樹下太郎の『散歩する霊柩車』を読んだ。1960年。
装幀は真鍋博。5つの短編小説が載っている。順にネタバレ。
「夜空に船が浮かぶとき」
サロン夜の船のネオン看板。汽船が航行、翼ある天使が波間に浮かぶ、店名、という順で繰り返されるが、そのネオンが突然動かなくなった。
それを見た竜一は青ざめた。
彼は逢い引きのために喫茶店マリーによく来ており、ネオンサインを眺めるのが好きだった。そして知ったのだ。サロン夜の船のネオンが止まってしまった翌朝、必ず石神井川で水死人が発見されるのである。
この小説のミソは、章が変わるたびに、語り手(視点)が変わることだ。短編なのに14の章があるので、注意深く読んでいないと、今、誰の視点で物語が語られているのかとまどってしまう。(と、書いているということは、ぼく自身途中で「あれ、今しゃべってるのは誰?」と感じたってことだ。うかつな読者ですみません)
ネオンの船が止まったのは何かの啓示なのか、それとも合図なのか。
真相は軍隊時代の出来事に端を発していた。
戦争中、殴られたために鼓膜が破れ、聴覚を失った男が、殴った上官に復讐しようとした。
その男を愛して、共に暮らすために金を得ようとした女の欲とが重なって、事件は連続性を帯びたのだ。女は、ツンボの男への合図として、ネオンを止めたりしたのである。
「散歩する霊柩車」
妻が自殺した。
夫は、死体を乗せた霊柩車で、死の原因となった不貞の相手候補を一軒一軒まわっていく。
なるほど、この作品は非常にわかりやすくて、樹下太郎の代表作とされているのもうなずける。
夫婦あるところ、必ず不倫あり。
そして、裏には金と愛欲がからんだ別の真相がある。
「ねじれた吸殻」
妻が他の男と逢い引きしていると密告があった。
嫉妬にかられて確認に行くと、確かに妻が男とホテルから出てくる現場を目撃してしまう。
帰宅して問いつめるが、妻はのらりくらり。
その後、妻は飛び下り自殺し、夫への恨みつらみが書かれた遺書が発見される。
夫は、死んだ妻の愛人が誰であったのかを、激しい嫉妬とともに捜索しはじめる。
いや〜、この話も男中心の世の中で起こった悲劇でしたな〜。
女が一矢報いたのをそのまま報いたままで終わらせてあげてもよかったのに、とも思わないではないが、どこまでも勝手な男が女の策略に結局負けてしまっているラストでもある。
「悪魔の掌の上で」
4つの章立てがしてある。
御堂信吉(くみ子のために会社の金に手をつける)
山内平太郎(生活力のない夫)
山内くみ子(信吉には、夫を殺してその後別の土地で暮らそう、と持ちかける。平太郎には、大金をまきあげた後に信吉を自殺に見せかけて殺してしまおう、と持ちかける。2人とも殺そうとしていたのだ)
二通の遺書(信吉はあっさり死んでしまうが、生命保険のことで疑問を抱いた夫、平太郎は妻の陰謀に気づいていた。だが、妻に見捨てられた事実に絶望して、妻を愛する平太郎は、自宅に戻って自殺する)
と、まあ、恐ろしい女が描かれているように思えるが、実はこういう極端な行動に走らねば突破口がない女、つまりは男中心の社会を描いている、ととれなくもない。
夫の愛情に最後、涙してしまう妻の姿は、彼女が冷酷な殺人鬼などではなく、この社会を生き抜いていく普通の女であることを証しているようだ。
「泪ぐむ埴輪」
戦死した夫のあとを追うかのように、残された未亡人は服毒自殺した。
靖国の妻、殉死ととりあげる世間。
軍国美談とされたエピソードに仕立て上げられたが、自殺に疑問を抱いた人物もいた。
真相は、この一見意味不明のタイトルに隠されていた。
戦争に出るとき、もしも自分が戦死したら、このウィスキーを飲んで偲んでくれ、と夫は毒入りのウィスキーを渡していたのだ。彼は妻を死なせることで、彼女の貞節を強要したのだ。
彼女はせいいっぱいの抗議の泪を浮かべながら葬られていった美しい埴輪だったのだ。
あとがきに、樹下太郎はこう書いている。
「どの作品にもつきまとっている記憶は、書きあげた瞬間のやりきれないむなしさである。これではたして推理小説になっているのか−。だが、後悔と反省をわたしはあまり好きではない。これからも絶えず、次作こそ!といいつづけてゆくことだろう」
樹下太郎の最初期の作品から、既に、ミステリー要素が濃密ではなかったことを自戒している貴重な発言だ。読んだかぎりでは、じゅうぶんにミステリーだと思えるのだが。
また、「自分だけのための2坪の板の間がほしい」という念願から、『週刊朝日』の探偵小説募集(『宝石』と共催)の社告を見て、「悪魔の掌の上で」を書いた、と経緯が書かれている。作家としてのスタートだ。2坪の自分のスペース、という願望が、なんだか泣けてくる。
装幀は真鍋博。5つの短編小説が載っている。順にネタバレ。
「夜空に船が浮かぶとき」
サロン夜の船のネオン看板。汽船が航行、翼ある天使が波間に浮かぶ、店名、という順で繰り返されるが、そのネオンが突然動かなくなった。
それを見た竜一は青ざめた。
彼は逢い引きのために喫茶店マリーによく来ており、ネオンサインを眺めるのが好きだった。そして知ったのだ。サロン夜の船のネオンが止まってしまった翌朝、必ず石神井川で水死人が発見されるのである。
この小説のミソは、章が変わるたびに、語り手(視点)が変わることだ。短編なのに14の章があるので、注意深く読んでいないと、今、誰の視点で物語が語られているのかとまどってしまう。(と、書いているということは、ぼく自身途中で「あれ、今しゃべってるのは誰?」と感じたってことだ。うかつな読者ですみません)
ネオンの船が止まったのは何かの啓示なのか、それとも合図なのか。
真相は軍隊時代の出来事に端を発していた。
戦争中、殴られたために鼓膜が破れ、聴覚を失った男が、殴った上官に復讐しようとした。
その男を愛して、共に暮らすために金を得ようとした女の欲とが重なって、事件は連続性を帯びたのだ。女は、ツンボの男への合図として、ネオンを止めたりしたのである。
「散歩する霊柩車」
妻が自殺した。
夫は、死体を乗せた霊柩車で、死の原因となった不貞の相手候補を一軒一軒まわっていく。
なるほど、この作品は非常にわかりやすくて、樹下太郎の代表作とされているのもうなずける。
夫婦あるところ、必ず不倫あり。
そして、裏には金と愛欲がからんだ別の真相がある。
「ねじれた吸殻」
妻が他の男と逢い引きしていると密告があった。
嫉妬にかられて確認に行くと、確かに妻が男とホテルから出てくる現場を目撃してしまう。
帰宅して問いつめるが、妻はのらりくらり。
その後、妻は飛び下り自殺し、夫への恨みつらみが書かれた遺書が発見される。
夫は、死んだ妻の愛人が誰であったのかを、激しい嫉妬とともに捜索しはじめる。
いや〜、この話も男中心の世の中で起こった悲劇でしたな〜。
女が一矢報いたのをそのまま報いたままで終わらせてあげてもよかったのに、とも思わないではないが、どこまでも勝手な男が女の策略に結局負けてしまっているラストでもある。
「悪魔の掌の上で」
4つの章立てがしてある。
御堂信吉(くみ子のために会社の金に手をつける)
山内平太郎(生活力のない夫)
山内くみ子(信吉には、夫を殺してその後別の土地で暮らそう、と持ちかける。平太郎には、大金をまきあげた後に信吉を自殺に見せかけて殺してしまおう、と持ちかける。2人とも殺そうとしていたのだ)
二通の遺書(信吉はあっさり死んでしまうが、生命保険のことで疑問を抱いた夫、平太郎は妻の陰謀に気づいていた。だが、妻に見捨てられた事実に絶望して、妻を愛する平太郎は、自宅に戻って自殺する)
と、まあ、恐ろしい女が描かれているように思えるが、実はこういう極端な行動に走らねば突破口がない女、つまりは男中心の社会を描いている、ととれなくもない。
夫の愛情に最後、涙してしまう妻の姿は、彼女が冷酷な殺人鬼などではなく、この社会を生き抜いていく普通の女であることを証しているようだ。
「泪ぐむ埴輪」
戦死した夫のあとを追うかのように、残された未亡人は服毒自殺した。
靖国の妻、殉死ととりあげる世間。
軍国美談とされたエピソードに仕立て上げられたが、自殺に疑問を抱いた人物もいた。
真相は、この一見意味不明のタイトルに隠されていた。
戦争に出るとき、もしも自分が戦死したら、このウィスキーを飲んで偲んでくれ、と夫は毒入りのウィスキーを渡していたのだ。彼は妻を死なせることで、彼女の貞節を強要したのだ。
彼女はせいいっぱいの抗議の泪を浮かべながら葬られていった美しい埴輪だったのだ。
あとがきに、樹下太郎はこう書いている。
「どの作品にもつきまとっている記憶は、書きあげた瞬間のやりきれないむなしさである。これではたして推理小説になっているのか−。だが、後悔と反省をわたしはあまり好きではない。これからも絶えず、次作こそ!といいつづけてゆくことだろう」
樹下太郎の最初期の作品から、既に、ミステリー要素が濃密ではなかったことを自戒している貴重な発言だ。読んだかぎりでは、じゅうぶんにミステリーだと思えるのだが。
また、「自分だけのための2坪の板の間がほしい」という念願から、『週刊朝日』の探偵小説募集(『宝石』と共催)の社告を見て、「悪魔の掌の上で」を書いた、と経緯が書かれている。作家としてのスタートだ。2坪の自分のスペース、という願望が、なんだか泣けてくる。
「ザ・コーヴ」「不戦勝」
2010年7月12日 映画今日も雨が降ったりやんだりの天気だったが、今月18日味園ビル「白鯨」での映像イベント「眼ノ毒」のために、東瀬戸くんに会ったり、丼野M美の病院に行ったりしているうちは、やんでいてラッキー。
ルイ・シホヨス監督の「ザ・コーヴ」を見た。第82回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞受賞。十三の第七藝術劇場。
反対運動や妨害があって、東京などでは上映をとりやめた館もある、といういわくつきの映画で、その盛り上がりから、勝手に、これは反捕鯨を訴える映画なのかな、と勘違いしていた。
マスコミが騒いで、映画を見る前に、いろんな人の意見、コメントを知る機会があったためにそんな思い込みをしてしまったのだ。そして、多くのコメントが、映画を見ずになされたものであることもよくわかった。
和歌山県太地町で行なわれているイルカ漁が主題。
イルカを音によって入江に追い込んで、水族館行きのイルカをチョイス(これが相当な儲けになる)した後、イルカを銛のようなもので突いて皆殺しにし、食用に回す。
イルカ肉は鯨肉として売られる。
で、イルカを屠殺するシーンは、特に残虐なものではなく、牛や豚の屠殺と比べても、むしろソフトな映像になっている。この映画のイルカ屠殺シーンで目を覆う人は、今まで潔癖な映画しか見てこなかったというだけだろう。
問題は、この食用のイルカ肉が、鯨肉として販売されており、イルカ肉には水銀が多量に含まれている、ということなのだ。そして、その事実が肉を食べる日本人にはほとんど知らされていない、ということだ。
映画は、「わんぱくフリッパー」の調教師、俳優のリック・オバリーが、和歌山の入江でのイルカ屠殺の現場をなんとか見ようとする記録である。
太地町では、立ち入り禁止区域を作って、外国人がその現場を目撃しないように、また、写真などにおさめないように、強硬にガードしている。暴力的とも言えるほどだ。日中は常に尾行がつき、夜中にも入江付近の警戒を怠らない。そこまでされたら、逆に見たくなるのが人情ってもんじゃないか。(先に書いたように、そこでは単に食用にするイルカの屠殺が行なわれているだけなのだから、なぜ太地町がそれを隠そうとしているのか、まったく理解に苦しむ。さらに裏があるってことなのか?)
リック・オバリーは、各分野のプロフェッショナルを結集して、入江で行なわれていることを映像に記録しようとする。
このあたり、まるでスパイ冒険映画を見るようで、実にワクワクする。
映画の特撮スタッフに岩に似せた隠しカメラつきの贋岩石をいくつも作らせ、最先端のマシンと、潜水のエキスパートなどを使って、作戦を実行する。
ただ、映画では、イルカは人間よりも高い知性をもっているかもしれない、とか、イルカを飼育することそのものの批判とか、痛みなしでイルカを殺すナイフを使っているという発言が映像によって裏切られていたり、日本が経済援助によって捕鯨賛成の国を拡大しつつあるとか、入江から逃げ出してきたイルカが血まみれで死ぬシーンがあったり、まあ、そういう一連の映像が、日本が悪者だというようなイメージを惹起していることは間違いない。だが、さっきも書いたように、問題は、隠されたイルカ漁による隠されたデータなのだ。つまり、外国人が日本についてどう思ってるか云々よりも、われわれの問題なのだ。
一方、必ずイルカ肉に水銀が多量に含まれているわけではないとか、この程度の水銀なら人体に影響がないとか、イルカ肉を鯨肉として販売している事実は認められていない、などの注釈もあって、何が本当なのか、さっぱりわからなくなってしまうのである。
とりあえず、この映画の上映を阻止する理由は何もないように思えた。
ひょっとして、反対運動も宣伝のためだったのか、と疑うほどである。
シネ・ヌーヴォのレイトショーでイエジー・スコリモフスキ監督の「不戦勝」1965年。
主人公アンジェイは監督自身が演じているそうだ。
ラジオと腕時計くらいしか手持ちの財産がない主人公は、アマチュアのボクサーとしてかろうじて生計をたてている。
そういう不安定な生き方がえんえんと描かれる。
途中、列車に乗った主人公と、それを盗んだバイクで追い掛ける男がひとつの画面におさまっているシーンは、よくぞ撮影したな、というような長回しで驚いた。ついにはスピードをあげて走る列車から主人公は飛び下りるのである。
また、食事をとっていると、誰かれかまわずたかってくるミエチュという男の言葉がすごく面白かった。
「地球は丸いというけど、靴の底はどっち側が減って行く?」
意味不明だが、含蓄のありそうな言葉だ!
主人公は「殴られるために」決勝戦に出るが、相手が棄権して、不戦勝になる。
その賞品は、一文無しの主人公によってすぐに金にかえられたり、ミエチュがくすねたりして、なくなってしまう。
わざと試合を棄権した相手がそのことを知ると、主人公は念願どおり、殴られてしまうのである。
この映画でも、映像と音の鮮烈さは目をみはるものだった。
ルイ・シホヨス監督の「ザ・コーヴ」を見た。第82回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞受賞。十三の第七藝術劇場。
反対運動や妨害があって、東京などでは上映をとりやめた館もある、といういわくつきの映画で、その盛り上がりから、勝手に、これは反捕鯨を訴える映画なのかな、と勘違いしていた。
マスコミが騒いで、映画を見る前に、いろんな人の意見、コメントを知る機会があったためにそんな思い込みをしてしまったのだ。そして、多くのコメントが、映画を見ずになされたものであることもよくわかった。
和歌山県太地町で行なわれているイルカ漁が主題。
イルカを音によって入江に追い込んで、水族館行きのイルカをチョイス(これが相当な儲けになる)した後、イルカを銛のようなもので突いて皆殺しにし、食用に回す。
イルカ肉は鯨肉として売られる。
で、イルカを屠殺するシーンは、特に残虐なものではなく、牛や豚の屠殺と比べても、むしろソフトな映像になっている。この映画のイルカ屠殺シーンで目を覆う人は、今まで潔癖な映画しか見てこなかったというだけだろう。
問題は、この食用のイルカ肉が、鯨肉として販売されており、イルカ肉には水銀が多量に含まれている、ということなのだ。そして、その事実が肉を食べる日本人にはほとんど知らされていない、ということだ。
映画は、「わんぱくフリッパー」の調教師、俳優のリック・オバリーが、和歌山の入江でのイルカ屠殺の現場をなんとか見ようとする記録である。
太地町では、立ち入り禁止区域を作って、外国人がその現場を目撃しないように、また、写真などにおさめないように、強硬にガードしている。暴力的とも言えるほどだ。日中は常に尾行がつき、夜中にも入江付近の警戒を怠らない。そこまでされたら、逆に見たくなるのが人情ってもんじゃないか。(先に書いたように、そこでは単に食用にするイルカの屠殺が行なわれているだけなのだから、なぜ太地町がそれを隠そうとしているのか、まったく理解に苦しむ。さらに裏があるってことなのか?)
リック・オバリーは、各分野のプロフェッショナルを結集して、入江で行なわれていることを映像に記録しようとする。
このあたり、まるでスパイ冒険映画を見るようで、実にワクワクする。
映画の特撮スタッフに岩に似せた隠しカメラつきの贋岩石をいくつも作らせ、最先端のマシンと、潜水のエキスパートなどを使って、作戦を実行する。
ただ、映画では、イルカは人間よりも高い知性をもっているかもしれない、とか、イルカを飼育することそのものの批判とか、痛みなしでイルカを殺すナイフを使っているという発言が映像によって裏切られていたり、日本が経済援助によって捕鯨賛成の国を拡大しつつあるとか、入江から逃げ出してきたイルカが血まみれで死ぬシーンがあったり、まあ、そういう一連の映像が、日本が悪者だというようなイメージを惹起していることは間違いない。だが、さっきも書いたように、問題は、隠されたイルカ漁による隠されたデータなのだ。つまり、外国人が日本についてどう思ってるか云々よりも、われわれの問題なのだ。
一方、必ずイルカ肉に水銀が多量に含まれているわけではないとか、この程度の水銀なら人体に影響がないとか、イルカ肉を鯨肉として販売している事実は認められていない、などの注釈もあって、何が本当なのか、さっぱりわからなくなってしまうのである。
とりあえず、この映画の上映を阻止する理由は何もないように思えた。
ひょっとして、反対運動も宣伝のためだったのか、と疑うほどである。
シネ・ヌーヴォのレイトショーでイエジー・スコリモフスキ監督の「不戦勝」1965年。
主人公アンジェイは監督自身が演じているそうだ。
ラジオと腕時計くらいしか手持ちの財産がない主人公は、アマチュアのボクサーとしてかろうじて生計をたてている。
そういう不安定な生き方がえんえんと描かれる。
途中、列車に乗った主人公と、それを盗んだバイクで追い掛ける男がひとつの画面におさまっているシーンは、よくぞ撮影したな、というような長回しで驚いた。ついにはスピードをあげて走る列車から主人公は飛び下りるのである。
また、食事をとっていると、誰かれかまわずたかってくるミエチュという男の言葉がすごく面白かった。
「地球は丸いというけど、靴の底はどっち側が減って行く?」
意味不明だが、含蓄のありそうな言葉だ!
主人公は「殴られるために」決勝戦に出るが、相手が棄権して、不戦勝になる。
その賞品は、一文無しの主人公によってすぐに金にかえられたり、ミエチュがくすねたりして、なくなってしまう。
わざと試合を棄権した相手がそのことを知ると、主人公は念願どおり、殴られてしまうのである。
この映画でも、映像と音の鮮烈さは目をみはるものだった。
「女性の勝利」「村八分」
2010年7月11日 映画今日は、参議院の選挙だったので、雨が降っていたが投票に出かけ、その足で、今日も膝の手術で入院中の丼野M美のお見舞いに行く。身体が弱って入院したわけではないのだが、もとより病人や幽霊がよく似合う蒲柳の質なので、病室にいるのがピッタリとマッチしている。ひとしきり笑かして帰る。
溝口健二監督の「女性の勝利」を見た。1946年。
脚本は野田高梧、新藤兼人。
主演は田中絹代。
田中絹代は弁護士を演じている。田中絹代には愛する人がいたが、戦時中に政治犯として5年間投獄されていた。戦後、立つこともできないボロボロな身体で、やっとのことで釈放された。彼を投獄した検事の妻は、田中絹代弁護士の姉だった。
つまり、姉妹の間柄でありながら、検事側と弁護士、という対立する立場にあるのだ。
そんなとき、我が子をきつく抱きしめて窒息死させてしまった女性の事件を扱うことになる。彼女は夫に死なれ、老いた母と乳児を抱えて困窮のあげく、錯乱していたのである。
姉の夫たる検事と、田中絹代弁護士のあいだで、法廷闘争が演じられる。
法にしたがって冷酷に人を裁き、社会のジャマ者を排除する、とうそぶく検事。
間違っているとわかっていても、夫には従わねばならないと信じる姉。
そんな姉に対し、「お姉様のような人がいるから、女はいつまでたってもダメなのよ!」と言う田中絹代。被告の女性に対しては、彼女を追い込んだのは社会だと指摘し、法は人を愛する立場に立たねばならない、と説く。
女性の権利が抑圧されていた封建的な時代のストレートなメッセージの物語だ、と単純には言えない映画だった。田中絹代が優等生的に主張するメッセージが、今なお有効であるように思えるからだ。
今泉善珠監督の「村八分」を見た。1953年。
参議院選挙で「棄権防止」と称して農民たちのもつ選挙の入場券を集めて同じ人間に何度も投票させる不正な投票を行なう村の権力者たち。
不正に黙っていられない女学生は、新聞社にその件を投書する。前回の選挙でも同様の不正が行なわれており、そのことについて書いた文が載った文集は、回収して焼き捨てられており、もはやマスコミの力を借りるしか手がなかったのだ。
正義感にかられて投書した娘に中原早苗。彼女を支持する女教師に乙羽信子(やることが後手後手になっていた感はあったが)。記者は山村聰。娘のやった正しい事を正当に評価できず苛つく父は藤原釜足。
結局、マスコミの力によって、事は大きくなり、村八分にされた家への応援の手紙も多数届くようになる。孤立無援に思えても、味方はいっぱいいたのだ。
マスコミがこんな風に作用するのなら、歓迎だ。
しかし、それまでの村八分にあっているときの閉塞感はまさに息苦しく、伊福部昭の音楽が圧倒的な力で迫ってくる。
最終的に村びとや権力者たちが改心するとか糾弾されるとかいうより、若い世代が村八分を覆すパワーを見せつけて映画は終わる。まさしく、このようなことは当時日本全国で起こりえたことであり、問題は簡単に解決しないのだ。で、今もなお、このメッセージは有効なのだ。
参議院選挙の日に、この映画を見れたのは、実にタイミングがいい。
しかし、選挙の結果を見て、ちょっと失望した。
みんな、テレビとかネットの言うことを鵜のみにしすぎてるんじゃないのか?
NHK-FM「現代の音楽」
猿谷紀郎
− 21世紀音楽の会 10周年記念
室内オーケストラの夕べから −(2)
「室内協奏曲 第3番“リリエーヴォ”(2010)」
安良岡章夫・作曲
(11分55秒)
(アンサンブル)アール・レスピラン
(指揮)安良岡章夫
「室内小協奏曲(2009〜2010)」 野田暉行・作曲
(17分15秒)
(アンサンブル)アール・レスピラン
(指揮)野田暉行
〜東京文化会館で収録〜
<2010/5/18>
(カメラータ・トウキョウ提供)
「バイオリンとピアノのための プロジェクシオン(1984)」
安良岡章夫・作曲
(14分16秒)
(バイオリン)中村静香
(ピアノ)秦はるひ
<FONTEC FPCD−1084>
溝口健二監督の「女性の勝利」を見た。1946年。
脚本は野田高梧、新藤兼人。
主演は田中絹代。
田中絹代は弁護士を演じている。田中絹代には愛する人がいたが、戦時中に政治犯として5年間投獄されていた。戦後、立つこともできないボロボロな身体で、やっとのことで釈放された。彼を投獄した検事の妻は、田中絹代弁護士の姉だった。
つまり、姉妹の間柄でありながら、検事側と弁護士、という対立する立場にあるのだ。
そんなとき、我が子をきつく抱きしめて窒息死させてしまった女性の事件を扱うことになる。彼女は夫に死なれ、老いた母と乳児を抱えて困窮のあげく、錯乱していたのである。
姉の夫たる検事と、田中絹代弁護士のあいだで、法廷闘争が演じられる。
法にしたがって冷酷に人を裁き、社会のジャマ者を排除する、とうそぶく検事。
間違っているとわかっていても、夫には従わねばならないと信じる姉。
そんな姉に対し、「お姉様のような人がいるから、女はいつまでたってもダメなのよ!」と言う田中絹代。被告の女性に対しては、彼女を追い込んだのは社会だと指摘し、法は人を愛する立場に立たねばならない、と説く。
女性の権利が抑圧されていた封建的な時代のストレートなメッセージの物語だ、と単純には言えない映画だった。田中絹代が優等生的に主張するメッセージが、今なお有効であるように思えるからだ。
今泉善珠監督の「村八分」を見た。1953年。
参議院選挙で「棄権防止」と称して農民たちのもつ選挙の入場券を集めて同じ人間に何度も投票させる不正な投票を行なう村の権力者たち。
不正に黙っていられない女学生は、新聞社にその件を投書する。前回の選挙でも同様の不正が行なわれており、そのことについて書いた文が載った文集は、回収して焼き捨てられており、もはやマスコミの力を借りるしか手がなかったのだ。
正義感にかられて投書した娘に中原早苗。彼女を支持する女教師に乙羽信子(やることが後手後手になっていた感はあったが)。記者は山村聰。娘のやった正しい事を正当に評価できず苛つく父は藤原釜足。
結局、マスコミの力によって、事は大きくなり、村八分にされた家への応援の手紙も多数届くようになる。孤立無援に思えても、味方はいっぱいいたのだ。
マスコミがこんな風に作用するのなら、歓迎だ。
しかし、それまでの村八分にあっているときの閉塞感はまさに息苦しく、伊福部昭の音楽が圧倒的な力で迫ってくる。
最終的に村びとや権力者たちが改心するとか糾弾されるとかいうより、若い世代が村八分を覆すパワーを見せつけて映画は終わる。まさしく、このようなことは当時日本全国で起こりえたことであり、問題は簡単に解決しないのだ。で、今もなお、このメッセージは有効なのだ。
参議院選挙の日に、この映画を見れたのは、実にタイミングがいい。
しかし、選挙の結果を見て、ちょっと失望した。
みんな、テレビとかネットの言うことを鵜のみにしすぎてるんじゃないのか?
NHK-FM「現代の音楽」
猿谷紀郎
− 21世紀音楽の会 10周年記念
室内オーケストラの夕べから −(2)
「室内協奏曲 第3番“リリエーヴォ”(2010)」
安良岡章夫・作曲
(11分55秒)
(アンサンブル)アール・レスピラン
(指揮)安良岡章夫
「室内小協奏曲(2009〜2010)」 野田暉行・作曲
(17分15秒)
(アンサンブル)アール・レスピラン
(指揮)野田暉行
〜東京文化会館で収録〜
<2010/5/18>
(カメラータ・トウキョウ提供)
「バイオリンとピアノのための プロジェクシオン(1984)」
安良岡章夫・作曲
(14分16秒)
(バイオリン)中村静香
(ピアノ)秦はるひ
<FONTEC FPCD−1084>
同志社大学でクレリアー・ゼルニック博士による講演「メルロ・ポンティと映画−装置に関する認識論的アプローチと芸術的アプローチ−」
クレリアー・ゼルニック博士(Clelia Zernik)はパリ第4大学で哲学、ナンシー国立高等美術学校で映画美学を講じている。
発表はフランス語でされたが、日本語の通訳もあり、論旨を追いかけるのに問題はなかった。哲学も映画も門外漢の僕ではあるが、どんな話をされていたのか、ちょっと書いてみよう。(間違いだらけだと思うが、各自、自分で修正してください)
ゼルニック博士は、まず、20世紀前半の哲学が映画を取扱った手つきを概観する。ベルクソンは自らの主張する運動の引き立て役として映画を扱い、ハイデガーは日常の世界のもとでの存在が可能にする開けから映画は程遠いと非難する。フッサールとサルトルに至っては、映画に関する言及すらない。ベンヤミンひとりが映画の現象に注意深い考察を与えていた。
では、メルロ・ポンティはどうか。
メルロ・ポンティが映画について考察した3つの記録をたどってみる。
1、「映画と新しい心理学」(『意味と無意味』所収)
ここで博士は、メルロ・ポンティがなぜ映画と「現象学」でなく「新しい心理学」(ゲシュタルト心理学)なのかを問題にする。それは映画による知覚と、日常の知覚との違いに起因するもので、すなわち、日常の知覚にある「ぶれ」が映画では削ぎ落とされているからなのである。
日常の知覚と映画の知覚の違いは大きく3つ。
日常の知覚では知覚的領野は地平の展開という背景に刻み込まれるがゆえに無限である。
一方、映画のフレームは地平の可能性を否定して、スクリーンに閉じ込める。
日常、われわれは身体によって世界に参入しているが、映画においては、参入できない。
映画においては、日常の知覚の交叉配列(キアスム)が破棄されており、それによってぶれとにじみのあらゆる効果は消えている。
と、まあ、そういうわけで、日常の知覚を考えるときには現象学が役立つが、映画の知覚を説明するにはゲシュタルト心理学が向いている、ということなのだ。
こうした「ぶれ」のない映画の一例として、小津安二郎の「秋刀魚の味」のラストシーンが流される。式後、笠智衆がトリスバーで軍艦マーチ聞いて、娘のいなくなった家に帰宅するシーン。
なお、このメルロ・ポンティの論文は1947年に『レ・タン・モデルヌ』に掲載されており、ゼルニック博士がレクチャーで1945年であらわしているのは『知覚の現象学』のことだと思うのだが、話を聞いてて、どうもこの2つがごっちゃになってしまって、とまどった。
2、「ラジオでの話」1948年。
ここでは知覚的リズムが力説される。絵画的というよりも音楽的な文体の力説で、主観−客観の分離をちゃらにする。その結果、知覚的ぶれと私の身体の世界への参入を再導入する現象学的映画の可能性を語っていることになる。
3、「コレージュ・ド・フランス講義」1952年。(『言語と自然』)
フィルムは客観的な運動から主観的なものへと滑り落ち、表象から現前への移行が行なわれるに至る。博士はここでイタリアのネオレアリズモやフランスのヌーヴェル・ヴァーグといった画期的な映画の登場が、二元論的な映画の装置を越えたことをあらわしているんじゃないか、と言ってた。
主観、客観にも属さぬ映画の一例として、黒澤明監督の「野良犬」の一部が流された。
メインタイトルの犬がハッハッと息を切らしているシーンと、復員兵の三船敏郎が炎天下を憔悴して歩き、行き交う足のショットと大衆的で猥雑な音楽や声が途切れなく発せられるシーン。
つまりは、小津と黒澤で代表した2つの映画の美学は相互補完的なもので、小津の場合は経験的心理学の恩恵を受け、主客の二元論を越える黒澤映画は現象学的分析を喚起するのである。(「野良犬」1949年で「秋刀魚の味」1962年だからここで流れた作品だけで言えば小津の方が新しい映画になるわけだけど)
まあ、こんな雰囲気の内容だったかな。
質疑応答もされた。
「ぶれ」について。小津と黒澤の評価について。(このあたりは講義内容の再確認に終わる)
「映画と新しい心理学」で既にメルロ・ポンティは現象学における映画の可能性を積極的に示唆しているのではないか、といった質問。
(メルロ・ポンティ自身のゲシュタルト心理学への評価の変遷、思想の変遷によって、最初の論文の段階ではまだ積極的でなかった、と答えていたような!よくわからん)
映画を見る立場でなく、撮影する際においては、日常的知覚の「ぶれ」も映し込んでしまうと思われるが、それについては、どう考えるか。
(これについては、ちょっと刺激を受けた。CGやアニメーション映画においては、現象学的分析が成立するんだろうか、とちらっと考えたからで、肝心の博士の回答はちゃんと聞けなかった。質問はこの人のが最後だったので、聞けず。残念)
博士が黒澤映画について言った「フィルムは表象の場所ではなく、場所、あるいはむしろ場所なき場所、体験のあるいは現前の経験の場所である」という発言や「フィルムは、もはや観客と向き合っているのではなくて、リズムと特殊な感覚において、肉的なそして生理的な、触覚的で運動感覚的なフィルムの次元において観客を包括する」という発言が、西田幾多郎の思想を想起させた、という発言。
フランス語からの通訳、というのがどうにも隔靴掻痒で、こんなことなら、哲学やフランス語をもっと勉強しておくべきだった、と反省した。通訳の人が「交叉配列」を「キアスマ」と言ってるように聞えて、これだと「交差」なんじゃないかな、とどうでもいいことに気をとられたりした。
ゼルニック博士は現在日本に滞在中で、先月15日には東京大学で「ブレッソンの映画における偶然とコントロール」と題するレクチャーがあった。また、今月23日には東京大学で「Perception-cinema Les enjeux stylistiques d’un dispositif」と題するレクチャーもある。これ、フランス語で通訳なしらしい。
シネ・ヌーヴォのレイトショーでイエジー・スコリモフスキー監督の「バリエラ」を見た。1966年。これ、めちゃくちゃ面白かった。最近、まったく映画を見ていなかったせいか、映画の醍醐味みたいなものを久々に味わうことができた。
「バリエラ」は「障壁」という意味。前衛的なモノクロ映画。実験的というより、象徴的なシーンが連発する。(ほとんど即興で作られたらしい)
冒頭、男たちが、電気のコードで後ろ手にくくられ、前のめりになって落下するシーンが連続する。まるで突き落とされたかのように、男たちが落ちた後の空間には両手のレントゲン写真が貼られている。これは何だ?と思ってたら、男たちは四人の相部屋におり、机の上に乗って、人体解剖模型にセットしたマッチ箱を落ちずにくわえるゲームをしていたのだとわかる。マッチ箱をうまく口にくわえることができた主人公は、豚の貯金箱をゲットし、トランクを携えてこの部屋を出て行くのである。
ヒロインは、夜行の路面電車を運転する女性。
2人は運命的に出会い、ということは、まあ、お互いに惹かれたってことで、一見ラブストーリー的な物語になる。でも、普通のストーリーが展開するのではなく、何かの隠喩のようなシーンが次々と起こる。
献血に行って、老人たちの行列にあったり。
男の悲鳴がときおり聞えてきて、「隣が歯医者なの」と種あかしがあったり。
妖艶な女に入浴を強要され、サーベルをもらったり。
ポスターをお面としてかぶり、サーベル片手にトランクにまたがってスキーのジャンプ台から飛んでズタボロになったり。
負け組(?)の新聞売りが、新聞を折って帽子としてかぶる一瞬のブームで完売したり。
そして、ダンスホールが新聞帽子の人々で埋め尽くされてダンスしたり。
煙草や足蹴にした男の体が、不意に爆発したり。
つじつま合わせのようなせりふが主人公から吐かれ、常識的な物語のおとしどころに入りそうになると、ヒロインはそれを「ロマンティック」だと鼻で笑う。なかなか、それらしい解釈に簡単には落ち着かせてくれない。うむ。これが映画だ。
クレリアー・ゼルニック博士(Clelia Zernik)はパリ第4大学で哲学、ナンシー国立高等美術学校で映画美学を講じている。
発表はフランス語でされたが、日本語の通訳もあり、論旨を追いかけるのに問題はなかった。哲学も映画も門外漢の僕ではあるが、どんな話をされていたのか、ちょっと書いてみよう。(間違いだらけだと思うが、各自、自分で修正してください)
ゼルニック博士は、まず、20世紀前半の哲学が映画を取扱った手つきを概観する。ベルクソンは自らの主張する運動の引き立て役として映画を扱い、ハイデガーは日常の世界のもとでの存在が可能にする開けから映画は程遠いと非難する。フッサールとサルトルに至っては、映画に関する言及すらない。ベンヤミンひとりが映画の現象に注意深い考察を与えていた。
では、メルロ・ポンティはどうか。
メルロ・ポンティが映画について考察した3つの記録をたどってみる。
1、「映画と新しい心理学」(『意味と無意味』所収)
ここで博士は、メルロ・ポンティがなぜ映画と「現象学」でなく「新しい心理学」(ゲシュタルト心理学)なのかを問題にする。それは映画による知覚と、日常の知覚との違いに起因するもので、すなわち、日常の知覚にある「ぶれ」が映画では削ぎ落とされているからなのである。
日常の知覚と映画の知覚の違いは大きく3つ。
日常の知覚では知覚的領野は地平の展開という背景に刻み込まれるがゆえに無限である。
一方、映画のフレームは地平の可能性を否定して、スクリーンに閉じ込める。
日常、われわれは身体によって世界に参入しているが、映画においては、参入できない。
映画においては、日常の知覚の交叉配列(キアスム)が破棄されており、それによってぶれとにじみのあらゆる効果は消えている。
と、まあ、そういうわけで、日常の知覚を考えるときには現象学が役立つが、映画の知覚を説明するにはゲシュタルト心理学が向いている、ということなのだ。
こうした「ぶれ」のない映画の一例として、小津安二郎の「秋刀魚の味」のラストシーンが流される。式後、笠智衆がトリスバーで軍艦マーチ聞いて、娘のいなくなった家に帰宅するシーン。
なお、このメルロ・ポンティの論文は1947年に『レ・タン・モデルヌ』に掲載されており、ゼルニック博士がレクチャーで1945年であらわしているのは『知覚の現象学』のことだと思うのだが、話を聞いてて、どうもこの2つがごっちゃになってしまって、とまどった。
2、「ラジオでの話」1948年。
ここでは知覚的リズムが力説される。絵画的というよりも音楽的な文体の力説で、主観−客観の分離をちゃらにする。その結果、知覚的ぶれと私の身体の世界への参入を再導入する現象学的映画の可能性を語っていることになる。
3、「コレージュ・ド・フランス講義」1952年。(『言語と自然』)
フィルムは客観的な運動から主観的なものへと滑り落ち、表象から現前への移行が行なわれるに至る。博士はここでイタリアのネオレアリズモやフランスのヌーヴェル・ヴァーグといった画期的な映画の登場が、二元論的な映画の装置を越えたことをあらわしているんじゃないか、と言ってた。
主観、客観にも属さぬ映画の一例として、黒澤明監督の「野良犬」の一部が流された。
メインタイトルの犬がハッハッと息を切らしているシーンと、復員兵の三船敏郎が炎天下を憔悴して歩き、行き交う足のショットと大衆的で猥雑な音楽や声が途切れなく発せられるシーン。
つまりは、小津と黒澤で代表した2つの映画の美学は相互補完的なもので、小津の場合は経験的心理学の恩恵を受け、主客の二元論を越える黒澤映画は現象学的分析を喚起するのである。(「野良犬」1949年で「秋刀魚の味」1962年だからここで流れた作品だけで言えば小津の方が新しい映画になるわけだけど)
まあ、こんな雰囲気の内容だったかな。
質疑応答もされた。
「ぶれ」について。小津と黒澤の評価について。(このあたりは講義内容の再確認に終わる)
「映画と新しい心理学」で既にメルロ・ポンティは現象学における映画の可能性を積極的に示唆しているのではないか、といった質問。
(メルロ・ポンティ自身のゲシュタルト心理学への評価の変遷、思想の変遷によって、最初の論文の段階ではまだ積極的でなかった、と答えていたような!よくわからん)
映画を見る立場でなく、撮影する際においては、日常的知覚の「ぶれ」も映し込んでしまうと思われるが、それについては、どう考えるか。
(これについては、ちょっと刺激を受けた。CGやアニメーション映画においては、現象学的分析が成立するんだろうか、とちらっと考えたからで、肝心の博士の回答はちゃんと聞けなかった。質問はこの人のが最後だったので、聞けず。残念)
博士が黒澤映画について言った「フィルムは表象の場所ではなく、場所、あるいはむしろ場所なき場所、体験のあるいは現前の経験の場所である」という発言や「フィルムは、もはや観客と向き合っているのではなくて、リズムと特殊な感覚において、肉的なそして生理的な、触覚的で運動感覚的なフィルムの次元において観客を包括する」という発言が、西田幾多郎の思想を想起させた、という発言。
フランス語からの通訳、というのがどうにも隔靴掻痒で、こんなことなら、哲学やフランス語をもっと勉強しておくべきだった、と反省した。通訳の人が「交叉配列」を「キアスマ」と言ってるように聞えて、これだと「交差」なんじゃないかな、とどうでもいいことに気をとられたりした。
ゼルニック博士は現在日本に滞在中で、先月15日には東京大学で「ブレッソンの映画における偶然とコントロール」と題するレクチャーがあった。また、今月23日には東京大学で「Perception-cinema Les enjeux stylistiques d’un dispositif」と題するレクチャーもある。これ、フランス語で通訳なしらしい。
シネ・ヌーヴォのレイトショーでイエジー・スコリモフスキー監督の「バリエラ」を見た。1966年。これ、めちゃくちゃ面白かった。最近、まったく映画を見ていなかったせいか、映画の醍醐味みたいなものを久々に味わうことができた。
「バリエラ」は「障壁」という意味。前衛的なモノクロ映画。実験的というより、象徴的なシーンが連発する。(ほとんど即興で作られたらしい)
冒頭、男たちが、電気のコードで後ろ手にくくられ、前のめりになって落下するシーンが連続する。まるで突き落とされたかのように、男たちが落ちた後の空間には両手のレントゲン写真が貼られている。これは何だ?と思ってたら、男たちは四人の相部屋におり、机の上に乗って、人体解剖模型にセットしたマッチ箱を落ちずにくわえるゲームをしていたのだとわかる。マッチ箱をうまく口にくわえることができた主人公は、豚の貯金箱をゲットし、トランクを携えてこの部屋を出て行くのである。
ヒロインは、夜行の路面電車を運転する女性。
2人は運命的に出会い、ということは、まあ、お互いに惹かれたってことで、一見ラブストーリー的な物語になる。でも、普通のストーリーが展開するのではなく、何かの隠喩のようなシーンが次々と起こる。
献血に行って、老人たちの行列にあったり。
男の悲鳴がときおり聞えてきて、「隣が歯医者なの」と種あかしがあったり。
妖艶な女に入浴を強要され、サーベルをもらったり。
ポスターをお面としてかぶり、サーベル片手にトランクにまたがってスキーのジャンプ台から飛んでズタボロになったり。
負け組(?)の新聞売りが、新聞を折って帽子としてかぶる一瞬のブームで完売したり。
そして、ダンスホールが新聞帽子の人々で埋め尽くされてダンスしたり。
煙草や足蹴にした男の体が、不意に爆発したり。
つじつま合わせのようなせりふが主人公から吐かれ、常識的な物語のおとしどころに入りそうになると、ヒロインはそれを「ロマンティック」だと鼻で笑う。なかなか、それらしい解釈に簡単には落ち着かせてくれない。うむ。これが映画だ。
『狂人館の惨劇〜大立目家の崩壊〜』
2010年7月8日 読書
左右田謙の『狂人館の惨劇〜大立目家の崩壊〜』を読んだ。1988年。
まず、目次。
プロローグ
大立目家(おおたちめけ)の人々
歌劇カルメン
猫の鳴き声
警部の尋問
謎の男
ワトスン登場
浮かぶ容疑者
受話器の陰に
野球殺人事件
密室への挑戦
霊媒の夜
暴かれた汚点
密室のからくり
過去を追って
旅路の果て
佐和子夫人の謎
峯雄の不在証明
新鬼界ガ島
殺人を結ぶ光
密室の実験
鵺の正体
業苦を負う人々
エピローグ
次に本に書いてあった内容紹介。
狂人屋敷・・・・・・連続殺人・・・・・・父子相姦・・・・・・霊媒実験・・・・・・蒸発した当主!・・・・・・そのいくつかの場面が、まるで"電光ニュース"のように、つぎつぎと近藤警部の脳裏を駆け巡った!紀伊半島の山裾がぐっと海岸線近くまで張り出した山懐に、古色蒼然たるお館があった!人呼んで"狂人館"! その館で惨劇が起こったのは、クリスマス・イブの夜であった!パーティー招待客のプロ球団『三洋セネターズ』の若きエース村山が密室内で殺害された! そして三日後、同じく球団オーナーの兵頭が殺された! すわ、プロ野球殺人事件!かとスポーツ紙は一斉に書き立てたが、事件の根は意外なところに・・・・・・!? 連続する殺人事件の中で恐るべき秘密が暴かれていく! 懐古的な魅力に溢れる書下ろしミステリー!
と、いうわけだが、これだけでは、この本のすごさはわからないだろう。
まず、この狂人屋敷、建物を設計し、建築した男が狂人だったから、この名で呼ばれるようになった。
屋敷の周囲に濠を巡らし、出入り口は架橋。ガラス張りの物見櫓があり、階段は螺旋階段、部屋ごとに床に高低がつけてあり、のぞき穴はあるが窓はいっさい無い。地下室には無数の落とし穴が掘ってある。
そして、第一の密室。これが唖然とする密室だ。
お決まりのごとく、外から扉を破って中に入るわけだが、中に入ろうとすると、逆に、何者かがぬっと中から出てくるのである。みんなはあっけにとられて、部屋の中から出てきたものを見送り、さて部屋の中に入ってみると、人が死んでいる。えっ?これって、密室?しかし、「周囲がぐるりと分厚いコンクリートの壁で間仕切られ、ここの外壁にはわずかに穿たれたのぞき穴すらもなかった。廊下に面した扉も、普通の倍はあろうかと思われる厚みの、どっしりした樫材ででき上がっていた。つまり、それは大きなコンクリートの箱といった感じだった」と、やたら密室であることを強調しているのだ。そのくせ、だるまストーブが室内にあり、煙突がついている。煙突を抜けば、その隙間から被害者を狙うこともできそうなものだが、それはさすがに、角度的に無理、とか煙突が抜けてたら一目瞭然、とか一応の否定材料をととのえている。
さらに、第2の事件での電話でのダイイングメッセージもすごい。
被害者は、「この家にぬえがいる」と、横溝的な発言をした後、いきなり苦しみはじめ、
「ううむ、きみは、きみは、モロ…モロ…ううむ」ガチャリ。
関係者の中に諸岡(モロオカ)という人物がいたため、俄然、容疑はその人物に向けられる。だがしかし、被害者は、いったいどういう意味で、「モロ」と言ったのか!
真相を知ると、唖然とする。
そもそもこの家の主人がこの狂人屋敷にひきこもった理由も、関係をもった女が実の娘だった、とかそういう「父子相姦」だった、というおどろおどろしさ。
ところが、である。いっさいの真相が明かされてみると、すべての推理には実はもうひとつ裏の真相が隠されていたことがわかる、というひねりがあって、これは現代のミステリーそのものなのである。
レトロな雰囲気は、その書き方にあらわれている。
「しかし、警部はいま、自分がふと何気なく漏らした最後の質問に、これから起きるこの連続殺人事件の核心に迫る、一つの大きな鍵が含まれていることには気づいてはいなかった」
「後になって考えると、このときの氏の大人げない好奇心が、続いて起こった第二の殺人の原因となったのである。もちろん、氏はこのとき、そのようなことになろうなどとはつゆ思わなかったのだが」
「だが、さすがの氏も、その自分の考えが、一昨日起こったあの著名な野球選手の死と決して無縁ではないのだ、ということは夢にも想像し得なかった」
「だが、先生はその品物がなんであるかはわからないまま、ただその品が大立目家に存在していることがそぐわないということだけを直感して、ポケットに収めたのだった。後になって、これこそがこの恐るべき殺人事件の謎を解く、ほとんど唯一の物的証拠になるとはつゆ知らず」
もういいですか。これらレトロな表現が、本作の、実はバリ現代ミステリーであることを隠すミスディレクションになっているのである。すごい!
では、後は、この本の名場面集でお別れいたしましょう。
(「猫の鳴き声」より)
そして不意に、伊勢先生はあの禍々しい猫の鳴き声を聞いたのだった。
−ニャーン!ニャーン!ニャーン!
邸内が静まり返っているだけに、その鳴き声はかなりはっきりと耳についた。また鳴いた。
−ニャーン!
たしか、この家では猫は飼っていないはずだった。のら猫でも屋根に上っているのだろうか?先生は屋根を踏まえた猫が、月に向かって意味もなく鳴いている姿を空想して、あまりいい気持ちはしなかった。
−ニャーン!
まだいるらしい。が、その後はまた静寂がひき続いた。
−ズドン!
次の瞬間、にぶいが、ぐっと腹にこたえるような振動が響いたのだった。
(「野球殺人事件」より)
「磯貝くんがモギリの女の子に、峯雄の写真を見せたところ、この人なら一週間ほど前、この映画がかかってすぐ、たしかにやって来たと証言したんだそうです」
「どうしてモギリの女の子が、峯雄を覚えていたのかね?」
「目の前で、バナナの皮を踏みつけて、よろめいたのだそうであります」
(「暴かれた汚点」より)
「どうやって、その黒子を調べるかだ?」
「捕物帳なんかじゃ、よくこういう手段を使いますよね。調べたい相手が風呂に入っているときに、いきなり外から火事だッと叫ぶんです。あわててすっ裸で飛び出してきたところを…」
「しかし…それは小説の筋にあやをつけるだけのもので、実際には児戯に類した方法だよ。仕方がない。ざっくばらんに千代に当たってみるか」
(「過去を追って」より)
警部は、美容整形外科医が復讐のため、その相手の面貌を全然別の人間のそれに作り変えるという、ある猟奇小説を思い出していた。だが、小説はあくまでも小説なのである。
(「峯雄の不在証明」より)
「あの部屋で死人が出るのは、本人が自殺した場合と、諸岡のようにあらかじめ部屋に忍び込んでいる場合と、二つしかない、といいたいだけです」
「しかし、推理小説では、密室は必ず破られていますね」
「それは密室とみられていただけで、本当の密室じゃないからですよ」
伊勢先生には、返す言葉がなかった。照れ隠しに先生は話題を変えた。
まず、目次。
プロローグ
大立目家(おおたちめけ)の人々
歌劇カルメン
猫の鳴き声
警部の尋問
謎の男
ワトスン登場
浮かぶ容疑者
受話器の陰に
野球殺人事件
密室への挑戦
霊媒の夜
暴かれた汚点
密室のからくり
過去を追って
旅路の果て
佐和子夫人の謎
峯雄の不在証明
新鬼界ガ島
殺人を結ぶ光
密室の実験
鵺の正体
業苦を負う人々
エピローグ
次に本に書いてあった内容紹介。
狂人屋敷・・・・・・連続殺人・・・・・・父子相姦・・・・・・霊媒実験・・・・・・蒸発した当主!・・・・・・そのいくつかの場面が、まるで"電光ニュース"のように、つぎつぎと近藤警部の脳裏を駆け巡った!紀伊半島の山裾がぐっと海岸線近くまで張り出した山懐に、古色蒼然たるお館があった!人呼んで"狂人館"! その館で惨劇が起こったのは、クリスマス・イブの夜であった!パーティー招待客のプロ球団『三洋セネターズ』の若きエース村山が密室内で殺害された! そして三日後、同じく球団オーナーの兵頭が殺された! すわ、プロ野球殺人事件!かとスポーツ紙は一斉に書き立てたが、事件の根は意外なところに・・・・・・!? 連続する殺人事件の中で恐るべき秘密が暴かれていく! 懐古的な魅力に溢れる書下ろしミステリー!
と、いうわけだが、これだけでは、この本のすごさはわからないだろう。
まず、この狂人屋敷、建物を設計し、建築した男が狂人だったから、この名で呼ばれるようになった。
屋敷の周囲に濠を巡らし、出入り口は架橋。ガラス張りの物見櫓があり、階段は螺旋階段、部屋ごとに床に高低がつけてあり、のぞき穴はあるが窓はいっさい無い。地下室には無数の落とし穴が掘ってある。
そして、第一の密室。これが唖然とする密室だ。
お決まりのごとく、外から扉を破って中に入るわけだが、中に入ろうとすると、逆に、何者かがぬっと中から出てくるのである。みんなはあっけにとられて、部屋の中から出てきたものを見送り、さて部屋の中に入ってみると、人が死んでいる。えっ?これって、密室?しかし、「周囲がぐるりと分厚いコンクリートの壁で間仕切られ、ここの外壁にはわずかに穿たれたのぞき穴すらもなかった。廊下に面した扉も、普通の倍はあろうかと思われる厚みの、どっしりした樫材ででき上がっていた。つまり、それは大きなコンクリートの箱といった感じだった」と、やたら密室であることを強調しているのだ。そのくせ、だるまストーブが室内にあり、煙突がついている。煙突を抜けば、その隙間から被害者を狙うこともできそうなものだが、それはさすがに、角度的に無理、とか煙突が抜けてたら一目瞭然、とか一応の否定材料をととのえている。
さらに、第2の事件での電話でのダイイングメッセージもすごい。
被害者は、「この家にぬえがいる」と、横溝的な発言をした後、いきなり苦しみはじめ、
「ううむ、きみは、きみは、モロ…モロ…ううむ」ガチャリ。
関係者の中に諸岡(モロオカ)という人物がいたため、俄然、容疑はその人物に向けられる。だがしかし、被害者は、いったいどういう意味で、「モロ」と言ったのか!
真相を知ると、唖然とする。
そもそもこの家の主人がこの狂人屋敷にひきこもった理由も、関係をもった女が実の娘だった、とかそういう「父子相姦」だった、というおどろおどろしさ。
ところが、である。いっさいの真相が明かされてみると、すべての推理には実はもうひとつ裏の真相が隠されていたことがわかる、というひねりがあって、これは現代のミステリーそのものなのである。
レトロな雰囲気は、その書き方にあらわれている。
「しかし、警部はいま、自分がふと何気なく漏らした最後の質問に、これから起きるこの連続殺人事件の核心に迫る、一つの大きな鍵が含まれていることには気づいてはいなかった」
「後になって考えると、このときの氏の大人げない好奇心が、続いて起こった第二の殺人の原因となったのである。もちろん、氏はこのとき、そのようなことになろうなどとはつゆ思わなかったのだが」
「だが、さすがの氏も、その自分の考えが、一昨日起こったあの著名な野球選手の死と決して無縁ではないのだ、ということは夢にも想像し得なかった」
「だが、先生はその品物がなんであるかはわからないまま、ただその品が大立目家に存在していることがそぐわないということだけを直感して、ポケットに収めたのだった。後になって、これこそがこの恐るべき殺人事件の謎を解く、ほとんど唯一の物的証拠になるとはつゆ知らず」
もういいですか。これらレトロな表現が、本作の、実はバリ現代ミステリーであることを隠すミスディレクションになっているのである。すごい!
では、後は、この本の名場面集でお別れいたしましょう。
(「猫の鳴き声」より)
そして不意に、伊勢先生はあの禍々しい猫の鳴き声を聞いたのだった。
−ニャーン!ニャーン!ニャーン!
邸内が静まり返っているだけに、その鳴き声はかなりはっきりと耳についた。また鳴いた。
−ニャーン!
たしか、この家では猫は飼っていないはずだった。のら猫でも屋根に上っているのだろうか?先生は屋根を踏まえた猫が、月に向かって意味もなく鳴いている姿を空想して、あまりいい気持ちはしなかった。
−ニャーン!
まだいるらしい。が、その後はまた静寂がひき続いた。
−ズドン!
次の瞬間、にぶいが、ぐっと腹にこたえるような振動が響いたのだった。
(「野球殺人事件」より)
「磯貝くんがモギリの女の子に、峯雄の写真を見せたところ、この人なら一週間ほど前、この映画がかかってすぐ、たしかにやって来たと証言したんだそうです」
「どうしてモギリの女の子が、峯雄を覚えていたのかね?」
「目の前で、バナナの皮を踏みつけて、よろめいたのだそうであります」
(「暴かれた汚点」より)
「どうやって、その黒子を調べるかだ?」
「捕物帳なんかじゃ、よくこういう手段を使いますよね。調べたい相手が風呂に入っているときに、いきなり外から火事だッと叫ぶんです。あわててすっ裸で飛び出してきたところを…」
「しかし…それは小説の筋にあやをつけるだけのもので、実際には児戯に類した方法だよ。仕方がない。ざっくばらんに千代に当たってみるか」
(「過去を追って」より)
警部は、美容整形外科医が復讐のため、その相手の面貌を全然別の人間のそれに作り変えるという、ある猟奇小説を思い出していた。だが、小説はあくまでも小説なのである。
(「峯雄の不在証明」より)
「あの部屋で死人が出るのは、本人が自殺した場合と、諸岡のようにあらかじめ部屋に忍び込んでいる場合と、二つしかない、といいたいだけです」
「しかし、推理小説では、密室は必ず破られていますね」
「それは密室とみられていただけで、本当の密室じゃないからですよ」
伊勢先生には、返す言葉がなかった。照れ隠しに先生は話題を変えた。
スティーヴン・フリアーズ監督の「クィーン」を見た。2006年。
ダイアナが死んだときのエリザベス女王とブレア首相を中心に描かれている。
ブレア首相がマザコンのようにエリザベス女王を慕う姿が印象的だった。
実際のニュース映像なども多用されていた。
女王を演じたヘレン・ミレンをはじめ、王室の面々も違和感なく見れたのがすごい。
王室バッシングも実際に起こった話なのだが、こうして日常の王室の姿を見せられると、そうそう一方的な意見には傾けないのである。
面白くて、最後エンドクレジットが流れ出したとき、「あれ?もう終わり?」と意外な気持になった。
ダイアナが死んだときのエリザベス女王とブレア首相を中心に描かれている。
ブレア首相がマザコンのようにエリザベス女王を慕う姿が印象的だった。
実際のニュース映像なども多用されていた。
女王を演じたヘレン・ミレンをはじめ、王室の面々も違和感なく見れたのがすごい。
王室バッシングも実際に起こった話なのだが、こうして日常の王室の姿を見せられると、そうそう一方的な意見には傾けないのである。
面白くて、最後エンドクレジットが流れ出したとき、「あれ?もう終わり?」と意外な気持になった。
南美穂子の『桧葉の海』を読んだ。1962年。
以下、目次。
東北の旅
失踪
捜査網
訪問者
捜査
失踪者の死
女
酒場すざんな
罐
送別
手形
裏切
推理
第二の死
死因
追求
死者からの手紙
絵
倒産
東北
漁港
ヒバの葉
富坂不動産
誤謬
大湊
林の小屋
結末
巻頭に江戸川乱歩による「推薦の言葉」が載っている。
全文書いてみると。
新人南美穂子君の「檜葉の海」は、女流作家には珍しく面白い、社会派推理小説である。
茨城県五浦海岸に打ち上げられた罐入り白骨死体の謎を追って、美貌のBGと女流カメラマンと刑事とが、北は下北半島恐山から、南は東海道清水港に至る、風光明媚な広汎な地域を、縦横に縫って活躍する。その真犯人追求の道程から、はからずも中小企業の世界の酷薄と悲惨が、恐ろしいまなざしで、あばき出されてゆく。
だが、作者は単なる社会派ではない。死体処理のトリックと、真犯人の意外性とに、並々ならぬ工夫をこらす。最後まで、読む者はあきないであろう。
女性にまれな骨格の太い推理長編小説の書き手たる南美穂子君の出発に、拍手をおくる所以である。
さて、本書、非常に読みやすくて、面白かった。
ただし、どうにも悪いやつが多くて、古典的な本格だと犯人一人なのに、これはもうグルになってる奴らが多すぎて、誰が真犯人でもたいした差はないように思えてくるのである。
南美穂子が書いたミステリーはひょっとしたら、本書1冊だけなんだろうか。彼女のミステリー界での活動は寡聞にして知らない。せっかく、乱歩が推薦してるのに!
ストーリーは、石塚社長が失踪して、罐の中から石塚社長と思われる白骨死体が発見される、というものだが、もっとも大きなサプライズは、読み終えた後にあった。
奥付を見ると、発行所:七曜社、著者:南美穂子、などと並んで、印刷者の名前が出ているが、その名は「石塚盛隆」!
石塚社長!失踪したかと思っていたら、こんなところにいたじゃありませんか!
以下、目次。
東北の旅
失踪
捜査網
訪問者
捜査
失踪者の死
女
酒場すざんな
罐
送別
手形
裏切
推理
第二の死
死因
追求
死者からの手紙
絵
倒産
東北
漁港
ヒバの葉
富坂不動産
誤謬
大湊
林の小屋
結末
巻頭に江戸川乱歩による「推薦の言葉」が載っている。
全文書いてみると。
新人南美穂子君の「檜葉の海」は、女流作家には珍しく面白い、社会派推理小説である。
茨城県五浦海岸に打ち上げられた罐入り白骨死体の謎を追って、美貌のBGと女流カメラマンと刑事とが、北は下北半島恐山から、南は東海道清水港に至る、風光明媚な広汎な地域を、縦横に縫って活躍する。その真犯人追求の道程から、はからずも中小企業の世界の酷薄と悲惨が、恐ろしいまなざしで、あばき出されてゆく。
だが、作者は単なる社会派ではない。死体処理のトリックと、真犯人の意外性とに、並々ならぬ工夫をこらす。最後まで、読む者はあきないであろう。
女性にまれな骨格の太い推理長編小説の書き手たる南美穂子君の出発に、拍手をおくる所以である。
さて、本書、非常に読みやすくて、面白かった。
ただし、どうにも悪いやつが多くて、古典的な本格だと犯人一人なのに、これはもうグルになってる奴らが多すぎて、誰が真犯人でもたいした差はないように思えてくるのである。
南美穂子が書いたミステリーはひょっとしたら、本書1冊だけなんだろうか。彼女のミステリー界での活動は寡聞にして知らない。せっかく、乱歩が推薦してるのに!
ストーリーは、石塚社長が失踪して、罐の中から石塚社長と思われる白骨死体が発見される、というものだが、もっとも大きなサプライズは、読み終えた後にあった。
奥付を見ると、発行所:七曜社、著者:南美穂子、などと並んで、印刷者の名前が出ているが、その名は「石塚盛隆」!
石塚社長!失踪したかと思っていたら、こんなところにいたじゃありませんか!
松江哲明監督の「あんにょん由美香」を見た。2009年
故・林由美香が残した韓国の珍品ピンク映画「東京の人妻純子」
ヨン様初主演の映画を撮ったユ監督が撮影し、韓国人俳優が下手な日本語を使って演じている。
この映画にはいくつもの謎があった。
ラストシーンで、今まで日本語を使っていた俳優が急に韓国語でしゃべって映画が終わること。
シナリオにあったラストシーンが撮影されなかったこと。
そもそも、なぜこういう企画で映画が撮られたのかも、説明なしには理解できないものだった。
映画は、林由美香と「東京の人妻純子」に関わった人々の証言をもとに、謎に迫る。
と、いうドキュメンタリーなのだが、前半見ているときは、どうにもなぜ監督がこの映画を撮ろうとしているのか、という動機があまりにも薄弱な気がして、それがすごく面白かった。あんなに、どうでもいいようなことを動機にしても、こんなにも惹き付けられるドキュメンタリーが撮れるんだ、という驚き。
いろんな謎は結局のところ「めんどうくさかったんじゃない?」程度の真相しか持ち合わせていなかった。
ところが、後半、というかもう映画の終わり頃に、急展開が待っていた。
一生見ずに終わったに違いない「東京の人妻純子」が、にわかに必見の映画としてたちあらわれてくる。
なんなんだ、これは。僕は今、何を目にしたのか、という不思議な感覚。
豊田くんの音楽も素晴らしかった!
故・林由美香が残した韓国の珍品ピンク映画「東京の人妻純子」
ヨン様初主演の映画を撮ったユ監督が撮影し、韓国人俳優が下手な日本語を使って演じている。
この映画にはいくつもの謎があった。
ラストシーンで、今まで日本語を使っていた俳優が急に韓国語でしゃべって映画が終わること。
シナリオにあったラストシーンが撮影されなかったこと。
そもそも、なぜこういう企画で映画が撮られたのかも、説明なしには理解できないものだった。
映画は、林由美香と「東京の人妻純子」に関わった人々の証言をもとに、謎に迫る。
と、いうドキュメンタリーなのだが、前半見ているときは、どうにもなぜ監督がこの映画を撮ろうとしているのか、という動機があまりにも薄弱な気がして、それがすごく面白かった。あんなに、どうでもいいようなことを動機にしても、こんなにも惹き付けられるドキュメンタリーが撮れるんだ、という驚き。
いろんな謎は結局のところ「めんどうくさかったんじゃない?」程度の真相しか持ち合わせていなかった。
ところが、後半、というかもう映画の終わり頃に、急展開が待っていた。
一生見ずに終わったに違いない「東京の人妻純子」が、にわかに必見の映画としてたちあらわれてくる。
なんなんだ、これは。僕は今、何を目にしたのか、という不思議な感覚。
豊田くんの音楽も素晴らしかった!
トニー・スコット監督の「マイ・ボディガード」を見た。2004年
クィネルの『燃える男』が原作で、この本は読んでいて滅法面白かった記憶があるのだが、映画を見ているかぎり、たぶん、そう言われなければクィネルが原作だとは気づかなかっただろう。
映画が面白くなかったわけではない。
ダコタ・ファニングの可愛さはまさにピークで、ぐいぐいと引き込まれた。
特に前半、ダコタがデンゼル・ワシントン演じるクリーシーの心を開いていく過程などは、もう、原作知ってるだけに事件が起こってしまうのは必定なのだが、そんな事件など起こらず、一生こんな感じで、クリーシーがダコタの水泳のコーチしたりして映画が終わってほしい、と願ったほどだ。
ダコタ誘拐の後の、クリーシーの復讐は胸のすく思いがした。誘拐殺人事件なのだから、お上に裁いてもらおうとしたりするような、くだらない発想じゃなくて、自分で乗り込んで行くのだ。
人の命を平気でとっていくし、残酷な拷問もするクリーシーだが、ダコタのためとあれば、許せる、と思った。
前半はホワホワといい感じが持続し、後半はかつてないほどの怒りとともに映画を見ることができた。ラストあたりにいたっては、涙が止まらなかった。
クィネルの本の読後の印象とはまた全然違っていたが、この映画はこれで最高である。
そうそう、このダコタ・ファニングが、関西のアイドルシンガー、村田寛奈ちゃんにそっくりで、僕は途中から「ヒロナちゃんを誘拐しやがって!」と義憤にかられながら、この映画を見ていたのである。近いうちにどこかのライブ会場で、ヒロナちゃんが無事であることを確認しなければ。
クィネルの『燃える男』が原作で、この本は読んでいて滅法面白かった記憶があるのだが、映画を見ているかぎり、たぶん、そう言われなければクィネルが原作だとは気づかなかっただろう。
映画が面白くなかったわけではない。
ダコタ・ファニングの可愛さはまさにピークで、ぐいぐいと引き込まれた。
特に前半、ダコタがデンゼル・ワシントン演じるクリーシーの心を開いていく過程などは、もう、原作知ってるだけに事件が起こってしまうのは必定なのだが、そんな事件など起こらず、一生こんな感じで、クリーシーがダコタの水泳のコーチしたりして映画が終わってほしい、と願ったほどだ。
ダコタ誘拐の後の、クリーシーの復讐は胸のすく思いがした。誘拐殺人事件なのだから、お上に裁いてもらおうとしたりするような、くだらない発想じゃなくて、自分で乗り込んで行くのだ。
人の命を平気でとっていくし、残酷な拷問もするクリーシーだが、ダコタのためとあれば、許せる、と思った。
前半はホワホワといい感じが持続し、後半はかつてないほどの怒りとともに映画を見ることができた。ラストあたりにいたっては、涙が止まらなかった。
クィネルの本の読後の印象とはまた全然違っていたが、この映画はこれで最高である。
そうそう、このダコタ・ファニングが、関西のアイドルシンガー、村田寛奈ちゃんにそっくりで、僕は途中から「ヒロナちゃんを誘拐しやがって!」と義憤にかられながら、この映画を見ていたのである。近いうちにどこかのライブ会場で、ヒロナちゃんが無事であることを確認しなければ。
鈴木昭男「SOUND REPORT」@NU THINGS JAJOUKA
2010年7月4日 ライブ
午後7時から、NU THINGS JAJOUKAで鈴木昭男「SOUND REPORT」
第一部 トーク
東瀬戸君がナビゲートして、鈴木昭男氏の「さ・ね・と・り」(弥生の音を訪ねて)についてのトーク。旅の映像も同時に流されていた。
鈴木昭男氏は昨年11月、京丹後市から下関まで、土笛のルーツをたずねる約3週間の旅を行なった。
下関の綾羅木遺跡で土笛が発見されて以来、山陰地方に点々と出土した笛の軌跡をたどり、遺跡の現場でおりてくる弥生時代の音を再現しようとしたものだ。
ママチャリ使って、のたれ死に覚悟での単独行の予定だったが、鈴木氏の活動を応援したい人々によって、その記録がとられた。おかげで、その場で降臨してきた弥生の音が記録されることになったのである。
出発時はハネムーンさながら、自転車に空き缶結び付けてカラカラと華やかにスタートを切ったが、なんと2日めに鈴木氏の足に激痛が走る。仕切りなおすのは、出発を大勢の人間に祝われただけに、ためらわれた。(影武者を走らせる案などが出たという)だが、このとき宿泊した地で入った温泉の効果か、翌日には足はケロリと完治。まるで何かの力にいざなわれるかのような神秘的な旅のはじまりになったのである。
この裏日本の旅に、鈴木氏は「さ・ね・と・り」と名前をつけた。
弥生時代の音をたずねる旅なので、稲作神を尊称する「さ」(早苗や早乙女など)、音を意味する「ね」、それをたどる意味で「とり」、また、この旅を鈴木氏自身の音楽の旅の「トリ」とする意味でも「とり」と名付けた。「さね」が陰核の意味だということは後に知ったが、なんだかそんなことも鈴木氏の背中を押す効果があったみたいだ!
NHKの関門便りで下関の話題として、取材を受けたことなども。
また、トークの流れで、各遺跡で吹いた音も、いくつか再現もしてくれた(青谷上寺地遺跡での音など)。
弘法大師が発見したという湯免温泉には遺跡は無いものの、その場にも音が降臨したそうで、鈴木氏はそれを「名曲」と言っていた。今回、吹こうとしたが、なぜか思い出せず。と、なるとなおさら聞きたくなってくる。空海ゆかりの音なんだから、CDなどではなく、じかに耳で聞きたかった、とのこじつけ的思いもつけ加えておこう。
鈴木氏は、マイクを通さずに土笛を吹いていたが、最後の曲だけはマイクを通して演奏された。演奏後、すぐに、マイクを通したことによって音が変わってしまい、すっかり弥生時代の音がダメになってしまったことを鈴木氏は反省されていた。
休憩後、第2部はパフォーマンス。
弥生時代の土笛の世界とは一転、アナラポスや、各種創作音具を使ってのライブパフォーマンス。
アナラポスは見た目は大きな糸電話みたいなもので、これがやっぱり面白かった。
発泡スチロールでキュキュキュキュ音を出したり、石を打ち付けて音を出したり、壜を打楽器のように叩いたり、と、自在な音の世界は細胞の新陳代謝を促すかのごとくであった。
見ていて、山ほどアイディアが湧いてきた。
帰宅後、録音しておいたNHK-FM「現代の音楽」
猿谷紀郎
− 21世紀音楽の会 10周年記念
室内オーケストラの夕べから −(1)
「13楽器のための“収斂(しゅうれん)”(2010)」
夏田昌和・作曲
(11分40秒)
(アンサンブル)アール・レスピラン
(指揮)夏田昌和
「室内交響曲 第1番“グリーン”(2010)」森垣桂一・作曲
(11分40秒)
(アンサンブル)アール・レスピラン
(指揮)森垣桂一
〜東京文化会館で収録〜
<2010/5/18>
(カメラータ・トウキョウ提供)
「オーケストラのための“レクイエム”(1999)」
森垣桂一・作曲
(14分39秒)
(管弦楽)東京交響楽団
(指揮)秋山和慶
<28CM−599>
鈴木昭男を聞いた後では、どれもこれも楽譜つきの普通の音楽に聞えた。
今日は、昼間にハイビジョン特集の「鬼太郎幸せ探しの旅〜100年後の遠野物語」という番組を放送しており、水木しげるも出演して、現在の遠野の映像を流していた。
水木しげるの妖怪たちは陽気なものだが、間引きの絵や、家に安置されるオクナイ様(座敷きに泥足)やコンセイ様(子宝)オシラ様(馬と娘が結婚)、遺影を集めた部屋、天井から吊り下げられている死児のための着物、最近死者が出た家であげられる紅白の旗など、遠野の風景はインパクトがあった。
最近死者が出た家では獅子舞が焼香をあげたりするし。
今日は遠野(東日本)の旅と、「さねとり」の西日本の旅が味わえたわけである。
あと、鋼の錬金術師は最終回。これも最後は汽車に乗って出発するシーンだったな。(最終回にシドの歌が使われなかったのは、見識と思われた。あの歌だけがどうも失敗だ)
日曜美術館、夜のほうの再放送分「タマラ・ド・レンピッカ」を見た。ゲストは美輪明宏で、つくづく今日は妖怪に縁のある日だと思った。美輪がレンピッカを語る際に「舞踏会の手帖」などをさりげなく言っていたが、レンピッカの晩年を見ると、「サンセット大通り」のムードも漂っていた。
第一部 トーク
東瀬戸君がナビゲートして、鈴木昭男氏の「さ・ね・と・り」(弥生の音を訪ねて)についてのトーク。旅の映像も同時に流されていた。
鈴木昭男氏は昨年11月、京丹後市から下関まで、土笛のルーツをたずねる約3週間の旅を行なった。
下関の綾羅木遺跡で土笛が発見されて以来、山陰地方に点々と出土した笛の軌跡をたどり、遺跡の現場でおりてくる弥生時代の音を再現しようとしたものだ。
ママチャリ使って、のたれ死に覚悟での単独行の予定だったが、鈴木氏の活動を応援したい人々によって、その記録がとられた。おかげで、その場で降臨してきた弥生の音が記録されることになったのである。
出発時はハネムーンさながら、自転車に空き缶結び付けてカラカラと華やかにスタートを切ったが、なんと2日めに鈴木氏の足に激痛が走る。仕切りなおすのは、出発を大勢の人間に祝われただけに、ためらわれた。(影武者を走らせる案などが出たという)だが、このとき宿泊した地で入った温泉の効果か、翌日には足はケロリと完治。まるで何かの力にいざなわれるかのような神秘的な旅のはじまりになったのである。
この裏日本の旅に、鈴木氏は「さ・ね・と・り」と名前をつけた。
弥生時代の音をたずねる旅なので、稲作神を尊称する「さ」(早苗や早乙女など)、音を意味する「ね」、それをたどる意味で「とり」、また、この旅を鈴木氏自身の音楽の旅の「トリ」とする意味でも「とり」と名付けた。「さね」が陰核の意味だということは後に知ったが、なんだかそんなことも鈴木氏の背中を押す効果があったみたいだ!
NHKの関門便りで下関の話題として、取材を受けたことなども。
また、トークの流れで、各遺跡で吹いた音も、いくつか再現もしてくれた(青谷上寺地遺跡での音など)。
弘法大師が発見したという湯免温泉には遺跡は無いものの、その場にも音が降臨したそうで、鈴木氏はそれを「名曲」と言っていた。今回、吹こうとしたが、なぜか思い出せず。と、なるとなおさら聞きたくなってくる。空海ゆかりの音なんだから、CDなどではなく、じかに耳で聞きたかった、とのこじつけ的思いもつけ加えておこう。
鈴木氏は、マイクを通さずに土笛を吹いていたが、最後の曲だけはマイクを通して演奏された。演奏後、すぐに、マイクを通したことによって音が変わってしまい、すっかり弥生時代の音がダメになってしまったことを鈴木氏は反省されていた。
休憩後、第2部はパフォーマンス。
弥生時代の土笛の世界とは一転、アナラポスや、各種創作音具を使ってのライブパフォーマンス。
アナラポスは見た目は大きな糸電話みたいなもので、これがやっぱり面白かった。
発泡スチロールでキュキュキュキュ音を出したり、石を打ち付けて音を出したり、壜を打楽器のように叩いたり、と、自在な音の世界は細胞の新陳代謝を促すかのごとくであった。
見ていて、山ほどアイディアが湧いてきた。
帰宅後、録音しておいたNHK-FM「現代の音楽」
猿谷紀郎
− 21世紀音楽の会 10周年記念
室内オーケストラの夕べから −(1)
「13楽器のための“収斂(しゅうれん)”(2010)」
夏田昌和・作曲
(11分40秒)
(アンサンブル)アール・レスピラン
(指揮)夏田昌和
「室内交響曲 第1番“グリーン”(2010)」森垣桂一・作曲
(11分40秒)
(アンサンブル)アール・レスピラン
(指揮)森垣桂一
〜東京文化会館で収録〜
<2010/5/18>
(カメラータ・トウキョウ提供)
「オーケストラのための“レクイエム”(1999)」
森垣桂一・作曲
(14分39秒)
(管弦楽)東京交響楽団
(指揮)秋山和慶
<28CM−599>
鈴木昭男を聞いた後では、どれもこれも楽譜つきの普通の音楽に聞えた。
今日は、昼間にハイビジョン特集の「鬼太郎幸せ探しの旅〜100年後の遠野物語」という番組を放送しており、水木しげるも出演して、現在の遠野の映像を流していた。
水木しげるの妖怪たちは陽気なものだが、間引きの絵や、家に安置されるオクナイ様(座敷きに泥足)やコンセイ様(子宝)オシラ様(馬と娘が結婚)、遺影を集めた部屋、天井から吊り下げられている死児のための着物、最近死者が出た家であげられる紅白の旗など、遠野の風景はインパクトがあった。
最近死者が出た家では獅子舞が焼香をあげたりするし。
今日は遠野(東日本)の旅と、「さねとり」の西日本の旅が味わえたわけである。
あと、鋼の錬金術師は最終回。これも最後は汽車に乗って出発するシーンだったな。(最終回にシドの歌が使われなかったのは、見識と思われた。あの歌だけがどうも失敗だ)
日曜美術館、夜のほうの再放送分「タマラ・ド・レンピッカ」を見た。ゲストは美輪明宏で、つくづく今日は妖怪に縁のある日だと思った。美輪がレンピッカを語る際に「舞踏会の手帖」などをさりげなく言っていたが、レンピッカの晩年を見ると、「サンセット大通り」のムードも漂っていた。
今日は千林大宮KinPouGeで「Music War Counsil」出演なのだが、集合時間が変更になったので、ちょっと時間に余裕ができた。
午後2時半からワッハ上方で上方亭ライブ。
桂吉の丞/遊山船
桂わかば/片棒
「遊山船」は、玉子の巻き焼きが臭くなるくだりはカットされていた。玉子の巻き焼きって、さめると臭くなるっての、本当?(桂ざこばバージョンでは「屁のにおいがする」とストレートに言ってる)
「片棒」は古いのか新しいのかよくわからない落語で、もとは古典で、新しい要素をつけ加えているんだろうが、誰のバージョンなのかは浅学にして不明。談志?
大阪古書会館で「OKKブックフェア」
たどりついたとき、ちょうど大阪古書組合のキャラクター「メ〜探偵コショタン」の着ぐるみをちらっと見ることができた。コショタンって!ギザカワユス。
昭和50年代の推理小説が安かったので、数冊買った。また読んだら感想(ネタバレ)を書こう。このあたりは、当時、ただでやると言われてもいらなかったような本なのだから、人間、変われば変わるものである。
千林大宮KinPouGeで「Music War Counsil」
蒼奇勇、キヌガワ氏と。
僕は「旗フィニティー」をやったのだが、かんじんの部分で間違えてしまった。唯一と言ってもいいみどころを逃して、「しまった!」と思ったが、まあ、楽しそうにやっている人を見るのはきっと楽しさが伝わるだろう、と楽しくライブする。
午後2時半からワッハ上方で上方亭ライブ。
桂吉の丞/遊山船
桂わかば/片棒
「遊山船」は、玉子の巻き焼きが臭くなるくだりはカットされていた。玉子の巻き焼きって、さめると臭くなるっての、本当?(桂ざこばバージョンでは「屁のにおいがする」とストレートに言ってる)
「片棒」は古いのか新しいのかよくわからない落語で、もとは古典で、新しい要素をつけ加えているんだろうが、誰のバージョンなのかは浅学にして不明。談志?
大阪古書会館で「OKKブックフェア」
たどりついたとき、ちょうど大阪古書組合のキャラクター「メ〜探偵コショタン」の着ぐるみをちらっと見ることができた。コショタンって!ギザカワユス。
昭和50年代の推理小説が安かったので、数冊買った。また読んだら感想(ネタバレ)を書こう。このあたりは、当時、ただでやると言われてもいらなかったような本なのだから、人間、変われば変わるものである。
千林大宮KinPouGeで「Music War Counsil」
蒼奇勇、キヌガワ氏と。
僕は「旗フィニティー」をやったのだが、かんじんの部分で間違えてしまった。唯一と言ってもいいみどころを逃して、「しまった!」と思ったが、まあ、楽しそうにやっている人を見るのはきっと楽しさが伝わるだろう、と楽しくライブする。
大下宇陀児の『奇蹟の扉』を読んだ。1932年
春陽文庫で読んだのだが、春陽文庫と言えば、カバーに書かれた内容紹介が毎回見事で感心させられる。
あらすじがわりに、それを引用しておこう。
画家の江崎良造は、異母妹の淑子が自分を愛していることも知らず、銀座裏の酒場で見つけたモデル久美子のあやしい美しさに魅せられて結婚してしまった。が、久美子の過去には何か秘密があるらしい。江崎は次第に妻の行動に疑問をもちはじめた。江崎の知人、伊豆原浩を紹介された久美子は、一瞬、幽霊でも見たようにまっさおになってしまう。そして、この夜、一発の銃声が江崎邸にひびきわたった。人々が駆けつけたとき、久美子は白い寝衣を血に染めて、ベッドの上に息たえていた。右手の指先に一丁のピストルが落ちていたが、自殺か他殺か…久美子をめぐる男たちのなぞが次第にあばかれていく。江戸川乱歩、横溝正史と並んで戦前の推理小説ファンを魅了した著者の代表的傑作。
ああ、読み終えたばかりなのに、また読みたくなってきた。
以下、目次の小見出し。
アトリエの女
侵入者
過去の呼声
脅迫
最初の疑惑
惨めな晩餐
芹沢医学士
暗黒
浅草の裏
窮鼠
復讐鬼
野獣
深夜の銃声
不思議な女
血染の指紋
警察へ
嗚咽の部屋
蘇る記憶
最初の容疑者
証拠物件
リリーとバット
黒川刑事登場
懐疑論者
屋根裏の怪人
葬られる秘密
謎の解け口
猜疑の瞳
蝋燭の破片
追究
樹上の黒影
新発見
画像の前
一つ穴の貉
執念の蛇
探偵地獄
最後の凱歌
大団円
まさに、昼ドラ的波乱万丈の面白さ!
問題の久美子には、厄介な前夫、坂田という男がいて、これが何かとトラブルを巻き起こす。脅迫に傷害に。警察のおたずねものである。事件当夜も、坂田はひそかに屋敷の中にいたのである。
以前、久美子は伊豆原と仲良くなって同棲をはじめたが、この乱暴な坂田が刑務所から出てくるなり、伊豆原を追い出してしまう。伊豆原は久美子を忘れることができず、かと言って坂田に対抗することもできず、毒を飲んで自殺してしまった、という過去があった。この伊豆原には双生児の兄がおり、この弟が、たまたま江崎と親友の間柄であった。伊豆原(兄)と久美子のあいだには因縁があったのだ。
さて、この小説で興味深いのは、事件の謎をとく探偵役の芹沢新一と、その父親との関係だ。頭が切れて真相を追究していく新一を父の老医師は、心よく思っていない。
老医師は新一が一つ一つに疑いを挟んで行くのが少々気に入らなかった、何でも見える通りに、素直に解釈することの出来ない息子の性質が気に喰わなかった。
父子のあいだで、こんなやりとりもされる。
「どうも、お前は若いせいか事件を複雑に浪曼的に考え過ぎて困る。お前も探偵小説の愛読者かな」
「浪曼的にですって、お父さん。伊豆原君を犯人とするほど浪曼的なことはないじゃあありませんか。ね、美しい妖婦、その女を気狂いのように愛している良人、そして、弟と母の復讐をとげた若い貧しい芸術家−ね、このままで新聞の連載小説の筋書になりますよ。僕は筋書に満足するんじゃありませんよ。僕だって科学者のつもりです。事実を、裏に潜んでいる事実を知りたいんですよ」
伊豆原と久美子の因縁が明かされて、伊豆原に嫌疑がかかっているときは、上のような会話があったのだが、さて、事件当夜、久美子の前夫、坂田が屋敷の中に隠れていたことがわかってからは、こんなやりとりになる。
「前にはお前は、皆が伊豆原君を疑っていた時、一人であの男の無罪を証明しようとしておった。そしてまた、今度は坂田が犯人となると、急にそいつを犯人でないようにしようとしている。ーいったいお前はどういうんじゃ。わしにはお前の気持がようわからん。お前は、何かにつけて人に反対し、それで面白がっているように見える。お前は、ただ、人に反対さえしていれば、それで気がすむというのかね」
「違いますよ、お父さん。(中略)もしお父さんと異なった点があるとしたら、それは僕がお父さんより、いくらかこの事件に対して熱心だというだけのことでしょう」
挙げ句の果てに、老医師はこんなことを言い出す。
「な、新一、お前は、まだいろいろのことを云おうとしている。そしてその気持は、わしにもよくわかっておる。だが、なんにもこの場合だ、この際は、坂田を犯人だと考えてしまった方が、はるかに無難な考え方だとわしは思うのでな」
「無難だって、それァいけませんよお父さん」
「お前こそ、犬畜生にも劣った奴といわねばならん。下手な探偵の真似をしくさって、むやみに偉そうな理窟をこねまわしよって、わしには第一、その科学者面が気に喰わんわ。よいか、世の中にはな、ものの真の姿を見極めてよいものと悪いものとがある。わしも何も、お前が、真の姿を見極めてるとはいやあせんぞ。只、教えてやりたい。子供だと思えばこそ、我慢に我慢をして来ている。探偵なら、善良な探偵になってくれ。頼む。役にも立たんことを、しかも場合によっては人の一生を傷つけるようなことを、根掘り葉掘りほじくり返して(後略)」
「怒ったって仕方がありませんよ。僕はこうした性分なんです」
新一がいよいよクライマックスで謎ときに入ると、隣室で寝込んでいた老医師(中風の発作で左の手足が動かなくなった)は、ベッドからすべりおちて、額に汗をいっぱいかきながら這って、新一を阻止しようとする。名探偵が真相をあばくのを、肉親が必死で止めようとする、そんな探偵小説がかつてあっただろうか。
最終的に、ある手紙に、新一はこう書かれる。
「私は新一君をよく知っている。そしていつも気の毒な人だと思っている、あの人は非常に頭がいい。そして、その、頭がいいという点で、一生涯他人から好まれないのだ。新一君のお父さんは、あの通りの良い人だ。その子供である新一君が、どうしてあんなに他人から白眼視されるのか、そのわけは、新一君の理智が、人柄をすっかり冷たくしてしまったからだ」
「非常に強いような顔をしていても、世の中には、たいへん淋しい人がいる。新一君は、きっとその一人だろうと思う」
すごい、もう名探偵全否定に近い!
いや、これこそが、名探偵の宿命なのかもしれない。
さて、本書の興味は、事件の真相(トリックも使われていて、意外な真相が用意されている)にもあるが、淑子をめぐる恋愛関係にもある。
淑子は異母兄である良造に恋心を抱いていた。そして、名探偵の新一も淑子が好きなのだ。新一が意地になって事件の謎ときをしようとするのも、実は、淑子が良造に恋していることを知ってショックを受けたからでもあった。事件後、新一も人が変わったようにいい人になりつつあるようだ。また、伊豆原と淑子も憎からず思う間柄である。淑子の恋模様は今後どうなるのか。
この物語の最後は、次のような言葉でしめくくられる。
「こういうことは、結局なるようにしかなるものじゃないんだ。これから先きのことは、恋愛小説を書く人がうまく片をつけてくれらあね」
ドヒャー!この結末には、ひっくりかえった!
春陽文庫で読んだのだが、春陽文庫と言えば、カバーに書かれた内容紹介が毎回見事で感心させられる。
あらすじがわりに、それを引用しておこう。
画家の江崎良造は、異母妹の淑子が自分を愛していることも知らず、銀座裏の酒場で見つけたモデル久美子のあやしい美しさに魅せられて結婚してしまった。が、久美子の過去には何か秘密があるらしい。江崎は次第に妻の行動に疑問をもちはじめた。江崎の知人、伊豆原浩を紹介された久美子は、一瞬、幽霊でも見たようにまっさおになってしまう。そして、この夜、一発の銃声が江崎邸にひびきわたった。人々が駆けつけたとき、久美子は白い寝衣を血に染めて、ベッドの上に息たえていた。右手の指先に一丁のピストルが落ちていたが、自殺か他殺か…久美子をめぐる男たちのなぞが次第にあばかれていく。江戸川乱歩、横溝正史と並んで戦前の推理小説ファンを魅了した著者の代表的傑作。
ああ、読み終えたばかりなのに、また読みたくなってきた。
以下、目次の小見出し。
アトリエの女
侵入者
過去の呼声
脅迫
最初の疑惑
惨めな晩餐
芹沢医学士
暗黒
浅草の裏
窮鼠
復讐鬼
野獣
深夜の銃声
不思議な女
血染の指紋
警察へ
嗚咽の部屋
蘇る記憶
最初の容疑者
証拠物件
リリーとバット
黒川刑事登場
懐疑論者
屋根裏の怪人
葬られる秘密
謎の解け口
猜疑の瞳
蝋燭の破片
追究
樹上の黒影
新発見
画像の前
一つ穴の貉
執念の蛇
探偵地獄
最後の凱歌
大団円
まさに、昼ドラ的波乱万丈の面白さ!
問題の久美子には、厄介な前夫、坂田という男がいて、これが何かとトラブルを巻き起こす。脅迫に傷害に。警察のおたずねものである。事件当夜も、坂田はひそかに屋敷の中にいたのである。
以前、久美子は伊豆原と仲良くなって同棲をはじめたが、この乱暴な坂田が刑務所から出てくるなり、伊豆原を追い出してしまう。伊豆原は久美子を忘れることができず、かと言って坂田に対抗することもできず、毒を飲んで自殺してしまった、という過去があった。この伊豆原には双生児の兄がおり、この弟が、たまたま江崎と親友の間柄であった。伊豆原(兄)と久美子のあいだには因縁があったのだ。
さて、この小説で興味深いのは、事件の謎をとく探偵役の芹沢新一と、その父親との関係だ。頭が切れて真相を追究していく新一を父の老医師は、心よく思っていない。
老医師は新一が一つ一つに疑いを挟んで行くのが少々気に入らなかった、何でも見える通りに、素直に解釈することの出来ない息子の性質が気に喰わなかった。
父子のあいだで、こんなやりとりもされる。
「どうも、お前は若いせいか事件を複雑に浪曼的に考え過ぎて困る。お前も探偵小説の愛読者かな」
「浪曼的にですって、お父さん。伊豆原君を犯人とするほど浪曼的なことはないじゃあありませんか。ね、美しい妖婦、その女を気狂いのように愛している良人、そして、弟と母の復讐をとげた若い貧しい芸術家−ね、このままで新聞の連載小説の筋書になりますよ。僕は筋書に満足するんじゃありませんよ。僕だって科学者のつもりです。事実を、裏に潜んでいる事実を知りたいんですよ」
伊豆原と久美子の因縁が明かされて、伊豆原に嫌疑がかかっているときは、上のような会話があったのだが、さて、事件当夜、久美子の前夫、坂田が屋敷の中に隠れていたことがわかってからは、こんなやりとりになる。
「前にはお前は、皆が伊豆原君を疑っていた時、一人であの男の無罪を証明しようとしておった。そしてまた、今度は坂田が犯人となると、急にそいつを犯人でないようにしようとしている。ーいったいお前はどういうんじゃ。わしにはお前の気持がようわからん。お前は、何かにつけて人に反対し、それで面白がっているように見える。お前は、ただ、人に反対さえしていれば、それで気がすむというのかね」
「違いますよ、お父さん。(中略)もしお父さんと異なった点があるとしたら、それは僕がお父さんより、いくらかこの事件に対して熱心だというだけのことでしょう」
挙げ句の果てに、老医師はこんなことを言い出す。
「な、新一、お前は、まだいろいろのことを云おうとしている。そしてその気持は、わしにもよくわかっておる。だが、なんにもこの場合だ、この際は、坂田を犯人だと考えてしまった方が、はるかに無難な考え方だとわしは思うのでな」
「無難だって、それァいけませんよお父さん」
「お前こそ、犬畜生にも劣った奴といわねばならん。下手な探偵の真似をしくさって、むやみに偉そうな理窟をこねまわしよって、わしには第一、その科学者面が気に喰わんわ。よいか、世の中にはな、ものの真の姿を見極めてよいものと悪いものとがある。わしも何も、お前が、真の姿を見極めてるとはいやあせんぞ。只、教えてやりたい。子供だと思えばこそ、我慢に我慢をして来ている。探偵なら、善良な探偵になってくれ。頼む。役にも立たんことを、しかも場合によっては人の一生を傷つけるようなことを、根掘り葉掘りほじくり返して(後略)」
「怒ったって仕方がありませんよ。僕はこうした性分なんです」
新一がいよいよクライマックスで謎ときに入ると、隣室で寝込んでいた老医師(中風の発作で左の手足が動かなくなった)は、ベッドからすべりおちて、額に汗をいっぱいかきながら這って、新一を阻止しようとする。名探偵が真相をあばくのを、肉親が必死で止めようとする、そんな探偵小説がかつてあっただろうか。
最終的に、ある手紙に、新一はこう書かれる。
「私は新一君をよく知っている。そしていつも気の毒な人だと思っている、あの人は非常に頭がいい。そして、その、頭がいいという点で、一生涯他人から好まれないのだ。新一君のお父さんは、あの通りの良い人だ。その子供である新一君が、どうしてあんなに他人から白眼視されるのか、そのわけは、新一君の理智が、人柄をすっかり冷たくしてしまったからだ」
「非常に強いような顔をしていても、世の中には、たいへん淋しい人がいる。新一君は、きっとその一人だろうと思う」
すごい、もう名探偵全否定に近い!
いや、これこそが、名探偵の宿命なのかもしれない。
さて、本書の興味は、事件の真相(トリックも使われていて、意外な真相が用意されている)にもあるが、淑子をめぐる恋愛関係にもある。
淑子は異母兄である良造に恋心を抱いていた。そして、名探偵の新一も淑子が好きなのだ。新一が意地になって事件の謎ときをしようとするのも、実は、淑子が良造に恋していることを知ってショックを受けたからでもあった。事件後、新一も人が変わったようにいい人になりつつあるようだ。また、伊豆原と淑子も憎からず思う間柄である。淑子の恋模様は今後どうなるのか。
この物語の最後は、次のような言葉でしめくくられる。
「こういうことは、結局なるようにしかなるものじゃないんだ。これから先きのことは、恋愛小説を書く人がうまく片をつけてくれらあね」
ドヒャー!この結末には、ひっくりかえった!
2010年も半分が過ぎた。
さて、今年は久々に探偵小説に特化した1年を送ろう、と決めていたのだが、実現しているかどうか。
とりあえず、1月1日からの半年で読み終えた本をあげてみると。
『ある詩人の挽歌』マイクル・イネス
『精神分析医』(上下)ジョン・カッツェンバック
『ドン・ジュアン』(上下)バイロン
『悪魔はすぐそこに』D・M・ディヴァイン
『復讐者の棺』石崎幸二
『陽気なギャングの日常と襲撃』伊坂幸太郎
『クライムマシン』ジャック・リッチー
『シカゴブルース』フレドリック・ブラウン
『三人のこびと』フレドリック・ブラウン
『月夜の狼』フレドリック・ブラウン
『死にいたる火星人の扉』フレドリック・ブラウン
『消された男』フレドリック・ブラウン
『パパが殺される!』フレドリック・ブラウン
『顔の中の落日』飛鳥高
『ガラスの檻』飛鳥高
『25時の妖精』大河内常平
『夜光獣』大河内常平
『黒い奇蹟』大河内常平
『悪魔博士』鮎川哲也
『黒い眠り』飛鳥高
『コララインとボタンの魔女』ニール・ゲイマン
『青いリボンの誘惑』飛鳥高
『虚ろな車』飛鳥高
『密室の妻』島久平
『灰色の視点』楠田匡介
『犯罪への招待』楠田匡介
『逃亡者』楠田匡介
『疑惑の星』楠田匡介
『四枚の壁』楠田匡介
『死の家の記録』楠田匡介
『死にぞこない』飛鳥高
『遠い女』小島直紀
『手は汚れない』久能啓二
『薔薇仮面』水谷準
『暗黒紳士』水谷準
『夜獣』水谷準
『悪魔の誕生』水谷準
『新現代日本文学全集 渡辺啓助集』
『汚れた顔の男』中村八朗
『なぜ、北海道はミステリー作家の宝庫なのか』鷲田小彌太、井上美香
『海底結婚式』渡辺啓助
『熊笹にかくれて』木々高太郎
『死者の殺人』城昌幸
『アトリエ殺人事件』高原弘吉
『黄昏の悪魔』角田喜久雄
『黒の烙印』鷲尾三郎
『その鉄柵の中で』鷲尾三郎
『黒い恐怖』鷲尾三郎
『悪魔が見ていた』鷲尾三郎
『虹の視角』鷲尾三郎
『歪んだ年輪』鷲尾三郎
『今日の男』柴田錬三郎
『甲賀三郎全集1』
『甲賀三郎全集2』
『甲賀三郎全集3』
『消えた花嫁』北町一郎
『紅い頸巻』岡田鯱彦
『犯罪探偵人生』甲賀三郎
『足音が聞こえる』渡辺啓助
『甲賀三郎全集5』
『海底散歩者』渡辺啓助
『探偵大いに笑う』北町一郎
『欧米推理小説翻訳史』長谷部史親
『噴火口上の殺人』岡田鯱彦
『最後の人』樹下太郎
『愛する人』樹下太郎
『落葉の柩』樹下太郎
『幽溟荘の殺人』岡田鯱彦
『夜の挨拶』樹下太郎
『ミステリーとの半世紀』佐野洋
『乱歩の軌跡』平井隆太郎
『屁のような人生』水木しげる
『不眠都市』樹下太郎
『砂の中の顔』下村明
『目撃者なし ホワイトカラー殺人事件』樹下太郎
『夜の巣』樹下太郎
『夫婦は他人』樹下太郎
『花の遠景』下村明
『密室入門!』有栖川有栖、安井俊夫
『鴉白書』渡辺啓助
『もうひとつの夜』樹下太郎
『休暇の死』樹下太郎
以上、82タイトル。上下巻もあるので、だいたい1か月に14冊ずつ読んでいる計算になる。冊数が重要なわけではないのだが、1冊読むのに2日以上かけているわけだから、ミステリの読者としては、ほとんど読んでいないに等しい結果だ。おまけに、この半年で一番面白かったのが、探偵小説のジャンルではない『ドン・ジュアン』だったのだから、何をしていることやら。バイロンの前では凡百のミステリ作家は太刀打ちできないけど!
さて、今年は久々に探偵小説に特化した1年を送ろう、と決めていたのだが、実現しているかどうか。
とりあえず、1月1日からの半年で読み終えた本をあげてみると。
『ある詩人の挽歌』マイクル・イネス
『精神分析医』(上下)ジョン・カッツェンバック
『ドン・ジュアン』(上下)バイロン
『悪魔はすぐそこに』D・M・ディヴァイン
『復讐者の棺』石崎幸二
『陽気なギャングの日常と襲撃』伊坂幸太郎
『クライムマシン』ジャック・リッチー
『シカゴブルース』フレドリック・ブラウン
『三人のこびと』フレドリック・ブラウン
『月夜の狼』フレドリック・ブラウン
『死にいたる火星人の扉』フレドリック・ブラウン
『消された男』フレドリック・ブラウン
『パパが殺される!』フレドリック・ブラウン
『顔の中の落日』飛鳥高
『ガラスの檻』飛鳥高
『25時の妖精』大河内常平
『夜光獣』大河内常平
『黒い奇蹟』大河内常平
『悪魔博士』鮎川哲也
『黒い眠り』飛鳥高
『コララインとボタンの魔女』ニール・ゲイマン
『青いリボンの誘惑』飛鳥高
『虚ろな車』飛鳥高
『密室の妻』島久平
『灰色の視点』楠田匡介
『犯罪への招待』楠田匡介
『逃亡者』楠田匡介
『疑惑の星』楠田匡介
『四枚の壁』楠田匡介
『死の家の記録』楠田匡介
『死にぞこない』飛鳥高
『遠い女』小島直紀
『手は汚れない』久能啓二
『薔薇仮面』水谷準
『暗黒紳士』水谷準
『夜獣』水谷準
『悪魔の誕生』水谷準
『新現代日本文学全集 渡辺啓助集』
『汚れた顔の男』中村八朗
『なぜ、北海道はミステリー作家の宝庫なのか』鷲田小彌太、井上美香
『海底結婚式』渡辺啓助
『熊笹にかくれて』木々高太郎
『死者の殺人』城昌幸
『アトリエ殺人事件』高原弘吉
『黄昏の悪魔』角田喜久雄
『黒の烙印』鷲尾三郎
『その鉄柵の中で』鷲尾三郎
『黒い恐怖』鷲尾三郎
『悪魔が見ていた』鷲尾三郎
『虹の視角』鷲尾三郎
『歪んだ年輪』鷲尾三郎
『今日の男』柴田錬三郎
『甲賀三郎全集1』
『甲賀三郎全集2』
『甲賀三郎全集3』
『消えた花嫁』北町一郎
『紅い頸巻』岡田鯱彦
『犯罪探偵人生』甲賀三郎
『足音が聞こえる』渡辺啓助
『甲賀三郎全集5』
『海底散歩者』渡辺啓助
『探偵大いに笑う』北町一郎
『欧米推理小説翻訳史』長谷部史親
『噴火口上の殺人』岡田鯱彦
『最後の人』樹下太郎
『愛する人』樹下太郎
『落葉の柩』樹下太郎
『幽溟荘の殺人』岡田鯱彦
『夜の挨拶』樹下太郎
『ミステリーとの半世紀』佐野洋
『乱歩の軌跡』平井隆太郎
『屁のような人生』水木しげる
『不眠都市』樹下太郎
『砂の中の顔』下村明
『目撃者なし ホワイトカラー殺人事件』樹下太郎
『夜の巣』樹下太郎
『夫婦は他人』樹下太郎
『花の遠景』下村明
『密室入門!』有栖川有栖、安井俊夫
『鴉白書』渡辺啓助
『もうひとつの夜』樹下太郎
『休暇の死』樹下太郎
以上、82タイトル。上下巻もあるので、だいたい1か月に14冊ずつ読んでいる計算になる。冊数が重要なわけではないのだが、1冊読むのに2日以上かけているわけだから、ミステリの読者としては、ほとんど読んでいないに等しい結果だ。おまけに、この半年で一番面白かったのが、探偵小説のジャンルではない『ドン・ジュアン』だったのだから、何をしていることやら。バイロンの前では凡百のミステリ作家は太刀打ちできないけど!
樹下太郎の長編推理小説『休暇の死』を読んだ。1962年。
ネタバレ、スタート。
第1章 妻の休暇
第2章 夫の休暇
第3章 天使の休暇
第4章 協子の休暇
第5章 休暇の終り
結婚後、1年に数日間だけ、夫の了承を得て、妻は休暇をとっていた。
どこに行って何をしているのかはいっさいわからないが、決して浮気ではないとのことだ。
そんな妻の休暇中、女の死体が発見された。
死体を確認すると、妻の衣服を着て、妻のバッグを持った見知らぬ女の死体だった。
しかし、もしも死体が妻ではないとしたら、この女を殺したのはきっと妻にちがいない、との思いから、「妻です」と認める。
女の死体の正体をさぐるうちに、井滝協子という女が浮かんできた。
井滝は『青草の声』という人生雑誌の定連投稿者で、その主宰の伊東という男と深い関係があるようだ。
伊東は語る。妻は事故で、妻を助けようとした青年を負傷させてしまい、5年後に結婚して、一生めんどうをみる約束をしていた。1年のうちの数日間だけ、その青年に会っていたのだ。妻は人並みな結婚生活もしたい、と願っており、結婚をした。しかし、5年後には青年との結婚の約束がある。自分を死んだことにして、夫にはあきらめてもらおう、としたのだ。井滝は、死体の替え玉として、ふだんから自殺傾向のある女性だったので、目をつけられたのである。伊東は、妻の兄である。
一方、生きていた妻は、語った。
兄、伊東は井滝とつきあっていたが、うっとうしくなってきて、始末したのだ、と。
井滝殺害に手を下したのは、伊東だった。
最後に伊東の動機が語られる。
伊東は、妹があまりにも善意のかたまりであることに苛立っていた。自分のせいでもない事故で負傷した青年のために、一生を棒にふろうとしているのだ。
そんな完全な善人など存在は許されない。
伊東は妹を犯罪に巻き込んで、完全な善人であることに傷をつけたのだ。
さて、この本は1962年に出版されているが、こんな描写がある。
刑事が夫婦のアパートを訪れた際の会話。
「六畳と四畳半ですか」
「ええ」
「これじゃあ部屋代は高いんでしょうな」
「それ程でもありませんよ」
「トイレも部屋についてるんですか」
「ええ」
また、井滝協子の部屋は、北側の暗い三畳で、家具調度類は鏡台と箪笥、茶箪笥のみ。
推理小説だと、大きな洋館などが舞台になることも多いが、この時代の一般の人々の生活ってのは、こんな感じだったのだ。そんなに昔の話ではない、既に僕はこの世に生を受けている時代のことだ。自分って、ひょっとして、贅沢なんじゃないか、と反省してしまった。
ネタバレ、スタート。
第1章 妻の休暇
第2章 夫の休暇
第3章 天使の休暇
第4章 協子の休暇
第5章 休暇の終り
結婚後、1年に数日間だけ、夫の了承を得て、妻は休暇をとっていた。
どこに行って何をしているのかはいっさいわからないが、決して浮気ではないとのことだ。
そんな妻の休暇中、女の死体が発見された。
死体を確認すると、妻の衣服を着て、妻のバッグを持った見知らぬ女の死体だった。
しかし、もしも死体が妻ではないとしたら、この女を殺したのはきっと妻にちがいない、との思いから、「妻です」と認める。
女の死体の正体をさぐるうちに、井滝協子という女が浮かんできた。
井滝は『青草の声』という人生雑誌の定連投稿者で、その主宰の伊東という男と深い関係があるようだ。
伊東は語る。妻は事故で、妻を助けようとした青年を負傷させてしまい、5年後に結婚して、一生めんどうをみる約束をしていた。1年のうちの数日間だけ、その青年に会っていたのだ。妻は人並みな結婚生活もしたい、と願っており、結婚をした。しかし、5年後には青年との結婚の約束がある。自分を死んだことにして、夫にはあきらめてもらおう、としたのだ。井滝は、死体の替え玉として、ふだんから自殺傾向のある女性だったので、目をつけられたのである。伊東は、妻の兄である。
一方、生きていた妻は、語った。
兄、伊東は井滝とつきあっていたが、うっとうしくなってきて、始末したのだ、と。
井滝殺害に手を下したのは、伊東だった。
最後に伊東の動機が語られる。
伊東は、妹があまりにも善意のかたまりであることに苛立っていた。自分のせいでもない事故で負傷した青年のために、一生を棒にふろうとしているのだ。
そんな完全な善人など存在は許されない。
伊東は妹を犯罪に巻き込んで、完全な善人であることに傷をつけたのだ。
さて、この本は1962年に出版されているが、こんな描写がある。
刑事が夫婦のアパートを訪れた際の会話。
「六畳と四畳半ですか」
「ええ」
「これじゃあ部屋代は高いんでしょうな」
「それ程でもありませんよ」
「トイレも部屋についてるんですか」
「ええ」
また、井滝協子の部屋は、北側の暗い三畳で、家具調度類は鏡台と箪笥、茶箪笥のみ。
推理小説だと、大きな洋館などが舞台になることも多いが、この時代の一般の人々の生活ってのは、こんな感じだったのだ。そんなに昔の話ではない、既に僕はこの世に生を受けている時代のことだ。自分って、ひょっとして、贅沢なんじゃないか、と反省してしまった。
樹下太郎の『もうひとつの夜』を読んだ。1962年。
7編の推理小説が収録されている。
順に簡単にメモ。ネタバレしてるので、要注意。
「もうひとつの夜」
中編ほどの長さ。
親子3人で海水浴にいったときのスナップ写真に、ある男の姿が写っていた。
男の名前は須山定夫。
妻、京子はこの須山に一度だけ体を許したのだ。
もう2度と会うまいと決めた京子だったが、須山から脅迫めいた熱烈な手紙が届くようになった矢先のことだった。
一方、夫の広忠は、見知らぬ男が写真に写っていたのを、素行不良でクビにした部下、沢本が何らかの嫌がらせをはじめたものと解釈していた。
執念深い広忠が、写真の男を徹底的に追究して正体をあばくことになるのは目に見えており、妻、京子は不安でしかたがない。
京子は須山に会って、あんなことはやめてくれと直談判する。
一方、広忠は須山の写真を見せながら、最古参の女子社員まさ代に、沢本の件で相談をもちかけていた。
この、まさ代という女がくせもので、上司の広忠にひそかに愛情を抱いていた。そして、沢本に会って話して探った結果、どうやら海水浴場での一件は沢本と無関係だと気づく。そして、写真の男(須山)と京子が一緒にいる現場を目撃するのだ。
京子は計画をたてる。広忠に恨みを抱いている沢本を利用して、広忠と京子の仲を壊そうとする。
沢本は京子を脅迫する。
広忠、京子の夫婦の仲は風前の灯。
夫婦仲を壊して復讐しようとする沢本。離婚してしまえば京子と仲良くなろうとしている須山。別れたら自分が広忠の愛情をひとりじめしようともくろむまさ代。
「おそい青春」
住宅地で、新婚の妻が殺された。夫は浮橋利三郎、殺された妻はやす子。
下駄の歯にはさまっていたオーバーのボタンが手がかりになるかもしれないが、確証はない。
一方、浮橋の同僚、プレイボーイの大谷は不思議なバツイチ体験をしていた。
きぬ江という女と結婚したが、1年とたたないうちに、一方的に離婚を懇願されたのだ。理由は大谷には関係のないことだと言って、詳しくは教えてくれない。
そんなある日、きぬ江がガス中毒で死にかけたことを新聞で知る。
見舞いに行った大谷は、久しぶりに別れたきぬ江と再会。
その際に浮橋の妻が殺された話をして、浮橋がゲッソリしていることを言うと、きぬ江は「いい気味だわ」と呟いた。
浮橋ときぬ江に何か因縁があるのか?
浮橋はその友人が日暮里に住んでおり、同じく日暮里に暮らすきぬ江の一家のことをよく知っている、ということぐらいしかつながりはなさそうなのに。
一昨年、きぬ江の姉、雅子は過酷な労働で家族の柱となって青春をすりへらし、あげくのはてに心臓マヒで急死していた。その後、きぬ江は勤めに出るようになった。
さて。
きぬ江は自分の過去が浮橋の口から大谷に伝わるのではないか、と心配して、大谷と急に別れることにした。
その過去、真相とは。
きぬ江は実は雅子だった。妹のきぬ江が急死したとき、雅子は自分が死んだことにして、7つ年下のきぬ江として生き、犠牲にした青春を取り戻そうとしていたのだ。
「殺人以後」
婚約者に、愛人が出来たので急に別れるとか言われて逆上した男が、女を刺し殺した。
しかし、死体は完全な処女だった。
なぜ、女は急に別れるなどと言い出したのか。
女は、知られたくない秘密をもっており、それを知る者に脅されていた。
無理矢理犯されそうになったその男に、ある秘密を知られてしまったのだ。
その秘密とは。
無毛症!
「夜が来て朝が来て」
テレビにうつった殺人事件の被害者、長谷川三穂の写真は、どう見ても去年既に死んでいる大池登美子にみえた。
志村は2年前、バー「寄港地」で大池と知り合った。何度か肉体関係があった後、急に大池は姿を消し、3か月後に大型トラックにひかれて死んだことを知る。
だが、腕のつけねのホクロの特徴から、長谷川三穂を名乗る死体こそが、大池であることを知る。では、トラックに轢かれて死んだのはいったい誰なのか。
長谷川三穂と大池登美子はルームメイトで名前をすりかえていたのだ。
志村は、生前、大池がかつて働いていた会社の上司に強姦されたことをきいており、その上司が怪しい、とのりこんでいく。
「白いシルエット」
飲み屋の栄子が、やけに誘惑してくる。
津田は、栄子のアパートにまで行って、栄子は裸になる。
そして、栄子は言うのだ。「あなたからの借りを返したかったの」
会社の裏取引で、栄子は柿沼という男の悪事を津田がやったことと証言し、そのせいで、知らないあいだに津田は左遷させられていたのだ。
今までそんなことには全く気づかなかったうかつな津田だったが、今またもや栄子が自分をだまして殺そうとしているのを知って、愕然とする。
「身許不明の女」
脳出血で死んだ業務部長の私物を整理していた能登は、シガレットケースから落ちた写真を手にした。裏には笙子と書いてある。
業務部長の未亡人に会うと、未亡人は、業務部長が女遊びがはげしく、そのつど、自分が尻ぬぐいをしてきた、と打ち明けた。
能登は「笙子」の名の入った写真を見せると、未亡人は、急に死んだ夫ばかり遊ばせてきた復讐とばかりに、能登を誘惑する。
その後、ある殺人事件の被害者のモンタージュ写真を見て、能登は驚く。笙子だ!
未亡人は笙子を知っており、「尻ぬぐい」をしたのではないか。そして、その口止め料として、肉体を提供したのではないか。
能登は未亡人にその推理を告げると、未亡人はあっさりとそれを認めた。
しばらく後、バーで笙子そっくりの女性に出会う。
能登は思いきってきいてみた。
「笙子さんていう名前じゃないか?」
「ええ。一時、そういう名前でコールガールしていたことがあるわ」
笙子は生きていた。
未亡人は、自分が忘れられてしまうのがいやで、嘘をついていたのだ。
「暗い部屋」
工場の班長が殺された。
その日、おれは女が夜こっそりと忍んでくる、という約束を真に受けて、部屋の電気を消して待っていたのだ。
だが、電灯が消えていたことがアダになって、班長殺しの時間に、自室にいなかったと思われてしまった。アリバイが成立しない。
遅くなってやってきた女と、一緒にいたという証言も、偽りのものと思われそうだ。
おれは、女が自分の部屋に来ていたという証拠に気づく。
部屋の中に、女の髪の毛がきっと落ちているはずなのだ。
7編の推理小説が収録されている。
順に簡単にメモ。ネタバレしてるので、要注意。
「もうひとつの夜」
中編ほどの長さ。
親子3人で海水浴にいったときのスナップ写真に、ある男の姿が写っていた。
男の名前は須山定夫。
妻、京子はこの須山に一度だけ体を許したのだ。
もう2度と会うまいと決めた京子だったが、須山から脅迫めいた熱烈な手紙が届くようになった矢先のことだった。
一方、夫の広忠は、見知らぬ男が写真に写っていたのを、素行不良でクビにした部下、沢本が何らかの嫌がらせをはじめたものと解釈していた。
執念深い広忠が、写真の男を徹底的に追究して正体をあばくことになるのは目に見えており、妻、京子は不安でしかたがない。
京子は須山に会って、あんなことはやめてくれと直談判する。
一方、広忠は須山の写真を見せながら、最古参の女子社員まさ代に、沢本の件で相談をもちかけていた。
この、まさ代という女がくせもので、上司の広忠にひそかに愛情を抱いていた。そして、沢本に会って話して探った結果、どうやら海水浴場での一件は沢本と無関係だと気づく。そして、写真の男(須山)と京子が一緒にいる現場を目撃するのだ。
京子は計画をたてる。広忠に恨みを抱いている沢本を利用して、広忠と京子の仲を壊そうとする。
沢本は京子を脅迫する。
広忠、京子の夫婦の仲は風前の灯。
夫婦仲を壊して復讐しようとする沢本。離婚してしまえば京子と仲良くなろうとしている須山。別れたら自分が広忠の愛情をひとりじめしようともくろむまさ代。
「おそい青春」
住宅地で、新婚の妻が殺された。夫は浮橋利三郎、殺された妻はやす子。
下駄の歯にはさまっていたオーバーのボタンが手がかりになるかもしれないが、確証はない。
一方、浮橋の同僚、プレイボーイの大谷は不思議なバツイチ体験をしていた。
きぬ江という女と結婚したが、1年とたたないうちに、一方的に離婚を懇願されたのだ。理由は大谷には関係のないことだと言って、詳しくは教えてくれない。
そんなある日、きぬ江がガス中毒で死にかけたことを新聞で知る。
見舞いに行った大谷は、久しぶりに別れたきぬ江と再会。
その際に浮橋の妻が殺された話をして、浮橋がゲッソリしていることを言うと、きぬ江は「いい気味だわ」と呟いた。
浮橋ときぬ江に何か因縁があるのか?
浮橋はその友人が日暮里に住んでおり、同じく日暮里に暮らすきぬ江の一家のことをよく知っている、ということぐらいしかつながりはなさそうなのに。
一昨年、きぬ江の姉、雅子は過酷な労働で家族の柱となって青春をすりへらし、あげくのはてに心臓マヒで急死していた。その後、きぬ江は勤めに出るようになった。
さて。
きぬ江は自分の過去が浮橋の口から大谷に伝わるのではないか、と心配して、大谷と急に別れることにした。
その過去、真相とは。
きぬ江は実は雅子だった。妹のきぬ江が急死したとき、雅子は自分が死んだことにして、7つ年下のきぬ江として生き、犠牲にした青春を取り戻そうとしていたのだ。
「殺人以後」
婚約者に、愛人が出来たので急に別れるとか言われて逆上した男が、女を刺し殺した。
しかし、死体は完全な処女だった。
なぜ、女は急に別れるなどと言い出したのか。
女は、知られたくない秘密をもっており、それを知る者に脅されていた。
無理矢理犯されそうになったその男に、ある秘密を知られてしまったのだ。
その秘密とは。
無毛症!
「夜が来て朝が来て」
テレビにうつった殺人事件の被害者、長谷川三穂の写真は、どう見ても去年既に死んでいる大池登美子にみえた。
志村は2年前、バー「寄港地」で大池と知り合った。何度か肉体関係があった後、急に大池は姿を消し、3か月後に大型トラックにひかれて死んだことを知る。
だが、腕のつけねのホクロの特徴から、長谷川三穂を名乗る死体こそが、大池であることを知る。では、トラックに轢かれて死んだのはいったい誰なのか。
長谷川三穂と大池登美子はルームメイトで名前をすりかえていたのだ。
志村は、生前、大池がかつて働いていた会社の上司に強姦されたことをきいており、その上司が怪しい、とのりこんでいく。
「白いシルエット」
飲み屋の栄子が、やけに誘惑してくる。
津田は、栄子のアパートにまで行って、栄子は裸になる。
そして、栄子は言うのだ。「あなたからの借りを返したかったの」
会社の裏取引で、栄子は柿沼という男の悪事を津田がやったことと証言し、そのせいで、知らないあいだに津田は左遷させられていたのだ。
今までそんなことには全く気づかなかったうかつな津田だったが、今またもや栄子が自分をだまして殺そうとしているのを知って、愕然とする。
「身許不明の女」
脳出血で死んだ業務部長の私物を整理していた能登は、シガレットケースから落ちた写真を手にした。裏には笙子と書いてある。
業務部長の未亡人に会うと、未亡人は、業務部長が女遊びがはげしく、そのつど、自分が尻ぬぐいをしてきた、と打ち明けた。
能登は「笙子」の名の入った写真を見せると、未亡人は、急に死んだ夫ばかり遊ばせてきた復讐とばかりに、能登を誘惑する。
その後、ある殺人事件の被害者のモンタージュ写真を見て、能登は驚く。笙子だ!
未亡人は笙子を知っており、「尻ぬぐい」をしたのではないか。そして、その口止め料として、肉体を提供したのではないか。
能登は未亡人にその推理を告げると、未亡人はあっさりとそれを認めた。
しばらく後、バーで笙子そっくりの女性に出会う。
能登は思いきってきいてみた。
「笙子さんていう名前じゃないか?」
「ええ。一時、そういう名前でコールガールしていたことがあるわ」
笙子は生きていた。
未亡人は、自分が忘れられてしまうのがいやで、嘘をついていたのだ。
「暗い部屋」
工場の班長が殺された。
その日、おれは女が夜こっそりと忍んでくる、という約束を真に受けて、部屋の電気を消して待っていたのだ。
だが、電灯が消えていたことがアダになって、班長殺しの時間に、自室にいなかったと思われてしまった。アリバイが成立しない。
遅くなってやってきた女と、一緒にいたという証言も、偽りのものと思われそうだ。
おれは、女が自分の部屋に来ていたという証拠に気づく。
部屋の中に、女の髪の毛がきっと落ちているはずなのだ。
渡辺啓助の『鴉白書』を読んだ。『小説推理』に連載されたエッセイを中心にまとめられた「探偵横丁下宿人」と、「鳩の血と鴉の黒」が収録されている。
まず、「探偵横丁下宿人」は、『新青年』の回想からはじまって、ときにあちこち寄り道しながら、探偵小説と著者との関わりを語っている。
乱歩が幻影城主だと考えると、渡辺啓助が下宿人と名乗ることの奥ゆかしさがきわだつ。
以下、その下宿人がどんなことについて語っているかをぱらぱらとあげてみよう。
新青年/「1930年代の渋滞感とニヒリスティックな退屈感から、自分をまぎらわし、忘れ去るために、「新青年」は、われわれにとって恰好な鎮静剤の役割をはたしてくれたのかも知れない」
メール・ストローム代訳/吉本隆明の『手品のように、読者を引き込んでゆく渦巻の印象が、もっとも鮮やかに、ポーの<物質>のイメージを暗示している』などの文章で、当時の圧倒された記憶を呼びかえす。
温/弟、温の死が啓助を物書きたるべく方向づける。告別式は森下雨村邸、通夜は横溝正史邸。辻潤が般若心経を誦経。
水谷準/叱咤激励せず、ドライな調子で事務的に言う言葉に、啓助は抵抗できず、また支持力を感じる。作家になるにあたって、水谷準の「ジャーナリズムにもみくちゃにされる覚悟だけはしておいたほうがいいよ」の忠告は、啓助の偏向的な性分によって回避されたが、「そのことは、結局、私をして、大衆作家として大成させなかった理由でもある」とか書いている。
妹尾アキ夫/「大衆雑誌に書いているが、筆が荒れている。かつての良さが無くなってるじゃないか」の直言に、「ぼくはできるだけ俗っぽい作家になれたらなりたい」と返したが、これは自分の文学青年的なひよわさについての反対願望だったと告白。
外地小説/啓助は書斎旅行者で、「さも経験ゆたかな旅行者らしく見せかけて外地を舞台にした嘘の小説を幾つも書いた」が、美川きよと満州から北京に特派記者として前線に出発。
アミーバ赤痢にかかる。
北京原人/ロックフェラー病院の地下室に保管されているはずの北京原人の頭蓋骨が在るべきところに無かった事実が、啓助をひきつける。「新青年」に発表した「北京人類」は松竹でドタバタミュージカルとして上演される。
薔薇雑記/「シュピオ」に連載した「薔薇雑記」は、バラバラな雑記という程の意味。大下宇陀児の皿まわしの曲芸の話など。
油脂爆弾/家の勝手口に落ちた50キロの油脂爆弾が不発。爆弾処理班によって信管を抜いた後、爆弾の油脂を使って風呂を焚く。
久生十蘭/戦前に夜更けの銀座界隈を歩いた思い出。
小栗虫太郎/虫太郎は雷嫌いで、三軒茶屋の自宅で、天井を仰いで『ちょうどこの屋根の上あたりが雷の通るコースになっている』、しかし引っ越しも出来かねる、と歎いた話。
渋川/映画「日本の悪霊」に疎開先の渋川が映っていた話。そこで起こった暴力団間の殺人。原稿の件で汽車で上京したときの体験が「桃色の食慾」「悪魔の下車駅」を生んだ。
渡辺剣次/東京に戻った啓助宅に足繁く往来。
スリラーショウ誌上展/「宝石」の巻頭グラビアで多摩川園の化物屋敷に乱歩や山村正夫らと行ったこと。
こんな調子ではいくらでも長くなるな。これより後は、はしょって。
大坪砂男のこと/金歯を売った話
山田風太郎からの葉書/玩具の「ウンコ」「オナラ」について
SF/同人誌「科学小説」のこと
聖徳会教会/グルニエ「地中海の瞑想」バタイユ「眼球譚」を読んで、セビーリアのサンタ・カリダ教会に行こうとしたが、「魔女の鞭」(ぎっくり腰)で行けず。
泥棒/推理作家の家に泥棒が入り、その侵入経路が不明な謎。
日本探偵作家クラブ/4代め会長になったこと。乗物恐怖症の横溝正史を囲む会を盛会に終わらせたこと。
江戸川乱歩/壁にかかるベックリンの「死の島」、ひょいとくれた「黒衣の花嫁」、他界後に見せてもらった「貼雑年譜」、シムノンを迎えるために改造した洋間、「芋虫」、芋氷、乱歩危篤のにせ電話
会長任期中の話/正木ひろし弁護士講演、レコード「黒い足音」、東大医学部標本室見学、自衛隊機搭乗、ローレンス・トリート来訪
カラス/ポオ、テッド・ヒューズ、ピーター・S・ビーグル、「戒厳令の夜」、村上昭夫
還暦祝い/画家の御生伸との再会
蔵書のなかの本探し/晩年の乱歩が記憶力減退を歎いた話。
火星地主/楽しい空想が僅かばかりのコインで買えたことが一種のリアリティを与え、この警抜な発想がどんなサイエンス・フィクションにもまして啓助たちを悦ばせた。
天草行/かくれキリシタン
高木彬光/直情径行。叔父の高木恭造の方言詩集「まるめろ」を筆写して届けられたこと。
萩原朔太郎/探偵詩について
城昌幸/和服愛用者で、戦時中でも和服でとおした。家は寝殿造りで格天井には若さまざむらいが極彩色で描かれている。
大薮春彦盗作事件/盗作は悪いこと、という建前と、本音。中井英夫は「記事が常に盗作は悪とする常識論を錦の御旗として掲げるのは興味深い」と、かつて大衆が黒岩涙香の翻案に喜び、また大薮作品の新作を面白がっていることをとりあげる。また、三島由紀夫はこう答えた。「日本の大衆小説の殆どは、外国ダネだから、盗むなんてのは不思議ではない。まぁ一流文学は外国文学を下敷きにして、二流文学は盗むというところだ。大体、大薮君のように作品中でバカスカ人を殺して金を盗む作家が、人の作品を盗まなければおかしい。まぁ読んで面白ければ、それでいいではないですか」
被盗作の想い出/かつて新潮社の「日の出」に載せた「じゃがたらお春」が浅草でそのまま演じられていた。啓助は思う。このゴミっぽい浅草六区で私の作品がこんな形で大衆にふれあえるとしたら、それはそれでトテモ結構なことではないか。
中井英夫/とりわけ好きなのは「黒鳥の旅もしくは幻想庭園」。個展で中井英夫詩集から「眠る人へ」をきままな書方で書いたらすぐに売れた。
鮎川哲也/鎌倉でみごとなパンクチュアル
「鳩の血と鴉の黒」は、エッセイなのかな、と読んでいたら、カラスのクール・パンカと会話がはじまって、いつの間にやら虚構に引きずり込まれている作品だった。
澁澤の作品にこういうのがよくあったように思う。
あとがきでは、夭折した天才画家、関根正二について語っている。若くして死んだ彼や、弟の温のために、大働きすべきだ、と思い込むようになった、とか。
まず、「探偵横丁下宿人」は、『新青年』の回想からはじまって、ときにあちこち寄り道しながら、探偵小説と著者との関わりを語っている。
乱歩が幻影城主だと考えると、渡辺啓助が下宿人と名乗ることの奥ゆかしさがきわだつ。
以下、その下宿人がどんなことについて語っているかをぱらぱらとあげてみよう。
新青年/「1930年代の渋滞感とニヒリスティックな退屈感から、自分をまぎらわし、忘れ去るために、「新青年」は、われわれにとって恰好な鎮静剤の役割をはたしてくれたのかも知れない」
メール・ストローム代訳/吉本隆明の『手品のように、読者を引き込んでゆく渦巻の印象が、もっとも鮮やかに、ポーの<物質>のイメージを暗示している』などの文章で、当時の圧倒された記憶を呼びかえす。
温/弟、温の死が啓助を物書きたるべく方向づける。告別式は森下雨村邸、通夜は横溝正史邸。辻潤が般若心経を誦経。
水谷準/叱咤激励せず、ドライな調子で事務的に言う言葉に、啓助は抵抗できず、また支持力を感じる。作家になるにあたって、水谷準の「ジャーナリズムにもみくちゃにされる覚悟だけはしておいたほうがいいよ」の忠告は、啓助の偏向的な性分によって回避されたが、「そのことは、結局、私をして、大衆作家として大成させなかった理由でもある」とか書いている。
妹尾アキ夫/「大衆雑誌に書いているが、筆が荒れている。かつての良さが無くなってるじゃないか」の直言に、「ぼくはできるだけ俗っぽい作家になれたらなりたい」と返したが、これは自分の文学青年的なひよわさについての反対願望だったと告白。
外地小説/啓助は書斎旅行者で、「さも経験ゆたかな旅行者らしく見せかけて外地を舞台にした嘘の小説を幾つも書いた」が、美川きよと満州から北京に特派記者として前線に出発。
アミーバ赤痢にかかる。
北京原人/ロックフェラー病院の地下室に保管されているはずの北京原人の頭蓋骨が在るべきところに無かった事実が、啓助をひきつける。「新青年」に発表した「北京人類」は松竹でドタバタミュージカルとして上演される。
薔薇雑記/「シュピオ」に連載した「薔薇雑記」は、バラバラな雑記という程の意味。大下宇陀児の皿まわしの曲芸の話など。
油脂爆弾/家の勝手口に落ちた50キロの油脂爆弾が不発。爆弾処理班によって信管を抜いた後、爆弾の油脂を使って風呂を焚く。
久生十蘭/戦前に夜更けの銀座界隈を歩いた思い出。
小栗虫太郎/虫太郎は雷嫌いで、三軒茶屋の自宅で、天井を仰いで『ちょうどこの屋根の上あたりが雷の通るコースになっている』、しかし引っ越しも出来かねる、と歎いた話。
渋川/映画「日本の悪霊」に疎開先の渋川が映っていた話。そこで起こった暴力団間の殺人。原稿の件で汽車で上京したときの体験が「桃色の食慾」「悪魔の下車駅」を生んだ。
渡辺剣次/東京に戻った啓助宅に足繁く往来。
スリラーショウ誌上展/「宝石」の巻頭グラビアで多摩川園の化物屋敷に乱歩や山村正夫らと行ったこと。
こんな調子ではいくらでも長くなるな。これより後は、はしょって。
大坪砂男のこと/金歯を売った話
山田風太郎からの葉書/玩具の「ウンコ」「オナラ」について
SF/同人誌「科学小説」のこと
聖徳会教会/グルニエ「地中海の瞑想」バタイユ「眼球譚」を読んで、セビーリアのサンタ・カリダ教会に行こうとしたが、「魔女の鞭」(ぎっくり腰)で行けず。
泥棒/推理作家の家に泥棒が入り、その侵入経路が不明な謎。
日本探偵作家クラブ/4代め会長になったこと。乗物恐怖症の横溝正史を囲む会を盛会に終わらせたこと。
江戸川乱歩/壁にかかるベックリンの「死の島」、ひょいとくれた「黒衣の花嫁」、他界後に見せてもらった「貼雑年譜」、シムノンを迎えるために改造した洋間、「芋虫」、芋氷、乱歩危篤のにせ電話
会長任期中の話/正木ひろし弁護士講演、レコード「黒い足音」、東大医学部標本室見学、自衛隊機搭乗、ローレンス・トリート来訪
カラス/ポオ、テッド・ヒューズ、ピーター・S・ビーグル、「戒厳令の夜」、村上昭夫
還暦祝い/画家の御生伸との再会
蔵書のなかの本探し/晩年の乱歩が記憶力減退を歎いた話。
火星地主/楽しい空想が僅かばかりのコインで買えたことが一種のリアリティを与え、この警抜な発想がどんなサイエンス・フィクションにもまして啓助たちを悦ばせた。
天草行/かくれキリシタン
高木彬光/直情径行。叔父の高木恭造の方言詩集「まるめろ」を筆写して届けられたこと。
萩原朔太郎/探偵詩について
城昌幸/和服愛用者で、戦時中でも和服でとおした。家は寝殿造りで格天井には若さまざむらいが極彩色で描かれている。
大薮春彦盗作事件/盗作は悪いこと、という建前と、本音。中井英夫は「記事が常に盗作は悪とする常識論を錦の御旗として掲げるのは興味深い」と、かつて大衆が黒岩涙香の翻案に喜び、また大薮作品の新作を面白がっていることをとりあげる。また、三島由紀夫はこう答えた。「日本の大衆小説の殆どは、外国ダネだから、盗むなんてのは不思議ではない。まぁ一流文学は外国文学を下敷きにして、二流文学は盗むというところだ。大体、大薮君のように作品中でバカスカ人を殺して金を盗む作家が、人の作品を盗まなければおかしい。まぁ読んで面白ければ、それでいいではないですか」
被盗作の想い出/かつて新潮社の「日の出」に載せた「じゃがたらお春」が浅草でそのまま演じられていた。啓助は思う。このゴミっぽい浅草六区で私の作品がこんな形で大衆にふれあえるとしたら、それはそれでトテモ結構なことではないか。
中井英夫/とりわけ好きなのは「黒鳥の旅もしくは幻想庭園」。個展で中井英夫詩集から「眠る人へ」をきままな書方で書いたらすぐに売れた。
鮎川哲也/鎌倉でみごとなパンクチュアル
「鳩の血と鴉の黒」は、エッセイなのかな、と読んでいたら、カラスのクール・パンカと会話がはじまって、いつの間にやら虚構に引きずり込まれている作品だった。
澁澤の作品にこういうのがよくあったように思う。
あとがきでは、夭折した天才画家、関根正二について語っている。若くして死んだ彼や、弟の温のために、大働きすべきだ、と思い込むようになった、とか。
ミステリ作家の有栖川有栖と一級建築士の安井俊夫の対談をまとめた『密室入門!』を読んだ。ナレッジエンタ(ナレッジ+エンタテインメント)読本のシリーズ。
以下、目次。
ミステリ作家は、なぜ密室を書くのか?/有栖川有栖
第1章 密室とはいかなるものか
はじめての世界/「密室」とは何か?/密室殺人は現実に起きる?/密室の根源には恐怖がある/ミステリファンは、なぜ図版に弱いのか?/密室なんか、作れない!?
第2章 密室の分類
密室を分類してみましょう/カーの密室講義/機械トリックが大活躍/鰹節と糸のトリック!?/天城一の密室作法/「不完全密室」と「完全密室」/他殺の完全密室、「内出血密室」!?/「内出血密室」の基本と応用/密室犯罪の王座「純密室犯罪」/被害者を出し入れする「逆密室」/究極たる「超純密室」!/必ずどれかに分類される/密室を作る必然性
第3章 密室を建築から考える
建築的な密室講義/密室の土台となる「床」/空間を区切る「壁」/密室にふたをする「天井」/天井はいらない場合も!?/2種類ある「出入り口扉」/様々な種類がある「窓」/密室を、形態で分類する/やっぱり、密室は作れません!/閉じていく密室と開いていく密室
第4章 作家が知りたい建築事情
作家は鍵の勉強が必要?/電子ロックと生体認証はすごい!/かんぬきはどこにある?/日本家屋で密室は作れない?/意外にある「開口部」/人が潜める「床下」/戻せない「畳」/屋根裏の散歩者になれる?/エレベーターの秘密/床暖房でブレーカーを落とす/建築的に面白い密室
第5章 ミステリと建築の密接な関係
作家と建築家は宿敵だった/怪しい館は建てられる?/わかりにくい図版の謎/建築家の登場とミステリの符合/最も奇怪な建築物『黒死館』/ミステリをずっと楽しむ方法/小説の犯罪者は大変だ!/作家と建築家は似すぎている?
第6章 密室の未来
社会は密室化していっている!/密室殺人を恐れる気持ちは高まっている/密室の変化/密室の未来
『密室入門!』的ブックガイド
素晴らしきミステリへの誘い/安井俊夫
巻末のブックガイドでは、有栖川氏は「爬虫類館の殺人」「道化師の檻」「球形の楽園」、安井氏は「白い僧院の殺人」「見えないグリーン」「斜め屋敷の犯罪」をあげている。
トリックだけをとってみれば、若い作家たちが、まるで毎週名探偵コナンを見れるような感覚で大量生産している。ライトノベルにかぎって類別トリック集成を作ってみれば、さぞや愉快な本が出来るんじゃなかろうか、と思う。特に、最近の僕の読書傾向を見ていただければわかるように、ミステリでありながら、とくにトリックのない小説を落ち穂拾いのように読んでいて、本書のように密室に焦点をあわせた本を読むと、まるで別世界の話のようであった。
本書では、密室にとことんこだわった内容でありながら、行き過ぎた議論の部分はカットしてある。カットした部分を好事家のためにまとめて出してくれると、これもまた面白いんじゃないか、と思う。そういうムダ話こそが、今や主流のミステリなんじゃないか、という気もするのである。
以下、目次。
ミステリ作家は、なぜ密室を書くのか?/有栖川有栖
第1章 密室とはいかなるものか
はじめての世界/「密室」とは何か?/密室殺人は現実に起きる?/密室の根源には恐怖がある/ミステリファンは、なぜ図版に弱いのか?/密室なんか、作れない!?
第2章 密室の分類
密室を分類してみましょう/カーの密室講義/機械トリックが大活躍/鰹節と糸のトリック!?/天城一の密室作法/「不完全密室」と「完全密室」/他殺の完全密室、「内出血密室」!?/「内出血密室」の基本と応用/密室犯罪の王座「純密室犯罪」/被害者を出し入れする「逆密室」/究極たる「超純密室」!/必ずどれかに分類される/密室を作る必然性
第3章 密室を建築から考える
建築的な密室講義/密室の土台となる「床」/空間を区切る「壁」/密室にふたをする「天井」/天井はいらない場合も!?/2種類ある「出入り口扉」/様々な種類がある「窓」/密室を、形態で分類する/やっぱり、密室は作れません!/閉じていく密室と開いていく密室
第4章 作家が知りたい建築事情
作家は鍵の勉強が必要?/電子ロックと生体認証はすごい!/かんぬきはどこにある?/日本家屋で密室は作れない?/意外にある「開口部」/人が潜める「床下」/戻せない「畳」/屋根裏の散歩者になれる?/エレベーターの秘密/床暖房でブレーカーを落とす/建築的に面白い密室
第5章 ミステリと建築の密接な関係
作家と建築家は宿敵だった/怪しい館は建てられる?/わかりにくい図版の謎/建築家の登場とミステリの符合/最も奇怪な建築物『黒死館』/ミステリをずっと楽しむ方法/小説の犯罪者は大変だ!/作家と建築家は似すぎている?
第6章 密室の未来
社会は密室化していっている!/密室殺人を恐れる気持ちは高まっている/密室の変化/密室の未来
『密室入門!』的ブックガイド
素晴らしきミステリへの誘い/安井俊夫
巻末のブックガイドでは、有栖川氏は「爬虫類館の殺人」「道化師の檻」「球形の楽園」、安井氏は「白い僧院の殺人」「見えないグリーン」「斜め屋敷の犯罪」をあげている。
トリックだけをとってみれば、若い作家たちが、まるで毎週名探偵コナンを見れるような感覚で大量生産している。ライトノベルにかぎって類別トリック集成を作ってみれば、さぞや愉快な本が出来るんじゃなかろうか、と思う。特に、最近の僕の読書傾向を見ていただければわかるように、ミステリでありながら、とくにトリックのない小説を落ち穂拾いのように読んでいて、本書のように密室に焦点をあわせた本を読むと、まるで別世界の話のようであった。
本書では、密室にとことんこだわった内容でありながら、行き過ぎた議論の部分はカットしてある。カットした部分を好事家のためにまとめて出してくれると、これもまた面白いんじゃないか、と思う。そういうムダ話こそが、今や主流のミステリなんじゃないか、という気もするのである。
アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生
2010年6月27日 映画
バーバラ・リーボヴィッツ監督の「アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生」を見た。2008年。バーバラはアニーの妹。
ローリングストーン誌の写真でおなじみの写真家アニー・リーボヴィッツのドキュメンタリー。ジョン・レノンとオノ・ヨーコの写真やデミ・ムーアの写真は誰もが目にしたことがあるだろう。洋楽ファンにとっては、馴染みの写真が多数出てきて、嬉しいやら懐かしいやら。
小型カメラを携帯し、形式ばらずに撮影するロバート・フランク、アンリ・カルティエ・ブレッソンの2人にアニーはまず影響され、ブレッソンの写真集を見て、写真家になる意義を発見する。
「世界中を旅できる仕事なのよ」「カメラがあれば、一人旅にも目的が出来る」みたいなことを言っている。この軽さが面白い。
また、マーサ・グラハムを撮ったバーバラ・モーガンの作品に衝撃を受け、バリシニコフら舞踊家を撮った経緯や、ニューヨークで緊張しながらアヴェドンと写真を撮りあったこと、恋人でもあったスーザン・ソンタグを記録しておこうとした感情などが語られる。それを補強するように、(いや、こっちが見ていて楽しいかな)多くのセレブリティたちが登場して証言をし、彼女の半生を追っている。ベット・ミドラーが薔薇のとげが取られていることに気づいて、撮影に積極的になった、とか、ウーピー・ゴールドバーグがミルク風呂はちょっと時間がたつとホコリが浮いて汚くなってしまう、とか、裏話も。
一方、金には糸目をつけない撮影風景も見られ、こんなに湯水のように金を使ってばかりいたから、破産に追い込まれたりしたんだ、と小市民的な感慨を抱いたりもした。でも、ある時は馬鹿みたいに使っちゃうんだよね〜。
ローリングストーン誌の写真でおなじみの写真家アニー・リーボヴィッツのドキュメンタリー。ジョン・レノンとオノ・ヨーコの写真やデミ・ムーアの写真は誰もが目にしたことがあるだろう。洋楽ファンにとっては、馴染みの写真が多数出てきて、嬉しいやら懐かしいやら。
小型カメラを携帯し、形式ばらずに撮影するロバート・フランク、アンリ・カルティエ・ブレッソンの2人にアニーはまず影響され、ブレッソンの写真集を見て、写真家になる意義を発見する。
「世界中を旅できる仕事なのよ」「カメラがあれば、一人旅にも目的が出来る」みたいなことを言っている。この軽さが面白い。
また、マーサ・グラハムを撮ったバーバラ・モーガンの作品に衝撃を受け、バリシニコフら舞踊家を撮った経緯や、ニューヨークで緊張しながらアヴェドンと写真を撮りあったこと、恋人でもあったスーザン・ソンタグを記録しておこうとした感情などが語られる。それを補強するように、(いや、こっちが見ていて楽しいかな)多くのセレブリティたちが登場して証言をし、彼女の半生を追っている。ベット・ミドラーが薔薇のとげが取られていることに気づいて、撮影に積極的になった、とか、ウーピー・ゴールドバーグがミルク風呂はちょっと時間がたつとホコリが浮いて汚くなってしまう、とか、裏話も。
一方、金には糸目をつけない撮影風景も見られ、こんなに湯水のように金を使ってばかりいたから、破産に追い込まれたりしたんだ、と小市民的な感慨を抱いたりもした。でも、ある時は馬鹿みたいに使っちゃうんだよね〜。
白石嘉治×酒井隆史トークセッション@ジュンク堂大阪本店
2010年6月27日 趣味ジュンク堂大阪本店で『不純なる教養』出版記念トークセッション。著者の白石嘉治氏と、社会思想史の酒井隆史氏(白石氏は「酒井氏の『自由論』10周年記念」と言ってたけど、2001年出版だから、1年足りない!)によるトーク。
イベントタイトルは「パンも薔薇もこの手に 新しい神話政治を生きるために」とある。
あいにくと、僕はまだ『不純なる教養』を読んでなくて、目次しか目を通していなかったのだが、絶好の読書ガイドになったように思えた。
ジュンク堂のHPにあったイベント予告をそのまま書くと、こうなる。
大学はなぜ無償化されなくてはならないのか?
ベーシックインカムは何を保障しているのか?
「通天閣」(『現代思想』連載、12月に青土社より刊行予定)で、日本の資本主義の発達と「文学」の大衆的な力能を先鋭的に論じた酒井氏とともに、いま改めて、大学、無償性、そして「神話政治」の概念を錬り上げ、資本主義の終わりを生きるための「教養」の養いかた、使いかたを模索する。
まず、ジュンク堂の人が本のタイトルを『野蛮なる教養』と言い間違えたことが、なぜかいつまでも後をひく。
酒井氏は『不純なる教養』を3つの軸でとらえる視点をまず提示した。
1つは「錯乱」1つは「愛」1つは「嘘」
錯乱は、知識というものは蓄積するものではなく、出来するものだという主張にからめて、時系列の錯乱を視野にいれている。
愛は、知の無償性に絡めて。
嘘は、神話にからめる。
それを受けて白石氏は、装幀の話から、「本書の黄緑色は、熱帯で毒をもっている生物の色だ」とか、表紙に描かれた渦模様がコンフリクトの現場をあらわすようだ、とか展開していった。口癖にように「いけすかない」という言葉を多用するが、開口一番、人をくった展開だ。これは面白い。
白石氏は「読む力の再領有化」を語り、本当はタイトルを「プロパガンダ・ポエティカ」にしたかった、とか言った。
きっと、本書を読めば、白石氏の言わんとするところが今度は活字となって脳みそを刺激してくることだろう。
一方、酒井氏はイエイツの『記憶術』などをひきあいに出しながら、語られていた。
白石氏は酒井氏の「通天閣」の文学性などにも触れて、本来仏文に来るはずの人間が社会学に行った、とか、まさしくいけすなかい発言を連発して、愉快だった。
こういうやりとりは、きっと本や活字では読めないと思う。
トーク後の質疑応答も聞くと、酒井氏もお客さんもかなり真面目で、それを白石氏がヒラヒラと舞いながらこたえている感じだった。
なお、久しぶりに本屋に来たので新刊のコーナーなど見ていると、ユングの『赤の書』があって喉から手が出そうになった。だが、出たのは咳だけである。
帰宅後、NHK-FMで「現代の音楽」
猿谷紀郎
− 東京混声合唱団 第221回定期演奏会から −(2)
「晋我追悼曲」 与謝蕪村・作詞、野田暉行・作曲
(20分06秒)
(合唱)東京混声合唱団
(指揮)田中信昭
「“心願の國(くに) 混声合唱と
オブリガート・バイオリンのために”から
“1.夜あけ近く、…”」原民喜・作詞、高橋悠治・作曲
(5分02秒)
(合唱)東京混声合唱団
(バイオリン)戸島さや野
(指揮)田中信昭
「“心願の國(くに) 混声合唱と
オブリガート・バイオリンのために”から
“2.ふと僕はねむれない寝床で、…”」
原民喜・作詞、高橋悠治・作曲
(4分35秒)
(合唱)東京混声合唱団
(バイオリン)戸島さや野
(指揮)田中信昭
「“心願の國(くに) 混声合唱と
オブリガート・バイオリンのために”から
“3.僕は日没前の街道を…”」原民喜・作詞、高橋悠治・作曲
(4分24秒)
(合唱)東京混声合唱団
(バイオリン)戸島さや野
(指揮)田中信昭
「“心願の國(くに) 混声合唱と
オブリガート・バイオリンのために”から
“4.僕は今しきりに夢みる。…”」
原民喜・作詞、高橋悠治・作曲
(2分28秒)
(合唱)東京混声合唱団
(バイオリン)戸島さや野
(指揮)田中信昭
〜東京文化会館で収録〜
<2010/3/20>
(カメラータ・トウキョウ提供)
高橋悠治の挨拶もあったが、ひとことだけで、らしくて面白かった。
イベントタイトルは「パンも薔薇もこの手に 新しい神話政治を生きるために」とある。
あいにくと、僕はまだ『不純なる教養』を読んでなくて、目次しか目を通していなかったのだが、絶好の読書ガイドになったように思えた。
ジュンク堂のHPにあったイベント予告をそのまま書くと、こうなる。
大学はなぜ無償化されなくてはならないのか?
ベーシックインカムは何を保障しているのか?
「通天閣」(『現代思想』連載、12月に青土社より刊行予定)で、日本の資本主義の発達と「文学」の大衆的な力能を先鋭的に論じた酒井氏とともに、いま改めて、大学、無償性、そして「神話政治」の概念を錬り上げ、資本主義の終わりを生きるための「教養」の養いかた、使いかたを模索する。
まず、ジュンク堂の人が本のタイトルを『野蛮なる教養』と言い間違えたことが、なぜかいつまでも後をひく。
酒井氏は『不純なる教養』を3つの軸でとらえる視点をまず提示した。
1つは「錯乱」1つは「愛」1つは「嘘」
錯乱は、知識というものは蓄積するものではなく、出来するものだという主張にからめて、時系列の錯乱を視野にいれている。
愛は、知の無償性に絡めて。
嘘は、神話にからめる。
それを受けて白石氏は、装幀の話から、「本書の黄緑色は、熱帯で毒をもっている生物の色だ」とか、表紙に描かれた渦模様がコンフリクトの現場をあらわすようだ、とか展開していった。口癖にように「いけすかない」という言葉を多用するが、開口一番、人をくった展開だ。これは面白い。
白石氏は「読む力の再領有化」を語り、本当はタイトルを「プロパガンダ・ポエティカ」にしたかった、とか言った。
きっと、本書を読めば、白石氏の言わんとするところが今度は活字となって脳みそを刺激してくることだろう。
一方、酒井氏はイエイツの『記憶術』などをひきあいに出しながら、語られていた。
白石氏は酒井氏の「通天閣」の文学性などにも触れて、本来仏文に来るはずの人間が社会学に行った、とか、まさしくいけすなかい発言を連発して、愉快だった。
こういうやりとりは、きっと本や活字では読めないと思う。
トーク後の質疑応答も聞くと、酒井氏もお客さんもかなり真面目で、それを白石氏がヒラヒラと舞いながらこたえている感じだった。
なお、久しぶりに本屋に来たので新刊のコーナーなど見ていると、ユングの『赤の書』があって喉から手が出そうになった。だが、出たのは咳だけである。
帰宅後、NHK-FMで「現代の音楽」
猿谷紀郎
− 東京混声合唱団 第221回定期演奏会から −(2)
「晋我追悼曲」 与謝蕪村・作詞、野田暉行・作曲
(20分06秒)
(合唱)東京混声合唱団
(指揮)田中信昭
「“心願の國(くに) 混声合唱と
オブリガート・バイオリンのために”から
“1.夜あけ近く、…”」原民喜・作詞、高橋悠治・作曲
(5分02秒)
(合唱)東京混声合唱団
(バイオリン)戸島さや野
(指揮)田中信昭
「“心願の國(くに) 混声合唱と
オブリガート・バイオリンのために”から
“2.ふと僕はねむれない寝床で、…”」
原民喜・作詞、高橋悠治・作曲
(4分35秒)
(合唱)東京混声合唱団
(バイオリン)戸島さや野
(指揮)田中信昭
「“心願の國(くに) 混声合唱と
オブリガート・バイオリンのために”から
“3.僕は日没前の街道を…”」原民喜・作詞、高橋悠治・作曲
(4分24秒)
(合唱)東京混声合唱団
(バイオリン)戸島さや野
(指揮)田中信昭
「“心願の國(くに) 混声合唱と
オブリガート・バイオリンのために”から
“4.僕は今しきりに夢みる。…”」
原民喜・作詞、高橋悠治・作曲
(2分28秒)
(合唱)東京混声合唱団
(バイオリン)戸島さや野
(指揮)田中信昭
〜東京文化会館で収録〜
<2010/3/20>
(カメラータ・トウキョウ提供)
高橋悠治の挨拶もあったが、ひとことだけで、らしくて面白かった。
稲垣浩監督の「暴れ豪右衛門」を見た。1966年。
土豪が勢力をもち、大名たちがその力を手中にせんとする時代の物語。
三船敏郎演じる豪右衛門は戦では勇猛果敢だが、平和時には手のつけられないあばれものでしかない男。
学問をおさめて、そんな兄の姿に疑問を抱く弟は田村亮。
大名の朝倉勢は、土豪たちに領地を与えて、彼らの勢力を削ぎ、統治しようとあの手この手を使ってくる。
田村亮は朝倉勢の策略にまんまとのせられてしまう。
いや〜、これは面白かった。
土豪たちの行く末を考えると悔しい思いにもとらわれるが、囲い込もうとする権力に立ち向かう姿は清清しい。
わからず屋の豪右衛門が、結局はいったんは朝倉勢のうまい話に目をくらまされた土豪たちを一つにまとめて反逆するのには感動すら覚えた。豪右衛門のような男は、今近くにいたら困りものだと思うが、戦国時代の男としては、あの生き方はありだろう。それどころか、現代でもああいう生き方が本当は必要なんじゃないか、とはっと気づかせてくれる映画だった。
土豪が勢力をもち、大名たちがその力を手中にせんとする時代の物語。
三船敏郎演じる豪右衛門は戦では勇猛果敢だが、平和時には手のつけられないあばれものでしかない男。
学問をおさめて、そんな兄の姿に疑問を抱く弟は田村亮。
大名の朝倉勢は、土豪たちに領地を与えて、彼らの勢力を削ぎ、統治しようとあの手この手を使ってくる。
田村亮は朝倉勢の策略にまんまとのせられてしまう。
いや〜、これは面白かった。
土豪たちの行く末を考えると悔しい思いにもとらわれるが、囲い込もうとする権力に立ち向かう姿は清清しい。
わからず屋の豪右衛門が、結局はいったんは朝倉勢のうまい話に目をくらまされた土豪たちを一つにまとめて反逆するのには感動すら覚えた。豪右衛門のような男は、今近くにいたら困りものだと思うが、戦国時代の男としては、あの生き方はありだろう。それどころか、現代でもああいう生き方が本当は必要なんじゃないか、とはっと気づかせてくれる映画だった。