高谷史郎は夏のドーン!
2004年7月24日 音楽高谷史郎個展を児玉画廊に見に行く。
カメラのレンズ(すりガラス)に焦点が合って浮かび上がるオブジェ。レーザーで真っ二つに切り取られた部屋。ダムタイプらしいクールな芸術だ。
大阪城ホールでハロープロジェクトコンサート「夏のドーン」を見る。
辻、加護がこのツアーで卒業なのだが、既にWとしての活動も順調に始まっており、涙とは無縁な卒業だ。
以下、曲のリストと、あまり誰も興味を持っていないキッズの登場具合を書き留めておく。
なお、夏焼雅は学校行事のために、欠席。
GOOD BYE 夏男/松浦亜弥(村上、萩原、鈴木、岡井、梅田、あと1人見えなかった)
YOUR SONG〜青春宣誓〜(松浦亜弥、歌詞とばしたぞ!)
奇跡の香りダンス
さあ、早速盛り上げていこか〜!!/メロン記念日
涙の太陽
淋しい熱帯魚/W、保田、アヤカ、稲葉
乙女パスタに感動/矢島、梅田、鈴木、村上(同、岡井、萩原、中島)
ドアの向こうでBellが鳴ってた/飯田圭織
さらさらの川/前田有紀
ここで絵日記コーナー、高橋、菅谷、紺野、熊井
だって生きていかなくちゃ/安倍なつみ
晴れ雨のち好き
恋のテレフォンGOAL
DO MY BEST/中澤裕子
シャイニング愛しき貴方/カントリ−娘。に紺野と藤本(モーニング娘。)
サウスポー/W
ああ、いいな!(嗣永、徳永、須藤、菅谷、石村、清水、熊井)
手を握って歩きたい/後藤真希(梅田、矢島、萩原、岡井)
横浜蜃気楼
原色GAL派手に行くべ!(梅田、村上、鈴木、矢島)
ここでお悩み相談所コーナー(回答者として、鈴木、岡井、中島、萩原)
ファイティングポーズはダテじゃない!/Berrys工房
ハピネス〜幸福歓迎〜
ピリリと行こう!
女子かしまし物語/モーニング娘。
浪漫〜MY DEAR BOY〜
愛あらばIT’S ALL RIGHT(村上、矢島、岡井、萩原、中島、鈴木)?
恋愛レボリューション21
I WISH
Yeah!めっちゃホリデイ/全員
Go Girl〜恋のヴィクトリー〜
うーん、不明なところがちらほらと。
いったん帰宅してミュージックフェアを見てから、夜行バスで東京へ。
途中の休憩は1ケ所のみ。えっ、1回だけ?
なぜ、1ケ所しか休憩で止まらなかったのか、不思議に思っていたが、帰りのバスで、その疑問が氷解する。って、この部分は日記としては反則だが、これを書いているのは27日だから、僕のなかでは解決がついている話なのだ。とんでもない恐ろしい理由があって、バスは1回しか止まらなかったのだ。
後日の日記をお楽しみに。
カメラのレンズ(すりガラス)に焦点が合って浮かび上がるオブジェ。レーザーで真っ二つに切り取られた部屋。ダムタイプらしいクールな芸術だ。
大阪城ホールでハロープロジェクトコンサート「夏のドーン」を見る。
辻、加護がこのツアーで卒業なのだが、既にWとしての活動も順調に始まっており、涙とは無縁な卒業だ。
以下、曲のリストと、あまり誰も興味を持っていないキッズの登場具合を書き留めておく。
なお、夏焼雅は学校行事のために、欠席。
GOOD BYE 夏男/松浦亜弥(村上、萩原、鈴木、岡井、梅田、あと1人見えなかった)
YOUR SONG〜青春宣誓〜(松浦亜弥、歌詞とばしたぞ!)
奇跡の香りダンス
さあ、早速盛り上げていこか〜!!/メロン記念日
涙の太陽
淋しい熱帯魚/W、保田、アヤカ、稲葉
乙女パスタに感動/矢島、梅田、鈴木、村上(同、岡井、萩原、中島)
ドアの向こうでBellが鳴ってた/飯田圭織
さらさらの川/前田有紀
ここで絵日記コーナー、高橋、菅谷、紺野、熊井
だって生きていかなくちゃ/安倍なつみ
晴れ雨のち好き
恋のテレフォンGOAL
DO MY BEST/中澤裕子
シャイニング愛しき貴方/カントリ−娘。に紺野と藤本(モーニング娘。)
サウスポー/W
ああ、いいな!(嗣永、徳永、須藤、菅谷、石村、清水、熊井)
手を握って歩きたい/後藤真希(梅田、矢島、萩原、岡井)
横浜蜃気楼
原色GAL派手に行くべ!(梅田、村上、鈴木、矢島)
ここでお悩み相談所コーナー(回答者として、鈴木、岡井、中島、萩原)
ファイティングポーズはダテじゃない!/Berrys工房
ハピネス〜幸福歓迎〜
ピリリと行こう!
女子かしまし物語/モーニング娘。
浪漫〜MY DEAR BOY〜
愛あらばIT’S ALL RIGHT(村上、矢島、岡井、萩原、中島、鈴木)?
恋愛レボリューション21
I WISH
Yeah!めっちゃホリデイ/全員
Go Girl〜恋のヴィクトリー〜
うーん、不明なところがちらほらと。
いったん帰宅してミュージックフェアを見てから、夜行バスで東京へ。
途中の休憩は1ケ所のみ。えっ、1回だけ?
なぜ、1ケ所しか休憩で止まらなかったのか、不思議に思っていたが、帰りのバスで、その疑問が氷解する。って、この部分は日記としては反則だが、これを書いているのは27日だから、僕のなかでは解決がついている話なのだ。とんでもない恐ろしい理由があって、バスは1回しか止まらなかったのだ。
後日の日記をお楽しみに。
ギャルみこし、シティ・オブ・ゴースト、デイ・アフター・トゥモロー
2004年7月23日 映画
天満にギャルみこしを見に行く。
天神祭の最中は東京にいるので、せめてギャルみこしだけでも祭り気分を味わおうという魂胆だ。
村上三奈ちゃんも参加している。
熱気あふれるみこしで、ギャルも何人かリタイアしていたが、じゅうぶん楽しめた。
天神橋筋6丁目まで歩いて、映画を見た。
「シティ・オブ・ゴースト」
マット・ディロンの監督、主演。アジア(カンボジア)の熱気と汚さで悪夢のような陰謀劇が展開する。ジェームズ・カーンとかジェラール・ドパルデューなど、いい俳優が固めている。あまり期待もせず、予備知識もなく見た映画だったが、案外なひろいものだった。
アジア人の不気味さなんて、アジア人の自分には感じないはずなのに、アメリカ人の視線に同調して、「アジア人は何を考えているかわからなくて無気味だ」なんて思うのはなぜなのか。
ついでに天王寺まで行って、レイトショーで「デイ・アフター・トゥモロー」を見た。
竜巻きに津波に洪水に冬山遭難に、とにかく天変地異のパニックもののショーケースだ。
古今のパニック映画の引用につぐ引用で、定番の自由の女神がえらいめにあう映像もちゃんとある。誰か、自由の女神が映画によっていかに陵辱されたかというテーマで論文でも書いているだろうか。僕だけの着想でもないように思うのだが。
また、パニック映画の歴史をたどった研究があったら読んでみたい。「雨のランチプール」がどんな扱いされているのか、とか他人の意見を聞いてみたいことが多々ある。
ポップジャムに木村カエラ。カラオケうまそう。
りえむらにパラダイスゴーゴー。やっぱり口パクか!
ラブセンに篠原ともえ。ハイテンションだが、汚れていないのが逆に玉にキズか。
アイドルというと、音楽という観点からは、ないがしろにされている分野だ。
はっきり言って、クラシックを聞いていたり、ロックを聞いていたり、Jポップでさえも、アイドルとなると、鼻であしらう風情がある。明らかに1段低いものと決めてかかっているのである。先日読んだ「BECK」でもアイドル歌手が好きだと言う自分を恥じる主人公の姿が描かれる。
これはロックがではじめた頃に「あんなのは音楽じゃない」と保守的な勢力が差別したのと同じことが繰り返されているのだろうか。
サブカルチャーやB級が差別されてしまうのは世の常である。
だが、その差別の構造に疑問もなく乗っかっているのは、上品ぶってはいるが、知性的ではない。僕自身はアイドルには意識的に接しようとしているが、たとえばアニメや声優の世界になると、とんと疎くて、疎くなるとついつい差別してしまう。
「あんなのは既にどこかで流行した音楽の焼き直しだ」とか言って、ニセモノ扱いするのだ。これはいけない。焼き直しが駄目なのではない。焼き直しを駄目だと思う、僕が駄目なのだ。ニセモノがマイナスポイントなのではない。ニセモノをマイナスだと思う僕がマイナスなのだ。そんな差別的な考えにとらわれていては、保守的で硬直した人間になってしまう。自分の保身をまず最初に考えるような人間によって、社会は悪化しているのだ。せめて自分だけでもそうならないように心がけたいものだ。
天神祭の最中は東京にいるので、せめてギャルみこしだけでも祭り気分を味わおうという魂胆だ。
村上三奈ちゃんも参加している。
熱気あふれるみこしで、ギャルも何人かリタイアしていたが、じゅうぶん楽しめた。
天神橋筋6丁目まで歩いて、映画を見た。
「シティ・オブ・ゴースト」
マット・ディロンの監督、主演。アジア(カンボジア)の熱気と汚さで悪夢のような陰謀劇が展開する。ジェームズ・カーンとかジェラール・ドパルデューなど、いい俳優が固めている。あまり期待もせず、予備知識もなく見た映画だったが、案外なひろいものだった。
アジア人の不気味さなんて、アジア人の自分には感じないはずなのに、アメリカ人の視線に同調して、「アジア人は何を考えているかわからなくて無気味だ」なんて思うのはなぜなのか。
ついでに天王寺まで行って、レイトショーで「デイ・アフター・トゥモロー」を見た。
竜巻きに津波に洪水に冬山遭難に、とにかく天変地異のパニックもののショーケースだ。
古今のパニック映画の引用につぐ引用で、定番の自由の女神がえらいめにあう映像もちゃんとある。誰か、自由の女神が映画によっていかに陵辱されたかというテーマで論文でも書いているだろうか。僕だけの着想でもないように思うのだが。
また、パニック映画の歴史をたどった研究があったら読んでみたい。「雨のランチプール」がどんな扱いされているのか、とか他人の意見を聞いてみたいことが多々ある。
ポップジャムに木村カエラ。カラオケうまそう。
りえむらにパラダイスゴーゴー。やっぱり口パクか!
ラブセンに篠原ともえ。ハイテンションだが、汚れていないのが逆に玉にキズか。
アイドルというと、音楽という観点からは、ないがしろにされている分野だ。
はっきり言って、クラシックを聞いていたり、ロックを聞いていたり、Jポップでさえも、アイドルとなると、鼻であしらう風情がある。明らかに1段低いものと決めてかかっているのである。先日読んだ「BECK」でもアイドル歌手が好きだと言う自分を恥じる主人公の姿が描かれる。
これはロックがではじめた頃に「あんなのは音楽じゃない」と保守的な勢力が差別したのと同じことが繰り返されているのだろうか。
サブカルチャーやB級が差別されてしまうのは世の常である。
だが、その差別の構造に疑問もなく乗っかっているのは、上品ぶってはいるが、知性的ではない。僕自身はアイドルには意識的に接しようとしているが、たとえばアニメや声優の世界になると、とんと疎くて、疎くなるとついつい差別してしまう。
「あんなのは既にどこかで流行した音楽の焼き直しだ」とか言って、ニセモノ扱いするのだ。これはいけない。焼き直しが駄目なのではない。焼き直しを駄目だと思う、僕が駄目なのだ。ニセモノがマイナスポイントなのではない。ニセモノをマイナスだと思う僕がマイナスなのだ。そんな差別的な考えにとらわれていては、保守的で硬直した人間になってしまう。自分の保身をまず最初に考えるような人間によって、社会は悪化しているのだ。せめて自分だけでもそうならないように心がけたいものだ。
庭の綺想学―近代西欧とピクチャレスク美学
2004年7月22日 読書
最近高山宏の本を集中的に読んでいる。
今日読んだ『庭の綺想学』では、テーブル、シノワズリー、ピクチャレスク、庭等をキーワードにして、近代西欧を語る。
この本を読んで思ったのは主にピクチャレスクについてだった。
ピクチャレスクは「絵のような」ということだが、そこから高山宏は合わせ鏡の無限反復、悪循環とも言える世界の認識を暴いてみせる。
もともと自然を絵画として切り取って風景画にしたとき、自然は切り殺されて絵になるのである。さらに、その風景画をモデルにして「庭」が作られる。まるで風景画のような庭(人工)が出来上がるのだ。さらに、その庭を写生して風景画を描く画家たちによって、人工の庭と人工の風景画のあいだで鏡の反復、循環がはじまる。そのときにはもともとの自然などかえりみられないのである。
このような「庭」の登場は「所有」の観念が普及する18世紀のことだという。自然を切り取って所有しようとするのが造園術なのだ。
では、現在ではこの反復はどうなっているのだろう。
風景画になるような自然そのものが、既にアーカイブ化しており、引用のためのものとして存在している。これは18世紀の延長線上にある見方なので、わかりやすい。
ただ、18世紀と違って、今や「所有」するのは一握りの貴族ではなく、万人が所有への欲望を抱いている。
風景画として切られた自然はその枠組みとして「額縁」を使ったが、今ではモニターのフレームがそれにあたるのではないか。
自然を切り取った風景画は今では写メールがその役割をになっている。
高山宏はこうしたピクチャレスクの問題を、制度の問題としてとらえている。今、写メールや、デジカメで何でもかんでも写し取っている人々は、世界の殺戮者なのであり、制度の側に立つ「世界を止めてしまう」者たちなのだと言えるだろう。先日読んだ本の言葉で言えば、過視の世界への傾斜だ。
まあ、こんな世界殺されてもいいや、とも思うが、そうしたときに心の中に響いてくる歌声はこう告げて、僕の考えをただしてくれる。
「どんなに汚れても、地球に愛を。ここがわたしたちの星よ」
(制服向上委員会)
今日読んだ『庭の綺想学』では、テーブル、シノワズリー、ピクチャレスク、庭等をキーワードにして、近代西欧を語る。
この本を読んで思ったのは主にピクチャレスクについてだった。
ピクチャレスクは「絵のような」ということだが、そこから高山宏は合わせ鏡の無限反復、悪循環とも言える世界の認識を暴いてみせる。
もともと自然を絵画として切り取って風景画にしたとき、自然は切り殺されて絵になるのである。さらに、その風景画をモデルにして「庭」が作られる。まるで風景画のような庭(人工)が出来上がるのだ。さらに、その庭を写生して風景画を描く画家たちによって、人工の庭と人工の風景画のあいだで鏡の反復、循環がはじまる。そのときにはもともとの自然などかえりみられないのである。
このような「庭」の登場は「所有」の観念が普及する18世紀のことだという。自然を切り取って所有しようとするのが造園術なのだ。
では、現在ではこの反復はどうなっているのだろう。
風景画になるような自然そのものが、既にアーカイブ化しており、引用のためのものとして存在している。これは18世紀の延長線上にある見方なので、わかりやすい。
ただ、18世紀と違って、今や「所有」するのは一握りの貴族ではなく、万人が所有への欲望を抱いている。
風景画として切られた自然はその枠組みとして「額縁」を使ったが、今ではモニターのフレームがそれにあたるのではないか。
自然を切り取った風景画は今では写メールがその役割をになっている。
高山宏はこうしたピクチャレスクの問題を、制度の問題としてとらえている。今、写メールや、デジカメで何でもかんでも写し取っている人々は、世界の殺戮者なのであり、制度の側に立つ「世界を止めてしまう」者たちなのだと言えるだろう。先日読んだ本の言葉で言えば、過視の世界への傾斜だ。
まあ、こんな世界殺されてもいいや、とも思うが、そうしたときに心の中に響いてくる歌声はこう告げて、僕の考えをただしてくれる。
「どんなに汚れても、地球に愛を。ここがわたしたちの星よ」
(制服向上委員会)
今日はとくにどこにも行かず(行けず)、読み終えた本もないので、読んだ漫画の話でも。昨日と今日の2日をかけて、ハロルド作石の『BECK』を18巻まで読んだ。
どしろうとからメジャーになっていくバンド、ミュージシャンの物語で、なんとなく、先のことまで考えずに書きはじめたのではないかと思われるふしがある。「ベック」という名前は犬の名前からとったことになっているが、その犬自体が今までストーリーとはぜんぜん有機的にからんでいないし、その「ベック」をバンド名にするのだが、はっきり言って最低なネ−ミングである。既にある名前を使うなら、いっそのこと「ビートルズ」と名付けてしまった方が面白い。
さて、ストーリーの内容だが。
たとえば、CDを作ってそれがレコード店に並ぶことに喜びを感じたり、大きな野外フェスティバルに出演することに喜んだり、有名バンドに認められて喜んだり、要するに、徹底的にメジャ−志向な少年たちの話なのだ。彼らが成功と考えることのすべてが、僕にはどうでもいいことのように思えて仕方がないのだが、最近のヤングはメジャーになることをもってよしとする傾向があるのだろう。たとえば、その野外フェスだって、かつてはロックスピリットあふれるものだったが、金もうけ主義の男が噛んでから、つまらなくなった、という漫画内の設定がある。でも、その野外フェスというものの考え方(つまり、大勢の人に受け入れられる音楽を前提にしている)ことが、既に終わっている感じがする。ましてや、集客の多寡に一喜一憂するあたりが、全く履き違えているとしか思えない。ミリオンセラーのヒット曲が必ずしもいい歌ではないように、人気のあるバンドがいいバンドというわけではない。でも、彼らは、集客や、売れ行きといった結果を大事に考えているのだ。これは、学校の勉強を試験や受験のために無理矢理やるのと同じ過ちだ。(学校の勉強はそれ自体が楽しくてやるものなのだ。試験でいい点をとるとか、全国で何番になるとか、偏差値なんてつまらないことに頭を使う暇があったら、本の1冊でも読んでいた方がマシだ)一番違和感があったのは、バンドのメンバーたちが、たとえばベースなら、あのバンドのベースが凄いのでうちのバンドに引き抜こう、とかいう話になったり、「俺は、あいつのドラムでないと一緒にやる気がしない」なんて、言うことだ。つまり、メンバーのより好みをするのだ。これは全く意味がわからない。さらに、メンバーたちは、楽器のより好みまでする。ライブハウスに「伝説」なんてつけてみたり、客が少なくてやりにくいとか言ったりする。意味不明だ。
メンバーであれ、楽器であれ、ライブする場所であれ、出番であれ、より好みをするのは僕にとっては、心が狭すぎる神経症的行動にしか見えない。
なぜなら、自分がアーチストであるならば、どんな環境であろうと、自分を十全に表現できて当たり前だからだ。「どんな環境であろうと」と書いたが、環境がよければちゃんとできる、なんて思うこと自体がもうダメだと思う。環境なんて全くどうでもいいことなのだ。自分が何かを表現するにあたって、何らかの条件を必要とするなら、それはアーチストとしては未熟だと証しているだけだ。まだアーチストじゃない。
さらに、「悪条件」なんて判断を下すことは、それ自体負けなのだ。自分がステージに立てば、それだけで、そのステージは「最高」のはずだ。「悪条件」「最悪のステージ」とは、自分が出演しないステージを意味しているはずだ。
ところが、この『BECK』が面白いのは、本筋以外のところに出てくる作者のプロレス趣味が笑わせるからだ。プロレスは身を助く。
録画しておいた「中川家ん」で鈴木亜美。ASAYANのオーディションで選ばれたときの彼女の映像が出ていたが、こりゃ可愛いわ。
どしろうとからメジャーになっていくバンド、ミュージシャンの物語で、なんとなく、先のことまで考えずに書きはじめたのではないかと思われるふしがある。「ベック」という名前は犬の名前からとったことになっているが、その犬自体が今までストーリーとはぜんぜん有機的にからんでいないし、その「ベック」をバンド名にするのだが、はっきり言って最低なネ−ミングである。既にある名前を使うなら、いっそのこと「ビートルズ」と名付けてしまった方が面白い。
さて、ストーリーの内容だが。
たとえば、CDを作ってそれがレコード店に並ぶことに喜びを感じたり、大きな野外フェスティバルに出演することに喜んだり、有名バンドに認められて喜んだり、要するに、徹底的にメジャ−志向な少年たちの話なのだ。彼らが成功と考えることのすべてが、僕にはどうでもいいことのように思えて仕方がないのだが、最近のヤングはメジャーになることをもってよしとする傾向があるのだろう。たとえば、その野外フェスだって、かつてはロックスピリットあふれるものだったが、金もうけ主義の男が噛んでから、つまらなくなった、という漫画内の設定がある。でも、その野外フェスというものの考え方(つまり、大勢の人に受け入れられる音楽を前提にしている)ことが、既に終わっている感じがする。ましてや、集客の多寡に一喜一憂するあたりが、全く履き違えているとしか思えない。ミリオンセラーのヒット曲が必ずしもいい歌ではないように、人気のあるバンドがいいバンドというわけではない。でも、彼らは、集客や、売れ行きといった結果を大事に考えているのだ。これは、学校の勉強を試験や受験のために無理矢理やるのと同じ過ちだ。(学校の勉強はそれ自体が楽しくてやるものなのだ。試験でいい点をとるとか、全国で何番になるとか、偏差値なんてつまらないことに頭を使う暇があったら、本の1冊でも読んでいた方がマシだ)一番違和感があったのは、バンドのメンバーたちが、たとえばベースなら、あのバンドのベースが凄いのでうちのバンドに引き抜こう、とかいう話になったり、「俺は、あいつのドラムでないと一緒にやる気がしない」なんて、言うことだ。つまり、メンバーのより好みをするのだ。これは全く意味がわからない。さらに、メンバーたちは、楽器のより好みまでする。ライブハウスに「伝説」なんてつけてみたり、客が少なくてやりにくいとか言ったりする。意味不明だ。
メンバーであれ、楽器であれ、ライブする場所であれ、出番であれ、より好みをするのは僕にとっては、心が狭すぎる神経症的行動にしか見えない。
なぜなら、自分がアーチストであるならば、どんな環境であろうと、自分を十全に表現できて当たり前だからだ。「どんな環境であろうと」と書いたが、環境がよければちゃんとできる、なんて思うこと自体がもうダメだと思う。環境なんて全くどうでもいいことなのだ。自分が何かを表現するにあたって、何らかの条件を必要とするなら、それはアーチストとしては未熟だと証しているだけだ。まだアーチストじゃない。
さらに、「悪条件」なんて判断を下すことは、それ自体負けなのだ。自分がステージに立てば、それだけで、そのステージは「最高」のはずだ。「悪条件」「最悪のステージ」とは、自分が出演しないステージを意味しているはずだ。
ところが、この『BECK』が面白いのは、本筋以外のところに出てくる作者のプロレス趣味が笑わせるからだ。プロレスは身を助く。
録画しておいた「中川家ん」で鈴木亜美。ASAYANのオーディションで選ばれたときの彼女の映像が出ていたが、こりゃ可愛いわ。
食人宴席―抹殺された中国現代史
2004年7月20日 読書
鄭義(ツェン・イー)の『食人宴席』を読んだ。この本は何年も前に、根本敬さんに薦められた本だ。当時、早速本屋で買って読みはじめたものの、あまりにも凄惨な話で途中で放り出してしまったままだった。昨日の根本さんのイベントで思い出して、一から読み直してみた。今回はなんとか読了。
内容は、中国の文化大革命時の広西大虐殺事件を扱っている。文化大革命のときは「覇王別姫」で見るように、文化人、知識人、金持ちたちが階級闘争の名のもとにリンチされたり、虐殺されたりした。裁判も法律も、さらには理由なども関係なく、目をつけられた者は、狂ったように興奮する群集に「殺せ!」と言い立てられて、咎なくて死んでいったのだ。広西ではそれが虐殺に終わらず、人肉を食べる大宴会になった。中国の広西省では文化大革命時に無実の罪で虐殺された人間は9万人にのぼるという。文化大革命は1966年から10年も続かなかったのだから、毎日毎日何十人も殺されていたのではないか。
鄭義は食人の3段階を記している。まず、処刑された死体を夜にこっそり解体して、肝を盗んで持って帰るこそこそ段階、高潮期には集会を開いてライブで処刑、その場で解体し、おおっぴらに人食いができた。第3段階に入ると、食人大衆運動期で、人肉が目的であるかのように、糾弾集会が開かれ、言い掛かりをつけて多くの人間を殺し、いや、まだ生きていても肉を削がれていった。手際のよい解体方法まで普及した。胸のところを「人」の字に切り裂いて、下腹部をドンと踏むと、肝臓と心臓(おいしい部分)がピョンと出てくるのだ。群集は毎日、文字通り度胆を抜くリンチで大宴会をひらいていたのだ。
鄭義は中国映画「古井戸」の原作小説を書いた人物。センセーショナルな本だが、一応の文化人が書いたものだ。
鄭義は人食いについて糾弾しているのだが、中国では人食いに対するタブー感はあまりなかったのじゃないか、と思って、中野美代子の『カニバリズム論』をぱらぱらと読み返してみた。たしかに、人肉は「おいしい」し、漢方薬として食べられることもあるとして、西欧ほどのタブーではないと書いてあった。人肉饅頭なんて香港映画もあった。
魯迅の『狂人日記』は自分が食われるんじゃないかと妄想し恐怖する話だが、中国料理店によくある、大きくて真中に回転台のついた丸いテーブルのことをふと思い出した。エリアス・カネッティによると、同じテーブルで食事をとるという行為は、そのメンバーが「食べる側」の者であることを約束するためのものだという。つまり、そこでは「食べられる側」の人間はいない、ということを確認し、強調するために、会食という風習が生まれたというのだ。同じテーブルを囲んで食べているかぎり、そこでは共食いは起こらない了解があるのだ。(『群集と権力』)中国料理の大きな丸テーブルは、人食いが起こっても不思議ではない中国ならではの、「食われたくない」感情の賜物ではないか。
1冊読んだだけでおなかがいっぱいだ。なお、この本は大部の原著から一部を抜粋して翻訳したものらしいが、最終章の「マルクス主義と孔子」は前章までのつながりも悪く、あえて訳す必要がなかったのではないか、と思った。
しかし、この本、根本さんと居酒屋でごはん食べてるときに紹介してくれた本なのだ。食事中にこの本を話題にしたあたりがいかにも根本さんっぽい。
今日、テレビで「鏡の国のアリス」を放送していた。
アリス役のケイト・ベッキンセイルは明らかに20代で、ルイス・キャロルのアリスとは全然違う雰囲気だった。ファッションはディズニーのアリスっぽかった。なにせ、こどもにお話を聞かせる母親の方が鏡の中に入っていくのだ。ただ、「かつらをかぶった雀蜂」のエピソードも映像化されていて、時の移り変わりというものを感じた。このエピソードは、僕が学生時代に新たに発見されたエピソードだったのだ。イアン・ホルムの白の騎士はまあまあだったかな。
なんばシティにムエタイ映画「マッハ」のトニー・ジャーが来ていたので見に行った。ちょうど、はけるときにすぐ近くを通ったので、ジャーの腕にさわることができた!
内容は、中国の文化大革命時の広西大虐殺事件を扱っている。文化大革命のときは「覇王別姫」で見るように、文化人、知識人、金持ちたちが階級闘争の名のもとにリンチされたり、虐殺されたりした。裁判も法律も、さらには理由なども関係なく、目をつけられた者は、狂ったように興奮する群集に「殺せ!」と言い立てられて、咎なくて死んでいったのだ。広西ではそれが虐殺に終わらず、人肉を食べる大宴会になった。中国の広西省では文化大革命時に無実の罪で虐殺された人間は9万人にのぼるという。文化大革命は1966年から10年も続かなかったのだから、毎日毎日何十人も殺されていたのではないか。
鄭義は食人の3段階を記している。まず、処刑された死体を夜にこっそり解体して、肝を盗んで持って帰るこそこそ段階、高潮期には集会を開いてライブで処刑、その場で解体し、おおっぴらに人食いができた。第3段階に入ると、食人大衆運動期で、人肉が目的であるかのように、糾弾集会が開かれ、言い掛かりをつけて多くの人間を殺し、いや、まだ生きていても肉を削がれていった。手際のよい解体方法まで普及した。胸のところを「人」の字に切り裂いて、下腹部をドンと踏むと、肝臓と心臓(おいしい部分)がピョンと出てくるのだ。群集は毎日、文字通り度胆を抜くリンチで大宴会をひらいていたのだ。
鄭義は中国映画「古井戸」の原作小説を書いた人物。センセーショナルな本だが、一応の文化人が書いたものだ。
鄭義は人食いについて糾弾しているのだが、中国では人食いに対するタブー感はあまりなかったのじゃないか、と思って、中野美代子の『カニバリズム論』をぱらぱらと読み返してみた。たしかに、人肉は「おいしい」し、漢方薬として食べられることもあるとして、西欧ほどのタブーではないと書いてあった。人肉饅頭なんて香港映画もあった。
魯迅の『狂人日記』は自分が食われるんじゃないかと妄想し恐怖する話だが、中国料理店によくある、大きくて真中に回転台のついた丸いテーブルのことをふと思い出した。エリアス・カネッティによると、同じテーブルで食事をとるという行為は、そのメンバーが「食べる側」の者であることを約束するためのものだという。つまり、そこでは「食べられる側」の人間はいない、ということを確認し、強調するために、会食という風習が生まれたというのだ。同じテーブルを囲んで食べているかぎり、そこでは共食いは起こらない了解があるのだ。(『群集と権力』)中国料理の大きな丸テーブルは、人食いが起こっても不思議ではない中国ならではの、「食われたくない」感情の賜物ではないか。
1冊読んだだけでおなかがいっぱいだ。なお、この本は大部の原著から一部を抜粋して翻訳したものらしいが、最終章の「マルクス主義と孔子」は前章までのつながりも悪く、あえて訳す必要がなかったのではないか、と思った。
しかし、この本、根本さんと居酒屋でごはん食べてるときに紹介してくれた本なのだ。食事中にこの本を話題にしたあたりがいかにも根本さんっぽい。
今日、テレビで「鏡の国のアリス」を放送していた。
アリス役のケイト・ベッキンセイルは明らかに20代で、ルイス・キャロルのアリスとは全然違う雰囲気だった。ファッションはディズニーのアリスっぽかった。なにせ、こどもにお話を聞かせる母親の方が鏡の中に入っていくのだ。ただ、「かつらをかぶった雀蜂」のエピソードも映像化されていて、時の移り変わりというものを感じた。このエピソードは、僕が学生時代に新たに発見されたエピソードだったのだ。イアン・ホルムの白の騎士はまあまあだったかな。
なんばシティにムエタイ映画「マッハ」のトニー・ジャーが来ていたので見に行った。ちょうど、はけるときにすぐ近くを通ったので、ジャーの腕にさわることができた!
根本敬の「日本橋特殊学級 夏期講習」を見に行った。山田ジャックとのイベント。釜ケ崎の夏祭りのビデオを中心に、いい顔をしたおっちゃんたちの映像が流され、根本、山田両名で解説をつけるという体裁。場所は日本橋ジャングルなので、そのおっちゃんたちは歩いて10分程度のところにいるわけだ。根本さんのしゃべりが不明瞭で、山田氏が何度も聞き返すところとか、微妙なところがツボだった。イベント終了後、ひさしぶりに根本さんとしゃべった。僕のビデオ「アオアオ地獄」は根本さんにパッケージを描いてもらったものなのだ。フジヤマに行けばまだあるかな?
帰ってからテレビ見ていたら、「pro-file」に野ばら君が出ていた。メトロでのトークイベントの模様が次週放送されるそうだ。
「サルヂエ」「時空警察ヴェッカーD02」と新旧小倉優子を見た。太陽の黒点の増減は天変地異の予兆だというが、小倉優子の黒点の減少はいったいどのような影響があるのだろう。
なぜか2つの番組ともに小倉優子は自らの知性を暴露していた。マスコミ用のイメージでは小倉優子は抜けた子なのだが、本当は頭がいいことをカミングアウトしているかのようだ。
その裏番組「ナマタマゴ」はしっかりと標準で録画しておいた。
帰ってからテレビ見ていたら、「pro-file」に野ばら君が出ていた。メトロでのトークイベントの模様が次週放送されるそうだ。
「サルヂエ」「時空警察ヴェッカーD02」と新旧小倉優子を見た。太陽の黒点の増減は天変地異の予兆だというが、小倉優子の黒点の減少はいったいどのような影響があるのだろう。
なぜか2つの番組ともに小倉優子は自らの知性を暴露していた。マスコミ用のイメージでは小倉優子は抜けた子なのだが、本当は頭がいいことをカミングアウトしているかのようだ。
その裏番組「ナマタマゴ」はしっかりと標準で録画しておいた。
ハルタ発表会、ヤケアトヤミイチ
2004年7月18日 日常今日はジャスダンススタジオハルタの発表会(森ノ宮青少年会館文化ホール)を見に行った。ユニットによるアイドルっぽいステージがあるわけではないのだが、野田愛乃など、知った名前が出てくると、ついつい目で追ってしまう。3部構成で、1、2部は十数曲ずつの発表、第3部はリーダー中心の比較的うまいダンスが見られた。クラシックバレエっぽいものから、セクシーなジャズダンス、ストリートダンスまで、バラエティに富んでいる。でも、僕が面白いと思ったのは、せっかくの発表会だというのに、全然そろっていなかったり、ダンスを忘れたり、失敗したりしまくっている、アナーキーな光景だった。
その後、梅田の兎我野町ストローハットに寄った。ヤケアトヤミイチと銘打ったイベントをしていた。要するに、バーで次々と芸達者たちがパフォーマンスを披露するもので、キャバレー・ヴォルテールみたいな感じだ。僕もフーゴー・バルみたいに「ガジベリビンバ」と音響詩を朗読したくなるような雰囲気。18才のチャーと呼ばれる少年が超絶ギターを披露し、ラジオ番組の仕事で近くに来ていた落語家が手練の大道芸を見せる。ウクレレで歌う女性もいたし、ナオユキ師匠のスタンダップコメディもある。僕も草壁コウジ氏とトークで急遽出演した。今回一番の収穫はディジュリドゥを吹くデュオだった。ディジュリドゥはアボリジニが演奏していた世界最古の木管楽器らしい。巨大なプリッツみたいなのをブコブコ吹くのだが、似たような光景をどこかで見たなと思っていたら、ギャラクシーエンジェルで、登場人物たちがチクワをくわえていた姿だった。それは、それは、それは、それは、チ、ク、ワ、でーすー。(by村上三奈)
ラジオ大阪で「ラジオげんしけん」を聞いた。僕はあまりラジオを聞かないので、ちょっと衝撃だった。「げんしけん」は桃井はるこがパーソナリティをつとめており、この日はいろんなものの三原則など募集していた。何が衝撃かというと、その「げんしけん」に至るまで声優、アニメ関係の番組がとっかえひっかえ、えんえんと続くのだ。僕は本を読みながら聞いていたのだが、耳から入ってくる情報量のすごさったらないのだ。「げんしけん」は午前2時頃からだったように記憶しているが、アニメっぽい番組は午後10時からはじまっている。中でも「電撃大賞」には松風雅也(おはスタの番長)が出ており、リスナーからのいろんな質問、疑問に答えるコーナーがあった。これって、僕のホームページの「質問掲示板」じゃないか。
今日は朝から「ハローモーニング」も「ニコモノ」も見逃すなど、どうも調子がよくない。兎我野町から家に帰る途中では泉の広場のあたりで階段から落ちそうになった。落ちてもしかたがないような、飛んだり跳ねたりしながらの降り方だったので、落ちなかった自分をほめてやってもいいのだが。(ナオユキ師匠によると、「飛んだり跳ねたり」は誤っているそうだ。「飛んだりおりたり」でないと、「跳ねたり」のときの足場が存在しないのだ)
その後、梅田の兎我野町ストローハットに寄った。ヤケアトヤミイチと銘打ったイベントをしていた。要するに、バーで次々と芸達者たちがパフォーマンスを披露するもので、キャバレー・ヴォルテールみたいな感じだ。僕もフーゴー・バルみたいに「ガジベリビンバ」と音響詩を朗読したくなるような雰囲気。18才のチャーと呼ばれる少年が超絶ギターを披露し、ラジオ番組の仕事で近くに来ていた落語家が手練の大道芸を見せる。ウクレレで歌う女性もいたし、ナオユキ師匠のスタンダップコメディもある。僕も草壁コウジ氏とトークで急遽出演した。今回一番の収穫はディジュリドゥを吹くデュオだった。ディジュリドゥはアボリジニが演奏していた世界最古の木管楽器らしい。巨大なプリッツみたいなのをブコブコ吹くのだが、似たような光景をどこかで見たなと思っていたら、ギャラクシーエンジェルで、登場人物たちがチクワをくわえていた姿だった。それは、それは、それは、それは、チ、ク、ワ、でーすー。(by村上三奈)
ラジオ大阪で「ラジオげんしけん」を聞いた。僕はあまりラジオを聞かないので、ちょっと衝撃だった。「げんしけん」は桃井はるこがパーソナリティをつとめており、この日はいろんなものの三原則など募集していた。何が衝撃かというと、その「げんしけん」に至るまで声優、アニメ関係の番組がとっかえひっかえ、えんえんと続くのだ。僕は本を読みながら聞いていたのだが、耳から入ってくる情報量のすごさったらないのだ。「げんしけん」は午前2時頃からだったように記憶しているが、アニメっぽい番組は午後10時からはじまっている。中でも「電撃大賞」には松風雅也(おはスタの番長)が出ており、リスナーからのいろんな質問、疑問に答えるコーナーがあった。これって、僕のホームページの「質問掲示板」じゃないか。
今日は朝から「ハローモーニング」も「ニコモノ」も見逃すなど、どうも調子がよくない。兎我野町から家に帰る途中では泉の広場のあたりで階段から落ちそうになった。落ちてもしかたがないような、飛んだり跳ねたりしながらの降り方だったので、落ちなかった自分をほめてやってもいいのだが。(ナオユキ師匠によると、「飛んだり跳ねたり」は誤っているそうだ。「飛んだりおりたり」でないと、「跳ねたり」のときの足場が存在しないのだ)
東浩紀の対談集『不過視なものの世界』を読んだ。
精神分析の世界(斎藤環)、情報と暗号の世界1(山形浩生)、可視的なものの世界(村上隆)、謎解きの世界(法月綸太郎)、情報と暗号の世界2(山根信二)、過視的なものの世界(阿部和重)
先日「おたく」の80年代論を読んだので、90年代はどうなっているのかという興味で読んでみたのだが、印象は、「新人類の頃と何も変わっていないなあ」だった。東浩紀がこの本で言う「過視」は、今までなら見ることができなかったものでも、映像技術によってすべて見ることができるようになったことを指している。もう1つ、今までは記憶によって再現されていた事柄が、すべてアーカイブとしてちゃんと見聞きし、再現することができるようになったことも意味している。僕にとって興味深いのは、後者の方だ。この本の対談中、東浩紀は90年代の特徴として、引用やリミックスに対する無頓着さをあげている。80年代は「おたく」が個人の熱意と欲望によって膨大なデータベースを集めていたが、90年代は膨大なデータベースは引用可能な状況で誰にでも開かれている。それに目を向けるかどうかという嗜好だけが「オタク」かそうでないかを見わける証拠なのだ。前に福留が出ているテレビ番組が何だったかを思い出すのに四苦八苦していたのだが、カモロックで「まんがジョッキー」のテーマソングがかかり、「あっ、まんがジョッキーだ!」と思い出すことができた。昔の番組の主題歌なんて、かつては個人の記憶にすべてまかされていたのだが、今では、CDにもなっているし、また誰かがレコードのコレクターとして持っているのだ。自分が頑張って発掘する必要がない。でも、ここ1年くらい本などほとんど買ってなくて図書館に通い、CDもほとんど買わずにレンタルですましているのだが、図書館やレンタルビデオの品ぞろえって、底が浅いのだ。本当に聞きたい映画や音楽はレンタル屋にはなく(日本版も出ていない)、本当に読みたい本は図書館に行っても置いていないのが通常だ。やっぱり自分で買うしかないのか!とか言いながら、お金がないので、図書館とレンタルに頼らざるをえない。これでは感性も鈍りまくりだ。
それはそうと、風邪は鼻とのどがいっこうに治らない。
体調がすぐれないので、この日記でも本を読んだという話題ばかりだ。
K1見たら、立ち技はムエタイが最強だということが証明されつつある。曙はアマチュア相撲に転向して、その力を証明するしか生きる道はないのではないか。
精神分析の世界(斎藤環)、情報と暗号の世界1(山形浩生)、可視的なものの世界(村上隆)、謎解きの世界(法月綸太郎)、情報と暗号の世界2(山根信二)、過視的なものの世界(阿部和重)
先日「おたく」の80年代論を読んだので、90年代はどうなっているのかという興味で読んでみたのだが、印象は、「新人類の頃と何も変わっていないなあ」だった。東浩紀がこの本で言う「過視」は、今までなら見ることができなかったものでも、映像技術によってすべて見ることができるようになったことを指している。もう1つ、今までは記憶によって再現されていた事柄が、すべてアーカイブとしてちゃんと見聞きし、再現することができるようになったことも意味している。僕にとって興味深いのは、後者の方だ。この本の対談中、東浩紀は90年代の特徴として、引用やリミックスに対する無頓着さをあげている。80年代は「おたく」が個人の熱意と欲望によって膨大なデータベースを集めていたが、90年代は膨大なデータベースは引用可能な状況で誰にでも開かれている。それに目を向けるかどうかという嗜好だけが「オタク」かそうでないかを見わける証拠なのだ。前に福留が出ているテレビ番組が何だったかを思い出すのに四苦八苦していたのだが、カモロックで「まんがジョッキー」のテーマソングがかかり、「あっ、まんがジョッキーだ!」と思い出すことができた。昔の番組の主題歌なんて、かつては個人の記憶にすべてまかされていたのだが、今では、CDにもなっているし、また誰かがレコードのコレクターとして持っているのだ。自分が頑張って発掘する必要がない。でも、ここ1年くらい本などほとんど買ってなくて図書館に通い、CDもほとんど買わずにレンタルですましているのだが、図書館やレンタルビデオの品ぞろえって、底が浅いのだ。本当に聞きたい映画や音楽はレンタル屋にはなく(日本版も出ていない)、本当に読みたい本は図書館に行っても置いていないのが通常だ。やっぱり自分で買うしかないのか!とか言いながら、お金がないので、図書館とレンタルに頼らざるをえない。これでは感性も鈍りまくりだ。
それはそうと、風邪は鼻とのどがいっこうに治らない。
体調がすぐれないので、この日記でも本を読んだという話題ばかりだ。
K1見たら、立ち技はムエタイが最強だということが証明されつつある。曙はアマチュア相撲に転向して、その力を証明するしか生きる道はないのではないか。
奇想天外・英文学講義―シェイクスピアから「ホームズ」へ
2004年7月16日 読書
高山宏の『奇想天外・英文学講義』を読んだ。
前回に読んだ『表象の芸術工学』に続いて、これも語られたものを文章化したもので、内容的にも重複する部分が多い。でも、僕みたいなザル頭には同じことを手を変え品を変え繰り返してくれないことには、頭に入っていかない。
「アルス・コンビナトリア」(結合術)、マニエリスムで、あっちからこっちから持ってきたものをつなげてみせる。ダイナミック、悪く言えばおおざっぱな論が展開されるパワーはすごい。デビュー当時のボブ・サップを見るかのようだ。
アルス・コンビナトリアの最も低いレベルの結合は、駄洒落だ。この本は講談社選書メチエから出された。「メチエ」とは経験によって身につく技術、道具を駆使して行う仕事を意味している。一方、高山宏はメラヴィリア(驚異)を一貫して説き続ける人である。この2つを、最低のアルス・コンビナトリアを使って、「メチエ」を「眼智恵」と当て字したくもなる。高山宏も駄洒落だらけだ。シェイクスピアを「シェイク」「スピア」つまり槍をふる、と解釈してみたりする。槍とは男根のことだ。もっとも、この駄洒落は山田正紀の『天正マクベス』で、蛇足のような結末として使われていたのでおなじみだ。
高山宏はシャーロック・ホームズやルイス・キャロル関係の翻訳も多い。この本でも両者について語っている。推理と言葉遊び、駄洒落、と並べてみると、高山宏のような「美学」あるいは「文学」の領域と、デリダやラカンの領域は遠くないような気がしてきた。デリダなんて僕にとってはそれ自体が難解なダイイング・メッセージみたいなものだ。きっとデリダやラカンの著作が難しいのは、駄洒落だらけで、駄洒落によって展開していく論旨に翻訳がついていけないだけなのではないだろうか。日本人なら、「鳩が何か落としていった」場合、続く返事は「ふーん」以外ない。隣の家に囲いができたら、返事は1つ、「へえ」だ。
熊が出て来たらその反応は「くまった」(困った)しかないし、ふとんがどうなったかというと、説明なしに「ふっとんだ」と即答できる。それに対して「なぜ、ふっとぶのだ」と疑問すら湧かない。でも、これが外国人が翻訳で読んだら、どうか。うまい翻訳ならニュアンスは通るが、直訳なら謎の文章だ。きっと、哲学の本が難しいのは、その論旨が難解なのではなく、翻訳にめぐまれていないだけなのだ。と、自分のザル頭の責任転嫁を試みてみた。
前回に読んだ『表象の芸術工学』に続いて、これも語られたものを文章化したもので、内容的にも重複する部分が多い。でも、僕みたいなザル頭には同じことを手を変え品を変え繰り返してくれないことには、頭に入っていかない。
「アルス・コンビナトリア」(結合術)、マニエリスムで、あっちからこっちから持ってきたものをつなげてみせる。ダイナミック、悪く言えばおおざっぱな論が展開されるパワーはすごい。デビュー当時のボブ・サップを見るかのようだ。
アルス・コンビナトリアの最も低いレベルの結合は、駄洒落だ。この本は講談社選書メチエから出された。「メチエ」とは経験によって身につく技術、道具を駆使して行う仕事を意味している。一方、高山宏はメラヴィリア(驚異)を一貫して説き続ける人である。この2つを、最低のアルス・コンビナトリアを使って、「メチエ」を「眼智恵」と当て字したくもなる。高山宏も駄洒落だらけだ。シェイクスピアを「シェイク」「スピア」つまり槍をふる、と解釈してみたりする。槍とは男根のことだ。もっとも、この駄洒落は山田正紀の『天正マクベス』で、蛇足のような結末として使われていたのでおなじみだ。
高山宏はシャーロック・ホームズやルイス・キャロル関係の翻訳も多い。この本でも両者について語っている。推理と言葉遊び、駄洒落、と並べてみると、高山宏のような「美学」あるいは「文学」の領域と、デリダやラカンの領域は遠くないような気がしてきた。デリダなんて僕にとってはそれ自体が難解なダイイング・メッセージみたいなものだ。きっとデリダやラカンの著作が難しいのは、駄洒落だらけで、駄洒落によって展開していく論旨に翻訳がついていけないだけなのではないだろうか。日本人なら、「鳩が何か落としていった」場合、続く返事は「ふーん」以外ない。隣の家に囲いができたら、返事は1つ、「へえ」だ。
熊が出て来たらその反応は「くまった」(困った)しかないし、ふとんがどうなったかというと、説明なしに「ふっとんだ」と即答できる。それに対して「なぜ、ふっとぶのだ」と疑問すら湧かない。でも、これが外国人が翻訳で読んだら、どうか。うまい翻訳ならニュアンスは通るが、直訳なら謎の文章だ。きっと、哲学の本が難しいのは、その論旨が難解なのではなく、翻訳にめぐまれていないだけなのだ。と、自分のザル頭の責任転嫁を試みてみた。
「おたく」の精神史 一九八〇年代論
2004年7月15日 読書
大塚英志の『「おたく」の精神史 1980年代論』を読んだ。
吾妻ひでおにはじまり、宮崎勤で普及し、エヴァンゲリオンと酒鬼薔薇聖斗で息の根を止められる「おたく」をキーワードに、サブカルチャー80年代論を展開している。
新人類、岡田有希子、ディズニーランド、UWF、ビックリマン、人面犬、と次々出てくる懐かしい出来事を思い出すと、自分が遊んでいた80年代がよみがえってくる。それと同時に、繰り返したくない過去の思い出だな、と思った。80年代なんて、未熟で馬鹿な自分の軌跡でしかないのだ。アルバムを開くような感じで読んでしまった。80年代に対する批評的な言葉もなぜかノスタルジックに思えたのだ。
この本のタイトル「おたく」の精神史は、「おたく」が精神を有していた時代の話、と解釈することもできそうだ。今や「おたく」に精神などないし、必要でもない。
80年代の「おたく」のアイテムはとことんインドアである。コミケなどで外に出ることはあっても、それは内外を反転させて虫干ししているようなもので、コミケに行ってみてもそこに外部などなく、内部がいっぱい集合しているだけに思える。内部といってもそこには精神とか心などなく、空間の歪みみたいなものしかないのだ。歪みは引力となって、多くのグッズをひきつけ、部屋を魔窟にする。
昨日読んだ種村季弘の対談集の中で、池内紀がウィーンではテレビを見る人が少ないと言っている。外で楽しいことがいっぱいあるので、テレビを見る必要がないのだそうだ。たしかカラヤンのコンサートが安い席だと150円くらいで見られるとか。アメリカだと、カリフォルニアに住んでいる人がニューヨークで開催中のミュージカルを見に行くのは一仕事だが、ウィーンだと狭いのでどこでも簡単に見に行けるというのだ。アニメだゲームだ読書だテレビだなどとインドアに淫する「おたく」的生活でなく、外に出ていろいろ楽しいことが体験できるなら、どんなにいいだろう。でも、アウトドアやスポーツのような右翼的な趣味ではなく、外に出ると言っても、コンサ−トとか映画など、あくまでも脳みそを使う文化的快楽を味わいたい。
僕にとって80年代は、まだ「僕以前」である。紀元前をB.C.と言うなら、僕の場合80年代はB.C.Rだ。「B.C.R」はベイシティローラーズではない。「before cosmic rendez-vous」そう。宍戸留美のデビューシングル「コズミック・ランデブー」以前なのである。宍戸留美がデビューしていなかった世界に何か意味や価値があったなんて考えられない。
鉄人28号「不乱拳の弟子たち」を見た。このエピソードは幼いときから大好きだ。しかし、エンディングテーマでチェリッシュ「なのにあなたは京都へゆくの」が使われていたのにはひっくりかえった。以前、デビッド・ボウイがエンディングに使われていて、感動した覚えがあるのだが、あれは感動ではなく、笑うところだったのか?
吾妻ひでおにはじまり、宮崎勤で普及し、エヴァンゲリオンと酒鬼薔薇聖斗で息の根を止められる「おたく」をキーワードに、サブカルチャー80年代論を展開している。
新人類、岡田有希子、ディズニーランド、UWF、ビックリマン、人面犬、と次々出てくる懐かしい出来事を思い出すと、自分が遊んでいた80年代がよみがえってくる。それと同時に、繰り返したくない過去の思い出だな、と思った。80年代なんて、未熟で馬鹿な自分の軌跡でしかないのだ。アルバムを開くような感じで読んでしまった。80年代に対する批評的な言葉もなぜかノスタルジックに思えたのだ。
この本のタイトル「おたく」の精神史は、「おたく」が精神を有していた時代の話、と解釈することもできそうだ。今や「おたく」に精神などないし、必要でもない。
80年代の「おたく」のアイテムはとことんインドアである。コミケなどで外に出ることはあっても、それは内外を反転させて虫干ししているようなもので、コミケに行ってみてもそこに外部などなく、内部がいっぱい集合しているだけに思える。内部といってもそこには精神とか心などなく、空間の歪みみたいなものしかないのだ。歪みは引力となって、多くのグッズをひきつけ、部屋を魔窟にする。
昨日読んだ種村季弘の対談集の中で、池内紀がウィーンではテレビを見る人が少ないと言っている。外で楽しいことがいっぱいあるので、テレビを見る必要がないのだそうだ。たしかカラヤンのコンサートが安い席だと150円くらいで見られるとか。アメリカだと、カリフォルニアに住んでいる人がニューヨークで開催中のミュージカルを見に行くのは一仕事だが、ウィーンだと狭いのでどこでも簡単に見に行けるというのだ。アニメだゲームだ読書だテレビだなどとインドアに淫する「おたく」的生活でなく、外に出ていろいろ楽しいことが体験できるなら、どんなにいいだろう。でも、アウトドアやスポーツのような右翼的な趣味ではなく、外に出ると言っても、コンサ−トとか映画など、あくまでも脳みそを使う文化的快楽を味わいたい。
僕にとって80年代は、まだ「僕以前」である。紀元前をB.C.と言うなら、僕の場合80年代はB.C.Rだ。「B.C.R」はベイシティローラーズではない。「before cosmic rendez-vous」そう。宍戸留美のデビューシングル「コズミック・ランデブー」以前なのである。宍戸留美がデビューしていなかった世界に何か意味や価値があったなんて考えられない。
鉄人28号「不乱拳の弟子たち」を見た。このエピソードは幼いときから大好きだ。しかし、エンディングテーマでチェリッシュ「なのにあなたは京都へゆくの」が使われていたのにはひっくりかえった。以前、デビッド・ボウイがエンディングに使われていて、感動した覚えがあるのだが、あれは感動ではなく、笑うところだったのか?
天使と怪物とノシアルト
2004年7月14日 読書
種村季弘の対談集『天使と怪物』を読んだ。
宙から堕ちてきた天使(合田佐和子);アリスの国へ(高橋康也);笑い猫夢話(瀧口修造);異貌のルネッサンス―博物学の視座から(荒俣宏);隠された宇宙のロゴス―占星術・錬金術・曼荼羅をめぐって(前田常作;矢島文夫);遍在する怪物―怪物論のトポス(谷川渥);異界へのロマン(手塚治虫);永久運動とUFOの夢(河合隼雄);マニエリスムの現在(ルネ・ホッケ);華麗なる没落―ウィーン世紀末の夢と現実(池内紀);映画神話の構造(山口昌男)
と目次を並べると、単なる読者の僕までが博覧強記であるかのような錯覚に陥る。
この本で、澁澤と種村の怪物学の違いがわかった。澁澤の怪物学は「畸形のコレクション」であり、種村のそれは錬金術なども含む造型衝動がみられる、ということだ。(谷川氏談)
また、不思議な映画(怪物?)「ノシアルト」が気になった。この「ノシアルト」は山口昌男との対談中に出てくるもので、欄外註には「不祥」とある。「ノシアルト」?「のし歩く人」のことか?ジョニー・ウォーカー?「ノーズで歩く人」?鼻行類か?
「ノシアルト」が何なのかをさぐるヒントをあげてみると、対談中に何の説明もなくポンと出てくること(つまり、有名なのだ)。さんざん脅かしておいて、処女に正体あばかれて退治されてしまうこと。ノシアルトが処女に退治されるのに対して、ゴーレムは子供に退治される、と対談が続くこと。ドイツ表現主義の映画の話で出て来たこと。
おや、これ、どう考えても「ノスフェラトゥ」なんですが。山口昌男が「ノスフェラトゥ」と言ったのを、テープおこしの際に「ノシアルト」と聞き間違ってしまったのではないか。ただし、この対談中、「ノスフェラトゥ」についても語られており、なぜこのときだけ「ノシアルト」などと間違えたのか、不明である。
しかし、この本、表記については現在使われている言葉に統一したと言いながら「ノスフェラトゥ」のことを、別のページでは「ノスフェラチュ」と書いてあるし、あるページには「エヴァース」なる作家が出てくる。これは文脈から考えて、「エーヴェルス」に違いない。
さて、「ノシアルト」は本当に「ノスフェラトゥ」のことなのか。
後日、調べてみることにするか。
宙から堕ちてきた天使(合田佐和子);アリスの国へ(高橋康也);笑い猫夢話(瀧口修造);異貌のルネッサンス―博物学の視座から(荒俣宏);隠された宇宙のロゴス―占星術・錬金術・曼荼羅をめぐって(前田常作;矢島文夫);遍在する怪物―怪物論のトポス(谷川渥);異界へのロマン(手塚治虫);永久運動とUFOの夢(河合隼雄);マニエリスムの現在(ルネ・ホッケ);華麗なる没落―ウィーン世紀末の夢と現実(池内紀);映画神話の構造(山口昌男)
と目次を並べると、単なる読者の僕までが博覧強記であるかのような錯覚に陥る。
この本で、澁澤と種村の怪物学の違いがわかった。澁澤の怪物学は「畸形のコレクション」であり、種村のそれは錬金術なども含む造型衝動がみられる、ということだ。(谷川氏談)
また、不思議な映画(怪物?)「ノシアルト」が気になった。この「ノシアルト」は山口昌男との対談中に出てくるもので、欄外註には「不祥」とある。「ノシアルト」?「のし歩く人」のことか?ジョニー・ウォーカー?「ノーズで歩く人」?鼻行類か?
「ノシアルト」が何なのかをさぐるヒントをあげてみると、対談中に何の説明もなくポンと出てくること(つまり、有名なのだ)。さんざん脅かしておいて、処女に正体あばかれて退治されてしまうこと。ノシアルトが処女に退治されるのに対して、ゴーレムは子供に退治される、と対談が続くこと。ドイツ表現主義の映画の話で出て来たこと。
おや、これ、どう考えても「ノスフェラトゥ」なんですが。山口昌男が「ノスフェラトゥ」と言ったのを、テープおこしの際に「ノシアルト」と聞き間違ってしまったのではないか。ただし、この対談中、「ノスフェラトゥ」についても語られており、なぜこのときだけ「ノシアルト」などと間違えたのか、不明である。
しかし、この本、表記については現在使われている言葉に統一したと言いながら「ノスフェラトゥ」のことを、別のページでは「ノスフェラチュ」と書いてあるし、あるページには「エヴァース」なる作家が出てくる。これは文脈から考えて、「エーヴェルス」に違いない。
さて、「ノシアルト」は本当に「ノスフェラトゥ」のことなのか。
後日、調べてみることにするか。
山本昌代の『源内先生舟出祝』をやっとのことで読み終えた。難解な文章でもなく、短い作品なのだが、1週間もかけて読んだ。なかなか読み進まなかったのは、作者の強烈な悪意にあてられてしまい、吐き気のような嫌悪感にとらわれてしまったからだ。
この小説の主人公は晩年の平賀源内。山本昌代描く源内は、ひとことで言えば人間の屑である。過去の栄光にすがり、妬みや恨みにとりつかれており、あげくのはてに狂ってしまう、偉くもなんともない、虫けらのような人物である。作中からいくつか抜き出してみよう。
「どうせおれは負け犬だよ」
「ひとつところに留まって事を実らせる、何を為すにも欠くべからざるその力を、彼の畏友(源内)が持たぬのに気づいたのは、しばらく経ってのことだ」
「源内先生のひらひらと落ち着きのない尻の軽さを、良沢師は毛嫌いしていた」
「『何もかもすることはしちまった。時代が変わったんだ。昔はよかったよ』
皆に聞こえろと、大袈裟に溜め息をつく。
『することがないのはおまえだけだ。ほかはみんな忙しいぜ、いつだってな』
職人たちの無言の声は、源内先生には聞こえない」
「義躬公はさぞ讃岐の芋侍(源内)を恨んだろうが、芋の方は何も知らないから泰平である」
「意気がって通人ぶってはいるが、一皮剥けば大野暮の見本たる平賀源内とは何という違いか」
「おまえだって肚の中じゃおれを馬鹿にしてるだろっ。負け犬だと笑ってるだろ」
などなど。歴史上の人物を、取るに足らない小さな人物にひきずりおろす描写で覆い尽くされている。これでは、ワイドショーか女性週刊誌だ。源内はただ単にめめしい奴なのだ。
僕が興味を抱いたのは、なぜ山本昌代は源内を誹謗し、おとしめることに血道をあげているのか、という疑問だった。おそらく、山本昌代は源内のような男が嫌いなのだろう。嫌いな人物を小説に書こうとしたのは何故なのか、疑問だ。自分の嫌いな人物が、たまたま源内のファンだったので、源内をこきおろすことにしたのか?男特有の独身者的天才などというものを認めたくないのか?どちらにしても、人の悪口は読んでいて嫌な気分になる。それとも山本昌代は他人の悪口を聞いたり読んだりするのが好きな、品性下劣な人間なのか?
僕にとっては山本昌代自身が謎だ。著者の写真が掲載されていたので、見ると、山本昌代はいかつい顔でせせら笑っていた。「源内好きな男性のみなさん、ざまあみろ、あんたも同類の屑なのね、お気の毒さま」と言われているような気がした。
一応、源内が晩年に殺人を犯した理由を新説として描いている部分がある。源内はその生涯を世の中のために捧げてきたのに、世の中はそれに報いてくれなかった。じゃあ、逆に世の中に逆らうことをすれば、いいということなのか、と思って、殺人を犯すというのだ。この説に説得力を付与するために、報われない源内を描いたのかもしれない。しかし、この説、浅くて、くだらない。こんなつまらない思い付きのために、本1冊使って醜く描かれた源内としては、たまったもんじゃないだろう。
「爆笑問題のススメ」を録画で見る。ゲストは楳図かずお。作品もパフォーマンスも面白いのに、ふだんは真面目すぎて、面白みに欠ける。楳図かずおも独身者の天才だ。山本昌代が描けばきっとボロクソ。
深夜に放送している「音エモン」は樋井明日香がナビゲーターだが、同じキャレス出身のPARADISE GO!! GO!!の「恋の運動会」がオンエアされる。キャレスはあまりなじみがないだけに、要チェック。
雑誌「PURE2」は表紙&特集が中村有沙。山本昌代の意地の悪い顔を見たあとだと、なおさら可愛く見える。
山本昌代の油っこい悪意にうんざりしたので、口なおしで軽い小説を2冊ほど読む。これらは特に紹介しない。いずれまとめて書くことがあるかも。
この小説の主人公は晩年の平賀源内。山本昌代描く源内は、ひとことで言えば人間の屑である。過去の栄光にすがり、妬みや恨みにとりつかれており、あげくのはてに狂ってしまう、偉くもなんともない、虫けらのような人物である。作中からいくつか抜き出してみよう。
「どうせおれは負け犬だよ」
「ひとつところに留まって事を実らせる、何を為すにも欠くべからざるその力を、彼の畏友(源内)が持たぬのに気づいたのは、しばらく経ってのことだ」
「源内先生のひらひらと落ち着きのない尻の軽さを、良沢師は毛嫌いしていた」
「『何もかもすることはしちまった。時代が変わったんだ。昔はよかったよ』
皆に聞こえろと、大袈裟に溜め息をつく。
『することがないのはおまえだけだ。ほかはみんな忙しいぜ、いつだってな』
職人たちの無言の声は、源内先生には聞こえない」
「義躬公はさぞ讃岐の芋侍(源内)を恨んだろうが、芋の方は何も知らないから泰平である」
「意気がって通人ぶってはいるが、一皮剥けば大野暮の見本たる平賀源内とは何という違いか」
「おまえだって肚の中じゃおれを馬鹿にしてるだろっ。負け犬だと笑ってるだろ」
などなど。歴史上の人物を、取るに足らない小さな人物にひきずりおろす描写で覆い尽くされている。これでは、ワイドショーか女性週刊誌だ。源内はただ単にめめしい奴なのだ。
僕が興味を抱いたのは、なぜ山本昌代は源内を誹謗し、おとしめることに血道をあげているのか、という疑問だった。おそらく、山本昌代は源内のような男が嫌いなのだろう。嫌いな人物を小説に書こうとしたのは何故なのか、疑問だ。自分の嫌いな人物が、たまたま源内のファンだったので、源内をこきおろすことにしたのか?男特有の独身者的天才などというものを認めたくないのか?どちらにしても、人の悪口は読んでいて嫌な気分になる。それとも山本昌代は他人の悪口を聞いたり読んだりするのが好きな、品性下劣な人間なのか?
僕にとっては山本昌代自身が謎だ。著者の写真が掲載されていたので、見ると、山本昌代はいかつい顔でせせら笑っていた。「源内好きな男性のみなさん、ざまあみろ、あんたも同類の屑なのね、お気の毒さま」と言われているような気がした。
一応、源内が晩年に殺人を犯した理由を新説として描いている部分がある。源内はその生涯を世の中のために捧げてきたのに、世の中はそれに報いてくれなかった。じゃあ、逆に世の中に逆らうことをすれば、いいということなのか、と思って、殺人を犯すというのだ。この説に説得力を付与するために、報われない源内を描いたのかもしれない。しかし、この説、浅くて、くだらない。こんなつまらない思い付きのために、本1冊使って醜く描かれた源内としては、たまったもんじゃないだろう。
「爆笑問題のススメ」を録画で見る。ゲストは楳図かずお。作品もパフォーマンスも面白いのに、ふだんは真面目すぎて、面白みに欠ける。楳図かずおも独身者の天才だ。山本昌代が描けばきっとボロクソ。
深夜に放送している「音エモン」は樋井明日香がナビゲーターだが、同じキャレス出身のPARADISE GO!! GO!!の「恋の運動会」がオンエアされる。キャレスはあまりなじみがないだけに、要チェック。
雑誌「PURE2」は表紙&特集が中村有沙。山本昌代の意地の悪い顔を見たあとだと、なおさら可愛く見える。
山本昌代の油っこい悪意にうんざりしたので、口なおしで軽い小説を2冊ほど読む。これらは特に紹介しない。いずれまとめて書くことがあるかも。
白いカラスとかスパイダーマン2とか爆笑八人組とか
2004年7月12日 映画
「白いカラス」を見に行った。アンソニー・ホプキンス主演の映画だ。原作はフィリップ・ロス。言葉狩りで人種差別の烙印を押されて失脚した老学者が、子供を自分の過失で死なせてしまった若い女性と恋をする。ベトナム帰りでPTSDの夫や、スランプで隠居中の小説家など、登場人物たちはみんな何か背負っている。主人公の学者は実は黒人なのだが、肌の色が白いため、白人と偽って教授の地位を得ることができたという秘密をかかえている。若いときに、将来を誓いあった仲の女性を家に招いて家族に紹介したら、家族はみんな黒人、女性は逃げてしまう、という苦い経験などを繰り返して、秘密にするにいたったのだ。つまり、もともと黒人の彼が、人種差別発言などするわけがないのである。しかし、自分が黒人であるという出自を告白できないがために、職を失ってしまうのだ。
以上、忘れないようにあらすじを書いておいた。
人種差別がテーマの1つになっているが、アメリカは今でもそんなことをやっているのか、という感じがした。日本では今どき在日や部落差別なんてしている奴がいれば、少なくとも若い世代では、時代遅れでかっこわるいことになる。社会に差別的な制度が残っていると言うなら、だから若者は反社会的、あるいは非社会的なのだろう。アメリカはまだまだ遅れた国である。
「スパイダーマン2」を見に行った。サム・ライミ監督。今回の敵はドクタ−・オクトパス。スパイダーマンとの「八本足対決」だ。ふだんのスパイダーマンがどんくさくて、恋愛ごときでくよくよ悩むあたり、ヒーローらしからぬところが笑わせる。娯楽映画だから、「みんなにはヒーローが必要だ」という根拠のない言葉で、いったんヒーローをやめようとしたスパイダーマンが復帰するのだが、本当なら、あんな町、核爆発させてしまってもよかったのだ、と思う。
ケーブルテレビで「漫才学校・爆笑八人組」を見た。
秋田実原作で、主な登場人物はミヤコ蝶々、南都雄二、いとし、こいし、秋田Aスケ、Bスケ、ミスワカサ、島ひろしの漫才師たち。舞台は大日本漫才学校、ミヤコ蝶々が校長、小使さんが南都雄二、あとは生徒。前半はひょんなことからギャングをつかまえる、という他愛ない話、後半は定番の小使と校長が役目を交換する話。授業風景ではミヤコ蝶々が「漫才言語学」と題して関東の「バカ」関西の「アホ」のニュアンスの違いを講義するシーンなどあって、面白かった。
丸善で雑誌を何冊か立ち読みし、探していた本も見つけた。いつも行かない書店だと並びも違うので、見過ごしていた本を発見することができる。
コンビニで原田桜怜ちゃんが表紙を飾っている「ヴァッカ!」という雑誌を買った。出版元は「バウハウス」だ。雑誌は下世話なエロ雑誌なのだが、バウハウスが出した雑誌を買った、とだけ言えば、芸術の香りがして面白い。
以上、忘れないようにあらすじを書いておいた。
人種差別がテーマの1つになっているが、アメリカは今でもそんなことをやっているのか、という感じがした。日本では今どき在日や部落差別なんてしている奴がいれば、少なくとも若い世代では、時代遅れでかっこわるいことになる。社会に差別的な制度が残っていると言うなら、だから若者は反社会的、あるいは非社会的なのだろう。アメリカはまだまだ遅れた国である。
「スパイダーマン2」を見に行った。サム・ライミ監督。今回の敵はドクタ−・オクトパス。スパイダーマンとの「八本足対決」だ。ふだんのスパイダーマンがどんくさくて、恋愛ごときでくよくよ悩むあたり、ヒーローらしからぬところが笑わせる。娯楽映画だから、「みんなにはヒーローが必要だ」という根拠のない言葉で、いったんヒーローをやめようとしたスパイダーマンが復帰するのだが、本当なら、あんな町、核爆発させてしまってもよかったのだ、と思う。
ケーブルテレビで「漫才学校・爆笑八人組」を見た。
秋田実原作で、主な登場人物はミヤコ蝶々、南都雄二、いとし、こいし、秋田Aスケ、Bスケ、ミスワカサ、島ひろしの漫才師たち。舞台は大日本漫才学校、ミヤコ蝶々が校長、小使さんが南都雄二、あとは生徒。前半はひょんなことからギャングをつかまえる、という他愛ない話、後半は定番の小使と校長が役目を交換する話。授業風景ではミヤコ蝶々が「漫才言語学」と題して関東の「バカ」関西の「アホ」のニュアンスの違いを講義するシーンなどあって、面白かった。
丸善で雑誌を何冊か立ち読みし、探していた本も見つけた。いつも行かない書店だと並びも違うので、見過ごしていた本を発見することができる。
コンビニで原田桜怜ちゃんが表紙を飾っている「ヴァッカ!」という雑誌を買った。出版元は「バウハウス」だ。雑誌は下世話なエロ雑誌なのだが、バウハウスが出した雑誌を買った、とだけ言えば、芸術の香りがして面白い。
アイスクリーム博覧会とげんしけん
2004年7月11日 読書
あることに気付いた。風邪が悪化している。
特に鼻と腹のひどさったらない。
そんなわけで、何も手につかない状態だ。
今日は選挙の日なので、投票行って外食するのだ。と、言ってもおなかの調子が最悪だ。食欲も湧かないので、天保山で開催中の「アイスクリーム博覧会」に行った。夏いっぱいやっているのかと思ったら、今日が最終日だった。ナンジャタウンくらいの規模ではなく、ドンドルマとブルーシールの店が出ているだけで、あとは日本全国の変わり種のアイスクリームを販売しているだけだった。変わり種のアイスクリームとしては、「焼きなす」「みょうが」「レタスポテト」「わさび」「手羽先」「熊笹」「焼酎」「にんにく」「ビール」「ゆうがお」、海遊館だけあってアイスクリーム水族館と銘打って「かに」「さんま」「あわび」「フカヒレ」「たこ」「うに」「イカスミ」「こんぶ」「うなぎ」「しろえび」のアイスクリームが集められていた。個人的には富山県氷見市の「チューリップ入りジェラート」が気になった。この氷見市は藤子不二雄Aによるモニュメントで有名なので、あわせていつか体験してみたい。
僕は結局ブルーシールの「ビッグディップアドベンチャー」というアイスクリームを食べた。ストロベリー、ミルクチョコチップ、ココナッツ、シークワーサー、さとうきび、紅いものアイスとマンゴーソフトの7種類を盛り合わせたところにコーンフレークスや生クリーム、バナナ、チェリー、桃、ちんすこうをぶちこんだものだ。1500円。
ドンドルマはアイスクリームのパフォーマンスだけ見て満足。なぜかドンドルマの方が長蛇の列だった。列に並んで何かを買ったり食べたりするのは嫌いなのだ。
おなかの具合はさらに悪化。体が寒くなってきた。
選挙速報を見るかぎり、いつものように、僕の投票した人物は落選。
今日読んで面白かった漫画『げんしけん』木尾士目。雑誌で読んだときはなんとも思わなかったが、3巻までコミックスで読んだところ、えらく面白かった。この秋からアニメでテレビ放送されるらしいし、桃井はるこによるラジオ番組もラジオ大阪で先週からはじまったところだ。ちっ、聞き逃した!
内容はおたくの生態を描いたもので、コミケだのゲームだのコスプレだの同人誌だのガンダムだの、日本橋に住む僕にはなじみの深いものばかり。僕自身はオタクではないので、十全に「げんしけん」の世界を味わえていないところが残念だ。
ところで、家のすぐ近くに「ガンダムス」が移転リニューアルした。ガンダムには何の思い入れもないが、もう何回も足を運んでいる。
あと、藤本美貴も愛読しているという宮坂香帆の『彼 ファーストラブ』を6巻まで読んだ。恋だの愛だのオトコだのオンナだのセックスだのといったことで青春を浪費する少年少女が描かれていて、目が離せない。イケメンだが誠実な男(ありえない)と、ひっこみじあんで可愛い女(ありがち)が、くだらぬことでうじうじしたり、やきもちやいたり、そんなことばかりして無駄な時間を費やすある意味贅沢なストーリーだ。ドラマを見たときのイライラに似たものを感じ、「そんなことをいちいち気に病む女なんかやめてしまえ!」「言いたいことも言えない奴に生きている資格なんかない!」とつっこみまくってしまう。ただ、この漫画のいいところは、男女に襲いかかるハードルがどれも低いハードルで、文学的深みに達するまでもなく解決してしまうことだ。
体調を早く回復しないと、読んでいる本がいつまでたっても読み終わらない。
特に鼻と腹のひどさったらない。
そんなわけで、何も手につかない状態だ。
今日は選挙の日なので、投票行って外食するのだ。と、言ってもおなかの調子が最悪だ。食欲も湧かないので、天保山で開催中の「アイスクリーム博覧会」に行った。夏いっぱいやっているのかと思ったら、今日が最終日だった。ナンジャタウンくらいの規模ではなく、ドンドルマとブルーシールの店が出ているだけで、あとは日本全国の変わり種のアイスクリームを販売しているだけだった。変わり種のアイスクリームとしては、「焼きなす」「みょうが」「レタスポテト」「わさび」「手羽先」「熊笹」「焼酎」「にんにく」「ビール」「ゆうがお」、海遊館だけあってアイスクリーム水族館と銘打って「かに」「さんま」「あわび」「フカヒレ」「たこ」「うに」「イカスミ」「こんぶ」「うなぎ」「しろえび」のアイスクリームが集められていた。個人的には富山県氷見市の「チューリップ入りジェラート」が気になった。この氷見市は藤子不二雄Aによるモニュメントで有名なので、あわせていつか体験してみたい。
僕は結局ブルーシールの「ビッグディップアドベンチャー」というアイスクリームを食べた。ストロベリー、ミルクチョコチップ、ココナッツ、シークワーサー、さとうきび、紅いものアイスとマンゴーソフトの7種類を盛り合わせたところにコーンフレークスや生クリーム、バナナ、チェリー、桃、ちんすこうをぶちこんだものだ。1500円。
ドンドルマはアイスクリームのパフォーマンスだけ見て満足。なぜかドンドルマの方が長蛇の列だった。列に並んで何かを買ったり食べたりするのは嫌いなのだ。
おなかの具合はさらに悪化。体が寒くなってきた。
選挙速報を見るかぎり、いつものように、僕の投票した人物は落選。
今日読んで面白かった漫画『げんしけん』木尾士目。雑誌で読んだときはなんとも思わなかったが、3巻までコミックスで読んだところ、えらく面白かった。この秋からアニメでテレビ放送されるらしいし、桃井はるこによるラジオ番組もラジオ大阪で先週からはじまったところだ。ちっ、聞き逃した!
内容はおたくの生態を描いたもので、コミケだのゲームだのコスプレだの同人誌だのガンダムだの、日本橋に住む僕にはなじみの深いものばかり。僕自身はオタクではないので、十全に「げんしけん」の世界を味わえていないところが残念だ。
ところで、家のすぐ近くに「ガンダムス」が移転リニューアルした。ガンダムには何の思い入れもないが、もう何回も足を運んでいる。
あと、藤本美貴も愛読しているという宮坂香帆の『彼 ファーストラブ』を6巻まで読んだ。恋だの愛だのオトコだのオンナだのセックスだのといったことで青春を浪費する少年少女が描かれていて、目が離せない。イケメンだが誠実な男(ありえない)と、ひっこみじあんで可愛い女(ありがち)が、くだらぬことでうじうじしたり、やきもちやいたり、そんなことばかりして無駄な時間を費やすある意味贅沢なストーリーだ。ドラマを見たときのイライラに似たものを感じ、「そんなことをいちいち気に病む女なんかやめてしまえ!」「言いたいことも言えない奴に生きている資格なんかない!」とつっこみまくってしまう。ただ、この漫画のいいところは、男女に襲いかかるハードルがどれも低いハードルで、文学的深みに達するまでもなく解決してしまうことだ。
体調を早く回復しないと、読んでいる本がいつまでたっても読み終わらない。
カモロック明けで帰宅、メールチェックやインターネットで調べものをしているうちに、いつのまにか眠っていた。はっと目覚めると、パソコンには「ミューズぱふぇ」のトップページが。目覚めた理由は、こむらがえりだった。右足のふくらはぎに激痛が走った。応急処置で激痛はすぐにおさまったが、ふくらはぎの違和感はずっと続いた。ビタミンEもマグネシウムも持ち合わせがないので、再発する可能性がある。入浴と湿布でなんとか緩和しようとしたが、足はじゃっかんひきずり気味。こんな時は外出するに限る!というわけで、午後2時から旭屋書店で開かれた野ばら君のサイン会をのぞきに行った。野ばら君のサイン会は2時間3時間当たり前だ。僕までサイン会に並んで彼を疲れさせることはあるまい、と思い、本は購入せず、ただ見守った。何時間も並ぶのが嫌なのと、お金がなかったから、という理由もある。でも、いずれ本は購入して読むのだ。
午後6時頃にサイン会は終了した。4時間の長丁場、大仕事だ。野ばら君は最後に薔薇の花投げ捨て、これで終わりにしようぜ、という感じ。
あややの「愛情イッポン」見ていると、おはキッズのユナがけっこういい役をもらっていた。チョイ役の登場人物が豪華な感じ。主要な役で、安楽椅子探偵でおなじみのあの人も。ストーリーは、まだはじまったばかりでなんとも言えないが、冒頭、あややが自分の思い通りにいかなくてイライラするところでは、「僕ならあんな親殺して、家に火をつけるな」と思った。ドラマの嫌なところは、ここだ。ドラマって、最初の方で主人公が言われなき仕打ちを受けたり、トラブルに巻き込まれたりすることがよくある。ドラマを見なれた人は、それを客観的に面白く見るのだろうが、僕は「殺せ」「殴れ」「死ね」「壊せ」と激昂して、テレビを正拳突きしそうになる。はなはだ精神衛生上よろしくないのである。
その後、オールナイトで「鉄西区」を見に行く予定だったのだが、外は激しい雷雨だ。
「2500円もする」「風邪をひいている」「足をひきずって行かねばならない」「睡眠時間がまだ足りない」「エンタの神様でギター侍を見なくちゃ」「オンエアバトル見なくちゃ」などといろいろ言い訳を足して、家にいた。でも、そんなのはまさしく単なる言い訳でしかない。僕は「鉄西区」を見に行くべきだった。朝までの時間を「鉄西区」見る以上の何かで埋めたかというと、休んでいたり、テレビ見たり、インターネットしたり、読書したりしただけだ。またどこかで上映される機会を待とう。これもまたリベンジの対象だ。
無駄な時間といえば、僕は高校3年までまったく無駄な時間を過ごしてきたとしか思えない。あの18年間をなかったことにして、今、その18年を自由に使えたら、どんなにいいだろう。と、思うほどのたいした人生ではないのだが。
午後6時頃にサイン会は終了した。4時間の長丁場、大仕事だ。野ばら君は最後に薔薇の花投げ捨て、これで終わりにしようぜ、という感じ。
あややの「愛情イッポン」見ていると、おはキッズのユナがけっこういい役をもらっていた。チョイ役の登場人物が豪華な感じ。主要な役で、安楽椅子探偵でおなじみのあの人も。ストーリーは、まだはじまったばかりでなんとも言えないが、冒頭、あややが自分の思い通りにいかなくてイライラするところでは、「僕ならあんな親殺して、家に火をつけるな」と思った。ドラマの嫌なところは、ここだ。ドラマって、最初の方で主人公が言われなき仕打ちを受けたり、トラブルに巻き込まれたりすることがよくある。ドラマを見なれた人は、それを客観的に面白く見るのだろうが、僕は「殺せ」「殴れ」「死ね」「壊せ」と激昂して、テレビを正拳突きしそうになる。はなはだ精神衛生上よろしくないのである。
その後、オールナイトで「鉄西区」を見に行く予定だったのだが、外は激しい雷雨だ。
「2500円もする」「風邪をひいている」「足をひきずって行かねばならない」「睡眠時間がまだ足りない」「エンタの神様でギター侍を見なくちゃ」「オンエアバトル見なくちゃ」などといろいろ言い訳を足して、家にいた。でも、そんなのはまさしく単なる言い訳でしかない。僕は「鉄西区」を見に行くべきだった。朝までの時間を「鉄西区」見る以上の何かで埋めたかというと、休んでいたり、テレビ見たり、インターネットしたり、読書したりしただけだ。またどこかで上映される機会を待とう。これもまたリベンジの対象だ。
無駄な時間といえば、僕は高校3年までまったく無駄な時間を過ごしてきたとしか思えない。あの18年間をなかったことにして、今、その18年を自由に使えたら、どんなにいいだろう。と、思うほどのたいした人生ではないのだが。
京都メトロで開催された「カモロック2004」の総合司会を佐伯誠之助くんと一緒にした。
午後7時から午後7時まで、12時間の長丁場だ。
出演は順番に、
「あふりらんぽ」ドンパッチを含んだ口にジョルトコーラ!
「ANATAKIKOU」本イベント異色のまともロック。からまった血液がほどけた。
「BEST MUSIC」関西からは絶対に生まれないサービス精神皆無のぐだぐだユニット。
「BISCO」継続は力なんだなあ。
「オバケジャー」生霊の盆踊り。
「矢追純一」秘蔵UFO映像と人生訓。
「geronimo blood」暑くないダブ。
「ヒゲの未亡人」ワールド。
「ウィスット・ポンニミット」思春期アニメと室内楽。
「カリフォルニア・ドールズ」天然知能犯。
「にせんねんもんだい」連打連打連打!
「オシリペンペンズ」これで、これでごかんべんをー!
以上、あふりらんぽやにせんねんもんだいやオシリペンペンズといった、ビンビン響いてくるものすごいライブと、BEST MUSICのような精神構造の明るい闇が10時間のイベントにぎっしり詰まっていて、充実感を味わった。
なかでも矢追純一のトークは入場料分モトをとるだけの価値があった。
UFOの秘蔵映像上映時に、テレビ番組で矢追氏自らがコメントをする映像などをまぜるあたり、老人特有の爆発的な面白さを感じた。老人と書いたが、精神の若いことと言ったらない。この十年で矢追塾に参加した300人は全員エスパーになったそうである。簡単な病気なら治してしまうそうだ。矢追氏自身も人を幸せにするパワーがあると言い切る。
それは本当かもしれない、と信じてやることにした。
夜勤明けで体調最悪のまま京都にきて、休む間もなく周囲が煙草を吸いまくる環境に10時間以上いたのだ。死んでもおかしくない。少なくとも、眠くなりはするだろう。ところが、全然眠くならなかったのだ。矢追氏のパワーをもらったのか。面白いイベントに参加できただけでもうれしいのに、ギャラまでもらった。帰りの電車もウキウキと楽しかった。
矢追純一の幸せビームでハッピーになったと考えておこう。
しかしながら、一番ツボだったのは、矢追純一にもUFOにも興味にない女性3人くらいが、矢追氏が話している最中もえんえんと大声で自分たちのオトコの話で盛り上がっていたことだ。
彼女たちはスクリーンに空飛ぶ円盤の映像が写って、みんなが「おーっ」と言っていても、そんなものには目もくれず「大人計画」や「アブリル・ラヴィーン」「鳥肌実」のような話題を大声で続けることをやめなかった。その話題ももちろんオトコがらみだ。UFOには僕も特に興味があったわけではないが、知的好奇心というものがある。周囲の迷惑も考えずに大声でオトコの話を続けたあげく、「この人(矢追氏)、長くない?」くらいしか矢追氏についてコメントしない反知性の精神を目のあたりにして、とんでもなくおぞましいものを見た気がした。こういう人間が1人でもいるかぎり、人類が滅亡するのもいいかな、と思う。
午後7時から午後7時まで、12時間の長丁場だ。
出演は順番に、
「あふりらんぽ」ドンパッチを含んだ口にジョルトコーラ!
「ANATAKIKOU」本イベント異色のまともロック。からまった血液がほどけた。
「BEST MUSIC」関西からは絶対に生まれないサービス精神皆無のぐだぐだユニット。
「BISCO」継続は力なんだなあ。
「オバケジャー」生霊の盆踊り。
「矢追純一」秘蔵UFO映像と人生訓。
「geronimo blood」暑くないダブ。
「ヒゲの未亡人」ワールド。
「ウィスット・ポンニミット」思春期アニメと室内楽。
「カリフォルニア・ドールズ」天然知能犯。
「にせんねんもんだい」連打連打連打!
「オシリペンペンズ」これで、これでごかんべんをー!
以上、あふりらんぽやにせんねんもんだいやオシリペンペンズといった、ビンビン響いてくるものすごいライブと、BEST MUSICのような精神構造の明るい闇が10時間のイベントにぎっしり詰まっていて、充実感を味わった。
なかでも矢追純一のトークは入場料分モトをとるだけの価値があった。
UFOの秘蔵映像上映時に、テレビ番組で矢追氏自らがコメントをする映像などをまぜるあたり、老人特有の爆発的な面白さを感じた。老人と書いたが、精神の若いことと言ったらない。この十年で矢追塾に参加した300人は全員エスパーになったそうである。簡単な病気なら治してしまうそうだ。矢追氏自身も人を幸せにするパワーがあると言い切る。
それは本当かもしれない、と信じてやることにした。
夜勤明けで体調最悪のまま京都にきて、休む間もなく周囲が煙草を吸いまくる環境に10時間以上いたのだ。死んでもおかしくない。少なくとも、眠くなりはするだろう。ところが、全然眠くならなかったのだ。矢追氏のパワーをもらったのか。面白いイベントに参加できただけでもうれしいのに、ギャラまでもらった。帰りの電車もウキウキと楽しかった。
矢追純一の幸せビームでハッピーになったと考えておこう。
しかしながら、一番ツボだったのは、矢追純一にもUFOにも興味にない女性3人くらいが、矢追氏が話している最中もえんえんと大声で自分たちのオトコの話で盛り上がっていたことだ。
彼女たちはスクリーンに空飛ぶ円盤の映像が写って、みんなが「おーっ」と言っていても、そんなものには目もくれず「大人計画」や「アブリル・ラヴィーン」「鳥肌実」のような話題を大声で続けることをやめなかった。その話題ももちろんオトコがらみだ。UFOには僕も特に興味があったわけではないが、知的好奇心というものがある。周囲の迷惑も考えずに大声でオトコの話を続けたあげく、「この人(矢追氏)、長くない?」くらいしか矢追氏についてコメントしない反知性の精神を目のあたりにして、とんでもなくおぞましいものを見た気がした。こういう人間が1人でもいるかぎり、人類が滅亡するのもいいかな、と思う。
ホルスト・ヤンセンの『リッツェ』を読んだ。
絵画と小説ともにヤンセン自身の作によるポルノグラフィ。
ヤンセンの描く、器官を皮袋に入れただけみたいな肉体には官能を覚えないが、赤裸々でリアルだ。エゴン・シーレやクリムトにも通じるか。でも僕の目には温泉の盜撮みたいに見える。アマチュアの裸体だ。
そして、その小説たるや、描写の魔にとりつかれたかのようなしつような描写がえんえんと続き、会話はほとんど交わされない。
しかし、セックスは描写が命なのかもしれない。
絵で見るかぎり芸術的ではあっても官能的ではない肉体が、文章では俄然輝きを発しだす。
小説の内容は、閉ざされた場所で期間限定での乱交やセックス遊戯、実験の数々を並べるだけという、まあ、ありがちな話で、絵画に描かれる体位もバリエーションに富んでいない。
それなのに、この物語がじゅうぶんエロチックなのは、描写の魔がなせるわざなのだ。
と、まとまりのない文章を書いてしまうほどに、体調はあいかわらず、不調。絶食をすればなんとかなるかと思っているが、それ以前に食欲がない。
絵画と小説ともにヤンセン自身の作によるポルノグラフィ。
ヤンセンの描く、器官を皮袋に入れただけみたいな肉体には官能を覚えないが、赤裸々でリアルだ。エゴン・シーレやクリムトにも通じるか。でも僕の目には温泉の盜撮みたいに見える。アマチュアの裸体だ。
そして、その小説たるや、描写の魔にとりつかれたかのようなしつような描写がえんえんと続き、会話はほとんど交わされない。
しかし、セックスは描写が命なのかもしれない。
絵で見るかぎり芸術的ではあっても官能的ではない肉体が、文章では俄然輝きを発しだす。
小説の内容は、閉ざされた場所で期間限定での乱交やセックス遊戯、実験の数々を並べるだけという、まあ、ありがちな話で、絵画に描かれる体位もバリエーションに富んでいない。
それなのに、この物語がじゅうぶんエロチックなのは、描写の魔がなせるわざなのだ。
と、まとまりのない文章を書いてしまうほどに、体調はあいかわらず、不調。絶食をすればなんとかなるかと思っているが、それ以前に食欲がない。
表象の芸術工学、人狼
2004年7月7日 読書
病状は悪化。のどがはれてきたし、下痢はピーク。
暑さに負けてしまい、仕事の行き帰り以外に外に出ることはなかった。安静になんかしていたら、治るものも治らない。
今日読んだ本は高山宏著の『表象の芸術工学』だ。2000年度神戸芸術工科大学での講義をまとめたものだ。話しはじめたら3時間4時間当たり前、レジュメは膨大なビジュアル資料、内容は美術、文学、歴史、心理学、オカルト等々、縦横無尽に語る騙る。
ほんの4年前のことだ。神戸に聞きに行きたかった。アンテナはちゃんとはっておかないと、逃した魚は大きい。この本は講義の1割にも満たない内容なのだろうが、じゅうぶんにビジュアルも多く、闊達な語り口も堪能できる。読みたい本も一気に増えた。
かなり前に録画していた「人狼」を見た。押井守は好きで必ず見るはずなので、あえて後回しにしてしまうことが多い。「イノセンス」も見逃した。まあ、「イノセンス」は映画代がなかったから仕方がないのだが。
昭和のノスタルジックな風景の中で描かれるテロリストと官憲の虚々実々の恋愛。モチーフに選ばれたのは「赤ずきん」の物語だ。
この映画で最も重要なシーンは、うれしそうに風船を持って走っている子供が転んで、風船を空にとばしてしまうところだ。場所はアドバルーンがいくつも上がっている屋上。
重要だという1つの理由は、つながれて自由にならないアドバルーンと、自由に空に向かう風船の対比が、主人公たちの境遇をあらわしているからだ。風船で弱さもあらわしている。くさい演出だ。いや、くさいのは僕の解釈か?
しかし、それよりも重要な理由は、次の通り。
子供が風船を持って喜んで走っていたら、100%、風船を空に飛ばしてしまうものだ。これを紋切り型という。この象徴的なシーンで、この映画は何か新しい物語なのではなく、既にどこかで見た過去の映画や小説等のコラージュであることを宣言したのだ。登場人物のせりふやら物語の展開も、決まり文句やありがちな展開ばかりだし、記憶を探れば絶対に脳みその中にあるものばかりなのである。そう考えれば、なぜノスタルジックな風景を舞台設定として選んだのかもわかる。大甘のメロドラマ宣言なのだ。
なぜ主人公は少女テロリストを撃たずに自爆を許したのか、他の人物をなぜ平気で殺すことができるのか、という問題提起も、誰が敵なのかという当たり前の判断なので、誰にでもわかり深みがない。それがまさに作品の狙いと見た。
将棋の棋聖戦、佐藤棋聖が森内挑戦者を3タテ。森内時代は簡単にはやってこない。
K1は日本人びいきの判定に、視聴者全員があぜんとしたのではなかろうか。
暑さに負けてしまい、仕事の行き帰り以外に外に出ることはなかった。安静になんかしていたら、治るものも治らない。
今日読んだ本は高山宏著の『表象の芸術工学』だ。2000年度神戸芸術工科大学での講義をまとめたものだ。話しはじめたら3時間4時間当たり前、レジュメは膨大なビジュアル資料、内容は美術、文学、歴史、心理学、オカルト等々、縦横無尽に語る騙る。
ほんの4年前のことだ。神戸に聞きに行きたかった。アンテナはちゃんとはっておかないと、逃した魚は大きい。この本は講義の1割にも満たない内容なのだろうが、じゅうぶんにビジュアルも多く、闊達な語り口も堪能できる。読みたい本も一気に増えた。
かなり前に録画していた「人狼」を見た。押井守は好きで必ず見るはずなので、あえて後回しにしてしまうことが多い。「イノセンス」も見逃した。まあ、「イノセンス」は映画代がなかったから仕方がないのだが。
昭和のノスタルジックな風景の中で描かれるテロリストと官憲の虚々実々の恋愛。モチーフに選ばれたのは「赤ずきん」の物語だ。
この映画で最も重要なシーンは、うれしそうに風船を持って走っている子供が転んで、風船を空にとばしてしまうところだ。場所はアドバルーンがいくつも上がっている屋上。
重要だという1つの理由は、つながれて自由にならないアドバルーンと、自由に空に向かう風船の対比が、主人公たちの境遇をあらわしているからだ。風船で弱さもあらわしている。くさい演出だ。いや、くさいのは僕の解釈か?
しかし、それよりも重要な理由は、次の通り。
子供が風船を持って喜んで走っていたら、100%、風船を空に飛ばしてしまうものだ。これを紋切り型という。この象徴的なシーンで、この映画は何か新しい物語なのではなく、既にどこかで見た過去の映画や小説等のコラージュであることを宣言したのだ。登場人物のせりふやら物語の展開も、決まり文句やありがちな展開ばかりだし、記憶を探れば絶対に脳みその中にあるものばかりなのである。そう考えれば、なぜノスタルジックな風景を舞台設定として選んだのかもわかる。大甘のメロドラマ宣言なのだ。
なぜ主人公は少女テロリストを撃たずに自爆を許したのか、他の人物をなぜ平気で殺すことができるのか、という問題提起も、誰が敵なのかという当たり前の判断なので、誰にでもわかり深みがない。それがまさに作品の狙いと見た。
将棋の棋聖戦、佐藤棋聖が森内挑戦者を3タテ。森内時代は簡単にはやってこない。
K1は日本人びいきの判定に、視聴者全員があぜんとしたのではなかろうか。
風邪をひいたようだ。
鼻がぐずぐずし、頭が重く、おなかをこわし、食欲もなく、全身が痛く、だるくて眠い。
集中して何もできないどころか、起きていることすら難しい。死にかけだ。
そんなわけで、今日は本1冊読んだだけ。熱にうかされているので、まとまりのない妄文になりそうで嫌だが、忘れないうちに書いておこう。
野坂昭如の『男の狂化書 精神強壮の媚薬』を読んだ。1965年頃の世相風俗を窺い知るにぴったりの雑文集だ。今やなつかしい「BG」「トルコ」などの言葉も使われているし、固有名詞でも木島規夫や竹越ひろ子など、約40年前の旬がわかる。
本の内容は百科全書的カタログになっていて、たとえば、「これをバカという」の項では、女のバカとして、道具バカ、トイレバカ、教養バカ、医学バカ、集団バカ、妊娠バカ、無自覚バカを解説し、男のバカとして、チャックバカ、バツグンバカ、一点バカ、美食バカ、病バカ、熱と意気バカ、しつけバカを分類、近頃のバカとして、ゲストバカ、トルコバカ、タッチバカ、アンチゴルフバカ、食通バカ、露悪バカをあげている。その他、いろんなアレルギーとか、女性の7つの大罪、男性の7つの美徳、宇宙人から見た女性の生態等、網羅している。シチュエーション決めて、そこから面白いパターンをいっぱい提起するこの手法、どこかでおなじみだと思ったら、ゲバゲバ90分とかドリフ大爆笑だった。
この本はプレイブックスの1冊として刊行されたもので、同じシリーズで野坂昭如の書いたものが『弱者の悪知恵』『立ち読み厳禁の書』など出ており、入手できたら読んでみたい。
なお、この本は一応野坂昭如著になっているが、前書きにも書いてあるように、「ぼくとぼくの友人が2年間にわたって書きつづってきた」ものだ。どれだけの分量が野坂執筆なのかはわからない。ついつい裏を読んで、「野坂本人は名前を貸しているだけで、実際には書いていないんじゃないか」と疑いがちだが、そんな裏読みは人間をセコクする。気をつけよう。
野坂昭如に関しては、あえて「リターンズ」とか銘打っているシリーズがちょっと前に出ていたが、とても違和感があった。
野坂昭如は別に再発見するようなものではなく、普通にずっと現役だったはずだからだ。
鼻がぐずぐずし、頭が重く、おなかをこわし、食欲もなく、全身が痛く、だるくて眠い。
集中して何もできないどころか、起きていることすら難しい。死にかけだ。
そんなわけで、今日は本1冊読んだだけ。熱にうかされているので、まとまりのない妄文になりそうで嫌だが、忘れないうちに書いておこう。
野坂昭如の『男の狂化書 精神強壮の媚薬』を読んだ。1965年頃の世相風俗を窺い知るにぴったりの雑文集だ。今やなつかしい「BG」「トルコ」などの言葉も使われているし、固有名詞でも木島規夫や竹越ひろ子など、約40年前の旬がわかる。
本の内容は百科全書的カタログになっていて、たとえば、「これをバカという」の項では、女のバカとして、道具バカ、トイレバカ、教養バカ、医学バカ、集団バカ、妊娠バカ、無自覚バカを解説し、男のバカとして、チャックバカ、バツグンバカ、一点バカ、美食バカ、病バカ、熱と意気バカ、しつけバカを分類、近頃のバカとして、ゲストバカ、トルコバカ、タッチバカ、アンチゴルフバカ、食通バカ、露悪バカをあげている。その他、いろんなアレルギーとか、女性の7つの大罪、男性の7つの美徳、宇宙人から見た女性の生態等、網羅している。シチュエーション決めて、そこから面白いパターンをいっぱい提起するこの手法、どこかでおなじみだと思ったら、ゲバゲバ90分とかドリフ大爆笑だった。
この本はプレイブックスの1冊として刊行されたもので、同じシリーズで野坂昭如の書いたものが『弱者の悪知恵』『立ち読み厳禁の書』など出ており、入手できたら読んでみたい。
なお、この本は一応野坂昭如著になっているが、前書きにも書いてあるように、「ぼくとぼくの友人が2年間にわたって書きつづってきた」ものだ。どれだけの分量が野坂執筆なのかはわからない。ついつい裏を読んで、「野坂本人は名前を貸しているだけで、実際には書いていないんじゃないか」と疑いがちだが、そんな裏読みは人間をセコクする。気をつけよう。
野坂昭如に関しては、あえて「リターンズ」とか銘打っているシリーズがちょっと前に出ていたが、とても違和感があった。
野坂昭如は別に再発見するようなものではなく、普通にずっと現役だったはずだからだ。
チョムスキー、王様の漢方そして真夏の地球
2004年7月5日 映画
ジェレミー・フォックスの『チョムスキーとグローバリゼーション』を読んだ。
グローバリゼーション経済が裕福な層の利益を拡大し、貧困な層はますます抜けだせなくなっている現実をもとに、チョムスキーの主張を解説している。
チョムスキーの仕事はこの本でも言うように、「力の倫理」を解明することにあるのだろう。チョムスキーはこんなひどい世界に対して楽観も悲観もしない。ただ、そこに倒すべき敵があるとき、闘い続けるだけなのだ。簡単に結論を出してしまうような愚だけは演ずるまいと思った。また、チョムスキーは何も布教しない。各人が考えるための手助けをするだけだ。「運動」のリーダーとしてかつぎあげられることほどチョムスキーを誤解した行動はないだろう。「チョムスキーが言ってたから」と言う理由で意見を変えるような輩は「ワイドショーで南美希子が言ってたから」という理由で意見を持つ人間と何も変わらない。誰が何を言ったかは、参考でしかない。自分で考えよう。
ケーブルテレビで「王様の漢方」を見た。中国現代アートのニュウ・ポが監督、美術、原作。そして、共同脚本とプロデュースが「死霊の盆踊り」の江戸木純。変な取り合わせだが、映画の内容は現代人の癒しをテーマにしていて、ゲテモノではない。蠍やガマ、蛇の料理が山ほど出てくるシーンはあるが、中国の薬膳ならありそうだし、針1本刺して劇的に病気が治るシーンはあるが、描写はサラッとしている。筒井康隆やジョジョの奇妙な冒険のような極端な面白さはない。そんな映画ではないのだ。そんな映画を撮ってほしかった。
(こまかな備忘録)
録画しておいた「金色のガッシュベル」、レイラの声が宍戸留美ちゃん。抑えた感じがピッタリだ。留美ちゃんは本当に声優さんとして実力をつけていて、感心する。
ミスヤングマガジンに原田桜怜ちゃんが選ばれた。今後の活躍に期待。
ケーブルテレビでパンクラスの6月22日後楽園大会を見た。近藤強い。シウバに勝ちそうだ。
テレビで村上修監督の「真夏の地球」深津絵里が見たくて見たのだが、蛭子能収や荒俣宏、川合俊一もチョイ役で出ていた。さ来週は「ナマタマゴ」の放送らしい。チェックし忘れないように。
7月はスパワールドが千円キャンペーンやっているので、1回くらいは足を運びたい。そのときに使用するためのグッズを100円で買った。「ビゲンヘアカラー」と書いてある素敵なビーチボールだ。
ああ、とりとめがない。
グローバリゼーション経済が裕福な層の利益を拡大し、貧困な層はますます抜けだせなくなっている現実をもとに、チョムスキーの主張を解説している。
チョムスキーの仕事はこの本でも言うように、「力の倫理」を解明することにあるのだろう。チョムスキーはこんなひどい世界に対して楽観も悲観もしない。ただ、そこに倒すべき敵があるとき、闘い続けるだけなのだ。簡単に結論を出してしまうような愚だけは演ずるまいと思った。また、チョムスキーは何も布教しない。各人が考えるための手助けをするだけだ。「運動」のリーダーとしてかつぎあげられることほどチョムスキーを誤解した行動はないだろう。「チョムスキーが言ってたから」と言う理由で意見を変えるような輩は「ワイドショーで南美希子が言ってたから」という理由で意見を持つ人間と何も変わらない。誰が何を言ったかは、参考でしかない。自分で考えよう。
ケーブルテレビで「王様の漢方」を見た。中国現代アートのニュウ・ポが監督、美術、原作。そして、共同脚本とプロデュースが「死霊の盆踊り」の江戸木純。変な取り合わせだが、映画の内容は現代人の癒しをテーマにしていて、ゲテモノではない。蠍やガマ、蛇の料理が山ほど出てくるシーンはあるが、中国の薬膳ならありそうだし、針1本刺して劇的に病気が治るシーンはあるが、描写はサラッとしている。筒井康隆やジョジョの奇妙な冒険のような極端な面白さはない。そんな映画ではないのだ。そんな映画を撮ってほしかった。
(こまかな備忘録)
録画しておいた「金色のガッシュベル」、レイラの声が宍戸留美ちゃん。抑えた感じがピッタリだ。留美ちゃんは本当に声優さんとして実力をつけていて、感心する。
ミスヤングマガジンに原田桜怜ちゃんが選ばれた。今後の活躍に期待。
ケーブルテレビでパンクラスの6月22日後楽園大会を見た。近藤強い。シウバに勝ちそうだ。
テレビで村上修監督の「真夏の地球」深津絵里が見たくて見たのだが、蛭子能収や荒俣宏、川合俊一もチョイ役で出ていた。さ来週は「ナマタマゴ」の放送らしい。チェックし忘れないように。
7月はスパワールドが千円キャンペーンやっているので、1回くらいは足を運びたい。そのときに使用するためのグッズを100円で買った。「ビゲンヘアカラー」と書いてある素敵なビーチボールだ。
ああ、とりとめがない。