ジョゼフィン・ベルの『ロンドン港の殺人』を読んだ。1938年。
樹下太郎が影響を受けた作品としてあげていた1冊。
と、いうことは、ガチガチの本格ではなく、人間模様の描写が優れている作品である。
あとがきで訳者の中川龍一(大阪出身で、関西学院大学卒だから、先輩だ!)が、イギリスで作者のジョゼフィン・ベル女史と会って話したことなどが書かれている。
そのときの話題で、近年の探偵小説(1956年当時)は「単なるトリックやストーリー本位のものより、情景とか性格とかに重きをおいた文学的作品が多くなった」ことが語られたそうだ。この『ロンドン港の殺人』もまさにそんな1冊である。
ネタバレするので、要注意。
裏表紙にあるあらすじをそのまま書くと、次のとおり。

「さむざむとした11月のある日の午後、東洋からの荷物を積んだ貨物船アンジェロ号は、間断なしに吹き悩まされた暴風から、ようやく脱して、テムズ河の広い河口にたどりついた。デッキの備品はなくなり、救命ボートは破損し、怪我人も出たが、積荷は全部無事だった−一方、ロンドン旧市区のとあるビルの地下室では、『輸入業ホルマン』と書いたガラスドアの事務室の中で、肥満型の一人の男が、いらいらしながら何かを待っていた。その時電話がけたたましく鳴った。男は飛びつくように受話器をとった。『なに、船が入ったって?それはありがたい!』」

あれ?まだ何も事件起こってないよ!
本編も、なかなか事件らしいものは起こらず、霧深いロンドン港の町の雑然とした模様や、溺れかかった少年を助けにいって腕を負傷した青年の話とか、積荷を運ぶ船が事故で漂流してしまうとか、立ち退きを迫られている一家の話とか、忙しい医師の日常が描かれる。
職をなくしておちぶれた洋裁店の旧女主人が麻薬に手を出しているらしい描写があって、いよいよ事件は動き始める。
彼女、ホランド夫人の死体が発見されたのだ。
彼女はリゾールを飲んで中毒死したようだった。自殺と判断された。
しかし、チャンドラー刑事は疑問を抱く。
「第一に何故ホランド夫人は自殺したか。第二に何故苦痛を伴うので有名な方法、リゾールを使用したか」
自殺するなら、ガスを使ってもいいし、麻薬に溺れていたなら、ヘロインをオーバードースして死ねば、それこそ安楽のうちに死ねるのだ。それを「口と咽喉と食道の内部がひどく焼けただれて居り、又胃の内壁も同様だった」ようなリゾールをあえて使ったのか。また、麻薬中毒にしては、注射器も薬もどこにもなかった。ひょっとして、彼女は誰かに麻薬を打ってもらってたんじゃないか。
だが、ホランド夫人と同じアパートの住人が、階段などの消毒のためにホランド夫人からリゾールを借りており、それをきっかけに、リゾールで死ぬことを思いついたんじゃないか、と強引な憶測をして、とりあえず、まったく無いことではない、と結論づける。
ところが、捜査を進めるチャンドラー刑事は、突然、行方不明になってしまう。
後をついだミッチェル警部は、やはりずうっと注射していた痕があるのに、なぜ夫人の部屋に皮下注射器がなく、死体の中に多量のヘロインが検出されたのに、部屋の中に見つからなかったのかを問題視する。
医師が関係していたのではないか。
彼女が医師にうるさくつきまとったり、脅迫などして、厄介払いされたのではないか。
ミッチェル警部は、ヘロイン患者の殺人とつながりがあるとにらんでいるエリス医師が、輸入業者ホルマンに電話をかけたことを不審に思い、ひそかに捜査を進める。
「ホルマンはあるゴム製造業者に生ゴムを供給している。木の箱につめてだ。ところがその箱がいくつか河に落ちた。船で工場に直接送られるのだ。そのうち一箱がウォビングの水上署に拾われた。箱の底に女の夜着が入ってたんだ」
「箱にどうやって印がついているのか、なぜ夜着が入っているのか」
「(密輸にしても)夜着なんて、わざわざ危険を冒すほどのものじゃない」
麻薬も一緒に入っていたのかと推測されるが、水につかってしまったため、もしも入っていたとしても、その痕跡はなかった。
また、ミッチェル警部は、リゾールが紅茶色をしていることを知り、紅茶と思わせてリゾールを飲ませたんじゃないか、と推理する。消毒のため、部屋はリゾールの匂いで充満しており、異臭に気づかなかったのだろう、と。チャンドラー刑事は、そのことに気づいたため、処分されたのだ!
そんなこんなで、この後、ストーリーは、女の嫉妬の闘いが展開し、結局嫌なやつが悪事を働いていて、いけすかない人間が天罰受けるみたいに死んでしまう。真相に迫ったおかげで殺されてしまった刑事だけがお気の毒、といったところか。
あっ、麻薬は夜着の飾り紐の中に仕込んであったよ!だいたい想像ついてたかと思うけど。

「オーケストラ!」
ラデュ・ミヘイレアニュ監督の「オーケストラ!」を見に行った。2009年。
(梅田ガーデンシネマ水曜日はサービスデイ)
元指揮者で、今は劇場の清掃員をしているアンドレ。
彼は、かつての仲間を集めて、にわか作りの楽団をでっちあげて「ボリショイ」を詐称して、パリで公演する大博打に出る。
かつてユダヤ系演奏者がブレジネフによって公演を中止させられた経験があり、それに対するリベンジ的な意味合いもあった。しかしそれ以上に、目的は、うら若き天才的ヴァイオリニストを招いて、かつて中断の憂き目をみたチャイコフスキーの協奏曲を完奏することにあった。そのヴァイオリニストというのが、実は、テンテンテン。
まあ、オーケストラのメンバーたちは好き勝手な行動をとりまくるし、主人公のアンドレも控えていたアルコールについつい手を出してしまったりするし、いろんなことをごまかして、だましだまし、コンサートの実現に向けてストーリーは展開していく。観光旅行に来ていた、本物のボリショイの団員が、ポスター見て、「ニセモノだ!」と騒いだり。
いやはや、どうなることか、というコンサートが、終わってみれば、感動の涙と拍手なのである。
この映画、面白い!
下手くそな演奏者が全身縛られて舞台に出ていたりする。(縛り付けることができるなら、舞台袖に引っ込めておけるはずなのだ。こりゃ面白い)
パリでは「マイケル・ジャクソンTHIS IS IT」をおさえてオープニングNo1を記録、とか惹句がおどっていたが、そんな能書きはむしろ、この映画を小さなものにしてしまうな、と思った。

『贋』

2010年7月27日 読書
水芦光子の『贋』を読んだ。1962年。
金沢の詩人、水芦光子が書いた長編ミステリー。
目次は、
三好香名江の手記
田沼房子の手記
柿崎四郎の手記
となっている。
かつて香名江は会社の社長、田沼義人と恋仲にあったが、結婚にはいたらなかった。
香名江は田沼社長の亡き妻とそっくりで、社長は亡き妻への執着を捨て切ることができなかった。亡き妻は、他の男と情死していたのだ。
田沼社長は香名江を抱いているときにも、亡き妻の名前を呼んだり、最後には首をしめたりして、はっと気づいて手の力をゆるめる、ということを繰り返していた。さすがに、こんな状況では結婚生活がうまくいくはずもない。
田沼は香名江とは対照的な性格の女性、房子と結婚し、香名江は会社をやめたのである。
三好香名江は会社勤めでためた金をもとにして、アパートを建てて、その部屋代で生計をたてていた。
ある日帰宅すると見知らぬ青年が部屋の中に侵入していた。勝手に部屋を物色しただけでなく、手紙を燃やしたあともある。
どう見ても泥棒だというのに、別に悪いことをしているわけではない、と、とぼけた風情の青年を最初は追い出すが、香名江は次第に惹かれていく。
この青年こそ柿崎四郎で、詐欺の天才だった。
2人は一緒に住むようになる。
柿崎四郎は、田沼社長から香名江に宛てて送られた手紙を盗み読んで、田沼社長のことを詳しく知るようになり、消息不明になっていた社長の息子、田沼高になりすます。
そして、すっかり社長を信じ込ませた頃あいをみはからって、田沼社長と香名江との狂言心中計画を香名江に実行させる。
田沼社長に対しては、実は胃ガンで助からない命だと嘘の情報を吹き込んだ。
香名江に対しては、このままでは社長にいずれ殺されてしまうと吹き込んだ。
香名江は偽装心中を実行し、自分は単なる睡眠薬を飲むことで、ひとりだけ助かるはずだったが、柿崎は社長に飲ませるのと同じ毒薬を香名江にも渡しており、計画どおりに運べば、本当に心中してしまうはずだった。だが、飲みなれない酒を飲んでいたため、薬を吐いてしまい、香名江だけが生き残る。だが、田沼社長を葬ることには成功したのだ。おまけに、裏切られたはずの香名江もなんとなく許してしまうのだ。
一方、田沼社長の現在の妻、房子は、どうも社長の息子を名乗っている高(柿崎)の素性を怪しいとにらんでいた。
だが、柿崎は、房子も篭絡してしまうのだ。
房子は柿崎にすっかりのぼせてしまい、柿崎を自分の近くにおいておくため、美しい姪、マミと柿崎を結婚させようとする。
その頃、柿崎が幽閉していたと思しき、本物の田沼高(記憶喪失)が発見される。

と、まあ、こんなどろどろした話。柿崎に翻弄される男女、天才的詐欺師柿崎と、冷たい理智の女性房子の精神的闘争を経て、最終的にはカタストロフが起こるが、みどころは女どうしの嫉妬の闘いとか、「怪しい」と柿崎の手口を見抜きながらも、結果としてそれに乗ってしまう女心の不思議さにあった。
最初、闖入してきた柿崎を「あなたは狂人だ。ともかく出ていってください」「キチガイ!」と追い出したにもかかわらず、香名江は、再び侵入してきた柿崎と結ばれてしまうのだ。
後に、香名江は手記にこう書いている。

もっと不快なことは、自分を含めて、三人の年配の男女が、年若い柿崎にあやつられていることだった。

つまり、自分たちが柿崎のいいように動かされていることに気づいているのだ。
房子は柿崎を相手にするにあたって、こう考える。

この男が身につけているものと同等の冷ややかな機智、同等のやさしさと傲岸さ、そしてあの爽やかな虚無、それらを自分も持たねばならぬ。

柿崎は完璧にだましおおせているのではなく、女も馬鹿ではない、ちゃんとわかっていながら、柿崎のシナリオどおりに動いてしまうのだ。このあたり、たいへん参考になった。
香名江は、「処女」とあだなされる堅くて吝嗇な女だった。戦争中、若い頃に男に犯されてから、男嫌いになってしまったのだ。
また、房子は敬虔なクリスチャンであり、冷ややかな理智の勝った女だった。
そして、マミは白痴美で、可愛らしい、という以外何の取り柄もない女だった。
このタイプの違う三人の女が、柿崎にいれこんでしまうのだ。すごいな!

房子はマミが柿崎のことを「何処かで見たことがあるような気がするんだけど」と述べた感想から、こうも分析する。

そうだ、高(柿崎)は、女の記憶のどこかに住んでいる男なのだ、どの女の記憶のなかにも。
先天性情夫、という型なのだろうか、女の側からだけ盗み見できる色男の横顔というものを彼は持っているのだ。

また、こうも思う。

私(房子)も、マミも、冷淡で無関心な高を相手に、勝負のつかぬ試合を始めた選手のように、苛立ち、疲れ、策を弄して日を経ていた。高という男の駈引きのうまさ、つよさは、今思っても呆れる他ないのだが、あれは駈引きという穢れたものではない。高につきまとう魅力に取憑かれた女が、浅智恵を絞って、右往左往しているだけで、彼はただ即興詩人の面をつけて、自由に、身軽るに振舞っているとしか思えない。彼が考え、実行することどもに、すべての真実と可能が虹のようについてまわるという目のさめるような事実、私はそれをしばしば目撃した。

そして、柿崎自身は、こんなことを考えている。

恋に狂った女同志の決闘、其奴が何時見られるか、という僕の夢にくらべたら、女の体を探る情事など、一瞬の浅い賭事にすぎない。

いや〜。勉強になりました!






『北まくら殺人事件』
幾瀬勝彬の『北まくら殺人事件』を読んだ。1971年。
幾瀬勝彬というと、僕たちの世代のミステリファンにとっては、戦記ものの作者でもなく、乱歩賞候補者としてでもなく、『ミステリマガジン』でさんざんこきおろされた作家として印象に残っている。『死のマークはX』を書評でボロクソに書かれ、幾瀬勝彬は「どこが駄作なのか、きっちり説明してみろ」と喧嘩を売ったのだ。で、『死のマークがX』がいかにミステリとしてダメであるかが、懇切丁寧に書かれてしまったのである。(ダイイングメッセージとして成立していない、ということ)でも、その酷評を読んで、僕なんかは俄然興味が湧いて『死のマークはX』を読んだ口なのである。
それ以来、ほとんど幾瀬作品は読んでなくて、ほんと、久々に読んでみたのだが、いきなり、推理実験室の面々が出てきて、わ〜っと記憶がよみがえった。
推理実験室のメンバーは、それぞれ推理小説を応募して結局入賞できなかった人々の集まりなのだが、推理力をはじめとした能力はすごいのだ。
どう能力が高いかを示すひとつのエピソードを引用してみよう。

1つのテーブルにイスは4脚しかなかったが、永田がすばやく隣のテーブルのイスを移動させることによって5番目の席をつくり、自分でそのイスに腰をおろした。このようなときの永田の判断力と実行力は、たしかにほかのメンバー以上のものを持っていた。

足りないイスを隣のテーブルから拝借する、てなことは、誰でもやってること、と思ったりしていたら、この小説は毎ページツッコまなくてはならない。この程度の「?」は些細な部類なのだ。
以下、目次。ネタバレするので、要注意。
第1章 北まくらが呼んだ事件
第2章 魔性の夜を女がひとりで
第3章 深くそして静かに疑え
第4章 そこに事件(やま)があるから
第5章 黒いなぞのベールをはがせ
第6章 灰色のホシは流れて
第7章 裏切りの季節はすぎて
読後の感想は、「中学生の書いた小説みたいだ」「あれ?幾瀬作品ってこんなにもツッコミどころ満載だったっけ」というものだった。稚拙な感じが全編から横溢しているが、これもまた味わいというものだろう。少なくとも、僕は非常に面白く読めた。上の読後感だけ見てみると、これは早すぎたライトノベルと言えるかもしれない。
事件は、密室内での殺人。ガスによる事故としていったんは処理されるが、推理実験室のメンバーに、この被害者と関係をもった人物がおり、事故死に疑いをもつのである。
まず、警察の言い分から書いてみると、なぜ他殺ではないと判断したかというと、現場が密室だったからである。ドアの鍵は、死者の寝ていたふとんの下にあったのである。また、なぜ自殺でないと判断したかというと、死者は死ぬ前にオナニーをしていた形跡があった。死ぬ前の行動としては、不自然ではないか、というもの。
で、推理実験室のメンバーが「他殺ではないか」と思ったのは、死体の状況が、北まくらだったからだ。
被害者は、極端に北まくらを嫌っていたのである。以下のような文章で、強調してある。

三七子(被害者)は、ハンドバッグの中に小さな銀色の磁石をいつも携帯しており、そしてこっそり寝床の敷かれてある方向を調べる癖がある

「一度なんか、先に床にはいっているぼくを追い出して、ふとんを敷き直したこともあるんだ。『北まくらに敷くなんて、非常識だわ!』ってプリプリしていたほどなんだ」
永田は、その夜の三七子がいつになくぬれてこなかった事実を思い出したが、そこまでは報告する義務はないと、とっさに判断した。

あと、ひっかかることがあった。被害者の親は毎年三七子にモチ米を2斗2升送っていた。毎年、三七子は、お世話になった人に、そのモチ米をわけて送っていたのである。だが、死後調べてみると、1人分の2升だけが減っていた。
この事実も推理実験室のメンバーによって「2升のモチ米の奇妙な紛失」として問題視される。つまり、誰か1人に送っただけで死んでいるなら、そいつが怪しい、というわけだ。
こんな文章であらわされている。

「要するにだ…」こんどはハイライトを1本抜きとって火をつけ、「こういうことだ」
また声に出してつぶやいてからボールペンを握り直し、原稿紙に文字を並べた。
WHEN−いつ?モチ米を…
WHERE−どこで?モチ米を…
WHO−だれに?モチ米を…
WHY−なぜ?モチ米を…
「ふーむ」永田はたったいま自分が書いた文字を、満足そうにながめてうなずいてから、
「こいつがわかれば…そうだ!わかれば、しめたもんだ!」

あと、事件に関係あるのかないのかわからないエピソードが連発されて、伏線がある意味巧妙に隠されている。
以下、関係なさそうでいて、事件に関係のあった伏線を引用してみよう。

(推理実験室のメンバー、城野が被害者の父、松本剛二に会ったときに、思わずつぶやいた一言)
「暗い!やりきれない暗さだ!」

黒のボールペンといっても、製造会社が違うと、色調に微細な違いがあるのだ。
M社のものは、ぬれたような漆黒の色調で、津山悦子は好きだった。


一方、結局無関係だったようなエピソードもいくつか書いておこう。

下を向いていた老婆が顔をあげ、城野にまっすぐ向き直ったとき、かれはあやうく
「アッ!」
と声をあげるところだった。
老婆の額の毛の生えぎわに、まるで一角獣の角のような突起がはっきりと認められ、しかも老婆の口は兎唇だったのだ。

このとき、急に−思いがけない音響が、このへやにあふれた。エレキギターとドラムと、日本語とも米語とも、その他の外国語ともつかない歌声との協奏が、大きなボリュームで、ステレオのスピーカーから飛び出してきたのだ。
紙ナプキンを折り終わったウエイトレスが、こちらに背を向けたまま、レコードプレーヤーの前で、くねくねからだを動かしている。
(中略)
「おい!ねえさん!!」
たまりかねた永田が、大声でウエイトレスを呼んだが、
(中略)
耳もとに口を近づけ、しかも大きな声で、
「もう少し、レコードの音を、小さくしてくれよ!」
おこったようにいった。
(中略)
へやの中は急に、うそのように静かになり、町の騒音と、席にもどってくる永田のくつの音とが、いやに大きく耳についた。

今日見た映画「4匹の蠅」と同じ1971年の作品とは思えない展開だ。映画の方は、ロックバンドのドラマーが主人公で、70年頃のロックがガンガンかかるのである。
まあ、きりがないので、真相に突入してみよう。
密室は結局、糸を使ってカギを移動させるトリック。うまく鍵をふとんの下に移動させるため、ドア(鍵穴)とふとんの位置関係をトリック成立のために決めたため、北まくら、というきわめて不自然な結果になってしまったのだ。
被害者の父親が暗かったのは、ライ病の血筋だったから。
もちろん、血筋なんか関係ない、ということは医学が証明しているが、田舎ではなにかと言われるのである。
犯人は、被害者とレズの関係のある女性。
被害者が他の男と仲良くなるのを見て、「ライ病の血筋のくせになまいきな!」と嫉妬したのだ。死ぬ前にオナニーしたと思われていたのは、レスビアンのいちゃつきあいがあったのである。そして、被害者がエクスタシーに達したときに、麻酔薬を嗅がせて眠らせ、殺してしまったのだ。(なんと、最後の最後に、その麻酔薬を嗅がせた器具がいきなり図解で載っている)
モチ米は犯人に送られたものだった。推理実験室のメンバーは犯人の家のモチ米を、鑑定してもらって、確かに被害者から送られたものだと結論づける。(だが、わざわざ花粉の研究者、つまり専門家じゃない人に鑑定してもらっているのが腑におちないところではあるが)
事件の犯人くさい男は遺書を書いて死ぬが、それは真犯人の女が殺したもので、遺書はグルでお互いを裏切らないために保険として書いたものだった。このからくりは、男が持っているボールペンと、遺書のボールペンの黒さの種類が違うところから見抜かれる。

と、まあ、こんな感じ。
途中、推理実験室の推理や証拠集め、証言集めによって、事件が真相に向って大きく動いていき、刑事は「それにしても、まったくしろうとはコワイよ!」と脱帽発言をする。読んでいて、刑事さんに「皆、そんなたいしたこと言ってませんよ」と教えてあげたかった。

「4匹の蠅」

2010年7月26日 映画
「4匹の蠅」
ダリオ・アルジェント監督の「4匹の蠅」を見に行った。1971年。
ネタバレするので、見ていない人は要注意。
「サスペリア2」とか「スリープレス」などと同様、ホラーと言うよりミステリとしての面白さに満ちた傑作だった。
主人公はロックバンドのドラマー。イタリアの70年頃のロックである。それ聞けるだけで、もうこの映画は見る価値ありと決定。演奏中に顔のまわりをうるさくまとわりつくハエを、最終的にシンバルではさみ殺すシーンから映画は始まる。
主人公をこれ見よがしに尾行し、つきまとうサングラスにひげの中年男性。
「なぜ、つきまとう!」と問いつめようとしたときのもみ合いで、ヒゲ黒眼鏡をナイフで刺してしまう主人公。その現場を写真におさめる、ニコリ仮面の無気味な人物。
脅迫写真が家に届き、家政婦は殺されてしまう。
コラボレーターのルイジ・コッツィによれば、この家政婦殺しのシチュエーションは、ウールリッチの『黒いアリバイ』からとったという。道理で、見たことある場面だと思った!正しくはアイリッシュ名義のこの作品では、人を襲って殺す黒豹の恐怖が描かれていて、襲う者と襲われる者がひとつの空間にとじこめられてしまう。この映画では、れんがの塀1枚隔てて、「助けて!」「塀が高くて、乗り越えられない!」「ギャー」みたいな展開になる。
ヒゲ黒眼鏡を刺した主人公は、警察に助けを借りるわけにいかず、探偵に話をもっていく。
この探偵が面白い。会ってみて、すぐに、探偵がゲイであることがわかる。そして、「統計的にこの事件は必ず解決できる」と豪語する。統計的に、とはどういうことかというと、このゲイ探偵、今まで84もの事件を連続で解決できていないのだ。そろそろ、事件解決できる順番がまわってくる、という理屈だ。
そして、この探偵、ほんとに事件の真相に肉迫しちゃうのだ。
と、いうことはどういうことかと言うと、この探偵も、犯人に殺されてしまうのである。
犯人を地下鉄で追うシーンが秀逸。混雑する車内。犯人を追ってホームにおりるが、ちょっと先には大勢の乗客たちが階段を使っている姿があるのに、探偵のまわりは、人っこひとりおらず、しかも暗い。家政婦殺しのときにもあった「塀1枚」みたいな、惨劇の起こる空間がエアポケットのように現出する瞬間が、非常にうまい!一気に心拍数が上がる!
探偵は死ぬ寸前に、事件の真相に到達していたことを喜ぶのである。
タイトルの「4匹の蠅」(原題は「灰色ビロード上の4匹の蠅」)がいったいどういう意味合いなのか、というと、さらに犯人が人殺しをした後にわかる。
死体の眼球を剔出し、網膜を調べることにより、被害者が死の直前に見ていた映像を再現することができる。で、網膜にうつっていたのは、ぼんやりと映った、4匹のハエに見えた。
ダリオ・アルジェントによると、まず「4匹のハエ」という言葉を思いついて、その内容については後でくっつけたそうである。たしかに、4匹のハエが何を意味しているのか、真相がわかったとき、「こりゃ、後で考えたな」と思わせるようなものだった。
(犯人のペンダントが振り子のように振れることで、1匹の「はえ」が残像で4つに見えた)
犯人がなぜ主人公を狙ったのか、という動機は、もう凄いのひとこと。
一言で言えば、憎いやつに似ていたからだ。
恨みを本来晴らしたいのは、犯人の父親にだったのだが、父親は恨みを晴らす前に死んでしまった。だから、恨みを晴らす相手として、父親にそっくりな主人公がターゲットにされたのだ。こりゃたまらん!
さて、主人公だが、雑談のなかで仕入れた知識から、サウジアラビアでの処刑シーンを悪夢として連日見ていた。まずうなじにアイスピックみたいなものを刺して、硬直した首を刀で斬り飛ばす。ラストシーンで、この首を飛ばされるのは、自分じゃなくて、犯人だったんだ、ということが「わかった!」みたいな雰囲気で言われるが、それほど説得力はない。でも犯人は首を斬り飛ばされるのに近い最期を迎えるのである。
しかし、この映画、レイトショーで1週間だけ上映、というのは淋しいなあ。確かに今日は男性千円のサービスデイなのに満席になってなかったし。

鈴木亜美&東京女子流@アリオ八尾〜東京女子流@あべのHoop
午後2時からアリオ八尾でa-nation×7&i Summer Live2010プレイベント。
まず、鈴木亜美のトークショー。(約30分)
DJのこととか、a-nationのこととか。
次に東京女子流のトークショー。
若さについてのトークや、a-nation大阪、名古屋の2日めパワーステージに出演することなど。
トークは短かめにきりあげて、ミニライブ。
1.(ひまわり)
2.おんなじキモチ
3.キラリ☆
4.きっと忘れない
5.頑張って いつだって 信じてる
4曲めの「きっと忘れない」は映画「君が踊る、夏」イメージソングで、このライブで初披露だとか。鳴子を使った振付け。
1曲めは、手首にひまわり、4曲めは鳴子、5曲めはポンポン、と、ファンなら揃えておきたいところだ。
ライブ後は握手会。
このイベントの模様は8月5日FM大阪「ミュージックコースター」で放送される。

午後6時30分からあべのHoopで東京女子流のミニライブ。
時間が来たが、はじまったのは本番ではなく、なんとリハーサル!
リハーサルのセットリスト
1.(ひまわり)
2.おんなじキモチ
3.きっと忘れない
リハーサルなので、歌が途中で終わったりもした。
しかるのちに、本番。
1.(ひまわり)
2.おんなじキモチ
3.きっと忘れない
4.頑張って いつだって 信じてる
4曲め、最後に「大好き」とか言われるの、テレますね〜。
手首にひまわり無し。
ライブ後は握手会。
東京女子流って、今一番好きなユニットかもしれない、と実感した。


レンピッカ展@兵庫県立美術館〜ありえない現代アート展@神戸旧生糸検査場〜「うっひょーイベント〜雨降りませんように…〜」@YES広場
レンピッカ展@兵庫県立美術館〜ありえない現代アート展@神戸旧生糸検査場〜「うっひょーイベント〜雨降りませんように…〜」@YES広場
レンピッカ展@兵庫県立美術館〜ありえない現代アート展@神戸旧生糸検査場〜「うっひょーイベント〜雨降りませんように…〜」@YES広場
兵庫県立美術館で「レンピッカ展」を見た。「美しき挑発」「本能に生きた伝説の画家」と惹句がついている。
かなり昔に画集を見たときには、画集見てるだけでいい画家のような印象があったのだが、なにごとも思い込みはいけない。神戸方面にでかけるついでに、寄ってみた。
全体を見て、やはり1920年代〜1930年代前半までの、一番人気のあった頃が見ていて魅了された。
雑誌の表紙になった代表作なども、その表紙の絵と、実際に描かれた作品とでは、色やタッチが違うことで、印象が大きく違っていた。これは見に来てよかった。
「女」を強烈に感じさせる作品群で、たとえばラファエラを描いた作品では、その肉感的な魅力が、ぴのこちゃんを思い出させた。ナボコフの本のカバーに採用されることも多々あったという、娘キゼットを描いた作品はなかでも魅力たっぷりだが、後半、大人になったキゼットの肖像画も展示してあり、あまりのおばちゃんぶりにげんなりしてしまった。
タマラ自身のポートレートはガルボやディートリッヒを劣化コピーしたような類いであり、20年代〜30年代の一時の光芒を除いては、どこまでいっても時代を後追いしていた姿が哀れみを誘った。
レンピッカ全盛の作品はもちろん最高だが、後期、シュルレアリスムに影響を受けたり、抽象画描いたり、自作のレプリカ描いたりするあたりの作品をもっと集中的に見たかったような気もする。そうした、見向きもされなかった作品こそが、レンピッカを理解するうえでは貴重なのだろうな、と予感させたからだ。
今や美術館といえばこういう状況なのかもしれないが、客の大半は女性だった。
でも、せっかくレンピッカ見にきてるのに、ファッションセンスなどが一般人過ぎる客ばかりで、このお客さんたちにとって、美術は何の役にたっているんだろう、と首をひねった。まあ、レンピッカも時代に振り回された女性なので、お互いさまなのかもしれない。
そうそう、あと気になったのは、美術館側が作品などをある一定の解釈にはめこもうとしている解説が邪魔に思えた。「この作品ではこう感じなさい」と強制されているようで、ちょと辛い。じゃあ、読まなければいいんだけど、ついつい読んでしまうのだなあ。でも、こういう解説抜きで、ただ作品だけを並べていても、お客さんにはどこをどう鑑賞していいのかわからない、てことになるし。難しいものだ。

神戸旧生糸検査場で、第38回AU現代芸術国際展「SHOZO SHIMAMOTO & AU展〜ありえない現代アート展〜」
7月まるまる使って展示されている。
これがまあ、すごかった。
まず、展示されている場所が、生糸検査場の新館と旧館の1階から4階の各部屋を使っており、迷うほど広い。2時間使って、ひととおり見たつもりだが、見逃しがあるかもしれない。
50組ほどのアーチスト、あるいはアーチスト集団によるグループ展、というよりも、広めのギャラリーでの個展を50集めたもの、と考えればいい。
しかも作品は部屋をはみだして、廊下や階段までも侵出してきており、古い建物で使われていない部屋などもあって、まるで芸術の一大幽霊屋敷の様相を呈していた。
これだけ大量の作品を一度に見る機会など、そうそうあるものではない。
毎週土日にはパフォーマンスもあり、先週あたり「ペンキパフォーマンス」を見に来ようと思ってたが、体調のせいで、来れなかった。でも、ある意味、今日来て正解だったのかもしれない。
今日は「嶋本昭三パフォーマンス」と銘打って、嶋本御大自ら登場して、トークイベントが
あったからだ。他の「ダクトパフォーマンス」「糸パフォーマンス」「ペンキパフォーマンス」は嶋本氏へのオマージュも含んだ、他の作家が中心になって行なったものだったようなのだ。御大も80才をこえているから、そうそう昔のパフォーマンスを再現することもできないのだ。
大量の新聞で築かれた大伽藍の中で、アートをめざしたきっかけ等のトークがはじまったかと思うと、いきなり、無数のピンポン玉が高い天井を破って降ってくる。
トークとは無関係に、ビキニ水着の女性がドライアイスのスモークを吐き出すバケツをいくつもえんえんと運んできては、交換する。
挙げ句の果てには、「暑い」とか言い出して、トークが終わってしまう。なんという自由!
その直後に、すぐ裏で、五目リズムによるパフォーマンス。
DJ、VJによる音と映像のコラボレーションに、男女による舞踏。コンテンポラリーダンスの2人は、今日になって飛び入りが決まったそうで、それにしては終わり方など、うまく決まっていた。たぶん、11日に「ダンスパフォーマンス」した亘敏治氏と安藤沙織さんが飛び入りで踊ったのだ、と思う。(未確認)
さて、膨大な作品展示のなかで、いちばん気に入ったのは、中尾和生さんの作品群だ。
電化製品などに玩具やジャンクが粘土でデコレーションしてあるもので、そのカラフルさ、キッチュさは最高!作品数の多さも半端じゃない。
Mr.Ms.シュウのダンボール彫刻もよかったし、東清亜紀さんのMUNIちゃんも可愛い(幼いときに悪夢に出てきたキャラクターに似ている)。暗い部屋の中を懐中電灯照らして探険する作品もあったし、あと、名前は忘れたけど、すごく面白いことばっかりしてる人もいた。(美術館の隅に坐っている監視員を等身大で描いていたりした人)
いや〜、いろいろと堪能させてもらいました。

午後5時からよしもとYES広場で「うっひょーイベント〜雨降りませんように…〜」の2回目ステージ。1回目は午後2時からだったので、見に来れなかった。
25日にNGKで開催されるアイドリング!!!とYGAによる「品はちライブ」のプレイベント。
YGAはスクール生も含めた全員が参加し、イベント開催前にはビラまきもしていた。
アイドリング!!!とあわせて、ステージに乗りきるかどうかギリギリの大所帯。
アイドリング!!!はとりあえず、せりなと藍ちゃんがおれば満足だったのだが、森田涼花が握手会の最後をしめていた。この子も気になっているのであった。メンバーも半分くらいしか来ないのかな、と思ったけど、杞憂に終わった。
ステージの内容は、明日のイベントで漫才をするメンバーからコメント、という程度のもので、その後は、アイドリング!!!とYGAそれぞれにわかれての握手会。
主にアイドリング!!!をぼ〜っと見ていたのだが、握手券を複数枚持っているファンの無限ループを見ているうちに、自分の記憶が疑わしくなってきて、「あれ?僕はアイドリング!!!の握手会の時間を永遠に繰り返しているのかな」とビューティフルドリーマーみたいなことを考えた。まあ、日記を読んでもらえればわかるように、千篇一律の日々を過ごしているので、あながち間違いでもないか。


『偶有からの哲学−技術と記憶と意識の話』
ベルナール・スティグレールの『偶有からの哲学−技術と記憶と意識の話』を読んだ。
フランスの公共ラジオ局「フランス・キュルチュール」の番組「生の声で」でのエリー・デュリングとの対談をもとにした1冊。
以下、目次。
第1章 哲学者と技術
 技術との出会い、哲学との出会い
 哲学的対象としての技術
 哲学の起源と技術の抑圧
 ヒュポムネーシスとアナムネーシス
第2章 記憶としての技術
 プラトン著『メノン』−ヒュポムネーシスをめぐる思索の出発点
 エピメテウス−補綴性の神話
 ヒト化=生存手段の外在化
 「第三の記憶」としての後成的系統発生(エピフィロジュネーズ)
 図、文字−推論の前提条件
 内在化の前提条件としての外在化
第3章 インダストリアルな時間的対象の時代における意識
 技術(テクニック)と記憶技術(ムネモテクニック)
 アルファベット−オルトテティックな記憶技術
 記憶技術がもたらすもの−時間の物質的把持
 アナログ的綜合のテクノロジー−ヒュポムネーシスの突然変異
 「時間的対象」−三つの過去把持
 視聴覚メディアの登場と記憶の産業化
 シンクロニゼーションとディアクロニゼーション
 「特異」と「特殊」、あるいは「市民」と「消費者」
第4章 意識、無意識、無知
 マーケティングによるリビドー枯渇
 シンクロニゼーションの二つの側面
 象徴(シンボル)の衰退−「私」と「われわれ」の解体
 「意識」の再考−象徴の政治のために
 科学のステータス変化−不動の「イデア」から可能的な「フィクション」へ
 二項対立を超えて

スティグレールの思索を初期の研究から、未訳(未刊)の「技術と時間」にいたるまで、わかりやすくたどった本。
なのだが、哲学にありがちなことだが、造語が多すぎて、解説が必要だ。
(哲学を技術の問題だと言い切るスティグレールに、デュリングが、じゃあ、どうしてこんなに哲学的造語を駆使して論じるのか、とツッコむ一幕もあった)
と、いうことで、メモがわりに用語の説明を並べておこう。

「補綴性」
補綴物なしでは生きられない人間の性質、より正確には、人間を人間たらしめる条件が補綴物の利用にあることを指す。
補綴物は人間が生存のために必要とする人工物のことで、道具や言語などを指している。
スティグレールの考えでは、帰結がすでに起源の中にあるわけではなく、偶有性のプロセスが存在しており、この偶有性を考えることこそ、哲学ができなければならないことなのだ。スティグレールが言う「技術」の第一の意味こそがこの「偶有性」であり、それはしばしば「補綴性」とも呼んでいるのである。

「ヒュポムネーシス」
人工的な記憶。技術的な記憶。

「アナムネーシス」
想起。プラトンの『メノン』で、いわゆるメノンのパラドクスに対してソクラテスが応えたなかで出てくる。一種の再認識。

「オルトテティック」
正確に措定する。造語。

「過去把持」
フッサールによると、第一次過去把持は現在の内に属し、第二次過去把持は日常的に記憶と呼ばれるもので、過去に属する。音楽がバラバラの音でなく音楽として知覚されるのは、現前している音に、先行する音が留置されているからで、そうした過去把持のありかたを、第一次過去把持と呼んだ。
同一の対象が複数回あらわれる技術的対象である場合を、スティグレールは第三次過去把持と呼ぶ。

「ディアボル」
シンボルの対概念。造語。悪魔的というニュアンスも含む。


スティグレールがシンクロニゼーションとディアクロニゼーションについて語る部分は、毎回のことながら、熱くなる。
こんな文章。

現在の傾向として、人びとの意識はシンクロし、同じ時間性を取り入れ、したがって各々の特異(唯一)性を失おうとしています。ところが、自由とは本来的な意識による行為であるという意味において、意識は本質的に特異(唯一)性です。本来の意味における意識、つまり意識の現勢化とは、思索の自由です。換言すれば、意識のシンクロニゼーション・プロセスによって脅かされ、組織的に阻害されているのは、あらゆる意識が持つ哲学への潜在性です。哲学とは本質的に、どのような意識にも備わる思索の自由を肯定することです。意識がそれ自体としてディアクロニックであり、その意味で特異(唯一的)なものである限り。意識はこういうわけで、潜在的に哲学するものなのです。シンクロニゼーションが圧殺しようとするのが、万人のものであるこの哲学するための潜在性であり、そしてとりわけもちろん、この万人に共通する潜在性が、特に集団的思索と政治行動として現勢化する可能性です。このような圧殺がなぜ起こり得るのかといえば、どのような意識の奥底にも、このような圧殺ばかりを望む根深い愚かさがあるからです。思索とはこの愚かさに対する闘いです。この愚かさが支配する時、あらゆる意識がその根源的な愚かさゆえに傾く怠惰が勝利します。考えるとは、己の怠惰と闘うことなのです。そしてこの闘いがますます困難になっているのは、マスメディアが逆に組織的にこの怠惰につけ込み、これを助長しているからです。

う〜。長い引用だったけど、最後の方とか、熱いですよね!
「思索とは圧殺を望む愚かさに対する闘い」とか「考えるとは、己の怠惰と闘うこと」(同じことだけど)、など、座右の銘にしたい!


『なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』
ジャン・ボードリヤールの『なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』を読んだ。ボードリヤールの遺稿集。表紙の写真はボードリヤールが撮った作品。
序文 フランソワ・リヴォネ
なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか(2007年1月執筆)
 アルキメデスの点/消滅の技法/アナログからデジタルの覇権へ…/イメージに対してなされる暴力/二重性
カーニヴァルとカニバル(2004年末執筆)
腹話術的な悪(2006年9月執筆)

ボードリヤールは2007年3月に逝去し、2008年に本書が刊行されている。
最初の論文では、現実の消滅(現実はコンセプトの中に消え失せたが、概念や思想もそれらが現実化される状況の中で消滅しつつある)、主体の喪失、イメージとその根源的「幻想」による想像力の終わり、終末それ自体の消滅、を写真を足がかりにして描出している。

「デジタルへの方向転換とともに、アナログ写真の全領域が決定的に断罪されることになった」
「デジタル化の進行につれて、フィルムという、事物が陰画(ネガ)として[=否定的(ネガティフ)に]書きこまれていたあの感光面はやがて失われてしまうだろう」
「デジタル化の過程で消滅したのは、まさにこのような写真という行為の、あらゆる豊かさなのだ。デジタル化によって変化したのは、世界と世界の見方(ヴィジョン)そのものである」
「そうしたことはすべて、あらゆる領域で大量に生じていることの微小な実例にすぎない。とりわけ、思想と概念と言語と表象の審級がそうだ。写真のデジタル化と同じ運命が、精神世界と思考の全領域をつけ狙っている」

ここでのポイントは写真のネガと「否定的」のダジャレをとっかかりにして思想を展開していることだろう。
また、ちょっと後でも、デジタル写真について、こう書いている。

「デジタル写真は、もはや世界のピクセル化の偶然的な断片にすぎず、人間の視線とも、ネガと隔たりの戯れとも、もはや何の関係もない」

今や伝統芸能の域にまで到達したボードリヤール節が後半にも展開される。
「われわれはインテグラルな現実によって、デジタル的プログラミングの一部始終に、すっかり魅了されている」
「あの抵抗不能なグローバルなパワーは、世界から差異を追放し、極限的な特異性を抹殺することに、どのようにして成功したのだろうか。そして、世界は、この種の粛清、インテグラルな現実の独裁に対して、どうしてあれほど脆弱であり得たのだろうか。その結果、世界は、正確にいえば現実ではなくて、現実の消滅に、どうしてあれほど魅了されてしまったのだろうか」

次の「カーニヴァルとカニバル」は、白人たちが全世界に西欧的価値を輸出した結果、白人たちに猿扱いされたあらゆる民族に白人たちの猿真似をされることで、その愚弄を倍にして送り返されていることを描いている。
カーニヴァルの自己カニバル化をあらわす例として、アメリカの政治にも触れられる。
そこでは、政治はもはやアイドルとファンとの戯れにすぎなくなっている。
「見世物をあてにする者が見世物によって滅びることは、現代政治の宿命である」
しかし、ボードリヤールはこうした政治的モラルの低下を嘆いているわけではない。
「知性が権力の前提だと考えるなら、権力に愚劣さがいつまでもつきまとう状況は説明できないだろう」
「むしろ、愚劣さが権力の属性の一部であり、権力の公的特権でもあることを例証している」
「もっとも視野がせまく、もっとも想像力の乏しい者が、なぜもっとも長期間権力を保持するのか」
「市民たちは、思考の働きを要求しない人物のほうに大挙してなびいてしまう」
これらはシュワちゃんが知事になり、ブッシュが嘲笑されている時期に書かれたもので、なるほど、例としては適切だ。このあたりのくだりはけっこう辛辣で面白いので、本書にあたってほしい。

最後の「腹話術的な悪」では、まず「覇権」について語られる。
権力について覇権は支配とよく混同される。「支配」には主人に対する奴隷のような対立項を必要とするが、「覇権」にはその反対物を必要としない。したがっって、現代の世界をおおう覇権について、「解放」(「支配」の場合には成立)ということ自体がありえないのだ。
インテグラルな現実の前で、マニ教的な二元論がすべてシステムに呑み込まれてしまったあげく、居場所のなくなった悪は、口をとざしたまま発せられる、腹話術的な悪になるのである。
ここで面白かったのは、グローバリゼーション(覇権)を一撃で撃退する「出来事」の例として、『金閣寺』『長距離ランナーの孤独』『バートルビー』死刑囚ギルモアとならんで、ワールドカップでのジダンの頭突きをあげていることだ。
ワールドカップという「地球規模の自己同一化の儀礼と、スポーツと世界の合体の儀礼」を頭突きひとつでぶちこわしたのだ。ここでジダンが拒否したのは、グローバリゼーションの鏡になることだった。
世界の全面的同一化に対する闘いのきわだったエピソードともちあげる。
さて、本書を通じて言われているのは、消滅だ。
世界が全面的に同一化すれば、もはや社会学自体も消滅する。
すべては消滅に向っているのである。

巻末の解説には、付録としてエドガール・モランの「ボードリヤールのために」(2005年2月『レルヌ』)が訳出されている。
そこで、モランは『物の体系』を読んだあと、ボードリヤールにこう言った、と書いている。
「気が利いてるが、変わってるね!」
さらに、こうも書いている。
「彼は明白に見える事実をバラバラに解体することにすぐれ、私たちを目覚めさせ、刺激し、興奮させる。だが、度が過ぎるときもある」
面白いね!

夜、仕事に行く道すがら、いつものようにNHK-FM聞いてたら、フィリップ・グラスの「冥王星へのオード」がかかっていた。後で調べると、武満徹とかも演奏していたようで、聞き逃しが残念。

『サブカルチャー最終審判 批評のジェノサイズ』
体調も戻ってきたので、夜勤明けに映画でも見に行こうか、と思ったけど、「ありがとう浜村淳です」のエジプト星占いで3月生まれは外出は控えた方がいい、と言ってたので、「暑いし、やめとくか」と、こんなときだけ占いを信じたりする。

宇野常寛と更科修一郎による『サブカルチャー最終審判 批評のジェノサイズ』を読んだ。
以下、目次。
CHAPTER1 08.JUN.-08.SEP.
批評なんか、いらない?
 −カネとオンナの恨みを批評にぶつける「ヒガミ系」問題
 「ヒガミ系」一辺倒の論壇はクズばかり!/本を読む人間ほど地頭が悪い/「ゴキブリ」を駆除するための方法論

今、面白い小説ってナニ?
 −盛り上がりそうで盛り上がらない純文学の行方
 川上未映子&桜庭一樹ブームの真相/「本屋大賞」&『メッタ斬り!』時代の到来?/「物語」の力が強くなる時代

マンガビジネス崩壊寸前!
 −旧態依然な制作現場と中年オタクの性欲野放しのツケ
 モーレツ体質が、週刊マンガ誌を潰す?/「原田知世症候群」に侵される、中年オタクたち/「マンガ大賞」は、第二の「本屋大賞」になるか

「ゼロ年代」の物語の想像力
 −セカイ系的価値観の支配から解かれた、00年代コンテンツの特徴
 サブカルチャーの10年を振り返る/他者を排除!タコツボ乱立の時代/マザコン社会・日本

CHAPTER2 08.OCT.-08.JAN.
「アニメはもうだめ」なんかじゃない
 −宮崎・押井最新作の評価から、深夜アニメ『マクロスF』人気のカラクリまで
 『ポニョ』と『クロラ』、今夏アニメはマザコン祭り!/アニメ業界の大御所問題/80〜90年代リバイバルで『マクロスF』が人気

さらば、愛しの雑誌たち!?
 −死んだ雑誌と、売れた「小悪魔ageha」&「ファウスト」の大きな違い
 「論座」「月刊現代」「m9」…怒濤の休刊ラッシュ!/ゼロ年代を代表する二誌/雑誌の未来も「人」次第?

邦画と洋画、ヒットの法則
 −「テレビ局物件」があふれ返る、日本映画に明るい未来はあるのか?
 『ダークナイト』は傑作だけど、日本人にはウケない!?/大量生産されまくった、矢口史靖の劣化コピー/ゼロ年代の日本映画黒歴史

恋愛至上主義という病
 −『おひとりさまの老後』よりためになる、非モテを救済する方法
 恋愛本ブームと本田透が生んだ、ヒガミ系ラブゾンビたち/ゼロ年代型恋愛至上主義の正体と、その処方箋/恐怖の「白雪姫と七人の小人たち」の法則

CHAPTER3 09.FEB.-09.JUN.
08年のベスト&ワースト大発表!
 −最も期待を裏切った迷作は、NHKのあのドラマ!?
 業界勢力図の変動による、中堅作家「メガノベル」の明暗/[映画]歴史的当たり年だった洋画と、テレビ局が握る邦画の命運/[マンガ]視野狭窄な「マンガ読み」が読まない、娯楽大作の好調/[アニメ]テレビアニメのアベレージの高さと、劇場大作のビミョーさ/[ドラマ]唯一、横綱級の作品が登場した国内コンテンツ源

ウェブコミュニティの歩き方
 −インターネットは、現代人のアイデンティティ不安を救う装置になり得るか?
 「ニコニコ動画」は、本当に新しかったのか?/加藤智大を救えなかった、匿名型システムの弊害/リアルなコミュニティ探しの橋渡しとして、ネットを使え

テレビドラマが面白い
 −無理解な評論家たちがスルーする、日本のドラマ文化
 バブル期に後退したテレビドラマの復活/NHK各放送枠に見る、ドラマ史の動向/『のだめ』はフジの敗北宣言?民放各局のドラマの特色/独自の路線を突き進む、昼ドラ・深夜ドラマ

瀕死のラジオ、その未来
 −伊集院光の功績から『Life』問題まで、迷走するラジオカルチャー
 ラジオスター・伊集院光と、90年代ラジオカルチャーの風景/TBSラジオを迎撃する、AM・FM各局の個性派番組/ネット時代における、コミュニティ志向番組の功罪

サブカルチャーの明日はどっちだ!?
 −日本カルチャーをダメにするタコツボ化問題の深刻度
 文化のレベル低下を招く、ジャンル島宇宙化の病理/業界の矮小さを自ら暴露!連載中の残念な反応/肥大化するセクシャリティとコミュニケーションの問題/これからの評論を活性化させていくために…

CHAPTER4 19.JUL.
特別対談 AD2019サブカルチャー最終審判
 −サブカルチャー業界、批評の世界はこんなことになっちゃってます!?
 イタコで更科復活!2019年の近況は…?/2014年の衝撃文芸界に何が起こったか/雑誌文化の死滅と断片化するマンガ・映画ソフト/テレビの黄昏が演出するドラマと芸能界の迷走劇/ジャパンクール大ショック!アニメ界のあの大御所たちは今…/政治と宗教に回収された「2010年代の想像力」

「あとがき」で宇野は「批評の世界は腐っている」と書き、「あとがきのあとがきまたは、発端から顛末まで。」で更科は「評論や批評を続けることが馬鹿馬鹿しくなってしまった」と言う。そんな二人が、挑発的なもの言いで「サイゾー」に連載していた対談を加筆再構成してできたのがこの1冊。したがって、発せられる対象が批評家ワナビーだったりして、普通のサブカルチャー時評とはまったく色合いが違っていて、面白かった。
更科が「率直に偉いと思う」と評価した、宇野の「サークルクラッシュ」の「白雪姫と七人の小人」のくだりが面白かったので、引用しておこう。

「サークルに男が8人いて、女が2人だとすると、まずその中の一番手の届きやすい位置にある女が『白雪姫』になる。白雪姫はサークル外に男を作るか、そのサークル内で一番マシな男と安定カップルになる。この男が『王子』です。残された7人が『小人たち』ですが、彼らはもう1人の女には行かず、『白雪姫』の取り巻きになってお互いを牽制し合うんですね。別にナンバー2になっても、その子とセックスできるわけじゃないのに(笑)。で、取り残されたもう1人の女の子は『魔女』になり、ヒガんで白雪姫を攻撃する。すると小人たちは、白雪姫の歓心を得るために魔女を迫害します。魔女がサークルからいなくなって共通の敵がなくなると、今度は小人たち同士でバトルロワイヤルが始まります。そこで排斥された小人たちは、魔女とくっついたりくっつかなかったりする。そうやってサークルが破壊されていく」

後、宇野が言った「問題は、日本的匿名文化に迎合的な現在のウェブサービスが必要以上に彼らに居場所を与えて、クレーマー文化を育成してしまった点にあります」という発言が面白かった。これは論壇ワナビーに向けた発言だが、なるほど、と思った。
あと、最終章の2019年の予想は、余分だったかな。

濱野智史の『アーキテクチャの生態系−情報環境はいかに設計されてきたか』を読んだ。
以下、目次。
はじめに
第1章 アーキテクチャの生態系とは?
ゼロ年代のウェブの風景/いかに社会的なソフトウェアを追うか/「アーキテクチャ」からのアプローチ/日常生活の密かなコントロール/アーキテクチャの可能性を追う/アーキテクチャの生態系マップ

第2章 グーグルはいかにウェブ上に生態系を築いたか?
web2.0とはなんだったのか?/ごく簡単なウェブの歴史/グーグル登場のインパクト/ページランクという仕組み/グーグルの本質は何か?−集合知という協力・貢献のシステム/グーグルは機械か、それとも生命か?−梅田望夫vs西垣通論争/ブログの本質は何か?1−グーグルに検索されやすいウェブサイト/ブログの本質は何か?−SEO対策の自動化/なぜブログの存在感は増したのか?/<ウェブ→グーグル→ブログ>の進化プロセス/「生態系」を示す三つの現象/生態系という認識モデルの「使いかた」

第3章 どのようにグーグルなきウェブは進化するか?
巨大掲示板2ちゃんねる/グーグルなしで成長したソーシャルウェア/2ちゃんねるの特徴は何か?1−フロー/2ちゃんねるの特徴は何か?2−コピペ/2ちゃんねるの「アーキテクチャ度」の低さ/なぜフローの度合いが高くなるよう設計されているのか?/なぜ、あえて協力するユーザーが現れてくるのか?/2ちゃんねらーになることで生まれてくる相互信頼/2ちゃんねるの二面性−都市空間と内輪空間/米国のブログ、日本の2ちゃんねる/「個」の評判を蓄積するブログ/米国は信頼社会、日本は安心社会?/日本社会論としての2ちゃんねる論/はてなダイアリーと「文化の翻訳」

第4章 なぜ日本と米国のSNSは違うのか?
ミクシィの「招待制」の特異性/なぜ閉鎖的なミクシィは日本で受容されたのか?/「儀礼的無関心」から「強制的関心」へ/2ちゃんねるに続き、ミクシィまでもが「繋がりの社会性」に/「繋がりの社会性」批判は妥当なのか?/人間関係のGPSとしてのミクシィ/「ミクシィ安全神話」の崩壊−ケツ毛バーガー事件/米国におけるフェイスブックの台頭/フェイスブックvsグーグル、新旧プラットホーム間競争/「グローバルSNS」は到来するか?/日本社会論、再びーソーシャルウェアの「異文化間屈折」

第5章 ウェブの「外側」はいかに設計されてきたか?
P2Pのアーキテクチャ進化史を追う/ナップスターの衝撃−ウェブとは異なる通信システムの登場/P2Pは利用者同士で、直接ファイルをやり取りできる/P2Pをめぐる日本特有の事情−「コモンズの悲劇」問題/ファイル交換型(WinMX)の解決法とは?−規範/ファイル共有型(ウィニー)の解決法とは?−アーキテクチャ/ウィニーへの批判−「コミットメント」を求めないシステム/ウィニーとアーキテクチャの周到さ

第6章 アーキテクチャはいかに時間を操作するか?
ユーザーたちは、どのような「時間」を共有しているか?/同期/非同期−メディア・コミュニケーションの「同期」/インターネットは非同期か?/ステータス共有サービス・ツイッター/選択同期とは?−同期と非同期の両立/動画コメントサービス・ニコニコ動画/擬似同期とは?−錯覚による体験の共有/3D仮想空間サービス・セカンドライフ/真性同期とは?−なぜセカンドライフは「閑散」としているか?/真性同期は「後の祭り」、擬似同期は「いつでも祭り」/ニコニコ動画は「いま・ここ」性の複製装置/擬似同期の経済分析/日本社会論、三度再び/非同期の2ちゃんねる、擬似同期のニコニコ動画

第7章 コンテンツの生態系と「操作ログ的リアリズム」
ボーカロイド・初音ミク現象/萌えキャラとしての初音ミク/初音ミク現象とオープンソースの共通点−コラボレーションとコモンズ/初音ミク現象とオープンソースの差異−<客観的>な評価基準が存在するか?/「擬似同期型」は<客観的>な評価基準をもたらす/ニコニコ動画上に成立する「限定客観性」/『恋空』の「限定されたリアル」/ゲーム的リアリズム/ケータイに駆動される物語/内面モードを中断するケータイ/PメールとPメールDXの違い−ケータイを介した選択と判断/『恋空』の行間を読む/操作ログ的リアリズム/『恋空』の「番通選択」とツイッターの「選択同期」/PC系文化圏とケータイ系文化圏の分断/操作ログ的リアリズムの読解作業−「コンテンツの生態系」を理解するために

第8章 日本に自生するアーキテクチャをどう捉えるか?
ウェブの未来予測はできない/自然成長的なものとしてのウェブ/レッシグの思想−コモンズ/ハイエクの思想−自生的秩序/「ズレ」をはらむ日本のアーキテクチャ/日本に自生するアーキテクチャをどう捉えるか?

「はじめに」に、本書の主題がわかりやすく書いてある。以下、引用すると。

「本書の主題は、主に2000年以降、インターネットという情報環境上に登場した、グーグル、ブログ、2ちゃんねる、ミクシィ、ウィニー、ニコニコ動画といったさまざまなウェブサービスを分析するというものです」
「それぞれのサービスが独自の『アーキテクチャ』として設計されている点に着目します」
「本書のもう一つの主題は、『日本』に着目するということです」
「本書は、とりわけ2000年以降、日本社会に特有の『アーキテクチャ』が生まれていったことを明らかにしていきます」

こうした分析を生態系という認識モデルで描いており、それぞれの功罪をどちらかに偏ることなく論じているように読めた。
著者が主に使うのは北田暁大が使った「繋がりの社会性」という概念だ。
(コミュニケーションの内容自体は重要でなく、コミュニケーションをしているという事実を確認すること自体が自己目的化している)
そして、ハーバード・A・サイモンの「限定合理性」をもじって著者が造語した「限定客観性」が、「いまや何かを愛好するファンたちの集うコミュニティというものは、常にそのような問題に晒されている」問題として取り上げられる。これは、「コミュニティの内部では普遍的で客観的であるかのように成立している基準が、外側からは理解不可能である」ことを言う。
筆者は情報社会の定義をさしあたり「限定客観性の有効範囲をアーキテクチャによって画定する社会のこと」としている。
本書を読んでいて、今まで漠然と考えていたことが、クリアになっていく痛快さを何度も感じた。そして、なるほど、そういう見方もあったのか、と目からウロコが落ちたのは、ケータイ小説「恋空」についての分析だった。ケータイに関する記述の過剰さ、詳細さに注目し、「『恋空』という作品は、そのときケータイをどのような『判断』や『選択』に基づいて使ったのかに関する『操作ログ』の集積としてみなせるのではないか」とまで言う。
「トンデモで『脊髄反射』的に見える登場人物たちの行動が、実は<主観的>に見ればそれなりに妥当で繊細な『選択』や『判断』の連続によって決定づけられていることがわかります」そして、「操作ログ的リアリズム」の読解作業(ローディング)ー「読解=リーディング」でなく「呼び出し=ローディング」ーという考え方を提唱する。こうした考え方は、ミステリを読んでいる人間にとってはごく日常的なもので、不可解な行動を読解したり、日常の行動に別の読解をしてみたりするのは、ミステリ読みの業みたいなものになっている。『恋空』は未読だが、ミステリ読みが読めば、登場人物たちの支離滅裂な行動のムチャクチャさに笑うだけでなく、その裏に隠されたストーリーを紡いでしまうのは目に見えているのである。と、すれば、まだ『恋空』には解決編が欠けているのかもしれない。

イベント明けの日で、心身ともに疲労の極致。
(いかに疲労していたか、なぜ疲れたかを、この続きにダラダラと書いていたが、ハッと気づいて、全部カット)
午前中から行きたいイベントがあったのに、アラームを止めたことも気づかなかった。寝たのが夜中だったとは言え、これはひどい。
そんなときに、見に行きたいイベントが長丁場のもので、非常に迷う。
SOCIOの「夢見」みたいに快適な環境でずっと坐ってくつろいでおれるならいいが、アイドルライブではオールスタンディングを覚悟しなくてはならない。
と、いうことで、めちゃくちゃ見に行きたかった村田寛奈はパス。
LABI1なんばで午後1時からライブ。ここならエアコンきいたところで、坐って過ごせる。
看板にはMENA、吉村綾花、KONOMIと書いてあったが、出演したのは、MENAとラナンフィズの2組。
まず、ラナンフィズ。
ドリンクのサービスのあと、3曲ライブ。
最近、倉庫に住み始めたとか、冷房がなくてこのヤマダ電機で物色中など。音楽はとてもクールな感じだったので、これが暑い倉庫から生み出されたものとは思えなかった。
次にMENA。
亜麻色の髪の乙女、オリジナル4曲。
ライブの時間も全体で1時間弱、と弱った身体の僕にも耐えられるギリギリ。
2回目のステージは、午後3時から。
ラナンフィズ、MENA。
疲れた心身が、音楽で癒されて行くのが手にとるようにわかる。
でも、ライブ中にも意識がとんでしまい、「こりゃダメかも」とやっと自覚する。
帰宅して、とりあえずぶったおれて、睡眠。
ギルドには絶対に行く予定をしていたのに、体が動かなかった。
1週間のうち、1日くらいは心身を休める日があってもいいか、と開き直る。
読書もビデオも今日はお休み。
今日、ほとんど何も出来なかった分を挽回するには、やはり明日からの睡眠時間を削っていくしかないので、悪循環は続くのである。

『自殺協定』

2010年7月18日 読書
樹下太郎の『自殺協定』を読んだ。1963年。
早川書房の「日本ミステリ・シリーズ」の第5巻にあたる。
以下、目次。
銃声
6-1=5
5-1=4
女(6-1=5)
4-1=3
女(5-1=4)
3-1=2
2-1=1
1-1=0
沖へ

入手した改造拳銃と、6発の弾丸の話。章立ての数字は、1発ずつ弾丸が発射されたことをあらわしている。
もとからの拳銃の持ち主と、それを入手した者のあいだで、撃ち殺したい奴に復讐したあと、お互いの自殺のために1発ずつ、計2発だけは残しておこう、という協定が成り立った。これがタイトルの「自殺協定」だ。
樹下太郎の作品は夫婦間の物語、という印象が強いが、この長編推理小説は、家族の悲劇、というレベルまで話が突っ込まれており、そのぶん、いつもの軽妙さは消えて重苦しいムードが漂っている。それが文学的高みにまで達していて、この『自殺協定』は樹下太郎の代表力作になるんじゃないか、と僕は思った。
家族のあつれきについて、こんな描写がある。

「考え方によっては城一郎は父親の最大の被害者であった。だが、かれは父親とは骨肉の間柄にあった。骨肉の情で我慢を重ねてきたともいえる。」

「父親は善人だった。善人過ぎる罪を父親は背負っていたようだ。善人が自分を善人だと信じ込んでいると、相手はふと、それではこちらは悪人なのかと居直りたい気持になってしまう。どうも、父親はそこらの機微を弁えていなかったようである。」

「(この世の中で思い通りにいったためしが一度だってあるものか)」

うむむ。重い!
作者あとがきで、樹下太郎は戦中から戦後に至る欧米のミステリに刺激された、と書いている。(日本では松本清張ブームが来ていたが、日本の作品よりも、欧米の作品に大きく影響されたらしい)
たとえばどんなミステリかと言うと、

「シムノン、ウールリッチ、エリン、ガーヴ、レヴィンの『死の接吻』、ジョゼフィン・ベルの『ロンドン港の殺人』その他あれこれ」

らしい。このあたりの作品も未読や忘却があるので、いずれ読んでいく予定。

日曜日は将棋と落語と現代音楽の日。それに大相撲も加わって、録画録音であとで楽しむことにして、外出。照りつける太陽。梅雨は開けたのか?

LABI1なんばでSTS沖縄アクターズスクールライブ。
午後1時から第1部。
スクリーム/ジュニアダンスチーム
コールミー/Rino
真夜中のシャドウボーイ/スパーク
ブルーバード/チェリッシュ
スムーズクリミナル/スーパーバブルズ
4ミニッツメンバー
ミュージックメイクユールーズコントロール/小中学生メンバー
エンディング

ヤマダ電機でのライブでチェリッシュが見れたのはうれしい。

日本橋4丁目劇場に移動して、「ポンバシクラブ」ライブ。
到着時、神田恵伽ちゃんのライブ真っ最中だった。
いろんな人と挨拶などして、しかるのちに、いちごのつぶライブ。
今回は楽器演奏なしで、カラオケでのライブだった。
1.MK5
2.シンケンジャー
3.ゴセイジャー
4.恋のバカンス
うむ。可愛い。

LABI1なんばに戻って、午後4時からセーリングのライブ。
セーリングはドラムが女性で、それ以外のメンバーは全員サングラスをかけた男、という不思議な構成だった。自分の主張をメッセージとして伝える、というタイプのバンドではなく、老若男女幅広く楽しんでもらおうとしているバンドのようだった。健全すぎて、僕のような汚れた人間にはまぶしすぎた。と、思ったらまぶしいのは衣裳のスパンコールのせいだった。
途中、STSからジュニアダンスチーム、スーパーバブルズのゲスト出演もあり、最後にはダークチェリーと「キューティーハニー」をコラボ。
ところで、4丁目劇場で会ったぴのこちゃんと、ダークチェリーの門前あかりちゃんが似ている、と言われて、最初はあまりのイメージの違いに「そんなバカな」と言ってみたが、よく見ると、瓜二つだった。

午後7時から白鯨で「眼ノ毒」。映像イベントだ。
いろんな人に秘蔵映像を提供していただき、まあ、ちょっとやそっとじゃ見れない映像の数々を堪能した。
詳しく内容を書いてみたいが、なにせ、秘蔵映像のことなので、秘蔵されていたのには秘蔵されていたなりの事情があるのである。
今日、イベントに来ていただいたお客さんのみの悪夢とさせていただこう。

帰宅して、録音しておいた「現代の音楽」を聞く。
                          猿谷紀郎
 − 2010年度 武満徹作曲賞 本選演奏会から −(1) 
                              
「二つのプレザージュ〜オーケストラのための〜」       
                      山中千佳子・作曲
                        ※3位受賞曲
                      (19分42秒)
           (管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団
                      (指揮)大井剛史
                              
「Infinito nero e              
             lontano la luce  
 (インフィニート・ネーロ・エ・ロンターノ・ラ・ルーチェ)」
                        難波研・作曲
                        ※2位受賞曲
                      (14分43秒)
           (管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団
                      (指揮)大井剛史
  〜東京オペラシティ コンサートホール          
               :タケミツメモリアルで収録〜 
                   <2010/5/30>


樹下太郎の『プロムナードタイム』を読んだ。1963年。
プロムナード・タイム
春風
女ふたり
街路樹の下で
暴食
夜に別れを告げる夜
怪人ギラギロ現わる(挑戦!)
飛行船

池のほとり
春の欠点
帰郷
鉄塔上の男
モーニング
弁慶医師の女難(挑戦!)
愛しつつ時は流れて…
悪魔の名
泣きたい
汽船の見える埋立地
低気圧
妻は魔術師
お次の方どうぞ!
令名高き夫人たち
細長い死神
胎教
弟子
憎む
肥後守
やさしいお願い
海の水は…
呼吸
死者との夜
古い黒いとびら

樹下太郎のいろんな面が発見できるショートストーリー集。
作品の中に「漫画読本」(怪人ギラギロ現わる)や「ヒッチコックマガジン」(お次の方どうぞ)の名前が出てきたので、それらの雑誌に掲載されたんじゃないか、と思われる。
巻頭、「作者より」として、「こわい話」「コッケイな話」「皮肉な話」「夢のような話」「悲しい話」の5つのセクションに分類しようかとも思った、と記してある。
読んでみると、今まで読んできた作品にはほとんど見られなかった「エラリー・クイーンばりの言葉遊び」「フィリップ・マクドナルド級の叙述トリック」が体験できて、すごく面白かった。「挑戦!」と書いてあるのは推理パズルで、「怪人ギラギロ現わる」は鼻毛を抜いていく怪人が5人の候補者のなかで、どんな条件でいったい誰の鼻毛を抜いたかを推理する話。問題編と解答にわかれている。
また、SF的要素の入った話も多くあった。
たとえば、表題作の「プロムナードタイム」は、毎週土曜日の夕方から高速道路を歩行者天国にする話で、なぜそんなことがはじまったのか、といういきさつと顛末が語られる。
「夜に別れを告げる夜」は人工太陽で地球から夜をなくしてしまった世界で起きるてんやわんやを描く。
「島」は国によって作られた、常習犯を集めた無法地帯の島の物語。
「悪魔の名」は「T-」という音読して3字、漢字で2字、主に2通りの書き方をする姓の持ち主にばかりひどいめにあわされ、復讐する、一種のリドルストーリー。
なかでも面白かった話は瀕死の床にある「食通」で名高い人物を取り巻く人々のおもわくがとんだ悲喜劇をまねく「暴食」
それと、わが子を交通事故でなくした親が、その加害者に、慰謝料はいらないから毎月葉書を送ってくれとお願いする「やさしいお願い」は抜群に面白くて、ラストシーンでは鳥肌がたった!
それと、この本読んで感じたのは、シャボン玉ホリデーやおとなの漫画に通ずるような、昭和30年代的ムードが色濃く出ているなあということだった。すごくノスタルジックな思いにひたることができた。

午後2時30分からワッハ上方で「上方亭ライブ」
桂佐ん吉/阿弥陀池
(心ネコ、という言い方は、わりと普段から使っているけど、幼い頃にこの落語聞いたってことかな?)
桂米左/豊竹屋
(「みかんのようで、みかんでないベンベン」は後に「ベンベン」と呼ばれるゲームになった。僕の作詞した「エケセテネ」でも最初に「バナナのようでバナナでない!」と使ってます。おかげでいい歌が書けました)

午後6時から京都のshin-biで鈴木昭男(サウンドアーティスト)と宮北裕美(ダンサー)による「からだをどうぞ〜音とダンスの即興セッション〜」
shin-biはこの7月末で閉店するというので、駆けこみで見に行った。
京都についたら、ちょうど今日は祇園祭。夕方だったので、多すぎる人の波に阻まれることもなく、骨組みだけの山鉾をあちこち見ながらしばし散策した。浴衣姿の女性も多かった。
さて、セッションだが、タイトルにあるように「音」と「ダンス」の即興ではあるが、鈴木昭男が「音」、宮北裕美が「ダンス」と固定されているわけではなく、宮北裕美の舞踏する際の音もセッションの要素になっていたし、鈴木昭男にいたっては、ダンスフロアーに進出してきてアクションのコラボレーションをする。2人の立ち回りもあった。
鈴木昭男は、長らく使用していなかったブラックボックスを使って、主に音を出していた。
宮北裕美のダンスは、最初は身体をほぐす準備体操みたいな感じだな、と思っていたら、最後まで、肉体に無理を強いない自然なダンスだった。風に舞う羽根のような。
鈴木氏自ら申告して、アンコール。ついに登場、アナラポス。
鈴木氏は「あきニャン」と呼んでほしいらしい、というのが今日仕入れたばかりのマメ情報。

午後11時から心斎橋SOCIOで「星空サロン 夢見」
血と薔薇(ライブ)/夢は夜ひらく、夜と朝のあいだに、黒の舟歌、夜明けのスキャット、世界はふたりのために。昭和歌謡を聞いていると、最近の僕の読書傾向がいわば「昭和小説」に偏っていることに気づかされた。この辺りの歌は、自分がまだ義務教育中の歌ばかりで、懐かしい。

Witasexalice(フェティッシュ・ショー)/両方少女のアンドロギュノスを二つに切断するshihoさん。腕に刺さっていた羽根を抜かれるところなど、血液検査で注射針刺されるところも直視できない僕の心ネコをドキドキさせる。shihoさんに挨拶しようと思ってたのに、タイミングあわず。と、今考えてみたら、帰るタイミングが悪かったのか、ほとんどの人に挨拶できずに帰ってる!

シモーヌ深雪(DJ)/最近はまっているというヘヴィメタルがガンガンかかってた。

秋葉原紫音(ライブ)/赤ワイン片手にダークキャバレーが現出。まったりとおしゃべりしながらのライブで、ついには1曲カットで、「回想」の次はラスト曲「ララバイ」

シモーヌ深雪&chouchou(対談)/デカダンス音楽入門で、2人が持ち寄ったレコードを解説。シモーヌはルイス・フューレイにはじまり、ジャパンやらエンジェルやら。chouchouさんは、デヴィッド・ボウイにはじまり、ロキシーミュージックとかケイトブッシュとかダニエル・ダックスなど多数。2人のレコードでかぶったのは、チューブウェイアーミーだった。僕の大学生頃にはやったものが多くて、これもまた、懐かしい。

chouchou(DJ)/対談に出てきた音楽が流れる。スージー&ザ・バンシーズとか大好きなので、流れてうれしい。

次の用事があったので、午前5時前には店をあとにした。
僕は自宅ではエアコンをつけない。熱帯夜など、いっそ眠ってしまった方が楽だ、と思って、読書やビデオ鑑賞を途中でやめて寝てしまうことがある。そんなことなら、この「夢見」に来ているほうが、考えごとをするにも最適で、非常に快適に心身をやすめることができたように思う。睡眠はまたのちほど。

『飛ぶ女』

2010年7月16日 読書
今日はいろいろと行くところがあって、地下鉄のノーマイカーフリーチケットを買って動いていたのだが、なんと、8回も地下鉄に乗った。病院にお見舞いに行ったり、シモーヌから提供の映像資料を取りにdistaに行ったり、フォーエヴァーレコードにCD買いに行ったり、ベアーズにチラシを持って行ったり、銭ゲバで映像イベント下見をしたり、図書館行ったり、シネヌーヴォにレイトショー見に行ったり。でも徒歩での移動時間がやっぱり一番長かったかな。
と、いうことで、読んだ本は1冊。

樹下太郎の『飛ぶ女』を読んだ。
以下、目次。
飛ぶ女
岬にて
ちょっぴりしあわせ
壇上
素晴らしい夜
死んでください

「飛ぶ女」は人妻が2階の窓から隣の建物の愛人のもとに飛び移る。
樹下節で夫婦のあいだの葛藤があって、今度は男の方が女の部屋に飛び移るようになるが、体重が重いため、飛び移るたびに音や振動があって、バレてしまうのだ。

「岬にて」は、おいおい、自殺せんといてくれよ〜、な話。

「ちょっぴりしあわせ」では、印象的な文章が2つあった。
まずひとつ。これは、ああ、こういう時代にさしかかったんだな、とわかる文章で、そう言えば、本書にはBGという呼び名は見あたらなかった。

(職工さん、女工さん、女中さん−それらがどうしていけないのだろう。『職工』のかわりに『工員』、さらには『社員』と呼ぶならわしに変えている昨今の経営者の神経がわからない。そんなことでかれらが喜ぶとでも思っているのか。猛省を促したい。『職工さん』−立派じゃないか)

もうひとつは、樹下太郎の作品共通のテーマか。

サラリーマンの破滅は、ただひとつ、女色にある。

物語は、適当な女をひっかけて欲望を解消している男を描いている。
それはもう名前も与えられない代々のA子であって、へたにA子につきまとわれるより、別の男とあっさり結婚してしまう方がホッとするわけだ。

「壇上」はせっかく目立たぬように地味に働いていたのに、皆勤を表彰されてハレの舞台に立ってしまい、指名手配の容疑者だとバレてしまう話。

「素晴らしい夜」は、担当が変わって、前任の悪行が発覚する、という最近のギリシア経済とか日本での政権交代みたいな話。まあ、会社側のスパイということになるか。

「死んでください」は本書でもっとも長い作品で中編か、軽い長編くらいの読みごたえ。
俺を殺すのか!と男は叫び、女は、殺しはしません、死んでもらうのです。とか言う。こわ〜。
この作品では、その時代をあらわすヒントが出てくる。

『まあね』
『なにがまあねよ』
あたしは思わずふき出してしまった。『まあね』というせりふは、最近、テレビの人気番組の影響でひどくはやっていて、まともな受取られ方をしなくなっている。つまり、この便利な返事は、いまでは、奇妙なニュアンスをもつようになっていて、真面目に発せられれば発せられる程おかしみが倍加するという具合だった。九ちゃんの『申しわけない』と同じだ。

『まあねどころじゃないはずだぜ』
『かもね』
あたしは、さらに言葉をはぐらかす。それも同じテレビ番組のはやり言葉だった。

九ちゃんの「申しわけない」は知っていたが、「まあね」「かもね」がどのテレビ番組発なのか、よくわからない。九ちゃんには流行ギャグがいくつもあって、僕が一番好きなのは、この「申しわけない」よりもかなり後年になるが「オーボヨーリョー」(応募要領)だ。
ああ、懐かしい!
イエジー・スコリモフスキ監督の「手を挙げろ!」を見た。1967年。
監督自ら主人公アンジェイを演じる3部作の3作め。
1967年に作られたが、上映禁止になり、公開されたのは14年後。今回の上映は、1981年に追加された映像を含んだ、回顧する形式の作品として公開された。(1981年のスコリモフスキは14年の歳月を重ねており、また、カラーになっていた。音楽も67年のはジャズ色が強く、81年のは現代音楽風)
スコリモフスキが81年に相変わらず前衛的な働きをするパートと、目が4つあるスターリンの巨大な肖像を描いてしまい弾劾されるパート、そして貨車の中で大量の蝋燭と石膏にまみれてなされる密室劇が、それぞれ別々のものでバラバラにザッピングして見るような感覚の映画だった。とくに貨車のシーンは演劇色が非常に強かった。
そんななかでも、「ほほー」と感心したセリフを紹介しておこう。
「貧乏で病気でいるより、金持ちで健康な方がマシだ」
当たり前!ぼくも同意見!
あと、印象的だったシーンは、効果としてつけられているのかな、と思っていた音楽が途切れると、作中の登場人物たちが、自分たちの歌声で続きをつけはじめるのだ。効果音だと思ったら、本当に弦楽四重奏団が演奏していた、というギャグはウディ・アレンの映画で見たことがあった。また、同様に効果音かと思ったら携帯電話の着メロディだった、というギャグが吉本新喜劇では最近よく見かける。でも、この映画のは、現場では音楽が流れていないのに、登場人物たちが続きを担当する、珍しいパターンだったと言える。
81年に撮影された部分では、「バリエラ」などでも特徴的だった、大勢の人間が走るシーン(マラソンみたい!)が再現されていた。こんな場面、どこかで見たことがあるな、と思っていたが、今回見て、はっと思い出した。楳図かずおの『アゲイン』だ。
それはそうと、この映画、チケット買うとき、受付で「手を挙げろ!」と言うのがなんだか不思議な感じだった。「手を挙げろ!」と言ってるくせに、財布からお金を出して、渡しているのである。話がさかさまだ。

『朝を待とう』

2010年7月15日 読書
樹下太郎の『朝を待とう』を読んだ。1963年。
長編1つと、短編3つが入っている。
長編は表題にもなった「朝を待とう」
以下、目次。
第1章 兄の死
 残された兄妹/死をめぐって/タイプの秘密
第2章 行動開始
 日直の日/ひとつの手がかり/紙片をめぐって/伊津子の推理
第3章 追及
 花束/タイプを追う/ふたたび花束が
第4章 危機
 ダリアの服/暗号解読/入院後死亡
第5章 戦い
 告白/残るふたり/心中
第6章 その朝
 スポットライト/その夜の川本部長/朝
エピローグ

藤山章一は溺死した。その死は自殺として処理されたが、残されたきょうだいは、納得できなかった。
遺書と思われたメモ『部長様 このたびのこと申しわけありませんでした 藤山』の『部長』は、どの部長のことなのか。
章一が同じ会社の女性に預けた紙片に書かれた『コンゲツブンヨロシク 37725。22225』は何を意味するのか。
昭和22年2月25日に起きた八高線高崎行列車の転覆事故で、何があったのか。
これ以上追及するなとメッセージを送る高見母娘の正体は。
と、いうわけで、ここからネタバレだが、
列車転覆事故のドサクサで高見氏の大金を奪った男は、その秘密をつかまれ、残された高見母娘に毎月金を支払っていた。金を会社のロッカーの上に置いておくと、休日に会社を掃除しにくる高見母がそれを回収する、という仕組み。
しかし、その金のやりとりを示すメモを章一が何気なく拾ってしまい、事実の露見をおそれた部長が章一を殺したのである。いったん殺人をおかし、その犯行を高見母娘に疑われてしまった部長は、高見母娘も始末する。
結局は、すべてを書いた遺書によって何もかもが明かされるのである。
昨日読んだ『遅すぎた殺人事件』では論理をすっとばしたカンによる推理で事件は明かされるし、最近、論理の面白さでひきつける作品を読んでないような気がしてきた。

「霧のふかい夜」
 記憶/母子/再会/質問/青草/過去/現場/提案

父を殺したのは、あごにホクロがある男!幼いときの記憶をたよりに、主人公は犯人をさぐる。
この作品の面白いところは、犯人が特徴あるホクロで幼い頃から社会に出てからもいじめられ、それがもとで酒に溺れて精神がゆがんで犯行に至った、という経緯だ。
犯人は『ほくろがぼくの人生を狂わせてしまったのです』と述懐する。
刑事は『男のくせにほくろに拘泥わるような、犯人のめめしい性格がやりきれな』くなり、『世の中には、こんなくだらないことに劣等感を抱くような人間もいるのだろうか』と思うのだ。
ラストシーンがすごい。すがすがしい、というか、そこに話を持っていくか、と。

忠男(父を殺された少年)のクラスに、そばかすだらけの少年がいた。少年はいつもそのことでからかわれていた。忠男は犯人の話をきいてから学級会議で、その悪習をやめようと提案した。

「蛇」
 ひとり岬/絶壁/花絵の疑惑/冷血/写真/告白

男女複数で遊ぶ際の『奇数の冒しがちな罪』。カップルが成立したあとにあぶれてしまう1人。
蛇のおもちゃで驚かせて、崖から転落。
でも、犯人は墜落死までは考えていなかった、と懺悔したら、
『あの日の出来事は不運だったのだ。彼女の度を過ぎたいたずらはたしかに責められていい。しかし、責めるのも許すのも彼女自身の良心に任せたいと思う』
とか言い出して、最後はステーマンの長編ばりの発言でしめくくられる。

『蛇が悪いんだわ!』と、花絵が叫んだ。『あたしにいえるのはそれだけ』

それだけ、なのか!

「海のフィナーレ」
死んだ親の遺骨の入った箱を大切にする男。
なにげない『もっとたいせつなものがはいってるんじゃないの』をひきがねに、男はその発言をした女性を拉致して、逃避行へ。
箱の中にはピストルが入っていて、それはかつて男が犯した殺人の動かぬ証拠でもあったのだった。

『遅すぎた殺人事件』
若山三郎の『遅すぎた殺人事件』を読んだ。1984年。
誘拐
女子大生
尾行
過去あり
アイラブユー
第一の殺人事件
推理は進む
死体は進む
死体だらけ
秋雨

本の見返しに書いてあるあらすじは次のとおり。

軽井沢にきた裕一は、友人の高藤政久の別荘で何者かに殴られて気絶してしまった。その直後、高藤家へ身代金の要求が。犯人が政久と間違えたため、なんとか助かった裕一は、自分のアパートに住む推理小説好きの女子大生由香に相談した。疑わしい人物は、もと高藤家のお手伝いでセクシーな舞子、会社の金を使い込んでクビになった舞子の従兄の和也。一方、高藤家の家族構成も複雑だった。

主人公の裕一と政久は予備校生。
高藤家の複雑な家族構成、っていうのは、父親がホステスにうつつ抜かして、母子を捨てて出て行ったということ。この父親がすぐ近くに舞い戻ってきていた。
「セクシー」と表現された舞子は、色仕掛けで男を何人も手玉にとり、秘密を握っては金をせびるような悪女で、この女が殺されるのが「第一の殺人事件」である。舞子という女がいかに殺されてもしかたないような女かをえんえんと描いて、作品の後半になってやっと殺人事件が起こるので、タイトルの「遅すぎた殺人事件」になったのかな、と思った。
さて、この作品の最大の特徴は、主人公裕一のチェリーボーイ的醜態が事件の謎以上に印象深いところである。
プレイボーイの政久に比べて、裕一はまだ未経験。ことあるごとに、そのことをやっかむ描写が出てくる。

「ちきしょう、高藤のやつ、おれの知らないことを何回も経験しやがって」

「女っておっかないよなあ」
「楽あれば苦あり。ちったあ苦しまなくちゃ、不公平ってもんだ」
「童貞のひがみか」
「よく言ってくれるよ」

また、裕一は女子大生の町野由香が好きで、何度もアプローチするが、かわされ続ける。このシーンがめちゃくちゃ多い!

(町野さんになら、おれ、喜んで童貞を捧げるんだけどな)
それだけに由香の男性関係が気がかりだった。

(これで町野さんがキスさせてくれれば、願ったり叶ったりなんだけどな)
それをせがむ勇気のないことを嘆きながら、裕一は、そっと由香の赤い唇を盗みみて吐息した。

(町野さんはベロベロに酔えば、アパートに帰る途中、ひょっとして、おれにキスさせてくれるかも)
裕一の期待に反して、由香は少しも酔態を見せない。
「もっと、わたしを酔わせたいのね。目は心の窓、きみの目には、いやらしい魂胆がぎらついているわよ」

こんなもんじゃない。これの百倍ほど、冗談にまぎらせてアタックしたり、些細なことでドキマギするシーンが連発する。
あと、愉快だったのは、梶田裕一が歯に衣きせぬ女にズバリと言われるシーン。

「そう、きみが軽井沢の別荘に誘ったのは、この梶田さんだったのね」
「ウン」
「遠山さんを誘わなくて、よかったわ。彼女は面食いだから、梶田さんにがっかりして、わたしに文句つけるもの」
村井順子は、あざけりの表情で裕一を見やるのだ。遠山とは、彼女の短大のクラスメートのことらしい。

キャー、こんなこと言われたら、一生のトラウマだ!
あれ?誘拐未遂と殺人事件はどうなったのか?
やたら人が死にまくって事件は落着するが、裕一は女子大生の手を握ることができて、有頂天なのである。

< 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 >

 

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索