つかしんで毎月1回開催していた「つかスタ!!劇場」も今月が最終回。
この「つかスタ!!劇場」はキャレスの子たちのダンスパフォーマンスを見ることができる。
今まで、雨天中止に泣いたこともあったが、これで最後。
13時と15時の2回公演。
キューティーハニー
西村愛華、古賀かれん、仮谷みりあ、川本瑠央奈
sing&jump
TOMMOROW
(カーペンターズ)
LOVE CHANCE
クローストゥユー(カーペンターズ)
ダンス
BLOCK(3曲)

2回目のステージでは、メンバーが欠けていたが、ファンキーチップスの紹介もあった。
と、いうか、プログラムの表記が適当すぎ!
ちゃんとメモとっておけばよかった。

帰ってすべりこみセーフで「現代の音楽」
ISBN:4253145167 コミック 板垣 恵介 秋田書店 ¥580
板垣恵介の『バキ』を読んだ。全31巻。
『グラップラー刃牙』の続編。
主なストーリーは3つある。
「最凶死刑囚編」5人の脱獄死刑囚と、地下闘技場の闘士たちが戦う。
「大擂台賽編」中国の武術大会。
「マホメド・アライJr編」天才ボクサーの息子。
バキは童貞を捨て、また柳龍光の毒手によって衰弱した肉体を再生させてさらに強くなる。
なのだが、バキが中心でストーリーが進むとはかぎらず、多くの登場人物の中で、「地下闘技場チャンピオンになった軽量の少年」という役どころを演じている。
このスタンスはよかった。主人公として振る舞われると、バキの強さを信じるための根拠が必要になってくるが、その重荷をとりあえずおろしているように思えた。
で、なるほど、これは面白いなあ、と興奮した。
最凶死刑囚は、ジャックハンマーや範馬刃牙や範馬勇次郎と同様に実在の格闘技を代表しているわけでもなく、漫画的な設定の闘士たちだ。これでこそ、戦いは五分になる。半殺しの目にあってるのに一瞬後に回復していたって、違和感がない。漫画的キャラクターだから。「こんなことはありえない!」と思いもせず、また、そう思ったとしても、マンガだからありなのだ、と納得できる。
「大擂台賽編」では一応中国の武術の達人たちを集めて、ゲスト扱いで参加していた中国人以外との5VS5の戦いという体裁をとっている。でも、描かれているのは、どの格闘技が強い、というテーマからははずれている。
「マホメド・アライJr.編」では天才ボクサーの息子が父の格闘技を完成させたと豪語し、ボクシングの強みを(まるで今までの穴を埋めるかのように)綴る展開をみせる。
結局このジュニアは地下闘技場の面々に敗北を続け、父との闘いにも敗れてしまう。
ここは、バキと勇次郎では描けなかった父子関係を描いたおもむきが強い。
最後には、いよいよバキが勇次郎を射程にとらえたかのような描写で終わっている。
この『バキ』を読んで感じたのは、勇次郎の人間的な部分が描かれることが増えて、その分、勇次郎の圧倒的な強さが緩和されている。野獣のような人間かと思っていたら、ちゃんと人間であり、話のわかる父親でもある、というふうに。
野獣というか、あくまでも動物として行動しているのは、ここではバキの方になる。
父を超えたいという余人には理解不能なこだわりに固執するバキは、肉体を鍛え、技を磨く以前に、自らの強迫神経症を分析できるだけの知性を持てばよかったのである。
多くの格闘家が出て来て、彼らそれぞれの凄みが描かれ、と同時に彼らを攻略するにはどうすればいいのかが考察されるこの漫画で、バキだけがその対象になっていないのが不思議である。
バキがなぜ強いのかを敵はちゃんと分析しようとしているはずであり、その分析のなかで、バキの弱点も見えてくるはずだが、バキだけは「とにかく強くて勝つ」以外の情報がないのだ。
バキの闘いのつまらなさはそこにある。
バキ以外の闘いはどれもこれも面白くて熱中するのに、バキの闘いは「いろいろやっても結局理由もなく勝つんだろうな」としらけてしまうのだ。
まあ、いろいろ書いたけど、漫画はめちゃくちゃ面白い。
この『バキ』に関していえば、ストーリーに一貫性がなくて、バラバラな気もするが、もう全編が番外編なのかもしれない。
しかし、バキの顔がすっかり変わってしまって、モデルになったと思しき格闘家とは離れてしまったのは、何よりだった。

『バキ特別編SAGA』を読んだ。バキの童貞喪失を描いた1冊。
バキは全体に過剰さを描いた漫画で、読んでいて爆笑することが多い。
この特別編などとくに大笑いさせてもらった。
童貞が読んでも、はじめてのセックスってこんなふうなのか、と勘違いする余地がないくらいに大袈裟で、ありえない過剰さに満ち満ちている。
日常生活のすべてについてバキには過剰に行動してほしい。
次の特別編ではバキが過剰な思いと行動でお菓子を食べるのに1冊使ってほしいし、「バキ特別編脱糞編」とか「バキ特別編針の穴に糸を通す編」とか書いてほしい。
こういう発想は、おそらく同人誌では実現しているのかもしれないが、板垣恵介が描かないとこれは意味がない。

聖パウロ

2006年10月20日 読書
ISBN:456050881X 新書 加藤 隆 白水社 ¥999
エティエンヌ・トロクメの『聖パウロ』を読んだ。
パウロは英語読みすると「ポール」だから、「聖パウロ」は「サンポール」と読めるのだ。
そのせいか、パウロというと、なんとなく、俗人のイメージがあった。(どこから類推してるのか!)しかも、押しが強くてちょっと迷惑な俗人。
そんな根拠のないイメージから逃れるために、パウロの評伝を読んでみた。多くの研究のうえに書かれた評伝なので、現代のパウロ像を知るには格好の書物のはずだ。
以下、目次。
1.パウロの生涯についての資料−その枠組と年代
2.初期のパウロ
3.エルサレムとの断絶
4.独立した伝道者
5.教会指導者
6.和解を求めて
7.敗北して
8.パウロの思想
9.遺産
パウロは最初は国粋主義グループ「ゼロテ」の一員であったと言われている。
使途行伝第8章で「サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った」と書かれている「サウロ」こそ、パウロのことだ。第9章には「サウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら云々」とある。キリスト教の敵だったのだ。
このサウロが天からさした光に照らされて主を幻視し、めくらになってしまう。
主の弟子アナニヤにより、「サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼はバプテスマを受け云々」、「目からウロコが落ちる」という慣用句の語源となるエピソードを体験。その後はキリスト教の布教、教会設立に生涯を捧げるのだ。キリスト教の信者になってからは、サウロはパウロの名をもつようになる。
ようするにパウロは自分の身に起こった超常現象によって、キリストを信ずるようになったのだ。ここがパウロの俗っぽさと感じるところで、納得いかない部分なのだ。
イエスは多くの人の病を癒した。そうした奇跡を目にして信仰に入る道筋は順当に見えるが、そうとも言い切れない。たまたまイエスが病気を癒したからキリスト教信者になったけど、それが別の誰かであれば、別の信仰に入ったということでもあるからだ。目の前にあるものに飛びついているだけだ。
ましてやサウロの場合は、いったん盲目にしておいてマッチポンプ的に視力を回復させているのだ。神もやることがあざとい。
以上は、本書を読む前の、僕のパウロ観だ。信仰に入るまでのエピソードだけでイメージを作ってしまっていた。
この本を読んで、パウロの思想や影響を知るにつけ、「俗っぽくて迷惑」という印象自体は変わらないものの、興味をひくことも出て来た。
第3章に「エルサレムとの断絶」とある。パウロはユダヤ人とそれ以外の異邦人とが同じ権利を持つものと考えていた。一方、エルサレム側では、モーセの律法が与えられたイスラエル人には選びの特権があるとし、異邦人を一段低くみたのだ。
パウロが示した「キリスト教徒にとっての義の唯一の源泉は信仰にある」とする思想は、16世紀のマルチン・ルター、ジャン・カルヴァンに、20世紀に入ってカール・バルトの神学に影響を与えている。
こうしてモーセの律法から全面的に解放されることになった信者たちのスローガンは「何をしてもいい」になったのだ。ここが面白い。
何をしたっていいのだが、まだそこまで解放されていない者を気遣ってやれ、というようなことを「ローマ人への手紙」で書いている。
第14章に、こうある。
「信仰の弱い者を受け入れなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない」
ユダヤ人の特権を認めず、異邦人を同等にみて、結果、モーセを軽視するに至るパウロの思想は自由度が高いように思われる。
ところが、パウロはガチガチの保守的人物でもあって、一夫一婦制を信奉、同性愛を認めず、奴隷制を認めている。
このあたりのバランスがまだ僕にはよくわからない。
もう少しパウロに関する本でも読んでから考えてみよう。
なお、本書ではじめて知ったのだが、キリスト教徒を呼ぶ言葉「クリスティアノス」は、油を注がれた者「クリストス」と、政治指導者につける語尾「イアヌス」を合成したものらしい。
(信者に対して政治指導者の語尾をつけたのは、それだけ党派性があり、皮肉が含まれていたからだ。キリスト教徒は皮肉めいた呼び名を自ら進んで取り入れて、その内容を実質的に書き換えたのだ)
トロクメは、「クリスティアヌス」に対して「ポマードを頭にぬりたくった者の党派」という解釈を示している。「あぶら代官」!「ポマード先生」!橋本内閣時代にこの本を読んでいたら、さぞかし愉快だったろう。
DVD ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2006/11/29 ¥1,481
マライア・キャリー主演の映画「グリッター〜きらめきの向こうに」を見た。2001年。
ボンディ・カーティス=ホール監督。
少女の頃から場末の酒場で母親とステージに立ったりしていたビリー(マライア)は、ゴーゴーガールや下手な歌手のバックダンサーなどの下積みを経て、ついにマジソンスクエアガーデンを満員御礼にする歌手にまでなる。
ビリーを見い出して、彼女を売り出し、恋人になるのはマックス・ビーズリー。
彼はビリーとちょっといさかいがあったりしたが、ビリーの晴れ舞台を見に行こうとする途中で殺されてしまう。
苦節何年かのあとのサクセスストーリー、恋人の死、生き別れだった母親との再会、など、ハリウッドの夢がこの映画にはぶちこまれている。
そして、やはり、マライア・キャリーの歌は鳥肌ものだった。
まだ見ていない人には、必見と太鼓判をおしておこう。

さて、この映画、わかりやすいのがとりえで、ほとんど何のストレスもなく見終わることができる。
一番いいシーンは、少女時代に母親に呼ばれてステージに立ち、超絶歌唱で観客のドギモを抜くところだ。映画がここで終わっていたら、名作だっただろう。
それ以降の成功物語は、あまりにもトントン拍子すぎて、これがマライアの自伝的要素を含む作品なのだとしたら、まさしくシンデレラストーリーの極端な実現、奇跡の物語である。マライアは神なのか?
僕自身のマライア・キャリーに対する印象は、歌はめちゃくちゃうまいけど、セクシー路線もゴ−ジャス路線も似合わないオランウータンの一種、といった程度だ。
この映画で、ビリーが露出度の高い衣装を要求されたり、男性ダンサーがセクシーなからみかたをすることに、恋人が文句を言うシーンがある。ふだんマライアのPVなどを見て「おまえの乳や尻を見て欲情するオスは存在しない」「いっさい肌を露出しなければいいのに」と映像に向かってアドバイスしてきた僕としては、映画の中だけでなく、実際のマライアにも文句を伝えてほしかった。マライアのセクシーな演出は、僕には動物のドキュメンタリーで見られる求愛行動以上のものではない。
はっきり言えば、この映画はスターであるマライア主演の隠し芸大会の余興みたいなもので、観客はマライアが成功を重ねていくたびに「そんなアホな」とつっこみ、恋人が死んだり、母親と涙の対面をするシーンに、斜にかまえずにおいおい泣いてみせてウケを狙えばいいのである。
ストーリーそのものは、小学生が考えたんじゃないか、と思えるほど単純だ。
タイトルには「きらめきの向こうに」とついているが、きらめきの向こうには何があったのか。
答え:何もない。

必勝歌

2006年10月18日 映画
映画「必勝歌」を見た。1945年。
演出には、溝口健二、マキノ正博、田坂具隆、清水宏、大曽根辰夫、高木孝一、市川哲夫の名前が並ぶ。
出演者もオ−ルスタ−級で、小隊長に佐野周二、海軍中尉に上原謙、陸軍中尉に高田浩吉、子守唄を歌う母に田中絹代、高峰三枝子と坂本武が父娘、轟夕起子、澤村貞子などなど。
戦争も末期。
この映画はいくつかのエピソードをオムニバスで見せながら、戦時の国民の心構えを説いている。戦車や軍隊、戦争の映像はつくりものでなく、記録映像だと思う。
防空頭巾をかぶって踊るミュージカルシーンがあるかと思えば、ふるさとを思い戦地でセンチになる兵隊が描かれていたり、戦中しっかりと耐えて頑張る父母を思い学校で期せずして児童からわきおこる「お父さんバンザーイ」「お母さんバンザーイ」
でも、この映画の面白いところは、それ以外にもある。
赤十字船を攻撃する敵機に怒り復讐を誓う話題で盛り上がる一家団欒。
召集令状がきた青年との結婚を決意し誉め讃えられる娘。
「将来は飛行機乗りになって敵に体当たりするんだ」と言う子供を「えらい!」と誉める父。
きわめつけは、特攻隊で命を落とした遺族と、軍人との宴会。
隊長は「真の武運長久は、1機あまさず敵艦にぶち当たることです」と述べ、遺族はにこにことうなずく。
挙げ句の果には、宴もたけなわとなり、歌がとびだす。
自分の父親は話せるおやじだ。国のために死ねと言った。
自分の上官は話せる上官だ。靖国神社で会おうと言った。
とか、そんな歌詞なのだ。
この映画は戦争中に戦意の昂揚を意図して作られたのだろうが、今見ると、ほとんどサイコホラーになっていて、りっぱな反戦映画として作用しているように思う。
自爆テロとか、瀬戸際外交にあきれて笑う日本だって、ちょっと前には、同じ道をたどっていたのだ。のどもと過ぎれば熱さ忘れる、とはこのこと。他人のふり見てわがふりなおせ、とはこのこと。目くそ鼻くそを笑う、とはこのこと。
この映画「必勝歌」を見ても、日本が勝てるチャンスはちっとも見出せない。必敗の窮地しか見えて来ない。戦意昂揚映画にしてこれだ。まさにどんづまり。
ISBN:4582853315 新書 高取 英 平凡社 ¥819
高取英の『寺山修司−過激なる疾走』を読んだ。
寺山の近くにおり実態を知る著者が、多くの寺山関連の本を参考にし、また、それら著作の真偽も含めてまとめあげた評伝の決定版だと思う。
寺山の身近にいた者の本は、その人しか知らない証言も聞けて興味深いのだが、あまりにも些細なプライベートすぎてつまらなかったり、思い込みが強かったり、結局、その人との関わり以上の描写を越えないうらみがあった。
以下、目次。
第1章 父の戦病死と二人の「母」−寺山修司の生い立ち
第2章 孤独な少年は石川啄木にあこがれる−映画と俳句の関係
第3章 学生歌人の光と陰−『短歌研究』の特選と「模倣問題」
第4章 大学での初めての体験−恋愛とネフローゼと
第5章 シナリオ執筆で才能開花−1960年を生きる
第6章 エロスのアナキストへ−『乾いた湖』と60年安保闘争の関係
第7章 結婚と『家出のすすめ』−寺山修司の思想的背景
第8章 ライバルは三島由紀夫−サブカルチャーの先駆者として
第9章 「価値紊乱の時代」の煽動者−60年代後半のアングラ文化
第10章 映画と演劇における「私の解体」−『田園に死す』『星の王子さま』『青ひげ公の城』など
第11章 天井桟敷の実験とその疾走−「演劇の革命」を求めて
終章 私の墓は私のことば−「不完全な死体」から「完全な死体」へ

この本では寺山が好きでよく使っていた「去り行く一切は比喩にすぎない」というシュペングラーの言葉は、実はゲーテの『ファウスト』からの引用だった、などの指摘も時折はさまれており、面白い。

寺山修司享年47歳。
僕と同い年だ。
「寺山に比べて、自分が何をしてきたのか」なんて常套句は使わない。
過去は書き換え可能で、自分は物語の主人公なのである。何も自分を寺山の物語の傍役におとしめることもあるまい。
評伝だから当たり前なのだが、本を読んで終章に近付くにつれ、寺山の死がちかづいてくるのが、どうにもやりきれなくて、寂しかった。
「邪宗門」はかつて公演されたときには、客席からは野次や罵倒が飛び、黒子と観客が乱闘をはじめる一幕もあったという。つい先年、「邪宗門」を見に行ったときに、そのような騒然としたスキャンダラスな事件は起きなかった。寺山の過去の演劇は芸術の枠におさまってしまったかのようだ。寺山はやはりもっと長く生きて、今のこの時代の挑発者でもあるべきだった。死んだのはチョンボだ。

カニバル(食人種)

2006年10月16日 読書
ISBN:4791760263 単行本 高橋 啓 青土社 ¥1,995
ディディエ・デナンクスの『カニバル(食人種)』を読んだ。
1931年フランスで開催された植民地博覧会での物語。
この植民地博覧会には、ニューカレドニアから連れて来た食人種が展示されていた。
そこで「食人種」たちは、女も男も上半身裸で腰簑だけまとい、女は踊り、男は丸太を彫る。柱にのぼったり、走ったり、這ったり、槍を投げたり、矢を放ったりする約束になっていた。
「そして、5分ごとに仲間の誰かが前に進み出て、歯をむき出しにして大声を張り上げ、野次馬を脅かすことになっている」
もちろん、彼らは展示内容に記された一夫多妻でもなく、ふだんはちゃんと衣服を着た、ごく普通のクリスチャンたちで、当然、人食いでもない。
観客は、彼らを見て、餌を投げ込んだり、からかったりして楽しむのである。
この博覧会で展示されるはずのワニたちが、餌があわずに大量に死んでしまうところから、物語ははじまる。
急遽、ドイツのサーカスからワニをレンタルすることになるが、その見返りとして、彼ら食人種の一部が交換でサーカスの見世物としてピックアップされる。
拉致された女性を救出しようとして、残された先住民青年が博覧会を脱走して都会を冒険するのが、この小説の中身だ。
鉄道を使いたくても、文字も読めないし、システムもわからない。
地下は死者が眠る場所だというので、地下鉄に乗れない。
など、望んだわけでもない強制珍道中が展開する。
ここで描かれたフランスの植民地博覧会や、ドイツのサーカス団の鰐との交換は、実話に基づいている。
博覧会にかぎらず、マスコミで見る「〜の実態」がいかに実態からほどとおいものであるかは、実際に見聞きしてみればすぐわかる。テレビが入るとみんなヤラセになってしまうと考えた方がいいだろう。
僕自身も、かつてアイドルオタクとしてテレビに出たことがあるが、そのとき、エキセントリックなオタクの姿を期待されているのが痛いほど感じ取れた。
また、モダンチョキチョキズのとき、ふだんの僕をテレビで追った映像は、全部「こんなことをしていたら面白いだろうな」と考えた創作だった。あまりにも無茶苦茶なことばかりしていたので、まさかあれが実態だとは誰も思わないだろうが、うっかり信じてしまう人もあったかもしれない。
さて、小説に戻ると。
警官たちが、脱走した彼ら先住民を射殺しようとしたとき、通りすがりの男性が彼らを助ける。
「武器を持たない無防備の人間を撃つ権利はないぞ。彼が何をしたのか知らないが、そんなことをすれば殺人だ」
この男もつかまって護送されてしまう。
護送車の中で、この男が言う。
「人は行動を起こす前にあれこれ考える。それがいざというときに何もしない格好の口実になってしまう」
このひとことは重い!
最近、タクシーの運転手が殺害された事件があったが、かなりあとになってから「そういえば、助けてくれーと大声で叫んでクラクションを鳴らしまくっているタクシーがありました」と目撃証言が出てきた。そのときに何とかしてやれ!
今日は天気もよく、どこに行こうかと思い、
近江八幡でミューズ&H@chiのイベント
いやいや、
京都でアリスちゃんのGAME OUT(松前さんのライブ!)
と、出かける用意をしていたんですが。

所持金千円。

滋賀からも京都からも帰れないワンウェイチケット!

大阪で生まれたおっちゃんやさかい、大阪からよう出ていかれへん。
厚生年金会館では女子高生たちがチアやバトンやダンスや演劇を競う催しをしており、これか!と思ったけど、学校臭さがきつすぎて、回避。
で、ATC「南港ダンスフェス」予選2日めを見に行きました。
今回は29チームが出場し、うち15チームが決勝にコマを進めました。
ヒアリング不確かで表記は適当ながら、並べてみると。(○が決勝進出)

ルシエル
パワフルキッズ
チップスター
アルファドール ○
リアル 
シャイン
パワフルプリンセス ○
ピーカブー ○
NSラバーズ
パワフルガールズ ○
パワフルボーイズ
ジェミニスト ○
キャビン ○
ローズ ○
マイプロニティ ○
セブンアップ
スティッカーキッズ ○
ダンシングヴィガー ○
Gムーブ
海賊
フェアリージャンプ ○
ジャムラバーズ
NSサーフィン ○
アピッシュジー ○
チャム ○
ライズ ○
ニューヨークシティポイズン
マイヒメ
ザ・ジュゲム

アルファドールは3歳児含む4人組。これが優勝したら怒る。
パワフルプリンセスは衣装がプリキュアっぽい。
パワフルガール、ローズも同じくダンススタジオMIKIから。南港とは相性いいのかな。
ダンシングヴィガーは前回予選落ちしたが、女子だけの編成に変えて、力づくで決勝進出をもぎとった。思いの強さは今回ピカイチに見えた。
ライズは男女のペアで、グランプリ最右翼とみた。
今回、選にもれたが、「マイヒメ」「ザ・ジュゲム」はかなりハイレベルで絶対決勝に行くと思ってたのに。
同じく苦杯を飲んだ「海賊」は海を背景にしたステージにぴったり。ただし、貴重な持ち時間の半分ほどだれも出てこないというアヴァンギャルドな演出には疑問が残った。前回の予選でもそうだった。
ヒアリングの怪しいチームが予選通過したので、いずれ正しい名前が南港新聞で判明するはずです。

FMで「現代の音楽」聞くためにあわてて帰りましたが、最後の1曲しか聞けませんでした。

そんなこんな

(ひどいもんだ。これ、mixiの日記のまんまコピーです)
なんばパークスでOFF2006。ファッションショーがはじまるまで、あんちゃんがDJしていた。
4時からショーの開始だったが、僕が到着した3時過ぎに、もうあんちゃんは回していた。
音楽と映像だけなので、お客さんはまだ集まっておらず、席に楽々すわってDJを聞いた。
DJを野本かりあにバトンタッチし、いよいよショーがはじまるか、というときに、タイムリミット。
STSライブ並びに九条に移動する。

以下、STSライブ2006のプログラム
第1部
1.オープニング/ジュニアスペシャルダンスチーム(新レパートリー。衣装もかっこよい)
2.Its’ In The Star/タイフーンJr.&ラズベリーズ(新レパートリー。もうちょっと練習が必要か)
3.浪漫/プリティーズ(そろそろ新曲を)
4.口笛/AKI組(ついついステージから誰か飛び出さないかと期待してしまう)
5.オトメロディー/キューティミニ&ミニミニclub(新キューティミニはじめて見た)
6.めざせポケモンマスター/ポケモン選抜(永遠の実質ナンバー1)
7.CLUB ZIPANGU/PHRASE(このレパートリーを得てPHRASEかなりよくなったので、次の展開にも期待)
8.Just Lovin’ You/桐生彩加(これがないと物足りなくなってきた)
9.HANG Uo/Super Bubblez(新レパートリー)
第2部
ゲスト1.AREA.(CD発売!)
チャ・チャ・チャ・ラブソング(ジュニアダンサーたちと共に!)
ゲスト2.H@chi(MCの自然さでアイドル度UP!)
ココロのちず(BOYSTYLE)
好き(ちゃりんこのH@chiバージョン)
ゲスト3.ミューズ(マリナの足腰は大丈夫か?)
好きと言いなさい(大阪では初披露)
満月の夜に迎えに来て

1.King & Queen/プリッツ(ゲストコーナーの次の出番だというのはかなりプレッシャーがあったはず。よくぞつとめた!)
2.センチメタルボーイ/ファッションズ(2人になったファッションズだが、路線変更もありだと思う)
3.Your Song/いちごっ娘(この歌、かなり歌いこんでるなあ。新曲聞きたい)
4.タイムリミット/TOUCH(ダンスはばっちり。貴恵ますます充実。ただし、曲がそんなにいいとは思えないのが惜しい)
5.Garnet Moon/ブラックベリーズ(新レパートリー。こうして新しいレパートリーを聞くと、ブラックベリーズのすごさがよくわかる)

今回はゲストもあったので、ライブ終了後に物販タイムがあった。
ふだんSTSライブで見ないファンの人の顔もちらほら。
商店街のオープンしたてのたこ焼き屋が、朝から行列ができていたようだが、閉店ぎりぎりまで人が並んでいた。いや、すごい。
ISBN:4253053114 新書 板垣 恵介 秋田書店 ¥410
全42巻&外伝。
グラップラー刃牙は今までなぜか読まずにいた。
理由は簡単。
刃牙のモデルとなったとおぼしき格闘家、平直行がそんなに好きではないからだ。
平〜山本kid〜亀田の「やんちゃ軽量」の系譜があまり好きではない。
軽い体重の人間がいくら最強を誇っても、結局ヒョードルには勝てないんじゃないか、というような感じ。
3歳児最強の人間がいたとして、僕はそいつに負ける気がしない。なのに身の程知らずに大口叩いていたら、そいつは馬鹿だ。
この『グラップラー刃牙』には大きくわけて3つの話が収録されている。
バキが地下闘技場の王者であるところからはじまる話。
親子関係を中心にした幼年編。
世界の格闘家が集まる「最大トーナメント」編。
バキの物語を理解するために必要なのは、おそらく父と母とバキを描く幼年編なのだが、面白いのは断然「最大トーナメント」だ。
何故面白いのかといえば、多くの格闘家が出場するため、そのぶんバキの出番が少なくなるからだ。
先日読んだ森達也の本を待つまでもなく、格闘技はある意味、説得力の勝負だ。
バキが強い理由を、僕は最後まで理解できなかった。
体重が軽い、というだけで不利なのだから、それを補ってあまりある強みがどこかにないと、バキが勝てる道はないはずだ。
特別の必殺技があるとか、誰にも真似できない体質的な特徴があるとか。
でも、ない。
あるとしたら、地上最強の父親の血をひいている、というくらいだ。
もしそれだけなら、バキは父を超えることは一生できない。
バキは、「なぜか勝つ」のだ。
その強さはSF的で、バキはまさに人間ではない。
こういうバキみたいな「とにかく強い」奴が、敵として出てくるのはかまわないが、主人公としてはどうなのか。
読者はバキに感情移入したくても不可能だ。
どんなにボロボロにやられていても、バキは一瞬後にはまったくダメージなしに立ち上がり、闘うことができるのだ。これでは応援しようがない。
だから、バキの闘うシーンは、1つ1つの経過を追っても意味がない。オカルト的にとにかく勝ってしまうからだ。そこに理由も必然性もない。なぜバキは勝てたのかと言えば「バキだから」しか答えはなく、そんなことは最初から聞かなくてもわかっており、ならば闘う場面を見る意味もないのだ。
最大トーナメントでは多くの格闘家が、それぞれの看板を背負って闘う。一方、バキは「父を超えたい」というどうでもいい理由で闘っており、その動機のどうでもよさを見ても、闘いに賭ける必然性も薄い。
結局、トーナメントは、バキとその兄、というSFどうしの決勝になる。格闘技も漫画にはかなわない、ということか。
ISBN:4896948238 単行本 藤代 幸一 八坂書房 ¥2,940
中世、ドイツ語圏の「死の舞踏」についての本。
「死の舞踏」は中世後期、宗教改革以前のローマカトリックの支配していたヨーロッパでの現象のこと。
それは絵画と詩の側面からは文化現象、ペストと死の側面からは社会現象ともとれる。
骸骨のような「死」がすべての階級の人に平等におとずれて、彼らの手をとり、踊りにいざなう。
各階級、職業のものは、死ぬことに抵抗するが、死はそれぞれに裁きをくだして、死の輪舞にまきこむのだ。
1424年、パリのフランシスコ修道院、聖イノサンの墓地の壁画にはじまるとされているが、『パリ一市民の日記』によってそれがわかるだけで、壁画そのものは失われている。
死の舞踏の成立には、キリスト教的死生観に基づき、ペストと梅毒と宗教戦争で死が身近にあったことと切り離せない。
以下、目次。
序章
リューベックの章
エアフルトの章
パリの章
バーゼルの章
死についての書二点
ヴュルツブルグの章
ベルリンの章1、2
終章
この本ではフランスでの死の舞踏に数十年遅れてまきおこったドイツ語圏の「死の舞踏」のあとをめぐっている。
タイトルに「旅」とあるように、実際にその地を訪れての紀行文的おもむきもある。
途中、15世紀に書かれたヨハネス・フォン・テープルの『ボヘミアのアッカーマン』とガイラー・フォン・カイザースベルグのドイツ語版『往生術』をもとりあげて中世ヨーロッパの死生観を掘り下げている。また、「ヴュルツブルグの死の舞踏」「ベルリンの死の舞踏」が訳出されており、これは貴重。
「ヴュルツブルグの死の舞踏」は「上部ドイツの死の舞踏」とも呼ばれてきたもので、イノサン墓地に先立つ1350年頃に書かれており、H・ローゼンフェルトによれば最古のテキストになるが、あいにくと、韻文詩のみで、絵がない。
ドイツにおける死の舞踏の成立をなんでもかんでもペストに関連づけようとするローゼンフェルトの説をいなし、また死を主題にした宗教劇からの成立説も留保し、著者はその起源を説教にあるとみる。
この本で翻訳された「ヴュルツブルグの死の舞踏」に顕著な、「プロロークの説教〜死と聖俗の人々との対話〜エピロークの説教」という構造、および、説教壇からはじまる構成などから、それがみてとれるという。
ペストを待つまでもなく、中世ドイツは寒冷地で飢饉が多く、寿命は平均35歳だった。死に対する心がまえを説く説教を人々は渇望しており、それが「死の舞踏」を成立させたという説は、説得力がある。
その心性は、なんだか日本人に近いものがあるように思えるが、逆に、日本的な心性を中世ドイツにあてはめているんじゃないか、という懸念もある。
この本を読んで、はじめて知る事柄が多かったが、なかでも目からウロコだったのは、ホルバインのこと。
「死の舞踏」といえばまっ先にホルバインの絵が思い浮かぶが、ホルバインの描く「死の舞踏」は、中世伝統の「死の舞踏」からの逸脱であり、芸術的表現の観点からは大傑作なのだが、「死の舞踏」本来の意図するところからは、離れているのだ。
ふむふむ。
ISBN:4794966962 単行本 吉田 司 晶文社 ¥1,995
小泉圧勝政権のまとめから、戦後60年の総括。
第1章 いま直面していることは
1、戦後民主主義のグラウンドゼロ
2、無力なものが独裁者を愛する
第2章 何が変わってしまったのか
3、国のストックを民営化で奪い合う
4、聖なるものを与える天皇の存在
第3章 これまでの60年は何だったのか
5、戦後の出発点をどこに置くか
6、戦後日本の転換点79年
7、バブルが築いた民道楽土
第4章 われわれはどこに行こうとしているのか
8、バブル崩壊からオウム、北朝鮮へ
9、日本のネオコンが想定した朝鮮有事
10、そして、憲法9条は。

姜尚中は日本と北朝鮮の関係をいいものにしたいと以前からずっと言い続けている。
吉田司は満州を視野にいれた戦後論を展開する。
時間も空間も目先だけにとらわれず、大きく長い視点からの考えを推しているのだ。
出版は今年の2月だが、対談は去年のもので、今読むと予言の当たりはずれがわかって面白い。
当時は小泉内閣だったが、安倍晋三についても語っている部分がある。

安倍は2002年早稲田大学の講演で
「憲法上は原子爆弾だって問題ではないですからね。小型であれば」
と発言しているらしい。(サンデ−毎日2002年6月2日号)
そして
「現実的に日本は世界最大量のプルトニウムを備蓄していますね。それから濃縮ウラン」
「日本ほどの技術力があって、大量のプルトニウムと濃縮ウランを持っていれば、いつでも核に転用できる」
と論をすすめて、たとえば米中関係が敵対的になった場合には、アメリカが日本が核を持つことにオーケーを出すだろう、と予測する。
「それこそ非核三原則がどうなるかによるでしょうけど」
「安倍晋三さんの政権になったらわかりませんよ(笑)」
なーんて言ってる。ゾゾー。
さらに、こんなことも。
「いま北朝鮮ばかりが問題になっていますが、じつはIAEAの核査察のかなりのエネルギーは日本に注がれています」
そりゃそうだろう。
つい最近、してもいないのに号外で北朝鮮が核実験したと誤報が飛んだ。
既に有事扱いする論調も形成されつつある。
人の命をなんだと思っているのか。
DVD ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント 2006/12/06 ¥3,990
招待券をいただきました。
ISBN:4004309697 新書 香山 リカ 岩波書店 ¥735
香山リカの歯がゆい思いがビンビン伝わってくる。

一方、日本橋ではペロペロキャンディーズのポンバシジャック。
メイド喫茶などを巡ったらしい。
僕が見たのは信長書店の店頭だったが、もっと歌うなり踊るなりビラ配りするなりしてアクションしないと、道行く人には伝わらなかったんじゃないか、と思った。プラカード持って、せめて名前だけでも覚えてもらうとか。
とにかく、もっと場数をふんで、アピールしてくれる機会が増えると、僕もうれしい。
ISBN:4088734831 コミック 荒木 飛呂彦 集英社 ¥410
日記書けないのには理由がある。
DVD AMGエンタテインメント 2005/08/26 ¥3,990
日記がかけな〜い
ISBN:4004309824 新書 森 達也 岩波書店 ¥819
今日は中央公会堂で中之島リバーサイドフェスティバルの一環で「世界のお祭り広場」を開催していたので、見に行った。
タイ王国民族舞踊団
スターアカデミー大阪校
阿波踊りなにわ連
関西新舞踊協会
四條畷学園高等学校吹奏楽部
国立レダ民族舞踊団
永廣孝山&箏アンサンブルファンタジア
のプログラム。
スターアカデミーのダンスが目当てで行ったのだが、それを目的として見に来たのは、おそらく僕ひとりだけだったんじゃないか、と思うほど、アウェーの気分が漂った。
客席の年齢層が高すぎるのだ。
ちょっと若い人がいるかと思ったら、吹奏楽部が終わったら帰っていった。
スターアカデミーのダンスは老人には理解できそうにもないもので、頭をかかえてしまった。
外国から来た民族舞踊も、特別にダンスの技術が長けているわけではないのだが、スターアカデミーの子らのダンスはそれに劣らず、まだまだ練習中、という匂いがした。
なお、スタッフとして働いている21世紀協会のハッピを着たおじさんたちも、素人くさくて、「世界のお祭り広場」と呼ぶにふさわしくなく、ハッピを脱いだらネクタイしめているんじゃないか、と思わせる、ガチガチの石頭たちに見えた。(偏見)

さて、今日読んだ本は森達也の『悪役レスラーは笑う』で、これは面白かった。
グレート東郷の謎を追い掛けるミステリードキュメンタリーとしてよく出来ているだけでなく、昔の日本のプロレスについてもよくわかる仕組みになっている。
グレート東郷はアメリカでは「卑劣なジャップ」として、日本では「売国奴」として悪役をはったプロレスラーだ。
グレート東郷とブラッシーとの試合を見ていた老人がショック死した事件で有名。
「空手バカ一代」では作中人物にこんなことを言わせている。
「国辱的なサルしばいで巨万の富をかせぐ」
「祖国日本の血を金のために悪魔に売り渡した」
グレート東郷の謎とは、プライベートでも彼のことをよく言う人がおらず、「ケチ」だの「守銭奴」だの呼ばれていたのに、なぜか力道山はグレート東郷に全幅の信頼を寄せていたのだ。
それはいったいなぜなのか?
そして、グレート東郷の母親が中国人だった情報がもたらされるにいたって、奇妙なナショナリズムの姿があらわになる。
昔の日本人は、力道山がシャープ兄弟を空手チョップでたたきのめす姿を見て熱狂し、愛国心に燃えたのだ。
日本のプロレスに次々と強いレスラーを送り込んでプロレス界を盛り上げてきたのが、他ならぬ東郷だった。
日本の愛国心昂揚に功績のあった2人のプロレスラーの祖国は、北朝鮮と中国だったのだ。
ところが、この「グレート東郷の母が中国人」という情報の真偽を追うなかで、虚実の迷宮のなかに著者はさまようことになる。
生まれた年にも2つの説があるのだ。
当時を知る者、プロレスの生き証人がそれぞれ違うことを言い出す。
まさに、プロレス的!
ISBN:4073069632 文庫 古橋 秀之 メディアワークス ¥536
格闘ゲームノベル。
10年くらい格闘ゲームから離れていて、つい最近ゲームセンター行ってみたら、まだまだ格闘ゲームに熱中している層は健在だった。
そのフロアーだけがはっきりと温度が高くてびっくりした。
この『ソリッドファイター』はバーチャファイターに熱中していた頃の青春編で、『ブラックロッド』に見られた作者のゲーム好きな面が如実にあらわれている。
主人公はバイトでバグチェックしている高校生。
格闘ゲームならではの用語が飛び交い、現役ではない僕にはとても懐かしい思いがした。
ゲームでのおとしまえをゲームでつける、徹底的なゲーム小説なので、あとがきで「三部作」をうたっていても、その後が続かなかったのもよくわかる。
この1冊でやりたいことはだいたいやりつくしているような気がするからだ。
もしも続編があるとすれば、実際のゲームの世界でコンボだキャンセルだつかみだ打打打蹴だ云々とはまた違う用語がとびかう展開をしたときだろう。
僕はあいにくとアーケードで格闘ゲームをすることはなくなったので、そのあたりの事情は知らないが、ゲームセンターをのぞいて見たかぎりにおいては、昔のゲームシステムと大きく変わりはないように見えた。
どうなんでしょう、詳しい人、教えて。
秋山瑞人の『ミナミノミナミノ』を読んだ。
あとがきで、『イリヤの空、UFOの夏』みたいなのを書けと言われて書いた、と裏話が暴露されているが、まさに、『イリヤ』的なお話。
夏休み、謎の少女とのボーイミーツガール。
この話、一応「次巻につづく」で終わっており、この1冊にはいろんな要素をばらまいただけで、まだ本筋は始まっていないように思える。
ところが、この本、1年半以上前に出版されており、続きが出ていない。
よって、ネタバレしてしまおう。本筋はまだだし。
主人公の少年、武田正時は中学3年生にして、8回の転校を経験している。
「通りすがりのプロ」とも「筋金入りのよそ者」とも呼ばれる。
彼は夏休みを岬島で過ごすことになる。
この「岬島」という謎もへったくれもなさそうな島が、謎だらけなのだ。
岬島に渡るために立ち寄った守人島(こっちの方がいわくありげ)では、岬島のことを「蟹喰い島」と呼んで忌み嫌っている。その由縁はわからない。
岬島の人々の名前は、南島的なエキゾチックな名前がついている。
左吏部真琴(さりべ・まこと)は正時の父の妹の夫の弟の娘で、中学生。
正時は左吏部冩眞館にお世話になる。
加梨津部姉子(かりつべ・あねこ)はひそかにピストルを隠しもつ女医。
そして、謎の少女、秦納舞部春留(しんのうまいべ・はる)
春留は島民からおそれられ、嫌われている。
「筋金入りのよそ者」正時と、謎の少女春留との物語、が、はじまる、のだろう。この本だけではまだあまり進展はない。
で、いきなりネタバレだが、この岬島の住人が、600年前に地球にやってきたエイリアンの末裔たちだったことが明らかになって、以下次巻。
わりと、予想どおりの設定だった。
春留は友人がおらず、正時と友人になろうとして、自分の秘密をみせる。それは超常能力だったのだが、それを見た正時は友人になるもへちまもなく、逃げ出してしまう。
こういう思春期ノベルの定番「主人公は、まず逃げる」が適用されている。
これが、のちに「主人公は、受け入れる」や「立ち向かう」を経て、物語はおさまるはずだが、どうも作者自身、甘い話よりもドンパチやりたそうなので、南の楽園は破壊されつくしてしまうんだろうなあ。
「ミナミノミナミノ」が「southern2」(さんざん)という意味じゃないのか、と疑いたくなってきた。

MOTHER3

2006年10月3日 ゲーム
9月後半から、かかりっきりだったのが、この「MOTHER3」
やっとのことで終了。
ゲームをクリアするだけなら、もっと早く終われたのだろうが、早くクリアすることにまったく意味がないゲームで、さらに言えば、レベル上げて強くすることとか、戦いまくること、敵を倒すことなど、行け行けドンドン武闘派的発想が通用しないゲームだった。
これは現実の社会を反映しているもので、きわめて大人の発想が貫かれた、いいゲームだと思った。
ハリウッド的なカタルシスはないけど、じゅうぶんにハッピーエンドで、途中で何度も感動させられた。
クライマックスからエンディングの長さは、目を離せなくて困った。
また「たたかいのきおく」と題する、出会った敵が図鑑のように見れる項が面白かった。
それぞれの敵の解説がどれもこれも面白くて、言葉のもつ力すら感じさせた。
僕の近年のテーマは「双生児」にあって、おりにふれて双生児ネタの小説や映画を好んで見るようにしているが、このゲームも双生児ネタだった。
アーケードでは毎日のように「キラキラアイドルリカちゃん」をしていて、アイドル曲を3曲聞いているけど、この「マザー3」も音楽が渋かった。そんなに渋い音楽にしなくてもいいのに、と思うほど、大人の渋さを感じさせた。
さて、次は何のゲームをプレイしようかな?

< 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 >

 

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索