
『BABY BABY』の少女はこの写真集を見て、泣いた、という。
自分が変化してしまったことに思い知らされただけではないだろう。当時気づかなかったことが、今、こうして写真集として見ることで、多くの伏線としてゴロゴロ転がっていたことに気づいたにちがいない。
被写体になった少女は、ダテに川島小鳥をひきつけていたのではない。
今でも素晴らしい女性であることが、その手紙からはビンビン伝わってくる。
川島小鳥は、とても幸せな人だと思う。
よかったね!
信長書店で「もっとペロキャン!ワンコインぷちライブvol.7」
今日は体操服で登場。
1.ねぇ、わかんない?
2.ズッコケ男道
3.キラキラ
4.スマイル:)
5.Pa-La-La
撮影タイムは3分。
8月にできる心斎橋ルイードでライブが決定したらしい。
今日はまず、持病(心臓病)の薬をもらいに某クリニックに。
老人のたまり場になっている。

ラウンディッシュギャラリーで「まぜたらグレイ展」
パンダを題材にした展覧会。
参加作家は、いぬんこ、岡野キャロ、奥田扇久、葛城真、坂口知香、田岡和也、高野昇、竹岡亜依子、玉村升一、チチ松村、チャンキー松本、豊川藍、ナカシマサヲリ、福田利之、松本藍沙、弓削ナオミ、bonbon、garak graphic、MIC*ITAYA、YURI
コパンダや抽パンダたちのサファリパーク!
自然遊園地にいるような感覚で、しばし時間を忘れてくつろぐ。

ARTHOUSEでKINOKOSUPAのマリオネット&ドール展
入るなりマリオネットがお出迎え。
来場中のMILさんにも会えた。
今、僕がやっているユニット「カラモン」にとってとても参考になり、刺激になる展示だった。
2階は「CD!CD!!CD!!! 音があふれ出す、アートジャケット展」
自分の作風をただCDジャケットサイズにおさめただけの作品もあったが、なかにはドキッとするほど音楽を感じる作品もあった。
きっとその作者はふだんから音楽好きなんだろうと思われる。名前を忘れてしまったのが残念だ。モノクロでマイケミカルロマンスとか描いてたかな?

台風が接近していたため、今日のSTSライブは開場、開演が15分ほど早くなっていた。
第1部
1.Open Your Mind/ジュニアスペシャルダンスチーム
2.ラヴ・イズ・マジック/ペトラキッズ(新レパートリー)
3.DEAR FRIEND/プリティーズ
4.A Perfect Sky/キューティーミニ
5.Tic Toc/ジュニアダンスチーム2
6.Possesion/トレード
7.Caught Up/アーミーズ(新レパートリー)
8.SHOW TIME/ステッパーズ
9.THE美学/チックス
10.ツヨクツヨク/あいな&ひより(新ユニット、新レパートリー)
11.TOXIC/スーパーバブルズ
第1部
1.桜援歌(オウエンカ)/忍者選抜
2.Kitto.../ミューズ
3.ミッキーマウスマーチ〜ミラクルナイト/ミニミニclub
4.A Street Story/タイフーンJr.&ラズベリーズ
5.nothing’s gonna change my love for you/ナオセレクト(新レパートリー)
6.Love is A Merody/クランベリーズ
7.COLOR OF SEASON/Twinkle☆Petal
8.タイムリミット/TOUCH
9.Breakin’ out to the Morning/プリッツ
10.don’t you wanna see me(oh)tonight/ブラックベリーズ
11.Garnet Moon/ブラックベリーズ

前回の人気投票でも1位はブラックベリーズだった。まあ、あれだけのダンスの実力と歌唱、セクシーさをもってすれば、当然の結果とも言えるのだが、対抗できるだけのライバルが出て来てくれた方が、見ている客としては、楽しい。
今回のライブから、プリッツからミホカが抜けて、あいなが入った。あいなはジュニアスペシャルダンスチ−ムなどの選抜ユニットだけでなく、正規のユニットでも、プリッツとあいな&ひよりの掛け持ちになった。
ミニミニclubのメドレー(1曲めと2曲めとで若干のメンバーチェンジがある)もスペシャルな感じ。
全体を見て、一番アピール力があったのはミューズで、これも実力から言って当然。
人気投票では、プリッツ、TOUCH、チックスを選んだ。
プリッツを見ると、残虐な大人たちと闘うビビアンガールズを連想させる。カッコイイ。
TOUCHは新曲を早く聞きたい。
チックスは最近すごい。そんなに年もはなれていないはずの、プリッツやTOUCHと比べても、進化したアンファンテリブルを予感させる。なんだか、難しいこともやすやすとこなしてしまっているようなニュータイプぶりがうかがわれるのだ。

タオル戦争

2007年7月13日 ライブ
なんばBEARSで毎月のようにやっているイベント、今月は「タオル戦争」と題して、不思議ライブを行いました。
出演は、
カラモン
野中ひゆ
おとぎの夢GARDEN☆
丼野M美
No.305
はらいそ
野中ひゆ無意味制作所
トンボ
にい○ま○○じ

僕はカラモン(カラフルモンスター)として、無数のぬいぐるみで顔を包んで、哲学書を朗読、コロコロで会場を掃除した。
多くの出演者がいるようだが、10組程度では「少ない」と思ってしまうほど、怒涛の展開に慣れてしまっている。
打ち上げはやっぱり朝まで。

次回は8月17日に「のどじ MEN」
のどじまん形式のライブをする。
既に、いくつかの罠が仕掛けてあって、愉快愉快。
ISBN:4150308004 文庫 toi8 早川書房 2005/06/09 ¥630
今度は格闘ゲームだ!

浮いた体にリッキーはパンチ。パンチ。キャンセルしてから肘打ち。しゃがみパンチ。倒れたテツオへの追い打ちはせず、リッキーは後方に下がって距離をとる。

こういう格闘シーンが半分以上を占める。
攻撃後硬直とか、キャンセル技とか、実際にはありえないことが、いや、実は僕たちの現実ではありうるんだよ、と思う。
腕を持って投げられたら、ロープもないのに、はねかえって来てしまうが、それはプロレスですりこまれたまぎれもない現実だ。
倒れたときに起き上がるのは、ゲームですりこまれたとおりに、回転しながら立つのである。
カンフー映画見たあとにハリウッドの普通のアクションシーンを見ると、とても野卑に感じる。
総合格闘技見たあとに一般人のケンカを見ると、隙だらけで非現実感すら覚える。
現実は常に書き換えられているのだ。
ISBN:402273132X 新書 蔵 研也 朝日新聞社出版局 2007/02 ¥756
蔵研也の『リバタリアン宣言』を読んだ。
1、日本の政治の現状とリバタリアニズム
2、リバタリアンな社会とは
3、リバタリアンの倫理
4、国家の起源とアナーキズム
5、社会契約説を再考する

リバタリアンは自由至上主義。
セットミーフリー!
国家が制度をととのえて国民を守る「クニガキチント」の発想は誤りだということを説いている。
本書の面白いところは、「リバタリアンの考え方にも功罪があるが、でも、今のこのひどい状態よりはマシじゃないか」というような論法がよく使われていることだ。現状のひどさを例に出すことで、多少は納得せざるをえないような仕組みになっているのだ。
生物学的な記述からリバタリアンを導きだそうとしたり、あるいは、明らかに誤解を招きそうな書き方をしてみたり、読者は本書が仕掛けてくる「隙」にツッコミをいれたくなる罠についとらわれてしまう。
なかなかうまい書き方だな、と思った。
ISBN:4844134574 単行本 声優アイドル&アニソン研究室 雷鳥社 2006/11 ¥1,260
このまえインストアライブで見たユニット。
アイドルユニットとしてのステージは見たけど、声優としての活躍はあんまりしらないので、ぜひとも頑張って、ビッグになってほしい。
心斎橋のインストアでは、アクシデント多発で、そういうときの切り抜け方は、うまくこなせていたと思う。

ALL YOU NEED IS KILL

2007年7月9日 読書
ISBN:4086302195 文庫 桜坂 洋 集英社 2004/12 ¥600
桜坂洋の『All You Need Is Kill』を読んだ。
主人公キリヤ・ケイジは、ギタイと呼ばれる敵相手に戦争する1日を何度も繰り返す。
死ねばまたリセットされて同じ日がはじまる。
記憶は残っているので、あえて違う行動をとってみても、自殺しても、逃げ出してみても、結局その日のうちに死ぬことに変わりはなく、同じ日に戻ってしまう。
キリヤは、ゲームのように、戦いの訓練を積んで、このループから逃げ出そうとする。
スーパーマリオがリセットすると体力が初期値に戻るように、キリヤが訓練しても元の日に戻ると、筋力などはアップしていない。
つまり、これはゲームの世界を生きることになった人間を描いた小説なのだ。
何度もループを繰り返すうちに、この世界を学び、コツをつかんでいく。
この本を読んで共感を覚えるのは、多かれ少なかれ、自分が人生というものをゲーム的にとらえているからだろう。
よくワイドショーなどで、少年犯罪者に対して「現実とゲームの区別がつかない」などと非難するが、正直いって、僕はその1人だ。そういうコメンテーターの言葉を聞くと、「現実をゲームと混同するなんて、ゲームに対して失礼だ!」と思う。
ただ、僕はそれを「ゲーム」という言葉では考えておらず、「表現者」という言葉でとらえていた。自分が次に何をし、何をしゃべるかは、「保山宗明玉なら次はどうするのが一番面白いのか」を考えて、行動している。みんなはそうじゃないの?
東心斎橋FANJで「Girls Panic IDOL」

まずは4LC(4 leaf clover)
元いちごっ娘の4人が結成したユニット。
ダンスの素晴らしさは健在。
もっともっとライブを見たい。

メアリーエンジェル
「あいたかった」
オリジナルの「ファーストステップ」
「リアリティー」
オリジナルの「エンジェルウィング」
「ここにいるぜぇ」
まで、まったく隙がない。
小学生アイドルとして、最強!
と、いうことは、アイドルとして最強!
と、いうことは、人として最強!

ペロペロキャンディーズ
1.パララ
2.あんぶれら
3.キラキラ
4.スカートひらり
5.ねぇわかんない
正統派アイドルとして成長いちじるしいペロキャン。
誰がペロキャンのことを「正統派」だなんて予想しえただろう。
オタク寄りの超ローカルアイドルだとたかをくくっていたけど、今ではアイドルというと「ペロキャン」と連想が働くまでの存在になった。
メンバー4人、捨てキャラ無し。

carat
安心感のあるアイドル。
リサの誕生日サプライズあり。
BoAとかタッチとか
マイハートゴーズアウェイとかフライハイとか。

H@chi
ココロノチズ
レッツパーティ
笑顔の元気
ビリーブ
スターウェイブ
なんとまあ、盛り上がること、盛り上がること。
客を乗せるテクニックは一番!
H@chiはファッションセンスに難がある、という欠点があるのだが、いつのまにか、そんなことどうでもよくなって、ノリノリになっている自分に気づいて、「まいった!」と感心することしきり。

mimica
アイドルではなく、シンガーソングライターの彼女、ストリートで聞けば文句なく多くの人をひきつける力を持っている。
「くっつきんぼ」「ロマンスカー」「タ−ボ」などなど。
タオルをぶんぶん振り回すアクションもライブ感を盛り上げる。

ライブ後の物販では4LCのバッヂを購入。
くじに当たってメンバーの写真もらったり、おいしいメープルパンもらったり、と、サービス満点だった。

ライブ終了後、外に出て携帯ラジオ聞くと、シベリウスが流れていた。
帰宅後は、「現代の音楽」で西村朗。聞いているうちに意識が遠のいていく。
『死者の書』を題材にした音楽で、知らず識らずのうちにトリップしてしまったようだ。
文芸漫談−笑うブンガク再入門〜Milky Way
アリオ八尾に行って、いとうせいこうと奥泉光の対談「文芸漫談−笑うブンガク再入門」を見て来た。
内容は主に奥泉氏が「文学力」について講義し、それにいとうせいこうがフォローしたりツッコミ入れたりする形式。
文学力というのは、暴力や経済力などと同様、人を動かす「力」でもあるが、奥泉氏が主張したいのは、人の感情を動かす力に対して働く対抗力のこと。お涙ちょうだいの安っぽい感動にホイホイとだまされず、しっかりと批評できるだけの力を持つことを指している。
トークの最後に、それぞれが、文学力をつけるための本ベスト3をあげていた。
奥泉光は1『旧約聖書』2『悪霊』3『吾輩は猫である』
いとうせいこうは1『トリストラム・シャンディ』2『日輪の翼』3『アフリカの印象』
いとうせいこうがあげた本は、買ったまま「次に読もう」として数年以上経過しているものなので、近いうちに読んでみよう。

おたくの殿堂で「milky way」
全部で10組のアイドルが出場するイベント。
SAKURAん/歌とMCのギャップがナイアガラ級。倖田來未など3曲。
さやん/猫?豹?耳。2曲。
唯×実/殺陣をつかったシアトリカルなステージ。タッチなど歌う。男装の腐女子ユニット。
MIZUKA/濃縮テクノ。PPPH(ピーチピンクピュアハート)とかアイドル光線キラなど4曲。
蒼緑里/ハガレン!
いちごのつぶ/ギターと打楽器の癒し系ユニット。七夕にちなんで星を歌った曲を3曲。まさに珠玉のステージである。
妃千さくら/ブランニュー、恋をしようよ、の2曲。
Yesss!/ サクラ大戦、め組、おジャ魔女ないしょの3曲歌う。ダンスに力が入っているユニットなんだな、と実感。
城奈菜美/オーバーロード、巡想月〜メグルオモイツキニ〜など3曲。ジークシロン!
ペロペロキャンディーズ/浴衣姿。スマイル、わたしがオバさんになっても(あゆ)、スカートひらり(カナ、あかり、あすぴ)、ねぇわかんないの4曲。

ゲームコーナーのクイズでは、引っ張り出されて答えた。めぞん一刻の登場人物には数字がついているが、6は誰?というもの。僕はめぞん一刻はコミックスを15年ほど前に読んだっきりで、映画は見たけど(1986年)、アニメもドラマも見てなかったので、登場人物の名前まで覚えてなかった。たとえて言えば、赤塚不二夫の『ワルワルワールド』の内容を今、思い出せないのと同じ程度の距離感なのだ。当時、よく一緒に遊んでいた中学生(女子)に「保山さん、四谷さんに似てるな」と言われたことがあって、四谷さんだけは覚えていたが。正解は六本木朱美だったが、間違うにしても、「斎藤清六」はなかったな。と、反省。こういうところで非オタクの僕は馬脚を露わしてしまう。
今回のイベントは、名古屋からのアイドルが多く、そのほとんどはコスプレアイドルのノリだった。アニメソング中心で、お客さんをのせて自らもオタクであることを隠さない、というステ−ジ。一方、関西からのアイドルはいくぶんオタク寄りではあるが、名古屋組のようなど真ん中ではなく、その対比が面白かった。
DVD バップ 2003/12/21 ¥5,040 スタジオジブリの大ヒット作『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』で作画監督を務めた高坂希太郎の監督デビュー作。故郷アンダルシアで開かれる一大自転車レースに参加するペペ。しかしレース当日は、彼の元恋人と兄の結婚式と重なってしまい、さらにレースの最中、彼は無線で、スポンサー企業から解雇される話を聞いてしまう。 過剰な…

「過剰な…」何だろう?上のは、「茄子アンダルシアの夏」の説明文でした。
さて。
「現代美術インディペンデントCASO展2007」を見て来た。前半後半で作者、作品の入れ替えがあり、今回は前期。アンデパンダンの展覧会ではあるが、どうしようもない作品や、滅茶苦茶なインパクトのものはなかったように思う。
作家は次のとおり。
七海壽
ブワン
勝木繁昌
松野智樹
長島聡子
橋本浩子
三木由也
むかいえつこ
中川雅文
山内雅裕
森田大晋
川崎輝彦
平良優紀子
山原晶子
多くの作家が80年代生まれで、70年代、60年代はごく少数。若い世代の現代美術展になった。
面白いなあ、と思ったのは、なんといっても長島聡子(紋をモチーフにしていた)で、次いで勝木繁昌(ミサイル)中川雅文(神秘的コラージュ)あたりか。長島聡子は、今回の展示作品にはあまりピンとこなかったが、今までの作品を見て、ただごとではない想像力を感じた。その目でまた作品を見直すと、新たな文脈で作品が見えてくる。勝木、中川両氏は、不思議な個性の持ち主のようだ。突き抜けたインパクトはないものの、逆に、そのモタモタしているところに魅力を感じてしまった。
他の作家の作品はきれいだったり、可愛かったりするのが多くて、見に来てよかった、と思った。
また、CASOでは現代美術の作家展も同時に開催しており、藤本由紀夫、李禹煥、荒川修作、大島成巳、河口龍夫、山口啓介、横尾忠則の作品が展示してあった。こうして見ると、この人たちの作品は、個性強いわ。

今日はいくつか用事でうろうろまわったあと、帰宅して録画しておいたアニメ映画を見た。簡単に。
「茄子アンダルシアの夏」は黒田硫黄原作、高坂希太郎監督。サイクルレースと、土地や血の軛をからませて描いた作品。今日はアニメ映画を3本見たのだが、出色の出来だ。
「カクレンボ」はYAMATOWORKS(森田修平&桟敷大祐)の作品。こういうのがジャパニメーションとして外国人には評価されるんだろうな、と思う。
「ほしのこえ」は新海誠の作品。時代設定は近未来だが、描かれる世界は近過去。いわゆるセカイ系のお手本みたいな作品だけに、今見ると、古典的な味わい。

13日(金)になんばBEARSで「タオル戦争」というライブイベントを企画しており、僕も「カラモン」(カラフルモンスター)という新ユニットでパフォーマンスする。かなり期日は迫っているのに、まだやらねばならないことが山積みで、今日は1日かけて頭のかぶりものを製作した。
パフォーマンスの内容は、マリーニ*モンティーニがストローブ=ユイレやってるみたいなイメージ。

手塚治虫とボク

2007年7月5日 読書
ISBN:4794215673 単行本 うしお そうじ 草思社 2007/03/21 ¥1,890
うしおそうじの『手塚治虫とボク』を読んだ。
第1部 みんな赤本を描いていた
 第1章 予期せぬ出会い
 第2章 ボクの赤本デビュー
 第3章 大阪から東京へ
第2部 人気漫画家という仕事
 第4章 友情のはじまり
 第5章 編集者たちとのつきあい
 第6章 福井英一との確執
 第7章 悪書追放運動
 第8章 手塚治虫の遺言
第3部 動く絵に魅せられて
 第9章 手塚治虫のアニメ志願
 第10章 マンガ映画に殉じた人びと
 第11章 アニメーター手塚治虫
 第12章 マグマ大使誕生秘話
 終章 手塚治虫との訣れ
兄うしおそうじのこと/鷺巣政安
あとがきにかえて−この本のこと/長谷川裕

うしおそうじは2004年に82歳で亡くなっている。生前にまとめる予定だった本書が2007年になってやっと出版された。文章のはしばしから、元原稿にあったと思われる重複、脱線、思い違い、誤字などが余韻として伝わってくる。(あとがきによると、元原稿は1000枚あったという!そのまま出版していたら、ドグラマグラだ!)
うしおそうじの本だ、というだけで貴重だが、内容もよくぞ書きのこしてくれた、というものだった。
いくつか、メモを残しておこう。

(東宝争議で)「会社は整理した東宝教育映画および動画メンバー百人余にPCL創立時のスタジオを与え、全機材と運転資金を貸与して、独立採算制を敷いて面倒をみた。しかし、ボクは十年間(うち2年半は軍隊)夢中で働いた東宝砧撮影所をスッパリ辞めた。そして争議中アルバイトとして手がけた漫画を誰に気遣うこともなく身を入れてやることにしたのだった」
漫画家、うしおそうじの本格デビューのいきさつ!

「鶏口となるも牛後となるなかれの逆をいく意味で、牛の尾のあとを走るということで牛尾走児とペンネームを決めます」
ペンネームの由来!

「ボクが3本のペンを取っ替え引っ替えして描くのを、手塚はたった1本のペン先で極太、中細、極細とサラサラと描き分けてしまうのである」
「われわれ漫画家仲間のほとんどは、8ページの1枚目のタイトルから、ノンブルどおり1コマ目2コマ目と順序よくペンで仕上げていくのが常套なのに、手塚のペン入れは奇想天外であった。たとえば5ページ目の上から3段目の右から2コマ目から仕上げ、次は3ページ目の下から2段目の左隅を仕上げ、(中略)というように、京の五条の橋の上、こーこと思えばまたあちらと、まるで牛若丸のごとく跳び跳びに埋めてゆきながら8ページ分描き終わる。
仕上がりを見せてもらうと、驚くべきことに整然と、毛ほどの隙もなく完璧に仕上がっていて、文句のつけようもなかった」
手塚の神業!現代の漫画家はどうなの?

近藤日出造『子供漫画を斬る』から
「俗悪な子供漫画は大阪がもとである。だいたい大阪人というものがそういうものだ。売れて金さえ儲かればそれでいいという恥知らずなのだ。その恥知らずのつくったのがこういう赤本漫画だ。赤本が売れて法隆寺が焼ける。それが今の日本の姿だ」
この文は1956年に書かれているが、50年以上過ぎた今でも、大阪に対する印象は、変わっていないと思う。いや、まったくその通り。われわれ大阪人は恥知らずだし、もっと俗悪な漫画をジャンジャン描いてほしいものだ。

大宅壮一が手塚との対談で言った言葉
「それじゃあ、ちょうど、華僑みたいなもんだね」
「つまり、出稼ぎではなしに、他所で暮らしながら国へ送金する人種ですよ。あなたは大阪だから阪僑とでもいいますかな」
大阪はやっぱり攻撃の対象になっちゃうなあ。
で、それに呼応して、大阪では母親たちが
「子供たちから取り上げた漫画雑誌や別冊漫画を、初夏の中之島公園広場に山と積み上げて火を放った。白昼堂々の焚書である」
いつでも文化の敵は親だと相場が決まっている。

大丈夫か、と思ったのは、ここ。
手塚の結婚披露宴二次会で
「宴たけなわになり幇間の出番となって、一同期待のうちにお得意の座敷芸がはじまったが、この幇間の芸がなんとも半端で盛り上がらず、最後に下ネタの陳腐な芸をやってお開きであった。なんたることかとまったく腹が立った」
その前のページには、この二次会に参加した面々の集合写真が見開きで載っているが、件の幇間もちゃんと写っている。誰のことだか特定できちゃうじゃないか!いいのか?
そういえば、友人に「幇間になればいい」と真剣に言われたことがある。僕にたいこもちになれ、と?そんなにふだんからいろんな人にヨイショしてるのか、僕は!と、自己認識を新たにした。

アニメーター村田安司(「蛸の骨」「文福茶釜」「蛙は蛙」「おいらの野球」「かうもり」「猿正宗」など)について
「映画俳優の江川宇礼雄の容貌を2段階ぐらい魁偉にしたような造作の大きな顔で、背広姿はさすがに浜ッ子のダンディズムが芬々であった」
この記述のあと、彼がシックスナインが得意だったとか書いてあるが、それはおいとこう。江川宇礼雄といえば、ウルトラQで僕たちは記憶に残しているが、新人類がブームになった頃、江川宇礼雄が何者であるのか、当時の新人類たちは、知らなかった。新東宝の映画に出まくっていたのを見ている、新人類より上の世代にとっては、その無知っぷりにあきれただろうが、どっちみち上の世代は、新人類の発言なんか読んではいなかっただろう。かろうじて「日本一のホラ吹き男」がかする程度で、映画館で江川宇礼雄を見る機会はまずなかったんだから、仕方ない、といえば仕方ない。

アニメと造形混合の実験的合成映画「ムクの木の話」で
「ボクの担当した部分で、一番困難なシークエンスは、冬の主役である氷の怪物が、大きく息を空中に吹き付けると、空気がそのままつぎつぎと凍っていく、ついには場面全体が凍りついてしまうという設定である」
「ボクはカメラのルーペを覗いてフレームを確認してから、左手に握ったパレット上の整髪料、すなわち黄色いポマードをパレットナイフの両端に薄くすくい、透明ガラスにほんの少し塗り付ける」

「漫画映画特別教育講座」で講師として政岡憲三が教える
「政岡はまず、黒板に右手で完全円形、左手で正三角形を同時に描くという離れ業を見せてくれた。みごとな正確さであった。
『この正しいバランス感覚をマスターするところから動画技術の素質を測るプロダクションの親方もいます』」
自分でも試しにやってみたが、さっぱりだった。

あと、ピー・プロのいろいろ裏話が。
「0戦はやと」を作ったが、多くの局では「戦争マンガはお断り」と拒否された、とか。
ピー・プロに「ビッグX」制作の話が来たが、「やるなら社長(うしおそうじ)1人でやってくれ」と社員に拒否された、とか。
虫プロが「ジャングル大帝」に力を入れたいため、ピー・プロが「鉄腕アトム」104話「悪魔の風船の巻」から3クール39話分、応援をした、とか。
「マグマ大使」を実写版で作りたい、と手塚に話すと、手塚は「鉄腕アトム」実写版を思い出して、断固として拒否した、とか。(実際に作ったものを手塚に見せて、承諾をとりつけたが)

あと、終章の最後に、うしおそうじはまるで推理小説のサプライズエンディングみたいなことをしてみせる。
手塚と一緒にカンヅメでマンガを描いているときの会話。
手塚は「ジャングル大帝」うしおは「しか笛の天使」を描いていた。

「うしおさん、この先レオに二世が誕生したときの名前を考えているんです。2頭生まれて、1頭の名をルネ、もう1頭をルッキオにするつもりです」
「ほう、かわった名前ですね」
「わかりませんか」
「?」
「由来は簡単。ワッハッハハ。逆さに読んでください」
「え?ネルとオッキル。あ、そうか」
「ワッハッハハ」
手塚治虫は、まるい鼻のアタマに皺を寄せて高笑いした。ボクはホテルで寝る前にユニット風呂の浴槽につかりながら、ふと考えた。
「そうか、わかった。ジャングル大帝の主人公レオは、俺、すなわち手塚治虫自身のことだったのか」
手塚はネーミングひとつにも謎かけをこめて描いていたのである。

はい、あざやかに決まりましたね!
ISBN:4591091910 単行本 貸本マンガ史研究会 ポプラ社 2006/03 ¥1,890
貸本マンガ研究会の『貸本マンガRETURNS』を読んだ。
小中学生の頃、読みふけった貸本マンガを思い出して、とても懐かしかった。面白い!
以下、目次。

序章 貸本マンガの豊かな世界−戦後の貸本業界と貸本マンガ
1、貸本屋という「世界」
2、貸本マンガ略史
3、貸本屋の衰退

1章 ヒーロー現る!−時代劇マンガの世界
1、紙芝居と貸本マンガと
2、生活者の視点−つげ義春の場合
3、革命とリアリズム−白土三平の場合
4、無秩序と残酷性−平田弘史の場合
5、女性読者とセンチメンタリズム−小島剛夕の場合

2章 ミステリ、ハードボイルドの誘惑−探偵ものからアクションまで
1、戦後の大衆文化と貸本探偵マンガ
2、『影』の誕生とその影響
3、短編誌、百花繚乱!
4、ハードボイルドマンガと悪書追放
5、アクションマンガの流行

3章 少女たちの夢のゆくえ−少女マンガの世界
1、母と娘の相克−母子ものを中心に
2、都市的なもの、農村的なもの
3、脱「泣かせ」と劇画ブーム
4、「貧乏・病・戦争」はいかに描かれたのか
5、少女ロマンスの実相
6、黄金の60年代

4章 異世界への誘い−怪奇マンガの世界
1、鬼太郎・三平・悪魔くん
2、恐怖の系譜
3、徳南晴一郎と楳図かずおの世界
4、怪奇マンガの爛熟と衰退
5、ふたたび「水木世界」へ

5章 青春って何だ!?−貸本マンガの終焉と青春マンガ
1、時代に翻弄される青春群像−『忍者武芸帳』と『黒い傷痕の男』
2、わかものへのまなざし−青春マンガの登場
3、人生論としての青春−大長編青春劇画『あぁ青春』
4、繊細さと明るさと−『青春』のみやわき心太郎と下元克己
5、記憶に残る青春マンガ
6、少女たちの青春−永島慎二とつげ義春

終章 貸本マンガに溺れて

コラム
貸本マンガの原点「赤本マンガ」1〜3
出版社による「サービス」の実態
全国貸本組合連合会とは?
映画と貸本マンガ
紙芝居からきたマンガ家たち
劇画工房の誕生と崩壊
貸本マンガの造本
貸本マンガの「読者のページ」
貸本少女マンガの表紙の変遷
マンガ家と読者をむすぶもの
描き版とは?
半裁マンガとは?
貸本SFマンガの世界
「悪書」とは何か?
貸本マンガの流通過程
貸本マンガ家たちの死

資料編
貸本マンガ関係年表
貸本マンガ家リスト1000+α
主要貸本マンガ出版社リスト

僕の世代では貸本そのものを体験したことはないが、古本屋に行けば、貸本が安い値段で山程売っていた。僕はぜんぜんコレクターじゃないのに、普通にマンガを買って読んでるだけで、中学時代に大きな本箱を貸本だけで埋めてしまえた。
この本で取り上げられているつげ義春、白土三平、平田弘史、小島剛夕、水木しげる、さいとうたかを、楳図かずおなど、一般商業誌でも活躍するようなマンガ家は、小中学生だった僕のターゲットからは外れていた。
これら有名漫画家の作品なら、貸本じゃなくて、普通の単行本でことたりる、と思ったということだ。
一方、K・元美津は、貸本以外で読んだことがなくて、ぜひとも復刻して全集出してもらいたいものだ。
まあ、僕は探偵ものオンリーの10代を送っているので、読んでいるマンガには偏りがある。横山まさみちといえば、独眼探偵しか思い浮かばないし、辰巳ヨシヒロだと弾丸太郎しか思い出せない。佐藤まさあきの代表作は影男シリーズ、さいとうたかをの代表作は台風五郎とゴリラシリーズなのである。

あと、この本を読んでのメモ。
『台風五郎』の「吠えろ8」について、こんなことが書いてある。
「私はこの作品をリアルタイムで読んでいるはずなのだが、まるで記憶に残っていない」
「おおむねさいとうの作品は読んだその場限りのものというのが多い。これはさいとうが、娯楽作品としてマンガを描いているということである。娯楽作品でけっこうなのだが、そこに作者の登場人物への心情移入がなければ読者は作品を記憶にとどめることなどできないのである」
おや?
さいとうの他の作品ならいざ知らず、この『吠えろ8』に関して言えば、後にさいとう自身がリライトしている。貸本時代とは絵の書き込みからタッチから全然違う画風になっているが、全く同じ話だ。僕は時期をずらして同じ話を2回読んだことで、この「吠えろ8」に関しては、よく覚えている。とくに、オチの部分とか。普通にさいとうマンガを読んでおれば、このリライト作品も絶対に読んでいるはず。だから、その「吠えろ8」をもとにした上記の解釈は、どうにも納得できない。
もっとも、この本を書いた貸本マンガ研究会の書き方はある種倒錯していて、伝えたい内容と書かれた文章をわざと正反対にしているケースがあるようだ。
たとえば、怪奇マンガについて書かれたところで、批判的に書かれている作品ほど、面白そうなのである。
そういう「低質」マンガをいくつか並べてみよう。

『3才の花嫁』西たけろう
「タイトルの意味も不明」
「1000年以上も前になされたという予言を軸に話を展開しながらも、物語は破綻している」
「ただただ、3歳の幼女が醜く変わっていく姿が描かれているだけで、その絵もかなり粗雑で、見るに堪えないといったものでしかない」

『黒髪の死』さがみゆき
「言い争ううちに、清子は夏江の髪を強く引っ張る。するとその長く美しい髪は夏江の頭から離れてしまう。それはカツラであった」
「『おばけのキューチャンみたいに毛が3本』『あはは、あんたははげ頭なの!』と夏江を笑いものにする清子」
「カツラの黒髪が首に巻き付き、清子は髪にしめ殺されてしまう。清子から離れたカツラは川に入り流れを上っていく。そこには入水自殺した夏江の姿が。黒髪のカツラは夏江の頭にすっぽりとかぶさってしまったのです」

『狂い化粧の美少年』三田京子
「不思議な美少年の吹く横笛を聞いた女性は、美しい顔に変身する。しかし、美しく変身した女性たちはその美貌を鼻にかけて高慢になる。だが、ただ1人だけ、そうならない女性がいた」
「時代背景も判然としないし、唐突に登場する美少年の姉とその死、迫ってくる竹薮など、理解に苦しむ作品である」

『悪魔と天使』池川伸治
「崖の上に住む裕福な家庭の娘2人と崖下に母と暮らす貧しい姉弟が対立し、貧しい姉弟が崖を崩して裕福な姉妹を殺そうとして、結局その崩れた崖で4人とも死んでしまう」
「スリラーでもなんでもない」
「貧富の対立をこのようにアッケラカンと描くことができる神経には唖然とするばかりである」

どう?
どれもこれも甲乙つけがたく、むちゃくちゃ面白そうな話じゃないか?
こういう滅法面白いマンガを紹介したくて、あえて「低質」だの「衰弱」という言葉を持ち出したとしか思えない。方便に、だ。
なかなか、やるな!
油断ならぬ書物だ。
ISBN:4566014177 単行本 Quentin Blake 評論社 2007/02 ¥945
ロアルド・ダールの『どでかいワニの話』を読んだ。
人間の子供を食べに行こうとするワニ。
途中、森の動物たちに「やめとけ、ボケ」と罵られる。
ヤシの木に化けたり、シーソーに化けたり、メリーゴーラウンドに化けたり、ベンチに化けたりして、こどもを誘き寄せるワニ。
そのつど動物たちがジャマをして、ワニのもくろみを阻止。
挙げ句の果に、ゾウがワニを空までとばす。
太陽に激突して、ワニ、「バーン!」

と、いう物語。
途中で、こどもを食べに行くワニに対して、動物たちが罵るシーンが、けっこうツボ。

カバ「この食い意地汚いげれつ、けがらわしいやつ!おまえみたいなのは生け捕りにされて、ゆでられて、鰐汁にされるがいい!」

ゾウ「たちの悪い畜生以下の畜生め!不潔で不埒な不逞の悪魔め!おまえなんぞは、ぶっつぶされて、ぶった切られて、ぶっ裂かれて、煮られて鰐シチューにされるがいい!」

サル「身の毛のよだつ身の程知らずの鰐公め!おどろおどろしい泥沼鰐公!おまえなんか、ボタンやバックルに喉詰まりして死んじまえ!」

これが現代の人間の話だとすると、児童ポルノに対する世間の反応みたいだな。
小学生が好き!とか言うと、上のカバや象やサルみたいに、罵られる。
ワニはただ食欲を満たしたい、という生き物としては当たり前の欲望に駆られているだけなのだが。
でも、ペドフィリアが性欲を満たすためにこどもに手を出したりすれば、こんなふうに罵られて、太陽に焼かれてしまうのも当然だな。
どでかいワニはこどもなんか食べずに木の実を食べろ、とか代替案を提出される。
ペドにとって、代替案の木の実にあたるものは何なのか?
(注意!僕はペドじゃないよ!)
ISBN:406149788X 新書 鈴木 謙介 講談社 2005/05/19 ¥735
HEPホールで梅佳代の写真展「男子」を開催している。今日は梅佳代とFM802の土井コマキによるトークショーもあるというので、見に行った。
文字通り、小学生の男子がいちびってる写真が多数展示してある。サブタイトルの「無敵!ミラクル!!アホパワー!!!」そのまんま。
被写体になったのは、大阪ミナミの小学生らしい。
どの写真もまったく他人とは思えない。自分のアルバムを見ているかのようだ。
イメージフォーラムフェスティバルからのテーマ「グッドバイ!スタイリッシュ」とも通じる展示で、僕的にもタイムリーだった。
会場では、「情熱大陸」のために撮影された映像をこの展覧会用に編集したものが流されていた。これもまた、楽しそうだった。
トークの内容も非常に肩の力の抜けた面白いもので、うっかりすると、どこかで梅佳代に会ったら、面識もないのに、「おう、うめかよ」と気軽に挨拶してしまいそうだ。
アムラーだったから、毎日カメラを持ち歩いていた、とか。
イチローと結婚したくてカメラマンを目指した、とか。
コミックヨシモトの板尾を撮影したのは私だ、とか。
笑いと下ネタと。
いや、しかし、トークショー会場の大半は若い女性だった。なんらかの親近感が湧くんだろうか。みんな、オモロイことが好きなわりに、ファッションがおとなしくて、だれからも後ろ指さされないような格好をしているのが、とても不満だ。そう言えば、展示を見てからトークショーまでじゃっかん時間があったので、キディランドに寄ったら、えらくカラフルで派手な人がいた。あっ、イロキチだ!と喜んで見たら、ヤンキーだった。センスなかった。
そうそう、梅佳代の作品で、ブランコに上半身裸で乗っていて、ポテトチップス持っている男子がうつっているのがある。この男子、公園で転んだときに服に犬のウンコがついたので、その後ずっと上半身裸だったという。いいエピソードだ。

鈴木謙介の『カ−ニヴァル化する社会』を読んだ。
ここで言うカーニヴァルは、2ちゃんねるなどで突発的に起こる祭を思い浮かべるとわかりやすい。
カーニヴァルという用語はジークムント・バウマンの言う「カーニヴァル型の近代」から援用されている。
バウマンが時代をどうとらえていたかについては、次のようにまとめてある。
「ソリッドなもの、大きな物語が志向された近代にかわって、流動的で個別的な事態に人々が直面する『リキッド・モダニティ』とでも呼ぶべき近代の新しい位相に、我々は突入している」(これは突入してくれてありがとう、と言いたい)
「共同体に帰属するかどうか、伝統に従うかどうかも、個人にとっての選択の対象」(えっ、僕の選択によっていいの?)
「後期近代においてもっとも困難であるのは、一貫性を維持すること」(これは時代がそうなんじゃなくて、僕個人の資質の問題だと思ってた。僕も時代の子なんだね)
以下、目次

はじめに−「祭り」の季節に
ふたつの「祭り」+1/お祭り化する日常
第1章 「やりたいこと」しかしたくない−液状化する労働観
1、フリーターやニートだけが問題なのか
フリーター化する「社会人」/若者は甘えているのか/『13歳のハローワーク』と『14歳の分岐点』
2、「やりたいこと」という貧困
自分探し世代の憂鬱/予期的社会化の困難/空転する意欲/親世代の二重の願望
3、ハイ・テンションな自己啓発
氾濫する自己診断/躁状態としての「分断される自己」

第2章 ずっと自分を見張っていたい−情報社会における監視
1、「監視国家」か「監視社会」か
進む防犯対策としての監視/民間主導による監視/監視の「脱カメラ化」/ゲイテッド・コミュニティ/「監視社会」とは何か
2、データが監視されるということ
見えなくなる「監視」/身体の消失/監視そのものを批判できるか/リスク社会における排除/監視社会の「善さ」を求めて
3、データベースとの往復運動
再−身体化する監視/私は何を欲望しているのか/「掟の門」をくぐれるか

第3章 「圏外」を逃れて−自分中毒としての携帯電話
1、携帯電話と再帰的近代
ケータイ=非行の原因?/情報社会の情報戦/増加する「ケータイ依存」/対人関係への共依存/「再帰的近代」と「純粋な関係性」/ケータイが繋ぐのは関係性か
2、「自己への嗜癖」とデータベース
データベース化する対人関係/<繋がりうること>としての友達/「個人化」の新たな段階/自己への嗜癖と「脱−社会化」

終章 カーニヴァル化するモダニティ
1、カーニヴァル化と再帰性
日常がカーニヴァル化する/共同性としての祝祭/「反省」と「再帰」の違い/再帰的な運動としての宗教/スピリチュアリティの興隆と「再魔術化」/カーニヴァル化する政治・経済
2、革命か、宿命か−カーニヴァルの時代を生きる
再帰的カーニヴァルとデータベースのパラノイア/分断される自己イメージ/宿命論からの軟着陸

終章冒頭に、それまでのまとめがあるので、引用しておこう。

就業問題と監視社会問題を架橋させながら、第1章と第2章で論じたのは、大きな物語、すなわち最終的に目指すべき目標や理念を欠いた現代において、監視社会のデータベースとの相互審問の中から、その都度その都度、自己の欲望すべきものが立ち上がってくるというメカニズムだった。そして、こうした自己とデータベースとの往復運動の結果生じるのが、社会学的には「個人化」と呼ばれる、自己に対する統合的な反省の視点が欠如した−あるいはそうした「アイデンティティ」への問いをやり過ごすことのできるような−自己モデルを生きる若者たちなのだというのが、第3章の議論だった。

さらに。

本書で扱ってきた様々な現象は、一方で根元的な理由や目標を欠いた、自己目的的な「カーニヴァル」が、現在において生じつつあること、他方でそうしたカーニヴァルを支えるのは、データベースへの問い合わせにあることを指摘してきた。このカーニヴァルとデータベースの共犯関係こそが、私たちを支える社会を記述する枠組みになりうるのではないか

そして、それが幸せかどうかは、人それぞれの内面の問題になるが、反省的視点を欠いたままでは、求めても求めても幸せにたどりつけない嗜癖的な状態に陥る、と。

大きく語ると、まあそういうことだ。
第1章で面白かったのは、若者の躁鬱について語ったところ。ハイテンションな自己啓発でウワーっと盛り上がったかと思うと、しゅ〜んと落ち込む。その繰り返し。ワールドカップだ!阪神優勝!イナバウアー!なんとか王子!と盛り上がったかと思うと、興味がなくなってさ〜っとひいていく。
モーニング娘。に代表されるハロープロジェクトで、そういうことをたまに感じることがある。
最近、ハロープロジェクトのメンバーが三面記事をにぎわすようになると、「ああ、もうハロプロは終わった。いや、もうとっくに終わってる」と言い出す元ファン(?)がいる。自分の興味からはずれたのなら、おとなしくしていればいいのに。さらに、最初から祭りに乗っかってハロプロに関わっただけの人たちが、「もう終わった」もないものだ、と思う。反省的視点を欠いた状態ってやつだ。もっと熱くなれるものを求めて、幸せにたどりつけない。そんな奴らは勝手に嘆いて鬱になってればいい。他人を巻き込まないでもらいたい。
でも、一方で、後でどんなに泥をかけられようが、一度でも祭りになれば勝ち、という気もする。祭りを経験せずに一度も認知されずに消えていくことに比べたら、祭りで消費される方がよっぽどいい。
祭りのあとって、風情あるしね。

そして、こんなことも。
そうした人々は単なる快/不快原則で選択していることを、人間的な原理に従って生きているんだ、と思いこんでいる、と。
もっともらしい言動こそ疑ってかかるべきなのだ。
ゲーム的リアリズムの誕生〜NHKで現代音楽三昧
今日はNHK-FMで昼から夜まで現代音楽三昧だった。どこにも出かけずに、ラジオを聞いていた。
聞いたのは次の曲。
「カルモ」ベリオ作曲(15分18秒)
(メゾ・ソプラノ)マルグリート・ファン・ライゼン(演奏)アスコ・アンサンブル、 シェーンベルク・アンサンブル(指揮)バス・ヴィーガース

「レンダリング」シューベルト作曲、ベリオ編曲(34分57秒)
(管弦楽)18世紀オーケストラ、アスコ・アンサンブル、シェーンベルク・アンサンブル(指揮)フランス・ブリュッヘン
〜ベルギー・ブリュージュ コンセルトヘボーで収録〜<2007/2/18>
(ベルギー・オランダ語地域放送協会提供)

「天国の色彩」メシアン作曲(16分13秒)
(ピアノ)ディミトリ・ヴァシラキス(管弦楽)アンサンブル・アンテルコンタンポラン(指揮)ピエール・ブーレーズ

「東京のためのパッサカリア」マヌーリ作曲(18分59秒)
(ピアノ)永野 英樹(管弦楽)アンサンブル・アンテルコンタンポラン(指揮)ピエール・ブーレーズ

「デリヴ 第1番」ブーレーズ作曲(6分02秒)
(管弦楽)アンサンブル・アンテルコンタンポラン(指揮)ペーテル・エトヴェシュ

「メモリアル」ブーレーズ作曲(5分27秒)
(フルート)ソフィー・シェリエ(管弦楽)アンサンブル・アンテルコンタンポラン(指揮)ペーテル・エトヴェシュ

「“グレの歌”から“山鳩の歌”」シェーンベルク作曲(12分42秒)
(ソプラノ)ペトラ・ラング(管弦楽)アンサンブル・アンテルコンタンポラン(指揮)ピエール・ブーレーズ
〜フランス・パリ シテ・ド・ラ・ミュジークで収録〜 <2007/3/29>(ラジオ・フランス提供)

このあとのモーツァルトとかは聞かずに、テレビでスポンジボブとか見た。
午後6時からは、いつもの「現代の音楽」
案内は西村朗、ゲストに白石美雪
 − 西村朗オーケストラ作品展から −(1)
「“2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー”から 第1楽章」 西村朗・作曲(9分00秒)
(ピアノ)白石光隆、小坂圭太

「バイオリン協奏曲 第1番“残光”」西村朗・作曲(25分28秒)
(バイオリン)竹澤恭子(管弦楽)NHK交響楽団(指揮)飯森範親
  〜東京オペラシティ・コンサートホールで収録〜<2007/5/25>

東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んだ。
序章
ポストモダンとオタク/ポストモダンと物語/ポストモダンの世界をどう生きるか
第1章 理論
A 社会学
1、ライトノベル
2000年代の「再発見」ブーム/ライトノベル≠「ジャンル小説」/ライトノベル的なもの
2、キャラクター(1)
キャラクターの媒体としてのライトノベル/自律化共有財化/データベース/ライトノベルの本質
3、ポストモダン
ライトノベルの出現とポストモダン/ポストモダンとポストモダニズムの違い
4、まんが・アニメ的リアリズム
現実の「写生」から虚構の「写生」へ
5、想像力の環境
コミュニケーションの基礎としてのリアリズム/二つのリアリズムの基盤
6、二環境化
「文学のポストモダン化」の意味するもの/文学の二つの環境/キャラクタ−小説の可能性/循環的な物語生成

B 文学(1)
7、現実
純文学を現実を知るために読む時代/「新しい現実」に触れる「新しい文学」という読み方/本書で考える「文学的な可能性」とは
8、私小説
「現実」と「私」の発見/まんが・アニメ的リアリズムの歴史的意味
9、まんが記号説
マンガの持つ記号的・身体的両義性
10、半透明
キャラクター小説の言葉/セカイ系の想像力を支える「半透明」の言葉/キャラクター小説の隆盛は例外的な現実なのか
11、文学性
現実を言葉の半透明性を利用して描く/仮構を通してこそ描ける現実

C メディア
12、「ゲームのような小説」
小説ならではの問題とは/ライトノベルの起源を巡る議論/『ロ−ドス島戦記』登場の意味
13、ゲーム
大塚の「ゲームのような小説」に対する低い評価/ゲームは死を描けるか
14、キャラクター(2)
死の問題を巡る大塚の議論への疑問/メタ物語的な想像力の拡散/キャラクターとはゲーム的な存在/キャラクター小説はメタ物語性を必然的にもつ
15、「マンガのおばけ」
キャラクターとキャラ/キャラクターの両義性が含んでいたメタ物語性
16、ゲ−ム的リアリズム(1)
キャラクター小説固有の文学的な可能性/メタ物語的な想像力から生まれるリアリズム
17、コミュニケーション
「コンテンツ志向メディア」と「コミュニケ−ション志向メディア」/ユーザーとシステムのコミュニケーション/コミュニケーション志向メディアの生み出す物語/情報環境の変化と新しい物語

第2章 作品論
A キャラクター小説
1、環境分析
小説が読まれる環境の激変/環境分析的な読解
2、「All You Need Is Kill」
ル−プものの一作品/「All You」の二つの特徴/ゲームの比喩としての物語
3、ゲ−ム的リアリズム(2)
ゲームの経験の小説化/プレイヤー視点のリアリティ
4、死の表現
死の二重性/プレイヤーに血を流させること
5、構造的主題
環境分析による新しい読みの可能性/「プレイヤー」への強いメッセージ/主題の二重性

B 美少女ゲーム
6、美少女ゲーム
ゲーム的リアリズムの視点で読める小説群/美少女ゲームに注目する理由
7、小説のようなゲーム
プレイというより読書/『雫』の出現が消費の規則を変えた/キャラクター小説との鏡像関係
8、『ONE』
永遠の世界/『All You』との類似の戦略
9、メタ美少女ゲーム
環境の類似性に焦点をあてる/オタクの評論の欲望を刺激
10、『Ever 17』
視点のトリック/視点の分裂を物語の再構築に利用/切り離された物語の外部と内部をシナリオで結び直す
11、『ひぐらしのなく頃に』
ゲ−ム的な世界観に基づき設計された作品/謎解きの欲望
12、感情のメタ物語的な詐術
ゲーム的リアリズムとメタ美少女ゲームの試み/ポストモダンな生を対象とした構造的主題/構造的に見いだされる作品の多様性/環境分析的な批評

 C 文学(2)
13、『九十九十九』
固有の分析という誤解を回避/純文学の領域で活躍/入れ子構造になった章構成/作品とその周りの状況への批評の試み
14、「メタミステリ」
清涼院のメタミステリを継承/ゲ−ム的リアリズムについての小説
15、プレイヤー視点の文学
タイムスリップの理由/三人の視点プレイヤーの登場/感情移入する主体の変化
16、世界を肯定すること
『九十九十九』における仕掛けの意味/現実と虚構の対立/現実と虚構の対立を無化する選択/選択したことへの自覚/ポストモダンにおける実存文学の可能性

付録
付録A  不純さに憑かれたミステリ−清涼院流水について
付録B 萌えの手前、不能性に止まること−『AIR』について

本書はまず大塚英志のまんが・アニメ的リアリズム論を中心に検証し、第2章で具体的な作品論に触れる。
東の言う「ゲーム的リアリズム」はポストモダンの世界が作りだした人工環境のリアリズムのなかの日本で発達したひとつの形である。
ポストモダンの世界では、大きな物語は衰退する。そんなデータベース消費の世界で物語は人工環境の文学として生き残るのである。
文学の可能性としては、キーワードは半透明。自然主義文学の表現が「透明」、神話が「不透明」だとすると、キャラクター小説は「半透明」なのだ。つまり、仮構を通してこそ描ける現実がある、ということなのだ。
と、まあ、そんなことが書いてあったように思う。
美少女ゲームなどのネタバレがしてあって、ちょっと感心した。なるほど、これは面白そうだ!と思わせたのだ。
さて、本書はどんな読者を想定して書かれたのかわからないが、やたらと読者への気遣いが多く感じられた。
初心者を導く効果もあるが、あらかじめツッコミを予想して、「あ、今、こう思ったな。それは間違いだよ」とカーの『九つの答』みたいな趣向がこらされているのだと、僕は受け止めた。
そんなシーンをいくつか抜粋してみよう。

東浩紀が読者を気遣うコーナー
1、序章より(読者の反論を先回りしてつぶす自問自答)
Q「ポストモダンでは大きな物語が衰退すると言うが、現実には大きな物語はさまざまな局面で復活し、増殖しているのではないか」
A「その反論は誤解に基づいている。というのもポストモダン論が提起する『大きな物語の衰退』は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する特定の物語の共有化圧力の低下、すなわち『その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有すべきである』というメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論だったからである」

2、第1章より(無知な読者への気遣い)
「ライトノベルには多くの種類があり、出版点数も多いが、読者によってはまったく目にしたことがないひともいるだろう。そのような読者には、まずは、書店で文庫売場や新書売場ではなく、コミック売場に行ってもらい、その近くに平積みになっている派手なパッケージの文庫本を探してもらいたいと思う。それが典型的なライトノベルだ」

3、第1章より(無知な読者への気遣い)
(物語よりキャラクターを単位として感覚されることについて)
「このような記述は、多少ともオタクたちの表現に慣れ親しんでいれば直感的に理解できるはずだが、親しみのない読者にはわかりにくいかもしれない。そこで、ひとつ具体例を挙げてみよう」

4、第1章より(さっきの続き。ハルヒを例に出したあと)
「言うまでもなく、そのような仮想的な対話は、作者と読者がキャラクターのデータベースをあるていど共有し、かつ読者によってその存在が意識されていなければ、まったく機能しない。本書の読者のなかには、引用箇所を読み、戸惑いしか感じなかったひとも多いのではないかと思う。
にもかかわらず、実際にはそれは、現在の小説市場で実に多くの読者に受け入れられている」

5、第1章より(読者の反論を先回り)
Q「とはいえ、文学とポストモダン論に詳しい読者ほど、ここで違和感を感じるかもしれない。文学理論の領域では一般に、『ポストモダン文学』という言葉は、近代文学の前提を解体し、新しい小説の方法を意識的に再構築していくような、知的で複雑で、作家性の強い試みを指しているからである」
A「ライトノベルはポストモダン的な小説であるという本書の主張は、必ずしも作家がその位置を自覚していることを意味しない。ライトノベルの想像力は、オタクたちの動物的な消費原理を、すなわちポストモダンの時代精神をみごとに反映してしまう。本書が関心を向けているのは、その反映のメカニズムに対してである」

6、第1章より(読者の反論を先回り)
Q「読者によっては、マンガやアニメの『写生』に新しい『リアリズム』を見いだすという大塚の主張を、あまりにも乱暴だと感じるかもしれない」
A「そのような疑問はもっともである。しかし、それでも筆者は、ここで『まんが・アニメ的リアリズム』という名称を使いたいと思う。というのも、ここで問われているのは、オタクたちがなにをリアルだと感じているか、という精神医学的な現実性ではなく、オタクたちがなにをリアルだと感じることにしているか、という社会的な現実性だからである」

7、第2章より(読者の不満を先回り)
Q「読者のなかには、直接のキャラクター小説論というよりも、むしろキャラクター小説論論の性格が強かった第1章の議論の歩みに、いささか辟易しているひともいるかもしれない」
A「そこで、ここからさきは作品を読み解いていくことにしよう」

8、第2章より(初心者の読者を道案内)
(桜坂洋の『All You Need Is Kill』について)
Q「SFに親しみがない多くの読者は、ギタイと闘い、タイムスリップを繰り返すキリヤには感情移入できないかもしれない」
A「しかし、その読者も、メタ物語的な宙づりに捕らわれたキリヤには感情移入できるはずである。なぜならば、キリヤのその状況は、ポストモダン化の進行のなか、選択肢の多さに圧倒され、特定の価値を選ぶことがますます難しくなっている、私たち自身の生の条件の隠喩になっているからである」

9、第2章より(読者への気遣い。ここまで来ると、わからん奴は愚か者だ、と言ってるようなもので、まるで『裸の王様』の仕立て屋みたいだ)
Q「筆者は前著からここまで一貫して、ポストモダンの分析のためにオタクの作品群を参照してきた。その選択の理由は繰り返し記しているし、筆者はその記述で十分に説得力があると信じている。しかしそれでも、本書の問題提起は、伝統的な文学に親しみ、ゲームもしなければアニメも観ず、キャラクター小説を読んだことがない読者には、受け入れがたく感じられるかもしれない」
A「そこで私たちは以下では、ゲーム的リアリズムの考察をさらに深めるのではなく、むしろその議論を足場として、第1章でいったん遠ざけた自然主義の世界、純文学と文芸批評の領域にもういちど近づいてみたい」

こういうノリツッコミの芸をもっと磨いてさらなる精進を期待している。
空色デイズキャンペーン@千里セルシー〜森下純菜、ぷちでぃーば、The DUETインストアライブ@HMV心斎橋
千里セルシーで午後1時から中川翔子のキャンペーンミニライブ。
1.空色デイズ(黒いドレスで、スタンドマイク使い、振り付けなし。ロック!)
2.happily ever after(この歌を生で歌いたかった、と、歌に対する思いを述べて歌う)
3.みつばちのささやき(ドレスを早変わりでばさっと取り去ると、ピンクのビキニ、アイドル衣装。振り付けありあり)
しょこたんブログのための写メール撮影とか、取材のための撮影など。
そのあとは、コンベアー式握手会。
見に来ていたお客さんは、一般の人が大半だったと思う。
客の中でオタ芸を打っているのはごく少数で、それを見て他のお客さんも「なに、アレ?」と面白がっていたくらいだから。
ところで、千里セルシーといえば、中華料理のフロアがあって、そこで食事をするのが楽しみの一つだったのだが、今日行ってみたら、なくなっていた。いつ行ってもガラガラだったし、しかたないか。

心斎橋HMVで午後3時からアイドルラッシュのキャンペーン。
早めに行ったら、リハーサルから見れた。
森下純菜は「Sweetest Time〜10 Years Memory」、ぷちでぃーばは「ラムのラブソング」、The DUETは「黒い瞳」
本番、司会でThe DUETが出て来て、まずは森下純菜から。
「やっほっほ」の挨拶。
1,kiss kiss
2,Sweetest Time〜10 Years Memory
3,2度目の恋(美香、真冬がコーラス&ダンスで参加)
2度目の恋が、まるでハローみたいだな、と思ってたら、作曲が橋本美香、作詞と振り付けが片平妃奈子だった。モロ、制服向上委員会テイスト。
森下純菜のブログ読んだりすると、ミルクとかエミリーテンプルキュートのブランドが好きのようだ。今回の衣装はそれをそのまんま反映していた。
そのあと握手会。僕もなにげに握手してもらった。
http://www.junna.tv/

次に登場は声優ユニットの、ぷちでぃーば。(岩本小百合、妻鹿綾子、武石あゆ実、林奈々子)
1,ハピネスLOVE(石田燿子作詞、林田健司作曲)
2,狼なんか怖くない
3,ラムのラブソング(大阪バージョンで「好きや、好きや、好きや」と歌ってた)
音が途中で止まってやりなおしたり、音がとんだり、怪奇現象連発!
ライブのあとは、握手会。
http://www.hypervoice.com/diva/main.html

最後はThe DUET(橋本美香、松尾真冬)
1,黒い瞳
2,恋のバカンス
3,マラッカ
4,まだ見ぬ世界を信じて
終了後は握手会。
キャンペーンのためのインストアライブなのに、約2時間のイベントで、大満足。
配付されたアイドルラッシュのフリーマガジンは、今回出演の面々以外に、椎名へきる、石田燿子、五條真由美、桜井聖良などのインタビュー記事が載っていて、これはお得。
「とれたてアイドル情報」の記事で、高品位美少女倶楽部が取り上げられているが、その文章に、ニヤリとした。
高齢化社会の話題にはじまって、こう続く。
「我がアイドル業界も立派に高齢化が進み一見美しく見えても30代の方が多く、グッドウィルとは思えないのである」
また、プロデューサー高橋廣行氏の発言にも、ニヤリとしながらもうなずける文章があった。
地ドル、秋葉系、アニソン系、劇団系、ストリート系のアイドルと接した感想がこう書かれている。
「しかし、その多くの人の心が貧しいのが悲しかった。癒し系ではなく、いやしいのである。私は腹が立つより、まともな練習もせずファンの方に媚びるだけで生きていこうという彼女たち(もちろんその周辺の大人も含む)に対し、痛く悲しかった」
なーるほど。
ISBN:4566014266 単行本 灰島 かり 評論社 2007/03 ¥1,050
ロアルド・ダールの『まぜこぜシチュー』を読んだ。古今東西の名作パロディや、語呂あわせ詩が詰まっている。

ウサギとカメ(エンジンを仕込んだカメが競争に勝とうとするが、エンジニアのネズミはウサギに情報をリーク)
ひょっこら、どっこい(ドロボー、ゆかい、もういっかい)
裸の王様(愚か者には見えないスキーウェアを着た王様が雪山で冷凍)
アツい、サムい(パッパラパーとすっぱだかー)
ワニと歯医者(奥歯を治療しろと鰐。食われるかと思ったが、ペットなので食わないよ)
クルミの木(クルミよなれ。クルクルパー)
ヘンゼルとグレーテル(料理の天才グレーテル。オニババも料理)
メアリーさんたら、メアリーさん(お庭はどんなふう?マンション住まいですけど)
ひどい目(男の子とキスしたらひどい目に。カゼうつされた)
ディック・カランコローとネコ(ロンドンに出て来た少年は失望して帰る)
アリババと四十人の盗賊(ひらけ、ごまの呪文でホテルのドアを開けまくって遊ぶ)
セント・アイヴス(妻は七人でないとつまんない)
アラ・ジンと魔法のランプ(ジンになりたい、と願いを言うアラジン)

灰島かり(グレイト・カーリーと読むんではないそうだ)の翻訳が、慣れるまではアホダラ経でどうにもこうにも古臭くて困った。慣れるとそうでもないんだけど。若者文化に親しんでいない文学ババアが言葉遊びすればこうなるんじゃないか、というお手本のような文章に見えるのだ。(灰島かりさんがそうだ、と言ってるんじゃないよ。この訳者の年齢知らないし)
ただ、灰島かりさんに文句があるとすると、この本は原書では15編収録されているのに、2編を割愛してあるということだ。言葉遊びの作品なので、「訳せない本は訳さない」という理由もわかるが、そんなこと言い出せば、翻訳全般の問題になってしまう。試訳でいいから翻訳してほしかったな。あるいは、原文をのせる、とか。
「ディックカランコローとネコ」はオリジナルではロンドンに出て来た少年が、いったん帰ろうとするが教会の鐘の音にひきとめられて、市長にまで成り上がる話。ダール版では、そんな鐘の音を気のせいとして、あっさり帰ってしまう。
オリジナルの物語は「ディック・ウィッティントンとネコ」だそうな。
イギリスでは誰でも知っている有名な話らしいが、これ、知らなかったなあ。
チャレンジャの写真展〜ヴォーカルクイーンストリートライブ@ORC200
ギャラリーH.O.TでGary McLeodの「チャレンジャの写真展」
チャレンジャー号は19世紀に世界を周航して海洋調査したイギリスの艦船。(スペースシャトルの方じゃないよ!)日本には1875年に来ており、2ヶ月停泊していた。
展示ではチャレンジャー号の報告書の写真をもとに、同じ場所に立って、デジタルで撮影した画像が時間をおいて明滅していた。19世紀のチャレンジャ−号の記録を、現代の風景で再現。CCDでは切り取る画像が小さいため、複数の画像を組み合わせることで、元の風景を構成していた。壁で現れたり消えたりする19世紀−現代の風景のその足元には、チャレンジャー号に関する書籍が置かれている。時間が幾層もの連なりを示している。その時間の層に、さらに層を積み重ねるのが、ギャラリーのサイト。
http://galleryhot.com/
このギャラリーのHPには、毎日10分間隔で撮影された画廊内の様子がアップされている。
僕がここの展示を見に行ったときの様子もちゃんと写っていたのだろう。客として作品を見に行くことが、即、作品を作ることになる。これは面白いなあ。

夕方からは弁天町ORC200でヴォーカル・クイーン・ストリートライブ。
到着したとき、D.I.PEACEの1回目のダンスは終わっていた。
渡辺安那/オリジナル曲「I’ll」など2曲。真面目さは変わらずだが、固さがとれてきた。
吉富静香/2曲。第11回ヴォーカルクイーンコンテストで特別賞を受賞した子だが、彼女も固さがとれてきて、本来の実力を現わしつつある。
徳山典子/今回は飛び入りということで1曲。この子、キャレスの子なの?名前に聞き覚えがある。
西真衣子/2曲。ブログがあるらしい。早速見てみたら、水着姿にドキッ!
http://maiboo24.blog107.fc2.com/
QUICKIE BAMBINA/田頭沙希と三木杏里のユニット。今回、衣装もバッチリ決めて、一番リキが入っていたんじゃないか。沙希ちゃんはミルキーハットのマミカに勝るとも劣らない自在な身体の使い方をして踊る。杏里ちゃんの歌の実力はこれまた目をみはる。ライブ中に雷雨で大荒れになる。カメラのフラッシュだと思って平然としていたら、ドッカ〜ンと大音響が鳴り渡ってびっくりした。
aya/馬場綾乃。ギャル道まっしぐら。最近太ってきたのでビリーズブートキャンプだと。
河野姉妹/姉の真実が黄緑、妹の真子がブルーの衣装。4曲。ドナ・サマーのオン・ザ・レイディオ小柳ユキバージョンを歌ったり。この姉妹、歌、うまいね!
D.I.PEACE/ダンス。30分ほどあったかな? HPリニューアルしたて。
http://www.d-ip.info/
mai/池真衣。最近、鏡が2枚割れた、とか相変わらずオモロイ。この子はとても別嬪さんに成長したと思う。スタイルもいい。でも、帰りにふだんの制服姿に戻ったら、ほとんどそのよさが隠されてしまっていた。かつてテレビ番組で玉置成実がふだんの制服姿を晒したときほどひどくはないけど。
城ゆかり/2曲。ますますしっかりした委員長キャラが強く出てきた。ファンタピースのイベントが7月7日にある、と告知。
黒田真衣&黒田沙耶華/この姉妹もたいがいすごい。まず姉の真衣がオリジナルの「スパイラル」を歌い、2人でHYの「あなた」、妹の沙耶華が倖田來未の「feel」
松永奈央/MISIAなど2曲。この子が歌うときに見せるスッと腰を落す振りは、ベリーキュート!身長が急に低くなる魔法みたいだ。
Baby Black/「シークレットスペース」「オンリーフィール」と新曲を2曲披露し、お馴染みの「フィエスタ」でしめる。

今日はいくつかのギャラリーを巡る予定だったが、最初に図書館に寄って本を8冊借りたのが祟って、重い荷物をいったん置きに帰ったりしているうちに、結局、1つしかギャラリーは行けなかった。無限の体力がほしい。
ISBN:4566014282 単行本 柳瀬 尚紀 評論社 2007/02 ¥945
ロアルド・ダール・コレクションから『したかみ村の牧師さん』を読んだ。柳瀬尚紀の翻訳。
新任の牧師は幼い頃の難読症のせいで、ときたま話す言葉がアナグラムになってしまう。
新任の挨拶に行って、
「よし泥食うぞ、モツレジター村の親睦の死人です!蚤、心噛みに仕える者です!」
とか言ってしまう。
これは、正しくは「よろしくどうぞ、モツレジター村の新任の牧師です。神の御心に仕える者です」なのである。
ちゃんとした順番で言葉を言うために、牧師は頭にバックミラーをつけて、後ろ向きに歩くようになる。と、いう物語。
なぜ逆に歩くと治るかというのは、原文での言葉遊びが、言葉の逆読みで成り立っているからだろう。
「park」(駐車)と言うべきところを「krap」(糞)と言ってしまう、といったように。
日本語版は、柳瀬尚紀のお家芸、言葉遊び爆発で、読んでいて楽しく、幸せになってくる。
ぶどう酒をどれくらい飲めばいいのか、と信者が尋ねる。
「少々にすべきなんでしょうか?」
アナグラムでしゃべってしまう牧師はこう答える。
「消化に好きな小便でしょう」
巻末には挿絵を担当したクェンティン・ブレイクがダールの思い出を語っている。
ロアルド・ダールが慈善事業や慈善団体にたびたび参加、寄付をしており、ダールからの依頼で難読症研究所のためのイラストの仕事を快諾した、とか。
訳者の後書きでは、アナグラムのお遊びがまた続けられる。
「なるほど、いいな」
逆から読むと
「無い井戸、掘るな」
になるとか。(これは石津ちひろの『わたしカスミ草』に書かれていたそうだ)
昨日読んだ清涼院流水の言葉遊びが、「ダジャレで小説を読まされたんじゃかなわない」と感じさせられるのに対して、ダールの作品はクェンティン・ブレイクも言うように「人間に対する思いやりと本を読むことの大切さを熱く信じる気持ち」が結実しているのだ。
読後感のよさといったらない。
しかし、それは「言葉遊びも使いよう」という話ではない。世界は言葉で出来ているのだから、言葉で何を築きあげ、何を変えることができるのか、ということのそれぞれのアプローチだととらえた方がいいのだろう。
夕刊フジの連載で、ケラリーノ・サンドロヴィッチが憲法9条に関して「希求」を「気球」とあえて読み違えるようなところから、世界は変わっていくのだ。

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