日本橋ヨヲコの『G戦場ヘヴンズドア』全3巻を読んだ。
これもまた前向きな話。
漫画家の話なのだが、作中、決めぜりふというか、名言が大文字でバシッと決まる。
「自分から読み手を選ぶとは、思い上がりも甚だしい。そのプライドがある限り、お前は先へと進めんよ。オナニーは布団の中だけにしとくんだな」
第1巻で主人公の1人、堺田町蔵が父親(漫画家)から言われるプライドについての言葉。
これが最終巻になると、絵をほとんど描けなくなった鉄男のかわりに、みんなで漫画を代筆しようとする際、ある1人が漏らす「プライドないのか、君達は」の言葉に堺田町蔵がこう答えることになる。
「プライド?ありますよ。そんなもん。あるからこそどんな汚い手段使っても完成させますよ」
2つのプライドのいかに距離が隔たっていることか。
日本橋ヨヲコの作品は今回はじめて読んだ。
他の作品がどうなのかは知らないが、この作品には、名言癖とも言えるような作風が感じ取られる。かつて三島由紀夫を読んだときに、同じような印象を受けた。
この作品読んで、かなり感激したので、それらの言葉を覚え書きとして残しておくことにする。作品を読んでないと、特に名言とは思えないだろうが、作品の中では、ピシッと決まっているのだ。
「お前は天才かもしれねえ。けどそれだけだ。(中略)いいか、オレと組むなら手加減すんな。もしお前がもう一度、オレを震えさせてくれるのなら、この世界で、一緒に汚れてやる」

「わかりあおうと努力しなければならない友達ごっこなどもう終わりにしろ。お前に必要なのは、…なんだっけ」

(手品を見て、タネさえわかりゃ、誰でもできっじゃん。と言う堺田に、久美子が言う)「黙って見てな。深く考えないでさ、夢見せてもらいなよ」

(映画の終わりのエンディングクレジットロール中に私語する若者に対して、阿久田編集長が言う)「上映中の私語はすべての作品への冒涜行為だ。死ね」

(鉄男と堺田が漫画を合作することになり、鉄男を愛する久美子がその関係に嫉妬したとき、堺田が言う)「お前、要るよ。捨てられもしねーうちから勝手に拗ねんな。ふざけんな」

(愛人から父親の離婚を伝えられ「ふーん」と反応する堺田。愛人が「それだけ?」と聞いたときに、堺田が爆発する)「女なんて何言っても納得しねえじゃねえか。いちいち人の言葉に期待してんじゃねーよ」

(堺田が漫画にめざめて、愛人に言う)「セックスより面白いことを知ってしまいました。オレはもうそっちには戻れません。今まで相手してくれてありがとう」

(愛人が堺田に言う)「男が化ける瞬間て、たまんないのよ。やっと見れた」

「読者はあんたのファンじゃないのよ。がんばって読んでくれるなんて思わないことね。誰にでもわかるように作るのが、一番難しいのよ」

「本当に面白いマンガはね、心が健康じゃないと描けないんだよ」

「いい?これは仕事。本気でうそをつく仕事なのよ。あなたの描くうそは、誰かがお金を払ってでも騙されたいものかしら」

「君は、作品の一般的なイメージで、読んだつもりになってるんじゃないの?」

「漫画家に必要なものって、何スか?才能じゃなかったら、何なんスか?本物との差を決定的に分ける一線って、いったい何なんですか」「人格だよ」

「人はどんなに交わっても、本当はみんなひとりぼっちなんだよ」
この言葉を幼いときに聞いて理解できなかった堺田は、長じて意味を理解し、久美子に上記台詞に続けてこう言う。
「だから、お前は、長谷川鉄男の彼女でもなく、誰かのものじゃない、お前になれ。オレもちゃんと、堺田町蔵になる」
そして上記台詞を言ったときに父親が穏やかに笑っていたわけを知る。
「それは、寂しいことじゃないからだ」

「お前に鉄男のことはわからない。絶対にわからない。横であいつの彼女ヅラしてても、本当のことは何ひとつわからない。あいつの傷はお前では癒されない。でも、それでいいんだ」

まだまだいろいろあったけど、羅列はここまで。
なにか創作活動に携わる人にとっては、勇気づけられることの多い作品だと思う。少なくとも、僕はそうだった。逡巡などしている余裕はない。
山田風太郎ミステリ−傑作選第9巻少年篇『笑う肉仮面』を読んだ。
以下、作品毎の覚え書き

「水葬館の魔術」
謎のとびこみ自殺。死体リレーで不可能状況。
『ずっとまえ、この家に、ひとり気のふれた男がすんでいたんです。笛ばかり吹いていました』ジャガー?

「姿なき蝋人」
グニャグニャ人間。
『姿なき』とは定まった姿がない、という意味か。

「秘宝の墓場」
かくれキリシタンの財宝話にだまされる海賊

「魔船の冒険」
死人島にてタコとたわむる。

「なぞの占い師」
未来を予知する占い師。
それらはすべてヤラセで仕組まれたものだった。
未来予知を信じた挙げ句、占い師の命令を定まった未来として実行しようとする被害者。

「摩天楼の少年探偵」
タイトルは都会派なのに、犯人の名前は、雲がくれの幻蔵。
大量の蜘蛛や、蜘蛛の投影で人があまり通らないようにして、犯行に及ぶ。
道いっぱいのくもとたわむる。

「魔の短剣」
自らを傷つけようとした毒の水が、悪いやつの目に入る。
毒はアトロピンで、しばらくたつと目が見えなくなってしまうのだ。
曲芸で短剣を受け取れず刺してしまう悪いやつ。

「魔人平家ガニ」
吸血鬼なのだ。
カニとたわむる。

「青雲寮の秘密」
寮生活うんこ豚ドタバタ

「黄金明王のひみつ」
竹を使って死体をスールスル滑走。
竹は切って花立てを作る。

「冬眠人間(中学時代二年生版)」
コールドスリープ。
ペスト蔓延の虚報で人を追い払ってから、コ−ルドスリ−プ後の世界を演出。
冬眠が一般的になると、みんな努力せず、嫌なことがあったらすぐ寝てしまう世の中になっちゃうから駄目なのだ。

「暗黒迷宮党」
暗黒迷宮党の首領に化ける警官X

「なぞの黒かげ」
蜘蛛いっぱいで人払い(摩天楼の少年探偵)、未来予知から命令(なぞの占い師)など、集大成的作品。
犬がなついていることで、身近なものと知れる。

「冬眠人間(少年クラブ版)」
悪人の名はオッサ・クラニ博士(ラテン語で頭蓋骨の意味)
冬眠球はイガイガで、刺さると凍って眠ってしまう。
Xの悲劇トリック。

「笑う肉仮面」
ねずみを使って針金と硝酸を仕入れ、牢から抜け出す(暗黒迷宮党)も再使用。
主人公弓太郎は手術で常に笑っている顔にされている。
財産を狙う悪いやつが医者と結託して謀ったのだ。
元ネタのユゴーの作品は読んでいないけど、それを映画化したのは見ていて、「あっ、山田風太郎のアレだ!」と思ったことがある。
さて、この「笑う肉仮面」は「なぞの黒かげ」とともにかれこれ25年ぶりの再読になる。
当時は、その古臭さであまり高い評価を与えていなかったのだが、今回読み返してみて、面白さに腰が抜けそうになった。
宇宙斎と名乗る手品つかい率いる曲芸団。
そんな設定はたしかにモノクロの日本映画を思わせ、悪人が退治され、ものごとがおさまるべきところにおさまる物語は、勧善懲悪を絵に描いたようで、古い、とでも思っていたのだろう。
25年を経た読書体験で、こんなに評価がアップした作品もないんじゃないか。
この作品集のなかでも、ピカイチの出来で、読んだあと、幸せな気分になった。
見世物興業の人間や笑った顔の人間が何を訴え出ても、警察や世間はりっぱな家の人や医者の言うことの方を信じる、といった弱いものへの差別をも描いている。
なんて前向きな!
僕みたいに、人生の晩年に突入すると、後ろを向いている時間はないのだと痛感する。
前向きであることをうっとうしい、と思っているあいだは、まだまだ幼いのだな、と感じた。
岡田史子作品集『オデッセイ1966〜2003ガラス玉』と同じく『ピグマリオン』を読んだ。
サンコミックス版で岡田史子の漫画は読んでいたが、未発表作も収録されているとあって、再読してみたのだ。
ほとんどが60年代の作品で、自分の小学生時代とかぶっている。作品も小学生時代に読む世界の文学を思わせて、60年代の追体験としては理想的な再会だったと言えるだろう。
実際には僕は小学生どころか大学卒業するくらいまで、まったく文学を読まなかったのだが、嘘の経験を刷り込むにはピッタリだ。
ギリシア神話や演劇や、詩など、僕にとっての60年代を塗り替えてくれた気分だ。
これは、現代の漫画家がいくら頑張って文学的世界を築こうとしても不可能な気がする。
『ガラス玉』
ガラス玉
サンルームのひるさがり
黄色のジャン・川辺のポエム
フライハイトと白い骨
ポーヴレト
赤と青
天国の花
春のふしぎ
トッコ・さみしい心
オルペとユリデ
いずみよいずみ
私の絵本
イマジネイション
夢の中の宮殿

『ピグマリオン』
墓地へゆく道
太陽と骸骨のような少年

ピグマリオン
死んでしまった手首−阿修羅王(前・後編)
耳なしホッホ
火焔−ひがもえる
火焔
Kaen
海の底の日よう日
邪悪のジャック
胸をいだき首をかしげるヘルマプロディトス
赤い蔓草(PART1・2)

また、岡田史子による「自分史を語る」(エッセイ)と監修者青島広志による「青島広志のスケッチブックより」(スケッチ)が巻末に分載されている。
『ピグマリオン』には1970年のインタビューも再録されており、これもまた、当時の世相を伝えている。

楽しい読書体験だった。一番好きだった「ガラス玉」はあいかわらず面白かった。
ガラス玉を失って分身を死なせてしまった少年が、ガラス玉を求めて「アトラクシア」という国に向かう。置き去りにされて「ガラス玉ってなんなのよ、レドのばか!」と泣く女。
女は、当初、少年レド・アールの尻をたたいて一緒にガラス玉探しにおもむくのだが、いざ、アトラクシアに行けばガラス玉が得られるとわかると、こう言い出す。
「だめよレド・アール!いっちゃだめ」
「へんだわよ。はじめからおわりまで奇妙だわ…およそ現実ばなれしたはなしだわ」
そのとおり。ガラス玉は精神と置き換えてもいいもので、工場で働きだして、ヴェイユよろしく精神を失ってしまったレド・アールは、アタラクシアをめざすのだ。即物的なガラス玉探しには乗り気だった女は、こうした精神の問題にはついていけない。
アタラクシア(平穏な快)をアトラクシアと書いているのは、そこに「アトラクト」という意味を付け加えたのかもしれないし、「タ」を「ト」に、「A」を「O」に変えることで、少年愛の肛門的快より言葉(文学)の快を求める作者の立場を表明したのかもしれない。
「タ」と「ト」で「外」という文字を分裂させることで、外部の亀裂を示した、という解釈は、「なんのこっちゃ」の言い過ぎだろうが、そんなことまで考えさせられる。
江戸川乱歩全集第14巻『新宝島』を読んだ。
以下、作品後の覚え書き。
「新宝島」3少年漂流記。3人の少年ロビンソン・クルーソー。
3人はそれぞれ、体力抜群、知力抜群、ムードメイカーと役割分担している。
アスリートとうんちく王とピン芸人の組み合わせ。
全部お笑い芸人でまかなえそうな3類型だ。
アスリートはワッキーとかパッションとか寺門とか。
うんちく王は上田、あるいは、アスリートも含めて品庄でいいか。
問題は、お笑いムードメイカーを誰にするかだ。
これは難しい。
作品ではこの3人がたどりついた島で大冒険(絶叫アトラクションっぽい)をした後、黄金郷を発見し、それぞれ将軍、大学総長、侍従長になる。
南の島の探検奨励が国策を反映している。あるいは、国策を隠れみのにして、娯楽小説を書いた、というところか。

「智恵の一太郎」短い話が16編。
「象の鼻」池に浮かぶボールの取り方(石投げて波を起こす)
「消えた足跡」途中で消えた雪の足跡(竹馬)
「智恵の火」お椀の水で火をおこす方法(凍らせてレンズにする)
「名探偵」セルロイドの筆入れをひろってくれたのは誰(指紋)
「空中曲芸師」クモが川越えの糸を張る(糸を風に流す)
「針の穴」即席眼鏡(ピンホール)
「お雛様の花びん」トックリ蜂の壷つくり
「幼虫の曲芸」トックリ蜂の幼虫、餌の青虫の食べ方(空中にぶらさがっている)
「冷たい火」イカについてる発光バクテリア
「魔法眼鏡」筒を使うと月の見かけの大きさが変わる(筒の長さ)
「月とゴム風船」上にある月と沈みかけの月の大きさの違い(まだ解明されてないって!)
「兎とカタツムリ」音速と光速
「白と黒」光を反射する白、熱を吸収する黒
「風のふしぎ」吹いた息はすずしく感じるが寒暖計はアップ。気化熱
「ゴムマリとミシン針」穴に落ちたマリの取り方(水いれる)、灰の中に落ちた針の取り方(磁石使う)
「飛行機を生み出すたのもしい力」(ちえの一太郎君の工場見学記)鉄鋼回収で集まった釣鐘などを溶かす。それを見た一太郎は、こんなふうに思う。「それを見ていて、僕はなんだか涙が出そうになった。日本は今、たいへんなんだなあ。こんなにして戦争をしているんだなあ。けっして負けられないぞ。負けるものか」敗戦後、一太郎は何を思ったのだろう。ワープロソフトにでもなろうと決心したのか。

「偉大なる夢」スパイ探しの娯楽小説。
犯人自ら犯行現場を目撃する、というのは、まるで「皇帝のかぎ煙草入れ」
この作品中、面白かったのは、発明品を錬金術のごとく生み出そうとする男、韮崎だ。この男はまるで二十面相みたいな奴で、「油断の成らぬ突飛な男」と思われているが、なぜそんなふうに思われたかというと、次のとおり。
「ひどい変わり者です。第一こいつの家の門はあいていたことがない。いつも鍵がかけてあって商人などが来ても入ることができない。(中略)つまり交友関係が全くないのですね。では、食事なんかはどうしているかというと、すべて外食らしいのです。放浪癖があるので、家をあけて旅行することが多いらしいのですが、いつ出かけて、いつ帰ったかは、近所の人も知らないという有様です」
挙げ句の果てに、こう言われる。
「隣組の持て余しものですね」
韮崎は生まれる時代を間違えたのだ。
現代なら、これらすべての特徴は、ごくごく普通に思える。
隣組活動に熱中している方が、迷惑とかうっとうしいと思われる現代だから。

この本には、種村季弘による「幻の同居人」と題するエッセイが載っている。乱歩体験を語っているが、さすが種村季弘、と思わせる一文があった。
「乱歩は永遠の少年、アンチ・エロティカーである」
乱歩と言えばエロだグロだ、と言われて、鬼畜系とつなげて語られることが多い。
でも、アダルトビデオ見て喜んでいる境地と、乱歩の世界は遠く離れているように思う。
セックスに行きつかない紆余曲折こそが乱歩の真骨頂だと思うのだ。
がれりありありで小渕裕の放展「自然発生体」
宇宙から来たアメーバ、と思っていたら、どこか懐かしい。
ふにゃふにゃした外骨格、ということは身体が手袋脱いだようにひっくりかえってる?

INAXギャラリーで「小さな骨の動物園」
食欲を産む裸。
でも、その食欲はつはものどもが夢のあとなのだ。
内部であるのに、表面を主張している。

以上2つの展覧会をあわせて、可動する硬軟、内外がぴったり補完される。

録画しておいた江戸川乱歩サスペンス「黒真珠の美女」を見た。
天知茂の明智小五郎シリーズ最終作。美女は岡江久美子。
代日芽子という女優さんが、秋吉久美子似で、魅力的だった。
原作は「心理試験」。短編をどう2時間にふくらませるのか。
「心理試験」は、言葉の連想テストのこと。事件と関わりのある単語が出たときの反応速度を見ての、嘘発見器的診断が、物語の中心になっている。犯人は、あらかじめそんな単語が出た場合を想定して、事前に練習し、ばれないように画策する。事件関連単語からの連想速度の方が、ごく普通の単語からのタイムより速いのが、かえって不自然さを生んでしまう。
これは、たとえば、一昨日のアリバイをきかれて、くわしく即答できてしまうことによる不自然さにも似ている。いかにも、答えを用意しておいたな、と思わせるからだ。
で、このテレビ版では、どうなったかというと、そんな心理試験はいっさい行われない。
原作からの引用は、また別の箇所からで、ほとんど別の話と考えて間違いない。
ゴッホの「星月夜」贋作事件(犯人は、贋作とすりかえた仇をあぶりだすために幻の名画公表を行う)
サービスのシャワーシーン(家政婦の。入浴中に殺される)
ボディペインティング(毒を塗られており、もだえ苦しむのをカメラマンは「迫真の演技」と見て、シャッターをきり続ける)
六歌仙の屏風(屏風の存在を知っているはずがない人物が、うっかり屏風のことに触れて、馬脚をあらわす。屏風に上手にポーズをつければよかったのだ)
明智の変装(謎の老人かと思えば、変装を解くと、死んだはずの高橋昌也。高橋昌也かと思えば、明智。二重に変装していたのだ。和服をワンタッチで背広姿に変身するのもお約束。和服のままでも問題ないのに)
犯人の自殺(定番だが、明智は「死んでは罪のつぐないはできない」と説得にかかるが、犯人はそんなの聞く耳もたない)
等、いろいろ見どころがあった。
でも、僕の一番のみどころは、斎藤運転手役で出ていた武岡淳一だった。
被害者に恨みをもつ男で、金庫から金を盗んだりする。
この人は声優などもしているが、「飛び出せ青春」の秀才、中尾として強烈にインプットされている。その秀才の中尾が、今や金庫から金を盗む転落の人生を送っているのかと思うと、感慨深いものがあった。
ノミ屋の「カンベ」役の人も、一瞬しか出て来ないが、確か、「でっかい青春」とかに出てた人じゃなかったかなあ。(調べてない)
そうそう、それと、もう1つ、すごいなあ、と思ったところ。
明智の最後の推理。
犯人が、「なぜ私が怪しいと思ったのか」と聞いたときの返答が超絶推理だった。
犯人(岡江久美子)は黒真珠のイヤリングをしていた。この「黒」から、きっと、この人は、喪に服しているのだ、と判断したのだ。(犯人は、父親の仇として殺人を犯している)
すごい!
黒真珠のイヤリングしてただけで、「きっとあいつが犯人だ」と思われてしまったのだ。
岡江久美子も、そんな言い掛かりのような推理で納得させられてる場合じゃない!
活字リハビリは依然として継続中。
何冊か軽い本を読んで、そろそろ大丈夫かと思って挑んだ『バートルビー』が昨日の日記をみてもおわかりのとおり、惨澹たるありさまだった。僕には読解力というものがまったく無いらしい。
潜勢力からニートとかひきこもりなんかを連想して、そっちに頭が行ってしまったり、自分が何もせずにだらだらしてることを正当化しようとしてみたり、赤瀬川の優柔不断のすすめ、みたいなところに想像が飛んだりしてたのだ。
バートルビーから「ずうとるび」を連想したり。
でも、『バートルビー』はメルヴィルの小説じたいめちゃくちゃ面白かったので、よしとするか、と納得させた。そもそも、アガンベンは気になる人ではあるのだが、あんまり読んでないのだ。
と、いう言い訳を並べておいて、今日読んだのは、またも軽い路線に戻った。
都筑道夫の少年小説コレクションから『妖怪紳士』だ。
この本には『妖怪紳士』『妖怪紳士第2部』『ぼくボクとぼく』が収められている。
順に、覚え書きを。

『妖怪紳士』
妖怪ハンターは「折れた角」と呼ばれる男。(鬼?)
ぬけ首、雪女、貝やぐら、人面瘡、吸血鬼、のっぺら坊、鬼かがみ、ひだる神、片輪車
妖怪オンパレードでてんやわんやの大騒ぎ。
主人公の少年が実は善の神を宿しており、それの覚醒によって、悪は撃退される。
その撃退のシーンがあっさりしていてびっくり仰天。
もう絶体絶命のピンチに陥ったとき、急に少年がジャンプする。
その身体は矢のように空を飛んでいく。
それを見た悪の神は
「やっぱり、きさまだったのか。しかたがない、あきらめてやる。わしの負けだ」
と、戦わずして敗北宣言をしてしまうのだ。
あと、印象に残ったのは、ドラム缶に火のついたマッチを入れてドラム缶ミサイルをとばす、都筑道夫お得意のシーンが、この小説にも出て来ること。
それと、人面瘡の退治の仕方が面白かった。
人面瘡は、体に寄生する妖怪。少年はお風呂の横に、鞄から顔だけ出した猫を用意して、潜水する。息ができなくなった人面瘡、それでなくても、もしも寄生主が死んでしまったら一緒に滅んでしまうので、人面瘡も「なにすんねん」と苦しみ出すのだ。
たまらずに人面瘡は少年の体を飛び出して、近くにいた猫に寄生する。
その瞬間、鞄はしめられて、猫もろとも人面瘡は捕獲されてしまうのだ。
そして、その後、鞄ごと突き刺して、殺してしまう。
猫が哀れでしかたがない。
また、吸血鬼マノレスク伯爵がドラキュラ伯爵と同じルーマニアのトランシルバニア地方出身だということが判明したとき、主人公の少年がいいツッコミをする。
「でも、ルーマニアは、社会主義の国でしょう?伯爵とか男爵とか、貴族はもういないはずだ」
ごもっとも。

『妖怪紳士第2部』
折れた角がまたまた登場。
ろくろ首、霜ふり坊主、高足、など妖怪登場。
今回の主人公の少年は、ポケットに入るくらいの小ささに縮小されてしまい、カマキリだのアリだのムカデだのの恐怖とも戦う。
猿飛佐助も出て来る!
結局、これら異次元からの脅威は、次元の乱れをなおすパトロールの手によって修復されるのだ。
あいかわらずの、唐突な終わり方。

『ぼくボクとぼく』
ぼくが2人になっちゃった!
反世界の自分がこっちにあらわれたのだ。
と、思ってたら、実はパラレルワールドというのは嘘っぱちで、宇宙人がコピーロボットみたいなもので、「ぼく」をコピーしていたのだ。
宇宙人は、「巨人族」と戦わねばならない使命を帯びていた。
さあ、この巨人族というのがすごい。
身の丈、およそ、チンパンジーくらい。
えっ?チンパンジー?
宇宙人が虫くらいの大きさしかなかったので、チンパンジー程度でも「巨人族」と呼ばれていたのだ。
巨人族によるピンチを救ったのは、まったくのサイドストーリーだと思っていた、竜宮のおはなし。竜を呼び出して、一発で退治。
なお、この作品で、思念が現実化するおそろしいシーンが出て来る。
食いしん坊の少女が「ソフトクリーム食べたいな」とうっかり思ったら、部屋にソフトクリームがうにょうにょうにょ〜と出て来て、あわやソフトクリームで溺れ死にしそうになるのだ。これって、一種のドラッグ効果に似ている。
家庭教師がクリスチーン・ビセットって、まるで女優のような名前だったのも都筑道夫らしい。

以上3編、どれもSF趣味が強く、展開がめまぐるしい。
物語の展開を楽しむというより、次々と出て来るSF、怪奇的ガジェットを図鑑を読んでいるかのように楽しむことができた。
柳柊二による挿し絵が当時(1960年代)の少年小説を思い出させて、楽しかった。
僕は何よりもこういう少年向けの小説が大好きなのだ。
もっともっと復刻してほしい。

夜の9時から、心斎橋大丸前で、おかめふくの路上ライブ。
1.三日月ラプソディー
2.いいお天気
3.青春時代
4.ひとり旅シャラルラン
5.FLY!!
6.名を持つ人へ
7.てんきゅっ
以前、この路上が警察に止められたことがある。音が大きいということと、人が集まりすぎて、通行のさまたげになったのが理由だ。
今回は極力、輪が外側に大きく拡がらないように、率先して前の方に行って見た。
ステージと客席が異様に近い、という状況なのが、おかめふくにとってはやりにくかったかもしれない。
次からは、後ろの方で遠巻きに見ることにするか、と思った。
ライブの方は、いつもながらの楽しさで、路上ならではの飛び入りもあったし、何を狙ったのか、おかめふくにあわせて当て振りをするマスクマン2人組もいた。
ライブ後、寒かったのと、お金がなかった(全財産89円)のとで、そうそうに退散した。
お金がないのは、いろいろと理由はあるのだが、一番の原因は、行きたいライブの前売り券などを購入して、すっからかんになってしまったということなので、まったくの身から出た錆、自業自得なのである。同情の余地無しだ。
最後の最後に清水の舞台から飛び下りるつもりで買った「ひねり揚げ」(100円)が、なんと普通の味だったことか!
ジョルジョ・アガンベンの『バートルビー〜偶然性について』を読んだ。
アガンベンの論文「バートルビー〜偶然性について」と、ハーマン・メルヴィルの小説「バートルビー」、翻訳者高桑和巳による解説「バートルビーの謎」がおさめられている。
バートルビーという男が法律文書を筆写する仕事につく。
書いた内容の読み合わせを頼まれたときに「しないほうがいいのですが」と拒絶したところからはじまって、雑用全般の依頼にも「しないほうがいいのですが」と断る。しまいには、仕事そのものを「しないほうがいいのですが」と、何もしなくなる。でも、毎日職場にやってきて、じっとしているのだ。
クビにしても毎日来るし、事務所を引っ越しても、元のビルに毎日やってくる。
いかなる申し出に対しても、「しないほうがいいのですが」とやんわり断って、何もしない。
浮浪者扱いで監獄に入ってからは、食事ですら「しないほうがいいのですが」と食べずに、ついに死んでしまう。
小説は、バートルビーを雇った法律家の視点から描かれており、彼はなんとかしてバートルビーを理解し、救おうとするのだが、ついに思ったような救済は与えられないのだ。
高桑氏の解説は、この小説をテーマにブランショやデリダ、ドゥルーズらが考察した内容をまとめたものだ。
ブランショは「受動性」を見い出し、デリダは「抵抗=分析」を見、ドゥルーズは「不分明地帯」を発見する。
ブランショがいうには、「しないほうがいいのですが」は拒絶よりも前の段階の、辞退であり、拒否する自我、意志以前の問題なのだ。文学の解釈が文学から遠いのと同様、バートルビーの謎は解決されるためにあるのではなく、謎そのものなのである。
デリダは、バートルビーが「然り」とも「否」とも言わないことを精神分析の方法であることを言う。バートルビーへの共感、つまりは謎ときは、自分の「読解」が介入しているかぎり、自分勝手な排除や包含を免れ得ないのだ。
ドゥルーズは、「しないほうがいいのですが」の伝染性に目をつける。この定式によって、自分がこれからしようとしていたこと、したかったことまでが不可能になっていくのだ。
アガンベンは、「潜勢力」の観点からバートルビーを見る。潜勢力の対概念は、現勢力で、たとえば、過去に起こった出来事についてはもう決定しているのだから「現勢力」である。
潜勢力は、「あらゆるものは存在するかさもなければ存在しないかである」である状態で、あるものは存在することもできるし、存在しないこともできる。これがタイトルにも謳われた偶然性というものだ。
バートルビーは「しないほうがいいのですが」と言って、何もしない。それをマイナスのイメージでとらえずに、潜勢力でとらえたのがアガンベンなのだ。潜勢力は意志によって現勢力にかわる。神は秩序づけられた潜勢力では意志に合致したことしか為すことができないが、バートルビーは意志なしでいることができ、それは絶対的潜勢力(どのようなことも為すことができる)によってのみ可能になる。意志なきところに実効性はない、という考えにバートルビーは疑問を投げかける。バートルビーの潜勢力は意志を超え出ているのだ。
アガンベンはこの「潜勢力」に関する論文をいくつも発表しており、この「バートルビー」はその1つにすぎない。それらは英語版では『潜勢力』イタリア語版では『思考の潜勢力』というどちらも大部の本として出版されている。日本語版の翻訳を待ちたい。どうも、僕の読解力では『バートルビー〜偶然性について』だけではまとめることすらできない。

昨日に引き続き、山本直樹の『ありがとう』全4巻を読んだ。
これもまた、嫌な人間ばかりが出て来る話だ。
因縁つけて家を占拠し、レイプ三昧するヤク中の不良たち。
彼らに蹂躙された家族の物語だ。
外に出れずひきこもる姉、ぐれる妹、新興宗教にはまる母、家族至上主義の父。
人のスキャンダルを友達面して広めるクラスメイト。いつまでも弱いいじめられっ子などなど。
人間の醜い面がオンパレードで出て来る。
でも、この『ありがとう』めちゃくちゃ面白かった。
これがあの『極めてかもしだ』と同じ作者なのか?と疑うほどに素晴らしい。
『極めてかもしだ』では寺山修司の映画「書を捨てよ町へ出よう」のパロディがあったが、この『ありがとう』では小津映画からの引用が随所に出て来る。
現代の最悪な家族関係の中で引用される小津映画が、しっくりくるような、違和感あるような、不思議な感覚で迫ってくる。
家族という幻想が不幸と絶望を産む原因でもあるのだが、それでも家族に「ありがとう」と言ってしまうのは、もうホラーとしかいいようがない。

ケーブルテレビで放送していた「銀座カンカン娘」を見た。島耕二監督、1949年。
高峰秀子、笠置シヅ子、灰田勝彦、浦辺粂子、古今亭志ん生
これは以前にも見たことがあったが、笠置シヅ子も高峰秀子も好きなので、ついつい最後まで見てしまった。
まず、高峰、笠置のシーツ巻いてはだけるのを気にしながら会話したりするのが、とてもセクシー。
ラスト、いきなりのように志ん生の落語がはじまって、落語の終わりがそのまま映画の終わりになっているのも、不思議な感覚で面白い。昔の映画って、終わるときはとても潔い。
あと、デブの岸井明が歩くと、家の中のものが落ちたりするギャグがしつこすぎて、面白かった。
ちまきingの『あふがにすタン』を読んだ。
あふがにすタンは、アフガニスタンを擬人化したキャラクター。
萌え系と呼ばれる絵柄で、アフガニスタンの歴史を元ネタに4コマ漫画が描かれている。
あふがにすタンは、口数の少ない、いじめられっ子。
その他の国も同様にキャラクター化されている。
「ぱきすタン」は、あふがにすタンと仲良くなりたいのに、へそ曲がりで、なかなか素直になれない子。
「うずべきすタン」は背伸びしてお嬢様ぶっているお転婆、負けず嫌いで仕切りたがり。
「たじきすタン」は、お小遣いが少ないけど元気な江戸っ子娘。喧嘩っぱやい。
「きるぎすタン」は時々ぽろっと毒舌を吐く。
「とるくめにすタン」はマイペースでいつもぼーっとしている娘。
「かざふすタン」は読書家で苦労症、自尊心が高く、融通がきかない。
「めりけん」は金持ちで、ケンカが強い。
「ぶりてん」は社長令嬢。最近は景気が悪い。
「ろしあん」は名家のお嬢様。
「ひのもと」は巫女さんの格好。めりけんの言いなり。
全部で30の話が収録されており、19世紀のグレートゲーム(イギリスとロシアの外交駆け引き)から、ソ連のアフガニスタン侵攻、アメリカのアフガニスタン空爆、2004年のカルザイ政権までを描いている。
児童向けの学習漫画とは違って、これはターゲットがオタクたちに向いている。
それがいい。
漫画の内容はほんわかしているが、最近の4コマに比べて、まだ起承転結がある部類だと思える。
一番面白かったのは、「鮮烈の赤」と題したイラストで、数人のキャラクターの並び方が、そのまま世界地図の国の配置に相当しているのだ。
この伝でいくと、日本国内の都道府県をキャラクター化しても漫画が書けそうだ。
既にある?
念のために書いておくが、「大阪」は大阪府のキャラクタ−化ではないからね!(あずまんが大王)
さて、この本を読んでアフガニスタンをわかったつもりになるのは間違いだろう。
それは『嫌韓流』読んで、韓国のことをわかった気になるのが駄目なのと同様、そもそも、1冊本を読んだり、テレビ番組見ただけで、何かをわかったつもりになるのは早とちりというものだ。
でも、本書15話「見放された国」にあるように、アフガニスタンにまったく関心を持たない現状を考えると、ちょっとでもアフガニスタンに目を向けさせただけで、じゅうぶんな気がする。
世界の関心をひくために、タリバンはバーミヤンの磨崖仏をぶっ壊したのだ。
この漫画が磨崖仏爆破と同等の効果があったなら、快挙ではないか。

さて、今日はこの本以外に、山本直樹の『極めてかもしだ』全6巻を読んだ。
主人公の「かもしだ」は肉欲にまみれた自己中心的な人物で、ちびでおかっぱ頭の三白眼。
沖津要という女性と無理やり同居し、レイプまがいの毎日を送り、先生の情事を目撃してゆする。
僕は「かもしだ」のような奴が大嫌いなので、1、2巻あたりは、心の中で何度も「かもしだ」を血祭りにあげていた。
でも、中盤はかもしだが旅に出たり、後半は成績別クラス編成に反対して学校と対決したりして、最初のドタバタが薄れる。これがまた、つまらない。イライラしながら読んでいた最初のあたりがまだよかった、と思えるくらいだ。たまにかもしだがいいことを言ったりするのが、腹がたってしかたがない。
当時の読者は、よくあんな最低な男の傍若無人を許していたものだ。
ありゃ、コメディというよりも性犯罪だ。
こんなに嫌うのは、ひょっとして、どんなに嫌われても迫り続けるかもしだのセクシャルバイタリティがうらやましいのかもしれない。あそこまで男根の欲望のみに生きることができれば、幸せなのかもしれない。動物みたいで。
E.W.ホーナングの『またまた二人で泥棒を』を読んだ。
ラッフルズとバニーの2冊め。
以下、各話の覚え書き。

第1話「手間のかかる病人」
バニーにうってつけの求人広告。
雇い主の正体はなんと死んだと思われていたラッフルズ。
文字どおり、バニーを呼び寄せるために、バニーにお誂え向きの求人広告を出したのだ。

第2話「女王陛下への贈り物」
黄金の杯を盗み、頭にのせて帽子で隠して持ち去る。
現金化したり金塊にしたりせず、女王陛下にそのまま贈る。

第3話「ファウスティーナの運命」
ラッフルズかつてのロマンス譚。
彼女は、無惨にも殺されてしまう。
犯罪組織カモーラのコルブッチ伯爵登場。

第4話「最後の笑い」
コルブッチ伯爵に捕らえられて、時限装置で命を狙われるラッフルズ。
必死で駆け付けるバニー、間に合うか!
ラッフルズが「せめて道連れに」と考えて用意した毒酒を取り上げて、勝手に飲んで自滅するコルブッチ伯爵。

第5話「泥棒が泥棒を捕まえる」
ティアラ連続盗難事件。
盗賊アーネスト・ベルヴィル伯爵との対決。
銃で追い詰められたラッフルズ。
そのとき雷が!

第6話「焼けぼっくいに−」
かつて関係のあった女性がラッフルズを追ってくる。
偽装で死亡し、難を逃れるラッフルズ。

第7話「間違えた家」
ラッフルズがドジを踏み、破った扉越しに腕をつかまれ、身動きとれなくなる。
家を間違えて、中にいたのは元気な学生たちだったのだ。
盗賊捕縛に加勢するとみせかけて、バニーが助ける。

第8話「神々の膝に」
ボ−ア戦争に兵士として志願したラッフルズ。
裏切り者の上官を断罪する。

この2冊めでは、ラッフルズが華麗な泥棒っぷりを示さず、けっこう失敗したりして、ぱっとしない。
命のやりとりもあるので、後発の怪盗たちが、「盗みはするが、殺しはしない」というスマートなイメージとはちょっと違っている。
でも、ドジなところがとぼけた味をだしていて、最後には戦争に行ってしまうところで、僕はなぜか「のらくろ」を連想した。
「のらくろ」はふだん軍隊におり、戦争がきびしくなってきた頃には大陸に渡っているので、ちょうど逆のパターンなのだが。
高橋しんの『最終兵器彼女』全7巻を読んだ。
かなり前に途中まで読んで放っておいたのを、映画化を機に読み直してみたのだ。
やはり、第1巻の面白さはダントツだ。
せつない恋愛物語で、戦争中なので、次々と人が死んで行く。
お涙ちょうだい的感動にはこと欠かないので、これは卑怯とさえ思った。
しかし、この漫画を読んでるあいだ、恋愛についていろいろ考えさせられた。
僕の基本的な考えは、恋愛は楽しいものなのだから、恋愛することで苦しんだり、悩んだりするくらいなら、やめてしまった方がましだ、というものだ。
そんなことはわかっているけど、人を好きになってしまう感情はおさえられない、とか、わかっているけど、悩んでしまう、なんていう「しかたない」という思い込みは、逃げにしか思えない。本当に悩まずに済むような努力を何かしたのだろうか。「こればっかりは感情の問題だから、どうしようもない」と最初から決めつけていないか。僕に言わせれば、感情の問題ほど、自分でどうにでもできる問題はないのだ。「お金がなくて困る」という問題を例にとれば、実際にお金を作ることは無理でも、お金がない状態で平気でいることは可能なのではないか。「自分はこういう性格だから」と言うのも、逃げだ。本当に性格を変えたいのなら、変わる。性格が変わらないのは、変えたくないからだ。感情がおさえられないのは、おさえたくないからだ。

第3巻に、ちせのこんなモノローグがある。
「シュウちゃん、ただのクラスメイトにもどろう」
「あの頃の二人に」
「恋人になる前の二人に」
「恋人にならなければ、こんな二人になることは、なかった」
「こんなに辛くなることもなかった」
「人を疑う気持ちなんて知りたくなかった」
「恋をすると自分が、どんなにヒドイ人間になるかなんて知りたくなかった」
「こんなに…こんなに切ない気持ちなんて知りたくなかった」
「恋人になる前の二人にもどろう」
「そしたら」
「あたしは、シュウちゃんに憧れているだけのあたしにもどるの」
「ただのクラスメイトに」
「明日、学校で会ったら、なんだか照れくさいね」

一方、シュウちゃんも、こんなことを思っている。

恋は人を変えてしまう、
人を、こんなに弱く切ないものに変えてしまう恋というものが、
ぼくは怖かったのかもしれない。

歯がゆい考えで、恋愛の一面しか見ていない視野の狭さに気が気じゃないのだが、これぞ思春期なのだ。自分が思春期を繰り返すつもりはさらさらないが、人の思春期ならではの愚行は愛おしくて、苦しまずにすむ方向に導いてあげたり、見守ってあげたりしたくなる。
そんな処方箋に目もくれないのが思春期の視野の狭さでもあるので、アドバイスを素直に聞き入れてくれないことなど最初からわかった上でのことなのだが。
親とか先生は「おまえのためを思って」といろいろ忠告したりするが、そんなもん、聞く耳持たないのはお互いさまなのがわかっていない。
おそらく正解である選択肢を教えてあげたあとは、本人の自由にまかせるしかないのだ。
なにが正解なのか、については、僕の答えはこう。
恋愛は楽しいものなのだから、それによって苦しんだりするのは、間違っている。
解決するのに、恋愛をやめるのは間違い。
あんな楽しいものをなぜ、やめねばならないのか!
一色まことの『出直しといで!』全6巻を読んだ。
高校学園コメディ。
茜という真っ正直な女の子と、優等生の土屋との恋愛を主軸にしているものの、多くの登場人物がそれぞれに悩みを抱えていて、それを真っ当に乗り越えていて、清清しい。
天然パーマに悩む子がいたり、茜のことが大好きな幼な馴染みがいたり、土屋のことを大好きな女の子がいたり、勉強にしか取り柄がないと思い込んでいるブスな子がいたり。
それら少年少女たちが、それぞれ欠点や弱点を抱えたまま成長していく姿が愛おしい。
ここでそれを言っちゃダメでしょ!みたいな発言もついついしてしまうのだ。
思えば、自分の現実にしても、どこで遊んでも、たいてい年少の友達ばかりなので、いきおい、悩みなどを聞く役にまわることが多い。
自分も同じくらい若ければ、きっと聞き逃すはずもない失言や暴言も、この年齢に達すると、フィルターをとおして対処することが可能だ。
僕ほど短気で神経質な人間もいないのだが、短気も神経質も、人のことを気にするのも、うぬぼれるのも、虚勢をはるのも、みんな抹消したい自分の醜い面だと思っているので、極力そんなものは無いことにしている。
自信だって、全然ないけど、他人を頼りにするのはさらにあてにならない、と思っている。
ただ、僕は交友関係に非常にめぐまれていて、僕自身はちっとも甘える気がないのに、まわりの友人たちが、支えてくれたり、援助してくれるのだ。ありがたい。
たとえば、今、僕は極端な貧乏で職場への電車賃もないほどなのだが、きっと、友人たちは、僕がちっとも「助けて」と言ってないのに、助けてくれるにちがいないのだ。
ね!みなさん。
僕はちっとも頼んでいないのに、なぜか、おこづかいくれる人が出てくるにちがいないのだ。
僕は全然頼んでいないのに、(しつこい!)
僕には何の悩みもない、と公言しているが、それは僕が自分で解決できない悩みなら、他の誰が考えても解決できるわけがない、と思っているからなのだ。
つまり、僕には悩みを抱くことが禁じられているのだ。
な〜んて、書いてみたが、たいていの問題は悩むまでもなく解決できるし、実際に悩みはないのだ。
あっ、1つだけ悩んでいたことがあって、この前録画した「最終兵器彼女」のビデオがどこに行ったのかわからない、というのがそれだったが。無事に発見できた。「アイドルアカデミー」の続きで録画されていたのだ。これで、たった1つの悩みも消えた。
こんな悩みしかない人生なんて、それこそ、「出直しといで!」なのかもしれない。
このところ、一色まことの作品ばかり読んでいるのは、読んでいていや〜な気持にならないのが保証されているからかもしれない。
渡る世間に鬼はない、と思っている。鬼がいるなら、鬼とも友達になるつもりだ。

パッチギ !

2006年1月30日 映画
井筒和幸監督の「パッチギ!」を見た。
パッチギは頭突きのことで、僕が生まれ育った東大阪では「パチキ」と言っていた。
「パチキ入れる」という使い方をする。
総合格闘技では頭突きが禁止されている。
K1でも「バッティング」と呼んで、パチキ入れてしまったら反則だし、偶然入ったらペナルティがつく。
つまり、それだけ威力抜群なのだ。
この映画はフォーククルセダーズの「イムジン河」が重要な役割を果たす、日本人少年と韓国人少女との淡い青春恋愛を描いている。
1968年の日本、日韓関係の思春期。
衝突したり、恐怖したり。
自分の小、中学時代って、たしかにこんなんだったなあ、と思わせてくれる。
南北朝鮮の問題、日韓の問題が厳然とあるが、コメディタッチの演出で、楽しく見ることができる。
よほどの嫌韓でないかぎり、素直に感動できるんじゃないか。
いくつかのエピソードが絡んで進行するが、それが「イムジン河」に収斂して、いくつもの思いが一気に訪れて、感動した。
僕は泣いた。
いきなりオックスが出て来る遊び心で、もうツカミはオッケーだった。
ビー玉を口いっぱいに頬張らせて殴るシーンとか、公衆電話をひきちぎって小銭を集めるシーンとか、大友康平に裏で殴られて倒れるハイテンションの演技とか、朝鮮学校の生徒に翻弄される松之助やおさむちゃんとか、名場面がいっぱい。
いやー、いい映画だったなあ。
キョンジャ役の沢尻エリカ、かつてのチャン・ツィーを思わせて、めちゃくちゃ可愛かった。
トリュフォーの「ピアニストを撃て」を見た。1960年。
原作はデヴィッド・グーディス。
名声を博したピアニストが妻を自殺させてしまい、名前を変えて場末のピアノ弾きをしている。
妻の自殺は、仕事をもらうために体を売ったことを、ピアニストが許さなかったためなのだ。
ピアノ弾きは店のウェイトレスと恋仲になるが、店の主人を正当防衛で殺してしまう。
兄のトラブルに巻き込まれて、その恋人も流れ弾に当たって死んでしまう。
またピアノを弾きはじめる彼。新入りのウェイトレスが紹介される。
そんな話。
ピアニストは巻き込まれては、死神のごとく人の命を失う運命に立たされる。
新入りのウェイトレスも、いずれ死の運命が訪れるのか!
ピアノ弾きはシャルル・アズナヴールが演じている。
その飄々とした演技は、いかにも巻き込まれ型のキャラクターで、ぴったり。
会話のなかで兄が「おふくろの命に賭けて誓う!」と請け合ったときに、母親と思しき老女が急死するシーンがはさまれたりするのが、笑えた。
マリー・デュボワ演じるウェイトレスと並んで歩くアズナヴールが、手をつなごうとするが、ひょいと手を引っ込められてあきらめるせつないシーンにはドキドキした。
この映画、以前にレーザーディスクで買って持っていた。
でも、僕はレーザーディスクの機械を持っていないのだ。
見れなかった。
なぜ、買った?

京都の満足稲荷神社でアニメーションの上映会を見た。
京都造形芸術大学情報デザイン科の作品発表会で、場所も期間もばらばらで、あちこちで上映会が開かれていたのだ。
満足稲荷神社では、鈴木智晴(赤ひげ)、中澤麻里子(ザワさん)、元田快(ハイヤー)、ちやじの4人がそれぞれの作品を出品していた。
タイトルは「あさひ奇譚〜日本の世にも珍しいふしぎな話」
日本をモチーフにした作品を上映していた。
神社の境内で上映するという形態がまず、秀逸。
作品はどれもイメージ優先の出来で、どこが「日本」でどこが「ふしぎ」なのかは、作者に聞いてみないと本当のところはわからない。
でも、憶測でものを言うと、現代日本を描いたのが、ザワさん、ハイヤーで、伝統的日本を描いたのが赤ひげ、ちやじだろう。
「日本の世にも珍しいふしぎな話」からこじつけると、
「日本」ちやじ
「世」ハイヤー
「珍しい」赤ひげ
「ふしぎ」ザワさん
とバランスよく割り振られたように思う。
森博嗣の『探偵伯爵と僕』を読んだ。
これで3日連続で講談社ミステリーランドの本を読んだことになる。
このシリーズは、装幀や挿し絵に凝っているのがうれしい。
装丁はコズフィッシュで、祖父江さんとはモダンチョキチョキズのアルバムなどで、あるいはプライベートでもたいへんお世話になった、とても面白い人なのだ。
イラストは、先日読んだ『ラインの虜囚』は鶴田謙二。(アベノ橋魔法☆商店街)
『ぼくと未来屋の夏』は長野ともこ。
『闇のなかの赤い馬』はスズキコージ。
この『探偵伯爵と僕』は山田章博がてがけている。
さて、この作品、例によってネタバレするので、注意。
少年は探偵伯爵と名乗る男と出会う。
で、友人が行方不明になった事件を解明するのだ。
これが、特に理由もなく少年を連続で殺すという救いのない事件だったことが判明。
考えうるかぎり最悪の結果だし、犯人を導き出す伏線もない。
おまけに、犯人は我が子をも手にかけていた、という不必要な意外性をつけくわえている。
作者は何を考えているのだろうか。
ミステリーとしては謎がないし、少年向けの物語としては希望がない。はやみねかおるの傑作を読んだあとでは、それがはっきりとわかる。
また、この作品、削れば半分以下の分量になると思われる。無駄な文章が多すぎる。僕みたいな素人がネット小説書いているわけではなく、プロの作家なのだから、自分の欲望へのリゴリズムを貫いてほしい。
また、屁理屈が連発する。
「何か、人に言えない秘密があるんだね?」
「あのね、」歩いていたチャフラさんは、立ち止まって、短い溜息をついた。
「秘密っていうのは、普通、人に言えないものなの。人に言える秘密なんてないの。わかった?」
こんなふうな、一般的に使われている言葉のおかしい点を、ことあるごとにつく。
僕たちは、普通、人に言える秘密を持っているのにだ。
また、「探偵伯爵」とか、先に出た「チャフラさん」とかいうセンスはいかがなものか。
はやみねかおるの「未来屋」に感心した2日後だけに、そのセンスの無さが痛々しい。「チャフラさん」は、茶原さやかという名前をチャフラフスカともじっているのだそうだが、これも首をかしげざるをえない。往年の女子体操選手のことを言っているのなら、それはチャスラフスカだ。作者はこのチャスラフスカをチャフラフスカだと勘違いして、こんな名前の付け方をしているのだろうか。わざとだとしたら、いたいけな少年少女たちは間違った名前を覚えてしまうことになる。
ただし、この本、冒頭に探偵伯爵が出すクイズは面白い。
金庫破りで、大量の金塊が持ち出された。
犯人は地下にトンネルを掘っていたのだ。
ところが、そのトンネルで大量の金塊を運び出すには、どう計算しても、時間が足りないのだ。
さて。
探偵伯爵が出す答は、「最初から金塊はありませんでした」というもの。
いくらでも別の回答を思い付くケースだが、こういう推理クイズは面白い。
ツカミはオッケー。
でも、ツカミだけだった。
もう1つ出されるクイズは、密室問題。部屋の中には縛られた被害者がいるだけ。
機械的トリックで糸などを使うにも、その糸が通るような隙間はないのだ。
さて、答えは、密室を構成したのは縛られていた人物。中華テーブルを回転させて、ひもをひっぱって密室を構成したのだ。
これ、作品のラストにまでひっぱるネタか?
あと、気になったのが、語尾の長音の省略についてだ。
この本では「ハムスター」は「ハムスタ」と書かれている。
かつては、「データ」のことを「データー」と書いたり、「コンピュータ」を「コンピューター」なんて書いていたもんだ。その流れでいくと、「ハムスタ」でもよさそうなものだが、どうもひっかかる。隠語にも似た、神経症的青臭さを感じるのだ。
同様の使い方をしていたのは、
「オーバだなあ」(大葉ではない。オーバーだ。ゲームオーバ、とか書くのだろうか。どうにも違和感がある)
「カッタナイフ」(買ったナイフ?)
「ハンバーガ」
ただし、「ミニカー」「カバー」「コーヒー」など、語尾を伸ばして表記しているものもあった。ううむ。法則がわからん。
これって一般的なんだろうか。
なお、この作品、ラストになって、全体が少年の書いた小説だったことが判明し、現実とは性別が逆であったことがわかる。
どんなどんでん返しや!
竹本健治の『闇のなかの赤い馬』を読んだ。
ネタバレ注意。
ミッション系の学校で、ある日、神父が雷に打たれて死ぬ。
それをきっかけに、学園で奇怪な事件が起きる。
別の神父が、サンルーム内で焼け死ぬのだ。
その部屋は密室。
人体自然発火だとか、球電などの仮説が出る。オカルトだ!
主人公の少年は、なぜか、馬の夢をみてうなされる。
これはいったい?
真相ではないが、サンルーム自体が巨大な電子レンジだった、とする仮説がたてられる。
これが一番面白かったが、真相の方もかなりとんでもないことを考えている。
学園内のほとんどが犯人だったのだ。
サンルームにいる神父に大勢の人間がいっせいに鏡で光をあて、その熱で焼き殺してしまうのだ。
大きな鏡を使おうとして、鏡をはずしたら、壁に白い跡がついていた。これじゃ目立つ、と考えた人物が、そこに馬の絵をかけた。主人公は、その馬の絵がもともとあった場所を無意識にインプットしており、その後、馬の絵が移動したことが脳裏にひっかかっており、夢にみたのだ。
昨日読んだ『ぼくと未来屋の夏』でも、オカルトっぽい仮説がまずたてられる。
『ぼくと未来屋の夏』では、雷がなったとたんに犬が消えてしまう謎を、主人公の少年は「宇宙人による拉致だ!キャトルミューティテーションだ!」などと騒ぐ。(真相は、驚いた犬が狭いところにもぐりこんでいただけ)
こどもはこういうオカルトにホイホイととびつく。
ミステリーの作家も読者も、オカルトには興味津々のはずだが、オカルトにたよらずに真相を構築するのが腕のみせどころで、読みどころなのである。そうでないと、オカルト持ち出せば何でもありになってしまう。
この『闇のなかの赤い馬』は、オカルトっぽいけど真相は合理的、という意味で、また、その雰囲気も含めて、「サスペリア2」を思い出した。そう。あの絵の謎がこの作品の真相とよく似ているのだ。

録画したまま見ていなかった「ハッスルマニア」を見た。
空中元禰チョップとやら、試合を通してみるかぎりは、じゅうぶんに説得力があった。
あんなへなちょこチョップでプロレスラーに勝てるのか、なんて言ってたすべてのコメンテイターは、腹を切って詫びるべきだ。あいつら、絶対、チョップの瞬間映像しか見ていないぞ!
はやみねかおるの『ぼくと未来屋の夏』を読んだ。
ミステリーで、ネタバレしてるので、注意。
主人公は小学6年の少年。
未来屋と称する猫柳さんと出会ったことからはじまる、夏休み。
未来屋とは、これから何が起こるかを教えてくれる、ということで、おおざっぱに言えば、探偵と言ってもいいだろう。
警官が監視するなか人間が一人消えてしまった校舎の謎とか、碁石で暗号とか、首なしの幽霊とか、ミステリーの面白さが詰まっている。
なかでも感心したのは、神隠しの真相だ。
神隠しの話は、肝試しのなかで校長先生によって語られる。
戦争中の話。酔っぱらって道を歩いていた男が、神社の前で眠ってしまった。
目覚めると、そこは駅前商店街の遊歩道で、アーケードには電気もついている。
不思議なのは、人っこ一人いないのだ。
店はシャッターがあいていて、普通に商品も並んでいる。でも、人間がいない。
食堂に入ると、今まさに用意したばかりのような食事がテーブル上に並んでいる。
男はそれを食べて、寝る。
起きたら、もとの神社だった。
誰もいなかったのは、戦争で全員殺されてしまったんじゃないか、と不安になった男が帰宅すると、いつもと変わらぬ、人々に迎えられた。
男は昨日寝て、今日戻ったふうに思っていたが、なんと、神社の前で寝てから一週間も経過していたのだ。
誰もいない商店街の話をしても、みんなは酔っぱらいの夢としか思ってくれない。
おや?本を読んでいるときには気づかなかったけど、このシチュエーション、推理クイズのQ.E.Dで出題されてて、いろいろ推理考えてたっけ?まあいいや。
さて、真相は、これがびっくり。
町の近くに軍事施設があり、そこで開発されていた細菌兵器の細菌がもれた。
町民は避難したが、ふだんから酔っぱらいの男1人だけが、その避難勧告を知らずに、神社で酔いつぶれてしまった。
町民は、この酔っぱらいをカナリアがわりに使うことにした。
避難して誰もいない商店街に放置し、細菌が完全に駆除されたかどうかテストしたのだ。
食堂に睡眠薬入りの食事を用意し、眠らせて、また神社に戻しておいた。
うーむ。なるほど。
その他、すべての謎やその解決が、戦争と結びついていたり、日常生活と結びついており、謎のための謎がないのが、とても気持いい。
意外な真相がいくつも出て来るが、それらが自然で、微笑ましくもあるのだ。
前述の神隠しの話しには、自分の言ってることをまともに受け取ってもらえなかった酔っぱらいが、その後、酔っぱらいでなくなる、という前向きな続きがある。町民は、彼を実験台にしたことを恥じて、真相を明かせなかったのだ。
ラストで、突然いなくなった猫柳さんが、「なぜ突然いなくなったのか」まで自然にかつほほえましく解明される。
平凡な作家なら、風のようにあらわれ、夏の思い出を残して、風のように去って行く、とかいうありきたりな話にしたり、君はもう僕の手助けがいらなくなった、とかいう別れの展開にしがちだ。
はやみねかおるは、そんなありきたりなことはしない。
猫柳さんが突然消えた理由とは。
好きな女性ができて、その人のところに転がり込んでいたのだ!
なんてハッピーエンド!

聖なる怪物

2006年1月25日 読書
ドナルド・E・ウェストレイクの『聖なる怪物』を読んだ。
例によって、ネタバレしてるので、要注意。
老優が語る半生記。インタビュアーを前にして、老優は「もやもやドリンク」を飲みながら酩酊(ラリッてる?)状態で語る。
駆け出しの頃、老女優に目をかけてもらい、芽が出る。
ゲイの演出家に身を捧げる。
友人に愛する女を寝盗られる。
宗教に帰依したと思ったら、その神父がくわせものだった。
これら、俳優がたどる陳腐な波乱万丈は、老優本人にもそれと意識されている。
「おれの経歴はがらくただ。おれがそのことを知らないとでも思ってるのかい?通俗的な安っぽい歴史とか、何百本ものもったいぶった映画とか、何度も何度も登場する同じ要素とか。宗教的幕間とか、失敗に終わった両親の和解とか、過去の恐ろしい秘密とか、配役担当者のソファとか、裏切りとか、けばけばしいロケーションとか、魅惑的で病的な結婚生活とか、気分向上薬の問題とか、もろもろのことはがらくただ」
まさにハリウッド・スキャンダル。三面記事。ありふれた、いかにもなキャリア。
こつこつと努力で築き上げる人生とは縁遠い、狂騒的人生が語られる。
痛快な与太話だと思って読んでいたら、中盤で、インタビュアーがこんなことを思う。
「これが取材インタビューであると、この俳優はいつまで信じ続けるんだろう?」
おやっ?これはひょっとして?
そう。そのとおり。
最後に、これが取り調べだということが明かされる。
彼はかつて死人を車に乗せて海に落として葬ったことがある。
その経験を生かして、またもや出た死人を同じように車に乗せて、突き落とそうとしていたのだ。
ところが、老優はもうラリっていて、外になんか出れないし、何が何だかわかっていない。
車ごと海に落としたつもりが、そこは海ではなく、自宅のプールだったのだ。
ぼけとんのか!
ぼけてんねん!
これはミステリーとして読めば、おそらく百人中百人が、最後の真相を先に思い付くだろう。
でも、ネタが割れたからと言って、面白さがちっとも減らないのが、ウェストレイクのいいところだ。むしろ、そんなどんでん返しとかいらないから、この老優にもっと語らせろ、と思った。
「聖なる怪物」という言葉は、作中、老優を評する次のようなセンテンスで出て来る。
「いろいろな面であなたは怪物、飽くことのない乳児期の表われよ。それと同時に、神聖な愚者、聖なる怪物、現実のきびしさに影響されない純真な人なの」
最後の「純真」は抜きにして、これは自分のことを言われてるんじゃないか、とドキッとした。
最近の僕の興味は「思春期の現実化」なのだが、僕は「乳児期の表われ」なのだ。
愚者かもしれないが、怪物と呼ばれるにはおこがましい気がするが。
なお、老優の名前は「ジャック・パイン」というのだが、これはジャック・レモンのもじりなんだろうか。レモンよりパインの方が甘かった、とか。

グルーヴ17

2006年1月24日 読書
戸梶圭太の『グルーヴ17』を読んだ。
安くて格好悪い学園青春地獄。
高校生頃の思春期に特有の泥沼のようなどうどうめぐりが描かれている。
小見出しを少し抜粋してみると
「ヤリまくったら死んでもいい」
「こうまでヤな女だと、抜けねえ」
「ムカつくけど、こいつしかいねえんなら」
「ああ、なんでこんなにムカムカすんだろ」
「バレちまったもんはしょうがねえか」
とか、もう焦燥感たっぷり。
思春期は性と死に極端に振り子が左右する。エロスとタナトス、なんてカタカナ使うのももったいない、底の浅いアップアップ状態が続くのだ。
「マジ死のうかな。どうせ卒業してもやることねえし、やりてえこともねえし。取り得もねえし。どうせ皆からバカにされて生きるだけだ。俺なんかいてもいなくてもいい人間なんだ。俺が死んだって、世の中は何一つ変わらねえ。楽に死にてえなあ」
なんて、寝る前に考えたりする。
これがさらにうだうだ続くのだ。
主人公の1人は宅録でテクノ作って悦に入っている。思いがけず、クラブでプレイできると決まったとたんに舞い上がって、もう心はモテモテ状態。
「終わったら一緒に帰れっかな。手ぇ繋げたりして。いやいやキスまでしたりして。マジかよ!俺たち付き合っちゃうのかな。希ちゃん、あのギタリストとあっさり別れて俺と付き合うかも。そうなったらすげえ!希ちゃんと俺で互いに初めてのセックスを!」
そうかと思えば、別の高校生はこんな風になっている。
「ヤリてえ!
今日はヌイてもまだ頭がギラギラしている。あんまりヤリたくて髪の毛の根元がチリチリする。
くそ。マジで女さらおうかな」
「ああ畜生!マンコのことしか考えられねえ、別に他のこと考える必要もねえんだけど」
これらは、まさに、自分の高校時代の日記を見るようで、笑い事ではないのだ。
悶々とした思春期は脳内でへとへとになるまで足掻きつづける。
この作品では、町のチンピラが外部要素として侵入してきて、思春期の悶々が引き返せない現実としてあらわれてしまう。
そのあたりは、先日読んだ『さくらの唄』と同様のテーマになっている。
思春期は妄想の地獄なのだ。
現代は、その地獄が現実に簡単に侵入してくるのが、諸問題の根源なんじゃないか。
「思春期の現実化」こそ、今を考えるのに最も有効なテーマなのだ。
クラブビジョンでおかめふくライブ。
ショックなことがあった。
チケットの裏面にクラブビジョンの地図が印刷してあるのだが、文字が小さくて、読めない!目印のいくつかはちゃんと読めたが、1ケ所だけ読めないのがあった。
「これ、これさえ読めれば、楽に行けるのに。迷わずいけよ、ありがとー!」なんて思った。視力の低下が著しい。サンテ40が必要な世代、目がかすんでいるのだ。このままだと、ボルヘスと化して、イタコと化して、スティービー・ワンダーと化してしまう!
途方にくれながらも、なんとか無事に到着、前から飲みたかったSKYY BLUEを飲む。うまい!青!青!青!
ステージ、高い!
今日はテレビ番組MTMの取材も入っていた。MTMは「メタモ」の略ではない。
おかめふく、今夜のファッションは露出度高めのアイドル衣装!
曲は「三日月ラプソディー」からはじまる8曲(だったと思う)
途中で、おかめふくミニプロフィールつきのグッズ(キャンディーとか食玩とか)が、餅まきのように客席に飛来する!
僕がキャット空中三回転でダイビングキャッチしたのはバカボンパパだった。
僕の中ではサザエボンとアフロ犬が今、ブームになりかけているので、まさにタイムリー。
しめが「恋はア・ラ・モード」
路上では衣装にしろ、音響、照明など制限があるが、ライブハウスだと、そのへんしっかりしているし、途中で止められる心配もない。
のびのびとライブしているのがよく伝わってきた。
僕もそろそろおかめふくのライブ、ライブハウスバージョンでは、好き勝手に踊ってもよさそうな気がしてきた。路上とかだと、邪魔になるかと思って、おとなしくしてたのだ。
カウンターのところで、ラプサンスーチョンツの2人にも会った。
田中くんとコンティニューで珈琲飲みながらオシャレ魔女ラブ&ベリーの魅力を伝授した。
おかめふくがラブ&ベリーのイメージキャラクターにでもなれば、いいなあ。
一色まことの『ハッスル』全6巻を読んだ。
祇園の舞妓、りん太(リンダ)が女子プロレスラーになる物語。
カムバックした憧れの女子プロレスラーの新団体のオーディションを受け、旗揚げ試合に挑む。
ガイアジャパンに取材してるのが丸わかりで、どう見ても長与千種のレスラーが出てくるし、幼な馴染みのライバルはダイナマイト関西(?)、敵は井上貴子(?)
一色まことはどこにでもいる普通のぶさいくな女子を描かせたら超一流で、この漫画はわりとましな方だと思うけど、主人公のリンダは可愛いが、一緒に頑張るメンバーが、すごいことになっている。それはもう、思想を感じるほどだ。
リンダが前向きで頑張るところ、そしてそれをやり遂げてしまうところなど、読んでいて励まされること大。
練習の後、へとへとになってから、気持良く入浴するシーンに影響されて、この漫画読んでるあいだ、何度ツレ風呂したかしれない。
思い出しただけで、また入浴したくなってきた。

今日はエクチュアというチョコレート専門店で窓からの日ざし浴びながらホットチョコレート飲んだり、日本橋の純喫茶「バロック」でスタイリスティックス聞きながらホットケ−キ食べたり、ほっこりした1日だった。
帰宅してからも「現代の音楽」で林光聞いたり、「ハッスル」読んだりして、まさに入浴日和。

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