アルフォンス・アレーの『悪戯の愉しみ』を読んだ。
ううむ。面白い。アレー(アレ、と表記されることもある)は1854年生まれ、1905年死亡。アレーが活躍していた頃、まわりには、エリック・サティやアルフレッド・ジャリやサッシャ・ギトリがいた。ベルエポック!
短い話がこの本には収められており、本屋でどれか一つ立ち読みして雰囲気を味わうのがてっとり早いかとも思う。
日本では「新青年」誌で紹介され、澁澤龍彦が評価していたが、この本以外に、ちゃんと翻訳されたものは、ない。
1977年、澁澤龍彦が試案として出した「世界文学集成」のリストを見ると、全24巻案の第18巻にシャルル・クロス、ダンセイニと並んでアルフォンス・アレを収録する計画があったことがわかる。この計画は、澁澤の死後、縮小して澁澤龍彦文学館として刊行されている。アレの作品は『独身者の箱』の巻に「奇妙な死」が収録されている。この巻でアレ以外に収録されているのは、ジャリ、シャルル・クロス、ジャン・ロラン、アポリネール、ルーセルという錚々たる面々。
以下、簡単な覚え書き。読んでいない人は、買ってでも読んだ方がいいと思う。大おすすめ本。
「コラージュ」
離れたくない2人を縫合手術
「キス男」
花嫁のキスを奪うキス男。自分の結婚式にも来たか!と撃退すると、新婦の叔父だった。
「小さなブタ」
パンで豚を作るのが大流行。仕事も手につかず、町は滅亡寸前。
「静物」
写実画を何度も描きなおしたが、絵とモデルには違いがあった。時計の針だ。
「とびきり上等の冗談」
未来の考古学者を困らせてやろう。死んだらフランス、ガロ=ロマンの石棺に古代ギリシアのコイン入れて、中国の甲冑を着せて埋葬してくれ。
「お返し」
泥を跳ね上げられて「ブラシはいかが?」そう言った医者に浣腸してもらい噴射。「ブラシはいかが?」
「単純な人々」
妻が別の男の子を生んだ。だけどみんな普通のテンション。阿部サダヲのCMか!
「親切な恋人」
冬の夜、恋人の冷たい足をあたためるため、腹を裂いて、中に入れさせる。
「夏の愉しみ」
嫌な隣人を撃退するため、大量のカタツムリを庭に放したり、ウソのニュースで恐怖感をあおったり、猫に光るボディペインティングして、ショック死。
「輝かしいアイデア」
人体の8割は水だ。人を呼び掛けるときも、その8割は水に呼び掛けたことになる。死ぬときは、死体を乾燥させて、花火とともに空葬してほしい。
「宣伝狂時代」
新聞のいくつかの広告に手紙出したら、全部、同じ本をすすめてきた。
「新式照明」
光る虎の目を照明に応用。これからは漏電やガス漏れはなくなり、トラ漏れが問題になる。
「小さな生命を大切に」
水の中の微生物が苦しまないよう、水にコカインを入れてマヒさせてから飲もう。
「ひげ」
寝るときにひげをどうしてますか。聞かれて気になり、不眠症に。
「法律」
海の水をくんで持ち帰るのも手続きがいる。海水で治療できたこどもを亡くした母発狂。
「医者」
すぐに治ると儲からないから、いつまでも薬づけにする医者。
「ウソのような話」
ニシンが進化しはじめた!陸に棲むようになったニシンがある日、水中に落ちて、溺死。
「義足氏の不思議な冒険」
毒魚に刺されて腫れた足を、親切な鮫が噛み切って切断手術してくれた。
「ブルジョワ風の純愛」
恋人たちはこっそり金庫をあけた。有価証券などには目もくれず、安物の真珠を取って、愛を誓う。
「なにものも無駄にせずに」
遺産として残せるものはない。火葬した後の灰を洗濯につかう灰汁に使えと遺言。
「善意の報い」
コルク屑の入ったワインを交換せずに飲んであげた女性。ボートが転覆したとき、他のみんなは溺死したけど、その女性だけは体内のコルクのおかげで浮かんで助かる。
「純愛物語」
そーっと忍び込んだ寝床にいたのは、少女じゃなくて、老婆の死体!
「愛のことば」
大きな目とおちょぼ口をほめようとする男。自分の目玉を食べるときは4つに切らねばなりませんね!
「ダーウィン萬歳」
頭にすりこむローションと胃薬のシロップを間違える。でも治る!
「旅先で」
海が塩辛いのは、タラがいるから。川の水が流れ込んでいるのに海があふれないのは、海綿があるから。
「見つけた!」
葬式で出会った美女に会いたくて、友人を殺して葬式を出す。
「恰好をつけるために」
外から部屋をのぞきこんでいると、いつのまにか人だかり。部屋の中の人物は、びっくりして、みんなの期待にこたえるには首をくくるしかないと思い込む。
「当世風の女」
替え玉の死体を使って、生命保険詐欺。死んだはずの夫を見捨てる妻。
「火」
火葬のとき、焼き方はフランス風かミラノ風か聞かれる
「北極の氷を解かそう」
カーバイドは水につけるとガスを発する。大量のカーバイドを利用して北極を溶かす計画。難点は、カーバイドのニンニク臭。
「涙」
涙はなぜ塩辛いのか。苦い涙は文学者の比喩の特権だし、甘いと子供が泣き止まない。
「奇妙な死」
絵具を海水で解いて描いた絵。海と同様、干満作用が起こり、大潮の日に人が溺れ死ぬ。
「歩行植物」
コケにカモシカの血をかけると、走り出す。亀スープをかけた植物はゆっくりと歩む。
「結婚生活の悲惨」
疲れて帰ると、妻が言う「今までどこで何をしていて疲れたの?」元気に帰ると、妻が言う「どこで何をしてそんなに元気なの?」
「ザ・コープスカー」
死体の成分を利用して、車を動かす仕組み。
「Comfort」
町中で尿意をもよおしたとき、薬屋に駆け込んで、尿検査を依頼。
「1900年のためのエッフェル塔利用法」
エッフェル塔を逆さにして巨大なコップに入れる計画。
「両棲動力」
ネズミやカエルを動力として使う。これからは、馬動車や馬転車の時代だ。
「スケート」
作り過ぎたスケート靴をコンゴに売り付ける。砂の上をすべるのだ。
「あの手この手」
笑い死にしちゃう話。それは、この話。
「金物屋の店で」
客の要求を時間をかけて詳しく聞いた店員は言った。その品はいっさい扱っておりません。
「急がずに」
入水自殺しようとしたら、はからずも溺れていた女性を助ける。2人は結婚を約束した。ただ、女の母が反対している。ラストの1行「妻はチャーミングだ。今朝、僕は義母の葬式をすませた」
「予期せぬ結末」
黒い光を発するホタルで庭が真っ暗。
「細かく…」
醜い女でも細かく見ると感じのいい女だとわかる。その言葉を信じて、女を細かく切断。
「22号室の目覚め」
22号室に泊まった僕。勝手に21号室と23号室にモーニングコールを頼んでおき、両隣の部屋の住人が怒ったり、わけもわからず用意をはじめる音でめざめる。
「ロシア式犯罪」
老女を殺した男。すれちがう警官は何も知らずに敬礼して通りすぎる。ナイフからの返り血が、まるで勲章のような模様だったのだ。
「赤い軽騎兵の白い夜」
仮装パーティーでトイレに入ったら、扉が開かなくなった。内側にひらく戸をずっと押していたのだ。
「寡婦の息子」
軍隊にいるのが嫌で、父を殺した息子。寡婦の息子は兵役免除なのだ。ただ、母がまたすぐに再婚しようとしているのを、うっかり応援してしまった。
「ステンド・グラス」
幼い少女の頃、ステンドグラスに描かれた聖女は優しく見守ってくれていたが、大きくなって不純になると、聖女の目に非難の色が見られるようになる。
「かわいそうなセザリーヌ」
恋する女性の気持を察してやれない男。少女が彼に料理を作る。あなたが食べたのは、私のハート。少女が服をはだけると、心臓がえぐり出されていた。
「安上がりの愛国主義」
金のかかる兵器に替えて、細菌をばらまく戦争を提唱。それで人類が滅亡しても、いいではないか。
なお、この本のあとがきで、昭和4年博文館発行の『佛蘭西モダンコント集』にアレの作品が訳出されていたことが語られている。このくだりが、裏話というか、新発見で面白い。
アレの作品は数編翻訳されているが、同じ「アレ」の名前が多く出てくるのを嫌って、違う名前をつけてあるのだ。G・ボワアル「医者を招ぶなかれ」、F・トオランス「鰐鮫荘の主人」、A・ランソン「若き人々へ」その他何篇かが、名前は違うがアレの作品に間違いない、という。
また、この『佛蘭西モダンコント集』を翻訳した「山野三五郎」なる人物は、水谷準や横溝正史らの隠し名だったらしい。
これらは、水谷準に手紙を書き、その返事で明らかになったことなのだ。
水谷準に「探偵小説何十年」とか書いてほしかったな、と思った。
ううむ。面白い。アレー(アレ、と表記されることもある)は1854年生まれ、1905年死亡。アレーが活躍していた頃、まわりには、エリック・サティやアルフレッド・ジャリやサッシャ・ギトリがいた。ベルエポック!
短い話がこの本には収められており、本屋でどれか一つ立ち読みして雰囲気を味わうのがてっとり早いかとも思う。
日本では「新青年」誌で紹介され、澁澤龍彦が評価していたが、この本以外に、ちゃんと翻訳されたものは、ない。
1977年、澁澤龍彦が試案として出した「世界文学集成」のリストを見ると、全24巻案の第18巻にシャルル・クロス、ダンセイニと並んでアルフォンス・アレを収録する計画があったことがわかる。この計画は、澁澤の死後、縮小して澁澤龍彦文学館として刊行されている。アレの作品は『独身者の箱』の巻に「奇妙な死」が収録されている。この巻でアレ以外に収録されているのは、ジャリ、シャルル・クロス、ジャン・ロラン、アポリネール、ルーセルという錚々たる面々。
以下、簡単な覚え書き。読んでいない人は、買ってでも読んだ方がいいと思う。大おすすめ本。
「コラージュ」
離れたくない2人を縫合手術
「キス男」
花嫁のキスを奪うキス男。自分の結婚式にも来たか!と撃退すると、新婦の叔父だった。
「小さなブタ」
パンで豚を作るのが大流行。仕事も手につかず、町は滅亡寸前。
「静物」
写実画を何度も描きなおしたが、絵とモデルには違いがあった。時計の針だ。
「とびきり上等の冗談」
未来の考古学者を困らせてやろう。死んだらフランス、ガロ=ロマンの石棺に古代ギリシアのコイン入れて、中国の甲冑を着せて埋葬してくれ。
「お返し」
泥を跳ね上げられて「ブラシはいかが?」そう言った医者に浣腸してもらい噴射。「ブラシはいかが?」
「単純な人々」
妻が別の男の子を生んだ。だけどみんな普通のテンション。阿部サダヲのCMか!
「親切な恋人」
冬の夜、恋人の冷たい足をあたためるため、腹を裂いて、中に入れさせる。
「夏の愉しみ」
嫌な隣人を撃退するため、大量のカタツムリを庭に放したり、ウソのニュースで恐怖感をあおったり、猫に光るボディペインティングして、ショック死。
「輝かしいアイデア」
人体の8割は水だ。人を呼び掛けるときも、その8割は水に呼び掛けたことになる。死ぬときは、死体を乾燥させて、花火とともに空葬してほしい。
「宣伝狂時代」
新聞のいくつかの広告に手紙出したら、全部、同じ本をすすめてきた。
「新式照明」
光る虎の目を照明に応用。これからは漏電やガス漏れはなくなり、トラ漏れが問題になる。
「小さな生命を大切に」
水の中の微生物が苦しまないよう、水にコカインを入れてマヒさせてから飲もう。
「ひげ」
寝るときにひげをどうしてますか。聞かれて気になり、不眠症に。
「法律」
海の水をくんで持ち帰るのも手続きがいる。海水で治療できたこどもを亡くした母発狂。
「医者」
すぐに治ると儲からないから、いつまでも薬づけにする医者。
「ウソのような話」
ニシンが進化しはじめた!陸に棲むようになったニシンがある日、水中に落ちて、溺死。
「義足氏の不思議な冒険」
毒魚に刺されて腫れた足を、親切な鮫が噛み切って切断手術してくれた。
「ブルジョワ風の純愛」
恋人たちはこっそり金庫をあけた。有価証券などには目もくれず、安物の真珠を取って、愛を誓う。
「なにものも無駄にせずに」
遺産として残せるものはない。火葬した後の灰を洗濯につかう灰汁に使えと遺言。
「善意の報い」
コルク屑の入ったワインを交換せずに飲んであげた女性。ボートが転覆したとき、他のみんなは溺死したけど、その女性だけは体内のコルクのおかげで浮かんで助かる。
「純愛物語」
そーっと忍び込んだ寝床にいたのは、少女じゃなくて、老婆の死体!
「愛のことば」
大きな目とおちょぼ口をほめようとする男。自分の目玉を食べるときは4つに切らねばなりませんね!
「ダーウィン萬歳」
頭にすりこむローションと胃薬のシロップを間違える。でも治る!
「旅先で」
海が塩辛いのは、タラがいるから。川の水が流れ込んでいるのに海があふれないのは、海綿があるから。
「見つけた!」
葬式で出会った美女に会いたくて、友人を殺して葬式を出す。
「恰好をつけるために」
外から部屋をのぞきこんでいると、いつのまにか人だかり。部屋の中の人物は、びっくりして、みんなの期待にこたえるには首をくくるしかないと思い込む。
「当世風の女」
替え玉の死体を使って、生命保険詐欺。死んだはずの夫を見捨てる妻。
「火」
火葬のとき、焼き方はフランス風かミラノ風か聞かれる
「北極の氷を解かそう」
カーバイドは水につけるとガスを発する。大量のカーバイドを利用して北極を溶かす計画。難点は、カーバイドのニンニク臭。
「涙」
涙はなぜ塩辛いのか。苦い涙は文学者の比喩の特権だし、甘いと子供が泣き止まない。
「奇妙な死」
絵具を海水で解いて描いた絵。海と同様、干満作用が起こり、大潮の日に人が溺れ死ぬ。
「歩行植物」
コケにカモシカの血をかけると、走り出す。亀スープをかけた植物はゆっくりと歩む。
「結婚生活の悲惨」
疲れて帰ると、妻が言う「今までどこで何をしていて疲れたの?」元気に帰ると、妻が言う「どこで何をしてそんなに元気なの?」
「ザ・コープスカー」
死体の成分を利用して、車を動かす仕組み。
「Comfort」
町中で尿意をもよおしたとき、薬屋に駆け込んで、尿検査を依頼。
「1900年のためのエッフェル塔利用法」
エッフェル塔を逆さにして巨大なコップに入れる計画。
「両棲動力」
ネズミやカエルを動力として使う。これからは、馬動車や馬転車の時代だ。
「スケート」
作り過ぎたスケート靴をコンゴに売り付ける。砂の上をすべるのだ。
「あの手この手」
笑い死にしちゃう話。それは、この話。
「金物屋の店で」
客の要求を時間をかけて詳しく聞いた店員は言った。その品はいっさい扱っておりません。
「急がずに」
入水自殺しようとしたら、はからずも溺れていた女性を助ける。2人は結婚を約束した。ただ、女の母が反対している。ラストの1行「妻はチャーミングだ。今朝、僕は義母の葬式をすませた」
「予期せぬ結末」
黒い光を発するホタルで庭が真っ暗。
「細かく…」
醜い女でも細かく見ると感じのいい女だとわかる。その言葉を信じて、女を細かく切断。
「22号室の目覚め」
22号室に泊まった僕。勝手に21号室と23号室にモーニングコールを頼んでおき、両隣の部屋の住人が怒ったり、わけもわからず用意をはじめる音でめざめる。
「ロシア式犯罪」
老女を殺した男。すれちがう警官は何も知らずに敬礼して通りすぎる。ナイフからの返り血が、まるで勲章のような模様だったのだ。
「赤い軽騎兵の白い夜」
仮装パーティーでトイレに入ったら、扉が開かなくなった。内側にひらく戸をずっと押していたのだ。
「寡婦の息子」
軍隊にいるのが嫌で、父を殺した息子。寡婦の息子は兵役免除なのだ。ただ、母がまたすぐに再婚しようとしているのを、うっかり応援してしまった。
「ステンド・グラス」
幼い少女の頃、ステンドグラスに描かれた聖女は優しく見守ってくれていたが、大きくなって不純になると、聖女の目に非難の色が見られるようになる。
「かわいそうなセザリーヌ」
恋する女性の気持を察してやれない男。少女が彼に料理を作る。あなたが食べたのは、私のハート。少女が服をはだけると、心臓がえぐり出されていた。
「安上がりの愛国主義」
金のかかる兵器に替えて、細菌をばらまく戦争を提唱。それで人類が滅亡しても、いいではないか。
なお、この本のあとがきで、昭和4年博文館発行の『佛蘭西モダンコント集』にアレの作品が訳出されていたことが語られている。このくだりが、裏話というか、新発見で面白い。
アレの作品は数編翻訳されているが、同じ「アレ」の名前が多く出てくるのを嫌って、違う名前をつけてあるのだ。G・ボワアル「医者を招ぶなかれ」、F・トオランス「鰐鮫荘の主人」、A・ランソン「若き人々へ」その他何篇かが、名前は違うがアレの作品に間違いない、という。
また、この『佛蘭西モダンコント集』を翻訳した「山野三五郎」なる人物は、水谷準や横溝正史らの隠し名だったらしい。
これらは、水谷準に手紙を書き、その返事で明らかになったことなのだ。
水谷準に「探偵小説何十年」とか書いてほしかったな、と思った。
海賊ブラッド、大盗賊
2006年7月12日 映画
マイケル・カーティス監督の「海賊ブラッド」を見た。1935年
やっぱり「ヨットクラブ」を読んだあとは、これでしょう!と勝手なチョイスだ。
主役はエロール・フリン。医者だったエロール・フリンが、反逆者を治療したために国王の逆鱗に触れ、逮捕され奴隷として売られる。その後、逃亡して海賊になる。
ヒロインはオリヴィア・デ・ハビランド。最初はエロール・フリンを奴隷として買うが、恋をして、エロール・フリンが海賊になってからは、すっかり立場が逆転する。
「リボンの騎士」(またしても、手塚治虫の影響!)に海賊ブラッドが登場するせいか、海賊ものの定番中の定番だったせいか、見ていて、「まるで、手塚治虫の漫画みたい!」と思っていた。もちろん、事情は逆である。海賊ブラッドがもともと善良な医者だった、という設定にも手塚治虫を連想させるものがあったのだろう。
チャンバラもあるし、恋がスムーズに行かないことで海賊ブラッドともあろう人が自暴自棄になるシーンもあるし、海賊船の中が規律で統制された一つの独立国めいたものになる描写も少年時代の夢をくすぐってあまりある。
この手の冒険活劇で主人公をつとめる、エロール・フリンやダグラス・フェアバンクス、ちょっと遡ってルドルフ・ヴァレンチノの映画って、文句なしに面白い!ツッコめばツッコめるのかもしれないけど、あんまりツッコむ気がしない。昔の作品にツッコむのって、ツッコんでる側の品性下劣をあからさまにしちゃうしね。
ところで、ヒーロー、エロール・フリンの官能性は、僕の場合、主に言葉から来たものだ。
「エロ」ール・「不倫」
やはり「ヨットクラブ」読んだあとは、これかな?と見た映画が「大盗賊」
谷口千吉監督、1963年。これが、めちゃくちゃ面白かった。特技監督は円谷英二。
主役は三船敏郎。三船!いかにも海賊ものにぴったりのネーミングだ!
三船敏郎が演じるのは、呂宋助左衛門。だが、実在の呂宋助左衛門とはまったく関係のない大活劇。彼は「スケザ」と呼ばれていたので、これからは「スケザ」と表記する。
スケザは海賊じゃないのに、海賊の容疑で捕らえられ、火あぶりの刑を受ける。しかし、火あぶりの樽の中から出て来たのはスケザじゃなくて、岩。「御苦労」のはり紙がしてある。金を使って逃れていたスケザは、「よーし、そんなに言うなら、本当に海賊になってやる!」と反逆者になるのだ。このあたりは、「海賊ブラッド」で医者だったピーターが逮捕されて海賊になったのと同じような経緯だ。
その後は嵐にあって、残酷な黒海賊に襲われ、どこだかよくわからない南国に流れつき、そこでの活劇の物語になる。
民を苦しめるバカ国王、だと思ってたら、実はワルは宰相(中丸忠雄)だった。
宰相は魔法使いの婆(ババ)に毒薬を作らせ、それを王に飲ませることで、王は長い闘病生活を送っていたのだ。この薬というのが、いかにもな薬で愉快。ぐつぐつ煮込む大鍋をかきまわし、ときおり箸で内容をつまみあげると、それはムカデとかトカゲ。
ババは眼力で見たものを石化する妖術を持っている。メデューサやゴーゴンみたいなものだ。と、いうことは、最後どうなるのか、なんとなく、結末が予想できよう。そう。まさしくその通り。この結末は乱歩の「魔術師」も想起させる。ちなみにババは天本英世が演じている。
姫は浜美枝。ヤヤ姫という名だ。ヤヤ姫は明国公子(船戸順)と結婚の約束をしているが、宰相は狙ってるし、スケザもヤヤ姫を好きになるし、黒海賊(宰相が黒幕)の大将もヤヤ姫欲しさに宰相の言うことをきいている。
まあ、とにかく話は、宰相の悪だくみを、スケザや、山賊(水野久美演じる女首領がスケザに恋する)や、ヤヤ姫、明の結婚相手、さらには、仙人(久米の仙人の子孫で、肝心なときに女の色香に迷って失敗ばかりする。有島一郎)などの働きにより、阻止する、と。わかりやすい活劇。
見どころは満載。
ヤヤ姫は綺麗だし、ヤヤ姫のおつきの若林映子もいい。洗濯中、その胸やふとももで仙人を惑わせてしまう。
宰相側の豪傑、田崎潤(連想ゲーム)は両手に十手を持つ格闘技の名手。黒海賊を率いる佐藤允(ヤマちゃん)は棒術の名手。ヤヤ姫を守る2メートルの巨人(金栄珠)は怪力の持ち主。これら錚々たる相手とスケザとの闘いが、半端なく面白い。スケザはヤヤ姫にいただいた王の剣を使って闘うのだ。異種格闘技ぶりは、まるで「死亡遊戯」だ!
ヤヤ姫のボディガードが巨人なら、いつも宰相のまわりにいるのは小人だ。はっきり顔が見えなかったが、誰だったんだろう。
人を石化するババとたよりない仙人との魔法合戦も面白い。
宰相がヤヤ姫にうつつをぬかしているのに嫉妬した女官、草笛光子が裏切るのもお約束。
スケザが城に潜入するのに、大凧に乗っていくのも愉快。何かとルパン3世を思い出させるシチュエーションが多いなあ。
田崎潤は生きた大きなガマの足を噛みちぎるし、投げた十手は生きた鶏に突き刺さる。この頃の映画では、動物は簡単に殺されていたのだ。
さらには、宰相の最期がすごい。城からの跳ね上げ橋がおりてきて、下に倒れていた宰相は橋に半身をはさまれて、プチッ!カリオストロか!
誰も姿を見たことがない国王が、仙人のおかげで病気が治ってみたら、志村喬だったとわかるサプライズもある。
一件落着後、スケザはその国での地位も名誉も財産も約束されるが、自分が求めるものは別にある、と船出していく。女盗賊の水野久美は崖からスケザに「食い逃げ野郎〜!」と叫ぶお別れシーン。
ああ、面白かったなあ。
公開時は「くたばれ!無責任」と2本立てだったらしい。キャー!その頃見たかったなあ。
ちなみに、続編みたいな映画「奇巌城の冒険」(1966年)は映画館でリアルタイムで見ている。
もうちょっと生まれてくるのが早ければ、見てたかもね!
やっぱり「ヨットクラブ」を読んだあとは、これでしょう!と勝手なチョイスだ。
主役はエロール・フリン。医者だったエロール・フリンが、反逆者を治療したために国王の逆鱗に触れ、逮捕され奴隷として売られる。その後、逃亡して海賊になる。
ヒロインはオリヴィア・デ・ハビランド。最初はエロール・フリンを奴隷として買うが、恋をして、エロール・フリンが海賊になってからは、すっかり立場が逆転する。
「リボンの騎士」(またしても、手塚治虫の影響!)に海賊ブラッドが登場するせいか、海賊ものの定番中の定番だったせいか、見ていて、「まるで、手塚治虫の漫画みたい!」と思っていた。もちろん、事情は逆である。海賊ブラッドがもともと善良な医者だった、という設定にも手塚治虫を連想させるものがあったのだろう。
チャンバラもあるし、恋がスムーズに行かないことで海賊ブラッドともあろう人が自暴自棄になるシーンもあるし、海賊船の中が規律で統制された一つの独立国めいたものになる描写も少年時代の夢をくすぐってあまりある。
この手の冒険活劇で主人公をつとめる、エロール・フリンやダグラス・フェアバンクス、ちょっと遡ってルドルフ・ヴァレンチノの映画って、文句なしに面白い!ツッコめばツッコめるのかもしれないけど、あんまりツッコむ気がしない。昔の作品にツッコむのって、ツッコんでる側の品性下劣をあからさまにしちゃうしね。
ところで、ヒーロー、エロール・フリンの官能性は、僕の場合、主に言葉から来たものだ。
「エロ」ール・「不倫」
やはり「ヨットクラブ」読んだあとは、これかな?と見た映画が「大盗賊」
谷口千吉監督、1963年。これが、めちゃくちゃ面白かった。特技監督は円谷英二。
主役は三船敏郎。三船!いかにも海賊ものにぴったりのネーミングだ!
三船敏郎が演じるのは、呂宋助左衛門。だが、実在の呂宋助左衛門とはまったく関係のない大活劇。彼は「スケザ」と呼ばれていたので、これからは「スケザ」と表記する。
スケザは海賊じゃないのに、海賊の容疑で捕らえられ、火あぶりの刑を受ける。しかし、火あぶりの樽の中から出て来たのはスケザじゃなくて、岩。「御苦労」のはり紙がしてある。金を使って逃れていたスケザは、「よーし、そんなに言うなら、本当に海賊になってやる!」と反逆者になるのだ。このあたりは、「海賊ブラッド」で医者だったピーターが逮捕されて海賊になったのと同じような経緯だ。
その後は嵐にあって、残酷な黒海賊に襲われ、どこだかよくわからない南国に流れつき、そこでの活劇の物語になる。
民を苦しめるバカ国王、だと思ってたら、実はワルは宰相(中丸忠雄)だった。
宰相は魔法使いの婆(ババ)に毒薬を作らせ、それを王に飲ませることで、王は長い闘病生活を送っていたのだ。この薬というのが、いかにもな薬で愉快。ぐつぐつ煮込む大鍋をかきまわし、ときおり箸で内容をつまみあげると、それはムカデとかトカゲ。
ババは眼力で見たものを石化する妖術を持っている。メデューサやゴーゴンみたいなものだ。と、いうことは、最後どうなるのか、なんとなく、結末が予想できよう。そう。まさしくその通り。この結末は乱歩の「魔術師」も想起させる。ちなみにババは天本英世が演じている。
姫は浜美枝。ヤヤ姫という名だ。ヤヤ姫は明国公子(船戸順)と結婚の約束をしているが、宰相は狙ってるし、スケザもヤヤ姫を好きになるし、黒海賊(宰相が黒幕)の大将もヤヤ姫欲しさに宰相の言うことをきいている。
まあ、とにかく話は、宰相の悪だくみを、スケザや、山賊(水野久美演じる女首領がスケザに恋する)や、ヤヤ姫、明の結婚相手、さらには、仙人(久米の仙人の子孫で、肝心なときに女の色香に迷って失敗ばかりする。有島一郎)などの働きにより、阻止する、と。わかりやすい活劇。
見どころは満載。
ヤヤ姫は綺麗だし、ヤヤ姫のおつきの若林映子もいい。洗濯中、その胸やふとももで仙人を惑わせてしまう。
宰相側の豪傑、田崎潤(連想ゲーム)は両手に十手を持つ格闘技の名手。黒海賊を率いる佐藤允(ヤマちゃん)は棒術の名手。ヤヤ姫を守る2メートルの巨人(金栄珠)は怪力の持ち主。これら錚々たる相手とスケザとの闘いが、半端なく面白い。スケザはヤヤ姫にいただいた王の剣を使って闘うのだ。異種格闘技ぶりは、まるで「死亡遊戯」だ!
ヤヤ姫のボディガードが巨人なら、いつも宰相のまわりにいるのは小人だ。はっきり顔が見えなかったが、誰だったんだろう。
人を石化するババとたよりない仙人との魔法合戦も面白い。
宰相がヤヤ姫にうつつをぬかしているのに嫉妬した女官、草笛光子が裏切るのもお約束。
スケザが城に潜入するのに、大凧に乗っていくのも愉快。何かとルパン3世を思い出させるシチュエーションが多いなあ。
田崎潤は生きた大きなガマの足を噛みちぎるし、投げた十手は生きた鶏に突き刺さる。この頃の映画では、動物は簡単に殺されていたのだ。
さらには、宰相の最期がすごい。城からの跳ね上げ橋がおりてきて、下に倒れていた宰相は橋に半身をはさまれて、プチッ!カリオストロか!
誰も姿を見たことがない国王が、仙人のおかげで病気が治ってみたら、志村喬だったとわかるサプライズもある。
一件落着後、スケザはその国での地位も名誉も財産も約束されるが、自分が求めるものは別にある、と船出していく。女盗賊の水野久美は崖からスケザに「食い逃げ野郎〜!」と叫ぶお別れシーン。
ああ、面白かったなあ。
公開時は「くたばれ!無責任」と2本立てだったらしい。キャー!その頃見たかったなあ。
ちなみに、続編みたいな映画「奇巌城の冒険」(1966年)は映画館でリアルタイムで見ている。
もうちょっと生まれてくるのが早ければ、見てたかもね!
デイヴィッド・イーリイの『ヨットクラブ』を読んだ。
この人の作品は、『37の短編』で読んだ「ヨットクラブ」しか読んだことがなかった。
特に好きな作品ということもなく、作家を追いかけようともしなかった。
でも、はっきりと筋立てを覚えていたので、かなり印象的だったんだな、と思い直した。
この短編集を読んでも、「うわわ、面白〜い!」と感心してばかりだった。
短編「ヨットクラブ」での印象は、ラストのオチで一気に面白くなった、とか思っていたが、そこはそれ、学生時代の浅はかさ。シチュエーションが面白くて、ラストがどうあれ、ずっと読んでいたいと思わせる作品群だった。
今では手に入れにくい長編作品も読んでみたくなってきた。
覚え書きのため、ネタバレしてるので、要注意。
さらに、必ずしも正しいあらすじじゃないので、本当に面白さを味わいたい人は、実際に読んでください。
「理想の学校」
規律の厳しい全寮制の学校。
問題児ばかりが入れられるが、生徒を見ると、はげ頭や白髪も。彼らはここに捨てられたのだ。
「貝殻を集める女」
所有欲の強い女性。貝殻を集める際のえげつなさが、男女の人間関係にも。
「ヨットクラブ」
秘密の会員制クラブに入る資格とは。
すっかり人生に退屈したとき、彼にも入会案内がきた。
ヨットに乗って航海する初老の男たち。ターゲットを確認して、海賊に。
「慈悲の天使」
見知らぬ女が突然、男を誘惑する。美人局か?囮か?
ベッドの上で裸になった女を見て、男はわかる。
ニンフでもなんでもない。こいつは凡庸なただの女だ。
「面接」
たよりない人事担当官が面接をはじめる。会社で用意された面接表に基づいて質問するうちに、面接官は腰がひけてくる。「これはひっかけ問題みたいです」「こんなこと、聞けません」
面接者は、質問に立ち向かい、堂々と受けてたってやる、とばかりに答える。
面接はヒートアップし、面接官は既に逃げ出している。面接者は質問など不要、答えあるのみ、といつまでも熱く答え続けるのだ。
「カウントダウン」
ロケット打ち上げのカウントダウンがはじまった。
乗組員は女好きで、研究開発者の妻にも手を出していたことが判明する。
ひょっとして、妻を寝盗られた恨みで、ロケットに何か細工して、乗員をどうにかしようとしてるんじゃないか?
緊迫する管制室。管制官は打ち上げ中止にするのかどうか決断を迫られる。
なにごともなくロケットは打ち上げられた。
ほっとするのも間もなく、管制官は自分の妻がいないのに気づく。
妻はロケット内で女たらしの乗員とランデブーの真っ最中なのだ。
「タイムアウト」
原子力事故で、イングランドが消滅した。
この事実を隠すため、毎日なにごともなかったかのようにイングランド発のニュースをでっちあげ、また、イングランドを完全に復元するプロジェクトが開始した。
そんなのはニセものだ、と主張する人物が、いたずらを仕掛ける。
今までの歴史を覆すような新発見だってこれからあるはずだ、と、シェイクスピアの劇を書いたのはベーコンだと示す文書など、歴史の創作をふんだんに盛り込みはじめる。
歴史の復元のナンセンスさを主張するためにしたことだったが、これが「なるほど!」と通ってしまう。
「隣人たち」
新しく引っ越してきた住人について、好奇心旺盛に知ろうとする住人たち。
子供がいる、と言ってるけど、そんな子供はみたことがない!
ひょっとすると伝染病で出てこないのなら、われわれ住人にとっても一大事だ!と理屈をつけて、プライバシーに踏み込んでいく。
その結果、この家族の子供は既に亡くなっていることがわかるが、それは触れてほしくないことだった。引っ越していく家族。
「G.O’D.の栄光」
神は死んだ、と言っているが、そんなことはない。だって、私は神なのだから!
新聞に「自分が神だと思っている人、連絡をください」と広告をうつと、わんさか手紙が来た。「どうしてわかったのですか?」と。
「大佐の災難」
大佐に苦情を言いにきた青年。大佐の飼っている牛が、囲いの穴から侵入して、よその草を食べているのだ。
大佐は、かつて近所づきあいで大佐の飼い犬がよそに迷惑をかけた事件について語る。
大佐は、飼い犬を糾弾した隣人をあの手この手で陥れ、破滅させていたのだ。
いや、別に何でもありません、と帰る青年。
「夜の客」
お互いに口もきかなくなった夫婦。
妻に来客があった。楽しそうにあることないことしゃべる妻の口調にイライラする夫。
しかも、その来客は毎晩やってくるのだ。
ある日、夫にも来客があった。同様に妻へのあてこすりをする夫。これも毎晩。
ある夜、2人は気づく。われわれはとんでもない無気味な存在を夜に招き入れているのではないか。逃げ出す2人。
「ペルーのドリー・マディソン」
ジャングルの中で、ブルジョアの作法をひろめようとする人々。
「夜の音色」
どうしようもない奴だと思っていても、ある瞬間、そいつの美点に気づくことがある。
「日曜の礼拝がすんでから」
ペット飼いたさのため、まだ赤ん坊の弟を毒殺しようとする子供。
そこにあらわれた、幼女を狙う殺人鬼。
親に言われたとおり、近くの家のドアをたたき、「あけてください!」
うしろから声が。「お嬢ちゃん、そんなに僕の家に入りたいのかい」
「オルガン弾き」
新しいオルガンは、パンチカードで自動演奏するオルガンだった。
オルガン弾きの立場は?
パンチカードに穴をあけて作曲してみたり、カードを切ってつなぎあわせたりして自分なりの愉しみを見つけるオルガン弾き。
ある日、既に改造しまくった曲を弾かねばならないことになり、カードをむちゃくちゃにして、とんでもない演奏をしでかしてしまう。人々は耳をおさえ、教会は台風一過の状態、ステンドグラスも割れ、けが人や失神者続出。
力なく謝ろうとするオルガン弾きだが、終了後、聴衆は絶大なる拍手でたたえるのだ。
この人の作品は、『37の短編』で読んだ「ヨットクラブ」しか読んだことがなかった。
特に好きな作品ということもなく、作家を追いかけようともしなかった。
でも、はっきりと筋立てを覚えていたので、かなり印象的だったんだな、と思い直した。
この短編集を読んでも、「うわわ、面白〜い!」と感心してばかりだった。
短編「ヨットクラブ」での印象は、ラストのオチで一気に面白くなった、とか思っていたが、そこはそれ、学生時代の浅はかさ。シチュエーションが面白くて、ラストがどうあれ、ずっと読んでいたいと思わせる作品群だった。
今では手に入れにくい長編作品も読んでみたくなってきた。
覚え書きのため、ネタバレしてるので、要注意。
さらに、必ずしも正しいあらすじじゃないので、本当に面白さを味わいたい人は、実際に読んでください。
「理想の学校」
規律の厳しい全寮制の学校。
問題児ばかりが入れられるが、生徒を見ると、はげ頭や白髪も。彼らはここに捨てられたのだ。
「貝殻を集める女」
所有欲の強い女性。貝殻を集める際のえげつなさが、男女の人間関係にも。
「ヨットクラブ」
秘密の会員制クラブに入る資格とは。
すっかり人生に退屈したとき、彼にも入会案内がきた。
ヨットに乗って航海する初老の男たち。ターゲットを確認して、海賊に。
「慈悲の天使」
見知らぬ女が突然、男を誘惑する。美人局か?囮か?
ベッドの上で裸になった女を見て、男はわかる。
ニンフでもなんでもない。こいつは凡庸なただの女だ。
「面接」
たよりない人事担当官が面接をはじめる。会社で用意された面接表に基づいて質問するうちに、面接官は腰がひけてくる。「これはひっかけ問題みたいです」「こんなこと、聞けません」
面接者は、質問に立ち向かい、堂々と受けてたってやる、とばかりに答える。
面接はヒートアップし、面接官は既に逃げ出している。面接者は質問など不要、答えあるのみ、といつまでも熱く答え続けるのだ。
「カウントダウン」
ロケット打ち上げのカウントダウンがはじまった。
乗組員は女好きで、研究開発者の妻にも手を出していたことが判明する。
ひょっとして、妻を寝盗られた恨みで、ロケットに何か細工して、乗員をどうにかしようとしてるんじゃないか?
緊迫する管制室。管制官は打ち上げ中止にするのかどうか決断を迫られる。
なにごともなくロケットは打ち上げられた。
ほっとするのも間もなく、管制官は自分の妻がいないのに気づく。
妻はロケット内で女たらしの乗員とランデブーの真っ最中なのだ。
「タイムアウト」
原子力事故で、イングランドが消滅した。
この事実を隠すため、毎日なにごともなかったかのようにイングランド発のニュースをでっちあげ、また、イングランドを完全に復元するプロジェクトが開始した。
そんなのはニセものだ、と主張する人物が、いたずらを仕掛ける。
今までの歴史を覆すような新発見だってこれからあるはずだ、と、シェイクスピアの劇を書いたのはベーコンだと示す文書など、歴史の創作をふんだんに盛り込みはじめる。
歴史の復元のナンセンスさを主張するためにしたことだったが、これが「なるほど!」と通ってしまう。
「隣人たち」
新しく引っ越してきた住人について、好奇心旺盛に知ろうとする住人たち。
子供がいる、と言ってるけど、そんな子供はみたことがない!
ひょっとすると伝染病で出てこないのなら、われわれ住人にとっても一大事だ!と理屈をつけて、プライバシーに踏み込んでいく。
その結果、この家族の子供は既に亡くなっていることがわかるが、それは触れてほしくないことだった。引っ越していく家族。
「G.O’D.の栄光」
神は死んだ、と言っているが、そんなことはない。だって、私は神なのだから!
新聞に「自分が神だと思っている人、連絡をください」と広告をうつと、わんさか手紙が来た。「どうしてわかったのですか?」と。
「大佐の災難」
大佐に苦情を言いにきた青年。大佐の飼っている牛が、囲いの穴から侵入して、よその草を食べているのだ。
大佐は、かつて近所づきあいで大佐の飼い犬がよそに迷惑をかけた事件について語る。
大佐は、飼い犬を糾弾した隣人をあの手この手で陥れ、破滅させていたのだ。
いや、別に何でもありません、と帰る青年。
「夜の客」
お互いに口もきかなくなった夫婦。
妻に来客があった。楽しそうにあることないことしゃべる妻の口調にイライラする夫。
しかも、その来客は毎晩やってくるのだ。
ある日、夫にも来客があった。同様に妻へのあてこすりをする夫。これも毎晩。
ある夜、2人は気づく。われわれはとんでもない無気味な存在を夜に招き入れているのではないか。逃げ出す2人。
「ペルーのドリー・マディソン」
ジャングルの中で、ブルジョアの作法をひろめようとする人々。
「夜の音色」
どうしようもない奴だと思っていても、ある瞬間、そいつの美点に気づくことがある。
「日曜の礼拝がすんでから」
ペット飼いたさのため、まだ赤ん坊の弟を毒殺しようとする子供。
そこにあらわれた、幼女を狙う殺人鬼。
親に言われたとおり、近くの家のドアをたたき、「あけてください!」
うしろから声が。「お嬢ちゃん、そんなに僕の家に入りたいのかい」
「オルガン弾き」
新しいオルガンは、パンチカードで自動演奏するオルガンだった。
オルガン弾きの立場は?
パンチカードに穴をあけて作曲してみたり、カードを切ってつなぎあわせたりして自分なりの愉しみを見つけるオルガン弾き。
ある日、既に改造しまくった曲を弾かねばならないことになり、カードをむちゃくちゃにして、とんでもない演奏をしでかしてしまう。人々は耳をおさえ、教会は台風一過の状態、ステンドグラスも割れ、けが人や失神者続出。
力なく謝ろうとするオルガン弾きだが、終了後、聴衆は絶大なる拍手でたたえるのだ。
DEATH NOTE 前編
2006年7月10日 映画 コメント (2)
久々に映画館で映画見た。招待券のおかげ。
この「デスノート」は原作をある程度読んでいるため、わりと原作に忠実に追っているな、と感じた。原作と映画とは、まったく違う作品になっているのが多いなかでは、この忠実ぶりは特筆に値する。
みさみさに2冊めのデスノートが落ちて来て、キラとエルが対面するところで前編は終わっている。
この流れで行くと、キラVSエルの決着がつくあたりで物語は完結しそうだ。原作とは違う結末が用意されているそうだし、これは楽しみ。
前日アリスセイラーから仕入れた情報、知人から聞いた、という「キラの手指の汚さ」もチェックした。
汚れているわけではないが、爪が縦長でなく、指の中に埋没しており、明らかに美しくはない。醜い指だ。センスの悪い指だ。鈍感な指だ。
ただ、この指が藤原本人の指でないことは、他のシーンで指が映っているところを見るかぎり、確実なようだ。なぜ、こんな馬鹿な代理の指をアップでうつしたのか、理解に苦しむところだ。
最近、自分の娘を殺害された親が、犯人に対して、法律を超えて死刑を求める事件があいついでいる。
少年に妻子を殺された男、ヤギに娘を殺された父親。
こんな人は、法律で死刑にできないのなら、デスノートで、と思っているはずだ。
こういう思いは、デスノートを使おうと、権力を使おうと、事情は一緒で、人の命を奪うのに正義の御旗をふりかざしていても、悪魔的行為であることには変わりがない。よけいにタチが悪いとも言えるだろう。
僕だって、当事者であれば、100円盗まれただけでも、盗んだ相手を残虐な方法で殺したいと思うに決まっているんだから。そういう殺意をマスコミに表明して、うしろ指さされなくなった世の中が到来したことを、素直に喜びたい。なんなら正義の名のもとに人殺しが正当化されるなら、友人や家族が殺されたってかまわない、と思うほどだ。これからは、駐輪して歩道を通りにくくした輩や、身長が高いくせに僕よりも前でライブを見て視界の邪魔になる奴も、無期懲役ではなまぬるい。法やノートの手で抹殺してもらいたいものだ。
この「デスノート」は原作をある程度読んでいるため、わりと原作に忠実に追っているな、と感じた。原作と映画とは、まったく違う作品になっているのが多いなかでは、この忠実ぶりは特筆に値する。
みさみさに2冊めのデスノートが落ちて来て、キラとエルが対面するところで前編は終わっている。
この流れで行くと、キラVSエルの決着がつくあたりで物語は完結しそうだ。原作とは違う結末が用意されているそうだし、これは楽しみ。
前日アリスセイラーから仕入れた情報、知人から聞いた、という「キラの手指の汚さ」もチェックした。
汚れているわけではないが、爪が縦長でなく、指の中に埋没しており、明らかに美しくはない。醜い指だ。センスの悪い指だ。鈍感な指だ。
ただ、この指が藤原本人の指でないことは、他のシーンで指が映っているところを見るかぎり、確実なようだ。なぜ、こんな馬鹿な代理の指をアップでうつしたのか、理解に苦しむところだ。
最近、自分の娘を殺害された親が、犯人に対して、法律を超えて死刑を求める事件があいついでいる。
少年に妻子を殺された男、ヤギに娘を殺された父親。
こんな人は、法律で死刑にできないのなら、デスノートで、と思っているはずだ。
こういう思いは、デスノートを使おうと、権力を使おうと、事情は一緒で、人の命を奪うのに正義の御旗をふりかざしていても、悪魔的行為であることには変わりがない。よけいにタチが悪いとも言えるだろう。
僕だって、当事者であれば、100円盗まれただけでも、盗んだ相手を残虐な方法で殺したいと思うに決まっているんだから。そういう殺意をマスコミに表明して、うしろ指さされなくなった世の中が到来したことを、素直に喜びたい。なんなら正義の名のもとに人殺しが正当化されるなら、友人や家族が殺されたってかまわない、と思うほどだ。これからは、駐輪して歩道を通りにくくした輩や、身長が高いくせに僕よりも前でライブを見て視界の邪魔になる奴も、無期懲役ではなまぬるい。法やノートの手で抹殺してもらいたいものだ。
中川翔子@セルシー、アリスセイラーファンのつどい、ザ・ウォール
2006年7月9日 アイドル コメント (1)
千里セルシーで午後1時から、中川翔子ミニライブ。
1.ブリリアントドリーム(ミニゆかた)
ステージ上から「メポ」の写メールでしょこたんブログ生更新。
さらにさらに、ステージ上でミニゆかたをババッと脱ぎ捨てると、猫耳黒ビキニに早変わり。
2.Cat Life
いやー、中川翔子、歌うまい!
振り付けは、歌のスピードについていけてない感じで、運動神経の弱さを露呈していた。
でも、それは弱点じゃなくて、戸川純や小倉優子の系譜につながる魅力になっていた。
歌は以上2曲のみ。
取材の写真撮影のあと、握手会がはじまった。
僕は、ミナミへと向かう。
なんばBEARSで、アリスセイラー、ファンのつどい第1回に行く。
なんと、このイベントにかぎり、フリードリンク。
僕は途中から見たのだが、僕の見た範囲でのイベント内容は、アリスセイラーのおしゃべりと、歌。
ゆったりとした時間が流れるのは、アリスセイラーの持ち味だろう。
前回のアリスセイラーのイベントでは、資料を駆使して、その資料に多くを語らせ、アリスちゃんはそれを解説する、という態だったが、今回は180度違うイベントになった。
ノーガードでステージに立つアリスセイラーが、自らの「人間力」によってイベントを成立させていた。ステージにいるだけで、異空間が現出しているのだ。これは、なかなか出来ることではない。
おみやげとして、バインダーが用意されていた。
バインダーの中にはアリスちゃんの天然色写真が封入されており、撮影時に着用していた衣装の切片が表紙に貼付されている。
バインダーにはカセットテープがおさまるべくスペースがあけられていて、これは第2回、第3回の参加によって補完されるもののようだ。
つまり、写真、生地、音はそれぞれ視覚、触覚、聴覚の3つを代表しており、三方からアリスセイラーが襲来する仕組みになっているのだ。。
いずれは嗅覚と味覚もお土産に加えられ、五感すべてに訴える「アリスセイラーバインダー」が完成し、アリスセイラーとわれわれはバインドされる計画とみた。
第6回があるとすれば、そのときは「第6感」がバインダーに付与される計算になる。
これは未来のオカルト土産なのだ。
帰宅後、アラン・パーカー監督の「ピンク・フロイド/ザ・ウォール」を見た。1982年。
ボブ・ゲルドフ主演。
カリスマロックスターが狂気に陥るストーリー。
音楽はもちろんピンク・フロイド。
全体に長いミュージッククリップを見ているかのような映画だった。
サイケデリックなアニメーションや、特殊メイクも使って、狂気の世界を描き出していた。
この映画を見て、人が狂気に陥るには、どういう要素があるんだろうか、と思っていた。
薬だとか酒だとか、自分の自由に出来ないシステムに動かされることだとか、女だとか、いろいろあるが、何よりも重大なのは、孤独と過去。この2つだろうと思った。
孤独が人を狂わせるのは言うまでもないが、過去だってたいへんなものだ。
過去の記憶、ノスタルジーは人間の心にとって凶器になる。
この映画でも、先に述べた酒や女や音楽業界やナチズムなど狂気の描写があった。
それら以上に重要なシーンとして撮られていたのが、ボブ・ゲルドフが1人で古いテレビ番組を見ているシーンであり、回想シーンで語られるこども時代、若かりし過去の日々の記憶なのだ。
たしかに、自分のこども時代を思い出したり、学生時代を回想したりすると、頭がおかしくなりそうだ。
ピンク・フロイドは、現代人を壁の中の1つのレンガとして表現した。
寺山修司は「レミング」で壁のない世界がいかに人間にとって生きにくいかを逆に描いてみせた。
養老某は人間にはバカの壁があるという。
僕が思うに、壁は立ち止まり、反射させるもので、それは過去を照射するものだ。
人間は自分の心を直視することに耐えられない。
達磨が壁に向かって悟りを得ようとした修業は、肉体を痛めつけるどんな修業よりも厳しいものであったなあ、と思われるのだ。
1.ブリリアントドリーム(ミニゆかた)
ステージ上から「メポ」の写メールでしょこたんブログ生更新。
さらにさらに、ステージ上でミニゆかたをババッと脱ぎ捨てると、猫耳黒ビキニに早変わり。
2.Cat Life
いやー、中川翔子、歌うまい!
振り付けは、歌のスピードについていけてない感じで、運動神経の弱さを露呈していた。
でも、それは弱点じゃなくて、戸川純や小倉優子の系譜につながる魅力になっていた。
歌は以上2曲のみ。
取材の写真撮影のあと、握手会がはじまった。
僕は、ミナミへと向かう。
なんばBEARSで、アリスセイラー、ファンのつどい第1回に行く。
なんと、このイベントにかぎり、フリードリンク。
僕は途中から見たのだが、僕の見た範囲でのイベント内容は、アリスセイラーのおしゃべりと、歌。
ゆったりとした時間が流れるのは、アリスセイラーの持ち味だろう。
前回のアリスセイラーのイベントでは、資料を駆使して、その資料に多くを語らせ、アリスちゃんはそれを解説する、という態だったが、今回は180度違うイベントになった。
ノーガードでステージに立つアリスセイラーが、自らの「人間力」によってイベントを成立させていた。ステージにいるだけで、異空間が現出しているのだ。これは、なかなか出来ることではない。
おみやげとして、バインダーが用意されていた。
バインダーの中にはアリスちゃんの天然色写真が封入されており、撮影時に着用していた衣装の切片が表紙に貼付されている。
バインダーにはカセットテープがおさまるべくスペースがあけられていて、これは第2回、第3回の参加によって補完されるもののようだ。
つまり、写真、生地、音はそれぞれ視覚、触覚、聴覚の3つを代表しており、三方からアリスセイラーが襲来する仕組みになっているのだ。。
いずれは嗅覚と味覚もお土産に加えられ、五感すべてに訴える「アリスセイラーバインダー」が完成し、アリスセイラーとわれわれはバインドされる計画とみた。
第6回があるとすれば、そのときは「第6感」がバインダーに付与される計算になる。
これは未来のオカルト土産なのだ。
帰宅後、アラン・パーカー監督の「ピンク・フロイド/ザ・ウォール」を見た。1982年。
ボブ・ゲルドフ主演。
カリスマロックスターが狂気に陥るストーリー。
音楽はもちろんピンク・フロイド。
全体に長いミュージッククリップを見ているかのような映画だった。
サイケデリックなアニメーションや、特殊メイクも使って、狂気の世界を描き出していた。
この映画を見て、人が狂気に陥るには、どういう要素があるんだろうか、と思っていた。
薬だとか酒だとか、自分の自由に出来ないシステムに動かされることだとか、女だとか、いろいろあるが、何よりも重大なのは、孤独と過去。この2つだろうと思った。
孤独が人を狂わせるのは言うまでもないが、過去だってたいへんなものだ。
過去の記憶、ノスタルジーは人間の心にとって凶器になる。
この映画でも、先に述べた酒や女や音楽業界やナチズムなど狂気の描写があった。
それら以上に重要なシーンとして撮られていたのが、ボブ・ゲルドフが1人で古いテレビ番組を見ているシーンであり、回想シーンで語られるこども時代、若かりし過去の日々の記憶なのだ。
たしかに、自分のこども時代を思い出したり、学生時代を回想したりすると、頭がおかしくなりそうだ。
ピンク・フロイドは、現代人を壁の中の1つのレンガとして表現した。
寺山修司は「レミング」で壁のない世界がいかに人間にとって生きにくいかを逆に描いてみせた。
養老某は人間にはバカの壁があるという。
僕が思うに、壁は立ち止まり、反射させるもので、それは過去を照射するものだ。
人間は自分の心を直視することに耐えられない。
達磨が壁に向かって悟りを得ようとした修業は、肉体を痛めつけるどんな修業よりも厳しいものであったなあ、と思われるのだ。
スタジオSTSライブ
2006年7月8日 アイドル毎月開催のSTSスタジオライブを見に行った。
入場時に、天神祭のうちわをもらった。ミューズのCDの宣伝が印刷されている。
今日は京都でダンシングBANANAのイベントがあり、おそらくそれの第1部を見てから、こっちに駆け付けたと思しきお客さんも見受けられた。
1.オープニング/ジュニアスペシャルダンスチーム
2.プリティ・ヴォイス/トレード(今日は5人揃った)
3.恋のビクトリー/チックス
4.オトメロディー/ミニミニclub(11人。新レパートリー。おねがいマイメロディ主題歌)
5.浪漫/プリティーズ
6.口笛/AKI組(9人。新レパートリー。ミューズ、トレード、プリッツなどのメンバー。橋本梨世が勢いあまってステージを飛び出し、足を強打!大丈夫か?)
7.NO MORE CRY/タイフーンJr.
8.めざせポケモンマスター/ポケモン選抜(今回のライブでの影のナンバー1はこれだ!)
9.Just Lovin’ You/桐生彩加(1年以上、この曲を歌っており、ずっと見て来た客は、彼女の歌の成長を追うことができる)
10.PUMP IT/Super Bubblez
若干の休憩をはさんで、第2部。
1.SENSEI/ミュージカル選抜
2.愛のカケラ/杉本めぐみ
3.CLUB ZIPANGU/PHRASE(新レパートリー。R・I・N・A=知念里奈がリッキー・マーチンの曲をカバーした歌。新メンバーに元ラズベリーズの吉原望美)
4.In the name of love/ファッションズ(3人になったファッションズ。小さい子が3人だけなので、なんだか寂しい)
5.King & Queen/プリッツ(もっとも激しいダンスをするユニットだと思う。その激しさは、もはや、暴力的と言ってもいいかもしれない)
6.Love like candy floss/TOUCH(ダンスのうまさはNo1。客席にはかつてユニットのメンバーだった子が見に来ていた)
7.Your Song/いちごっ娘(貫禄ついてきたなあ)
8.満月の夜に迎えに来て/ミューズ(スタジオライブでは初披露。CDの収録曲。ミューズの底力が発揮されたいいレパートリーだと思う)
9.don’t you wanna see me (oh) tonight/ブラックベリーズ
10.sexy,naughty,bitchy/ブラックベリーズ(先月の人気投票でも1位。もはや不動の1位か。新メンバー中川かすみは1ヶ月で、この2曲を踊りこなしていた。すごい!今までがミニバブでチアーダンスとかだったので、全然違うダンスなのに。まあ、まだ堅さは残っているけど、すごいよ)
なお、今回は歌わなかったが、新しい「歌のユニット」が誕生したとアナウンスがあった。
メンバーは4人。
円通法子(元ラズベリーズ)
中迫晴香
田中あや
中山阿友(元クランベリーズ)
中山阿友は大好きだったが、ステージに出て来たとき、誰だかわからなかった。不覚。円通法子はかなり好きなので、新ユニットに加入したのはうれしい。
路線変更で歌わなくなった各ユニットの歌を、誰かが歌いついでほしい、と思ってたので、歌中心のユニットは大歓迎。
でも、このメンツでは「恋がはじまるゥ」(ブラックベリーズ)とか「ちょっと背伸びしたい」(ラズベリーズ)とかクランベリーズの歌とか、もう歌わないかな。
今回のライブで僕が選んだベスト3は、プリッツ、TOUCH、ミューズだった。
トリをとって、2曲歌ってほしいと思えるユニットだ。
入場時に、天神祭のうちわをもらった。ミューズのCDの宣伝が印刷されている。
今日は京都でダンシングBANANAのイベントがあり、おそらくそれの第1部を見てから、こっちに駆け付けたと思しきお客さんも見受けられた。
1.オープニング/ジュニアスペシャルダンスチーム
2.プリティ・ヴォイス/トレード(今日は5人揃った)
3.恋のビクトリー/チックス
4.オトメロディー/ミニミニclub(11人。新レパートリー。おねがいマイメロディ主題歌)
5.浪漫/プリティーズ
6.口笛/AKI組(9人。新レパートリー。ミューズ、トレード、プリッツなどのメンバー。橋本梨世が勢いあまってステージを飛び出し、足を強打!大丈夫か?)
7.NO MORE CRY/タイフーンJr.
8.めざせポケモンマスター/ポケモン選抜(今回のライブでの影のナンバー1はこれだ!)
9.Just Lovin’ You/桐生彩加(1年以上、この曲を歌っており、ずっと見て来た客は、彼女の歌の成長を追うことができる)
10.PUMP IT/Super Bubblez
若干の休憩をはさんで、第2部。
1.SENSEI/ミュージカル選抜
2.愛のカケラ/杉本めぐみ
3.CLUB ZIPANGU/PHRASE(新レパートリー。R・I・N・A=知念里奈がリッキー・マーチンの曲をカバーした歌。新メンバーに元ラズベリーズの吉原望美)
4.In the name of love/ファッションズ(3人になったファッションズ。小さい子が3人だけなので、なんだか寂しい)
5.King & Queen/プリッツ(もっとも激しいダンスをするユニットだと思う。その激しさは、もはや、暴力的と言ってもいいかもしれない)
6.Love like candy floss/TOUCH(ダンスのうまさはNo1。客席にはかつてユニットのメンバーだった子が見に来ていた)
7.Your Song/いちごっ娘(貫禄ついてきたなあ)
8.満月の夜に迎えに来て/ミューズ(スタジオライブでは初披露。CDの収録曲。ミューズの底力が発揮されたいいレパートリーだと思う)
9.don’t you wanna see me (oh) tonight/ブラックベリーズ
10.sexy,naughty,bitchy/ブラックベリーズ(先月の人気投票でも1位。もはや不動の1位か。新メンバー中川かすみは1ヶ月で、この2曲を踊りこなしていた。すごい!今までがミニバブでチアーダンスとかだったので、全然違うダンスなのに。まあ、まだ堅さは残っているけど、すごいよ)
なお、今回は歌わなかったが、新しい「歌のユニット」が誕生したとアナウンスがあった。
メンバーは4人。
円通法子(元ラズベリーズ)
中迫晴香
田中あや
中山阿友(元クランベリーズ)
中山阿友は大好きだったが、ステージに出て来たとき、誰だかわからなかった。不覚。円通法子はかなり好きなので、新ユニットに加入したのはうれしい。
路線変更で歌わなくなった各ユニットの歌を、誰かが歌いついでほしい、と思ってたので、歌中心のユニットは大歓迎。
でも、このメンツでは「恋がはじまるゥ」(ブラックベリーズ)とか「ちょっと背伸びしたい」(ラズベリーズ)とかクランベリーズの歌とか、もう歌わないかな。
今回のライブで僕が選んだベスト3は、プリッツ、TOUCH、ミューズだった。
トリをとって、2曲歌ってほしいと思えるユニットだ。
アトラス―迷宮のボルヘス
2006年7月7日 読書
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『アトラス』を読んだ。
地図帳を意味するタイトルをもつ本書で、ボルヘスは今までに訪れた地に文章を寄せている。写真多数。
普通ならそれは紀行文と呼ばれるはずなのだが、ボルヘスのは一風変わっている。
たとえば、「アイルランド」では、エリウゲナ、ジョージ・バークリー、オスカー・ワイルド、ウェリントン、イェーツ、ジョイス、ジョージ・ムーアという名前がとびかう。
つまり、ボルヘスがどこかに旅して、その地の文章を書くときには、その地の歴史と文学がどどっと押し寄せるわけだ。これはボルヘスの蓄積であって、今、その地に立っての印象なり感想とは性質が違う。これはボルヘスが盲人であったこともあろうが、それだけではない資質みたいなものを感じる。
その他にも、たとえば「始まり」ではソクラテスとパルメニデスの対話が語られる。
本書には「迷宮のボルヘス」とサブタイトルがつけてある。
ボルヘスがさまようのは、空間ではなく、時間なのだ。
歴史、文学、そして、夢。
その地で現在何があったのかを書きとどめていると思われる文章にも、時の迷宮は押し寄せている。
「気球の旅」では、ボルヘスが気球に乗った体験が語られている。ところが「1時間半も続いたであろう散歩は、まさに19世紀であるあの失われた楽園の旅でもあった」と言いはじめる。「モンゴルフィエの創意になる気球で旅することは、ポーやジュール・ヴェルヌやウェルズの物語に帰ることでもある」
「マドリード、1982年7月」では、足を火傷したことが語られる。でも、ここで語られるのは、時間のことなのだ。空間は測ることができるが、時間には共通の尺度がない、ということから語りはじめ、足の火傷のことについても「わたしは、この時を懐かしむことになるであろう、やがて来る時を早くも懐かしんでいる。この滞在における曖昧な時間は、記憶のなかではただ1個のイメージになるだろう。ブエノスアイレスに戻れば、その思い出を懐かしむことになるのが分かっている」と、未来と過去を往復している。
以下、各章とメモ
ガリアの女神(神話は失われたが、女神は美術館にいる)
トーテム(カナダの偶像神の複製の写真。影の影のさらにまた影)
カエサル(今は亡き男と来るべき世の男)
アイルランド(アイルランドは、絶えずアイルランド人でありたいという情熱に駆られた人間たちの国)
狼(イングランド最後の狼。千年が過ぎて、一人の年老いた男がおまえを夢見るだろう)
イスタンブール(カルタゴについて知りうることは、十字軍以来、無慈悲な仇敵の語ることだけ)
天恵(音楽が、美が、愛が、不名誉が、言語が、書物が、別のものが与えられた)
ヴェネツィア(ボルヘスにとって黄昏とヴェネツィアはほとんど同義)
ボッリーニの抜け道(現代人が1890年代の小競合いに懐かしさを覚える)
ポセイドンの神殿(ギリシア人はキリスト教よりも昔からいる)
始まり(ギリシア人2人の対話は歴史上の重要な出来事になり、祈りと魔術は忘却された)
気球の旅(飛翔)
ドイツで見た夢(数多くの倉庫。各倉庫には19列の黒板があり、単語と数字がびっしりと書かれている夢)
アテネ(百科事典の夢。項目に終わりはあるが始まりはなかった。始まりがあるとすればギリシアですべてが始まったのだ)
ジュネーヴ(日本といくぶん似て、ジュネーヴは過去を失うことなく変化してきた)
石とチリ(己の姿であった数々の仮面から解き放たれ、わたしは死のなかで全き忘却となるだろう)
ブリオッシュ(虎は虎でありたいと、石は石でありたいと望む)
モニュメント(オルデンバーグの巨大なボタンに寄せて)
エピダウロス(古代都市エピダウロスで鑑賞した「囚われのプロメテウス」)
ルガノ(スイスのルガノで発見したのは、コールリッジのバラッドとヴェルレーヌの詩)
わたしの最後の虎(なぜ豹でなく虎が好きなのか。斑点が気に入らず縦縞が好きだから)
ミドガルドの虎(宇宙創世の緑色の蛇を夢にみる)
悪夢(エレベーター前にいる円錐形の帽子をかぶったタタール人の夢)
デヤのグレイヴズ(死に瀕して恍惚の近くにいるロバート・グレイヴズ)
夢(わたしの肉体はどこにも存在し得るが、目を覚ましてボルヘスであるという習慣を再び身にまとう時は決まって、ブエノスアイレスで起きる)
小舟(小舟は伝説も歴史も知らない。今も博物館で人を驚嘆の目にさらしている。知らずに)
街角(すべての街角は、ほとんどすべての街角であり得、それ故に、目に見えない原型なのだ)
レイキャヴィク、エスヤ・ホテル(人生では慎ましやかな出来事が天恵となることもあり得る。このホテルでは、円筒、方形、球体、角錐といったユークリッド幾何学の純粋な形が啓示された時に感じた素朴な喜びを取り戻した)
迷宮(クレタの迷宮。わたしたちは時という迷宮で迷いつづけている)
エル・ティグレの島々(世界のあらゆる物事が何らかの引用や書物にわたしを導かずにはいない)
噴水(噴水の存在理由。イスラム教国では古い砂漠への郷愁、スイスでは都市のアルプス化で、山中の滝を再現しようとしている)
短剣のミロンガ(短剣は忘却から救ってくれる手の持ち主の決意どおりのことを起こす)
1983年(レストランで話していた相手は既に死者であった、夢)
カルチェラタンのホテルで記された覚書(オスカー・ワイルドは視覚的なものと音楽的なものを求めた「黄色い90年代」固有の装飾的な様式を、微笑を含みつつ実践)
偉大な術(マジョルカ島のライムンド・ルリオ通りで、ライムンドゥス・ルルスの思考機械について考える)
合流点(合流する二つの川は混ざりあった二つの古い神である。神話研究は人間の永遠の習慣なのだ)
マドリード、1982年7月(空間はヤードでもメートルでも測れる。時間は似たような尺度を受け付けない)
ラプリダ1214番地(アルゼンチンの神秘主義者スル・ソラルの死。記憶に残るような人は皆、逸話に刻まれるという危険にさらされている)
砂漠(エジプトの砂漠で一握りの砂を、遠くに移動したところでこぼす。「わたしはサハラ砂漠の姿を変えようとしている」)
1983年8月22日(昨日と豊かな記憶は、触知できない現在よりも実感がある)
シュタウプバハの滝(時間の始まりの頃から落ちる滝。轟音はいつしか沈黙と化す)
サクラメントの植民地(人間が人間を殺すのは、生殖行為や夢のように、もっとも古くからある習慣の一つだ)
ラ・レコレタ墓地(ここには、墓碑銘と十字架の下には、ほとんど何もない。ここにわたしもいないだろう。わたしは、世界を構成する希薄な物質である忘却の一部になることだろう)
作品による救済について(出雲にきたボルヘス。神々は人間を滅ぼそうとしたが、思いとどまる。人間はひどいものを多く作り出したが、俳句も発明したのだ。人類は俳句のおかげで救われた)
地図帳を意味するタイトルをもつ本書で、ボルヘスは今までに訪れた地に文章を寄せている。写真多数。
普通ならそれは紀行文と呼ばれるはずなのだが、ボルヘスのは一風変わっている。
たとえば、「アイルランド」では、エリウゲナ、ジョージ・バークリー、オスカー・ワイルド、ウェリントン、イェーツ、ジョイス、ジョージ・ムーアという名前がとびかう。
つまり、ボルヘスがどこかに旅して、その地の文章を書くときには、その地の歴史と文学がどどっと押し寄せるわけだ。これはボルヘスの蓄積であって、今、その地に立っての印象なり感想とは性質が違う。これはボルヘスが盲人であったこともあろうが、それだけではない資質みたいなものを感じる。
その他にも、たとえば「始まり」ではソクラテスとパルメニデスの対話が語られる。
本書には「迷宮のボルヘス」とサブタイトルがつけてある。
ボルヘスがさまようのは、空間ではなく、時間なのだ。
歴史、文学、そして、夢。
その地で現在何があったのかを書きとどめていると思われる文章にも、時の迷宮は押し寄せている。
「気球の旅」では、ボルヘスが気球に乗った体験が語られている。ところが「1時間半も続いたであろう散歩は、まさに19世紀であるあの失われた楽園の旅でもあった」と言いはじめる。「モンゴルフィエの創意になる気球で旅することは、ポーやジュール・ヴェルヌやウェルズの物語に帰ることでもある」
「マドリード、1982年7月」では、足を火傷したことが語られる。でも、ここで語られるのは、時間のことなのだ。空間は測ることができるが、時間には共通の尺度がない、ということから語りはじめ、足の火傷のことについても「わたしは、この時を懐かしむことになるであろう、やがて来る時を早くも懐かしんでいる。この滞在における曖昧な時間は、記憶のなかではただ1個のイメージになるだろう。ブエノスアイレスに戻れば、その思い出を懐かしむことになるのが分かっている」と、未来と過去を往復している。
以下、各章とメモ
ガリアの女神(神話は失われたが、女神は美術館にいる)
トーテム(カナダの偶像神の複製の写真。影の影のさらにまた影)
カエサル(今は亡き男と来るべき世の男)
アイルランド(アイルランドは、絶えずアイルランド人でありたいという情熱に駆られた人間たちの国)
狼(イングランド最後の狼。千年が過ぎて、一人の年老いた男がおまえを夢見るだろう)
イスタンブール(カルタゴについて知りうることは、十字軍以来、無慈悲な仇敵の語ることだけ)
天恵(音楽が、美が、愛が、不名誉が、言語が、書物が、別のものが与えられた)
ヴェネツィア(ボルヘスにとって黄昏とヴェネツィアはほとんど同義)
ボッリーニの抜け道(現代人が1890年代の小競合いに懐かしさを覚える)
ポセイドンの神殿(ギリシア人はキリスト教よりも昔からいる)
始まり(ギリシア人2人の対話は歴史上の重要な出来事になり、祈りと魔術は忘却された)
気球の旅(飛翔)
ドイツで見た夢(数多くの倉庫。各倉庫には19列の黒板があり、単語と数字がびっしりと書かれている夢)
アテネ(百科事典の夢。項目に終わりはあるが始まりはなかった。始まりがあるとすればギリシアですべてが始まったのだ)
ジュネーヴ(日本といくぶん似て、ジュネーヴは過去を失うことなく変化してきた)
石とチリ(己の姿であった数々の仮面から解き放たれ、わたしは死のなかで全き忘却となるだろう)
ブリオッシュ(虎は虎でありたいと、石は石でありたいと望む)
モニュメント(オルデンバーグの巨大なボタンに寄せて)
エピダウロス(古代都市エピダウロスで鑑賞した「囚われのプロメテウス」)
ルガノ(スイスのルガノで発見したのは、コールリッジのバラッドとヴェルレーヌの詩)
わたしの最後の虎(なぜ豹でなく虎が好きなのか。斑点が気に入らず縦縞が好きだから)
ミドガルドの虎(宇宙創世の緑色の蛇を夢にみる)
悪夢(エレベーター前にいる円錐形の帽子をかぶったタタール人の夢)
デヤのグレイヴズ(死に瀕して恍惚の近くにいるロバート・グレイヴズ)
夢(わたしの肉体はどこにも存在し得るが、目を覚ましてボルヘスであるという習慣を再び身にまとう時は決まって、ブエノスアイレスで起きる)
小舟(小舟は伝説も歴史も知らない。今も博物館で人を驚嘆の目にさらしている。知らずに)
街角(すべての街角は、ほとんどすべての街角であり得、それ故に、目に見えない原型なのだ)
レイキャヴィク、エスヤ・ホテル(人生では慎ましやかな出来事が天恵となることもあり得る。このホテルでは、円筒、方形、球体、角錐といったユークリッド幾何学の純粋な形が啓示された時に感じた素朴な喜びを取り戻した)
迷宮(クレタの迷宮。わたしたちは時という迷宮で迷いつづけている)
エル・ティグレの島々(世界のあらゆる物事が何らかの引用や書物にわたしを導かずにはいない)
噴水(噴水の存在理由。イスラム教国では古い砂漠への郷愁、スイスでは都市のアルプス化で、山中の滝を再現しようとしている)
短剣のミロンガ(短剣は忘却から救ってくれる手の持ち主の決意どおりのことを起こす)
1983年(レストランで話していた相手は既に死者であった、夢)
カルチェラタンのホテルで記された覚書(オスカー・ワイルドは視覚的なものと音楽的なものを求めた「黄色い90年代」固有の装飾的な様式を、微笑を含みつつ実践)
偉大な術(マジョルカ島のライムンド・ルリオ通りで、ライムンドゥス・ルルスの思考機械について考える)
合流点(合流する二つの川は混ざりあった二つの古い神である。神話研究は人間の永遠の習慣なのだ)
マドリード、1982年7月(空間はヤードでもメートルでも測れる。時間は似たような尺度を受け付けない)
ラプリダ1214番地(アルゼンチンの神秘主義者スル・ソラルの死。記憶に残るような人は皆、逸話に刻まれるという危険にさらされている)
砂漠(エジプトの砂漠で一握りの砂を、遠くに移動したところでこぼす。「わたしはサハラ砂漠の姿を変えようとしている」)
1983年8月22日(昨日と豊かな記憶は、触知できない現在よりも実感がある)
シュタウプバハの滝(時間の始まりの頃から落ちる滝。轟音はいつしか沈黙と化す)
サクラメントの植民地(人間が人間を殺すのは、生殖行為や夢のように、もっとも古くからある習慣の一つだ)
ラ・レコレタ墓地(ここには、墓碑銘と十字架の下には、ほとんど何もない。ここにわたしもいないだろう。わたしは、世界を構成する希薄な物質である忘却の一部になることだろう)
作品による救済について(出雲にきたボルヘス。神々は人間を滅ぼそうとしたが、思いとどまる。人間はひどいものを多く作り出したが、俳句も発明したのだ。人類は俳句のおかげで救われた)
和製喧嘩友達、美はしき出発
2006年7月6日 映画
「ラブひな」アニメの最終回をケーブルテレビで放送していたので、録画して、見た。
素子の姉が来て、素子を連れて帰ろうとする話だった。
素子はとっさに景太郎と結婚する約束をした、とウソをついて、ひなた荘に残ろうとする。
漫画の「ラブひな」のまだ途中の部分で、大きな流れがどこかに行きつくような最終回ではなかった。アニメならではの原作にはない結末でもあるのかと思っていたが、そうではなかった。原作にかなり忠実なアニメだったのかなあ。また再放送でもあれば、確認しておこう。
小津安二郎監督の「和製喧嘩友達」を見た。1929年。サイレント。
仲良しの2人の男性が、女性の闖入者によって、お互い張り合うようになる。
最初は真っ黒な顔だけど、顔を洗うと、抜けるような色白の美人だと判明するのだ。
男2人は殴り合いの喧嘩まではじめるが、もとが仲良しなので、どこか遠慮がちなのがおかしい。
結局、女性は2人以外の男性に惹かれて、2人の男は仲直り。
女性が日常的に日本髪結ってる時代、その頃の景色を見ているだけで楽しい。
この映画見てて、目玉焼きを食べるシーンが何度か出てくるのだが、むしょうに目玉焼きが食べたくなった。ほっぺたが落ちるほどの御馳走に見えるのだ。
なお、タイトルに「和製」とついているからには、外国の映画に似たようなものがあるのかなあ、と思えるのだが、浅学にして不明。
「喧嘩友達」のタイトルではそれらしき似た設定の映画は見つからなかった。
1920年代の映画をもっといっぱい見ておくんだった。
山本薩夫演出(監督という言葉は使われてなかった。どこがどう違うのか?)の「美はしき出発」を見た。1939年。
父親の遺産を食いつぶしながら裕福な生活を営んで来た家族。
高峰秀子は制服姿もういういしい少女。これが可愛い。
姉の原節子は自宅のアトリエでローランサンっぽい絵を描きながら暮らしている。
兄は作家志望で、睡眠薬にたよる不眠症。
ある日、突然貧乏になった。
働いた経験のない兄、姉が就職しなくてはならない事態に陥った。
ところが、兄はラジオ用の懸賞台本で一獲千金を狙い、昼間っから酒に酔う。
原節子は面接にいくつか会社を回るが、ごく普通の労働条件でも「バカにしてるわ」「そんな安い給料では働けません」と、お嬢様全開。
知人の男性がこの2人の就職に関しては骨を折るが、兄の方は用意した就職先の面接をすっぽかし、原節子は「あなたのお世話にはなりません」とお高くとまるのだ。
母は着物を質にいれるまでに苦しい家計をやりくりするが、この2人はいつまでもおぼっちゃま、おじょうちゃんの域を出ようとしない。
現実的に物事に対処しようとしたのは、高峰秀子だけで、彼女は学校をやめて働こうとし、過労と栄養不足で倒れてしまう。
一方、兄は作品が入賞せず、原節子は「あなたの絵は模倣でしかない」と言われる。
結局、貧乏な状況は急遽改善されるが、兄と姉が今回の騒動で自分の芸術を否定されたことで、今までのような甘ったれた創作態度を改めることになる。
兄は不眠症がどうの、なんて言わずにひたすら書きまくる決心を固める。
原節子は、就職して社会に飛び込むことで、人間や社会を見る目を養い、自分なりの個性を身に付けようとする。
社会派の山本薩夫らしい作品だ。
映画の最初と最後はスケートのシーンで、高峰秀子が見事なフィギュアスケートを見せる。(本人かどうかは別として)
モラトリアムから抜け出して、ヨチヨチと創作なり社会との関わりなりに出発した芸術志望の兄姉に比べて、高峰秀子だけは既にスイスイとすべることができるまでに、氷上に挑んできたのだ、ということをあらわしているのだろうか。(これ、ホント!)
僕などは、おぼっちゃまやお嬢さまの道楽や、モラトリアムや、ひきこもりや、うつ依存症などは、勝手にやらせておけばいい、と思うので、無理矢理に社会に引きずり出そうとすることにはあまり積極的に賛成できない。
この映画では、兄はどうしようもない奴だし、原節子は高慢だ。一方、高峰秀子は純真で、真面目だ。高峰秀子は可愛いが、友達になれるとしたら、兄や原節子の方かな、と思う。
正しいことには価値があるが、正しさはつまらないのだ。
素子の姉が来て、素子を連れて帰ろうとする話だった。
素子はとっさに景太郎と結婚する約束をした、とウソをついて、ひなた荘に残ろうとする。
漫画の「ラブひな」のまだ途中の部分で、大きな流れがどこかに行きつくような最終回ではなかった。アニメならではの原作にはない結末でもあるのかと思っていたが、そうではなかった。原作にかなり忠実なアニメだったのかなあ。また再放送でもあれば、確認しておこう。
小津安二郎監督の「和製喧嘩友達」を見た。1929年。サイレント。
仲良しの2人の男性が、女性の闖入者によって、お互い張り合うようになる。
最初は真っ黒な顔だけど、顔を洗うと、抜けるような色白の美人だと判明するのだ。
男2人は殴り合いの喧嘩まではじめるが、もとが仲良しなので、どこか遠慮がちなのがおかしい。
結局、女性は2人以外の男性に惹かれて、2人の男は仲直り。
女性が日常的に日本髪結ってる時代、その頃の景色を見ているだけで楽しい。
この映画見てて、目玉焼きを食べるシーンが何度か出てくるのだが、むしょうに目玉焼きが食べたくなった。ほっぺたが落ちるほどの御馳走に見えるのだ。
なお、タイトルに「和製」とついているからには、外国の映画に似たようなものがあるのかなあ、と思えるのだが、浅学にして不明。
「喧嘩友達」のタイトルではそれらしき似た設定の映画は見つからなかった。
1920年代の映画をもっといっぱい見ておくんだった。
山本薩夫演出(監督という言葉は使われてなかった。どこがどう違うのか?)の「美はしき出発」を見た。1939年。
父親の遺産を食いつぶしながら裕福な生活を営んで来た家族。
高峰秀子は制服姿もういういしい少女。これが可愛い。
姉の原節子は自宅のアトリエでローランサンっぽい絵を描きながら暮らしている。
兄は作家志望で、睡眠薬にたよる不眠症。
ある日、突然貧乏になった。
働いた経験のない兄、姉が就職しなくてはならない事態に陥った。
ところが、兄はラジオ用の懸賞台本で一獲千金を狙い、昼間っから酒に酔う。
原節子は面接にいくつか会社を回るが、ごく普通の労働条件でも「バカにしてるわ」「そんな安い給料では働けません」と、お嬢様全開。
知人の男性がこの2人の就職に関しては骨を折るが、兄の方は用意した就職先の面接をすっぽかし、原節子は「あなたのお世話にはなりません」とお高くとまるのだ。
母は着物を質にいれるまでに苦しい家計をやりくりするが、この2人はいつまでもおぼっちゃま、おじょうちゃんの域を出ようとしない。
現実的に物事に対処しようとしたのは、高峰秀子だけで、彼女は学校をやめて働こうとし、過労と栄養不足で倒れてしまう。
一方、兄は作品が入賞せず、原節子は「あなたの絵は模倣でしかない」と言われる。
結局、貧乏な状況は急遽改善されるが、兄と姉が今回の騒動で自分の芸術を否定されたことで、今までのような甘ったれた創作態度を改めることになる。
兄は不眠症がどうの、なんて言わずにひたすら書きまくる決心を固める。
原節子は、就職して社会に飛び込むことで、人間や社会を見る目を養い、自分なりの個性を身に付けようとする。
社会派の山本薩夫らしい作品だ。
映画の最初と最後はスケートのシーンで、高峰秀子が見事なフィギュアスケートを見せる。(本人かどうかは別として)
モラトリアムから抜け出して、ヨチヨチと創作なり社会との関わりなりに出発した芸術志望の兄姉に比べて、高峰秀子だけは既にスイスイとすべることができるまでに、氷上に挑んできたのだ、ということをあらわしているのだろうか。(これ、ホント!)
僕などは、おぼっちゃまやお嬢さまの道楽や、モラトリアムや、ひきこもりや、うつ依存症などは、勝手にやらせておけばいい、と思うので、無理矢理に社会に引きずり出そうとすることにはあまり積極的に賛成できない。
この映画では、兄はどうしようもない奴だし、原節子は高慢だ。一方、高峰秀子は純真で、真面目だ。高峰秀子は可愛いが、友達になれるとしたら、兄や原節子の方かな、と思う。
正しいことには価値があるが、正しさはつまらないのだ。
『萌え萌えジャパン』でインタビューを読んで、にわかに興味が出て来たので、赤松健の『ラブひな』を読んだ。全14巻。
浦島景太郎は東大をめざす浪人生。成りゆきで女子寮「ひなた荘」の管理人になる。
景太郎をめぐる女子たちは、たとえば、こんな風。
成瀬川なる:東大をめざす受験生。景太郎とはお互い惹かれあっているが、気持をハッキリさせないため、ストーリーが展開していく。
前原しのぶ:中学生。料理が得意。景太郎が大好き。
紺野みつね:19歳、関西人。景太郎を誘惑する。
青山素子:ルパン三世の五右衛門みたいな存在。景太郎に魅かれて、東大をめざすようになる。
乙姫むつみ:おっとりとした天然ボケ。景太郎が好き。
カオラ・スゥ:秘密兵器などを作る。こどもっぽい中学生だけど、満月のときは大人っぽく変身して、景太郎を誘惑したりする。
浦島可奈子:景太郎とは血のつながっていない妹。景太郎を熱愛している。
ああ、もういいかげんにしてほしい。
景太郎ばかりが何故モテる?
毎話、入浴シーンや、景太郎がヘマをして女の子の着替え中に部屋に入ったり、着ているものをはずみで脱がせてしまうシーンなどが盛り込まれる。(なるほど、商業主義だ!)
そのつど、景太郎は女の子に殴られたり、泣かれたりするが、これは税金みたいなもんだ。
ストーリーとしては、9巻あたりまでの東大受験までがテンションが途切れずに面白かった。東大に合格してから、景太郎は考古学の道に進もうと目標を持ったりするのだが、肝心の大学生活がまったくといっていいほど、描かれない。
やっと東大に合格したかと思ったら、景太郎は骨折していきなり休学。
骨折がなおって大学に行ったら、夏期休暇。
さらには、東大ならぬトーダイという地で、インディ・ジョーンズのような活劇がはじまる。
ひなた荘の住人内での物語に終始するのは、仕方ないこととは言え、とても不自然。まるで、ひなた荘を中心とした世界が、景太郎の脳内で編み出された仮想世界ででもあるかのようだ。大学生活って、とても楽しいのに。ひょっとすると、赤松健は楽しい大学生活を送らなかったんじゃなかろうか。だから、大学生活で「いやなことがまったく起こらない」物語を綴ることができなかったんじゃないか。(憶測)
ヒロインの成瀬川なるが、いつまでたっても景太郎の愛にこたえようとしないのは、非常にイライラする設定で、何度本を壁に叩きつけたくなったかしれない。受験生どうしのあいだならいざ知らず、大学生にもなって、幼稚な恋愛してるんじゃねえ!と憤った。
とは言え、最終巻で逃げまくっていた恋の行方がピタッとはまったときは、感動を覚えた。
単行本刊行時にアニメ化もされ、7巻には「なる」役の堀江由衣、9巻には「浦島はるか」役の林原めぐみとの対談も掲載されている。僕は声優さんに関する知識も興味も皆無だったので、アニメ「スクールランブル」で堀江由衣が主題歌歌ってたときも、何とも思わなかったのだが、この7巻の堀江由衣は、可愛い、と思った。7巻は2000年に刊行されている。この頃に戻って、堀江由衣をおいかけなおしたい。
浦島景太郎は東大をめざす浪人生。成りゆきで女子寮「ひなた荘」の管理人になる。
景太郎をめぐる女子たちは、たとえば、こんな風。
成瀬川なる:東大をめざす受験生。景太郎とはお互い惹かれあっているが、気持をハッキリさせないため、ストーリーが展開していく。
前原しのぶ:中学生。料理が得意。景太郎が大好き。
紺野みつね:19歳、関西人。景太郎を誘惑する。
青山素子:ルパン三世の五右衛門みたいな存在。景太郎に魅かれて、東大をめざすようになる。
乙姫むつみ:おっとりとした天然ボケ。景太郎が好き。
カオラ・スゥ:秘密兵器などを作る。こどもっぽい中学生だけど、満月のときは大人っぽく変身して、景太郎を誘惑したりする。
浦島可奈子:景太郎とは血のつながっていない妹。景太郎を熱愛している。
ああ、もういいかげんにしてほしい。
景太郎ばかりが何故モテる?
毎話、入浴シーンや、景太郎がヘマをして女の子の着替え中に部屋に入ったり、着ているものをはずみで脱がせてしまうシーンなどが盛り込まれる。(なるほど、商業主義だ!)
そのつど、景太郎は女の子に殴られたり、泣かれたりするが、これは税金みたいなもんだ。
ストーリーとしては、9巻あたりまでの東大受験までがテンションが途切れずに面白かった。東大に合格してから、景太郎は考古学の道に進もうと目標を持ったりするのだが、肝心の大学生活がまったくといっていいほど、描かれない。
やっと東大に合格したかと思ったら、景太郎は骨折していきなり休学。
骨折がなおって大学に行ったら、夏期休暇。
さらには、東大ならぬトーダイという地で、インディ・ジョーンズのような活劇がはじまる。
ひなた荘の住人内での物語に終始するのは、仕方ないこととは言え、とても不自然。まるで、ひなた荘を中心とした世界が、景太郎の脳内で編み出された仮想世界ででもあるかのようだ。大学生活って、とても楽しいのに。ひょっとすると、赤松健は楽しい大学生活を送らなかったんじゃなかろうか。だから、大学生活で「いやなことがまったく起こらない」物語を綴ることができなかったんじゃないか。(憶測)
ヒロインの成瀬川なるが、いつまでたっても景太郎の愛にこたえようとしないのは、非常にイライラする設定で、何度本を壁に叩きつけたくなったかしれない。受験生どうしのあいだならいざ知らず、大学生にもなって、幼稚な恋愛してるんじゃねえ!と憤った。
とは言え、最終巻で逃げまくっていた恋の行方がピタッとはまったときは、感動を覚えた。
単行本刊行時にアニメ化もされ、7巻には「なる」役の堀江由衣、9巻には「浦島はるか」役の林原めぐみとの対談も掲載されている。僕は声優さんに関する知識も興味も皆無だったので、アニメ「スクールランブル」で堀江由衣が主題歌歌ってたときも、何とも思わなかったのだが、この7巻の堀江由衣は、可愛い、と思った。7巻は2000年に刊行されている。この頃に戻って、堀江由衣をおいかけなおしたい。
萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造
2006年7月4日 読書
堀田純司の『萌え萌えジャパン』を読んだ。
「萌え」「オタク」に関するルポ。なのだが、タイトルの恥ずかしさったら!
第1章「メイドカフェ」
第2章「抱き枕」
第3章「等身大フィギュア」
第4章「アイドル」
(小倉優子にインタビュー)
第5章「美少女ゲーム」
(メイド.Netの関口久也、ねこみみ屋の宮園誠人、TYPE-MOONの武内崇にインタビュー)
第6章「声優」
(清水愛、赤松健にインタビュー)
メイドカフェには何度か行ったことがあるし、アイドルも普通に好きだ。
でも、その他の抱き枕、等身大フィギュア、美少女ゲーム、声優については、ほとんど踏み込んだことがない。だからそれぞれの紹介記事を読む、というスタンスで読んだのだが、さて。
以下、読んでいて興味をひいた部分を引用など。
鶴巻和哉は『フリクリズム フリクリデザインワーク2』で、萌えとは何かについてこう答えている。
「特定のキャラクターに関する不十分な情報を個人的に補う行為」なるほど。
さらに、こんなことを。
「最初の頃にあった萌えという現象は補う行為だったと思うんです。作品の中に萌えが描かれているわけじゃないだろうと。萌えは受け手の中で勝手に芽生える衝動だと思うんです」
な〜るほど。この発言は、一方現在、萌えは作品の中に「萌え要素」としてあらかじめ用意されている、ということにつながっていく。想像力あるいは妄想力の範疇だったものが、商業主義に回収されているのが現在の状況だ、ということだ。
赤松健のインタビューで、自作について「商業主義」と言っている。
ヒットした漫画なら、それはまったくその通りなのだろう。
このインタビューで面白かったのは、『ネギま!』でキャラクターがやたらいっぱい出てくるのは、モーニング娘。にヒントを受けたものだと言っていることだ。
赤松健によるとモーニング娘。は「区別つかないんだけど、楽しいことをやってる」ものとして映ったのだ。モーニング娘。で「区別つかない」とか言っているようでは、『ネギま!』なんてまったく判別不能じゃないか!
また、日本におけるアイドルの歴史は、江戸時代の笠森お仙にはじまるという。
この笠森お仙(1751生まれ)は水茶屋で働く少女で、単なる看板娘の域を越えて、鈴木春信が錦絵に描いたり(今で言えばグラビアやブロマイド!)、狂言になり、絵双紙になり、双六や手ぬぐいなどのグッズまで出たらしいのだ。
大田南畝の『半日閑話』にお仙の人気について書かれているそうなので、また近いうちに探してみよう。
あと、アイドルの章で、こんなことが書いてあった。
漫画やアニメのキャラクターのファンは「この世にいない」という空隙を埋めるために自分の部屋にキャラクターグッズを並べる。
アイドルのファンは「自分の側にいない」という現実を超えるために、イベントや公開収録などを追いかけ、やっぱりグッズを買う。
「自分の手で決して触れられないものを追いかける行為はどこか切ない」って。
外から見ると、そうなのか。
アイドルファンの僕は「アイドルが自分の側にいない」なんてちっとも思っていなかった。
『週刊わたしのおにいちゃん』発売特報のコピーは、こうだったらしい。
「これはもはや凶器っ
しかも戦略核級の…!
死ぬのか?ここで萌え死ぬのか…!?
伝説に参加するために必要なのは…勇気。
そう。これを手にしてレジに進む覚悟…!」
これに絡めて、こう述べている。
日本の萌え文化は「美少女がほしいから集める」という単純な楽しみ方ではない。
「こんなのを集めちゃっているダメ人間のおのれ」をエンターテインメントとして燃焼する多重構造を持った楽しさなのである。
って。
この本は2005年に出たものだが、今、問題になっているのは、こうした多重構造を持たないオタクたちが出現していることにあるんじゃないか。
開き直りというか、単細胞というか、硬直というか、右傾化というか。
そこに、『嫌オタク流』が出版される契機があったのだと思う。
かつては心の狭い一般人がオタクを差別していたが、今や心の狭いオタクが一般人を差別しているのが問題化しているのである。
ともあれ、この『萌え萌えジャパン』は、古きよきオタク、萌えについてのルポであり、しめくくりの表記の控えめな態度が、とてもいい。
「萌え萌えする気分を大切にせよ、などと言うことはできないが、それを面白がるぐらいの想像力は心に抱きたいものである」
「萌え」「オタク」に関するルポ。なのだが、タイトルの恥ずかしさったら!
第1章「メイドカフェ」
第2章「抱き枕」
第3章「等身大フィギュア」
第4章「アイドル」
(小倉優子にインタビュー)
第5章「美少女ゲーム」
(メイド.Netの関口久也、ねこみみ屋の宮園誠人、TYPE-MOONの武内崇にインタビュー)
第6章「声優」
(清水愛、赤松健にインタビュー)
メイドカフェには何度か行ったことがあるし、アイドルも普通に好きだ。
でも、その他の抱き枕、等身大フィギュア、美少女ゲーム、声優については、ほとんど踏み込んだことがない。だからそれぞれの紹介記事を読む、というスタンスで読んだのだが、さて。
以下、読んでいて興味をひいた部分を引用など。
鶴巻和哉は『フリクリズム フリクリデザインワーク2』で、萌えとは何かについてこう答えている。
「特定のキャラクターに関する不十分な情報を個人的に補う行為」なるほど。
さらに、こんなことを。
「最初の頃にあった萌えという現象は補う行為だったと思うんです。作品の中に萌えが描かれているわけじゃないだろうと。萌えは受け手の中で勝手に芽生える衝動だと思うんです」
な〜るほど。この発言は、一方現在、萌えは作品の中に「萌え要素」としてあらかじめ用意されている、ということにつながっていく。想像力あるいは妄想力の範疇だったものが、商業主義に回収されているのが現在の状況だ、ということだ。
赤松健のインタビューで、自作について「商業主義」と言っている。
ヒットした漫画なら、それはまったくその通りなのだろう。
このインタビューで面白かったのは、『ネギま!』でキャラクターがやたらいっぱい出てくるのは、モーニング娘。にヒントを受けたものだと言っていることだ。
赤松健によるとモーニング娘。は「区別つかないんだけど、楽しいことをやってる」ものとして映ったのだ。モーニング娘。で「区別つかない」とか言っているようでは、『ネギま!』なんてまったく判別不能じゃないか!
また、日本におけるアイドルの歴史は、江戸時代の笠森お仙にはじまるという。
この笠森お仙(1751生まれ)は水茶屋で働く少女で、単なる看板娘の域を越えて、鈴木春信が錦絵に描いたり(今で言えばグラビアやブロマイド!)、狂言になり、絵双紙になり、双六や手ぬぐいなどのグッズまで出たらしいのだ。
大田南畝の『半日閑話』にお仙の人気について書かれているそうなので、また近いうちに探してみよう。
あと、アイドルの章で、こんなことが書いてあった。
漫画やアニメのキャラクターのファンは「この世にいない」という空隙を埋めるために自分の部屋にキャラクターグッズを並べる。
アイドルのファンは「自分の側にいない」という現実を超えるために、イベントや公開収録などを追いかけ、やっぱりグッズを買う。
「自分の手で決して触れられないものを追いかける行為はどこか切ない」って。
外から見ると、そうなのか。
アイドルファンの僕は「アイドルが自分の側にいない」なんてちっとも思っていなかった。
『週刊わたしのおにいちゃん』発売特報のコピーは、こうだったらしい。
「これはもはや凶器っ
しかも戦略核級の…!
死ぬのか?ここで萌え死ぬのか…!?
伝説に参加するために必要なのは…勇気。
そう。これを手にしてレジに進む覚悟…!」
これに絡めて、こう述べている。
日本の萌え文化は「美少女がほしいから集める」という単純な楽しみ方ではない。
「こんなのを集めちゃっているダメ人間のおのれ」をエンターテインメントとして燃焼する多重構造を持った楽しさなのである。
って。
この本は2005年に出たものだが、今、問題になっているのは、こうした多重構造を持たないオタクたちが出現していることにあるんじゃないか。
開き直りというか、単細胞というか、硬直というか、右傾化というか。
そこに、『嫌オタク流』が出版される契機があったのだと思う。
かつては心の狭い一般人がオタクを差別していたが、今や心の狭いオタクが一般人を差別しているのが問題化しているのである。
ともあれ、この『萌え萌えジャパン』は、古きよきオタク、萌えについてのルポであり、しめくくりの表記の控えめな態度が、とてもいい。
「萌え萌えする気分を大切にせよ、などと言うことはできないが、それを面白がるぐらいの想像力は心に抱きたいものである」
不思議な国印度の旅、勇士イリヤ、コドモ新聞社
2006年7月3日 アニメ・マンガ
創風社から出ている『小熊秀雄漫画傑作集』を読んだ。現在のところ、2巻までが刊行されている。いずれも中村書店の漫画。
小熊秀雄は詩人で、漫画台本も書いている。
有名なところでは大城のぼるの『火星探検』(旭太郎名義)。
小熊秀雄の年譜を見ると、1939年頃に中村書店の編集顧問になり、漫画台本を提供したが、翌1940年には亡くなっている。自分が台本を書いた漫画が出版されたのは、死後のことになるのだ。小熊秀雄は1901年生まれ。若死にだ!
第1巻は『不思議な国 印度の旅』(1941)と『勇士イリヤ』(1942)の2本立て。
『不思議な国 印度の旅』(絵:渡辺加三)
「威張る神牛 カルカッタの街」
「ダージリンの町 ヒマラヤ連邦」
「夜明けの美観 タイガー・ヒル」
「お猿の大軍 プリーの海水浴場」
「埋められた塔 ブタガヤの聖地」
「猿寺と牛寺 聖都ベナレス」
「愉快な河下り ガンジス見物」
「タジ・マハール 古都アグラ市」
「アジャンタ洞窟 ジャルガオン駅」
「朝方の大さわぎ ボンベイ見物」
「沈黙の塔 パーシーの葬場」
「象狩りの王様 マイソール」
「踊る毒蛇 貿易港マドラス」
一郎、次郎の兄弟と、そのおじさんによるインド旅行記。
夏服と冬服を用意しなければならないほどインドの気候が変わることから、物乞い、ヒンズー教と回教の対立、イギリスの支配などが描かれている。
解説に、手塚治虫の『ふしぎ旅行記』に影響を与えた、と書いてあったので、早速、引っぱり出してきて、読んでみた。
たしかに!
『ふしぎ旅行記』は肉体をなくして幽霊になったケン一少年が、世界をめぐる話で、中国からインド、エジプト、イタリア、フランス、アメリカを旅する。(1950)
インドを旅する「インド珍道中」の章を見ると、天井のむしろを外から引っ張って風を送る「風扇」に驚いたり、釘の上にすわる苦行、牛臭さに閉口するところ、コブラ使いにだまされるところなど、そっくりなシーンが続出した。
手塚治虫は1928年生まれなので、この『不思議な国印度の旅』出版時、13才くらいだ。強烈な印象を残していたとしても不思議はない。
『ロシヤ古代伝説 勇士イリヤ・ムウロメツ』(絵:謝花凡太郎)
「大暴風雨の日に農夫の子供が生まれた」
「不思議な老人が三人で戸を叩いた」
「門出の仕度 馬も鎧も手に入った」
「巨人スウヤトゴルと義兄弟の約束を結んだ」
「イリヤの初奮戦 チェルニーゴフの町」
「怪賊ソロウェイ キエフ行きの近路」
「ウラジーミル王の臣下となったイリヤ」
「裾長の幽霊 ダッタン人とたたかう」
「乞食の知らせ キエフでは大騒ぎ」
「白眼の化物 イリヤに退治られる」
「乗っ取られた城 イリヤかけつける」
ロシヤの英雄叙事詩ブィリーナの国民的ヒーロー、イリヤの物語。
生まれつき片輪で足が萎えているイリヤが、30才になって、3人の不具の老人がたずねてきて、いきなり足も立ち、身体に力がみなぎる。半日で半年分の農作業をこなし、10人がかりでも持ち上げられない槍を自在にあやつる勇士になって悪のバスルマン軍を打ち破り、魔法使いの盗賊ソロウェイを捕らえ、国境でダッタン人を蹴散らし、白眼の化け物の両目を射抜き、キエフで城を乗っ取ったイドリシチエを退治する。
この物語は筒井康隆の書いた『イリヤ・ムウロメツ』で一度読んだことがあったのだが、ほとんど忘れていたので、これもまた引っぱり出してきて、読みなおした。
筒井版の『イリヤ・ムウロメツ』には手塚治虫の絵が添えてある。
奇しくも手塚治虫関連の本をまたも読み返すことになった。
この謝花凡太郎版の『イリヤ』はイドリシチエ退治後、元老に推挙されるが、それを断り、国境で国を守る一生を過ごすことを選んで終わっている。
一方、筒井版『イリヤ』には続きがある。
イリヤのはたらきで城を取り戻したウラジーミル公は、宴をもよおすが、肝心のイリヤを招くのを忘れる。怒ったイリヤは教会の黄金の丸屋根と十字架を射ぬいて壊し、それを金にかえて貧しい民衆に酒をふるまう。
また、謀反を起こそうとする若い勇士とイリヤは一戦まじえるが、この若き勇士は、イリヤがあやまちでこさえた我が息子だった。
最後は、ママイの軍団を打ち破ったイリヤ軍の兵が自分たちのことを「最強」だと自惚れたとたん、天軍があらわれ、イリヤ軍に襲いかかる。
イリヤは神に許しを乞い、天軍はひきあげるが、イリヤは石と化すのだ。
こう並べてみると、筒井版の続き部分は、イリヤの弱い部分が描かれている。
自尊心が傷つけられて反抗してみたり、若い頃のあやまちが暴露されたり、うぬぼれてみたり。
本書巻末には、小熊秀雄の「子供漫画論」が載せられている。
低俗、俗悪、卑俗な漫画に対して、浄化運動が起こっていた頃の話だ。
小熊秀雄は、子供の情操を養う、良心的な漫画を世に出そうとしていた。
イリヤの活躍は、あの部分までがちょうどよかったか。
第2巻は『コドモ新聞社』(1940)絵:渡辺太刀雄
「御殿山の相談会」
(村へ帰ってきた正夫クン、新しくなったお化け屋敷、子供たちの相談、伝書鳩のポッポさん、給仕のチョロちゃん)
「コドモ記者の活動」
(機械ハマワル、怪しい箱、大事件と小事件)
「親切な消防夫」
(花子さんの猫、コドモ新聞第1号、村の迷信〜お婆さんの喧嘩、井戸桶さわぎ、コドモ新聞第2号)
「三里穴の幽霊探険隊」
(にぎり飯の怪、コドモ新聞第3号)
夏休み、こどもたちが新聞を作る。
何も起こりそうにない村の1日でも、ニュースはころがっているのだ。
「正夫さん、悲観してしまいましたよ。さっぱり書くことがなくて」と嘆くこどもが取材してきた事柄を、年長の正夫くんは「こう書いてごらん」とりっぱな記事にしてみせる。
最後の「三里穴の幽霊探険隊」は、誰かが残したにぎり飯に白いカビがはえて、それがフワフワと風に漂って幽霊に見えるという、ちょっとした探偵読み物になっていた。
この小熊秀雄漫画傑作集は、近いうちに第3巻が出るようだ。これは楽しみ。
小熊秀雄は詩人で、漫画台本も書いている。
有名なところでは大城のぼるの『火星探検』(旭太郎名義)。
小熊秀雄の年譜を見ると、1939年頃に中村書店の編集顧問になり、漫画台本を提供したが、翌1940年には亡くなっている。自分が台本を書いた漫画が出版されたのは、死後のことになるのだ。小熊秀雄は1901年生まれ。若死にだ!
第1巻は『不思議な国 印度の旅』(1941)と『勇士イリヤ』(1942)の2本立て。
『不思議な国 印度の旅』(絵:渡辺加三)
「威張る神牛 カルカッタの街」
「ダージリンの町 ヒマラヤ連邦」
「夜明けの美観 タイガー・ヒル」
「お猿の大軍 プリーの海水浴場」
「埋められた塔 ブタガヤの聖地」
「猿寺と牛寺 聖都ベナレス」
「愉快な河下り ガンジス見物」
「タジ・マハール 古都アグラ市」
「アジャンタ洞窟 ジャルガオン駅」
「朝方の大さわぎ ボンベイ見物」
「沈黙の塔 パーシーの葬場」
「象狩りの王様 マイソール」
「踊る毒蛇 貿易港マドラス」
一郎、次郎の兄弟と、そのおじさんによるインド旅行記。
夏服と冬服を用意しなければならないほどインドの気候が変わることから、物乞い、ヒンズー教と回教の対立、イギリスの支配などが描かれている。
解説に、手塚治虫の『ふしぎ旅行記』に影響を与えた、と書いてあったので、早速、引っぱり出してきて、読んでみた。
たしかに!
『ふしぎ旅行記』は肉体をなくして幽霊になったケン一少年が、世界をめぐる話で、中国からインド、エジプト、イタリア、フランス、アメリカを旅する。(1950)
インドを旅する「インド珍道中」の章を見ると、天井のむしろを外から引っ張って風を送る「風扇」に驚いたり、釘の上にすわる苦行、牛臭さに閉口するところ、コブラ使いにだまされるところなど、そっくりなシーンが続出した。
手塚治虫は1928年生まれなので、この『不思議な国印度の旅』出版時、13才くらいだ。強烈な印象を残していたとしても不思議はない。
『ロシヤ古代伝説 勇士イリヤ・ムウロメツ』(絵:謝花凡太郎)
「大暴風雨の日に農夫の子供が生まれた」
「不思議な老人が三人で戸を叩いた」
「門出の仕度 馬も鎧も手に入った」
「巨人スウヤトゴルと義兄弟の約束を結んだ」
「イリヤの初奮戦 チェルニーゴフの町」
「怪賊ソロウェイ キエフ行きの近路」
「ウラジーミル王の臣下となったイリヤ」
「裾長の幽霊 ダッタン人とたたかう」
「乞食の知らせ キエフでは大騒ぎ」
「白眼の化物 イリヤに退治られる」
「乗っ取られた城 イリヤかけつける」
ロシヤの英雄叙事詩ブィリーナの国民的ヒーロー、イリヤの物語。
生まれつき片輪で足が萎えているイリヤが、30才になって、3人の不具の老人がたずねてきて、いきなり足も立ち、身体に力がみなぎる。半日で半年分の農作業をこなし、10人がかりでも持ち上げられない槍を自在にあやつる勇士になって悪のバスルマン軍を打ち破り、魔法使いの盗賊ソロウェイを捕らえ、国境でダッタン人を蹴散らし、白眼の化け物の両目を射抜き、キエフで城を乗っ取ったイドリシチエを退治する。
この物語は筒井康隆の書いた『イリヤ・ムウロメツ』で一度読んだことがあったのだが、ほとんど忘れていたので、これもまた引っぱり出してきて、読みなおした。
筒井版の『イリヤ・ムウロメツ』には手塚治虫の絵が添えてある。
奇しくも手塚治虫関連の本をまたも読み返すことになった。
この謝花凡太郎版の『イリヤ』はイドリシチエ退治後、元老に推挙されるが、それを断り、国境で国を守る一生を過ごすことを選んで終わっている。
一方、筒井版『イリヤ』には続きがある。
イリヤのはたらきで城を取り戻したウラジーミル公は、宴をもよおすが、肝心のイリヤを招くのを忘れる。怒ったイリヤは教会の黄金の丸屋根と十字架を射ぬいて壊し、それを金にかえて貧しい民衆に酒をふるまう。
また、謀反を起こそうとする若い勇士とイリヤは一戦まじえるが、この若き勇士は、イリヤがあやまちでこさえた我が息子だった。
最後は、ママイの軍団を打ち破ったイリヤ軍の兵が自分たちのことを「最強」だと自惚れたとたん、天軍があらわれ、イリヤ軍に襲いかかる。
イリヤは神に許しを乞い、天軍はひきあげるが、イリヤは石と化すのだ。
こう並べてみると、筒井版の続き部分は、イリヤの弱い部分が描かれている。
自尊心が傷つけられて反抗してみたり、若い頃のあやまちが暴露されたり、うぬぼれてみたり。
本書巻末には、小熊秀雄の「子供漫画論」が載せられている。
低俗、俗悪、卑俗な漫画に対して、浄化運動が起こっていた頃の話だ。
小熊秀雄は、子供の情操を養う、良心的な漫画を世に出そうとしていた。
イリヤの活躍は、あの部分までがちょうどよかったか。
第2巻は『コドモ新聞社』(1940)絵:渡辺太刀雄
「御殿山の相談会」
(村へ帰ってきた正夫クン、新しくなったお化け屋敷、子供たちの相談、伝書鳩のポッポさん、給仕のチョロちゃん)
「コドモ記者の活動」
(機械ハマワル、怪しい箱、大事件と小事件)
「親切な消防夫」
(花子さんの猫、コドモ新聞第1号、村の迷信〜お婆さんの喧嘩、井戸桶さわぎ、コドモ新聞第2号)
「三里穴の幽霊探険隊」
(にぎり飯の怪、コドモ新聞第3号)
夏休み、こどもたちが新聞を作る。
何も起こりそうにない村の1日でも、ニュースはころがっているのだ。
「正夫さん、悲観してしまいましたよ。さっぱり書くことがなくて」と嘆くこどもが取材してきた事柄を、年長の正夫くんは「こう書いてごらん」とりっぱな記事にしてみせる。
最後の「三里穴の幽霊探険隊」は、誰かが残したにぎり飯に白いカビがはえて、それがフワフワと風に漂って幽霊に見えるという、ちょっとした探偵読み物になっていた。
この小熊秀雄漫画傑作集は、近いうちに第3巻が出るようだ。これは楽しみ。
リトルキャットSUMMER CONCERT、怪傑黒頭巾
2006年7月2日 アイドル
リトルキャットの夏のダンス&ボーカル発表会、夕方の部を見に行った。
午後5時から江坂のキャットミュージックカレッジ専門学校本館7階CAT HALLにて。入場無料。昼の部もあり、内容は一緒だったようだが、昼の部は連絡したときに、既に満席になっており、夕方の部だけを見ることにした。
以下、プログラム
1.Excellent/Advance1CLASSダンスナンバー
2.七色の明日〜brand new beat〜/Brightness(佐々木なほみ、玉井千晴、藤村聖子、山県みつき、岩田涼子、大城千夏、三枝江梨香、村田桃子)
3.Middle2/Teen’sBasic CLASSダンスナンバー
4.ラッキーチャチャチャ!/KITCAT(鈴木楓、竹井玲那、竹村名保、田中里奈、西森愛美、森本梨々子)
5.RubberSoulダンスナンバー/RubberSoul(内野このみ、小山里奈、田尻紗菜恵、山本彩、吉田あゆみ)
6.Middle1CLASSダンスナンバー
7.Miracles/glitter(川原里依子、馬場里香奈、増井万帆、山田七尋)
8.KIDS CLASSダンスナンバー
9.Keep on Runnin’/BLYTH(近藤綾香、近藤与代、庄司友香莉、田頭沙希、幡菜妙子、吉村麻美)
10.笑顔のままで/Legato(稲田楓、谷侑加子、中島舞子、前田真那)
11.青春アミーゴ
12.LUV IS MAGIC/Sparkle(北脇央子、河野真子、小林亜莉彩、竹井彩夏、宮崎真穂、山口美優、高落真鈴)
13.Lovin’ You/Rosanna(加藤沙織、河野真実、松田泰歩)
14.Advance2CLASSダンスナンバー
15.急上昇JUMP↑
16.MY WAY
17.Result
18.キューティーハニー
19.No Regret
20.Someday
21.Lies
22.D.D.D
23.Shake It Up
24.Precious Your Dream
途中でユニットによるMCが何度か入り、映像を使って卒業生の活躍を上映したり、ラストナンバ−前には、全メンバーの名前のクレジットを練習風景の画像とともに流したりしていた。
15「急上昇ジャンプ」はハレンチパンチ、16「My WAY」17「Result」は玉置成実と、リトルキャット出身のレパートリーを3曲かためた。
全体の印象としては「うわ!歌うま!」だった。こんなことなら、前日のボーカルの発表会も見に来るべきだった。
歌姫ストリートライブなどでステージを見たことのある子もおり、ついついそういう子に目が行ってしまったが、今回のサマーコンサートの収穫は、ユニットLegatoだった。
なに!この子たち!可愛い!
中学3年生と高校1年生の4人で、まだMiddleクラスなので、イベント出演は多くないのだが、ダンスの表現力や熟練に欠ける部分を補ってあまりある魅力だった。
ユニット以外での出演時にも探して目で追ったくらいだ。
リトルキャットはうたい文句に「アイドルの卵あつまれ!」と書いてあるが、ベタなアイドル路線をとっているわけではない。それでも、こんな原石が見つけられるなんて、最高!
しかし、こういうスクールの発表会見に行くと、以前、創叡にいた子とかESSEアカデミーにいた子を発見することもあり、移った理由を聞いてみたくなるなあ。
松村昌治監督の「怪傑黒頭巾」を見た。1958年。
高垣眸原作、大友柳太朗の当たり役だ。
時は幕末。新式銃の設計図を手に入れた幕府だったが、ところどころに書いてある数式などが読み取れない。天城山中に隠棲して数学を研究している蘭学者、山鹿士行(志村喬)と大槻東橘(永田靖)を拉致し、設計図を解読させようとする。
新式銃を国内で作れるようになれば、倒幕側の勢力をいっきに壊滅することができる。
黒頭巾は倒幕側の人間。今回の敵は、山形勲だ。山形勲っていいなあ。出てきただけで、悪役だと一目瞭然。
黒頭巾と山鹿士行が親子だったことも明らかになる。
白い馬にまたがる二丁拳銃の黒頭巾のかっこいいことったらない!
隠密に行動しなければならないのに、白馬なんて目立ちすぎるはずだ。ところが黒頭巾は、その白馬をどこに隠していたかというと、なんと、神社の神馬の馬小屋に入れていたのだ。これはなかなか気のきいた隠し場所ではないか。
松村昌治監督は、ヒーローものが得意だったようで、キカイダー01なども監督している。
この映画では大友柳太朗が多くの変装をするのがみどころ。
黒頭巾
八卦見の天命堂
のんき節を歌う与作(天命堂とは兄弟。一軒の家で一人二役する)
橋のたもとの乞食
矢場「おかめ」で働くおかめ面の男(面をとると、顔がただれている)
洞ケ島でこき使われる人夫
見回りのヒゲ面武士
片目の人夫使い
竜神丸の弥兵衛(ひょっとこ面で踊りながら出てくる)
以上、九変化!
また、角兵衛獅子の役で松島トモコが出ており、「怪傑黒頭巾」の歌をうたう。
歌と踊りは、まさに天才子役の実力発揮だ。
ゴリエ杯で優勝した「パワフルエンジェル」は、現代の角兵衛獅子だな!と発見した。
リトルキャットのダンスではこの手のアクロバットは見られなかった。
まあ、松島トモコがトンボ切る場面は別の人が演じているんだろうけど。
なお、この映画では、与作に恋心を抱いた「おぎん」(長谷川裕見子)が、嫉妬心から黒頭巾を裏切り、最後には黒頭巾をかばって死んでいく。
恋が自分の思いどおりに運ばないからといって、暴発した女は、たとえ悔いあらためたとしても、死をもって償わねばおさまらなかったのだ。
このあたりの、嫉妬心によるひとり相撲は、よくある話だが、ヒーローはそんなことでいちいち傷つかないのである。
午後5時から江坂のキャットミュージックカレッジ専門学校本館7階CAT HALLにて。入場無料。昼の部もあり、内容は一緒だったようだが、昼の部は連絡したときに、既に満席になっており、夕方の部だけを見ることにした。
以下、プログラム
1.Excellent/Advance1CLASSダンスナンバー
2.七色の明日〜brand new beat〜/Brightness(佐々木なほみ、玉井千晴、藤村聖子、山県みつき、岩田涼子、大城千夏、三枝江梨香、村田桃子)
3.Middle2/Teen’sBasic CLASSダンスナンバー
4.ラッキーチャチャチャ!/KITCAT(鈴木楓、竹井玲那、竹村名保、田中里奈、西森愛美、森本梨々子)
5.RubberSoulダンスナンバー/RubberSoul(内野このみ、小山里奈、田尻紗菜恵、山本彩、吉田あゆみ)
6.Middle1CLASSダンスナンバー
7.Miracles/glitter(川原里依子、馬場里香奈、増井万帆、山田七尋)
8.KIDS CLASSダンスナンバー
9.Keep on Runnin’/BLYTH(近藤綾香、近藤与代、庄司友香莉、田頭沙希、幡菜妙子、吉村麻美)
10.笑顔のままで/Legato(稲田楓、谷侑加子、中島舞子、前田真那)
11.青春アミーゴ
12.LUV IS MAGIC/Sparkle(北脇央子、河野真子、小林亜莉彩、竹井彩夏、宮崎真穂、山口美優、高落真鈴)
13.Lovin’ You/Rosanna(加藤沙織、河野真実、松田泰歩)
14.Advance2CLASSダンスナンバー
15.急上昇JUMP↑
16.MY WAY
17.Result
18.キューティーハニー
19.No Regret
20.Someday
21.Lies
22.D.D.D
23.Shake It Up
24.Precious Your Dream
途中でユニットによるMCが何度か入り、映像を使って卒業生の活躍を上映したり、ラストナンバ−前には、全メンバーの名前のクレジットを練習風景の画像とともに流したりしていた。
15「急上昇ジャンプ」はハレンチパンチ、16「My WAY」17「Result」は玉置成実と、リトルキャット出身のレパートリーを3曲かためた。
全体の印象としては「うわ!歌うま!」だった。こんなことなら、前日のボーカルの発表会も見に来るべきだった。
歌姫ストリートライブなどでステージを見たことのある子もおり、ついついそういう子に目が行ってしまったが、今回のサマーコンサートの収穫は、ユニットLegatoだった。
なに!この子たち!可愛い!
中学3年生と高校1年生の4人で、まだMiddleクラスなので、イベント出演は多くないのだが、ダンスの表現力や熟練に欠ける部分を補ってあまりある魅力だった。
ユニット以外での出演時にも探して目で追ったくらいだ。
リトルキャットはうたい文句に「アイドルの卵あつまれ!」と書いてあるが、ベタなアイドル路線をとっているわけではない。それでも、こんな原石が見つけられるなんて、最高!
しかし、こういうスクールの発表会見に行くと、以前、創叡にいた子とかESSEアカデミーにいた子を発見することもあり、移った理由を聞いてみたくなるなあ。
松村昌治監督の「怪傑黒頭巾」を見た。1958年。
高垣眸原作、大友柳太朗の当たり役だ。
時は幕末。新式銃の設計図を手に入れた幕府だったが、ところどころに書いてある数式などが読み取れない。天城山中に隠棲して数学を研究している蘭学者、山鹿士行(志村喬)と大槻東橘(永田靖)を拉致し、設計図を解読させようとする。
新式銃を国内で作れるようになれば、倒幕側の勢力をいっきに壊滅することができる。
黒頭巾は倒幕側の人間。今回の敵は、山形勲だ。山形勲っていいなあ。出てきただけで、悪役だと一目瞭然。
黒頭巾と山鹿士行が親子だったことも明らかになる。
白い馬にまたがる二丁拳銃の黒頭巾のかっこいいことったらない!
隠密に行動しなければならないのに、白馬なんて目立ちすぎるはずだ。ところが黒頭巾は、その白馬をどこに隠していたかというと、なんと、神社の神馬の馬小屋に入れていたのだ。これはなかなか気のきいた隠し場所ではないか。
松村昌治監督は、ヒーローものが得意だったようで、キカイダー01なども監督している。
この映画では大友柳太朗が多くの変装をするのがみどころ。
黒頭巾
八卦見の天命堂
のんき節を歌う与作(天命堂とは兄弟。一軒の家で一人二役する)
橋のたもとの乞食
矢場「おかめ」で働くおかめ面の男(面をとると、顔がただれている)
洞ケ島でこき使われる人夫
見回りのヒゲ面武士
片目の人夫使い
竜神丸の弥兵衛(ひょっとこ面で踊りながら出てくる)
以上、九変化!
また、角兵衛獅子の役で松島トモコが出ており、「怪傑黒頭巾」の歌をうたう。
歌と踊りは、まさに天才子役の実力発揮だ。
ゴリエ杯で優勝した「パワフルエンジェル」は、現代の角兵衛獅子だな!と発見した。
リトルキャットのダンスではこの手のアクロバットは見られなかった。
まあ、松島トモコがトンボ切る場面は別の人が演じているんだろうけど。
なお、この映画では、与作に恋心を抱いた「おぎん」(長谷川裕見子)が、嫉妬心から黒頭巾を裏切り、最後には黒頭巾をかばって死んでいく。
恋が自分の思いどおりに運ばないからといって、暴発した女は、たとえ悔いあらためたとしても、死をもって償わねばおさまらなかったのだ。
このあたりの、嫉妬心によるひとり相撲は、よくある話だが、ヒーローはそんなことでいちいち傷つかないのである。
エンゼルマーク、捨てがたき人々
2006年7月1日 アニメ・マンガ
松永豊和の『エンゼルマーク』を読んだ。
第1話「車輪達」
おばあさんの群れが世界を貫く
第2話「夢宙蒲団」
落ちる夢、浮いている蒲団
第3話「幻蟲姫」
女体虫。サイケなイメージ
第4話「愛童神」
おまじない
第5話「天使迷妄」
ベルリン天使の詩
第6話「監査天使」
上からみおろす天使
繊細な絵で綴られる、ちょっと不思議な話。
『バクネヤング』に見られた毒は、ほとんど見られない。
「天使」というテーマの選び方といい、まるで宗教的転回をしたんじゃないか、と思わせる。
いちばん面白かったのは、「幻蟲姫」で、性欲の処理に自分をもてあましていた中学生時代の淫夢を思わせた。ドラッグなどサイケデリックな体験を好む人は、きっと、中学時代のこういった目眩を何度でも体験したい人なんだろうな、と思った。一種の退行現象か。
『バクネヤング』の暴力性も思春期くさかったし、松永豊和は、青くさい思春期パワーを描くときに、最も魅力を発揮するんだと思う。
さもなければ、絵の綺麗さや技術でお茶を濁すような絵本作家に堕してしまう危うさがある。
もっと、悶々としてもらって、作品に八つ当たりしてほしい。
宗教と漫画、といえば。
ジョージ秋山の『捨てがたき人々』を読んだ。全5巻。
狸穴勇介は三白眼で頭が薄くなりかけた、セックスのことばかり考えている男。
ツラも悪ければ、頭も悪く、品性も卑しい。
「なんか時々よ、生きてんの飽きちゃうんだよなあ」
「人はみな誰もが夢について語るが、心の底で考えていることは、金と食べ物と、セックスのことだけだ」
「オチンチンに感謝しなくっちゃな。俺の性器が丈夫でなかったら、俺はどうなったかねえ。俺も立派な男なんだなあと思えるときは、勃起した時だけだもんねえ」
「好かれることしたって嫌われるんだからよ、だから、嫌われることを初めっからしちゃったほうがなんかいいのよね。満足するつうかさ。ゾッ、ゾーとするの見るとざまあみろつーんで、満足するのよねえ」
「女はよ、ヤッテもらって、ヤラセテあげて。それにヤラレちゃったに値打ちがあるんだからよ」
岡辺京子は新興宗教「神我の湖」の熱心な信者。
10人以上の人を救済してカルマを燃焼させ、解脱することを目指して修行中のブス。
勇介は、「京子はブスだから『神我の湖』に行ってんだろうなあ。いい女には宗教はいらねえもんなあ」って思ってる。
京子は狸穴に強姦されるが、関係を断ち切らず狸穴の子を生み、結婚して夫婦生活を営むにいたる。
勇介の弟、草太も出てくるが、これが勇介に輪をかけてひどい人間。
勇介の母親は草太とは、近親相姦的に甘えた関係にあり、一緒に父親を殺害している。
勇介と京子のあいだに生まれてきた子ども、正義(まさよし)は、父親の勇介に殺されかけたりして、動物虐待するようなこどもに育っていく。
勇介は何年たっても女を性欲のはけ口としてしか見ないし、妻以外との情交も日常的だ。
京子も「神我の湖」の幹部と不倫関係にはいる。
まったく、どいつもこいつも、「救いがたき人々」だ。
こういう醜くも愚かな人々に対して、関係を断ち、絶交し、忌み嫌うのが普通の感情なのかもしれない。捨て去るべき人々なのかもしれない。
しかし、ジョージ秋山は彼らを「捨てがたき人々」と呼ぶ。
彼ら自身は自分が陋劣であることを自覚しながら、そんな自分を捨てることができない。
自分で自分を捨てることができないくらいだから、神はなおさら、彼らを捨てたりしないのだ。
時折、勇介が宗教的啓示を受けるシーンが出てくる。
彼らがきわめて宗教的存在であることを暗示するシーンだ。
何かを捨てた人間は、捨てられたものと同じ存在に堕してしまう。
連載していた「ビッグゴールド」休刊で中断したこの漫画、この後どんな展開を見せたのか、読みたかった。スペクタクルもカタルシスもなかったにちがいないが、まだまだ読み足りない。
第1話「車輪達」
おばあさんの群れが世界を貫く
第2話「夢宙蒲団」
落ちる夢、浮いている蒲団
第3話「幻蟲姫」
女体虫。サイケなイメージ
第4話「愛童神」
おまじない
第5話「天使迷妄」
ベルリン天使の詩
第6話「監査天使」
上からみおろす天使
繊細な絵で綴られる、ちょっと不思議な話。
『バクネヤング』に見られた毒は、ほとんど見られない。
「天使」というテーマの選び方といい、まるで宗教的転回をしたんじゃないか、と思わせる。
いちばん面白かったのは、「幻蟲姫」で、性欲の処理に自分をもてあましていた中学生時代の淫夢を思わせた。ドラッグなどサイケデリックな体験を好む人は、きっと、中学時代のこういった目眩を何度でも体験したい人なんだろうな、と思った。一種の退行現象か。
『バクネヤング』の暴力性も思春期くさかったし、松永豊和は、青くさい思春期パワーを描くときに、最も魅力を発揮するんだと思う。
さもなければ、絵の綺麗さや技術でお茶を濁すような絵本作家に堕してしまう危うさがある。
もっと、悶々としてもらって、作品に八つ当たりしてほしい。
宗教と漫画、といえば。
ジョージ秋山の『捨てがたき人々』を読んだ。全5巻。
狸穴勇介は三白眼で頭が薄くなりかけた、セックスのことばかり考えている男。
ツラも悪ければ、頭も悪く、品性も卑しい。
「なんか時々よ、生きてんの飽きちゃうんだよなあ」
「人はみな誰もが夢について語るが、心の底で考えていることは、金と食べ物と、セックスのことだけだ」
「オチンチンに感謝しなくっちゃな。俺の性器が丈夫でなかったら、俺はどうなったかねえ。俺も立派な男なんだなあと思えるときは、勃起した時だけだもんねえ」
「好かれることしたって嫌われるんだからよ、だから、嫌われることを初めっからしちゃったほうがなんかいいのよね。満足するつうかさ。ゾッ、ゾーとするの見るとざまあみろつーんで、満足するのよねえ」
「女はよ、ヤッテもらって、ヤラセテあげて。それにヤラレちゃったに値打ちがあるんだからよ」
岡辺京子は新興宗教「神我の湖」の熱心な信者。
10人以上の人を救済してカルマを燃焼させ、解脱することを目指して修行中のブス。
勇介は、「京子はブスだから『神我の湖』に行ってんだろうなあ。いい女には宗教はいらねえもんなあ」って思ってる。
京子は狸穴に強姦されるが、関係を断ち切らず狸穴の子を生み、結婚して夫婦生活を営むにいたる。
勇介の弟、草太も出てくるが、これが勇介に輪をかけてひどい人間。
勇介の母親は草太とは、近親相姦的に甘えた関係にあり、一緒に父親を殺害している。
勇介と京子のあいだに生まれてきた子ども、正義(まさよし)は、父親の勇介に殺されかけたりして、動物虐待するようなこどもに育っていく。
勇介は何年たっても女を性欲のはけ口としてしか見ないし、妻以外との情交も日常的だ。
京子も「神我の湖」の幹部と不倫関係にはいる。
まったく、どいつもこいつも、「救いがたき人々」だ。
こういう醜くも愚かな人々に対して、関係を断ち、絶交し、忌み嫌うのが普通の感情なのかもしれない。捨て去るべき人々なのかもしれない。
しかし、ジョージ秋山は彼らを「捨てがたき人々」と呼ぶ。
彼ら自身は自分が陋劣であることを自覚しながら、そんな自分を捨てることができない。
自分で自分を捨てることができないくらいだから、神はなおさら、彼らを捨てたりしないのだ。
時折、勇介が宗教的啓示を受けるシーンが出てくる。
彼らがきわめて宗教的存在であることを暗示するシーンだ。
何かを捨てた人間は、捨てられたものと同じ存在に堕してしまう。
連載していた「ビッグゴールド」休刊で中断したこの漫画、この後どんな展開を見せたのか、読みたかった。スペクタクルもカタルシスもなかったにちがいないが、まだまだ読み足りない。
歌姫ストリートライブ(QBIC-Time)、嫌オタク流
2006年6月30日 アイドル
弁天町ORC200で歌姫ストリートライブ。
今日は出演者が多く、いつもより早い午後5時30分開始になっていた。
最初に出て来たのは、QBIC-Timeの6人。歌って踊って笑えるアイドルユニット。
今回がライブ初お披露目になる。
リーダーは広河七。丸目梨代、宮下ひまり、星ら香澄、暁月ひかり、滝口ミラ。
滝口ミラは、HOP CLUBのミラちゃん。
星ら香澄は、Chuララのかっすん。
高校生と大学生中心のユニットだが、かっすんとミラっちょが同じユニットで活動するなんて、考えてもなかった。
UFO
キューティーハニー
寸劇
ダンス
と、バラエティに富んだステージだった。
寸劇(コント)は声が聞き取りにくくて、残念。こういうステージ展開するアイドルユニットは珍しいので、極力活動を追ってみよう、と思った。
暁月ひかりちゃんも可愛いし、もちろん、かっすんも見たいし。
http://851.jp/x/modules/tinyd0/index.php?id=6
午後6時から、D.I.Peaceのダンス。
小さい女の子3人が10分間ダンス。
3人だけで、よく頑張ってた。
以下、歌姫ライブ。各2曲ずつのライブ。
河野真子/バタフライなど歌う
河野真実/玉置成実のBeleiveではダンスも。
黒田真衣/恋愛の歌を2曲。音源の音出しでトラブルあって残念。
松永奈央/くちばしにチェリーとオリジナル
馬場綾乃/Can You Celeblateなど歌う
佐竹紘菜/オリジナルとMISIA
増井万帆/夏の歌を2曲。ハナミズキとfeel fine
池真衣/バタフライとオリジナル。工業高校で歩行ロボット作成
西真衣子/ステイシー・オリコとフェイレイ。洋楽好きで、アリシア・キーズを練習中。
大河内美紗/人前で歌わなかった歌を2曲。デスティニーと、あなたがいた森
小百合/アイビリーブと月のしずく
baby black/オリジナル2曲。
夜勤明けに図書館に寄ったり、本を読んでたりして、ほとんど眠らずにこのイベントに行ったため、肉体疲労でかなりキツかった。腹痛もぶりかえす。
楽しいことしかしていないつもりなので、文句はないのだが、無限の体力がほしいところだ。
帰宅してから、録画しておいたK1を見る。
応援していたプアカーオが王者になって、大喜び。
なんといっても、あのスパイシーな肉体が、夏バテ防止にききそうだ。
読んだ本は、『嫌オタク流』。中原昌也と高橋ヨシキが、オタク界から海猫沢めろん、更科修一郎を招いて、オタクを肴に言いたい放題。
タイトルは『嫌韓流』をもじっているが、正面切ってオタクの駄目なところを論ずるような本ではない。
海猫沢めろんは言う。「最近オタクの中にあった『諧謔』『自虐』『反逆』の三ギャクがなくなっていっている気がするんですよ」
オタクが「ジャパニメーション」だの「村上隆」だの「2兆円市場」だの「電車男」だのでオーバーグラウンドに出て来て、のさばっているように見えるところを、中原、高橋タッグが「オタクのくせに何をいい気になってるんだ」と挑発して遊んでいる。
「三ギャク」の持ち主たる、よいオタクだと、こういう挑発をシャレとわかっていてニヤニヤ笑いながら受け止めるのだが、そうじゃないオタクも最近いるらしい。
更科氏も、自分より年下のオタクの言動によく理解できないところがある、という意味のことを言っているくらいだ。
この本は、そういう意味で、試金石となる本だろう。
「粗雑な論理でオタクをバッシングしている」と受け取ったり、逆に「気持悪いオタクをボロカスに罵倒してくれてスカッとした」と溜飲を下げるのは、どちらも同じ穴のムジナだ。
この本はそういう本ではないのだ。
怒りとともにこの本を読むのも、「ケッ、オタクめ!」と思うのも、読み方としては、失格。まんまと挑発にのっている。そんな挑発にのる自称オタクがどんな人かと言うと。
オタクを自称しながらモテ/非モテにこだわったり、オタクは弾圧されてきたという偽物の歴史を信じこんだり、「オタクVSサブカル」なんて実在しない確執でものをとらえたり、オタク世代間抗争なんて無意味な観点でものを見たり。
要するに、精神の脆弱さをひけらかして、しかもそのことに自覚的ではない。
この本は、オタクが喜んで読んで、中原、高橋タッグの放つ悪口にさらに自ら「そのとおり!それどころか、こんなこともある」とわざと墓穴を掘って楽しむものなのだ。
ピュアなモラリストにはおすすめできない。ブラックユーモアを解する人でないと、枝葉末節にちりばめられた差別的発言や、暴言の罠にとらわれてしまう。
そういうのを野暮というのだ。
今日は出演者が多く、いつもより早い午後5時30分開始になっていた。
最初に出て来たのは、QBIC-Timeの6人。歌って踊って笑えるアイドルユニット。
今回がライブ初お披露目になる。
リーダーは広河七。丸目梨代、宮下ひまり、星ら香澄、暁月ひかり、滝口ミラ。
滝口ミラは、HOP CLUBのミラちゃん。
星ら香澄は、Chuララのかっすん。
高校生と大学生中心のユニットだが、かっすんとミラっちょが同じユニットで活動するなんて、考えてもなかった。
UFO
キューティーハニー
寸劇
ダンス
と、バラエティに富んだステージだった。
寸劇(コント)は声が聞き取りにくくて、残念。こういうステージ展開するアイドルユニットは珍しいので、極力活動を追ってみよう、と思った。
暁月ひかりちゃんも可愛いし、もちろん、かっすんも見たいし。
http://851.jp/x/modules/tinyd0/index.php?id=6
午後6時から、D.I.Peaceのダンス。
小さい女の子3人が10分間ダンス。
3人だけで、よく頑張ってた。
以下、歌姫ライブ。各2曲ずつのライブ。
河野真子/バタフライなど歌う
河野真実/玉置成実のBeleiveではダンスも。
黒田真衣/恋愛の歌を2曲。音源の音出しでトラブルあって残念。
松永奈央/くちばしにチェリーとオリジナル
馬場綾乃/Can You Celeblateなど歌う
佐竹紘菜/オリジナルとMISIA
増井万帆/夏の歌を2曲。ハナミズキとfeel fine
池真衣/バタフライとオリジナル。工業高校で歩行ロボット作成
西真衣子/ステイシー・オリコとフェイレイ。洋楽好きで、アリシア・キーズを練習中。
大河内美紗/人前で歌わなかった歌を2曲。デスティニーと、あなたがいた森
小百合/アイビリーブと月のしずく
baby black/オリジナル2曲。
夜勤明けに図書館に寄ったり、本を読んでたりして、ほとんど眠らずにこのイベントに行ったため、肉体疲労でかなりキツかった。腹痛もぶりかえす。
楽しいことしかしていないつもりなので、文句はないのだが、無限の体力がほしいところだ。
帰宅してから、録画しておいたK1を見る。
応援していたプアカーオが王者になって、大喜び。
なんといっても、あのスパイシーな肉体が、夏バテ防止にききそうだ。
読んだ本は、『嫌オタク流』。中原昌也と高橋ヨシキが、オタク界から海猫沢めろん、更科修一郎を招いて、オタクを肴に言いたい放題。
タイトルは『嫌韓流』をもじっているが、正面切ってオタクの駄目なところを論ずるような本ではない。
海猫沢めろんは言う。「最近オタクの中にあった『諧謔』『自虐』『反逆』の三ギャクがなくなっていっている気がするんですよ」
オタクが「ジャパニメーション」だの「村上隆」だの「2兆円市場」だの「電車男」だのでオーバーグラウンドに出て来て、のさばっているように見えるところを、中原、高橋タッグが「オタクのくせに何をいい気になってるんだ」と挑発して遊んでいる。
「三ギャク」の持ち主たる、よいオタクだと、こういう挑発をシャレとわかっていてニヤニヤ笑いながら受け止めるのだが、そうじゃないオタクも最近いるらしい。
更科氏も、自分より年下のオタクの言動によく理解できないところがある、という意味のことを言っているくらいだ。
この本は、そういう意味で、試金石となる本だろう。
「粗雑な論理でオタクをバッシングしている」と受け取ったり、逆に「気持悪いオタクをボロカスに罵倒してくれてスカッとした」と溜飲を下げるのは、どちらも同じ穴のムジナだ。
この本はそういう本ではないのだ。
怒りとともにこの本を読むのも、「ケッ、オタクめ!」と思うのも、読み方としては、失格。まんまと挑発にのっている。そんな挑発にのる自称オタクがどんな人かと言うと。
オタクを自称しながらモテ/非モテにこだわったり、オタクは弾圧されてきたという偽物の歴史を信じこんだり、「オタクVSサブカル」なんて実在しない確執でものをとらえたり、オタク世代間抗争なんて無意味な観点でものを見たり。
要するに、精神の脆弱さをひけらかして、しかもそのことに自覚的ではない。
この本は、オタクが喜んで読んで、中原、高橋タッグの放つ悪口にさらに自ら「そのとおり!それどころか、こんなこともある」とわざと墓穴を掘って楽しむものなのだ。
ピュアなモラリストにはおすすめできない。ブラックユーモアを解する人でないと、枝葉末節にちりばめられた差別的発言や、暴言の罠にとらわれてしまう。
そういうのを野暮というのだ。
庖丁人轟桃次郎、花嫁花婿チャンバラ節
2006年6月29日 読書
鯨統一郎の『庖丁人轟桃次郎』を読んだ。
板前桃次郎が、悪人を退治し、料理対決にも勝利していく連作。
「冥福を祈るな」
「死んでゆくのはなぜか」
「悪ふざけは嫌いだ」
「厭なことは忘れよう」
「俺は悪魔か」
「怖い人はいなくなれ」
「いつか罰があたる」
各話で退治される悪人は、もう極悪で、必殺仕掛人に依頼したくなるような奴らばかり。
そして、料理対決では、退治した悪人の肉体の一部を料理に使って、勝利をもぎとっていくのだ。
レバニラ炒め対決では人間の肝臓使ったり、隠し味にザクロを使ったと思わせて実は人肉(ザクロと味が似ているらしい)だった、とか、銀杏がまじっているのかと思ったら指の先だったとか、絶妙なダシのもとが人肉だったとか、ソーセージ対決ではペニスを使うとか。
作品の中で披露される蘊蓄、豆知識は、料理と、酒など。
たとえば、皺のよらない煮豆を作る方法とか。
酒の豆知識で面白かったのは、埼玉県五十嵐酒造の「喜八郎」は、飲めばだれでもベストセラーが書けるのだそうだ。そんなに値の張る酒でもないので、機会があれば、飲んでみたいものだ。
さて、この連作は、悪人の悪さを中心に書かれており、いつもの爽やかさに欠けるように感じた。ストーカーとか、親が子を虐待とか、オヤジ狩りとか、救いようのない犯罪をおかす悪人たち。ところが悪人たちは、年齢が若かったり、心神耗弱を演出したり、マジックマッシュルームでトリップ中で正常な判断ができなかったりして重い刑罰から逃れている。
桃次郎に殺人容疑がかかっていくが、作中、悪人を退治するのが桃次郎だと明記されていたわけではない。料理に人肉を使っているということも、におわせているだけだ。これはひょっとして!最終話で、悪人退治をしていた殺人鬼は、桃次郎ではなかった、とするドンデン返しがあるんじゃないのか。と、期待した。
ところが、最終的には、「いい料理を作るためには食材を愛することだ。逆に言えば、愛する者を料理する。それが一番だ」という考えから、桃次郎は、愛する店の女将を料理してしまう。ドンデンはなかった。
う〜ん、ブラック。
鯨統一郎の本のなかでも、もっともミステリ的カタルシスに乏しい作品かもしれない。
せっかく「ミステリマガジン」に連載されていたシリーズなのに、これはまたどうしたわけだ。
見た映画は、佐伯幸三監督の「花嫁花婿チャンバラ節」1952年。
資産家の息子、長谷部健とビアホールに勤める若尾文子は恋仲。
二人は祝福されて結婚するはずだったが、突然、長谷部健の母親、望月優子が結婚に反対する。
かつて望月優子は若尾文子の父親、劇場の下足番、柳家金語楼と結婚まで約束していたが、金語楼が金をもらって縁談を破棄したことを聞き、失望していたのだ。
だが、それが身分違いの結婚をさせないために親が仕組んだウソだったことが判明し、望月優子は若いふたりの結婚を許す。
他愛無い話だが、若いふたりの周囲を固める役者陣がすごい。
伴淳三郎、森繁久袮、大泉滉、川田晴久。
それぞれの喜劇センスを発揮した演技合戦は見もの。
探偵役の伴淳は例のなまり全開のせりふで、ビールを飲むたびにつけひげが移動するサイレント映画をほうふつとさせるギャグを演じる。
ビアホールで勤める川田晴久は大ジョッキのビールを頭からかぶる。
大泉滉はサイダーしか飲めない男を演じる。
また、水の江滝子のステージも映画用に撮影されたものだが、ちらっと見られる。
ここでも、つけひげがあっちこっちに移動するギャグ。
つい先日見た「夢を召しませ」でも、松竹少女歌劇団のスターが出演していたし、「泉」の有馬稲子は宝塚出身。
1950年代はレビューのスターが映画でも大活躍していたんだなあ。
でも、今も天海祐希とか大活躍してるか。
映画の主題歌でもあり、作中何度も久保幸江が歌う「チャンバラ節」は、チャンバラのときのBGMに面白おかしく歌詞を乗せたもので、今なら小梅太夫とかギター侍のような演芸に通じるものがあると思った。それよりも、アホダラ経が近いけど、最近、あんまりアホダラ経聞かないしね。
板前桃次郎が、悪人を退治し、料理対決にも勝利していく連作。
「冥福を祈るな」
「死んでゆくのはなぜか」
「悪ふざけは嫌いだ」
「厭なことは忘れよう」
「俺は悪魔か」
「怖い人はいなくなれ」
「いつか罰があたる」
各話で退治される悪人は、もう極悪で、必殺仕掛人に依頼したくなるような奴らばかり。
そして、料理対決では、退治した悪人の肉体の一部を料理に使って、勝利をもぎとっていくのだ。
レバニラ炒め対決では人間の肝臓使ったり、隠し味にザクロを使ったと思わせて実は人肉(ザクロと味が似ているらしい)だった、とか、銀杏がまじっているのかと思ったら指の先だったとか、絶妙なダシのもとが人肉だったとか、ソーセージ対決ではペニスを使うとか。
作品の中で披露される蘊蓄、豆知識は、料理と、酒など。
たとえば、皺のよらない煮豆を作る方法とか。
酒の豆知識で面白かったのは、埼玉県五十嵐酒造の「喜八郎」は、飲めばだれでもベストセラーが書けるのだそうだ。そんなに値の張る酒でもないので、機会があれば、飲んでみたいものだ。
さて、この連作は、悪人の悪さを中心に書かれており、いつもの爽やかさに欠けるように感じた。ストーカーとか、親が子を虐待とか、オヤジ狩りとか、救いようのない犯罪をおかす悪人たち。ところが悪人たちは、年齢が若かったり、心神耗弱を演出したり、マジックマッシュルームでトリップ中で正常な判断ができなかったりして重い刑罰から逃れている。
桃次郎に殺人容疑がかかっていくが、作中、悪人を退治するのが桃次郎だと明記されていたわけではない。料理に人肉を使っているということも、におわせているだけだ。これはひょっとして!最終話で、悪人退治をしていた殺人鬼は、桃次郎ではなかった、とするドンデン返しがあるんじゃないのか。と、期待した。
ところが、最終的には、「いい料理を作るためには食材を愛することだ。逆に言えば、愛する者を料理する。それが一番だ」という考えから、桃次郎は、愛する店の女将を料理してしまう。ドンデンはなかった。
う〜ん、ブラック。
鯨統一郎の本のなかでも、もっともミステリ的カタルシスに乏しい作品かもしれない。
せっかく「ミステリマガジン」に連載されていたシリーズなのに、これはまたどうしたわけだ。
見た映画は、佐伯幸三監督の「花嫁花婿チャンバラ節」1952年。
資産家の息子、長谷部健とビアホールに勤める若尾文子は恋仲。
二人は祝福されて結婚するはずだったが、突然、長谷部健の母親、望月優子が結婚に反対する。
かつて望月優子は若尾文子の父親、劇場の下足番、柳家金語楼と結婚まで約束していたが、金語楼が金をもらって縁談を破棄したことを聞き、失望していたのだ。
だが、それが身分違いの結婚をさせないために親が仕組んだウソだったことが判明し、望月優子は若いふたりの結婚を許す。
他愛無い話だが、若いふたりの周囲を固める役者陣がすごい。
伴淳三郎、森繁久袮、大泉滉、川田晴久。
それぞれの喜劇センスを発揮した演技合戦は見もの。
探偵役の伴淳は例のなまり全開のせりふで、ビールを飲むたびにつけひげが移動するサイレント映画をほうふつとさせるギャグを演じる。
ビアホールで勤める川田晴久は大ジョッキのビールを頭からかぶる。
大泉滉はサイダーしか飲めない男を演じる。
また、水の江滝子のステージも映画用に撮影されたものだが、ちらっと見られる。
ここでも、つけひげがあっちこっちに移動するギャグ。
つい先日見た「夢を召しませ」でも、松竹少女歌劇団のスターが出演していたし、「泉」の有馬稲子は宝塚出身。
1950年代はレビューのスターが映画でも大活躍していたんだなあ。
でも、今も天海祐希とか大活躍してるか。
映画の主題歌でもあり、作中何度も久保幸江が歌う「チャンバラ節」は、チャンバラのときのBGMに面白おかしく歌詞を乗せたもので、今なら小梅太夫とかギター侍のような演芸に通じるものがあると思った。それよりも、アホダラ経が近いけど、最近、あんまりアホダラ経聞かないしね。
とみなが貴和の『EDGE』4冊を読んだ。
大滝錬摩は天才的なプロファイラー。美貌の女性なのだが、自分が女であることが許せなくて、男装している。うっかり女扱いすると、えらいめにあう。
藤崎宗一郎は錬摩が愛する友人。負傷によって身体機能を1つ失うと、それを補うかのように超能力を身につけていく。脳の損傷で、記憶が後退しており、大のおとなだが、心はこども。
この2人のドラマがシリーズで語られていくが、僕にとっては、その部分はどうでもいい。
藤崎に重傷を負わせた犯人が、何者かに惨殺され、その犯人が錬摩だということ。
人の心を読める藤崎が、こどもに退行する以前の自分と今の自分を比較されたりすることを嫌がること。などなどが、そういう部分で、シリーズの進行とともに、重要度が増してくる。でも、名探偵コナン見てても、コナンを縮めた組織のことなんか、一番どうでもいい話題だと思う僕にとっては、つらい部分だ。
この4冊、全部読みごたえがあって、面白かった。
まず第1作『EDGE』は黄昏の爆弾魔事件を扱う。
都会でいろんな建物が爆破されるが、それは全部夕方に起こされている。それで、「黄昏の爆弾魔」(ラグナロクボマー)と呼ばれるに至る。
犯人は、仕事帰りの電車の窓から、ちょうどその建物が見えた瞬間に爆破が起こるように、綿密に計画を練っていたのだ。
このシリーズで感心するところは、犯人側の鬱屈した日常が、見事に描かれているところだと思う。
本作では、爆弾魔は、家では醜い感情を剥き出しにする母親の介護で疲れ果てており、職場では要領よく仕事をこなせずに上司に責められる。
このあたり、読んでいて、「こんな毎日なら、僕も爆弾魔になる!」と思うほど、神経くたくたになる。
老いた親と同居し、会社で働く者にとっては、「わかる、わかる!」というような抑圧が書かれているのだ。
母はこんな調子。
「朝食の間中、母は新しく来たヘルパーの悪口を言い続けた」
「母は昔からそうだった。気位が高くて絶対に自分が正しいと思っている。他人が自分の意見に反駁することは、たとえそれがまっとうな意見でも許すことができなかった」
「あんた、だれの稼いだお金でここまで育ててもらったと思ってるんだい」
「車のなかでは、なんにでも口を出したがる母は、ブレーキの踏み方、ハンドルの切り方の一つ一つに小言を言う。自分は運転免許など持っていないのに、だ」
会社ではこんな感じ。
「どうしてこんなことが分からないのかね。
叱り飛ばすのでも、嫌味でもなく、心底分からない、というように彼は尋ねる。
まともに考えたら、この資料を提示して、これを出して、こうだろう。
彼の言うことは至極もっともだ。
いったいきみは、どう考えてこういうやり方にしたんだね。
課長の意見を聞いたあとでそう尋ねられても、自分には答えようもない。はあ、と口籠って首を垂れても、課長は許してくれない」
「(一般職の女の子のヒソヒソ)わざと要領悪くしてるんじゃない?仕事をする時間が短くてすむようにさ」
「きみももう、入社して何年にもなるんだから、もっとしっかりしてくれなかったら、困るよ」
「部屋中に鳴り響く電話の呼び出し音。電話越しに怒鳴り散らす、隣の課の話し声。タバコのにおい。やみくもに導入されたパソコンのせいで熱のこもった空気。
吐き気がする」
『EDGE2〜三月の誘拐者〜』は、死に取りつかれながら自分を偽って生きてきた東大生と、無理解の両親のもとで居場所をなくす小学生女児が出会う。2人はお互い相手の違う孤立無援の闘いをしているが、共闘する同志のような関係を結ぶにいたる。
少女は自分の意志で家出して、川に流されてしまった人形を追って海に向かう。
大切にしていた人形だったのに、親はその価値を認めず、新しいのを買えば済むことだと思い込んでいるのだ。
大学生は、少女が人形を探すのを手伝う。
ここで、立場は対等だ。
だが、世間はそう見ない。誘拐犯が少女を何らかの目的でさらった、という大事件になるのだ。
親を殺せ、学校を殺せ、会社を殺せ、世間を殺せ、社会を殺せ
そうなのだ。僕は、このシリーズ読んでいて、錬摩にも藤崎にも感情移入できず、もっぱら犯人に共感を覚えているのだ。
『EDGE3〜毒の夏〜』では、いわゆる「最近の若いもん」への怒りが爆発し、無差別毒殺(未遂)事件が起きる。
電車内で平気で携帯電話でしゃべりまくるコギャルとか見たら、毒殺したくなるしね〜。
作中の言葉でいうと「我が世の春を謳歌している傍若無人な若者たちに目にもの見せてやりたい一心で」携帯電話をばらしてガリウムヒ素を削り集め、砂糖壷にまぜたりする。(ガリウムヒ素には毒性がなくて、異物混入事件に終わる)
中高生が集まるドラッグストアで青酸ガスを発生させたり(オウム方式)、クライマックスでは隅田川花火大会で、縁日のお好み焼きの溶き粉にボツリヌス菌を投げ入れようとしたり。若者が集まるところを狙うのは、痛快このうえない。
『EDGE4〜檻のない虜囚〜』は、少年が起こす犬虐殺事件。
自分の思ったとおりに事を運ばないと気が済まない母親と、尻に敷かれた父親。言う事をよく聞くよいことして育った少年は、母親の呪縛から逃れられない。
母親は犬好きなのだが、犬が好きというよりも、血統がたいせつで、愛犬が妊娠したことを知ると、子犬は捨てるか殺す以外の選択肢をもたない。
犬の散歩中に、愛犬にさかりつく犬を少年は虐殺する。これは、母親が間接的に犬を殺したに等しい。
「自分の生殺与奪を握っている親のやることに、正面切って盾突くことのできる子どもはそういるまい。親も、子どもに口を出せない雰囲気を作っていたに違いない。時には正論で、時には感情に訴えて、子どもの口を塞いできたのかもしれない」
少年は感情をついに爆発させて、泣きながら叫ぶ。
「ママはわがままじゃない!」「パパは情けなくなんかない!」「だって、どうすればいいんだよ。まだまだあの人たちの世話にならなきゃ生きていけないのに、しょうがないじゃないか」
この4巻めになると、錬摩と宗一郎の話が中心になっており、錬摩の過去がついに次巻で明らかになるようだ。なぜ、錬摩は女性扱いされると怒って、相手を殺そうとまでするのか。
次巻が最終巻になるそうで、この秋に発売予定らしい。
普通なら期待したいところだが、最初に書いたように、錬摩と藤崎のストーリーが、僕にとって一番どうでもいい箇所なのである。まさにこの二人の部分こそが、この『EDGE』シリーズがライトノベルである僅かな紐帯なのだ。やっぱり、僕にはライトノベルは向いてないのかなあ。こういうライトノベル的要素さえなければ、もっと評価できるのに、と思ってしまうのだから。
大滝錬摩は天才的なプロファイラー。美貌の女性なのだが、自分が女であることが許せなくて、男装している。うっかり女扱いすると、えらいめにあう。
藤崎宗一郎は錬摩が愛する友人。負傷によって身体機能を1つ失うと、それを補うかのように超能力を身につけていく。脳の損傷で、記憶が後退しており、大のおとなだが、心はこども。
この2人のドラマがシリーズで語られていくが、僕にとっては、その部分はどうでもいい。
藤崎に重傷を負わせた犯人が、何者かに惨殺され、その犯人が錬摩だということ。
人の心を読める藤崎が、こどもに退行する以前の自分と今の自分を比較されたりすることを嫌がること。などなどが、そういう部分で、シリーズの進行とともに、重要度が増してくる。でも、名探偵コナン見てても、コナンを縮めた組織のことなんか、一番どうでもいい話題だと思う僕にとっては、つらい部分だ。
この4冊、全部読みごたえがあって、面白かった。
まず第1作『EDGE』は黄昏の爆弾魔事件を扱う。
都会でいろんな建物が爆破されるが、それは全部夕方に起こされている。それで、「黄昏の爆弾魔」(ラグナロクボマー)と呼ばれるに至る。
犯人は、仕事帰りの電車の窓から、ちょうどその建物が見えた瞬間に爆破が起こるように、綿密に計画を練っていたのだ。
このシリーズで感心するところは、犯人側の鬱屈した日常が、見事に描かれているところだと思う。
本作では、爆弾魔は、家では醜い感情を剥き出しにする母親の介護で疲れ果てており、職場では要領よく仕事をこなせずに上司に責められる。
このあたり、読んでいて、「こんな毎日なら、僕も爆弾魔になる!」と思うほど、神経くたくたになる。
老いた親と同居し、会社で働く者にとっては、「わかる、わかる!」というような抑圧が書かれているのだ。
母はこんな調子。
「朝食の間中、母は新しく来たヘルパーの悪口を言い続けた」
「母は昔からそうだった。気位が高くて絶対に自分が正しいと思っている。他人が自分の意見に反駁することは、たとえそれがまっとうな意見でも許すことができなかった」
「あんた、だれの稼いだお金でここまで育ててもらったと思ってるんだい」
「車のなかでは、なんにでも口を出したがる母は、ブレーキの踏み方、ハンドルの切り方の一つ一つに小言を言う。自分は運転免許など持っていないのに、だ」
会社ではこんな感じ。
「どうしてこんなことが分からないのかね。
叱り飛ばすのでも、嫌味でもなく、心底分からない、というように彼は尋ねる。
まともに考えたら、この資料を提示して、これを出して、こうだろう。
彼の言うことは至極もっともだ。
いったいきみは、どう考えてこういうやり方にしたんだね。
課長の意見を聞いたあとでそう尋ねられても、自分には答えようもない。はあ、と口籠って首を垂れても、課長は許してくれない」
「(一般職の女の子のヒソヒソ)わざと要領悪くしてるんじゃない?仕事をする時間が短くてすむようにさ」
「きみももう、入社して何年にもなるんだから、もっとしっかりしてくれなかったら、困るよ」
「部屋中に鳴り響く電話の呼び出し音。電話越しに怒鳴り散らす、隣の課の話し声。タバコのにおい。やみくもに導入されたパソコンのせいで熱のこもった空気。
吐き気がする」
『EDGE2〜三月の誘拐者〜』は、死に取りつかれながら自分を偽って生きてきた東大生と、無理解の両親のもとで居場所をなくす小学生女児が出会う。2人はお互い相手の違う孤立無援の闘いをしているが、共闘する同志のような関係を結ぶにいたる。
少女は自分の意志で家出して、川に流されてしまった人形を追って海に向かう。
大切にしていた人形だったのに、親はその価値を認めず、新しいのを買えば済むことだと思い込んでいるのだ。
大学生は、少女が人形を探すのを手伝う。
ここで、立場は対等だ。
だが、世間はそう見ない。誘拐犯が少女を何らかの目的でさらった、という大事件になるのだ。
親を殺せ、学校を殺せ、会社を殺せ、世間を殺せ、社会を殺せ
そうなのだ。僕は、このシリーズ読んでいて、錬摩にも藤崎にも感情移入できず、もっぱら犯人に共感を覚えているのだ。
『EDGE3〜毒の夏〜』では、いわゆる「最近の若いもん」への怒りが爆発し、無差別毒殺(未遂)事件が起きる。
電車内で平気で携帯電話でしゃべりまくるコギャルとか見たら、毒殺したくなるしね〜。
作中の言葉でいうと「我が世の春を謳歌している傍若無人な若者たちに目にもの見せてやりたい一心で」携帯電話をばらしてガリウムヒ素を削り集め、砂糖壷にまぜたりする。(ガリウムヒ素には毒性がなくて、異物混入事件に終わる)
中高生が集まるドラッグストアで青酸ガスを発生させたり(オウム方式)、クライマックスでは隅田川花火大会で、縁日のお好み焼きの溶き粉にボツリヌス菌を投げ入れようとしたり。若者が集まるところを狙うのは、痛快このうえない。
『EDGE4〜檻のない虜囚〜』は、少年が起こす犬虐殺事件。
自分の思ったとおりに事を運ばないと気が済まない母親と、尻に敷かれた父親。言う事をよく聞くよいことして育った少年は、母親の呪縛から逃れられない。
母親は犬好きなのだが、犬が好きというよりも、血統がたいせつで、愛犬が妊娠したことを知ると、子犬は捨てるか殺す以外の選択肢をもたない。
犬の散歩中に、愛犬にさかりつく犬を少年は虐殺する。これは、母親が間接的に犬を殺したに等しい。
「自分の生殺与奪を握っている親のやることに、正面切って盾突くことのできる子どもはそういるまい。親も、子どもに口を出せない雰囲気を作っていたに違いない。時には正論で、時には感情に訴えて、子どもの口を塞いできたのかもしれない」
少年は感情をついに爆発させて、泣きながら叫ぶ。
「ママはわがままじゃない!」「パパは情けなくなんかない!」「だって、どうすればいいんだよ。まだまだあの人たちの世話にならなきゃ生きていけないのに、しょうがないじゃないか」
この4巻めになると、錬摩と宗一郎の話が中心になっており、錬摩の過去がついに次巻で明らかになるようだ。なぜ、錬摩は女性扱いされると怒って、相手を殺そうとまでするのか。
次巻が最終巻になるそうで、この秋に発売予定らしい。
普通なら期待したいところだが、最初に書いたように、錬摩と藤崎のストーリーが、僕にとって一番どうでもいい箇所なのである。まさにこの二人の部分こそが、この『EDGE』シリーズがライトノベルである僅かな紐帯なのだ。やっぱり、僕にはライトノベルは向いてないのかなあ。こういうライトノベル的要素さえなければ、もっと評価できるのに、と思ってしまうのだから。
突入せよ!「あさま山荘」事件、裸女と殺人迷路
2006年6月27日 映画
先日読んだスティグレールによると、動物とヒトとの決定的な違いは、「外在化」にあるという。
と、いうとむずかしそうだが、言わんとすることは、簡単。
外在化というのは、文字や映像で自分の経験を残しておくことができるってこと。
後世の人間は、遺伝的要素以外に、そうやって他人の経験を受け継ぐことができるのだ。
僕の場合は、自分の経験をこうやって日記に書くのは、他人にバトンタッチするためじゃなくて、単純に3日後の自分にバトンタッチしてるだけ、ってのが本当のところかな。
映画でも本でも、そのあらすじやデータだけなら、サイトや本でいくらでも調べることができる。でも、僕が見聞きした経験そのものは、自分で書いた文章からでないと甦ってこないのだ。それが本でも、映画でも。
原田眞人監督の「突入せよ!あさま山荘事件」を見た。2002年。
原作本は確か購入したが、未読。これもまた近いうちに読まねば。
1972年のあさま山荘事件を、警察側から描いている。
組織の問題をとりあげているのは、「踊る大捜査線」的。
警察、機動隊が人質救出と、たてこもる連合赤軍を捕らえる目的をいかに遂行していくかが中心で、どんな組織でもボンクラがいるし、やる気のない奴はいるし、責任を転嫁する奴はいるし、メンツを気にする奴がいるし、世間一般の野次馬的無理解もあるし、いろんな障害があるのだ。
仕事一途の人間そのものは面白味に欠けるが、なぜかそういう人は基盤がしっかりしているというか、自分がやっていることに疑いを持っていない強みが、余裕を生み出し、コミカルなムードをかもし出すようだ。
この映画では、主人公の役所広司が自分のやりたいようにやり、動かしたいように人やものを動かせれば、もっとスムーズに事件は終わっていただろう。
それがなかなかそうはいかないのは、まるでロールプレイングゲームで、「シャーリーの実を持ってきたら水門を開けてやる」とか条件言われるみたいなものだ、と思った。やりたいことをやるために、まず違うことを頑張らねばならない。
こんなゲーム風の解釈だと、連合赤軍と警察は、何にでも置き換え可能だ。
そこが、この映画では赤軍の思想が何であるかを説明せずに済んでいる理由だ。
目的を達成するためのゲームが演じられているのであって、正義はどちらにあるとか、哲学的な善悪なんて問われていない。
このあさま山荘事件のとき、僕は中学生だった。テレビも見ていたので、この事件に鉄球以外のアクションシーンなんてなかったのは承知の上だ。だから、映画が変にアクションシーんとか、死者を前にして復讐を誓う正義感昂揚の燃えるシーンなどを盛り込まなかったのは、とてもよかった。
人質を救出したのは、正義のヒーローでも何でもなく、プロフェッショナルだったのだ。
善悪は二の次だ。
小野田嘉幹監督の「裸女と殺人迷路」を見た。1959年。新東宝。
かたぎになった男が再び犯罪の片棒をかつぐ話。
その犯罪とは、プロ野球の球場の売り上げをごっそりいただこう、という強盗の計画だ。
話を持ちかけた清水将夫は、和田桂之助がまっとうな人間(トランペット吹き)になったことを知り、計画からはずす。
しかし、悪の丹波哲郎は、勤め先に和田の前科を暴露し、解雇させてしまう。これで、和田は計画に自ら参加するようになる。
和田の恋人は、水着喫茶リンデンで踊子をする三ツ矢歌子。これがコケティッシュで可愛い!
和田は球場の警備員になって中の様子をさぐり、強奪を成功させる。
その後は、警察の手を逃れるため、じっと潜伏する。
隠れていることに耐えられなくなったウスノロの御木本伸介がまずケツを割り、清水将夫の指揮で動くことに嫌気がさした丹波哲郎も外に出て逃走中に警察に射殺される。
和田は自首しようとする。自分から勝手に計画にからんできて、勝手に自首するなんて、中途半端な奴だ!そもそもこの恋人たち、他人の言葉にいいようにだまされて右往左往しすぎ。
警察に行く前に恋人の三ツ矢歌子に会おうとするが、その途中で警察に撃たれて負傷。
その騒ぎを見に行った清水も警察の目にとまり、逮捕。
結局、和田は巻き込まれただけだから2年もすればおつとめを終えて出てくるだろう、と警察に言われて、ほっとする三ツ矢歌子。
ボスの清水将夫が、まるでジャン・ギャバンみたいで、いい演技をしていた。
ところで、タイトルの「裸女と殺人迷路」だが、彼ら悪人たちが暮らすのが、まるで迷路のようなカスバで、警察のガサ入れがあっても、いろんな抜け道が用意してあるところなのだ。丹波哲郎は、そこで詳しい動機は不明だが女を殺している。それで、「殺人迷路」か。
その殺された女は、肉付きがよくて、化粧が濃い不細工な女。でも、一応下着姿だったので、「裸女」か。乳房や尻が見えるわけではない。
えっ、でもそれじゃ、球場の金を強奪する事件とか、犯罪に巻き込まれるトランペット吹きとか、要するに、本編とタイトルは、何の関係もない!
と、いうとむずかしそうだが、言わんとすることは、簡単。
外在化というのは、文字や映像で自分の経験を残しておくことができるってこと。
後世の人間は、遺伝的要素以外に、そうやって他人の経験を受け継ぐことができるのだ。
僕の場合は、自分の経験をこうやって日記に書くのは、他人にバトンタッチするためじゃなくて、単純に3日後の自分にバトンタッチしてるだけ、ってのが本当のところかな。
映画でも本でも、そのあらすじやデータだけなら、サイトや本でいくらでも調べることができる。でも、僕が見聞きした経験そのものは、自分で書いた文章からでないと甦ってこないのだ。それが本でも、映画でも。
原田眞人監督の「突入せよ!あさま山荘事件」を見た。2002年。
原作本は確か購入したが、未読。これもまた近いうちに読まねば。
1972年のあさま山荘事件を、警察側から描いている。
組織の問題をとりあげているのは、「踊る大捜査線」的。
警察、機動隊が人質救出と、たてこもる連合赤軍を捕らえる目的をいかに遂行していくかが中心で、どんな組織でもボンクラがいるし、やる気のない奴はいるし、責任を転嫁する奴はいるし、メンツを気にする奴がいるし、世間一般の野次馬的無理解もあるし、いろんな障害があるのだ。
仕事一途の人間そのものは面白味に欠けるが、なぜかそういう人は基盤がしっかりしているというか、自分がやっていることに疑いを持っていない強みが、余裕を生み出し、コミカルなムードをかもし出すようだ。
この映画では、主人公の役所広司が自分のやりたいようにやり、動かしたいように人やものを動かせれば、もっとスムーズに事件は終わっていただろう。
それがなかなかそうはいかないのは、まるでロールプレイングゲームで、「シャーリーの実を持ってきたら水門を開けてやる」とか条件言われるみたいなものだ、と思った。やりたいことをやるために、まず違うことを頑張らねばならない。
こんなゲーム風の解釈だと、連合赤軍と警察は、何にでも置き換え可能だ。
そこが、この映画では赤軍の思想が何であるかを説明せずに済んでいる理由だ。
目的を達成するためのゲームが演じられているのであって、正義はどちらにあるとか、哲学的な善悪なんて問われていない。
このあさま山荘事件のとき、僕は中学生だった。テレビも見ていたので、この事件に鉄球以外のアクションシーンなんてなかったのは承知の上だ。だから、映画が変にアクションシーんとか、死者を前にして復讐を誓う正義感昂揚の燃えるシーンなどを盛り込まなかったのは、とてもよかった。
人質を救出したのは、正義のヒーローでも何でもなく、プロフェッショナルだったのだ。
善悪は二の次だ。
小野田嘉幹監督の「裸女と殺人迷路」を見た。1959年。新東宝。
かたぎになった男が再び犯罪の片棒をかつぐ話。
その犯罪とは、プロ野球の球場の売り上げをごっそりいただこう、という強盗の計画だ。
話を持ちかけた清水将夫は、和田桂之助がまっとうな人間(トランペット吹き)になったことを知り、計画からはずす。
しかし、悪の丹波哲郎は、勤め先に和田の前科を暴露し、解雇させてしまう。これで、和田は計画に自ら参加するようになる。
和田の恋人は、水着喫茶リンデンで踊子をする三ツ矢歌子。これがコケティッシュで可愛い!
和田は球場の警備員になって中の様子をさぐり、強奪を成功させる。
その後は、警察の手を逃れるため、じっと潜伏する。
隠れていることに耐えられなくなったウスノロの御木本伸介がまずケツを割り、清水将夫の指揮で動くことに嫌気がさした丹波哲郎も外に出て逃走中に警察に射殺される。
和田は自首しようとする。自分から勝手に計画にからんできて、勝手に自首するなんて、中途半端な奴だ!そもそもこの恋人たち、他人の言葉にいいようにだまされて右往左往しすぎ。
警察に行く前に恋人の三ツ矢歌子に会おうとするが、その途中で警察に撃たれて負傷。
その騒ぎを見に行った清水も警察の目にとまり、逮捕。
結局、和田は巻き込まれただけだから2年もすればおつとめを終えて出てくるだろう、と警察に言われて、ほっとする三ツ矢歌子。
ボスの清水将夫が、まるでジャン・ギャバンみたいで、いい演技をしていた。
ところで、タイトルの「裸女と殺人迷路」だが、彼ら悪人たちが暮らすのが、まるで迷路のようなカスバで、警察のガサ入れがあっても、いろんな抜け道が用意してあるところなのだ。丹波哲郎は、そこで詳しい動機は不明だが女を殺している。それで、「殺人迷路」か。
その殺された女は、肉付きがよくて、化粧が濃い不細工な女。でも、一応下着姿だったので、「裸女」か。乳房や尻が見えるわけではない。
えっ、でもそれじゃ、球場の金を強奪する事件とか、犯罪に巻き込まれるトランペット吹きとか、要するに、本編とタイトルは、何の関係もない!
ス−ザン・バック=モースの『テロルを考える〜イスラム主義と批判理論』を読んだ。
第1章グローバルな公共圏?
9・11直後に書かれた文章。
テロ後にアメリカがとった恐怖を植え付ける方法や、ダブルスタンダードなどが書かれている。
著者は直前まで「グローバリズムの考古学」をテーマに書こうとしていたらしい。
グローバリズムという観点から言えば、テロは野蛮で残虐な「外部」が起こしたものではない。グローバルな領域には外部が存在しないからだ。それは、「内破」と呼ぶべきものだ。
アメリカが「テロとの戦い」を標榜するのは、敵が明確な空間的領土に住んでいるわけではない、グローバル戦争であるからだ。それにもかかわらず、アフガニスタンという地政上の領土を攻撃したのは自己矛盾である。
などなど。
第2章批判理論とイスラム主義
ニューヨーク大学で開かれた会議「批判理論はいまどんな意味をもつのか」での発表をもとに書かれている。
アメリカのメディアが伝えるテロと残虐のイメージではない、イスラム主義の本当の姿を伝えようとしている。
第3章グローバルな対抗文化?
メキシコシティの美術館での講演より。
商業化され、自己完結して自己満足しているアートの状況に喝を入れ、社会的想像力を再活性化する、ラディカルにコスモポリタンで批判的な対抗文化を求める。
第4章監視テクノロジーの時代のアート
アメリカとメキシコのアーティストに新作を委嘱した「in SITE2000」のカタログのために書かれた文章。スーザン・バック=モースはそのキュレーターの1人。
カモフラージュ、群集のなかへの消失、シェルター、見えない都市、アジト、など、グローバル監視時代からの逃走をはかるプロジェクトが多数語られる。
街のあちこちがゲリラ的にギャラリーと化すような内容だったようだ。
第5章グローバルな左翼はありうるか?
ヒシャム・シャラビ教授の退職を記念した学会での発表。
ここでも語られるグローバルな内在性。
それぞれ部分的な場で展開されてきたさまざまな批判の言説を結び付ける事を目指す。
第6章インタヴュー
「ジャーナル・オブ・ヴィジュアル・カルチャー」誌掲載のインタビュー。
『夢世界とカタストロフィー』について。この本ではヘーゲルとハイチ革命のつながりなんかを扱っているらしい。
また、過去の断片を集めて現代の関心と並置する方法論について語る。
以上、寄せ集められて1冊になったからか、スーザン・バック=モースの持ち味なのか、いろんなものを大きな風呂敷で包んで語ってしまおうとする感じがした。
ダイナミックとも言えるし、雑とも言える。
グローバルな内在性もその文脈でとれるし、過去と現代の並置にしても、そう。
イスラム主義を批判の道具として使うやり方も、「今までこの分野はよく知らなかったけど、宝の山じゃん!」とか言ってはしゃいで使っているような気がする。(気だけ)
タイトルはお固いイメージだが、意外と、この人、日本でいえば香山リカみたいな感じの人なんじゃなかろうか。
第1章グローバルな公共圏?
9・11直後に書かれた文章。
テロ後にアメリカがとった恐怖を植え付ける方法や、ダブルスタンダードなどが書かれている。
著者は直前まで「グローバリズムの考古学」をテーマに書こうとしていたらしい。
グローバリズムという観点から言えば、テロは野蛮で残虐な「外部」が起こしたものではない。グローバルな領域には外部が存在しないからだ。それは、「内破」と呼ぶべきものだ。
アメリカが「テロとの戦い」を標榜するのは、敵が明確な空間的領土に住んでいるわけではない、グローバル戦争であるからだ。それにもかかわらず、アフガニスタンという地政上の領土を攻撃したのは自己矛盾である。
などなど。
第2章批判理論とイスラム主義
ニューヨーク大学で開かれた会議「批判理論はいまどんな意味をもつのか」での発表をもとに書かれている。
アメリカのメディアが伝えるテロと残虐のイメージではない、イスラム主義の本当の姿を伝えようとしている。
第3章グローバルな対抗文化?
メキシコシティの美術館での講演より。
商業化され、自己完結して自己満足しているアートの状況に喝を入れ、社会的想像力を再活性化する、ラディカルにコスモポリタンで批判的な対抗文化を求める。
第4章監視テクノロジーの時代のアート
アメリカとメキシコのアーティストに新作を委嘱した「in SITE2000」のカタログのために書かれた文章。スーザン・バック=モースはそのキュレーターの1人。
カモフラージュ、群集のなかへの消失、シェルター、見えない都市、アジト、など、グローバル監視時代からの逃走をはかるプロジェクトが多数語られる。
街のあちこちがゲリラ的にギャラリーと化すような内容だったようだ。
第5章グローバルな左翼はありうるか?
ヒシャム・シャラビ教授の退職を記念した学会での発表。
ここでも語られるグローバルな内在性。
それぞれ部分的な場で展開されてきたさまざまな批判の言説を結び付ける事を目指す。
第6章インタヴュー
「ジャーナル・オブ・ヴィジュアル・カルチャー」誌掲載のインタビュー。
『夢世界とカタストロフィー』について。この本ではヘーゲルとハイチ革命のつながりなんかを扱っているらしい。
また、過去の断片を集めて現代の関心と並置する方法論について語る。
以上、寄せ集められて1冊になったからか、スーザン・バック=モースの持ち味なのか、いろんなものを大きな風呂敷で包んで語ってしまおうとする感じがした。
ダイナミックとも言えるし、雑とも言える。
グローバルな内在性もその文脈でとれるし、過去と現代の並置にしても、そう。
イスラム主義を批判の道具として使うやり方も、「今までこの分野はよく知らなかったけど、宝の山じゃん!」とか言ってはしゃいで使っているような気がする。(気だけ)
タイトルはお固いイメージだが、意外と、この人、日本でいえば香山リカみたいな感じの人なんじゃなかろうか。
松田定次監督の「妖蛇の魔殿」を見る。1956年。
幼いときに両親を殺された片岡千恵蔵が、長じて後、敵討ちする物語。
悪人の更科弾正は山形勲。
両親と一緒に片岡千恵蔵も殺されかけるのだが、マグマ大使のアースにも似た仙覚道人(薄田研二)に間一髪のところを助けられたのだ。
年月は過ぎ去り。
片岡千恵蔵は、ガマに化ける妖術の使い手で、「自来也」を名乗る。報いは自分に戻って来る、という意味をこめている。片岡千恵蔵演ずる自来也は、このとき二十代の設定だ。千恵蔵53才。無理があるのでは?
同じく更科弾正を仇として追っているのが、綱手姫(長谷川裕見子)。蜘蛛に化ける。
また、大蛇丸(月形龍之介)は蛇に化ける妖術使い。大蛇丸は金で動くプロフェッショナルだが、個人的に綱手姫に惚れてしまい、そのライバルとして自来也と戦うことになる。
ガマ、蜘蛛、蛇のそれぞれの妖術合戦が、この映画のみどころ。
そこに見られる特撮技術は、50年前のものだが、1つ1つが愛おしい。
クライマックスでの自来也と大蛇丸の決戦は歌舞伎を見ているかのようだった。
しびれたのは、自来也が更科弾正を追い詰めたときのせりふ。
幼いとき、自来也が殺されかけたとき、逆に更科弾正側から言われた言葉を、そのまんま使っているのだ。
「フフフフフフフ。おそろしいか。おそろしければ、泣け!叫べ!吠えろ!
いかほど泣き、いかほど叫び、いかほど吠えればとて、覆水は盆にかえらず。
あと、一瞬の命」
このとき、幼い頃の自来也には仙覚道人の助けがあったが、更科弾正には何もなかった。
こういう敵討の物語を見て思いだしたのは、最近、妻子を殺害された男が、18才の犯人に対して、「死刑にしてくれ!死刑にしないのなら、今すぐここに出せ!わたしが自分の手で殺す!」といきまいている光景だった。
この男性のように、公然と他人に対する明らかな殺意を表明して、誰にも止められず、共感する人まで出て来る事態は、興味深い。
なんなら、犯人を釈放して、仇討ちを認めればいいんじゃないか、と思う。
仇討ちには「返り討ち」だってもちろんあるわけだから、この男性は、18才の犯人を殺害するために、格闘術や殺人術をマスターしなければならないし、勤めも辞めねばならないだろう。会社が割り出されたら、通勤中に敵の攻撃があるかもしれないからだ。
この映画の綱手姫は、10年にわたって人里離れた場所で妖術を磨き、また様々な準備を行ってきた。
自来也だって、十年以上にわたって妖術を磨いて、やっとのことで、仇討ちに乗り出したのだ。
この男性も10年ほどかけて、殺し屋としての腕を磨き、妖術の1つも使えるようになってから、犯人を追い詰めていってもらいたい。
忠臣蔵を見てもわかるように、仇討ちには、周到な準備が必要なのだ。
今からせっせと準備をし、むしろわざと脱獄させるような裏技を使ってでも、仇討ちをするべきだ。
幼いときに両親を殺された片岡千恵蔵が、長じて後、敵討ちする物語。
悪人の更科弾正は山形勲。
両親と一緒に片岡千恵蔵も殺されかけるのだが、マグマ大使のアースにも似た仙覚道人(薄田研二)に間一髪のところを助けられたのだ。
年月は過ぎ去り。
片岡千恵蔵は、ガマに化ける妖術の使い手で、「自来也」を名乗る。報いは自分に戻って来る、という意味をこめている。片岡千恵蔵演ずる自来也は、このとき二十代の設定だ。千恵蔵53才。無理があるのでは?
同じく更科弾正を仇として追っているのが、綱手姫(長谷川裕見子)。蜘蛛に化ける。
また、大蛇丸(月形龍之介)は蛇に化ける妖術使い。大蛇丸は金で動くプロフェッショナルだが、個人的に綱手姫に惚れてしまい、そのライバルとして自来也と戦うことになる。
ガマ、蜘蛛、蛇のそれぞれの妖術合戦が、この映画のみどころ。
そこに見られる特撮技術は、50年前のものだが、1つ1つが愛おしい。
クライマックスでの自来也と大蛇丸の決戦は歌舞伎を見ているかのようだった。
しびれたのは、自来也が更科弾正を追い詰めたときのせりふ。
幼いとき、自来也が殺されかけたとき、逆に更科弾正側から言われた言葉を、そのまんま使っているのだ。
「フフフフフフフ。おそろしいか。おそろしければ、泣け!叫べ!吠えろ!
いかほど泣き、いかほど叫び、いかほど吠えればとて、覆水は盆にかえらず。
あと、一瞬の命」
このとき、幼い頃の自来也には仙覚道人の助けがあったが、更科弾正には何もなかった。
こういう敵討の物語を見て思いだしたのは、最近、妻子を殺害された男が、18才の犯人に対して、「死刑にしてくれ!死刑にしないのなら、今すぐここに出せ!わたしが自分の手で殺す!」といきまいている光景だった。
この男性のように、公然と他人に対する明らかな殺意を表明して、誰にも止められず、共感する人まで出て来る事態は、興味深い。
なんなら、犯人を釈放して、仇討ちを認めればいいんじゃないか、と思う。
仇討ちには「返り討ち」だってもちろんあるわけだから、この男性は、18才の犯人を殺害するために、格闘術や殺人術をマスターしなければならないし、勤めも辞めねばならないだろう。会社が割り出されたら、通勤中に敵の攻撃があるかもしれないからだ。
この映画の綱手姫は、10年にわたって人里離れた場所で妖術を磨き、また様々な準備を行ってきた。
自来也だって、十年以上にわたって妖術を磨いて、やっとのことで、仇討ちに乗り出したのだ。
この男性も10年ほどかけて、殺し屋としての腕を磨き、妖術の1つも使えるようになってから、犯人を追い詰めていってもらいたい。
忠臣蔵を見てもわかるように、仇討ちには、周到な準備が必要なのだ。
今からせっせと準備をし、むしろわざと脱獄させるような裏技を使ってでも、仇討ちをするべきだ。
時東ぁみ、HELP!@銭ゲバ、からみ合い
2006年6月25日 アイドル
ディスクピア日本橋で午後6時から、時東ぁみのミニライブ。(入場フリー)
雨が降ったため予定されていた大阪城公園での城天ストリートライブは中止になった。これは残念。
会場は、まずDVD購入者が前の方に坐り、かなり後方から、フリ−入場者の席が用意されていた。
また、「ちちんぷいぷい」のカメラも入っていた。いつ放送なんだろう。
イベントはまず、中野サンプラザでのライブまでの歩みを映像でふりかえる。
これは発売されているDVDには収録されていないらしい。
上映は1曲目の「21世紀まで愛して」まで。
フィルムコンサートみたいに、盛り上がるお客さん。
以下、ライブの曲目。
1.メロンのためいき
2.せんちめんたる じぇねれ〜しょん
3.発明美人とパインナッポー!!!
DVD購入者にはこの後、特典の握手会とかあったようだが、今日はHELP!だったので、銭ゲバに急ぐ。
午後7時から銭ゲバで「HELP!」
今日はパジャマDEナイトという副題がついた。
出演するアイドルちゃんたちには、寝巻きで参加してもらう。
司会は僕と、草壁コウジ、ぶっちょカシワギ。
今回のHELP!アイドルは、丼野M美、野中ひゆ、ちやじ、ジョジョ川、えぴお。
個人演技では歌2曲ずつのライブ。
あと、各アイドルちゃんに、最近みた印象的な夢をイラストつきで解説してもらう。
シンキングタイムにはアイドル秘蔵映像を流す。
今回用意したのは、まさに感涙の映像。
アイドルが泣いているシーンばかり集めたのだ。
マシマロを使ったアイドルちゃんとお客さんとのマンツーマンによる玉入れ合戦もした。
これが意外とヒートアップした。
アイドルちゃんから直接口にマシマロを入れてもらうなんて、そうそうあることではない。
イベントの最後は、指地図子ちゃんが飛び入り参加して、アイドルちゃんたちがブルマ姿になって、味園ビルをねり歩き、そのまま雨のふる外へ。黒門市場あたりまで遠征して、屋外の撮影タイム。
今日のアイドルちゃんたちの露出度はかなり高めで、水着にブルマに、ベビードール。
生着替えもあった。
アイドルイベントとは何の関係もないが、突然、昔からの友人、ピリピリの奥田さんが乱入してきて、ギターで1曲歌った。「保山のイベントはエグイな〜」とニヤニヤしてた。
今日は雨が降っていたため、午後に行こうと思っていたATCのダンス&ボーカルコンテスト予選に行かなかった。決勝は雨天順延になっていたため、今日も順延されたと思い込んでいたのだ。
ところが、場所をかえて、屋内で予選は行われたようだ。
ダンス部門で出場した邪王院弘氏から予選出場者を教えてもらった。
今回はダンス11組、ボーカル7組、ダンス11組の順で出場した。
1.メガワイルド
2.Chip☆star
3.ONE
4.マンモスター☆
5.ポニーズ
6.Super☆star
7.Zeal Jr Girls
8.NAKID’S
9.jiggy
10.ストロベリーベリー
11.ピロピロMix
12.三木杏里
13.正田久乃
14.道場沙愛
15.田崎開士
16.柳本夕歩
17.田中愛梨
18.くっきぃ
19.シャカラカバービー
20.Funky Funny Bus
21.Jelly Beans
22.クレバーオブクラマーズ
23.G FOOL
24.シャンゲリラ
25.邪王院弘
26.AIR WAVES
27.Glitter
28.Crazy Green Piece
29.BOO→YA
予選通過者は不明。
午後2時から4時半頃までやってたようなので、これを見に行ったあと、ディスクピアに行っても間に合ったか、と思った。
で、ATCに行かなかった時間、何をしてたかというと、家で映画を見ていた。
見たのは「からみ合い」1962年。
南條範夫原作のミステリーで、小林正樹が監督。
最近、ケーブルテレビで小林正樹監督の映画をよく放映するな、と思ってたら、没後10年だったのだ。
余命いくばくもないと知った社長(山村聰)が、遺産をわけるにあたって、いどころの知れぬ隠し子3人を探してくるように命ずる。
これが、隠し子別に捜索チームがわけられて、1ヶ月の期限で隠し子探しが展開されるのが面白い。
探し当ててみると、どうしようもない不良に育っており、他チームの誘導で隠し子だと認定されなかったり(川津佑介)。
妻は不倫で生んだ子を隠し子に仕立て上げようとするし(渡辺美佐子)。
姉妹を誤認されたのを利用して、本来相続権のある姉を殺害して、姉になりすまそうとする妹がいたり(芳村真理)。
遺産を社会福祉の会社設立にあてて、その要職に就こうと顧問弁護士は策動したり(宮口精二)。
人間関係の醜いからみ合いがもつれる。
特に妻に対する不信感にとらわれる山村聰は秘書(岸恵子)に手を出し、異常な関係が成立する。
隠し子候補はすべてアウトになり、残ったのは、なんと、岸恵子がみごもったこどもだけになる。
隠し子騒動で陰謀をめぐらせた妻も遺産相続のリストからはずれ、秘書の岸恵子(のこども)の総取りになる結末。
だがしかし、この岸恵子も一筋縄ではいかない。
岸恵子には別に肉体関係を持つ相手がおり、妊娠が確認されると、その男とは縁を切っていたのだ。
うむ。面白い。南條範夫の原作は未読だ。これも近いうちに読もう。
ストーリーは、意外などんでん返しの妙味で見せるゲーム性の強いもので、多岐川恭あたりの作品を思い出した。
小林正樹の映画というと、今まで見たものがだいたい人間の深層を描き出すのが多かった。だが、こういう軽い作風の映画を見ると、先日見た「泉」をバトル映画だと筆をすべらせた僕の印象が、案外間違っていないのではないか、と思えてくる。
本人の意図がどこにあるかは別にして、大衆娯楽と親和性があるんじゃないか。
雨が降ったため予定されていた大阪城公園での城天ストリートライブは中止になった。これは残念。
会場は、まずDVD購入者が前の方に坐り、かなり後方から、フリ−入場者の席が用意されていた。
また、「ちちんぷいぷい」のカメラも入っていた。いつ放送なんだろう。
イベントはまず、中野サンプラザでのライブまでの歩みを映像でふりかえる。
これは発売されているDVDには収録されていないらしい。
上映は1曲目の「21世紀まで愛して」まで。
フィルムコンサートみたいに、盛り上がるお客さん。
以下、ライブの曲目。
1.メロンのためいき
2.せんちめんたる じぇねれ〜しょん
3.発明美人とパインナッポー!!!
DVD購入者にはこの後、特典の握手会とかあったようだが、今日はHELP!だったので、銭ゲバに急ぐ。
午後7時から銭ゲバで「HELP!」
今日はパジャマDEナイトという副題がついた。
出演するアイドルちゃんたちには、寝巻きで参加してもらう。
司会は僕と、草壁コウジ、ぶっちょカシワギ。
今回のHELP!アイドルは、丼野M美、野中ひゆ、ちやじ、ジョジョ川、えぴお。
個人演技では歌2曲ずつのライブ。
あと、各アイドルちゃんに、最近みた印象的な夢をイラストつきで解説してもらう。
シンキングタイムにはアイドル秘蔵映像を流す。
今回用意したのは、まさに感涙の映像。
アイドルが泣いているシーンばかり集めたのだ。
マシマロを使ったアイドルちゃんとお客さんとのマンツーマンによる玉入れ合戦もした。
これが意外とヒートアップした。
アイドルちゃんから直接口にマシマロを入れてもらうなんて、そうそうあることではない。
イベントの最後は、指地図子ちゃんが飛び入り参加して、アイドルちゃんたちがブルマ姿になって、味園ビルをねり歩き、そのまま雨のふる外へ。黒門市場あたりまで遠征して、屋外の撮影タイム。
今日のアイドルちゃんたちの露出度はかなり高めで、水着にブルマに、ベビードール。
生着替えもあった。
アイドルイベントとは何の関係もないが、突然、昔からの友人、ピリピリの奥田さんが乱入してきて、ギターで1曲歌った。「保山のイベントはエグイな〜」とニヤニヤしてた。
今日は雨が降っていたため、午後に行こうと思っていたATCのダンス&ボーカルコンテスト予選に行かなかった。決勝は雨天順延になっていたため、今日も順延されたと思い込んでいたのだ。
ところが、場所をかえて、屋内で予選は行われたようだ。
ダンス部門で出場した邪王院弘氏から予選出場者を教えてもらった。
今回はダンス11組、ボーカル7組、ダンス11組の順で出場した。
1.メガワイルド
2.Chip☆star
3.ONE
4.マンモスター☆
5.ポニーズ
6.Super☆star
7.Zeal Jr Girls
8.NAKID’S
9.jiggy
10.ストロベリーベリー
11.ピロピロMix
12.三木杏里
13.正田久乃
14.道場沙愛
15.田崎開士
16.柳本夕歩
17.田中愛梨
18.くっきぃ
19.シャカラカバービー
20.Funky Funny Bus
21.Jelly Beans
22.クレバーオブクラマーズ
23.G FOOL
24.シャンゲリラ
25.邪王院弘
26.AIR WAVES
27.Glitter
28.Crazy Green Piece
29.BOO→YA
予選通過者は不明。
午後2時から4時半頃までやってたようなので、これを見に行ったあと、ディスクピアに行っても間に合ったか、と思った。
で、ATCに行かなかった時間、何をしてたかというと、家で映画を見ていた。
見たのは「からみ合い」1962年。
南條範夫原作のミステリーで、小林正樹が監督。
最近、ケーブルテレビで小林正樹監督の映画をよく放映するな、と思ってたら、没後10年だったのだ。
余命いくばくもないと知った社長(山村聰)が、遺産をわけるにあたって、いどころの知れぬ隠し子3人を探してくるように命ずる。
これが、隠し子別に捜索チームがわけられて、1ヶ月の期限で隠し子探しが展開されるのが面白い。
探し当ててみると、どうしようもない不良に育っており、他チームの誘導で隠し子だと認定されなかったり(川津佑介)。
妻は不倫で生んだ子を隠し子に仕立て上げようとするし(渡辺美佐子)。
姉妹を誤認されたのを利用して、本来相続権のある姉を殺害して、姉になりすまそうとする妹がいたり(芳村真理)。
遺産を社会福祉の会社設立にあてて、その要職に就こうと顧問弁護士は策動したり(宮口精二)。
人間関係の醜いからみ合いがもつれる。
特に妻に対する不信感にとらわれる山村聰は秘書(岸恵子)に手を出し、異常な関係が成立する。
隠し子候補はすべてアウトになり、残ったのは、なんと、岸恵子がみごもったこどもだけになる。
隠し子騒動で陰謀をめぐらせた妻も遺産相続のリストからはずれ、秘書の岸恵子(のこども)の総取りになる結末。
だがしかし、この岸恵子も一筋縄ではいかない。
岸恵子には別に肉体関係を持つ相手がおり、妊娠が確認されると、その男とは縁を切っていたのだ。
うむ。面白い。南條範夫の原作は未読だ。これも近いうちに読もう。
ストーリーは、意外などんでん返しの妙味で見せるゲーム性の強いもので、多岐川恭あたりの作品を思い出した。
小林正樹の映画というと、今まで見たものがだいたい人間の深層を描き出すのが多かった。だが、こういう軽い作風の映画を見ると、先日見た「泉」をバトル映画だと筆をすべらせた僕の印象が、案外間違っていないのではないか、と思えてくる。
本人の意図がどこにあるかは別にして、大衆娯楽と親和性があるんじゃないか。