島之内寄席@ワッハホール〜SKETCHお披露目ライブ〜マスク2
午後2時からワッハホールで「島之内寄席」
真田小僧/桂三弥
胴斬り/林家染左
宿替え/桂つく枝
一人酒盛/笑福亭仁福
仲入り
本能寺/桂枝三郎
狸の化寺/桂ざこば
(三味線:脇阪新子、舞台番:桂とま都)

前半3人は演目の面白さを充分に伝えており、楽しめた。
仲入り後の本能寺は芝居噺をじっくり聞かせてくれてうれしい。
ざこばはまあ、出て来ただけでありがたい、という感じ。
さて、あとに残った仲入り前の仁福なのだが、実はこの落語会で、一番印象に残ったのが、仁福だった。こんなことになるとは誰が予想しただろう!
定番になった自虐的なマクラがとにかく破壊的に面白い。これはもはや落語の面白さではおしはかれない、規格外の笑いがあった。以前から自虐的なマクラは聞いていたが、そのときは特に感心しなかったのに、ついに臨界点を越えたのだろう。(笑いの)堪忍袋の緒が切れたとでもいうか。よくあるマクラを語ったあとに、「ね、こんなことではあかん。オリジナルのマクラせんと」と何度も畳み掛ける。これはつまり、メタ落語なのだ。その後にはじまった「一人酒盛」も、このネタを純粋にネタとして楽しむのを拒否するかのごとき雰囲気が残り、「仁福が演ずる『一人酒盛』を聞いて起こった感情を、面白がる」という楽しみ方をせざるをえなかった。第三者の審級とでもいうか。当然、こんな新しすぎる笑いの後では、仲入りでも入れてリセットしないと、普通の落語は聞けないのである。

終演後、ディスクピア日本橋に駆け付けたが、イベント会場につながるエスカレーターは既に閉鎖されており、入場することができなかった。楽しそうな声が上から聞こえてくるのを後に、次の目的地に向かう。

梅田のまんだらけをひととおりチェックしてから、
午後6時からデジタルエイトビル地下1階で「SKETCHお披露目ライブ&撮影会」
SKETCHはキッドカンパニーの中高生アイドルユニット。
http://www.siva-jp.net/kid/contents/index.html
メンバーは5人。
りーりー(橋本梨菜)
http://ameblo.jp/ri-ri02/
のりこ(円通法子)
http://ameblo.jp/sketch-noriko/
みのりん(佐波美乃吏)
http://ameblo.jp/minorin-blog/
なっちゃん(渡辺菜月)
http://ameblo.jp/xnqwchqnx/
まゆ姉(島村麻由)
http://ameblo.jp/mayuneee/
歌とダンス中心のステージ。
歌ではまゆ姉のソロ曲(茜色の約束)もあった。
ダンスは3人でポリリズム、2人でキューティーハニーなども。
トークコーナーでは、SKETCHの名前の由来(まだ白紙の彼女たちをこれからみんなで描いていくとか)や、自己紹介。自己紹介はそれぞれがあらかじめ質問に対する答えをスケッチブックに書いておき、発表する形。好きな科目、食べ物の好き嫌い、好きなキャラクター、幸せだなと感じる時、身体の中のチャームポイントとウィークポイント、好きな男性のタイプなど。
以上、第1部は1時間ほどで終了。
休憩後に撮影会に移るが、空腹のため、今日は失礼させていただくことにした。
正直、お披露目で1時間もライブしてくれるとは思ってもいなかったので、うれしい。メンバーたちの練習もたいへんだったろうと推察される。今後、どういう活動をみせてくれるのか、楽しみだ。

帰宅後、見たのはローレンス・グーターマン監督の「マスク2」2005年。
マスクの続編なのだが、マスクの子供(赤ちゃん)、マスクをつけた犬、マスクを探すロキ、そして、ロキの父親オーディーンが憑いた者、と、とんでもない能力を使うものたちがぶっとんだバトルを繰り広げる。
カラフルな映像が楽しい。
こういう映画は「家族の絆がいちばん大切」というお題目が必ず入っているのだが、逆に、それさえ入れておけば、どんなむちゃくちゃな映画でもファミリー映画になれるんだ、ということなのだ。
主人公はアニメの仕事で一人前になるまでは子供はいらない、と思ってるが、その妻は何が何でも赤ちゃんがほしい、と固執している。さて、マスクの受精の楽しいアニメ後、子供が生れるが、育児のせいでほったらかしにされた犬は嫉妬の末、マスクをかぶって赤ん坊とカートゥーン的ドタバタを展開する。また、あれだけ子供をほしがっていた妻は、子供を夫におしつけて仕事に出かける。家の中は赤ん坊の力でむちゃくちゃになる。こういう状況をみると、どう考えても子供なんか育てられる環境じゃなかったのである。現に、子供をおしつけられた夫は、プレゼンのための作業がまったくはかどらず、ついにはクビを宣告されてしまうのだ。それでも最後に「家族の絆が云々」で一件落着しちゃうのだ。素晴らしい。
さて、内容の方は、トムとジェリーのような往年のカートゥーンをCG使って実写化(?)した部分が中心で面白かった。作中にウッドペッカーも出てくるし、主人公の名前もテックス・エイヴァリーに似せたものになっていた。また、今回の主人公はロキを演じたアラン・カミングの方だった。千変万化のコスプレ。この人は「スパイキッズ」のシリーズにも出ていた人で、こういうのが適役だと思った。つまりこの映画の実写部分はアラン・カミング映画だと言い切ってもいいのだ。
常盤寄席〜『ばらの合唱・死の町』『疾風影太郎』『海獣の子供』
夜勤明けに、谷6に行って来週行くイベントの場所とか調べながら散策。
もうひとつの目的は、「ひかりの輪」の大阪道場の場所の確認。いろんなところに「出て行け」のビラは貼ってあったが、かんじんの支部の場所はわからず。まあ、わかったところで行くことはないけど。21日の上祐説法会のときには、もっと騒がしくなってるんだろうな。それより、上町あたりは面白い店がちらほらあって、楽しかった。

夕方から天満橋で「常盤寄席」
1.みかん屋/桂ひろば
マクラは桂こごろうと行った北海道と地震。
2.ヘイ!タクシー/笑福亭仁智
マクラは3日で四国三十ケ所巡ったことと、小さな飛行機。
智之介復活とあって飛び入りで出演。
3.軽業/林家染太
マクラは、握手の際に御祝儀かと思ったらピップエレキバン。
「とったりみたり」(角力)では「大麻を」とタイムリーにボケる。
4.死神/笑福亭智之介
マクラは入院中の点滴と排便。

読んだ漫画はまず、小沢さとるの復刻2冊。
『ばらの合唱(コーラス)・死の町』
「ばらの合唱」は「週刊マーガレット」に昭和39年に連載された少女漫画。
野球選手と事故でめくらになった娘の恋物語。
自分だけ軽傷で済んだ野球選手は責任を感じてか、さっぱり打てなくなる。
野球選手は「めくらがなんだ。おしになったっていい。たとえびっこになったっていい。ぼくはきみがすきなんだ」と思っているが、娘のほうは「あの人にもうめくらのわたしをみせたくない」と言って会おうとしない。
結局、娘の妹があいだに入ってやきもきするうちに雨にうたれて肺炎になり、結果、娘と選手は結ばれる。
「死の町」は富士見出版から昭和34年7月に発行された単行本。「盗まれた街」タイプのSF。
遊星人が「命の実」を使って、住人に変身していく。
「へんね、おかあさんはいつもとちがうみたい」みたいな。
手に星形のあさがあるのが別人のしるし。
最後は命の実の畑にガソリン撒いてもやしちゃう。

『疾風影太郎』は武内つなよし原作の忍者漫画。「週刊少年サンデー」昭和35年33号〜42号連載。
「なぞの黒鳥の巻」
山形玄斎ひきいる竜の部落の忍者(正義)と湯煙虎太夫ひきいる虎の部落の忍者(悪)がとにかく戦いまくる。主人公はタイトルどおり、影太郎。
少年ジェットよろしく馬を模したスクーター状の乗り物「流れ飛車」が出て来たりする。
敵だと思ってた風丸が実は味方であった。風丸は影太郎の成長と、竜の部落の復興を確認して、江戸に帰って行く。
「やみの竜王の巻」
人がり新左によって濡れ衣きせられ、さらに脱獄させられた影太郎たち。
新左は若葉城を狙う「やみの竜王」で、城のものたちが脱獄した影太郎を追って竜の部落に兵を出しているすきに、手薄になった城を攻め落す計略。
さあ、これから戦いが勃発、というときに、「だけど影太郎たちが計略に気づいて駆け付けて、若葉城は無事でした」みたいな顛末を1ページですませている。急に連載がうちきられたと思われる。

『ひみつのアッコちゃん(赤塚不二夫)』(「たのしい幼稚園」平成元年5月増刊号ふろく)
「天使はうそつき」「万引きつかまえ作戦」「アッコちゃんの大まじゅつ」「小さな世界のぼうけん」「銀行強盗大ついせき」「カンきちのちょきんとプレゼント」
収録作品は昭和37年4月から昭和40年9月まで『りぼん』に掲載されたもの。
背景が明らかに昭和30年代なのだが、こういうのはエバーグリーンなんだ。

『ウルトラマン(一峰大二)』(「ヒーローマガジン」平成元年10月号ふろく)
「3大怪獣の巻」「怪獣ケムラーの巻」
怪獣の怖さといったらない。

同じヒーローマガジンのふろく『大挑戦!なぞなぞ111』を解いてみたが、間違った問題を復習しておく。
「とってもよごれているトンボは?」(こたえ:アカトンボ)
「すみっこに『五』ってかいてあるものは、なんだ?」(こたえ:はしご)
「いつも月がでている国ってどこかな?」(こたえ:ヨルダン)

『海獣の子供』1〜3、五十嵐大介
渾身の大作。
第2巻読んでるとき、テレビではちょうど台風のニュースで持ちきりだった。
第3巻は過去のことが明かされる。
絵のもつパワーが凄い。
僕にとっての夏休み感は、どれだけマスメディアと無縁な時間を過ごせるか、にかかっている。第1巻〜第2巻あたりはその点、最高。3巻に入ってただ茫洋としていたスケールがはっきりと「大きいですよ!」「深いですよ!」と主張しはじめた。
この先、どうおさめていくのか、楽しみだ。

読書は『ナショナリズムの由来』を少しずつ。電車の中で読むことには慣れたが、鞄の中身が本だけになってしまうのがたいへん。



第56期王座戦第2局大盤解説会@関西将棋会館

 
 
 
 

王位戦第6局大盤解説会〜『民主主義への憎悪』
午後5時から関西将棋会館で49期王位戦第6局の大盤解説会。
羽生が追い上げてきている。
解説は小林健二九段。
小林九段の解説は、すっかり先生然としていた。こうしてみると、解説者によって、まるで漫談のような解説もあれば、客と一緒に将棋の流れを見守る解説もあり、バラエティに富んでいる。
勝負は、羽生の勝ち。負ける気がしない。
これで3対3のイーブンに持ち込んで、いよいよ最終局までもつれこんだ。
あいにくと、最終局の大盤解説には行けないが、結果が非常に気になるところ。

読んだ本はジャック・ランシエールの『民主主義への憎悪』
昨日読んだジジェクでも、ランシエールがよく引用されていた。
以下、目次。


勝利した民主主義から犯罪的な民主主義へ
政治あるいは失われた牧人
民主制、共和制、代表制
憎悪の理由
講演:デモクラシー、不合意、コミュニケーション
訳者解説:デモクラシーとは何か
原註/訳註
訳者あとがき
ジャック・ランシエール書誌

ランシエールの本は、つかみがうまい。
冒頭、フランスでの最近の事件を列挙し、それがどう解釈されているかを総括する。
事件というのは、公立学校で禁じられているイスラムのヒジャーブ(スカーフ)を取るのを拒否する女性たちや、破綻した社会保障、退職年金制度維持のためにデモする労働者、同性愛者の結婚、リアリティ番組が人気を博していること、列車内で襲われた嘘の話をでっちあげた女性などなど。
これらの原因は、すべて現代大衆社会における個人の際限なき欲望の支配から来るもので、つまり、民主主義に原因がある、と言っているのだ。民主主義が個人主義を促進し、伝統的価値を破壊する、と。
訳者解説の冒頭を引用すれば
「いまやデモクラシーは、行き過ぎた平等要求の別名でしかない」のである。
ランシエールは、そうした民主主義批判、いや、憎悪を批判している。
面白かったのは、民主主義の最大の特徴は「くじびき」だというところ。
プラトンによれば、統治者にとって必要な資格は7つある。親が子にふるう権力、年長者の年少者への権力、主人の奴隷への、貴族の平民への、強者が弱者への、学識ある者の無知な者への。そして、純粋な偶然の統治。つまり、くじびき。すなわち、デモクラシー。
これは、権謀術数によって権力を握ることに長けた人々によって統治される害毒を避けるのに役立つ。「よい統治とは、統治したいと思っていない人々の統治」だということなのだ。(プラトン)
分け前なき人々、数に数えられていない人々の異議申し立てでなりたつ運動こそが民主主義で、こうしてみると、多数決とか代議制が特徴だと思ってた民主主義観とは大きく違っている。むしろそれは革命に近い。
えっと、本文にも革命について書いてあったと思うが、どこだったか忘れた!
ランシエールの問題意識は、日本の今の状況にもあてはまるものだと思う。
行き過ぎた民主主義だの、個人主義の顛末だの、それらしい解説にごまかされてはならない。
この本読んでいるとき頭から離れなかったのは、コードギアス2でルルーシュが言い放つ「民主主義だ!」だった。ルルーシュのデモクラシー論を聞いてみたいものだ。
小朝正蔵いっ平三人の会@松竹座〜『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』
午後2時から松竹座で「小朝正蔵いっ平三人の会」
子ほめ/林家はな平
親子酒/林家たこ平
悋気の独楽/林家いっ平
西行鼓ケ滝/林家正蔵
仲入り
太神楽曲芸/翁家勝丸
お札はがし/春風亭小朝
(お囃子/内海英華)

開場時間に到着したら、あまりにも観客の年齢層が高くて驚いた。全員の髪の毛を抜いて並べたら、全体として白く見えたに違いない。火曜日の午後2時に見に来れるのは老人だけだ、と言われればそうなのかもしれないが。
二等席で見たせいか、マイクを通して響く声はなんだか聞き取りにくくて、しかも天井から高座を見下ろしているような気分。いっ平あたりからやっと慣れて見ることができた。
それぞれ面白くて、見に来た価値はあったと思うが、仲入りまでは、ちょっとどうかな、と首をひねっていた。たこ平の酔っぱらい演技に客席から拍手が起こっていたが、まるで拍手を求めているかのような演技で、すごく違和感があった。上方であれば、拍手が起こりそうなときにはそれを回避して笑いにつなげるだろうと思った。それが上方と江戸の違いなのか、と僕は思ったのだが、さて。
いっ平は期待していなかった分だけ、面白く見れた。マクラでは東京の落語家さんの話などですっかり気分がほぐれた。演目も今まで上方で聞いていた噺とは微妙に設定が違っていて、「ほほう」と思った。体当たりの演出は、それはそれでありなんじゃないか、と満足。
それとは対照的だったのは正蔵で、テレビではたよりないけど高座ではさぞ本格的なんだろう、と期待していた。まあ、期待はずれとはいかないまでも、まあ、う〜んと、まあ、普通と言っておこうか。笑わせてもらったんだけど。
名人芸を見せてもらったのは仲入り後で、これは堪能した。
ちなみに、僕の席の周辺は当然ながらお年寄りばかりが坐っていたが、小朝の熱演(何分したんだろう。30分以上はやってたかな)のときは、既に疲れ果てて寝ている人がちらほら。

スラヴォイ・ジジェクの『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』を読んだ。
以下、目次
1、毛沢東−無秩序のマルクス主義的君主
2、バディウ−世界の論理
3、ロベスピエール−恐怖(テロル)という「神的暴力」
幕間1−「たら…れば」歴史論の反転
4、バートルビー
 壱、グローバル金融の竹篦返しー「スターウォーズ」3の陥穽
 弐、…しないことが好き−バートルビーの政治
幕間2−頽廃と偽善
 壱、『24』
 弐、偽善への訴答−二つの死
5、非常事態

ジジェク節が冴え渡る。内容についてはだれかが書いている要約を読むか、本書にあたってください。訳者の悪ノリぶりが、ジジェクが感染したようにみえて、逆算してジジェクの毒を感じさせる。
本書では、他の思想家などの概念や言葉を借用して、持論を展開していくやり方が多用されている。まあ、これは珍しいことではなく、新約聖書読んでいたって、たとえ話で何事かを了解させる手続きが多くとられている。いわば編集作業のようなものなのだが、こういうことをされると、わかったような気になるのが面白い。真正な理解を求めるよりも、僕はわかったような気になりたい、あるいは、そっちの方が面白い、と思っちゃうんだから、しかたない。
いくつか、本文より引用しておこう。

「これをスターリニストの業界用語(ジャーゴン)で言い換えれば、不動の『全体』は、じつは『全体』ではなく、諸要素の集塊にすぎない、ということである」(p33)

「マルクスが看過したことは、要するに、月並みに解釈されたデリダ的表現を用いて言えば、生産力の充全な配備の『不可能性の条件』であるこの内在的な障碍/矛盾が、同時に、『可能性の条件』でもあるという点である」(p42)

「出来事のこうした自己抹消は、ベンヤミンの口吻を藉りて、憂鬱の左翼主義的政治とでも呼んでみたくなるような領域の可能性を開いている」(p102)

「ラカンの表現を藉りてレーニンの立場を表現すれば、『革命ハ自ラノ権威ニノミ依拠スル(革命ハ自ラヲノミ恃みトスル)』と言うことができるが、これが認められねばならない。言い換えれば、『他者』による庇護を求めることなく革命的行為を引き受けねばならない」(p148)

「国家は、その制度的側面から言えば、巨大な存在(プレゼンス)であり、それは諸利害の代理(リプレゼンテーション)といった表現では説明できない。そしてそれが可能だと主張することが、民主主義の錯認なのだ。この過剰を、バディウは、民主主義が表象−代理(リプレゼント)するものを超える国家の再−現前(表象)(リ−プレゼンテーション)とう過剰として、概念化する。ベンヤミンの表現を用いてこう言ってもよい。民主主義は、制定された暴力を大なり小なり取り除くことができるが、依然として制定する暴力に依存し続けねばならない、と」(p151)

「アウシュビッツで起こったことについての説得的な虚構的描写を制作するよりも、アウシュビッツで起こったことについてのドキュメンタリー作品を観るほうが楽なのは、なぜだろう?なぜショアーについての傑作のすべてが喜劇なのだろうか?ここではアドルノを匡さねばならない。アウシュビッツ以後に不可能になったのは詩ではない。むしろ散文が不可能になったのだ」(p210)

「いわゆる『原理主義者』の場合、信が『他者』へ置き換えられるというイデオロギーの『正常』な機能は、直接的な信−彼らは『それをマジで信じている』−の暴力的な回帰によって、攪乱される。この回帰の第一の帰結は、ラカンがマルキ・ド・サドに事寄せて論じたように、原理主義者がファンタジーと自分自身を即座に同一化してしまうことで、自分のファンタジーに服って(まつらって)しまうことである」(p211)

「ここで同時にわれわれは、ベンヤミンを敷衍して言えば、あらゆる文明の衝突はその底流にある野蛮同士の衝突であることの証左もまた、手にしているのである」(p260)

昔、よく名言集というのを読んでいた。その名言を自分の状況にあてはめて、なにごとかわかった気になったり、打開されたような気になっていたものだが、こうした名言を飛び渡っていって編まれた1つの流れは、名言の威光もあって、それらしく見えるものである。言うまでもなく、僕は、それらしく見えていれば、それもよし、と思っているのだ。
TOKYO!(ネタバレ)
ミシェル・ゴンドリー、レオス・カラックス、ポン・ジュノの3人の監督によるオムニバス映画「TOKYO!」を見た。2008年。
ミシェル・ゴンドリー「インテリア・デザイン」は、東京での生活の生きにくさを描いている。恋人と一緒に暮らそうと女性(藤谷文子)が上京、住まいと仕事を探す。あまりにもひどい住宅事情。狭くて使いづらく、窓をあけると猫の死骸があるようなアパートでも、予算を大きく越えてしまう。
バイトに乗り気じゃなかった芸術家肌の恋人が意外とあっさり働く先を決めてうまくこなしていく。格別の志しもなく、勤め先も決まらず、住まいも決まらず、友人宅で迷惑ばかりかけている。このあたりの閉塞感は身につまされる。
ついに女性の胸に穴があく。本当に!穴があいてる!外を歩いても胸にあいた穴が気になる。追い立てられるように歩いているうちに、足が木の棒と化し、ついに女性は椅子になってしまう。(人間にも変身できる)
椅子というのは「坐るためのもの」で、役立たずだとへこんでいた女性にとってまさに望ましい変身だったのだ。
人間が椅子に変化するあたりはゴンドリー節が見られてほほえましい。
レオス・カラックス「メルド」はスクリーン一面に「糞」と出るインパクトあるタイトル。マンホールの蓋をあけて、乞食のような下水道の怪人(ドゥニ・ラヴァン)があらわれ、東京の街を歩いて傍若無人なふるまいをする。人にぶつかったり、物を取ったり、火のついた煙草をベビーカーに捨てたり。BGMはゴジラ!ドゥニ・ラヴァンの怪演に対抗するのは、ジャン=フランソワ・バルメールの怪演。「メルド」と名付けられた怪人は、次はアメリカへ。
怪演は素晴らしいが、ストーリーは人を馬鹿にしたようなもので、「ポーラX」以来9年ぶりのレオス・カラックス新作がこれなのか、と思うと複雑な気分だ。
ポン・ジュノ「シェイキング東京」は引きこもりの男(香川照之)がピザの配達(蒼井優)に恋をする。引きこもりになってしまい配達に来なくなった蒼井優に会うため、外に出る香川。東京の街はどこもかも無人。みんなが引きこもりになってしまったのだ。
引きこもり男の部屋の描写(整とんの極地)、蒼井優の魅力(スイッチのタトゥーを押すと、気絶していた彼女が起動したりする)、頻繁に起こる地震。さすがにアジアの監督だけあって、東京を描くに際しても目のつけどころが違う。
3本ともに、傍をかためる俳優がでんでん、嶋田久作、石橋蓮司、竹中直人、荒川良々など、個性が強い。
主題歌は「Tokyo Town Page」HASYMO(細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一)
彦八まつり〜最後の恋のはじめ方、ブリジットジョーンズの日記きれそうなわたしの12ヶ月、慈悲の天使、夏祭り落語長屋
今日も今日とて、彦八まつり。
桂あやめ、月亭遊方、林家染雀の「んな青菜!」で落語「青菜」でおなじみの「柳蔭」を飲む。
暑気払いに飲む、甘いお酒で、米焼酎とみりんで作られているらしい。
青菜と一緒に柳蔭飲むと、汗がシューッとひいていくような心地がする。この柳蔭も、今ではこうして飲めるが、昔は大名酒といって、云々、それは落語のはなしか。
落語家オリンピックで優勝チームの予想が当たり、台所用品をもらう。

今日見た映画は録画しておいた4本。
「最後の恋のはじめ方」2005年アメリカ。
アンディ・テナント監督
ウィル・スミスはデート・ドクターと呼ばれる、恋愛のコンサルタント。どじで恋愛下手なクライアントに恋愛指南をする。
クライアントを演じるケヴィン・ジェームズのどじっぷりが冴える。
ホットドッグひとつ、服を汚さずには食べられないのだ。
ダンスは得意だといって踊ってみせる、「木を擦って火をおこし、ピザを作って耳から綿棒を取り去る」までのダンス振付けには爆笑した。かっこ悪すぎてかっこいい。
まあ、マニュアルどおりには行かず、ウィル・スミスが矯正しようとしていた部分が実は女性には「可愛い」と映っていたのだ、というオチ。
ウィル・スミス自身の恋愛は、なかなか彼の思惑どおりには進まない、っていうのもありがちなのだが、楽しく見れた。何より、この映画、僕にとって主人公はウィル・スミスではなく、ドジなケヴィン・ジェームズなのだ。
ウィル・スミスの恋愛相手、エバ・メンデスについては、僕にはいったいあの女のどこがよくてウィル・スミスが熱をあげているのか理解できなかった。色気も感じないし、可愛くもない。
ラストにはソウルトレイン風のダンスシーンもある。

「ブリジット・ジョーンズの日記/きれそうなわたしの12ヶ月」2004年
レニー・ゼルウィガー主演のシリーズ第2弾。ビーバン・キドロン監督。
スカイダイビングから、お尻のアップ、とか。水たまりの撥ねを全身にあびるとか。マドンナのダンスを留置場で教えるとか。マジックマッシュルーム食べてバンコックの海でラリるとか。彼女の体当たり演技がとにかくすごい。
ブリジット・ジョーンズの良さは、ヒュー・グラントに言わせれば「見てると楽しい。最高のセックス相手」らしい。たしかに、そんな女性がいたら、最高だ。でも、ふだんのブリジット・ジョーンズは、こんな女性は願い下げだな、と思わせるひどいものなのである。体型が太ってるのは別にいいのだが、とにかく嫉妬深いし、考えが浅いし、センスが悪い。それでもチャーミングなのは、つまりその、床上手は七難隠すのだ。
しかし、レニー・ゼルウィガー、よくこれだけ体型を自由自在に変えられるもんだ。

「慈悲の天使」1993年チェコ映画。
ミロスラフ・ルーター監督。
将校の未亡人が自らすすんで野戦病院の看護婦に志願する。
全身包帯の将校の死に際して出会ったのは、1人の囚人。
気功のような動作で、痛みを取り去る、不思議な能力を持っているのだ。
だが、それは神の御業ではない。彼は神を信じていないのだ。
囚人は「神を信じてる?」という問いにこんなふうに答える。
「最初の戦いで神は死んだ。それから人間はずっと殺しあいをしている」
この囚人と、未亡人がついに関係をもつにいたる。
超能力で痛みを取り去る(治療はできない)囚人、というのは、まるでスティーブン・キングの『グリーンマイル』を思わせる。それをヒントにしたのかな、と思って本を調べてみたら、『グリーンマイル』の方があとに出版されていた。(1995年)
未亡人看護婦はイングリッド・ティムコヴァ、超能力囚人はユライ・シムコ。他のキャストは、ヨゼフ・バイナル、ペテル・シムン、ユライ・モクリー。
ミロスラフ・ルーター監督は日本では「くたばれアマデウス!」がビデオで出たくらいの紹介しかされていない。1985年の作品で、ちょうど「アマデウス」と同時期の映画だったので、ついでに紹介された程度のものなのだろう。ルーター監督はこの「慈悲の天使」のあと、2002年に「Utek do Budina」という作品しか発表していない。スチール写真見るかぎり、これも面白そうな映画なので、どこかで上映でもされないだろうか。

「夏祭り落語長屋」は1954年の作品。
青柳信雄監督、安藤鶴夫原案。
榎本健一、柳家金語楼、森川信、塩沢登代路、渡辺篤、浜田百合子、古川緑波、越路吹雪、楠トシエ、三木のり平、大村千吉、清水金一、他。
「落語長屋は花ざかり」に次ぐ落語シリーズの第2話で、三木鶏郎作詞作曲の歌がふんだんに盛り込まれている。
チョンボ・マンボとか、歌詞違いで「チンチロリン」は何回も歌われる。チンチロリンをこれだけ聞くと、ふだんの生活でも何かあるとチンチロリンで歌いたくなってくる。
全編に落語のネタが使われており、冒頭は長屋の花見からはじまる。
ただし、これは榎本健一の歌で登場人物が紹介されるだけで、落語の内容にはノータッチ。
知ったかぶりの若旦那に、生ゴミをどぶの水で洗ったのを食べさせるくだりは、まるっきり「酢豆腐」で、若旦那が四苦八苦して食べたあとにはもちろん「どぶ漬けは一口にかぎりやす」で落す。
「野ざらし」の設定も使われ、エノケンは骨を釣りに出かけるのである。
また、当たった富くじを燃やしてしまう(実際には燃やしていない)のは「富久」か。
なお、エノケンは大工の八五郎と、八卦見の呑海の二役であり、二人がしゃべっているときには、後頭部見せてる方は代役が演じているのだが、このスタンドインが、エノケンの仕草を再現しようと頑張っているのが愉快だった。
ラストは「完」でも「終」でもなく「おたいくつさま」で幕。

NHK-FMで「現代の音楽」
 − 松村禎三の作品〜アプサラス第1回演奏会から −(1)
「阿知女〜ソプラノ、打楽器と11人の奏者のための〜」
                       松村禎三・作曲
                      (22分18秒)
                   (ソプラノ)坂本知亜紀
              (演奏)東京現代音楽アンサンブル
                     (指揮)小鍛治邦隆
「ピアノ三重奏曲」              松村禎三・作曲
                      (20分13秒)
                  (バイオリン)千葉 清加
                    (チェロ)西谷 牧人
                    (ピアノ)泊 真美子
  〜東京文化会館で収録〜
                   <2008/8/19>


彦八まつり〜私は貝になりたい、戦艦大和、アレキサンドリア物語、我等の生涯の最良の年
生國魂神社で上方落語のおまつり「彦八まつり」
文枝茶屋で焼きうどん食べたり、森乃福郎の「本屋の善さん」で古本買ったり、桂春之輔の「もう半分」でどて焼き食べたり。道具屋に仁鶴が来ており、店先は黒山の人だかり。
奉納落語会もあったのだが、すぐに売り切れ。

帰宅して見た映画は、録画しておいた4本。
橋本忍監督の「私は貝になりたい」を見た。1959年。
主演はフランキー堺。
つい最近、DVDでテレビシリーズの「まぼろし探偵」を見たのだが、この「私は貝になりたい」のスチールがたしか会社の部屋に飾ってあった。それだけ人気もあり、影響力もあったのだろうか。
上官の命令で捕虜を殺してしまい(実際には腕を傷つけただけ)、その罪でMPにとらわれ、死刑になる男の話。彼の遺言で、「生れかわれるのなら貝になりたい」とあったのがタイトルの由来で、貝であれば戦争もないし、兵隊にとられることもないからだという。こんなことになる前は、生まれかわったら金持ちになりたい、と言っていたのが、死を前にして、人間には生れかわりたくない、と意見を変えるのである。
この作品が、またどういうわけか最近テレビドラマ化され、また映画にもなったらしい。現代であれば、貝にならなくても、戦争を回避し、徴兵されずに済むだけの手立てはあるはずである。それとも、今でも人は戦争から逃げるためには貝になるしか手はないのか。

阿部豊監督の「戦艦大和」を見た。1953年。
吉田満の『戦艦大和の最期』を原作としており、元大和の副長、能村次郎が教導として映画に加わっている。
絵画的特撮。
片道分の燃料しか積まずに沖縄に向かう大和。
不沈艦のはずの大和が沈んでしまうわけだが、この映画を見るかぎり、大和にまったく勝ち目がないのは、行く前からわかりきっていたのである。
悲愴を表に出さない勇猛が、涙を誘うところだ。
迫力満点。

ジョージ・キューカー監督の「アレキサンドリア物語」を見た。1969年。
ロレンス・ダレルの『アレキサンドリア・カルテット』が原作。
マイケル・ヨーク演じる主人公は、映画中の言葉で表現すれば、「繊細な若き詩人。人間の欲望うずまく街でもがいている」
一筋縄ではいかない人間心理と人間模様。若い主人公は翻弄されっぱなしだ。
イギリスからパレスチナへの武器輸出など、国際情勢も絡んでくる。
何を企んでいるのがわからない年増女にアヌク・エーメ、若き踊子にアンナ・カリーナ。どちらも思いもかけずヌードを披露している。

ウィリアム・ワイラー監督の「我等の生涯の最良の年」を見た。1946年。
フレドリック・マーチ、ダナ・アンドリュース、ハロルド・ラッセル、マーナ・ロイ、テレサ・ライト、ヴァージニア・」メイヨ
第二次世界大戦を終えて帰還してきた3人の兵を中心にした物語。
故郷に帰って家族に会うことに「敵前上陸よりも緊張する」と漏らすが、やはりどうにもぎこちないやりとりが続く。
1人は戦時の悪夢にうなされ、1人は仕事がうまくいかない。もう1人は戦争で両手が鉤の義手になっており、周囲となじめない。この両手義手の男は、実際に傷痍軍人で、ひじから先の両腕をなくし、義手をつけていた。好奇の目で見られていると思った彼は、窓ガラスを両手(鉤)で割るシーンまで演じている。すごいな。ハロルド・ラッセルは俳優ではなく、この映画のためにスカウトされた人物だ。自伝を出しているらしいが、未読。また、鉤の手で煙草に火をつけるシーンは、まるで「フリークス」の芋虫男が煙草に火をつけるシーンの再現であり、タイトルまでが「我等の障害の再利用の年」なんじゃないか、と思わせたりする。
ラストはこんな言葉で終わる。
「いいのか?道は険しい。金もないし家もない。必死に働くだけだ」
深刻な大真面目な話なのか、と言うところだが、ワイラー監督は、娯楽の要素、笑わせる要素を存分にぶちこんでいる。
たとえば、こんな会話。
「アルの娘?」
「ええ、生れてこのかた」
「そうは思えない」
「本当は違うの。彼の方が私の子供」
しゃれてるね〜。
あるいは、こんな言葉。
「また戦争になっても心配することはない。今度は1日めで人類が滅ぶからね」
言ってくれますね〜。
あと、2つのコップを使って胃薬を作り、からっぽの方を口にするシーンとか。
我々おなじみの、遅れそうになってトーストをくわえて出かける学生のシーンもある。(男だけど)
しかし、何より驚きなのは、アメリカの戦後たった1年の、あまりにも何事も起こらなかったかのような市民たちの日常生活なのだ。主人公の帰還兵たちだけが、戦争の痕を残している。社会復帰はたいへんだ。

最終回四葉の会@天満天神繁昌亭〜スチュアート・リトル3
天満天神繁昌亭で林家染丸プロデュース「四葉の会 最終回」
兵庫船/林家染吉
十七歳/桂三四郎
借家借り/林家染佐
京の茶漬/林家染丸
中入り
悋気の独楽/林家染弥
茶の湯/桂あさ吉
勢揃ご挨拶/全員
(三味線・山澤由江、吉川絹代)

半年間続いた四葉の会の最終回。
すごく面白かった。
この会にかける意気込み、てなものもあるのだろうか。この落語家さん、こんなに面白かったっけ、と見直すことが多々。
染丸師匠は挨拶でこんなことを。
「まだまだ未熟で芸ももの足らぬ、そうしたご批判ご感想もいろいろ頂戴いたしました。しかし私は彼らにあえてそのことは伝えておりません。今初めて明かしました。なぜなら自分の芸のレベルは彼ら自身が一番よく知っていると思うからなのです」
なるほど。落語だと、うるさい批評家も多いのだろう。お客さんの年齢層も高いし。

帰宅して録画しておいた「スチュアート・リトル3/森の仲間と大冒険」を見た。
「3」は実物は出てこず、みんなアニメ。3Dではないけど、CGを駆使している。
オーデュ・バーデン監督。
人間と同じ行動をとろうと無理するネズミが、知らず識らずのうちに疎外されていく。
レイクスカウトの集団行動でも、人間の子供なら簡単に渡れるせせらぎが、スチュアートには大冒険になる。おまけに、スチュアートがさんざんな冒険の末にみんなと合流しても、みんなはスチュアートがはぐれていたことに気づいてもいない。
森の中に猛獣がおり、猫がつかまった、とスチュアートが報告しても、だれも信じない。
スチュアートは結局、自分の行動によって、打開をはからざるをえなくなる。
もう、スチュアートが不憫で不憫で。
深く考えると、アメリカや家族といったものの矛盾や悲劇にまで話は進んでしまいそうだ。
ファミリー映画としては肩のこらない面白い出来になっていた。
「2」を見ていないので、何ともいえないが、ネコの性格づけも凄くシンプルになっていた。
『間違いの悲劇』(ネタバレ)
エラリイ・クイーンの『間違いの悲劇』を読んだ。
以下、目次とネタバラシ。

(ミッシングリンク中編)
「動機」
連続殺人事件?!被害者に共通する要素はいったい何?
クイーンの作品のミッシングリンク物としては、自然な真相が待ち受けている。
僕が自分で書いた推理小説などでは、ミッジングリンクは即、見立て殺人につながっていたが、さすがにクイーン。
最初の事件が車にぶつかって死んだ「交通事故」だと気づいた被害者の親が、犯人と思しき人物を順に殺していく。ミッシングリンクは「車の持ち主」だったのだ。

(クイーン検察局)
「結婚記念日」
ダイイングメッセージは、握ったダイヤモンド。ダイヤモンド婚が30年ということで、被害者が残したかったのは「30」
犯人は30才の人物。
ここから後の短編はおおむね言葉遊びシリーズになる。日本人にはピンと来ないものが多くなるが、その点、これはダイヤ=30くらいは理解できる。その解釈が唯一の正解である、とする根拠が難問なのが、ダイイングメッセージのつらいところだ。すべてがFになると言ったって、「F」の意味を唯一の正解に導くことは不可能だ。読者は作者の恣意的展開によって無理矢理納得させられることになるが、作中の登場人物たちはなぜその回答が唯一の正解であると信じて疑わないのだろう。

「オーストラリアから来たおじさん」
コックニーなまりのおじさんは、「ホール」と言い残す。
本当は「オール」つまり、みんなにやられた、と言いたかったのだ。
「H」を落したりつけたり、というコックニーなまりの問題。
ちなみに、つい最近、妹がバカンスで日本に戻ってきていたが、フランス語でふだん暮らしているせいで、猫の「ハナコ」のことを「アナコ」と呼んでいた。すぐに言葉がかぶれてしまうのは悪い癖だ。僕は妹を「カブレラ」と名付けた。

「トナカイの手がかり」
被害者はトナカイの名前をダイイングメッセージとして残したかった。
つまり、「コメット」という名前を残して、犯人「ハレー」を言いたかったのだ。学生時代、クイーンのこういうパズラー読んでいるときは特に何とも思わなかったが、今読むと、相当無理がある。

(パズルクラブ)
ここからのシリーズは、雑学シリーズとも言える。
「三人の学生」
残した謎の文句は、「スイヘイリーベ僕の船」みたいなもの。
学生が専門的な事柄を覚えるための語呂合わせで、どの学科の学生なのかが特定できる。

「仲間はずれ」
人名で仲間はずれをさがす。
作家の名前ばっかりだが、1人だけ作家の名前じゃない、とか。
職業をあらわす言葉ばっかりだが、1人だけ違う、とか。
日本で応用すれば「明治太郎」「昭和花子」「フランシスコ・ソビエル」で、ソビエルだけが年号じゃない、みたいな問題。

「正直な詐欺師」
人からお金集めた山師が、結局一獲千金を物に出来なかったが、出資者には元金を全額返した。
当の山師は、全額銀行に預けて、その利息で作業していたのだ。
利息が高いときもあった、って昔話。
僕の幼い頃でも、テレビコマーシャルで、「利息7、7%!」をうたう銀行があった。あの頃の私に帰って、その銀行に預けたい。

(エラリー・クイーン最後の事件)
「間違いの悲劇」
次の長編作品として予定されていた梗概。
サイレント映画の元スーパースターが住む城。
シェイクスピアの引用。
エラリー・クイーン合作の秘密がわかって非情に貴重。
ダネイがアイディアをひねりだしてシナリオを書き、リーが肉付けして小説に仕上げる。藤子不二雄も、Aがブラックなアイディア出して、Fが爽やかなタッチの絵で仕上げる、みたいな分業だったら面白い作品が見れたかもしれない。つまり、Fの描いた忍者ハットリ君とか、まんが道とかが読めたかもしれないのだ。そういえば、昨日見た現代美術二等兵の2人は、コラボで作品作るんじゃなくて、それぞれが作品作って、持ち寄っているのだそうだ。
さて、クイーンの最後の長編『心地よく秘密めいた場所』は傑作で、クイーン持ち直したな、と学生時代の僕は思っていたくらいなので、それに続く『間違いの悲劇』もなかなか面白い。
論理にそれほどこだわらなければ、読み物として面白い作品が出来たはずなので、惜しいな、と思った。
それぞれのシネマ〜駄美術ミュージアム@HEP HALL〜『文化と抵抗』
カンヌ国際映画祭60回記念製作映画「それぞれのシネマ」を見た。
世界の映画監督たちが「映画館」をテーマに3分間映画を作ったのを集めたもの。錚々たる面々。
フライヤーにある順で書いて行くと、
テオ・アンゲロプロス
オリヴィエ・アサヤス
ビレ・アウグスト
ジェーン・カンピオン
ユーセフ・シャヒーン
チェン・カイコー
デヴィッド・クローネンバーグ
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
マノエル・デ・オリヴェイラ
レイモン・ドパルドン
アトム・エゴヤン
アモス・ギタイ
ホウ・シャオシェン
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
アキ・カウリスマキ
アッバス・キアロスタミ
北野武
アンドレイ・コンチャロフスキー
クロード・ルルーシュ
ケン・ローチ
デヴィッド・リンチ
ナンニ・モレッティ
ロマン・ポランスキー
ラウル・ルイス
ウォルター・サレス
エリア・スレイマン
ツァイ・ミンリャン
ガス・ヴァン・サント
ラース・フォン・トリアー
ヴィム・ヴェンダース
ウォン・カーウァイ
チャン・イーモウ

ウヒョー、すごい!
3分だけど、ちゃんとそれぞれの監督らしさがあらわれている!
上映中しゃべりかけてくるビジネスマンを撲殺するラース・フォン・トリアーの「職業」
官能的なシーンでうめいている客は、実は2階から落ちて苦しんでいただけだった、というロマン・ポランスキーの「エロチックな映画」
銀幕の中の少女に恋をして、自らもスクリーンの中に入るガス・ヴァン・サントの「ファースト・キス」(ありがちな話に逃げたな!)
映画館の切符売場でどの映画を見ようか迷ったあげく、映画見るのをやめてサッカー観戦にいくケン・ローチの「ハッピーエンド」
映画にまつわる思い出をユーモラスに語るナンニ・モレッティの「映画ファンの日記」
映画館の前で陽気に掛け合いで歌うウォルター・サレスの「カンヌから5575マイル」
子供たちが自転車こいで発電し、映画を見るチェン・カイコーの「チュウシン村」
顔大写しで、ピストル自殺しようとする男をボソボソと実況するデヴィッド・クローネンバーグの「最後の映画館における最後のユダヤ人の自殺」
映画祭で自分が受賞したシーンをほこらかに映すユーセフ・シャヒーンの「47年後」
映画をくいいるように見る女たちの表情を映すアッバス・キアロスタミの「ロミオはどこ?」
占領や内戦を終えて数十年ぶりに平和を迎えたコンゴの村で「ブラックホークダウン」を見る子供たちの反応を映すヴィム・ベンダースの「平和の中の戦争」
ジャンヌ・モローが、マルチェロ・マストロヤンニの亡霊(?)に告白するテオ・アンゲロプロスの「3分間」
などなど。
この映画はフェデリコ・フェリーニに捧げられていた。
なんともぜいたく!映画熱が再燃せざるをえない作品だ。

HEP HALLで現代美術二等兵展「駄美術ミュージアム」を見て来た。
大阪出身の籠谷シェーンとふじわらかつひとによるユニット。
わかりやすくて笑えるアートが満載。1コマ漫画を実体化したような作品が多い。
こういうアートはとても健全だと思う。
町の画伯たちの風景画とか静物画を見ると、そんなつまらないものを描いて時間を浪費する所業に対してとんでもない狂気を感じたりするのだが、現代美術二等兵のアートは、狙いがはっきりしていて素晴らしい。

読んだ本はエドワード・W・サイードの『文化と抵抗』
デーヴィッド・バーサミアンによるインタビューで成立した1冊。
第1章 一国家二国民案
第2章 インティファーダ・2000−パレスチナ人の蜂起
第3章 彼らが望むのは、わたしの沈黙だ
第4章 テロリズムの起源
第5章 対イスラエル闘争−パレスチナ人の視点
第6章 勝利の会合の場で

(文化と情報について)
わたしたち(パレスチナ人)は生き残りということを超えて、文化と情報をめぐる戦いを展開せねばなりません。またイスラエルには、わたしたちパレスチナ人の主張を聞きたいと強く思っているひとたちもいるのです。彼らにはシオニズムがなにももたらさなかったというメッセージを届けなければならない。

(帰還権について)
帰還権は国連憲章第2条の精神であり、世界人権宣言やあらゆる国際的議定書に書いてあるもので、人びとは故国から放逐されるようなことがあってはならない。また選んで故国を離れたとしても帰還の権利を奪われてはならないというものです。これが大原則です。
(中略)
わたしはこのパレスチナ人の問題を、より大きな現象の一部、つまり故国から放逐された場合に、べつの国に入れるという移民の権利が問題となる現象の一部とみているのです。もしそのような人びとが政治的・物理的理由で帰還できないなら、どこにいようとも居住権をあたえられるべきなのです。

(記憶について)
バーサミアンはミラン・クンデラの著作から「権力に対する人間の闘いは、忘却に対する記憶の闘いである」という一文をひく。
サイードはそれにこたえて「わたしがいまおこなっている講演でとくに強調しているのは、パレスチナ人の経験における記憶の重要性についてです」と。

サイードが繰り返し言っても言っても、欧米でのパレスチナ観はなかなか変わらないのだろう。せめて僕は記憶によって権力への闘いをつづけたい。

革命的群集

2008年9月2日 読書
革命的群集
ジョルジュ・ルフェーブルの『革命的群集』を読んだ。
以下、目次
序論
 「群集」をいかに捉えるか
 ルボンによる「群集」概念の導入
 革命家に見られる「群集」観
 1789年の「群集」−3つの論点
 (1)「集合体」の固有の役割
 (2)「心的相互作用」と「集合心性」
 (3)「集合体」より「結集体」へ

1、純粋状態の群集、または「集合体」/「半意識的集合体」/「結集体」への突然の変容
壱、単なる「集合体」
 社会的絆の一時的解体と意識されざる集団
 「心的感染」
 行動の伝染は群集の特徴か
弐、「半意識的集合体」
 日常生活における共同性
  共同の農作業/ミサ・寄合い・居酒屋/週市/パン屋での行列
 集まることの歓び
  アーサー・ヤングは見当違いであった/町での集会/村での祭り
 集合体と「平準化作用」
  三都会のための選挙集会/情報のための集い
参、「結集体」への変容
 基盤としての「集合心性」
 自覚された結集体の形成

2、革命的集合心性
壱、「心的相互作用」
 日常の語らい/集合的記憶/口伝えの情報
 印刷物・歌謡(シャンソン)・演説
 共同体の規制力
弐、集合心性の形成
 「平準化」の過程
 悪玉の設定−「アリストクラートの陰謀」
 対極としての善玉−理想化された民衆像
参、革命的集合心性の特質
 不安
  猜疑心・恐怖感/不安から反撃へ
 希望
  千年王国主義/自己犠牲
四、革命的心性の機能
 革命的集合心性の創造的機能/指導者を支えるもの/運動の有効性

3、「集合体」ならびに「結集体」の固有の作用
壱、「集合体」の作用
 塊(マス)の及ぼす力/順応主義
 責任感の稀薄化
弐、「集合体」と「結集体」の類似性
 生理的磁気作用の役割

結語−カギとしての「集合心性」

本書はルフェーブルがフランス革命時の「大恐怖」を解き明かす試みとしてたてられた心性論の端緒である。
「大恐怖」は1789年、農民たちがアリストクラートの陰謀に対する恐怖から自衛的な一揆に駆り立てられた現象を指す。
内容は、目次どおり。
単なる人の集まりでしかない「集合体」が、組織性を有し、行動を志向する「結集体」になる心性について考察がなされており、その2つの中間の状態として「半意識的集合体」を設定している。
目次に出てくる「アーサー・ヤング」はイギリスの農学者で、フランス旅行記を書いている。そのなかで、さして収益もないのに農民たちが野菜や卵を売りに市場に行くことを揶揄した文章がある。ルフェーブルは、収益だけじゃなくて、市に行けば大勢の仲間と会える楽しみがあるんじゃボケ、とヤングの意見に異をとなえているのである。コミケに行ったり、特に用もないのに秋葉原や日本橋に行ったりするのも似たようなものだろう。
本書は1934年に出た本だが、その問題とするところは現代的だ。最初の一歩としての叩き台にはうってつけ。
映画の日。
「崖の上のポニョ」は何度も見られることを想定して作られた映画。
人魚姫の物語を元にしているが、いろんな媒体などでストーリーを繰り返しなぞることで、頭の中で連続したストーリーが出来上がるようになっている。
なぜ、こんな感想を抱いたのかというと、何の予備知識もなく見た僕は、映画が終わったあとで「あのシーンは何だったんだろう」「きっとぼんやりしてどこか見逃したにちがいない」なんて振り返ってストーリーを補完せずにはいられなかったからだ。
魔法を使えるファンタジーの生き物よりも、人間の幼少女を選ぶ価値観に拍手。ヒューマニズムみたいなきれいごとじゃなく。
「アクロス・ザ・ユニバース」はビートルズの歌を集めて、その歌の世界、歌詞から一編のラブストーリーを組み立てた映画。
プルーデンスという女の子がバスルームの窓から入って来たり、登場人物の年齢が64歳だったり、マックスという登場人物が「ハンマーで殴りそう」と言われたり、アンクル・サムが「I Want You」と軍隊志願者に語りかけたり、ビートルズの歌にからめたくすぐりがふんだんにあって、楽しい。
ポニョよりも面白くて感心したが、客入りは約半分か。
「ダークナイト」はバットマンとジョーカーの物語。
ジョーカーの語るヒーロー論は傾聴に値する。真実だけでは人々は満足しない。幻想を埋めてやらなくてはならない、とか。
アクションもすごいし、テーマも深いし、アクロス・ザ・ユニバースよりも面白くて感心した。客入りはそこそこ。
帰宅して、今度こそ録画しておいた「ソウ」を見た。
ゲーム感覚の映画。ラストで明かされる真相はミステリー的どんでん返しになっていて、面白い。もちろん、ミステリーとしては、不治の病に犯されたヨボヨボの人間が元刑事と闘って勝てるはずがないとか、動機の納得いかなさとか、穴は山ほどある。そこがゲームたるゆえん。
ミステリーとゲームの違いは、単純に言えば、こうしたシチュエーションをあらかじめ与えられたものとして取り組むのがゲーム、こうした状況をなぜ設定したかに着目するのがミステリーと言えるだろうか。
アイドルパニック@読売テレビ本社〜杉たかし@生國魂神社〜FLC@寝屋川まつり
よみうりテレビ本社で、24時間TVイベント「アイドルパニック」
ぼやぼやしてたら出遅れて、途中から。

小岩井ことり
ラストの「シューティングスター」だけ聞けた。
ゲーマーズのイベントに行ってもいいな、と思った。スケジュール調整できるか。

Mary Angel
1.まじかるスター
2.エンジェルウィング
3.スーパーアクション
と、オリジナルを3曲。
むむむ。素晴らしい。

Milky Hat
1.グレープフルーツ
2.歩いていこう
3.大航海ランドスケープ
レナがいないと、寂しいな。(復帰するまでたぶん言い続けるだろう)
マミカのダンスが冴えていた。

星崎なみ
1.ひとつ星
2.forever with you
どうやら名古屋勢は2曲の分担のようだ。

MarryDoll
1.マリードールオリジナルメドレー
Babystarのニャニャニャンは、初期バージョンに戻っていた。
ファンとの交流を第一に考えるマリードールは、歌の振付けをきっちり完走することはめったにないのだが、今回は比較的振付けが見れた。

城奈菜美
1.デイブレイク
2.オーバーロード
「ジークシロン!」は無し。

JK21
1.花吹雪ハニーチップス
2.もっともっと
3.キラキラ乙女心めっちゃラブハッピー(だったと思う)
オーサカキングのステージと一緒だったが、今回は近くで見れたのと、メンバーの自己紹介もあった。それでわかったのだが、リボンつけてた子、チロルチョコのいちご娘大阪代表、谷口紗知代ちゃんじゃないか!ブログをもっとちゃんとチェックしておくんだった。パソコンの調子が悪くって!9月13日にはミドリ電化堺インター店でCD発売イベントがある。うう、それ、どこ?
http://plaza.rakuten.co.jp/fsaud202/

生國魂神社に移動。Milky Hatが出演するというので。ところが都市部からは撤退したと思われるドムドムバーガーで昼食をとっている間に出番が過ぎたのか、メンバーには会えたが、ライブは見れず。
ただし、そのかわりにすごいものが見れた。
到着したときには、ミス花子がライブ中!
さらに、久しぶりに伝説のカルト芸人、杉のぼる改め杉たかしさんに会えた!
杉たかしさんの腹話術&南京玉すだれ。
伝説的芸はさらに磨きがかかっていた。
こんな凄いものはめったにお目にかかれない。

さらに移動して、寝屋川まつり。
大ステージで桜川唯丸。
ふれあいステージでfour leaf clover。
会場についてからの移動にてまどり、あいにくと姫DANは見逃した!
FLCは、ダンス、カラーオブシーズン、オリジナルのシャイニンロード(だったかな?シャインロード?)
まつりはテキヤ以外に、地域の多くのグループが店を出しており、これが安い!
寝屋川まつりを後にして、寝屋川の迷宮をさまよった。

ラジオを持参していったのに、なぜか「現代の音楽」は聞けなかった。放送してないのか、と思ったけど、帰宅して新聞見たら、ちゃんと放送がある。チューニングの間違いか、現代音楽だとは思えないような音楽だったのか。
そうそう。それと、コードギアスも録画しそこねた。
全体に今日は空振りの多い日だったが、意外な寄り道で収穫も得たのである。

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