とくまでやる

2007年6月27日 読書
ISBN:4199051481 文庫 清涼院 流水 徳間書店 2004/08/05 ¥650
清涼院流水の『とくまでやる』を読んだ。
ネタバレオンリーなので、要注意。
マンモス女子校の生徒が、毎日1人ずつ自殺していく。
毎日といっても、週日にかぎり、土日は、主人公、出有特馬(である・とくま)と友人新悟の共通の知人が1人ずつ自殺している。
本書は見開きの2ページで1日分の記述がしてある。まあ、日記のような感じ。ページをめくると、次の日付けになり、誰かが自殺している、ということになる。
1日2ページという縛りに何か意味があるんだろうか、と考えてみたが、単なる作者側の趣向のようだ。と、いうのは、ある日のページでは数日前のことを回想している。つまり、過去のことを書いてある。当日は他にいろいろ書いておかねばならないことがあったのである。また、2ページで書ききれない内容になると、話しているうちに夜中になって日付けが変わった、として、会話が続いたりする。縛りがあるために、本来書かなくてもいい文章が水増しされているのだ。
その趣向自体は面白くて、読みやすくもなっているが、それが作品にトリックを仕掛けるようなものではないようだ。少なくとも、この巻では。
さて、「新悟、整理する」の章で、この毎日自殺事件の謎について、整理がしてある。

(マンモス女子校なので)「それだけの生徒がいれば、毎日のように生徒が自殺するという異常事件の裏にもなんか理由があるんだろうーと推測できないこともない。
が、山本新悟と出有特馬、2人の周囲で自殺が連続するのは、どういうわけか?」

この問いに対するミステリー的解答はなかった。
この本もシリーズものなので、最終巻にてすべての謎がとけるってやつか。
もしそうなら、困る。次の作品を読むまで、いちいち覚えていないからだ。
で、連日自殺事件の真相は何だったかというと、新悟の友人が学校で極秘デートクラブを主宰していた。それが「刑殺」に知られ、デートクラブの会員を毎日処刑していたのだ。
デートクラブ会員の数の内訳から、週日が女子で土日が男子と決まったらしい。このあたり、よく意味がわからない。殺す人数は全部で101人。多い!清涼院流水の世界では101人殺されるなんて当たり前なのかもしれないが、これはひどい。作者は自分が清涼院流水であることに無批判に乗っかっているとしか思えない。
2人の知人ばかりが死ぬ理由は、こんなふうに書いてある。

新悟と特馬は同年代を中心に顔が広かったので、交友関係に被害者が含まれたのか

そりゃないよ!
事件は、辻斬りのような「弓道少女」が目撃されるにいたって、紛糾してくる。マンモス女子校の弓道部の少女が疑われるが、本人は微妙に否定。
バイクに乗ったかっこいい女が、バイト先のスパルタ上司と同一人物ではないか(裏の顔ってやつ?)とか。
弓道少女は弓道部の子の母親だったし、バイクに乗ってたのはサド上司「くるみ」の双子の妹「みるく」だった。親族ネタか!
事件を解決すべき名探偵は、サスペンス番組ばっかり見ていて、ひと目見て犯人を見抜く能力を養ったレンタルビデオ屋の主人、村井長治。
この設定も人をくっている。
人をくっていない部分を見つける方が難しい。
犯人を示すオレンジ色の紙に書かれた「土」の文字は何を意味していたのか。
オレンジ色=緋色。
土は「士」だった。
犯人は緋色のサムライと異名を取る刑殺官。緋色ならぬ「ヒーロー」を気取る
名探偵の役割をふられていた村井長治だった。
名前の「長」も「治」も「オサ」と読む。「オサ・ムライ」で「おサムライ」とヒントが出ていたのだった。
と、まあ、ミステリーの謎解きとしてのカタルシスはほとんど得られない。
これを「清涼院流水らしい」で評価するのは、ちょっと保留させてもらう。保留の意味はまたいずれ書くこともあるだろう。
全体におはスタの「IQバトル」を見ているような感触で、番組が違えば「モヤット」とボールを投げられそうな話だ。
ただ、何度も言うけど、これはどういうわけか、シリーズものだ。シリーズものだということは、シリーズにするだけの意味があるはずだから、この「とくまでやる」に積み残された謎も明かされることだろう。
弓道少女が「救急者」で、必殺シリーズのような「刑殺官」と対立してた、とか清涼院流水の「秘密屋」シリーズの設定がからんでいる。これは作品になくてもいい付録のようなものだ。秘密屋を読んでいなかった僕には、いきなりのことでとまどった。そういう非現実的な設定を認めはじめると、女子高生を自殺に追いやる怪電波をとばすマッドサイエンティストが犯人でした、というのが真相だったとしても文句は言えばませんよ、ということだ。カリスマ女子高生が自殺をすすめたから、という設定をいきなり結末のところではじめて明かしてもかまわない、ということにもなる。ここは自殺しても1ヶ月後に甦る世界なのでした、といきなり言われても納得しなくてはならない、ということだ。それが、この作品で最初ならインパクトもあるが、そういう作品はいくつも読まされて、かつての『火刑法廷』の頃の衝撃はもうない。『大東京四谷怪談』とか『42.195』とか『黒い仏』読んだあとでは、「ああ、またか」だし、ライトノベルにありがちな、他のシリーズから登場人物や設定を輸入するのは愛読者の存在に甘えた手法だと思うのだ。そういうのは、作者の自己満足に愛読者が同調し、共鳴しているように見えて、とても気持悪い。人間として関係の取り方に疑問すら湧いてくる。
と、ちょっと高まってみたが、今ふりかえって『とくまでやる』にそこまで熱くなることもなかったかな、と反省した。なにより面白く読んだはずなのに、何を糾弾しようとしているのだ、この僕は?まあ、こういう僕のような滅び去った旧世代からの違和感も含めて、清涼院流水の作品は面白いんだな。
ISBN:4879842427 単行本 紀田 順一郎 松籟社 2006/04 ¥2,310
紀田順一郎の『戦後創成期ミステリ日記』を読んだ。
1954年から1963年までの文章が集められている。
序章では、当時をふりかえって、木々高太郎の思い出(推理小説の用語創始。芸術論。推理小説同好会設立にあたって、会長としてかつぎあげられた)や、大伴昌司の思い出(紀田と同学年。密室東京支部の牽引役)などが書かれている。
本書で取り上げられる本は、ミステリーの古典的作品が多く、自分の学生時代の読書体験とほぼ重なり合っている。戦後の青春みたいな熱気は、自分自身の青春の熱気とオーバーラップしているのだ。
今でもヴィンテージとして、黄金時代の作品の翻訳が出るのはとてもうれしい。青春がいつまでも終わらない気分がする。昔に比べて、翻訳もマシになっている(と、思いたい)し。

序章 戦後の青春と推理小説
第1部 現代推理小説考−慶応義塾大学推理小説同好会時代
反ブ−ミング論
黒死論綱要
読書ノートから
 検屍裁判/女人焚死
未発表読書ノート
 1954年 
 忘られぬ死/赤毛のレドメイン/殺意/殺人準備完了/災厄の町/大いなる眠り/さらば愛しき女よ/三幕の殺人
 1955年
 夜歩く/皇帝の嗅煙草入/火刑法廷/曲った蝶番/幻の女
 1956年
 黒死館殺人事件/高木家の惨劇/本陣殺人事件/アシェンデン/判事への花束/船富家の惨劇/魔人ドラキュラ
 1957年
 ブラウン神父の醜聞/幽霊島/死刑台のエレベーター/第二の顔/伯母殺人事件
ダンディズム論評
新しき批評家を求む
翻訳推理小説の影響
現代推理小説考 推理小説にとって現代とは何であるか

第2部 To Buy or Not to Buy−推理小説同人誌「密室」時代
第1回 ねじれた家/魔性の眼/怯えるタイピスト/杉の柩/喪服のランデヴー/海軍拳銃/ひらいたトランプ/死ぬのは奴らだ/ここにも不幸なものがいる/殺人と半処女/九人と死人で十人だ/黒い羊の毛をきれ/雪の上の血/二人の妻を持つ男
第2回 死の扉/最悪のとき/第二の男/窓/コンチネンタル・オプ
第3回 伯母殺人事件/怒った会葬者/運のいい敗北者/寝室に窓がある/寝呆けた妻/死は囁く/ウイーンの殺人/第二の男/第二の顔/グレイシイ・アレン/アラビアン・ナイト殺人事件
第4回 金蝿/飛ばなかった男/吸血鬼(エーヴェルス)/ヴォスパ−号の喪失/消え失せた密画/別冊宝石米英傑作8人集(ブレイク、ワイルド、ブラマ、グリーン、ハンショウ等)/青いにしんの秘密/黄色いねこの秘密/盗まれた街
第5回 火星人ゴー・ホーム/消えたエリザベス
第6回 章の終り/ひらけ胡麻!/毒蛇/吸殻とパナマ帽
第7回 夜来る者/吸血鬼(マティスン)/ベアトリスの死/額と歯
第8回 ナイン・テーラーズ/シャーロック・ホームズの功績/関税品はありませんか?
第9回 試行錯誤/赤毛の男の妻
第10回 非常線/ギデオンの一日/殺す風/ゴルゴダの七
第11回 動く標的/赤後家の殺人/消えた街灯
第12回 長いお別れ/影の顔/吸血鬼カーミラ
第13回 レディ・キラー/死者の誘い
第14回 藁の女/怪物
第15回 錯乱(上)/落ちる/悪魔の手毬唄
第16回 ポンド氏の逆説/錯乱(下)
第17回 死の逢びき/ギャラウェイ事件/カブト虫殺人事件/特集ルブラン/電話の声
第18回 犯罪を追って/消された時間/最後の法廷/特集推理小説作法
第19回 宇宙の眼/ビッグ4/ハマースミスのうじ虫/特集松本清張
第20回 首つり判事/のぞかれた窓/列車081/殺人混成曲
第21回 屍衣の花嫁世界怪奇実話集/殺人をしてみますか?/歯と爪
第22回 第四次元の小説/小さな町の地方検事/ルーヴルの怪事件/聖アンセルム923号室
第23回 明日に賭ける/ドクター・ノオ/消えた心臓/二周年記念TO・BUY随想/早川へ一発/創元へ一発/推理小説の宿命/TO・BUYの苦悩
第24回 続・最後の法廷/特集東京創元社版ミステリ本の昨今
第25回 チューダー女王の事件/ハートの4/消しゴム
第26回 ビッグヒート/死と空と/警官嫌い/通り魔/ひげのある男たち
第27回 麻薬密売人/ハートの刺青/空高く
第28回 死体の喜劇/血ぬられた報酬/無実はさいなむ/フレンチ油田を掘りあてる
第29回 ペテン師まかり通る/法の悲劇/海の牙
第30回 巣の絵/殺意の構成/透明な暗殺
第31回 白昼の死角/扉のかげの男/石の眼
第32回 黒い本/山猫
第33回 トラブルはわが影法師/乾いた季節
第34回 ウィチャリー家の女/ガールハンター/あつかいにくいモデル/ひややかなヌード/キー・クラブ/殺意の記憶/女子高校生への鎮魂歌/蒼ざめた馬/イブ/チョールフォント荘の恐怖/追跡者
第35回 七つの欺瞞/マーニイ/死のとがめ/黄金の檻/壁抜け男/巨眼
第36回 帰らざる肉体/けものの街/特集ポオ全集

第3部 推理小説−これでよいのか−推理小説同人誌「密室」時代(2)
推理小説−これでよいのか 翻訳篇
推理小説−これでよいのか 松本清張篇
推理小説−これでよいのか 和製ハードボイルド篇
現代科学小説評定
編集者は語る(第2回)東京創元社編集部第四課長 厚木淳
新春論壇 日本推理文壇に於ける「密室」の位置
ヒッチコック調の反省
本格推理小説の滅亡を論ず
特集 これが最高トリックだ 十九世紀の神話
早川商法批判 ポケットミステリの偏向
特集・推小界のトップスターをめぐって 水上勉の直木賞受賞にあたって
明日に賭ける宇宙の座標 SFが得たもの喪ったもの(1、アゴーン 2、科学ってなにさ 3、ニュー・センセイション 4、外道ひっこめ! 5、ひとつの声となって 6、おれが乗る! 7、すべて偉大なるもの 8、逃げろ30年 9、あこがれはバスに乗って 10、脱出だ!)
恐怖の視覚
SF相談室/酷使官
なつかしの探偵小説黄金時代 あの頃は−想いは昔を駆けめぐる それは「少年倶楽部」で始まった
批評と同人
オール商法の秘密
カッパ・特集 出版の理想とは何か
古書蒐集入門講座/1 古本を買わず 古本屋を買うべし
東西古本風土記/6 古書蒐集入門2 早く起きて市へ行こうよ
古本高価買入
1962年度翻訳ミステリー ベストテン決まる
1962年度SRベストテン(ウィチャリー家の女、ファイル7、嫌疑、迷宮課事件簿、真白な嘘、不許複製、サンダーボール作戦、連鎖反応、百万に一つの偶然、幽霊の2/3、クレアが死んでいる)
酷使官日記 卯月篇/水無月篇/酷暑篇/爽秋篇
虐殺されたモーツァルト 社会派に於ける自由の問題

うかつなことに、ここで紹介されている本のなかには未読のものが数多くある。
紀田順一郎がおすすめする本だけでもピックアップして、読んでみようか、と思っているが、ほとんど入手困難なのかなあ。
『判事への花束』マージェリー・アリンガム、『魔人ドラキュラ』ブラム・ストーカー(えっ、まだ読んでなかったのか!)、『死は囁く』ロックリッジ、『消え失せた密画』ケストナー(えっ、まだ読んでなかった?読んだかも?)、『消えたエリザベス』デラ・トア、『夜来る者』アンブラー、『ゴルゴダの七』パウチャー、『錯乱』ロバート・トレイヴァー、『ギャラウェイ事件』アンドリュウ・ガーヴ(えっ、以下同文)、『犯罪を追って』ゼーダーマン、『最後の法廷』ガードナー(実話では)、『首吊り判事』ブルース・ハミルトン、『のぞかれた窓』ジャック・アイアムズ、『小さな町の地方検事』トレイヴァー、『ルーヴルの怪事件』E・ポール(これ、面白そうだ!『エッフェル塔の潜水夫』をペダンチックにしたものに似ているって!)、『明日に賭ける』マッギヴァーン(本書を読んで、マッギヴァーンをほとんど読んでないことに気づいた。特に、これは読まねばならない褒めちぎりっぷり)、『死と空と』ガーヴ(ガーヴって、ほんと、盲点だったなあ)、『巣の絵』水上勉、『扉のかげの男』大岡昇平(紀田は裁判実話が大好きみたいだ)、『黒い本』ロレンス・ダレル(文学だ)、『山猫』ランペドゥーサ(このへん、ミステリのジャンルからちょっと離れてる)、『帰らざる肉体』モンティエ
どうだ。未読の山だ。
ISBN:4791763254 単行本 東 浩紀 青土社 2007/03 ¥1,260
東浩紀の『コンテンツの思想』を読んだ。「マンガ・アニメ・ライトノベル」のサブタイトル付き。
この本も対談をまとめたもの。
以下、目次と、目をひいた部分の引用。

1、セカイから、もっと遠くへ/新海誠、西島大介、東浩紀
(広告代理店が今まで20代、30代の女性をターゲットにしてきたことから、男性にシフトしたことについて)
東「それがコンテンツビジネスの正体だと思う。これを「大衆文化」対「高級文化」とか、「国産」対「輸入」とか、「オタク」対「サブカル」とかいった図式で考えると本質を見失ってしまう。そこで軸になっているのは、要は男性と女性の差異なんです」

新海の『彼女と彼女の猫』、西島の『凹村戦争』、東の『存在論的、郵便的』はいずれもプライベートな感情が仕事のモチベーションに直結していることや、対談する3人ともがアーサー・C・クラーク好きだということなど。

2、アニメは「この世界」へと繋がっている/神山健治、東浩紀
(神山による押井守批判。もっとも、彼が正統に押井を継いでいることを前提としたうえでのことだが)
神山「『イノセンス』以降の押井さんの言動を僕なりに考察しているんですけど、徐々に年を取っていって、フィジカルの部分を喪失していくと、逆にそこを埋め合わせたくなるんじゃないかと想像してしまうんですよ」
(東がまとめると、こうなる)
東「押井さんにしても、ヴァーチャルな世界に耐え続けるのはけっこう難しくて、だからこそ「身体性の回復」に飛びついてしまう」

神山「押井さん、いつの間にヴィジュアリストになっちゃったんだろうと僕も思った。たぶん『攻殻機動隊』のあと、「デジタルの旗手」みたいに言われて、だんだんテーマ性が後退していったんだよね。『攻殻機動隊』以降の作品を見て、おや?と思ったから。銃をいかに撃たないかということが重要だったのではなかったのかと」

神山「僕が10年前にI.Gに入って、初めて石川社長と話したとき、生意気にも『攻殻機動隊』は押井さんのなかで一番よくない、ぜんぜん力を入れていない気がするというようなことを言ったんです。そうしたら社長に褒められたんですよ(笑)。しかも「それは事実そうなので、それを直接押井守に言ったら、おまえは評価されるだろう」とまで言われたわけです」

3、「キャラ/キャラクター」概念の可能性/伊藤剛、夏目房之介、東浩紀
東「図像性にキャラの力の根拠を求めるのはちょっと違う気がする」
この対談は伊藤氏が『テヅカ・イズ・デッド』で展開したキャラクターとキャラの概念について多くが語られている。僕はまだ伊藤氏のその本を読んでいないのだが、対談の中からピックアップしていくと、こんな表現が出てくる。
東「キャラとキャラクタ−を分けるというのは、僕の言葉で言うと、物語とデータベースを分けるということです」
東「キャラクターとキャラとは、マンガのなかで見るかぎり、「物語」のなかで生まれる同一性とそれ以前の位相で図像だけの力だけで成立してしまう同一性というふうに、わかりやすく分けられる」
わかりやすいのか!なんだかよくわからないが、会場客席からの質疑応答時にも、こんな発言。
斎藤環「キャラクターというものは転送は可能だけど複製は不可能で、キャラは転送は不可能で複製は可能なんじゃないかと思ったんですね。キャラのリアリティは複製によって増幅されるのではないかと」
竹熊健太郎「キャラ/キャラクターは役者/役の関係に近いんじゃないか」
竹熊は、「忠臣蔵の大石は実在人物だけど、完全にキャラ化している」「小説や絵でどう描かれても漠然と「クレオパトラらしさ」というのがあって、それがキャラなのかと思うんですけどね」などいろいろ例をあげて迫る。
藤本由香里「キャラというのはやっぱりいくらかの強い要素に還元できるところがあって、強い要素は図像的なものが大きいけれども必ずしもそれだけというわけでもない。ただ、いずれにせよ設定として2、3行で書けるもので、それがキャラの本質なんじゃないかと思うんですが」
みんな、新しい獲物を見つけてああだこうだとお祭り騒ぎ。そんななか、ストンと心におちる発言が漫画家から出た。
山本夜羽音「ツンデレとかドジっ子に萌えている状態というのは「キャラクター」に萌えているということではないですか?「キャラ萌え」というのはメイドとか猫耳であって、その姿をしていれば、中身はどうでもいいわけです」
こりゃ、わかりやすい。眼鏡はどっちだ、というところから境界は不分明だとされるが。
で、最初に戻って、伊藤氏がまんがだけでなく、ライトノベルに関しても「キャラはやっぱり突き詰めると図像の力によって担保されている」と主張し、東氏は「ライトノベルは図像を必要とする、というのは現実に反証されている」(講談社ノベルスを見よ)、と対立する。
僕の印象では、伊藤氏の説の方がわかりやすくて、正しい、と思う。講談社ノベルスは絵のないライトノベルという例外であって、それは一過性のもの、あるいは、ライトノベル前史の話なんじゃないか、と思う。東氏が例にあげる講談社ノベルスの森博嗣にしろ、清涼院流水にしろ、僕はライトノベルだとは思っていない。と、いうか、伊藤氏が提唱している説なんだから、とりあえず、伊藤氏がどういう使い方をしているか、というところからまず出発すべきじゃないんだろうか。

4、フィクションはどこへいくのか/桜坂洋、新城カズマ、東浩紀
ここで新城はキャラクター/キャラをあっさりと要約する。
新城「キャラクターから時間次元を取り去るとキャラになる」
さすが、前章での山本夜羽音にしろ、実作者はわかりやすく本質をとらえてくれる。東はここでも「それはライトノベルの存在によって反証されてしまっている」と論を崩さないけど。
この章で、新城の仮説が出る。
新城「日本のマンガは一種の体系化されたアウトサイダー・アート」「高校の漫研文化とキャラ文化の相関をもっと調べるとおもしろい」

本書は、東浩紀によると、コンテンツ産業について、「産業」「風俗」としてでなく、文化的な表現として分析の視線を向けた仕事が少ない現状から出版された。なるほど。でも、なんとなく、モタモタしているような気がした。まだ、だから何?と身も蓋もなく言えてしまう段階にあるように思えたのだ。
ISBN:4582286119 大型本 巖谷 國士 平凡社 2007/04 ¥2,700
鶴見はなぽーとブロッサムで、ミルキーハットのライブ。
午後2時からの1回目
1.HIP HOP MIX(ダンス)
2.軌跡
3.歩いて行こう
4.シノブ(メンバー紹介ダンス)
5.We Love Sweets
6.大航海ランドスケープ
雨はやみ、適度な涼しさの中でのライブ。
ブロッサムのセール中とあって、客席も満員だった。
ライブ後はこども限定の握手会と、物販。
午後4時からの2回目
1.HIP HOP MIX
2.We Love Sweets
3.ダンデライオン
4.シノブ
5.ハッピーメイカー
6.大航海ランドスケープ
毎回思っていたことだが、今回は特に、まみかの身のこなし方にシビレた。
ダンスが一番得意なのはユイ。上手なのはレナ。
だけど、努力によってダイナミックなダンスをものにしたカヨ(勝手に僕がそう思いこんでいる)と、生まれもった資質で小気味のいいダンスをするマミカに、ついつい見惚れてしまう。
もちろん、ミルキーハットは単なるダンサーの集まりではないのだから、ダンスさえよければそれでよし、というわけではない。
モデルのように美しいチヒロ、知的なグラビアアイドルのトモミ、天使のように性格のいいサヤカ。いやはや、すごいメンバーが揃ったものだ。全部、思いこみ?勘違い?ほっといてくれ!夢を見させてくれ!
そうそう。マミカ。彼女のダンスは、人と同じように動いているように見えて、なんだか違う。人間のレベルを1つ超えているように思えるのだ。だから、意外とソロダンスのときよりも、みんなであわせて同じ振り付けで踊っているときに、マミカの尋常じゃない身体性が見えてくる。その対極にあるダイナミックなカヨとは、まさに平成の名勝負。

帰宅途中から、NHK-FM「現代の音楽」
ジョン・コリリアーノ作曲の「交響曲 第1番」(チェロ)ジョン・シャープ (ピアノ)スティーヴン・ハフ (管弦楽)シカゴ交響楽団 (指揮)ダニエル・バレンボイム
1990年の作品。「ザ・キルト」という美術作品がある。エイズに冒された人たちが着用していた衣服など をパッチワークした作品なのだそうだ。この交響曲も、エイズで亡くした友人たちの思い出をキルトのように織り込んだ作品になっている。
ポスト前衛の新しい折衷主義作品。
と、これは西村朗氏の解説を適当にまとめたものだが、電波の入りがあまりよくなくて、雑音と闘いながらこの交響曲を聞くはめになったのは、なんとも残念だ。CDを探して、ちゃんと聞くことにしよう。

読んだ本は、『澁澤龍彦 幻想美術館』東日本を巡回している同名展覧会の図録になる。文章は巖谷國士。
以下、目次にそって、展示作品やキーワードなど。

はじめに
肖像アルバム
澁澤龍彦の美術世界 序にかえて
幻想美術館 7つの展示室
第1室 澁澤龍彦の出発 
 1−1昭和の少年(武井武雄、ヘチマコロン)
 1−2戦後の体験(コクトー、ブルトン、サド)
 1−3サド復活まで(ベルメール、ダリ、三島)
第2室 1960年代の活動
 2−1美術家との出会い(加納光於、瀧口修造、野中ユリ)
 2−2土方巽と暗黒舞踏(バラ色ダンス)
 2−3さまざまな交友(池田満寿夫、中村宏、唐十郎)
第3室 もうひとつの西洋美術史
 3−1マニエリスムの系譜(アルチンボルド、パルミジャニーノ、カロ)
 3−219世紀の黒い幻想(ルドン、モロー)
第4室 シュルレアリスム再発見
 4−1エルンストにはじまる(タンギー、マグリット、デペイズマン)
 4−2傍系シュルレアリストたち(デルヴォー、ベルメール、スワーンベリ、モリニエ、ゾンネンシュターン)
第5室 日本のエロスと幻想
 5−1血と薔薇の頃(伊藤晴雨、佐伯俊男)
 5−2青木画廊とその後(横尾龍彦、金子國義、高松潤一郎、四谷シモン)
第6室 旅・博物誌・ノスタルジア
 6ー1ヨーロッパ旅行(ボマルツォ)
 6ー2博物誌への愛(ペレール、ヴァトー)
 6ー3日本美術を見る目(酒井抱一)
 6ー4ノスタルジア(カトリーヌ・ドゥヌーヴ、フォーコン)
第7室 高丘親王の航海
 7−1ひそやかな晩年(喉頭癌、体重37キロ)
 7−2最後の旅〜1987(8月5日、読書中に頸動脈破裂)
名鑑 澁澤龍彦をめぐる260人
澁澤龍彦年譜
主要著書ギャラリー
著作目録/参考文献
全展示作品リスト

細江英公が撮った由比ガ浜での澁澤、矢川のコイコイ風景は美しい。
同じような構図での、唐十郎、李礼仙の生活感あふれる写真とは対照的。
こどもの頃に接した武井武雄の「お化けのアパート」は、長じて若冲の「付喪神図」とオーバーラップし、自らのデッサン「海ネコの王」へとつながる。
名鑑に寺山の名前があったので「澁澤は寺山とも交流があったんだ」と思って読んでみたら、「59年にエッセーで寺山の短歌をとりあげているが、その後親しく交友した形跡はない」なーんだ。
本書所収の多くの美術作品は、澁澤龍彦に教えてもらったも同然で、自分の学生時代を思い出してしまった。
東日本に見に行くべきか、いや、それとも。いや、それとも。
ISBN:4791762401 単行本 鈴木 謙介 青土社 2005/11 ¥1,680
信長書店で「もっとペロキャン!ワンコインぷちライブ」
今日も白い恋人あゆ欠席で、3人のステージになった。
1.Pa-La-La
2.あんぶれら
3.ギャグ100回分愛してください(あかり、かな)
4.スカートひらり
5.ねぇ、わかんない?
衣装はバスローブ。湯上がりのリラックスした雰囲気が、いい感じ。
今回のライブは、いろんなところにみどころあり。
まず、いきなりカナ吉がマイクで下唇あたりを痛打し、歌やダンスに急ブレーキ。
他メンバーから、「カナ吉はよく口から血を流している」と不思議なツッコミが入る。
「ギャグ100回分」は昨日いきなりDVD渡されて徹夜で練習したというが、カナ吉は満足に踊れずに悔やんでいた。
カナ吉の話題ばっかりだが、それもそのはず。3曲目終わりで3分間撮影タイムがあり、そのあとはゲームコーナーだったのだが、そのときに、6月18日に15才になったばかりのカナ吉にバースデイケーキのサプライズ!メンバーからは色紙にメッセージのプレゼント。
そして、ゲームの内容は、カナ吉クイズ。
「レゲエが好きである」(答えはYES。先輩の影響らしい)
「今の髪型が気に入っているか」(答えはNO。髪を切ったときに、みんなに「何してん?」とツッコまれたらしい)
「プライベートではスカートをはかない」(答えはYES。いつもパンツルックなのは、スカートよりもパンツの方が布地が多くて得だからだそうだ)
などなど、カナ吉についての問題をお客さんが答えて、正解と比較して、イメージと実際の差に驚いたり、理由聞いて納得したり。
ここで妙な存在感を出していたのが、小悪魔あすぴだ。
カナ吉クイズで「乙女である」というべきところ、「こう見えて」と勝手につけ加えて出題したり、「ギャグ100回分」のあとカナ吉が「あすぴが睨んでるから呼ぶわ」と言うと、「睨んでないって」とあすぴ御得意のリアクションしたり。
さらに、今回一番面白かったのは「ねぇ、わかんない?」の最初のせりふを、「頭がおかしくなっちんぐ」と言うべきところ、何回も笑って言えず、やりなおしてたところ。このイベント以降、「頭がおかしくなっちんぐ」は、僕のあいだでは大流行だ。
ペロペロキャンディーズは、24時間TVに募金を持っていく予定で、受付カウンターに募金箱が置いてあった。帰りに小銭を入れておいた。24時間TVでライブしたり、募金の受付する側にいればいいのに。

読んだ本は対談集『波状言論S改』
序文−社会学と批評のあいだで/東浩紀
第1章 脱政治化から再政治化へ/宮台真司、鈴木謙介、東浩紀
 1、政治的転回をめぐって
 2、強度ある世界のために
第2章 リベラリズムと動物化のあいだで/北田暁大、鈴木謙介、東浩紀
 1、80年代から遠く離れて
 2、インターネットと応答責任
第3章 再び「自由を考える」/大澤真幸、鈴木謙介、東浩紀
 1、現象学的身体と環境管理
 2、動物は自由か

以前、「網状言論F改」って本も読んだけど、この「F改」はきっと「深い」と読むんだろう。(不快か?)
この『波状言論S改』の「S改」は「スカイ」なのか?
トークの内容について、今後詳述すべき問題点については、いずれ各著者が本にまとめるだろう。いくつかのテーマや問題点をめぐって、考え抜いた答からその場しのぎの回答まで混じっているため、1つ1つの発言に対して「言質をとった」としないのが、賢明だろう。
ここでは、読んでいて面白かった部分を断片的に記録しておく。

第1章
「ネタ」が「ベタ」になったことについて、言い換えれば「あえて」やっているのと、たんにわかってないのとについて語るところで。
宮台「厳密に言えば、年長世代と年少世代の落差だね。たとえば『エヴァンゲリオン』を「引用の嵐だ」というふうに読む年長世代の読み方と、碇シンジくんの自意識をめぐる物語として読む年少世代の読み方の落差です」
これに東は反論する。
東「宮台さんの整理では、一方に制作者あるいは制作者と同世代の元ネタ読解があり、それはそれで1つのコミュニティになっていた。他方ではもっと若い世代がいて、これはネタをネタと知らずにベタに消費して、「シンジくんは僕だ」とか言って泣いていた」
東「いま宮台さんがおっしゃろうとしたことは、元ネタもわからずシンジくんに感情移入するベタな消費者が増えてきた、という話ですよね」
と、整理したあと、
東「『エヴァンゲリオン』のブームを支えたのは、物語も元ネタも関係なく、二次制作の海(データベース)の中でただただキャラクターを消費したいという「萌え」な連中ですよね」
東「大事なのはそれが堕落かどうかでなく、ある世代の制作者の意図を超えていたということです。これはネタかベタかという対立には収らない。受け手がバカになったという話とも違う」
宮台真司はこれに「そのとおりだよ」と肯定して論を進めていき、ことは紛糾。
トークの流れとしては面白いが、どうにもひっかかる。
ネタとベタの話は、なるほど、と思わせられるものがあり、このエヴァンゲリオンについても有効だと思う。二次制作としてキャラクターを消費する「萌え」な連中にしたって、それをネタとして受け止めるのとベタに受け止める二分法が有効なんじゃないか、と思うけど、これって単に僕が年長だから思うことなのか?今の「萌え」な連中ってのは、たとえばエヴァンゲリオンを「受け止めずに消費」できるのか?だとすると、ここで語られているのは、「いかに受け止められたか」が問題なんだから、受け止めていない連中について語っても仕方がないんじゃないか。ブームになった云々は、どうでもいいことのように思う。ブームにならないアニメや漫画に関しても、ネタとベタの受け止めはなされているからだ。

また、「作り手が何を意図したのか」という問題とは別に、受け手にとって「どんなものとして機能しているのか」という問題意識を持たねばならない、との主張で、『世界の中心で、愛を叫ぶ』について触れている。
鈴木「これはちまたで認識されているような「恋人が死んで悲しい」から泣ける本だというものではありません。なぜなら、死は最初から暗示されているからです。この本では、おじいちゃんがキーとして出てきて、おじいちゃんと「僕」の喪失に対するスタンスの違いが問題となります」
なるほど。僕はベストセラーだとか、話題になっているから、という動機で本を読むことはまずないので、この『世界の中心で』も読もうとしたことがない(読んだ人が酷評しているのを聞いたことはある)。でも、本書を読んで、『世界の中心で』も読んでみようか、と思い直した。タイトルのあまりの大馬鹿ぶりに、ちょっと手が出なかったんだけど。

第2章
消費者が今なぜ「感動」を求めるのか、について。
東「僕たちが生きているこの社会が、そもそもあまりにメタメタで(笑)「これがおもしろい」と言ったところで「別の視線もあるでしょう」という多数の反論可能性に満ちているからです。だからこそ、そういうノイズをシャットアウトしてくれるものを求めざるをえなくなっている」
東「感動をほかのコミュニケーションから区別する特徴は、反駁不可能性」だから。

また、この章では「オタクの欲望はどんなものなのか、という心理学的な問いよりも、オタクはどうして自分たちの欲望を実体化したいと思っているのか、というメタレベルの問い」を問題提起している。
東「オタクなんて集団は、実際にはここ30年間の消費社会がつくりあげたものにすぎない。にもかかわらず、そこでつくりあげられた一定の消費者像が、人格的・実体的なものだと錯覚したがっている」
なるほど。これはもう問題を思い付いたことが即、答えみたいなものだ。と、いうか、これは問題ではなく、分析すべき課題、という感じかな。

第3章
東「どうのこうの言っても人間は社会的動物です。しかし、そのときに作られる社会性が、2ちゃんねるのオフ会とか、はてなダイアリーのコメントやmixiメッセージにまで縮減しはじめたとき、その本質はやはり変わってくると思う」
ふむ。これは分析したのをいろいろ読んでみたい。

本書は第1章の宮台氏の問題提起をずっとひきずっているようだ。
それは「ネタ」「あえて」「アイロニカルな没入」と言葉を変えて、同じことを何度も論じなおしていることでよくわかる。世代論にしてしまうのはほとんど判断停止だとは思うけど、ついつい世代のせいにしたくなってくる。

なお、本書中で取り上げられた、ある書物が、僕が考えていた都市論をかなり前に先取りしていて、それについて考えをすすめるのをいったん止めたのは、先の日記で書いたとおり。その本は森川嘉一郎の『趣都の誕生』で秋葉原のことを取り上げているらしい。僕にとって都市とは日本橋のことだから、納得。まだ読んでない本なので、いずれ読んでみよう。要するに、僕が「都市論」だと思っていたのは、単なるオタクの町の特徴でしかなかった、ということだ。もっとちゃんと考えろ!僕の脳髄よ!

遠くの都市

2007年6月22日 読書
ISBN:4787210408 単行本 小倉 正史 青弓社 2007/03 ¥2,100
ジャン=リュック・ナンシーの『遠くの都市』を読んだ。
第1部 遠くの都市
 第1章 遠くのロサンゼルス/ジャン=リュック・ナンシー
 第2章 遠くの都市/ジャン=リュック・ナンシー
 第3章 場所の彼方の都市/ジャン=クリストフ・バイイ
第2部 都市のゆくえ
 建築に表出する病理の行方/坂牛卓
 CIVITASではなく、SUBURBUMからの思考−ジャン=リュック・ナンシーの都市論の古典性と正統性をめぐって/若林幹夫

例によって、本書のことを知りたい人は実際に読むか、他のサイトですませてください。ここにはほとんど『遠くの都市』についての言及はありません。
第1章のロサンゼルス論を読んでいるあいだ、僕の頭にあったのは、「こんなのは都市じゃない」だった。それにあまりに囚われすぎて、読んでいるうちにナンシー自身が、ロサンゼルスがいかに都市から遠いのか(それがタイトルのゆえん)を語っているのに気づき、「しまった。ナンシーの描写にまんまとのせられた!」と地団駄ふんだ。
ナンシーによると「すべての都市はいきどまり」であり、それにはうんうんとうなずいたが、ロサンゼルスはそうではないのだ。
車に乗って行き過ぎる場所、それがロサンゼルスだ。
僕が思うに、この一点から既に二重の意味でロサンゼルスの非−都市性は明らかだ。
1、ナンシーが言うように、都市はいきどまりだ。滞留こそが都市のありようだ。
2、車なんてものは、田舎に住んでいる者がどこに行くにも不便だから使う乗り物だ。都市は手ぶらで歩いて行くところなんだ。車で都市に乗りつけるのは、そこが都市である証拠にはなるかもしれないが、車が示すのは田舎であって、都市のシンボルにはなりえない。観光バスが古都のシンボルになりえないのと同じだ。
第1章は80年代末に書かれ、第2章は90年代末に書かれている。
第2章でナンシーは都市について多くの単語を並べる。
散水機、ブラッシング機、蛍光色の制服を着た道路管理職員、瓶、チューインガム、食べ残しのサンドイッチ、コンドーム、注射器、犬の糞、傷んだ野菜、破れた容器、包装紙、ファストフード、ドネル・ケバブ、ホットドッグ、ピザ、カップヌードル、フライドポテト、薄暗がりの隠れ場、銅と木材のカウンター、煙とジュークボックス、赤線地帯と放浪者、取引と麻薬のコーナー、落ちこぼれのコーナー、腐敗したクラブ、電線とパイプ、雑音と喧噪、流体と記号、ダクトなどなど。
で、ナンシーがどんなことを言っているかというと
「都市は散乱した全体である」
「私生活と雑居生活に至るまで、都市は自らにとって異質なものを集めて集中する」
「絶えざる運動のなかで、都市は自らが設置したすべてを不安定なものにする」
「落ち着きのない混雑が、いなかに根ざしていた近接に代わるのだ」
確かにそうなのかもしれないが、僕は主に「都市」というと自分の暮らしている大阪日本橋を頭に描いており、それこそが都市のひな形だと思っているので、いろんなところで、違和感も覚える。
例えばこんな描写がある。
「夜間、大都市に着陸する航空機のアプローチ。照明されたリボンが長く伸び、輪になり、束ねられ、重なり合って消失するかあるいは拡散する。緑色や黄色、あるいは」
ちょっと待った、ナンシーさん。大都市に航空機なんか着陸しませんヨ!飛行場があるのは田舎と決まってますヨ!
なんて、ツッコんでしまうわけだ。
「夜明け、車が、最初の納品車、最初の集荷車が動きだし、」
ちょっと待った、ナンシーさん。都市は24時間動いているんですヨ!最初の納品車なんてありませんって!
とかね。
一方、これは納得、と膝を打った描写もあった。
「都市は大食である。通行する人の誰にでも合うように食べ物の幅を広げる。食べるものを陳列し、そのリズムを速める。至るところで、そして速やかに食べなければならない。しゃべりながら食べ、歩きながら食べ、仕事をしながら食べなければならない」
最近、公共広告機構が、電車の中で食事することについて、なんとマナーの悪いことか、と言っているが、都市ではこういう主張は成り立たない。
もともと列車の中で食事することは、駅弁をホームで売っていたりする時代には、当たり前だった。それが、都市のマナーとして「電車の中では迷惑になるから食事をしない」という時代を経て、現代では、車中の食事が普通になっている。移動中にしか食事の時間がないからだ。都市においては、電車の中での食事をとがめるのは、「おまえはものを食うな」と言ってるに等しい。都市のルールを知らない田舎の人以外、誰もそんな無茶なことは言わない。もっとも「食事」と言った場合、通常、都市ではドラッグストアフードが主食である。次善手としてファストフードがあり、弁当なんて食べているのは、場違いか、よっぽど他になかったというケースだから、車中の人々は「迷惑だ」「マナーがなってない」と憤慨せずに「かわいそうに、ドラッグストアがなかったんだな」と同情するのである。
そうそう、そもそも、都市は滞留するものなんだから、基本、電車に乗る必要もないはず。

第2部は、ナンシーのテクストをもとにして、都市論を展開している。
「建築に表出する病理の行方」はグーグルアースやボルヘスの『アレフ』を例に出して、こんなことを言う。
「多くの線的な都市体験は点的なものに変わりつつある。さらに早い高速交通手段はメガリポリスを飛び越えて地球規模での点的な都市の連鎖体験をも生み出している。つまり空間をワープしながら地理的距離を捨象するような体験である。そして、ネット上では事実そうしたことがすでに起こっている」
坂牛氏は、このあと、『アレフ』とフーコーに影響を受けたポストモダン地理学のエドワード・ソジャの話に突入していく。
「都市体験とは、終わりなき連なりが同時的に受容されるものであり、時間的経過のなかに歴史的に並べられるものではない」と。
これって、昨日読んだヴィリリオともつながっているように思う。
若林幹夫氏は何冊か読む予定があるので、そのときにでも感想をまとめてみたい。
実は、本書を読んでいると、ナンシーが何を言わんとしているのか、ということよりも、そこで描かれたロサンゼルスのあまりの非−都市性(スーパー非−都市くんと呼ぼう)に影響されて、自分なりの都市論みたいなものを考えさせられた。主にそれは「展開」をキーワードにしていたのだが、たまたま本書のあとに読んでいる本に、似たような論調のものを見つけてしまった。いずれちゃんと読んだらまた感想書くとして、自分の都市論に関しては、いったん封印だ。
ISBN:458270266X 単行本 竹内 孝宏 平凡社 2007/04 ¥2,100
ポール・ヴィリリオの『パニック都市』を読んだ。2004年。
タイトルはかなりベタな印象を受ける。確かに。でも、ベタな僕にはぴったりだ。
以下、目次。

タブラ・ラサ
感情民主主義
戦争通行路
時間の事故
パニック都市
場所の黄昏

ヴィリリオの本は、引用も含めて、名言が多い。ここでは、読んでいて「おっ」「へえ」とか思った文章と簡単な感想を各テクストごとに書いておく。ヴィリリオについて詳しく知りたい人は本書を読むか、別のサイトにあたってほしい。

「わたしというこの都市生活者は、みずからの運動性によって、またそれと同じくらい市街地の交通網システムによって、プログラミングされている」(「タブラ・ラサ」)
「パリはポータブルである」(「タブラ・ラサ」)
上記2つの文章は、2つあわせて、シチュアシオニストの言う漂流を論じなおしているようだ。しかし、「パリはポータブルだ」は見事な言葉だなあ。僕も「日本橋はポータブルだ」と使ってみたい。
この言葉を説明する文章は、こんな具合。
「都市は、場所に関するわたしの記憶が活性化するなかで現前する」
「わたしはどこへいくにもこの心的地図を携帯する」
「砂漠でも中国でも、わたしの都市はすでにそこにある」
ヴィリリオは速度について語るドロモロジストと言われているが、車に乗って通過するスピード狂ではなくて、歩行者なのだ。

「出来事を創造するとは、こんにち、情報化時代におけるさまざまな感情の同期化に対する条件反射のサイバー・メンタリティなど断じて拒否するようなひとつの思考を、さらに活性化するということである」(「感情民主主義」)
うまいこと言うなあ。このテクストでは感情の同期化を主に語っている。
ツインタワーに飛行機が突っ込んだスペクタクルを模倣して、セスナがビルに突っ込んだ事件を記憶されているだろうか。ビルはびくともせず、セスナは建物に激突してクシャッとつぶれていた。1度めは悲劇、2度めは喜劇、なんてマルクスも言ってたけど、ヴィリリオがここで言うのは、マスメディアによる条件づけで、行動が規格化し、感情が同期化する、ということなのだ。

「メソポタミアの記憶が荒らされシュメールの宝物が強奪されたあと、情報の戦争はその本来の姿をあきらかにしていった。それは、歴史に対する闘争であり、さまざまな起源を破壊する試みなのである」(「感情民主主義」)
かつてユゴーが抗議した、ヨーロッパが中国で夏宮を略奪したことと、アメリカがバグダッドの考古学博物館、図書館を廃墟にかえたことをオーバーラップさせての文章。SFでは、憎い敵を倒すために、タイムマシンで過去に遡り、敵の親を殺して、敵の存在をなきものにしようとする話が山ほどある。どうやら、それは現在のアメリカ軍によって既に形を変えて行われているようだ。
「予防戦争。あれこれの暴君に対するというよりも、むしろ記憶のおよばぬほど過去の記憶に対する予防戦争」(「感情民主主義」)

「ハイパーテロリズムの到来とともにたったいま変化したばかりのもの、それは感情の同期化である」(「戦争通行路」)
ここまでは、先の「感情民主主義」でも述べられていたところ。これがこう展開する。
「いまや、情報革命とともに、このような世論の口径測定では、こうした政治的に正しい規格化ではもはや十分ではなく、大衆の感情の同期化がさらにそこへ付け加わり、恐怖がすべての人々によって瞬間的に感じとられるようにしなければならない。いたるところで同時に、そこかしこで、グローバルな全体主義の規模で」(「戦争通行路」)
戦争はライブ映像などの「1枚のスクリーン」を舞台とするようになるのだ。

「双方向的メッセージ伝送の絶対速度による収縮。リアルタイムの瞬間性による広がり不在の征服。それで突然、世界は病理学的に固着化する。かつて多極的であった世界は、内部と外部の概念が反転するのにともない、もはや単極的であろうとするようになる」(「時間の事故」)
ここでは、世界が時間的に圧縮したことの攻撃的な様相が説明されている。ノースカロライナ州の学生の言葉が引用されている。
「われわれは、反撃する前に攻撃されるのを待っていることなどできない。こんな時代は終わった」(「時間の事故」)
予防戦争だ。

「20世紀最大のカタストロフは都市であったということ」(「パニック都市」)
「およそ1世紀をかけて、アメリカの小半島は天空にまで拡大する。その摩天楼のように。摩天楼とは結局のところ、あるスカイラインを描いて上昇していく島でしかない。もっともそれはいまや惑星的なスカイラインなのだが」(「パニック都市」)
「実際、居住という行為をする人がますますいなくなり、われわれがみな、いわゆるアウトソーシングをされるようになると、世界全体が恐怖をあたえるものと化すだろう」(「パニック都市」)
上から順に感想を並べてみる。
(上)たしかに20世紀はね!今世紀は?
(中)類推の喚起力の強いこと、強いこと!
(下)都市で語るべきは、居住の欠落だ、と僕は思っている。それはあたらしくて必然の流れだと思うのだけど、同時に恐怖も呼び起こしている。ホームレスは狩られ、ネットカフェ難民もまた撲滅すべきものとして取扱われるのだ。
公園からホームレス追い出したり、ネットカフェにガサ入れはいるような状況は、すごく嫌だなあ、と思う。
ISBN:4406033041 単行本 大石 容子 新日本出版社 2006/07 ¥1,470
大阪国際平和センター「ピースおおさか」に行ってきた。
ここには常設の展示として「大阪空襲と人々の生活」(1トン爆弾の模型、戎橋界隈の焼跡ジオラマ、戦時下民家の模型、防空壕模型、空襲体験者の絵、その他、映像も含め多くの資料が展示してある)、「15年戦争」(原爆、アウシュヴィッツ、満州、シベリア。15年戦争の映像も流れる)、「平和の希求」(映像、図書など。運命の日の時計もある)などがある。
特別展示で今日は「守りたい、子どもの命、子どもの未来!〜アグネス・チャンが見た世界・紛争下の子どもたち〜」が開催されていた。
ユニセフ親善大使アグネスがイラク、モルドバ、レソト、スーダンを訪問したときの写真や、長倉洋海氏の写真「ザビット一家、家を建てる−コソボで見続けた一家の5年間」、創作絵本「カメラを食べたゾウ」絵本パネルが展示されていた。腕に巻いて寸法を測るメジャーが置いてある。写真にはガリガリに痩せた子どもが写っている。紛争下の国で痩せ細った子どもの腕まわりとくらべるのである。ただでさえメタボリック症候群の僕は、腕まわりも半端ない。アチャー、と思った。
また、地雷をふんで足の先を吹き飛ばされたゾウのドキュメンタリー映像も流れていた。
タイ国では象は神聖視されているので、その象の足をみんなが協力しあって、手術するようにはたらきかけるのだ。
地雷って、作るのに1個400円しかかからないらしい。そりゃ、ばらまくように埋めまくるわな。撤去するには1個4万円。なに、この差?
地雷で足を吹き飛ばされたり、失明した人々は、働くこともままならない。そうした人々が集まって暮らす村のことも紹介されていた。
学校の授業の一環なのか、中学生たちが何人か入場していた。憲法や教育基本法が書き換えられている状況では、今、ここで無邪気に廃墟や死体の写真を見ている彼らこそ、兵隊として命のやりとりをする当事者になる可能性がある。しっかりとものを見る目を養ってもらいたいものだ。間違っても、マスメディアの戦略にのって、恐怖にかられないように。
まあ、真面目そうなこと書いてしまったが、僕がこのピースおおさかに来た一番の理由は、アグネス・チャンのファンだったからなのである。中学時代など、アグネスの下敷きとか使ってたし、レコードはだいたい揃えていた。雑誌の切り抜きなども。アグネスが今でもカタコトをやめず、それをネタにしているところも大好きだ。ヒット曲を何曲もとばしたあとに、「白い靴下もう似合わないでしょう」とか歌ってたのは、まったく何を歌わせてくれるんだ、と怒りくるったものだが。アグネスも、あんまり年をとらない稀有な部類に入る人だと思っている。
http://www.peace-osaka.or.jp/event/e070301.html

CAS(キャズ)で開催中の、辻和美展「Daily Life」を見てきた。
日常における非日常がテーマなのだそうだ。
ギャラリーの中では、透明のガラス球がいくつも吊るされてぶんぶん回転していた。
そして、白いテーブルの上には、これも無色透明の庖丁が。
ガラスの庖丁は、無意識の恐怖が形をとってあらわれたものなのか。
不思議と危険な感じはなくて、ぷちサンプルを見ているような、親しみやすさを感じた。それこそが罠なのかもしれないけど。
http://cas.or.jp/
ISBN:4878923229 単行本 Robert F. Young 青心社 2006/12 ¥1,680
ロバート・F・ヤングの『ピーナツバター作戦』を読んだ。
2006年に出た新装版で、堺三保の解説が付け加えられている。

「星に願いを」
夢で見た少女を現実で発見。彼女はストリッパー?
どうやら、彼女も同じ夢を見ていたらしい。

「ピーナツバター作戦」
釣りに出かけたら、妖精に会った。
ピーナツバターのサンドがお気に入りのようだ。

「種の起源」
マンモス型航時機で過去をのぞいてみた。
クロマニヨン人の正体がわかる。

「神の御子」
技術国家の技術尼たちは技術神を信仰していた。
神の御子があらわれ、奇跡を起こしつつ、人々を導こうとするが。

「われらが栄光の星」
ラムダXiフィールドを通ってしまった宇宙船。
操縦するナサニエル・ドレイクはそのせいで半透明になってしまい、密航していたセント・アナベル・リイ(ポー?)は宇宙空間のもくずと消えた。
聖女を殺してしまった、という罪の意識から逃れるため、ドレイクはアナベル・リイがどんな女性だったのかを調べる。

全体に、物語にSF的解釈をつけて1つの小説を仕上げている作品が多かった。
「ピ−ナツバタ−作戦」は、地球に来たけど燃料切れで、しばらく地球にとどまらねばならなくなった宇宙人を描いている。ピーナツバターはその燃料の原料になるのだ。
これって、ハリウッドの映画で似たようなのを山ほど見かける、今では定番中の定番的ストーリーだ。
「種の起源」では、地球はある星にとっての流刑地であり、クロマニヨン人は、囚人だった、という解釈。地球人は、宇宙犯罪者の末裔だったのだ。
「われらが栄光の星」は、まるで私立探偵もののミステリーのような話で、聖女が実はストリッパーであったことをつきとめるが、良心の呵責はおさまらない。で、結局きわめてSF的な展開で、やりなおしがきいてしまうのだ。

また、「われらが栄光の星」での、聖女がストリップしてた、みたいな話が本書には多かった。「種の起源」でも博士の助手がストリッパーであったことを隠していたことが描かれている。お堅い、まっとうな職についている女性が、実は男の性欲のはけ口となっていた。でも、主人公はなおさらその女性のことを尊敬したりする、という話。
タイムスリップに関する話も多かった。
まあ、とってつけたようなSF小説なのだが、こういう感覚って、中学生の頃によく味わった思い出がある。
僕は高校を卒業するまでは、探偵小説以外の本はほとんど読まなかった。
すると、普通の小説で終わっておけばいいのに、それをあえて推理小説的な展開にしてみたり、決着をつけようとしてみたりする物語とも数多く接することになる。こういうのは、推理小説的にはもちろん「あり」なのだが、普通の読書界(と、いうのがあるらしい)からすると、「何も推理小説にしようとこだわる必要はないのでは」と思うんじゃないか。推理小説ならなんでもよかった僕でもが感じたのだ。読書界ではいっそう、その思いは強かろう。ヤングのこの短編集は、どれもこれも面白いが、SFになぜこだわる?という疑問が湧いてしまう。SF誌にのせるため、というようなことは、僕の知ったこっちゃないのだ。「ピーナツバター作戦」なんかは藤子漫画にも通じるほのぼのさがあってそのあたりうまくクリアしているように思ったが。

ギリ喜利

2007年6月18日 ライブ
赤犬 CD Pヴァインレコード 2003/09/10 ¥1,575
フェスティバルゲート4Fココルーム でメガバトル大喜利トーナメント『ギリ喜利3』
下ネタ、身内ネタ、ネタの被せ一切禁止のストロングスタイル大喜利トーナメント。
敬称、基本略で。
山田ジャック(特殊芸人)による進行で。(準決勝でピンチヒッター登場)
審査は、ナカウチ、東海林ハリソン、出場者から1人。後半、ロビン(赤犬)。
出場は、
ヒデオ(赤犬)
ほーさん(海抜5000m)
とっさん(第2回王者/海抜5000m)
草壁コウジ(サブカルチャーノート)
ぶっちょカシワギ(ライパチフィルム)
ぶたお(BS@もてもてラジ袋)
西野ヒロシ(恋愛研究会。)
イトウタカアキ。(恋愛研究会。)
モッコリ小金治。(恋愛研究会。)
ムヤニー(深夜喫茶銭ゲバ)
いけない!テロ先生(コミックガンボ)
ちやじ(もちもち☆ちやじはん)
1対1の闘いで、審査員3人のうち、2人以上の支持によって、1ポイントが入る。
2ポイント先取で勝利。
この大喜利の問題が、どれも秀逸で、楽しめた。
回答よりも問題の方が面白いこともしばしば。
僕も客席で、お題に対する答を一通り考えた。自分の発想にない答えを出場者が出してくることが快感で、これは楽しい。自分の思いついたものは、多くが理に落ちるもので、何が何だかわからない着想のものは少なかった。これが、自分の限界だ。
優勝者は赤犬のヒデオさん。
決勝まで残った海抜5000mのとっさんの答えもいちいち面白くてぶっとんでいた。
面白い答をいくつも出せるベスト4あたりの対戦時には、2点先取というルールではなく、笑点方式で何回でも答えさせて、いっぱい面白い答を聞きたかった。まあ、その分、緊迫感には欠けてしまうんだけど。
この「ギリ喜利」は今まで仕事と重なっていて見ることができなかった。やっと見られたが、きっとステージに上がって回答するとなると、プレッシャーとかあって自分自身の精神状態が面白くなるんだろうな、と思う。次回、もしもスケジュールがあったら、出てみたいものだ。僕のような凡想では1回戦敗退は堅いが、お笑いのプロでない者には、失うものは最初から何もない。
ナニワでライブ☆カフェ〜ジョージ・クラム〜James Chanceピアノライブ@UrBANGUILD
堺筋本町のclub MERCURYで「ナニワでライブ☆カフェvol.2」
僕は、出演者の野中ひゆちゃんのバックで好き勝手に踊ったりする役で、ステージに立った。
2部構成になっており、1部、2部でステージに立って歌うアイドルちゃんと、客席でお客さんとコミュニケーションをとるメイドさんが、交替するシステム。それぞれの部で別料金なのだが、特定の女の子のファンの場合、アイドル編とメイド編の両方に参加するのが、普通なのだろう。うまいことを考えたものだ。メイドさんとして客席にいるときは、それぞれのメイドさんの特製カクテルってのがあって、それを注文すると、2ショットチェキが撮れるのだ。
ステージに立つ子を中心に書くと、
第1部:薫、Nana、野中ひゆ、桜井桃花(from東京)
第2部:婀生守て乃、水華、香乃(from東京)、ちょこっと☆ベリー
アニメソング中心の選曲で、全体の印象は、アイドルのライブというよりも、メイドカフェ、コスプレイベントの雰囲気が強かった。僕がよく参加しているアイドルイベントというのは、歌のアイドル、またはダンススクールイベントなので、ムードのあまりの差に驚いた。ひとくちで言うと、この「ナニワでライブ☆カフェ」に出演している子たちは、だいたいがオタクなのである。しょこたん語を日常使うのはデフォルト。独自のセンスで新しい言葉を作ったり流行らせようとしたりする。コミケにも行くのだろう。
こ、これは新しい世界だ。面白い。でも、この世界は、金がかかる!
僕は今回、出演者ということで入場でき、アイドルの人々とも気軽にしゃべることができて、よかった。某アイドルユニットをやめた元メンバーが出演者の中にいたりして、ちょっと興奮した。もう会えないんじゃないか、とか思ってたので。
その子のセットリスト。
1.残酷な天使のテーゼ
2.ロマンチックあげるよ
3.恋カナ
特に、3曲めの「恋カナ」は、振り付けもバッチリだったが「おいおい、いいのか?」という予想外の選曲だった。リハーサルのとき、この歌を歌っててウヒャー!と思ってた。
イベントは12時10分からはじまり、午後5時前には終わっていた。
ラジオを持って出て来なかったのを思い出し、あわてて帰宅。

帰宅して、シャワーを浴び、簡単な食事をとって着替えてから、京都に向かう。
途中、淀屋橋で下車して、携帯ラジオを取り出す。
言わずとしれた、「現代の音楽」の時間だ。
駅を出たところで、ギャル系の女性に、一緒に写真撮っていいですか、と言われて、撮った。僕が何者かを知っての行動ではなく、いつものように変な格好をしていたので、珍しかったのだろう。最近、こういうことがよくある。僕はますます珍獣と化しているようだ。
現代の音楽では「この半世紀の潮流/ジョージ・クラムの音楽」を特集していた。
この半世紀、というと、いわゆるフィフティーズの頃からだから、ロックの時代だ。クラムの作品も70年代のもので、今聞いても、クラシックな趣きは極めてうすくて、ロックバンドがリリースしていてもおかしくないだけの現代性、ポップさがあった。
1曲めは「ブラック・エンジェルズ」をクロノス・カルテットの演奏で。
「死と乙女」やタルティーニの引用も含め、なんでもありの音楽。静かかな〜、と思ってたらいきなり「ギコギコギコギコギャー!」とか爆音が鳴るので、耳がおかしくなるかと思った。
もう1曲は、「マクロコスモス第1集から、第2部、第3部」デイヴィッド・バーグのピアノ。
バルトークの「ミクロコスモス」を意識して書かれた曲で、正式の長い名前には「アンプリファイド・ピアノのための黄道十二宮に因む12のファンタジーピース」とつく。クラムは数字の魔術を音楽の構造の中に組み込んでいる、との解説。曲を聞くと、日本語で「いち、にい、さん、しい、ご、ろく」なんて数えてる。楽譜を見たら、さらに凄いことが起こっているようだ。
「マクロコスモス」第1集のタイトルは、始原の響き、プロテウス、牧歌(紀元前1万年のアトランティス王国から)、十字架、幻のゴンドラ乗り、夜の魔法、影の音楽、無限の不思議な輪(永久運動)、時の深淵、燃えいずる火、夢の影像(愛と死の音楽)、らせんの銀河と訳されているのを見たことがあるが、番組中で西村朗氏が紹介していたのは、また違う訳だった。「夜の魔法」が「夜の呪文」だったり、「時の深淵」が「奈落の時」だったり、「らせんの銀河」が「螺旋状の天の川」だったり。どっちでもあまり変わらないけど。
この「マクロコスモス」、金欠で見に行けなかった映画「アート・オブ・トイピアノ」でも演奏されていたらしい。トイピアノでマクロコスモス!メチャクチャ見たい!
さらに東京だとこの5月にクラムの「マクロコスモス」を演奏するピアノ・リサイタルがあったそうだ。(廻由美子「音の迷宮」)なんとうらやましい。「現代の音楽」でもその模様を放送してくれないものか。

ジョージ・クラムを聞いたあとは、京都UrBANGUILD(アバンギルド)に行った。
WADA THE VAMPIRE
チルドレンクーデター
James Chance
セッション
もっと早く到着するかと思ってたが、行ってみたら、もうWADA THE VAMPIREは終わっていた。チルドレンクーデターは磯田くんを含めたメンバーでのライブ。昔からよくチルドレンクーデターは聞いていたが、一番よく聞いていた最初の頃と今とでは、僕の耳が違う。なにより変わったのは、僕にプログレの洗礼があったことだ。パンク〜ニューウェイブ〜パワーポップ〜テクノ〜ノイズ〜オルタナティブあたりを重点的に聞いていた僕には、チルドレンクーデターの音楽はもったいなかったんじゃないか、と今回のライブを聞いて、考えた。とにかく、かっこいい。最高。
ジェイムス・チャンスは、ほとんどがピアノ演奏。ジャズだ。たまにサックスを持つが、ジャズだ。歌はない。もともとジェイムス・チャンスの音楽にはジャズの要素が濃かったが、まさかこれほどまでジャズとは!同じジャズでも、いろいろあるだろうに!
申し訳ないが、疲れている体にビールを入れたあとでは、睡魔と闘うのがたいへんだった。ジェイムス・チャンスのような生ける伝説になると、「こうあってほしい」と勝手な願望を客は抱いてしまうものだ。以前の来日時に「暑い」という理由でスタッフを殴ったとかいうエピソードを聞いて、健在ぶりを確信していたのに、なんだ、これは。牙を抜かれておとなしくなったジェイムス・チャンスなんて見たくないのだ。客席にのほほんと坐っていたら、いつ飛びかかってきて殴られるかもしれない、アドレナリン大出血サービスのライブが見たかった。客の求めに応じて、野球のボールにサインしているシーンなんて見たくなかった。おそらく、サインをねだった人だって、こんなことをしたら怒るんじゃないか、とひそかに期待していたと思うのだ。
ところが、である。
そのあと、ヴァンパイアの和田くんやチルドレンクーデターのメンバーが登場し、セッションがはじまると、ジェイムス・チャンスは復活した。
ジェイムス・チャンスのピアノではじまり、それにセッションの音が噛んでいき、盛り上がってきたところで、ジェイムス・チャンスの攻撃的なヴォーカルが炸裂!歌詞の内容はしょうもなさそうだが、とにかく、すごい。さらに盛り上がったところで、ジェイムス・チャンスの襲いかかるようなサックス!最初から、これをやれ!
ジェイムス・チャンスのライブアクトを見るのは、これがはじめてだが、彼がジェイムス・ブラウンと自身をオーバーラップさせている意味が了解できた。体の使い方、ダンスがJBをほうふつとさせるのだ。
ライブの帰りに、色々考えた。ジェイムス・チャンスは最初からちっとも暴れん坊ではなく、自分を表現する際に、暴力的手段を使ってしまう、コミュニケーション下手な奴なんじゃないか、とか。
京都木屋町を歩く僕に、風俗の呼び込みが「お兄さんにぴったりの女のコがいますよ」と声をかける。その言葉は最後に行くほど尻すぼみにフェイドアウトしていく。僕にぴったりの女のコなど店にいなかったのだろう。呼び込みのにいちゃんはいったん消えた言葉に「個性的なお兄さん!」と、かぶせた。呼んではみるけど、それに応じることは難しい、という感じか。でも、今日一日で、個性的な人々に接しまくっていた僕は、自分がいかに没個性的であるかを痛感していたところだったのである。
マリンピア神戸ポルトバザールでミルキーハットのライブ。(ポートピアじゃないよ、レナちゃん)
垂水。遠い。
午後2時の回
1.ハットダンス
2.軌跡
3.歩いて行こう
4.ハッピーメイカー
5.ありがとう
6.大航海ランドスケープ
父の日に向けたトークあり。
波の音ではじまる「大航海ランドスケープ」はマリンピアにうってつけの曲で、俄然ノリノリ。
晴れ渡った空で、日焼け止めが必死で防御!
午後4時の回
1.ヒップホップミックス
2.軌跡
3.歩いて行こう
4.We love sweets
5.ありがとう
6.大航海ランドスケープ
やっぱり垂水は遠かった。
時間に余裕があれば行きたかった月眠ギャラリーとか、ヒカシューとかギャングポル&ミットとか、すべてキャンセル。

帰宅後、数年前に録画した「日本解放戦線・三里塚」を見た。小川紳介監督、1970年。
「三里塚の夏」に続く作品で、「三里塚の冬」の異名をとる。
冒頭、1969年11月
「御料牧場の伐採はじまる。同時に空港敷地内のボーリング測量開始。ブルドーザーが姿を現わし整地作業が開始される」
反対する農民たちの姿と発言を中心にドキュメンタリーが進む。
ブルドーザーの前に座り込みする農民たち。空港賛成側に回った農民が公団のガードマンとして、反対農民たちの前にあらわれたりする。農民は、公団側の人間を罵倒するのではなく、話し合いをしたいように見てとれる。普通に話し合いをすれば、公団側に理がないことが明らかになるせいか、公団側は、あくまでも官僚的態度を崩さない。
兄弟とも縁を切る状態の中で、反対同盟が、何でも相談できる共同体として機能する様子も描かれる。こうした共同体のありようを、農民は「ままごと」だと自ら言い切るが、その「ままごと」を、いいなあ、と思っていることも吐露する。きわめて理性的だ。
反対農民の言葉から伺われる冷静さには驚かされる。
学生たちがあおる「改革」だの「新しさ」などは、農民たちにはどうでもいいことだ、ということを言い切るし、脱落者がどういう気持で脱落していったのかも分析できている。その心情も理解している。公団側がまったく農民側の言うことに対して聞く耳持たないのと対照的だ。そして、このまま脱落者が増えて、自分が最後の1人になってしまったとき、巨大な権力は容赦なく牙を剥くだろうことを予想している。その際に予言された強制徴用は、悲しいことに、現実化してしまうが、それはこの映画のかなり後の話だ。
次第に脱落者が増えて、ついに1つの団結小屋だけを残して、まわりの土地は公団のものになってしまう。
映画は農民たちの反対行動を描き、最後は次のような文章で終わる。
「70年6月空港公団は工事が大巾に遅れることを認めた」
三里塚闘争は、今も継続している。このときに賛成、反対両方の側にいた農民たちが今何を語るのか、聞いてみたい。そんなドキュメンタリーがないだろうか。

タワーツアー

2007年6月15日 ライブ
梅田シャングリラで「タワーツアー」
出演は次のとおり。
・フレミングス
 茶谷恒治(ヤング100V)、渡辺靖文(航空電子)、西本晋也、もっち、コメカ(ピノリュック)
 楽しいバンド!
・A.C.E.
 岡本健志、安井献、田島隆
 映像美!
・FLOPPY
 小林写楽、戸田宏武、福田福助
 この日のライブは、ほとんどが女性客で埋め尽されており、開場から入場が終わるのに約30分を要した。ひとえにこのFLOPPYの人気によるものである。ゲ−ム機を使ったアイディア、狙った衣装、客が一斉に同じアクションをとる、など、とても懐かしい思いにとらわれた。
・プノンペンモデル
 ことぶき光、谷口マルタ正明、佐藤研二、上領亘
 大暴れ!
・DJ 1905

僕は、A.C.E.の物販コーナーで、お店屋さんごっこをさせてもらった。
この物販コーナー、なんだか凄い面々で、
小西健司(4-D mode-1/P-MODEL)、
アリスセイラー(アマリリス)、
松前公高(EXPO/きどりっこ)、
エイジ(ミンカパノピカ)
僕は(モダンチョキチョキズ)ということで、それぞれ大きな名札をぶらさげて、物販コーナーに並んだ。
小西さんと、「まるで文化大革命のときに糾弾された芸術家みたいですね」なんて話した。
小西さんは海外のエレポップ状況をビジュアルで見せ、オムニバスCDを販売(郵送料の1ユーロのみ!)、アリスセイラーはガチャガチャで玩具のくじびき、松前さんはトイテクノのガジェット数々、エイジくんはエフェクターなど機材。
アリスちゃんが熱心な販売員になりきって、多くの客を獲得していたのが、面白かった。
僕もアリスちゃんからオリジナルの「りんごマン」のバッジをゲットした!
僕は、自分で書いた哲学書『新意識裡』を増刷して1冊100円で販売した。
百円哲学、略して「百哲」(ももてつ)をシリーズ化しようかな、と考えている。
客席はもう入るのもたいへんな満員御礼で、物販コーナーを放置するわけにもいかず、逆に物販コーナーからステージの映像がモニターで見れる、というわけで、半分以上中に入らずにライブを楽しんだ。
お客さんや、友だちとの会話が楽しくて、また、お客さんウォッチングも楽しかった。女の子が多かったので、眼福、という面もある。
なんとなく、物販コーナーの方が面白かったんじゃないか、とすら感じている。
この日は、例のごとく夜勤あけで一睡もしておらず、朝から夕方まで『新意識裡』の制作に費やした。『新意識裡』は、本といってもコピー誌なのだ。コピーして、カッターで切って、紙を折って、ステイプラーで止める。雑な仕事が僕の限界だが、紙折りは澁澤龍彦の図録の上でやった、ってところが、ちょっと贅沢かな。出来映えには何の関係もないけどね!
まあ、そんなわけで、終電になる前に帰宅し、フリーペーパー「実験アキレス」の原稿を送ったら、ばったりと睡眠に突入した。

願い星、叶い星

2007年6月14日 読書
ISBN:4309621856 単行本 中村 融 河出書房新社 2004/10/22 ¥1,995
アルフレッド・ベスターの『願い星、叶い星』を読んだ。
ベスターは学生時代に『虎よ、虎よ!』を1ヶ月もかけて読んだけど、探偵小説にしか興味がなかった僕には、その面白さはわからなかった。あれから四半世紀を経て、やっと、僕にもSFを楽しめる心の余裕ができてきたようだ。面白かった。『虎よ、虎よ!』も近いうちに再読してみたい。
グッド、ベター、ベスト。さらにベスター!超最上級だ!

「ごきげん目盛り」
人を殺す狂ったアンドロイド。
温度が高くなると、狂ってしまうのだ。

「ジェットコースター」
タイムマシンで、未来から現代に観客がやってくる。
洗練された未来では、現代の野蛮、暴力が失われてしまったのだ。
「ジェットコースター」は、今なら、体験型アトラクションとでも名付けられるのかもしれない。

「願い星、叶い星」
天才的な子供たち。
生き延びた少年は、実は願い事の天才だった。

「イヴのいないアダム」
人が死んでも生命は終わらない。
体内のバクテリア、アメーバは母なる海の中で、死骸を糧として生き続ける。そこではイヴもアダムも必要がない。

「選り好みなし」
出生率と死亡率の謎がとけた。
未来から時間をこえて移民がやってきていたのだ。
ある日本人は、1945年の広島の我が家に帰りたい、と希望する。

「昔を今になすよしもがな」
世界が滅亡し、残った男女が、あちこちの店に残されたものを消費しながら生きる。

「時と三番街と」
未来の年鑑を入手した男。これでなんでも思い通りだ!
未来から派遣された者に、男は年鑑を読まずに返す。
未来の紙幣に、自分の名前が財務省長官として使われていた。
将来の自分の成功は約束されたのだ。

「地獄は永遠に」
悪魔は、好きなように作ってもいい世界をプレゼントする。
ゲームの「シムなんとか」みたいな発想で、数人の人物がそれぞれ自分が夢みた世界、自分の思い通りになる世界に行くが、どれもこれも皮肉な結末が待っている。
この作品は本書の3分の1強を占める中編。

芸術家は新しい世界で、いくら作り替えても居心地の悪い家具に囲まれる。
「ああ、ちくしょう、家具デザインとは縁がなかったんだ」
好きなように星座を作ると、星と星との引力などで、宇宙が崩壊をはじめる。
「宇宙を動かすには、せめて数学者と物理学者をあわせた者になる必要があるわけか」
すべての物が、正面から見るとまっとうな形をしているが、横目で見るといびつに見えて気持悪い。
「製図をもっと練習しなければいけないな」
動物を作ったら、みんな悪意のある怪物になってしまう。
神は自分の似姿を創造する。芸術家は怪物だったのだ。

夫に縛られてきた女は、夫を殺害する世界に行く。
しかし、自分自身の情欲から逃れることはできず、それがダイレクトに地獄になってあらわれる。

ないものねだりの男は、真実を聞くためにサタンに会いに行く。
サタンは小柄でひからびた老人だった。
サタンは世界のすべてのものを操っていたが、そのサタンも、何者かによって操られていた。

なにかの役にたちたい、と望む女は、神話的世界で生け贄にされる。

新しい世界で自殺しようとした男は、何をやっても死ねない。
彼は最初からもう死んでいたのだ。

さて、本書でガツンと驚かされて、狂喜したのは、冒頭の『ごきげん目盛り』での「自分」のめまぐるしい変転だ。人間はからっぽの器で、自分が魂になって風のようにその器の中に宿っては、花から花へ止まれや遊べの面白さ。
たとえば、こんなところ。

「おまえを売りとばしてやる」とわたしはアンドロイドにいった。「くそったれめ。地球に着いたら、おまえを売りとばしてやる。時価がいくらだろうと、3パーセントで手を打つぞ」
「わたしは時価で5万7千ドルです」とわたしは彼に告げた。
「売れなかったら、警察に引き渡す」とわたし。
「わたしは高価な資産です」とわたしは答えた。「貴重な財産を危険にさらすことは禁じられています。わたしを破壊してはなりません」
「くそったれ!」ヴァンデルアーが叫んだ。「なんだと?偉そうな口をききやがって。自分が守られてると信じこんでるんだな。それが秘密なのか?」
多用途アンドロイドはおだやかで聡明そうな目で彼を眺める。
「ときには、資産であるのもいいことです」とそいつはいった。

スゴイ!「自分」が嵐のように人間とアンドロイドの間を行き交って、そしてどこかへ去っていくのがみごとに描写されている!
巻末のリスト見ると、未訳の作品が多々ある。解説によると、そんなに面白い作品が残っているわけではないそうだが、そこはそれ、翻訳次第じゃないか、と思う。
「つぎつぎと繰り出されるアイディアが空回りしている」
「セルフパロディの印象が強い」
「意欲作であることは認めるが、形式先行、実験のための実験の感は否めない」
といった解説者の感想が、どれも「読んでみたい!」と思わせるのだ。
ロストロポーヴィチ 人生の祭典
アレクサンドル・ソクーロフ監督の「ロストロポーヴィチ 人生の祭典」を見た。2006年。
ロシアが生んだチェロの巨匠ムスティスラフ・ロストロポーヴィチとその妻、天才オペラ歌手ガリーナ・ヴィシネフスカヤのドキュメンタリー。
原題は Elegy of Life。エレジーには、邦題につけられた、いかにもロシア音楽っぽい「祭典」のような賑々しい語感はない。でも、ソクーロフはよくタイトルに「エレジー」とつけたがるので、特別哀調を出す意味でつけたわけでもなさそうだ。バーナビー・ロスの小説がそれほど悲劇でもないのに「悲劇」とつけるのに似ている。
映画は、ロストロポーヴィチとガリーナの金婚式のシーンからはじまる。各国王家の人々など、錚々たる面々がお祝いに駆け付けている。
この映画では、プロコフィエフのことや、クラシック音楽に代表されるヨーロッパの問題など、見どころは多々ある。作曲家と違って、演奏家は「音楽の娼婦」で、誰の音楽とでも寝なくてはならない、という発言。ロシアとイタリアの歌手の違い(ロシア魂を歌えるのはロシア人だけ)。
(ヨーロッパの問題についてコメントしておくと、確かにヨーロッパは黄昏れているのかもしれないが、ロシアの未来は前途洋々であるだろう)
圧巻なのは、ポーランドの現代音楽家クシシュトフ・ペンデレツキがロストロポーヴィチのために書いた新作「ラルゴ」を、小澤征爾指揮で上演する、そのリハーサル風景だ。
何がすごいのか。
小澤の指揮、ロストロポーヴィチが「最後の初演」と自ら決めた演奏、リハ−サル中も楽譜に何やらいっぱい書き込みしているペンデレツキ。ソクーロフはこの3人の天才が同じ時間に同じ場所にいることに賞賛を惜しまない。
でも、本当のすごさは別にあった。
「ラルゴ」演奏にさしはさまれる、ガリーナのレッスン風景だ。
ガリーナはリムスキー=コルサコフの稽古をマンツーマンで行っている。
ガリ−ナ自身は歌わないレッスン風景が、ロストロポーヴィチ、小澤、ペンデレツキの3プラトンに、負けていない。なんだ、これは!
つまり、そういうことなのだ。
映画はロストロポーヴィチが楽しく踊るシーン、VIPの手をひいて席に案内するシーン、手回しオルガンを演奏するシーンなど、少年のような行動を映し出す。チェロのレッスン風景すら、笑いなしに見られない面白さだ。
ロストロポーヴィチの魅力は言うまでもないが、映画の主眼は、ガリーナにあった。冒頭の金婚式のシーンで、ガリーナはロストロポーヴィチを絶賛するスピーチを行う。そのときソクーロフが描きたかったのは、ロストロポーヴィチの栄光ではなく、ガリーナの慈愛だったのだ。
邦題にはガリーナの名前はどこにも出ていないが、原題サブタイトルでは2人の名前が並んでいる。むしろ、ソクーロフの目はガリーナに向いている。
ガリーナは音楽に対する専門教育をいっさい受けていない。まさしく天才。逆に言えば天才は専門教育からは生まれない、ということなのかもしれない。
この映画は2部構成になっており、その意味がよくわからなかったが、ロストロポーヴィチの映画だと思っていたら、ガリーナの映画なんだ、とはっきり見えてくるのが、その区切りあたりからだった。
客席で上演中の歌にあわせて口を動かしているガリーナ、舞台衣装の前で語るガリーナ。ロストロポーヴィチと踊るガリーナ。
ラストシーンは、ガリーナがカメラに向かって微笑んで、投げキッスするところで終わっている。ガリーナの映画だ。ロストロポーヴィチはガリーナに接近するための、ステップにすぎない。将がガリーナで馬がロストロポーヴィチなのだ。
この映画は、ドキュメンタリーの態をとっているが「ガリーナ中心、ストーカー映像」みたいなもので、きわめてプライベートな内容だったのだ、と気づかされた。
作中、クラシック音楽を支える観客の顔、まなざしが特徴的に映し出されるシーンがある。このシーン見ると「客でいることも素晴らしいことなんだな」と思わせられるが、この視線は、ソクーロフがガリーナに対して向けるものと似かよっていたことだろう。
ソクーロフという人間がこの映画からよくわかる、不思議な仕組みになっていた。

どちらでもいい

2007年6月12日 読書
ISBN:4152087331 単行本 堀 茂樹 早川書房 2006/09 ¥1,470
アゴタ・クリストフの『どちらでもいい』を読んだ。短い習作が25編収録されている。


北部行きの列車
我が家
運河
ある労働者の死
もう食べたいと思わない
先生方
作家
子供

わが妹リーヌ、わが兄ラノエ
どちらでもいい
郵便受け
間違い電話
田園
街路
運命の輪
夜盗
母親
ホームディナー
復讐
ある町のこと
製品の売れ行き
私は思う
わたしの父

本の裏に書かれた作品紹介はこんなものだった。

「読書界を感動の渦に巻き込んだ『悪童日記』著者、初の短編集」
夫が死に至るまでの、信じられないような顛末を語る妻の姿が滑稽な『斧』
廃駅にて、もはや来ることのない列車を待ち続ける老人の物語『北部行きの列車』
まだ見ぬ家族から、初めて手紙をもらった孤児の落胆を描く『郵便受け』
見知らぬ女と会う約束をした男が待ち合わせ場所で経験する悲劇『間違い電話』
さらには、まるで著者自身の無関心を表わすかのような表題作『どちらでもいい』など、アゴタ・クリストフが長年にわたって書きためた全25編を収録。祖国を離れ、”敵語”で物語を紡ぐ著者の喪失と絶望が色濃く刻まれた異色の短編集。

まあ、これで内容の方はほぼ思い出せると思うが、いくつかつっこんでおく。
紹介文の最初に書いてある「読書界」という言葉に笑いがこみあげてきた。
「読書界」って!そんな世界があるんだ!
まあ、それはさておき。
『郵便受け』は手紙を待ちわびて中身まで妄想する心情を描いており、ちょっと前に読んだ『カレル・チャペックのごあいさつ』中にも、同趣向の作品があった。チャペックの場合は「手紙がほしい」ことと「筆無精」が両立しないことから書き起こす、愉快でピリッとした話だった。クリストフの場合は、長く離れていた親から「金を恵んでくれ」という迷惑な手紙でも送ってこないかなあ、と期待してたら、予想に反して、裕福な親から援助の手紙が届いたことに失望して、手紙の届かないインドに引っ越しする話になっている。
訳者あとがきでもあるように、本書のほとんどは絶望の心境や状態が語られており、その背後にあるのは「孤独」「疎外」「救いようのない愚かしさ」「別離」「喪失」である。『郵便受け』はもともと孤独な主人公が救いようのない愚かしい自尊心によって、あらかじめ失われていた親と再度離別する物語なのだ。著者の持ち味とは言え、これじゃめいってしまう。
この紹介文も、そうした絶望のトーンで書かれているが、楽天的な僕は「そうか?」と思った。
『郵便受け』だって、「インドって!」と笑って読み終えた。本書の作品は習作であり、クリストフが絶望の色で全体を染め上げていない分、本来クリストフが持っているユーモアがあちこちに見てとれるように思うのだ。
『間違い電話』だって紹介文にあるような「悲劇」ではない。間違い電話で見知らぬ女性と待ち合わせした男が、約束の相手は自分だと言い出せないうちに、女性が本来電話しようとしていた相手(彼氏)が偶然通りかかって、元通りの鞘におさまる話で、ちょっとしたユーモアスケッチになっている。
本書の作品の随所に見られる、絶望的な描写も、なんだか笑えてくる。

「この世にいるうちだろうか。それともあの世に行ってからだろうか。私は我が家に帰る」(『我が家』)
「男は自分の人生が立ち去って行くのを眺めていた」(『運河』)
「あなたの想い出、あなたの青春、あなたのエネルギー、あなたの人生−工場がそれらを奪ってしまった」(『ある労働者の死』)
なかでもすごいのが『私は思う』で、全編にわたって絶望ムードが漂っていて、一読爆笑である。
「今では、私にはほとんど希望が残っていない」
「外に出れば、そこにはひとつの人生があると思うが、その人生には何も起こらない。私にとっては何も起こらない」
「ここに坐って、何時間だか、何日だか、とにかくずっと前からこうしていることに、私は軽い居心地の悪ささえ感じる。しかし、立ち上がって何かをしようとする動機が一つも見つからない。自分がしてもいいこと、自分にできるであろうことが、私には思い浮かばない。まるっきり思い浮かばない」
などなど。こりゃ、今では山ほどネットで読める鬱ブログそのものではないか。
ただ、このくだりは納得した。
「デパートに背を向けて、人びとが出たり入ったりするのを眺める。そして思う。出てくる人びとは中にとどまっていればいいし、入っていく人びとは外にとどまっていればいい。そうすれば運動も疲労も相当節約できるだろうに」
僕の場合は、違法駐車や違法駐輪で迷惑を被っているので、自転車や車について、似たようなことを毎日のように考えている。
「どうせ放置したままどこかに行ってしまうのなら、最初から乗ってこなければいいのに!」
そうかと思えば、こんな作品もある。
「あるクラスメートのことを憶えている。彼は非常に巧妙で、私たちの生物の先生の背後に音もなく忍び寄り、そして先生の脊柱に手を突っ込んだかと思うと、先生の神経組織をするりと抜き取って、私たち皆に配ったのだ」(『先生方』)
なんて奇想だ!
全体にみて、鬱ブログあり、ショートショートあり、出来損ないのミステリーあり、身辺雑記あり、で、雑多な印象は、まるで同人誌のようだった。
第七藝術劇場でキム・ギドク監督の作品の特集上映「ディープ・ギドク・マンダラ」を開催している。僕の日記を1度でも読んだことのある人ならわかるだろうが、ネタバレしかしていないので、要注意。
今日は監督第2作の「 ワイルド・アニマル」を上映していた。1997年。
フランスを舞台にした物語。脱北して外人部隊に入隊しようとしていたホンサン(チャン・ドンジク。HG似)は、やることなすこと「悪と駄目」の韓国人チョンヘ(チョ・ジェヒョン)にひきずられて、犯罪組織に入る。ダメダメチョンヘと仲良くなったハンガリー娘は、全身白塗りで彫刻の真似をする路上パフォーマンスをしている。また、HGホンサンと列車で一緒になった韓国娘は、のぞき部屋でストリップしている。
チョンヘの駄目っぷりはすさまじくて、よくあるコインロッカー詐欺から、アトリエから絵を盗み出して路上で売ったり、あらゆる悪いことに手を出す。そのわりに力はなくて、格闘シーンではどんな相手にもボロ負けで、悪事で稼いだ金をすぐに巻き上げられてしまう。
フランスの犯罪組織のボスは、なんと、リシャール・ボーランジェだ。
ストーリーはとにかく、下衆も下衆。ワイルドアニマルの題名どおり、何かというと人を殴り、金を巻き上げる。
この映画の中には扇情的なシーンが多々出てくる。
彫刻娘の彼氏ってのがひどいDV野郎で、すぐに冷凍冷蔵庫から凍った鯖を取り出してきて、それで殴りまくる。最初は、適当に思い付いた物で殴ってるのかな、と思ったけど、フリーザーからサバを出してきて殴るシーンが何度も出てきて、笑った。最終的には、ハンガリー娘が凍ったサバでDV野郎を刺し殺す。死体の腹からサバの頭がニョッキリ生えている!
また、手錠をはめられたまま海に落されたチョンヘとホンサン。手錠を抜くために、海の中でナイフで自分の親指をゴシゴシと切り落とす!
ロダンの彫刻をハンガリー娘が気に入っているからと言って、警備員を殴り倒して、彫刻を削り壊して持ち去ったりする!
最後はチョンヘが駄賃で盗んだ腕時計がもとで、のぞき部屋娘に射殺されてしまう。
まあ、なんて下品な映画なんざましょ!

続けて見たのは、キム・ギドク監督の最新作「絶対の愛」2006年。
嫉妬深い激情家の女セヒ(パク・チヨン)とそれに振り回される男ジウ(ハ・ジョンウ)のラブストーリー。
セヒは、ジウが他の女性と会話しても、ちら見しても、大声でわめいて怒りまくる病的女。ジウはセヒの尻ぬぐいにおおわらわだ。これは男女のつきあいというよりも、介護に近い。挙げ句の果てにはセヒは「わたしの肉体に飽きたんでしょう!」と勝手に決めつけて、行方をくらまし、整形して他人になりすます。セヒはスェヒと名乗って、別の女性として、ジウにアプローチをかける。ここで、セヒにジレンマが生じる。ジウがセヒを忘れずにいることに、嫉妬を覚えるのだ。
スェヒはセヒの実物大の顔写真をお面にして、セヒとしてジウに会おうとする。
スェヒがセヒだと知ったジウ。その後、ジウも整形して、違う顔の男になる。
ジウを探すセヒ(スェヒ)。あの男かと思ったら、違うようだし、じゃあ、あの男なのかと思っても、決め手がない。ジウはどこにいるのか。
ジウもセヒもどこの誰だか混沌としてしまった。
さらに、映画の冒頭のシーンがドクラマグラ的につながって、時間さえもが混沌とする。
この映画にも扇情的シーンが多々あって、安さ爆発である。
スェヒがメモに「愛してます」と100回くらい重ねて書くシーンは、まるでシャイニング。
金玉丸出しの彫刻が印象的なベミクミ彫刻公園でのロケが変で、いい。
整形手術直後、顔を大きく覆うマスクに唇の絵が描いてあるのが、非常に怖い。好美のぼるの世界に非常に近いかもしれない。
整形手術時の映像もうつされる。
血と涙がふんだんに流れるのは「ワイルド・アニマル」とも共通しているが、この「絶対の愛」では鼻水まで大放出だ!(「ワイルド・アニマル」では手鼻をかむシーンが何度かあったが)
監督へのインタビューで、整形への考え方が明らかにされている。
「整形手術を受けた後に、自分の独自の特徴やアイデンティティについて、混乱しはじめる」
なるほど。言ってることはまともだ。主人公たちの言動の安さをもって、監督自身の安さにはつながらない、ということだろう。
韓国というと整形天国みたいなイメージがある。日本人でも芸能界に近付こうとする人の多くが、きっと整形しているんだろう、と思う。なぜか、そういうB級止まりの女の子たちは、全員、同じ韓国美女の顔をしているのだ。メイクも手伝っているのかもしれない。整形すれば道が開ける、なんて安い考えを実践する女性も女性だが、その手の整形美女を起用しちゃう男も男なのだ。いや、顔や若さで女性をはかろうとする男の安さがすべてのつまらなさの根源なんだろう、と思う。このままでは顔を整形し、年齢をいつわる女性がごく一般的な存在になってしまう。ますます男は、女性の何を信じたらいいのかわからなくなって、結局、どうせ何も信じられないのなら、若いと自称している整形女で間に合わすか、と短絡してしまうのだ。年齢詐称や整形をカミングアウトした女性には拍手を送りたいが、あいかわらず自分を売り物として偽りの姿を見せる者に対しては、見世物としての意味以上のものはなくて、その人間の心なんて、知ったことか、と思ってしまうなあ。それこそ、誰とでも入れ替え可能な部品でしかない。「絶対の愛」の主人公セヒは、整形することによって、自分が代替可能だということを男に宣言してしまったのだ。愛など成立するわけがない。
まあ、だいたい、ジウも女を見る目がない奴なのだ。
嫉妬深いセヒや、整形したスェヒなんかより、喫茶店のウェイトレスしてた杉野希妃の方が数段可愛いのに。
あれ?僕も面食い?
今日も「ストローブ=ユイレの映画2007」。
見たのは「労働者たち、農民たち」2000年。
これもエリオ・ヴィットリーニの『メッシーナの女たち』を原作とした作品。と、いうか、朗読映画。 昨日は10年ぶりに見たストローブ=ユイレに衝撃受け過ぎて、何が何だかわからなかったが、今日はじっくり味わってみることができた。ストーリーらしきものがわかったし、2時間強の映画があっというまに終わった印象だ。
昨日見た「放蕩息子の帰還」と同じような感じ、あるいは、この「労働者たち、農民たち」に収らなかった部分を「放蕩息子の帰還」として独立させたのではないか。朗読される場所が同じだし、朗読する人も同じだった。
森の中で、ど素人たちがヴィットリーニの本をそのまま読む。台本を手に持って、それを読む人も多い。
戦後イタリアで、労働者と農民が作った共同体での出来事を描いている。
共同体から抜けていく者が続出する。戻ってきた者は、リーダーの制止にもかかわらず、みんなにボコボコにされる。「放蕩息子の帰還を信じていたのに、ボコられた〜!」と嘆いているので、「放蕩息子の帰還」と同じシーンが繰り返されたのかもしれない。昨日見た映画なのに、そこんとこ覚えていないとは、ひどいものだ。
それと、何も足しも引きもしないのは、音楽、音、メイク、衣装、演技、台詞だけでなく、光もそうなのだ、ということがよくわかった。役者が語っている最中に、太陽の動きがそのまま影や明るさになって見てとれる。これは、すごい。
登場人物には「口笛」と呼ばれる者や、「不細工」と呼ばれる者がいる。
これは吉本新喜劇なのだ!
そう思ってみていると、役者たちの棒読みのセリフについて、どこかで聞いたことのあるような既視感にとらわれた。
創叡が作ったオリオンなどのCMだろうか。それも非常にストローブ=ユイレに近い。
でも、もう一つある。「新婚さん、いらっしゃい」だ!
「新婚さん、いらっしゃい」は桂三枝と山瀬まみがで素人の新婚さんからエピソードをひきだす番組だが、どの新婚さんにも共通する、ある特徴がある。
言わされている感たっぷりの棒読み口調だ。
おそらく、本番前に、いろいろ話をして、どのエピソードを語ってもらうかが、あらかじめ決まっているんだと思う。素人さんは、司会者の導きに沿って、まるで台詞のように、決められたことをしゃべっているのだ。これ、司会の2人が達者な誘導とリアクションをしているからバラエティとして成立しているが、司会の部分を引き算すると、まるまるストローブ=ユイレじゃないか!新婚さん本人のエピソードだから、リアリティは約束されているが、本体は別のところに存在してるんじゃないか、という不思議な感覚。ストローブ=ユイレ。

映画終了後、PLANET+1代表の富岡邦彦氏のトークも聞いた。
日本でのストローブ=ユイレ受容の歴史、みたいなことを語られていた。
フランスのシネマテークでも、ストローブ=ユイレの上映会には10人くらいしか集まらないらしい。
また、ストローブ=ユイレの作品を初期から全作所蔵していた神戸ファッション美術館は、もうストローブ=ユイレの作品を買っていないのだそうだ。僕が特集上映を見に行った10年前から、ほとんど買っていないらしい。当時、学芸員のモモさんと、「うちはストローブ=ユイレを全部所蔵しているんですよ!」「なに?それは快挙!」と大喜びで語りあっていたのを思い出す。ひょっとして、担当者が変わってしまったんだろうか。何か事情があるのか。神戸にあるフィルムなのに、肝心のファッション美術館で上映されず、東京まで見に行くようなことは避けたい。
また、ストローブ=ユイレのドキュメンタリーを撮ったペドロ・コスタの新作は、ストローブ=ユイレの影響モロ受けらしい。これも見たい。日本上映されるか?
先週の廣瀬純氏のトークは時間の都合で行けなかったが、どこかで内容をレポートしてくれてないかなあ。

トーク終了が午後6時。まさにドンピシャ、NHK-FMの「現代の音楽」の時間だ。
武満徹作曲賞本選演奏会からの2日め。審査員西村朗氏が選んだ1位と2位の作品が放送された。東京オペラシティ・コンサートホールで収録。岩村力指揮、東京フィルハーモニー交響楽団 。
「キューブ」アンドレア・ポルテラ作曲 (17分53秒)
これが第2位。人の一生を誕生から死までの6つの期間に分けて、それを描いている。6つの面で、キューブ(立方体)が出来上がるのだ。
とにかく、18分間、音が途切れることなく動き続け、新しいことが起こり続ける、物凄い作品。スコアには「ヴァイオリンに息を吹き込む」なんてことも書いてあり、 東京フィルハーモニー交響楽団 はちゃんとヴァイオリンを吹奏してみせたらしい。これは実際に見てみたい!
西村氏は、この「キューブ」を第一位として、先週放送したヨーナス・ヴァルフリードソン作曲 「戦場に美しき蝶が舞いのぼる」 を2位とするかな、とほぼ決めていたらしい。
「ネバー・スタンド・ビハインド・ミー」植田彰・作曲 (17分31秒)
ところが、これが第1位。とにかく、凄い。ゲストの白石美雪は「過剰な作品」と評し、西村氏は「モンスタ−的作品」と評した。
これは一種のパンクなのだ。西村氏の表現によると、他の作品が、まだきっちりと服を着てホールで見るような音楽なのに対して、この1位の作品は、いきなり全裸の男が暴れ出てきたようなインパクトがあるのだ。同じフィ−ルドでは、語れない、と。
西村氏は、こういう規格外の作品に対して、「相手にすべきじゃない」とか「好きじゃない」という評価があるだろう、ということは承知のうえで、あまりにも作品がこわすぎて1位にした、と言っていた。
なるほどねえ。これも実際に見てみたい。
タイトルはゴルゴ13か?「俺の背後に立つんじゃねえ!」
武満徹作曲賞の来年の審査員はスティーヴ・ライヒ。ライヒがどんな作品を推すのか、楽しみだ。           
DVD 東宝 2006/10/27 ¥6,300
今日は午前中から昼にかけて、雷が鳴って、大雨が降った。
赤い雨靴と、必要以上に大きな傘と、カエルの帽子の出番だ。
いつものカラフルなオーバーニーソックスと、変身ヒーローもののシャツ、バーニーのリュックとで、すっかり色キチだ。アートスクール系のカラフルで派手な学生が「やりすぎ」と僕を評している声が聞こえた。ありがとう!褒め言葉だ!

信長書店日本橋店で午後3時から「もっとペロキャン!ワンコインぷちライブvol.4」
今日は「あなたの白い恋人」あゆが北海道におり、欠席。
開演前の諸注意のアナウンスはメンバーで。
今日の衣装は、学校の制服だった。
1.スマイル:)
2.あんぶれら
コーナー。今回はじゃんけんで勝った人に、メンバーの私物をプレゼント。
あすぴはミラーとペン、あかりんソは指輪(ラムネのおまけ)とヒヨコのマスコット、カナ吉はネックレスと石。
各メンバー2つずつだったので、6回チャンスがあったわけだが、ほとんど初戦敗退だった。
撮影タイムは4分間。
3.スカートひらり
4.ねぇ、わかんない?
ライブ終了後は物販タイムだったが、次のスケジュールがあって、早々にひきあげる。

中崎町のプラネットプラスワンで開催中の「ストローブ=ユイレの映画2007」を見に行く。
ストローブ=ユイレは神戸ファッション美術館で特集上映したのを見て以来だから、10年ぶりくらいになるか。そのときは1996年の「今日から明日へ」が最新作だと言ってたが、その後5本くらいしか映画を作ってなくて、2006年にはダニエル・ユイレが死んでしまった。今回の上映会では、2000年以降の作品が中心になっているので、ちょうどいい。
この上映室は40人も入れば満員の場所だ。ストローブ=ユイレにはそんなに人が集まってはいないはずだ、と高を括っていたが、行ってみたら整理券が34番だった。大盛況と言えるだろう。あぶなかった。
午後5時10分から「放蕩息子の帰還/辱められた人々」2003年。
エリオ・ヴィットリーニの長編小説『メッシーナの女たち』を題材にした作品。ちなみに、この『メッシーナの女たち』は翻訳されておらず、イタリア語なんて読めないので、内容はあまりよくわからない。映画を見終わったあとも、結局よくわからなかったが、ストローブ=ユイレの映画の場合、僕はたいていどんなストーリーだったのか把握できないまま見終わるのである。誰か原作を翻訳してくれないか、と待つのみだ。
どうやら、戦後イタリアの混乱期、コミューンを作った人々と、地主からの使者、元パルチザンが登場する物語のようだが、全貌はつかめない。
『メッシーナの女たち』の途中から話がはじまっており、ますます面喰らうが、ストローブ=ユイレだとそんなの普通だ。
タイトルバックで音楽が流れる。ただし、タイトルと言っても最小限の人名が出るだけで、大半は何もない真っ白な画面だ。
冒頭、いきなりの台詞が「その後」ではじまるのだ。いったい、何の後?
俳優(?)たちは森の自然の中で、台本を棒読みする。台本はちゃんと足元に置いてあるので、それをただ読むのだ。俳優(?)は実際にコミューン生活をしている人々で、リアリティがある。ただし、演技力は皆無。
カメラの動きはほとんどなく、俳優(?)が棒読みする姿をただ写し取る。読み終わってからもそのシーンは終わらない。自然の音(水のせせらぎ、虫、鳥の声、風など)が鳴り響くなか、人々はじっと黙ったまま動かずにいる。
タイトルが2つに分かれているのは、2つの話が収録されているからなのだが、その2つの話のつながりはやはりイマイチよくわからない。僕は1つの続いた話として見てしまった。
ラストシーンは、俳優(?)が「そうね」と言い、そのままカメラは地面にずれる。足の一部と、地面を這う蟻が長々と映されて、いきなり終了。

2本めは「あの彼らの出会い」2006年。ストローブ=ユイレとしての最後の作品。
チェーザレ・パヴェーゼの『レウコとの対話』の最後の5編を原作としている。
この作品では、あからさまに台本を持って棒読みしているわけではない。一応、覚えてしゃべっているようだが、人間にほとんど動きはなく、やはり朗読映画であることにはかわりがない。5つの対話は、それぞれ役者が変わっているが、誰と誰がしゃべっているのかはわからない。『レウコとの対話』もまた未訳なのだ。
調べてみたら、対話していたのは、次の組み合わせらしい。
1.力の権化クラトス(テイルズじゃないよ)とその妹ビア
2.ディオニュソスとデメテル
3.木に住む女の妖精ハマドリュアデスと、サテュロス
4.ムネモシュネーとヘシオドス
5.無名の2人
この映画も自然の中で撮影されており、対話中に音楽はいっさい使用されておらず、効果音もない。自然の音を何ひとつカットしていない。さらに言えば、とくに衣装もメイクも映画用に何もしていないようだ。
最初のクラトスとビアの対話では、2人がうしろ姿のままえんえんとなされる。2人は向き合っておらず、目をあわせることもほとんどない。
ラストシーンは、なんだかわからないけど、空が長々と映されて、終わり。
最後の最後まで、ストローブ=ユイレさん、やってくれますね!という感じ。

帰宅後、テレビで「県庁の星」を見る。西谷弘監督、2006年。
「県庁さん」織田裕二が、民間のスキルをとりいれるため、スーパーで半年勤務する。教育係はパートのベテラン、柴咲コウ。エリート路線を進んでいた県庁さんは、そのレールをはずされ、大企業社長娘との婚約も破談になる。一方、スーパーはコスト優先の行き過ぎで営業停止の危機に。最初、齟齬があった県庁さんとスーパーが、強力タッグを組んでスーパーの立て直しに成功。一方、県庁側の腐敗は一朝一夕には改革できないが、ただで飲んでいたコーヒーを1杯100円にするなど、徐々にではあるが、進みはじめる。
と、まあ、普通に働いていれば、実生活でも体験できるような内容で、映画見ているときにも労働モードで考えなくてはならんのか、とも思ったが、予想以上に上質のエンタテインメントになってたと思う。
ツンケンしている怖い人だと思ってたら、意外と可愛いところもある、とか。
たよりない、と思ってた店長さんが、ピンチのときにきっちりやってくれる、とか。
味方だと思ってた知事が同じ穴のムジナだった、とか。
「こういう人は、こう」「こういう場合はこう」という決めつけがいかに変動しやすく、無効なのかが描かれていて、面白い。
でも、こういう映画見ると、自分は県庁さんにもベテランパートにもなれないことが身にしみてわかり、ああ、僕って労働には向いていないなあ、と再認識したりする。
DVD ポニーキャニオン 2004/12/15 ¥3,990
行こうと思っていたイベントがあって外に出たまではいいが、懐具合と時間ギリギリに気づいて、引き返してしまった。
で、自宅で見たものは。
5月30日のパンクラス。
アスエリオ・シウバとファビオ・シウバが勝った。アライケンジ秒殺。
水野がアスエリオに歯がたたず、とうぶんヘビー級では日本人の出番はなさそう。
ライトヘビー級のファビオの方は、まだ穴がある。

フランソワ・トリュフォー監督の「柔らかい肌」を見た。1963年。
妻も子もある文芸評論家(ジャン・ドザイ)が、スチュワーデス(フワンソワーズ・ドルレアック)と起こす不倫サスペンス。
みんなと会食中に「若い女性が面会です」と言われてドザイもんは焦るが、誰かと思ったらサインをねだるファンだった、とか。
妻(ナリー・ベネディッティ)が銃に弾を込めたり不穏な行動をとっているとき、ドザイもんは妻に電話しようとしてるが、先客がいてなかなか電話できない、とか。
まるでヒチコック!
ドザイもんの恋愛ってのはまったく不器用で初心者で、見ていてハラハライライラさせられる。自分の恋愛も傍から見ればあんな風だったんじゃないか、と思えば恥ずかしくて地面に穴を掘りたくなる。
密会の約束をとりつけて、部屋中の電灯をつけて大喜びのドザイもん。初心者か!
ダンスできる店に行って「僕は君を見ているだけでいい」とドルレアックだけ踊らせるドザイもん。中年のおっさん!
4年前に別れてる元カレに嫉妬するドザイもん。みっともない!
ランスにまで2人で出かけてるのに、ドルレアックをほったらかしにしてしまうドザイもん。こりゃ、ひどい。
脚線美をおさめたくてドルレアックに無理なポーズをとらせて写真をとるドザイもん。その写真を妻に動かぬ証拠としておさえられてしまうドザイもん。大馬鹿地蔵にもほどがある。
それに比べて、ドルレアックのいい女っぷりはクラクラするほど。
ドザイもんが調子にのってバルザックについて語るのを、朝までつきあって聞いてあげるドルレアック。なんて、いい女!
車の助手席に坐るドルレアックの脚をちらちら見るドザイもん。「なに?」と聞くと「ジーンズも履くんだ」給油中にこっそりスカートにはきかえるドルレアック。なんて、いい女!
妻だって、落ち度なしのいい女なのだ。
それなのに、離婚だの射殺だのに導いてしまったのはドザイもんが全部悪い。
殺されて当然の奴だ。
他の女と恋愛したいのなら、最初から結婚なんかしなければいいのだ。妻子を持ちながら、欲望にまかせて女に手を出す輩は、即刻死刑だ。
あと、この映画のみどころは、「脚」
飛行機内でカーテンの下から見える、靴を履き替えるシーンとか。
ホテルのドアの外に出された靴を執拗に追うシーンとか。
ドザイもんがドルレアックのストッキングをはずすシーンとか。

カール・テオドア・ドライヤー監督の「奇跡」を見た。1955年。
ボーエン家を舞台にした神と信仰と奇跡の物語。
父モーテンは教会を中心とした宗教を信仰している。
長男ミケルは信仰心がないが心は美しい。
その妻インガは素朴な信仰の持ち主。
次男ヨハネスは狂ってイエスになりきっている。
インガの娘は、子供の純粋さで、ヨハネスを信じている。
三男アーナスは、宗派の違う家の娘アンネと結婚したいが、反対されている。
それに、村の牧師に、医師。
彼らはみな、それぞれの立場で信仰し、議論する。
なかでも、モーテンと、アンネの父ペーターによる宗派違いの議論は面白く、信仰によって人生が満たされる立場と、信仰を苦行とする立場でわかれ、最後にはこのままでは地獄に落ちるぞと改宗合戦を繰り広げる。
また、モーテンとインガの話し合いも深い。
パイプについてモーテンが「中身を詰め忘れた」というとインガが「詰めておきましたよ」という会話にも意味があるように思えてきた!
モーテン「ヨハネスは治るまい」
インガ「治りますよ」
モーテン「ミケルは先祖代々の信仰を捨てた」
インガ「彼は心の中に神を宿していますわ」
こうしてみるとインガは硬直しがちな考えをやんわりとほぐす役割を担っているんだな、と見える。
ストーリーは、インガが死産し、自身も死んでしまうことで急展開する。
全員が集まった場所に、理性を取り戻したヨハネスが来て言う。
「なぜ、誰も神を信じないのか」
そこにいるみんなが神を信仰していると言いながら、真剣に祈るものはいなかった、というのだ。
ヨハネスの呼び掛けによって、インガは生き返る。
この映画はいちいち映像が素晴らしくて、名画(絵の方ね)を見ているような感覚すら覚えるが、インガが死んでから生き返るまでの映像は、特に感心した。美しい!
生まれてきた子供は、どこ?とインガが問えば、ミケルは神のもとで暮らしている、と答える。無神論者のミケルにも信仰が宿ったのだ。
気掛かりなのは、アーナスとアンネの結婚のことで、インガが死んだということで、ペーターは2人の結婚を許した。インガが生き返った今、「さっきの話はなし」と言い兼ねない雰囲気もある。神についての議論の際、ヨハネスは「地上の教会ではそう言っているのか」やれやれ、と言っていた。宗教によって心が狭くなってしまうのは考えものだが、じゃあ、彼から宗教を引き算して、心が広くなるのかと言えば、そうでもないような気がする。宗派の違いによって恋愛や結婚を反対するのは、宗教の本質に無関係なことだと思う。ヨハネスの言葉につけくわえて「地上の教会ではそう言っているのか。宗教を口実にして自分の偏狭さを正当化するつもりか」と言いたくなってくる。
教会の宗教(宗派に分かれる)はヨハネスに言わせれば「神を信じない」信仰なのか、だからと言って、奇跡によって得られる信仰にいかほどの意味があるのか、など、まあ宗教について考える人なら基礎の基礎のところを考えさせられた。

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