『麗しのオルタンス』
2009年6月9日 読書
ジャック・ルーボーの『麗しのオルタンス』を読んだ。
未読の人がいるのなら、今すぐ読むべき本だ。素晴らしすぎる。
ルーボーはウリポ(潜在的文学工房)の人なのだが、これが創元推理文庫から出たことが快挙だ!
たしかにミステリらしい趣向は多分にある。
事件は金物屋連続鍋散乱事件で、ポルデヴィアの小像が盗まれる古典的な謎もある。
ラストあたりにはいっぱしに真相をあばくシーンもある。
しかし、そういう、何か事件があって、推理によって真相を導き出す、というような普通の話ではないのだ、この1冊は。
途中、こんな章がはさまれる。「幕間その1 いったい何がどうなっているのか?われわれはどこまで進んでいるのか?」こういった章は、まるでカーみたいでうれしくなってしまう。
この章では、筆者から14と1つの謎が列挙されている。
それは「犯行が市街図上で金物屋の螺旋を描いているのはどうしてか?」「彼はなぜ小像を盗むのか?」と、いった事件の謎もあるし、「語り手が剽窃したブロニャール警部との最初の場面はどの小説にあったものか?」というようなものもある。これは説明抜きでは何のことだかわからないだろう。この小説は、なにかというと、語り手と作者がしゃしゃりでてくるのである。第6章「ブロニャール警部が自分と『語り手』との関係をようやく釈明できる機会が与えられたことにまんざら腹を立てているわけではないことについて」では、それまで語り手(私)だったモルナシエ(訳者あとがきによると、この名前は小説家romancierのアナグラム)にかわって、ブロニャール警部が「私」として語りだす。で、途中で、モルナシエからつっこみが入るのだ。
「待った!待った!待った!」と言って、語り手の座を奪回し、ブロニャール警部が語り手であった部分が他の小説の一場面をそっくり剽窃している、と告発するのだ。
こうした脱線は山ほどあるが、別の場面で挙げておくと、クライマックス直前、語り手につっこみが入る。
「とりわけ私の気持ちを知らないイヴェットがこれでもかというほどこと細かく報告するので、もし、大詰めに近づいている捜査の興奮と気晴らしがなければ、とても耐えられなかっただろうと思う。(だったらどうだと言うんだ、このイモ野郎!−筆者の註)(苛立ってやがる−語り手の註)(いいかげんにしないか。おまえさんたちの喧嘩につきあわされる読者の身にもなってみろ−校正部長の註)」
また、ついには読者までもが口を出す。
「『しかし』と、ここで読者の声があがった。『話の腰を折るようで恐縮ですが、私の記憶が確かであれば、まずは第16章で、次にはつい最近、23章でも、アラペード刑事が立ち会ったマダム・イヴォンヌとシヌール神父の会話において、そのベンチはまさにブロニャール警部が捜査に使っている以上、ふさがっていると言っているではありませんか』」
と、さらにこうしてはどうか、と提案したりする。
また、語り手が現場に立ち会えなかった部分の描写について、その場にいた猫から話を聞いて、書いているのだが、猫の検閲によって、膨大な伏せ字でその場面は語られるのだ。
そうそう、幕間で14と1つの謎と書いたが、なぜ1つだけわけたかというと、1つの謎だけは、即明かされるのだ。その謎というのが、猫に関することで、本編自体が脱線しまくっているうえに、猫の恋の話が併行して語られることになる。
ただ、これはびっくりしたのだが、この猫の恋物語が、本編の事件の謎ときに大いにかかわってくるのだ。まあ、仲を裂かれた猫が仕返しに、証拠品を移動させて、仲を裂いた人物を犯人として逮捕されるように仕組むのだが。
また、ミステリ的事件と関係ないが、図書館での顛末には笑った。
図書館があの手この手を使って、蔵書を閲覧者から遠ざけようとしていることについての攻防を描いているのだ。
とにかく、描写ひとつひとつがひとくせもふたくせもあり、訳者も言うように「破天荒な小説」で「抱腹絶倒の悪ふざけ」になっている。(筆者、語り手、校正部長、読者が小説にツッコミいれてる、と書いたが、訳者も出てくる場面がある)
事件の謎をいよいよ解こうとする際の、ブロニャール警部とアラペード刑事の会話が凄い。
「最初からすべてをおさらいしてみよう」
「お願いです、警部どの」とアラペード。「読者のことも考えてください。最初からすべてをおさらいするとしたら、ただでさえ長い話をさらに長く話さなければならなくなりますよ。なぜならば、物語に含まれる出来事のひとつひとつについて、それが捜査の全体に占める位置を明らかにするために、かなり詳しい説明を付け加える必要があるからです。そんな危ないことを受け入れようとする小説家などこの世にはあり得ないし、はたしてあなたがそこで留まることができるかどうかも疑わしい。仮に現時点でわれわれのいる場所にふたたびたどり着いたとしても、またそこで最初に逆戻りして、(中略)この小説は、今われわれがいる時点に最初に戻ってきたときには、当初の分量の3倍になり、2回目に戻ってきたときには、さらに厳密を期そうとして7倍の長さになることだって十分あり得るわけで、そうなるとそこで留まることができるとは到底思えず、1より大きい等差級数は収束を見ないわけですから、この小説を終えることができなくなる」
このくだりはさらにすごいことになるが、長くなるので割愛。
今年読んだミステリの中でも最高に面白かったかな。
未読の人がいるのなら、今すぐ読むべき本だ。素晴らしすぎる。
ルーボーはウリポ(潜在的文学工房)の人なのだが、これが創元推理文庫から出たことが快挙だ!
たしかにミステリらしい趣向は多分にある。
事件は金物屋連続鍋散乱事件で、ポルデヴィアの小像が盗まれる古典的な謎もある。
ラストあたりにはいっぱしに真相をあばくシーンもある。
しかし、そういう、何か事件があって、推理によって真相を導き出す、というような普通の話ではないのだ、この1冊は。
途中、こんな章がはさまれる。「幕間その1 いったい何がどうなっているのか?われわれはどこまで進んでいるのか?」こういった章は、まるでカーみたいでうれしくなってしまう。
この章では、筆者から14と1つの謎が列挙されている。
それは「犯行が市街図上で金物屋の螺旋を描いているのはどうしてか?」「彼はなぜ小像を盗むのか?」と、いった事件の謎もあるし、「語り手が剽窃したブロニャール警部との最初の場面はどの小説にあったものか?」というようなものもある。これは説明抜きでは何のことだかわからないだろう。この小説は、なにかというと、語り手と作者がしゃしゃりでてくるのである。第6章「ブロニャール警部が自分と『語り手』との関係をようやく釈明できる機会が与えられたことにまんざら腹を立てているわけではないことについて」では、それまで語り手(私)だったモルナシエ(訳者あとがきによると、この名前は小説家romancierのアナグラム)にかわって、ブロニャール警部が「私」として語りだす。で、途中で、モルナシエからつっこみが入るのだ。
「待った!待った!待った!」と言って、語り手の座を奪回し、ブロニャール警部が語り手であった部分が他の小説の一場面をそっくり剽窃している、と告発するのだ。
こうした脱線は山ほどあるが、別の場面で挙げておくと、クライマックス直前、語り手につっこみが入る。
「とりわけ私の気持ちを知らないイヴェットがこれでもかというほどこと細かく報告するので、もし、大詰めに近づいている捜査の興奮と気晴らしがなければ、とても耐えられなかっただろうと思う。(だったらどうだと言うんだ、このイモ野郎!−筆者の註)(苛立ってやがる−語り手の註)(いいかげんにしないか。おまえさんたちの喧嘩につきあわされる読者の身にもなってみろ−校正部長の註)」
また、ついには読者までもが口を出す。
「『しかし』と、ここで読者の声があがった。『話の腰を折るようで恐縮ですが、私の記憶が確かであれば、まずは第16章で、次にはつい最近、23章でも、アラペード刑事が立ち会ったマダム・イヴォンヌとシヌール神父の会話において、そのベンチはまさにブロニャール警部が捜査に使っている以上、ふさがっていると言っているではありませんか』」
と、さらにこうしてはどうか、と提案したりする。
また、語り手が現場に立ち会えなかった部分の描写について、その場にいた猫から話を聞いて、書いているのだが、猫の検閲によって、膨大な伏せ字でその場面は語られるのだ。
そうそう、幕間で14と1つの謎と書いたが、なぜ1つだけわけたかというと、1つの謎だけは、即明かされるのだ。その謎というのが、猫に関することで、本編自体が脱線しまくっているうえに、猫の恋の話が併行して語られることになる。
ただ、これはびっくりしたのだが、この猫の恋物語が、本編の事件の謎ときに大いにかかわってくるのだ。まあ、仲を裂かれた猫が仕返しに、証拠品を移動させて、仲を裂いた人物を犯人として逮捕されるように仕組むのだが。
また、ミステリ的事件と関係ないが、図書館での顛末には笑った。
図書館があの手この手を使って、蔵書を閲覧者から遠ざけようとしていることについての攻防を描いているのだ。
とにかく、描写ひとつひとつがひとくせもふたくせもあり、訳者も言うように「破天荒な小説」で「抱腹絶倒の悪ふざけ」になっている。(筆者、語り手、校正部長、読者が小説にツッコミいれてる、と書いたが、訳者も出てくる場面がある)
事件の謎をいよいよ解こうとする際の、ブロニャール警部とアラペード刑事の会話が凄い。
「最初からすべてをおさらいしてみよう」
「お願いです、警部どの」とアラペード。「読者のことも考えてください。最初からすべてをおさらいするとしたら、ただでさえ長い話をさらに長く話さなければならなくなりますよ。なぜならば、物語に含まれる出来事のひとつひとつについて、それが捜査の全体に占める位置を明らかにするために、かなり詳しい説明を付け加える必要があるからです。そんな危ないことを受け入れようとする小説家などこの世にはあり得ないし、はたしてあなたがそこで留まることができるかどうかも疑わしい。仮に現時点でわれわれのいる場所にふたたびたどり着いたとしても、またそこで最初に逆戻りして、(中略)この小説は、今われわれがいる時点に最初に戻ってきたときには、当初の分量の3倍になり、2回目に戻ってきたときには、さらに厳密を期そうとして7倍の長さになることだって十分あり得るわけで、そうなるとそこで留まることができるとは到底思えず、1より大きい等差級数は収束を見ないわけですから、この小説を終えることができなくなる」
このくだりはさらにすごいことになるが、長くなるので割愛。
今年読んだミステリの中でも最高に面白かったかな。
ハンドメイドカフェ、彩恋、シッコ、『その名は101』
2009年6月8日 アイドル
午後7時からディグダグでハンドメイドカフェ。
りさりさ、ふぁみりーぷろじぇくと(途中、ヘアショーも)
宮崎亜美(ジブリあるある、とか)
裏W(ひゆ&ぴのこ)
春聖りこ(萌え単のストーリー朗読も)
最強○×タイム(足の裏炎上)
今回はいつもにまして、手作り感があり、すごく家庭的な雰囲気だった。ディグダグの中にいるみんながまるで家族であるかのような錯覚に陥った。
飯塚健監督の「彩恋」を見た。2007年。
地方都市の女子高生3人とその周囲の人々それぞれの愛の模様と行方を描く。
貫地谷しほり、関めぐみ、徳永えり。
こどもができたり、恋人が死んだり、告白前にリサーチした「好きな人がいる」は自分のことだったり、つれない仕打ちが実は明日引っ越しだったからだったとか、いなくなった妻が帰ってきたり、とにかく、すべての登場人物が恋愛していて、その顛末はベタそのもの。
見ていて、ケータイ小説の映画化なんじゃないか、と思ったほどだ。
ここまで徹底されると、非現実感すらただよってくるが、恋愛をファンタジーであるとするとらえかたからいくと、これもありなのか、と思えてきた。
風景がとにかく田舎で、畑、海、屋根瓦がほとんどをしめており、登場人物が運転する以外に車の姿も見えない。町の外から人が来たら、ひとめで「よそ者」と見破られてしまいそうだ。こんな場所が実在することすら信じられないのだが、こうしたファンタジー世界であればこそ、ベタな恋愛も成立するのだろう。
それと、童貞を捨てる前に、準備として中学生男子が必死になって包皮を剥こうと頑張るが、これもまた、実際にはありえない光景なのではなかろうか。
恋愛観とか、性知識について、時代遅れな印象がある。
しかし、それもベタの条件みたいなものだ。
学校の屋上で弁当を食べるなんて、今どきどこの高校で可能だというのか。
現実の恋愛には既に失われてしまった幻想が、この映画の中には横溢しており、しかも、恋愛の形はやっぱりこうでしょう、というような時代錯誤の勘違いが映画内では常識のごとく扱われている。
これは、きわめて危険な映画である。
この映画を見て、恋愛とはこういうものだ、と思い込んだ若人たちは、実際に恋愛する段において、あまりのギャップに幻滅してしまうのではないか。
それでこそ、恋に溺れて身を滅ぼしてしまうこの映画の効果を、「サイレン」というタイトルで明示した監督の意図もわかろうというものだ。
マイケル・ムーア監督の「シッコ」を見た。
アメリカの医療保険の実態をあばくドキュメント。
高額な診療代と薬代を負担しているアメリカ人が、これならアルカイダ囚が受ける治療の方がよっぽど完備している、とグアンタナモに赴くあてつけ行動が面白い。実際にはグアンタナモに入れずに、キューバで治療を受けることになるが、アメリカでは高額で制限された治療が、キューバやフランスでは嘘のような安い金額であることにアメリカ人はぼうぜんとする。キューバもフランスも、アメリカが毛嫌いする国だ、というところがまた皮肉である。
僕だって、医療費を出す余裕がないので、どんな病気になってもいっさい医者にかかることができない。サドンデスだ。保険には加入しているが、すべての保険を僕は信用していない。なにかと文句をつけて支払わないに決まっていると思っている。アメリカだともっとひどい実態なのだろう。
マイケル・ムーアのやり方はアクが強いので、批判する人もあろうが、なにも行動しないよりは遥かにマシなのである。それに、批判する言説よりも、マイケル・ムーアの映画の方が遥かに面白いのである。
先日、杉浦茂101年展を見に行ったが、なるほど、100年というキリのいい数字でなくても「101」とかで着目することもできるんだ、とそのとき考えていた。もちろん、杉浦茂の場合は「101」が登場人物の指の形をあらわしているわけだが。
とにかく、僕の頭の中には「101」という数字が強烈にインプットされた。
なんらかの形で、この「101」を今年のマイプロジェクトとして表わそうと思っていたが、とりあえず、その第1弾。
横山光輝の『その名は101』を読んだ。全3巻。
主人公の「101」(ワンゼロワン)は、山野浩一、別名はバビル2世。
研究の名のもとに101の血液を輸血されて、超能力を使えるようになった者たちを、101が1人1人見つけだして始末していく、という設定で物語ははじまる。
最後のほうになったら、3つのしもべも101によって救出されるし、眠っていたヨミを目覚めさせてその力を利用しようとする大企業の陰謀まででてきて、バビル2世はまたもやヨミと戦うことになる。(むりやり目覚めさせられたヨミも被害者といえるだろう)
主に、敵がエネルギー放射攻撃をすることで、敵は消耗してしまい、一方101はエネルギーが充填されて、逆転する、というパターンが繰り返される。
ついでに横山光輝の『サンダー大王』も読んだけど、操縦される巨大ロボ自身に善悪の判断はなくて、操る者の言うなりになる、というモチーフは昔から一貫してたんだな、と思わされた。
りさりさ、ふぁみりーぷろじぇくと(途中、ヘアショーも)
宮崎亜美(ジブリあるある、とか)
裏W(ひゆ&ぴのこ)
春聖りこ(萌え単のストーリー朗読も)
最強○×タイム(足の裏炎上)
今回はいつもにまして、手作り感があり、すごく家庭的な雰囲気だった。ディグダグの中にいるみんながまるで家族であるかのような錯覚に陥った。
飯塚健監督の「彩恋」を見た。2007年。
地方都市の女子高生3人とその周囲の人々それぞれの愛の模様と行方を描く。
貫地谷しほり、関めぐみ、徳永えり。
こどもができたり、恋人が死んだり、告白前にリサーチした「好きな人がいる」は自分のことだったり、つれない仕打ちが実は明日引っ越しだったからだったとか、いなくなった妻が帰ってきたり、とにかく、すべての登場人物が恋愛していて、その顛末はベタそのもの。
見ていて、ケータイ小説の映画化なんじゃないか、と思ったほどだ。
ここまで徹底されると、非現実感すらただよってくるが、恋愛をファンタジーであるとするとらえかたからいくと、これもありなのか、と思えてきた。
風景がとにかく田舎で、畑、海、屋根瓦がほとんどをしめており、登場人物が運転する以外に車の姿も見えない。町の外から人が来たら、ひとめで「よそ者」と見破られてしまいそうだ。こんな場所が実在することすら信じられないのだが、こうしたファンタジー世界であればこそ、ベタな恋愛も成立するのだろう。
それと、童貞を捨てる前に、準備として中学生男子が必死になって包皮を剥こうと頑張るが、これもまた、実際にはありえない光景なのではなかろうか。
恋愛観とか、性知識について、時代遅れな印象がある。
しかし、それもベタの条件みたいなものだ。
学校の屋上で弁当を食べるなんて、今どきどこの高校で可能だというのか。
現実の恋愛には既に失われてしまった幻想が、この映画の中には横溢しており、しかも、恋愛の形はやっぱりこうでしょう、というような時代錯誤の勘違いが映画内では常識のごとく扱われている。
これは、きわめて危険な映画である。
この映画を見て、恋愛とはこういうものだ、と思い込んだ若人たちは、実際に恋愛する段において、あまりのギャップに幻滅してしまうのではないか。
それでこそ、恋に溺れて身を滅ぼしてしまうこの映画の効果を、「サイレン」というタイトルで明示した監督の意図もわかろうというものだ。
マイケル・ムーア監督の「シッコ」を見た。
アメリカの医療保険の実態をあばくドキュメント。
高額な診療代と薬代を負担しているアメリカ人が、これならアルカイダ囚が受ける治療の方がよっぽど完備している、とグアンタナモに赴くあてつけ行動が面白い。実際にはグアンタナモに入れずに、キューバで治療を受けることになるが、アメリカでは高額で制限された治療が、キューバやフランスでは嘘のような安い金額であることにアメリカ人はぼうぜんとする。キューバもフランスも、アメリカが毛嫌いする国だ、というところがまた皮肉である。
僕だって、医療費を出す余裕がないので、どんな病気になってもいっさい医者にかかることができない。サドンデスだ。保険には加入しているが、すべての保険を僕は信用していない。なにかと文句をつけて支払わないに決まっていると思っている。アメリカだともっとひどい実態なのだろう。
マイケル・ムーアのやり方はアクが強いので、批判する人もあろうが、なにも行動しないよりは遥かにマシなのである。それに、批判する言説よりも、マイケル・ムーアの映画の方が遥かに面白いのである。
先日、杉浦茂101年展を見に行ったが、なるほど、100年というキリのいい数字でなくても「101」とかで着目することもできるんだ、とそのとき考えていた。もちろん、杉浦茂の場合は「101」が登場人物の指の形をあらわしているわけだが。
とにかく、僕の頭の中には「101」という数字が強烈にインプットされた。
なんらかの形で、この「101」を今年のマイプロジェクトとして表わそうと思っていたが、とりあえず、その第1弾。
横山光輝の『その名は101』を読んだ。全3巻。
主人公の「101」(ワンゼロワン)は、山野浩一、別名はバビル2世。
研究の名のもとに101の血液を輸血されて、超能力を使えるようになった者たちを、101が1人1人見つけだして始末していく、という設定で物語ははじまる。
最後のほうになったら、3つのしもべも101によって救出されるし、眠っていたヨミを目覚めさせてその力を利用しようとする大企業の陰謀まででてきて、バビル2世はまたもやヨミと戦うことになる。(むりやり目覚めさせられたヨミも被害者といえるだろう)
主に、敵がエネルギー放射攻撃をすることで、敵は消耗してしまい、一方101はエネルギーが充填されて、逆転する、というパターンが繰り返される。
ついでに横山光輝の『サンダー大王』も読んだけど、操縦される巨大ロボ自身に善悪の判断はなくて、操る者の言うなりになる、というモチーフは昔から一貫してたんだな、と思わされた。
JK21「エニシングゴーズ」@マイケルキューブ、『異界』
2009年6月7日 アイドル コメント (2)
朝のラジオは1時間桂米朝だった。
「日曜落語なみはや亭」は桂米朝の落語を2席。
豆狸
開帳雪隠
「米朝よもやま噺」はゲスト桂小米で、興味深い話題が満載。
桂枝雀は「たちぎれ」に殺された、とか。
枝雀曰く、「米朝落語は上方落語のお手本のように思われているが、あれは米朝による米朝のための落語なんだ」とか。
夜のラジオはおなじみのNHK-FM「現代の音楽」
猿谷 紀郎
【ゲスト】高橋 アキ
− 演奏家に聞く〜高橋アキ −(1)
「季節はずれのバレンタイン(1944)」 ジョン・ケージ作曲
(4分01秒)
(プリペアード・ピアノ)高橋 アキ
<2009/5/21>
「デーヴィッド・テュドアのためのピアノ小品 第3番
(1959)(部分)」シルヴァーノ・ブッソッティ作曲
(0分42秒)
(ピアノ)高橋 アキ
<EMI QIAG−50037>
「五つの呪文(1953)」 ジャチント・シェルシ作曲
(11分28秒)
(ピアノ)高橋 アキ
<2009/5/21>
「メタテーシス(1968)」 高橋悠治・作曲
(4分53秒)
(ピアノ)高橋 アキ
<CROWN SWS2>
「静寂と光〜秋山邦晴氏の思い出に〜
ピアノのための(1997)」西村 朗・作曲
(10分16秒)
(ピアノ)高橋 アキ
<fontec FOCD−2540>
「タンゴ?(1984)」 コンロン・ナンカロウ作曲
(3分30秒)
(ピアノ)高橋 アキ
<CAMERATA CMCD−28105>
ケーブルテレビで、キックボクシングJ-Girl見る。
リトルタイガー負けちゃったな!
それにしても、女子のキックボクシングは殴っても蹴っても、きいているのかどうかわからなくて、不思議な感じがする。パンチ力、キック力が弱いのか、ダメージに対する耐性が強いのか。普通、顔面にパンチ入ったら、ダウンするとか、ふらふらするとかしそうなのに、ぜんぜんきいてないみたいに、ボカスカ殴り合いしてる。また、顔面にパンチがあっさり入るし、ローキックをカットしているふうもない。男でこういう試合したら、名勝負になるだろう。
午後6時からアメリカ村マイケルキューブでJK21の「エニシングゴーズ」
今日のサウンドクルーはジョージ、さあや、ももな、夕実。応援にワッキーとツバッキー。
森崎が「梅雨(ばいう)」「電柱柱(でんちゅうばしら)」と発言したことが最後まで尾をひく。
新コーナー「JK21のプチ自慢」は、各人次のとおり。
城島「生化学実験を半分の時間で済ませた」、森崎「ダンボールをつぶすのがはやい」、桃菜「身長がのびて友達と目の高さがあってきた」、月脇「指の関節が柔らかい」、ワッキー「努力の結果、ダンス上達をほめられた」、椿「USJに50回以上行った(ハリウッドドリームが好きなんだって!)」
神の声の判定で、1番は森崎。罰ゲームは月脇で、古畑の物真似。思わぬセクシーボイス!
「謎」の曲間で、ジョージのカードマジックが披露された。
「大予言」のコーナーは、月脇が予言。
6月18日までに入梅する、と予言。はずれた場合は、放送中のフリートークで英語禁止。
今週のタイガースのコーナーで、桃菜が、保育園の子がいっぱしの阪神談義をしていた、とトークで言っていた。桃菜はトーク面白いな!
読んだ本は鳥飼否宇の『異界』
なんと、南方熊楠が名探偵役を演じる。
粘菌や民俗学の知識が随所で示されるが、とくにうるさくない程度におさえられている。
事件は、狐憑きから狼少年、医院での嬰児誘拐、サンカへの嫌疑など、時代を感じさせるものだ。
と、いえば、南方熊楠を主人公にしたよくある推理小説に思える。
僕もそう思い込んで、普通小説を読むようなつもりで読んでいた。
ところがどっこい、である。
途中で、作品の邪魔にならない程度の叙述のトリックが2つ仕掛けられていたことが明らかになる。
その後、事件の真相に迫る段になると、作者が横溝賞を受賞したことをいやでも思い出させるような、血の因縁が重奏して明かされ、さらに、意外な真相が明かされる。これはまぎれもなくトリッキーな新本格なのである。真相に直接関係のない付け足しも、本格ファンを喜ばせてくれる。(ラストの1行で付け足しが明かされるが、読者はもちろん、とうに察しはついているのだ。だが、あえて、ラストの1行で明かす、という作者の態度が、読者にはうれしいのだ)
「日曜落語なみはや亭」は桂米朝の落語を2席。
豆狸
開帳雪隠
「米朝よもやま噺」はゲスト桂小米で、興味深い話題が満載。
桂枝雀は「たちぎれ」に殺された、とか。
枝雀曰く、「米朝落語は上方落語のお手本のように思われているが、あれは米朝による米朝のための落語なんだ」とか。
夜のラジオはおなじみのNHK-FM「現代の音楽」
猿谷 紀郎
【ゲスト】高橋 アキ
− 演奏家に聞く〜高橋アキ −(1)
「季節はずれのバレンタイン(1944)」 ジョン・ケージ作曲
(4分01秒)
(プリペアード・ピアノ)高橋 アキ
<2009/5/21>
「デーヴィッド・テュドアのためのピアノ小品 第3番
(1959)(部分)」シルヴァーノ・ブッソッティ作曲
(0分42秒)
(ピアノ)高橋 アキ
<EMI QIAG−50037>
「五つの呪文(1953)」 ジャチント・シェルシ作曲
(11分28秒)
(ピアノ)高橋 アキ
<2009/5/21>
「メタテーシス(1968)」 高橋悠治・作曲
(4分53秒)
(ピアノ)高橋 アキ
<CROWN SWS2>
「静寂と光〜秋山邦晴氏の思い出に〜
ピアノのための(1997)」西村 朗・作曲
(10分16秒)
(ピアノ)高橋 アキ
<fontec FOCD−2540>
「タンゴ?(1984)」 コンロン・ナンカロウ作曲
(3分30秒)
(ピアノ)高橋 アキ
<CAMERATA CMCD−28105>
ケーブルテレビで、キックボクシングJ-Girl見る。
リトルタイガー負けちゃったな!
それにしても、女子のキックボクシングは殴っても蹴っても、きいているのかどうかわからなくて、不思議な感じがする。パンチ力、キック力が弱いのか、ダメージに対する耐性が強いのか。普通、顔面にパンチ入ったら、ダウンするとか、ふらふらするとかしそうなのに、ぜんぜんきいてないみたいに、ボカスカ殴り合いしてる。また、顔面にパンチがあっさり入るし、ローキックをカットしているふうもない。男でこういう試合したら、名勝負になるだろう。
午後6時からアメリカ村マイケルキューブでJK21の「エニシングゴーズ」
今日のサウンドクルーはジョージ、さあや、ももな、夕実。応援にワッキーとツバッキー。
森崎が「梅雨(ばいう)」「電柱柱(でんちゅうばしら)」と発言したことが最後まで尾をひく。
新コーナー「JK21のプチ自慢」は、各人次のとおり。
城島「生化学実験を半分の時間で済ませた」、森崎「ダンボールをつぶすのがはやい」、桃菜「身長がのびて友達と目の高さがあってきた」、月脇「指の関節が柔らかい」、ワッキー「努力の結果、ダンス上達をほめられた」、椿「USJに50回以上行った(ハリウッドドリームが好きなんだって!)」
神の声の判定で、1番は森崎。罰ゲームは月脇で、古畑の物真似。思わぬセクシーボイス!
「謎」の曲間で、ジョージのカードマジックが披露された。
「大予言」のコーナーは、月脇が予言。
6月18日までに入梅する、と予言。はずれた場合は、放送中のフリートークで英語禁止。
今週のタイガースのコーナーで、桃菜が、保育園の子がいっぱしの阪神談義をしていた、とトークで言っていた。桃菜はトーク面白いな!
読んだ本は鳥飼否宇の『異界』
なんと、南方熊楠が名探偵役を演じる。
粘菌や民俗学の知識が随所で示されるが、とくにうるさくない程度におさえられている。
事件は、狐憑きから狼少年、医院での嬰児誘拐、サンカへの嫌疑など、時代を感じさせるものだ。
と、いえば、南方熊楠を主人公にしたよくある推理小説に思える。
僕もそう思い込んで、普通小説を読むようなつもりで読んでいた。
ところがどっこい、である。
途中で、作品の邪魔にならない程度の叙述のトリックが2つ仕掛けられていたことが明らかになる。
その後、事件の真相に迫る段になると、作者が横溝賞を受賞したことをいやでも思い出させるような、血の因縁が重奏して明かされ、さらに、意外な真相が明かされる。これはまぎれもなくトリッキーな新本格なのである。真相に直接関係のない付け足しも、本格ファンを喜ばせてくれる。(ラストの1行で付け足しが明かされるが、読者はもちろん、とうに察しはついているのだ。だが、あえて、ラストの1行で明かす、という作者の態度が、読者にはうれしいのだ)
午前11時から心斎橋FAN-JでGirls Panic。
司会は橋本梨世。
朝まで飲んでいたせいか、体調悪くて出遅れる。
以下、出演順に、あいもかわらず適当な表記のセットリスト。あきらかに間違っているタイトルのものもある。
最初はF.A.N.Y.だが、途中から。
カラーフォーウィッシーズ
初恋ダッシュ
ミエナイツバサ
以上、3曲だけ聞けた。
心身ともに疲れ果てていたのだが、なんとこれがアイドルの効用というものか、みるみる疲れがひいていく。F.A.N.Y.ありがとう!
姫☆DAN
1.ダンス
2.オーバーザフューチャー
3.恋愛ライダー
4.ラブサイン
5.ブルーバード
6.つきあってるのに片思い
7.ココロのチズ
メンバー紹介のキャッチフレーズが面白かった。
不思議ちゃんに納得していないメンバーがじゃっかん1名。
新衣装は白にピンクのチェック、ネクタイという制服スタイルで、非常に可愛い。
F.A.N.Yと姫DANで疲れはすっかり癒えきる。橋本梨世の親しみあるMCにも癒し効果があったな。
のう☆かの
1.はじめまして
2.ロボキッス
3.ファーストキス
4.Chuしようぜ
5.アキハバLOVE(ポンバシバージョン)
チュー3部作!
片瀬ちゃんのゲーマートークが面白い。客席の年齢層からして、ツインファミコンは絶対知ってるYO!
みりん☆
1.(自分で書いた字が読めない)
2.恋のダイアル
3.ハッピーハードラブ
4.ちゅーん☆らぶ
5.雨のプリズム
6.またね
非常に安定していた。素晴らしい。
みりん☆の世界にはたいへん魅力を感じているのに、まだその渦中にとびこめていない僕がいる。どっぷりはまりそうで、躊躇しておるのである。
Mari7
1.Step by Step
2.ディアマイティーチャー
3.インスピレーション
4.(ミサトとのコラボ)
5.同上。曲名はわからない。
ディアマイティーチャーなんて、すっかり盲点でした。
全体に大人の雰囲気。
オレンチェ
1.アジアの海賊
2.夜明けのショーロ
3.ペッパー警部
4.タッチ
5.Change! 命の星で
6.できそこないの天使
レパートリーを100曲以上覚えて、夏には静岡でワンマンライブするとか。
制服向上委員会みたいに、100曲ライブとかやってほしい。
新田泉
1.(不明)
2.愛の花
3.セーブポイント
4.イフ
5.レインボウ
福井から3時起きで来たらしい!
じっくり歌を聞かせてもらいました。
4 LEAF CLOVER
1.DANCE3
2.drive away
3.恋の魔法
4.color of seasons
5.We can do it
6.Nu-world
そうか。学校ではテストが終わったところなんだ。
ナミのトークは面白いなあ。
Mary Angel
1.ブランニューワールド
2.ドリームノート
3.リバース
4.はじまり
5.マジカルスター
(以下、アンコール)
6.エンジェルウィング
りーたんのトーク「コッペパン」(こてんぱん)が面白い。
重大発表があるというから何かと思ってたら、CD全国リリースとワンマンライブのおしらせでした。確かに重大!8月16日は心斎橋FAN-Jで決まり。
体調がよくないため、物販パスして直帰(寝ていない、酒のみすぎ、新型インフルエンザ、足骨折、吹き出物、虚言癖など)
西尾維新の『刀語 第1話 絶刀・鉋』を読んだ。
妖刀VS虚刀流の時代劇。
12本の妖刀を集める、というのがメインの物語になる、ということらしい。
主人公の使う虚刀流は、刀を使わぬ剣法。赤胴鈴之助の真空斬りみたいなものかな、と思って読みすすめていた。
丈夫このうえない絶刀・鉋の使い手は真庭忍群の蝙蝠。
この作品は山田風太郎の忍法帖みたいだな、と思ってたら、この蝙蝠の使う技が、甲賀忍法帖の地虫十兵衛そのまんまで笑った。
非常に読みやすかったので、最終話までなんとか読んでみようかな。
司会は橋本梨世。
朝まで飲んでいたせいか、体調悪くて出遅れる。
以下、出演順に、あいもかわらず適当な表記のセットリスト。あきらかに間違っているタイトルのものもある。
最初はF.A.N.Y.だが、途中から。
カラーフォーウィッシーズ
初恋ダッシュ
ミエナイツバサ
以上、3曲だけ聞けた。
心身ともに疲れ果てていたのだが、なんとこれがアイドルの効用というものか、みるみる疲れがひいていく。F.A.N.Y.ありがとう!
姫☆DAN
1.ダンス
2.オーバーザフューチャー
3.恋愛ライダー
4.ラブサイン
5.ブルーバード
6.つきあってるのに片思い
7.ココロのチズ
メンバー紹介のキャッチフレーズが面白かった。
不思議ちゃんに納得していないメンバーがじゃっかん1名。
新衣装は白にピンクのチェック、ネクタイという制服スタイルで、非常に可愛い。
F.A.N.Yと姫DANで疲れはすっかり癒えきる。橋本梨世の親しみあるMCにも癒し効果があったな。
のう☆かの
1.はじめまして
2.ロボキッス
3.ファーストキス
4.Chuしようぜ
5.アキハバLOVE(ポンバシバージョン)
チュー3部作!
片瀬ちゃんのゲーマートークが面白い。客席の年齢層からして、ツインファミコンは絶対知ってるYO!
みりん☆
1.(自分で書いた字が読めない)
2.恋のダイアル
3.ハッピーハードラブ
4.ちゅーん☆らぶ
5.雨のプリズム
6.またね
非常に安定していた。素晴らしい。
みりん☆の世界にはたいへん魅力を感じているのに、まだその渦中にとびこめていない僕がいる。どっぷりはまりそうで、躊躇しておるのである。
Mari7
1.Step by Step
2.ディアマイティーチャー
3.インスピレーション
4.(ミサトとのコラボ)
5.同上。曲名はわからない。
ディアマイティーチャーなんて、すっかり盲点でした。
全体に大人の雰囲気。
オレンチェ
1.アジアの海賊
2.夜明けのショーロ
3.ペッパー警部
4.タッチ
5.Change! 命の星で
6.できそこないの天使
レパートリーを100曲以上覚えて、夏には静岡でワンマンライブするとか。
制服向上委員会みたいに、100曲ライブとかやってほしい。
新田泉
1.(不明)
2.愛の花
3.セーブポイント
4.イフ
5.レインボウ
福井から3時起きで来たらしい!
じっくり歌を聞かせてもらいました。
4 LEAF CLOVER
1.DANCE3
2.drive away
3.恋の魔法
4.color of seasons
5.We can do it
6.Nu-world
そうか。学校ではテストが終わったところなんだ。
ナミのトークは面白いなあ。
Mary Angel
1.ブランニューワールド
2.ドリームノート
3.リバース
4.はじまり
5.マジカルスター
(以下、アンコール)
6.エンジェルウィング
りーたんのトーク「コッペパン」(こてんぱん)が面白い。
重大発表があるというから何かと思ってたら、CD全国リリースとワンマンライブのおしらせでした。確かに重大!8月16日は心斎橋FAN-Jで決まり。
体調がよくないため、物販パスして直帰(寝ていない、酒のみすぎ、新型インフルエンザ、足骨折、吹き出物、虚言癖など)
西尾維新の『刀語 第1話 絶刀・鉋』を読んだ。
妖刀VS虚刀流の時代劇。
12本の妖刀を集める、というのがメインの物語になる、ということらしい。
主人公の使う虚刀流は、刀を使わぬ剣法。赤胴鈴之助の真空斬りみたいなものかな、と思って読みすすめていた。
丈夫このうえない絶刀・鉋の使い手は真庭忍群の蝙蝠。
この作品は山田風太郎の忍法帖みたいだな、と思ってたら、この蝙蝠の使う技が、甲賀忍法帖の地虫十兵衛そのまんまで笑った。
非常に読みやすかったので、最終話までなんとか読んでみようかな。
今日はBEARSでライブ「嘘ハーレム」
バウムゴーヘン(存在)、
保山ひャン(アオアオ)、
邪王院弘(セラピンジャー)、
中田氏大百科(マスク)、
DEATH AIM(轟音MC)、
サンセットタイガー(ミスターサイケデリック)、
スープーメッセンジャー(歪みフォーク)、
No.305(アニソン暗黒舞踏)、
大根(with昆虫皇子)(Tシャツプレゼント)、
黒田恵子(腸ちゃん)、
秋葉原紫音(リップシンク)、
石原啓子(アニメ、アイドル正攻法)、
丼野M美(病み上がりの狂躁)、
モナリザス(末期癌と殺人鬼)、
宮崎亜美(低音アイドル)、
野中ひゆ(迷走する戸川純)、
ちやじ(誕生祝い)
主に前半がキチガイで後半がアイドル、という栗まん型出番順。
タイトルの嘘ハーレムっていうのは、以前、僕のファンだった人が僕を罵るときに使った言葉で、あまりにも面白いので、みんなで笑っていた時期がある。
つい最近、自分BOXのマイちゃんが新曲でその言葉を使っていて、思い出させてくれたのだ。
僕がいつも女の子を連れて遊んでいることをやっかんで罵られたものだが、実態を言うと、僕の周囲の女の子は別に僕に恋愛感情を抱いたりしていないし、男として見ているかどうかも疑わしいのである。まあ、そういう意味では、たしかに「嘘ハーレム」である。
次のライブは8月7日(金)に決まった。
イベントのタイトルは「ナントカの森」にしようかな、と思っている。
打ち上げとか、夜中に図書館に本を徒歩で返しにいったりして、朝までコース。
バウムゴーヘン(存在)、
保山ひャン(アオアオ)、
邪王院弘(セラピンジャー)、
中田氏大百科(マスク)、
DEATH AIM(轟音MC)、
サンセットタイガー(ミスターサイケデリック)、
スープーメッセンジャー(歪みフォーク)、
No.305(アニソン暗黒舞踏)、
大根(with昆虫皇子)(Tシャツプレゼント)、
黒田恵子(腸ちゃん)、
秋葉原紫音(リップシンク)、
石原啓子(アニメ、アイドル正攻法)、
丼野M美(病み上がりの狂躁)、
モナリザス(末期癌と殺人鬼)、
宮崎亜美(低音アイドル)、
野中ひゆ(迷走する戸川純)、
ちやじ(誕生祝い)
主に前半がキチガイで後半がアイドル、という栗まん型出番順。
タイトルの嘘ハーレムっていうのは、以前、僕のファンだった人が僕を罵るときに使った言葉で、あまりにも面白いので、みんなで笑っていた時期がある。
つい最近、自分BOXのマイちゃんが新曲でその言葉を使っていて、思い出させてくれたのだ。
僕がいつも女の子を連れて遊んでいることをやっかんで罵られたものだが、実態を言うと、僕の周囲の女の子は別に僕に恋愛感情を抱いたりしていないし、男として見ているかどうかも疑わしいのである。まあ、そういう意味では、たしかに「嘘ハーレム」である。
次のライブは8月7日(金)に決まった。
イベントのタイトルは「ナントカの森」にしようかな、と思っている。
打ち上げとか、夜中に図書館に本を徒歩で返しにいったりして、朝までコース。
勇嶺薫の『赤い夢の迷宮』を読んだ。
作者は「はやみねかおる」名義でジュブナイルを多数書いており、僕も「名探偵夢水清志郎事件ノート」シリーズを中心に数冊読んでいる。今回は成人向けの小説とあって、人殺しの暗く狂った感情や、死骸に群がる虫などのえぐいシーン、出口のないバッドエンディングで後味の悪さを演出したりしている。
はやみねかおるの『そして五人がいなくなる』のあとがきでは、「とくに好きな」推理小説の条件の1つとして、「HAPPY ENDでおわること」と書いてあるけど、さて、本作のラストはハッピーエンドなのか?
タイトルに関するヒントは、今まで出した本の中にちりばめられていた。はやみねかおるの『機巧館のかぞえ唄』の巻頭には、勇嶺薫の『夢迷宮』からの抜粋として文章が掲げられている。
「この現実が、だれかのみている赤い夢にすぎないのなら、それは、だれのみている夢なんですか?云々」
また、同じく『踊る夜光怪人』の冒頭には勇嶺薫の『赤い夢』からの抜粋が載せてある。
「だから、犯人も探偵も、一生覚めることのない、赤い夢の中に住んでいるんです。云々」
『赤い夢』『夢迷宮』が『赤い夢の迷宮』と無関係だとは思えない。
さて、本作は同窓会っぽい再会とともにはじまる惨劇を描いている。一種のタイムカプセル物語かな、と思いきや、そこはあんまりつっこまれず、閉ざされた場所での殺人ゲームがはじまるのである。いかにも新本格でござい、というトリックが使われているが、これはジュブナイルでもおなじみの、楽しく大がかりなトリックになっており、そのわかりやすさは明快で素晴らしい。
犯人の意外性は、もとよりクローズドサークルでの出来事で犯人候補者もかぎられているため、とくにびっくりはしなかったが、悪く言えば、別にだれが犯人でもよかったんじゃないのか、と思ってしまった。乱歩の二十面相シリーズみたいに、誰が犯人なのか、という興味が最小限な小説のような気がした。
登場人物の肉付けにちょっと感心してしまった。身の回りにいそうな、すごく嫌なやつをみごとに描いているのだ。このあたり、単なる駒として殺人ゲームを動かしているのではなく、じゅうぶん小説として読ませてくれる。
作者はあとがきで、主戦場はジュブナイルであることを書いている。それは、非常に正しい選択だ、と感じた。「はやみねかおる」の作品の方が好感をもてるような気がしたのだ。
作者は「はやみねかおる」名義でジュブナイルを多数書いており、僕も「名探偵夢水清志郎事件ノート」シリーズを中心に数冊読んでいる。今回は成人向けの小説とあって、人殺しの暗く狂った感情や、死骸に群がる虫などのえぐいシーン、出口のないバッドエンディングで後味の悪さを演出したりしている。
はやみねかおるの『そして五人がいなくなる』のあとがきでは、「とくに好きな」推理小説の条件の1つとして、「HAPPY ENDでおわること」と書いてあるけど、さて、本作のラストはハッピーエンドなのか?
タイトルに関するヒントは、今まで出した本の中にちりばめられていた。はやみねかおるの『機巧館のかぞえ唄』の巻頭には、勇嶺薫の『夢迷宮』からの抜粋として文章が掲げられている。
「この現実が、だれかのみている赤い夢にすぎないのなら、それは、だれのみている夢なんですか?云々」
また、同じく『踊る夜光怪人』の冒頭には勇嶺薫の『赤い夢』からの抜粋が載せてある。
「だから、犯人も探偵も、一生覚めることのない、赤い夢の中に住んでいるんです。云々」
『赤い夢』『夢迷宮』が『赤い夢の迷宮』と無関係だとは思えない。
さて、本作は同窓会っぽい再会とともにはじまる惨劇を描いている。一種のタイムカプセル物語かな、と思いきや、そこはあんまりつっこまれず、閉ざされた場所での殺人ゲームがはじまるのである。いかにも新本格でござい、というトリックが使われているが、これはジュブナイルでもおなじみの、楽しく大がかりなトリックになっており、そのわかりやすさは明快で素晴らしい。
犯人の意外性は、もとよりクローズドサークルでの出来事で犯人候補者もかぎられているため、とくにびっくりはしなかったが、悪く言えば、別にだれが犯人でもよかったんじゃないのか、と思ってしまった。乱歩の二十面相シリーズみたいに、誰が犯人なのか、という興味が最小限な小説のような気がした。
登場人物の肉付けにちょっと感心してしまった。身の回りにいそうな、すごく嫌なやつをみごとに描いているのだ。このあたり、単なる駒として殺人ゲームを動かしているのではなく、じゅうぶん小説として読ませてくれる。
作者はあとがきで、主戦場はジュブナイルであることを書いている。それは、非常に正しい選択だ、と感じた。「はやみねかおる」の作品の方が好感をもてるような気がしたのだ。
米澤穂信の『インシテミル』を読んだ。
クローズドサークルでの殺人&探偵ゲーム。
この手の作品は、学生たちを中心とした新本格と、マンガでよく見かけた。ちょっと前に大流行して定着した感のあるものだ。人を殺したり、探偵役になったりして、その報酬を最大にしようとする計算ゲームと、本来の探偵ゲームの面白さがミックスされている。
こういうのは、僕は「ルール小説」と勝手に呼んでいる。
で、この作品、どうだったか、というと、えらく面白かった。
しかし、推理小説の趣向はたんまりとあるが、醍醐味には欠けると思った。
それは、この作品のラストで明かされるように、この「暗鬼館」での殺人もまだ完成形ではなかった、というもどかしさによるものなのだろう。ひとことで言って、この小説の最大のびっくりポイントは何かというと、ちょっと思いだせないのである。
面白く読みすすめているうちに、ルールをうまく利用した者がうまくあがって終わった、という印象だけが強く、それはたとえば、しりとりで相手を「る」攻めにすることを世界で最初に思いついたケースみたいなもので、「そうか、なるほど、その手があるか」と膝を叩くが、2度目はないのである。これがルール小説、ってものなのだ。たとえば、なぜ犯人はいっぺんにみんなを皆殺しにしなかったのか、といえば、そうしないほうが報酬が高いからである。ただし、そのルールは作者が勝手に考えたもので、小説を面白く成立させるために恣意的に決められたものなのだ。これが、いつも、僕にはひっかかるのだ。
クライマックスで、残りの弾丸は1発しかない。これをはずすと失敗だ!これはサスペンスを盛り上げるが、1発しか弾丸がないのは、作者が盛り上げるために恣意的に設定したものだ、と思うと、ちょっとしらけてしまう。
実は、わたし、あと3日しか地球にいられないんです。ええっ、じゃあ、その3日間で僕と世界を楽しもう。これは作者が勝手に設えたものだ。物語を盛り上げるためだけにそんなことを勝手に決めたのだ。これはしらける。
「ソウ」シリーズがとても面白いと思いながら、ひっかかってしまうのも、これだ。
僕は、ルールというものが好きでないのかもしれない。
それと、違和感があったのは、この主人公、あまりにも推理小説の古典を読んでいなさすぎるんじゃないか?普通、推理小説の古典もちゃんと読んでいない人間に対して、この手の探偵ゲームを仕掛けたって、空回りに終わるんじゃないか?たとえば、推理小説は綾辻以後しか読んでないとか。そんな人間がどうやって綾辻を楽しめるのか。
タイトルの「インシテミル」は「淫してみる」だろう。新本格に淫してみれば、私にだってこれくらいのレベルのものは書けますよ、という作者のメッセージと受け取った!
クローズドサークルでの殺人&探偵ゲーム。
この手の作品は、学生たちを中心とした新本格と、マンガでよく見かけた。ちょっと前に大流行して定着した感のあるものだ。人を殺したり、探偵役になったりして、その報酬を最大にしようとする計算ゲームと、本来の探偵ゲームの面白さがミックスされている。
こういうのは、僕は「ルール小説」と勝手に呼んでいる。
で、この作品、どうだったか、というと、えらく面白かった。
しかし、推理小説の趣向はたんまりとあるが、醍醐味には欠けると思った。
それは、この作品のラストで明かされるように、この「暗鬼館」での殺人もまだ完成形ではなかった、というもどかしさによるものなのだろう。ひとことで言って、この小説の最大のびっくりポイントは何かというと、ちょっと思いだせないのである。
面白く読みすすめているうちに、ルールをうまく利用した者がうまくあがって終わった、という印象だけが強く、それはたとえば、しりとりで相手を「る」攻めにすることを世界で最初に思いついたケースみたいなもので、「そうか、なるほど、その手があるか」と膝を叩くが、2度目はないのである。これがルール小説、ってものなのだ。たとえば、なぜ犯人はいっぺんにみんなを皆殺しにしなかったのか、といえば、そうしないほうが報酬が高いからである。ただし、そのルールは作者が勝手に考えたもので、小説を面白く成立させるために恣意的に決められたものなのだ。これが、いつも、僕にはひっかかるのだ。
クライマックスで、残りの弾丸は1発しかない。これをはずすと失敗だ!これはサスペンスを盛り上げるが、1発しか弾丸がないのは、作者が盛り上げるために恣意的に設定したものだ、と思うと、ちょっとしらけてしまう。
実は、わたし、あと3日しか地球にいられないんです。ええっ、じゃあ、その3日間で僕と世界を楽しもう。これは作者が勝手に設えたものだ。物語を盛り上げるためだけにそんなことを勝手に決めたのだ。これはしらける。
「ソウ」シリーズがとても面白いと思いながら、ひっかかってしまうのも、これだ。
僕は、ルールというものが好きでないのかもしれない。
それと、違和感があったのは、この主人公、あまりにも推理小説の古典を読んでいなさすぎるんじゃないか?普通、推理小説の古典もちゃんと読んでいない人間に対して、この手の探偵ゲームを仕掛けたって、空回りに終わるんじゃないか?たとえば、推理小説は綾辻以後しか読んでないとか。そんな人間がどうやって綾辻を楽しめるのか。
タイトルの「インシテミル」は「淫してみる」だろう。新本格に淫してみれば、私にだってこれくらいのレベルのものは書けますよ、という作者のメッセージと受け取った!
東野圭吾の『容疑者Xの献身』を読んだ。
いつもは理系の謎を解くガリレオだったが、今回はちょっと違った。
数学の天才が、隣の母娘の犯行をかばうため、策略をめぐらす。
わかりやすく、しかも大きなトリックが用意されており、今でもこの規模のトリックで小説が成立するんだ、とちょっと驚いた。
これだけの大きく明瞭なトリックであれば、類似の前例もあるし、読者も解決以前に察しがついてしまうのだが、どうだ、この堂々たる傑作は!
アリバイトリックに関する一種の叙述のトリックがあり、それだけで本格ファンはふむふむ。な〜るほど、と納得してしまうのである。
また、タイトルの「献身」にまつわるエトセトラは、小説としての面白さをぐんと増した。
それと、この本読んで思ったのは、本格推理によくある「読者への挑戦」である。
あれはいったい、何についての戦いなのだろう、と。
作者が用意した真相をいちはやく読者が見抜いた場合、それは読者の勝ちなのか?
いや、読者がその「作者が用意した真相」に到達した、ということは、作者の勝ちなのだ。それは作中で事件の推理と解決がなされる以前と以後に関わりなし。
読者が勝つためには、作者が用意した以上の真相を論理の齟齬なく編み上げ、しかもそれがじゅうぶんに意外性をともなっていて、面白ければ、勝ちなのだ。つまり、名探偵が作中で明かす真相と読者の読みが結局一致するようでは、作者の勝ちになる。「こんな推理あるか!」とケチをつけている段階では作者に勝ったことにはならない。
よく「途中で真相がわかった」とか「トリックばればれ」などとうそぶく読者がいるが、それはまんまと作者の術中にはまった読者のうかつさをあらわしていることになる。
そしてまた、推理のためのデータが作者によって全部出されていない、などというのもお門違いな注文だ。小説は、答えの決まった試験問題を解くことではないのだ。
いつもは理系の謎を解くガリレオだったが、今回はちょっと違った。
数学の天才が、隣の母娘の犯行をかばうため、策略をめぐらす。
わかりやすく、しかも大きなトリックが用意されており、今でもこの規模のトリックで小説が成立するんだ、とちょっと驚いた。
これだけの大きく明瞭なトリックであれば、類似の前例もあるし、読者も解決以前に察しがついてしまうのだが、どうだ、この堂々たる傑作は!
アリバイトリックに関する一種の叙述のトリックがあり、それだけで本格ファンはふむふむ。な〜るほど、と納得してしまうのである。
また、タイトルの「献身」にまつわるエトセトラは、小説としての面白さをぐんと増した。
それと、この本読んで思ったのは、本格推理によくある「読者への挑戦」である。
あれはいったい、何についての戦いなのだろう、と。
作者が用意した真相をいちはやく読者が見抜いた場合、それは読者の勝ちなのか?
いや、読者がその「作者が用意した真相」に到達した、ということは、作者の勝ちなのだ。それは作中で事件の推理と解決がなされる以前と以後に関わりなし。
読者が勝つためには、作者が用意した以上の真相を論理の齟齬なく編み上げ、しかもそれがじゅうぶんに意外性をともなっていて、面白ければ、勝ちなのだ。つまり、名探偵が作中で明かす真相と読者の読みが結局一致するようでは、作者の勝ちになる。「こんな推理あるか!」とケチをつけている段階では作者に勝ったことにはならない。
よく「途中で真相がわかった」とか「トリックばればれ」などとうそぶく読者がいるが、それはまんまと作者の術中にはまった読者のうかつさをあらわしていることになる。
そしてまた、推理のためのデータが作者によって全部出されていない、などというのもお門違いな注文だ。小説は、答えの決まった試験問題を解くことではないのだ。
今日は映画の日だった。
あんまり映画を見に行けてない僕だが、せっかくだから、今日くらいは映画を見ようか、と思った。
ただし、体調に問題があるため、気楽に見れるものをチョイスして見ることにした。
まず1本めは、クリス・ナオン監督の「ラスト・ブラッド」
プロダクションI.Gの「ブラッド」を原作にしている。
昭和の日本でセーラー服姿のチョン・ジヒョンが斬りまくる!敵は小雪演じる「オニゲン」
オニゲンとセーラー服の戦いなのだが、ストーリーなどあってなきがごとき。
倉田保昭のアクション健在。
2本めはプラッチャヤー・ピンゲーオ監督の「チョコレートファイター」
アジア映画祭で見逃して以来、いつかは見なくては、と思っていた作品。
期待に違わず、素晴らしい作品!
脳の発達に問題のある少女が、カンフー映画や格闘ゲームでインプットした格闘を、実際にこなしてしまう!あっ、ブルース・リー!あっ、ジャッキー・チェン!あっ、ジェット・リー!あっ、バーチャファイター2!ほんとにできるんだ、こういうアクション!
これが、スタントなし、特撮なし、CGなし、ワイヤーなしなのだ。本物のアクションの迫力ってのがびしびし伝わってくる。少女の名はジージャー。覚えておこう。
敵にも神経症的な人物がおり、ふだんは会話もろくに出来ないのだが、変則的なカポエラみたいな技を出して、少女に対抗する。ピンチに陥ったかと思ったが、少女はそんな変則的な格闘スタイルも、実際に戦って目で覚えて、自分でもコピーして駆使するようになる。これは面白い!
エンドロールのおまけ映像では、出演者たちの治療シーンが連続して流れていた。
今日見た映画の中では、文句なしに1番面白い作品!もう1回見に行こうかな!
ちなみに、タイトルのチョコレートファイターってのは、主人公の少女がマーブルチョコレートが大好きでいつも持参して食べているところから。僕も明日からマーブルチョコレート食べる。
紀里谷和明監督の「GOEMON」
石川五右衛門と茶々の恋。
本能寺の変は明智と秀吉が結託して行った!
と、いう豊臣秀吉を悪の首領として描いた映画。
映像がとにかく、まるでCGを駆使したゲームを見ているようで、きれい。
そして、なによりも、茶々を演じた福田〜広末の美しさったらなかった。
今日見た映画の中で一番長かったせいなのか、とにかく長い映画だな、と感じた。
もっと早いところで決着つけられるはずなのにな、と思った。
チョコレートファイターのいさぎよさと比べてしまうせいか、あまりにも言いたいことを言い過ぎ。
4本目はバー・スティアーズ監督の「17アゲイン」
ザック・エフロン主演。離婚調停中の中年男が、17才のときの肉体に変身してしまう。
彼は息子、娘の通う高校に転入し、自分のこどもたちが直面する問題をはじめて知る。
と、いうような家族再生のおなじみのハリウッド映画。
ハイスクールでバスケットボール、というザック・エフロンここにあり、という映画。
とにかく、楽しい。
また、ザック・エフロンの父親がわりになったオタク中年が、高校の校長にひとめぼれし、珍妙なアタックを繰り返したあげく、その校長が指輪物語のマニアであることがばれて、2人でエルフ語で会話する、とか、面白い。このオタク中年の描写を見ると、海外のオタクと日本のオタク第1世代ってよく似ているな、と感じた。
あんまり映画を見に行けてない僕だが、せっかくだから、今日くらいは映画を見ようか、と思った。
ただし、体調に問題があるため、気楽に見れるものをチョイスして見ることにした。
まず1本めは、クリス・ナオン監督の「ラスト・ブラッド」
プロダクションI.Gの「ブラッド」を原作にしている。
昭和の日本でセーラー服姿のチョン・ジヒョンが斬りまくる!敵は小雪演じる「オニゲン」
オニゲンとセーラー服の戦いなのだが、ストーリーなどあってなきがごとき。
倉田保昭のアクション健在。
2本めはプラッチャヤー・ピンゲーオ監督の「チョコレートファイター」
アジア映画祭で見逃して以来、いつかは見なくては、と思っていた作品。
期待に違わず、素晴らしい作品!
脳の発達に問題のある少女が、カンフー映画や格闘ゲームでインプットした格闘を、実際にこなしてしまう!あっ、ブルース・リー!あっ、ジャッキー・チェン!あっ、ジェット・リー!あっ、バーチャファイター2!ほんとにできるんだ、こういうアクション!
これが、スタントなし、特撮なし、CGなし、ワイヤーなしなのだ。本物のアクションの迫力ってのがびしびし伝わってくる。少女の名はジージャー。覚えておこう。
敵にも神経症的な人物がおり、ふだんは会話もろくに出来ないのだが、変則的なカポエラみたいな技を出して、少女に対抗する。ピンチに陥ったかと思ったが、少女はそんな変則的な格闘スタイルも、実際に戦って目で覚えて、自分でもコピーして駆使するようになる。これは面白い!
エンドロールのおまけ映像では、出演者たちの治療シーンが連続して流れていた。
今日見た映画の中では、文句なしに1番面白い作品!もう1回見に行こうかな!
ちなみに、タイトルのチョコレートファイターってのは、主人公の少女がマーブルチョコレートが大好きでいつも持参して食べているところから。僕も明日からマーブルチョコレート食べる。
紀里谷和明監督の「GOEMON」
石川五右衛門と茶々の恋。
本能寺の変は明智と秀吉が結託して行った!
と、いう豊臣秀吉を悪の首領として描いた映画。
映像がとにかく、まるでCGを駆使したゲームを見ているようで、きれい。
そして、なによりも、茶々を演じた福田〜広末の美しさったらなかった。
今日見た映画の中で一番長かったせいなのか、とにかく長い映画だな、と感じた。
もっと早いところで決着つけられるはずなのにな、と思った。
チョコレートファイターのいさぎよさと比べてしまうせいか、あまりにも言いたいことを言い過ぎ。
4本目はバー・スティアーズ監督の「17アゲイン」
ザック・エフロン主演。離婚調停中の中年男が、17才のときの肉体に変身してしまう。
彼は息子、娘の通う高校に転入し、自分のこどもたちが直面する問題をはじめて知る。
と、いうような家族再生のおなじみのハリウッド映画。
ハイスクールでバスケットボール、というザック・エフロンここにあり、という映画。
とにかく、楽しい。
また、ザック・エフロンの父親がわりになったオタク中年が、高校の校長にひとめぼれし、珍妙なアタックを繰り返したあげく、その校長が指輪物語のマニアであることがばれて、2人でエルフ語で会話する、とか、面白い。このオタク中年の描写を見ると、海外のオタクと日本のオタク第1世代ってよく似ているな、と感じた。
午後2時から阿倍野区民センター小ホールで深新會関西の第19回作曲作品展。
1曲ごとに作曲家がステージでコメントもしていた。
プログラムは次のとおり。
1、三鬼尚味「清流無間断 碧樹不曾凋」〜ハープ/アイリッシュハープによる
(Hp./Irish Hp.佐々木千恵)約14分。
プログラムノートによると、大小2つのハープで生命の連続性や循環性を表現したい、と願ったのだそうだ。大は生命全体がもつ永遠の流れで、小は「私」を表現しようとしたものだそうだ。
2、大慈彌恵麻「ガラス蜘蛛」〜ヴァイオリンとエレクトロニクスによる〜
(Vn.辺見康孝、Electr.大慈彌恵麻、音響.古山丈)約10分。
オッフェンバッハの「夕べの調和」を奏でるヴァイオリンに、吹き付けられるコンピュータの音素。最後はヴァイオリンを奏でながら客席通路までおりていく。
3、吉澤ゆかり「扉」〜バスクラリネットのための〜
(Bass Ci.青山映道)約12分。
「3つの小曲からなり、1曲目は扉に手をかけ逡巡している様、2、3曲は扉の向こうに見えてきたものをイメージしました」(プログラムノート)
4、中川佐織「星間空間」〜金管四重奏による〜
(Tp.竹森健二、Hr.東谷慶太、Tb.呉信一、Tu.安藤輝明)作曲家自身の指揮。約8分。
プログラムノートから抜粋すると。
「私という存在が、25億光年から地球までの間を旅することで、星の燃焼と、通り過ぎていく銀河、星の国へと向かう」
「星間空間には、高いエネルギーの粒子が飛び交っている。その性質を、4つの楽器(奏者)に、炭素・ケイ素・酸素・鉄などの星間微粒子に当てはめ、チリやガス(主成分は水素)、光の変化を表現しようと、作曲しました」
かなりキテる。無敵のパワー。マジでいい感じ。今回、最も短いが、最も興味深い作品。
5、土井智恵子「dew’s exposure」〜木管五重奏のための〜
(Fl.杉本明子、Ob.小林千晃、Cl.門小夜子、Fg.片寄伸也、Hr.佐藤友貴)約17分。
この曲も作曲家自身が指揮をとった。水をテーマにした音楽をシリーズとして作っており、今回はプログラムノートによると「留まった瞬間の中で、露の中に現れるそれ自体の持つ記憶のような像を内側に向かって出力できたらと思い」作られた。
6、野村美貴子「存在の扉」より3、いいかげんな時間〜ヴァイオリンソロのための〜
(Vn.辺見康孝)約11分。
プログラムノートには「Vn.のもつ、あらゆる音の可能性を探ってみたい」というシリーズだと書かれている。ヴァイオリンを指で叩く音と、弦のプレッシャーの技法に特化した作品。
7、池上敏「カラヴィンカの墓Ⅰa追悼H.R.」〜室内アンサンブルによる〜
(Fl.大江浩志、Cl.&Bass Cl.原田美映子、Vn.浅野彩、Vc.寺田達郎、Pf.岩崎宇紀)
カラヴィンカは仏典に出てくる人頭の鳥、迦遼頻伽であり、今回追悼と記されたH.R.こと廣瀬量平の作品名でもある。約25分の大作になった。
平野の全興寺に移動し、「関西アクースマティック・アート・フェスティバル2009」の2日め。午後5時から「ほとけのくに」でインスタレーション。
「ほとけのくに」は、四国88ケ所の砂が入った手すりをつたっておりる地下空間で、ステンドグラスの曼荼羅の上に座り、151体の仏像に囲まれて瞑想することができる場所だ。
僕が見れたインスタレーションは音と映像の作品で、松本祥代、廣畑祐子の2作品。どちらも全興寺住職の法話をもとにした作品で、宗教ビデオ色が強く、アートではなかった。これはもとから宗教的映像を作ろうとして作ったものにちがいなく、たまにアート的味付けはあっても、それはあくまでも味付け程度だった。2つの作品を見て感じたのは、ああ、結局、宗教というのは言葉なのかな、ということだった。別に悲観もしてないし、軽くもみていないが。と、いうのは、映像作品なのに、どうしても住職の言葉をキャプションのように文字で再現する場面が多かったからだ。本当にアートなら、住職の言った言葉の同音異義語や、暴走族的あて字ををキャプションとして文字であらわしたり、住職の法話はそのままに、映像ではそれをオバマ大統領やカナリヤが語っているように見せかけたりするくらいの破壊はあってしかるべきだったと思うのだ。つい最近ダダの本読んだばっかりなので、破壊的な方に頭がいってるのかもしれないが。
午後5時30分からはコンサート4、2つの音連歌。
これは昨日と同じプログラム。
昨日とは線対称にあたる場所で聞くことにした。
また、予約特典でこの音楽のCD-Rも入手できたので、また気が向けばいつでも聞くことができる。ただし、自分のオペレーションによって。
コンサート5は上原和夫特集1「トーク・コンサート」(進行:川崎弘二)
1、パリのアルマ橋(1998)
2、メテオラ(2007改作)
3、音・曼荼羅(2009、新作初演)
新作の「音・曼荼羅」は「亡き友、鈴木章五に捧げられた新作」と説明されている。
川崎氏は、上原氏の作品がかつてはメディアを駆使したものだったのに、近年は純粋な音の作品が増えてきている経緯や、自然環境をテーマにした作品の意図などについて聞かれていた。
コンサート6は上原和夫特集2「アクースマティック作品選集」
1、プロキオン(2009)
2、ペテルギウス(2009改作)
3、スペースクラフト地球号(2006)
4、エクリプス(1999)
5、クセナキスへのオマージュ(1984)
6、ゴンベの森(2005)
7、アッサンブラージュ2004(2004)
上原氏は70年代から活動を続けており、そのうちの近作を中心にプログラムは組まれていた。
今日はNHK-FM「現代の音楽」の放送もあった。
猿谷 紀郎
− 読売日本交響楽団 第481回定期演奏会から −(2)
「涅槃交響曲(1958)」 黛 敏郎・作曲
(34分40秒)
(管弦楽)読売日本交響楽団
(指揮)下野 竜也
〜東京・サントリーホールで収録〜
<2009/4/7>
「彫刻の音楽(1961)」 黛 敏郎・作曲
(4分24秒)
(演奏)イーストマン・ウインド・アンサンブル
(指揮)ドナルド・ハンスバーガー
<Tower Records PROA−24>
昼間の「深新會関西」は相愛大学の人が中心だったし、夕方の「関西アクースマティック・アート・フェスティバル2009」はお寺が会場、そして、「現代の音楽」では「涅槃交響曲」と、現代音楽と仏教が密接に関係している1日だった。
1曲ごとに作曲家がステージでコメントもしていた。
プログラムは次のとおり。
1、三鬼尚味「清流無間断 碧樹不曾凋」〜ハープ/アイリッシュハープによる
(Hp./Irish Hp.佐々木千恵)約14分。
プログラムノートによると、大小2つのハープで生命の連続性や循環性を表現したい、と願ったのだそうだ。大は生命全体がもつ永遠の流れで、小は「私」を表現しようとしたものだそうだ。
2、大慈彌恵麻「ガラス蜘蛛」〜ヴァイオリンとエレクトロニクスによる〜
(Vn.辺見康孝、Electr.大慈彌恵麻、音響.古山丈)約10分。
オッフェンバッハの「夕べの調和」を奏でるヴァイオリンに、吹き付けられるコンピュータの音素。最後はヴァイオリンを奏でながら客席通路までおりていく。
3、吉澤ゆかり「扉」〜バスクラリネットのための〜
(Bass Ci.青山映道)約12分。
「3つの小曲からなり、1曲目は扉に手をかけ逡巡している様、2、3曲は扉の向こうに見えてきたものをイメージしました」(プログラムノート)
4、中川佐織「星間空間」〜金管四重奏による〜
(Tp.竹森健二、Hr.東谷慶太、Tb.呉信一、Tu.安藤輝明)作曲家自身の指揮。約8分。
プログラムノートから抜粋すると。
「私という存在が、25億光年から地球までの間を旅することで、星の燃焼と、通り過ぎていく銀河、星の国へと向かう」
「星間空間には、高いエネルギーの粒子が飛び交っている。その性質を、4つの楽器(奏者)に、炭素・ケイ素・酸素・鉄などの星間微粒子に当てはめ、チリやガス(主成分は水素)、光の変化を表現しようと、作曲しました」
かなりキテる。無敵のパワー。マジでいい感じ。今回、最も短いが、最も興味深い作品。
5、土井智恵子「dew’s exposure」〜木管五重奏のための〜
(Fl.杉本明子、Ob.小林千晃、Cl.門小夜子、Fg.片寄伸也、Hr.佐藤友貴)約17分。
この曲も作曲家自身が指揮をとった。水をテーマにした音楽をシリーズとして作っており、今回はプログラムノートによると「留まった瞬間の中で、露の中に現れるそれ自体の持つ記憶のような像を内側に向かって出力できたらと思い」作られた。
6、野村美貴子「存在の扉」より3、いいかげんな時間〜ヴァイオリンソロのための〜
(Vn.辺見康孝)約11分。
プログラムノートには「Vn.のもつ、あらゆる音の可能性を探ってみたい」というシリーズだと書かれている。ヴァイオリンを指で叩く音と、弦のプレッシャーの技法に特化した作品。
7、池上敏「カラヴィンカの墓Ⅰa追悼H.R.」〜室内アンサンブルによる〜
(Fl.大江浩志、Cl.&Bass Cl.原田美映子、Vn.浅野彩、Vc.寺田達郎、Pf.岩崎宇紀)
カラヴィンカは仏典に出てくる人頭の鳥、迦遼頻伽であり、今回追悼と記されたH.R.こと廣瀬量平の作品名でもある。約25分の大作になった。
平野の全興寺に移動し、「関西アクースマティック・アート・フェスティバル2009」の2日め。午後5時から「ほとけのくに」でインスタレーション。
「ほとけのくに」は、四国88ケ所の砂が入った手すりをつたっておりる地下空間で、ステンドグラスの曼荼羅の上に座り、151体の仏像に囲まれて瞑想することができる場所だ。
僕が見れたインスタレーションは音と映像の作品で、松本祥代、廣畑祐子の2作品。どちらも全興寺住職の法話をもとにした作品で、宗教ビデオ色が強く、アートではなかった。これはもとから宗教的映像を作ろうとして作ったものにちがいなく、たまにアート的味付けはあっても、それはあくまでも味付け程度だった。2つの作品を見て感じたのは、ああ、結局、宗教というのは言葉なのかな、ということだった。別に悲観もしてないし、軽くもみていないが。と、いうのは、映像作品なのに、どうしても住職の言葉をキャプションのように文字で再現する場面が多かったからだ。本当にアートなら、住職の言った言葉の同音異義語や、暴走族的あて字ををキャプションとして文字であらわしたり、住職の法話はそのままに、映像ではそれをオバマ大統領やカナリヤが語っているように見せかけたりするくらいの破壊はあってしかるべきだったと思うのだ。つい最近ダダの本読んだばっかりなので、破壊的な方に頭がいってるのかもしれないが。
午後5時30分からはコンサート4、2つの音連歌。
これは昨日と同じプログラム。
昨日とは線対称にあたる場所で聞くことにした。
また、予約特典でこの音楽のCD-Rも入手できたので、また気が向けばいつでも聞くことができる。ただし、自分のオペレーションによって。
コンサート5は上原和夫特集1「トーク・コンサート」(進行:川崎弘二)
1、パリのアルマ橋(1998)
2、メテオラ(2007改作)
3、音・曼荼羅(2009、新作初演)
新作の「音・曼荼羅」は「亡き友、鈴木章五に捧げられた新作」と説明されている。
川崎氏は、上原氏の作品がかつてはメディアを駆使したものだったのに、近年は純粋な音の作品が増えてきている経緯や、自然環境をテーマにした作品の意図などについて聞かれていた。
コンサート6は上原和夫特集2「アクースマティック作品選集」
1、プロキオン(2009)
2、ペテルギウス(2009改作)
3、スペースクラフト地球号(2006)
4、エクリプス(1999)
5、クセナキスへのオマージュ(1984)
6、ゴンベの森(2005)
7、アッサンブラージュ2004(2004)
上原氏は70年代から活動を続けており、そのうちの近作を中心にプログラムは組まれていた。
今日はNHK-FM「現代の音楽」の放送もあった。
猿谷 紀郎
− 読売日本交響楽団 第481回定期演奏会から −(2)
「涅槃交響曲(1958)」 黛 敏郎・作曲
(34分40秒)
(管弦楽)読売日本交響楽団
(指揮)下野 竜也
〜東京・サントリーホールで収録〜
<2009/4/7>
「彫刻の音楽(1961)」 黛 敏郎・作曲
(4分24秒)
(演奏)イーストマン・ウインド・アンサンブル
(指揮)ドナルド・ハンスバーガー
<Tower Records PROA−24>
昼間の「深新會関西」は相愛大学の人が中心だったし、夕方の「関西アクースマティック・アート・フェスティバル2009」はお寺が会場、そして、「現代の音楽」では「涅槃交響曲」と、現代音楽と仏教が密接に関係している1日だった。
今日は小学生将棋名人の準決勝から決勝までをNHKで放送していた。
われらが中ちゃん(兵庫県代表)は唯一少女として準々決勝まで勝ち進んでいたが、残念ながら、ベスト4まで駒をすすめることができなかったようだ。
中ちゃんの棋譜を集めて出版してくれたら、絶対に買うんだけどなあ。
午後1時からディスクピア日本橋でAira Mitsukiのインストアライブ。
シングル「BARBiE BARBiE」、DVD「Aira Mitsuki Special LiVE"090319" in LIQUIDROOM」のリリースにあわせたもの。
ダンサー2人をしたがえて、全部で6曲。
新機軸だ!と思える展開がなく、ダフトパンクがいなければ絶対に出来なかったはずの曲が多いなあ、とあらためて思わされる。彼女が本当にエレポップが好きで、ブームが去ってもこの路線をずっと突き進むのならいいのだが。
また、今回のインストアライブでは、一部ファンの自意識が空回りする言動が見られた。ただ、こういった「俺は常連でよく知っているけど、ここにいるはじめての客に彼女の良さが伝わるかな」的な発言や、俺はこの曲の振付けをもうマスターしてるから踊っちゃうもんね的ダンスは、オタク一般で日常的になされるもので、と、いうことはAira Mitsukiにはオタクの客がついている、ということなのか。これはちょっと敷居が高くなった感じだ。
今日、明日の2日間は、平野区の全興寺で「関西アクースマティック・アート・フェスティバル2009」が開催される。
アクースマティック・アートとは、メディアに記録された音の芸術。
今回の会場、全興寺の本堂には19個のスピーカーがあちこちに配されており、ただ単にCDプレイヤーのスイッチを1回押して音を出しっぱなしにするのでなく、演奏者が音を操作し、演奏していた。
全興寺は仏教のテーマパークみたいな面白い寺で、きわめつけは、おそろしい閻魔がまします地獄堂で、地獄めぐりが映像で体験できる。地獄度チェックのゲームもある。
1日めの今日のプログラムは3つ。
コンサート1は石上和也の「発心の兆」(新作初演)
1、煩悩〜貪瞋癡慢疑悪見〜
2、異生羝羊心の幻惑
3、愚童持斎心への希求
4、萌芽
空海の『秘密曼荼羅十住心論』からインスピレーションを受けたと思しき作品。
(ちなみに、僕が書いた『新意識裡』もこの『十住心論』にインスパイアされた)
コンサート2は2つの音連歌
1、18人の音連歌
松本祥代、吉原太郎、畑木あゆみ、柴山拓郎、山下裕美、かつふじたまこ、木村公実、大畠和也、森田信一、宮木朝子、炭釜悠、石上和也、生形三郎、中野雄太、齋藤ゆか、鶴田聖子、足本憲治、竹下士敦
(アクースマティック演奏:竹下士敦)
2、17人の音連歌
渡邊愛、大塚勇樹、向山千春、由雄正恒、仲西香緒理、RAKASU PROJECT、江村瑤子、及川潤耶、岡本久、庄田梨紗、檜垣智也、安井裕一、廣畑祐子、布山陽介、中村秀紀、タナカレイコ、泉川秀文
(アクースマティック演奏:大塚勇樹)
コンサート3は檜垣智也の「イン・モーション」(新作初演)
1、支度
2、炎
3、母体ホロニクス
4、秘密の時間
5、輝くホロニクス
6、空と海
本年9月フランスで全編公開予定の「生命の海」の一部分として制作された。
演奏時は本堂内も最小限の灯りしかなく、すごくいい雰囲気で音を楽しむことができた。
会場で、僕のライブにもときどき出演していただいているインファンさんに会った。石上和也氏と電子音響ユニットを結成しているのだ。
テレビで「サマヨイザクラ」を放送していた。
えれぴょんとばんびが出ていた。マリちゃんも。
ストーリーは裁判員制度での死刑か死刑回避かの難問をつきつけていたが、意外な真相による推理小説的展開によって、その難問は回避された形だ。
町ぐるみの悪意によって追い込まれる容疑者の話だったが、つい最近、町ぐるみの悪意によって物的証拠もないのに、ある主婦が死刑を確定されたばかりだ。あの主婦が、もしも町ぐるみで嫌われていなければ、そもそも容疑すら受けなかったはずだが、まあ、近所の人たちに嫌われていたんだから、しかたがない。マスコミに乗せられて、主婦を直接知らないはずの一般国民までもが、その主婦を犯人だと根拠なく断言し、死刑が確定してせいせいした的な風潮になっている。物的証拠もないのに。あの主婦はいやなやつなんだろうな、という雰囲気はなんとなく伝わってくるが、だと言って、法律でそれをひっくりかえすことができなかったのは悪夢以外のなにものでもない。罪が確定する前に、その主婦の家には断罪する落書きがなされていた。まったくおそろしい。集団の悪はなくならない。その主婦のいた町では、とりあえず、1人が犠牲になって葬り去られたが、だとしたら、次は誰が犠牲になるのだろう。現に、真犯人はのうのうと生き延びているかもしれないのである。
われらが中ちゃん(兵庫県代表)は唯一少女として準々決勝まで勝ち進んでいたが、残念ながら、ベスト4まで駒をすすめることができなかったようだ。
中ちゃんの棋譜を集めて出版してくれたら、絶対に買うんだけどなあ。
午後1時からディスクピア日本橋でAira Mitsukiのインストアライブ。
シングル「BARBiE BARBiE」、DVD「Aira Mitsuki Special LiVE"090319" in LIQUIDROOM」のリリースにあわせたもの。
ダンサー2人をしたがえて、全部で6曲。
新機軸だ!と思える展開がなく、ダフトパンクがいなければ絶対に出来なかったはずの曲が多いなあ、とあらためて思わされる。彼女が本当にエレポップが好きで、ブームが去ってもこの路線をずっと突き進むのならいいのだが。
また、今回のインストアライブでは、一部ファンの自意識が空回りする言動が見られた。ただ、こういった「俺は常連でよく知っているけど、ここにいるはじめての客に彼女の良さが伝わるかな」的な発言や、俺はこの曲の振付けをもうマスターしてるから踊っちゃうもんね的ダンスは、オタク一般で日常的になされるもので、と、いうことはAira Mitsukiにはオタクの客がついている、ということなのか。これはちょっと敷居が高くなった感じだ。
今日、明日の2日間は、平野区の全興寺で「関西アクースマティック・アート・フェスティバル2009」が開催される。
アクースマティック・アートとは、メディアに記録された音の芸術。
今回の会場、全興寺の本堂には19個のスピーカーがあちこちに配されており、ただ単にCDプレイヤーのスイッチを1回押して音を出しっぱなしにするのでなく、演奏者が音を操作し、演奏していた。
全興寺は仏教のテーマパークみたいな面白い寺で、きわめつけは、おそろしい閻魔がまします地獄堂で、地獄めぐりが映像で体験できる。地獄度チェックのゲームもある。
1日めの今日のプログラムは3つ。
コンサート1は石上和也の「発心の兆」(新作初演)
1、煩悩〜貪瞋癡慢疑悪見〜
2、異生羝羊心の幻惑
3、愚童持斎心への希求
4、萌芽
空海の『秘密曼荼羅十住心論』からインスピレーションを受けたと思しき作品。
(ちなみに、僕が書いた『新意識裡』もこの『十住心論』にインスパイアされた)
コンサート2は2つの音連歌
1、18人の音連歌
松本祥代、吉原太郎、畑木あゆみ、柴山拓郎、山下裕美、かつふじたまこ、木村公実、大畠和也、森田信一、宮木朝子、炭釜悠、石上和也、生形三郎、中野雄太、齋藤ゆか、鶴田聖子、足本憲治、竹下士敦
(アクースマティック演奏:竹下士敦)
2、17人の音連歌
渡邊愛、大塚勇樹、向山千春、由雄正恒、仲西香緒理、RAKASU PROJECT、江村瑤子、及川潤耶、岡本久、庄田梨紗、檜垣智也、安井裕一、廣畑祐子、布山陽介、中村秀紀、タナカレイコ、泉川秀文
(アクースマティック演奏:大塚勇樹)
コンサート3は檜垣智也の「イン・モーション」(新作初演)
1、支度
2、炎
3、母体ホロニクス
4、秘密の時間
5、輝くホロニクス
6、空と海
本年9月フランスで全編公開予定の「生命の海」の一部分として制作された。
演奏時は本堂内も最小限の灯りしかなく、すごくいい雰囲気で音を楽しむことができた。
会場で、僕のライブにもときどき出演していただいているインファンさんに会った。石上和也氏と電子音響ユニットを結成しているのだ。
テレビで「サマヨイザクラ」を放送していた。
えれぴょんとばんびが出ていた。マリちゃんも。
ストーリーは裁判員制度での死刑か死刑回避かの難問をつきつけていたが、意外な真相による推理小説的展開によって、その難問は回避された形だ。
町ぐるみの悪意によって追い込まれる容疑者の話だったが、つい最近、町ぐるみの悪意によって物的証拠もないのに、ある主婦が死刑を確定されたばかりだ。あの主婦が、もしも町ぐるみで嫌われていなければ、そもそも容疑すら受けなかったはずだが、まあ、近所の人たちに嫌われていたんだから、しかたがない。マスコミに乗せられて、主婦を直接知らないはずの一般国民までもが、その主婦を犯人だと根拠なく断言し、死刑が確定してせいせいした的な風潮になっている。物的証拠もないのに。あの主婦はいやなやつなんだろうな、という雰囲気はなんとなく伝わってくるが、だと言って、法律でそれをひっくりかえすことができなかったのは悪夢以外のなにものでもない。罪が確定する前に、その主婦の家には断罪する落書きがなされていた。まったくおそろしい。集団の悪はなくならない。その主婦のいた町では、とりあえず、1人が犠牲になって葬り去られたが、だとしたら、次は誰が犠牲になるのだろう。現に、真犯人はのうのうと生き延びているかもしれないのである。
『りはめより100倍恐ろしい』
2009年5月29日 読書
木堂椎の『りはめより100倍恐ろしい』を読んだ。
タイトルの意味を本文から引用してみると。
「いじめなんかよりいじりのほうが全然怖いと思う。一文字違うだけだが、りはめより100倍恐ろしい。どちらも地獄なのだが、両者には決定的な差異がある」
で、その差異とは、
「いじめには被害者に絶対原因がある」が、「いじりは原因がこれといってない」
「いじめなら証拠もあるし先生も敏感に気づく。親も考えてくれる。必要とあれば登校拒否だってできる」一方、「いじりには逃げ道がない」「先生は誰も助けてくれない」
「いじめはふと止まる可能性がある。いじりは終わらない」
「さらに加害者の罪の意識もない。それが一番のいじりの残酷さだ」
この本は17才の現役高校生が書いた比較的リアルな小説なのだ。
いじりの典型例として、描かれるのが、一発芸の強要だ。
物語は、中学時代地獄のいじられキャラだった主人公が、部活や学級の場でいじりにあわないように、戦々兢々と日々を送るさまを描いている。
自分がいじられキャラにならないようにするため、別のスケープゴートをしたてて陥れたりする。
一応、青春小説らしく、後半は、主人公はひどいいじりを繰り返す奴に立ち向かい、謝罪をさせる。しかし、現実の高校生活ではそんな逆転劇はまず起こらずに、いじりは続行されるのだろう。
とにかく、いじられないようにするために、いろいろ考えて行動する主人公がリアルもリアル。思い出してみれば、自分の10代でも、この小説ほどじゃないとしても、毎日が戦争だった。2度と学生生活を繰り返したくない1つの理由がそこにある。クラスの中の、あいつとは仲良くしておこう、あいつとは接触をもたないように目立たなくしよう、的な策略が常に渦巻いていた。常にぼ〜〜〜っとしていて、考えていることの99%が探偵小説だった僕でもそうなのだ。一般の人間の受けたプレッシャーはどんなにすごかったのか。
タイトルの意味を本文から引用してみると。
「いじめなんかよりいじりのほうが全然怖いと思う。一文字違うだけだが、りはめより100倍恐ろしい。どちらも地獄なのだが、両者には決定的な差異がある」
で、その差異とは、
「いじめには被害者に絶対原因がある」が、「いじりは原因がこれといってない」
「いじめなら証拠もあるし先生も敏感に気づく。親も考えてくれる。必要とあれば登校拒否だってできる」一方、「いじりには逃げ道がない」「先生は誰も助けてくれない」
「いじめはふと止まる可能性がある。いじりは終わらない」
「さらに加害者の罪の意識もない。それが一番のいじりの残酷さだ」
この本は17才の現役高校生が書いた比較的リアルな小説なのだ。
いじりの典型例として、描かれるのが、一発芸の強要だ。
物語は、中学時代地獄のいじられキャラだった主人公が、部活や学級の場でいじりにあわないように、戦々兢々と日々を送るさまを描いている。
自分がいじられキャラにならないようにするため、別のスケープゴートをしたてて陥れたりする。
一応、青春小説らしく、後半は、主人公はひどいいじりを繰り返す奴に立ち向かい、謝罪をさせる。しかし、現実の高校生活ではそんな逆転劇はまず起こらずに、いじりは続行されるのだろう。
とにかく、いじられないようにするために、いろいろ考えて行動する主人公がリアルもリアル。思い出してみれば、自分の10代でも、この小説ほどじゃないとしても、毎日が戦争だった。2度と学生生活を繰り返したくない1つの理由がそこにある。クラスの中の、あいつとは仲良くしておこう、あいつとは接触をもたないように目立たなくしよう、的な策略が常に渦巻いていた。常にぼ〜〜〜っとしていて、考えていることの99%が探偵小説だった僕でもそうなのだ。一般の人間の受けたプレッシャーはどんなにすごかったのか。
内藤のボクシングは、まぶたが痛そう!
サップはもともと肉体が大きいだけの男だったのが、本来の姿に戻りきったか、という感じ。
山本KIDは親族まとめて、まるで下手な劇画だ。
カンセコも相手がクリス・ジェリコだったら、某映画スターを相手にしたときみたいに花を持たせてくれたろうに。
ペケーニョはなぜ所と再戦しなかったんだろう。
ルイ・アラゴンの『ダダ追想』を読んだ。
ダダの時代の随想がまとめられているが、「追想」とタイトルにあるが、執筆されたのは1923年頃のことになる。したがって、当時の熱気やいざこざが新鮮に描かれている。
本書の巻頭に載せられた『現代文学史計画』という「目次」は、『リテラチュール』4号(1922年9月)に掲載されたもので、ダダの歴史の見取り図として興味深い。
それは、「序論」「1913年から大戦まで」「1914年8月1日からアポリネールの死(1918年11月10日)まで」「休戦からダダまで(1918年11月から1920年1月)」「ダダ(1920年1月から1921年10月)」「ダダ以後(1921年10月から現在まで」「結論」と、区分けされている。
その項目を眺めているだけで、いろんな思いを馳せることもできるし、もしもこの計画が実現したならどれだけ大部の書物になったか、と想像してワクワクすることも可能だ。
以下、目次。
凡例
序文−草稿の経緯について−
テクストについての注記
現代文学史計画
アガディール
『吸血鬼』
『ペレアス』再演
ポール・ヴァレリーの『若きパルク』出版
ピエール・アルベール=ビロ
アンドレ・ジッド
アンドレ・ジッド(その2)
『リテラチュール』誌の創刊
レオンス・ローザンベール画廊でのルヴェルディのマチネー
トリスタン・ツァラのパリ到着
最初の『リテラチュール』の金曜日(その1)
最初の『リテラチュール』の金曜日(その2)
フォーブールのマニフェスタシオン
ミス・バーネイ邸におけるポール・ヴァレリー
クレマン・パンサール(1885−1922)
1921年、大いなるダダの季節
ポヴォロツキー画廊におけるピカビア展のヴェルニサージュ
「髭の生えた心臓」の夕べ(1923年7月6日)
幻像の画家マックス・エルンスト
さまざまな小説の1年(1922年7月−1923年8月)
「アガディール」は「現代文学史計画」の「序論」の筆頭にあげられている項目で、本書はアラゴンが書こうとしていた「現代文学史計画」の書けた部分を年代順に並べたものだと言えよう。
僕にとっては偉大な作家や有名人たちが、アラゴンの筆によって歯に衣着せぬ表現をなされているところもあって、面白い。
たとえばアンドレ・ジッドについて、こんなふうに書いている。
「彼はいつでも時流に精通していたいと願ったが、実際には何も理解できないので、時流に暗いことに死ぬほど不安を感じていた」
ツァラについては、
「以前の彼は、恐れおののきながら自分の部屋に閉じ籠っていて、そこから外出することもできず、またその元気もなかった。暗闇のなかで着替えをし、自分が生きなければならないこの恐ろしい場所を見ないようにした」
、と、ひきこもりだったことを暴露している。
なかでもけなされまくるのは、コクトーで、折にふれてコクトーの悪口が書いてある。
「スーポーとエリュアールが、いつもコクトーのことを話題にするときに、どんなに侮蔑の思いを込めて話していたか、いつも2人がコクトーをどんなに避けていたかはよく知られている」
「サティが『雄鶏とアルルカン』(コクトーの1918年の作品)を読んでどれだけ憤激し、アドリエンヌ・モリニエの店へねじ込んで行ったか、サティの支持者たちが2度とコクトーのことを口にしないように求めたか」
「ルヴェルディとスーポーとブルトンは、ほとんど評判にならなかった『喜望峰』(コクトーの1919年の作品)について抱いていた批判を隠そうともしなかった」
などなど。
あと、こりゃ面白いな、と思ったものをひとつ。
ディアギレフ劇団の公演で黒貂の襟巻きの盗難騒ぎがあったとき、奇矯な格好をしていたツァラが支配人から「怪しいやつ」と目をつけられており、嫌疑がかけられた。ツァラの疑いが晴れたときの、エリュアールとブルトンの言葉をアラゴンがひいている。
エリュアールは「思ってもみたまえ、もしこのような珍事の噂が広まって、2、3回こんな風に評判が落ちてしまったら、われわれの書くものもおしまいだ。すっかり台なしだぜ」
ブルトンは「ぼくは詩人よりも泥棒と見なされた方がいいよ」
アラゴンはこう言う。
「この2つの台詞は、ダダ運動の歴史におけるさまざまな波乱の芽を含んでいる」
たしかに!
「現代文学史計画」の項目の極端に少ない「序論」と「結論」のみ、ここに引いておこう。
この内、実際に書かれて、読めるのは序論の「アガディール」だけだ。
「序論」
アガディール
ルーヴルでの盗難
未来主義
ロシアバレー
ニック・カーター
ダンカン兄弟
「結論」
1922年初夏における精神の状態
ダダはなぜ世界を救済できなかったか
新しい鉄道文学の前兆、シャトーブリアンとマックス・ジャコブがその典型となるだろう
反動の波
まだ首つり自殺をしなかった何人かの人たち
すべてが分類される
普遍的な凡庸さ
いかにして歴史が書かれるか
ウ〜ん、書いててほしかった!
サップはもともと肉体が大きいだけの男だったのが、本来の姿に戻りきったか、という感じ。
山本KIDは親族まとめて、まるで下手な劇画だ。
カンセコも相手がクリス・ジェリコだったら、某映画スターを相手にしたときみたいに花を持たせてくれたろうに。
ペケーニョはなぜ所と再戦しなかったんだろう。
ルイ・アラゴンの『ダダ追想』を読んだ。
ダダの時代の随想がまとめられているが、「追想」とタイトルにあるが、執筆されたのは1923年頃のことになる。したがって、当時の熱気やいざこざが新鮮に描かれている。
本書の巻頭に載せられた『現代文学史計画』という「目次」は、『リテラチュール』4号(1922年9月)に掲載されたもので、ダダの歴史の見取り図として興味深い。
それは、「序論」「1913年から大戦まで」「1914年8月1日からアポリネールの死(1918年11月10日)まで」「休戦からダダまで(1918年11月から1920年1月)」「ダダ(1920年1月から1921年10月)」「ダダ以後(1921年10月から現在まで」「結論」と、区分けされている。
その項目を眺めているだけで、いろんな思いを馳せることもできるし、もしもこの計画が実現したならどれだけ大部の書物になったか、と想像してワクワクすることも可能だ。
以下、目次。
凡例
序文−草稿の経緯について−
テクストについての注記
現代文学史計画
アガディール
『吸血鬼』
『ペレアス』再演
ポール・ヴァレリーの『若きパルク』出版
ピエール・アルベール=ビロ
アンドレ・ジッド
アンドレ・ジッド(その2)
『リテラチュール』誌の創刊
レオンス・ローザンベール画廊でのルヴェルディのマチネー
トリスタン・ツァラのパリ到着
最初の『リテラチュール』の金曜日(その1)
最初の『リテラチュール』の金曜日(その2)
フォーブールのマニフェスタシオン
ミス・バーネイ邸におけるポール・ヴァレリー
クレマン・パンサール(1885−1922)
1921年、大いなるダダの季節
ポヴォロツキー画廊におけるピカビア展のヴェルニサージュ
「髭の生えた心臓」の夕べ(1923年7月6日)
幻像の画家マックス・エルンスト
さまざまな小説の1年(1922年7月−1923年8月)
「アガディール」は「現代文学史計画」の「序論」の筆頭にあげられている項目で、本書はアラゴンが書こうとしていた「現代文学史計画」の書けた部分を年代順に並べたものだと言えよう。
僕にとっては偉大な作家や有名人たちが、アラゴンの筆によって歯に衣着せぬ表現をなされているところもあって、面白い。
たとえばアンドレ・ジッドについて、こんなふうに書いている。
「彼はいつでも時流に精通していたいと願ったが、実際には何も理解できないので、時流に暗いことに死ぬほど不安を感じていた」
ツァラについては、
「以前の彼は、恐れおののきながら自分の部屋に閉じ籠っていて、そこから外出することもできず、またその元気もなかった。暗闇のなかで着替えをし、自分が生きなければならないこの恐ろしい場所を見ないようにした」
、と、ひきこもりだったことを暴露している。
なかでもけなされまくるのは、コクトーで、折にふれてコクトーの悪口が書いてある。
「スーポーとエリュアールが、いつもコクトーのことを話題にするときに、どんなに侮蔑の思いを込めて話していたか、いつも2人がコクトーをどんなに避けていたかはよく知られている」
「サティが『雄鶏とアルルカン』(コクトーの1918年の作品)を読んでどれだけ憤激し、アドリエンヌ・モリニエの店へねじ込んで行ったか、サティの支持者たちが2度とコクトーのことを口にしないように求めたか」
「ルヴェルディとスーポーとブルトンは、ほとんど評判にならなかった『喜望峰』(コクトーの1919年の作品)について抱いていた批判を隠そうともしなかった」
などなど。
あと、こりゃ面白いな、と思ったものをひとつ。
ディアギレフ劇団の公演で黒貂の襟巻きの盗難騒ぎがあったとき、奇矯な格好をしていたツァラが支配人から「怪しいやつ」と目をつけられており、嫌疑がかけられた。ツァラの疑いが晴れたときの、エリュアールとブルトンの言葉をアラゴンがひいている。
エリュアールは「思ってもみたまえ、もしこのような珍事の噂が広まって、2、3回こんな風に評判が落ちてしまったら、われわれの書くものもおしまいだ。すっかり台なしだぜ」
ブルトンは「ぼくは詩人よりも泥棒と見なされた方がいいよ」
アラゴンはこう言う。
「この2つの台詞は、ダダ運動の歴史におけるさまざまな波乱の芽を含んでいる」
たしかに!
「現代文学史計画」の項目の極端に少ない「序論」と「結論」のみ、ここに引いておこう。
この内、実際に書かれて、読めるのは序論の「アガディール」だけだ。
「序論」
アガディール
ルーヴルでの盗難
未来主義
ロシアバレー
ニック・カーター
ダンカン兄弟
「結論」
1922年初夏における精神の状態
ダダはなぜ世界を救済できなかったか
新しい鉄道文学の前兆、シャトーブリアンとマックス・ジャコブがその典型となるだろう
反動の波
まだ首つり自殺をしなかった何人かの人たち
すべてが分類される
普遍的な凡庸さ
いかにして歴史が書かれるか
ウ〜ん、書いててほしかった!
『あなたまかせのお話』
2009年5月27日 読書
レーモン・クノーの『あなたまかせのお話』を読んだ。
クノーの短編はここにほとんど収録されているらしい。
前半は、短編集。後半は、対談。
以下、目次。
「運命」
ラストはこんなふうにしめくくられる。
『そもそもこの話はちっとも面白くない。幸いこれでおしまいだ。お気に召したかどうかなんてどうでもいい』
「その時精神は...」
パタフィジック天文学。
ほとんどの物体は落下しない、として、大気中のほこり、鳥、雲、風船、飛行機、惑星、星、始祖鳥などを挙げ、行の中間に浮かせて書かれたりしてる。
また、月という概念は洋梨型の概念だとして、他に洋梨型概念として国際連盟とか旗などを例示する。一方、太陽という概念は卵型で、同じく卵型をしているものにキリスト、無名戦士などを挙げる。
物事を適当な二分法で示しているのかな、と思った矢先に、「戦争はシガーカッター型の概念である」「夜明けはどくろ型である」「雨傘はタイプライター型である」などとたたみかける。こりゃ面白い。
「ささやかな名声」
反ニュートン主義者の亡霊が、死後も自分の名声を気にして、自分のことを宣伝する。
ロダーリの『二度生きたランベルト』を思い出した。クノーのほうは既に死んでいるんだけど。
「パニック」
神経質に怯えて逃げ出す泊まり客と、何のことだか気にもしない支配人と下女。
「何某という名の若きフランス人1、2」
1、金ほしさに強盗に入るはずなのに、なぜか123456789の平方根を頭のなかで計算する何某。
2、タクシーに財布を置き忘れたかも、という男。自らすすんで身体検査してくれと申し出た何某のポケットから盗んだ財布が見つかった。
逃げ出して、かねてから用意してあった車に乗り込み、これで逃げられたかと思ったら、なぜか何某は車中で自殺。
「ディノ」
色も品種も思い出せない、そして、目に見えない犬、ディノとの冒険の旅。
犬に去られて、はっと気づくと、私は急行列車の指定席にいた。
「森のはずれで」
しゃべる犬、しゃべる猿
「通りすがりに ある悲劇に先立つ一幕、さらに一幕」
単なる通行人が物語の中心人物になりかけるが、終電にまけるシチュエーション。
ほとんど同じ筋立てで、男女がかわって反復。
「アリス、フランスに行く」
小麦粉で走る機関車の中でアリスがちょっとした冒険。
(インクなしのペンでひとこと書く、という冒険。うっかりふたこと書いて怒られる)
「フランスのカフェ」
25年ぶりに帰ってきたル・アーヴルのスケッチ。
『廃墟、売春、愚行、これらはいつでも詩人の心を慰めてくれる』
「血も凍る恐怖」
極端な「こわがり」が夜中にトイレにいく冒険。
「実在する気配のない虚無の存在」とか「存在感ある実在の虚無」だとか「存在なき虚無なき実在の気配」だとか「実在の気配のような虚無なき存在物」だとか「実在する虚無の気配のような存在」に怯えまくる。
「トロイの馬」
場末の酒場でのなにげない情景。
ただ、ひとつ違っていたのは、客のひとりは馬だったのです。
「エミール・ボーウェン著『カクテルの本』の序文」
「尾を切った馬」という意味をもつ「カクテル」。
そのことについて、バーで馬にからまれた思い出。
「(鎮静剤の正しい使い方について)1、2、」
鎮静剤が必要です、と言われるケースを2パターン。
「加法の空気力学的特性に関する若干の簡潔なる考察」
2+2=4の証明時に風速が考慮されてこなかったことを指摘する論文。
もしも風速が強ければ、数字が倒れたり、+が吹き飛んだりして、2=4になる可能性があるのだ。
「パリ近郊のよもやまばなし」
カフェや路上での辻占のようなエピソード
「言葉のあや」
英語でぜんぜん別の意味になるフランス語の表現についての憶測理論。
「あなたまかせのお話」
ゲームブック的ストーリー。
豆スープの悪夢をみる豆のはなし。
「夢の話をたっぷりと」
夢日記の記述かと思ったら、めざめているときのエピソードを夢らしく表現しただけの数々。
「附録 レーモン・クノーとの対話」
12回にわけて文芸ジャーナリスト、ジョルジュ・シャルボニエと対談したラジオの記録。
前半は言語についてが中心、後半は文学、ウリポの紹介など。
文学は「イリアス」型と「オデュッセイア」型に二分される(歴史と関わるか、個人の物語か)とか、フランス語は外国語に頼らない話とか、はさみで切って一生読み切れないバリエーションをもつ『百兆の詩篇』とか、興味深い話題がたっぷり。
今回の翻訳では、版権の関係で2編が訳出されなかった。
ミシェル・レリスの序文とともに、いずれ読める日が来るのを待とう。
クノーの短編はここにほとんど収録されているらしい。
前半は、短編集。後半は、対談。
以下、目次。
「運命」
ラストはこんなふうにしめくくられる。
『そもそもこの話はちっとも面白くない。幸いこれでおしまいだ。お気に召したかどうかなんてどうでもいい』
「その時精神は...」
パタフィジック天文学。
ほとんどの物体は落下しない、として、大気中のほこり、鳥、雲、風船、飛行機、惑星、星、始祖鳥などを挙げ、行の中間に浮かせて書かれたりしてる。
また、月という概念は洋梨型の概念だとして、他に洋梨型概念として国際連盟とか旗などを例示する。一方、太陽という概念は卵型で、同じく卵型をしているものにキリスト、無名戦士などを挙げる。
物事を適当な二分法で示しているのかな、と思った矢先に、「戦争はシガーカッター型の概念である」「夜明けはどくろ型である」「雨傘はタイプライター型である」などとたたみかける。こりゃ面白い。
「ささやかな名声」
反ニュートン主義者の亡霊が、死後も自分の名声を気にして、自分のことを宣伝する。
ロダーリの『二度生きたランベルト』を思い出した。クノーのほうは既に死んでいるんだけど。
「パニック」
神経質に怯えて逃げ出す泊まり客と、何のことだか気にもしない支配人と下女。
「何某という名の若きフランス人1、2」
1、金ほしさに強盗に入るはずなのに、なぜか123456789の平方根を頭のなかで計算する何某。
2、タクシーに財布を置き忘れたかも、という男。自らすすんで身体検査してくれと申し出た何某のポケットから盗んだ財布が見つかった。
逃げ出して、かねてから用意してあった車に乗り込み、これで逃げられたかと思ったら、なぜか何某は車中で自殺。
「ディノ」
色も品種も思い出せない、そして、目に見えない犬、ディノとの冒険の旅。
犬に去られて、はっと気づくと、私は急行列車の指定席にいた。
「森のはずれで」
しゃべる犬、しゃべる猿
「通りすがりに ある悲劇に先立つ一幕、さらに一幕」
単なる通行人が物語の中心人物になりかけるが、終電にまけるシチュエーション。
ほとんど同じ筋立てで、男女がかわって反復。
「アリス、フランスに行く」
小麦粉で走る機関車の中でアリスがちょっとした冒険。
(インクなしのペンでひとこと書く、という冒険。うっかりふたこと書いて怒られる)
「フランスのカフェ」
25年ぶりに帰ってきたル・アーヴルのスケッチ。
『廃墟、売春、愚行、これらはいつでも詩人の心を慰めてくれる』
「血も凍る恐怖」
極端な「こわがり」が夜中にトイレにいく冒険。
「実在する気配のない虚無の存在」とか「存在感ある実在の虚無」だとか「存在なき虚無なき実在の気配」だとか「実在の気配のような虚無なき存在物」だとか「実在する虚無の気配のような存在」に怯えまくる。
「トロイの馬」
場末の酒場でのなにげない情景。
ただ、ひとつ違っていたのは、客のひとりは馬だったのです。
「エミール・ボーウェン著『カクテルの本』の序文」
「尾を切った馬」という意味をもつ「カクテル」。
そのことについて、バーで馬にからまれた思い出。
「(鎮静剤の正しい使い方について)1、2、」
鎮静剤が必要です、と言われるケースを2パターン。
「加法の空気力学的特性に関する若干の簡潔なる考察」
2+2=4の証明時に風速が考慮されてこなかったことを指摘する論文。
もしも風速が強ければ、数字が倒れたり、+が吹き飛んだりして、2=4になる可能性があるのだ。
「パリ近郊のよもやまばなし」
カフェや路上での辻占のようなエピソード
「言葉のあや」
英語でぜんぜん別の意味になるフランス語の表現についての憶測理論。
「あなたまかせのお話」
ゲームブック的ストーリー。
豆スープの悪夢をみる豆のはなし。
「夢の話をたっぷりと」
夢日記の記述かと思ったら、めざめているときのエピソードを夢らしく表現しただけの数々。
「附録 レーモン・クノーとの対話」
12回にわけて文芸ジャーナリスト、ジョルジュ・シャルボニエと対談したラジオの記録。
前半は言語についてが中心、後半は文学、ウリポの紹介など。
文学は「イリアス」型と「オデュッセイア」型に二分される(歴史と関わるか、個人の物語か)とか、フランス語は外国語に頼らない話とか、はさみで切って一生読み切れないバリエーションをもつ『百兆の詩篇』とか、興味深い話題がたっぷり。
今回の翻訳では、版権の関係で2編が訳出されなかった。
ミシェル・レリスの序文とともに、いずれ読める日が来るのを待とう。
『生きさせる思想 記憶の解析、生存の肯定』
2009年5月26日 読書
小森陽一と雨宮処凛による対談『生きさせる思想 記憶の解析、生存の肯定』を読んだ。
以下、目次
はじめに/雨宮処凛
1、「90年代」から今が見えてくる
「ちびまる子ちゃん」と競争
「人生ごと人質に」とられて
「受験勉強なんか意味ない」
リストカットとバンギャル生活
フリーターの「自由」と現実
雇用の「規制緩和」ということ
脅かされる人間の尊厳と九条
政治の右傾化と「格差」、貧困
「豊かさ」とか「平和」とかいわれても
サブカル、右翼、「大きな物語」
2、暴力と思考停止の世界で
「それをお前らが言うなよ」と
書くことで自分をすくい上げて
言葉を失った経験とバッシング社会
「恐怖と怒りは紙一重」がここでも
思考停止の背後にある欲望
新たな変革が求められる時代
3、貧困の蔓延と人々が精神を病む国
教育課程からの排除と背景
「不登校その後」と「氷河期」と
リクルート事件とフリーター
ニートやフリーターと親子対立
新自由主義は家族を利用する
メンヘラーたちとデモで再会した
自傷の競い合い、ネット心中
「今を楽しむ」作法とその行方
自分でなく社会に怒りを向ける
4、無条件に生存を肯定する運動
根本的にひっくり返す言葉
自分を肯定できないと怒れない
競争原理と「自己責任」論の土壌
くすぶる罪障感と「免責共同体」
「人は一人で生きていける」のか
恋人、友達ではなく「同志」
役立たずでものっさばっていい
「幸せのハードル」を下げるとは
贈与の原理の具体化のために
おわりに/小森陽一
一見、なまぬるいことで苦しんでいるように見えても、そのなまぬるさを指摘したって苦しさが減るわけではなく、さらに苦しみを吐露することも連帯することもできなくなってしまう。これは逃げ場のない悪い流れだ。
厳しかった体験や過去を例に出して、今の苦しみを緩和することはできないのだ。
この本読んでいて思い出したことがある。
モダンチョキチョキズのファンクラブの会報の編集長にむりやりなって、好き勝手に作らせてもらっていた時期がある。
会報にのせるために、ボーカルのマリちゃんと、林茂助さんの対談に立ち会っていたときのことだ。
そのとき、マリちゃんは友達よりも、同じ目標をもって進む同志や、仕事を一緒にする同僚の大切さを力説したのだ。かなり強い口調だったので、「おや?」と驚いたほどだった。
本書で雨宮処凛が「同志」について語っているときの「恋人、友達ではなく同志」というのと二重写しになって甦った。
そして、今さらながら、あのとき、マリちゃんはたたかっていたんだな、とわかったのだ。
もちろん、僕はそのとき、そんなことを察するだけの人間の深さも度量もなく、マリちゃんと共闘するだけの準備も何もなかったのだ。
はやく人間になりたい。
以下、目次
はじめに/雨宮処凛
1、「90年代」から今が見えてくる
「ちびまる子ちゃん」と競争
「人生ごと人質に」とられて
「受験勉強なんか意味ない」
リストカットとバンギャル生活
フリーターの「自由」と現実
雇用の「規制緩和」ということ
脅かされる人間の尊厳と九条
政治の右傾化と「格差」、貧困
「豊かさ」とか「平和」とかいわれても
サブカル、右翼、「大きな物語」
2、暴力と思考停止の世界で
「それをお前らが言うなよ」と
書くことで自分をすくい上げて
言葉を失った経験とバッシング社会
「恐怖と怒りは紙一重」がここでも
思考停止の背後にある欲望
新たな変革が求められる時代
3、貧困の蔓延と人々が精神を病む国
教育課程からの排除と背景
「不登校その後」と「氷河期」と
リクルート事件とフリーター
ニートやフリーターと親子対立
新自由主義は家族を利用する
メンヘラーたちとデモで再会した
自傷の競い合い、ネット心中
「今を楽しむ」作法とその行方
自分でなく社会に怒りを向ける
4、無条件に生存を肯定する運動
根本的にひっくり返す言葉
自分を肯定できないと怒れない
競争原理と「自己責任」論の土壌
くすぶる罪障感と「免責共同体」
「人は一人で生きていける」のか
恋人、友達ではなく「同志」
役立たずでものっさばっていい
「幸せのハードル」を下げるとは
贈与の原理の具体化のために
おわりに/小森陽一
一見、なまぬるいことで苦しんでいるように見えても、そのなまぬるさを指摘したって苦しさが減るわけではなく、さらに苦しみを吐露することも連帯することもできなくなってしまう。これは逃げ場のない悪い流れだ。
厳しかった体験や過去を例に出して、今の苦しみを緩和することはできないのだ。
この本読んでいて思い出したことがある。
モダンチョキチョキズのファンクラブの会報の編集長にむりやりなって、好き勝手に作らせてもらっていた時期がある。
会報にのせるために、ボーカルのマリちゃんと、林茂助さんの対談に立ち会っていたときのことだ。
そのとき、マリちゃんは友達よりも、同じ目標をもって進む同志や、仕事を一緒にする同僚の大切さを力説したのだ。かなり強い口調だったので、「おや?」と驚いたほどだった。
本書で雨宮処凛が「同志」について語っているときの「恋人、友達ではなく同志」というのと二重写しになって甦った。
そして、今さらながら、あのとき、マリちゃんはたたかっていたんだな、とわかったのだ。
もちろん、僕はそのとき、そんなことを察するだけの人間の深さも度量もなく、マリちゃんと共闘するだけの準備も何もなかったのだ。
はやく人間になりたい。
『向上心について 人間の大きくなりたいという欲望』
2009年5月25日 読書
今日はだらだらと書いてみる。(いつもはあんな下手な文章でも、一応推敲したり、書き過ぎたかな、と思うところを削ったりしているのだ)
ベルナール・スティグレールの『向上心について 人間の大きくなりたいという欲望』を読んだ。スティグレールの本に関しては、今のところ、はずれ無しだ。本書も、まあまあ。「小さな講演会」シリーズの1冊。前半は講演、後半は質疑応答をおさめている。
タイトルだけ見れば、自己啓発のビジネス書みたいだが、タイトルの本来の意味は、後半の「人間の大きくなりたいという欲望」の方にある。直立二足歩行だって「大きくなりたいという欲望」だ、というところから説明しているのだから、見据えるところは大きい。
適当な日本語訳がないから、とつけられた「向上心」には、その対極として「怠惰」が設定されている。
この講演会は、若い世代に向けたものであるが、メッセージはむしろその親、大人の世代に発せられている。大人ならば怠惰に陥ってしまう傾向を自ら修正して、「向上心」に向けることができるが、若い世代は、大人の手助けが必要だ、と説いている。
また、テレビの弊害について説くところも、スティグレールらしい。
本来、親が教えねばならないことを、テレビにまかせてしまっている、とか。
僕みたいな、毎日テレビ漬けの生活を送っている人間にとっては耳の痛い話だ。そういえば、僕のものの考え方はいかにも浅いし、軽いし、一面的だ。とおりいっぺんの知識しかないし、雑学があれば物知りだと思い込んでいるふしもある。テレビのニュース解説で誰かが言ってたことを鵜のみにすることなど日常茶飯事だし、テレビで伝えられる事柄をはなから疑いもしていない。僕がワイドショーやネットで顕著な嫌韓、嫌中、右傾化などに反発しているのは、単なる天の邪鬼であって、深い思索があってのことではないのだ。第一、韓国にも北朝鮮にも中国にも、ましてや中東にも行ったことがないくせに、テレビで伝えられる映像やコメントをもとにして、意見らしきものをこさえる反応をしているだけなのだ。
20日付けの「ハアレツ」にあったニュース。ガザからロケット砲がイスラエルに打ち込まれ、1人が軽傷を負った。2ヶ月ぶりの攻撃だった。すぐさまイスラエルはガザを空爆し、物資を搬入するためのトンネル4つと、工場2つを破壊したそうだ。ガザは現在もイスラエルによって占領、封鎖されており、食糧や医薬品、建築資材などの物資を搬入するルートがない。世界の各国はガザ復興のために金を出しているが、イスラエルがルートを封鎖しているため、何も届いていない、とは、先日ETV特集「ガザ なぜ悲劇は繰り返されるのか」で報告されていたところだ。
と、まあこんなニュースをだらだらと書いたのは、こうしたニュースと、テレビから得た情報をつきあわせてみても、僕には、それについての意見が何もまとまらないってのを言いたかったのだ。まさしく、スティグレールが懸念するような、「怠惰」から脱却できない脳みそを抱え込んでしまっているのだ。
何とかしなくちゃ、と思うのは一見「向上心」のあらわれかとみえるが、そのとき思うだけで、これといって中東問題に関わろうとはしないのだから、「怠惰」なままだ。「今、起きる」と宣言して二度寝してるようなものか。
「人間の大きくなりたいという欲望」ということだけをとってみれば、僕はずっと「ちび」で、クラスでも屈指の背の低さを誇っていたが、そのことに関するコンプレックスはいっさい無かった。コンプレックスをもつだけの自意識にも欠けた、ぼーっとした児童だったのだ。現在では、「ちび」に加えて「でぶ」「はげ」「でっぱ」「色黒」「じじい」「めがね」と称号は増えたが、あんまり悩まない(めがねは全然かけていないので、事実と違うなあ、と思うが)。大きくなりたいという欲望どころか、怠惰の極地を驀進しているのである。
そういえば、「短小」「早漏」などといった下ネタ関連の栄誉ある称号も僕は獲得しているが、これもまた悩んでいない。毎日届く、膨大な数の親切なメールで、「ペニスが大きくなる」とか「逆援助交際」など、見知らぬ方々からありがたいアドバイスや申し出をいただいているが、怠惰な僕には届かない。むしろ、成長期にもっと悩んでおけば、巨根で遅漏な夜の帝王になれたかもしれず、多くの女性に捨てられずにすんだのかもしれない。「人間の大きくなりたいという欲望」とは、まさしくこういうことなのか、と思いいたれば、僕にはその手の欲望が欠けていたことに愕然とするのである。
今日はこれと言ってイベントはどこにも行かず、家で本読んで、録画しておいた番組見て、あと、書店に行ったくらい。怠惰だ。
書店では、コンビニ本によくある「サイコ画像」の本をぱらぱらと立ち読み。
ネットの住人であれば、たぶん見なれたネタばかりなのか。
僕も首のない少女を実際に見たことがあるが、それに似た画像もあった。
こういうのは、好奇心にまかせてついついのぞいてみるけど、心がすさむ。
また、今出ている「DAYS JAPAN」という写真誌には、処分されたばかりの死んだ犬たちの写真が載っていた。猫ばっかり飼っている女性の住む「猫屋敷」はよくあるが、犬ばかり飼っている家って、あんまりないんじゃないだろうか。
犬といえば、主従関係とか、支配とか、あるいは流行とか、そういうつまらない面がつきまとうような気がする。ペットショップってまあ、ほとんどが犬の店を意味しているし。でも、そういう愛玩犬ならまだましなのだ。番犬とか、猟犬とか、ああいう人間のいいなりになっている奴隷のような生物や、家畜はつまらない。猫はこれといって役にたたなくて、日がな1日ゴロゴロと寝てばかりいるのが、まるで自分を見ているようで、親近感がわくのだ。
ベルナール・スティグレールの『向上心について 人間の大きくなりたいという欲望』を読んだ。スティグレールの本に関しては、今のところ、はずれ無しだ。本書も、まあまあ。「小さな講演会」シリーズの1冊。前半は講演、後半は質疑応答をおさめている。
タイトルだけ見れば、自己啓発のビジネス書みたいだが、タイトルの本来の意味は、後半の「人間の大きくなりたいという欲望」の方にある。直立二足歩行だって「大きくなりたいという欲望」だ、というところから説明しているのだから、見据えるところは大きい。
適当な日本語訳がないから、とつけられた「向上心」には、その対極として「怠惰」が設定されている。
この講演会は、若い世代に向けたものであるが、メッセージはむしろその親、大人の世代に発せられている。大人ならば怠惰に陥ってしまう傾向を自ら修正して、「向上心」に向けることができるが、若い世代は、大人の手助けが必要だ、と説いている。
また、テレビの弊害について説くところも、スティグレールらしい。
本来、親が教えねばならないことを、テレビにまかせてしまっている、とか。
僕みたいな、毎日テレビ漬けの生活を送っている人間にとっては耳の痛い話だ。そういえば、僕のものの考え方はいかにも浅いし、軽いし、一面的だ。とおりいっぺんの知識しかないし、雑学があれば物知りだと思い込んでいるふしもある。テレビのニュース解説で誰かが言ってたことを鵜のみにすることなど日常茶飯事だし、テレビで伝えられる事柄をはなから疑いもしていない。僕がワイドショーやネットで顕著な嫌韓、嫌中、右傾化などに反発しているのは、単なる天の邪鬼であって、深い思索があってのことではないのだ。第一、韓国にも北朝鮮にも中国にも、ましてや中東にも行ったことがないくせに、テレビで伝えられる映像やコメントをもとにして、意見らしきものをこさえる反応をしているだけなのだ。
20日付けの「ハアレツ」にあったニュース。ガザからロケット砲がイスラエルに打ち込まれ、1人が軽傷を負った。2ヶ月ぶりの攻撃だった。すぐさまイスラエルはガザを空爆し、物資を搬入するためのトンネル4つと、工場2つを破壊したそうだ。ガザは現在もイスラエルによって占領、封鎖されており、食糧や医薬品、建築資材などの物資を搬入するルートがない。世界の各国はガザ復興のために金を出しているが、イスラエルがルートを封鎖しているため、何も届いていない、とは、先日ETV特集「ガザ なぜ悲劇は繰り返されるのか」で報告されていたところだ。
と、まあこんなニュースをだらだらと書いたのは、こうしたニュースと、テレビから得た情報をつきあわせてみても、僕には、それについての意見が何もまとまらないってのを言いたかったのだ。まさしく、スティグレールが懸念するような、「怠惰」から脱却できない脳みそを抱え込んでしまっているのだ。
何とかしなくちゃ、と思うのは一見「向上心」のあらわれかとみえるが、そのとき思うだけで、これといって中東問題に関わろうとはしないのだから、「怠惰」なままだ。「今、起きる」と宣言して二度寝してるようなものか。
「人間の大きくなりたいという欲望」ということだけをとってみれば、僕はずっと「ちび」で、クラスでも屈指の背の低さを誇っていたが、そのことに関するコンプレックスはいっさい無かった。コンプレックスをもつだけの自意識にも欠けた、ぼーっとした児童だったのだ。現在では、「ちび」に加えて「でぶ」「はげ」「でっぱ」「色黒」「じじい」「めがね」と称号は増えたが、あんまり悩まない(めがねは全然かけていないので、事実と違うなあ、と思うが)。大きくなりたいという欲望どころか、怠惰の極地を驀進しているのである。
そういえば、「短小」「早漏」などといった下ネタ関連の栄誉ある称号も僕は獲得しているが、これもまた悩んでいない。毎日届く、膨大な数の親切なメールで、「ペニスが大きくなる」とか「逆援助交際」など、見知らぬ方々からありがたいアドバイスや申し出をいただいているが、怠惰な僕には届かない。むしろ、成長期にもっと悩んでおけば、巨根で遅漏な夜の帝王になれたかもしれず、多くの女性に捨てられずにすんだのかもしれない。「人間の大きくなりたいという欲望」とは、まさしくこういうことなのか、と思いいたれば、僕にはその手の欲望が欠けていたことに愕然とするのである。
今日はこれと言ってイベントはどこにも行かず、家で本読んで、録画しておいた番組見て、あと、書店に行ったくらい。怠惰だ。
書店では、コンビニ本によくある「サイコ画像」の本をぱらぱらと立ち読み。
ネットの住人であれば、たぶん見なれたネタばかりなのか。
僕も首のない少女を実際に見たことがあるが、それに似た画像もあった。
こういうのは、好奇心にまかせてついついのぞいてみるけど、心がすさむ。
また、今出ている「DAYS JAPAN」という写真誌には、処分されたばかりの死んだ犬たちの写真が載っていた。猫ばっかり飼っている女性の住む「猫屋敷」はよくあるが、犬ばかり飼っている家って、あんまりないんじゃないだろうか。
犬といえば、主従関係とか、支配とか、あるいは流行とか、そういうつまらない面がつきまとうような気がする。ペットショップってまあ、ほとんどが犬の店を意味しているし。でも、そういう愛玩犬ならまだましなのだ。番犬とか、猟犬とか、ああいう人間のいいなりになっている奴隷のような生物や、家畜はつまらない。猫はこれといって役にたたなくて、日がな1日ゴロゴロと寝てばかりいるのが、まるで自分を見ているようで、親近感がわくのだ。
『僕たちは歩かない』、上方落語@上方亭
2009年5月24日 落語
大相撲の千秋楽。
今場所の面白かったことと言ったら!
千秋楽でも、優勝決定戦のドラマという大きな本筋以外にも、「豊真将、涙の1勝」とか「千代大海、引退をかけた一戦」とかもう、みどころたっぷり。
古川日出男の『僕たちは歩かない』を読んだ。
以下、目次。
1.僕たちは雪を食べる
2.僕たちは画家にごちそうする
3.僕たちは悲しい物語を知っている
4.僕たちは錆びた金属に運ばれる
5.僕たちはフードをかぶる
26時間制の東京に入り込むシェフ志望の料理人たち。
死んだ仲間に会いに冥界に行く。
と、いうような話。
自分だけが1日26時間使えたらな、とか、時間の止まった世界で1年間過ごしたい、とか、そんなことはよく考える。
26時間制の東京、もそれに近いものだろう。
全体に、夢でみた話を聞かされているようで、26時間制の東京に迷い込み、また、意識的に入ることができるようになるまでは、ワクワクして読んだのだが、後半は完全に夢物語になってしまっている。お筆先のように物語が進行しているのだ。冥界に行くためのルールは、地に足をつけないこと。これはそのまんま、夢物語であることを言い換えているようである。
26時間制の東京が雪のふる寒い場所で、最終章にあるような「フード」をかぶらねばならないところとして設定してある。
これは防寒のための「フードをかぶる」と、彼らが料理人であり、また、生きていかねばならないという意味での、「フード」(食べ物)を「かぶる」(食べる)をひっかけた洒落なのである。
同音異義語によるストーリー展開は、これもまた、夢の話だと特徴付けている。
また、冥界行きの列車がみるみる腐朽して「化石」となっていく描写がある。
「世界」が「化石」になる公式は、アナグラムしてみればすぐにわかる。
「SEKAI」と「K」=「KASEKI」になる。
「世界」「時計」で「化石」になる。
世界に時計を導入すれば、たちまち化石になってしまう。
また、冥界へのプロセスが化石になることにある、というのも、アナグラムで解明される。
「冥界」に行く際、「身」を「消す」ことで、「化石」になる。
「MEIKAI」に行く際、「MI」を「KS」ことによって、「KASEKI」になるのだ。
また、唯一死んでしまう登場人物は、「ホリミナ」という名前だ。
彼女は外国で修行の後、日本に戻り、そして、幽界にいく。
「ホリミナ」は「日の丸」の地において、「自分」を「幽」界におくのである。
「HORIMINA」は「HINOMARU」では「I」を「U」に変えざるをえなかったのだ。
このような言葉遊びによって、物語の進行や設定がつくられており、それは無意識に夢が行う作業だと言ってもいい。
本の帯には、「疾走する言語と肉体、遊戯する物語。古川日出男の新境地意欲作!」と書いてある。以前読んだ『ハル、ハル、ハル』ほど疾走してはいなかったが、帯の文句とは対照的に、作者は山手線を何周もするような物語に親和性があるんじゃないか、と思わされた。
なお、この本の冒頭で、26時間の東京に迷い込むとき、路上のアコーディオン奏者にいざなわれる。
今朝、まったく同じ光景を目にしたので、これはなんというタイミングか、と驚いた。
僕も24時間じゃない難波に入れたのかも、とワクワクした。
まあ、とくに時計に縛られた暮らしもしていないので、24時間が26時間でもたいした変わりはないのだが。
そのアコーディオンひきと、ギターなどの集まりは、よく見ると、松原タニシ君たちだった。朝からいいもの聞いた。
朝はラジオで「なみはや亭」
死神/笑福亭松之助
近日発売されるDVD&CDボックス「楽悟家 笑福亭松之助」のCDから。
なんとも不気味なサゲで、これは映像で見たい。
「米朝よもやま噺」は前回に続いて桂雀三郎がゲストで、主に桂枝雀のエピソード。
午後2時30分から上方亭ライブ。
かわり目/桂ひろば
くっしゃみ講釈/桂歌之助
「かわり目」はマクラもそこそこに噺に入り、サゲの「銚子のかわり目」まで。
関東だきを買いに行くまでで終わるバージョンをよく聞くが、それだと、題名の「かわり目」が何のことだかわからない。サゲがそのまんまタイトルとして流通してるのは「次の御用日」とか、いくつかあるが、わかっていても途中でサゲを予想できないのが興味深い。
「くっしゃみ講釈」は、以前、旭堂南陵が唐辛子を火鉢にいれてもくしゃみは出ない、と言ってたが、桂歌之助は、「一度試してみてください。えぐいくしゃみが出ます」と言ってた。試す機会などそうそうないが、どっちなんだろう。
今日はJK21の「エニシングゴーズ」がインフルエンザ関連で公開放送じゃなくなった。KissFMは僕の家では電波が入らないので、困った話だ。
で、自宅で「現代の音楽」
猿谷 紀郎
− 読売日本交響楽団 第481回定期演奏会から −(1)
「エローラ交響曲(1958)」 芥川也寸志・作曲
(17分35秒)
(管弦楽)読売日本交響楽団
(指揮)下野 竜也
「アトム(2009)」 藤倉 大・作曲
※世界初演
(14分10秒)
(管弦楽)読売日本交響楽団
(指揮)下野 竜也
〜東京・サントリーホールで収録〜
<2009/4/7>
「ザ・ボイス ファゴットとチェロのための(2007)」
藤倉 大・作曲
(9分20秒)
(ファゴット)パスカル・ガロワ
(チェロ)ロハン・デ・サラム
<Stradivarius STR−33799>
今場所の面白かったことと言ったら!
千秋楽でも、優勝決定戦のドラマという大きな本筋以外にも、「豊真将、涙の1勝」とか「千代大海、引退をかけた一戦」とかもう、みどころたっぷり。
古川日出男の『僕たちは歩かない』を読んだ。
以下、目次。
1.僕たちは雪を食べる
2.僕たちは画家にごちそうする
3.僕たちは悲しい物語を知っている
4.僕たちは錆びた金属に運ばれる
5.僕たちはフードをかぶる
26時間制の東京に入り込むシェフ志望の料理人たち。
死んだ仲間に会いに冥界に行く。
と、いうような話。
自分だけが1日26時間使えたらな、とか、時間の止まった世界で1年間過ごしたい、とか、そんなことはよく考える。
26時間制の東京、もそれに近いものだろう。
全体に、夢でみた話を聞かされているようで、26時間制の東京に迷い込み、また、意識的に入ることができるようになるまでは、ワクワクして読んだのだが、後半は完全に夢物語になってしまっている。お筆先のように物語が進行しているのだ。冥界に行くためのルールは、地に足をつけないこと。これはそのまんま、夢物語であることを言い換えているようである。
26時間制の東京が雪のふる寒い場所で、最終章にあるような「フード」をかぶらねばならないところとして設定してある。
これは防寒のための「フードをかぶる」と、彼らが料理人であり、また、生きていかねばならないという意味での、「フード」(食べ物)を「かぶる」(食べる)をひっかけた洒落なのである。
同音異義語によるストーリー展開は、これもまた、夢の話だと特徴付けている。
また、冥界行きの列車がみるみる腐朽して「化石」となっていく描写がある。
「世界」が「化石」になる公式は、アナグラムしてみればすぐにわかる。
「SEKAI」と「K」=「KASEKI」になる。
「世界」「時計」で「化石」になる。
世界に時計を導入すれば、たちまち化石になってしまう。
また、冥界へのプロセスが化石になることにある、というのも、アナグラムで解明される。
「冥界」に行く際、「身」を「消す」ことで、「化石」になる。
「MEIKAI」に行く際、「MI」を「KS」ことによって、「KASEKI」になるのだ。
また、唯一死んでしまう登場人物は、「ホリミナ」という名前だ。
彼女は外国で修行の後、日本に戻り、そして、幽界にいく。
「ホリミナ」は「日の丸」の地において、「自分」を「幽」界におくのである。
「HORIMINA」は「HINOMARU」では「I」を「U」に変えざるをえなかったのだ。
このような言葉遊びによって、物語の進行や設定がつくられており、それは無意識に夢が行う作業だと言ってもいい。
本の帯には、「疾走する言語と肉体、遊戯する物語。古川日出男の新境地意欲作!」と書いてある。以前読んだ『ハル、ハル、ハル』ほど疾走してはいなかったが、帯の文句とは対照的に、作者は山手線を何周もするような物語に親和性があるんじゃないか、と思わされた。
なお、この本の冒頭で、26時間の東京に迷い込むとき、路上のアコーディオン奏者にいざなわれる。
今朝、まったく同じ光景を目にしたので、これはなんというタイミングか、と驚いた。
僕も24時間じゃない難波に入れたのかも、とワクワクした。
まあ、とくに時計に縛られた暮らしもしていないので、24時間が26時間でもたいした変わりはないのだが。
そのアコーディオンひきと、ギターなどの集まりは、よく見ると、松原タニシ君たちだった。朝からいいもの聞いた。
朝はラジオで「なみはや亭」
死神/笑福亭松之助
近日発売されるDVD&CDボックス「楽悟家 笑福亭松之助」のCDから。
なんとも不気味なサゲで、これは映像で見たい。
「米朝よもやま噺」は前回に続いて桂雀三郎がゲストで、主に桂枝雀のエピソード。
午後2時30分から上方亭ライブ。
かわり目/桂ひろば
くっしゃみ講釈/桂歌之助
「かわり目」はマクラもそこそこに噺に入り、サゲの「銚子のかわり目」まで。
関東だきを買いに行くまでで終わるバージョンをよく聞くが、それだと、題名の「かわり目」が何のことだかわからない。サゲがそのまんまタイトルとして流通してるのは「次の御用日」とか、いくつかあるが、わかっていても途中でサゲを予想できないのが興味深い。
「くっしゃみ講釈」は、以前、旭堂南陵が唐辛子を火鉢にいれてもくしゃみは出ない、と言ってたが、桂歌之助は、「一度試してみてください。えぐいくしゃみが出ます」と言ってた。試す機会などそうそうないが、どっちなんだろう。
今日はJK21の「エニシングゴーズ」がインフルエンザ関連で公開放送じゃなくなった。KissFMは僕の家では電波が入らないので、困った話だ。
で、自宅で「現代の音楽」
猿谷 紀郎
− 読売日本交響楽団 第481回定期演奏会から −(1)
「エローラ交響曲(1958)」 芥川也寸志・作曲
(17分35秒)
(管弦楽)読売日本交響楽団
(指揮)下野 竜也
「アトム(2009)」 藤倉 大・作曲
※世界初演
(14分10秒)
(管弦楽)読売日本交響楽団
(指揮)下野 竜也
〜東京・サントリーホールで収録〜
<2009/4/7>
「ザ・ボイス ファゴットとチェロのための(2007)」
藤倉 大・作曲
(9分20秒)
(ファゴット)パスカル・ガロワ
(チェロ)ロハン・デ・サラム
<Stradivarius STR−33799>
上方講談@上方亭〜ザ・ミルク路上ライブ@オタロード〜さよなら丼ちゃん@銭ゲバ
2009年5月23日 ライブ午後2時30分から、ワッハ上方で上方亭ライブ。
左甚五郎の蟹/旭堂南陽
猫餅の由来/大平洋
と、左甚五郎ものの2本。
どちらも、甚五郎の作ったもの(蟹、猫)のおかげで店が繁昌する話。
左甚五郎に美人のメイドを彫ってもらって、メイド喫茶が繁昌するとか、「ちょびっツ」(ちい)とか「愛人」(あい)みたいな人造人間のドラマが今ならできるのかな。
僕なら、左甚五郎に最新式のパソコンを彫ってもらいたい。
新型インフルエンザ騒ぎで、客入りが厳しいのかな、と思っていたが、そういうわけでもなく、席はちゃんと人で埋まっていた。ただ、もとから古典芸能に興味のあるお客さんが多く、観光客は少なかった模様。
今回のような弱い新型インフルエンザごときでイベント自粛とか、自宅待機とか、反応が過剰すぎて、つまらない。感染者が増えるということは、発熱者が多数出現するわけだから、これも一種の地球温暖化、というわけか。極地の氷が溶けるのを防ぐためにも、一刻も早く、インフルエンザの流行がおさまればいいのに、と思う。
午後4時45分からオタロードでザ・ミルクのストリートライブ。
キャッツアイとか年下の男の子とかしっぽのぽとか、お馴染みのナンバーで楽しむ。
ザ・ミルクはこうしてオタロードで毎月ストリートライブをしているが、レパートリーやスタンスがオタクに特化していないところに特徴がある。
つまり、オタクがこうじてライブをはじめた、というわけではないのがありありと見てとれるのだ。意外と、こういうアイドルは珍しいので、貴重だ。
イベントの準備にいったん離れて、イベント会場の味園ビルに向かうとき、ザ・ミルクの2ステージめをやっていたが、時間がなくて、立ち止まれず。
午後6時から、味園ビルの銭ゲバで「さよなら丼ちゃん」イベント。
案内文は、次のとおり。
「さよなら丼ちゃん」
先般、突然の腹痛に倒れた丼野M美。
緊急手術し、点滴につながれて、病院のベッドから起き上がることのできなかった丼ちゃんでした。一時は回復のきざしさえ見せました。
しかし今、きっと、丼ちゃんは以前のように元気に歌い踊っていることでしょう。
と、いうわけで、突然ですが、われわれに元気な姿をみせてくれていた頃の丼野の映像や、丼野の残した映像を見て、丼ちゃんを偲ぶ会を催します。
5月23日(土)
銭ゲバにて(なんば味園ビル)
午後6時〜(約1時間程度)
とくに入場料はいりません。1オーダーお願いします。ただ、もしも丼野へのお志があれば、責任をもってお届けします。
丼ちゃんは今でも生きている!
MIXIコミュニティでの一斉送信メッセージでは、上記の文章に添えて、「丼野は入院し、小さな姿で戻って来た」とも書いた。
先般、緊急入院、開腹手術した丼野M美追悼のイベント。
在りし日のライブ映像などを見ながら、丼野を偲ぶ。
そうこうしているときに、丼野本人があらわれて、「丼ちゃんは、ライブをやめへんで〜」と1曲歌う、「ガキの使い」での「さよなら山ちゃん」を踏襲したイベント。
丼野からは、大ファンだという「なすび」の差し入れも。(丼野は懸賞生活を見ずに、なすびのファンになったらしい)
なお、案内文は意識的に丼野M美が死んだのではないか、と誤解させるような書き方をしているが、嘘はひとつもついていない。
「一時は回復のきざしさえ見せました」=その後、きざしどころか、順調に回復した。
「しかし今、きっと、丼ちゃんは以前のように元気に歌い踊っていることでしょう」=その場にいないので、あくまでも可能性を言った。
「われわれに元気な姿をみせてくれていた頃の丼野の映像」=入院前、という意味。
「丼ちゃんは今でも生きている!」=まったく、そのとおり!
「小さな姿で戻って来た」=体重が数キロ減ったらしい。
「さよなら丼ちゃん」=ぶじ退院して病院を後にしたことを言っている。
また、最近の僕の日記では、親戚のおばさんの危篤状態のこともおりに触れて書いていたため、それが丼野のことだと勘違いした人もいたようだ。
左甚五郎の蟹/旭堂南陽
猫餅の由来/大平洋
と、左甚五郎ものの2本。
どちらも、甚五郎の作ったもの(蟹、猫)のおかげで店が繁昌する話。
左甚五郎に美人のメイドを彫ってもらって、メイド喫茶が繁昌するとか、「ちょびっツ」(ちい)とか「愛人」(あい)みたいな人造人間のドラマが今ならできるのかな。
僕なら、左甚五郎に最新式のパソコンを彫ってもらいたい。
新型インフルエンザ騒ぎで、客入りが厳しいのかな、と思っていたが、そういうわけでもなく、席はちゃんと人で埋まっていた。ただ、もとから古典芸能に興味のあるお客さんが多く、観光客は少なかった模様。
今回のような弱い新型インフルエンザごときでイベント自粛とか、自宅待機とか、反応が過剰すぎて、つまらない。感染者が増えるということは、発熱者が多数出現するわけだから、これも一種の地球温暖化、というわけか。極地の氷が溶けるのを防ぐためにも、一刻も早く、インフルエンザの流行がおさまればいいのに、と思う。
午後4時45分からオタロードでザ・ミルクのストリートライブ。
キャッツアイとか年下の男の子とかしっぽのぽとか、お馴染みのナンバーで楽しむ。
ザ・ミルクはこうしてオタロードで毎月ストリートライブをしているが、レパートリーやスタンスがオタクに特化していないところに特徴がある。
つまり、オタクがこうじてライブをはじめた、というわけではないのがありありと見てとれるのだ。意外と、こういうアイドルは珍しいので、貴重だ。
イベントの準備にいったん離れて、イベント会場の味園ビルに向かうとき、ザ・ミルクの2ステージめをやっていたが、時間がなくて、立ち止まれず。
午後6時から、味園ビルの銭ゲバで「さよなら丼ちゃん」イベント。
案内文は、次のとおり。
「さよなら丼ちゃん」
先般、突然の腹痛に倒れた丼野M美。
緊急手術し、点滴につながれて、病院のベッドから起き上がることのできなかった丼ちゃんでした。一時は回復のきざしさえ見せました。
しかし今、きっと、丼ちゃんは以前のように元気に歌い踊っていることでしょう。
と、いうわけで、突然ですが、われわれに元気な姿をみせてくれていた頃の丼野の映像や、丼野の残した映像を見て、丼ちゃんを偲ぶ会を催します。
5月23日(土)
銭ゲバにて(なんば味園ビル)
午後6時〜(約1時間程度)
とくに入場料はいりません。1オーダーお願いします。ただ、もしも丼野へのお志があれば、責任をもってお届けします。
丼ちゃんは今でも生きている!
MIXIコミュニティでの一斉送信メッセージでは、上記の文章に添えて、「丼野は入院し、小さな姿で戻って来た」とも書いた。
先般、緊急入院、開腹手術した丼野M美追悼のイベント。
在りし日のライブ映像などを見ながら、丼野を偲ぶ。
そうこうしているときに、丼野本人があらわれて、「丼ちゃんは、ライブをやめへんで〜」と1曲歌う、「ガキの使い」での「さよなら山ちゃん」を踏襲したイベント。
丼野からは、大ファンだという「なすび」の差し入れも。(丼野は懸賞生活を見ずに、なすびのファンになったらしい)
なお、案内文は意識的に丼野M美が死んだのではないか、と誤解させるような書き方をしているが、嘘はひとつもついていない。
「一時は回復のきざしさえ見せました」=その後、きざしどころか、順調に回復した。
「しかし今、きっと、丼ちゃんは以前のように元気に歌い踊っていることでしょう」=その場にいないので、あくまでも可能性を言った。
「われわれに元気な姿をみせてくれていた頃の丼野の映像」=入院前、という意味。
「丼ちゃんは今でも生きている!」=まったく、そのとおり!
「小さな姿で戻って来た」=体重が数キロ減ったらしい。
「さよなら丼ちゃん」=ぶじ退院して病院を後にしたことを言っている。
また、最近の僕の日記では、親戚のおばさんの危篤状態のこともおりに触れて書いていたため、それが丼野のことだと勘違いした人もいたようだ。
『大人のいない国 成熟社会の未熟なあなた』、ナショナル・トレジャー
2009年5月22日 読書鷲田清一と内田樹による『大人のいない国 成熟社会の未熟なあなた』を読んだ。
以下、目次。
プロローグ 成熟と未熟−もう一つの大事なものを護るために/鷲田清一
第1章 対談「大人学」のすすめ/鷲田清一&内田樹
クレーマー天国「失われた責任者を求めて」
「妥協しない生き方」の落とし穴
本物と偽物を見分ける能力をつけましょう
人は年をとるほど「多重人格化」していく
第2章 大人の「愛国論」/内田樹
「惨状と堕落」を嘆く人々
「自分好き」に終わる同胞愛
現代国家は「均質的集団」になり得ない
「不快な隣人たち」を受け容れられるか
第3章 「弱い者」に従う自由/鷲田清一
相互に依存しなければ何もできない人間
「可愛い」ができなければ「がんばれ」
誰もが「じぶんを担いきれない」状況にある
弱いものに従うということ
第4章 呪いと言論/内田樹
「匿名」で発信する理由
ネット上を行き交う「呪」の言葉
ネットへの書き込みで人が死ぬ社会
「言論の自由」はどのように誤解されているか
私の言葉を吟味し査定するのは「他者」である
「受信者への敬意」あるいは「ディセンシー」
第5章 大人の作法/鷲田清一
「席」というフィクション
3というポジション
陽水さんの「あいまいな」メッセージ
第6章 もっと矛盾と無秩序を/内田樹
大人たちの発する「矛盾した」メッセージ
子供が子供のままでいるという「災厄」
「価値観が同じ人との結婚」に潜むリスク
「子供を成熟させないシステム」を突き崩すには
内田樹が「未成熟な人間でも経営できる、操縦しやすく安定した社会システム」と揶揄して言うのが痛快。
ニコラス・ケイジ主演の「ナショナル・トレジャー」を見た。
アメリカ史を使ったゲーム的エンタテインメント作品。
やっぱり、これ、ゲームだなあ。
どうして今まで解けなかったのかが不思議なくらいにわかりやすく簡単な謎ばかりで、そこはほれ、アメリカの歴史の浅さを露呈してしまった感すら覚える。見つけた宝だって、大半はよその国から奪ってきたものだし。
以下、目次。
プロローグ 成熟と未熟−もう一つの大事なものを護るために/鷲田清一
第1章 対談「大人学」のすすめ/鷲田清一&内田樹
クレーマー天国「失われた責任者を求めて」
「妥協しない生き方」の落とし穴
本物と偽物を見分ける能力をつけましょう
人は年をとるほど「多重人格化」していく
第2章 大人の「愛国論」/内田樹
「惨状と堕落」を嘆く人々
「自分好き」に終わる同胞愛
現代国家は「均質的集団」になり得ない
「不快な隣人たち」を受け容れられるか
第3章 「弱い者」に従う自由/鷲田清一
相互に依存しなければ何もできない人間
「可愛い」ができなければ「がんばれ」
誰もが「じぶんを担いきれない」状況にある
弱いものに従うということ
第4章 呪いと言論/内田樹
「匿名」で発信する理由
ネット上を行き交う「呪」の言葉
ネットへの書き込みで人が死ぬ社会
「言論の自由」はどのように誤解されているか
私の言葉を吟味し査定するのは「他者」である
「受信者への敬意」あるいは「ディセンシー」
第5章 大人の作法/鷲田清一
「席」というフィクション
3というポジション
陽水さんの「あいまいな」メッセージ
第6章 もっと矛盾と無秩序を/内田樹
大人たちの発する「矛盾した」メッセージ
子供が子供のままでいるという「災厄」
「価値観が同じ人との結婚」に潜むリスク
「子供を成熟させないシステム」を突き崩すには
内田樹が「未成熟な人間でも経営できる、操縦しやすく安定した社会システム」と揶揄して言うのが痛快。
ニコラス・ケイジ主演の「ナショナル・トレジャー」を見た。
アメリカ史を使ったゲーム的エンタテインメント作品。
やっぱり、これ、ゲームだなあ。
どうして今まで解けなかったのかが不思議なくらいにわかりやすく簡単な謎ばかりで、そこはほれ、アメリカの歴史の浅さを露呈してしまった感すら覚える。見つけた宝だって、大半はよその国から奪ってきたものだし。
『古代から来た未来人 折口信夫』
2009年5月21日 読書中沢新一の『古代から来た未来人 折口信夫』を読んだ。
以下、目次
序文 奇跡のような学問
第1章 「古代人」の心を知る
「いま」を生きられない人/「古代」の広がりと深さ/文字の奥を見通す眼/姿を変化する「タマ」/精霊ふゆる「ふゆ」/文学も宗教も突き抜けた思考
第2章 「まれびと」の発見
折口と柳田−「神」をめぐる視点/「まれびと」論の原点/「南洋」へのノスタルジー/「あの世=生命の根源」への憧れ
第3章 芸能史という宝物庫
芸能史を再構成した2人/芸能史への奇妙な共感/苛酷な旅からつかんだもの/芸能とは「不穏」なものである/不穏だからこそ「芸能」を愛す
<コラム>大阪人折口信夫
第4章 未来で待つ人
とびきりの新しさ/死霊は踊る/「あの世」への扉が開かれるとき/高野山と二上山とを結ぶ線/「日本」を超え「人類」を見る眼
第5章 大いなる転回
キリスト教との対話/未成立の宗教/「神道の宗教化」という主題/超宗教としての神道へ
第6章 心の未来のための設計図
神道の新しい方向/ムスビの神/三位一体の構造/折口のヴィジョン
コラムにもあるように、折口信夫は難波、日本橋、四天王寺にゆかりがある。僕の住んでいるところや、活動範囲そのまま。3つあわせて「何してん?」である。
先日のトークショーでも中沢新一は折口信夫の『死者の書』を話題にのぼらせていた。
生と死、という対比で言うと、「ししゃのしょ」と「せいしょ」が対比できるような気がするから不思議である。不思議なのは、僕の頭ですか?
古代の思想を特徴づける類化性能に着目し、いまだ実現せぬ理念としての神道を考えた折口信夫を、中沢新一は「古代から来た未来人」と言ってみたのである。
中沢新一は本書でこう言っている。
「能にしても歌舞伎にしても、今日わたしたちが日本の古典芸能とよんでいるものの多くは、とてつもなく古いルーツをもっている」
古事記、日本書紀どころか、人類の表現活動のはじまりにまでつながっている、としている。
なるほど。
そういう視点があるのなら、トークショーのときの質疑応答のときに、質問者が遠くまで足を運んで見に行ったものに対して「そういうのは意外と歴史が新しいんですよ」などと意地悪なコメントしなくてもよかったのにな、と思った。
まあ、本書でも、表現の仕方にハッタリに近いようなものがあったりして、そういうものいいが面白いからこそ、僕は中沢新一を楽しく読めるわけだが。
以下、目次
序文 奇跡のような学問
第1章 「古代人」の心を知る
「いま」を生きられない人/「古代」の広がりと深さ/文字の奥を見通す眼/姿を変化する「タマ」/精霊ふゆる「ふゆ」/文学も宗教も突き抜けた思考
第2章 「まれびと」の発見
折口と柳田−「神」をめぐる視点/「まれびと」論の原点/「南洋」へのノスタルジー/「あの世=生命の根源」への憧れ
第3章 芸能史という宝物庫
芸能史を再構成した2人/芸能史への奇妙な共感/苛酷な旅からつかんだもの/芸能とは「不穏」なものである/不穏だからこそ「芸能」を愛す
<コラム>大阪人折口信夫
第4章 未来で待つ人
とびきりの新しさ/死霊は踊る/「あの世」への扉が開かれるとき/高野山と二上山とを結ぶ線/「日本」を超え「人類」を見る眼
第5章 大いなる転回
キリスト教との対話/未成立の宗教/「神道の宗教化」という主題/超宗教としての神道へ
第6章 心の未来のための設計図
神道の新しい方向/ムスビの神/三位一体の構造/折口のヴィジョン
コラムにもあるように、折口信夫は難波、日本橋、四天王寺にゆかりがある。僕の住んでいるところや、活動範囲そのまま。3つあわせて「何してん?」である。
先日のトークショーでも中沢新一は折口信夫の『死者の書』を話題にのぼらせていた。
生と死、という対比で言うと、「ししゃのしょ」と「せいしょ」が対比できるような気がするから不思議である。不思議なのは、僕の頭ですか?
古代の思想を特徴づける類化性能に着目し、いまだ実現せぬ理念としての神道を考えた折口信夫を、中沢新一は「古代から来た未来人」と言ってみたのである。
中沢新一は本書でこう言っている。
「能にしても歌舞伎にしても、今日わたしたちが日本の古典芸能とよんでいるものの多くは、とてつもなく古いルーツをもっている」
古事記、日本書紀どころか、人類の表現活動のはじまりにまでつながっている、としている。
なるほど。
そういう視点があるのなら、トークショーのときの質疑応答のときに、質問者が遠くまで足を運んで見に行ったものに対して「そういうのは意外と歴史が新しいんですよ」などと意地悪なコメントしなくてもよかったのにな、と思った。
まあ、本書でも、表現の仕方にハッタリに近いようなものがあったりして、そういうものいいが面白いからこそ、僕は中沢新一を楽しく読めるわけだが。