針谷卓史の『花散里』を読んだ。講談社BOX書き下ろし長編小説。
三田文学新人賞を受賞した人らしい。
「付き合う前に思っていたより、面白くない人だった」と言われてフラれた大学生男子。
数合わせで参加したパーティーで新たな恋に向かうが。
登場する人物が、みんなつまらない人間だということがボロボロと暴露されていくのがおそろしい。
前の彼女も、新しい彼女も、結局主人公のことをまったく理解していなかった、ということが明らかになるラストシーンだが、逆もあるかな、と思いはじめた。
人を試してみたり、マニュアルどおりに動いてみたり、つきあう相手を採点してみたり、というような犬畜生にも劣る彼女たちだが、彼女たちの方が、実は主人公のことを理解していて、自分がいちばん自分を理解していなかったんじゃないか、と。彼女たちのつまらなさがきわだっているだけに、それにも劣る自分自身、という構図が恐ろしい。
あるいは、主人公は、似たような女性を好きになってしまう、というそれだけのことなのかもしれないけど。
「花散里」は、新しい彼女と遊んだ「投扇興」の決まり手で、投げた扇と、蝶と枕がばらばらに落ちている、最低の手で得点は1点。みんなバラバラでつまらないのだが、少なくとも、決まり手にはなったのだ。
大学生の恋愛なら、この程度なのかな、とがっかりするほど、あっさりした、情熱の乏しい恋愛。でも、これがリアルなのかも。そうか。バイロン読んだりした後では、あらゆる言動がせこく感じられてしまう。
主人公がすべての登場人物に対して思い入れがない、というのもすごい。
主人公の行動にはいちいち、「あ〜あ」と嘆息させられてしまうあたりも、青春か?!
こういう人物は恋愛に向いていないとしか言い様がないな。少なくとも、恋愛は面白くないといけないんだから、僕もこの主人公に対して言ってやりたい。
「読む前に思っていたより、面白くない人だった」
三田文学新人賞を受賞した人らしい。
「付き合う前に思っていたより、面白くない人だった」と言われてフラれた大学生男子。
数合わせで参加したパーティーで新たな恋に向かうが。
登場する人物が、みんなつまらない人間だということがボロボロと暴露されていくのがおそろしい。
前の彼女も、新しい彼女も、結局主人公のことをまったく理解していなかった、ということが明らかになるラストシーンだが、逆もあるかな、と思いはじめた。
人を試してみたり、マニュアルどおりに動いてみたり、つきあう相手を採点してみたり、というような犬畜生にも劣る彼女たちだが、彼女たちの方が、実は主人公のことを理解していて、自分がいちばん自分を理解していなかったんじゃないか、と。彼女たちのつまらなさがきわだっているだけに、それにも劣る自分自身、という構図が恐ろしい。
あるいは、主人公は、似たような女性を好きになってしまう、というそれだけのことなのかもしれないけど。
「花散里」は、新しい彼女と遊んだ「投扇興」の決まり手で、投げた扇と、蝶と枕がばらばらに落ちている、最低の手で得点は1点。みんなバラバラでつまらないのだが、少なくとも、決まり手にはなったのだ。
大学生の恋愛なら、この程度なのかな、とがっかりするほど、あっさりした、情熱の乏しい恋愛。でも、これがリアルなのかも。そうか。バイロン読んだりした後では、あらゆる言動がせこく感じられてしまう。
主人公がすべての登場人物に対して思い入れがない、というのもすごい。
主人公の行動にはいちいち、「あ〜あ」と嘆息させられてしまうあたりも、青春か?!
こういう人物は恋愛に向いていないとしか言い様がないな。少なくとも、恋愛は面白くないといけないんだから、僕もこの主人公に対して言ってやりたい。
「読む前に思っていたより、面白くない人だった」
『暴力の考古学〜未開社会における戦争』
2009年12月9日 読書
ピエール・クラストルの『暴力の考古学〜未開社会における戦争』を読んだ。
最近、なぜかSemiotexteが気になって(今さら?)(今だから?)、その代表とも言えるヴィリリオの『純粋戦争』とか、あと、現在のカタログにはないようだがハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』などを読んでいるのだ。
で、この『暴力の考古学』もその1冊。
未開民族についてヨーロッパ人が報告して来たのは、彼らの好戦的な性格であり、熱狂的に戦争に没頭する者たちとしてであった。
未開社会とその戦争について言われてきたことは、大きく3つ。
1、自然主義的言説
暴力は人類という動物学的特性の1つ。戦争は狩猟の「双生児」(ルロワ=グーラン)である。
2、経済主義的言説
未開社会の経済は悲惨であり、生産力の脆弱さが戦争を生む。希少な財を自分のものにしようとする集団同士の競合が戦争になった。
3、交換主義的言説
「交易上の交換は、平和的に解決された潜在的な戦争を表現しており、戦争は不幸にして失敗した商取引の結果である」(レヴィ=ストロース)
クラストルは、以上3つの見解に反論する。
1、戦争は純粋な攻撃行動である。もし戦争が狩猟であるなら、食人習慣が一般化されたものが戦争だということになるが、食人部族においてさえ、戦争の目的は敵を殺して食べることにない。戦争を生物学化してしまえば、社会的な次元が排出されてしまう。
2、マルクス主義の歴史理論では、生産力の発展に歴史の運動と社会の変化の法則を見い出す。すると、未開社会は貧困の経済だと結論されてしまう。だが、共同体にとって必要な食料の量と、それを手に入れるために費やされる時間を研究した結果、未開社会は生産に費やされる時間は短く、正真正銘の「余暇の社会」であった。未開社会の富裕さが普遍的であることによって、それと戦争の普遍性を関連づけることはできない。
3、交換主義的言説では未開社会を全面的に交換に縮小しようとする。ところが、その理論にそぐわない現実がある。未開社会は交換の領域を絶えず縮小させようとしており、交換主義と反するのだ。
では、なぜ未開社会はつねに戦争しているのか?
クラストルはこう言い切る。「戦争は未開社会そのものと結びついているのであり、戦争は未開社会が機能するひとつの様式である」
どういうことか?
「未開社会とは何であるのか?そのすべてが同じ遠心力の論理に従っているような、多数の分化していない共同体である。この論理の永続性を表現すると同時に保証しているのは、どのような機構か?それは戦争である」
な、なに〜?
「戦争は未開社会の基礎であり、その存在の生命そのものであり、その目的である」
「未開社会の存在は全面的に戦争にもとづいており、未開社会は戦争なしに存続することはできない」
どうしてそうなのかと言うと、
「戦争と国家とは互いに排除する関係において考察されるべきである」
本書に収録された訳者、毬藻充の「[クラストルの戦争論の理解をめざして]戦士に抗する社会−服従を拒否する社会における死と威光の交換」で引用されたクラストルの言葉によると、こうだ。
「戦争の効果、戦争状態の効果とは、共同体を分離状態に維持すること、すなわち分割を維持することなのです。戦争の主要な結果は、常時、多を創り出すことです。」
「未開社会の戦争は、まず一者を阻止することです。一者とはまず統合化です。すなわち国家です」
「戦争は、国家なき社会が、国家という統合化機械に抗して打ち立てる主要な障害である」
「戦士に抗する社会−服従を拒否する社会における死と威光の交換」目次
1、頭皮をめざす戦士たち
2、頭皮を持ち帰らないチュルピの男たち
*武勲を語る男たち
*チュルピに押し寄せる不吉な流れ−チャコ戦争、開発
*頭皮をもちかえらない男たち
3、命令なき社会と戦士集団
*未開社会における戦争の本質的機能
*二つの社会−戦士のいる社会とそうでない社会
*命令なき戦時社会
4、チャコ平原の戦士と頭皮
5、一者に抗する社会
*戦士集団の覇権の不可能性
*英雄的な単独行動に走る戦士たち
*首長を拒否したヤノマミ
*フシウエの自殺的攻撃
*首長の集団殺害
*未開社会の法
6、戦士に抗する社会
*やぶれかぶれで突進する戦士たち
*死の臨界における最大の武勲
*死へ向かう戦士たち
*死と威光の交換
この論考での首長についての話は面白かった。(5章)
首長が戦争を命じても、みんなが戦いたくなかったら、従わずにおれたんだ!
もちろん、これは未開社会の話なのだが、現代でも応用可能じゃないのかな。
ついつい国家を「アメリカ」と読み替えて時事問題を考えてしまうお手軽な読み方くらいしか僕にはできないけど。
最近、なぜかSemiotexteが気になって(今さら?)(今だから?)、その代表とも言えるヴィリリオの『純粋戦争』とか、あと、現在のカタログにはないようだがハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』などを読んでいるのだ。
で、この『暴力の考古学』もその1冊。
未開民族についてヨーロッパ人が報告して来たのは、彼らの好戦的な性格であり、熱狂的に戦争に没頭する者たちとしてであった。
未開社会とその戦争について言われてきたことは、大きく3つ。
1、自然主義的言説
暴力は人類という動物学的特性の1つ。戦争は狩猟の「双生児」(ルロワ=グーラン)である。
2、経済主義的言説
未開社会の経済は悲惨であり、生産力の脆弱さが戦争を生む。希少な財を自分のものにしようとする集団同士の競合が戦争になった。
3、交換主義的言説
「交易上の交換は、平和的に解決された潜在的な戦争を表現しており、戦争は不幸にして失敗した商取引の結果である」(レヴィ=ストロース)
クラストルは、以上3つの見解に反論する。
1、戦争は純粋な攻撃行動である。もし戦争が狩猟であるなら、食人習慣が一般化されたものが戦争だということになるが、食人部族においてさえ、戦争の目的は敵を殺して食べることにない。戦争を生物学化してしまえば、社会的な次元が排出されてしまう。
2、マルクス主義の歴史理論では、生産力の発展に歴史の運動と社会の変化の法則を見い出す。すると、未開社会は貧困の経済だと結論されてしまう。だが、共同体にとって必要な食料の量と、それを手に入れるために費やされる時間を研究した結果、未開社会は生産に費やされる時間は短く、正真正銘の「余暇の社会」であった。未開社会の富裕さが普遍的であることによって、それと戦争の普遍性を関連づけることはできない。
3、交換主義的言説では未開社会を全面的に交換に縮小しようとする。ところが、その理論にそぐわない現実がある。未開社会は交換の領域を絶えず縮小させようとしており、交換主義と反するのだ。
では、なぜ未開社会はつねに戦争しているのか?
クラストルはこう言い切る。「戦争は未開社会そのものと結びついているのであり、戦争は未開社会が機能するひとつの様式である」
どういうことか?
「未開社会とは何であるのか?そのすべてが同じ遠心力の論理に従っているような、多数の分化していない共同体である。この論理の永続性を表現すると同時に保証しているのは、どのような機構か?それは戦争である」
な、なに〜?
「戦争は未開社会の基礎であり、その存在の生命そのものであり、その目的である」
「未開社会の存在は全面的に戦争にもとづいており、未開社会は戦争なしに存続することはできない」
どうしてそうなのかと言うと、
「戦争と国家とは互いに排除する関係において考察されるべきである」
本書に収録された訳者、毬藻充の「[クラストルの戦争論の理解をめざして]戦士に抗する社会−服従を拒否する社会における死と威光の交換」で引用されたクラストルの言葉によると、こうだ。
「戦争の効果、戦争状態の効果とは、共同体を分離状態に維持すること、すなわち分割を維持することなのです。戦争の主要な結果は、常時、多を創り出すことです。」
「未開社会の戦争は、まず一者を阻止することです。一者とはまず統合化です。すなわち国家です」
「戦争は、国家なき社会が、国家という統合化機械に抗して打ち立てる主要な障害である」
「戦士に抗する社会−服従を拒否する社会における死と威光の交換」目次
1、頭皮をめざす戦士たち
2、頭皮を持ち帰らないチュルピの男たち
*武勲を語る男たち
*チュルピに押し寄せる不吉な流れ−チャコ戦争、開発
*頭皮をもちかえらない男たち
3、命令なき社会と戦士集団
*未開社会における戦争の本質的機能
*二つの社会−戦士のいる社会とそうでない社会
*命令なき戦時社会
4、チャコ平原の戦士と頭皮
5、一者に抗する社会
*戦士集団の覇権の不可能性
*英雄的な単独行動に走る戦士たち
*首長を拒否したヤノマミ
*フシウエの自殺的攻撃
*首長の集団殺害
*未開社会の法
6、戦士に抗する社会
*やぶれかぶれで突進する戦士たち
*死の臨界における最大の武勲
*死へ向かう戦士たち
*死と威光の交換
この論考での首長についての話は面白かった。(5章)
首長が戦争を命じても、みんなが戦いたくなかったら、従わずにおれたんだ!
もちろん、これは未開社会の話なのだが、現代でも応用可能じゃないのかな。
ついつい国家を「アメリカ」と読み替えて時事問題を考えてしまうお手軽な読み方くらいしか僕にはできないけど。
マリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔』読了。
この本を読んでいたおかげで、先月『マンフレッド』読んだりしてたのである。とくに日記にはあげなかったが、チャイコフスキーの『マンフレッド交響曲』とシューマンの『マンフレッド序曲』を聞きながら、先にあげた岩波文庫版と鴎外版以外に、『バイロン詩集』阿部知二訳の「マンフレッド」と『バイロン全集』の「マンフレッド」を読んで、ひとりで浸っていたのである。なんと感化されやすいことであるか!
以下、目次にそって、ときどきメモ。
第二版序文
*冒頭に、本書の説明がある。「この書物は、主としてロマン派文学(前世紀末のデカダンティスムは、ロマン派文学の発展にすぎない)を、そのもっとも顕著な特徴のひとつであるエロティスムの感性という面から検討しようとするものである」
本書の初版後に出た数々の批評にたいする反論も。
序論
第1部
Ⅰメドゥーサの美
*ここで言う「メドゥーサの美」は、「苦痛と腐敗と死の色に染め上げられ」た美をさしている。
1.ゲーテとシェリーにおけるメドゥーサの美
2.プレロマン派、ノヴァーリス、シャトーブリアン、ユゴー、ボードレール、フローベール、ダヌンツィオ、における恐怖の美、悲愴の美、美と死
3.先駆者たち−タッソー、エリザベス朝と王政復古期の劇作家
4.17世紀の抒情詩人たち
5.17世紀作家およびロマン派における汚辱の美のテーマのはらむさまざまの意味
6.汚辱の美のテーマのボードレールにおける再現、<腐敗熟成>の誘惑、凄惨な風景美
Ⅱサタンの変貌
1.タッソーとマリーノにおけるサタンの風貌
2.ミルトンのサタン、テーヌの見解、ミルトンのいわゆる悪魔主義、ロマン派(シラー、ブレイク、シェリー)の視点
3.高潔な盗賊の類型とミルトンのサタン的類型の融合、シラーの悪漢
4.「恐怖小説」におけるアウト・ロー的類型、アン・ラドクリフにおlけるスケドーニ、シェイクスピア的要素
5.マシュー・グレゴリ・ルイス、ハインリヒ・チョッケ、『大盗賊アベリーノ』、『ジャン・スボガール』
6.バイロンとアウト・ロー的類型、ラドクリフから派生した登場人物たち
*バイロンがラドクリフから取り出してきた、と言われる類型は、「過去の悲しみのために深く皺の刻み込まれた蒼白い顔、めったに見せない悪魔的な笑い、陰りを帯びてはいるが瑞光あってしかるべき高貴な出生の徴(気高い魂と立派な家柄の出)」
7.バイロンと『ゼルーコ』
8.バイロンとシャトーブリアン『ルネ』
9.バイロンの伝記的特徴
10.バイロンにおける違犯の意味
11.ロマン派における宿命の男−ジャン・スボガール、アントニー、犯罪のエロティシズム
12.吸血鬼の伝説
13.新聞小説におけるアウト・ロー的博愛主義者
14.吸血鬼伝説の意味、第1章の主題との関係、オージェの演説とサント=ブーヴの見解、「バイロンとサドは…われわれ現代人にもっとも偉大な影響を与えた二人の作家である」
Ⅲ聖侯爵の旗印のもとに
1.責め苛まれる女、『クラリッサ』、リチャードソンの道徳観
2.『修道女』、ディドロと『自然の体系』
3.『哲学女テレーズ』
4.『危険な関係』、ボードレールの見解
5.サド侯爵の小説と彼の<哲学>
6.レチフ・ド・ラ・ブルドンヌ
7.シャトーブリアンにおけるいかがわしき主題
8.<責め苛まれる女>という主題の伝播、マシュー・グレゴリ・ルイスと『マンク』、この小説の運命−ホフマン、ヴィクトル・ユゴー、ジョルジュ・サンド
9.アン・ラドクリフの小説に現われる責め苛まれる女、再認のシーン
*「再認」は、親兄弟の再認をさしている。「最も劇的な状況で、わが子にめぐり合う親たち、これは1830年頃の戯曲や小説の主要モチーフであった」この親兄弟の再認はギリシアの物語に古くから見られるものだが、それは恐怖小説の要のひとつであり、ロマン主義全体の要だったのだ。
10.男の視点の影響をうけた女流作家、ウィルキンソン嬢、シェリー夫人
11.シェリーのベアトリーチェ・チェンチ、シェリーにおけるいかがわしき主題
12.マチューリンと『メルモス』
13.イギリスの恐怖小説のフランスにおける伝播、人生観にあたえた影響、ベルリオーズの挿話、ベルジョヨーゾ侯爵夫人、若きフランス派
14.ジュール・ジャナンの『死んだロバ』
15.モラリスト・ジャナン、そのサド論、『ピュチファール夫人』書評
16.フレデリック・スーリエ『悪魔の回想録』
17.狼狂ペトリュス・ボレル、『シャンパヴェール』『ピュチファール夫人』
18.ボードレールが育った文学的風土、オラース・ド・ヴィエル・カステル伯の見解、ベルリオーズ・ミュッセ
19.ドラクロア
20.ボードレール、ポーの発見、ボードレールとサド、ボードレールの性愛学
21.フローベール、『聖アントワヌの誘惑』、フローベールの理想的女性像、フローベールと『モーパン嬢』、エグゾティスム
22.フローベールにおける自伝的詳細、フローベールとサド、フローベールとバイロン
23.ロートレアモン伯と『マルドロールの歌』、ペトリュスボレルとの親近性
Ⅳつれなき美女
1.宿命の女の主題の普遍性、アイスキュロス、エリザベス朝劇作家
2.ロマン派における宿命の女のタイプ、二つの系譜
3.『マンク』のマチルダ
4.ヴェレダ、サランボー
5.メリメ、『女は魔物』『カルメン』、宿命の女の地位、エグゾティスムとエロティシズム
6.『パリの秘密』のセシリ
7.いくつかの亜流、ロザルバ・ラ・プディカ、コンチタなど
8.エグゾティスムと神秘主義、ロマン派のエグゾティスムの前兆、キーツの『つれなき美女』、トマス・ウェインライト
9.エグゾティスムの美学の創始者ゴーチエ、『ある夜のクレオパトラ』、19世紀におけるセックスの寓話
*蟷螂のように愛する牡を殺すクレオパトラは宿命の女の代表である。「相手を惹き寄せ、灼きつくす炎の役割を果たすのは、19世紀前半は宿命の男(バイロン的主人公)であり、後半は宿命の女だ」「世紀末に顕著なアンドロギュヌス・タイプへの執着は、両性の機能役割と理想とのはなはだしい混乱を、明瞭に示している。はじめのうちサディズムの傾向があった男性は、世紀末になると、マゾヒズムに傾く」
10.ニシア(『カンドール王』)『イールのヴィーナス』、『死霊の恋』
11.宿命の女の総合、ゴーチエのインペリア、『11月』の遊び女マリー(フローベール)、フローベールの『聖アントワヌの誘惑』におけるシバの女王とエンノイア、イギリスにおける宿命の女のタイプの発達
12.スウィンバーン
13.スウィンバーンのモンクトン=ミルンズによるサド入信
14.スウィンバーンの苦痛淫欲、「美女の荒れ狂う怒りになすすべもない犠牲者」、スウィンバーンの筆になる宿命の女のタイプ、ラファエル前派の影響、ゴーチエとフローベールの宿命の女のタイプとの照応
15.『シャトラール』におけるメアリー・ステュアート
16.『カリュドンのアタランタ』とサディズムの影響
17.『レスビアブランドン』、『アナクトリア』
18.『詩とバラッド』第1集における宿命の女、『ドロレス』
19.スウィンバーンの苦痛淫欲の昇華「自由の女神」
20.ミケランジェロの作とされるいくつかの女性の頭像に関するスウィンバーンの見解、『クレオパトラ』
21.宿命の女というタイプはペイターの「モナ・リザ」において頂点に達する、ジョコンダの微笑の流行
22.ワイルドの『スフィンクス』
*プラーツはワイルドを後追いの人物として扱うことが多々あるようだ。この章での最初の文章にも如実にあらわれている。「いつもながらワイルドは、特にこれは詩について言えることだが−彼に着想を与えた種本、あるいはさらに適切には読書の記憶を、かならず連想させずにはおかない。と、いうのも、この役者的作者(本当の役者という意味ではなく、役者の素質はうまれつきで直らないという意味で)の影響をうけやすい、人真似好きの性格を考えてみると、ワイルドのまさに自前の声音と信じていたものが、実はこだまでしかなかったからといって、驚くには当たらないだろう。ここに彼の変幻自在な性格の悲劇(あるいは喜劇)がある」ワイルドがまるで寺山修司にみえてきた。
23.エンリコ・ネンチョーニの『ラプソディア・リリカ』におけるスウィンバーン的宿命の女、イタリアではデカダン派の主題はあまり流行を見ない
24.ダヌンツィオの作品に見るサディズム、ダヌンツィオにおける真率さの欠如
25.スウィンバーンから借用したダヌンツィオの<超人的女性>
26.コムネーナ・バジリオーラ、フェードラ
27.ダヌンツィオの作品に見るサド的理論、<哲学女>イザベッラ・インギラミ
28.ラシルド、ユイスマンス、オクターヴ・ミルボーにおける他の宿命の女、サド侯爵夫人、『責苦の庭』におけるクララ
29.デカダン派の詩に見る『マドモアゼル外科刀』のタイプ、ユーモアによる逃避、ラフォルグ
Ⅴビザンティウム
1.ギュスターヴ・モローの芸術
2.モローとユイスマンスにおけるサロメ
3.モローにおける宿命の女、瀕死の男たちに囲まれたヘレネ
4.ワイルドのサロメ、ハイネとフローベールによって取り上げられたテーマ、バンヴィル、ラフォルグ
5.マラルメの『エロディアド』、その象徴的意味、エロディアドとサランボー
6.「わが書は淫らなれど、わが生は清らかなり」
7.フランスのデカダン派文学におけるサディズムとカトリシズム
8.ユイスマンス、責苦の情景の意味するもの、ジル・ド・レ
9.バルベー・ドールヴィイ
10.ヴィリエ・ド・リラダン
11.ジョゼファン・ペラダンと『風俗誌』、デカダンの隠秘学、アンドロギュヌスの主題、レオナルド・ダ・ヴィンチのアンドロギュヌス、ルネサンス前期絵画の倒錯的解釈、ロシア小説、ワグナー
*プラーツのペラダン評はワイルド以上にけちょんけちょんだ。「ペラダンの作品は、−それを著者自身は仰々しくも、『ペラダン大全』と称するのであるが−はなはだ芸術的な興味に欠ける」「紋切り型の表現や陳腐な文句ででっちあげられたマイナーな群小作家によくあるように−デカダン派の風土や当時の嗜好を示す興味深い資料ではある」ここでは自らの小説を「大説」と称した清涼院流水とか、同じく大言壮語が作品の質になかなか追いつかなかった斎藤栄などを思い出した。どちらも芸術ではなくて、大衆娯楽のジャンルだけど。
12.エレミール・ブールジュ、『神々の黄昏』
13.デカダン派運動のもうひとつの「風俗誌」、カチュル・マンデスの小説
14.ラシルドの『ヴィーナス氏』
15.ロシア文学の影響、ドストエフスキー
16.ジャン・ロランの『かぎりなくロシア風の女』、『ノロンソフ家』
17.『ドリアン・グレイ』と『フォカス氏』、ウォルター・ペイターとイギリス・デカダン派、オーブリー・ビアズリーの『丘の麓』、ロランとモロー、『魂の吸引者』
*ここでもプラーツのワイルド評が辛辣で面白い。「こうした場所をわきまえない装飾的な描写によって、ワイルドの精神的な関わりかたに、いかに真摯なものが欠けているか、彼の快楽主義がいかに浅薄なものであったか、ワイルドとはいかに子供じみた貪欲な、きまぐれな男であったかが、わかるのである」「『ドリアングレイ』の文体は、幻想と機知のあいだを揺れ動いている。会話の部分は、18世紀の劇作家たちの遅ればせな亜流である、言葉の遊びが花輪模様のように飾り立てている。描写については、大人が子供と遊ぶとき、無邪気を装ったり、驚いたりしてみせるように、どこか偽りのあどけなさや、ピクチュアレスクな誇張を感じる。要するにワイルドの視点はつねに芝居じみていてなにもかも見せ物にしてしまうのである。彼にはいつでもポーズがまとわりついている。そして、人物でも、風景でも、事件でも、ポーズをとらされている」
18.倒錯趣味の妖精
19.レミ・ド・グールモン
20.マルセル・シュオブ
21.バレス、バレスにおける責苦の情景
22.ジイド
23.ロップスと悪魔主義、<淫蕩>そして<死>
24.ボードレール以降の詩、ロリナ、サマン、ロベール・ド・モンテスキウ、ルネ・ヴィヴァン、諷刺詩『アンドレ・フルペットの嘲解詩集』、『デカダンが己が魂に語る』、ヴェルレーヌ
*ラフォルグはボードレール以降の詩人についてこう言った「彼の弟子たちは、ことごとく居酒屋の医学生よろしく、神経発作となんとも醜悪な料理にすべり落ちてしまった」これは絵画の分野ではロップスに、また、詩の分野ではモーリス・ロリナにあてはまる、とプラーツは言う。ロリナはプラーツに言わせれば「型にはまった恐怖の絵図蒐集に堕したボードレール」と評される。
25.ラテン文明終末の嘆き、「あらゆるものがデカダンスなのである…」、ビザンティウム、ポール・アダン
26.デカダンティスムのもっとも特筆すべき人物−ダヌンツィオ、『讃歌』、ヴィットリアーレ
*ダヌンツィオはデカダンであると同時に未開人なのだ、とプラーツは言う。だから本来兵士として弱卒なのが通例のデカダン作家でありながら、戦争で英雄的武勲者にもなれたのである。ダヌンツィオが手本としたのはペラダンなどであり、スウィンバーンやニーチェからはもっとも明白な特徴のみを取り出し、さらに洗練されたデカダン派たるバレス、レミ・ド・グールモン、マラルメの繊細さは無縁なままだった。
また、ダヌンツィオの作品は「総じてヨーロッパのデカダン派文学運動の見事な百科全書といった様相を帯びる」同様のことを試みたワイルドが消極的な模倣に終わったのとは違って、ダヌンツィオには一貫性をあたえる力をもった言語表現の才があった、として「ダヌンツィオはデカダン派文学におけるヴィクトル・ユゴーなのである」と言わしめている。
付論1 スウィンバーンと「イギリス風悪徳」
1.イギリス風苦痛淫欲、ジョージ・オーガスタス・セルウィン
2.フランス・ロマンティスムにおけるイギリス風サディズムの典型
3.ゴンクールの『日記』において、モーパッサンによるスウィンバーン像、『ラ・フォスタン』作中人物セルウィンにたいする影響、他の実在人物との混交
4.1885年『ペル・メル・ガゼット』紙に暴露されたロンドンのスキャンダル、ヴィリエ・ド・リラダンの論文
5.『快楽』におけるマウント・エッジカム侯爵なる人物
6.トゥーレの『ポール氏』におけるイギリス風サディズム、ドールヴィイの『魔性の女たち』、オクターヴ・ミルボーの『責苦の庭』、ジャン・ロランの『フォカス氏』および『ノロンソフ家』、そしてジョゼファン・ペラダンの『至高の悪徳』における系譜
7.結論
第2部
付論2 ダヌンツィオと「言葉にたいする官能的嗜好」
1.源泉研究に関する一般的考察
2.漠然たる系譜上の比較、例証
3.内容の借用、文体の借用、アンリ・ド・レニエと『アルチオーネ』、カルドゥッチ、フローベール
4.ダヌンツィオにおける文飾の源泉
5.言葉の重要性
6.語の喚起力を強化するのにダヌンツィオが用いているさまざまな手法
7.語の音声によって喚起される感覚
8.事物を喚起するさまざまな手法、特殊な技術用語、事物に気品をあたえようとするダヌンツィオの要求
この本を読んでいたおかげで、先月『マンフレッド』読んだりしてたのである。とくに日記にはあげなかったが、チャイコフスキーの『マンフレッド交響曲』とシューマンの『マンフレッド序曲』を聞きながら、先にあげた岩波文庫版と鴎外版以外に、『バイロン詩集』阿部知二訳の「マンフレッド」と『バイロン全集』の「マンフレッド」を読んで、ひとりで浸っていたのである。なんと感化されやすいことであるか!
以下、目次にそって、ときどきメモ。
第二版序文
*冒頭に、本書の説明がある。「この書物は、主としてロマン派文学(前世紀末のデカダンティスムは、ロマン派文学の発展にすぎない)を、そのもっとも顕著な特徴のひとつであるエロティスムの感性という面から検討しようとするものである」
本書の初版後に出た数々の批評にたいする反論も。
序論
第1部
Ⅰメドゥーサの美
*ここで言う「メドゥーサの美」は、「苦痛と腐敗と死の色に染め上げられ」た美をさしている。
1.ゲーテとシェリーにおけるメドゥーサの美
2.プレロマン派、ノヴァーリス、シャトーブリアン、ユゴー、ボードレール、フローベール、ダヌンツィオ、における恐怖の美、悲愴の美、美と死
3.先駆者たち−タッソー、エリザベス朝と王政復古期の劇作家
4.17世紀の抒情詩人たち
5.17世紀作家およびロマン派における汚辱の美のテーマのはらむさまざまの意味
6.汚辱の美のテーマのボードレールにおける再現、<腐敗熟成>の誘惑、凄惨な風景美
Ⅱサタンの変貌
1.タッソーとマリーノにおけるサタンの風貌
2.ミルトンのサタン、テーヌの見解、ミルトンのいわゆる悪魔主義、ロマン派(シラー、ブレイク、シェリー)の視点
3.高潔な盗賊の類型とミルトンのサタン的類型の融合、シラーの悪漢
4.「恐怖小説」におけるアウト・ロー的類型、アン・ラドクリフにおlけるスケドーニ、シェイクスピア的要素
5.マシュー・グレゴリ・ルイス、ハインリヒ・チョッケ、『大盗賊アベリーノ』、『ジャン・スボガール』
6.バイロンとアウト・ロー的類型、ラドクリフから派生した登場人物たち
*バイロンがラドクリフから取り出してきた、と言われる類型は、「過去の悲しみのために深く皺の刻み込まれた蒼白い顔、めったに見せない悪魔的な笑い、陰りを帯びてはいるが瑞光あってしかるべき高貴な出生の徴(気高い魂と立派な家柄の出)」
7.バイロンと『ゼルーコ』
8.バイロンとシャトーブリアン『ルネ』
9.バイロンの伝記的特徴
10.バイロンにおける違犯の意味
11.ロマン派における宿命の男−ジャン・スボガール、アントニー、犯罪のエロティシズム
12.吸血鬼の伝説
13.新聞小説におけるアウト・ロー的博愛主義者
14.吸血鬼伝説の意味、第1章の主題との関係、オージェの演説とサント=ブーヴの見解、「バイロンとサドは…われわれ現代人にもっとも偉大な影響を与えた二人の作家である」
Ⅲ聖侯爵の旗印のもとに
1.責め苛まれる女、『クラリッサ』、リチャードソンの道徳観
2.『修道女』、ディドロと『自然の体系』
3.『哲学女テレーズ』
4.『危険な関係』、ボードレールの見解
5.サド侯爵の小説と彼の<哲学>
6.レチフ・ド・ラ・ブルドンヌ
7.シャトーブリアンにおけるいかがわしき主題
8.<責め苛まれる女>という主題の伝播、マシュー・グレゴリ・ルイスと『マンク』、この小説の運命−ホフマン、ヴィクトル・ユゴー、ジョルジュ・サンド
9.アン・ラドクリフの小説に現われる責め苛まれる女、再認のシーン
*「再認」は、親兄弟の再認をさしている。「最も劇的な状況で、わが子にめぐり合う親たち、これは1830年頃の戯曲や小説の主要モチーフであった」この親兄弟の再認はギリシアの物語に古くから見られるものだが、それは恐怖小説の要のひとつであり、ロマン主義全体の要だったのだ。
10.男の視点の影響をうけた女流作家、ウィルキンソン嬢、シェリー夫人
11.シェリーのベアトリーチェ・チェンチ、シェリーにおけるいかがわしき主題
12.マチューリンと『メルモス』
13.イギリスの恐怖小説のフランスにおける伝播、人生観にあたえた影響、ベルリオーズの挿話、ベルジョヨーゾ侯爵夫人、若きフランス派
14.ジュール・ジャナンの『死んだロバ』
15.モラリスト・ジャナン、そのサド論、『ピュチファール夫人』書評
16.フレデリック・スーリエ『悪魔の回想録』
17.狼狂ペトリュス・ボレル、『シャンパヴェール』『ピュチファール夫人』
18.ボードレールが育った文学的風土、オラース・ド・ヴィエル・カステル伯の見解、ベルリオーズ・ミュッセ
19.ドラクロア
20.ボードレール、ポーの発見、ボードレールとサド、ボードレールの性愛学
21.フローベール、『聖アントワヌの誘惑』、フローベールの理想的女性像、フローベールと『モーパン嬢』、エグゾティスム
22.フローベールにおける自伝的詳細、フローベールとサド、フローベールとバイロン
23.ロートレアモン伯と『マルドロールの歌』、ペトリュスボレルとの親近性
Ⅳつれなき美女
1.宿命の女の主題の普遍性、アイスキュロス、エリザベス朝劇作家
2.ロマン派における宿命の女のタイプ、二つの系譜
3.『マンク』のマチルダ
4.ヴェレダ、サランボー
5.メリメ、『女は魔物』『カルメン』、宿命の女の地位、エグゾティスムとエロティシズム
6.『パリの秘密』のセシリ
7.いくつかの亜流、ロザルバ・ラ・プディカ、コンチタなど
8.エグゾティスムと神秘主義、ロマン派のエグゾティスムの前兆、キーツの『つれなき美女』、トマス・ウェインライト
9.エグゾティスムの美学の創始者ゴーチエ、『ある夜のクレオパトラ』、19世紀におけるセックスの寓話
*蟷螂のように愛する牡を殺すクレオパトラは宿命の女の代表である。「相手を惹き寄せ、灼きつくす炎の役割を果たすのは、19世紀前半は宿命の男(バイロン的主人公)であり、後半は宿命の女だ」「世紀末に顕著なアンドロギュヌス・タイプへの執着は、両性の機能役割と理想とのはなはだしい混乱を、明瞭に示している。はじめのうちサディズムの傾向があった男性は、世紀末になると、マゾヒズムに傾く」
10.ニシア(『カンドール王』)『イールのヴィーナス』、『死霊の恋』
11.宿命の女の総合、ゴーチエのインペリア、『11月』の遊び女マリー(フローベール)、フローベールの『聖アントワヌの誘惑』におけるシバの女王とエンノイア、イギリスにおける宿命の女のタイプの発達
12.スウィンバーン
13.スウィンバーンのモンクトン=ミルンズによるサド入信
14.スウィンバーンの苦痛淫欲、「美女の荒れ狂う怒りになすすべもない犠牲者」、スウィンバーンの筆になる宿命の女のタイプ、ラファエル前派の影響、ゴーチエとフローベールの宿命の女のタイプとの照応
15.『シャトラール』におけるメアリー・ステュアート
16.『カリュドンのアタランタ』とサディズムの影響
17.『レスビアブランドン』、『アナクトリア』
18.『詩とバラッド』第1集における宿命の女、『ドロレス』
19.スウィンバーンの苦痛淫欲の昇華「自由の女神」
20.ミケランジェロの作とされるいくつかの女性の頭像に関するスウィンバーンの見解、『クレオパトラ』
21.宿命の女というタイプはペイターの「モナ・リザ」において頂点に達する、ジョコンダの微笑の流行
22.ワイルドの『スフィンクス』
*プラーツはワイルドを後追いの人物として扱うことが多々あるようだ。この章での最初の文章にも如実にあらわれている。「いつもながらワイルドは、特にこれは詩について言えることだが−彼に着想を与えた種本、あるいはさらに適切には読書の記憶を、かならず連想させずにはおかない。と、いうのも、この役者的作者(本当の役者という意味ではなく、役者の素質はうまれつきで直らないという意味で)の影響をうけやすい、人真似好きの性格を考えてみると、ワイルドのまさに自前の声音と信じていたものが、実はこだまでしかなかったからといって、驚くには当たらないだろう。ここに彼の変幻自在な性格の悲劇(あるいは喜劇)がある」ワイルドがまるで寺山修司にみえてきた。
23.エンリコ・ネンチョーニの『ラプソディア・リリカ』におけるスウィンバーン的宿命の女、イタリアではデカダン派の主題はあまり流行を見ない
24.ダヌンツィオの作品に見るサディズム、ダヌンツィオにおける真率さの欠如
25.スウィンバーンから借用したダヌンツィオの<超人的女性>
26.コムネーナ・バジリオーラ、フェードラ
27.ダヌンツィオの作品に見るサド的理論、<哲学女>イザベッラ・インギラミ
28.ラシルド、ユイスマンス、オクターヴ・ミルボーにおける他の宿命の女、サド侯爵夫人、『責苦の庭』におけるクララ
29.デカダン派の詩に見る『マドモアゼル外科刀』のタイプ、ユーモアによる逃避、ラフォルグ
Ⅴビザンティウム
1.ギュスターヴ・モローの芸術
2.モローとユイスマンスにおけるサロメ
3.モローにおける宿命の女、瀕死の男たちに囲まれたヘレネ
4.ワイルドのサロメ、ハイネとフローベールによって取り上げられたテーマ、バンヴィル、ラフォルグ
5.マラルメの『エロディアド』、その象徴的意味、エロディアドとサランボー
6.「わが書は淫らなれど、わが生は清らかなり」
7.フランスのデカダン派文学におけるサディズムとカトリシズム
8.ユイスマンス、責苦の情景の意味するもの、ジル・ド・レ
9.バルベー・ドールヴィイ
10.ヴィリエ・ド・リラダン
11.ジョゼファン・ペラダンと『風俗誌』、デカダンの隠秘学、アンドロギュヌスの主題、レオナルド・ダ・ヴィンチのアンドロギュヌス、ルネサンス前期絵画の倒錯的解釈、ロシア小説、ワグナー
*プラーツのペラダン評はワイルド以上にけちょんけちょんだ。「ペラダンの作品は、−それを著者自身は仰々しくも、『ペラダン大全』と称するのであるが−はなはだ芸術的な興味に欠ける」「紋切り型の表現や陳腐な文句ででっちあげられたマイナーな群小作家によくあるように−デカダン派の風土や当時の嗜好を示す興味深い資料ではある」ここでは自らの小説を「大説」と称した清涼院流水とか、同じく大言壮語が作品の質になかなか追いつかなかった斎藤栄などを思い出した。どちらも芸術ではなくて、大衆娯楽のジャンルだけど。
12.エレミール・ブールジュ、『神々の黄昏』
13.デカダン派運動のもうひとつの「風俗誌」、カチュル・マンデスの小説
14.ラシルドの『ヴィーナス氏』
15.ロシア文学の影響、ドストエフスキー
16.ジャン・ロランの『かぎりなくロシア風の女』、『ノロンソフ家』
17.『ドリアン・グレイ』と『フォカス氏』、ウォルター・ペイターとイギリス・デカダン派、オーブリー・ビアズリーの『丘の麓』、ロランとモロー、『魂の吸引者』
*ここでもプラーツのワイルド評が辛辣で面白い。「こうした場所をわきまえない装飾的な描写によって、ワイルドの精神的な関わりかたに、いかに真摯なものが欠けているか、彼の快楽主義がいかに浅薄なものであったか、ワイルドとはいかに子供じみた貪欲な、きまぐれな男であったかが、わかるのである」「『ドリアングレイ』の文体は、幻想と機知のあいだを揺れ動いている。会話の部分は、18世紀の劇作家たちの遅ればせな亜流である、言葉の遊びが花輪模様のように飾り立てている。描写については、大人が子供と遊ぶとき、無邪気を装ったり、驚いたりしてみせるように、どこか偽りのあどけなさや、ピクチュアレスクな誇張を感じる。要するにワイルドの視点はつねに芝居じみていてなにもかも見せ物にしてしまうのである。彼にはいつでもポーズがまとわりついている。そして、人物でも、風景でも、事件でも、ポーズをとらされている」
18.倒錯趣味の妖精
19.レミ・ド・グールモン
20.マルセル・シュオブ
21.バレス、バレスにおける責苦の情景
22.ジイド
23.ロップスと悪魔主義、<淫蕩>そして<死>
24.ボードレール以降の詩、ロリナ、サマン、ロベール・ド・モンテスキウ、ルネ・ヴィヴァン、諷刺詩『アンドレ・フルペットの嘲解詩集』、『デカダンが己が魂に語る』、ヴェルレーヌ
*ラフォルグはボードレール以降の詩人についてこう言った「彼の弟子たちは、ことごとく居酒屋の医学生よろしく、神経発作となんとも醜悪な料理にすべり落ちてしまった」これは絵画の分野ではロップスに、また、詩の分野ではモーリス・ロリナにあてはまる、とプラーツは言う。ロリナはプラーツに言わせれば「型にはまった恐怖の絵図蒐集に堕したボードレール」と評される。
25.ラテン文明終末の嘆き、「あらゆるものがデカダンスなのである…」、ビザンティウム、ポール・アダン
26.デカダンティスムのもっとも特筆すべき人物−ダヌンツィオ、『讃歌』、ヴィットリアーレ
*ダヌンツィオはデカダンであると同時に未開人なのだ、とプラーツは言う。だから本来兵士として弱卒なのが通例のデカダン作家でありながら、戦争で英雄的武勲者にもなれたのである。ダヌンツィオが手本としたのはペラダンなどであり、スウィンバーンやニーチェからはもっとも明白な特徴のみを取り出し、さらに洗練されたデカダン派たるバレス、レミ・ド・グールモン、マラルメの繊細さは無縁なままだった。
また、ダヌンツィオの作品は「総じてヨーロッパのデカダン派文学運動の見事な百科全書といった様相を帯びる」同様のことを試みたワイルドが消極的な模倣に終わったのとは違って、ダヌンツィオには一貫性をあたえる力をもった言語表現の才があった、として「ダヌンツィオはデカダン派文学におけるヴィクトル・ユゴーなのである」と言わしめている。
付論1 スウィンバーンと「イギリス風悪徳」
1.イギリス風苦痛淫欲、ジョージ・オーガスタス・セルウィン
2.フランス・ロマンティスムにおけるイギリス風サディズムの典型
3.ゴンクールの『日記』において、モーパッサンによるスウィンバーン像、『ラ・フォスタン』作中人物セルウィンにたいする影響、他の実在人物との混交
4.1885年『ペル・メル・ガゼット』紙に暴露されたロンドンのスキャンダル、ヴィリエ・ド・リラダンの論文
5.『快楽』におけるマウント・エッジカム侯爵なる人物
6.トゥーレの『ポール氏』におけるイギリス風サディズム、ドールヴィイの『魔性の女たち』、オクターヴ・ミルボーの『責苦の庭』、ジャン・ロランの『フォカス氏』および『ノロンソフ家』、そしてジョゼファン・ペラダンの『至高の悪徳』における系譜
7.結論
第2部
付論2 ダヌンツィオと「言葉にたいする官能的嗜好」
1.源泉研究に関する一般的考察
2.漠然たる系譜上の比較、例証
3.内容の借用、文体の借用、アンリ・ド・レニエと『アルチオーネ』、カルドゥッチ、フローベール
4.ダヌンツィオにおける文飾の源泉
5.言葉の重要性
6.語の喚起力を強化するのにダヌンツィオが用いているさまざまな手法
7.語の音声によって喚起される感覚
8.事物を喚起するさまざまな手法、特殊な技術用語、事物に気品をあたえようとするダヌンツィオの要求
ポンバシwktk学園@日本橋PLATZ
2009年12月7日 アイドル午後6時30分から日本橋PLATZでポンバシwktk学園
第1部(アイドル)
ちんモフの要塞/宮崎亜美(曲名違います)
MCは山田ジャック、わかやまん
タッチ/光藤ちひろ
きらトラコーナー「おぼえておぼえてダンシングー!」
愛の意味を教えて/きらり☆トラップ
縛り屋トーマスのコーナー「決めポーズ」
歌/たてよこしおん(曲名わからず)
太陽のかけら/原瀬今日香
わかやまんは、口から血を吐いて司会進行。大丈夫か?
いちばんアピール度が高かったのが、たてよこしおん。
彼女がレギュラーで出ることになれば、たてよこしおん目当てに来るファンがきっと増えるものと思われる。
第2部(お笑い)
No.305
縛り屋トーマス
すみませんでした
火の玉アタック
皿まんだ
わかやまん
チコピドー
大喜利(ぶっちょやムヤニーも登場)
MCは月見峠
いちばん面白かったのは、なんとチコピドーのライブだった。
wktk学園は、今はまるで秘密結社の集会のようなイベントだが、ちゃんと宣伝すれば、多くの人にアピールできる面白さ。以前ジャングルの2階でやってたときにも感じたのだが、イベント当日、会場まで足を運んでも、「ほんとにここでイベントやってるんだろうか?」とおそるおそる入るような感じが、なおさら秘密結社的イメージを呼び起こす。しかし、企画者はそれを狙っているわけではない、と思うので、ひと工夫いるところか。
アイドルの部では、オリジナルの歌も準備中らしい。中に入ってしまえば、やってることは素晴らしいんだけどなあ。
第1部(アイドル)
ちんモフの要塞/宮崎亜美(曲名違います)
MCは山田ジャック、わかやまん
タッチ/光藤ちひろ
きらトラコーナー「おぼえておぼえてダンシングー!」
愛の意味を教えて/きらり☆トラップ
縛り屋トーマスのコーナー「決めポーズ」
歌/たてよこしおん(曲名わからず)
太陽のかけら/原瀬今日香
わかやまんは、口から血を吐いて司会進行。大丈夫か?
いちばんアピール度が高かったのが、たてよこしおん。
彼女がレギュラーで出ることになれば、たてよこしおん目当てに来るファンがきっと増えるものと思われる。
第2部(お笑い)
No.305
縛り屋トーマス
すみませんでした
火の玉アタック
皿まんだ
わかやまん
チコピドー
大喜利(ぶっちょやムヤニーも登場)
MCは月見峠
いちばん面白かったのは、なんとチコピドーのライブだった。
wktk学園は、今はまるで秘密結社の集会のようなイベントだが、ちゃんと宣伝すれば、多くの人にアピールできる面白さ。以前ジャングルの2階でやってたときにも感じたのだが、イベント当日、会場まで足を運んでも、「ほんとにここでイベントやってるんだろうか?」とおそるおそる入るような感じが、なおさら秘密結社的イメージを呼び起こす。しかし、企画者はそれを狙っているわけではない、と思うので、ひと工夫いるところか。
アイドルの部では、オリジナルの歌も準備中らしい。中に入ってしまえば、やってることは素晴らしいんだけどなあ。
松林宗恵監督の「落語野郎〜大泥棒」を見た。1967年。
義賊ねずみ小僧に対抗して、モテるために「猫小僧」を名乗って泥棒になる牧伸二。
お笑いオールスターの時代劇で、ギャグが満載。
てんぷくトリオが「ちょうだいなく遠慮いたす」って言ってたのにはハマッた。
かわらばん売りの漫画トリオは「パンパカパーン、今週のハイライト」やってたし。(この頃の上岡龍太郎はまだおとなしい感じ)
牧伸二の「あ〜あんあ、やんなっちゃ〜った」
Wけんじの「バカだなあ」「な、おー」
歌奴の「山のあなたの空とおく」
財津一郎が「サビシーイ」「チョーダイ!」
内藤陳と三波伸介が「びっくりしたな、もお」「ハードボイルドだど」を交換して使う。
映画に出演はしていないが、当時の流行語と思われる「期待される〜像」や「やったるでえ」などもせりふで出てくる。
落語ネタでは、定番の時そばもやってたが、ちょうど朝に「日曜落語なみはや亭」で聞いたばっかりの「芋俵」も使っていた。俵の中に入ってたのは、林家こん平。ただし、サゲの「気のはやい芋」云々のくだりはなかった。自主規制か。
自主規制と言えば、今なら「〜マニア」と言いそうな「〜キチガイ」とか、酒のことを「キチガイ水」などという言葉が健在で、懐かしいような、うれしさを感じた。
ラストに「泥棒をとらえてみればわがこころ 釈尊」と出た。
義賊ねずみ小僧に対抗して、モテるために「猫小僧」を名乗って泥棒になる牧伸二。
お笑いオールスターの時代劇で、ギャグが満載。
てんぷくトリオが「ちょうだいなく遠慮いたす」って言ってたのにはハマッた。
かわらばん売りの漫画トリオは「パンパカパーン、今週のハイライト」やってたし。(この頃の上岡龍太郎はまだおとなしい感じ)
牧伸二の「あ〜あんあ、やんなっちゃ〜った」
Wけんじの「バカだなあ」「な、おー」
歌奴の「山のあなたの空とおく」
財津一郎が「サビシーイ」「チョーダイ!」
内藤陳と三波伸介が「びっくりしたな、もお」「ハードボイルドだど」を交換して使う。
映画に出演はしていないが、当時の流行語と思われる「期待される〜像」や「やったるでえ」などもせりふで出てくる。
落語ネタでは、定番の時そばもやってたが、ちょうど朝に「日曜落語なみはや亭」で聞いたばっかりの「芋俵」も使っていた。俵の中に入ってたのは、林家こん平。ただし、サゲの「気のはやい芋」云々のくだりはなかった。自主規制か。
自主規制と言えば、今なら「〜マニア」と言いそうな「〜キチガイ」とか、酒のことを「キチガイ水」などという言葉が健在で、懐かしいような、うれしさを感じた。
ラストに「泥棒をとらえてみればわがこころ 釈尊」と出た。
山口満里奈@OCATポンテ広場
2009年12月6日 アイドル
OCATポンテ広場でLOVE YOUTHFUL PARK
午後3時30分からの山口満里奈ちゃんが目当て。
1.LOVE〜ウィンターソング
2.REMEMBERずっと忘れない
3.Just after the rain
4.笑顔の魅力
5.マイフレンド
このイベントはチャリティーイベントで、満里奈ちゃんが募金ブースにいるときに、募金して、赤い風船をもらった。
集った募金はユニセフに。
ささやかながら、これでワクチンや文房具の足しになればいいな。
帰宅して、NHK-FMで「現代の音楽」
猿谷 紀郎
【ゲスト】板倉 康明
− 演奏家に聞く〜板倉康明 −(1)
「クラリネットのための三つの小品 作品5(1985)」
藤家溪子・作曲
(7分35秒)
(クラリネット)板倉 康明
<2009/12/3>
「クラリネット協奏曲 作品7
(1986、Rev.1993)から一部」藤家溪子・作曲
(3分35秒)
(男声合唱)東京混声合唱団
(クラリネット)板倉 康明
(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団
(指揮)大野 和士
〜東京 オーチャード・ホールで収録〜
<1996/2/28>
「連歌(1996)」 北爪道夫・作曲
(6分31秒)
(クラリネット)板倉 康明
<2009/12/3>
「ラプソディ−(1910)」 ドビュッシー作曲
(8分04秒)
(クラリネット)板倉 康明
(ピアノ)藤井 一興
<KING RECORD KICC−209>
「三つの小品(1919)」 ストラヴィンスキー作曲
(4分12秒)
(クラリネット)ギー・ドプリュ
<Universal Accord 476 8863>
「ピアノ連弾のための“オリンポスは笑う”(1985)から
アテナとアレスの行進曲」青島広志・作曲
(1分53秒)
(ピアノ)青島 広志
(ピアノ)板倉 康明
<fontec EFCD−4034>
午後3時30分からの山口満里奈ちゃんが目当て。
1.LOVE〜ウィンターソング
2.REMEMBERずっと忘れない
3.Just after the rain
4.笑顔の魅力
5.マイフレンド
このイベントはチャリティーイベントで、満里奈ちゃんが募金ブースにいるときに、募金して、赤い風船をもらった。
集った募金はユニセフに。
ささやかながら、これでワクチンや文房具の足しになればいいな。
帰宅して、NHK-FMで「現代の音楽」
猿谷 紀郎
【ゲスト】板倉 康明
− 演奏家に聞く〜板倉康明 −(1)
「クラリネットのための三つの小品 作品5(1985)」
藤家溪子・作曲
(7分35秒)
(クラリネット)板倉 康明
<2009/12/3>
「クラリネット協奏曲 作品7
(1986、Rev.1993)から一部」藤家溪子・作曲
(3分35秒)
(男声合唱)東京混声合唱団
(クラリネット)板倉 康明
(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団
(指揮)大野 和士
〜東京 オーチャード・ホールで収録〜
<1996/2/28>
「連歌(1996)」 北爪道夫・作曲
(6分31秒)
(クラリネット)板倉 康明
<2009/12/3>
「ラプソディ−(1910)」 ドビュッシー作曲
(8分04秒)
(クラリネット)板倉 康明
(ピアノ)藤井 一興
<KING RECORD KICC−209>
「三つの小品(1919)」 ストラヴィンスキー作曲
(4分12秒)
(クラリネット)ギー・ドプリュ
<Universal Accord 476 8863>
「ピアノ連弾のための“オリンポスは笑う”(1985)から
アテナとアレスの行進曲」青島広志・作曲
(1分53秒)
(ピアノ)青島 広志
(ピアノ)板倉 康明
<fontec EFCD−4034>
アイドルスナイパーvol.9@日本橋PLATZ
2009年12月5日 アイドル日本橋PLATZで「アイドルスナイパーvol.9」
今回は韓国からHAMが登場するなど、豪華なラインナップ。
以下、登場順に不完全セットリスト。
チェックしそこないもあるし、曲はよく知っているが、曲名がわからないものとかある。表記はいつものごとく、むちゃくちゃである。
よもぎ男子
1.ひこうき雲(オリジナル)
2.モーニング娘。メドレー
夏圭
1.ミッキー(ラビッツによるチアダンス)
2.レッツ・ドゥ・大発見
3.スタンド・バイ・ユー
羽越カレン
1.今も忘れられない
2.デジャヴ〜蝶
単体戦隊恋レンジャー
1.檄!ポンバシ華撃団
2.銀河鉄道999
3.単体戦隊恋レンジャー
山口満里奈
1.気まぐれロマンティック
2.リメンバー〜ずっと忘れない
3.マイフレンド
FICE
1.接吻らぶらぶちゅ
2.伴奏キミと奏でるメロディ
3.猫癒にゃんにゃんえぶりでー
4.乳様ああっ◎◎さま
桜井聖良
1.赤いフリージア
2.花の香りと水の色
3.セイラ歌
4.ミラクルファンタジー
小田あさ美
1.
2.シャイニングデイズ
3.指輪
4.ハッピーマジック
Pastel
1.ドール
2.めぐる恋の季節
3.シャイニングデイ
4.ラスター
姫☆DAN
1.
2.付き合ってるのに片思い
3.ラブサイン
4.夢のカケラ
Mary Angel
1.Movin’on
2.ブランニューワールド
3.ハッピーメアリー
4.まじかるスター
Mari7
1.
2.
3.寒い夜だから
4.インスピレーション
HAM
1.TTDANCE
2.トゥナイト
着替えタイムに「T.T.DANCE」のPV
3.ドキドキ
4.昨日のように
MarryDoll
1.ハニーチューン
2.ベイビースター
3.バニラ〜永遠以上そばにいて
4.大好きのヒミツ
今日は、よもぎ男子(ヨモダン)とか、姫☆DAN(ヒメダン)とか、HAMのTTDANCE(チチダン)とか、「ダン」に縁のあるライブで、アイドル界は今まさに「ダン塊の世代」に突入したものと思われる。
ギャラリー亜蛮人で谷口あかね個展「アカネ展」
犬の絵画と、ギャラリーの壁一面のピンクのイボイボ。
こたつの中にもぐりこんだみたいな暖かさ。
K1グランプリ見た。
バダ・ハリ中心に物語が展開されていたが、セーム・シュルトが優勝した。
今回の大会がバダ・ハリ大会だということを理解したうえで、空気を読んだアリスターはさすがにクレバーで、ノーダメージで黒星をもらい、「めちゃくちゃ強いけど、いざというときに負けてくれる外敵」の地位を確保した。一方、空気読めないシュルトは普通に戦って、あっさりバダ・ハリに勝ってしまった。シュルトは圧倒的に強いので、シュルトを倒すにはいちかばちかの奇襲しかないのだが、そんな奇襲は1回しか有効ではない。バダ・ハリは1回はシュルトに勝てても2度目はなかった、ということだ。あと、バダ・ハリがシュルトに勝つには、シュルトの衰えを待つしかない。
それより、同じ試合を何度もハイライトで見せるくらいなら、ハリトーノフの試合とか見たかったのだが、結果はどうだったんだろう。
今回は韓国からHAMが登場するなど、豪華なラインナップ。
以下、登場順に不完全セットリスト。
チェックしそこないもあるし、曲はよく知っているが、曲名がわからないものとかある。表記はいつものごとく、むちゃくちゃである。
よもぎ男子
1.ひこうき雲(オリジナル)
2.モーニング娘。メドレー
夏圭
1.ミッキー(ラビッツによるチアダンス)
2.レッツ・ドゥ・大発見
3.スタンド・バイ・ユー
羽越カレン
1.今も忘れられない
2.デジャヴ〜蝶
単体戦隊恋レンジャー
1.檄!ポンバシ華撃団
2.銀河鉄道999
3.単体戦隊恋レンジャー
山口満里奈
1.気まぐれロマンティック
2.リメンバー〜ずっと忘れない
3.マイフレンド
FICE
1.接吻らぶらぶちゅ
2.伴奏キミと奏でるメロディ
3.猫癒にゃんにゃんえぶりでー
4.乳様ああっ◎◎さま
桜井聖良
1.赤いフリージア
2.花の香りと水の色
3.セイラ歌
4.ミラクルファンタジー
小田あさ美
1.
2.シャイニングデイズ
3.指輪
4.ハッピーマジック
Pastel
1.ドール
2.めぐる恋の季節
3.シャイニングデイ
4.ラスター
姫☆DAN
1.
2.付き合ってるのに片思い
3.ラブサイン
4.夢のカケラ
Mary Angel
1.Movin’on
2.ブランニューワールド
3.ハッピーメアリー
4.まじかるスター
Mari7
1.
2.
3.寒い夜だから
4.インスピレーション
HAM
1.TTDANCE
2.トゥナイト
着替えタイムに「T.T.DANCE」のPV
3.ドキドキ
4.昨日のように
MarryDoll
1.ハニーチューン
2.ベイビースター
3.バニラ〜永遠以上そばにいて
4.大好きのヒミツ
今日は、よもぎ男子(ヨモダン)とか、姫☆DAN(ヒメダン)とか、HAMのTTDANCE(チチダン)とか、「ダン」に縁のあるライブで、アイドル界は今まさに「ダン塊の世代」に突入したものと思われる。
ギャラリー亜蛮人で谷口あかね個展「アカネ展」
犬の絵画と、ギャラリーの壁一面のピンクのイボイボ。
こたつの中にもぐりこんだみたいな暖かさ。
K1グランプリ見た。
バダ・ハリ中心に物語が展開されていたが、セーム・シュルトが優勝した。
今回の大会がバダ・ハリ大会だということを理解したうえで、空気を読んだアリスターはさすがにクレバーで、ノーダメージで黒星をもらい、「めちゃくちゃ強いけど、いざというときに負けてくれる外敵」の地位を確保した。一方、空気読めないシュルトは普通に戦って、あっさりバダ・ハリに勝ってしまった。シュルトは圧倒的に強いので、シュルトを倒すにはいちかばちかの奇襲しかないのだが、そんな奇襲は1回しか有効ではない。バダ・ハリは1回はシュルトに勝てても2度目はなかった、ということだ。あと、バダ・ハリがシュルトに勝つには、シュルトの衰えを待つしかない。
それより、同じ試合を何度もハイライトで見せるくらいなら、ハリトーノフの試合とか見たかったのだが、結果はどうだったんだろう。
ジョン・ラセター監督のディズニー映画「カーズ」を見た。
中学時代は、友だちが車好きだった影響で、僕もいろんな車を家の窓から眺めながら、車の絵ばかり描いていたことがある。その頃僕の家は東大阪の布施にあり、交通量の多い柳通りに面していたので、外を見れば常に車が踏み切り待ちで眺めることができたのだ。
でも、元来、何かを運転したり操縦すること全般が苦手だったので(自転車も乗らないし、レーシングゲームでも最初のカーブで激突する)、車というと、歩行者の敵、みたいな印象しかもてなくなってしまった。実際、信号だの横断歩道だの歩道橋だの違法駐車だの交通事故だの、という歩行者の行動を妨げるものは、車がいなければ存在すらしなかったはずのものばかりだ。人類誕生以来、ずっと歩行してきた先達をさしおいて、後からのこのこやってきてわがもの顔にふんぞりかえってのさばる車に苦々しい思いをしない歩行者はいないであろう。「男はつらいよ」シリーズの欠点は主人公の名前が「車」だということだ、と本気で考えていた。そんな車に運転手として内包される人間は、僕に言わせればまさしく「裏切り者」だったし(「ころび歩行者」と呼んでいた)、自家用車として車を必要とする時点で、「あれは遠くからやってきた外敵」「夷狄」と決めつけていたが、一方で、スコルピオライジングみたいな「生活の足」以外での車の存在は気になってはいたのだ(これはオートバイだけど)。不二家の車の形をしたチョコレートとか。映画で見るカーチェイスや、クラッシュのシーン、007やファントマ、バットマン、チキチキマシンに出てくるみたいな改造車なども面白い。
そんな微妙な思いが交錯していたため、公開時には見に行かなかった「カーズ」だったが、これがまあ、面白い。
レースの面白さももちろんあるのだが、車がすっかり擬人化されていて、人間の物語になっていた(まあ、ラストシーン、ブレーキかけてまでゴールしない理由はない、と思えたが)。つまり、これが車ではなく、他の世界のストーリーとしても成立する普遍的な物語だったのだ。
これで、カーズ柄のシャツも心おきなく着れる、というもんだ。
中学時代は、友だちが車好きだった影響で、僕もいろんな車を家の窓から眺めながら、車の絵ばかり描いていたことがある。その頃僕の家は東大阪の布施にあり、交通量の多い柳通りに面していたので、外を見れば常に車が踏み切り待ちで眺めることができたのだ。
でも、元来、何かを運転したり操縦すること全般が苦手だったので(自転車も乗らないし、レーシングゲームでも最初のカーブで激突する)、車というと、歩行者の敵、みたいな印象しかもてなくなってしまった。実際、信号だの横断歩道だの歩道橋だの違法駐車だの交通事故だの、という歩行者の行動を妨げるものは、車がいなければ存在すらしなかったはずのものばかりだ。人類誕生以来、ずっと歩行してきた先達をさしおいて、後からのこのこやってきてわがもの顔にふんぞりかえってのさばる車に苦々しい思いをしない歩行者はいないであろう。「男はつらいよ」シリーズの欠点は主人公の名前が「車」だということだ、と本気で考えていた。そんな車に運転手として内包される人間は、僕に言わせればまさしく「裏切り者」だったし(「ころび歩行者」と呼んでいた)、自家用車として車を必要とする時点で、「あれは遠くからやってきた外敵」「夷狄」と決めつけていたが、一方で、スコルピオライジングみたいな「生活の足」以外での車の存在は気になってはいたのだ(これはオートバイだけど)。不二家の車の形をしたチョコレートとか。映画で見るカーチェイスや、クラッシュのシーン、007やファントマ、バットマン、チキチキマシンに出てくるみたいな改造車なども面白い。
そんな微妙な思いが交錯していたため、公開時には見に行かなかった「カーズ」だったが、これがまあ、面白い。
レースの面白さももちろんあるのだが、車がすっかり擬人化されていて、人間の物語になっていた(まあ、ラストシーン、ブレーキかけてまでゴールしない理由はない、と思えたが)。つまり、これが車ではなく、他の世界のストーリーとしても成立する普遍的な物語だったのだ。
これで、カーズ柄のシャツも心おきなく着れる、というもんだ。
1、戦争の空間
都市と政治:ヨーロッパ要塞/軍事的空間:トーチかの考古学:都市の起源:戦争と商業主義:「非常警報」/兵站学:都市の定住性:商品と流れ/地理戦略:都市国家:国民国家:時政学/都市と死の時間:戦争文化:全面戦争/テクノロジーの驚異:戦時経済:反社会学
2、戦争の時間
三つの仮想的制度:傾向と神話/アイゼンハワー:戦術と戦略:原子爆弾/兵站学:非国家的軍事階級:究極兵器/軍事的知性?:消滅する軍部/戦争と科学:テクノロジーの謎
3、テクノロジーとトランス=ポリティック
ハイデガー:戦争とテクノロジー/抑止・平和・全面戦争:政治の終焉/国家的テロリズム/トランス=ポリティックと持続/即時的破壊:速度の政治化
4、断片化とテクノロジー
速度と暴力:物質と事故/「定常発作」:夢・睡眠・死/歴史的・超歴史的/核による死とネガティヴな地平/エピソードと傾向:エクリチュールの政治学/『速度と政治』:速度学
5、速度と軍事
速度と富/速度政治革命/最終兵器/極端へ走ること:政治の終焉/テクノロジー戦争と聖戦:非暴力
6、抑止と運動の自由
ゼロ成長:抑止と速度学的権力/抑止の全面化:核の君主制/不動極/通過社会:死の時間の都市
7、時間の植民地化
テクノロジーの征服:虚無の環/運動の独裁:帝国の神話:時間戦争/ハワード・ヒューズ:時間の傷病者たち
8、映画と抵抗
イタリアのアウトノミア:自由ラジオ/革命的抵抗/前衛の自己崩壊:速度とヴィジョン/消滅の美学/消滅社会/自滅国家
9、内植民地化と運命国家
エコ=ロジスティックと民間社会の非成長/アウシュヴィッツ=ヒロシマ=カンボジア:内植民地化/イデオロギーの終焉:アフリカ=ラテン・アメリカ=合衆国/福祉国家と運命国家:瞬間の質/自主管理の罠:絶対的無規制
10、破壊の生産
都市の真空化:ポルポト:運命の経済/マルクス主義と戦争:パリ・コミューン/最悪の非政治性:死との対面:民衆の抵抗/女性と戦士:テロリズムとテクノロジー/核の脅威と脱都市化/分断線
11、戦争機械と死
運命的なカップル:SALT:START/平和主義の未来:ミサイルとメシア:核と聖なるものの回帰/死の問題:死と政治意識/死刑:法の消滅/文民と軍人の間の死/神の問題/種の自殺
12、平和主義と政治の後退
アメリカの平和運動/科学と戦争機械:戦争としての平和/生の再創造:生体速度とテクノロジー速度/定住性と脱領土化/マルクス主義と統計学的思想:超政治
13、南北への転回
東西軸の終焉:ヨーロッパの排除/新ヤルタ:海への入口/ブタペスト=プラハ=ポーランド/ワレサと法王:司祭対戦士:聖なる非戦争:バチカンⅡと抑止:内部崩壊/ドイツの平和主義者とポーランド人:連帯:兵器としての死/帝国の没落/ソ連の非発展の逆説:ヒューマニズムと宗教
14、運命のカップルと至上の偶像
両陣営の相互シミュレーション:ベトナムとウォーターゲート/共産主義の内的排除:マルクス主義的イデオロギーの逆流/海峡の終わり:フォークランドと南極/物理的空間の非物質化:絶対的統一/皆殺し的な対立:純粋戦争
インタヴュー、パリー1987年4月
後日追記
都市と政治:ヨーロッパ要塞/軍事的空間:トーチかの考古学:都市の起源:戦争と商業主義:「非常警報」/兵站学:都市の定住性:商品と流れ/地理戦略:都市国家:国民国家:時政学/都市と死の時間:戦争文化:全面戦争/テクノロジーの驚異:戦時経済:反社会学
2、戦争の時間
三つの仮想的制度:傾向と神話/アイゼンハワー:戦術と戦略:原子爆弾/兵站学:非国家的軍事階級:究極兵器/軍事的知性?:消滅する軍部/戦争と科学:テクノロジーの謎
3、テクノロジーとトランス=ポリティック
ハイデガー:戦争とテクノロジー/抑止・平和・全面戦争:政治の終焉/国家的テロリズム/トランス=ポリティックと持続/即時的破壊:速度の政治化
4、断片化とテクノロジー
速度と暴力:物質と事故/「定常発作」:夢・睡眠・死/歴史的・超歴史的/核による死とネガティヴな地平/エピソードと傾向:エクリチュールの政治学/『速度と政治』:速度学
5、速度と軍事
速度と富/速度政治革命/最終兵器/極端へ走ること:政治の終焉/テクノロジー戦争と聖戦:非暴力
6、抑止と運動の自由
ゼロ成長:抑止と速度学的権力/抑止の全面化:核の君主制/不動極/通過社会:死の時間の都市
7、時間の植民地化
テクノロジーの征服:虚無の環/運動の独裁:帝国の神話:時間戦争/ハワード・ヒューズ:時間の傷病者たち
8、映画と抵抗
イタリアのアウトノミア:自由ラジオ/革命的抵抗/前衛の自己崩壊:速度とヴィジョン/消滅の美学/消滅社会/自滅国家
9、内植民地化と運命国家
エコ=ロジスティックと民間社会の非成長/アウシュヴィッツ=ヒロシマ=カンボジア:内植民地化/イデオロギーの終焉:アフリカ=ラテン・アメリカ=合衆国/福祉国家と運命国家:瞬間の質/自主管理の罠:絶対的無規制
10、破壊の生産
都市の真空化:ポルポト:運命の経済/マルクス主義と戦争:パリ・コミューン/最悪の非政治性:死との対面:民衆の抵抗/女性と戦士:テロリズムとテクノロジー/核の脅威と脱都市化/分断線
11、戦争機械と死
運命的なカップル:SALT:START/平和主義の未来:ミサイルとメシア:核と聖なるものの回帰/死の問題:死と政治意識/死刑:法の消滅/文民と軍人の間の死/神の問題/種の自殺
12、平和主義と政治の後退
アメリカの平和運動/科学と戦争機械:戦争としての平和/生の再創造:生体速度とテクノロジー速度/定住性と脱領土化/マルクス主義と統計学的思想:超政治
13、南北への転回
東西軸の終焉:ヨーロッパの排除/新ヤルタ:海への入口/ブタペスト=プラハ=ポーランド/ワレサと法王:司祭対戦士:聖なる非戦争:バチカンⅡと抑止:内部崩壊/ドイツの平和主義者とポーランド人:連帯:兵器としての死/帝国の没落/ソ連の非発展の逆説:ヒューマニズムと宗教
14、運命のカップルと至上の偶像
両陣営の相互シミュレーション:ベトナムとウォーターゲート/共産主義の内的排除:マルクス主義的イデオロギーの逆流/海峡の終わり:フォークランドと南極/物理的空間の非物質化:絶対的統一/皆殺し的な対立:純粋戦争
インタヴュー、パリー1987年4月
後日追記
映画の日。
水田伸生監督、宮藤官九郎脚本の「なくもんか」を見て来た。
家族の絆を擬似家族のさまざまなバリエーションから描いている。
主人公阿部サダヲは子供の頃に親に捨てられてハムカツ屋で養われる。
ハムカツ屋の主人が死んだあと、その老いた妻(いしだあゆみ)はボケてしまい、阿部サダヲを主人だと思い込んでいる。
阿部サダヲと生き別れた弟、瑛太は赤の他人と組んでお笑いの兄弟コンビとして売り出す。
クライマックスではついに兄弟が1つのステージに立つが、阿部サダヲは女装した別のキャラクターになっている。
一方、実の父親はたまに帰ってきては迷惑だけかけていなくなってしまう。
血は水よりも濃い、なんていうけど、血なんて関係ないんだ、血にこだわっていては何も見えないんだ、と思う。血の正統性によって担保されない人間関係が、「家族」の絆を深く結んでいる。
こういうテーマは、この前見て来たヨーロッパ映画祭でも強く感じられたものだ。
ハリウッド映画のように、崩壊しかけた家族が危機に瀕して再生するような思想はそこにはない。それこそが、リアルで、有効なんだ、と感じる。
ストーリー展開や、オチなどは「そんなバカな」「それでいいのか」みたいな感じだが、そこにもリアルさを感じる。
ところで、この映画についてはまったく予備知識なく見に行ったが(僕はたいてい予備知識なしで映画見るけど)、子役の女の子、どこかで見た顔だな〜、と上映中、ずっと気になっていた。映画が終わって「山口愛」の名前を見て、やっと思い出した。
昼ドラでチョコミミのムムちゃんと共演してた子だ。ちょっと可哀相な役柄が続いたので、次は能天気な役柄で新境地を見てみたい。
水田伸生監督、宮藤官九郎脚本の「なくもんか」を見て来た。
家族の絆を擬似家族のさまざまなバリエーションから描いている。
主人公阿部サダヲは子供の頃に親に捨てられてハムカツ屋で養われる。
ハムカツ屋の主人が死んだあと、その老いた妻(いしだあゆみ)はボケてしまい、阿部サダヲを主人だと思い込んでいる。
阿部サダヲと生き別れた弟、瑛太は赤の他人と組んでお笑いの兄弟コンビとして売り出す。
クライマックスではついに兄弟が1つのステージに立つが、阿部サダヲは女装した別のキャラクターになっている。
一方、実の父親はたまに帰ってきては迷惑だけかけていなくなってしまう。
血は水よりも濃い、なんていうけど、血なんて関係ないんだ、血にこだわっていては何も見えないんだ、と思う。血の正統性によって担保されない人間関係が、「家族」の絆を深く結んでいる。
こういうテーマは、この前見て来たヨーロッパ映画祭でも強く感じられたものだ。
ハリウッド映画のように、崩壊しかけた家族が危機に瀕して再生するような思想はそこにはない。それこそが、リアルで、有効なんだ、と感じる。
ストーリー展開や、オチなどは「そんなバカな」「それでいいのか」みたいな感じだが、そこにもリアルさを感じる。
ところで、この映画についてはまったく予備知識なく見に行ったが(僕はたいてい予備知識なしで映画見るけど)、子役の女の子、どこかで見た顔だな〜、と上映中、ずっと気になっていた。映画が終わって「山口愛」の名前を見て、やっと思い出した。
昼ドラでチョコミミのムムちゃんと共演してた子だ。ちょっと可哀相な役柄が続いたので、次は能天気な役柄で新境地を見てみたい。
『遍歴−法、形式、出来事』
2009年11月30日 読書
ジャン・フランソワ・リオタールの『遍歴ー法、形式、出来事』を読んだ。
リオタールが半生をふりかえった1冊。
第1章 雲
第2章 タッチ
第3章 隔たり
補遺 マルクス主義の回想
リオタールがこどもの頃なりたいと思っていた職業は修道士、画家、歴史家なのだそうだ。
これが修道士=法、画家=形式、歴史家=出来事、という本書のタイトルとつながっている。これまでに書かれた著書に対するコメントなども含まれていて、わかりやすく読みやすい。なかでも、第1章のタイトルにもなった「雲」を思考のたとえとして用いているのが、文学的なわかりやすさを実現している。以下、各章からの言葉の定義の部分をピックアップ。
第1章より
「思考は地上に実る果実ではありません。人間の都合を除けば思考を面積で登記する理由はありません。思考は雲です。ブノワマンデルブローのフラクタル曲線が測定できないのと同じように思考の外縁は測定できません」
第2章より
「私は、無との直面を出来事と呼びたいと思います」
第3章より
「問いがあるという事実、言い換えれば、われわれのなるべき姿は何か、そしてそのためには何をすべきかということについてわれわれが問いかけられているという事実」
「私はこの事実を法と呼びます。その事実はカントが『理性の事実』と呼ぶ事実、すなわち、実践理性はいかなる道徳性であれあらゆる道徳性のアプリオリな超越論的条件であるという疑いようのない事実です。それは純粋な責務であり、義務なのですが、しかしあれをしろこれをしろという義務ではなくて、むしろ義務という純粋な『事実』、義務を課されているという純粋な『事実』だと言った方がいいでしょう」
補遺の「マルクス主義の回想」は、「社会主義か野蛮か」の同志だった故スイリについて語っている。スイリとリオタールとは親友であると同時に「抗争」にあったが、抗争自体が封じこめられてしまう現代資本主義下のデカダンスに対する不安と批判が読み取れる。
この時代のマルクス主義の問題点が、次のようにまとめられている。
「マルクス主義は、他の多くの人びとにとってそうだったようにスイリにとっても、資本主義が自由と歴史の意味に向けて突き付けた挑戦に対して、圧殺された紛争を圧殺されているその場にもう一度出現させることによって反撃する、たった一つの決定的な方法でした」とし、マルクス主義によって理解できたことの一覧を次のように並べている。
「なぜ労働の自由が賃金労働者の隷属を意味することになり、それに逆らえば死を意味することになったのか」
「なぜ或る場所で生産能力が発展したことによって他の場所では低開発が生み出されたのか」
「なぜ科学技術の飛躍的発展は労働者の疎外を伴ったのか」
「なぜ購買力が増大しても金銭から解放されなかったのか」
「なぜ伝達手段の多様化は社会関係の克服、大衆の孤立と歩を一にしえたのか」
「なぜ平和があったのか、なぜ戦争があったのか」
「なぜ知識の飛躍的発展はその代償として普通の人間の脱文化を伴ったのか」
なるほど。こう並べてみると、マルクス主義に傾倒する気持はおおいに理解できる。
これら資本主義のパラドックスに加えて、リオタールの時代が直面していたスキャンダルが、次のような事柄だ。
「組合は労働力の搾取の調整に手を貸し、党は意識の疎外の調整に役立ち、社会主義は全体主義の体制にほかならなかった」
これらの倒錯を認識し、告発することが求められていたのだ。
リオタールの世代にはすでにマルクス主義は「その死骸、その亡霊」になっており、「党や官僚主義的国家が思考の代わりに教条的で通俗的で用心深い文句を詰め込んだ出来合いの思考に過ぎなかった」
そんな中で、スイリにとってマルクス主義は「アカデミック」なものではなく、確立された知識や実用的な指針として精神を落ち着かせるものではなく、スイリの不安の固有名であり、ことごとくを問い直す機会を与えたのだ。
スイリは「必ずや近い将来世界的な不況を引き起こすメカニズムの綿密な研究に没頭」した。スイリの不安は「歴史全体が無意識の体制に移行し、人間は階級の視点を失うと同時に、自らの運命を批判的に意識化し、自らの運命を逃れるための方法をも失ってしまい、国家独占あるいは官僚主義の段階に行き着いた資本主義の避け難い諸矛盾に従うことになる」
リオタールのこの本を読むかぎり、スイリは時代に真っ向勝負を挑んで玉砕したようなイメージがわくが、実際はどうなんだろう。スイリについても調べてみたいところだ。
リオタールが半生をふりかえった1冊。
第1章 雲
第2章 タッチ
第3章 隔たり
補遺 マルクス主義の回想
リオタールがこどもの頃なりたいと思っていた職業は修道士、画家、歴史家なのだそうだ。
これが修道士=法、画家=形式、歴史家=出来事、という本書のタイトルとつながっている。これまでに書かれた著書に対するコメントなども含まれていて、わかりやすく読みやすい。なかでも、第1章のタイトルにもなった「雲」を思考のたとえとして用いているのが、文学的なわかりやすさを実現している。以下、各章からの言葉の定義の部分をピックアップ。
第1章より
「思考は地上に実る果実ではありません。人間の都合を除けば思考を面積で登記する理由はありません。思考は雲です。ブノワマンデルブローのフラクタル曲線が測定できないのと同じように思考の外縁は測定できません」
第2章より
「私は、無との直面を出来事と呼びたいと思います」
第3章より
「問いがあるという事実、言い換えれば、われわれのなるべき姿は何か、そしてそのためには何をすべきかということについてわれわれが問いかけられているという事実」
「私はこの事実を法と呼びます。その事実はカントが『理性の事実』と呼ぶ事実、すなわち、実践理性はいかなる道徳性であれあらゆる道徳性のアプリオリな超越論的条件であるという疑いようのない事実です。それは純粋な責務であり、義務なのですが、しかしあれをしろこれをしろという義務ではなくて、むしろ義務という純粋な『事実』、義務を課されているという純粋な『事実』だと言った方がいいでしょう」
補遺の「マルクス主義の回想」は、「社会主義か野蛮か」の同志だった故スイリについて語っている。スイリとリオタールとは親友であると同時に「抗争」にあったが、抗争自体が封じこめられてしまう現代資本主義下のデカダンスに対する不安と批判が読み取れる。
この時代のマルクス主義の問題点が、次のようにまとめられている。
「マルクス主義は、他の多くの人びとにとってそうだったようにスイリにとっても、資本主義が自由と歴史の意味に向けて突き付けた挑戦に対して、圧殺された紛争を圧殺されているその場にもう一度出現させることによって反撃する、たった一つの決定的な方法でした」とし、マルクス主義によって理解できたことの一覧を次のように並べている。
「なぜ労働の自由が賃金労働者の隷属を意味することになり、それに逆らえば死を意味することになったのか」
「なぜ或る場所で生産能力が発展したことによって他の場所では低開発が生み出されたのか」
「なぜ科学技術の飛躍的発展は労働者の疎外を伴ったのか」
「なぜ購買力が増大しても金銭から解放されなかったのか」
「なぜ伝達手段の多様化は社会関係の克服、大衆の孤立と歩を一にしえたのか」
「なぜ平和があったのか、なぜ戦争があったのか」
「なぜ知識の飛躍的発展はその代償として普通の人間の脱文化を伴ったのか」
なるほど。こう並べてみると、マルクス主義に傾倒する気持はおおいに理解できる。
これら資本主義のパラドックスに加えて、リオタールの時代が直面していたスキャンダルが、次のような事柄だ。
「組合は労働力の搾取の調整に手を貸し、党は意識の疎外の調整に役立ち、社会主義は全体主義の体制にほかならなかった」
これらの倒錯を認識し、告発することが求められていたのだ。
リオタールの世代にはすでにマルクス主義は「その死骸、その亡霊」になっており、「党や官僚主義的国家が思考の代わりに教条的で通俗的で用心深い文句を詰め込んだ出来合いの思考に過ぎなかった」
そんな中で、スイリにとってマルクス主義は「アカデミック」なものではなく、確立された知識や実用的な指針として精神を落ち着かせるものではなく、スイリの不安の固有名であり、ことごとくを問い直す機会を与えたのだ。
スイリは「必ずや近い将来世界的な不況を引き起こすメカニズムの綿密な研究に没頭」した。スイリの不安は「歴史全体が無意識の体制に移行し、人間は階級の視点を失うと同時に、自らの運命を批判的に意識化し、自らの運命を逃れるための方法をも失ってしまい、国家独占あるいは官僚主義の段階に行き着いた資本主義の避け難い諸矛盾に従うことになる」
リオタールのこの本を読むかぎり、スイリは時代に真っ向勝負を挑んで玉砕したようなイメージがわくが、実際はどうなんだろう。スイリについても調べてみたいところだ。
クリンもだん美術展2009@應典院
2009年11月29日 趣味自宅から徒歩10分程度のところにある應典院WALL GALLERYで「クリンもだん美術展2009」
「クリン」とは韓国語で「描く」という意味。このクリンもだん美術教室の受講者は大半が知的障碍者で、展覧会もひとくちで言って障碍者アートの展覧会と言えると思う。
初日の今日は兵庫県立美術館の学芸員、服部正氏の講演もあった。
「ニッポンのアウトサイダーアート」と題したその講演は、アウトサイダーアートと障碍者アート、現代アートの違い、欧米と日本との違いなどをわかりやすく初歩から語ってくれて、面白かった。テーマが大きいだけに、「語りだせばきりがないのですが」とか「時間がないので簡単に言いますと」なんて、ついつい言いたくなりそうだが、服部氏はそういう手抜き一切無しで講演し、質疑応答にも真摯にこたえてくれていた。
本来、アウトサイダーアートというのは、正規の教育を受けずに作られたアート作品をさすもので、つまり、障碍の有無とは関係がないのである。
と、いうことは、独学とか在野、というのがアウトサイダーをさすということなのか。確かに、大学とか教室などに関わっていること自体、いかにも「インサイド」な臭いがする。(インサイドに対する妬みとか僕にはありそうだな)
そういう定義からは離れるのだが、見る側から考えると、「デュビュッフェが触手をのばしたような、いかにもアウトサイダーアート」的な作品を見ると、本人はその気がなくても、「アウトサイダー」の「インサイド」だな、と感じてしまう。だから、アウトサイダーアートと聞けば、「なんじゃ、こりゃ!」というような作品を期待してしまう。パイオニアには敬意をはらうが、エピゴーネンは軽視する、というこれもまあ伝統的な態度をとってしまうのは、頭がかたくなったせいかな。どうも最近、老化を感じるなあ。年齢が50才を越えると、こうなってしまうんだろうか。
展覧会の作品では、ダントツで信谷優功(のぶたに・ゆうぐ)の絵言葉集がよかった。
テレビの電波を身体で受信してそれを作品にアウトプットしたような作品群で、カラフルな絵にまじって「小林住宅」とか「ニンジャレッド」とか「恐怖!瞬間喰い」などの文字が、かっちりした文字で書かれているのだ。「恐怖!瞬間喰い」はジュウレンジャーのエピソードだ。
彼の作品のポスターがあったので、極貧だったがおさえきれずに購入してしまった。
帰宅後、NHK-FMで「現代の音楽」
先日亡くなった「初演魔」若杉弘特集。
猿谷 紀郎
− 若杉弘と20世紀音楽 −
「ビオラ協奏曲(1971)から 第1楽章」 別宮貞雄・作曲
(11分45秒)
(ビオラ)今井 信子
(管弦楽)NHK交響楽団
(指揮)若杉 弘
<キングレコード KICC−3025>
「交声曲“千の声 千の心”(1962)
第1楽章:きかせて下さい(モノラル)」
谷川俊太郎・作詞、石桁真礼生・作曲
(3分47秒)
(合唱)東京放送合唱団
(演奏)ビューネン・グルッペ
(指揮)若杉 弘
「交声曲“千の声 千の心”(1962)
第2楽章:おっちょこちょい(モノラル)」
谷川俊太郎・作詞、石桁真礼生・作曲
(4分07秒)
(合唱)東京放送合唱団
(演奏)ビューネン・グルッペ
(指揮)若杉 弘
「交声曲“千の声 千の心”(1962)
第3楽章:祈らなくていいのか(モノラル)」
谷川俊太郎・作詞、石桁真礼生・作曲
(5分09秒)
(合唱)東京放送合唱団
(演奏)ビューネン・グルッペ
(指揮)若杉 弘
「交声曲“千の声 千の心”(1962)
第4楽章:ひらくたがやす(モノラル)」
谷川俊太郎・作詞、石桁真礼生・作曲
(4分45秒)
(合唱)東京放送合唱団
(演奏)ビューネン・グルッペ
(指揮)若杉 弘
<King Record KICC−637>
「H.R.S.のためのトリオ ’70(1970)」
入野義朗・作曲
(14分05秒)
(チェンバロ、チェレスタ)若杉 弘
(フルート)野口 龍
(バイオリン)植木 三郎
午後7時20分からNHK-FMで電気グルーヴの20周年記念番組。午後10時まで放送してたが、僕はこの番組を聞きながら、テレビで内藤VS亀田のボクシングなど見てた。音は消した状態で。これがはまった。
電気グルーヴの曲とともに入場する選手。
そして、神妙な面持ちで国歌を聞くセレモニーでも、聞こえているのは電気グルーヴの曲。
試合中も絶好のBGMになった。試合が終わって、チャンネルをかえて、N響アワーにすれば、オーボエ演奏の大写しがうつっていても、聞こえているのは電気グルーヴ。オーケストラの指揮で聞こえてくるのは、電気グルーヴ。
「クリン」とは韓国語で「描く」という意味。このクリンもだん美術教室の受講者は大半が知的障碍者で、展覧会もひとくちで言って障碍者アートの展覧会と言えると思う。
初日の今日は兵庫県立美術館の学芸員、服部正氏の講演もあった。
「ニッポンのアウトサイダーアート」と題したその講演は、アウトサイダーアートと障碍者アート、現代アートの違い、欧米と日本との違いなどをわかりやすく初歩から語ってくれて、面白かった。テーマが大きいだけに、「語りだせばきりがないのですが」とか「時間がないので簡単に言いますと」なんて、ついつい言いたくなりそうだが、服部氏はそういう手抜き一切無しで講演し、質疑応答にも真摯にこたえてくれていた。
本来、アウトサイダーアートというのは、正規の教育を受けずに作られたアート作品をさすもので、つまり、障碍の有無とは関係がないのである。
と、いうことは、独学とか在野、というのがアウトサイダーをさすということなのか。確かに、大学とか教室などに関わっていること自体、いかにも「インサイド」な臭いがする。(インサイドに対する妬みとか僕にはありそうだな)
そういう定義からは離れるのだが、見る側から考えると、「デュビュッフェが触手をのばしたような、いかにもアウトサイダーアート」的な作品を見ると、本人はその気がなくても、「アウトサイダー」の「インサイド」だな、と感じてしまう。だから、アウトサイダーアートと聞けば、「なんじゃ、こりゃ!」というような作品を期待してしまう。パイオニアには敬意をはらうが、エピゴーネンは軽視する、というこれもまあ伝統的な態度をとってしまうのは、頭がかたくなったせいかな。どうも最近、老化を感じるなあ。年齢が50才を越えると、こうなってしまうんだろうか。
展覧会の作品では、ダントツで信谷優功(のぶたに・ゆうぐ)の絵言葉集がよかった。
テレビの電波を身体で受信してそれを作品にアウトプットしたような作品群で、カラフルな絵にまじって「小林住宅」とか「ニンジャレッド」とか「恐怖!瞬間喰い」などの文字が、かっちりした文字で書かれているのだ。「恐怖!瞬間喰い」はジュウレンジャーのエピソードだ。
彼の作品のポスターがあったので、極貧だったがおさえきれずに購入してしまった。
帰宅後、NHK-FMで「現代の音楽」
先日亡くなった「初演魔」若杉弘特集。
猿谷 紀郎
− 若杉弘と20世紀音楽 −
「ビオラ協奏曲(1971)から 第1楽章」 別宮貞雄・作曲
(11分45秒)
(ビオラ)今井 信子
(管弦楽)NHK交響楽団
(指揮)若杉 弘
<キングレコード KICC−3025>
「交声曲“千の声 千の心”(1962)
第1楽章:きかせて下さい(モノラル)」
谷川俊太郎・作詞、石桁真礼生・作曲
(3分47秒)
(合唱)東京放送合唱団
(演奏)ビューネン・グルッペ
(指揮)若杉 弘
「交声曲“千の声 千の心”(1962)
第2楽章:おっちょこちょい(モノラル)」
谷川俊太郎・作詞、石桁真礼生・作曲
(4分07秒)
(合唱)東京放送合唱団
(演奏)ビューネン・グルッペ
(指揮)若杉 弘
「交声曲“千の声 千の心”(1962)
第3楽章:祈らなくていいのか(モノラル)」
谷川俊太郎・作詞、石桁真礼生・作曲
(5分09秒)
(合唱)東京放送合唱団
(演奏)ビューネン・グルッペ
(指揮)若杉 弘
「交声曲“千の声 千の心”(1962)
第4楽章:ひらくたがやす(モノラル)」
谷川俊太郎・作詞、石桁真礼生・作曲
(4分45秒)
(合唱)東京放送合唱団
(演奏)ビューネン・グルッペ
(指揮)若杉 弘
<King Record KICC−637>
「H.R.S.のためのトリオ ’70(1970)」
入野義朗・作曲
(14分05秒)
(チェンバロ、チェレスタ)若杉 弘
(フルート)野口 龍
(バイオリン)植木 三郎
午後7時20分からNHK-FMで電気グルーヴの20周年記念番組。午後10時まで放送してたが、僕はこの番組を聞きながら、テレビで内藤VS亀田のボクシングなど見てた。音は消した状態で。これがはまった。
電気グルーヴの曲とともに入場する選手。
そして、神妙な面持ちで国歌を聞くセレモニーでも、聞こえているのは電気グルーヴの曲。
試合中も絶好のBGMになった。試合が終わって、チャンネルをかえて、N響アワーにすれば、オーボエ演奏の大写しがうつっていても、聞こえているのは電気グルーヴ。オーケストラの指揮で聞こえてくるのは、電気グルーヴ。
今日も今日とてWTCホールでシンセサイザーフェスタ’09。
徹夜でドラクエしてるのでどうにも身体がシャキッとしないが、家にいてもゲームの続きをするだけなので、出かける。
今日のミニライブは、午後2時45分からのingenue(アンジャニュウ)から見る。ベースと歌の2人ユニット。なるほど、気持良い。ビートルズの曲とかしてた。ただ、どこがシンセサイザーなのか、よくわからなかった。
続いて、watafei。テルミンとギター。
これも気持良い。
もうちょっと早めに出かけていたら、松前さんのセミナーも参加できたのにな、と残念だった。
次のライブまでの時間で、1階のヤマハのステージ見たり、TENORI-ONで遊んだり。
ミニライブは午後4時からGee。2曲。
次のライブまでの時間で、NHK-FMを聞く。ドリーム5の重本ことりがゲストで出ていて、ちょうどうまい時間帯で全部聞くことができた。ナポレオンジャケットを「ナポリタン」とか言ってた。
午後5時40分からLOGIC SYSTEMライブ。
YMOの赤い服を着た松武秀樹氏が「これがシンセサイザーなんだよ!」と吠える。
その言葉に溜飲の下る思い。全体におとなしいイベントで、シンセサイザーがちっとも脳を震えさせてくれないのに、ちょっと残念な思いをしていたのだが、さすがにLOGIC SYSTEMだけはアグレッシブだった。ツールがどうあれ、結局はそれを扱う人のセンスが全てなんだな、と思い知らされた。
ミナミに戻って、味園ビルのGALAXY GALLERYで「LIGHT SKETCH」
薄暗いギャラリー内で、レーザーポインターで天井を照らせば、光の波紋が広がる。
いろんな光に反応して、増幅するらしい。何か光るものを持っていけば、なお面白かっただろうな。
徹夜でドラクエしてるのでどうにも身体がシャキッとしないが、家にいてもゲームの続きをするだけなので、出かける。
今日のミニライブは、午後2時45分からのingenue(アンジャニュウ)から見る。ベースと歌の2人ユニット。なるほど、気持良い。ビートルズの曲とかしてた。ただ、どこがシンセサイザーなのか、よくわからなかった。
続いて、watafei。テルミンとギター。
これも気持良い。
もうちょっと早めに出かけていたら、松前さんのセミナーも参加できたのにな、と残念だった。
次のライブまでの時間で、1階のヤマハのステージ見たり、TENORI-ONで遊んだり。
ミニライブは午後4時からGee。2曲。
次のライブまでの時間で、NHK-FMを聞く。ドリーム5の重本ことりがゲストで出ていて、ちょうどうまい時間帯で全部聞くことができた。ナポレオンジャケットを「ナポリタン」とか言ってた。
午後5時40分からLOGIC SYSTEMライブ。
YMOの赤い服を着た松武秀樹氏が「これがシンセサイザーなんだよ!」と吠える。
その言葉に溜飲の下る思い。全体におとなしいイベントで、シンセサイザーがちっとも脳を震えさせてくれないのに、ちょっと残念な思いをしていたのだが、さすがにLOGIC SYSTEMだけはアグレッシブだった。ツールがどうあれ、結局はそれを扱う人のセンスが全てなんだな、と思い知らされた。
ミナミに戻って、味園ビルのGALAXY GALLERYで「LIGHT SKETCH」
薄暗いギャラリー内で、レーザーポインターで天井を照らせば、光の波紋が広がる。
いろんな光に反応して、増幅するらしい。何か光るものを持っていけば、なお面白かっただろうな。
シンセサイザーフェスタ’09
2009年11月27日 現代音楽WTCホールでシンセサイザーフェスタ’09
メーカー出展社、クリエイターサークル、インディーズレーベルのブースが並び、シンセサイザーミュージアムにセミナー、ミニライブ、というラインナップ。
いくつか試聴させてもらった。
1日めの今日は午後3時から開始で、ミニライブは午後6時からIntaglio Recordsの飯田一樹がキーボード使って演奏。
帰宅して、NHK-FMで海外の現代音楽最終夜。
− 海外の現代音楽 −(3)
▽ワルシャワの秋・国際現代音楽祭2008を中心に
「ウアシュクトム」 ジャチント・シェルシ作曲
(21分25秒)
(オンド・マルトノ)トマ・ブロック
(合唱)ポドラシュ歌劇場合唱団
(管弦楽)ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団
(指揮)クシシュトフ・ウルバンスキ
〜ポーランド・ワルシャワ
ワルシャワ・フィルハーモニー・コンサートホールで収録〜
<2008/9/19>
(ポーランド・ラジオ提供)
「もう一つの声」 ベリオ作曲
(12分17秒)
(ソプラノ)フランソアーズ・クブラー
(フルート)マリオ・カローリ
(ライブエレクトロニクス)フランチェスコ・ジオミ
〃 ダミアノ・メアッチ
〜ポーランド・ワルシャワ ショパン音楽大学で収録〜
<2008/9/20>
(ポーランド・ラジオ提供)
「1898年」 マウリシオ・カーゲル作曲
(43分24秒)
(合唱)ショパン音楽大学少年合唱団
(演奏)アーラ・アンサンブル
(指揮)マルコ・アンジュス
〜ポーランド・ワルシャワ
ポーランド・ラジオ・ヴィトルト・ルトスワフスキ・
コンサートスタジオで収録〜
<2008/9/27>
(ポーランド・ラジオ提供)
「交響曲 第3番“救世主イエスよ、われらを救いたまえ」
ガリナ・ウストヴォルスカヤ作曲
(13分45秒)
(管弦楽)マリインスキー劇場管弦楽団
(指揮)ワレリー・ゲルギエフ
(語り)イーゴリ・グルップマン
〜ベルギー・ブリュッセル パレ・デ・ボザールで収録〜
<2008/9/8>
(ベルギー・オランダ語地域放送協会提供)
ジャチント・シェルシの「ウアシュクトム」 なんて、ラジオで聞いてるだけでは、誰の何というタイトルなのか聞き取れなかった。耳の老化だ。
メーカー出展社、クリエイターサークル、インディーズレーベルのブースが並び、シンセサイザーミュージアムにセミナー、ミニライブ、というラインナップ。
いくつか試聴させてもらった。
1日めの今日は午後3時から開始で、ミニライブは午後6時からIntaglio Recordsの飯田一樹がキーボード使って演奏。
帰宅して、NHK-FMで海外の現代音楽最終夜。
− 海外の現代音楽 −(3)
▽ワルシャワの秋・国際現代音楽祭2008を中心に
「ウアシュクトム」 ジャチント・シェルシ作曲
(21分25秒)
(オンド・マルトノ)トマ・ブロック
(合唱)ポドラシュ歌劇場合唱団
(管弦楽)ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団
(指揮)クシシュトフ・ウルバンスキ
〜ポーランド・ワルシャワ
ワルシャワ・フィルハーモニー・コンサートホールで収録〜
<2008/9/19>
(ポーランド・ラジオ提供)
「もう一つの声」 ベリオ作曲
(12分17秒)
(ソプラノ)フランソアーズ・クブラー
(フルート)マリオ・カローリ
(ライブエレクトロニクス)フランチェスコ・ジオミ
〃 ダミアノ・メアッチ
〜ポーランド・ワルシャワ ショパン音楽大学で収録〜
<2008/9/20>
(ポーランド・ラジオ提供)
「1898年」 マウリシオ・カーゲル作曲
(43分24秒)
(合唱)ショパン音楽大学少年合唱団
(演奏)アーラ・アンサンブル
(指揮)マルコ・アンジュス
〜ポーランド・ワルシャワ
ポーランド・ラジオ・ヴィトルト・ルトスワフスキ・
コンサートスタジオで収録〜
<2008/9/27>
(ポーランド・ラジオ提供)
「交響曲 第3番“救世主イエスよ、われらを救いたまえ」
ガリナ・ウストヴォルスカヤ作曲
(13分45秒)
(管弦楽)マリインスキー劇場管弦楽団
(指揮)ワレリー・ゲルギエフ
(語り)イーゴリ・グルップマン
〜ベルギー・ブリュッセル パレ・デ・ボザールで収録〜
<2008/9/8>
(ベルギー・オランダ語地域放送協会提供)
ジャチント・シェルシの「ウアシュクトム」 なんて、ラジオで聞いてるだけでは、誰の何というタイトルなのか聞き取れなかった。耳の老化だ。
『ぼくの最後の黒い髪』
2009年11月26日 読書
将棋の竜王戦第4局も、早めに決着がついた。
大盤解説に行くつもりにしてたけど、テレビの解説でじゅうぶんかな、と思って出かけず。(仕事には行ったよ!)
これで渡辺竜王が4連勝で防衛したわけだ。
森内九段は最近、新手を出すことに積極的だが、それが今回は空振りに終わった、という感じだった。生みの苦しみの真っ最中なのかもしれない。逆に、渡辺竜王の新手や鬼手は見事に決まっていた。森内九段が予選を破竹の勢いで勝っていたときは、渡辺竜王危うし、と思ってたんだけどなあ。
渡辺竜王の若さの勝利なのか?
と、いうわけで、
ジャン=ルイ・フルニエの『ぼくの最後の黒い髪』を読んだ。
老いと死にまつわる悲喜交々をユーモアたっぷりに描く。
まず最初の数ページでひきこまれた。
まず1ページのまんなかに1行だけ
「ぼくの曾祖父は死んだ。」とある。
ページをめくると、また1行だけ。
「ぼくの祖父も死んだ。」
なんだなんだ、と思いながらページをめくると、
「ぼくの親父も死んだ。」
そして、ページをめくると、オチの1行。
「遺伝かな?」
つかみはオッケー、と言ったところか。
まあ、老いに関するベタなギャグも多数書いてあるが、なるほど、と思わせる記述もあった。
本書からいくつか引用してみよう。
「百歳になった老人がつぶやいた。
『肺活量が減るにつれ、吹き消すロウソクの数は増えて行きやがる!』」
これは、ベタな方。ほほー、と思ったのは、
「昔のフランス語では、ヒップ・ホップのことをパーキンソン病と言っていた」
この直前のページにはパーキンソン病にかかったら「いやでもみんながあなたを見てしまう。一部の人は、あなたが目立ちたがり屋だからわざと病気の振りをしているんじゃないか、それとも、単に人を笑わそうとしているだけなんじゃないかと疑っている」と書き、放っておいてほしいなら、ディスコに行ってヒップホップ踊っているなかにまじればいい、と提案している。
また、こんな文章も。
「今から50年前の人間の平均寿命は70才だった。
映画の長さはおよそ90分。
今日では、平均寿命は90才。
映画の平均的長さは120分。
昔より今の方が良い?
それは、中味によりけりだ」
本のページもそうだな。少ないページでことたりる内容なのに、水増しされて大長編になっている本の多いこと!
また、知識の蓄積や記憶が死ねばなくなってしまうことについて、
「やっと面白いことが言えるようになった瞬間、黙らされてしまう。
何という浪費。ぼくの知識は誰の役にも立たないわけだ」と嘆き、こんな詩的なつぶやきを加える。
「せめて死者の頭蓋骨が、耳を当てると潮騒の音が聞こえる貝のように出来ているといいなと思う」
また、こんな忠告もある。
「50才を過ぎて、朝起きた時にどこも痛くなかったら、身体の全部が死んでしまったのではないかと疑うべし」
訳者のあとがきを読むと、本書には言葉遊びもふんだんに含まれていて、日本語に翻訳しにくいものに関しては、作者自らが代案を出してくれたそうだ。つまり、日本語バージョンのみの文章もあるのだ。
古川タクの挿画もいい味出している。
読みやすくて、面白かった!とくに、僕みたいな老人にはうってつけの本!
NHK-FMで海外の現代音楽特集2回目。
近藤 讓
− 海外の現代音楽 −(2)
▽ドナウエッシンゲン現代音楽祭2008と
ウィッテン現代室内音楽祭2009から
<ドナウエッシンゲン現代音楽祭2008から>
「砂」 アウレリアーノ・カッタネオ作曲
(16分12秒)
「ムレ」 ヴェリ・マッティ・プーマラ作曲
(12分19秒)
(演奏)アンサンブル・アンテルコンタンポラン
(指揮)スザンナ・メルッキ
〜ドイツ・ドナウエッシンゲン
バール・シュポルトハレで収録〜
<2008/10/18>
(南西ドイツ放送協会提供)
<ウィッテン現代室内音楽祭2009から>
「弦楽四重奏曲 第2番“脆い断片”」 エクトル・パラ作曲
(13分09秒)
(演奏)アルディッティ弦楽四重奏団
SWRエクスペリメンタル・スタジオ
〜ドイツ・ウィッテン フェストザールで収録〜
<2009/4/25>
(南西ドイツ放送協会提供)
「ロタ」 ヨハネス・シェルホルン作曲
(17分18秒)
(コントラバス、クラリネット)ガレス・デーヴィス
(演奏)ジャック弦楽四重奏団
「杣径」 近藤 讓・作曲
(8分08秒)
(演奏)アンサンブル・ルシェルシュ
〜ドイツ・ウィッテン
ルドルフ・シュタイナー・シューレで収録〜
<2009/4/25>
(西部ドイツ放送協会提供)
「織目」 エマヌエル・ヌネス作曲
(16分16秒)
(演奏)リミックス・アンサンブル
(指揮)ペーター・ルンデル
〜ドイツ・ウィッテン テアターザールで収録〜
<2009/4/24>
(西部ドイツ放送協会提供)
近藤譲の「杣径」はハイデガーの本のタイトルからとったそうだが、未読なので、近いうちに読んでみよう、と思っている。
大盤解説に行くつもりにしてたけど、テレビの解説でじゅうぶんかな、と思って出かけず。(仕事には行ったよ!)
これで渡辺竜王が4連勝で防衛したわけだ。
森内九段は最近、新手を出すことに積極的だが、それが今回は空振りに終わった、という感じだった。生みの苦しみの真っ最中なのかもしれない。逆に、渡辺竜王の新手や鬼手は見事に決まっていた。森内九段が予選を破竹の勢いで勝っていたときは、渡辺竜王危うし、と思ってたんだけどなあ。
渡辺竜王の若さの勝利なのか?
と、いうわけで、
ジャン=ルイ・フルニエの『ぼくの最後の黒い髪』を読んだ。
老いと死にまつわる悲喜交々をユーモアたっぷりに描く。
まず最初の数ページでひきこまれた。
まず1ページのまんなかに1行だけ
「ぼくの曾祖父は死んだ。」とある。
ページをめくると、また1行だけ。
「ぼくの祖父も死んだ。」
なんだなんだ、と思いながらページをめくると、
「ぼくの親父も死んだ。」
そして、ページをめくると、オチの1行。
「遺伝かな?」
つかみはオッケー、と言ったところか。
まあ、老いに関するベタなギャグも多数書いてあるが、なるほど、と思わせる記述もあった。
本書からいくつか引用してみよう。
「百歳になった老人がつぶやいた。
『肺活量が減るにつれ、吹き消すロウソクの数は増えて行きやがる!』」
これは、ベタな方。ほほー、と思ったのは、
「昔のフランス語では、ヒップ・ホップのことをパーキンソン病と言っていた」
この直前のページにはパーキンソン病にかかったら「いやでもみんながあなたを見てしまう。一部の人は、あなたが目立ちたがり屋だからわざと病気の振りをしているんじゃないか、それとも、単に人を笑わそうとしているだけなんじゃないかと疑っている」と書き、放っておいてほしいなら、ディスコに行ってヒップホップ踊っているなかにまじればいい、と提案している。
また、こんな文章も。
「今から50年前の人間の平均寿命は70才だった。
映画の長さはおよそ90分。
今日では、平均寿命は90才。
映画の平均的長さは120分。
昔より今の方が良い?
それは、中味によりけりだ」
本のページもそうだな。少ないページでことたりる内容なのに、水増しされて大長編になっている本の多いこと!
また、知識の蓄積や記憶が死ねばなくなってしまうことについて、
「やっと面白いことが言えるようになった瞬間、黙らされてしまう。
何という浪費。ぼくの知識は誰の役にも立たないわけだ」と嘆き、こんな詩的なつぶやきを加える。
「せめて死者の頭蓋骨が、耳を当てると潮騒の音が聞こえる貝のように出来ているといいなと思う」
また、こんな忠告もある。
「50才を過ぎて、朝起きた時にどこも痛くなかったら、身体の全部が死んでしまったのではないかと疑うべし」
訳者のあとがきを読むと、本書には言葉遊びもふんだんに含まれていて、日本語に翻訳しにくいものに関しては、作者自らが代案を出してくれたそうだ。つまり、日本語バージョンのみの文章もあるのだ。
古川タクの挿画もいい味出している。
読みやすくて、面白かった!とくに、僕みたいな老人にはうってつけの本!
NHK-FMで海外の現代音楽特集2回目。
近藤 讓
− 海外の現代音楽 −(2)
▽ドナウエッシンゲン現代音楽祭2008と
ウィッテン現代室内音楽祭2009から
<ドナウエッシンゲン現代音楽祭2008から>
「砂」 アウレリアーノ・カッタネオ作曲
(16分12秒)
「ムレ」 ヴェリ・マッティ・プーマラ作曲
(12分19秒)
(演奏)アンサンブル・アンテルコンタンポラン
(指揮)スザンナ・メルッキ
〜ドイツ・ドナウエッシンゲン
バール・シュポルトハレで収録〜
<2008/10/18>
(南西ドイツ放送協会提供)
<ウィッテン現代室内音楽祭2009から>
「弦楽四重奏曲 第2番“脆い断片”」 エクトル・パラ作曲
(13分09秒)
(演奏)アルディッティ弦楽四重奏団
SWRエクスペリメンタル・スタジオ
〜ドイツ・ウィッテン フェストザールで収録〜
<2009/4/25>
(南西ドイツ放送協会提供)
「ロタ」 ヨハネス・シェルホルン作曲
(17分18秒)
(コントラバス、クラリネット)ガレス・デーヴィス
(演奏)ジャック弦楽四重奏団
「杣径」 近藤 讓・作曲
(8分08秒)
(演奏)アンサンブル・ルシェルシュ
〜ドイツ・ウィッテン
ルドルフ・シュタイナー・シューレで収録〜
<2009/4/25>
(西部ドイツ放送協会提供)
「織目」 エマヌエル・ヌネス作曲
(16分16秒)
(演奏)リミックス・アンサンブル
(指揮)ペーター・ルンデル
〜ドイツ・ウィッテン テアターザールで収録〜
<2009/4/24>
(西部ドイツ放送協会提供)
近藤譲の「杣径」はハイデガーの本のタイトルからとったそうだが、未読なので、近いうちに読んでみよう、と思っている。
ハッピータイム祭り@アリオ八尾
2009年11月25日 アイドルアリオ八尾3周年のハッピータイム祭
まず午後1時からのステージ。
男の子3人のスコーピオンズによるダンス
万葉シャオニャン
1.アオニヨシ奈良ノ都デてんつくてん
2.花咲きますように
3.風が教えてくれたこと
4.鉄腕アトム
午後2時からのステージ
ハッピーズ
1.学園天国
2.お家へかえりたい
3.アニメソングメドレー(忍たま〜サザエさん〜Dr.スランプ〜タッチ)
4.切手のないおくりもの(手話)
5.プレゼント
途中、クイズにこたえたお客様にバルーンのプレゼント。
午後3時からのステージ
スコーピオンズ(ダンス)
まいなな(ダンス)
ミルキーハット
1.ダンス
2.マイジェネレーション
3.軌跡
4.みんなあなたを愛してる
5.大航海ランドスケープ
6.グレープフルーツ
万葉シャオニャンは、アオニヨシの衣裳のままずっと最後までライブしたが、そっちの方がいいかな、と思った。
まいななのダンスは最高。毎週見たいくらいだ。
ミルキーハットは最初マイクトラブルがあって、雑音が入ったり、音声が聞こえなかったりしたが、お互いに助け合いながらライブしている姿に、あたたかいものを感じた。
まず午後1時からのステージ。
男の子3人のスコーピオンズによるダンス
万葉シャオニャン
1.アオニヨシ奈良ノ都デてんつくてん
2.花咲きますように
3.風が教えてくれたこと
4.鉄腕アトム
午後2時からのステージ
ハッピーズ
1.学園天国
2.お家へかえりたい
3.アニメソングメドレー(忍たま〜サザエさん〜Dr.スランプ〜タッチ)
4.切手のないおくりもの(手話)
5.プレゼント
途中、クイズにこたえたお客様にバルーンのプレゼント。
午後3時からのステージ
スコーピオンズ(ダンス)
まいなな(ダンス)
ミルキーハット
1.ダンス
2.マイジェネレーション
3.軌跡
4.みんなあなたを愛してる
5.大航海ランドスケープ
6.グレープフルーツ
万葉シャオニャンは、アオニヨシの衣裳のままずっと最後までライブしたが、そっちの方がいいかな、と思った。
まいななのダンスは最高。毎週見たいくらいだ。
ミルキーハットは最初マイクトラブルがあって、雑音が入ったり、音声が聞こえなかったりしたが、お互いに助け合いながらライブしている姿に、あたたかいものを感じた。
『寺山修司の忘れものー未完創作集』
2009年11月24日 読書
『寺山修司の忘れものー未完創作集』を読んだ。
<戯曲>
忘れた領分ーディッドル・ディッドル・ダム・ダム
<詩>
ⅰ
おいらの故郷は汽車の中
さよなら牧場の青草よ
草笛峠
山鳩物語
星の数だけあなたが好きよ
十六歳
猟銃のパンチ
なぜおれは口笛を吹くか
勇士の故郷
Ⅱ
なみだは遠い草原に
お墓のバラード
ボロボロロン
行ってしまった
鳩よ
海賊ごっこ
涙はほんもの
帆掛船
<小説>
ゼロ地帯
目撃者/マリの恋歌/思い出のない男/罠/葬送曲一番/第二ラウンド/消えた男/牙をみがく/死んだねずみ/タイトルはおれだ/仮面舞踏会
<エピローグ>
いますぐ話しかけないと
<戯曲>はネフローゼで闘病しているあいだに書かれ、1956年に上演されたもの。
登場人物が花売り娘にサックスを吹く男、黒人と鳥夫という男。
登場人物を見ただけで寺山らしいとも思えるが、河野典生っぽいとも見える。
<詩>はレコードのために作詞したもの。
「なみだはにんげんの作る一ばん小さな海です」(帆掛船)
「どこへ行こうと人生はさよならだけさ」(おいらの故郷は汽車の中)
など、寺山節がうかがえる。
<小説>は寺山退院後、スポーツニッポンに連載されたもの。
高価な黒ダイヤが埋め込まれたジャックナイフ争奪戦。ただし、そのジャックナイフをてにした者には不幸が訪れるという。
主人公はボクシングのカムバックをはかる男。
おさだまりの賭けと八百長にまつわるゴタゴタ。
殺し屋も登場し、貸本時代のアクションを見ているようだ。
タイトルの「ゼロ地帯」はキャバレー「ハバネラ」で三枝マリという混血女が唄う歌の題名。
「ゼロ地帯 木の葉のふるところ
その木の葉のうかぶ水たまり
負けた男がマフラーを
風に吹かれてぼんやりと
立ってさえいればいいところ」
なんて唄っている。
また、こんなくだりもある。
「おれには、地位だって金だって思い出だってなかった。何もかもゼロだった」
「おれは、いわばゼロ族だ。一切のものに期待をもたず、思い出をもたない。たった今を大切にして生きていく、いつでもゼロでしかなかった人生」
また、こんな歌も唄われる。
「おいらはゼロの人生さ
波止場で生まれてきのうまで
ポケットほどの思い出も
ねずみの子ほどの思い出も
(そんなものあ、ありゃしねえ)
男と生まれてきたからにゃ
今を大切に生きるのさ
明日のことなど風まかせ」
寺山修司は永遠に若いんだな、と感じる。
約50年前の作品なので小道具やら背景は古いが、作品は圧倒的に若い。
NHK-FMで三夜にわたって海外の現代音楽祭からの録音。
まず第一夜
− 海外の現代音楽 −(1)
▽ドナウエッシンゲン現代音楽祭2008から
「楽器群のための五重奏」 ベン・ジョンストン作曲
(14分43秒)
「交響曲 第5番“踊り子”」 ブリス・ポゼ作曲
(18分03秒)
(管弦楽)南西ドイツ放送交響楽団
(指揮)シルヴァン・カンブルラン
〜ドイツ・ドナウエッシンゲン ドナウハレAで収録〜
<2008/10/19>
(南西ドイツ放送協会提供)
「仮構のダンス 第1巻」 アルヌルフ・ヘルマン作曲
(11分10秒)
(演奏)アンサンブル・モデルン
(指揮)フランク・オリュ
「ティーター・トッター」 ヨルゴス・アペルギス作曲
(14分35秒)
(演奏)クラングフォールム・ウィーン
(指揮)エミリオ・ポマリコ
「クロノス・アイオーン」 ブライアン・ファーニホー作曲
(27分22秒)
(演奏)アンサンブル・モデルン
(指揮)フランク・オリュ
〜ドイツ・ドナウエッシンゲン
バール・シュポルトハレで収録〜
<2008/10/18>
(南西ドイツ放送協会提供)
<戯曲>
忘れた領分ーディッドル・ディッドル・ダム・ダム
<詩>
ⅰ
おいらの故郷は汽車の中
さよなら牧場の青草よ
草笛峠
山鳩物語
星の数だけあなたが好きよ
十六歳
猟銃のパンチ
なぜおれは口笛を吹くか
勇士の故郷
Ⅱ
なみだは遠い草原に
お墓のバラード
ボロボロロン
行ってしまった
鳩よ
海賊ごっこ
涙はほんもの
帆掛船
<小説>
ゼロ地帯
目撃者/マリの恋歌/思い出のない男/罠/葬送曲一番/第二ラウンド/消えた男/牙をみがく/死んだねずみ/タイトルはおれだ/仮面舞踏会
<エピローグ>
いますぐ話しかけないと
<戯曲>はネフローゼで闘病しているあいだに書かれ、1956年に上演されたもの。
登場人物が花売り娘にサックスを吹く男、黒人と鳥夫という男。
登場人物を見ただけで寺山らしいとも思えるが、河野典生っぽいとも見える。
<詩>はレコードのために作詞したもの。
「なみだはにんげんの作る一ばん小さな海です」(帆掛船)
「どこへ行こうと人生はさよならだけさ」(おいらの故郷は汽車の中)
など、寺山節がうかがえる。
<小説>は寺山退院後、スポーツニッポンに連載されたもの。
高価な黒ダイヤが埋め込まれたジャックナイフ争奪戦。ただし、そのジャックナイフをてにした者には不幸が訪れるという。
主人公はボクシングのカムバックをはかる男。
おさだまりの賭けと八百長にまつわるゴタゴタ。
殺し屋も登場し、貸本時代のアクションを見ているようだ。
タイトルの「ゼロ地帯」はキャバレー「ハバネラ」で三枝マリという混血女が唄う歌の題名。
「ゼロ地帯 木の葉のふるところ
その木の葉のうかぶ水たまり
負けた男がマフラーを
風に吹かれてぼんやりと
立ってさえいればいいところ」
なんて唄っている。
また、こんなくだりもある。
「おれには、地位だって金だって思い出だってなかった。何もかもゼロだった」
「おれは、いわばゼロ族だ。一切のものに期待をもたず、思い出をもたない。たった今を大切にして生きていく、いつでもゼロでしかなかった人生」
また、こんな歌も唄われる。
「おいらはゼロの人生さ
波止場で生まれてきのうまで
ポケットほどの思い出も
ねずみの子ほどの思い出も
(そんなものあ、ありゃしねえ)
男と生まれてきたからにゃ
今を大切に生きるのさ
明日のことなど風まかせ」
寺山修司は永遠に若いんだな、と感じる。
約50年前の作品なので小道具やら背景は古いが、作品は圧倒的に若い。
NHK-FMで三夜にわたって海外の現代音楽祭からの録音。
まず第一夜
− 海外の現代音楽 −(1)
▽ドナウエッシンゲン現代音楽祭2008から
「楽器群のための五重奏」 ベン・ジョンストン作曲
(14分43秒)
「交響曲 第5番“踊り子”」 ブリス・ポゼ作曲
(18分03秒)
(管弦楽)南西ドイツ放送交響楽団
(指揮)シルヴァン・カンブルラン
〜ドイツ・ドナウエッシンゲン ドナウハレAで収録〜
<2008/10/19>
(南西ドイツ放送協会提供)
「仮構のダンス 第1巻」 アルヌルフ・ヘルマン作曲
(11分10秒)
(演奏)アンサンブル・モデルン
(指揮)フランク・オリュ
「ティーター・トッター」 ヨルゴス・アペルギス作曲
(14分35秒)
(演奏)クラングフォールム・ウィーン
(指揮)エミリオ・ポマリコ
「クロノス・アイオーン」 ブライアン・ファーニホー作曲
(27分22秒)
(演奏)アンサンブル・モデルン
(指揮)フランク・オリュ
〜ドイツ・ドナウエッシンゲン
バール・シュポルトハレで収録〜
<2008/10/18>
(南西ドイツ放送協会提供)
たまごっち大感謝祭〜キッズダンスコンテスト@青空フェスタ
2009年11月23日 趣味今日は「たまごっち大感謝祭」
遊んでいたたまごっちをおもちゃ屋に持っていけば、先着で感謝状とたまごギフト券がもらえるのだ。
近くのトイざらスに持っていき感謝状とギフト券を入手!
ついでに新発売のたまごっちiDを購入しかけて、ちょっと我慢する。
きっと、いずれ買って遊ぶことになるんだけど!
なんばカーニバルモールで青空フェスタ。
キッズダンスコンテストが開催されていたので、見に行った。
この手のダンスコンテストは、撮影関係に厳しかったりしたが、このコンテストに関しては、規制がないどころか、じゃんじゃん撮影してあげてください!とハッパまでかけていた。僕はカメラやビデオで撮影したりしないのだが、この自由さはうれしい。
第1部の後半から見ることができた。
以下、例によって、最近老化によってヒアリングがますます悪化する耳と、あとで読み返しても何が書いてあるのか判読しにくい悪筆での出場チーム。
マッドマッド
クラッカーJ
ブレインシップ
ベッツィー
ロータス・ザ・キットソン
キャンディ・ストリッパー
アマウント・ガールズ
TRチーフロッカーズ
第2部
ヒップジャガー
みっくすじゅーす
バンボレ
クリッククラック
wet’s upドールズ
アメイズ
ゼブラミックス
キューティークラッシュ
ブラックビートブルーバードストローク
ワイルドアップ
トゥインカー
TRジャム
フラテシモ
ギミック
クロスオーバー
第3部
アーシー
ドゥ・パッション
エムクルー
パールドール
シャカラカバービー
ジェイソウルヒップ
ディーホリック
クリアスタイル
TRキング
マリオ
エルジャック
ミスターバブゥ
チーキー
ホットキャンベル
ジーニス
これはすごいラインナップじゃないか?
グランプリにだれを選ぶかで、審査員が試されているようなラインナップ。
結果は次のとおり。
特別賞:みっくすじゅーす(
特別賞:ミスターバブゥ(サングラスのヒステリックミニ的ギャングたち)
5位:ランキー(見逃した1部前半に出ていたようだ)
4位:ベッツィー(ESSEのときも入賞してたし、実力は折り紙つき)
3位:シャカラカバービー(常勝!)
2位:ブラックビートブルーバードストローク(ダンスの天才たちが地域を越えて組んだチームのようだ)
1位:マリオ(2人の天才)
で、考えたこと。
1、2位のダンスのうまさ、天才ぶりは議論の余地がない。だけど、今回、僕はこの1、2位でなく、シャカラカバービーが真の1位だった、と思えた。
単なるダンスコンテストなら1、2位は評価されてしかるべきなんだが、これはキッズダンスコンテストなのだ。キッズならではの評価の点数がある、ということで特別賞が設けられてはいるが、はっきり言って、今回の1、2位は審査決定までにプロのダンサーが踊っているゲスト枠に出るのが筋なんじゃないか、と感じた。とくに、2位のストロークは年齢はキッズダンスの枠内かもしれないが、身長も高いし、やろうとしていることは明らかに「キッズダンス」ではない。1位のマリオもsproutの覇者なんだから、勝って当たり前。出場なんかしたら、他のチームがかわいそう。審査される側にいるのが不思議なユニットではないか。ゲストで出るべきだ。このコンテストは、3位までの発表を予定していたが、審査の結果、5位までを入賞とすることが決まったらしい。つまり、マリオとストロークによって押し出されてしまったキッズダンサー2組を救済したのだ。キッズダンスの醍醐味のひとつは、入賞したときの感想で、判でおしたように「めっちゃうれしい」と全員が言うところにある。踊ることが楽しくて、それを評価されて喜ぶ、という光景が心を打つのだ。と、思う。
と、いうわけで、シャカラカバービー、おめでとう!
遊んでいたたまごっちをおもちゃ屋に持っていけば、先着で感謝状とたまごギフト券がもらえるのだ。
近くのトイざらスに持っていき感謝状とギフト券を入手!
ついでに新発売のたまごっちiDを購入しかけて、ちょっと我慢する。
きっと、いずれ買って遊ぶことになるんだけど!
なんばカーニバルモールで青空フェスタ。
キッズダンスコンテストが開催されていたので、見に行った。
この手のダンスコンテストは、撮影関係に厳しかったりしたが、このコンテストに関しては、規制がないどころか、じゃんじゃん撮影してあげてください!とハッパまでかけていた。僕はカメラやビデオで撮影したりしないのだが、この自由さはうれしい。
第1部の後半から見ることができた。
以下、例によって、最近老化によってヒアリングがますます悪化する耳と、あとで読み返しても何が書いてあるのか判読しにくい悪筆での出場チーム。
マッドマッド
クラッカーJ
ブレインシップ
ベッツィー
ロータス・ザ・キットソン
キャンディ・ストリッパー
アマウント・ガールズ
TRチーフロッカーズ
第2部
ヒップジャガー
みっくすじゅーす
バンボレ
クリッククラック
wet’s upドールズ
アメイズ
ゼブラミックス
キューティークラッシュ
ブラックビートブルーバードストローク
ワイルドアップ
トゥインカー
TRジャム
フラテシモ
ギミック
クロスオーバー
第3部
アーシー
ドゥ・パッション
エムクルー
パールドール
シャカラカバービー
ジェイソウルヒップ
ディーホリック
クリアスタイル
TRキング
マリオ
エルジャック
ミスターバブゥ
チーキー
ホットキャンベル
ジーニス
これはすごいラインナップじゃないか?
グランプリにだれを選ぶかで、審査員が試されているようなラインナップ。
結果は次のとおり。
特別賞:みっくすじゅーす(
特別賞:ミスターバブゥ(サングラスのヒステリックミニ的ギャングたち)
5位:ランキー(見逃した1部前半に出ていたようだ)
4位:ベッツィー(ESSEのときも入賞してたし、実力は折り紙つき)
3位:シャカラカバービー(常勝!)
2位:ブラックビートブルーバードストローク(ダンスの天才たちが地域を越えて組んだチームのようだ)
1位:マリオ(2人の天才)
で、考えたこと。
1、2位のダンスのうまさ、天才ぶりは議論の余地がない。だけど、今回、僕はこの1、2位でなく、シャカラカバービーが真の1位だった、と思えた。
単なるダンスコンテストなら1、2位は評価されてしかるべきなんだが、これはキッズダンスコンテストなのだ。キッズならではの評価の点数がある、ということで特別賞が設けられてはいるが、はっきり言って、今回の1、2位は審査決定までにプロのダンサーが踊っているゲスト枠に出るのが筋なんじゃないか、と感じた。とくに、2位のストロークは年齢はキッズダンスの枠内かもしれないが、身長も高いし、やろうとしていることは明らかに「キッズダンス」ではない。1位のマリオもsproutの覇者なんだから、勝って当たり前。出場なんかしたら、他のチームがかわいそう。審査される側にいるのが不思議なユニットではないか。ゲストで出るべきだ。このコンテストは、3位までの発表を予定していたが、審査の結果、5位までを入賞とすることが決まったらしい。つまり、マリオとストロークによって押し出されてしまったキッズダンサー2組を救済したのだ。キッズダンスの醍醐味のひとつは、入賞したときの感想で、判でおしたように「めっちゃうれしい」と全員が言うところにある。踊ることが楽しくて、それを評価されて喜ぶ、という光景が心を打つのだ。と、思う。
と、いうわけで、シャカラカバービー、おめでとう!