芦辺拓のネオ少年探偵シリーズ『妖奇城の秘密』を読んだ。
覚え書きでトリックをばらしているので、読んでない人は要注意。
3人の少年探偵が遭遇する今回の事件は、古えの外国の伝説を再現するかのような様相を呈する。
城内で囚われの姫を救うべく部屋に入ると、悪魔が出て来て、姫をさらう。
気絶から目覚めた騎士が見たのは、廃墟となった城だった。
そんな伝説。
雨宿りで入った城で同様のケースに出会う少年たち。
美少女を抱いた悪魔が逃げたと思われる窓は、断崖絶壁に面していた。
え〜っ?どこに消えたの?
後でその城に行ってみたら、そこは廃墟。伝説の再現だ〜!
さらに、暗号解読。
これはこれは盛り沢山なミステリーだこと!
暗号は、「あいうえお」の母音を「あえいおう」に置き換えて、解読する。
アルファベットでの母音の順は「AEIOU」なのだ。
ふむふむ。
城が一日にして廃墟になったのは、全然別の建物だったから。
中に入ってしまうと、そこが城の中なのかどうか、わからなくなるのだ。
そして、窓から消えた悪魔の謎は、建物自体が回転し、悪魔が逃げたときは外は断崖ではなかったのだ。
同様の建物回転(別の建物)での墜落事件もこれで解決。
2つの建物は、回転展望台と、地球儀を模した広告用建造物で、回転するだけの必然性もあった。
なるほど!
おおがかりなトリックだ!
建物がゆっくり回転するなんて、甲賀三郎か森博嗣みたいだけど、このような少年少女向けミステリーでこそ映えるんじゃないか、と思う。森作品では伝説的数学者が「この謎は解けるかな?」と挑戦しているトリックを、この作品では小学生が解いてしまう。
しかも、その大トリックだけでなく、多くの謎や興味やトリックを早い展開で見せてくれているのが、いい。この建物回転のトリックでも、これだけを最後に明かされる謎として引っ張られたのでは、温厚な僕でも怒るだろう。
この作品では、建物トリックが明らかになったあと、囚われの美少女が逃げ出すトリック、意外な真犯人、美少女を拉致監禁した動機など、見せ場が連発するのだ。
それぞれ、「替え玉にすりかわった、と思わせるような演技をする」「先生」「先生もかつてはアイドルをめざしており、詐欺にあって挫折した。最初は無垢な少女をインチキプロモーターなどの魔の手から守るつもりだったが、少女への嫉妬がわいてきた」
それぞれに意外性がある。
これらの見せ場の直前には、森江探偵の助手、新島ともかが少女に変装してのアクションシーンがあり、サービス満点だ。
この作品は小学生向けの雑誌に連載されていたが、こんな面白いミステリーを読めるなんて、今の小学生はいいなあ。
自分の小中学生の頃は、本屋の児童書売り場に、読みたいミステリーがなくなって、しかたなく、大人向けの小説を読んだりしていたのだ。

拳銃天使

2006年2月28日 読書
都筑道夫の少年小説コレクション第6巻『拳銃天使』を読んだ。
冒険活劇、ウエスタン、学園推理ものが並ぶ。
どれもこれも昭和30年代の作品。小道具などで時代を感じるシーンはあるが、学校を舞台にした小説は、あまり違和感を覚えない。学校が時代とは隔絶された特殊な場所だということを証しているかのようだ。
都筑道夫らしさは、少年小説でも車や拳銃について手抜きなしで詳しく書いているところに表れている。
『拳銃天使』では、ただ単に「銃」とでも書けばいいところを、場面に応じて「コルト45口径」「大型の六連発、スミス・アンド・ウェッスン」「モーゼルの自動式」「新式のブローニング」を使いわけている。
読んでいて溜息が出た文章も数知れず。たとえば。
「半地下室のガレージから、自動車が二台すべりだした。一台は、ルパシカの女が運転するアリスタ・パッシー。うしろの窓に、ミスター・ビッグの大きな背中が見える。もう一台は、マサイ族みたいな運転手の五八年型ダッジだ」(拳銃天使)
このスタイリッシュな文章はいったいどうしたことだ!かっこいい!
以下、各作品の覚え書き。
ネタバレ自由なので、要注意。
「拳銃天使」
拳銃天使の敵は拳銃王、ミスタ−・ビッグ、スーパータイガー。

「拳銃仮面」
敵は額に第3の目をはめこんで催眠術をかける。
登場人物に小沢刑事と昭一くんが出て来るが、これは小沢昭一をバラした?

「透明人間がやって来た」
自分で自分に手紙を出していた寂しい人。
事故で死んだが、架空の差出人が疑われる。

「六年すいり組 第1話:かげは消えていく」
ずーっと見張っていた人物は、いつ犯人と接触できたのか。
その人物が外出中(見張りはそれについていく)に、犯人が家にやってきて、帰りを待っていたのだ。2人が接触したのは、自宅なのであった。

「六年すいり組 第2話:砂の上の足あと」
砂浜の真中で消えた足跡。
地引網のあとだと思ってたのは、サーカスの玉乗りだった。途中で玉乗りのピエロがついてきた子供を抱き上げて、足跡が途切れたのだ。

「六年すいり組 第3話:大助君のゆううつ」
かくしておいたお金がなくなった!
セロテープで机の裏にはりつけておいたのだ。

「青ざめた道化師」
ラストで仲間を裏切る悪者。その正体は麻薬中毒で別れた父親だった。

「どろんこタイムズ 第1話:人魚の涙」
マネキンバラバラ事件。
胴体に埋めた宝石を後で取り出そうとしていたのだ。

「どろんこタイムズ 第2話:トラックを追っかけろ」
新聞の切り抜き、絵と巣と王選手とスポ−ツ欄の上。あわせて、エスオーエス。

「どろんこタイムズ 第3話:手配写真」
手配写真は、どこかで見た顔。夜に聞こえる不思議な足音。
手配されていたのは、アパートの管理人の息子(だから顔が似ていて、どこかで見た顔だと思った)。管理人室の狭い場所に隠れており、夜に体をほぐして足ならししていた(変な足音)

「どろんこタイムズ 第4話:顔のない男」
引っ越してきた人はまったく外出せず、声もしない。
すべては賭けだった。

「どろんこタイムズ 第5話:ものいう狐」
稲荷の狐が不穏な発言。
何かあれば必ず駆け付ける男を外出させるのが目的。
狐の怪異現象は、お茶にLSDをまぜてあった!

「どろんこタイムズ 第6話:幼児語のナゾ」
ワンコナカナイモンネエ(鳴かない犬=狛犬)
神社の近くの家の子だった。

「黒いおじさん」
宝石店の模造品を、持参した模造品とすりかえる黒衣のおじさん。
この宝石店では直前に強盗事件があったが、それが狂言で、宝石は模造品の棚にあると見抜いていたのだ。

「空港に乱舞するハト」
密輸の鞄とそっくりな鞄を多数用意して、中にハトを仕込み、空港は大騒ぎ。
駆け付けた警官によって密輸がばれる。

「コールサインX 第1話:迎えに来た男」
親が倒れたと言って迎えに来たのは誘拐犯だった。

「コールサインX 第2話:双眼鏡さわぎ」
双眼鏡で見たのは犯罪なのか。誤配の手紙にメッセージを書いて、家の人とやりとりする。

「コールサインX 第3話:放火予告」
放火予告の放送は、放火魔をおびきだすための罠だった。

「コールサインX 第4話:悲しいウソ」
金を交番に届ける前に、トイレに行こうとしていた、というのは嘘の証言なのか。
トイレに着く前に立ち小便ですませたのをつい隠したために誤解が生じる。

「コールサインX 第5話:幽霊犯人」
ドアが開いていたのは、ミスディレクション。本当は別の部屋にいた。(このトリックは本書で何回も使われている)

「コールサインX 第6話:そんな生徒はいない」
いない生徒への放送は、共犯へのメッセージだった。

「コールサインX 第7話:物は語る」
落ちていたキャラメル、指人形、文庫本から犯罪の可能性を推理する。

「コールサインX 第8話:透明人間」
部屋から消えた男。窓から見ると、外にいる。実は、外にいたのは別人で、室内で隠れていた。(これも本書で何回も使われている)

「コールサインX 第9話:爆弾魔」
時限爆弾の予告は、爆弾を仕掛けるために行われた。
犯人は記者のふりをしていたのだ。

「コールサインX 第10話:魔法のトランプ」
論理パズル。絵札をそれぞれ何を持っているか、3人にそれぞれ3つの質問をして当てる。ただし、3つの質問中、2回は嘘をつくルールがある。
『おまえはキングをもっているね』『はい』
『ほんとにキングをもっているの』『はい』この2つの質問で、この人はキングを持っていないことがわかる(キングを持っているなら、どちらかが『いいえ』になるはず)等々。

「コールサインX 第11話:暗号放送」
放送中の『あー』や『えー』は段落をつけるための暗号だった。

「コールサインX 第12話:テレパシー」
マイクとイヤホンでテレパシーを演出。

「黄色いガンベルト」
テキサスがまだ共和国だった頃。
スー族の襲撃で全滅した幌馬車隊の隊長の息子が、サム・コールトを仇として追う。
サム・コールトはリヴォルバー6連発銃の発明者。(コルト)
銃の暴発でスー族を撃退できなかったからだ。
サム・コールトを襲う息子。
彼を返り討ちにしたのは、スー族襲撃で死んだと思われていた、彼の弟だった!
兄をはからずも殺してしまった弟は、生まれ故郷に兄の遺髪を埋めにいく。
その町はならず者ブラッドフォード一味に狙われていた。
おりしも、1歳の赤ん坊がブラッドフォード一味にさらわれる。
赤ん坊の名前は、ビル・バトラー・ヒッチコック。後世の拳銃王、ワイルド・ビル・ヒコックその人であった!
う〜。この物語、雑誌がつぶれたのでここまでで中断しているが、本格的なウェスタンで、めちゃくちゃ面白い!
西部劇は映画はよく見るが、西部劇小説はあまり読んだことがない。
現代に書かれたSF西部劇が関の山だ。
ひょっとして、面白い小説の鉱脈を見つけてしまったのか?
ウェスタン小説をちょっと探して読んでいこうかなあ。
3月3日は僕の誕生日だが、この日の深夜、「安楽椅子探偵」のテレビ番組がある。ミステリーの問題編が放送され、真相を見抜いた者には賞金が与えられるのだ。
と、いうわけで、ふだんからミステリーばっかり読んでいる僕だが、脳みそを本格推理モードに設定するために、本格推理色の強い作品を読むことにした。
そんなわけで、ポール・アルテの『カーテンの陰の死』を読んだ。
ツイスト博士の不可能犯罪シリーズ。
当然、ネタバレしてるので、注意。面白かったので、こんな日記読むより、ぜひこの本を読んでください。
死体は頭皮を剥がれていた!
容疑者は一癖も二癖もある人物ばかり。
盲目の理髪師は、かつて視力の低下が原因で客の頭皮を傷つけてしまったことがある。
偏屈な作家は、かつて隣人が寝ている間に、彼女の髪を切り刻んだことがある。
ピアニストは、怒りのあまり帽子を投げ付けるように鬘を取ってハゲがばれたことがある。
頭皮にまつわるこれらエピソードは頭皮剥ぎとどう関連しているのだろう。
そして、とびっきりの不可能殺人が起こる。
被害者は建物の中に入っていった。
建物の中にいた複数の人間は、玄関のカーテンをあけて被害者が倒れるのを目撃する。
背中にはナイフが突き立っている。
ところが、建物の外は、今まさに雪がやんだところで、被害者以外の足跡はない。
足取りの確かさなどから、ナイフが刺さった状態で被害者が歩いていた可能性は否定される。
玄関の扉はしまっていたし、唯一犯人が隠れることができるカーテンの陰にも、誰もいない。機械的な仕掛けもないのだ。
事件を調べるうちに、同じような不可能犯罪が過去にも起こっていたことが明らかになる。
同じように、外から帰ってきた人物が玄関入って、カーテンをあけたところで、背中にナイフを刺されて殺されていた。建物内の廊下には複数の人物がおり、建物の外にも複数の人物がいた。内と外を隔てるカーテンの陰には誰もいない。
なんと、この昔の事件よりももっと前に、不可能事件が起こっていたことがわかる。
悲鳴を聞いて駆け付けてみたら、中で被害者が刺し殺されている。でも、被害者以外、誰もいないのだ。
ああ、不可能犯罪は数十年の月日をかけて何度も繰り返されている!
犯人は単独犯で、機械的な仕掛けはされていない。
この殺人のトリックそのものは、非常に簡単なもので、あっさりと明かされる。
要するに、建物の中にいた犯人が、一緒にいる人の注意を他に向け、その瞬間にナイフを投げたのだ。
被害者は玄関の扉をしめるため、犯人には背中を向ける位置に立っていたため、背中にナイフが突き刺さったのである。
これは、あさっての方角を指さして「あっ!」と言って、相手がそっち見ているあいだにポカリと殴ったりするレベルのトリックだ。
『カーテンの陰の死』というタイトルは、カーテンの向こう側、つまり建物の中に犯人がいたことをあらわしていたのだ。
ポール・アルテは、このトリック解明をもって「めでたし、めでたし」では終わらない。
さらにもう一段階の謎解きをする。
頭皮剥ぎは、犯人が頭皮のエピソードを持つ特定の人物を罠にかけるために、行ったものだった。
犯人の罠で容疑をかけられた男は、今回の殺人の容疑は晴れるが、かつて自分の母と姉を殺して、壁に塗り込めていたという真相があばかれるのだ。
その男は、そのあと、隣人の髪の毛を切ってスキャンダルを演出し、親子で夜逃げしても不思議ではない状況を作りだしたのだ。
最後にその真相解明のときに、ツイスト博士が使ったのは、ポーの『黒猫』。
盲目の理髪師(カー)とか黒猫(ポー)などのミステリー好きが敏感に反応するお膳立てとか、猟奇犯罪、不可能犯罪にあっさりした真相。
ミステリーというと、人間の深奥や社会の問題などをあわせて考察しなくてはならない、という不思議な価値基準がある。
単なる謎解き、娯楽作品では、文学に劣る、とでもいうような強迫観念に囚われているのか。
昔、高村薫がミステリー作家を劣ったものとして、自分がそう見られるのを嫌がったことがある。では、文学として見たとして、高村薫が読むに足る作品を書いているかというと、僕は疑問だ。娯楽作品としては、読むべきものを書いていると認めるのだが。
また、『誰のための綾織』の敗因もそんな強迫観念にあったと言えよう。
ポール・アルテは堂々とミステリーを書いて、面白い小説を完成させ、読者を楽しませてくれる。
そのいさぎよさが、清清しい。
制服向上委員会、最後のカウントダウン100を見に行ってきた。「skiが好きで好きで大好きコンサート」
制服向上委員会は今年の9月で卒業、年内はファンクラブイベントがあるが、一般にはもう見ることができないのだ。
制服向上委員会にはカバー曲も含めて約900曲のレパートリーがあり、その中からのベスト100が毎年発表される。
半年ほど見に行っていないあいだに、メンバーにも変動があった。
今回のステージをつとめたのは、レッスン生2人、OG2人を含む11人。
メンバー:松尾真冬(リーダー)、橋本美香、星川りりか、片平妃奈子、加藤祐奈、佐藤帆奈美、中野梓。(佐藤帆奈美は僕のブランク中に加入した子で、初めてステージを見る。梓は高校受験のため、最近は出ていなかったようだ)
レッスン生:矢野けいこ、小池紀香(小池は今回初ステ−ジ)
OG:寄合歩、遠藤舞香(寄合は就職先が決まったそうな)
今ステージは「アンコールもオマケもありません」と途中でアナウンスがあった。メンバーのうち、帆奈美は新人だし、祐奈は小学生のちびっこだし、梓は覚えが悪いのかあまり出番ないし、実質4人でステージを支えなければならないのだ。いつもの脳がしびれるような長時間ライブは期待できないのかもしれない、と思った。
まず、開演前の場内にプレスリーの曲が流れる。諸注意と曲解説のアナウンスは星川りりか。既に涙声だ。
以下、曲目。途中で順位発表と投票者のコメント、メンバーによるベスト10予想、今回のベスト10の傾向などが随所にはさまれる。
括弧内はメインボーカル。
1.プロローグ
2.Dancing with Devil(まいまい)
3.一人ふたり
4.LOVE×2(まいまい)
5.笑顔がスキッ!(美香)
6.罰せられた放蕩者(ミュージカル「ドンジョヴァンニ」のエンディング、PANTA作曲)
7.鼻くそMANが行く(美香)
8.KATAKA:ナ唄(KATAKA:ナ。ひなっち、祐奈)
9.キャンパスのある街(J・A-TRIP。りりか、紀香)
10.ウェディング・ベル(寄合)
11.Big Sky(美香、真冬。ルー・リードの曲に中川五郎が日本語詞をつけた)
12.もっともっと(美香、真冬)
13.歯が痛いっ!(寿隊。ひなっち、帆奈美)
14.怠惰(寿隊。まいまい)
15.見た目は男 かすかに女(寿隊。りりか)
16.出逢い(美香)
17.夜空の探検(リーカとWAWAWA。りりか)
18.春風に乗って(4人1組)
19.去り行く時へ(4人1組。ひなっち、美香)
20.戦慄の愛(美香)
21.小さい私(真冬)
22.パリの恋人(まいまい)
23.My Generation(まいまい)
24.その日が来るまで(なんと、新曲!)
25.若き知恵を讃えた天使たちの歌(静寂向上委員会。真冬)
26.さよならは出逢いの明日へのしるし(静寂向上委員会。真冬)
27.生誕祭の歌(美香)
28.時代はサーカスの象にのって(美香)
29.傷だらけの青春(りりか)
30.黒い瞳(真冬)
31.明日に向かって(真冬)
32.巡り逢い(真冬)
33.さよならへの旅立ち(真冬)
34.恋に無重力(りりか)
35.ひとりぼっち(りりか)
36.お墓参り(美香)
37.キャッチ&スマイル(ひなっち)
38.Cutie cat(Hellow。りりか)
39.恋は不思議(Hellow。美香)
40.歌って歌って!踊って踊って!(会場のみなさんも、まで回ってきました!)
41.同級生
42.LOVE IS WARM(帆奈美からまいまいへ)
43.Sky(美香)
44.魔法が使えたら(ひなっち)
45.清く正しく美しく(美香)
46.地球に愛を(美香)
47.Volunteer Spirit(真冬)
48.Skiのテーマ
49.天使の翼(真冬)
50.エピローグ(真冬)
以上、全50曲。
最後のベスト5は、
1位:天使の翼
2位:Skiのテーマ
3位:Volunteer Spirit
4位:地球に愛を
5位:清く正しく美しく
の順だった。
開演からぴったり5時間後に終演。
40曲めあたりから、りりかも美香ちゃんも泣きだしたが、僕は「生誕祭の歌」で抑え切れなかった。「はじめて歌声が響いた秋の…」の歌詞に、この秋で終わってしまう制服向上委員会への哀惜の念がこみあげてきたのだ。9月の生誕祭のコンサートでは、この歌が最初に歌われるはずで、そのときには号泣するかもしれない。
このコンサート見て感心したのは、ちびっこの祐奈、新人の帆奈美が出番も多く、戦力として他のメンバーと遜色なかったことだ。OGの2人もゲストの域を越えた活躍だった。今回初ステージの紀香が緊張もしており、あまり出番がなかったのはしかたないとしても、梓の役立たずぶりは目に余るものがあった。受験のせいにしているが、同じ受験生の帆奈美があれだけ活躍しているのだから、言い訳にならない。(帆奈美は受験合格したそうだ。梓は?)おまけに、そのデクノボーの梓が、以前にも増してえらそうな態度で新人や客に接していた。でも、梓は何故か人気があるのだ。僕には理解しがたい世界である。
なお、今回のコンサートを見て、祐奈、帆奈美と、レッスン生の矢野けいこのファンになった。見るまでは別にだれが好き、というわけでもなかったのに、一気に3人ものファンになってしまったのだ。ホームページの写真を見るかぎり、別にだれが可愛いというわけでもないので、油断していたのだが、ステージを見ると、魅力は爆発していた。
アイドルというのは、実際に見てみないとわからないものだ。
強行軍で、そのまま帰阪。
水木しげるの『トペトロとの50年』を読んだ。
水木しげるは戦争中にラバウルでトペトロという少年と出会う。
この本は、復員後に入学した武蔵野美術学校時代のスケッチや、ラバウル再訪でトペトロと再会してからの現地での写真などをふんだんに盛り込んだ、一種のアルバムになっている。
戦争が起ころうが世の中がどう変わろうが、水木しげるの生き方の飄々たる部分は保たれる。
子供時代は「毎日遊びの日々だった。そういう生活が一生続くだろうと思っていた」と語り、戦争中、爆弾で片腕をなくし、ラバウルの村に入ってからも「人よりも一秒でもよけい寝ていたいという努力の現れで、昼間もあまり作業をやらず、現地人(トライ族)の家に入りびたっていた」なんてぬけぬけと書いている。
日本に戻ってからも南方に行きたい思いは募り、たびたびトペトロの村に赴くことになる。
南方の土人ののんびりした暮らしに、神秘的な体験。
「防空壕にはお化けが繁殖して困る」と漏らすトペトロ。
ドクドク(カミ)の踊りでトランス状態に入る土人。
食べ物を受け付けなくなる呪いを受けて死んだトペトロの妹。
自給自足で自由な時間のある土人の生活は、ある者にとっては不満だらけの生活でもありうる。(貧乏、不便、粗食等々)
僕などはもはや都会を離れて生活することなんて考えられない。24時間眠らない町でないとつまらなく感じてしまう。逆に言えば、だからこそ、リセットするにはこういう南方の生活はとびきりの良薬になるはずなのだ。
また、この本を読むと、生きて死ぬことを自然なものとして受け止めることができる。
トペトロは水木しげるとの50年の交友のあと、急死してしまう。
親しかった土人の1人は気が狂ってしまい、水木しげるを認識することができない。
さらには、噴火によって、ラバウルの村もトライ族も壊滅してしまう。
でも、水木しげるはこう思うのだ。
「トペトロとの五十年は奇妙な楽しみに満ちた五十年だった」
「すべてが消えてしまったところへ、もう一度行ってみようと思っている」
ノスタルジーは猛毒だ。
昔のことを思い出すと、気が狂いそうになる。
ところが水木しげるが記録した50年は、僕の人生よりも長いのだ。
こうした毒や狂気を受けいれることができる水木しげるは、妖怪そのものなんだな、とあらためて感じさせられた。
ティモシー・リアリーの『死をデザインする』を読んだ。
サイケデリック・カルチャーの導師、ティモシー・リアリーが癌の宣告を受けた!ティモシー・リアリーは死に至るまで、さらには死(ティモシー・リアリーの言葉では「非活性化」)をパフォーマンスとして演出しようとする。とにかく、病院で延命措置を受けたり、医師のいいなりになるのは避け、家で毎日のようにパーティー開いて、陽気に好き放題。亜酸化窒素のボンベでバルーンを作り、それを吸い込み、リアリー・ビスケットを食べる(マリファナ入りチーズを溶かしてリッツにトッピング)。自殺の模様をネット中継しようとか、冷凍睡眠しようとか、宇宙に遺灰を打ち上げて地球のまわりを周回させようとかアイディアは続々と出る。
本書は「私自身は死ぬのがずっと楽しみだった」と言ってのけるティモシー・リアリーの生と死の理論を三部構成にしてあり、補遺として一連の死のパフォーマンスを友人たちはどう受け止めたかをまとめたものだ。

第1部「生きること」
常に新奇なものに目配りを忘れないティモシー・リアリーの集大成とも言える理論が展開される。
たとえば、進化の8つの回路
1、バイオサバイバル(アメーバから魚、両生類。個人では幼児)
2、感情(小動物、ライオン、クマ、サルなど。個人では三才児、弁護士、政治家)
3、咽喉音的/操り上手(石器時代の人間。個人では小学生)
4、性的馴致(一神教、家族、全体主義。個人ではティーンエイジャーから高齢者まで)
以上4回路が原初的地上回路。以下4回路はポスト群居型ポストモダン的ポスト地上的サイバーカルチャー回路。
5、神経体的(ヒッピー、ビートニク、ヒーラー、ロックバンド。個人では好色家、音楽演奏、絵画製作、ヨーガ、ひどい場合はニュ−エイジ系のアホ)
6、電子神経的(アインシュタイン的相対性、量子電子メディア、スペースコロニー。個人ではLSD覚醒、ハッカー、メディアアーティスト、超能力者)
7、神経遺伝的(ヒトゲノム・プロジェクト、遺伝子工学、銀河市民。個人ではDNAコードにチューンイン、進化アーティスト、種のクリエイター)
8、神経原子的(ナノテクノロジー、核融合、時間旅行、あらゆる存在との完全な融合=死。個人ではポストバイオ生命、私たちは私たちの理解を超えている!)
さーあ、もうさっぱりわからない。なにせ「理解を超えている」なんて書いてある。
あと、自我とは視点のことだ、なんていう理屈は納得できた。

第2部「死ぬこと」
タブーとしての「死」に踏み込む。
「死は究極のトリップだ」なんて言ってる。

第3部「デザインされた死」
自らを情報化することで不死を手にいれる。
人体冷凍、脳バンク。
ナノテクノロジーで死者は甦る。
サイボーグからポスト生物学へ。
老朽化した肉体はアップロードで新しい器に。
意識はバックアップ・コピーをとっておく。
脳をチップ化する。

補遺「友人たちの記憶によるティモシー・リアリーの死のパフォーマンス」
数々のエピソードが語られる。
興味津々で狂躁的なティモシ−・リアリーも、友人たちが帰って1人になったときには死への恐怖や病気に苦しんだ、という人間的な側面も語られる。
でも、「そうか、やはり死は恐怖なのか」という結論はつまらない。
ここは友人たちの前で「ティモシー・リアリー」を演じ切った彼に拍手を送りたい。
以下、ティモシー・リアリーらしさが伝わる発言を並べてみよう。
デヴィッド・バーン「友人たちとメディアが観客だった。彼はいつも『オン』だった」
ディーン・チェンバレン「ティムは直列で作動する二つの脳を持って生まれたのだ。一つは自分の、もう一つは私たちのための」
トム・デイヴィス「ティムは悲劇を知らないわけではない。にもかかわらず、彼は私たちが知るなかで最も慢性的にハッピーな人の一人だ」
バーバラ・フーチ「彼は自分の病を『マドモアゼル・ガン』と呼んでいました。そして彼女が彼と遊んだように、彼もまたこのマドモアゼルと遊んだのです」
ニーナ・グラボイ「彼の死のショーは地上最強のショーだった」
カメーラ・グレース「ティムは今を生きる名人であり、感覚のオーケストラを指揮して恐怖やエゴや小さなことへの執着を消し、動き出す以外に道はないようにした」
ラルフ・メッツナー「ネイティブ・アメリカンの伝統にはトリックスターのコヨーテなるものが存在するが、ティモシーはそれに相当するストーリー・テラーであり、師であった。そして笑う哲学者たるコヨーテと同じように、彼はしばしば自分の仕掛けたイタズラに自分で引っかかった」

ティモシー・リアリーは1996年に死んだ。
10年前に彼が描いたビジョンは(本人はもう実現しているはず、と予測していたが)まだまだ未来のビジョンとして、僕たちは共有できる。
ティモシー・リアリーはまだ生きているのだ。
森達也の『こころをさなき世界のために〜親鸞から学ぶ<地球幼年期>のメソッド』を読んだ。
森達也は「A」「A2」などオウムの視点からのドキュメンタリー映画を撮ったり、「放送禁止歌」など、自主規制で勝手にタブー視している分野に乗り込んでいる監督。
第1章 ポストオウムをどう生きるか
第2章 表現とメディアの問題
第3章 レファレンスとしての親鸞
終章 森達也 そのセルフイメージ

森監督はオウムの映画を撮ったことで、オウム信者だと決めつけられ、バッシングされ、仕事を干された。当時はオウム絶対悪の立場をとらない者は非国民扱いされたのだ。
その森監督が親鸞の言葉をもとに自分の考えを展開するのは、いまだに「オウムのシンパ」だというレッテルをはって、発言を頭から否定してかかる輩が多いことを示しているのかもしれない。親鸞を引用することで、間接的にオウムからの発言でないことをあらわす効果があるからだ。
本書で森達也がまず述べるのは、一人称主語へのこだわりだ。
「私」などの主語が消えて、「我々」とか「社会」「国家」が主語になるとき、述語の暴走がはじまるのだ。
その傾向が顕著に見えるのは、被害者を主語にとる傾向。
被害者を聖域においた「許せない」に代表される述語の暴走がよく見られる。
森達也は、実弟を殺されながら、死刑廃絶を訴えた原田正治氏の著書『弟を殺した彼と、僕』からこんなエピソードをひいてみせる。
「当初は犯人の極刑を願いながら、やがてそんな復讐心の発露だけでは自分も彼も救われないと考えた原田さんは、街頭で死刑廃絶運動のチラシを撒きます。するとこれを手にした通行人が『遺族の気持を考えろ』と激昂するそうです。ところが彼がその遺族であることを知ると、通行人たちは決まり悪そうに去ってゆく」
森達也が繰り返し問題視するのは、この「非当事者の当事者化」なのだ。
北朝鮮の拉致家族への疑問も率直に述べている。
拉致家族は北朝鮮への経済制裁を主張するが、それはおかしいのではないか、というのだ。
周囲が全員北朝鮮への経済制裁(=北朝鮮国民の餓死)を強行しようとしても、拉致家族だけは「ちょっと待ってくれ、あの国には家族がいるんだ」と止める立場ではないのか、と言うのだ。
メディアはその時々で絶対悪を捏造して、吊るし上げにするが、そんなワイドショー的判断をホイホイ鵜呑みにする思考停止だけは避けたいものだ。
黒門市場の会議室で、テレビ番組のコメント収録。
う〜む、頭が働かない。
もっと面白くふるまうことが出来るはずだ、と思うが、僕は一素人として出演しているのだ。
タレントに求められる行動を基準に考える必要もあるまい、と思い直した。
放送は3月9日らしい。

土田世紀の『編集王』を読んだ。小学館のビッグコミックスワイドで全4巻。
漫画雑誌の編集の物語。
これ、かなり面白かった。
あしたのジョーに憧れてボクサーになったものの、網膜剥離で引退、雑誌社の編集部の仕事についた男が主人公。
売れることが第一の世界で壁にぶつかり挫折、変節していく理想。
そんな中で人はどう生きて行くか、なんて、かなりシビアな話が綴られている。
大御所になり惰性で作品を作る漫画家、女性だというだけで仕事を評価されない編集、低迷する文芸誌の編集、などなど、初期の志が金儲けや生活や、周囲のおだてなど、いろんな要素で失われてしまう話が多い。
そういう状況からの脱出は、現実的には、金儲けのレールからはずれる以外にない。
漫画家も編集も惰性で動く世界に、この主人公は率直なものの見方で切り込んでいく。
言わば、裸の王様を「裸だ」と看破する少年の役割を担うのだ。
良質な漫画を描くものは恵まれず、編集の言いなりに作家性を捨てるものだけが人気を集める。結局、漫画で人気が出るには「エロ」と「ケンカ」だ、なんて、ペシミスティックな展開に、この主人公はどう対峙していくのかが、見どころになっている。
『NANA』や『BECK』に見られる、メジャーな成功を喜ばしいものとする田舎ものの価値観は、この『編集王』で語られる「私は売れる作品よりも残る作品を書きたい」という思いには遥か遠く及ばない。
土田世紀のこの作品では、登場人物の多くが、実在の俳優などをモデルにして絵が描かれている。スターシステムなのか、と思わせるほどで、これが漫画の面白さに付加価値を与えているようだ。
西田敏行そっくりの漫画家が出てきたり、田村正和そっくりの編集が出て来たり。
でも、僕はなんだか違和感を覚えるのだ。どうにもこの描き方は、イメージを限定するようであまり好きになれない。
漫画はヴィジュアルの娯楽だから、イメージが絵に描かれたとおりに決定してしまうのは宿命である。
そんなことはわかっているのだが、たとえば小説がドラマ化されたとき、イメージどおりの配役でないことに違和感を覚えるように、漫画でもストーリーの内容と、それに配された役者のそっくりさんとのあいだにズレを感じることがある。
また、この『編集王』では、手塚治虫をモデルにしたと思われる「好塚」という大物漫画家が出て来る。(顔はモデルにされていなかったが、エピソードが手塚にそっくり)
この「好塚」は昔はいい漫画をいっぱい描いていたが、今や全然面白くない漫画しか描けず、アルコ−ル中毒でペンを持つのもたいへん、ほとんどがアシスタントまかせである。
僕は手塚治虫が好きだったのに「え〜、手塚って、アル中で、ほとんどアシスタントに描かせていたんだ!」なんて幻滅してしまった。
いや、アル中なのは「好塚」なんだとわかっていても、イメージがそうねじ曲げられる。
作者もあんまりだと思ったのか、最終話では好塚が駆け出しの頃のエピソードが挿入される。好塚のもとに、突然「漫画の神様」と呼ばれたこれぞ手塚治虫をモデルにした登場人物があらわれる。好塚は手塚じゃありませんよ、という作者のエクスキューズなのだ。
ストーリーが面白かっただけに、このモデルがあからさまな人物造型が惜しくてならない。
こういうのこそ、「エロ」や「ケンカ」に通じる、お手軽なその場かぎりの面白さじゃないか、と感じるのだ。

迷へる魂

2006年2月21日 読書
尾崎翠の『迷へる魂』を読んだ。
『定本尾崎翠全集上・下』刊行以降の新発見作品を集めてある。
*詩
「迷へる魂」
「光と蛾」
「こだちの中」
*短歌十一首
*長篇詩
「五時の汽笛」
「練馬の娘」
*散文
「冬のよ」
「夕陽」
「過去のうた」
「新緑の頃を」
「(無題)」
「海と小さい家と」
「山陰道の女」
*「歩行」楽譜(芥川也寸志作曲)
巻末に稲垣眞美の「おぼえがき」

おぼえがきでは、いかにして稲垣が「みどり」や「尾崎みどり」、「白兎子」名義で発表された作品を尾崎翠のものだと認定するにいたったかなどについて書かれている。
2つの長篇詩はこの本の白眉で、これを読めただけで、この一冊の価値はある、と感じた。
まず、「長篇哀詩」と銘打たれた「五時の汽笛(ふえ)」はどんくさい少女の愚痴が語られる。
他の人がおしゃべりしてる間も、手をとめずに働いているのに、仕上げが下手なので、工場の組長は「おまえは遊んでばかりいる」と小言を言う。
たまたま工場に届いた手紙を、当時のことゆえ字を知らない人が多く、少女が手紙を読んでやると、感謝どころか一緒に働く女性たちから「少しくらい字が読めたからって、えらそうにするな。学者になりたければ、こんなところに来ない方がいい」とやっかまれる。
指輪も着物も失い、父親は帰って来ない。家も手放した。
最初は愚痴を言い、父親への恨み言などを並べていた少女は、姉との対話によって、前向きに生きて行こうとあらためて思い直す。
出口なし、か!
次の「練馬の娘」は「少女哀詩」と冠されている。
これもまた、貧乏ゆえに学校にも通えず、きつい仕事に励む少女の話。
凶作で貧窮し、田畑を手放すことになり、母親は病に伏せる。
親は我が子に教育を与えて明るい将来を準備したかった、とすまなく思っている。
娘はけなげにもこう思っている。
「若しまた次の世があるならば
梅(少女)は悦んで又この家の
賤しい少女と生まれよう!!!」
どうにかしてやりたい!

尾崎翠の作品と同定された短歌では「女といふこの名のいとどかなしくも嬉しくもありけふのわが身に」など、いかにもな作品もあり、納得できるのだが、これはどうなのかな?と思ったのは、「白兎子」名義の「山陰道の女」だ。
このエッセイで、白兎子は、山陰の女と、京都の女と東京の女を比較している。
それぞれ知らない者どうしのこの3人が居合わせた場合、どういうことが起こるか。
きっと、3人ともに沈黙しているであろう。
ただし、その沈黙の意味が違う。
東京の女がだまっているのは、自分が他の二人よりも偉いと思っているからなのだ。気取った沈黙なのだ。
京都の女は、あとの二人と会話しようとするが、東京の女も山陰の女も会話にのってこないから、仕方なくだまっている。
山陰の女は、山陰の天地から受けた生来の遠慮で、しゃべらない。
白兎子はこうまとめる。
「東京は度し難い。京都は快い。山陰は懐かしい」
こういう記事は、面白いが、深みに欠けるきらいがある。
稲垣はこの作品を尾崎翠の作品だと判断した理由をえんえんと書いている。
確信にいたった推理が長く書かれれば書かれるほど、なんとか納得させようと頑張っているようで、「ああ、確信した、と書いてるけど、稲垣本人も疑いをもっているんだな」と思わせる。
ただ、先日読んだ「琉璃玉の耳輪」などから尾崎翠のもつエンタテイナーとしての一面を知った今では、こういうサービス満点の軽い記事も、尾崎翠なら書いただろうな、という気もしてくる。
誰が書いたものにせよ、面白いエッセイだったので、読んでよかったことには変わりない。
同じ文章を、「誰が書いたのか」によって面白さが違ってしまうのは、読み方として正しいとは言えないように思うし。

誰のための綾織

2006年2月20日 読書
飛鳥部勝則の『誰のための綾織』を読んだ。
ミステリなので、ネタバレ注意。
この本は三原順の漫画から多くの引用をしており、盗作だと騒がれて、絶版になっている。
三原順は漫画家。三原則と似てるけど、違うよ!
盗作については、後で考えよう。
この作品は、編集者である「僕」と小説家で教師でもある飛鳥部との会話ではじまっている。
飛鳥部の教え子(女子高校生)が小説を書いたという。
作品の大半はその小説『蛭女』になっている。
蛭女とあだなをつけられた女子高生がいじめにあったあげく自殺した。
蛭女の親兄弟たちは、いじめに関連があった女生徒と女教師を島に拉致する。
孤島で起こる殺人。
殺人のあった部屋の三方のふすまの向こうには、それぞれ人がおり、もう一方は壁で窓には内側から鍵がかけられていた。密室だ。
他にも人は殺されるが、ミステリとしてトリックが用いられているのは、この最初の女教師殺人。
まず推理される機械的トリック。
部屋の配置は上から見たら正方形の部屋が碁盤の目のように九つ並んでいる形。
ど真ん中の部屋は「私」ことモネの部屋、両側は空いている。
頭を左側の空室に向けて寝ており、足は右側の空室に向けていた。
横たわるモネから見て、左側が被害者の部屋。(右側は2つの部屋と、玄関)
被害者は窓に向けて寝ており、右側にも左側にも人が寝ていた。
被害者の部屋に入るには、誰かの部屋を通らないと到達できないのだ。
もちろん、3人ともに誰も出入りしたのを見ていない。
さて、トリックは。
部屋それぞれが動くようになっていて、15パズルみたいに、正方形の部屋を右や左にスライドさせることで、人のいる部屋を通らずに出入りする配置にしたのだ。
この手のトリックは、思い付いた者勝ちみたいなもので、新本格ならよく見られるものだ。
パズルや手品など、本来テーブルの上での小さなトリックを、建物全体で実行するトリック。
建物をサイホンにみたてて、熱せられた水が上の階にいる者を溺れさせる、とか。
ただし、このパズルトリックは真相ではなかった。
被害者は死の直前にトイレに行くため、人の部屋を通っている。
この、「トイレに行く」ように見えた姿が、実は犯人が殺人を終えて出て行く姿だった、というのが真相だ。被害者の部屋から「トイレに行く」「トイレから帰ってくる」と見えた順番は、実は「被害者が部屋に戻る」「待ち伏せしていた犯人が殺人を犯し、出て行く」と、逆になっていたのだ。時間がずれたのは、出て行くのを見た人物の時計が狂っていたからなのだ。この時計の狂いは、ちゃんとわかるように文中に出て来るので、推理は可能だったのだ。
こうやって書いてしまうと、ばかばかしいが、推理するデータもそろっていたし、十分に面白い真相だった。
さて、この『蛭女』、作中では誰が犯人なのかは明記されていない。
作者の本領が発揮されるのはここからだ。
実は、この『蛭女』には、表立って登場してこない登場人物がいたのだ。
拉致された生徒と先生のうち、1人の先生は常に「哲子」とか呼ばれる存在だったが、もう1人常に「先生」と呼ばれていた存在があったのだ。ロートレック荘か!
登場人物が1人多いことは、作中のデータとしてちゃんと与えてあった。
たとえば、「八つの目が智子を見つめている」という場面。
さて、この場面では何人いるでしょうか?
八つの目だから、4人プラス智子で、全部で5人だというのは間違い。
なぜなら、私ことモネまでが智子を見つめていては、「八つの目が智子を見つめていた」かどうかわからないからだ。モネは八つの目が智子を見つめている状況を見ていなければならない。1人多かったのだ!
なぜモネがこの先生を隠すような表現を作中でとったのかと言えば。
モネはこの先生を愛していたのだ。そして、この先生こそが犯人なのだ。
『誰のための綾織』というタイトルは、モネは誰のために『蛭女』を書き綴ったのか、という意味で、真相を明かす重要なキーワードだったのだ。
さて、ここまで書けば、犯人は明らか。
モネは犯人たる先生のために『蛭女』を書いた。
その原稿を持っていた「先生」とは、飛鳥部なのだ!
ただし、この飛鳥部、殺人現場に出入りしたとき、女性だと見間違いされているところから、作者の飛鳥部勝則ではない。飛鳥部麗子という女教師にして作家が犯人だったのだ。
いやはや、これはすごい。
読者が犯人、登場しない人物が犯人、男だと思っていたら実は女だった、作者自身が登場したかと思わせて、まったくの小説上の登場人物だった。
こういうメイントリックそのものは、ミステリー史上に残るアイディアだと言って過言ではないだろう。
いやー、面白かった。
三原順が大好きな人や、ネットの住人は、こういうミステリーの結構部分をまったく無視して、とにかく盗作だから駄作だ、と感情的に決めつけている。この作品がそんな傑作だとは思わないけど、読後頭に残っているのは、ミステリーとしてのトリックや趣向だけで、三原順からパクった部分ではない。もしも、三原順から盗んだ部分が読後、もっとも印象的だったのなら、飛鳥部の出番はなかった、ということになるが、そうではなかった。借り物の言葉だから、効果的に使えなかったのかもしれない。

さて、ここからは、三原順問題について考えてみよう。
音楽の世界では、サンプリングが普通だし、他人のレコードをかけて音楽活動とするDJなる表現活動も認められている。
小説ではなぜだめなのか。作者が楽して作品を完成させた、「ズルしやがって」という思いがあるのか。さらに、日の下に新しきものなどない、という考え方や、オリジナルなものなどない、という考え方が一般的だという事情と、盗作問題はどう関わってくるのか。
たしかに、本を読んでいて、他人の作品の書き写しをえんえんと読まされたのでは、「おいおい」とツッコミたくなるだろう。ましてや、それが自分の好きな作品であればなおさら。
作者の創作態度として、他人が苦労して書いたものをそのまま無断で拝借して自分の作品だとふんぞりかえっているのは、問題おおいにありだとしなければならない。作家としての資質に関わると思う。
ただし、浦沢『PLUTO』を読んで、「なんだ、これ、鉄腕アトムじゃないか」と憤ったりしないのと同様、読む前からこの本が三原順の盗作だとわかっていたので、僕の頭の中では『誰のための綾織〜三原順「はみだしっ子」より』というサブタイトルがついていた。
だから、その部分には読書中はまったくひっかからなかった。
で、三原順からの引き写しは女子高校生の書いた『蛭女』の部分に集中しているが、一読して思ったのは、「これ、三原順から盗んでくる必要あったのか?」との思いだ。
『蛭女』は一応高校生が書いた、という態にはなっているが、作者飛鳥部の作品として読まれるべきで、そう思うと、あまりにも文章や中で議論される事柄が稚拙で、読めたもんじゃない部分が多々ある。三原順からの剽窃も、飛鳥部が自分の言葉として語っていないせいか、イエスキリストは笑わない、というくだりや、目には目をは目には目と歯じゃない、というくだりなど、議論としては幼稚、お子様レベルの穴だらけの議論にしか思えない。葬儀の日にコメディ映画を見て帰り顰蹙を買うエピソード、料理をレシピどおりに作ることについての言及、身長の違う者へのベッドの割り当てで語る公正の問題等々、三原順からの引用をすべて削ったところで、この作品はじゅうぶんに成立しているのに、いったい何をとちくるって三原順から盗んだりしたのだろう。
考えられるのは、飛鳥部はミステリのネタを考えるのは得意だが、いじめをテーマにしたいわば文学的な文章を紡ぐだけの才覚に恵まれていなかったのではないか、と思われることだ。
比較的、そういう文学的な要素も兼ね備えた作家だと思っていたので、この安易な盗作は残念だ。
何よりも、ミステリとしての仕掛けが読むに値したものだっただけに、また、表紙を描いている山本タカトのセーラー服イラストが秀逸だっただけに、惜しい。飛鳥部、何をやってるんだ!と思った。
この作品のプロローグが「推理小説に禁じ手などあるのだろうか。おそらく、ありはしない。面白ければ、それでいい」なんて叙述ではじまっているのが、皮肉で愉快だ。
図書館に向かう道すがら、LADS GALLERYで開催中の「坂本実十里展」にふらっと立ち寄った。この人については何も知らず、外から覗き込んだ作品が若さを感じさせたので、中に入ってみようという気にさせたのだ。
彩色された雲形の生物めいた作品。
その形はパレットにも見えるし、キンダーサプライズの木製玩具にも見える。
この不定形の平面の生き物たちは、杉浦茂の描く怪物たちに影響を受けているようだ。
こういうグニャグニャなものは見ているだけで気持いいのだが、気になるところがあった。
彩色が、木製玩具を思わせる、ということは、プラスチックなキッチュな物ではなかった、ということだ。
絵具の手触りがちゃんとあり、そして、その彩色は、先に書道めいた漢字が書いてある板の上から塗られてある。
坂本実十里さんの年齢をまったく知らないので、断言できないのが残念なのだが、もしも還暦を越えたお年寄りの作品だとしたら、驚嘆すべき斬新な作品だと手放しでほめたい。
でも、僕よりも年下であれば、思いきりの悪い作品だという印象が残る。
一見ポップな造形の下地には伝統的な芸術が隠されている、という趣向は、あざといのだ。
これなら、中に何が入っているやら全く見えないデュシャンの境地にも届いていない。
また、下地と作品とのギャップで効果をあげたいのなら、もっと作品はポップでなくてはならないし、下地に選ぶのは日本画壇の大御所作品の切り取りくらいの思いきりがないと、心がふるえない。せめてモナリザを雲形に切り取って作品にするくらいでないと、笑いにつながらない。僕はギャラリーに笑うために行くのである。
とか言いながら、展示されていた作品はじゅうぶんに面白かったので、なぜ、下地をああいう板に求めたのだろう、と、中途半端さをよけいに惜しく感じるのだろう。
襖の下張りに隠されていた歴史を読み取った網野善彦みたいに、表の作品を凌駕するだけの下地を用意してくれたら、と思う。
でも、ひょっとしたら、その下地、僕が無知なだけで、実はめちゃくちゃ凄い作品の切り取りだったかもしれない。空海の書、とか。ヒャー。

今日はせっかく午後6時までに帰宅したのに、FMの「現代の音楽」はお休みで、モーツァルト特集だった。
モーツァルトを聞いていてもよかったのだが、あいにくと僕にはそんな高尚な趣味はない。
昔に録音した現代音楽のテープを見つけてきて、聞いた。
聞いたのは、ハインツ・ホリガー6度めの来日時のコンサート。1979年だ。
ホリガーはドイツのオ−ボエ奏者、作曲家。
ピアノ、ハープシコードは高橋アキ。
シュトックハウゼンの「オーボエ・ソロのためのフロイントシャフト」
リゲティの「ハープシコードのためのコンティヌム」
ホリガ−自身の作曲による「スタディ」
篠原眞の「オブセッション」
アンコールとして、
シャルル・ケクランの「イングリッシュ・ホルンとピアノのための作品」
フランク・マルタンの「小さな哀歌」
タイトルが正しいのかどうか不明。
それにしても、このラインナップ、すごいなあ、と、思った。
さらにごそごそテープを探して、
武満徹の「ユーカリプス2」(ここでもホリガーのオーボエが)
吉松隆の「ドーリアン」(これ、打楽器スゲー!)
田中賢の「オルフェの歌」などを聞いた。
ふだん音楽とは縁のない生活してるくせに、こんなときだけやたらいっぱい聞くのだ。
毎日の習慣として音楽を聞くようにしたいものだ。
スタジオSTSライブ、今日は毎日テレビ「まちウケ!」のカメラも入っている。
1.オープニング/ジュニアダンスチーム(選抜された11人の精鋭たち)
2.SHOW TIME/ステッパーズ(ひさびさ!)
3.Keep the Faith/ラズベリーズ
4.憧夢〜風に向かって/トレード
5.桃色片想い/チックス
6.Baby My Heart/マシェリ
7.POP STAR/タイフーンJr.(新曲。3人)
8.浪漫/プリティーズ
9.I BELIEVE/ナオセレクト
10.ジェラシー/ミニミニclub(このメンバーでは新曲!)
11.PUMP IT/Super Bubblez
12.Promise/田中あや
13.Just Lovin’ You/桐生彩加
14.愛のカケラ/杉本めぐみ
15.No.1/PHRASE
16.In the name of love/ファッションズ(新曲。4人)
17.Give Me Up/RISAKO & REINA(新曲)
18.King & Queen/プリッツ
19.ちょっとだけMY LOVE/ミューズ(まりな欠。来月のライブから復帰するらしい)
20.Love like candy floss/TOUCH
21.don’t you wanna see me (oh) tonight/ブラックベリーズ
22.sexy,naughty,bitchy/ブラックベリーズ

ジュニアダンスチーム、ナオセレクト、Super Bubblezの充実ぶりは目をみはるものがある。
今回、僕が1番に推したのはファッションズだった。
プリッツもTOUCHも劣らずよかったが、今回の新曲がファッションズの代表曲になるんじゃないか、と思わせる出来だったので、応援の1票をいれることにした。
毎日テレビの収録は、開場を待って並んでいる僕が、番組出演の意気込みを語るところと、アイドルライブを楽しむ僕を撮影していた。
放送までに、あと1回、撮影がある。

心斎橋大丸に移動して、おかめふくライブ。
リハ−サルで「ホウキ雲」
1.三日月ラプソディ
2.青春時代
3.ハッピーラッキーデイ
4.二十粒の心
5.ディア・フレンド
6.いいお天気!
7.一人旅シャラルラン

なんだか一人旅に行きたくなってきた。
おかめふくの路上ライブに集まっていた友人たちから、いろいろと贈り物をいただく。
誕生日でも何の記念日でもないのだが、僕が貧乏で毎日の食事にもことかいている状況を知って、援助してくれたのだ。ありがたい。
まあ、前にも書いたように、いろんな前売り券を買ったゆえの極貧で、僕の体型を見るかぎり、食事に困っているような兆候はどこからもうかがわれない。緊張感のない貧乏だ。

銭ゲバに行き、置いてあった「モー娘。占い」で遊んだり、「ほんとにあった!呪いのビデオ」見たり。こういう怖いビデオ見てよく思うのは、出演者のリアクションの不自然さだ。
今回見たものでは、昼間に恋人どうしが部屋の中でじゃれている。たまたま窓にカメラが向いたら、そこに女の人が立っていた。
恋人たちは悲鳴をあげて逃げる。
でも、普通、ベランダに知らない人が立っていたら、それは泥棒だ。
「コラ!」とその泥棒を追い掛けることはあっても、部屋をあけて逃げるなんておかしいんじゃないか。せいぜいが、「何かご用ですか、ここ、私の部屋なんですが」と注意するくらいじゃないか。
「呪怨」を見て思ったのも同様の不自然さだ。
血まみれの女性が階段を這うように降りてきたら、それは、ケガ人ではないか。
「キャー」と叫んで怖がるよりも先に「大丈夫ですか!」と気遣ったり、治療しようとしたり、救急車呼んだりするのが普通ではないか。
ふとんの中に白いこどもがいたら、それは、白人の捨て子じゃないか。白人でないとしたら、色素欠乏症のこどもがイタズラでふとんにもぐりこんでいるのだ。
「キャー」と叫んでこわがるよりも先に「ぼうや、どこの子?」とか、「What are You doing?」と尋ねるのが普通ではないか。
こわがるなんて、失礼な話だ。
それで思い出した。いがらしみきおの漫画で、宇宙人があらわれてみんながキャーキャー怖がっていると、1人の男がみんなをたしなめる。「こら!身体障害者を差別するんじゃない!」
小津安二郎監督の「父ありき」を見た。1942年。
父親役は笠智衆。
笠智衆演ずる中学の教員は、修学旅行引率時にボートの事故で生徒を死なせてしまう。自ら責任をとって教員をやめた後、新しい職につくため、息子と離れて暮らす。
長じての息子を演じるのは、佐野周二。
25才になり、教師になった佐野周二と笠智衆が久々に会い、過ごす短い期間。
温泉につかり、子供の頃とまったく同じように並んで川釣を楽しむ二人。佐野周二が一緒に暮らそうともちかけるが、父、笠智衆はお互い仕事に励もう、と、申し出を断る。
佐野周二が徴兵検査甲種合格、笠智衆は教え子たちの同窓会によばれる。
佐野周二に結婚をすすめる笠智衆。
突然の発作で急死する笠智衆。
死ぬ間際に言う「うん、いい気持だ。眠い、とても眠い。しっかりやんなさい。なにも悲しいことはないぞ。お父さんはできるだけのことはやった。わたしは幸せだ」
以前読んだ漫画『ありがとう』では小津映画からの引用がされていた。
家庭に戻ってきて、むりやり家族をまとめようとして、どうしようもない状況に陥っていく「ありがとう」の父とは正反対に、この「父ありき」の父は一緒に住みたい息子の希望を蹴ってお互いの自立をめざす。
死ぬ前の言葉もそうだし、かつての教え子を前にして、ご指導よろしくお願いします、と同じ大人同士として挨拶する笠智衆の大人、父親像は、理想像であり、今でも範とするに足りる。
この父親を演じたときの笠智衆は、今の僕よりもかなり若い年齢のはずだ。
僕だって「僕はできるだけのことはやった。僕は幸せだ」という気持はあるが、なんだろう。この、まだ自分は何もしていない、という未熟感は。
笠智衆がかつての教え子や、息子に慕われただけの人望が自分にはないことへの寂しさなのか。
せめて葬儀の際には、おいしいものでも配るので、「あんな奴」と思っている人も、ちょこっと顔を出してもらいたいものだ。

トニー・マ−シャル監督の「エステサロン・ヴィーナスビューティ」を見た。1999年。
主人公のナタリ−・バイはエステサロンで働く40才の女性を演じている。(実際にはナタリー・バイは50才で、頭に思い浮かべる40才像は、実際には50才くらいの老け具合なんだな、と思わせる)
アメリのオドレイ・トトゥも出演している。
エステサロンに出入りする複数の男女の恋愛模様を描いていて、男女の機微についていろいろと考えさせられた。
お客さんたちも個性たっぷりで面白い。
亡き妻の尻の皮膚を顔に移植した男(妻への愛が深いのか、と思いきや、オドレイ・トトゥと懇ろになってしまう)、毎日のように日焼けマシーンを使うために来ては全裸でうろうろする女性(店はガラス張りで、外から丸見え)、仮装マニアの女性(ラストでは宇宙飛行士の格好で出て来て、観客の緊張感を一気に緩める)などなど。
ナタリ−・バイは年下の男性の猛烈なアタックにあって、最初はあしらっていたのが、徐々にそのペースに巻き込まれて行く。ナタリー・バイは逆ナンとか普通にする女性なのだが、熱くなりすぎるのを怖がっている。かつての恋愛で、浮気した相手を傷つけるような過去を持っていたのだ。
この年下の男性には、彼を追い掛けるストーカーのような女がついている。
ナタリー・バイは、彼がこのストーカー女と一緒にいるのを見るだけで、たちまち嫉妬にかられ、態度を硬化させたりする。過去に何があったにせよ、今まで人生から何を学んできたのか、ナタリー・バイ。世界中の人間が彼を疑っても、信じる最後の1人を引き受けるのが恋人なのではないか。それを率先して疑ってみたり、愛している確証を欲しがったりして、まったく無駄な足踏み状態ではないか。恋愛とはお互いが愛しあっていることを確認、点検しあう行為ではなく、そんなものは確認するまでもないこととして次なる関係を築き上げていくことなのではないか。打ち合わせばかりで何も歌わない人を歌手とは呼ばないようなものだ。僕なら、恋愛の意味を幼稚園から戻ってやりなおせ、とあっさり切り捨てているだろうが、さすがにフランスの男は違う。
ナタリー・バイにお誘いをかけていた別の男友達は、ラスト近く、ナタリー・バイがそのお誘いに乗ろうとしたら、「ごめん、本気にとってたらあやまる」と、好きな女性が別にいることを打ち明ける。ナタリー・バイは「彼女にプレゼントしてあげて」とエステサロンに置いてあるクリームなどをすすめるが、男友達はやんわりと断る。彼女はそんな外見の美しさにとらわれない人だ、というのだ。
ひとりぼっちで年越しをするかと思われたとき、例の年下男性がやってくる。
外にはストーカーと化した女性が。ラストシーンでは、逃げ腰のナタリー・バイが男性の果敢な連続アタックでその心を溶かされたとき、銃を持ってストーカー女が店に乗り込んで来る。
こういう場合、女性はだれに銃口を向けるのだろう。
追いかけている男性?それとも彼の心を奪う女性?
悲劇になりそうなラストシーンは、それでもハッピーエンドで終わる。
最初、男性に銃口を向けたストーカーが撃ったのは、エステサロンの看板だったのだ。
ストーカー女は外見の美しさ、若さで40才のナタリー・バイに勝るのだが、そんなことでは男性の心をこちらに向けることができず、その鬱憤、「なんだ、こんなもの」感をエステサロンの看板銃撃でぶちまけたのだ。
う〜む。粋。
芦辺拓のネオ少年探偵シリーズ『電送怪人』を読んだ。
ミステリだから、ネタバレしてます。要注意。
物質電送機を研究していた天才科学者、御神楽龍三郎。
彼を裏切って金もうけをした男たちに、電送怪人の魔の手がのびる。
密室殺人、衆人監視のなか一瞬で名画が盗難、そして人間の物質電送。
電送によって、密室でも自由に出入りできるし、絵画も一瞬で移動させることができるのだ。
この作品は江戸川乱歩の『電人M』などの少年探偵シリーズをほうふつとさせる、少年少女向けの探偵小説の傑作だ。
通学路の道ばたの植え込みで鳴っている携帯電話。
とってみると次々とメールが届き、その指令にそって歩いていると、電送怪人のアジトにたどりつくのだ。
いかにも少年探偵シリーズらしい導入部だ。
主人公は小学生の3人だが、名探偵として森江春策が出てくる。二十面相にあたる悪役はおらず、犯人当ての興味がそれにとってかわる。
人間電送トリックはプロジェクターとハーフミラーを使ったマジックビジョン。
密室殺人は被害者の自作自演。ただし、麻酔薬を嗅ぐはずが、毒にすりかえられていた。
絵画盗難は、手品で使う一瞬で燃える素材に描いた絵に火をつける。
トリックもお膳立ても現代ならではだが、雰囲気は乱歩。
ネオ少年探偵シリーズの最初の作品がこれで、残りの未読作も期待できそうだ。

読んだ漫画は坂辺周一の『ティッシュ』全2巻。
母が再婚。連れ子(義兄)はキモデブ。
このキモデブが義妹の下着に発情したり、人形の股間にシャープペンシルの芯を何本も突き刺したり。
街に出ては娼婦に襲いかかったり。
母は新しい夫に気をつかって娘の「あいつキモい」の訴えを聞き入れないし、父親は自分の育て方に間違いはないと思い込んでいて、キモデブを信じてる。
孤立無援の娘!
これはキモデブを殺人鬼におきかえると、そのまま古典的なホラーストーリーになっており、エロ描写をのぞけば、「それなら、殺人鬼の方がこわいじゃん」と思わせるところが、残念ながら恐怖をイマイチのところにとどめている。
義理の兄だから、自分の恐怖がだれにも伝わらない、という本作のモチーフも、手あかがつくほど繰り返されてきたものだ。
作者はこの物語をもっと長く描きたかったが、雑誌の都合で短くなってしまったとあとがきで書いている。つまり、この2冊のストーリーを核にして、キモデブならではの新しい恐怖が描かれるはずだったとしたら、非常に惜しい作品だ。
サランラップに異常に執着するキモデブの習性ももっと生かせたのに。
最後に、自分が殺されるとわかってそれを従容とうけいれるキモデブの姿は、まるで蔵六の奇病みたいに、ストーリーを民話のごとき印象に連れていく。
どうせホラーのクリシェで突っ走るのなら、退治してもまた甦るくらいの開き直りがほしかったところだ。
あれでは、キモデブも人間の心を持っていたんだと思わせてしまう。
それとも、主人公の娘が、罪もないキモデブたちを殺しまくる続編でも描くつもりなのか?
ちくま文庫から出ている尾崎翠集成の下巻を読んだ。
この巻には、尾崎翠を知る上での資料的作品や、バラエティに富んだ作品が集められており、『第七官界彷徨』だけ読んで尾崎翠をわかったつもりでいる僕などの目をひらかせてくれる。
以下、作品ごとのメモ。

「青いくし」
翠18才、作品がはじめて活字になる。この作品は1ページの短い文章で、『文章世界』に掲載。キュウリをトントンと切るのを「青いくし」と表現。

「あさ」
同じく『文章世界』に掲載。投書欄の才女の名を恣にする。多幸感あふれる文。

「悲しみの頃」
幼いときの幸せな自分を求めて、故郷に戻る傷心の私。しかし、母に見い出したのは、さいぜん涙したジャンヌの老いた姿にほかならない。幼年の追憶をふりきって町へ帰ろうとする私は、こう思う。「大きい吹雪が来れば好い、そして私を埋めてくれたら」

「悲しみを求める心」
他人の死に接して、自分の生を喜ぶ昔。今は、死と対峙して、しっかりと死を悲しみたいと思う。

「無風帯から」
この作品が『新潮』誌に載ったことで、日本女子大学からとやかく言われて、翠は中退する。僕もモダンチョキチョキズの活動でテレビなどに出るようになって、とやかく言われて、当時の職場(女子大学)をやめた。
病気の青年と、心をおさえつけて常に平静でいようとする異母妹。

「花束」
青年との出会いでものおじし、チャンスの前髪をつかみそこねる乙女。人間誰でもが「昔はよかったなあ」という追憶の溜息をもっている、とその女性は思う。自分ひとりの後悔を一般論として語る愚がここにある。昔はよかったって?今の方がいいに決まってる!

「詩『嵐の夜空』」
画竜点睛を欠く空の詩人。最期に雷に打たれて空の描写がコンプリートする。

「空気草履」
『少女世界』掲載。死んでお星様になった少女の空気草履を譲り受ける女の子。
空気草履って、今で言えば、エアー?

「露の珠」
『少女世界』掲載。薔薇の花びらについた露に月光を吸わせて、首飾りを作ろうとする少女。出来上がった首飾りは人魚がつけるにふさわしい、と海に投げる。
花びらを埋めて弔うところまであわせて、今すぐにでも実行したくなる秘密の仕事。

「頸飾をたずねて」
『少女世界』掲載。人形たちの物語。わがままな椿姫のために、東奔西走して首飾りを探す土人人形クロちゃん。でも、これぞと思った首飾りは露だったり、波がしらだったりして、調達してあげられない。夢からさめた少女は椿姫の首飾りをきれいに塗ってあげる。
夢オチだったのか。ドーンドーンドーン、ベタベッタ、ドドンのドーン、ベタで〜す、クロちゃんです!

「少女ララよ」
詩人アントニオと盲の美少女ララ。再会したとき、アントニオの祈りが通じて、ララは目が見えるようになっていた。
チャップリンの「街の灯」?

「琉璃玉の耳輪」
映画脚本。ここまで読んできた作品が引き算による効果を狙ったものなのに対して、この作品だけは、娯楽過剰で面白い。
欠如や抑圧からくる屈折が乙女の本領だとすると、この作品は評価されにくいんじゃないか、と思った。僕は少年ものが好きなので、尾崎翠らしさを味わうには足りないが、面白いことにかけては群を抜いている。
男装する女探偵、逆に女装もある。変態性欲(サディズム)、阿片窟、売笑婦、人身売買、芸を仕込まれる少女、同性愛、ナチス〜大亜細亜主義〜シオニズム〜ガンジー主義と思想遍歴をたどりインドに渡る父親(夢やぶれて帰国後、自殺)、水兵服を着せられて手枷足枷で自動車内に監禁される少女、怪談映画のクライマックスにも似た幻想シーン、カーチェイス。
この映画脚本は結局映画化されなかったらしいのだが、もしそうなら残念だ。
なお、ちくま文庫版ではこの脚本のタイトルを「琉璃色の耳輪」なんて書いているが、「色」じゃなくて「玉」が正しい。

「アップルパイの午後」
兄弟喧嘩の裏で進行するそれぞれの恋愛。

「映画漫想」トーキーに変わる頃の映画解説。歯に衣着せぬ評が痛快。
「蒼馬を見たり評」
「杖と帽子の偏執者」チャップリン
「新秋名果」梨をむしょうに食べたくなる
「春の短文集」
「大田洋子と私」(1941)

このちくま文庫版集成の上巻の解説で、中野翠が「尾崎翠の作品世界では淋しさやせつなさが語られていても、つねに理知の明るさが感じられる」と書いてある。僕の読んだところでは、この「理知の明るさ」は感じ取れなかった。過去を美しく思い、その頃に帰りたいと思う心もちなど、理知とはもっとも懸け離れた感情だと思ったからだ。
尾崎翠をもっと読まないと理知は感得できないようだ。
でも、理知の明るさを読みたくて尾崎翠を読む人などいないだろうから、これはこれでいいのか。
ハテ?
旭太郎作、大城のぼる画の『火星探険』を読んだ。
1940年発刊のオールカラーSF科学漫画。
僕が読んだのは、オールカラー版ではなかったが、表紙などから、その美麗さが想像できる。
旭太郎は詩人小熊秀雄のペンネーム。
火星に生物はいるかどうか、という地球上での論争からはじまり、空想たっぷりの火星冒険(夢)、めざめて後、火星に関する科学的知識のレクチャー。
夢の部分の火星が面白い。火星人の姿がどこかで見たことあるなあ、と思ってたら、ピクミンだ!火星人がトマトを主食にしているところも「赤」つながりで納得しやすい。そのトマトは超美味なのだが、種も一緒に食べる普通の食べ方ではおなかの中でトマトが生えてきて、病気になってしまうところなど、愉快。
重力の関係で、火星では空中をふわふわと歩いて移動するのもきもちよさそうだ。
主人公たちを助けるマッチ棒みたいな火星人の看護婦さんが別れを惜しんで泣くシーンも可愛い。
主人公の少年がトンガリ帽子をかぶっているのはこれまた何故なのか。
以前、大城のぼるの『愉快な鉄工所』を読んだことがあるが、鉄工所が愉快なはずもなく、ほんわかしているが真面目なムードが抜けなかった。この『火星探険』は主人公の少年以外の登場人物、ひげをひっぱりあう博士や、ネコやイヌまで、チャーミングで、ユーモアたっぷり、真面目な部分以外に見どころがあって楽しかった。
この本には「火星探険への扉」と題するエッセイ、評論が巻末に集めてある。
「火星探険と昭和の漫画」小松左京、松本零士、司会:日高敏
「旭太郎の夢」木島始
「大城のぼると戦前のSF漫画」日高敏
「OH!漫画 鼎談 戦争まで」大城のぼる、手塚治虫、松本零士
「火星探険と小熊秀雄のマンガ原作」小野耕世
「誇り高き作風−大城のぼる『火星探険』の主人公・テン太郎」高橋康雄
「漫画の1930年代、建築の1930年代−大城のぼると土浦亀城」植田実
「火星探険−戦火に咲いたSFの花」いしかわじゅん
これらを読んで、あらためて手塚治虫の偉大さを実感した。手塚治虫が加わった鼎談では、松本零士(彼のコレクションから大城のぼる作品目録も作られている。それほどのコレクターで、大城のぼるについて詳しい)と、作者大城のぼる自身と語り合っている。ところが、手塚治虫の博覧強記の前では、松本零士はたまに質問する以外に発言することもできず、大城のぼる本人の発言も手塚治虫のツッコミで何度も修正させられていた。中央から発信される漫画の歴史には、この「火星探険」のようなナカムラマンガあたりはすっぽりと抜け落ちており、小松左京も手塚とともに、自分たちが子供の頃に読んでいた面白い漫画が全然漫画の歴史としてあがってこないことを嘆いていた。1940年は手塚治虫12才だから、漫画に詳しくてもおかしくない年齢だが、それを記録して残したり復刻したりする試みはどれほど為されているのだろう。こういう記憶の持ち主を次々と失って、歴史の闇に葬られていく素敵なものがどれだけあるのか、と思うと残念に思う。
深夜番組「まちウケ!」の収録。
e-maidにカメラが入り、アメリカザリガニのお二人とウルトラマンマックスの長谷部瞳ちゃんが番組を進行させる。
今回は関西のアイドルオタクNo1を競うクイズ大会。
回答者は僕を含めて5人。
サブカルチャーノートの草壁コウジ、カルトアイドルの丼野M美、アニメ女王柊モエ、に、アメリカザリガニ平井さん。
手探り状態のなか、優勝して、秋葉原に連れていってもらい、AKB48のスペシャルライブを見た。
お客さんは自分一人。
僕一人のために、AKB48がステージをつとめてくれるのだ。
こんな幸せなことって、あるか?
Dear my teacher
AKB48
スカート、ひらり
桜の花びらたち
の4曲。握手や一緒に写真撮影やサイン入りのハッピをもらったり、など、アイドルファンにとっては至福のひとときが流れる。
何よりも、AKB48に「ホザンさん、優勝おめでとうございます」などと言ってもらったのがうれしい。アイドルファンにとっては、アイドルに自分のことを知ってもらうことが一番の幸せなのだ。
僕はうっかり「大阪でもAKB48をブレイクさせます」なんて大声で叫んでしまったが、これはオリコン初登場10位の彼女たちにとってはたいへん失礼な発言だった。これ以上どうやってブレイクさせるんだ!と言うほど、全国で既にブレイクしていたのだ。
ライブ後、新幹線でそのままとんぼ帰り。
強行軍!
テレビ用に、ふだんしないこともいっぱいしたが、アイドルが好きだということについては、間違いがない。僕はアイドルオタクと呼ばれるほど知識も情報ももっていないけれど、こんなラッキーなことを逃す手はない、と思ったのだ。
で、実際、AKB48に、はまってしまった。
やばい。
アートスペースわなかで睦月芳華書道展「一月三舟」。
睦月芳華(むつきぼっけ)の北村樹魚ちゃんの作品を見たかったのだ。
会場に入ってすぐに北村樹魚ちゃんの作品が目に入る。
「不安」の文字がクレッシェンドを描く作品。
ところが、配置の妙というか、立ち止まって正面から見ると増大する「不安」が、入口から中に入っていくにつれて、「不安」はデクレッシェンドを描くのだ。
要するに、入口のところで逡巡している者にとっては最大の不安しか見えないのだが、中に入るにつれて不安は減っていくのである。樹魚世界に入らずんば樹魚を得ず。なんて言葉が頭に浮かぶ。
その他、ボードレールの一節を書いた作品など。
書道については門外漢の僕でも、伝わってくるものがある。それは北村樹魚ちゃんの作品が文学でもある証拠なのだろう。文学であれば、世界を共有できる。
赤いカーディガンで迎えてくれた北村樹魚ちゃんは「ワレモノ注意」の札か召集令状を思わせた。僕の体調不良は妄想を次々と生み出している。
この作品展は三日間だけの開催だったので、1回しか見に行けなかったが、戦地に赴くべく僕はあと何回か顔を出したかった。
北村樹魚ちゃんは召集令状ではなく、招集令嬢であったのだ。

あべのルシアスで午後1時から「HOPCLUB2005総決算!全て見せます」
HOPCLUBはホリプロ大阪所属のアイドルユニットで、現在8人。
司会は加美真陽。
今日は星野真希が受験勉強のために欠席、7人でのステージになった。
まず登場はJAKEの4人。(J=実はる那、A=堀朱里、K=番ことみ、E=安藤絵里菜)
歌って踊ったメドレーは
夏の扉(4人)
ラムのラブソング(番、安藤)
タッチ(堀、実)
キューティーハニー(安藤、実)
エースをねらえ!(番、堀)
夏の扉(4人)
番ことみはギャグ「番ちゃん、ペ!」とか言ってる。
次の出番は高校生チーム。(真陽、寺田有希、滝口ミラ)星野真希は欠席。
3人が歌うのはSPEEDの「My graduation」、各自作詞したパートがあり、星野真希の高校卒業を祝福する。
いきなりの心理テスト、自動車に乗るならどこにすわるか、で占う。
HOPCLUBのラジオ番組「アイドル環状線」でも心理テストのコーナーがあるし、HOPCLUBでは心理テストが流行っているのか。
次は実はる那が作詞した歌「大切な人へ」をソロで歌う。
これは友人にあてて作った歌だということだが、その友人本人が来ており、歌の途中で感情が入って涙でつまっていた。
ラストはHOPCLUB7人登場して、2曲。
Good Morning
AOZORARINGO
イベントは無事終了、あとは写真撮影会と、グッズを買った人との撮影タイム。
HOPCLUBのメンバーはそれぞれレポーターやレースクイーンなどで活躍しているが、3月から順々にDVDが発売されるそうだ。
気温が低くて体調は悪化の一途をたどるが、目の快感は心の滋養。見に来てよかった。

いったん帰宅して「現代の音楽」を聞いてから、ベアーズに向かう。
ベアーズでは、自分BOXwithララボンゴ、ロケットSON、内海洋子のライブ。
どれもこれも、音楽が好きでよかったと思わせるいいライブだった。
大阪オートメッセに行って来た。
車に用はない。
アイドルを見に行ったのだ。
まず、マリン・ザ・ボイスのブースに行くと、ベリーダンスの真っ最中。
おはよう朝日に出演中の荘愛美がいたり。
サクラジョーの写真集で、chamiちゃんの勇姿(水着)を確認。
ダンロップブースに行き、DIGICCOのライブ。
ディスコナンバーメドレーからディレッツァのプレゼンテーション、ニガイ涙。
大阪でのライブの機会はめったにないので、オリジナルを聞きたかったところだが、しかたがない。このオートメッセでは何回もステージがあったが、見ることができたのは、この1回だけだったのだから。
ingsブースに行くと、岬沙弥ちゃんらが並んでトーク。
続いて、スーパー耐久レースイメージガール、桜三世05は今日がファイナルライブ。
晴菜あい、篠崎まゆ、神谷あんの3人、1年間お疲れさまでした。
contact、keep my step 、桜三世のテーマ。(曲目間違ってるかも)
続いて、AZUREのライブ。
ひととおり見たあと、屋台村に移動、ミニステージでは関西大学応援団のチアリーディング、司会はなんと八幡屋商店街、いとこ三兄弟でおなじみの「オッケーイ」親子だった。
チアガールや、ダンサーがステージにいるあいだはお客さんもカメラをかまえているが、司会だけになったら、カメラをしまってしまう、というお約束のトーク。今日は短い時間内に、そのネタが2回も聞けた。
メインステージで安良城紅のライブ、30分。
MAXのライブ途中で帰宅。
アイドルとレースクイーンを山ほど見た1日だった。
でも、肉欲と整形とで陳腐化した女性には興味が湧かないのであった。
どうせ整形するなら、額にもう1つ目を作るくらいの個性がほしい。
なんばBEARS にて、午後6時30分より「人間大學レコード」 コンピレーションCD発売記ライブ
出演者順不同。
TASKE
佐伯誠之助
邪王院弘
NO.305
あなるランデブー
di-bit(GDTK/MW)
ドイウロコ<キリン>
INVADER+オトギノマキコ
少女崇拝
魔ゼルな規犬
DJカラテカ
エロリストりかが司会役だったが、いろんなところで自由に乱入し、思わぬコラボレーション、化学融合を果たしていた。
また、TASKEとジョイントした小川恭平もいろんなタイミングで暴れまくり、さながらBEARSは開放治療場と化していた。
こういうアナーキーな乱入は、昔、寄席で見た「おとろしや」芸に似たものがある。
「おとろしや」が出て場内を沸かした後は、まっとうな古典落語家はすっかり出る気を失ってしまうのだ。
アナーキーに対応するには、自らもアナーキーになるか、それを勝負と受け止めずに臨機応変に対処するしかない。まったく無視して、進める、というのも面白いだろう。そういう場合、アナーキーはカオスになる。
でも、見ている側は、異種格闘技として見るわけで、それを名勝負にするかどうかは演者のわざにかかっている。
あまりにも勝ち負けにこだわると、名勝負になりにくい。
今回の名勝負はTASKEと小川恭平、エロリストりかの三つ巴戦だった。
それぞれの良さが最大限に発揮され、1人が目立って場を引っ張っていたかと思うと、別の1人がたちまち場をかっさらう、という見事なフォーメーションが期せずして成立していた。

読んだマンガは『劇画・毛沢東』
「パッチギ!」で「けざわ・ひがし」じゃないぞー、と先生がギャグとばしていた、あの毛沢東だ。
中華人民共和国成立までを描いており、文化大革命まではふれていない。藤子不二雄Aの黒枠、陰影画法がふんだんに用いられており、このタッチで文化大革命を描かれたら、眠れなくなるほどのインパクトがあったと思われる。

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