ミシェル・ヴァイヨン、ブリジット・ジョ−ンズの日記
2006年1月1日 映画
ルイ・パスカル・クヴレア監督の「ミシェル・ヴァイヨン」を見た。2003年。リュック・ベッソンが製作、脚本で加わっている。ジャン・グラトン&フィリップ・グラトンのコミックが原作。
出演はサガモール・ステヴナン(ロマンスX」)、ディアーヌ・クルージェ(「トロイ」「ナショナル・トレジャー」)、リサ・バルブシャ(「超常殺人者2」)など。
主人公ミシェル・ヴァイヨンは、レーサーで、ルマン24時間耐久レースで、リサ・バルブシャの卑劣な妨害工作にもめげずに勝利を得る話。
これはもう、大衆娯楽作品としては文句無しだった。
ミシェル・ヴァイヨンの母親が悪夢を見る。
ナンバー13をつけたチーム「リーダー」の車との接触で、ミシェル・ヴァイヨンの車は大破するのだ。
「13」なんて不吉な数字をつける奴はいない、とか、卑怯な手を使う「リーダー」はもうとっくの昔に引退したとか、否定する家族。
でも、その「リーダー」の娘(リサ・バルブシャ)が、父の無念をはらすために「リーダー」を復活、あえて「13」でエントリーしてくる。
娘は父親以上に邪悪な手を使って、ミシェル・ヴァイヨンを負かそうとする。
その妨害たるや、車を運搬する大型車を狙撃して予選に間に合わなくなるように画策したり、タイヤに細工をして途中でバーストするように仕掛けたり、ミシェル・ヴァイヨンの父親を誘拐して負けを強要したり、まさに、ベタベタな漫画。チキチキマシンかと思った。
途中のシーンでも、目隠ししてサーキットを激走するとか、替え玉が運転して走ったり、香港映画も顔負けのギャグを大真面目にやってくれて、大笑い。
パロディ映画でもギャグ映画でもないのに、こんなにスピード感があって、笑える映画はそうそう無いはず。
ラストも、すごい。ついに策略によってパンクしたタイヤでノロノロと走るヴァイヨンの車、これでチーム・リーダーの勝利かと思いきや、ギリギリでリーダーの車のオイルが切れて、止まってしまう。車を降りて必死で押してゴールしようとするリーダーの横を、ヴァイヨンのパンクした車がユルユル〜と追い抜かして、僅差でゴールイン。
ヒャー、正月そうそう、いい映画に当たった!
夜に放送していた「ブリジット・ジョーンズの日記」も見た。2001年。
シャロン・マグアイア監督、レニー・ゼルウィガー主演、下半身上司ヒュー・グラントと簡単に寝たりする三十路女。良識あるコリン・ファースの良さをまったく見抜けず、右往左往する。
これって、「あるある」と共感をもって迎えられているんだろうか。原作は未読だが、大ベストセラーなのだ。映画の各登場人物は、見事に演じ切っていて、さすがレニー、とか、ヒューはまり役!とか拍手したくなるが、物語そのものは、「こいつらまとめて不幸になっても、何とも思わない」と思った。
レニーのバニーガールや勝負パンツ一丁で雪の中を走るシーン、消防署でのお尻どアップなど、体当たりの名演技が、とてもかわいそうだった。レニーの名演技は、ブリジット・ジョーンズって、なんてぶさいくで愚かな女なんだろう、と嘆かせるほどで、冷静に見ると、レニー本来の可愛さが見えてきて、その演技力に舌を巻くという繰り返しだった。
実際にブリジット・ジョーンズが近くにいても、僕は魅力をこれっぽっちも感じないだろう。趣味も悪いし。等身大の魅力なんてくそくらえだ。ブリジットは「等身大」じゃなくて、どう見ても「1、5倍」ではないか。
また、夫婦ばかりが揃った食事会で、結婚生活の良さを独善的におしつける夫婦たちの描写も醜い。親戚ばかりが集まる法事などで、たまに似たような状況に陥ることがあるが、まったく困ったものだ。家族だの親類だの、血や家で何かつながりができるかのような妄想から早く解放されたいものだ。
あと、キャストで面白かったのが、先に見た「ミシェル・ヴァイヨン」の悪女リサ・バルブシャが、ヒュー・グラントの恋人として出て来る。また、難しい話に答えられずに「トイレはどこですか」としか会話してもらえない作家はサルマン・ラシュディ?同じ出版記念パーティーでジェフリ−・アーチャーの名前も出て来る。この2人、本人だとしたら、なぜこの映画に出てきたのやら。なんだかうれしくなってきた。
出演はサガモール・ステヴナン(ロマンスX」)、ディアーヌ・クルージェ(「トロイ」「ナショナル・トレジャー」)、リサ・バルブシャ(「超常殺人者2」)など。
主人公ミシェル・ヴァイヨンは、レーサーで、ルマン24時間耐久レースで、リサ・バルブシャの卑劣な妨害工作にもめげずに勝利を得る話。
これはもう、大衆娯楽作品としては文句無しだった。
ミシェル・ヴァイヨンの母親が悪夢を見る。
ナンバー13をつけたチーム「リーダー」の車との接触で、ミシェル・ヴァイヨンの車は大破するのだ。
「13」なんて不吉な数字をつける奴はいない、とか、卑怯な手を使う「リーダー」はもうとっくの昔に引退したとか、否定する家族。
でも、その「リーダー」の娘(リサ・バルブシャ)が、父の無念をはらすために「リーダー」を復活、あえて「13」でエントリーしてくる。
娘は父親以上に邪悪な手を使って、ミシェル・ヴァイヨンを負かそうとする。
その妨害たるや、車を運搬する大型車を狙撃して予選に間に合わなくなるように画策したり、タイヤに細工をして途中でバーストするように仕掛けたり、ミシェル・ヴァイヨンの父親を誘拐して負けを強要したり、まさに、ベタベタな漫画。チキチキマシンかと思った。
途中のシーンでも、目隠ししてサーキットを激走するとか、替え玉が運転して走ったり、香港映画も顔負けのギャグを大真面目にやってくれて、大笑い。
パロディ映画でもギャグ映画でもないのに、こんなにスピード感があって、笑える映画はそうそう無いはず。
ラストも、すごい。ついに策略によってパンクしたタイヤでノロノロと走るヴァイヨンの車、これでチーム・リーダーの勝利かと思いきや、ギリギリでリーダーの車のオイルが切れて、止まってしまう。車を降りて必死で押してゴールしようとするリーダーの横を、ヴァイヨンのパンクした車がユルユル〜と追い抜かして、僅差でゴールイン。
ヒャー、正月そうそう、いい映画に当たった!
夜に放送していた「ブリジット・ジョーンズの日記」も見た。2001年。
シャロン・マグアイア監督、レニー・ゼルウィガー主演、下半身上司ヒュー・グラントと簡単に寝たりする三十路女。良識あるコリン・ファースの良さをまったく見抜けず、右往左往する。
これって、「あるある」と共感をもって迎えられているんだろうか。原作は未読だが、大ベストセラーなのだ。映画の各登場人物は、見事に演じ切っていて、さすがレニー、とか、ヒューはまり役!とか拍手したくなるが、物語そのものは、「こいつらまとめて不幸になっても、何とも思わない」と思った。
レニーのバニーガールや勝負パンツ一丁で雪の中を走るシーン、消防署でのお尻どアップなど、体当たりの名演技が、とてもかわいそうだった。レニーの名演技は、ブリジット・ジョーンズって、なんてぶさいくで愚かな女なんだろう、と嘆かせるほどで、冷静に見ると、レニー本来の可愛さが見えてきて、その演技力に舌を巻くという繰り返しだった。
実際にブリジット・ジョーンズが近くにいても、僕は魅力をこれっぽっちも感じないだろう。趣味も悪いし。等身大の魅力なんてくそくらえだ。ブリジットは「等身大」じゃなくて、どう見ても「1、5倍」ではないか。
また、夫婦ばかりが揃った食事会で、結婚生活の良さを独善的におしつける夫婦たちの描写も醜い。親戚ばかりが集まる法事などで、たまに似たような状況に陥ることがあるが、まったく困ったものだ。家族だの親類だの、血や家で何かつながりができるかのような妄想から早く解放されたいものだ。
あと、キャストで面白かったのが、先に見た「ミシェル・ヴァイヨン」の悪女リサ・バルブシャが、ヒュー・グラントの恋人として出て来る。また、難しい話に答えられずに「トイレはどこですか」としか会話してもらえない作家はサルマン・ラシュディ?同じ出版記念パーティーでジェフリ−・アーチャーの名前も出て来る。この2人、本人だとしたら、なぜこの映画に出てきたのやら。なんだかうれしくなってきた。
ダンシングBANANAで大晦日
2005年12月31日 アイドル
1年のしめくくりは、鶴見はなぽーとブロッサムでダンシングBANANA。
まず、午後1時の回は
HIBIKI(ダンス)
It’s Alright
世界が一つになるまで
HAPPY MAKER(人気投票で第1位の歌)
元気メドレー(勇気100%、YUME日和など)
Dandelion(新曲、バラード)
真実の宝石
以上7曲。
唯など特にそうだったのだが、もう今年ラストのイベントだということで感動しているのか、ダンデライオンではメンバーの多くが泣きながらのイベントになった。
続く午後3時の回は
Scream(ダンス)
HAPPY MAKER
ありがとう
軌跡
Dandelion
DIVING TO LOVE
世界中のこどもたちが
の7曲。
今回もメンバーの涙。
小学生と中学生が、毎月、このブロッサムでレベルの高いステージを見せてきたのだ。
感動するな、と言う方が酷だろう。
思えば、このステージで雪が降り込んできて、奇跡のような演出効果が見られたのは、今年のまだ寒い時期だったのだ。
大晦日はどこも慌ただしいが、僕にとっては年末の気分なんてゼロだ。
ゆっくりしたくて、メイドインカフェに行く。
日本橋にはメイド喫茶が多数あって、新しい店など、行っていないところが多々あるのだが、女の子と会話することが苦手なので、行きたいような、行きたくないようなためらいがある。アイドルの握手会というのも、とても恥ずかしい。
このメイドインカフェだと、落ち着いた感じで、しかもメイドさんの中には顔を覚えていてくれる人もいる。比較的緊張せずにすむ店なのだ。
帰宅後はもうテレビに釘付け。
もちろん、格闘技。
ヒョードル、強い!文句無しに一番すきだ。昔から僕はロシアの選手が好きなのだ。ハッケンシュミットとかハンとか。
ハント強い!それなのに、判定でミルコが勝ちだとしたジャッジもいた。そんな節穴ジャッジに判定される選手もかわいそうだ。判定と言うシステムはもうなくすべきだ。
キッドの試合、止めるの早すぎないか?レフェリーストップというシステムはもうなくすべきだ。
吉田、ハッスルくらいしろよ。おまえはまだアマチュア精神が残ってるのか。試合には勝ったかもしれないが、小川の方がプロとして強いと感じたぞ。吉田にはプロの資格なし。
武蔵、サップの後頭部パンチで寝てるようでは、弱すぎる。試合には勝ったかもしれないが、セメントだとサップの方が強いことを証明したようなものだ。
僕の大好きなダンの試合を適当に流すのはどういう了見なのか。
両方とも外人だからという理由でおざなりか。日本人びいきもいいかげんにしてほしい。
紅白は、ハロプロの部分だけ見た。
続く気志団が、ボビーと曙をパロディにしたステージをしていて、一瞬面白いな、と思ったのだが、曙といえばぶざまに負ける姿、という、格闘技ファンではない一般の人が抱いているイメージをそのまま再現しているのには辟易だった。オタクと言えば、必ず「萌え〜」と言っちゃう、みたいな誤った認識をそのままなぞっているのが、不愉快なのだ。
ワイドショーを見て、世相を語ってしまうような浅はかさがあるんじゃないか。
そもそも、格闘技ファンにとって、もともとボビーと曙戦は、プライド、ダイナマイトを通じて、一番どうでもいい試合だったように思う。一発でボビーが曙をノックアウトでもしないかぎり、興味が湧かない取組だったはずだ。一般の視聴者にとっては違うのかもしれないけど。
大晦日から新年にかけて、かつてはモーニング娘。とかいっぱい出てたのに、あまり目立たない。ああ、アイドル優先のチャンネルが1つくらいあってもいいのに。
まず、午後1時の回は
HIBIKI(ダンス)
It’s Alright
世界が一つになるまで
HAPPY MAKER(人気投票で第1位の歌)
元気メドレー(勇気100%、YUME日和など)
Dandelion(新曲、バラード)
真実の宝石
以上7曲。
唯など特にそうだったのだが、もう今年ラストのイベントだということで感動しているのか、ダンデライオンではメンバーの多くが泣きながらのイベントになった。
続く午後3時の回は
Scream(ダンス)
HAPPY MAKER
ありがとう
軌跡
Dandelion
DIVING TO LOVE
世界中のこどもたちが
の7曲。
今回もメンバーの涙。
小学生と中学生が、毎月、このブロッサムでレベルの高いステージを見せてきたのだ。
感動するな、と言う方が酷だろう。
思えば、このステージで雪が降り込んできて、奇跡のような演出効果が見られたのは、今年のまだ寒い時期だったのだ。
大晦日はどこも慌ただしいが、僕にとっては年末の気分なんてゼロだ。
ゆっくりしたくて、メイドインカフェに行く。
日本橋にはメイド喫茶が多数あって、新しい店など、行っていないところが多々あるのだが、女の子と会話することが苦手なので、行きたいような、行きたくないようなためらいがある。アイドルの握手会というのも、とても恥ずかしい。
このメイドインカフェだと、落ち着いた感じで、しかもメイドさんの中には顔を覚えていてくれる人もいる。比較的緊張せずにすむ店なのだ。
帰宅後はもうテレビに釘付け。
もちろん、格闘技。
ヒョードル、強い!文句無しに一番すきだ。昔から僕はロシアの選手が好きなのだ。ハッケンシュミットとかハンとか。
ハント強い!それなのに、判定でミルコが勝ちだとしたジャッジもいた。そんな節穴ジャッジに判定される選手もかわいそうだ。判定と言うシステムはもうなくすべきだ。
キッドの試合、止めるの早すぎないか?レフェリーストップというシステムはもうなくすべきだ。
吉田、ハッスルくらいしろよ。おまえはまだアマチュア精神が残ってるのか。試合には勝ったかもしれないが、小川の方がプロとして強いと感じたぞ。吉田にはプロの資格なし。
武蔵、サップの後頭部パンチで寝てるようでは、弱すぎる。試合には勝ったかもしれないが、セメントだとサップの方が強いことを証明したようなものだ。
僕の大好きなダンの試合を適当に流すのはどういう了見なのか。
両方とも外人だからという理由でおざなりか。日本人びいきもいいかげんにしてほしい。
紅白は、ハロプロの部分だけ見た。
続く気志団が、ボビーと曙をパロディにしたステージをしていて、一瞬面白いな、と思ったのだが、曙といえばぶざまに負ける姿、という、格闘技ファンではない一般の人が抱いているイメージをそのまま再現しているのには辟易だった。オタクと言えば、必ず「萌え〜」と言っちゃう、みたいな誤った認識をそのままなぞっているのが、不愉快なのだ。
ワイドショーを見て、世相を語ってしまうような浅はかさがあるんじゃないか。
そもそも、格闘技ファンにとって、もともとボビーと曙戦は、プライド、ダイナマイトを通じて、一番どうでもいい試合だったように思う。一発でボビーが曙をノックアウトでもしないかぎり、興味が湧かない取組だったはずだ。一般の視聴者にとっては違うのかもしれないけど。
大晦日から新年にかけて、かつてはモーニング娘。とかいっぱい出てたのに、あまり目立たない。ああ、アイドル優先のチャンネルが1つくらいあってもいいのに。
幽☆遊☆白書〜冥界死闘篇・炎の絆〜
2005年12月30日 映画
飯島正勝監督の「幽☆遊☆白書 冥界死闘篇炎の絆」1994年を見た。
冬休みのBSアニメで放送していたのを録画しておいたのだ。
これは劇場用のオリジナルで、幽☆遊☆白書のおなじみのメンバーが、冥界のつわものたちと戦う。
霊界とか魔界とか出て来たけど、今度は冥界。
番外編ととらえて間違いないが、そもそもアニメの「幽☆遊☆白書」自体が漫画版のパラレルワールドと考えてもいいので、それほどの違和感はない。
しかし、それぞれのキャラクターの見せ場も用意されていて、お正月などに上映されていたオールスター映画みたいな感覚はある。かくし芸大会のドラマみたいなものに近いか。
ストーリーもお約束路線で、安心して見れる。
フッフッフッフ
こんのやろー
ドガーン
くっそー
ハッハッハッハッハ
ちきしょー
ハッハッハッハッハ、これでおしまいだな。ハッハッハッハ、なに!?
ヘッヘッヘ
ハア〜〜〜〜〜〜
カア〜〜〜〜〜〜
ドギャーン
まあ、おおよそこんな感じだ。
最初のヤクモによる町の爆発シーンでサラリーマンのカツラが飛ぶところが一番面白かった。
冬休みのBSアニメで放送していたのを録画しておいたのだ。
これは劇場用のオリジナルで、幽☆遊☆白書のおなじみのメンバーが、冥界のつわものたちと戦う。
霊界とか魔界とか出て来たけど、今度は冥界。
番外編ととらえて間違いないが、そもそもアニメの「幽☆遊☆白書」自体が漫画版のパラレルワールドと考えてもいいので、それほどの違和感はない。
しかし、それぞれのキャラクターの見せ場も用意されていて、お正月などに上映されていたオールスター映画みたいな感覚はある。かくし芸大会のドラマみたいなものに近いか。
ストーリーもお約束路線で、安心して見れる。
フッフッフッフ
こんのやろー
ドガーン
くっそー
ハッハッハッハッハ
ちきしょー
ハッハッハッハッハ、これでおしまいだな。ハッハッハッハ、なに!?
ヘッヘッヘ
ハア〜〜〜〜〜〜
カア〜〜〜〜〜〜
ドギャーン
まあ、おおよそこんな感じだ。
最初のヤクモによる町の爆発シーンでサラリーマンのカツラが飛ぶところが一番面白かった。
夜勤直前アップルストア
2005年12月29日 ライブ仕事に行く前に、心斎橋アップルストアーに寄って、生方則孝氏とフェイターンさんの「内容の無い音楽会」トークイベント。
1988年発売の幻のパロディ「内容の無い音楽会」を実際に再生して聞きながら、当時のエピソードなどを語る。フェイターンさんは主に聞き役。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~raiden/music/album06.html
アルバム中に「47才の地図」という中年サラリーマンの歌があるが、生方氏も僕も同い年で、年齢はほぼ、このとおり。
戦場のメリークリスマスのパロディ「戦場の盆おどり」や特撮映画「うまかろう君」でモスラのパロディとか、ギャグ満載だった。
松前さん、安井くんなども見に来ていた。
僕はイベント終了後、すぐに仕事に行ったが、もう少し早くきておれば、同じアップルストアであんちゃんのDJも見ることが出来たのだ。
家でだらだら過ごしていても、身体が休まるだけで、いいことなんか1つもない、と思っているのに、ついついだらだらしてしまう。
寒いし眠いし重いし、冬はもうじゅうぶんに満喫した。わかったから、もう夏になってくれ。
1988年発売の幻のパロディ「内容の無い音楽会」を実際に再生して聞きながら、当時のエピソードなどを語る。フェイターンさんは主に聞き役。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~raiden/music/album06.html
アルバム中に「47才の地図」という中年サラリーマンの歌があるが、生方氏も僕も同い年で、年齢はほぼ、このとおり。
戦場のメリークリスマスのパロディ「戦場の盆おどり」や特撮映画「うまかろう君」でモスラのパロディとか、ギャグ満載だった。
松前さん、安井くんなども見に来ていた。
僕はイベント終了後、すぐに仕事に行ったが、もう少し早くきておれば、同じアップルストアであんちゃんのDJも見ることが出来たのだ。
家でだらだら過ごしていても、身体が休まるだけで、いいことなんか1つもない、と思っているのに、ついついだらだらしてしまう。
寒いし眠いし重いし、冬はもうじゅうぶんに満喫した。わかったから、もう夏になってくれ。
A・H・Z・カーの短編集『誰でもない男の裁判』を読んだ。
以前にいくつかの短編と、長篇は読んだことがあったが、これといった印象もない作家だったが、これは面白かった。ほとんどが高校生のときに読んだので、作品の味がわからなかったと思われる。
以下、それぞれの覚え書き。未読の人は注意。
「黒い小猫」娘の可愛がっている小猫を踏み殺してしまった牧師。苦しむ猫にとどめを刺す瞬間を娘に目撃された牧師。トラウマ必至!牧師は、娘を支えるために担任の女教師を呼び、新しい小猫を飼ってやることにし、自分の説教原稿を破り捨てる。罪を自分の外側にある遠いものとして語っていることに気づいたのだ。
ありがちな展開に思えるだろうが、これ、読むと迫真のストーリーなのだ。
「虎よ!虎よ!」タイトルはブレイクの詩の一節。被害者は肉を食べているときに殺された。給仕が肉に刺さっていた串で殺したのだ。主人公は思う。正当防衛で人を殺すのと、復讐で人を殺すのと、どこに違いがあるのか。いずれも同じ虎ではないか。
詩からインスピレーションを得て事件を解決する。この味わいが、高校時代の僕にはさっぱり理解できなかったのだ。
「誰でもない男の裁判」無神論を演説する男。「牧師さんたちに言わせると、わたしは神をけがす不埒な男だということになっています。よろしい、もし神というものがどこかにいるならば、即座にわたしを滅ぼしてしかるべきだ!」そのとき一発の銃弾。男を殺したのは、自分の過去を一切思い出せない男。これは神の命令によって行われた殺人なのか?
証人台に立つ神父は、ジャンヌ・ダルクの例などをひきながら、神が下した鉄槌であることを語ろうとするが、ギリギリで、男がインチキであることを知る。証人台で、逆に男を非難する神父。「殺された男は無神論者だったが、男らしくそのことを公言しました。その男を殺した下手人が、人々の信仰を求める心につけこんだ悪事の方が遥かに害悪だ!」指さしてドーン!なんと、インチキ男は心臓マヒで死んでしまう。人々は大騒ぎ。「今度こそ本当の奇蹟だ!」「ちゃう、ちゃう、心臓が弱かったんや!」「神父が神の罰を下した!」「ちゃう、言うてるやろ!」
本書の中で一番印象に残った。信仰とか宗教とか善悪とか、そんなテーマがこの作家の持ち味だということが、やっと理解できた。
「猫探し」サーカスで芸を見せていた猫が誘拐された。猫の芸を見せていた男の恋人に横恋慕した男のしわざだった。奇術のネタで猫をさらったのだが、奈落に落ちていたはずの猫はどこかに逃げ出していた。ここから本当の猫探しがはじまる。
お年頃の猫が行くところは1つ。猫のたまり場でやっと見つけるが、猫は恋に夢中で芸をする気など失せていた。芸人として金を稼げなくなったが、猫も戻り、無事結婚した2人。
ところが、その猫が産んだ子猫たちが、芸達者で、大成功をおさめるのだった。
ハートウォーミングな話。誰も死なないし。
「市庁舎の殺人」人工的に雨を降らせる男が殺された。さて、その動機は?
殺人の動機として、「その日、雨が降られて困るのはいったい誰なのか?」という観点から考えるのは、とても面白い。遊園地の経営者とか、投票率を上げないと当選できない市長など、容疑者が浮かぶ。
「ジメルマンのソース」無銭飲食して、その代価として秘伝のレシピを伝授する男。実際にその通り作ってみて、酷い味だとバレるまでのインチキ。
話術に金を払うってこともあるので、これはあり得るお話か。
「ティモシー・マークルの選択」正義にもとづいて悪事をあばくべきか、しかし、そうすると自分の一家が路頭に迷ってしまう。なにせ、悪事は同い年の高校生がおかしており、密告しても罪は軽く済んでしまう。その親が自分の親の仕事の関係者なのだ。
僕なら迷うことなく悪事をあばくな。要領よく生きるのは、精神のない犬畜生にまかせておけばいいのだ。
「姓名判断殺人事件」アナグラムで解ける1人2役、3役。
1950年代、1960年代の作品で、エラリークイーンズミステリマガジン臭がぷんぷんと漂うのが、自分の高校時代を思い出させた。あの頃は、1年365日、1日24時間ミステリにどっぷりつかっていたのだ。
以前にいくつかの短編と、長篇は読んだことがあったが、これといった印象もない作家だったが、これは面白かった。ほとんどが高校生のときに読んだので、作品の味がわからなかったと思われる。
以下、それぞれの覚え書き。未読の人は注意。
「黒い小猫」娘の可愛がっている小猫を踏み殺してしまった牧師。苦しむ猫にとどめを刺す瞬間を娘に目撃された牧師。トラウマ必至!牧師は、娘を支えるために担任の女教師を呼び、新しい小猫を飼ってやることにし、自分の説教原稿を破り捨てる。罪を自分の外側にある遠いものとして語っていることに気づいたのだ。
ありがちな展開に思えるだろうが、これ、読むと迫真のストーリーなのだ。
「虎よ!虎よ!」タイトルはブレイクの詩の一節。被害者は肉を食べているときに殺された。給仕が肉に刺さっていた串で殺したのだ。主人公は思う。正当防衛で人を殺すのと、復讐で人を殺すのと、どこに違いがあるのか。いずれも同じ虎ではないか。
詩からインスピレーションを得て事件を解決する。この味わいが、高校時代の僕にはさっぱり理解できなかったのだ。
「誰でもない男の裁判」無神論を演説する男。「牧師さんたちに言わせると、わたしは神をけがす不埒な男だということになっています。よろしい、もし神というものがどこかにいるならば、即座にわたしを滅ぼしてしかるべきだ!」そのとき一発の銃弾。男を殺したのは、自分の過去を一切思い出せない男。これは神の命令によって行われた殺人なのか?
証人台に立つ神父は、ジャンヌ・ダルクの例などをひきながら、神が下した鉄槌であることを語ろうとするが、ギリギリで、男がインチキであることを知る。証人台で、逆に男を非難する神父。「殺された男は無神論者だったが、男らしくそのことを公言しました。その男を殺した下手人が、人々の信仰を求める心につけこんだ悪事の方が遥かに害悪だ!」指さしてドーン!なんと、インチキ男は心臓マヒで死んでしまう。人々は大騒ぎ。「今度こそ本当の奇蹟だ!」「ちゃう、ちゃう、心臓が弱かったんや!」「神父が神の罰を下した!」「ちゃう、言うてるやろ!」
本書の中で一番印象に残った。信仰とか宗教とか善悪とか、そんなテーマがこの作家の持ち味だということが、やっと理解できた。
「猫探し」サーカスで芸を見せていた猫が誘拐された。猫の芸を見せていた男の恋人に横恋慕した男のしわざだった。奇術のネタで猫をさらったのだが、奈落に落ちていたはずの猫はどこかに逃げ出していた。ここから本当の猫探しがはじまる。
お年頃の猫が行くところは1つ。猫のたまり場でやっと見つけるが、猫は恋に夢中で芸をする気など失せていた。芸人として金を稼げなくなったが、猫も戻り、無事結婚した2人。
ところが、その猫が産んだ子猫たちが、芸達者で、大成功をおさめるのだった。
ハートウォーミングな話。誰も死なないし。
「市庁舎の殺人」人工的に雨を降らせる男が殺された。さて、その動機は?
殺人の動機として、「その日、雨が降られて困るのはいったい誰なのか?」という観点から考えるのは、とても面白い。遊園地の経営者とか、投票率を上げないと当選できない市長など、容疑者が浮かぶ。
「ジメルマンのソース」無銭飲食して、その代価として秘伝のレシピを伝授する男。実際にその通り作ってみて、酷い味だとバレるまでのインチキ。
話術に金を払うってこともあるので、これはあり得るお話か。
「ティモシー・マークルの選択」正義にもとづいて悪事をあばくべきか、しかし、そうすると自分の一家が路頭に迷ってしまう。なにせ、悪事は同い年の高校生がおかしており、密告しても罪は軽く済んでしまう。その親が自分の親の仕事の関係者なのだ。
僕なら迷うことなく悪事をあばくな。要領よく生きるのは、精神のない犬畜生にまかせておけばいいのだ。
「姓名判断殺人事件」アナグラムで解ける1人2役、3役。
1950年代、1960年代の作品で、エラリークイーンズミステリマガジン臭がぷんぷんと漂うのが、自分の高校時代を思い出させた。あの頃は、1年365日、1日24時間ミステリにどっぷりつかっていたのだ。
喜劇一発勝負、ヴァージン・ハンド
2005年12月27日 映画
山田洋次監督の「喜劇一発勝負」を見た。1967年。
主演のハナ肇は親不孝もの。
父親加東大介はハナ肇を勘当する。
母親の死後にひょっくら戻ってきたハナ肇を、妹の倍賞千恵子やばあやの北林谷栄は迎えるが、父親の頭痛のタネは消えない。
ハナ肇は一発あてることだけ考えて、周囲に迷惑をかけまくる。
墓場も掘り返すし、ワライタケ食べて大騒ぎしたり、
家宝も勝手に処分して金にかえてしまうし、借金もしまくるし。
温泉をあてて金持ちになるが、娘が東京に遊びに行くと言い出したとき、親として大反対する。
娘はハナ肇の頭をポカリと殴り、若者(スパイダースの堺、井上)2人と東京に行く。
この光景はいつか見た光景。
加東大介をポカリとやって家を飛び出したハナ肇と同じ構図なのだ。
加東大介は涙と鼻水とよだれをダラダラ流しながら、狂ったように大笑いする。
「今頃、気づいたか!」
これはホラーか!
娘が我が子と知らないうちはハナ肇は「若いときなんだから、東京くらい行かせてやれ」的な発言をしているが、それが自分の娘だとわかるやいなや、大反対し、親不孝ものと罵る。
まったく、親にだけはなりたくないものである。
続けて、アルフォンソ・アラウ監督の「ヴァージン・ハンド」を見た。1999年。
ウディ・アレンは妻(シャロン・ストーン)を殺してバラバラにしたが、死体を運ぶ最中に片手を落としてしまう。中指立てた手!
その片手につまづいた盲目の老婆の目に視力が戻った!
その手は教会に運びこまれ「マリア様の手」として、奇跡を次々と起こす。
つぶれていた片目が見えるようになり、全身震えていた病人が完治、切り落とされていた両足がニョキニョキとはえはじめる。
願いを叶えたい人々でごったがえすメキシコの教会。
片手キャンデーなどお土産ものが多数売られる。
片手を取り戻そうとするウディ・アレン、それを個人的な事情から追い詰める警官キーファー・サザーランド。(シャロン・ストーンの浮気相手はこのキーファーだったのだ。最後には吊るされて花火まみれで殺されてしまう!)
残酷でブラックなコメディ。
監督のアルフォンソ・アラウや、エリオット・グールド、チーチ・マリンなども出演している。
メキシコの死者の日や、マリアの片手に集まる群集とか、賑やかな映画で、その喧噪の中でマイペースでふるまうウディ・アレン。個人芸の見せあいみたいなバラバラ感は、バラバラ殺人の物語らしい印象だ。
牢屋に監禁されるウディ・アレンに警官が聞く。
「何かほしいものはあるか」
「その鍵があると助かるんだけど」
おお、ウディ・アレン、我が道を行く。
寒いと、ついつい出無精になってしまう。
今日はケーブルテレビで、上の2本映画見ただけで、あとは仕事に出かけたのであった。
主演のハナ肇は親不孝もの。
父親加東大介はハナ肇を勘当する。
母親の死後にひょっくら戻ってきたハナ肇を、妹の倍賞千恵子やばあやの北林谷栄は迎えるが、父親の頭痛のタネは消えない。
ハナ肇は一発あてることだけ考えて、周囲に迷惑をかけまくる。
墓場も掘り返すし、ワライタケ食べて大騒ぎしたり、
家宝も勝手に処分して金にかえてしまうし、借金もしまくるし。
温泉をあてて金持ちになるが、娘が東京に遊びに行くと言い出したとき、親として大反対する。
娘はハナ肇の頭をポカリと殴り、若者(スパイダースの堺、井上)2人と東京に行く。
この光景はいつか見た光景。
加東大介をポカリとやって家を飛び出したハナ肇と同じ構図なのだ。
加東大介は涙と鼻水とよだれをダラダラ流しながら、狂ったように大笑いする。
「今頃、気づいたか!」
これはホラーか!
娘が我が子と知らないうちはハナ肇は「若いときなんだから、東京くらい行かせてやれ」的な発言をしているが、それが自分の娘だとわかるやいなや、大反対し、親不孝ものと罵る。
まったく、親にだけはなりたくないものである。
続けて、アルフォンソ・アラウ監督の「ヴァージン・ハンド」を見た。1999年。
ウディ・アレンは妻(シャロン・ストーン)を殺してバラバラにしたが、死体を運ぶ最中に片手を落としてしまう。中指立てた手!
その片手につまづいた盲目の老婆の目に視力が戻った!
その手は教会に運びこまれ「マリア様の手」として、奇跡を次々と起こす。
つぶれていた片目が見えるようになり、全身震えていた病人が完治、切り落とされていた両足がニョキニョキとはえはじめる。
願いを叶えたい人々でごったがえすメキシコの教会。
片手キャンデーなどお土産ものが多数売られる。
片手を取り戻そうとするウディ・アレン、それを個人的な事情から追い詰める警官キーファー・サザーランド。(シャロン・ストーンの浮気相手はこのキーファーだったのだ。最後には吊るされて花火まみれで殺されてしまう!)
残酷でブラックなコメディ。
監督のアルフォンソ・アラウや、エリオット・グールド、チーチ・マリンなども出演している。
メキシコの死者の日や、マリアの片手に集まる群集とか、賑やかな映画で、その喧噪の中でマイペースでふるまうウディ・アレン。個人芸の見せあいみたいなバラバラ感は、バラバラ殺人の物語らしい印象だ。
牢屋に監禁されるウディ・アレンに警官が聞く。
「何かほしいものはあるか」
「その鍵があると助かるんだけど」
おお、ウディ・アレン、我が道を行く。
寒いと、ついつい出無精になってしまう。
今日はケーブルテレビで、上の2本映画見ただけで、あとは仕事に出かけたのであった。
ホイスト・ゲームのカードの裏側
2005年12月26日 読書 コメント (2)
バルベー・ドールヴィイの『ホイスト・ゲームのカードの裏側』を読んだ。
小説「ホイスト・ゲームのカードの裏側』と、訳者渡邉義愛による評論「『ホイスト・ゲームのカードの裏側』を読む」、付論「ブロワからバルベーへ」「宿命の女とダンディ」が収録されている。
小説の内容は、ホイストに興じる上流階級の人々の前にあらわれた、連戦連勝の男。
男に惚れる母娘。男が去った後に発見される嬰児の死骸。
渡邉義愛はバルベー・ドールヴィイの他作品から、この死子を母が生み落としたものとするパターンと、娘が産んだとするパターン両方を考察している。
こどもを作ってポイ捨てするストーリーなら、「ポイステ・ゲームのカードの裏側」なのか。
渡邉義愛の訳文は面白味に欠けるが、その分丁寧で、意味を取り違えるおそれは少なそうだ。
バルベー・ドールヴィイは19世紀のロマン派文学者で、僕はブランメルの伝記を書いた人物としてまず知ったため、ダンディズムのお手本だと思っている。
本書でも、バルベー・ドールヴィイの奇矯ないでたちについて語られている。
ダンディズムは「紳士」で連想されるような、個を埋没させる目立たないものではなく、すれ違う人が「えっ?」と振り向くような、驚かせることをモットーとしたものだったのだ。
「凡庸、これこそバルベーが最も忌み嫌うものであった」(生田耕筰『ダンディズム』)
母親不明のこどもの死骸、それにまつわる確執など、詳しくは明かされずに物語は終わる。
僕などは、「母か娘か」という二者択一が与えられれば、第3の回答を考えてしまう。
凡庸を嫌ったバルベーが用意して明かさなかった真相は何なのか。
連戦連勝の勝負師が実は女だったのではないか、とか、僕は推理したりしているのだが。
小説「ホイスト・ゲームのカードの裏側』と、訳者渡邉義愛による評論「『ホイスト・ゲームのカードの裏側』を読む」、付論「ブロワからバルベーへ」「宿命の女とダンディ」が収録されている。
小説の内容は、ホイストに興じる上流階級の人々の前にあらわれた、連戦連勝の男。
男に惚れる母娘。男が去った後に発見される嬰児の死骸。
渡邉義愛はバルベー・ドールヴィイの他作品から、この死子を母が生み落としたものとするパターンと、娘が産んだとするパターン両方を考察している。
こどもを作ってポイ捨てするストーリーなら、「ポイステ・ゲームのカードの裏側」なのか。
渡邉義愛の訳文は面白味に欠けるが、その分丁寧で、意味を取り違えるおそれは少なそうだ。
バルベー・ドールヴィイは19世紀のロマン派文学者で、僕はブランメルの伝記を書いた人物としてまず知ったため、ダンディズムのお手本だと思っている。
本書でも、バルベー・ドールヴィイの奇矯ないでたちについて語られている。
ダンディズムは「紳士」で連想されるような、個を埋没させる目立たないものではなく、すれ違う人が「えっ?」と振り向くような、驚かせることをモットーとしたものだったのだ。
「凡庸、これこそバルベーが最も忌み嫌うものであった」(生田耕筰『ダンディズム』)
母親不明のこどもの死骸、それにまつわる確執など、詳しくは明かされずに物語は終わる。
僕などは、「母か娘か」という二者択一が与えられれば、第3の回答を考えてしまう。
凡庸を嫌ったバルベーが用意して明かさなかった真相は何なのか。
連戦連勝の勝負師が実は女だったのではないか、とか、僕は推理したりしているのだが。
御花畑〜病院から墓場まで
2005年12月25日 ライブミナミの味園ビル内にある深夜喫茶「銭ゲバ」で、カルトアイドルイベント「御花畑」を開催した。「御花畑」は「ギョハナバタケ」と読む。「HELP!」というカルトアイドルイベントにレギュラーで出演してくれているアイドルちゃんたちによる「アイドル喫茶」の催し。
前回はテーマを「水中」にして、アイドルちゃんたちには水着でエプロンという格好をしてもらったが、今回のテーマは「病院から墓場まで」看護婦、患者、死者、幽霊、天使などなどのイメージで行くことにした。
僕がプロデュースしているオタクアイドル、丼野M美ちゃんにアイドル映像をセレクトさせて、その解説させたり、あと、特殊メイクアーチストにしてモデルでもある野中ひゆちゃん、現役メイドのちやじちゃんが、それぞれケーキやクッキーを作ってきてくれた。
たこせんべいにたこやきソースで絵を描いて出したり。
ビスケットにチーズやチョコレートソースかけて出したり。
ショータイムでは各アイドルちゃんが歌を披露した。
いや〜、アイドルって本当に、いいもんですね〜。
今日はイベント「HELP!」のクリスマスパーティーみたいなものだったが、次の開催がまったく見えて来ない本編のイベント「HELP!」の行方はいかに?
イベント前に、1月9日にBEARSで行う「ペット博」の打ち合わせもした。
「少女崇拝」の名のユニットにゲスト出演させてもらうことになったのだ。
こりゃまたマニアックでフェティッシュな演目で、内容を詰めていくうちに胸がドキドキときめいた。
前回はテーマを「水中」にして、アイドルちゃんたちには水着でエプロンという格好をしてもらったが、今回のテーマは「病院から墓場まで」看護婦、患者、死者、幽霊、天使などなどのイメージで行くことにした。
僕がプロデュースしているオタクアイドル、丼野M美ちゃんにアイドル映像をセレクトさせて、その解説させたり、あと、特殊メイクアーチストにしてモデルでもある野中ひゆちゃん、現役メイドのちやじちゃんが、それぞれケーキやクッキーを作ってきてくれた。
たこせんべいにたこやきソースで絵を描いて出したり。
ビスケットにチーズやチョコレートソースかけて出したり。
ショータイムでは各アイドルちゃんが歌を披露した。
いや〜、アイドルって本当に、いいもんですね〜。
今日はイベント「HELP!」のクリスマスパーティーみたいなものだったが、次の開催がまったく見えて来ない本編のイベント「HELP!」の行方はいかに?
イベント前に、1月9日にBEARSで行う「ペット博」の打ち合わせもした。
「少女崇拝」の名のユニットにゲスト出演させてもらうことになったのだ。
こりゃまたマニアックでフェティッシュな演目で、内容を詰めていくうちに胸がドキドキときめいた。
小松崎茂 昭和の東京
2005年12月24日 読書
小松崎茂の『昭和の東京』を読んだ。
少年向けのSF絵物語などで知られる著者だが、この本は、浅草や銀座、丸の内など、戦前からの東京の風景スケッチを集めたもの。
大阪に生まれ育った僕には、なじみのない場所なのだが、映画などでたまに大阪が舞台になっているのを見ると、現在の風景と比べて、懐かしくなったり、嘆いたり、いろんな感情が沸き上がってくる。往時を知る東京在住の人には、たまらないスケッチ集なんだろうな、という類推は大いに可能だ。たまたま見た成瀬巳喜男監督の「限りなき舗道」(1934年)に登場人物が明治製菓の板チョコを食べるシーンがあり、そのパッケージデザインを見ただけで、なんだか心に去来するものがあった。風景となるとなおさらだろう。
往年の東京の風景を見ていて、「これはなんだ」と食い付いた部分が2つあった。
1つは、銀座の駅におりる階段のところにあった、地下鉄の惹句。
「地上より22度暖かい」
真冬で地上の気温が氷点下であっても、地下鉄だと20度くらいの暖かさは保てているということなのだろう。
しかし、それを売りにするか?
もう1つは、東京駅の売店のスケッチにあった「鉄道パン」
これは今でも鉄道の日などに200円程度で販売されているパンなのだが、僕はまだ食べたことがない。
昭和19年に食堂車が廃止されたとき、その代わりに車内で販売されたのが最初らしいのだが、小松崎茂がスケッチした頃は、ごく普通に売店に置いていたようだ。見たところ、ソフトなフランスパンみたいで、いかにも食事パンなのだが、1度食べてみたい。
今日はクリスマスイブ。このところの寒さで、町なかでもホワイトクリスマスが実現しそうな雰囲気だ。でも、僕には、小松崎茂が描いた、活気のある浅草の風景の方が、何倍も魅力的に思えた。だって、雪なんか1回見たら、あとは寒いだけの代物なんだも〜ん。
少年向けのSF絵物語などで知られる著者だが、この本は、浅草や銀座、丸の内など、戦前からの東京の風景スケッチを集めたもの。
大阪に生まれ育った僕には、なじみのない場所なのだが、映画などでたまに大阪が舞台になっているのを見ると、現在の風景と比べて、懐かしくなったり、嘆いたり、いろんな感情が沸き上がってくる。往時を知る東京在住の人には、たまらないスケッチ集なんだろうな、という類推は大いに可能だ。たまたま見た成瀬巳喜男監督の「限りなき舗道」(1934年)に登場人物が明治製菓の板チョコを食べるシーンがあり、そのパッケージデザインを見ただけで、なんだか心に去来するものがあった。風景となるとなおさらだろう。
往年の東京の風景を見ていて、「これはなんだ」と食い付いた部分が2つあった。
1つは、銀座の駅におりる階段のところにあった、地下鉄の惹句。
「地上より22度暖かい」
真冬で地上の気温が氷点下であっても、地下鉄だと20度くらいの暖かさは保てているということなのだろう。
しかし、それを売りにするか?
もう1つは、東京駅の売店のスケッチにあった「鉄道パン」
これは今でも鉄道の日などに200円程度で販売されているパンなのだが、僕はまだ食べたことがない。
昭和19年に食堂車が廃止されたとき、その代わりに車内で販売されたのが最初らしいのだが、小松崎茂がスケッチした頃は、ごく普通に売店に置いていたようだ。見たところ、ソフトなフランスパンみたいで、いかにも食事パンなのだが、1度食べてみたい。
今日はクリスマスイブ。このところの寒さで、町なかでもホワイトクリスマスが実現しそうな雰囲気だ。でも、僕には、小松崎茂が描いた、活気のある浅草の風景の方が、何倍も魅力的に思えた。だって、雪なんか1回見たら、あとは寒いだけの代物なんだも〜ん。
西宮市大谷記念美術館で1年に1日だけ開催される「美術館の遠足」に行ってきた。
これは藤本由紀夫氏の作品を展示しているのだが、毎回、いろんな趣向があり、楽しめる。
最初に入った部屋では、テルミンが演奏されていた。
これはこれで、1つの作品だし、家具っぽくもあるが、そこに僕が感じたのはサービスだ。
とにかく、この「美術館の遠足」はサ−ビス満点なのだ。
藤本氏自身による作品ナビゲートも楽しくて、これだけで、明和電機の製品発表会のクオリティーを越えている。
ふだんは開放しないアトリエや荷捌き場、庭にまで作品がある。
見に来た人は自由に美術館の内外を遊べばいいので、順路もない。
ほとんどの作品は自由に触れて遊ぶことができる。
写真撮影もかまわない。
今回は、美術館ではなかなか実現しない、飲食にまで踏み込んで来た。
僕もアップルティーとクッキーをいただいたが、別の部屋では田楽も出ていた。
夜遅くにはホットワインなど、また別のメニューがあったそうなのだが、なにぶん、夜勤明けだったので、遅くまでいることができなかったのが残念だ。
さて、今日はノーマイカーフリーチケットが使える日で、地下鉄を乗りまくるつもりだったが、うかつなことに、市立図書館も府立図書館も休館していた。
他にアイドルイベントもいくつかあったのだが、いつのまにやら間に合わないタイミングになっていて、おとなしく帰った。
これは藤本由紀夫氏の作品を展示しているのだが、毎回、いろんな趣向があり、楽しめる。
最初に入った部屋では、テルミンが演奏されていた。
これはこれで、1つの作品だし、家具っぽくもあるが、そこに僕が感じたのはサービスだ。
とにかく、この「美術館の遠足」はサ−ビス満点なのだ。
藤本氏自身による作品ナビゲートも楽しくて、これだけで、明和電機の製品発表会のクオリティーを越えている。
ふだんは開放しないアトリエや荷捌き場、庭にまで作品がある。
見に来た人は自由に美術館の内外を遊べばいいので、順路もない。
ほとんどの作品は自由に触れて遊ぶことができる。
写真撮影もかまわない。
今回は、美術館ではなかなか実現しない、飲食にまで踏み込んで来た。
僕もアップルティーとクッキーをいただいたが、別の部屋では田楽も出ていた。
夜遅くにはホットワインなど、また別のメニューがあったそうなのだが、なにぶん、夜勤明けだったので、遅くまでいることができなかったのが残念だ。
さて、今日はノーマイカーフリーチケットが使える日で、地下鉄を乗りまくるつもりだったが、うかつなことに、市立図書館も府立図書館も休館していた。
他にアイドルイベントもいくつかあったのだが、いつのまにやら間に合わないタイミングになっていて、おとなしく帰った。
清水崑画 吉田茂諷刺漫画集
2005年12月22日 読書
清水崑画『吉田茂諷刺漫画集』を読んだ。
朝日新聞に掲載された清水崑の一齣漫画を中心に、年代順に吉田茂が描かれた作品が載せてあり、それに柴田紳一助教授が解説をつけている。未掲載分も巻末に載っている。
発行は財団法人吉田茂国際基金であり、吉田茂の偉業を記念する事業の一環として、この本が出版された。
当然、政治の諷刺漫画なのだから、吉田茂を持ち上げる内容にはならないのだが、たとえば子が父親に感ずる愛情みたいなものが、漂ってくるのはいったいどうしたわけか。
時代は昭和20年代、もう50年以上前のことになるが、たとえば行政改革の問題など、現在とほとんど変わっていない部分も多く見受けられた。
ダイエットにリバウンドがつきもののように、政治的な改革も揺り戻しがあって、変革はまさに一進一退なのか。
朝日新聞に掲載された清水崑の一齣漫画を中心に、年代順に吉田茂が描かれた作品が載せてあり、それに柴田紳一助教授が解説をつけている。未掲載分も巻末に載っている。
発行は財団法人吉田茂国際基金であり、吉田茂の偉業を記念する事業の一環として、この本が出版された。
当然、政治の諷刺漫画なのだから、吉田茂を持ち上げる内容にはならないのだが、たとえば子が父親に感ずる愛情みたいなものが、漂ってくるのはいったいどうしたわけか。
時代は昭和20年代、もう50年以上前のことになるが、たとえば行政改革の問題など、現在とほとんど変わっていない部分も多く見受けられた。
ダイエットにリバウンドがつきもののように、政治的な改革も揺り戻しがあって、変革はまさに一進一退なのか。
宇宙大作戦チョコベーダー ウチュウからの侵略者
2005年12月21日 ゲーム コメント (14)
ゲーム「じーさん痛」はマルチエンディングも含めて、ほぼ終了した。(1つだけアイテム入手してないのだ)
本来のストーリーである、原稿を集めて終了するパターン以外に、敵の人形とバトルしてじーさんがボロ勝ちするエンディングとか、金のうんこじーさんに変身できるようになって喜ぶエンディングとか、デュエルカード集めてゲームしようとしたらじーさんがカードを「きる」のを文字通りハサミで切ってしまったエンディングとか、馬鹿馬鹿しくて面白かった。
で、その後にしてたゲームは、同じくゲームボーイアドバンスの「宇宙大作戦チョコベーダー、ウチュウからの侵略者」だ。
これも格安だった。しかも新品。システムに何か問題があるのか、面白くないのか。
チョコベーダーというのは、チョコの食玩で、いろんな宇宙人や円盤などをコレクションできるものだった。もう2年くらい前に、市場から姿を消して、しかも誰も集めてなかったみたいで、中古でフィギュアを買うこともできない幻のおもちゃだ。
まあ、出来が精巧でなく、おもちゃっぽいのでコレクター魂を刺激しなかったのだろうが、僕はチャチなものが好きなので、チョコエッグやチョコQは全然買ってないのに、チョコベーダーだけは集めていたのだ。
このゲーム「宇宙大作戦チョコベーダー」は、ロールプレイングゲームで、主人公の少年がいろんな宇宙人に遭遇して仲間にしていき、ラストのボスを倒す、というもの。
また、召喚コードと呼ばれるパスワードを入力すると、宇宙人に遭遇するカードなどを入手することもできる。
ゲームのパッケージに入っていたアンケート葉書を見ると、その召喚コードを知るには、「チョコベーダー」(フィギュア入りチョコ)を買うか、インターネットゲーム「人類誘拐作戦アブダクション」をするか、ゲームセンターで「宇宙大作戦チョコベーダー コンタクティー」を遊ぶか、コロコロコミックを読むかしなくてはならないらしい。
今となってはそれらから知ることは出来ない。
きっと、値段が安かったのは、これが原因なのだ。
ゲームそのものは面白くて、宇宙人についての豆知識も得られる。
とりあえず、ストーリーモードでラストのボスを倒し、エンディングに到達した。
あとは宇宙人を100人集めればいいのだ。
これに、召喚コードが必要になってくる。
僕はネットで検索などをして、なんとか98人まで集めることができたが、あとの2人が、ゲームを進めて行けばいつか出会うことができるのか、召喚コードが必要なのか不明だ。
主人公のレベルを最大まで上げるまでは遊んでもいいけど、敵と会って戦って勝つ、という繰り返しだけで、ストーリーが展開しないのは、正直、退屈だ。
そろそろ違うゲームに乗り換えるかな?
本来のストーリーである、原稿を集めて終了するパターン以外に、敵の人形とバトルしてじーさんがボロ勝ちするエンディングとか、金のうんこじーさんに変身できるようになって喜ぶエンディングとか、デュエルカード集めてゲームしようとしたらじーさんがカードを「きる」のを文字通りハサミで切ってしまったエンディングとか、馬鹿馬鹿しくて面白かった。
で、その後にしてたゲームは、同じくゲームボーイアドバンスの「宇宙大作戦チョコベーダー、ウチュウからの侵略者」だ。
これも格安だった。しかも新品。システムに何か問題があるのか、面白くないのか。
チョコベーダーというのは、チョコの食玩で、いろんな宇宙人や円盤などをコレクションできるものだった。もう2年くらい前に、市場から姿を消して、しかも誰も集めてなかったみたいで、中古でフィギュアを買うこともできない幻のおもちゃだ。
まあ、出来が精巧でなく、おもちゃっぽいのでコレクター魂を刺激しなかったのだろうが、僕はチャチなものが好きなので、チョコエッグやチョコQは全然買ってないのに、チョコベーダーだけは集めていたのだ。
このゲーム「宇宙大作戦チョコベーダー」は、ロールプレイングゲームで、主人公の少年がいろんな宇宙人に遭遇して仲間にしていき、ラストのボスを倒す、というもの。
また、召喚コードと呼ばれるパスワードを入力すると、宇宙人に遭遇するカードなどを入手することもできる。
ゲームのパッケージに入っていたアンケート葉書を見ると、その召喚コードを知るには、「チョコベーダー」(フィギュア入りチョコ)を買うか、インターネットゲーム「人類誘拐作戦アブダクション」をするか、ゲームセンターで「宇宙大作戦チョコベーダー コンタクティー」を遊ぶか、コロコロコミックを読むかしなくてはならないらしい。
今となってはそれらから知ることは出来ない。
きっと、値段が安かったのは、これが原因なのだ。
ゲームそのものは面白くて、宇宙人についての豆知識も得られる。
とりあえず、ストーリーモードでラストのボスを倒し、エンディングに到達した。
あとは宇宙人を100人集めればいいのだ。
これに、召喚コードが必要になってくる。
僕はネットで検索などをして、なんとか98人まで集めることができたが、あとの2人が、ゲームを進めて行けばいつか出会うことができるのか、召喚コードが必要なのか不明だ。
主人公のレベルを最大まで上げるまでは遊んでもいいけど、敵と会って戦って勝つ、という繰り返しだけで、ストーリーが展開しないのは、正直、退屈だ。
そろそろ違うゲームに乗り換えるかな?
スフィンクス・ステーキ―ミュノーナ短篇集
2005年12月20日 読書
ミュノーナの『スフィンクス・ステーキ』を読んだ。
ミュノーナは1871年生まれの哲学者ザロモ・フリートレンダーのペンネーム。
匿名(Anonym)を逆読みして名付けられている。
ダダイストのハウスマンらと雑誌『地上1915年』を計画したり、マックス・シュティルナーの個人主義を旗印にした雑誌『唯一者』を刊行したりしている。
著書には『不合理な悲観主義試論』『創造的中立』などなど。
ミュノーナ名義では、哲学とダダの渾然一体となった奇妙な作品を書いているようだ。
この『スフィンクス・ステーキ』はミュノーナ自身が「グロテスク」と呼ぶ短編がセレクトされて収録されている。
この1冊、最初は稲垣足穂かレーモン・ルーセルか、はたまたジャリか、なんて探りながら読んでいたのだが、書かれた時期は20世紀初頭。どれかの影響を受けたというよりも、ミュノーナはミュノーナで、独自だと思った。それだけ強烈な面白さ満ちていた。
ダダ!アヴァンギャルド!奇想!珍説!
この本、今年読んだ本のなかでもダントツで面白い。
もっとミュノーナ、そしてフリートレンダーの本を読みたい!と渇望している。
以下、各作品のあらすじとか、メモなどを残しておくので、未読の人は、注意。
「やさしい巨人」(巨人はうっかり人を踏みつぶしてしまう。謝る言葉は地上に大風を巻き起こし、流す涙で洪水が起こる等々、やさしさゆえに巨人は残虐な結果をもたらす)
「へべれけ花と幽体離脱したオットカール」(「リクと呼んで。理屈のリクなんだけど、ツは省略してね)
「肺のパラダイス」(空気を清浄したことで、今までの世界で健康に生きてた人が逆に死んで行く)
「雲が雨を上方に降らせるとき」(雲が地上の牧歌的雰囲気を見て思う。わたしだけが邪魔者なのね!)
「息子」(誰かを愛すると、その人を全力で殺すことに励む息子)
「老いた未亡人」(いきなり求婚して、ショックで狂い死にした男と結婚生活を送る老女)
「老いた俳優ミドリギさんのクリスマス」(真夏にクリスマスを祝う老俳優)
「性格音楽−毛のお話」(人体の毛のはえ方をそのままオルゴール筒に移して、その人特有の音楽を奏でる試み)
「ローザ、警官の美しい妻」(警官の制服萌えの女)
「ゲーテ蓄音機−ある愛の物語」(ゲーテの声帯を復元して、一種の笛を作る。ゲーテが暮らした部屋の空気に残るゲーテの音声波を吹き込んで、ゲーテの発言を再生)
「不思議な卵」(卵のもつエネルギーで地球は豊穣に)
「鼻持ちならない鼻」(口ほどにものを言う鼻)
「道しるべのネグリジェ」(副官が夜道でネグリジェに当たって気絶する。そのネグリジェは姫のものだった!謎はすべて読者の解釈にまかされる)
「アモールの新床」(結婚式直後に、不吉なことが多発する。それは新婦による最終チェックで、うまくこなせなかった夫は離婚される)
「スフィンクス・ステーキ」(石に有機物の形姿を与えたら、本当に有機物になるという説。砂漠で一行はスフィンクスをけずってステーキにして食べる)
「謎の一団」(まったく同じ名前で、同じ行動をとる40人の集団。夜になると、集団で犯罪をおかし、紳士服売り場のマネキンに化けて逃れる)
「誘拐」(身分や階級を解消するため、爵位にある男が誘拐されて、種牛の役目をになう)
「合体」(実体と鏡像との双方向的かかわり。外界を脳が感受するのと同様、逆に脳で考えたことが外界にあらわれる)
「永遠に美しく…」(美しいままのミイラ化。冒頭の文章が面白い。「わが家は全焼、火災保険には入っていませんでした。銀行へ行くと、私の代わりに誰かが私の全財産を引き出したあとでした」さらに、親友が死に、遺産相続権を失い、許嫁が急死、借金取りに追い回される。こりゃ、若くして死んで剥製になってもいいや、と思うか)
「うちのパパとオルレアンの乙女」(彫像どうしの片思い)
「ミュノ−ナ百歳の誕生日」(ミュノーナの誕生日挨拶。銅像も立たず、「ミュノーナ広場」や「ミュノーナ通り」もないことを嘆き、自著『子供たちのためのカント』を「世界最高の名著」とほめあげる。おまけに、このとき、ミュノーナはまだ57才)
ミュノーナは1871年生まれの哲学者ザロモ・フリートレンダーのペンネーム。
匿名(Anonym)を逆読みして名付けられている。
ダダイストのハウスマンらと雑誌『地上1915年』を計画したり、マックス・シュティルナーの個人主義を旗印にした雑誌『唯一者』を刊行したりしている。
著書には『不合理な悲観主義試論』『創造的中立』などなど。
ミュノーナ名義では、哲学とダダの渾然一体となった奇妙な作品を書いているようだ。
この『スフィンクス・ステーキ』はミュノーナ自身が「グロテスク」と呼ぶ短編がセレクトされて収録されている。
この1冊、最初は稲垣足穂かレーモン・ルーセルか、はたまたジャリか、なんて探りながら読んでいたのだが、書かれた時期は20世紀初頭。どれかの影響を受けたというよりも、ミュノーナはミュノーナで、独自だと思った。それだけ強烈な面白さ満ちていた。
ダダ!アヴァンギャルド!奇想!珍説!
この本、今年読んだ本のなかでもダントツで面白い。
もっとミュノーナ、そしてフリートレンダーの本を読みたい!と渇望している。
以下、各作品のあらすじとか、メモなどを残しておくので、未読の人は、注意。
「やさしい巨人」(巨人はうっかり人を踏みつぶしてしまう。謝る言葉は地上に大風を巻き起こし、流す涙で洪水が起こる等々、やさしさゆえに巨人は残虐な結果をもたらす)
「へべれけ花と幽体離脱したオットカール」(「リクと呼んで。理屈のリクなんだけど、ツは省略してね)
「肺のパラダイス」(空気を清浄したことで、今までの世界で健康に生きてた人が逆に死んで行く)
「雲が雨を上方に降らせるとき」(雲が地上の牧歌的雰囲気を見て思う。わたしだけが邪魔者なのね!)
「息子」(誰かを愛すると、その人を全力で殺すことに励む息子)
「老いた未亡人」(いきなり求婚して、ショックで狂い死にした男と結婚生活を送る老女)
「老いた俳優ミドリギさんのクリスマス」(真夏にクリスマスを祝う老俳優)
「性格音楽−毛のお話」(人体の毛のはえ方をそのままオルゴール筒に移して、その人特有の音楽を奏でる試み)
「ローザ、警官の美しい妻」(警官の制服萌えの女)
「ゲーテ蓄音機−ある愛の物語」(ゲーテの声帯を復元して、一種の笛を作る。ゲーテが暮らした部屋の空気に残るゲーテの音声波を吹き込んで、ゲーテの発言を再生)
「不思議な卵」(卵のもつエネルギーで地球は豊穣に)
「鼻持ちならない鼻」(口ほどにものを言う鼻)
「道しるべのネグリジェ」(副官が夜道でネグリジェに当たって気絶する。そのネグリジェは姫のものだった!謎はすべて読者の解釈にまかされる)
「アモールの新床」(結婚式直後に、不吉なことが多発する。それは新婦による最終チェックで、うまくこなせなかった夫は離婚される)
「スフィンクス・ステーキ」(石に有機物の形姿を与えたら、本当に有機物になるという説。砂漠で一行はスフィンクスをけずってステーキにして食べる)
「謎の一団」(まったく同じ名前で、同じ行動をとる40人の集団。夜になると、集団で犯罪をおかし、紳士服売り場のマネキンに化けて逃れる)
「誘拐」(身分や階級を解消するため、爵位にある男が誘拐されて、種牛の役目をになう)
「合体」(実体と鏡像との双方向的かかわり。外界を脳が感受するのと同様、逆に脳で考えたことが外界にあらわれる)
「永遠に美しく…」(美しいままのミイラ化。冒頭の文章が面白い。「わが家は全焼、火災保険には入っていませんでした。銀行へ行くと、私の代わりに誰かが私の全財産を引き出したあとでした」さらに、親友が死に、遺産相続権を失い、許嫁が急死、借金取りに追い回される。こりゃ、若くして死んで剥製になってもいいや、と思うか)
「うちのパパとオルレアンの乙女」(彫像どうしの片思い)
「ミュノ−ナ百歳の誕生日」(ミュノーナの誕生日挨拶。銅像も立たず、「ミュノーナ広場」や「ミュノーナ通り」もないことを嘆き、自著『子供たちのためのカント』を「世界最高の名著」とほめあげる。おまけに、このとき、ミュノーナはまだ57才)
本田透の『萌える男』を読んだ。
主に二次元キャラクターに萌える男について書かれている、オタク擁護論。
著者自身が本書に書かれている内容の要約を載せている。
1、「萌えの正当性と必然性」
萌えの流行には社会的な原因があり、オタク男個人を道徳的に責めるのは間違いである。
2、「萌えには効能がある」
萌えの機能論的解説。萌えによって数々の心理的・社会的効能がもたらされる。
3、「萌えの可能性と重要性」
萌えは恋愛および家族を復権させようとする精神運動であり、萌えが挫折すれば家族も滅びる。
僕はこの本田透の本を読みたくてたまらないのだが、いろんな事情で(金欠)全然読めていない。やっと1冊読めた。
「萌え」とは「脳内恋愛」のことで、恋愛至上主義(著者の言葉を使うと恋愛資本主義)にどっぷり漬かっている生き方以外の道があるのだ。
むしろ、恋愛なんかより、脳内恋愛の方がいい、とまで言っているような気がする。
でも、未読ながら、この主張は、著者の前作までの主張の繰り返しで、主張する内容を簡単に紹介したものにすぎないようだ。
この本は新書での出版で、オタク層以外の人間に、萌えについて理解を求めるところに目的があるようだ。
オタクだの萌えだのアキバ系だの、もてはやされているようでも、低くみられたり、差別されている現状は否めない。その蔑視がいかに根拠のないものかが、本書で語ろうとしていることだ。そういう観点からみると、本書の弱点と思える、繰り返しが多すぎるところとか、被害者の立場にたちすぎているところ等が、全部許容できてしまうのが、不思議だ。
電車男について批判的なのも共感できる。
ひるがえって、自分のことを考えてみると、どうか。
僕はマック使いのせいか、パソコンの美少女ゲームをほとんど遊んでいない。
萌えアニメも熱中して見ていないので、二次元キャラクターにはあまり萌えていないようだ。
それどころか、AVもほとんど見ないので、つまるところ、バーチャルなものに対する愉しみを満喫していない。これは人生、半分損をしているんじゃないか。
セックスとオナニーが違うように、恋愛と脳内恋愛も違うもので、両立できるはずだ。
これって、たとえば、実際に戦争して戦略をたてながら、シミュレーションゲームにも没頭しているようなものか。両立できるはず。
問題は、僕の体力なのか。
主に二次元キャラクターに萌える男について書かれている、オタク擁護論。
著者自身が本書に書かれている内容の要約を載せている。
1、「萌えの正当性と必然性」
萌えの流行には社会的な原因があり、オタク男個人を道徳的に責めるのは間違いである。
2、「萌えには効能がある」
萌えの機能論的解説。萌えによって数々の心理的・社会的効能がもたらされる。
3、「萌えの可能性と重要性」
萌えは恋愛および家族を復権させようとする精神運動であり、萌えが挫折すれば家族も滅びる。
僕はこの本田透の本を読みたくてたまらないのだが、いろんな事情で(金欠)全然読めていない。やっと1冊読めた。
「萌え」とは「脳内恋愛」のことで、恋愛至上主義(著者の言葉を使うと恋愛資本主義)にどっぷり漬かっている生き方以外の道があるのだ。
むしろ、恋愛なんかより、脳内恋愛の方がいい、とまで言っているような気がする。
でも、未読ながら、この主張は、著者の前作までの主張の繰り返しで、主張する内容を簡単に紹介したものにすぎないようだ。
この本は新書での出版で、オタク層以外の人間に、萌えについて理解を求めるところに目的があるようだ。
オタクだの萌えだのアキバ系だの、もてはやされているようでも、低くみられたり、差別されている現状は否めない。その蔑視がいかに根拠のないものかが、本書で語ろうとしていることだ。そういう観点からみると、本書の弱点と思える、繰り返しが多すぎるところとか、被害者の立場にたちすぎているところ等が、全部許容できてしまうのが、不思議だ。
電車男について批判的なのも共感できる。
ひるがえって、自分のことを考えてみると、どうか。
僕はマック使いのせいか、パソコンの美少女ゲームをほとんど遊んでいない。
萌えアニメも熱中して見ていないので、二次元キャラクターにはあまり萌えていないようだ。
それどころか、AVもほとんど見ないので、つまるところ、バーチャルなものに対する愉しみを満喫していない。これは人生、半分損をしているんじゃないか。
セックスとオナニーが違うように、恋愛と脳内恋愛も違うもので、両立できるはずだ。
これって、たとえば、実際に戦争して戦略をたてながら、シミュレーションゲームにも没頭しているようなものか。両立できるはず。
問題は、僕の体力なのか。
ジム・ウードリング展
2005年12月18日 アニメ・マンガ京都のトランスポップギャラリーに行ってきた。
http://www.trancepop.jp/
ジム・ウードリングの原画展をしているのだが、この日は、アニメーションDVD発売を記念して、上映会も開かれていたのだ。
アニメーションは、ジム・ウードリングのコミックを原作に、いろんな手法で作られている。
布山タルト、ヨシムラエリ、art unit COCOA、タマプロ・ドロップ、内藤昌樹、川口華奈子、永田ナヲミ等、ジム自身によるオープニングアニメ以外は、日本人の作家による作品で、DVDにおさめられた全作品と、DVD未収録の2作品(あしたのんき、山登恭子)が上映された。
また、オリジナルバージョンとは別に、国内外のミュージシャンが音楽をつけたバージョンもDVDには収録されていて、ビル・フリーゼルとか、キセルなどが音をつけている。
さて、上映会だが、サイケデリックな魅力が反映されていた作品は楽しく見れた。
川口華奈子作品は人形アニメでテンポがゆっくりとしているのだが、これは原作の内容に合致していて(「死に感謝します」のエピソード)、苦にならず、見た作品中、1、2を争う出来だったように思う。
http://www.jimwoodring.com/
http://www.trancepop.jp/
ジム・ウードリングの原画展をしているのだが、この日は、アニメーションDVD発売を記念して、上映会も開かれていたのだ。
アニメーションは、ジム・ウードリングのコミックを原作に、いろんな手法で作られている。
布山タルト、ヨシムラエリ、art unit COCOA、タマプロ・ドロップ、内藤昌樹、川口華奈子、永田ナヲミ等、ジム自身によるオープニングアニメ以外は、日本人の作家による作品で、DVDにおさめられた全作品と、DVD未収録の2作品(あしたのんき、山登恭子)が上映された。
また、オリジナルバージョンとは別に、国内外のミュージシャンが音楽をつけたバージョンもDVDには収録されていて、ビル・フリーゼルとか、キセルなどが音をつけている。
さて、上映会だが、サイケデリックな魅力が反映されていた作品は楽しく見れた。
川口華奈子作品は人形アニメでテンポがゆっくりとしているのだが、これは原作の内容に合致していて(「死に感謝します」のエピソード)、苦にならず、見た作品中、1、2を争う出来だったように思う。
http://www.jimwoodring.com/
名古屋今池の涅槃で、ライブに出演してきた。
魔ゼルな規犬さんに呼んでいただいたのだ。ありがとう。
共演は次のとおり。
DJ ASSMA
宇宙人(ストリートでウクレレ弾き語りする少年。宇宙からやってきた「設定」らしい)
TASKE+トミー(お台場海浜公園とレインボーブリッジという名前のユニット。今回でツアーファイナルだそうな)
ISAMU(激越なポエトリーリーディング)
アジト?(ファミコンゲームやプロレス映像にあわせてノイズ演奏)
魔ゼルな規犬(馬頭演説中に、ベッキヰがムチ打ちで乱入)
魅裏地★ゆん+卍ベッキヰ(上半身裸でフルーツやベジタブルを客にふるまう。女体につけたドレッシングつき)
邪王院弘(関西から参戦、御得意のダンスとラップ)
エロリストりか(全裸でMC、宇宙人を餌食にする)
う〜む、変な人はまだまだ世にいっぱいいるものだ。
ライブ後は邪王院と夜食をとったあと、あらかじめ探しておいたネットカフェで漫画読んだりネットしたりして過ごし、一番の近鉄特急で帰る。
ところで、世に「雨男(女)」とか「晴れ男(女)と呼ばれる人は多数存在している。
僕はそのどちらも呼ばれたことがないが、唯一呼ばれた経験があるのは「雪男」なのだ。
主に東京在住の友人のところに遊びに行くケースなのだが、僕が大阪を離れてどこかに行くと、季節はずれの雪が降ったり、観測史上記録的な大雪になったりすることが続いたのだ。
そういう懸念をあらかじめ言ってたら、なんと、ライブ後、名古屋は大雪!
凍結した歩道でスケートした。
魔ゼルな規犬さんに呼んでいただいたのだ。ありがとう。
共演は次のとおり。
DJ ASSMA
宇宙人(ストリートでウクレレ弾き語りする少年。宇宙からやってきた「設定」らしい)
TASKE+トミー(お台場海浜公園とレインボーブリッジという名前のユニット。今回でツアーファイナルだそうな)
ISAMU(激越なポエトリーリーディング)
アジト?(ファミコンゲームやプロレス映像にあわせてノイズ演奏)
魔ゼルな規犬(馬頭演説中に、ベッキヰがムチ打ちで乱入)
魅裏地★ゆん+卍ベッキヰ(上半身裸でフルーツやベジタブルを客にふるまう。女体につけたドレッシングつき)
邪王院弘(関西から参戦、御得意のダンスとラップ)
エロリストりか(全裸でMC、宇宙人を餌食にする)
う〜む、変な人はまだまだ世にいっぱいいるものだ。
ライブ後は邪王院と夜食をとったあと、あらかじめ探しておいたネットカフェで漫画読んだりネットしたりして過ごし、一番の近鉄特急で帰る。
ところで、世に「雨男(女)」とか「晴れ男(女)と呼ばれる人は多数存在している。
僕はそのどちらも呼ばれたことがないが、唯一呼ばれた経験があるのは「雪男」なのだ。
主に東京在住の友人のところに遊びに行くケースなのだが、僕が大阪を離れてどこかに行くと、季節はずれの雪が降ったり、観測史上記録的な大雪になったりすることが続いたのだ。
そういう懸念をあらかじめ言ってたら、なんと、ライブ後、名古屋は大雪!
凍結した歩道でスケートした。
安達哲の『幸せのひこうき雲』を読んだ。
田舎に転校してきた小学生の少年が女教師の性奴隷になる。
親が喧嘩していて、田舎にあずけられる少年。
生徒の人権など知ったこっちゃない先生たち。
芸能界失格の女教師。
こんなトラウマ必至の少年時代を経て、ラストで安達哲は成長した少年を登場させ、そんなトラウマなんて、ないよ!と肩すかしをくらわせている。
確かに、幼少期のトラウマが長じての性格に影響を与えるという言説は流布しているのだが、それを格好の言い訳にしてしまう風潮もある。
安達哲は、自分の今の人生を、過去の責任に押し付けないルートを示しているようだ。
自分について、どんな物語を設定するのも、自分の自由で、自分の裁量にまかされている。
トラウマで言い訳するのは最終的な手段でしかないのだ。
ところで、この『幸せのひこうき雲』というタイトルだが、これにどういう意味があるのかを考えてみた。
これは、幸せなんてひこうき雲みたいに、すぐ消えてしまう、ということなのだろうか。
僕にはそうは思えない。
普通の雲だって、流れて形を変えて消えてしまうことには変わりはないからだ。
それに、飛行機雲の特徴は、消えやすいことにあるのではなく、飛行機が通るきっかけによって、大空に出現するところにある。
消えることよりも、あらわれることに、僕たちは飛行機雲の不思議さや面白さを発見していたはずだ。
そういう点からいうと、幸せは何か1つのきっかけで、あらわれる、という意味にとれる。
だが、ストーリーとこの解釈とは直接の関わりはなさそうだ。
解釈するなら、次のとおりだろう。
ひこうき雲は、飛行機が通ることでできる。
飛行機は幼少期にあった出来事にちがいない。
その影響はひこうき雲として刻印される。
その出現は先にも書いたように、インパクトが大きい。
ただし、ひこうき雲は、なんなく消えてしまうのだ。
トラウマだってちゃんと消える、というストーリーなのだから、こっちが正解だろう。
田舎に転校してきた小学生の少年が女教師の性奴隷になる。
親が喧嘩していて、田舎にあずけられる少年。
生徒の人権など知ったこっちゃない先生たち。
芸能界失格の女教師。
こんなトラウマ必至の少年時代を経て、ラストで安達哲は成長した少年を登場させ、そんなトラウマなんて、ないよ!と肩すかしをくらわせている。
確かに、幼少期のトラウマが長じての性格に影響を与えるという言説は流布しているのだが、それを格好の言い訳にしてしまう風潮もある。
安達哲は、自分の今の人生を、過去の責任に押し付けないルートを示しているようだ。
自分について、どんな物語を設定するのも、自分の自由で、自分の裁量にまかされている。
トラウマで言い訳するのは最終的な手段でしかないのだ。
ところで、この『幸せのひこうき雲』というタイトルだが、これにどういう意味があるのかを考えてみた。
これは、幸せなんてひこうき雲みたいに、すぐ消えてしまう、ということなのだろうか。
僕にはそうは思えない。
普通の雲だって、流れて形を変えて消えてしまうことには変わりはないからだ。
それに、飛行機雲の特徴は、消えやすいことにあるのではなく、飛行機が通るきっかけによって、大空に出現するところにある。
消えることよりも、あらわれることに、僕たちは飛行機雲の不思議さや面白さを発見していたはずだ。
そういう点からいうと、幸せは何か1つのきっかけで、あらわれる、という意味にとれる。
だが、ストーリーとこの解釈とは直接の関わりはなさそうだ。
解釈するなら、次のとおりだろう。
ひこうき雲は、飛行機が通ることでできる。
飛行機は幼少期にあった出来事にちがいない。
その影響はひこうき雲として刻印される。
その出現は先にも書いたように、インパクトが大きい。
ただし、ひこうき雲は、なんなく消えてしまうのだ。
トラウマだってちゃんと消える、というストーリーなのだから、こっちが正解だろう。
冨樫義博の『幽☆遊☆白書』全19巻を読んだ。
90年代の少年ジャンプの人気作品。
ヤンキー学園ものから霊界探偵、バトルトーナメントと、ジャンプの王道を行く作品で、読んでいてたいへん面白かった。
ところが、気になるところがひとつ。
暗黒武術会というバトルトーナメントではお約束の路線を進めていたが、魔界の王を決めるトーナメントでは、バトルの詳細が省かれている。結果だけが報告されて済まされているのだ。
これは『シャーマンキング』と同様に、お約束路線に苦痛を感じていたんじゃないか、と思える。
作者はゲームやパズルが好きなようで、作中にそのようなバトルが盛り込まれたりしている。
そして、各人の強さもゲーム同様、数値化されるのだが、敗因はそこにあると見た。
数値の差があれば、それを覆すことは不可能なのだ。
怒りによって数値が急激に上がる、というお約束もありきたりすぎて、つまらない。
数値をあげるために特訓する、というお約束も、つまらない。
そんなことすれば、まさに何でもアリなので、数値の意味がなくなってしまうからだ。
もともと数値を盛り込んだりするから駄目なのだ。
数値を盛り込むなら、数値の低い者がそのままの数値でいかに数値の高い者に勝てるかを探らねばならない。
そして、その試みは、数値の高いものが勝つ、という最初の前提からして、不可能なのである。
グーがグーのままでジャンケンのルールを変えずにパーに勝とうとするようなものだ。
この作品では途中から、各人の特殊能力というパズル的面白さを導入しているが、その路線で行けば、なんとかなったのかもしれない。
でも、これも失敗している。
たとえば、コピーとオリジナルを見抜くにはどうすればいいか、という謎が出されたとき、冨樫義博はその謎に答えずに解決してしまう。
グーのままパーに勝つには、そのグーでジャンケンの相手を殴り殺せばいい、というような乱暴な解決をとって、平然としているのが、歯がゆい。
とにかく、数値化というゲ−ム的路線では『ドラゴンボール』に完成度も面白さも及ばず、能力というパズル路線では『ジョジョの奇妙な冒険』に完成度も面白さも及ばなかった、という感想を抱いた。
でも、推理小説は読むのがかったるいけど、『名探偵コナン』なら楽しく読める、という読者層も存在するように、二番煎じのお子様向け作品としては、キャラクター萌えな部分もあり、ファンを大きく獲得できるだけの要素満載だと思った。
90年代の少年ジャンプの人気作品。
ヤンキー学園ものから霊界探偵、バトルトーナメントと、ジャンプの王道を行く作品で、読んでいてたいへん面白かった。
ところが、気になるところがひとつ。
暗黒武術会というバトルトーナメントではお約束の路線を進めていたが、魔界の王を決めるトーナメントでは、バトルの詳細が省かれている。結果だけが報告されて済まされているのだ。
これは『シャーマンキング』と同様に、お約束路線に苦痛を感じていたんじゃないか、と思える。
作者はゲームやパズルが好きなようで、作中にそのようなバトルが盛り込まれたりしている。
そして、各人の強さもゲーム同様、数値化されるのだが、敗因はそこにあると見た。
数値の差があれば、それを覆すことは不可能なのだ。
怒りによって数値が急激に上がる、というお約束もありきたりすぎて、つまらない。
数値をあげるために特訓する、というお約束も、つまらない。
そんなことすれば、まさに何でもアリなので、数値の意味がなくなってしまうからだ。
もともと数値を盛り込んだりするから駄目なのだ。
数値を盛り込むなら、数値の低い者がそのままの数値でいかに数値の高い者に勝てるかを探らねばならない。
そして、その試みは、数値の高いものが勝つ、という最初の前提からして、不可能なのである。
グーがグーのままでジャンケンのルールを変えずにパーに勝とうとするようなものだ。
この作品では途中から、各人の特殊能力というパズル的面白さを導入しているが、その路線で行けば、なんとかなったのかもしれない。
でも、これも失敗している。
たとえば、コピーとオリジナルを見抜くにはどうすればいいか、という謎が出されたとき、冨樫義博はその謎に答えずに解決してしまう。
グーのままパーに勝つには、そのグーでジャンケンの相手を殴り殺せばいい、というような乱暴な解決をとって、平然としているのが、歯がゆい。
とにかく、数値化というゲ−ム的路線では『ドラゴンボール』に完成度も面白さも及ばず、能力というパズル路線では『ジョジョの奇妙な冒険』に完成度も面白さも及ばなかった、という感想を抱いた。
でも、推理小説は読むのがかったるいけど、『名探偵コナン』なら楽しく読める、という読者層も存在するように、二番煎じのお子様向け作品としては、キャラクター萌えな部分もあり、ファンを大きく獲得できるだけの要素満載だと思った。
ジェニー・ブライス事件
2005年12月14日 読書
メアリ・ロバーツ・ラインハートの『ジェニー・ブライス事件』を読んだ。(1913年)
ジェニー・ブライス!2つのドールを足したような名前だ!
洪水で床上浸水した日に、女優ジェニ−・ブライスは失踪する。
夫は喧嘩して妻が出ていったのだ、と主張するが、主人公のミセス・ピットマンは考える。
ジェニー・ブライスは夫に殺されたんじゃないか、と。
死体が発見されず、また、死体発見後も、それがジェニー・ブライスの死体なのかどうか決めてがない。さて。
最近、ラインハートの作品がぽつぽつと翻訳されはじめた。
彼女はHIBK派の創始者と呼ばれている。
HIBKは「ヒビキ」じゃなくて、Had I but Knownの略で「もしも、もっと早く知っていたら」という言い回しでサスペンスを盛り上げる手法のことだ。
たとえば、この作品では、ジェニー・ブライスと主人公のピットマンとの会話時に使われていた。
「あら、この親指の爪を見て。すっかり割れちゃったわ」
その親指をひと目見ておきさえすれば!
しかし私は洗面台からラドリー氏の原稿をよけ、お茶のお盆を置こうとしているところだった。
という具合。このときに指を見ておれば、死体発見時に、それが彼女の死体なのかどうかが判明したのに、という意味だ。
「ジェニーを見たのはそれが最後だった」
というような描写もある。
僕はこの手の表現を横溝正史でよく読んだ覚えがあるが、サスペンス物にはつきものの描写なのかもしれない。
ラインハートのことだから、メロドラマばりばりで、ロマンチックサスペンスの女王らしく、2時間ドラマ路線を行くのか、と気軽に読んでいたのだが、これがなかなかの本格推理だった。
事件が一件落着した後に、登場人物たちのその後が描かれるところは、昔読んだクリスティーの読後感に近いものがある。
そういえば、クリスティーも読み残しがいっぱいあるなあ。
以下、忘れてしまうので真相の一端を書いてしまうので、今後読む人はパスしてください。
死体の胸にあった謎の傷痕や、消えた時計の謎など、いろいろあるが、書き留めておくのは、おおまかな真相。
これは、まず、失踪狂言だった。劇場関係者、マスコミが組んで失踪劇を演じ、話題を盛り上げようとしたのだ。
夫は状況証拠だけで逮捕されてしまう。
どこかで隠れているジェニー・ブライスが出てくれば、夫も無罪放免で、丸くおさまるはずだったのだが、誤算があった。ジェニーは夫を憎んでいたのだ。夫がピンチになってもジェニーは姿をくらませたまま、出てこない!
ここまでが前段。
真相は、夫は実際に妻を殺していた。
そして、この失踪劇を利用する形になった。
愛人に妻の変装をさせ、失踪劇を演じさせる。失踪劇のグルの人々は、ジェニーだと思い込んで、ある場所に愛人を連れていったわけだ。
グルの人々は、夫が拘留されているあいだにジェニーに化けた愛人の存在を確認しているだけに、夫は無罪だと信じて疑わなかったのだ。
ジェニー・ブライス!2つのドールを足したような名前だ!
洪水で床上浸水した日に、女優ジェニ−・ブライスは失踪する。
夫は喧嘩して妻が出ていったのだ、と主張するが、主人公のミセス・ピットマンは考える。
ジェニー・ブライスは夫に殺されたんじゃないか、と。
死体が発見されず、また、死体発見後も、それがジェニー・ブライスの死体なのかどうか決めてがない。さて。
最近、ラインハートの作品がぽつぽつと翻訳されはじめた。
彼女はHIBK派の創始者と呼ばれている。
HIBKは「ヒビキ」じゃなくて、Had I but Knownの略で「もしも、もっと早く知っていたら」という言い回しでサスペンスを盛り上げる手法のことだ。
たとえば、この作品では、ジェニー・ブライスと主人公のピットマンとの会話時に使われていた。
「あら、この親指の爪を見て。すっかり割れちゃったわ」
その親指をひと目見ておきさえすれば!
しかし私は洗面台からラドリー氏の原稿をよけ、お茶のお盆を置こうとしているところだった。
という具合。このときに指を見ておれば、死体発見時に、それが彼女の死体なのかどうかが判明したのに、という意味だ。
「ジェニーを見たのはそれが最後だった」
というような描写もある。
僕はこの手の表現を横溝正史でよく読んだ覚えがあるが、サスペンス物にはつきものの描写なのかもしれない。
ラインハートのことだから、メロドラマばりばりで、ロマンチックサスペンスの女王らしく、2時間ドラマ路線を行くのか、と気軽に読んでいたのだが、これがなかなかの本格推理だった。
事件が一件落着した後に、登場人物たちのその後が描かれるところは、昔読んだクリスティーの読後感に近いものがある。
そういえば、クリスティーも読み残しがいっぱいあるなあ。
以下、忘れてしまうので真相の一端を書いてしまうので、今後読む人はパスしてください。
死体の胸にあった謎の傷痕や、消えた時計の謎など、いろいろあるが、書き留めておくのは、おおまかな真相。
これは、まず、失踪狂言だった。劇場関係者、マスコミが組んで失踪劇を演じ、話題を盛り上げようとしたのだ。
夫は状況証拠だけで逮捕されてしまう。
どこかで隠れているジェニー・ブライスが出てくれば、夫も無罪放免で、丸くおさまるはずだったのだが、誤算があった。ジェニーは夫を憎んでいたのだ。夫がピンチになってもジェニーは姿をくらませたまま、出てこない!
ここまでが前段。
真相は、夫は実際に妻を殺していた。
そして、この失踪劇を利用する形になった。
愛人に妻の変装をさせ、失踪劇を演じさせる。失踪劇のグルの人々は、ジェニーだと思い込んで、ある場所に愛人を連れていったわけだ。
グルの人々は、夫が拘留されているあいだにジェニーに化けた愛人の存在を確認しているだけに、夫は無罪だと信じて疑わなかったのだ。
ミシェル・トゥルニエの『イデーの鏡』を読んだ。
イデーのらっきょではない。
トゥルニエは1924年パリ生まれの小説家。
この本は、対になる概念を並べてその相違などを自由に語るエッセイになっている。
「男と女」「愛情と友情」「ドン・ジュアンとカサノヴァ」「笑いと涙」「子供と青年」「内婚と外婚」「健康と病気」「雄牛と馬」「ネコとイヌ」「狩猟と漁業」「風呂とシャワー」「スクリューとひれ」「ヤナギとハンノキ」「動物と植物」「線路と道路」「ピエロとアルルカン」「放浪の民と定住の民」「主人と召使い」「赤い道化と白い道化」「樹木と道」「塩と砂糖」「フォークとスプーン」「地下室と屋根裏部屋」「水と火」「歴史と地理」「脊椎動物と甲殻類」「環境と遺伝」「快楽と喜び」「アポロンとディオニソス」「恐怖と不安」「愚老と称揚」「記憶と習慣」「話されたことばと書かれたことば」「才能と天才」「美と崇高」「文化と文明」「記号と映像」「純粋と無垢」「時間性と気象性」「一次的傾向の人間、二次的傾向の人間」「詩と散文」「行動と情念」「太陽と月」「灰色とカラー」「たましいと肉体」「量と質」「右と左」「時間と空間」「表面と深さ」「現実態と可能態」「種類と差異」「与えられたもの、構築したもの」「理想主義と現実主義」「先験的と後験的」「絶対的と相対的」「泉と柴」「悪魔と神」「存在と無」
25才のときに哲学教授資格試験(アグレガシオン)を受けたこともあるトゥルニエの文章はときに哲学的だが、作家としての本領もじゅうぶんに発揮している。
たとえば、「放浪の民と定住の民」では、カインとアベルの話からはじまる。カインは土地を耕す定住の民。アベルは家畜を飼う放浪の民。トゥルニエによると、この両者の衝突は避けがたく、人類の歴史上、さまざまな形を変えて出没する。いくつかの例をあげたトゥルニエはナチスにもふれる。ナチズムは「血と土」の政策と呼ばれる「人間と大地との交感を称揚する」立場にたち、放浪の民であるジプシーやユダヤ人を絶滅する計画をたてる。
ここまではホホーン、と言う感じだが、しめくくりがしゃれている。
「また、新しい高速道路や飛行場の建設計画が浮上すると、そこに定住している人々は、自分たちの生活が破壊されるとして、反対運動に立ち上がるのである」
空港建設反対が、カインとアベルと結びつくなんて、誰が予測した?
各エッセイは刺激に富んでいて面白く、それぞれの最後には、いろんな文献からの引用がひいてある。
たとえば、「ネコとイヌ」の末尾には、『旧約聖書』からこんな言葉がひいてある。
「生きたイヌであるより、死んだライオンでありたい」(伝道の書)
これでわかるように、トゥルニエはネコ好きなのだ。内容は僕みたいなネコ好きには喝采ものだったが、イヌ好きの人が読むと気を悪くしかねない内容だったので、ここでは引用しないでおこう。
イデーのらっきょではない。
トゥルニエは1924年パリ生まれの小説家。
この本は、対になる概念を並べてその相違などを自由に語るエッセイになっている。
「男と女」「愛情と友情」「ドン・ジュアンとカサノヴァ」「笑いと涙」「子供と青年」「内婚と外婚」「健康と病気」「雄牛と馬」「ネコとイヌ」「狩猟と漁業」「風呂とシャワー」「スクリューとひれ」「ヤナギとハンノキ」「動物と植物」「線路と道路」「ピエロとアルルカン」「放浪の民と定住の民」「主人と召使い」「赤い道化と白い道化」「樹木と道」「塩と砂糖」「フォークとスプーン」「地下室と屋根裏部屋」「水と火」「歴史と地理」「脊椎動物と甲殻類」「環境と遺伝」「快楽と喜び」「アポロンとディオニソス」「恐怖と不安」「愚老と称揚」「記憶と習慣」「話されたことばと書かれたことば」「才能と天才」「美と崇高」「文化と文明」「記号と映像」「純粋と無垢」「時間性と気象性」「一次的傾向の人間、二次的傾向の人間」「詩と散文」「行動と情念」「太陽と月」「灰色とカラー」「たましいと肉体」「量と質」「右と左」「時間と空間」「表面と深さ」「現実態と可能態」「種類と差異」「与えられたもの、構築したもの」「理想主義と現実主義」「先験的と後験的」「絶対的と相対的」「泉と柴」「悪魔と神」「存在と無」
25才のときに哲学教授資格試験(アグレガシオン)を受けたこともあるトゥルニエの文章はときに哲学的だが、作家としての本領もじゅうぶんに発揮している。
たとえば、「放浪の民と定住の民」では、カインとアベルの話からはじまる。カインは土地を耕す定住の民。アベルは家畜を飼う放浪の民。トゥルニエによると、この両者の衝突は避けがたく、人類の歴史上、さまざまな形を変えて出没する。いくつかの例をあげたトゥルニエはナチスにもふれる。ナチズムは「血と土」の政策と呼ばれる「人間と大地との交感を称揚する」立場にたち、放浪の民であるジプシーやユダヤ人を絶滅する計画をたてる。
ここまではホホーン、と言う感じだが、しめくくりがしゃれている。
「また、新しい高速道路や飛行場の建設計画が浮上すると、そこに定住している人々は、自分たちの生活が破壊されるとして、反対運動に立ち上がるのである」
空港建設反対が、カインとアベルと結びつくなんて、誰が予測した?
各エッセイは刺激に富んでいて面白く、それぞれの最後には、いろんな文献からの引用がひいてある。
たとえば、「ネコとイヌ」の末尾には、『旧約聖書』からこんな言葉がひいてある。
「生きたイヌであるより、死んだライオンでありたい」(伝道の書)
これでわかるように、トゥルニエはネコ好きなのだ。内容は僕みたいなネコ好きには喝采ものだったが、イヌ好きの人が読むと気を悪くしかねない内容だったので、ここでは引用しないでおこう。