『子どものためのカント』
と、いうわけで、ついに「トモダチコレクション」買ってしまいました。
しばらくは廃人になります。

KBS京都の「ぽじポジたまご」にマリードールが出演!
再放送枠はなにやら議会中継でつぶれたのかな?

読んだ本はザロモ・フリートレンダーの『子どものためのカント』
フリートレンダーは、ミュノーナのことですよ!
内容は「大人のための『子どものためのカント』」で、とうてい子どもには読めそうにない内容。
第1章 何を行なうべきなのか
第2章 何を希望することが許されるのか
第3章 何を知ることができるのか
問答形式で論点がわかりやすい。
難しい本を読むと頭が痛くなって、途中で「え〜っと、今、何について述べられているんだっけ」と五里霧中になってしまう僕でも、問いと問いのあいだが短いため、論旨を追うことができた。1ページあたり2つほどの問いと答えがある、という割合かな。
「私たちはどのように行為すべきなのだろうか」
からはじまって、
「不正を働くよりも、むしろ不正を被るべきなのだろうか」
「なぜあなたは盗みを働くべきではないのだろうか」
「貧しさは富よりも道徳的なのだろうか」
「罰は道徳的なものなのだろうか、それとも不道徳なものなのだろうか」
「国家とは何だろうか」
「戦争は必要悪ではないのだろうか」
「普遍的な平和は、不可能ではないのだろうか」
「神は存在するのだろうか」
「魂とは何だろうか」
「人は祈るべきなのだろうか」
「なぜ私たちは『なぜ』などと問うのだろうか」
などなど、カントの、そしてフリートレンダーのものの考え方が明瞭に示されている。
第1章は主に道徳について。
第2章は宗教(神)について。
第3章は主に純粋理性批判の内容を噛み砕いているが、本書の狙いは2章までの道徳論にある。
序文でフリートレンダーはこう書いている。
「あらゆる目下の政治的不幸は、カントに従う道徳の授業をとうの昔に学校に採用すべきだったのに、それを怠ったことに由来している」
「ヨーロッパが、カントから道徳的命令をすでに学校で教わっていたならどうなっただろう。世界戦争(第一次世界大戦)はおそらく勃発しなかったはずである」
第1章での問い「異なる国家は、相互に友好的であるべきなのだろうか、それとも敵対的であるべきなのだろうか」に対する答のなかで、フリートレンダーは国家間の交渉においてはまだ道徳性が支配していないと残念がり、こんなくだりを忍ばせている。
「ある国家は他の国家に対して相変わらず正当防衛の体制を整え、相変わらず戦争の警戒に腐心している」
そして、続く問い「一方の国家が、もう一方の国家を自分と共通の事柄に携わるように強制することは、道徳的に義務づけられているのだろうか」に、こう答えている。
「そういうことはない。一方の法治国家は、もう一方の法治国家の自由を尊重すべきだし、それに対するどんな種類の攻撃も加えることは許されない」
本書は1924年に出版されているが、序文で言う、
「私たちのいまだ野蛮な時代においては、『民族』や国家や信仰告白によって評価されるが、もはやそういうことはなくなる」
の「野蛮な時代」は今も継続中である。


MarryDoll@オタロード〜愛宮透@オタロード〜プチJK@アメリカ村マイケルキューブ
MarryDoll@オタロード〜愛宮透@オタロード〜プチJK@アメリカ村マイケルキューブ
最近、マクドナルドのwi-fiでお試し版をダウンロードした、DSゲーム「ともだちコレクション」を3日くらい遊んでいる。
めちゃくちゃ面白い。
面白すぎて、お試し版は電源切ると終わってしまうため、やりかけのRPGもそっちのけでいつまでも電源切らずに続けている。
昨日のSTSライブのときも遊んでたら、女児が興味深げにのぞきこんできた。
この楽しさが伝染したかな?
こりゃ、お試し版じゃなくて、ゲームをちゃんと買うしかないかな。

日本橋オタロードでマリードールの路上ライブ。
炎天下のため、2曲くらいライブしてからフライヤー配り、の順で繰り返し。
でも、結局ライブで聞く曲数以上に曲を聞いた、と満足。
同じ曲を何回も聞いた、という感じだけど、好きな曲は何度聞いてもいいからね!
ライブで、同じ曲を何回も歌う、ていう新趣向も面白いかも、と今思いついた。
マリードールの路上では、かつてないほどに近くでライブ見た、とちょっと感動した。

夕方からは、オタロードの同じ場所で愛宮透の路上ライブ。
アニメソング中心。
前回、雨で途中で中止になったライブを見に行っただけに、今回、ちゃんと見れてよかった。

午後6時からはアメリカ村マイケルキューブでJK21の「エニシングゴーズ」
今回はJK21のメンバーが演劇のためのレコーディングのため、プチJKがサウンドクルーをつとめ、JK21からはさあやが助っ人で1人参加していた。
プチJKの「エニシングゴーズ」では観覧客も少なくなるのかな、と思っていたら、なんのなんの、いつもより多くのお客さんが来ていて驚いた。
サウンドクルーはJK21より森崎さあや、プチJKから今崎真琴、松尾華子、田中梨奈、青野あさひ。
プチ自慢のコーナーでは、
真琴「数学のテストでクラスで5位」
さあや「プリン早食い」
華子「漢字検定準2級を小学生のときにとった」
あさひ「髪の毛がのびるのが早い」
梨奈「腹筋100回、背筋50回、腕立て10回を日課にしている。さぼるときもあるけど」
神の声の判定により、一番はりな、だめなのはさあやで、「千と千尋の神隠し」のカエルの物真似を披露。
理想の結婚式のトークで、さあやがハワイでオープンカーでカランコロン、に憧れてるとか。
大予言のコーナーは、真琴が「デニムのヒラヒラミニスカートが流行する」と予言。外れた場合は「1週間タコ焼き禁止」
今回の放送では、プチJKの中でも、真琴が中心になっていた。
大予言のコーナーもそうだったし、また、選曲も真琴が2曲選んでいた。
℃-uteと倖田來未。
僕もプチJKの中では真琴が一番だな、と最初から思っていたのだが、なんだろう、華子がすごく気になるのである。今回はさあやのサポートもあって、落ち着いていた、という華子は、特に目立つこともなかったが、たまにしゃべることがすごく自然で面白いのだ。
まあ、まだだれを一番とか言うのは、早い、ということなのかもしれない。

今日は日曜なので、いつものテレビ、ラジオがあるわけだが、また後で。

STSライブ

2009年6月27日 アイドル

オーメン

2009年6月26日 映画
オーメン
マイケル・ジャクソンが死んだ、という話題で巷はもちきりだ。
僕の感覚が天の邪鬼なんだろうな、と思う。
マイケルは黒人でなくなったときに既に死んでいたんだ、と思っている。
白い肌にとがった鼻の、こども好きな男を、みんなはマイケル、マイケルと呼んでいたが、僕はだまされない。
どう見ても、マイケルじゃなかったじゃないか!
マイケルは黒人なんだよ!
あんなに白い肌でとがった鼻の男が、マイケルのわけないじゃないか!
白人のマイケルが名曲を出せなかったのは、流行とか才能とかの問題じゃない。
だって、あれはマイケルじゃなかったんだもの!

逆流

2009年6月25日 映画

『アンドレ・ヴェイユ自伝』(上・下)

第1章 リセ時代
第2章 ユルム通り
第3章 初期の旅、初期の論文
第4章 インド
第5章 ストラスブールとブルバキ
第6章 第二次世界大戦と私
 序幕
 2幕 フィンランド風フーガ
 3幕 北極近くでの間奏曲
 4幕 投獄されて
 5幕 軍旗はためくもとに
 6幕 武器よさらば
第7章 南北アメリカ

アンドレヴェイユ自身の歩みとともに、彼が出会った人たちのエピソードも興味深い。
たとえば、ポール・ヴァレリーに会ったときのエピソード
「彼は私の年齢を聞き、31歳と答えると、『その年齢を大切にしなさい』と言い、『素数だからね』と言った。面識もなく憧れていた相手にこんな冗談を言われ、一本とられたという感じだった。その後ストラスブールを訪れた時、ある女性が彼の著書『テスト氏』(衆知のようにこの本の書き出しは『愚かさは私の思うがままにならない』)に献辞を書いてくれるようヴァレリーに頼んだが、彼は『愚かさは私の思うままになる ポール・ヴァレリー』と書いていた」
また、船上で出会った彫刻家オシップ・ザッキン
「彼の色彩感覚は非常に研ぎ澄まされていて、船酔いの日にそなえて、自分の青白い顔色に合うようなネクタイをも持参していると聞かされていた」
ガンディーとお茶をしたときのエピソード。
「その時コーヒーカップに入れた紅茶が出された。ガンディーは笑いだした。『あなたが英国人でないことが良くわかる』と彼は穏やかに言った。『こんなしきたりを無視したやり方を許せる英国人は、ひとりもいないから」

あらぬスパイ容疑で投獄されてからは、壁の中の面々の話や、死刑執行直前に助かる話、囚人の移動が面倒で即刻射殺されてしまう話などなど、面白い面白い。なかでもほのぼのとしてエピソードを1つあげると。
投獄されていたとき、彼の両親が面会に行ったとき、刑務所長が「息子さんは元気ですよ。ひどく手こずった序章をようやく終えて、今ではその序章に満足していますよ」と言ったエピソード。
所長は郵便物を検閲して目を通しているうちに、研究をすっかり把握してしまったのだ。

アンドレ・ヴェイユといえば、妹シモーヌ・ヴェイユとブルバキのことももちろん出てくるが、ブルバキに関して、ポルデヴィアのくだりを引用しておこう。

「エリ・カルタンは我々の活動や計画を何も知らなかった。私は彼のためにニコラ・ブルバキの経歴を創作しポルデヴィア出身だということにした。」
「ブルバキの故郷だったポルデヴィアもまた、エコール・ノルマルの別の新入生騙しの産物だった。言い伝えによれば、1910年頃、エコール・ノルマルの学生たちがモンパルナスのカフェに出身地が様々な人を集め、何杯かの食前酒を奢って、彼らをポルデヴィアの代表に仕立て上げてしまった。そしてこの人たちに代わって政治・文学・大学関係の各界著名人に次のような書き出しの手紙をしたためた。『ポルデヴィア国家の悲劇はご存じないでしょうが…』たちまち同情の証しがたくさん集まってきた。頃合いを見て公開集会の告知をした。そこで代表演説者のために、おおよそ次のように締め括られる感動的な演説もでっちあげたということだ。『私ことポルデヴィア議会の議長は哀れな亡命者です。失意の中に暮らしており、ズボンも持ち合わせていないほどであります』とテーブルの上に登った彼は、実際にズボンを履いていなかった』

NHK-FMで、鈴木慶一の案内でBBCライブ〜デペッシュ・モード −
「サムシング・トゥ・ドゥ」
                       (4分10秒)
「パペッツ」
                       (3分54秒)
「イフ・ユー・ウォント」
                       (5分04秒)
「ピープル・アー・ピープル」
                       (4分08秒)
「サムバディー」
                       (4分46秒)
「ライ・トゥ・ミー」
                       (5分26秒)
「ブラスフェマス・ルーモアズ」
                       (5分24秒)
「マスター・アンド・サーヴァント」
                       (5分11秒)
「フォトグラフィック」
                       (4分08秒)
「エヴリシング・カウンツ」
                       (5分31秒)
「シー・ユー」
                       (4分01秒)
  〜イギリス・ロンドン ハマースミス・オデオンで収録〜
                         <ライブ>
鈴木慶一は当事のデペッシュモードのライブを聞いて「奥深さ」を感じる、と言ってたけど、聞いてる最中、僕はほとんど爆笑していた。アンコール曲の「シー・ユー」なんて、当事は涙ぐみながらレコード聞いていたのに、どうして今、笑いがこみあげてくるのか。

機動警察パトレイバー

ドレミハ大学生、お勝手の花嫁、あなた買います、愛より愛へ、緑なる人、『ナスカ』

The Milk@オタロード〜JK21@マイケルキューブ、ラブドワン
幸福実現党の新憲法案が新聞に大々的に掲載されていた。
国民投票で大統領を決める、とか、軍隊をもつ、とか。
気になったのは、「現実的」という言葉を使って、北朝鮮などの脅威をみとめて、だから軍隊が必要、という理屈になっていたところ。
歴史に何も学んでいないうえ、せっかく幸福を実現させる宗教を母体にしているのに「現実的」なんて言葉を憲法に使ったのが、とても残念。
「幸福の科学」はかつては知識人に支持されている宗教だったと思うのだが、現在では違うようになってしまったのだろうか。不勉強ゆえわからないが、あの憲法読んでいるだけでは、危険性しか覚えない。
ミルキーハット@アリオ八尾〜SCANDAL@ディスクピア日本橋、ロストコネクション

『貧困と思想』、魔術の恋
『貧困と思想』、魔術の恋

『チックタック』(上・下)
『チックタック』(上・下)
ディーン・クーンツの『チックタック』(上・下)を読んだ。
翻訳は2008年だが、クーンツ1996年の作品。これがまあ、凄い作品だった。
上巻はまあ、こわいこわい。
主人公は、アメリカンライフにどっぷり浸かろうとしているベトナム人。
新車に乗ってとばしてたら、カーラジオから雑音とともに、自分の名が呼ばれる。
キャ〜〜〜〜〜〜〜〜!
家に帰ったら、黒糸で×印の目と口だけがある、白い人形。
その人形がいきなり、襲いかかってくる!
ギャ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!
口をあけたら、風で枯葉が口に入ってきて舌を刺す!
ペッペッペ〜〜〜〜〜!
椅子に座ったら、ピンがふとももに刺さる!
イテテテッテテッッッテテ〜〜〜〜!
こうじゃないか、ああじゃないか、とこわがる心理を描写して、さんざん読者をこわがらせる。
そして、どこまでも追いかけてくる人形から逃げる主人公!ここらはクーンツの独壇場だ。
ブードゥーの人形か?と思わせる30センチ足らずのジンジャーブレッドマンみたいな人形が、いつのまにやら大きくなり、ついに大柄な人間の大きさになって追いかけてくる。
銃で撃っても、ぜんぜん退治できない。
主人公は、この人形を「ラヴクラフトの作品に登場する太古の神々のひとりのようなもの」と妄想する。
さて、下巻に入ってからの展開は凄すぎる。上巻でのホラー、スリルがなければ、スラップスティックじゃないか、と勘違いさせるようなオフビートぶり。
主人公を助ける女性があらわれるのだが、この女性のスーパーウーマンぶりが、常識を超えているのだ。御都合主義を100回積み重ねてもまだ足りないくらい。作中で、主人公自身が「マンガ本」と評するほどのありえない超人ぶり。しかも単なるマンガ本じゃない。殺人鬼ジェフリー・ダーマーが作者のマンガ本みたいだ、とたとえているのだ。主人公はもう頭の中がハテナの嵐だ。
スーパーなのは、この女性だけじゃない。
作中人物が「Xファイル」と言ってしまうほどのスーパーナチュラルな世界が洪水になってあふれだす。
これが夢オチでなかったとしたら、まったく狂った電波小説にちがいない、と思えたほどだ。夢オチ以外、収拾のつけようがないむちゃくちゃな展開なのだ。
こんなムチャクチャ電波支離滅裂キチガイ世界の前では、上巻であんなに恐ろしかった人形も影が薄くなってしまう。そして、実際、気がぬけるほど簡単に脅威がおさまってしまうのだ。人形が退治されるシーンでは、居並ぶ登場人物たちのなかで、いちばんまともなのが、この人形だと言い切れるほどだ。
しかも、人形の脅威がなくなったあとに、思わぬ魔法合戦があり、ラストにいたっては、ついにみんな狂ってしまったのか、と思えるような、ハッピーエンドを迎える。
どこかおかしい、と思わせるこの世界では、言葉づかいも少し変になる。
主人公も他の登場人物も、こんな言葉使いをする。
「教えてくダサい」
おかしな世界の一端を知っていただくために、主人公の母と、くだんのマンガ本女との会話を引用しておこう。

「しゃべっていては聞くことはできないわよ」とトミーの母親。
「たわごとです」
「不愉快な娘だね」
「わたしは天気です」とデル。
「なんですって?」
「不快でも快適でもない。わたしは、いまたんにここにいるだけです」
「竜巻もそう。でも、不快で危険」
「わたしは地質学的というより気象学的なんです」とデル。
「どういう意味?」
「岩山より竜巻でいるほうがまし」
「竜巻は去来し、山は常に不動だわね」
「山がいつも同じ場所にあるとはかぎりません」
「常に同じ場所にある」トミーの母親は断言した。
デルは首を横に振った。
「とはかぎりません」
「どこに移動する?」
「太陽は爆発し、新星となり、地球は吹き飛ばされる」デルは勢いづいて答えた。
「あんた、いかれてるね」
「十億年ほど待って、その目で確かめればわかります」

なに?この会話。
この会話はまだまだ続き、こんなくだりも。

「それは大規模なジャンケンのようなものなんです」とデル。「竜巻は岩を負かします。なぜなら、竜巻は情熱だから」
「竜巻はただの熱気だね」
「冷気です」
「どちらにしろ、大気だよ」

「あんた、おかあさんがいるの?」トミーの母親がたずねた。
「実を言うと」とデル。「昆虫のタマゴから孵化したんです。わたしはただの虫けらですから。幼虫です」

ううむ。狂ってる。この会話では主に、マンガ本女のデルがむちゃくちゃだが、この会話は、悪魔人形に追い掛けられている真っ最中の会話で、よくぞこれだけ電波会話する余裕があったものだ、と思わせるが、彼らがこれからどこに行くのかと言えば、トミー(主人公)の母親の強いすすめで無理矢理、知り合いのヘアドレッサーのところに向かっているのだ。どういう状況で散髪にでかけてるんだ!(のちに、その意図とか判明するけど)


加藤周一の『私たちの希望はどこにあるのか 今、なすべきこと』を読んだ。
講演と質疑応答の記録。
以下、目次。
第1部 講演
1、戦争について考える
良心的徴兵拒否
戦争は英雄的か
戦争宣伝の嘘
目的はどこに
目的は達成されたか

2、希望はどこにあるのか
小さなグループの活動
空前の反戦運動
米国の変化の可能性

3、今、なすべきこと
何ができるのか
暴力と非合法
まだできることはある

第2部 会場からの質問に答えて
メディアの状況について
戦争は人間の本性ではないか
宗教に戦争を止める力があるか
正義の戦争はあるか
徴兵制の話は飛躍があるのでは
北朝鮮問題の現状と打開の方向は
知識人の定義は
若い人へのメッセージを

第1部の「何ができるのか」で、加藤周一は、市民が社会的責任をまっとうするためにある行動に出ようとする際に3つの段階がある、と言っている。そのひとつめにあげているのが、次のとおり。
「反対すべきか賛成すべきか考え、迷います。迷えば迷うほどいいのです。(中略)複雑な問題についてはただちに断言しないで、迷うほうがいい」
と、いうわけで、第1部の講演内容については要約せずにおく。
第2部の質疑応答での加藤周一の回答から、部分的に引用だけしておこう。
「メディアの状況について」
マスメディアが何に沈黙するかが決定的に重要なことがあります。
マスメディアが伝えないことに注意する必要がある。

「戦争は人間の本性ではないか」
そもそも人間の本性なるものはよくわからないでしょう。
タナトスとエロスはたいへんおもしろい。
おもしろいけれど、どこまで信用できるのかわからない。

宗教戦争についてはデマが多い。
私は戦争の原因としての宗教戦争というものは、あまり大きな要素ではないと思います。

「宗教に戦争を止める力があるか」
クエーカー教徒は武器を持たない、たとえ自分が殺されても人は殺さないという思想で、典型的な良心的兵役拒否として認められています。

ローマ法王のヨハネ・パウロ2世はイラク戦争では素晴らしかった。
彼はたえず戦争反対をカトリック教徒に呼びかけ、ホワイトハウスにも直接手紙を送り、徹底的な反戦の立場を貫きました。

「正義の戦争はあるか」
私は絶対平和主義じゃないので、ある場合には正義の戦争を認めなければならないと思います。
1つはいわゆる正当防衛。

しかし、将来攻撃されるかもしれないからあらかじめ相手を攻撃しようという話ではない。
2つ目は、誰が判断するのか非常にむつかしいのですが、いわゆる人道的な見地で、人権の蹂躙があまりにも巨大で、残酷で、疑問の余地のないほど現実に目の前で進行しているという場合。

どちらかといえば、私は心理的にはナチに対する戦争は正当化したいと思う。そしてナチの同盟国は日本ですから、そうすると日本に対する戦争も正当化されることになります。

「徴兵制の話は飛躍があるのでは」
第9条に関していえば、国際紛争に関して武器を使用しないで解決しようというのが、一つの建前としての対外政策の根本的な方向を決めています。
『日本周辺』では自衛隊が行動できるか、周辺とはどこまでか、北緯何度、東経何度までかということが問題じゃなくて、国際問題に軍事力を使うか使わないかということが問題です。

「北朝鮮問題の現状と打開の方向は」
どうして北朝鮮問題の場合には、相手が対外的に合理的な行動をするだろうという賭けに出ないのか。それは納得できません。

初めからけんか腰でやっていたのではますます危険は増大します。できるだけ危険を小さくしようという話で、ゼロにはできない。そのためにどうしたらいいかといえば、朝から晩まで北朝鮮の悪口を言っていてもはじまらないのです。

「知識人の定義は」
知識人の定義は、自分が知識人だと思っている人のことです。

「若い人へのメッセージを」
これがいいことだというのが1つあって、それにみんなが賛同すべきだという考え方をやめるように努力することが、集団としても個人としても大切だと思います。
2つめはヒューモア。

たまたまこの日、録画してあった「よろセン」で中島が偉人の1人としてヒトラーおじさんを解説する回を見直したところだった。
この回は、ヒトラーを親しみある人物として語るとはなにごとだ、と苦情が殺到したらしい。
かつては同盟していて、ヒトラーを礼賛していた日本人が、今では問答無用で拒絶反応を起こしているのだ。ヒトラーを悪者として毛嫌いするのなら、それと同じ程度に、日本の軍人たちも毛嫌いされてしかるべきだと思うのだが、実態はどうなんだろう。

豹の眼、青竜の洞窟、秋聲旅日記、『思春期ポストモダン』
豹の眼、青竜の洞窟、秋聲旅日記、『思春期ポストモダン』
豹の眼、青竜の洞窟、秋聲旅日記、『思春期ポストモダン』
鈴木重吉監督の「豹の眼」を見た。高垣眸原作、1956年。
主人公の杜夫を演じるのは北原義郎。
密輸船でとじこめられるイランゴール王国の沙利姫。
悪漢ジャガーは2つにわけられた地図を手にいれて、財宝のありかを知ろうとしている。奪い取ろうとしているのは、地図を隠した「王位の指輪」だ。
それを阻止しようとする王大人。指弾の使い手。
「豹の挑戦、三人の運命、王大人とは何者」で後編に続く。
ジャガーはまるでマグマ大使のアースみたいで、これは善にも悪にも象徴できる姿なんだな、と感じた。
存在感を出していたのは、踊りまくる巫女。
また、王大人の過剰な棒読み台詞は破壊的なまでであったので、ちょっと興味がわいた。
王大人とは何者?まさにしかり!

鈴木重吉監督の「青竜の洞窟」を見た。「豹の眼」の続編。1956年。
「豹の眼」で馬鹿踊りを見せていた巫女は、本作でも踊りまくっていたが、矢文の矢で射殺される。無駄死にだ。
杜夫は柔道の達人で、格闘シーンでもどっすんどっすん悪人を背負い投げで投げまくっていた。
一方、悪者のジャガーは、バラモンの妖術を使う。ダルシムみたいな瞬間移動技や、分身の術を使うのだ。
また、王大人は少林寺拳法の使い手で、それをかいまみせるアクションシーンは皆無なのだが、指でピーンと物をはじいて敵を倒す技にたけている。
この王大人が、杜夫の兄であったことが明かされる。
王大人を演じているのが元水泳選手の浜口喜博で、だからあんなにせりふが棒読みだったんだ、とわかった。日本版ジョニー・ワイズミュラー。
さて、柔道、少林寺、バラモン妖術いりみだれた戦いは、ジャガー自身が策略として使っていた笑死薬の餌食になって、笑い狂って崖から落ちて死んでしまう。コンプリートされた地図は、「こんな簡単な地図なら、半分でもじゅうぶんわかる」と大声で言いたくなるようなものだった。

青山真治監督の「秋聲旅日記」を見た。2003年。
徳田秋聲の「挿話」(1925)「籠の小鳥」(1923)「町の踊り場」(1933)「旅日記」(1935)を原作としている。秋聲を演じるのは嶋田久作。
故郷金沢に帰ってきた秋聲が鮎を食べたり、旧知のおかみ、お絹(とよた真帆)の旅館に投宿して原稿用紙に文字を埋める日々を過ごしたり。また、ケイコ・リーのジャズをゆったり聞いたり。
原作の年代も考え、秋聲本人が出ているのだから戦前の話なのかな、と思っていたが、(原作は1920〜1930年代の作品だから、戦前に違いない。そもそも没年1943年だ)映画のなかでうつる風景は明らかに、現代だった。古風なものを残した現代。映像もフィルムではなく、デジタルビデオではっきりと現代を主張していた。
これはつまり、金沢には秋聲が過ごした戦前の風景が今でも残っていますよ、ということを言いたかったのだろうか。
秋聲は、お絹のことを謎と感じている、という独白をもって作品は終わるが、現代に生きる秋聲の存在自体が謎である。

斎藤環の『思春期ポストモダン 成熟はいかにして可能か』を読んだ。
以下、目次。

序章 若者は本当に病んでいるのか
イタくて面白い見世物
ストレス発散法としての「若者論」
対話不可能なエイリアン
変貌したのは年長世代のほう
「発達障害」という診断の罪深さ
僕たちと地続きの問題として
「病因論ドライブ」という仮説
人はなぜ精神病にかかるのか
「家庭内暴力」に作用する「病因論ドライブ」
「病因論ドライブ」の解除としての「ひきこもり治療」
「サブクリニカル」の時代に

第1章 思春期という危機
「生きづらさ」の現代性と普遍性
不安定なのが当然の時期
若者は「凶悪化」していない
30年以上続く「無気力」モード
非社会性を批判するレッテル
フリーター、ニート、ひきこもり
35歳まで上がった成人年齢
社会の成熟度と個人の成熟度は反比例する
強化されつづける母子密着関係
韓国でも「ひきこもり」が増えている

第2章 欲望を純化するネット社会
近くにいるのに限りなく遠い
ひきこもり系?じぶん探し系?
コミュニケーション能力で決まる勝ち組・負け組
開放系メディアと閉鎖系メディア
つながりたいけれど親密になりすぎるのは嫌
特殊な親密さのモード
つながるだけでは満たされない
問題は脳への影響ではなく嗜癖性
「もう死にたい」の書き込みは何のため?
死にきれない若者たちの両刃の剣
ネットは欲望をフィルタリングする
「匿名性」と「欲望」の危険なカップリング

第3章 境界線上の若者たち
自分の空っぽさに気づいたときに
繊細で不安定、かつ衝動的−境界例
「白か黒か」でしか判断できない未熟さ
重要性を増している「解離」の概念
「キレる」のも一種の解離?
トラウマが原因となる精神障害−PTSD
「いじめ」がPTSDをもたらすことも
生きている実感を得る手段としての自傷行為
心理学化する社会と境界例
「こころの図式化」がもたらす病理

第4章 身体をめぐる葛藤
「見られるからだ」としての自分の身体
拒食症と過食症
混乱するジェンダー・アンデンティティ
ツィギー・ブーム以後、患者が急増
TVが決める理想のボディ・イメージ
女性は「表層」に病み、男性は「本質」に病む
拒食は「主体的な選択」なのか

第5章 学校へ行かない子どもたち
ただ増えているだけなら問題ではない
「登校拒否」から「不登校」へ
不登校の分類は役に立つか?
時には治療が必要な身体症状も
15〜20%が「ひきこもり」に移行?
学校が子どもをつなぎとめる力を失った
深く関われば子ども個人がみえてくる

第6章 ひきこもる青年たち
「ひきこもり」とはどんな状態か
先駆的な支援は1970年代から
激しい葛藤にさいなまれる日々
ひきこもりは病気なのか
正気ゆえに自由を奪われるという逆説
精神医学が目指す「健康」
悪循環が支える「ひきこもりシステム」
自意識をめぐる悪循環
ひきこもりは日本固有の問題か
同居文化ゆえの特異な「不適応」
家出型自立モデルと親孝行型自立モデル

第7章 「思春期」の精神分析
個人の病理だけに働きかけることの限界
「ひきこもりシステム」にどう介入するか
家族療法からの発想
治療者の特権的立場を認めない
ひきこもりを擁護するのか、治療するのか
「関係性」をあつかう道具としての精神分析
「分裂性分析」の過激な試み
「思春期のリアル」をとらえるために

著者の仮説「病因論ドライブ」に基づいて若者の心について分析された本。
「病因論ドライブ」とは何か、というと、本書から引用すると。

「本書で取り上げるのは、生物学的にも社会的にもおよそ問題のない状況下で、主として心理的要因として生じてくる、ある種の病理の問題だ。心理的、と断定できるのは、それが明らかに『状況に対する反応』として生じているためだ。」

「ほぼ『健常』であるはずの『個人』に、病理的な言動を強いるもの。単純に環境や社会、あるいは個人の状況に還元できないような、この関係的要因を、僕はかつて『病因論ドライブ』と命名した。
そう、ある種の『病気』は、『病理なき個人』と『病理なき社会』との<間>で起きる。

また、タイトルの「ポストモダン」は「主体概念が無効になった時代」という意味で使われている。
あとがきによると、サブタイトルの「成熟はいかにして可能か」は反語だという。
なぜなら、ポストモダンは成熟という概念の価値が徹底して失われる時代だからだ。
まあ、僕だけいつまでも未熟なままで、まわりがみんな成熟してくれれば、こんなに楽なことはない、と思うけどね!


吸血鬼(カール・ドライヤー)、魔の家、吸血鬼ボボラカ、怒苦呂
吸血鬼(カール・ドライヤー)、魔の家、吸血鬼ボボラカ、怒苦呂
吸血鬼(カール・ドライヤー)、魔の家、吸血鬼ボボラカ、怒苦呂
今日は病院に行く日だったのだが、体調がよくないせいか、脳神経科のソファ(これがまた気持良い)で30分くらい眠ってしまった。
体調、といっても、顔にいくつか熱の花のようなものが出来ているだけなのだが。でも、これって内臓がイカレてる証拠なのでは。と、いうより、それよりももっとなおさねばならない箇所があるんじゃないか、と自分で自分にツッコむ。

カール・ドライヤー監督の「吸血鬼」を見た。1931年
ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュの短編集『In a Glass Darkly』より。
吸血鬼の話なんだからカーミラからかな。近いうちにレ・ファニュ読んで確かめておこう。
トーキーなのに、まるで無声映画のような白昼夢感覚。
壁にかけられた死の図像や、置かれた頭蓋骨、実体を離れて動き出す影、逆回しになった影。「お医者様はなぜいつも夜来るの?」。死後開封の謎のおきみやげする夜の不法侵入者。
すべての雰囲気が不気味な方へ、不気味な方へ、といざなう。
最近見た映画のなかでは、文句なしに一番面白い!
カール・ドライヤーのビデオとかDVDが出ていないかな、と思ってネットで調べたら、検索にひっかかるのは電機店ばかり。たしかに、カールドライヤーって、家電製品だわ。

ジェームス・ホエール監督の「魔の家」を見た。1931年。
J・B・プリーストリー原作らしいが、未読。
ボリス・カーロフが唖の召使いモーガンを演じる。唖なのに「盲眼」とはこれいかに。
嵐にあって館に集まった人たち。酔っぱらって暴れるボリス・カーロフ。座敷牢から解放された家族。起こる惨劇。
この館には、唖のモーガン以外に、難聴の姉、神経症の弟など不気味な人がおり、嵐の古い館。ホラーのお膳立てはたっぷり。なのに。
ドライヤー見たあとでは、どの登場人物もアメリカンすぎて惻々と迫る恐怖を感じられなかった。見る順番に留意すればよかった。もとより、監督自身が、あえて強欲で饒舌なアメリカ人を演出してはいるのだが。歪んだ鏡にうつる顔の映像が唯一こわかった一瞬。

マーク・ロブソン監督の「吸血鬼ボボラカ」を見た。1945年
ボリス・カーロフは厳格な軍人。
伝染病が発症した島を隔離しようとするボリス・カーロフと、わがまま勝手にそれに反抗するアメリカンなアメリカ人たちと、迷信にとらわれる人々。
狼の魂を有する人間(ボボラカ)が迷信なら、南風が吹けば病気がなおる、という医学的見地も迷信すれすれだ。

白井戦太郎監督の「怒苦呂」を見た。1927年の無声映画。
主人公の潮霊之介(うしお・れいのすけ)を演じるのは市川右太衛門。キリスト教の信者で、教徒軍をひきいて幕軍と戦う。魔性の女、染壽院(せんじゅいん)は、今見ても蠱惑的だが、霊之介は落ちません。
ターミネーター4〜エニシングゴーズ@マイケルキューブ
今日はTOHOシネマズが映画千円の日。
マックG監督の「ターミネーター4」を見に行った。2009年。
ジョン・コナーはクリスチャン・ベイル。
マッチョなキカイダー、マーカスはサム・ワーシントン。
これは、もうほとんど戦争映画だった。
映画見ていて、何度も顔や手を洗いにいきたくなった。土や血やもろもろが全身についているような気がしたのだ。
メカにも凝っていて、何か出てくるたびに、登場人物が「モトターミネーター!」「エアロスタット!」と大声でその名前を呼ぶのが面白かった。
モトターミネーターは、バイク型のターミネーターだが、万年筆を走らせたような形状というか、すぐに転がりやすくて、印象はまるでリュージュだった。
さて、後半、クライマックスで、いよいよ、おなじみのあいつも出てきて「こんなところでアイルビーバックなのかよ!」とつっこんだ。
昨日見た「ダニー・ザ・ドッグ」では、強さと大きさは比例しないのだが、この「ターミネーター4」では強さは大きさで表現されていた。いかにもアメリカンだ。闘い方に、「なるほど、その手があったか!」という頭脳的闘いなどなかった。アメリカンだ。
泥臭くて、男くさくて、油臭くて、大きく強い、体育会系の映画だった。
見に来ているお客さんもアメリカンで体育会系の人だったらしく、エンドロールなどいっさい見ずにしゃべりながら出て行く人が多かった。

午後6時からアメリカ村マイケルキューブでJK21のエニシングゴーズ。
サウンドクルーはジョージ、さあや、ワッキー、ツバッキーの4人。応援には月脇とももな。
前回のアトリエクラブで、ゴッキーが出て大騒ぎになったらしい。
また、名探偵コナンのコスプレしようと言い出しっぺのさあやが眼鏡忘れて、却下になった、とか。
曲間で突如ジャンケン。
プチ自慢のコーナーでは、前回優勝したさあやのダンボール割りが披露された。
各人のプチ自慢は、ももな「アイス無料」、ワッキー「ケンタッキーで熟睡」、みなみ「トイレで熟睡」、月脇「鉛筆立て」、ジョージ「カードマジック」
昨日見た「花とアリス」では蒼井優が父親譲りのカードマジックを見せるシーンがあった。連日、少女のトランプマジックを見ることができるとは、これはまた、奇遇な。
神の声の判定は、優勝はジョージ。最下位はみなみ。椿みなみの罰ゲーム物真似は、ちびまる子の「タマネギ坊や」(?)
ワッキーのインフォメーションはシンコペーション。
大予言のコーナー。
担当はワッキーで、「梅雨におしゃれな長靴が流行る!」と。はずれたときの罰は、居残りでセット片付け。

今日は日曜だったので、朝はラジオで落語、昼前はテレビで将棋、夜はラジオで現代音楽。
「なみはや亭」猫の災難/笑福亭松鶴
「よもやま噺」小米がゲスト。そこにざこば、米団治が時間差で乱入。
NHK-FM「現代の音楽」
                         猿谷 紀郎
                    【ゲスト】高橋 アキ
 − 演奏家に聞く〜高橋アキ −(2)
「ピアノのための変奏曲 作品27(1936)」
                 アントン・ウェーベルン作曲
                       (7分11秒)
                    (ピアノ)高橋 アキ
              <EMI QIAG−50037>
「音価と強度のモード(1950)」 オリヴィエ・メシアン作曲
                       (3分28秒)
                    (ピアノ)高橋 アキ
              <EMI QIAG−50037>
「ルーティン・インベスティゲーションズ(お定まりの研究)
          (1976)」モートン・フェルドマン作曲
                       (7分25秒)
         (アンサンブル)アンサンブル・ルシェルシュ
   <AUVIDIS IMS MONTAIGNE
                    MO 782018>
「“弦楽四重奏曲 第2番 クレイジー・クラウド”から
   第2楽章“モリ”(1994)」ピーター・ガーランド作曲
                       (9分50秒)
            (弦楽四重奏)アパートメント・ハウス
            <cold blue CB0031>
「バンシー(1925)」       ヘンリー・カウエル作曲
                       (2分32秒)
                (ピアノ)ヘンリー・カウエル
<SMITHSONIAN FOLKWAYS SF40801>
夏に聞くアキもよいものだ。
吉田哲也展@アートスペース亜蛮人、アイデンティティー、ダニー・ザ・ドッグ、花とアリス
吉田哲也展@アートスペース亜蛮人、アイデンティティー、ダニー・ザ・ドッグ、花とアリス
吉田哲也展@アートスペース亜蛮人、アイデンティティー、ダニー・ザ・ドッグ、花とアリス
アートスペース亜蛮人で吉田哲也展「Works from 1997 to 2009」
ダークなメルヘン絵本世界。
近作は動物がよく描かれているが、不具の人間の絵などもあり、全体に可愛い見世物という感じ。
西宮大谷記念美術館で毎年開かれるボローニャ国際絵本原画展に行って、お気に入りの絵が飾ってあるのを発見したような個展だった。
http://animalcirkus.cocolog-nifty.com/

鼻の下に吹き出物ができてしまったので、あまり外出せず、剃るのもこわいのでひげをのばしたままにして、完治するのを待つ。特に薬は塗ったり飲んだりしていないが、1週間も放っておけばだいたいは綺麗になおっているのである。
そんなわけで、今日も家でビデオ見て過ごす。

ジェームズ・マンゴールド監督の「アイデンティティー」を見た。2003年。
ジョン・キューザックとかレイ・リオッタとか出ている。
嵐で道路がとざされたため、1軒のモーテルに集まった登場人物たち。
わがままな落ち目の女優とそのマネージャー、売春婦、事故で負傷した女性、囚人護送中の警察などなど。
部屋番号の「6」がひっくりかえって「9」になったりとか。
とくにつながりのなさそうな人物たちが集まったモーテルで起こる連続殺人事件。
単なる殺人鬼映画かと思ってたら、このあたりからクローズドサークルのかなりまっとうなミステリの匂いがぷんぷんと漂ってくる。
死体にはまるで死の順番を示すかのごとき数字のルームキーが発見される。
「りら荘」?
そして、クライマックスで明かされる真相は、まあ、こいつはびっくり。
あらかじめ、こういう趣向がある映画だと知っていたら、眉につばつけながら見たのだが、無防備だったので、映画のちょうど真ん中あたりで、真相を示す手がかりがポイと出たときには「なに?」と居ずまいをただした。
全体の雰囲気は、『グール』みたい。ラストあたりは、思わぬ人物の思わぬ悪い表情に驚いた。ジョン・キューザックだって、最初僕が認知したときは、豹変して悪い表情を見せる人物だったのだ。
しかし、死体が消えてしまうのは、いくらわかりやすくするためとはいえ、わかりやすすぎる。

ルイ・レテリエ監督の「ダニー・ザ・ドッグ」を見た。2004年。
幼い頃から殺犬として育てられたジェット・リーが、盲目のピアノ調律師モーガン・フリーマンの家で、人間らしさを身につけて行く。
動物的なジェット・リーを人間としてマナー等を教え込む。定番?
と、まあ、臭い話はともかく、ジェットリーの殺し屋ぶりが面白かった。
首輪をはずされ、殺せと命令されたら、ジェトリーはボカスカ敵を殺すのである。
脚本にリュック・ベッソンが加わっている。さすがベッソン、ベタすぎる。
ジェット・リーが地下格闘に登場して闘うシーンもある。

岩井俊二監督の「花とアリス」を見た。
女子高生の日常と恋愛。
あこがれの人を記憶喪失と思い込ませて、花とアリスが今カノと元カノを演じる。
落語とバレエ。そして写真。
これ、僕、前にも見たのかな。明らかに知っているシーンが次々と出てきた。
でも、心地よくて、最後までじっくりまた見てしまった。この時間が一生続けばいい、と何度も思った。
鈴木杏の泣くシーン(あっけらかん、と涙が止まる、奇跡のシーン!)もいいし、蒼井優にいたっては、すべてが良い。共演の広末も不思議な立場で映っていた。広末が目を離したすきに、蒼井優はバレエを踊るのだ。
タイトルの「花とアリス」は名前でもあるが、少女のうつろいゆく時間に対する2つの態度をあらわしているいい題名だ、とあらためて思った。
ブルース・オールマイティ、イブラヒムおじさんとコーランの花たち、ブラザーズ・グリム
ブルース・オールマイティ、イブラヒムおじさんとコーランの花たち、ブラザーズ・グリム
ブルース・オールマイティ、イブラヒムおじさんとコーランの花たち、ブラザーズ・グリム
国際美術館で小杉さんを見ようかと思ってたけど、とっくにチケット完売で、あきらめた。すごいな、小杉さん。完売なんて!
と、いうわけで、今日はどこにも出ずに家でビデオ。
夜勤明けで寝不足だったので、3本だけ。

トム・シャドヤック監督の「ブルース・オールマイティ」を見た。2003年。
ジム・キャリー主演。
舞台はテレビ局で、ジム・キャリーは笑かすレポーター。ついてなくて、キャスターの座もライバルに先んじられる。そんなジムキャリーが、ある日、神の力を得た。なんでも思うがままになる、と知ってジム・キャリーがやるのは、ライバルが番組中で失敗すること、とか。(このシーンは面白い!)
主人公が身勝手なキャラクターなので、オールマイティになっても、思ったとおりの効果をあげない。市民の祈りの声を全部聞くことで、かえってみんなに不満を与えてしまう、なんてのは定番のストーリーだが、これは作者によって、みんなに不満を与えるような結果が出るように操縦されているにすぎない。みんなの祈りを聞けば、その幸せの配当が少なくなってしまう、とか、だれかの幸せはだれかの不幸、なんていう思想を安易に使いすぎているような気がする。
結局、面白く思えたシーンは予告編にすべて凝縮されていた映画だった。
ラストのNGシーンは、わざとらしすぎて見ちゃおれなかった。ただし、ライバルが番組でボイスパフォーマンスしてしまうくだりもNGシーンで出てきて、これは愉快だった。ジム・キャリーがみせる一発芸もいつものお約束として見られる。

フランソワ・デュペイロン監督の「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」を見た。2003年。
イブラヒムおじさんは、主人公の少年の住む町で日用品、食料品を販売する店を開いている老人で、彼の店はアラブ人じゃないのに「アラブ人の店」と呼ばれている。朝から晩まで、日曜でもあいている店だからだそうだ。
主人公の少年はあまり笑わない子で、おじさんの店でこっそり万引きしたりする。
金を手にしては、立ち並ぶ娼婦のところで性欲を解消。
少年は父親との二人暮らしで、この父が神経質で、なにかというと、少年をその兄と比較する。その父親もリストラされて自殺してしまう。
そんな少年を導き育てるのが、「アラブ人の店」のおじさんだ。オマー・シャリフが演じている。
おじさんはスーフィー信者で、くるくる回るスーフィーのシーンも出てくる。
このおじさんが、おりにふれてためになることを言ってて、何度も巻き戻してメモにとったのだが、そのメモをなくしてしまった。これではためにならない。

テリー・ギリアム監督の「ブラザーズグリム」を見た。2005年。
グリム兄弟を演じるのは、マット・デイモンとヒース・レジャー。
インチキ悪霊退治をなりわいとしていた兄弟が、本物の魔物と戦う。
森の木がドラゴンクエストのじんめんじゅみたいにワサワサと歩く!
テリー・ギリアムが肩の力を抜いて作ったと思しき、楽しい作品だった。
随所にグリム童話からの引用がパロディでさしはさまれるが、一番笑ったのは、赤いりんごを(毒リンゴ?)をもってあらわれた老婆が、いきおいよく開いた扉にはねとばされて、それっきりになったこと。出演時間は10秒もなかったか。

『教会の悪魔』

2009年6月11日 読書
『教会の悪魔』
ポール・ドハティの『教会の悪魔』を読んだ。
13世紀のイングランドを舞台にしたミステリ。
密室の教会内で首吊り死体が発見された。国王の密偵ヒュー・コーベットが謎をとく。
中世のロンドンは汚くて臭い。当時の風俗、情景は臭いをともなって迫ってくる。

自殺と思われていたため、埋葬されず溝に捨てられた死体を探すシーン。
「形容できないほどの臭気にコーベットはすぐさまマントの端で鼻と口をかばった。坑にあふれんばかりのごみが寒さで凍りつき、冬でこれなら盛夏はどんなざまか、想像するのがやっとだ」
「そこは犬猫や間引いた赤ん坊の死骸ばかりか刑死者や自殺者の死体捨て場でもある」

主人公の妻子はペストで死んでいる。
「あのころは妻もわが子もほがらかに健やかで、清潔な四肢に恵まれていた。それがわずか数日のうちに、どちらも腫瘍(よこね)だらけの全身に膿を吹き出し、おぞましく臭気ふんぷんたる生きた屍に変わり果てた」

さらし刑の描写。
「両手をさらし台に固定されて腐った魚を首にぶらさげた男がぽつねんと座っていた」

19世紀まであったという熊いじめの見世物。
「動くのがやっとの巨大なけものが血走った目を怒りにたぎらせてけしかけられた犬を睨み、爪を立て、吼え、とびかかるたびに毛皮や血が飛び散る」

コーベットの推理により自殺ではなく殺人事件であることが判明し、悪魔崇拝の邪教の存在が浮かび上がる。徳川の時代に豊臣の残党が幕府転覆を狙う、みたいなイメージが湧いた。
読んだ感じは、まるで捕物帳である。当時の時代を感じさせる描写を楽しみ、複雑でない謎を楽しむ。時代小説が大好きな僕としては、非常に面白い。この和爾桃子という訳者は、ヒューリックのディー判事シリーズも翻訳しており、そっちも時代劇だった。
密室トリックは、手塚治虫のケン一探偵長のバリエーション。
犯人探しについては、これも捕物帳的。
昔、週刊誌に「遠山の金さん」の犯人当て懸賞小説が連載されていたことがある。40年くらい前?
それを読んで思ったのは、いかにも悪そうなやつが、真犯人なのだ。
意外性はまったくないが、悪いやつ、いやなやつがやっぱり犯人として裁かれるところに、大衆小説の王道を感じたのだ。そのときはまだ存在しなかったが、まるで2時間ドラマ、と今なら思うだろう。
この『教会の悪魔』もそれに似て、読んでいて「ああ、きっとこいつが犯人にちがいない」とはっきりとわかるようになっている。意外性はないが、物語としては、それが最も自然で、物語が成立する設定になっている。
安心して読めるミステリ、と思って読み終えたのだが、著者あとがきに、とんでもないどんでん返しが待っていた。
「どひゃー!」とひっくり返った。
このシリーズ、次も同様の趣向が待っているんだろうか。

『破壊と拡散』

2009年6月10日 読書
『破壊と拡散』
サミュエル・ウェーバーの『破壊と拡散』を読んだ。月曜社の暴力論叢書第1巻にあたる。
以下、目次順に簡単なコメント。

*日本語版序文 自己−保存から自己−免役化へ
デリダを援用しつつ、グローバリゼーションとテロとの戦いなど今日の西洋的政策を分析する。
作者は、非−西洋的伝統と文化に属する読者(つまり、日本人)からの応答に関心を寄せている。
でも、僕から見ると、日本がはたして「非−西洋」の役割をになうに足るのかどうか、よくわからない。

*「戦争」・「テロリズム」・「スペクタクル」−タワーと洞窟について−
1、戦争・テロリズム・スペクタクル
戦争の劇場化について。タイトルのタワーは9月11日のツインタワー、洞窟はアフガニスタンのトラボラの洞窟。
テロリズムに対する戦争、というときの「戦争」はグローバリゼーションの擁護であり肯定である、と説く。地球規模で単一の秩序を課すこと、秩序を生き延びることへと関連づける役割はテレビなどのメディアによってなされる。その一例が、愉快。
「それはたとえば『チャンネルはそのままで。すぐ戻ってきます』という『コマーシャルによる中断』に関する儀式的告知においてあらわれている。そのままでいてください−そして生き延びてください。つまりは、わたしたちのもとを離れたら死んでしまいますよ、ということである」
2、信念・罪・テロ−ある古い物語の新たな章
トクヴィルの『アメリカの民主主義』では、「アメリカ人の哲学的方法」を特徴づけるのは自分自身の知性を用いようとする個々人の努力への信念だという。これは、自分自身の知性以外何事も信用しなくなる、つまり、他者をまったく信用しなくなることを意味している。
作者はホーソーンの『ヤング・グッドマン・ブラウン』をひきながら、「邪悪なもの」には「我慢できない」今日のアメリカを分析する。「我慢できない」ので、それについて議論したり解釈することはできず、排除だけがなされる。

破壊と拡散−権力の2様相−
テロは、もはや決まった立場をとることはなく、前線に姿を現すこともなく、戦闘において戦うのではなく、むしろ至るところで起こりうる断続的な攻撃を通じて戦う。テロは軍事的、警察的報復措置により逆に助長される。
目に見えない敵の非直線的な危険を、直線的(軍事的)に処理しようとしているのが、今のアメリカだ。軍事的措置で敵を特定の領土から排除すれば、敵は拡散するが、それは同時に敵を増大させ、強大化させる。パックス・アメリカーナは無限の正義の時代になるのではなく、無限の不正という破壊的な螺旋になるだろう、と作者は述べる。

戦時
1、(無題)
プラトン以来の、所有権の侵害としての暴力という考え方。
外からの侵害という概念の英語での「暴力(バイオレンス)」と、規則の保持、強制力を意味するドイツ語での「暴力(ゲバルト)」(ベンヤミン)
2、戦時 分割の動員結集
フロイトの『戦争と死に関する現代的見解』を読み解く。
フロイトの「幻滅」はヨーロッパ中心主義、帝国主義的偏向の失敗、コミュニケーションの手段が増加したのに、「文明化された諸民族が互いにほとんど知り合うことも理解しあうこともないため、一方が憎しみと嫌悪をもって他方と敵対するなどというほとんど把握しがたい現象」が続いていることにある。
フロイトは、「知性が確実に働くことができるのは、強い感情の動きの影響から引き離されている場合のみ」だと述べ、また2つの対立する感情が同時に同居する「感情の両価性」を指摘する。
3、Tuer son Mandarin(彼の高官を殺す)
現代における死への関係について、フロイトの論文から読み解く。
自分の死は想像不可能で非現実的。他者の死は敵の死として寄せつけない。
ただ愛する者の死において、それを悲しむと同時に喜ぶ両価性があらわれる。
メディアによる、死と戦争のスペクタクル化(スポーツ観戦化)
タイトルの「彼の高官を殺す」はバルザックの『ゴリオ爺さん』から。
「自分の大きな利益になるという理由で、北京の老いた高官をたんなる意志の作用によって−パリを離れることなく、またもちろん発覚することなく−殺すことができるならば、それをするかどうか」
(フロイトの論文では、このあと、「ルソーはその高官の命があまり重視されないであろうことをほのめかしている」と続く。ただ、ルソーの著作からそのエピソードは発見されていない)

戦争と死に関する同時代的なもの/フロイト(1915年)
ウェーバーの「戦時」で読みといた論文の翻訳。ウェーバーが使用したのは主に英訳版だが、ここで訳出されたのは、ドイツ語版から。ウェーバー自身も文中で触れているように、必ずしも一致しない。
1、戦争の幻滅
2、われわれの死への関係
「生に耐えることを望むなら、死に備えよ」というフロイト製格言でしめくくられる。

訳者解説 戦時 開かれた時間/野内聡
回想シーンのような解説。


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