ISBN:406210735X 単行本 藤子 不二雄A 講談社 2002/03 ¥1,575
藤子不二雄Aの『Aの人生』を読んだ。
以下、目次
まえがき
気楽に生きるための「キイワード」
毒蛇はいそがない
果報は寝て待て
禍福はあざなえる…
ものは考えよう
酒は飲んでも飲まれるな
その日その時の出来心
ぼくのごきげん日常生活
ワイフのパンケーキ
ロマンスカー小旅行
イヤなことは見ないで、しないで
お弁当持って…
腰痛とんでいけ〜
休カン日をつくろう
藤子・F・不二雄との50年
わが愛しのキャラクターたち
忍者ハットリ君
怪物くん
魔太郎がくる!!
プロゴルファー猿
笑うせぇるすまん
人づきあいが元気の素!
ニンゲン大好き!
大老人力
漫画とNHKとスターバックス
イージー会のハワイツアー
おもしろがりの日々
ブレーキ踏まずにアクセルを…
奇妙キテレツ奇々怪々
いいことばかり続いた1日
一人でいる時間
人に好かれるヒトになろう
気楽的生活のススメ
あとがき
藤子不二雄Aがよく言う「明日にのばせることを今日するな」というのは、映画「アフリカの女王」の中で、ハンフリー・ボガートがキャサリン・ヘップバーンに言う台詞らしい。
藤子不二雄Aというと、ちょっとブラックなイメージがあるが、このエッセイ本に書かれている内容は、ほのぼのとしていて、きわめて日常的で、あくせく働いてストレスためている人には処方箋になるんじゃないか、と思わせるような癒し効果を持っている。
ロアルド・ダールやスタンリイ・エリンの奇妙な味の小説のとりこになって、そういう作品を多数描いてきたが、最近は現実社会の事件のほうはブラックでダークなので、その手の作品は描かなくなった、ということだ。
そういえば、新しく創刊された『ジャンプスクエア』でも、日常のエッセイ漫画を描いていた。
シニカルな「劇画オバQ」を描いていた頃とは、人が違っているようにも思える。
ただ、楽しそうなエッセイ漫画にも魔太郎の漫画のような雰囲気の黒枠を感じ取れてしまうのはどうしたわけだ。
A先生には、青春時代をリピートするような人生を送っていただき、中年になってからの現代の『まんが道』を描いてもらいたいと思う。
藤子不二雄Aの『Aの人生』を読んだ。
以下、目次
まえがき
気楽に生きるための「キイワード」
毒蛇はいそがない
果報は寝て待て
禍福はあざなえる…
ものは考えよう
酒は飲んでも飲まれるな
その日その時の出来心
ぼくのごきげん日常生活
ワイフのパンケーキ
ロマンスカー小旅行
イヤなことは見ないで、しないで
お弁当持って…
腰痛とんでいけ〜
休カン日をつくろう
藤子・F・不二雄との50年
わが愛しのキャラクターたち
忍者ハットリ君
怪物くん
魔太郎がくる!!
プロゴルファー猿
笑うせぇるすまん
人づきあいが元気の素!
ニンゲン大好き!
大老人力
漫画とNHKとスターバックス
イージー会のハワイツアー
おもしろがりの日々
ブレーキ踏まずにアクセルを…
奇妙キテレツ奇々怪々
いいことばかり続いた1日
一人でいる時間
人に好かれるヒトになろう
気楽的生活のススメ
あとがき
藤子不二雄Aがよく言う「明日にのばせることを今日するな」というのは、映画「アフリカの女王」の中で、ハンフリー・ボガートがキャサリン・ヘップバーンに言う台詞らしい。
藤子不二雄Aというと、ちょっとブラックなイメージがあるが、このエッセイ本に書かれている内容は、ほのぼのとしていて、きわめて日常的で、あくせく働いてストレスためている人には処方箋になるんじゃないか、と思わせるような癒し効果を持っている。
ロアルド・ダールやスタンリイ・エリンの奇妙な味の小説のとりこになって、そういう作品を多数描いてきたが、最近は現実社会の事件のほうはブラックでダークなので、その手の作品は描かなくなった、ということだ。
そういえば、新しく創刊された『ジャンプスクエア』でも、日常のエッセイ漫画を描いていた。
シニカルな「劇画オバQ」を描いていた頃とは、人が違っているようにも思える。
ただ、楽しそうなエッセイ漫画にも魔太郎の漫画のような雰囲気の黒枠を感じ取れてしまうのはどうしたわけだ。
A先生には、青春時代をリピートするような人生を送っていただき、中年になってからの現代の『まんが道』を描いてもらいたいと思う。
ISBN:4652086016 単行本 折原 一 理論社 2007/03 ¥1,470
折原一の『タイムカプセル』を読んだ。
中学卒業の10年後に、タイムカプセルをあけようという手紙が届く。
主人公は、タイムカプセルの企画に参加はしていたが、不慮の事故で、埋める当日も、卒業式も行くことができなかった。
で、どうも楽しいはずのタイムカプセルを開く行事に、何かいわくがありそうなのに気づく。
タイムカプセル、卒業式でいったい何があったのか?
これは面白かった。
著者の代表作の1つ『沈黙の教室』をほうふつとさせる楽しさ。
ページが扉になっていて、肝心なシーンで扉を開くとき、読者も一緒にページをめくる=扉をあける仕組みになっている面白さもあった。
また、タイムカプセルをあけるクライマックスでは、本が袋とじになっていて、読者もそれを開けて、真相を知るのである。
ただ、ヤングアダルト向けなせいもあって、折原一お得意の叙述トリックはソフトな感じ。つまり、わりと読者にも見抜きやすいものだった。
ネタバレするので、要注意。
それは、名前。
不破勇。
あとは言えねえ、言えねえ、もう言えねえ。
全体としてそれほど悲惨な事件ではなかった、という真相も、素晴らしい。
担任教師のなにげない一言を信じて、10年間もひきこもっていた少年の話は悲惨だけど。でも、その担任のひとことも、ちゃんと読者には「あれ、あの約束はどうなったんだろう」と思わせるような書きっぷりだった。
本書の面白さは、こういう勘違いや行き違いのトリックにもあるが、それ以外に、『沈黙の教室』と同様、暗闇の恐さを実感できるところにあった。
おそろしい曰く因縁や、スプラッターな場面なしで、ただ暗いだけの恐さを描いている。われわれは、ふだん、呪いだの怪物だのに会う機会はあまりない。でも、子どもの頃には確実にあった暗闇を怖がる心理だけは刷り込まれているはずだ。
本書では、かつて防空壕だった穴を中学生たちが夜に探検するシーンがあって、それがこわいのなんの。
探検隊のメンバーが、ほとんど何も見えない暗闇の中で、点呼をとる。
孝介が「1」と呼ぶと、2、3、4とつづき、最後に鶴巻が「5」と締めた。
ところが、その直後だった。「6」と誰かが叫んだのだ。しかも彼らのかなり後方だった。
闇の奥から肉の腐ったようなにおいが漂ってきた。
「6。ねえ、待ってよ」
恐いシーンだ!
僕は、中学生の話だから、常に一緒にいても数のうちに数えられていない、いじめられっこでも存在しているんじゃないか、とか推理していたが、さすがに、そんな安易な発想はしていなかった。
おや、この話、昨日までやってたゲームの「闇の探検隊」というネーミングがバッチリ決まっているじゃないか。
偶然の一致というものはおそろしい。
折原一の『タイムカプセル』を読んだ。
中学卒業の10年後に、タイムカプセルをあけようという手紙が届く。
主人公は、タイムカプセルの企画に参加はしていたが、不慮の事故で、埋める当日も、卒業式も行くことができなかった。
で、どうも楽しいはずのタイムカプセルを開く行事に、何かいわくがありそうなのに気づく。
タイムカプセル、卒業式でいったい何があったのか?
これは面白かった。
著者の代表作の1つ『沈黙の教室』をほうふつとさせる楽しさ。
ページが扉になっていて、肝心なシーンで扉を開くとき、読者も一緒にページをめくる=扉をあける仕組みになっている面白さもあった。
また、タイムカプセルをあけるクライマックスでは、本が袋とじになっていて、読者もそれを開けて、真相を知るのである。
ただ、ヤングアダルト向けなせいもあって、折原一お得意の叙述トリックはソフトな感じ。つまり、わりと読者にも見抜きやすいものだった。
ネタバレするので、要注意。
それは、名前。
不破勇。
あとは言えねえ、言えねえ、もう言えねえ。
全体としてそれほど悲惨な事件ではなかった、という真相も、素晴らしい。
担任教師のなにげない一言を信じて、10年間もひきこもっていた少年の話は悲惨だけど。でも、その担任のひとことも、ちゃんと読者には「あれ、あの約束はどうなったんだろう」と思わせるような書きっぷりだった。
本書の面白さは、こういう勘違いや行き違いのトリックにもあるが、それ以外に、『沈黙の教室』と同様、暗闇の恐さを実感できるところにあった。
おそろしい曰く因縁や、スプラッターな場面なしで、ただ暗いだけの恐さを描いている。われわれは、ふだん、呪いだの怪物だのに会う機会はあまりない。でも、子どもの頃には確実にあった暗闇を怖がる心理だけは刷り込まれているはずだ。
本書では、かつて防空壕だった穴を中学生たちが夜に探検するシーンがあって、それがこわいのなんの。
探検隊のメンバーが、ほとんど何も見えない暗闇の中で、点呼をとる。
孝介が「1」と呼ぶと、2、3、4とつづき、最後に鶴巻が「5」と締めた。
ところが、その直後だった。「6」と誰かが叫んだのだ。しかも彼らのかなり後方だった。
闇の奥から肉の腐ったようなにおいが漂ってきた。
「6。ねえ、待ってよ」
恐いシーンだ!
僕は、中学生の話だから、常に一緒にいても数のうちに数えられていない、いじめられっこでも存在しているんじゃないか、とか推理していたが、さすがに、そんな安易な発想はしていなかった。
おや、この話、昨日までやってたゲームの「闇の探検隊」というネーミングがバッチリ決まっているじゃないか。
偶然の一致というものはおそろしい。
スカイ・オブ・ラブ〜おかしな人間の夢 (論創ファンタジー・コレクション)
2007年11月5日 読書
ISBN:4846004406 単行本 太田 正一 論創社 2006/11 ¥1,260
ケーブルテレビで香港映画「スカイ・オブ・ラブ」を見た。2003年。「恋空」ではない。
1981年の女性と2003年の男性が無線機でつながる。
映画は2人の時をこえたラブストーリーを描くわけではなく、それぞれの時代でのそれぞれの恋愛に、2人の対話が影響を及ぼす。
現代の男性は、過去すなわち愛情を信じられていた時代からのメッセージによって、愛にめざめる。
過去の女性は、逆に現代の男性によって夢を打ち砕かれてしまう。
どういうことかと言うと、現代の男性は、過去の女性が思いを寄せる人の息子であることが判明する。気になるのは、母親。つまり、あこがれのあの人は誰と結婚したのか、ということ。ここで2人が母子であったとわかればよかったのだが、なんと、好きなあの人は、自分の友人と結婚しくさって息子を作りやがっていたのだ!
落ち込む女性。
この女性は未来を知って絶望したまま映画が終わってしまう。
なにをいらんことをしとんねん!ケン・チュウ!
おのれがレトロな無線機みたいな趣味持ってたおかげで、1人の女性が失意の人生を送るはめになったじゃないか!全部おまえのせいだ!
なにがスカイ・オブ・ラブじゃ!
だがしかし、未来を知ってそれに唯々諾々と従ってしまう弱さが、彼女のだめなところだと思える。おちこんで引き気味の主人公(釈由美子似)よりも友人(千秋似)のほうがあっけらかんとしていてパワーもありそうで、確かに魅力的にみえたことだろう。
と、いうより、あこがれの男性が、まるで中国の健康なポスターに出てきそうな真面目タイプに見えるので、あんな男と夫婦になっても楽しくないんじゃないか、と思った。息子を見るかぎり、子育てにも失敗してそうだし。
さて、NHK教育の「天才てれび君MAX」内のドラマは「エリーの黒電話」
今やレトロで誰も使わない黒電話(線がつながっていない)に過去の男女から電話がかかってくる話。
スカイ・オブ・ラブか!
読んだ本はドストエフスキーの『おかしな人間の夢』。
ひとり雑誌『作家の日記』に発表された作品。
ドストエフスキーらしさが随所に見られ、また、19世紀ロシアの思想風土もかいまみえる。
幼い頃から自分が「おかしな人間」だと知って、くよくよしたり、他人に腹をたてていた男。ついには「この世のことはどこでもすべてどうでもいい」という確信にいたり、他人が気にならなくなる。
誰かが興奮して語りあっている場面で、彼はこういう。
「諸君、そんなこと、きみらには、どうでもいいことじゃないか」
みんなは彼を笑った。
上の発言は、今風に言えば「そんなの関係ねえ」なのだから、ギャグ以外のなにものでもない。笑われて当然。笑ってもらってありがとう、の世界なのだ。オッパッピ〜。
あまりにもなにもかもどうでもよくなった彼は、自殺しようとすら考える。
そのときだ。
棺桶に入れられたと思いきや、なにものかに拉致されて無限の宇宙空間にとびだす。
たどりついたのは、原罪に穢されていないもうひとつの地球。
そこは、まさに楽園。
だが、彼がこの世界に来たことで、楽園は堕ちてしまう。
嘘を覚え、嫉妬、残酷を生みはじめる。非難、羞恥、名誉、分裂、孤立、所有、悲哀。
「彼らは苦悶を渇望し、真理はもっぱら苦悶によってのみ得られるなどと言い出した」
「彼らが邪悪になったとき、彼らは兄弟愛とか人道とかを口にし、それらの観念を理解した」
「罪を犯すようになると、彼らは正義なるものを発明し、それを保ち続けるために、さまざまな掟をもうけた。そしてそれら掟=法律を保証するためにギロチンをつくったのである」
もうひとつの地球は、地球と同じ歴史を刻みはじめる。
「各人が自分の個性にかまけて、他人の個性を必死におとしめ過小評価しようと努め、そのことに生涯を費やすのだった」
そして奴隷制度が生まれ、義人があらわれ、賢者たちがうまれる。
しかし、その賢者たちがしたことは、なにかというと。
「自分らの理想が理解できない『叡智なき者ども』を一刻も早く殲滅しようとした」
悲しみにうちひしがれて、彼はめざめる。
彼は伝道しようと決意する。
「自らを愛するごとく他を愛せ」ということを。
最大の敵は「生の意識は生そのものより高尚であり、幸福の法則の知識は幸福そのものよりも崇高である」という意識だ!
彼は以前は「おかしな人間」と呼ばれていたが、今では「気狂い」と言われている。オッパッピ〜。
この作品には「空想的な物語」と副題がついている。
宇宙を飛んだり、もう一つの地球の歴史をたどったりするSF的設定ゆえのものだろうが、地上をはなれたイマジネーションの飛躍を楽しむような物語ではない。もっと地球にひきつけて、空想的社会主義に近い発想なんじゃないか、と思える。
「おかしな人間」は、この堕ちた地球の産物にとどまるが、「気狂い」に昇格した今は、地球外生物とみなされたに等しい。
空想的なのは、彼がみた夢のことではなく、彼の存在自体だったのだ。
ケーブルテレビで香港映画「スカイ・オブ・ラブ」を見た。2003年。「恋空」ではない。
1981年の女性と2003年の男性が無線機でつながる。
映画は2人の時をこえたラブストーリーを描くわけではなく、それぞれの時代でのそれぞれの恋愛に、2人の対話が影響を及ぼす。
現代の男性は、過去すなわち愛情を信じられていた時代からのメッセージによって、愛にめざめる。
過去の女性は、逆に現代の男性によって夢を打ち砕かれてしまう。
どういうことかと言うと、現代の男性は、過去の女性が思いを寄せる人の息子であることが判明する。気になるのは、母親。つまり、あこがれのあの人は誰と結婚したのか、ということ。ここで2人が母子であったとわかればよかったのだが、なんと、好きなあの人は、自分の友人と結婚しくさって息子を作りやがっていたのだ!
落ち込む女性。
この女性は未来を知って絶望したまま映画が終わってしまう。
なにをいらんことをしとんねん!ケン・チュウ!
おのれがレトロな無線機みたいな趣味持ってたおかげで、1人の女性が失意の人生を送るはめになったじゃないか!全部おまえのせいだ!
なにがスカイ・オブ・ラブじゃ!
だがしかし、未来を知ってそれに唯々諾々と従ってしまう弱さが、彼女のだめなところだと思える。おちこんで引き気味の主人公(釈由美子似)よりも友人(千秋似)のほうがあっけらかんとしていてパワーもありそうで、確かに魅力的にみえたことだろう。
と、いうより、あこがれの男性が、まるで中国の健康なポスターに出てきそうな真面目タイプに見えるので、あんな男と夫婦になっても楽しくないんじゃないか、と思った。息子を見るかぎり、子育てにも失敗してそうだし。
さて、NHK教育の「天才てれび君MAX」内のドラマは「エリーの黒電話」
今やレトロで誰も使わない黒電話(線がつながっていない)に過去の男女から電話がかかってくる話。
スカイ・オブ・ラブか!
読んだ本はドストエフスキーの『おかしな人間の夢』。
ひとり雑誌『作家の日記』に発表された作品。
ドストエフスキーらしさが随所に見られ、また、19世紀ロシアの思想風土もかいまみえる。
幼い頃から自分が「おかしな人間」だと知って、くよくよしたり、他人に腹をたてていた男。ついには「この世のことはどこでもすべてどうでもいい」という確信にいたり、他人が気にならなくなる。
誰かが興奮して語りあっている場面で、彼はこういう。
「諸君、そんなこと、きみらには、どうでもいいことじゃないか」
みんなは彼を笑った。
上の発言は、今風に言えば「そんなの関係ねえ」なのだから、ギャグ以外のなにものでもない。笑われて当然。笑ってもらってありがとう、の世界なのだ。オッパッピ〜。
あまりにもなにもかもどうでもよくなった彼は、自殺しようとすら考える。
そのときだ。
棺桶に入れられたと思いきや、なにものかに拉致されて無限の宇宙空間にとびだす。
たどりついたのは、原罪に穢されていないもうひとつの地球。
そこは、まさに楽園。
だが、彼がこの世界に来たことで、楽園は堕ちてしまう。
嘘を覚え、嫉妬、残酷を生みはじめる。非難、羞恥、名誉、分裂、孤立、所有、悲哀。
「彼らは苦悶を渇望し、真理はもっぱら苦悶によってのみ得られるなどと言い出した」
「彼らが邪悪になったとき、彼らは兄弟愛とか人道とかを口にし、それらの観念を理解した」
「罪を犯すようになると、彼らは正義なるものを発明し、それを保ち続けるために、さまざまな掟をもうけた。そしてそれら掟=法律を保証するためにギロチンをつくったのである」
もうひとつの地球は、地球と同じ歴史を刻みはじめる。
「各人が自分の個性にかまけて、他人の個性を必死におとしめ過小評価しようと努め、そのことに生涯を費やすのだった」
そして奴隷制度が生まれ、義人があらわれ、賢者たちがうまれる。
しかし、その賢者たちがしたことは、なにかというと。
「自分らの理想が理解できない『叡智なき者ども』を一刻も早く殲滅しようとした」
悲しみにうちひしがれて、彼はめざめる。
彼は伝道しようと決意する。
「自らを愛するごとく他を愛せ」ということを。
最大の敵は「生の意識は生そのものより高尚であり、幸福の法則の知識は幸福そのものよりも崇高である」という意識だ!
彼は以前は「おかしな人間」と呼ばれていたが、今では「気狂い」と言われている。オッパッピ〜。
この作品には「空想的な物語」と副題がついている。
宇宙を飛んだり、もう一つの地球の歴史をたどったりするSF的設定ゆえのものだろうが、地上をはなれたイマジネーションの飛躍を楽しむような物語ではない。もっと地球にひきつけて、空想的社会主義に近い発想なんじゃないか、と思える。
「おかしな人間」は、この堕ちた地球の産物にとどまるが、「気狂い」に昇格した今は、地球外生物とみなされたに等しい。
空想的なのは、彼がみた夢のことではなく、彼の存在自体だったのだ。
猫とともに去りぬ (光文社古典新訳文庫)
2007年11月1日 読書
ISBN:4334751075 文庫 関口 英子 光文社 2006/09/07 ¥560
ジャンニ・ロダーリの『猫とともに去りぬ』を読んだ。
イタリアの奇想短編集。流行りのペットエッセイではない。
原書では26の短編が収められているが、諸事情により、本書は16編が訳出されている。
うち、言葉遊びが過ぎて翻訳不可能だった作品も、いつか翻訳してほしい。
この本は、今年一番面白かった本と断言してもいい。
噂の光文社古典新訳文庫からの1冊だが、今まで読んでいなかった不明を恥じるばかりだ。
古典といっても1973年に出版された本だけど。
各短編について簡単なメモ。ネタバレしているので、まずはご一読を。
1.猫とともに去りぬ
定年退職後、居場所がなくなって、猫になって過ごす男
2.社長と会計係 あるいは 自動車とバイオリンと路面電車
魔法のバックミラーがこたえる。「村でいちばん美しい自動車はジョヴァンニ会計係のです」
嫉妬したマンブレッティ氏(栓抜き部品工場の社長)は会計係の車を壊したり、盗んだりする。会計係の車は特に豪華でもない安い車で、社長によって破壊されるたびに、乗り換えた車はついに馬になったり路面電車になったりするが、車が何にかわろうと、バックミラーのこたえは変わらない。
3.チヴィタヴェッキアの郵便配達人
重い郵便物を平気で運ぶ配達人は、その力をみこまれて、重量挙げの大会に出ることになった。
だが、大会前日、あんまりワクワクして気がせいて寝たために、目覚めたら前日に逆戻りしていた。これはいかん、と寝なおすと、さらに過去へ。
ついには数千年前に目覚めて、得意の馬鹿力でピラミッドを1人で組み立てたりする。
4.ヴェネツィアを救え あるいは 魚になるのがいちばんだ
遠からずヴェネツィアは水没してしまう、という危機に対処するため、魚になって暮らす家族。
5.恋するバイカー
オートバイに恋した青年。オートバイのいいなりに、改造を重ねるうちに、経費がかさんで、青年は寝る間も惜しんで働き続ける。
やっと恋の迷妄から目覚めた青年が、次に恋して結婚を申し込んだのは、洗濯機だった。
6.ピアノ・ビルと消えたかかし
カウボーイの武器は拳銃ではなくピアノ。
決闘場面でもバッハを弾いて、敵を倒すのだ。
なお、この作品では、かかし泥棒事件の謎も面白い。犯人の女性は、ストーカーの保安官から逃げる途上で、着替えのためにかかしを盗んでいたのだ。
7.ガリバルディ橋の釣り人
釣りの呪文を教えてもらったが、呪文に出てくる名前の当人でないと効力はないと聞く。
自分の名前を呪文どおりのものにしようと、タイムマシンを使って過去に遡る男。
8.箱入りの世界
空き瓶、空き缶が車の後をついて走っている。捨てられたペットみたいに、自宅に帰ろうとしているのだ。
家をビンやカンにのっとられる人間たち。
宇宙には、地球を入れるための箱まで出現した。
9.ヴィーナスグリーンの瞳のミス・スペースユニバース
宇宙のシンデレラ
10.お喋り人形
おしゃべりする人形が好き放題に暴れる。
11.ヴェネツィアの謎 あるいは ハトがオレンジジュースを嫌いなわけ
餌に群がるハトで、広告のハト文字を作ろうとする試み。
12.マンブレッティ社長ご自慢の庭
林檎に「明日までになれ!」とか花に「明日までに咲け!」と命令し、ムチで叩いて実行させようとする社長。
植物たちはついに社長に反逆する。
13.カルちゃん、カルロ、カルちゃん あるいは 赤ん坊の悪い癖を矯正するには
生まれながらに超能力を駆使できる天才の赤ん坊。
それを悪い癖として矯正する大人たち。
14.ピサの斜塔をめぐるおかしな出来事
固形スープの懸賞品として、ピサの斜塔を持ち帰ろうとする宇宙人。
15.ベファーナ論
魔女ベファーナはエピファニア(公現祭。1月6日)の前夜子どもたちに贈物を届けてくれる。
ベファーナをほうき、ずだ袋、おんぼろ靴の3つの特徴から論じる。
ほうき:魔女界でも「ミニほうき」や「ロングほうき」などの流行がある。
ずだ袋:袋を取り違えて配ってしまったが、世界中のこどもたちが欲しがっているものにそう違いはなかった。
おんぼろ靴:こどもたちが、ベファーナのために、靴を大量に集めてプレゼントした。その後の顛末は2つにわかれる。貧しい婦人たちに靴を配ったのか、靴屋を開いて大儲けしたのか。
追記:ベファーナは悪い子にはプレゼントを持ってこない、ということを書き忘れている、と研究家が指摘した。論文の作者は「こどもはみんないい子だ」と研究家を脅す。
16.三人の女神が紡ぐのは、誰の糸?
運命の三女神は人間の運命の糸を紡いでいる。ひとりに1本ずつある運命の糸。紡ぎ終わったら、その人の寿命も尽きるのだ。
アドメトス王の糸があと3日で紡ぎ終わると知ったアポロンは、それを地上におりて王に教えた。王は自分の代わりに死んでくれる人物を調達してきた。
みんなに讃えられながら代わりに死ぬ男。
さて、そんなことと知らないヘラクレスが、代理で死んだ男の魂を奪いにきた死神を退治してしまった。生き返る代理人。
運命の三女神は糸を紡ぎつづける。紡ぎ終わる糸は、誰の糸?
ジャンニ・ロダーリの『猫とともに去りぬ』を読んだ。
イタリアの奇想短編集。流行りのペットエッセイではない。
原書では26の短編が収められているが、諸事情により、本書は16編が訳出されている。
うち、言葉遊びが過ぎて翻訳不可能だった作品も、いつか翻訳してほしい。
この本は、今年一番面白かった本と断言してもいい。
噂の光文社古典新訳文庫からの1冊だが、今まで読んでいなかった不明を恥じるばかりだ。
古典といっても1973年に出版された本だけど。
各短編について簡単なメモ。ネタバレしているので、まずはご一読を。
1.猫とともに去りぬ
定年退職後、居場所がなくなって、猫になって過ごす男
2.社長と会計係 あるいは 自動車とバイオリンと路面電車
魔法のバックミラーがこたえる。「村でいちばん美しい自動車はジョヴァンニ会計係のです」
嫉妬したマンブレッティ氏(栓抜き部品工場の社長)は会計係の車を壊したり、盗んだりする。会計係の車は特に豪華でもない安い車で、社長によって破壊されるたびに、乗り換えた車はついに馬になったり路面電車になったりするが、車が何にかわろうと、バックミラーのこたえは変わらない。
3.チヴィタヴェッキアの郵便配達人
重い郵便物を平気で運ぶ配達人は、その力をみこまれて、重量挙げの大会に出ることになった。
だが、大会前日、あんまりワクワクして気がせいて寝たために、目覚めたら前日に逆戻りしていた。これはいかん、と寝なおすと、さらに過去へ。
ついには数千年前に目覚めて、得意の馬鹿力でピラミッドを1人で組み立てたりする。
4.ヴェネツィアを救え あるいは 魚になるのがいちばんだ
遠からずヴェネツィアは水没してしまう、という危機に対処するため、魚になって暮らす家族。
5.恋するバイカー
オートバイに恋した青年。オートバイのいいなりに、改造を重ねるうちに、経費がかさんで、青年は寝る間も惜しんで働き続ける。
やっと恋の迷妄から目覚めた青年が、次に恋して結婚を申し込んだのは、洗濯機だった。
6.ピアノ・ビルと消えたかかし
カウボーイの武器は拳銃ではなくピアノ。
決闘場面でもバッハを弾いて、敵を倒すのだ。
なお、この作品では、かかし泥棒事件の謎も面白い。犯人の女性は、ストーカーの保安官から逃げる途上で、着替えのためにかかしを盗んでいたのだ。
7.ガリバルディ橋の釣り人
釣りの呪文を教えてもらったが、呪文に出てくる名前の当人でないと効力はないと聞く。
自分の名前を呪文どおりのものにしようと、タイムマシンを使って過去に遡る男。
8.箱入りの世界
空き瓶、空き缶が車の後をついて走っている。捨てられたペットみたいに、自宅に帰ろうとしているのだ。
家をビンやカンにのっとられる人間たち。
宇宙には、地球を入れるための箱まで出現した。
9.ヴィーナスグリーンの瞳のミス・スペースユニバース
宇宙のシンデレラ
10.お喋り人形
おしゃべりする人形が好き放題に暴れる。
11.ヴェネツィアの謎 あるいは ハトがオレンジジュースを嫌いなわけ
餌に群がるハトで、広告のハト文字を作ろうとする試み。
12.マンブレッティ社長ご自慢の庭
林檎に「明日までになれ!」とか花に「明日までに咲け!」と命令し、ムチで叩いて実行させようとする社長。
植物たちはついに社長に反逆する。
13.カルちゃん、カルロ、カルちゃん あるいは 赤ん坊の悪い癖を矯正するには
生まれながらに超能力を駆使できる天才の赤ん坊。
それを悪い癖として矯正する大人たち。
14.ピサの斜塔をめぐるおかしな出来事
固形スープの懸賞品として、ピサの斜塔を持ち帰ろうとする宇宙人。
15.ベファーナ論
魔女ベファーナはエピファニア(公現祭。1月6日)の前夜子どもたちに贈物を届けてくれる。
ベファーナをほうき、ずだ袋、おんぼろ靴の3つの特徴から論じる。
ほうき:魔女界でも「ミニほうき」や「ロングほうき」などの流行がある。
ずだ袋:袋を取り違えて配ってしまったが、世界中のこどもたちが欲しがっているものにそう違いはなかった。
おんぼろ靴:こどもたちが、ベファーナのために、靴を大量に集めてプレゼントした。その後の顛末は2つにわかれる。貧しい婦人たちに靴を配ったのか、靴屋を開いて大儲けしたのか。
追記:ベファーナは悪い子にはプレゼントを持ってこない、ということを書き忘れている、と研究家が指摘した。論文の作者は「こどもはみんないい子だ」と研究家を脅す。
16.三人の女神が紡ぐのは、誰の糸?
運命の三女神は人間の運命の糸を紡いでいる。ひとりに1本ずつある運命の糸。紡ぎ終わったら、その人の寿命も尽きるのだ。
アドメトス王の糸があと3日で紡ぎ終わると知ったアポロンは、それを地上におりて王に教えた。王は自分の代わりに死んでくれる人物を調達してきた。
みんなに讃えられながら代わりに死ぬ男。
さて、そんなことと知らないヘラクレスが、代理で死んだ男の魂を奪いにきた死神を退治してしまった。生き返る代理人。
運命の三女神は糸を紡ぎつづける。紡ぎ終わる糸は、誰の糸?
ISBN:4938165074 単行本 小笠原 豊樹 パピルス 1992/06 ¥3,873
ジョン・ファウルズの『アリストス』を読んだ。
『コレクター』と『魔術師』の間に書かれた哲学ノート。
以下、目次。
第1章 全般的状況
難破と筏
偶然の必然性
神を演じる
有限と無限
「神」
物質の偶発性
謎
無神論
第2章 人間の不満
死
これしかないということ
魂にまつわる神話
孤立
不安
偶然
羨み
第3章 ネモ
政治的ネモ
ネモの必要性
第4章 補償の相対性
幸福と羨み
第5章 善を行うこと
「無償の行為」
相対的自由の意味
善を演じる能力の欠如
逆支援
善は悪に等しい
なぜ善はこうも少ないのか
第6章 緊張は人間世界の本性
「私」の対極
緊張
緊張のメカニズム
緊張を操作する
転位
国際的緊張
究極の緊張
第7章 他の哲学
キリスト教
ラマ教
人文主義
社会主義
ファシズム
実存主義
第8章 金という憑き物
富と貧困
快楽の大量複製
オートメーションの真空
余暇の義務
数がもたらす死
結論
第9章 新しい教育
世界共通語
更に高度な三つの教育目的
国家主義
芸術と科学
ゲーム
有罪性
成人期
アダムとイブ
性の自由
内面的教育
「今」の重要性
内面を知ること
通観的教育
第10章 芸術の重要性
時と芸術
芸術家とその芸術
芸術と社会
芸術家と非芸術家
天才と職人
様式は人間ではない
詩と人類
第11章 個人の中のアリストス
この中で気になるのは「ネモ」だろう。
「ネモ」とは何かといえば、「何者でもない状況」である。
「ネモとは、人間が感じる彼自身の無用と儚さ、相対性と依存性、検証不可能な無である」
誰しも「何者でもない人」にはなりたくない。「ネモ」が問題になるのは、こんな場合だ。
「愛されたい、さもなければ憎まれたい、と私たちはみな思う。これは私たちが記憶されるだろうこと『存在しなかった』のではないことのしるしである。この理由から、愛を生み出す能力を持たない多くの者は、憎しみを生み出してきた」
ネモはまた、政治においては市民感覚の萎縮、無力感としてあらわれる。
「ほんの数十人が行動し、無力な数百万人はぼんやり立ちつくす」
ジョン・ファウルズはこの本をヘラクレイトスに触発されて、その思想をアレンジすることで、現代の思想として成立させた。
アリストスとは、独自の判断、内的な知恵や知識の追求をする「善き人」という意味で、ヘラクレイトスは「1人のアリストスは他の1万人に匹敵する」と言っている。
また、「多数は、自分たちに最も関わりの深いことに背を向ける」
「多数は、いかに耳を傾けるかを知らず、いかに自ら語るかも知らない」
「多数は、毎日の出来事を誤って受け取る。彼らは物事について聞きかじり、それだけで物事を知ったと思いこむ」
などの言葉がある。多数に巻き込まれることなく、自分でちゃんと考えろ、ということ。
ファウルズの本書でも、この一種のエリート主義とも呼べそうな考えは如実にあらわれている。マスコミに踊らされているわれわれも心しないといけない。
本書で興味深かった部分を引用してみると。
「一つ一つの時点において、すべての生は平行に並んでいる。幸福の尺度で測るなら、進化は垂直ではなく水平である」(補償の相対性)
「何が悪かというなら、それは個人的幸福ではなく、不当な社会的特権から発生する特殊な個人的特権である。(中略)追放された者らは単に果樹園の林檎を羨むのではない。それ以上に、彼らは果樹園に入る権利を羨む。彼らが排他的なクラブの会員になりたがるのは、クラブがさまざまな便宜を提供するからではなく、それが排他的だからである」(補償の相対性)
「近い未来に私たちが直面する脅威は、教科内容の伝達において最も能率的な教師がすなわち良い教師なのだと、私たち自身が機械論的に信じ込んでしまうことなのである。もしそんなふうに信じるなら、私たちはコンピューターの暴虐に、すなわち、世界共通であるがゆえに歴史上最悪のかたちの国家主義に、打ちひしがれてしまうだろう」(新しい教育)
「すべての科学、すべての芸術は象徴化であり、すべての象徴化は時からの逃亡の試みである。(中略)だが、科学はすべての時に共通する出来事に関して真実であろうとし、芸術はすべての時に共通する出来事それ自体であろうとする」(新しい教育)
「世間では、特にアメリカでは、芸術を一種の擬似技術に変える試みがすでに見られる。『創作講座』というおぞましい名前をつけられた場では、評価を得る技術さえ学べればそれで充分という考えがはびこり、今や明らかな擬似技術の空洞を特徴とする作家や画家の群が増殖している」(新しい教育)
「『ボヘミアン』芸術家たちや、呪われた詩人たちの生活は、大衆には、それらの人たちの作品よりも面白い。作品を創ることは到底できないとしても、生活なら真似できそうだから」(芸術の重要性)
「詩にとって不吉なのは、第二次大戦後、新たな種類の知識人が多数出現した事実である。彼の主な関心事は、美術、映画、写真、服装、室内装飾、等々である。彼の世界は、色、形、素材、図柄、装置、仕掛などに束縛されている。そしてさまざまな席事や事物の、相応に知的な(倫理的あるいは社会的、政治的な)意味については、彼は最小限の関心しか示さない。このような人びとは実は知識人ではなく、いうならば、視覚人である(芸術の重要性)
本書は1964年に出版されたものだが、現代を予見した書でもあったように思えてきた。
なお、この本、哲学的断章か、エッセイなのか、と思って読みはじめたが、かなり硬い本で、読みごたえ充分だった。書いてあることはちっとも難解じゃないんだけど。
ジョン・ファウルズの『アリストス』を読んだ。
『コレクター』と『魔術師』の間に書かれた哲学ノート。
以下、目次。
第1章 全般的状況
難破と筏
偶然の必然性
神を演じる
有限と無限
「神」
物質の偶発性
謎
無神論
第2章 人間の不満
死
これしかないということ
魂にまつわる神話
孤立
不安
偶然
羨み
第3章 ネモ
政治的ネモ
ネモの必要性
第4章 補償の相対性
幸福と羨み
第5章 善を行うこと
「無償の行為」
相対的自由の意味
善を演じる能力の欠如
逆支援
善は悪に等しい
なぜ善はこうも少ないのか
第6章 緊張は人間世界の本性
「私」の対極
緊張
緊張のメカニズム
緊張を操作する
転位
国際的緊張
究極の緊張
第7章 他の哲学
キリスト教
ラマ教
人文主義
社会主義
ファシズム
実存主義
第8章 金という憑き物
富と貧困
快楽の大量複製
オートメーションの真空
余暇の義務
数がもたらす死
結論
第9章 新しい教育
世界共通語
更に高度な三つの教育目的
国家主義
芸術と科学
ゲーム
有罪性
成人期
アダムとイブ
性の自由
内面的教育
「今」の重要性
内面を知ること
通観的教育
第10章 芸術の重要性
時と芸術
芸術家とその芸術
芸術と社会
芸術家と非芸術家
天才と職人
様式は人間ではない
詩と人類
第11章 個人の中のアリストス
この中で気になるのは「ネモ」だろう。
「ネモ」とは何かといえば、「何者でもない状況」である。
「ネモとは、人間が感じる彼自身の無用と儚さ、相対性と依存性、検証不可能な無である」
誰しも「何者でもない人」にはなりたくない。「ネモ」が問題になるのは、こんな場合だ。
「愛されたい、さもなければ憎まれたい、と私たちはみな思う。これは私たちが記憶されるだろうこと『存在しなかった』のではないことのしるしである。この理由から、愛を生み出す能力を持たない多くの者は、憎しみを生み出してきた」
ネモはまた、政治においては市民感覚の萎縮、無力感としてあらわれる。
「ほんの数十人が行動し、無力な数百万人はぼんやり立ちつくす」
ジョン・ファウルズはこの本をヘラクレイトスに触発されて、その思想をアレンジすることで、現代の思想として成立させた。
アリストスとは、独自の判断、内的な知恵や知識の追求をする「善き人」という意味で、ヘラクレイトスは「1人のアリストスは他の1万人に匹敵する」と言っている。
また、「多数は、自分たちに最も関わりの深いことに背を向ける」
「多数は、いかに耳を傾けるかを知らず、いかに自ら語るかも知らない」
「多数は、毎日の出来事を誤って受け取る。彼らは物事について聞きかじり、それだけで物事を知ったと思いこむ」
などの言葉がある。多数に巻き込まれることなく、自分でちゃんと考えろ、ということ。
ファウルズの本書でも、この一種のエリート主義とも呼べそうな考えは如実にあらわれている。マスコミに踊らされているわれわれも心しないといけない。
本書で興味深かった部分を引用してみると。
「一つ一つの時点において、すべての生は平行に並んでいる。幸福の尺度で測るなら、進化は垂直ではなく水平である」(補償の相対性)
「何が悪かというなら、それは個人的幸福ではなく、不当な社会的特権から発生する特殊な個人的特権である。(中略)追放された者らは単に果樹園の林檎を羨むのではない。それ以上に、彼らは果樹園に入る権利を羨む。彼らが排他的なクラブの会員になりたがるのは、クラブがさまざまな便宜を提供するからではなく、それが排他的だからである」(補償の相対性)
「近い未来に私たちが直面する脅威は、教科内容の伝達において最も能率的な教師がすなわち良い教師なのだと、私たち自身が機械論的に信じ込んでしまうことなのである。もしそんなふうに信じるなら、私たちはコンピューターの暴虐に、すなわち、世界共通であるがゆえに歴史上最悪のかたちの国家主義に、打ちひしがれてしまうだろう」(新しい教育)
「すべての科学、すべての芸術は象徴化であり、すべての象徴化は時からの逃亡の試みである。(中略)だが、科学はすべての時に共通する出来事に関して真実であろうとし、芸術はすべての時に共通する出来事それ自体であろうとする」(新しい教育)
「世間では、特にアメリカでは、芸術を一種の擬似技術に変える試みがすでに見られる。『創作講座』というおぞましい名前をつけられた場では、評価を得る技術さえ学べればそれで充分という考えがはびこり、今や明らかな擬似技術の空洞を特徴とする作家や画家の群が増殖している」(新しい教育)
「『ボヘミアン』芸術家たちや、呪われた詩人たちの生活は、大衆には、それらの人たちの作品よりも面白い。作品を創ることは到底できないとしても、生活なら真似できそうだから」(芸術の重要性)
「詩にとって不吉なのは、第二次大戦後、新たな種類の知識人が多数出現した事実である。彼の主な関心事は、美術、映画、写真、服装、室内装飾、等々である。彼の世界は、色、形、素材、図柄、装置、仕掛などに束縛されている。そしてさまざまな席事や事物の、相応に知的な(倫理的あるいは社会的、政治的な)意味については、彼は最小限の関心しか示さない。このような人びとは実は知識人ではなく、いうならば、視覚人である(芸術の重要性)
本書は1964年に出版されたものだが、現代を予見した書でもあったように思えてきた。
なお、この本、哲学的断章か、エッセイなのか、と思って読みはじめたが、かなり硬い本で、読みごたえ充分だった。書いてあることはちっとも難解じゃないんだけど。
ISBN:4622070995 単行本 新倉 俊一 みすず書房 2004/07 ¥5,460
今日は、エズラ・パウンドの誕生日。
と、いうわけで、エズラ・パウンドの『ピサ詩篇』を読んだ。
論語、神曲、オデュッセイアを中心に、エズラ・パウンドが今までに接して来た文学、美術、音楽、謡曲、記憶している歴史上のエピソード、同僚との思い出、町の記憶、収容所内での囚人の会話などなどが、意識の流れのままに書き付けられている。
いわば、エズラ・パウンドの財産目録みたいなものだ。
解説者は、詩のなかによく出てくる「沿岸航海」という言葉を援用して、まさに航海するように意識の風景を描写していったようなことを言っていた。
今なら、さしずめ脳内へのサイコダイビングとでも言ったところか(これももう古い?)。
エズラ・パウンドでなく、これが日本橋のオタクであれば、論語や神曲のかわりに、アニメ、ゲーム、ライトノベル、バラエティ番組、漫画などが思い付くままに大量に吐き出されるのだろう。
これらガジェットに目を晦まされることなく、全体に、あるいはその裏にある、作者ならではの傾向や引力を感じ取ってこそ、作品の魅力が感得できるのだろう。
物をぶちまけることは誰にでもできる。でも、ぶちまけ方にはセンスがあるのだ。
つづいて、城戸朱理編訳による『エズラ・パウンド長詩集成』を読んだ。
ペリゴール近郊
セクストゥス・プロペルティウスへの讃歌
ヒュー・セルウィン・モーバリイ−交友と人生
の3編が収められている。
「ペリゴール近郊」は先日読んだ『大祓』に収録されていた詩。翻訳は違う。
遠藤朋之の詳細な註解によると「ヘンリー2世とリチャード獅子心王、ヘンリー王子との間の仲違いにおいてベルトランドボルンが担った役割を、詩によって明らかにしようとした試み」とある。
戦いと愛の謎をはらんで、中世世界が展開される。
「セクストゥス・プロペルティウスへの讃歌」は紀元前1世紀のラテン文学が生んだ、ウェルギリウス、ホラティウス、オウィディウスと並び称されるプロペルティウスの翻案。
恋愛詩だ。
「ヒュー・セルウィン・モーバリイ−交友と人生」は20世紀が舞台。
城戸朱理の解説によると、「パウンド=モーバリイの同時代との齟齬」「第一次世界大戦への批判」「ヴィクトリア朝から同時代までの文学者の肖像」が描かれている。
エズラ・パウンドについては、『詩篇』全部を読み通してからでないと、何を言っても中途半端になってしまう気がする。だからといって、原文を読みこなす能力は僕にはないのだ。
こんなに語学力に乏しい僕が、かつては雑誌で翻訳をしていたなんて、おそろしい話だ。
今日は、エズラ・パウンドの誕生日。
と、いうわけで、エズラ・パウンドの『ピサ詩篇』を読んだ。
論語、神曲、オデュッセイアを中心に、エズラ・パウンドが今までに接して来た文学、美術、音楽、謡曲、記憶している歴史上のエピソード、同僚との思い出、町の記憶、収容所内での囚人の会話などなどが、意識の流れのままに書き付けられている。
いわば、エズラ・パウンドの財産目録みたいなものだ。
解説者は、詩のなかによく出てくる「沿岸航海」という言葉を援用して、まさに航海するように意識の風景を描写していったようなことを言っていた。
今なら、さしずめ脳内へのサイコダイビングとでも言ったところか(これももう古い?)。
エズラ・パウンドでなく、これが日本橋のオタクであれば、論語や神曲のかわりに、アニメ、ゲーム、ライトノベル、バラエティ番組、漫画などが思い付くままに大量に吐き出されるのだろう。
これらガジェットに目を晦まされることなく、全体に、あるいはその裏にある、作者ならではの傾向や引力を感じ取ってこそ、作品の魅力が感得できるのだろう。
物をぶちまけることは誰にでもできる。でも、ぶちまけ方にはセンスがあるのだ。
つづいて、城戸朱理編訳による『エズラ・パウンド長詩集成』を読んだ。
ペリゴール近郊
セクストゥス・プロペルティウスへの讃歌
ヒュー・セルウィン・モーバリイ−交友と人生
の3編が収められている。
「ペリゴール近郊」は先日読んだ『大祓』に収録されていた詩。翻訳は違う。
遠藤朋之の詳細な註解によると「ヘンリー2世とリチャード獅子心王、ヘンリー王子との間の仲違いにおいてベルトランドボルンが担った役割を、詩によって明らかにしようとした試み」とある。
戦いと愛の謎をはらんで、中世世界が展開される。
「セクストゥス・プロペルティウスへの讃歌」は紀元前1世紀のラテン文学が生んだ、ウェルギリウス、ホラティウス、オウィディウスと並び称されるプロペルティウスの翻案。
恋愛詩だ。
「ヒュー・セルウィン・モーバリイ−交友と人生」は20世紀が舞台。
城戸朱理の解説によると、「パウンド=モーバリイの同時代との齟齬」「第一次世界大戦への批判」「ヴィクトリア朝から同時代までの文学者の肖像」が描かれている。
エズラ・パウンドについては、『詩篇』全部を読み通してからでないと、何を言っても中途半端になってしまう気がする。だからといって、原文を読みこなす能力は僕にはないのだ。
こんなに語学力に乏しい僕が、かつては雑誌で翻訳をしていたなんて、おそろしい話だ。
不思議の国ルイス・キャロルのロシア旅行記
2007年10月26日 読書
ISBN:4875719914 単行本 笠井 勝子 開文社出版 2007/06 ¥2,100
『不思議の国 ルイス・キャロルのロシア旅行記』を読んだ。
『不思議の国のアリス』出版の1年半後、ルイス・キャロルはロシア旅行に行った。彼にとっては初の外国で、オックスフォードのクライスト・チャ−チ学寮出身の先輩ヘンリー・パリー・リドゥンのお誘いで、急遽決まったものだ。
そのときに書かれた旅行日記が出版された。
出版の予定があったわけではないが、後で人に読ませるために書かれたもので、文章のそこかしこにルイス・キャロル独特のユーモアが含まれている。
行き先は主に教会や美術館。
たとえば、こんな感じの日記。
ポツダムで、ベルリン建築の2原則を悟るくだり。
まず「屋上には都合のよい所があればどこにでも、男の像を立てる。片足で立っているのがいちばんよい」
2つめは「大きな男が動物を『殺しているところ』『殺そうとしているところ』『殺し終わったところ』を刻んだ像を置く。その動物に刺さった槍先は多ければ多いほどよい」
ルイスキャロルはこれを「動物殺戮方針」と呼び、町が化石化した屠殺場に見える、とまで言っている。
ベルリンで見かけた子供の遊び
「子どもたちは大きな犬が寝そべっているのを見つけて、すぐに犬の回りに踊りの輪を作り、そうして犬に歌を歌ってやった」
「犬はそれまでにみたこともない親切ぶりに、はじめはすっかりまごついていたが、そのうちにこれは我慢するほどのものでもないとわかって、逃げ出した」
「ケーニッヒスベルクで、商店のうちの半分が置いているいちばん売れているらしいものは、手袋と花火だ。それでいて手袋をしないで外出している紳士をずいぶんと見かけた。ここではたぶん手袋というものは花火をするときに手を保護するために使うのだろう」
ペテルブルグでピョートル大帝の乗馬姿の像を見たとき
「もしこれがベルリンなら、ピョートル大帝はまちがいなく怪物を殺しにかかっているところだ。しかしここペテルブルグはそのようなものに興味はない。ここには動物殺戮主義は見あたらない」
しつこく繰り返される動物殺戮主義についての表現。
モスクワの聖ワシーリー聖堂で
「外もそうだが、内部も奇妙な、怪奇と言ってもよい教会で、ガイドは今までに見たこともないほど実に程度の低い男だ。独自の理屈を持っていて、見学する者は時速4マイルの速さで歩くものだと決めている」
ロシア正教の結婚式を見て
「結婚式のなかでは結婚したふたりに冠をかぶせる場面があり、おかしいというか奇妙なものだった」
「新郎は普通のイヴニング・スーツを着て、王様のように冠をかぶり、手にはろうそくを持ち、惨めな諦めの表情である。これほど滑稽に見えなければ気の毒に思ったことだろう」
預けておいた外套を出してもらうときに、言葉が通じず、あげくの果にイラストを描いてやっと通じた際に
「象形文字のことばは他の方法が失敗に帰したところでも通用する。ペテルブルグへの帰途には、われわれふたりの文明のレベルも所詮は古代ニネベのあたりまで落ちぶれてしまったという自覚に打ち拉がれていたのである」
ギーセンで朝食を注文するときの会話
「はい、コーヒーですね。わかりました。それと卵。卵にはハムを付けますか?わかりました」
「ブロイルにしてもらいたい」
「ボイルですね?」
「いや、ボイルではない。ブロイルだ」
「はいはい、ハムですね」
「そう、ハムだ。で、どういう調理なんだね?」
「はいはい、どういう調理」
教会や美術館、博物館のレポートにまじって、こういう身辺のエッセイ風感想が織り込まれている。
昨日読んだバロウズの南米とは天と地の違いを感じる。
注釈もかなり丁寧で、とても読みやすく、面白い本だった。
日記中に出てくる絵画を図版として使用していたりする。
タイトルも作者も表記のない絵画を特定して載せていたりするのも、ありがたい。
(イヴァン・アイヴァゾヴスキーの「恐怖の波」)
また、さりげなく、ルイス・キャロルがロシアで子どもの写真を買い求めようとするくだりもあって、いかにもルイス・キャロルっぽい。
『不思議の国 ルイス・キャロルのロシア旅行記』を読んだ。
『不思議の国のアリス』出版の1年半後、ルイス・キャロルはロシア旅行に行った。彼にとっては初の外国で、オックスフォードのクライスト・チャ−チ学寮出身の先輩ヘンリー・パリー・リドゥンのお誘いで、急遽決まったものだ。
そのときに書かれた旅行日記が出版された。
出版の予定があったわけではないが、後で人に読ませるために書かれたもので、文章のそこかしこにルイス・キャロル独特のユーモアが含まれている。
行き先は主に教会や美術館。
たとえば、こんな感じの日記。
ポツダムで、ベルリン建築の2原則を悟るくだり。
まず「屋上には都合のよい所があればどこにでも、男の像を立てる。片足で立っているのがいちばんよい」
2つめは「大きな男が動物を『殺しているところ』『殺そうとしているところ』『殺し終わったところ』を刻んだ像を置く。その動物に刺さった槍先は多ければ多いほどよい」
ルイスキャロルはこれを「動物殺戮方針」と呼び、町が化石化した屠殺場に見える、とまで言っている。
ベルリンで見かけた子供の遊び
「子どもたちは大きな犬が寝そべっているのを見つけて、すぐに犬の回りに踊りの輪を作り、そうして犬に歌を歌ってやった」
「犬はそれまでにみたこともない親切ぶりに、はじめはすっかりまごついていたが、そのうちにこれは我慢するほどのものでもないとわかって、逃げ出した」
「ケーニッヒスベルクで、商店のうちの半分が置いているいちばん売れているらしいものは、手袋と花火だ。それでいて手袋をしないで外出している紳士をずいぶんと見かけた。ここではたぶん手袋というものは花火をするときに手を保護するために使うのだろう」
ペテルブルグでピョートル大帝の乗馬姿の像を見たとき
「もしこれがベルリンなら、ピョートル大帝はまちがいなく怪物を殺しにかかっているところだ。しかしここペテルブルグはそのようなものに興味はない。ここには動物殺戮主義は見あたらない」
しつこく繰り返される動物殺戮主義についての表現。
モスクワの聖ワシーリー聖堂で
「外もそうだが、内部も奇妙な、怪奇と言ってもよい教会で、ガイドは今までに見たこともないほど実に程度の低い男だ。独自の理屈を持っていて、見学する者は時速4マイルの速さで歩くものだと決めている」
ロシア正教の結婚式を見て
「結婚式のなかでは結婚したふたりに冠をかぶせる場面があり、おかしいというか奇妙なものだった」
「新郎は普通のイヴニング・スーツを着て、王様のように冠をかぶり、手にはろうそくを持ち、惨めな諦めの表情である。これほど滑稽に見えなければ気の毒に思ったことだろう」
預けておいた外套を出してもらうときに、言葉が通じず、あげくの果にイラストを描いてやっと通じた際に
「象形文字のことばは他の方法が失敗に帰したところでも通用する。ペテルブルグへの帰途には、われわれふたりの文明のレベルも所詮は古代ニネベのあたりまで落ちぶれてしまったという自覚に打ち拉がれていたのである」
ギーセンで朝食を注文するときの会話
「はい、コーヒーですね。わかりました。それと卵。卵にはハムを付けますか?わかりました」
「ブロイルにしてもらいたい」
「ボイルですね?」
「いや、ボイルではない。ブロイルだ」
「はいはい、ハムですね」
「そう、ハムだ。で、どういう調理なんだね?」
「はいはい、どういう調理」
教会や美術館、博物館のレポートにまじって、こういう身辺のエッセイ風感想が織り込まれている。
昨日読んだバロウズの南米とは天と地の違いを感じる。
注釈もかなり丁寧で、とても読みやすく、面白い本だった。
日記中に出てくる絵画を図版として使用していたりする。
タイトルも作者も表記のない絵画を特定して載せていたりするのも、ありがたい。
(イヴァン・アイヴァゾヴスキーの「恐怖の波」)
また、さりげなく、ルイス・キャロルがロシアで子どもの写真を買い求めようとするくだりもあって、いかにもルイス・キャロルっぽい。
麻薬書簡 再現版 (河出文庫 ハ 5-4)
2007年10月25日 読書
ISBN:4309462987 文庫 山形 浩生 河出書房新社 2007/09/04 ¥756
ウィリアム・バロウズとアレン・ギンズバーグによる『麻薬書簡 再現版』を読んだ。
以下目次
ヤーヘを求めて(1953)
七年後(1960)
アレン・ギンズバーグよりウィリアム・バロウズへ
バロウズの返事
エピローグ(1963)
ギンズバーグ「関係者各位」
バロウズ「ぼくは死にかけてるの、だんなさん?」
補遺
補遺1 バロウズの1953年6月「ヤーヘ」原稿より
補遺2 バロウズのギンズバーグ宛書簡、1953年7月9日
補遺3 バロウズの1953年12月「ヤーヘ」原稿より
補遺4 バロウズの1956年1月「ヤーヘ記事」原稿より
補遺5 バロウズの1956年3月「ヤーヘ記事」原稿より
補遺6 ギンズバーグの1960年6月南米日誌より
注
編者解説(オリヴァー・ハリス)
「謎の一部」
「真価がわかるのはおれだ」
「いまだに謎」
「まだ私は何も書いていない」
「最後の物(ブツ)」
編者謝辞
ヤーヘは今ではアヤフアスカという名で知られる蔓植物、向神経薬のこと。
当時はアマゾン流域のインディアンたちに使用されている謎のドラッグで、実態は知られていなかった。
ただ、その効能はこんなふうに伝えられていた。
「トランス状態を引き起こして他人の思考が読めるようになったり、なくし物や盗品も見つかったり、現代科学の技能では手に負えない病気を診断して治療法を出したり、未来を予見したりできるようになる」
さらに、最も驚くべき力は、こんなふう。
「こうした彼方のジャングル地域の土人たちが見たことも聞いたこともないような都市や場所について、詳細な細部に至るまで描写できるようになる」んだって!
バロウズは自ら南米におもむいて、ヤーヘを体験し、その効果を明らかにしようとしたのだ。
さて、このヤーヘ、テレパシンという名で呼ばれることもあり、摂取によりテレパシー能力が開花する、と信じられていたが、結果から言うと、それは確認できなかった。
バロウズによると、効き目は大麻と同じで、ヤーへ液(樹皮を数時間つけた水)を1リットル飲めば、青い閃光、寒気、吐き気、身体のコントロール喪失。煮込んだ調整物を飲めば神経症的な妄想、幻想、ひどい吐き気、寒気、完全な体の自由喪失、ことによると生命を失う場合もあるという。
「2分以内にぞくぞくする波が全身を覆い、小屋がぐるぐる回りだした」
「助手が外にいて明らかに私を殺そうという意図をもって外をうろついている」
「イモムシ状の生き物が青い霞に包まれて目の前を通り過ぎ、それぞれが卑わいでバカにしたような鳴き声をあげる」
ああ、バロウズ、南米まで行って、どんなひどい目にあってるんだ。
本書の中心になる「ヤーヘを求めて」はバロウズがヤーヘを求めて南米パナマ〜ボゴタ〜パスト〜リマからギンズバーグに送った書簡をもとにしている。と、言われてきたが、事情は違ったらしい。編者によると、もともと「ヤーヘを求めて」は『ジャンキー』の一部として構想されていた。ギンズバーグに送られた原稿は書簡形式ではなく、一人称の旅行記だったという。(訳文で『ヤーヘを探して』という翻訳も混在しているが、『ヤーヘを求めて』のことだろう)
麻薬とは直接無関係だが、町の乞食について書かれた文章も刺激的で面白い。
「ライ病者は崩壊する脚にハチミツを塗って毎日一定時間蟻塚の上にすわり」
「他の連中は街角で熱酸による浣腸をやってみせたり、黒く干からびた指や性器を折り取ってみやげものとして売る」
「ある注目すべき乞食は実にひどい吐息をしていて、吐くだけで人が殺せるとして有名」
「最も恐れられている病気は中核病と呼ばれる。巨大なカニやムカデが体内で孵化してやがて肉体を割って出てくる」
「ムカデが皮膚の下でうごめいているのが見える」
強烈!
バロウズがレポートする、これら乞食や土人やひどいドラッグ効果と比べて、ギンズバーグがレポートするドラッグ効果には「神」「宇宙」「偉大な存在」など天上的描写がなされているのが対照的で面白かった。まさに天と地。同じドラッグの話なのか、と疑う。
僕の住む町では、すぐ近くにあいりん地区があり、生活保護費をすぐに覚醒剤購入にあててしまうケースが日常的に見られるらしい。南米か!
ウィリアム・バロウズとアレン・ギンズバーグによる『麻薬書簡 再現版』を読んだ。
以下目次
ヤーヘを求めて(1953)
七年後(1960)
アレン・ギンズバーグよりウィリアム・バロウズへ
バロウズの返事
エピローグ(1963)
ギンズバーグ「関係者各位」
バロウズ「ぼくは死にかけてるの、だんなさん?」
補遺
補遺1 バロウズの1953年6月「ヤーヘ」原稿より
補遺2 バロウズのギンズバーグ宛書簡、1953年7月9日
補遺3 バロウズの1953年12月「ヤーヘ」原稿より
補遺4 バロウズの1956年1月「ヤーヘ記事」原稿より
補遺5 バロウズの1956年3月「ヤーヘ記事」原稿より
補遺6 ギンズバーグの1960年6月南米日誌より
注
編者解説(オリヴァー・ハリス)
「謎の一部」
「真価がわかるのはおれだ」
「いまだに謎」
「まだ私は何も書いていない」
「最後の物(ブツ)」
編者謝辞
ヤーヘは今ではアヤフアスカという名で知られる蔓植物、向神経薬のこと。
当時はアマゾン流域のインディアンたちに使用されている謎のドラッグで、実態は知られていなかった。
ただ、その効能はこんなふうに伝えられていた。
「トランス状態を引き起こして他人の思考が読めるようになったり、なくし物や盗品も見つかったり、現代科学の技能では手に負えない病気を診断して治療法を出したり、未来を予見したりできるようになる」
さらに、最も驚くべき力は、こんなふう。
「こうした彼方のジャングル地域の土人たちが見たことも聞いたこともないような都市や場所について、詳細な細部に至るまで描写できるようになる」んだって!
バロウズは自ら南米におもむいて、ヤーヘを体験し、その効果を明らかにしようとしたのだ。
さて、このヤーヘ、テレパシンという名で呼ばれることもあり、摂取によりテレパシー能力が開花する、と信じられていたが、結果から言うと、それは確認できなかった。
バロウズによると、効き目は大麻と同じで、ヤーへ液(樹皮を数時間つけた水)を1リットル飲めば、青い閃光、寒気、吐き気、身体のコントロール喪失。煮込んだ調整物を飲めば神経症的な妄想、幻想、ひどい吐き気、寒気、完全な体の自由喪失、ことによると生命を失う場合もあるという。
「2分以内にぞくぞくする波が全身を覆い、小屋がぐるぐる回りだした」
「助手が外にいて明らかに私を殺そうという意図をもって外をうろついている」
「イモムシ状の生き物が青い霞に包まれて目の前を通り過ぎ、それぞれが卑わいでバカにしたような鳴き声をあげる」
ああ、バロウズ、南米まで行って、どんなひどい目にあってるんだ。
本書の中心になる「ヤーヘを求めて」はバロウズがヤーヘを求めて南米パナマ〜ボゴタ〜パスト〜リマからギンズバーグに送った書簡をもとにしている。と、言われてきたが、事情は違ったらしい。編者によると、もともと「ヤーヘを求めて」は『ジャンキー』の一部として構想されていた。ギンズバーグに送られた原稿は書簡形式ではなく、一人称の旅行記だったという。(訳文で『ヤーヘを探して』という翻訳も混在しているが、『ヤーヘを求めて』のことだろう)
麻薬とは直接無関係だが、町の乞食について書かれた文章も刺激的で面白い。
「ライ病者は崩壊する脚にハチミツを塗って毎日一定時間蟻塚の上にすわり」
「他の連中は街角で熱酸による浣腸をやってみせたり、黒く干からびた指や性器を折り取ってみやげものとして売る」
「ある注目すべき乞食は実にひどい吐息をしていて、吐くだけで人が殺せるとして有名」
「最も恐れられている病気は中核病と呼ばれる。巨大なカニやムカデが体内で孵化してやがて肉体を割って出てくる」
「ムカデが皮膚の下でうごめいているのが見える」
強烈!
バロウズがレポートする、これら乞食や土人やひどいドラッグ効果と比べて、ギンズバーグがレポートするドラッグ効果には「神」「宇宙」「偉大な存在」など天上的描写がなされているのが対照的で面白かった。まさに天と地。同じドラッグの話なのか、と疑う。
僕の住む町では、すぐ近くにあいりん地区があり、生活保護費をすぐに覚醒剤購入にあててしまうケースが日常的に見られるらしい。南米か!
ISBN:4879842508 単行本 紀田 順一郎 松籟社 2007/03 ¥2,100
紀田順一郎の『幻想と怪奇の時代』を読んだ。
あとがきに「本書は私が半生にわたって親しんできた幻想怪奇文学に関する回想と、その間に執筆した論考を選択のうえ収録したもので、同じ版元から上梓した『戦後創成期ミステリ日記』(2006)の姉妹編をなすものである」とある。
以下、目次
第1部 幻想書林に分け入って
わが最初の境界
限られたマイナーな領域
『黒魔団』を読む女性
大伴昌司とホラー・セミナー
いまだに忘れない収集の苦心
天のときに恵まれた企画
失敗に終わった雑誌
輝ける邪悪の天球儀
円環を閉じるにあたって
第2部 幻想と怪奇の時代
恐怖小説講義
ゴシックの炎
ゴシック・ロマンスとは何か
ホーレス・ウォルポール−オトラントまたは夢の城
メアリー・シェリー−造物主または闇の力
エドガー・アラン・ポー−神話の創造と崩壊
「もう一つの夜」を求めて
『M・R・ジェイムズ怪談全集』解説
日本怪奇小説の流れ
(付録)密室論
第1部は2005年に行われた同題名の講演をもとに執筆された書き下ろし。
第2部は『出口なき迷宮』や『宝石』に執筆されたもの。
著者は『世界幻想文学体系』を企画しているが、この叢書について、こんなことを言っている。
「(幻想文学は)特定の作家や作風、一定の傾向に好みが偏しがちとなる。私はかねてこの全集をすべて揃える読者が少ないということを感じていた」
お恥ずかしい。
僕も、特に偏した読み方はしていないつもりだったが、全冊読破はしていない。主に、金銭面が原因だ。再読含めて、この全集を完読してみるのも楽しいかもしれない 。
付録の『密室論』では「密室の黄昏」「密室の廃墟」「密室の残骸」「密室の様式」「密室の典型」「現代と密室」「密室の再生」と見出しをつけて1962年に発表されたもの。
「あまりにもキマジメになりすぎた推理小説に、再び軽業的思考を回復してみたいという欲求が」現代の密室の再生をもたらすのではないか、と書いている。
確かに、密室は「軽業」として再生した。
でも、なぜか50年以上昔の推理小説の密室ものを読むときの方が、遥かに面白いと感じるのは、僕が古臭いものが好きだという傾向によるものなのだろうか。
紀田順一郎の『幻想と怪奇の時代』を読んだ。
あとがきに「本書は私が半生にわたって親しんできた幻想怪奇文学に関する回想と、その間に執筆した論考を選択のうえ収録したもので、同じ版元から上梓した『戦後創成期ミステリ日記』(2006)の姉妹編をなすものである」とある。
以下、目次
第1部 幻想書林に分け入って
わが最初の境界
限られたマイナーな領域
『黒魔団』を読む女性
大伴昌司とホラー・セミナー
いまだに忘れない収集の苦心
天のときに恵まれた企画
失敗に終わった雑誌
輝ける邪悪の天球儀
円環を閉じるにあたって
第2部 幻想と怪奇の時代
恐怖小説講義
ゴシックの炎
ゴシック・ロマンスとは何か
ホーレス・ウォルポール−オトラントまたは夢の城
メアリー・シェリー−造物主または闇の力
エドガー・アラン・ポー−神話の創造と崩壊
「もう一つの夜」を求めて
『M・R・ジェイムズ怪談全集』解説
日本怪奇小説の流れ
(付録)密室論
第1部は2005年に行われた同題名の講演をもとに執筆された書き下ろし。
第2部は『出口なき迷宮』や『宝石』に執筆されたもの。
著者は『世界幻想文学体系』を企画しているが、この叢書について、こんなことを言っている。
「(幻想文学は)特定の作家や作風、一定の傾向に好みが偏しがちとなる。私はかねてこの全集をすべて揃える読者が少ないということを感じていた」
お恥ずかしい。
僕も、特に偏した読み方はしていないつもりだったが、全冊読破はしていない。主に、金銭面が原因だ。再読含めて、この全集を完読してみるのも楽しいかもしれない 。
付録の『密室論』では「密室の黄昏」「密室の廃墟」「密室の残骸」「密室の様式」「密室の典型」「現代と密室」「密室の再生」と見出しをつけて1962年に発表されたもの。
「あまりにもキマジメになりすぎた推理小説に、再び軽業的思考を回復してみたいという欲求が」現代の密室の再生をもたらすのではないか、と書いている。
確かに、密室は「軽業」として再生した。
でも、なぜか50年以上昔の推理小説の密室ものを読むときの方が、遥かに面白いと感じるのは、僕が古臭いものが好きだという傾向によるものなのだろうか。
ISBN:4588495054 単行本 青木 隆嘉 法政大学出版局 1999/10 ¥3,465
ギュンター・アンダースの『寓話 塔からの眺め』を読んだ。
1932年から1968年にかけておりにふれて執筆された短い文章を集めてある。
「寓話」と題されているが、明らかにメッセージが読み取れるものはむしろ少なく、読んだあとにいろいろ考えさせられるものが多い。
わかりやすい話を1つ引用してみよう。
『あれかこれか』
「言葉を磨きあげるのは君に任せるよ」と中途半端な哲学者が言った。「私にとって重要なのは真理だけなのだ」
「哀れな男だ!」と哲学者が叫んだ。
「なぜ哀れなのだ?」
「なぜなら、君は2つとも断念しなければならないからだ」
「2つとも?」
「そうだとも。真理もだよ」
「どういう真理だ?」
「真理についての真理だ」
「その内容は?」
「真理は磨かれた窓を通してしか輝かないということだよ」
これ以外にわかりやすいものをあげると、こんな文章がある。
「私は独りでいなければなりません。というのは、2種類の仲間しかいないからです。私のものを剽窃する連中と剽窃しない者たちです。剽窃する連中は退屈です。剽窃しない者たちは今日の問題が分かっていない」(困難な選択)
「モールシアにはひとつの宗派があって、それに所属する者たちは、バンバ神の存在を否定するわけではないにしても、−きわめて冒涜的なことだが−世界がひとりでに湧き出たとき、その発生過程と完全に同調した創造のパントマイムをバンバがやったという説を唱えていた」(バンドマスター)
「M嬢が彼がものを知らないのに驚いて、最近の情報を全然知らないのかと尋ねたとき、ニュートンはこう答えた。『昔、3人の競走者がいました。優れた走者と中くらいの走者と劣った走者です』(中略)『最新情報に一番通じているのは、もちろんあなたです。なぜならあなたは一緒に走らずに、観覧席に坐っているだけだからですよ』彼はそう言って彼女を相手にしなかった」(最新情報に通じているのは)
アイヒマンの息子にあてた書簡の本の感想をまだ書いてなかったな。近々、書きおこそう。
ギュンター・アンダースの『寓話 塔からの眺め』を読んだ。
1932年から1968年にかけておりにふれて執筆された短い文章を集めてある。
「寓話」と題されているが、明らかにメッセージが読み取れるものはむしろ少なく、読んだあとにいろいろ考えさせられるものが多い。
わかりやすい話を1つ引用してみよう。
『あれかこれか』
「言葉を磨きあげるのは君に任せるよ」と中途半端な哲学者が言った。「私にとって重要なのは真理だけなのだ」
「哀れな男だ!」と哲学者が叫んだ。
「なぜ哀れなのだ?」
「なぜなら、君は2つとも断念しなければならないからだ」
「2つとも?」
「そうだとも。真理もだよ」
「どういう真理だ?」
「真理についての真理だ」
「その内容は?」
「真理は磨かれた窓を通してしか輝かないということだよ」
これ以外にわかりやすいものをあげると、こんな文章がある。
「私は独りでいなければなりません。というのは、2種類の仲間しかいないからです。私のものを剽窃する連中と剽窃しない者たちです。剽窃する連中は退屈です。剽窃しない者たちは今日の問題が分かっていない」(困難な選択)
「モールシアにはひとつの宗派があって、それに所属する者たちは、バンバ神の存在を否定するわけではないにしても、−きわめて冒涜的なことだが−世界がひとりでに湧き出たとき、その発生過程と完全に同調した創造のパントマイムをバンバがやったという説を唱えていた」(バンドマスター)
「M嬢が彼がものを知らないのに驚いて、最近の情報を全然知らないのかと尋ねたとき、ニュートンはこう答えた。『昔、3人の競走者がいました。優れた走者と中くらいの走者と劣った走者です』(中略)『最新情報に一番通じているのは、もちろんあなたです。なぜならあなたは一緒に走らずに、観覧席に坐っているだけだからですよ』彼はそう言って彼女を相手にしなかった」(最新情報に通じているのは)
アイヒマンの息子にあてた書簡の本の感想をまだ書いてなかったな。近々、書きおこそう。
四天王寺〜ガラスの大エレベーター
2007年10月22日 読書
ISBN:4566014142 単行本 Quentin Blake 評論社 2005/08 ¥1,260
四天王寺のお太子さんで古い物市。
ちょうど経供養の日でもあり、舞楽を見ることもできた。
入場時に、警備員がピシッと敬礼しているのが、ピーンとはりつけた雰囲気を出していた。
でも、なにごとにも無礼な僕は、「敬礼」なんてものが必要ない世界になるほうがいいな。
ロアルド・ダールの『ガラスの大エレベーター』を読んだ。
『チョコレート工場の秘密』の続編。
ガラスのエレベーターで飛行するうちに、高くあがりすぎて、宇宙に飛び出してしまう。
もはや、普通のエレベーターじゃない!
大エレベーターだ!
そこには宇宙ホテルUSAがあり、ワンカやチャーリーたちは火星人、金星人と間違われたり、宇宙の害獣クニッドに襲われたり。
また、若返りの薬ワンカ=ビタを飲み過ぎて、おじいちゃんが赤ん坊になり、おばあちゃんはマイナス2歳になってしまう。年をとる薬ビタ=ワンカで元通り。
何があってもベッドから出ようとしなかった寝たきりのおじいちゃん、おばあちゃんは、大統領からホワイトハウスへの招待を受けたと知ると、われさきにと走りだす。
言葉遊びも詩もあり、いつもながらの面白い世界が展開される。
心配性の老人たちが、ガラスのエレベーターと宇宙ホテルのドッキング案に対して懸念を表明し、それをワンカがまぜっかえすのが痛快。
「もしも、追ってきたら?」と、バケツ氏が初めて口を開く。
「もしも、捕まったら?」と、バケツ夫人。
「もしも、撃たれたら?」と、ジョージナばあちゃん。
「もしも、わたしのひげが緑色のホウレン草なら?」と、ワンカ氏が声はりあげた。
「口から出まかせはけっこう!そんなふうに、もしも、もしも、ばかり言っていては、どうもなりはしませんぞ」
これって、「〜脅威論」と同じことだと思う。
北朝鮮が日本にミサイルを発射したらどうする?
が典型例。
近所の店にまたワンカのチョコレートが入荷したので、買って来て食べよう。
四天王寺のお太子さんで古い物市。
ちょうど経供養の日でもあり、舞楽を見ることもできた。
入場時に、警備員がピシッと敬礼しているのが、ピーンとはりつけた雰囲気を出していた。
でも、なにごとにも無礼な僕は、「敬礼」なんてものが必要ない世界になるほうがいいな。
ロアルド・ダールの『ガラスの大エレベーター』を読んだ。
『チョコレート工場の秘密』の続編。
ガラスのエレベーターで飛行するうちに、高くあがりすぎて、宇宙に飛び出してしまう。
もはや、普通のエレベーターじゃない!
大エレベーターだ!
そこには宇宙ホテルUSAがあり、ワンカやチャーリーたちは火星人、金星人と間違われたり、宇宙の害獣クニッドに襲われたり。
また、若返りの薬ワンカ=ビタを飲み過ぎて、おじいちゃんが赤ん坊になり、おばあちゃんはマイナス2歳になってしまう。年をとる薬ビタ=ワンカで元通り。
何があってもベッドから出ようとしなかった寝たきりのおじいちゃん、おばあちゃんは、大統領からホワイトハウスへの招待を受けたと知ると、われさきにと走りだす。
言葉遊びも詩もあり、いつもながらの面白い世界が展開される。
心配性の老人たちが、ガラスのエレベーターと宇宙ホテルのドッキング案に対して懸念を表明し、それをワンカがまぜっかえすのが痛快。
「もしも、追ってきたら?」と、バケツ氏が初めて口を開く。
「もしも、捕まったら?」と、バケツ夫人。
「もしも、撃たれたら?」と、ジョージナばあちゃん。
「もしも、わたしのひげが緑色のホウレン草なら?」と、ワンカ氏が声はりあげた。
「口から出まかせはけっこう!そんなふうに、もしも、もしも、ばかり言っていては、どうもなりはしませんぞ」
これって、「〜脅威論」と同じことだと思う。
北朝鮮が日本にミサイルを発射したらどうする?
が典型例。
近所の店にまたワンカのチョコレートが入荷したので、買って来て食べよう。
ISBN:4872339746 単行本 大西 巨人 太田出版 2005/07/26 ¥1,365
大西巨人の『縮図・インコ道理教』を読んだ。
以下、目次。
献題
前書き
一 序曲
1、本体 仮称・地下鉄有毒ガス殺人事件
2、インコ道理教の概要
3、死刑について
二 遠景
1、天皇制のこと
2、新興宗教のことなど
三 中景
1、続 新興宗教のことなど
2、真田宗索筆『新憲法は自前である』
3、真田宗索筆『奇怪な一存在』
4、喫茶店「母子草」にて(その一)
5、喫茶店「母子草」にて(その二)
四 近景
1、一通の書信
2、「近親憎悪」という語
3、二通の書信
4、喫茶店「母子草」にて(その三)
五 現景
1、テロリズムとレジスタンス
2、真田宗索筆『初夏深思』をめぐって
3、喫茶店「母子草」にて(その四)
4、陰画的陥穽
題意
著者の「題意」によると、本書のタイトルは「皇国の縮図・インコ道理教」と本来なるはずのものだったらしい。
作中、問われるのは「インコ道理教にたいする国家権力の出方を、人が『近親憎悪』という言葉で理会するとは、何事を意味するのか」である。
インコ道理教(オウム真理教)も天皇制国家も、いずれも宗教団体・無差別大量殺人組織であるという観点から、縮図、近親憎悪という謎が解けるというわけだ。
これ以外にも、作中では著者の言葉として、あるいは登場人物の口を借りて、いくつかの見解が提示される。
いくつかピックアップしてみよう。
「宣戦布告」のある政治的殺人は、「戦争」と呼ばれ、「宣戦布告」のない政治的殺人は、「人殺し(テロリズム)」と呼ばれる。
(中略)「宣戦布告」の有無にかかわらず、どちらも、それが政治的殺人であることにおいて、一様に「人殺し(テロリズム)」であり、したがって、「人殺し(テロリズム)反対」は、すなわち「戦争反対」でなければならない。
参会者A「天皇制が、あるいは顕然と、あるいは隠然と、約三千年もの長期間存続してきたのは、その卓越性・有意義性・有益性の確乎たる証明ではありますまいか」
大圃講師「べティ・マーティン著『カーヴィルの奇蹟』という書物がありまして、その中に『癩病という問題にたいする底知れぬ無知の四千年、その無知が、訂正されぬ限り、その犠牲者は、肉体的にも精神的にも、正当な扱いを受けることはできないであろう』という指摘が、存在します。
ある状態が長期間存続した、ということは、『その卓越性・有意義性・有益性の証明』ではありません。
天皇制という問題にたいする底知れぬ無知の三千年ないし千数百年ないし百数十年、その無知が訂正されぬ限り、その無慮無数の犠牲者は、肉体的にも精神的にも、正当な扱いを受けることはできないであろう。と私は、考究・確信します」
また、
改憲の俗情をそそりやすい排外民族主義的な論拠の一つは「新憲法が外国からの押しつけ憲法であるから」という点です。
にこたえて、
1、五日市憲法草案の存在により、現行憲法がその根本精神において自前であること。
2、憲法は必ず改定されるべきである。それは、まず第一に第一章天皇全八箇条の全的廃止、人民共和制の確立・その明文化でなければならない。
と、書く。
死刑については、『白痴』より
「殺人罪によって人を死刑にするのは、強盗殺人などよりも遥かに残酷な行ないです」
という言葉をひいている。
これらの考えはおおむね納得でき、誰でもが同意するわかりやすい理屈なのだと思うのだが、大勢はそう考えていない、という傾向に愕然としてしまう。
大西巨人の『縮図・インコ道理教』を読んだ。
以下、目次。
献題
前書き
一 序曲
1、本体 仮称・地下鉄有毒ガス殺人事件
2、インコ道理教の概要
3、死刑について
二 遠景
1、天皇制のこと
2、新興宗教のことなど
三 中景
1、続 新興宗教のことなど
2、真田宗索筆『新憲法は自前である』
3、真田宗索筆『奇怪な一存在』
4、喫茶店「母子草」にて(その一)
5、喫茶店「母子草」にて(その二)
四 近景
1、一通の書信
2、「近親憎悪」という語
3、二通の書信
4、喫茶店「母子草」にて(その三)
五 現景
1、テロリズムとレジスタンス
2、真田宗索筆『初夏深思』をめぐって
3、喫茶店「母子草」にて(その四)
4、陰画的陥穽
題意
著者の「題意」によると、本書のタイトルは「皇国の縮図・インコ道理教」と本来なるはずのものだったらしい。
作中、問われるのは「インコ道理教にたいする国家権力の出方を、人が『近親憎悪』という言葉で理会するとは、何事を意味するのか」である。
インコ道理教(オウム真理教)も天皇制国家も、いずれも宗教団体・無差別大量殺人組織であるという観点から、縮図、近親憎悪という謎が解けるというわけだ。
これ以外にも、作中では著者の言葉として、あるいは登場人物の口を借りて、いくつかの見解が提示される。
いくつかピックアップしてみよう。
「宣戦布告」のある政治的殺人は、「戦争」と呼ばれ、「宣戦布告」のない政治的殺人は、「人殺し(テロリズム)」と呼ばれる。
(中略)「宣戦布告」の有無にかかわらず、どちらも、それが政治的殺人であることにおいて、一様に「人殺し(テロリズム)」であり、したがって、「人殺し(テロリズム)反対」は、すなわち「戦争反対」でなければならない。
参会者A「天皇制が、あるいは顕然と、あるいは隠然と、約三千年もの長期間存続してきたのは、その卓越性・有意義性・有益性の確乎たる証明ではありますまいか」
大圃講師「べティ・マーティン著『カーヴィルの奇蹟』という書物がありまして、その中に『癩病という問題にたいする底知れぬ無知の四千年、その無知が、訂正されぬ限り、その犠牲者は、肉体的にも精神的にも、正当な扱いを受けることはできないであろう』という指摘が、存在します。
ある状態が長期間存続した、ということは、『その卓越性・有意義性・有益性の証明』ではありません。
天皇制という問題にたいする底知れぬ無知の三千年ないし千数百年ないし百数十年、その無知が訂正されぬ限り、その無慮無数の犠牲者は、肉体的にも精神的にも、正当な扱いを受けることはできないであろう。と私は、考究・確信します」
また、
改憲の俗情をそそりやすい排外民族主義的な論拠の一つは「新憲法が外国からの押しつけ憲法であるから」という点です。
にこたえて、
1、五日市憲法草案の存在により、現行憲法がその根本精神において自前であること。
2、憲法は必ず改定されるべきである。それは、まず第一に第一章天皇全八箇条の全的廃止、人民共和制の確立・その明文化でなければならない。
と、書く。
死刑については、『白痴』より
「殺人罪によって人を死刑にするのは、強盗殺人などよりも遥かに残酷な行ないです」
という言葉をひいている。
これらの考えはおおむね納得でき、誰でもが同意するわかりやすい理屈なのだと思うのだが、大勢はそう考えていない、という傾向に愕然としてしまう。
砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない (富士見ミステリー文庫)
2007年10月18日 読書
ISBN:4829162767 文庫 むー 富士見書房 2004/11 ¥525
桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を読んだ。
自分を人魚だと言い張る少女、海野藻屑と、「さめている」山田なぎさの物語。
なぎさが実弾、藻屑が砂糖菓子の弾丸。
藻屑は虐待を受け、身体障害者であることを、「人魚」の幻想で糊塗する。そうした空想による世界との対し方を砂糖菓子の弾丸、という比喩で表現しているようだ。
一方、現実的な、なぎさの実弾も、ひきこもりで内弁慶な兄に対するブラザーコンプレックスをもっており、実弾としてまだまだ修行が必要だ。
藻屑は結局ストックホルム症候群とやらで、自分に対する虐待を認めず、結局は親にバラバラにされてしまう。
一方、砂糖菓子の弾丸では子供は世界と戦えない、となぎさは悟る。のだが、兄は実弾兄貴として、自衛隊に入隊などしてしまう。ひきこもっていた方が実害がなくてよかったかもしれない。
作中、優れた文章が散見されて、楽しい読書時間を過ごすことができた。
たとえば、こんな言い回し。
山のほうには、あたしが生まれた頃にできた原発がある。ていうか、田舎に作ったほうがいいと都会の人が考えるすべてのものがこの町にある。原発。刑務所。少年院。精神病院。それから自衛隊の駐屯地。
あたしは母がパートしてる近所のスーパーに出かけた。食糧の買いだしだ。お米は重いから今度にしよう、とか、トマトが安いといいなぁ、トマトのサラダって作るの楽だし、とか、生きることにしか関係のないことを考えながらあたしはスーパーの入り口に入ろうとした。
なかなかうまい。また、バラバラ殺人を扱っているせいか、カーの影響も感じられた。
岩塩の弾丸とか、妖魔の森とか出てくる。
本書は富士見ミステリー文庫からライトノベルの体裁で最初、出版された。
最近になって、いかにもなイラストの表紙から一転して顔のない文芸小説っぽい表紙の新版が出た。たしかに、この小説では、イラストで登場人物の見目を限定することは、百害あって一利なし、だ。カーの本にこういうライトノベル風イラストをつけるようなもので、作品世界を誤解しているとしか言い様がない。
ただし、重大な問題は、そんな文学っぽい体裁をとってしまうと、ハードカバーで値段が高くなってしまう。こういう路線も一長一短だ。
まあ、それは直接、作品とは関係ない。
さて、この小説で要となる「当たったらヤバイクイズ」は、こんな問題。
「ある男が死んだ。男には妻と子供がいた。葬式に男の同僚が参列した。同僚と妻はいい雰囲気になった。ところがその夜、なんと男の忘れ形見である子供が殺された。犯人は妻だった。自分の子供をとつぜん殺したんだ。さて、なぜでしょう?」
(ヒント:答えは5文字)
このクイズのどこがヤバイのかというと、この問いは異常犯罪者の青少年の精神鑑定に使われる質問なのだ。これに正解できた人間はわずか5人で、全員猟奇事件の犯人だった。
僕もちょっと考えてみた。
でも、正解したら、精神が異常だと証明されてしまうのだ。
正解は「あいたくて」
妻は、またいい雰囲気になった同僚にあいたくて、我が子を殺した。
葬式になったらまた会えると考えたのだ。
なーるほど。
八百屋お七みたいなものか。
僕は幸いにも正解を出せなかった。バンザイ!
僕の考えた答は、いかにもな新本格的解答だった。
すなわち「寝とられた」
惹かれた同僚と、我が子がセックスしているのを目撃して、殺してしまったのだ。(誤答)
桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を読んだ。
自分を人魚だと言い張る少女、海野藻屑と、「さめている」山田なぎさの物語。
なぎさが実弾、藻屑が砂糖菓子の弾丸。
藻屑は虐待を受け、身体障害者であることを、「人魚」の幻想で糊塗する。そうした空想による世界との対し方を砂糖菓子の弾丸、という比喩で表現しているようだ。
一方、現実的な、なぎさの実弾も、ひきこもりで内弁慶な兄に対するブラザーコンプレックスをもっており、実弾としてまだまだ修行が必要だ。
藻屑は結局ストックホルム症候群とやらで、自分に対する虐待を認めず、結局は親にバラバラにされてしまう。
一方、砂糖菓子の弾丸では子供は世界と戦えない、となぎさは悟る。のだが、兄は実弾兄貴として、自衛隊に入隊などしてしまう。ひきこもっていた方が実害がなくてよかったかもしれない。
作中、優れた文章が散見されて、楽しい読書時間を過ごすことができた。
たとえば、こんな言い回し。
山のほうには、あたしが生まれた頃にできた原発がある。ていうか、田舎に作ったほうがいいと都会の人が考えるすべてのものがこの町にある。原発。刑務所。少年院。精神病院。それから自衛隊の駐屯地。
あたしは母がパートしてる近所のスーパーに出かけた。食糧の買いだしだ。お米は重いから今度にしよう、とか、トマトが安いといいなぁ、トマトのサラダって作るの楽だし、とか、生きることにしか関係のないことを考えながらあたしはスーパーの入り口に入ろうとした。
なかなかうまい。また、バラバラ殺人を扱っているせいか、カーの影響も感じられた。
岩塩の弾丸とか、妖魔の森とか出てくる。
本書は富士見ミステリー文庫からライトノベルの体裁で最初、出版された。
最近になって、いかにもなイラストの表紙から一転して顔のない文芸小説っぽい表紙の新版が出た。たしかに、この小説では、イラストで登場人物の見目を限定することは、百害あって一利なし、だ。カーの本にこういうライトノベル風イラストをつけるようなもので、作品世界を誤解しているとしか言い様がない。
ただし、重大な問題は、そんな文学っぽい体裁をとってしまうと、ハードカバーで値段が高くなってしまう。こういう路線も一長一短だ。
まあ、それは直接、作品とは関係ない。
さて、この小説で要となる「当たったらヤバイクイズ」は、こんな問題。
「ある男が死んだ。男には妻と子供がいた。葬式に男の同僚が参列した。同僚と妻はいい雰囲気になった。ところがその夜、なんと男の忘れ形見である子供が殺された。犯人は妻だった。自分の子供をとつぜん殺したんだ。さて、なぜでしょう?」
(ヒント:答えは5文字)
このクイズのどこがヤバイのかというと、この問いは異常犯罪者の青少年の精神鑑定に使われる質問なのだ。これに正解できた人間はわずか5人で、全員猟奇事件の犯人だった。
僕もちょっと考えてみた。
でも、正解したら、精神が異常だと証明されてしまうのだ。
正解は「あいたくて」
妻は、またいい雰囲気になった同僚にあいたくて、我が子を殺した。
葬式になったらまた会えると考えたのだ。
なーるほど。
八百屋お七みたいなものか。
僕は幸いにも正解を出せなかった。バンザイ!
僕の考えた答は、いかにもな新本格的解答だった。
すなわち「寝とられた」
惹かれた同僚と、我が子がセックスしているのを目撃して、殺してしまったのだ。(誤答)
アメリカン・スプレンダー〜びっくり館の殺人
2007年10月17日 読書
ISBN:4062705796 単行本 綾辻 行人 講談社 2006/03 ¥2,100
シャリ・スプリンガー・バーマン、ロバート・プルチーニ監督の「アメリカン・スプレンダー」を見た。(2003年)
アメリカン・コミック『アメリカン・スプレンダー』の原作者ハービー・ピーカーの半生を描いた映画。日常を描いた漫画。ハービーピーカーや、その友人達、同僚、女房など、本人も登場して、その変人ぶりを発揮している。
これは面白い映画だったなあ。
綾辻行人の『びっくり館の殺人』を読んだ。
ネタバレするので、要注意。
謎の建築家、中村青司が建築したのは、びっくり箱を仕込んだ屋敷。
ではあるが、事件の真相とは無関係だった。
事件は密室事件。
死体のそばには、等身大の腹話術人形。
真相は意外にも、本書の装画と口絵にドーンと描かれていた!
一応、密室殺人が描かれてはいるが、謎に満ちた雰囲気を味わう小説とみた。
真相では虐待のことが漏らされるが、どうにも違和感があった。
老人が少年を腹話術人形(少女)にして遊ぶなんて、甘美なイメージこそあっても、虐待には思えない。少年も喜んで人形役に徹したんじゃないだろうか。何故殺す?
ペットのトカゲを殺されたからか?
動物を殺すのは、少年少女の好むところだと思っていた。
関係者たちがよってたかって真相を隠すように事後工作するというのも、本格としてはあまりにも新本格寄りだ。
事件を実際に見聞きしている当事者にとっては謎でもなんでもないことが、謎になってしまうのが、新本格の特徴の1つだ。
まさしく、世界は言葉で出来ており、言葉を操ることに長けた者によって世界は動かされるのである。
シャリ・スプリンガー・バーマン、ロバート・プルチーニ監督の「アメリカン・スプレンダー」を見た。(2003年)
アメリカン・コミック『アメリカン・スプレンダー』の原作者ハービー・ピーカーの半生を描いた映画。日常を描いた漫画。ハービーピーカーや、その友人達、同僚、女房など、本人も登場して、その変人ぶりを発揮している。
これは面白い映画だったなあ。
綾辻行人の『びっくり館の殺人』を読んだ。
ネタバレするので、要注意。
謎の建築家、中村青司が建築したのは、びっくり箱を仕込んだ屋敷。
ではあるが、事件の真相とは無関係だった。
事件は密室事件。
死体のそばには、等身大の腹話術人形。
真相は意外にも、本書の装画と口絵にドーンと描かれていた!
一応、密室殺人が描かれてはいるが、謎に満ちた雰囲気を味わう小説とみた。
真相では虐待のことが漏らされるが、どうにも違和感があった。
老人が少年を腹話術人形(少女)にして遊ぶなんて、甘美なイメージこそあっても、虐待には思えない。少年も喜んで人形役に徹したんじゃないだろうか。何故殺す?
ペットのトカゲを殺されたからか?
動物を殺すのは、少年少女の好むところだと思っていた。
関係者たちがよってたかって真相を隠すように事後工作するというのも、本格としてはあまりにも新本格寄りだ。
事件を実際に見聞きしている当事者にとっては謎でもなんでもないことが、謎になってしまうのが、新本格の特徴の1つだ。
まさしく、世界は言葉で出来ており、言葉を操ることに長けた者によって世界は動かされるのである。
骨まで愛して〜テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ
2007年10月16日 読書
ISBN:4757141297 単行本(ソフトカバー) 伊藤 剛 NTT出版 2005/09/27 ¥2,520
斎藤武市監督の「骨まで愛して」を見た。城卓矢の流行歌を題名に映画化。歌詞の内容と映画のストーリーは、無関係と言っていいだろう。
内容は、北海道を舞台にした日本の西部劇。同工異曲の映画を何本も見た覚えがある。
城卓矢が歌うシーンもあって、そのねちっこい血液ドロドロ風の歌唱を思い出して懐かしかった。
原作の川内康範で連想するのは、その耳毛だ。
先日、御堂筋パレードで、お年寄りの観客を多数見た。
耳からゾロッと、モジャッと、びっしりと毛がのぞいているおじいちゃんと、ライターで焼いたんじゃないかと思わせるような、ツルツルの耳穴をしたおじいちゃんに二分された。
ちゃんと処理しているのだろうか。
伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』を読んだ。
以下、目次。
第1章 変化するマンガ、機能しないマンガ言説
1-1なぜマンガ言説は、現状に対応できないのか?
1-2「読み」の多様さとシステム論的分析の必要性
1-3マーケット分類とジャンル分類のあいだ
1-4『少年ガンガン』に見る言説の断絶
1-5誰が子供マンガを「殺した」のか
1-6キャラクター表現空間のなかで
第2章 切断線を超えるもの−いがらしみきお『ぼのぼの』の実践
2-1いがらしみきおの認識
2-2『ぼのぼの』と『動物化するポストモダン』
2-3「切断線」としての『ぼのぼの』
2-4「切断線」はどのように見いだされたか−マンガ表現をシステムとして見る
第3章 「キャラクター」とは何か
3-1「キャラ」とリアリティ
3-2『NANA』は「キャラ」は弱いけれど、「キャラクター」は立っている
3-3「キャラ」とは何か
3-4「キャラ」から見るマンガ史
第4章 マンガのリアリティ
4-1マンガにおける近代的リアリズムの獲得
4-2「コマわり」とは何か
4-3『新宝島』と「同一化技法」−竹内オサムが抱えたマンガの「近代」
4-4フレームの不確定性
4-5映画的リアリズム、「同一化技法」ふたたび
4-6少女マンガと「映画的」ではないリアリズム
第5章 テヅカ・イズ・デッド−手塚治虫という「円環」の外で
5-1手塚治虫という円環
5-2より開かれたマンガ表現史へ
あとがき マンガ・イズ・ノット・デッド
本書をもとにして、東浩紀らが「キャラ/キャラクター」について論じている本(『コンテンツの思想』)を先に読んでいたため、比較的、著者のいわんとするニュアンスは予習できていたが、やっぱりピンとこない部分も残る。
本書によると、
「キャラクターは登場人物と等価な意味として扱いうるが、キャラはそうではない」
「キャラとはキャラクターに先立って、何か存在感、生命感のようなものを感じさせるものと考えられる」
「あらためて『キャラ』を定義するとすれば、次のようになる。
多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、『人格・のようなもの』としての存在感を感じさせるもの」
著者は手塚治虫の『地底国の怪人』で、耳男が町に出たときに人々が「ウサギのおばけ」「まるで漫画のおばけ」と言われたくだりを例にとり、この「マンガのおばけ」こそ「キャラ」とほぼ同義だと言う。
『NANA』はキャラクターが立っているけど、キャラが弱い、という発言が実感をもってわかりやすいのに、それを一般化するとわかりにくくなってくる。
本書を読んでいて面白かったのは、この「キャラ/キャラクター」の部分以外にあった。
「最近の漫画は面白くない」とする論評、雰囲気に異をとなえる部分だ。
これは手塚治虫の呪縛を解く作業、憑き物落しなのだと思う。新宝島の映画的手法が漫画界初のものだとする定説の間違いをつくのもそれだ。
実際に、現在でも漫画でベストセラーが出ているにもかかわらず、また、面白い漫画が続々と出ているにもかかわらず、「漫画は衰退した」みたいなムードの発言がまかりとおるのは、すべて、手塚治虫と関わっているのだと思う。
正確にいうと、手塚治虫の死が関わっているんじゃないだろうか。
手塚治虫は、漫画の新しい流れを感じ取って、それを取り入れて自分の漫画を変えていった漫画家だ。現代の新しい漫画の流れも、手塚が生きておれば、手塚との距離や、手塚がいかにそれを吸収したかによって位置付けが可能なのだが、手塚亡きあとは、漫画だけが暴走している状況なのだ。これぞ、手塚の呪縛。
現代の漫画の読み手の思いと(面白い漫画がジャンジャン描かれている)、漫画に関する言説(漫画が面白くなくなった)のズレは、手塚の有無によっているんじゃないだろうか。
つまり、漫画に関して何か言う人は、手塚を必ず読んでいて、そこが参照点になる。でも、今の漫画の読み手は、必ずしも手塚を読んでいない。だって、昔の漫画だもん。
斎藤武市監督の「骨まで愛して」を見た。城卓矢の流行歌を題名に映画化。歌詞の内容と映画のストーリーは、無関係と言っていいだろう。
内容は、北海道を舞台にした日本の西部劇。同工異曲の映画を何本も見た覚えがある。
城卓矢が歌うシーンもあって、そのねちっこい血液ドロドロ風の歌唱を思い出して懐かしかった。
原作の川内康範で連想するのは、その耳毛だ。
先日、御堂筋パレードで、お年寄りの観客を多数見た。
耳からゾロッと、モジャッと、びっしりと毛がのぞいているおじいちゃんと、ライターで焼いたんじゃないかと思わせるような、ツルツルの耳穴をしたおじいちゃんに二分された。
ちゃんと処理しているのだろうか。
伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』を読んだ。
以下、目次。
第1章 変化するマンガ、機能しないマンガ言説
1-1なぜマンガ言説は、現状に対応できないのか?
1-2「読み」の多様さとシステム論的分析の必要性
1-3マーケット分類とジャンル分類のあいだ
1-4『少年ガンガン』に見る言説の断絶
1-5誰が子供マンガを「殺した」のか
1-6キャラクター表現空間のなかで
第2章 切断線を超えるもの−いがらしみきお『ぼのぼの』の実践
2-1いがらしみきおの認識
2-2『ぼのぼの』と『動物化するポストモダン』
2-3「切断線」としての『ぼのぼの』
2-4「切断線」はどのように見いだされたか−マンガ表現をシステムとして見る
第3章 「キャラクター」とは何か
3-1「キャラ」とリアリティ
3-2『NANA』は「キャラ」は弱いけれど、「キャラクター」は立っている
3-3「キャラ」とは何か
3-4「キャラ」から見るマンガ史
第4章 マンガのリアリティ
4-1マンガにおける近代的リアリズムの獲得
4-2「コマわり」とは何か
4-3『新宝島』と「同一化技法」−竹内オサムが抱えたマンガの「近代」
4-4フレームの不確定性
4-5映画的リアリズム、「同一化技法」ふたたび
4-6少女マンガと「映画的」ではないリアリズム
第5章 テヅカ・イズ・デッド−手塚治虫という「円環」の外で
5-1手塚治虫という円環
5-2より開かれたマンガ表現史へ
あとがき マンガ・イズ・ノット・デッド
本書をもとにして、東浩紀らが「キャラ/キャラクター」について論じている本(『コンテンツの思想』)を先に読んでいたため、比較的、著者のいわんとするニュアンスは予習できていたが、やっぱりピンとこない部分も残る。
本書によると、
「キャラクターは登場人物と等価な意味として扱いうるが、キャラはそうではない」
「キャラとはキャラクターに先立って、何か存在感、生命感のようなものを感じさせるものと考えられる」
「あらためて『キャラ』を定義するとすれば、次のようになる。
多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、『人格・のようなもの』としての存在感を感じさせるもの」
著者は手塚治虫の『地底国の怪人』で、耳男が町に出たときに人々が「ウサギのおばけ」「まるで漫画のおばけ」と言われたくだりを例にとり、この「マンガのおばけ」こそ「キャラ」とほぼ同義だと言う。
『NANA』はキャラクターが立っているけど、キャラが弱い、という発言が実感をもってわかりやすいのに、それを一般化するとわかりにくくなってくる。
本書を読んでいて面白かったのは、この「キャラ/キャラクター」の部分以外にあった。
「最近の漫画は面白くない」とする論評、雰囲気に異をとなえる部分だ。
これは手塚治虫の呪縛を解く作業、憑き物落しなのだと思う。新宝島の映画的手法が漫画界初のものだとする定説の間違いをつくのもそれだ。
実際に、現在でも漫画でベストセラーが出ているにもかかわらず、また、面白い漫画が続々と出ているにもかかわらず、「漫画は衰退した」みたいなムードの発言がまかりとおるのは、すべて、手塚治虫と関わっているのだと思う。
正確にいうと、手塚治虫の死が関わっているんじゃないだろうか。
手塚治虫は、漫画の新しい流れを感じ取って、それを取り入れて自分の漫画を変えていった漫画家だ。現代の新しい漫画の流れも、手塚が生きておれば、手塚との距離や、手塚がいかにそれを吸収したかによって位置付けが可能なのだが、手塚亡きあとは、漫画だけが暴走している状況なのだ。これぞ、手塚の呪縛。
現代の漫画の読み手の思いと(面白い漫画がジャンジャン描かれている)、漫画に関する言説(漫画が面白くなくなった)のズレは、手塚の有無によっているんじゃないだろうか。
つまり、漫画に関して何か言う人は、手塚を必ず読んでいて、そこが参照点になる。でも、今の漫画の読み手は、必ずしも手塚を読んでいない。だって、昔の漫画だもん。
地獄篇三部作〜フェーンチャンぼくの恋人
2007年10月15日 読書 コメント (1)
ISBN:4334925677 単行本 大西 巨人 光文社 2007/08 ¥1,785
大西巨人の『地獄篇三部作』を読んだ。
第1部 笑熱地獄
第2部 無限地獄
第3部 驚喚地獄
前書きで、本書の成り立ちについて解説がある。
第1部は1948年に執筆されていたが、「掲載、発表することは不可」と連絡があった。当時の文芸ジャーナリズムにとって差し障りのある内容だったからだ。
その後、執筆、発表された「白日の序曲」は連還体長編小説『地獄変相奏鳴曲』の第1楽章として出版されたが、この「白日の序曲」こそ『地獄篇三部作』の第2部「無限地獄」にあたる部分であったのだ。
今回『地獄篇三部作』の出版によって、「白日の序曲」は本来のあるべき場所におさまったわけだ。
こうして三部作になると、1部は作家と文壇、ジャーナリズムの世界を描いてあり、2部ではその作家が書いた小説。3部はその作品に対するジャーナリズムの対応。
メタ小説の体裁をとった、一癖も二癖もある作品に仕上がったのである。
1部、3部は作家や雑誌をもじった固有名詞がとびかう毒のある笑いが横溢していた。
文体の勝利だな、と圧倒された。
でも、こりゃまいった、と思ったのは、第2部の「無限地獄」だ。
ここで描かれるのは、いたいけな少女を誘惑して、夢中にさせておいて、その後つれない態度をとる男だ。
ひどい男で、相手の女性がかわいそうでしかたがない。
この第2部を読んでいるあいだ、胸が痛くていたくて。
ここで描かれているのは、自分のことだ!と言う思いでいっぱいだった。
今までに何回も人と知り合い、仲良くなっては、自分の冷酷な仕打ちで人を傷つけてきた。
その一部始終が告発されている気がしたのだ。
いや、まったくそのとおり。
文芸ジャーナリズムの世界も地獄なら、この男の世界も地獄だ。
そして、これが「無限地獄」と名付けられているように、こうした、人を引き寄せておいては傷つける、という人間関係のありかたは、自分の人生では何度も繰り返されてきたのだ。
今まで出会ってきたすべての人に土下座して謝りたい。
バカバカバカ
はい、自己嫌悪タイム終了(江古田ちゃん)
BSでタイ映画「フェーンチャン〜ぼくの恋人〜」(2003年)を見た。
監督、脚本は365フィルムプロダクションズで、6人のグループで作っている。
脚本にはさらに1人加わって、こりゃ多い。
主人公の少年ジアップ(チャーリー・タライラット)と少女ノイナー(フォーカス・ジラクン)の恋愛以前の淡い思い出が描かれる。
ノスタルジーは毒だ、と思っているが、この映画なんか、まさに毒そのもの。
見た後しばらくは感傷にひたってしまって、現実に戻ってこれない。
聞いたことがないはずの、当時のタイでのヒット曲まで懐かしい。
少年時代の遊びや諍いなど、懐かしさでいっぱいになる。いい映画だ!
チャンバラで遊ぶシーンでは、特撮カンフーが見れる。
少年ジアップは1軒おいた隣同士の少女ノイナーといつも一緒に遊んでいる。
男の子どうしの遊びに加わりたいジアップは、ガキ大将に「おまえが男だという証拠を見せろ」と試練を課す。男の証明として出された課題は「手放しで自転車に乗る」「橋から飛び下りる」ここまではクリア。しかし、最後の「女の子が遊んでいるゴム飛びのゴムを切れ」ではクリアしたものの、ノイナーを悲しませてしまう。
ちゃんと仲直りできないままノイナーは引っ越ししてしまう。
うっかり寝坊して、お別れの挨拶もできなかったジアップ。
ガキ大将たちの手助けで、必死でおいかけるが、結局追いつかず。
それから十数年たち、ノイナーの結婚式に招待されたジアップ。
ノイナーは昔の少女のままの面影を残していた。
話が終わったあとの映像では、本編では語られなかったエピソードが映されて、謎解きや裏話が明かされる。
ジアップが手渡した花をノイナーが押し花にしていたこと。
水中で長く息をとめる競争で、ノイナーがズルしてたこと。など。
この映画で描かれた少年時代は、ドラえもんの世界っぽく、登場人物もドラえもんのTシャツ着ていたり、ドラえもんの新刊を読ませろと、ジャイアンっぽいガキ大将がすごむシーンもある。
今のこどもたちにも、こういう思い出して懐かしむ少年時代があるんだろうか。
よけいなお世話か!
http://www.excite.co.jp/cinema/special/fanchan/
大西巨人の『地獄篇三部作』を読んだ。
第1部 笑熱地獄
第2部 無限地獄
第3部 驚喚地獄
前書きで、本書の成り立ちについて解説がある。
第1部は1948年に執筆されていたが、「掲載、発表することは不可」と連絡があった。当時の文芸ジャーナリズムにとって差し障りのある内容だったからだ。
その後、執筆、発表された「白日の序曲」は連還体長編小説『地獄変相奏鳴曲』の第1楽章として出版されたが、この「白日の序曲」こそ『地獄篇三部作』の第2部「無限地獄」にあたる部分であったのだ。
今回『地獄篇三部作』の出版によって、「白日の序曲」は本来のあるべき場所におさまったわけだ。
こうして三部作になると、1部は作家と文壇、ジャーナリズムの世界を描いてあり、2部ではその作家が書いた小説。3部はその作品に対するジャーナリズムの対応。
メタ小説の体裁をとった、一癖も二癖もある作品に仕上がったのである。
1部、3部は作家や雑誌をもじった固有名詞がとびかう毒のある笑いが横溢していた。
文体の勝利だな、と圧倒された。
でも、こりゃまいった、と思ったのは、第2部の「無限地獄」だ。
ここで描かれるのは、いたいけな少女を誘惑して、夢中にさせておいて、その後つれない態度をとる男だ。
ひどい男で、相手の女性がかわいそうでしかたがない。
この第2部を読んでいるあいだ、胸が痛くていたくて。
ここで描かれているのは、自分のことだ!と言う思いでいっぱいだった。
今までに何回も人と知り合い、仲良くなっては、自分の冷酷な仕打ちで人を傷つけてきた。
その一部始終が告発されている気がしたのだ。
いや、まったくそのとおり。
文芸ジャーナリズムの世界も地獄なら、この男の世界も地獄だ。
そして、これが「無限地獄」と名付けられているように、こうした、人を引き寄せておいては傷つける、という人間関係のありかたは、自分の人生では何度も繰り返されてきたのだ。
今まで出会ってきたすべての人に土下座して謝りたい。
バカバカバカ
はい、自己嫌悪タイム終了(江古田ちゃん)
BSでタイ映画「フェーンチャン〜ぼくの恋人〜」(2003年)を見た。
監督、脚本は365フィルムプロダクションズで、6人のグループで作っている。
脚本にはさらに1人加わって、こりゃ多い。
主人公の少年ジアップ(チャーリー・タライラット)と少女ノイナー(フォーカス・ジラクン)の恋愛以前の淡い思い出が描かれる。
ノスタルジーは毒だ、と思っているが、この映画なんか、まさに毒そのもの。
見た後しばらくは感傷にひたってしまって、現実に戻ってこれない。
聞いたことがないはずの、当時のタイでのヒット曲まで懐かしい。
少年時代の遊びや諍いなど、懐かしさでいっぱいになる。いい映画だ!
チャンバラで遊ぶシーンでは、特撮カンフーが見れる。
少年ジアップは1軒おいた隣同士の少女ノイナーといつも一緒に遊んでいる。
男の子どうしの遊びに加わりたいジアップは、ガキ大将に「おまえが男だという証拠を見せろ」と試練を課す。男の証明として出された課題は「手放しで自転車に乗る」「橋から飛び下りる」ここまではクリア。しかし、最後の「女の子が遊んでいるゴム飛びのゴムを切れ」ではクリアしたものの、ノイナーを悲しませてしまう。
ちゃんと仲直りできないままノイナーは引っ越ししてしまう。
うっかり寝坊して、お別れの挨拶もできなかったジアップ。
ガキ大将たちの手助けで、必死でおいかけるが、結局追いつかず。
それから十数年たち、ノイナーの結婚式に招待されたジアップ。
ノイナーは昔の少女のままの面影を残していた。
話が終わったあとの映像では、本編では語られなかったエピソードが映されて、謎解きや裏話が明かされる。
ジアップが手渡した花をノイナーが押し花にしていたこと。
水中で長く息をとめる競争で、ノイナーがズルしてたこと。など。
この映画で描かれた少年時代は、ドラえもんの世界っぽく、登場人物もドラえもんのTシャツ着ていたり、ドラえもんの新刊を読ませろと、ジャイアンっぽいガキ大将がすごむシーンもある。
今のこどもたちにも、こういう思い出して懐かしむ少年時代があるんだろうか。
よけいなお世話か!
http://www.excite.co.jp/cinema/special/fanchan/
御堂筋パレード〜もっとペロキャン!ワンコインぷちライブ〜江村哲二〜大祓
2007年10月14日 読書
ISBN:4879956430 単行本 岩原 康夫 書肆山田 2005/08 ¥3,570
夜勤明けにうっかり1時間半も眠ってしまい、御堂筋パレードに出遅れる。
1時5分からの「ピンクチャイルド桃組」を見逃す。
いや、それだけでなく、あらかじめチェックしておいたステージのうちで、見ることができたのは1時35分からの「わんず組」だけだった。
わんず組はこどもたちによるファンタジーキッズミュージカル「子供達の夢〜不思議の国のアリスより〜」を上演していた。
で、その後はパレードを追いかけて見た。
お目当ては、御堂筋メドレー号でミルキーハット、万葉シャオニャン。
サントリーでSTSダンススタジオ。
パレードなのでメンバーの半分しか確認できず、向こう側に渡らないと残り半分が見えない。
ミルキーハットは、レナ、サヤカ、ユイ、チヒロのサイド。
STSは、高い場所に貴恵発見。君こそトップだ!
道路上でダンスする中には見知った顔が多々。
ほとんど走って追いかけながらだったので、基本、後頭部を見ることになったのは、残念。脚力を鍛えて、再挑戦したい。
その後、信長書店に駆け付ける。
「もっとペロキャン!ワンコインぷちライブvol.12」
午後4時開演だったが、遅れてしまい、歌の真っ最中に入場。
見たところからあとを残しておこう。
・桜チラリ
・スマイル:)
以心伝心ゲーム
あすぴが司会で、あかりんソ、カナ吉でお題の回答が一致すればOKなゲーム。
「お寿司のネタ」では「えび」「まぐろ」と分かれたが、「おつまみ」では「茎わかめ」、「まず起きてすること」では「携帯チェック」と一致。
3分間の撮影タイム。
・Pa-La-La
・スカートひらり
チラリにはじまり、ひらりに終わる。
まあ、最初から見ていたお客さんには、「桜チラリ」の前にも曲があったかもしれないけど!
帰宅して、NHK-FM「現代の音楽」
第17回芥川作曲賞選考演奏会からの2回目。
「アントモフォニー6」斉木由美・作曲
虫の声をモチーフにしている。今回は蝉。
東京・サントリーホールで収録。
残り2曲は、江村哲二の音楽。
江村哲二は芥川賞の審査員だったが、今年、本選を待たずして47歳の若さで亡くなった。
「バイオリン協奏曲 第2番“インテクステリア”」江村哲二・作曲
これは第4回芥川賞受賞作。
「地平線のクオリア」江村哲二・作曲
武満徹の「地平線のドーリア」を意識して作られている。
読んだ本はエズラ・パウンドの『大祓』
詩集『大祓』と中国詩翻訳を中心とした『キャセイ』から成っている。
今から90年ほど前の作品になるが、既に20世紀になっている。
現代的と評するには、20世紀はあまりにも現代だ。
こんな詩が面白い。
「ディヴェスに」
おお、ディヴェス、きみを非難するぼくは一体何者なのだ、
きみがむだな財産をかかえて辛い思いをしているように、
貧乏をかかえて
辛い思いをしているこのぼくは?
(大祓より)
「フォルミアナスの若い女友達に(ヴァレリウス・カトゥールス流に)」
ようこそ!小さめだとはとても言えない
鼻をしたお嬢さんよ、
足は美しいとは言いかねるし、
瞳は黒くない、
指は長くないし、口は乾くことがない、
言葉もエレガンスだとはとても言いかねるな。
きみは化粧品売りのフォルミアナスの友達で、
このあたりでは美人だという評判で、
あのレスビアにさえ比べられているけど。
ああ、なんとも不幸な時代だ!
(大祓より)
やつあたりで、あてこすり、言いたい放題。
諷刺というよりも、悪口に近い。
李白の漢詩を訳したという『キャセイ』の詩にしても、忠実な翻訳ではなく、パウンドの作品と読んでもおかしくないほどの違いがあるという。
ノンセンスな作品の奔放な翻訳であれば訳者の個性で1個の作品になったのだが、漢詩やギリシア詩の翻訳では、「誤訳だ!」と糾弾されてもしかたがない。これは選んだ対象が悪いのである。(奔放云々は、アルトーあたりを頭に描いている)
ただ、賛否両論は作品の力あってこそのものだから、注目に値するものであることは疑いない。
夜勤明けにうっかり1時間半も眠ってしまい、御堂筋パレードに出遅れる。
1時5分からの「ピンクチャイルド桃組」を見逃す。
いや、それだけでなく、あらかじめチェックしておいたステージのうちで、見ることができたのは1時35分からの「わんず組」だけだった。
わんず組はこどもたちによるファンタジーキッズミュージカル「子供達の夢〜不思議の国のアリスより〜」を上演していた。
で、その後はパレードを追いかけて見た。
お目当ては、御堂筋メドレー号でミルキーハット、万葉シャオニャン。
サントリーでSTSダンススタジオ。
パレードなのでメンバーの半分しか確認できず、向こう側に渡らないと残り半分が見えない。
ミルキーハットは、レナ、サヤカ、ユイ、チヒロのサイド。
STSは、高い場所に貴恵発見。君こそトップだ!
道路上でダンスする中には見知った顔が多々。
ほとんど走って追いかけながらだったので、基本、後頭部を見ることになったのは、残念。脚力を鍛えて、再挑戦したい。
その後、信長書店に駆け付ける。
「もっとペロキャン!ワンコインぷちライブvol.12」
午後4時開演だったが、遅れてしまい、歌の真っ最中に入場。
見たところからあとを残しておこう。
・桜チラリ
・スマイル:)
以心伝心ゲーム
あすぴが司会で、あかりんソ、カナ吉でお題の回答が一致すればOKなゲーム。
「お寿司のネタ」では「えび」「まぐろ」と分かれたが、「おつまみ」では「茎わかめ」、「まず起きてすること」では「携帯チェック」と一致。
3分間の撮影タイム。
・Pa-La-La
・スカートひらり
チラリにはじまり、ひらりに終わる。
まあ、最初から見ていたお客さんには、「桜チラリ」の前にも曲があったかもしれないけど!
帰宅して、NHK-FM「現代の音楽」
第17回芥川作曲賞選考演奏会からの2回目。
「アントモフォニー6」斉木由美・作曲
虫の声をモチーフにしている。今回は蝉。
東京・サントリーホールで収録。
残り2曲は、江村哲二の音楽。
江村哲二は芥川賞の審査員だったが、今年、本選を待たずして47歳の若さで亡くなった。
「バイオリン協奏曲 第2番“インテクステリア”」江村哲二・作曲
これは第4回芥川賞受賞作。
「地平線のクオリア」江村哲二・作曲
武満徹の「地平線のドーリア」を意識して作られている。
読んだ本はエズラ・パウンドの『大祓』
詩集『大祓』と中国詩翻訳を中心とした『キャセイ』から成っている。
今から90年ほど前の作品になるが、既に20世紀になっている。
現代的と評するには、20世紀はあまりにも現代だ。
こんな詩が面白い。
「ディヴェスに」
おお、ディヴェス、きみを非難するぼくは一体何者なのだ、
きみがむだな財産をかかえて辛い思いをしているように、
貧乏をかかえて
辛い思いをしているこのぼくは?
(大祓より)
「フォルミアナスの若い女友達に(ヴァレリウス・カトゥールス流に)」
ようこそ!小さめだとはとても言えない
鼻をしたお嬢さんよ、
足は美しいとは言いかねるし、
瞳は黒くない、
指は長くないし、口は乾くことがない、
言葉もエレガンスだとはとても言いかねるな。
きみは化粧品売りのフォルミアナスの友達で、
このあたりでは美人だという評判で、
あのレスビアにさえ比べられているけど。
ああ、なんとも不幸な時代だ!
(大祓より)
やつあたりで、あてこすり、言いたい放題。
諷刺というよりも、悪口に近い。
李白の漢詩を訳したという『キャセイ』の詩にしても、忠実な翻訳ではなく、パウンドの作品と読んでもおかしくないほどの違いがあるという。
ノンセンスな作品の奔放な翻訳であれば訳者の個性で1個の作品になったのだが、漢詩やギリシア詩の翻訳では、「誤訳だ!」と糾弾されてもしかたがない。これは選んだ対象が悪いのである。(奔放云々は、アルトーあたりを頭に描いている)
ただ、賛否両論は作品の力あってこそのものだから、注目に値するものであることは疑いない。