大山康晴の晩節

2008年7月16日 読書
河口俊彦の『大山康晴の晩節』を読んだ。
以下、目次
序章
 甦った大山将棋
 人間的な威圧感
1章 ガンとの闘い
 六十三歳の名人挑戦者
 熾烈な生存競争
 棋界政治と大山会長
 しのびよる衰え
 晩年の驚異的な粘り
2章 生い立ちから名人まで
 十二歳で木見八段門へ
 名人への道ー昭和二十年代の実力者たち
3章 大山将棋の強さ
 ナンバー2を叩け
 強すぎて、面白くない
4章 早逝した天才棋士との闘い
 若き山田道美の自負と懊悩
 大山は催眠術を使う?
 大山VS山田ー大山奇勝を博す
 絶局は大山戦だっt
5章 追われる身に耐えて
 升田の引導を渡す
 中原に名人位を奪われた七局
6章 会長就任と永世名人
 名人戦と三大新聞社の抗争
 五十歳以後の勝星がすごい!
7章 ガン再発後の粘り
 手術直前の対局ー対有吉・小林戦
 A級残留への執念ー対高橋・米長戦
 大スターの残光ー対谷川・高橋戦
終章ーまだ引退できないのか

圧倒された。中学時代におじいちゃんに連れられて行った将棋タイトルの就任式などで姿を見て、また、本を何冊も読み、倉敷の記念館にまで行った、あの大山康晴の人間像がこんなにも迫力あるものだったとは!
本書は大山のデータ的な栄光よりも、人間関係や、感情などにスポットをあてており、どろどろしていたり嫉妬やプライドが剥き出しになったりしていて、衝撃的だ。大山はまさしく怪物だったのだ、と知れる。
大山康晴の将棋は、本書ではいろんな表現であらわされている。
「優勢になっても勝ちを急がずに、ゆっくりと、一つ一つ相手の狙い筋を潰し、すこしずつ有利さを拡大していった」
「大山に急ぐ気配はまったくなく、コトコトとスープを煮るような指し方をつづけた。その間、森だけがもがきまくっていた」
派手じゃない、平凡な指し方で、徹底的に受けきり、じわじわと攻めて、相手はたまらずに負けてしまうのだ。大山が明らかに悪い手を指しても、まるで催眠術のように、局面はいつのまにか大山有利に傾いていくのだ。
ドカベン並に常勝の大棋士だったのだが、面白味がない。
「名人でいる間は、大山は悪役だった」
セーム・シュルト、朝青竜、あるいは巨人など。
そうそう、この本を読んで、ちょっと前に読んだ加藤一二三の本に書いてあったいくつかの事柄が氷解した。
大山は将棋の本を自分では書いていなかったそうなのだ。解説はしているが、ライターが全部文章にしていた。(原稿料もそのライターがもらっていた)
加藤があえて「自分の本は自分自身で書いている」と断ったのは、大山批判の一つでもあったのだ。
また、大山が威厳によって自分のわがままを通そうとしたことも、本書で書いてあった。一種のパワーハラスメントか。本書では食事の前に温泉に入るかどうか、というような些細なことで、中原誠が一矢報いたエピソードが語られていた。大山が、「風呂に入らずに食事する」と言えば、みんなは風呂に入りたい、と思っていても大山にさからって「私は風呂に入る」と言い出せなかったのだ。そこに中原がふらっと入ってきて、「温泉に入らない手はないでしょう」とさらっと言って、温泉に行ったのだった。みんなもホッとして風呂に行けた。ああ、些細なこと!でも、かつてサラリーマンだった頃のことを思い返すと、みんな上司の意向をびくびくしながらうかがって、それに波風たてないように従っていた。あのときの同僚のみなさん、いかがお過ごしでしょう?
加藤の本でも、タイトル戦で大山が食事休憩のことで規定を破って、融通を通そうとしたが、加藤はガンとしてゆずらなかったと書いてあった。さすが、加藤。
本書では、大山が自分の長期政権を磐石のものにするため、ナンバー2につけてくる棋士を芽のうちにコテンパンに倒して、「大山には勝てない」と刷り込んでおいた、というようなことが書かれていた。加藤などは、二上と並んでそのナンバー2の最たる棋士で、大山にとって加藤はずっとカモだった。
加藤としてもそれに内心忸怩たるものがあったのだろう。今考えてみれば『一二三の玉手箱』は大山批判が含まれていて、人間関係の面白さも読み取れる本だったんだな、と思う。
また、本書では、大山の凄みとともに、山田道美の面白さもクローズアップされていた。
僕が中学のときに将棋をよく指していた頃、既に山田道美は馴染みの薄い棋士だった。山田研究によって、また将棋には新しい風が吹くのかもしれない。
将棋の中井広恵六段の講演「勝負の世界に生きる」を聞きに行った。
ホテルリッツカールトン。
中井六段は日本女子プロ将棋協会の理事で、公式戦でプロ男性棋士からはじめて勝利をあげた女流棋士。
内容は、将棋界に関する全般について。プロになるためのシステムとか、卑近なところでは年間の収入のこととか、おもに、将棋の普及を意図されているようなスタンスだった。
女性の将棋人口は少ない理由なども。
将棋をしていると、実際はそうでもないのに、頭がいいように思われる特典がある、と謙遜されていた。また、娘さんにも将棋を仕込んだが、興味が持続しないようで、末っ子だけが将来棋士になると決め込んでいるようだ。だが娘さんはまだ幼くて、棋士は世襲制だと思いこんでいるふしがある、とか。
http://www.joshi-shogi.com/

エリザベス・フェラーズの『猿来たりなば』を読んだ。
トビーとジョージシリーズ。
今回の事件は、なんとサルの殺害事件を扱う。
チンパンジーが殺された。動機は?
本書はトビーによる一人称の作品になっていて、トビーの推理の過程が読者にもわかるようになっている。でも、本当の名探偵はいつものごとくジョージの方で、ダイレクトに真相に迫っているんだけど。
曲者だったのは、謹厳な老婦人ローザ・マイアルに関する推理。

P230
彼(ジョージ)は列車の往復切符の半券を指差した。
「あれを見て、ぴんとこないか、トビー」
さっきも言った通り、その切符は先週の月曜日にビュール駅で購入されている。ロンドンのウォータールー駅から、ビュール駅に戻る切符だ。パンチ穴は開いているが、到着駅で回収されていない。ということは、誰だか知らないが、これを買った婦人は、ウォータールー駅の改札を通ったものの、気が変わり、ふたたびプラットフォームの外に出て、列車以外の交通手段で、ビュール駅に戻ってきたことになる。
ロンドン。月曜日。
突然、それらの事実が、わたしの頭の中で、音をたてて合わさった。
「ローザ・マイアル!」

P250〜
「彼女(ローザ・マイアル)はイースト・リートに戻ってきたーバッグがそれを証明しているーしかし、汽車では戻ってこなかった。」
(中略)
「おそらくミス・マイアルは、昨日ナトリン男爵に会ったーそして最後の直談判をした。しかし、文字通り最後だと思い知らされただけだった」
(中略)
「彼女はウォータールー駅にむかった。憤怒と絶望で眼がくらんでいただろう。改札で切符にパンチを入れられ、プラットフォームに出た。希望を失い、面目も失い、しかもヴィラグとの約束を撤回するつもりはないから、大金まで失うことになった」
(中略)
「普段の彼女ならそこまで追いこまれなかっただろうが、この時は、頭の中で何かがはじけた」
(中略)
「もし汽車を使えば、村のみんなに、自分が戻ったことを知られると気づいた。ビュール駅に着くと、バスかタクシーを使わなければならないから、すぐに彼女が帰ったとばれてしまう。それじゃ目的にあわない。だから、駅を出たんだ。どんな方法でイースト・リートに来たのかは知らないが、たぶん車を借りたんじゃないか」

以上のトビーの推理、ラストに至って、あれはいったい何だったんだ?と呆れ果てることになる。
読者は読み終えた後に、やおら冒頭のページを確認し、1ページめからヒントがあったことに唖然とするのだ。
チンパンジーを殺した動機(人間じゃなかったから殺された)などは簡単なものだが、このあえてとる回り道、遠回りの悪意には驚いた。
だいたい、今まで読んだフェラーズの作品から考えると、いやな奴がいっぱい出て来て、ストーリー展開は邪魔がよく入る、メロドラマが多いように思う。女性に人気があるのは、こういうところにあるのか。
なお、順番に読んで来たなかでは、これが一番面白かった。

一二三の玉手箱

2008年7月9日 読書
将棋棋士加藤一二三九段の『一二三の玉手箱』を読んだ。
加藤一二三は「神武以来の天才」と呼ばれた異能の棋士で、現在もなお現役バリバリ。
そんな加藤九段の書いた本。
以下、目次

巻頭特集 ザ・加藤一二三伝説
第1章 加藤一二三の名局
第2章 加藤一二三のエッセイ
第3章 加藤一二三の熱闘譜

本文中に、自分の本は正真正銘、自分で執筆している、とあえて断っている箇所がある。インタビューなどで聞き書きしたものを、ライターが書くケースがあるからなのだろうが、この本を読めば、一目瞭然、「こんな文章、天才の加藤九段以外に書ける人はいない!」と思い知らされる。
第1章の「名局」では、多くの棋戦から、ポイントの部分をとりあげて、わかりやすく解説している。第2章の「エッセイ」にも共通するが、加藤九段はクリスチャンなので、筆はしばしばキリスト教に関する内容にシフトしていく。また、モーツァルトの話にも。
「記録と著作権」というエッセーでは、「モーツァルトの作品は楽譜が残っていないものが多い」→「私も将棋まつりの席上対局などは棋譜が残っていない」とモーツァルトと自分を対比させる。この後も「モーツァルトは、レッスンをしたこともある。私もある時期、定期的にアマチュアに将棋を教えている」など、対比が続く。天才は天才を知るというべきか。
さて、巻頭の「伝説」では、加藤一二三に関する伝説をあげて、本人がそれらについて答えている。以下の通りのコンテンツ。
1、対局中に滝を止めさせた伝説
気が散るから、と、加藤九段、滝を止めさせる。
2、勝手に電気ストーブ伝説
対局中に勝手にストーブを持ってきた。相手の顔にストーブの風を当てて「やめてください」と拒否されたことも。
3、食事は必ずうな重伝説
対局中は、昼も夜もうな重。
4、「あと何分?」伝説
対局中に頻繁に「あと何分?」と聞く。1分将棋でも聞く。
5、長いネクタイ伝説
対局中は、ふだんよりネクタイが20センチほどのびる。
6、対局中に聖歌伝説
廊下で歌声が聞こえるな、と思ったら、対局中のはずの加藤九段が聖歌を歌っていた。
7、板チョコ大好き伝説
おやつで数枚板チョコをバリボリ。
8、一手に7時間伝説
長考で有名な加藤九段。最長はなんと一手に7時間。
9、棒銀大好き伝説
あまりやる人のいない棒銀戦法にこだわる。
10、将棋盤の位置にはこだわる伝説
対局場に入るやいなや、勝手に自分好みの位置に将棋盤を動かす。
11、空ぜき伝説
対局中にはいつもゴホゴホ!
12、加藤一二三こそが真の伝説
以上の伝説、多少はデマや誇張があるのかと思いきや、本人の証言では全部「そうです。何か?」という感じだった。
将棋の解説などで、加藤九段が出てくると、一気にはなやかになる。うるさくなる、というか。にぎやかになる、というか。暴走気味の解説が聞いている方としては、実際の対局よりも面白かったりするのだ。まさしく、天才。
オディロン・ルドン夢のなかで
『オディロン・ルドン[自作を語る画文集]夢のなかで』を読んだ。
ルドンの絵に、書簡、『芸術家のうちあけ話』、自伝的エッセイ『私自身に』から引用された文章がつけられている。
ユイスマンスが『さかしま』の中で紹介した「笑う蜘蛛」や、「赤死病の仮面」「秘密を漏らす心」(告げ口心臓)、「ベレニスの歯」などポーの小説に想をとった作品などの「ルドンの黒」と呼ばれるモノクローム作品が前半部。
ルドンは黒色について、こう書いている。
「黒は本質的な色だ。黒はとりわけその高揚感と生命力を、あえて言うなら、健全さの深い隠れた源泉からくみ取っている。黒の生命の内にこもった熱は、正しい食事療法と休息、いわば力の充溢にかかっているのだ」(『私自身に』)
ルドンの黒は魅力的なのだが、虚弱体質ゆえの黒だったのか、ということを思わせる文章だ。
「黒は眼を楽しませてくれるわけではないし、肉感性を目覚めさせてくれるものでもない。黒は、パレットやプリズムの美しい色以上に精神の活動家なのだ」
とも書いている。
なんとストイックな!と思っていたら、ルドンはある時期からモノクローム作品をそんなに描かなくなり、かわって色彩豊かなパステル作品が中心になっていく。
作品としてつまらなくなったかと言えば、そういうわけでもない。
ルドンは書簡でこうしたためている。
「私が少しずつ黒色を遠ざけているのは本当だ。ここだけの話だが、黒は私をひどく疲れさせる」「この頃は、パステル画を描いている。それから赤色石版画も。その柔らかな素材は私をくつろがせ、喜ばせてくれるのだ」
ルドン55歳のときの手紙だ。肩の力が抜けて、39歳のときに出した初のリトグラフ集『夢のなかで』を援用すれば、年齢をかさねてルドンは目がさめたのかもしれない。
岡鹿之助は「顔料自体の持つ美しさや特質を生かしきった驚くべき才能が、黒の世界にとどまって、長いこと動かなかったという事実は、ルドンの芸術に心をよせる人なら、誰しも抱かざるを得ない疑問だろう。どうして、色が、もっと早く、彼を喚びさまさなかったのだろうか」と書いている。
ルドンが『芸術家のうちあけ話』で書くように「私は自分の内側だけで生きていた。肉体的な努力は、どんなことでも嫌だったのだ」つまり、年齢によってルドンは殻を破ったんじゃないか、と思う。内側も外側もないノーガード戦法をとれるようになったのだ。
関東のダシの黒いうどんは、みたらしだんごみたいで特殊なおいしさはあるが、うどんのおいしさとは違うもんだ。そんなことを思いながら、黒のルドンについて考えてみた。
てぬぐい展@ART HOUSE〜08TDC展@dddギャラリー〜枝雀寄席@ワッハ上方、スティーブライヒ、『名人 志ん生、そして志ん朝
ART HOUSEで「てぬぐい展」
多くのアーティストによるイラストレーションをてぬぐいにした作品が展示、販売されていた。
以前グループ展で御一緒させていただいたMILさんのキュートなてぬぐいがやはり、可愛い。
昨日からは七夕の笹も飾られていたので、2つほど短冊に願い事を書いておいた。
本来願い事は1つであるべきところだが(ファイテンションTVで、願い事を山ほど書いて顰蹙を買う話をやってた)、願い事を書こうと思ったら、ビリッと短冊が破れてしまったので、急遽「ちゃんと破れずに願い事を書けますように」を追加した次第。

dddギャラリー企画展「Tokyo Type Directors Club Exhibition 2008〜08TDC展」を見に行く。
祖父江慎さんの案内文につられて行ったのだが、これがすごく面白かった。
文字と本が遊びほうけている。
ほうけていても、文字と本のことだから充分に知的な雰囲気はあるのだ。

ワッハ上方のライブラリーで「枝雀寄席」の録画を見る。
ネタは「仔猫」
ゲストとの対談は、曾我廼家桃蝶。対談当時は79歳だというから、この番組、僕が大学生の頃に放送されていたものだと知れる。毎回欠かさず見ていたはずだが、あいにくと、何一つ覚えていなかった。写真は桃蝶の若き日のもの。
曾我廼家五郎劇団の女形、桃蝶の舞台はあいにくとまだ見たことがない。フィルムでも残っていないだろうか。

帰宅して睡眠。
夜更けて起床後、録画しておいたスティーブ・ライヒを見た。芸術劇場。
日本初演の「ダニエル・バリエーションズ」
「18人の音楽家のための音楽」
何度も聞いた音楽だったが、演奏風景を見て、圧倒された。
これは面白い!
演奏を見ているだけで、なんだかどこかに連れていかれてしまう。
演奏者がバトンタッチするところなんて、レコードじゃわからないしね。
「ディファレント・トレインズ」

あと、録画分のアニメやら落語などを見る。
桂雀々の「へっつい盗人」では、昼間に見た枝雀が手の指を数えるギャグ(片手の指を往復して数えて9本しかない、親指と人さし指の間が広くて、ここに1本あったはずだ、という奴)を、使っていた。昔からあるギャグなのだが、落語に使ったのは枝雀からなのかどうか、よくわからない。

読んだ本は小林信彦の『名人 志ん生、そして志ん朝』
第1章 古今亭志ん朝
古今亭志ん朝の死
志ん朝日和(1981年〜2001年)
 志ん朝さんとの一夜/江戸前のさりげなさ/五代目古今亭志ん生/気むずかしさのすすめ/花冷えの夜の落語/志ん朝七夜/もう一つの「寝床」/志ん朝の三夜連続1995/築地での志ん朝独演会/志ん朝の三夜連続1998/梅雨の前の志ん朝独演会/志ん朝の三夜独演会終了1999/志ん朝の死、江戸落語の終り
第2章 古今亭志ん生
ある落語家の戦後
志ん生幻想
第3章 志ん生、そして志ん朝
1、「路地」の消滅
2、志ん生、大ブレイク
3、志ん生、倒れる
4、志ん朝、登場
5、志ん朝のいる「空間」
6、円熟期から「粋」の消滅へ
第4章 落語・言葉・漱石
『落語鑑賞』と下町言葉
夏目漱石と落語
 『吾輩は猫である』と落語の世界/『吾輩は猫である』と自由な小説/『吾輩は猫である』と乾いたユーモア
やや長めのあとがき

江戸落語に関してまったく暗い僕にとっては目からウロコの文章が多かった。
「苦い顔をして、さりげなく、おかしなことを呟くのは、江戸落語の伝統」
別の箇所では、こう書いている。
「江戸落語は、歯切れのいい江戸弁と、容子の良さ(着物がぴったり似合うこと)から成り立っていると、ぼくは独りで決めている」
なるほど。僕が幼い頃から慣れ親しんでいる上方落語とは大違いだ。
「古今亭志ん朝が東京で独演会をやらないのはお客が固定してしまうからだと、噂できいた(本当かどうかは知りませんよ)志ん朝さんの場合、〈志ん朝おたく〉というような人たちがいて、独演会を占拠してしまう。それだけならまだしも、ぼくが感想文の一つも書こうものなら、全部見ていない(聞いていない)おまえが志ん朝を云々するのはけしからん、といったオドカシの手紙がきたりする。〈おたく〉というのはそういうものなのだが、気分が良くはない」
別の箇所で「似合いもしない和服を着た若者」とか「ノートをとったりするイナカモノ」などきびしい意見を書いている著者にして、これだ。
落語は面白いものなのに、なぜかくもしかつめらしい顔で聞く人がいるのか、いまだに不思議でならないが、上方と江戸の違いだけではない、おかしな虚栄心みたいなものがあるんじゃないか、と思えてならない。大阪にだって「御通家」と呼ばれるうるさがたはいるはずだ。後ろ指さされるくらいで、人間ちょうどなのである。堂々と文化だの伝統だのとふりかざすのは、正当性をうしろだてに強弁する輩と一緒で、どうにも度しがたく思える。まあ、自分がそれだけの権威を持てない僻だという気もしてきた。

頭脳勝負

2008年7月3日 読書
頭脳勝負
渡辺明竜王の『頭脳勝負』を読んだ。
将棋の初心者にも読みやすいように、棋譜の研究は控えめで、ポイントと、将棋に関するエッセイで構成されていた。
巻末にはルール解説があり、王手がかかっているのにそれに対処しないと反則負けになる、というルールがあるのをはじめて知った。自分の玉に王手がかかるように駒を動かすことも反則なのだ。いや、つまり、それでどっちみち負けにはなるのだが、「反則負け」という判定になるということを知らなかったのだ。まあ、最後の1手が相手の玉をとる手で終わる、なんて棋譜はありえないので、考えてみれば当然なんですけど。
また、詰め将棋(山田康平作)も巻末にあった。「シ」「ヨ」「ウ」「ギ」の形に並んだ駒の配置からはじまる4問。3手詰めなのでわかりやすい。
将棋のプロは、強くて対局に勝つだけでなく、将棋普及に尽力した人も、もっと評価されてもいいんじゃないか、とか、女流のこと、アマとプロのこと、コンピュータ将棋のことなど、若い世代ならではの、言いたいことを言っているところがあって、頼もしかった。
羽生名人を紹介する文章では、2003年王座戦5番勝負最終局で、勝利を決定づける手を指すときに、手が震えたことを書いていた。今年の名人戦でも羽生の手が震えて駒を飛ばしてしまったことが話題になったが、5年前も同じようなことがあったのだ。毎回手が震えていたら、あえて話題にもならないのだから、よほどの精神的緊張を強いられた対局のときだけ手が震えるのだろう。
5年に1度の大一番だったのだ。
(追記:5日(土)の衛星第2「森内VS羽生、勝敗の1手」という番組でも、王座戦でのことがちらりと話題になった。渡辺竜王戦以外で目立った前例はない、ということなのだろう)
升田幸三の魅力に触れる文章もあった。升田幸三の棋書をよく読んでいた中学生の頃を思い出した。僕の棋力は中学生のときがピークで、あとはヘボまっしぐらである。30年くらい対局もしていない。
自殺の殺人(ネタバレ)
エリザベス・フェラーズの『自殺の殺人』を読んだ。1941年
トビーとジョージシリーズ。
自殺だと思われていた事件が、手がかりから考えると、自殺とみせかけた他殺だと判明した。
ところが、さらに調べていくと、自殺と見せかけた他殺とみせかけた自殺だという線が濃厚になっていく。
ところが真相は、自殺とみせかけた他殺とみせかけた自殺とみせかけた他殺!
どこまで続く!
フェラーズの作品はとても面白いのだが、たまにそのストーリー展開上で、イライラするところがある。それは作者の狙いでもあるのだが、重要なことを語ろうとした瞬間にジャマが入ることが多いのだ。常套手段とは言え、ヤキモキする〜。
虚空から現れた死(ネタバレ)
クレイトン・ロースンの『虚空から現れた死』を読んだ。1940年。
スチュアート・タウン名義でパルプマガジン『レッド・スター・ミステリ・マガジン』に掲載された2つの物語が収録されている。
主人公の探偵ドン・ディアボロはマジシャン。
第1幕 過去からよみがえった死
地上5階の部屋で殺人事件。
窓があいていて、コウモリが飛んで逃げていく。
死ぬ間際に被害者は「コウモリの鳥小屋」と言い残す。
首筋にはコウモリが噛んだとおぼしき小さな傷痕。
犯人は、吸血コウモリ?
さすが、パルプマガジンのストーリーだけあって、まるで漫画かアニメのようなわかりやすさとセンセーショナルな展開が待っている。
ペルシアの星と呼ばれる宝石が盗まれたり。
降霊術でジル・ド・レを物質化させてみたり。
真相があかされると、壁をよじのぼることのできる、いわゆる蠅男が事件に関わっていたり、自白剤スコポラミンを使って金庫の暗証番号を聞き出したり(その痕がコウモリの噛み傷に見えた)、実に漫画的。

第2幕 見えない死
本文より、事件の内容を引いてみよう。

「ヒーリーは警視に電話をかけた。1分後、チャーチは彼のオフィスを訪ねた。すると中から銃声が聞こえた。誰かが彼の鼻先でドアに鍵をかけた。彼は銃で鍵を壊し、中へ入った、そこには頭に鉛を食らったヒーリーのほかに、誰もいなかった。それから、どこからともなく声がして『また会おう、警視』というとドアが閉まった」

見えない男事件のはじまりだ。
この後、見えない男は予告のうえ、マリー・アントワネットの首飾りを盗んだりする。
見えない男は透明人間よろしく、銃を空中に浮かせたり、空中に浮かんだ煙草をぷかりとくゆらせたりする。
なにぶん、魔法のような犯行なので、ディアボロに容疑がかかったりもする。
バルガー博士の不可視光線発生装置などという怪し気なものまで出てくる。
さて、真相がわかてみると、これまたすごい。
犯人はエスパー伊東かスッチーか、という身体の持ち主。
煙草や銃が浮いたのは糸を使って操っていたとわかる。煙草の煙はアンモニアと塩酸の霧吹きで、ちょうどぶつかったところで煙が発生する仕組み。
あるときはメッセンジャーの制服を着て、まさしく「見えない男」となってまんまと出入りした。
そして、さらに、誰もいないと思っていたところに、犯人はひそんで見えない男を演じていた。
あるときは書類棚、あるときは机の引き出し、またあるときはスーツケースの中に小さな身体をひそませていたのである。
まるでカーだ!
いや、全体の雰囲気は第1幕では漫画的と書いたけど、この第2幕を読むかぎり、乱歩の少年ものを連想した。
面白い!
サファリ殺人事件
エルスペス・ハクスリーの『サファリ殺人事件』を読んだ。1938年。
まずは用語解説。
トラッカー(野生動物を追跡するガイド)
スキナー(動物の毛皮を剥ぐ者)
ボーイ(原住民の召使い)
アスカリ(植民地政府のために働く現地人の警官)
ガリー(峡谷)
西部辺境地域での宝石盗難事件から、殺人事件。
バッファローが事件関係者を踏み殺してしまったり、主人公の警視が犯人に罠をかけようとしたら、そこに象があらわれたり、サファリならではのストーリー展開があり、笑える。(コメディじゃないけど)
事件解決のいとぐちは、ライフル弾。ソフトコア弾とハードコア弾の違いが犯人を指し示す。ただ、真相がわかってみると、宝石を盗んだ人物と、殺人を犯した人物は別々で、また犯人をかばおうとして動く人物もいたりして、なかなかに複雑。ただし、計画的な知能犯じゃなくて、行き当たりばったりの犯行だったため、ことの流れは自然でわかりやすい。読み物として面白いので、事件解決が論理的パズルになっていなくても満足が得られるのだ。
石崎幸二の『首鳴き鬼の島』を読んだ。
孤島の館で起こる連続見立て殺人!
石崎幸二久々の作品。僕は今まで読んだメフィスト賞作家のなかで、この石崎幸二をもっとも評価している。しばらく作品発表がなかったので、作家をやめたのかな、と危惧していたのだ。よかった。よかった。
才気煥発で、軽妙なところが好きで、このあたりは、僕の大好きな鯨統一郎とも通じるところだ。ただし、本書ではいかにもな本格のお膳立てがそろっていて、いつもの軽妙さが控えめであった。
ただし、登場人物が「この事件は見立て殺人です」と喝破した後に、友人からこうツッコまれるところを見てみよう。

「だいたいおまえ、見立てだって?いい歳した大人が素面でそんなこと話せるか?おまえだけだよ、そんなこと言えるのは。結構みんな引いてたぞ」

こういう距離感が、石崎節だ。
死体の腕が切り取られていたくだりについて、探偵役と68歳の会長がこんな会話をする。

「『田部井さんの死体は右腕を切断されていた。鈴森さんの死体は両腕を切断されていた』、これはどうですか?これは事実として認められますか?会長」
「うむ」会長がうなずく。「では影石君の訊きたいことに対して答えよう。『田部井も鈴森も、その腕は義手ではない』、つまりこれにより、切断されていた、ということは証明されるわけだ」
「そう」影石がうなずく。「その証言により、『右腕がなかった』とか『両腕がなかった』ではなく。『切断されていた』ということができます」
「もちろん、『義手ではない』という私の証言は嘘ではないという前提でだ」

どう?68歳の社長、会長が、ここではまるで大学のミステリー研究会レベルの会話を行っている。このテイストこそが、石崎節だ。
本書の面白いところは、被害者の正体を隠すために腕を切る、という発想だ。
腕に種痘のあとがあるかないかで年齢がばれてしまうのをおそれたのである。
さらに、親子関係の逆転が真相で明かされるなど、年齢の不確定性が主題となった見事な新本格だった。
炎色反応の覚え方「するりと軽く縄張りほどく」=「する(Sr)り(Li)とかる(Ca)くな(Na)わばり(Ba)ほど(Cu)く(K)」が作中キーワードのように使われているが、それほど効果的ではないのも面白い。悪口ではない。途中、「ムリヤリやんけ!」とツッコませてくれるのは、作者の雅量だと思うのだ。
また、これぞと組み立てた推理を全員を読んで披露した後、反応が薄く、

「いや、稲口さん、申し訳ない」鋤谷刑事が立ち上がって、片手で拝むようにした。「ちゃんと稲口さんに事情を説明しておけばよかった。でもまさか、あなたがこんなことを言い出すとは思わなかったので」

と、あっさり否定され、

「まだ稲口さんは本調子じゃないんだ」

とフォローされ、あげくのはてには、すきな女性からこんなきつい言葉を浴びせられる。

「なんであなたは、そんなくだらない推理をするの。あなたは昔からそうだった。幽霊とか怪談とか、探偵小説とか、子供みたいなことを面白がって、幽霊がどうしたとか、ミステリがどうしたとか、本格がどうしたとか、誰も知らない、誰も興味を持たないようなことを、誰もまともに聞いていないのに得意げに話して。そのあげくストーカーみたいにわたしにつきまとってた。やっと普通の人になったのかなと思ったのに、また、こんなだもの。これ以上いいかげんなことを言って、わたしの愛した人、わたしの赤ちゃんの父親を汚すような真似はやめてくださいっ!」

これはきびしい!
これが数年にわたって石崎幸二が作品を発表しなかった原因なのか、とも思えてしまうほど、リアリティに満ちた発言だ!まさに本書におけるピーク!
フィリップ・マクドナルドの『フライアーズ・パードン館の謎』を読んだ。1931年。
女流作家が殺された。事件の謎を作中でまとめてある。
「ここに部屋があり、窓は中から鍵がかかっていて、ドアにも中から鍵がかかっている!部屋の中には水はなかったし、水の入った花瓶すらもないのに、その部屋の中で−窓は中から鍵がかかっていて、ドアにも中から鍵がかかっている状態で−女性が溺死したのですよ!部屋でひとり…何かにひどく怯え、恐ろしさのあまり内線電話を取って助けを呼んだ。それから助けを求める悲鳴を上げた後、ありえないほど短い時間で、そこにあるはずのない水で溺れたのです!そして、その水はあなたがたが直後に部屋に入ったときにはなくなっていた」(第11章パートナーを決める)
雰囲気作りのお膳立てはバッチリ。
まず、建物に関するいわく因縁。
女流作家によると、それは「古い屋敷にまつわる古い迷信」。
フライアーズ・パードン館の東翼では、そこに暮らす者がバタバタと死んでいくのだ。
女流作家はあえて災いを呼ぶ屋敷を購入し、「全部たわごとだと証明してみせる!」と豪語していたのだが、最初に書いたように、殺されてしまうのである。
また、事件の解明に降霊術を用いるのもすばらしい。絵に描いたような黄金期の本格だ!
本書で事件が起こるのは半分ほど読み進めたところであり、そのゆったりとした展開もまた味わい深い。なかなか事件が起こらなくても、退屈でもなんでもない。いっそのこと、事件など起こらずに最後まで行けば面白いのに、と思ったほどだ。
途中、事件に関する資料がまとめてある箇所もあり、単なる推理パズルとして解きたい人は、219ページから読んでも事足りる。ただ、それでは本書の面白さを9割方損ねるというものだ。ヴィンテージのワインを一気のみするような味わい方だけはするまい。
で、真相はどうだったかというと、古典的で、現代ならまっ先に考えつくようなことで、これもまた、黄金期っぽい。
壷にあらかじめ入れておいた水を灰皿にあけて、そこに顔をつっこませて溺死させる。
死を確認してから、壷と灰皿の水を全部飲み干す。(ここがスゴイ!)
その後、ひものトリックを使って鍵を外側からかけて、外に接続した電話線を通して、被害者の声色を使って、助けを呼ぶ。
何度も言うが、こうしたトリックや、誰が犯人なのか、などと言ったことは、もはや眼目ではないのである。たとえばトリックを知ったうえで『ユダの窓』読んでも、めちゃくちゃ面白くて、しかもわけしりの人が「あんなトリックは不自然だ」などと言う批判が、読書中にはまったく頭にも思い浮かばず、きわめて自然に見えていた。知っているはずのトリックが、読書中には「いったいどうやって犯人は殺害を行ったのだろう」と謎に思えるのである。これは、僕が特殊なのか?よく、推理小説読んでいて「すぐに犯人がわかってしまった」などと感想を漏らす人がいるが、どんなに「こうに違いない」と確信できる犯人やトリックでも、実際に解決するまでは、不確定なのだ。よくよく聞いてみると、「だって1つの事件に2人も探偵が出てくるのはおかしいから、どちらかは犯人だと思った」とか、信じられないほどの薄弱な根拠で判断していたりする。とても不幸なことだ。
『桂米朝集成第1巻 上方落語1』を読んだ。
以下、目次
1、対談 噺の復活と創作/織田正吉・桂米朝
2、噺の復活と創作
 『そってん芝居』の考察
 莨道成寺
3、落語論
 落語の位置
 対談 落語・東と西/越智治雄・桂米朝
 落語の創造論−今日の落語、明日の落語
4、噺の演出
 解らせ方の問題/マイク禍/上方落語の決定版作製/噺家のわきまえと今の演芸場/別に驚かずとも…−ポルノ落語と演者/滑稽なことばの置きかえ−ことばと実態ということ/サゲについて−現実に引き戻す知的な遊び/女の落語家−達人出れば違和感なくなる/落語の招待席
 資料 桂米団治遺稿(落語梗概)−落語の落ちを主とした作品短評
5、楽我記
 はじめに/春の落語/夏の落語/秋の落語/冬の落語/寄席学問/難解なサゲ/サゲの変遷/再びサゲの変遷/武士と小咄/搗き米屋/からい小咄/落語と諺/大阪のコトワザ/説明と描写/不易と流行/テレビと落語/『貧乏花見』について/『運まわし』について/『青菜』について/『住吉駕篭』と『三十石』/『佐々木政談』について/『阿弥陀池』について/しぐさと視線/目のつかい方/落語残酷物語/推理小説と落語/落語交響曲/お色気ばなしのコツ
6、小咄集
7、古手買
8、桂米朝著作目録

目次にもあるように、落語のサゲは「現実に引き戻す知的な遊び」という捉え方が興味深い。これは小説でのサプライズ・エンディングなどとは違った考え方だ。推理小説では、謎がラストで解決されるあたりが、幻想を現実に引き戻すことにおいて共通していそうに見えるが、違う。
本書でも、サゲについて何度か記述があるが、そのうちの1つを引いてみると、こんな風。
「サゲというのは、一種のぶちこわし作業です。いかにも本当らしくしゃべっておいて、サゲでどんでん返しをくらわせて、『これはうそですよ、おどけ話ですよ』という形をとるのが落語なのです。
 落語は、物語の世界に遊ばせ、笑わせたりはらはらさせたりしていたお客を、サゲによって一瞬に現実に引き戻す。そしてだましたほうが快さいをさけべば、だまされたほうも『してやられたな、あっはっは』と笑っておしまいになる、いわば知的なお遊びなのです」
だから、サゲのあとで
「もし、『それからどうなりました』と聞かれたら、落語家は困ってしまいます。それから…どうにもなりませんからね」
と、いうことになる。
桂米朝が「ぶちこわし作業」と表現したものを、大倉崇裕は「オチの破壊力」という言葉であらわしている。
先日読んだ『オチケン!』の中で大倉崇裕がオチについて書いていた部分を引いてみよう。
「落語にとってオチは命。ですから、数ある落語の中には、最後のオチを活かすため、物語の完結性、『起承転結』でいう『結』を犠牲にしているものがあります。このあたりはミステリーと対極です」
作品内で破壊作業を行うミステリーと、作品世界を破壊する落語のサゲ、とでも言うべきか。本書にも「推理小説と落語」というエッセイが収録されているが、カミとかオーヘンリーなどのショートショート作品をとりあげており、大倉が論じる本格推理とはまた趣きが異なっている。
桂米団治がそのサゲを書くのがはばかられる、と口を濁した「禁酒関所」の昔のサゲが、1章の対談で米朝がばらしている。
「昔は『この正直者めが』というサゲではなしに、ドーン!ドーン!と太鼓を入れて『刻限でござる。裏門へ交代!』『このうえに裏門は御免じゃ』というのがサゲやったんです」
だって!
「矢橋船」の別のサゲも書いてあった。
「昔の医者が使てた薬研を『今度は女のしびんを使わす気か』とかなんとかいう別にサゲるのがあるんですわ」
どっちもエゲツナイ!

落語:日本の話芸
笑福亭福笑「千早ふる」

衛星落語招待席
林家正雀、中村芝雀「掛け合い噺 芝浜」

文珍・南光のわがまま演芸会
桂三若「ひとり静」
桂文珍「老楽風呂」
NHK地上波の録画分。

NHKラジオ 真打ち競演
古今亭菊丸「酢豆腐」

オチケン!

2008年6月17日 読書
大倉崇裕の『オチケン!』を読んだ。
その1 幽霊寿限無
三遊亭金馬「寿限無論」で「長久命の長介」の「の」は語呂であって、本当はつけない方がいいと書いてあるらしい。それが解決のヒントになる。

その2 馬術部の醜聞
「長屋の花見」の中に「胴乱の幸助」の一部を演出で入れたことが解決のポイント。

付録 落語ってミステリー!?

将棋:66期名人戦第6局
羽生善治挑戦者VS森内俊之名人
先手の羽生が勝利し、永世名人獲得!
夕食前の盤面で、既に羽生が勝勢で、あと十手くらいで勝負がつきそうだったので、今回も大盤解説見に行きそびれた。棋聖戦のときに行けるかな?

アニメ:仮面のメイドガイ「真夏の夜の乳」
藤原なえか17歳、財産継承権を得るその日まであと130日。なのに、次回が最終回?
第2シーズンがあるのか?

図書館戦争「昇任試験来タル」
苦手な子供相手に読み聞かせ。

イタズラなkissは野球延長で録画できず。二十面相の娘はどこに行ってしまったのか。

落語:NHK衛星2「お好み寄席」
橘家蔵之助「ひょっとこ蕎麦」
橘家円蔵「寝床」
大倉崇裕の『三人目の幽霊』を読んだ。
落語にまつわるミステリ短編集。
突如落語に興味を持ちはじめた僕にはうってつけの本。
飛躍やアクロバットはなく、地味ではあるが、楽しい読書時間だった。
「三人目の幽霊」
舞台を横切るために幽霊の衣装を拝借
「不機嫌なソムリエ」
ワインすり替えのため、デキャンタ一気のみでバッタリ。
「三鶯荘奇談」
野ざらし聞いて幽霊を呼び出そうとする子供と、白骨発見を隠蔽しようとする犯人。
「崩壊する喫茶店」
めくらの老婆を同じ造りの別場所に誘導する。
これは大技!
ここまで大技にするなら、2つめの喫茶店を作ってダマすだけでなく、駅から電車までもう1つ偽造して、大がかりなスパイ大作戦を完遂すれば、大馬鹿ミステリになれたのに。
「患う時計」
時そば。時計をいじる。
落語のネタと、なまがわきのペンキの手がかりがオーソドックスなミステリ。

見た落語
三遊亭遊雀「強情灸」「熊の皮」
笑王ネットの落語大全DVD。
E・C・R・ロラックの『死のチェックメイト』を読んだ。
1944年の作品。
灯火管制下のロンドンでの殺人事件。
アトリエの中にはチェスを指す2人の男と、画家とモデル、計4人がいた。
殺人はアトリエの外で行われる。
4人はお互い監視しあう状態だったはずなのに、なんと、犯人はこの中にいたのだな、これが!
どうやってこっそりとアトリエの外に犯人は出て、また帰ってきたのか!?

ロラックは女性で、本名のCarolを逆読みしてロラックというペンネームをつけたそうだ。
いやー、黄金期の本格ミステリって、ほんとうに、いいもんですね!

見た落語は
桂米朝「本能寺」「くしゃみ講釈」「親子茶屋」「つる」
ビデオ全集の9巻と18巻。
「親子茶屋」のサゲが考え落ちですばらしい!
桑田次郎の『月光仮面』
第1部「どくろ仮面の巻」
第2部「バラダイ王国の秘宝の巻」
第3部「マンモス・コングの巻」
第4部「幽霊党の逆襲の巻」
を読んだ。(アース出版社刊)
第5部の「その復讐に手を出すなの巻」はあいにくと読めず、これさえ見つけて読めば、桑田次郎版「月光仮面」はおおよそ読めたことになる。
年月を経て復活した「どくろ仮面の巻」はちょっと前に大都社刊で読めた。
あいかわらず随所に見られるダジャレは健在(毛賀病院とか、新田町火葬場とか、呪文を逆に読むと違う文章になったり)で、これは桑田次郎の自伝でも頻発していたので、もとからダジャレが好きなのだろう。

副読本として、『月光仮面は誰でしょう』という月光仮面についての本を読んだ。
テレビ、漫画、小説、映画、グッズと全般に渡って書かれてあり、すごく楽しい。
昭和30年代の月光仮面が中心で、その後アニメで復活してブルースターなどの必殺武器を使う新しい月光仮面については触れられていない。
僕は当然、昭和30年代の月光仮面を再放送で見て、復刻版で読んだのだが、リアルタイムで見たアニメの新版だってかなり熱中したものだ。今回、桑田次郎の『月光仮面』を読んでみて、マンモスコングをあやつっていたのはドグマ博士じゃなかったんだ、と気づいた。そんな博士は登場しなかった。と、いうことは、マンモスコングのときにアニメで流れていた歌は、本家本元にはなかったのだ。(ドーグマ博士にあやつられ〜、という歌詞がついていた)
そうそう、それと昭和30年代のテレビの「月光仮面」でのマンモスコングは、鉄塔を引き抜いてそれをグチャグチャにしており、テレビ中継のアナウンサーが「折り曲げております、折り曲げております!」と連呼していたのが幼心に印象に残っている。
で、桑田次郎の漫画を読むと、マンモスコングが東京タワーに登るシーンが出てくる。鉄塔を引き抜いてポキポキ折っていた姿と、東京タワーに登る姿をくらべると、マンモスコングって、身長どれくらいなんだろう、とつかめなくなってくる。
原作者川内康範がこんなことを書いていて、感心。
「月光仮面は『正義』そのものではありません。私たちは神や仏さまの説かれる『正義』をお助けするしか出来ません。月光仮面も同じように正義を助けるために存在するのです」
なーるほど。
「正義の味方」をまるで「正義」そのもののように誤用していたけど、「正義の味方」という言い回しには、こんな意味合いがあったのか。

今日、見た落語
林家たい平「お見立て」
笑福亭三喬「仏師屋盗人」
「らくごくら」を録画しておいて見たのだ。
アントニイ・バークリーの第3作。
シェリンガムは、こうして見ると、金田一シリーズの「よし、わかった!」の警部みたいだ。
次々と推理をたててみるが、それは全部はずれ。
警部はありきたりの推理で、意外な真相を見逃すが、シェリンガムの場合は、推理小説らしい推理を駆使して、明白な真相に気づかない。現代ミステリーじゃないか、これは。
エリザベス・フェラーズ、トビーとジョージ物第2作。
トビーとジョージは僕の頭の中ではバートとアーニーなのだが、ジョージの方はマルクス兄弟のハーポぽくもある。
ジョージがなぜ耳に綿を入れるのか、が面白い。
(誘拐を聞きたくないから)
実際にあった三行広告のやりとりから紡ぎ出されたストーリー。
海の上でノドがからから!
読んでるときに、どれだけ水を飲みたくなったか。
植草甚一が好むのもよくわかる!
『ハマースミスのうじ虫』とは話が全然違うのに、似たような印象を受ける。
「まったくのごまかし。あたしの競争相手の何人かが執拗に自分の推理小説の冒頭に持ってきて、とりわけだまされやすい読者だけが参考にしようと考えるまったく意味のない平面図が本当に起こっていることとは無関係なのと同じようにね」
には笑った!
本書にも巻頭に意味のない部屋の見取り図がしれっと描いてあるのだ。

本書は主要登場人物でもなく、使用人でもない、コウモリ的人間が犯人。アクロイドのときもそうだったか。

< 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 >

 

最新の日記 一覧

<<  2025年7月  >>
293012345
6789101112
13141516171819
20212223242526
272829303112

お気に入り日記の更新

日記内を検索