名探偵コナン〜天国へのカウントダウン〜
2006年10月2日 映画
「名探偵コナン〜天国へのカウントダウン〜」を見た。2001年
人気投票で1位だったという劇場版。
この映画、以前にも見たことがあったが、内容はほとんど忘れていた。
ただ、犯人と犯行の動機は見ているうちに思い出した。
「そんなアホな」と言いたくなるような殺人の動機なのだが、見ているあいだは特に違和感がなかった。
謎解き以外のアクションやスリルとサスペンスに満ちた展開など、なるほど、これは1位かな、と思った。
楽しい部分がちゃんと楽しく描かれていたのもいい。
さて、覚書として、ネタバレを書いておこう。
殺人の動機は、富士山の景観を損ねたこと。
うひゃー!
人気投票で1位だったという劇場版。
この映画、以前にも見たことがあったが、内容はほとんど忘れていた。
ただ、犯人と犯行の動機は見ているうちに思い出した。
「そんなアホな」と言いたくなるような殺人の動機なのだが、見ているあいだは特に違和感がなかった。
謎解き以外のアクションやスリルとサスペンスに満ちた展開など、なるほど、これは1位かな、と思った。
楽しい部分がちゃんと楽しく描かれていたのもいい。
さて、覚書として、ネタバレを書いておこう。
殺人の動機は、富士山の景観を損ねたこと。
うひゃー!
内藤ルネトークショー、ダンシングBANANA
2006年9月30日 アイドルイメージ・ファクトリー―日本×流行×文化
2006年9月25日 読書
ドナルド・リチーの『イメージ・ファクトリー』を読んだ。
存分に茶化しの入った日本文化論。
以下、各章ごとの面白スポット。
1.イメージ産業
日本でイメージ産業が特異な成功を収めていることについて書かれている。
ロバート・マクニールのアメリカ文化論を援用して、TVと漫画について、こう語る。
「咀嚼のし易さこそが最も重要なのであり、複雑さは忌避すべきもので、微細なニュアンスは重要ではなく、洗練は単純なメッセージを妨げ、視覚的刺激が思考の代替物となり、言葉の厳密さなどはアナクロニズムとなる」
「TVは懐柔的雰囲気を好み、如何なるものであれ内容を和らげることを得意とする」
この引用部分は、まあ、そうかな、と思わせるものだが、リチーがそれに続ける文章が、ひとを喰っている。
「これはまた、日本においてTVが速やかに受け入れられ、かつそれに依存するようになったもうひとつの理由であろう。日本は懐柔を国是としているような国だからである」
2.ファッションの言語
この章では輸入ファッションに対する日本人の文盲ぶりがこれでもかと述べられる。
たとえば、ジーンズは本来ラディカルで革命的なメッセージをもつものだった。(われわれは着飾ることをしない、エリート主義打倒、文明打倒など)
それが日本に入ると社会的宥和のメッセージに変わる。(われわれは体制に従う、われわれは波風を立てたりしない、など)
日本人が西洋のファッションを誤解して身に纏い、同時にそれにまったく満足せずにすぐに飽きてしまう現状を紹介したうえで、リチーはこう言う。
「日本人が完全に慣れ親しみ、自然に着ることができるようになった唯一の洋服は、制服である」
そして、こう結論づける。
「日本人が洋服を着て本当に寛ぐことができるのは、それが何らかの意味で制服的である場合だけなのだ」
強制と検閲を受けたとしても、自分が定義されることを望むのである。
3.カワイイ−愛らしさの王国
可愛らしさの氾濫について書かれる。
愚鈍で無害で、没コミュニケーションで子供っぽい日本人が描かれる。
サンリオがかつてこんなレポートを出しているそうだ。
「日本で5歳から既婚女性にまで売れている商品は、アメリカなら4歳から7歳までの幼女にしか売れないだろう」
4.セックス・バザール
日本の性産業が他国に比較して効率的な商売として成立していることが語られる。
セックス産業の25%がラブホテル(セックスする場所の提供)で占められている日本独自の傾向も明らかになる。
5.娯楽の選択肢
日本では負の時間とされていた非労働時間をいかに使うかに苦心する日本人。
休みにかえって疲労を蓄積させてしまう日本人特有の現象が語られる。
その原因として、休日をいかに消費するかを自分で決断せねばならない消耗的課題としてとらえているせいだと言ってる。
6.マンガ・カルチュア
漫画人気の背後にある文盲性をつく。
日本人の識字率は高いというが、その基準はきわめて低く、高校を出た者でもたった数千字の漢字しか読めず、三島由紀夫の本などには歯が立たない、と。
7.パチンコ
戦後、日本は多くの点で目覚ましく発展したが、例外があった。
人々の存立の基盤にあった確かなものが失われ、戦後世界はそれの代替物を用意できなかったのだ。
かくして、19世紀の最悪の工場を想起させる騒音と空気の悪さと人間どうしのコミュニケーションのないパチンコ店に人々は集まり、原色の曼陀羅(パチンコ台)に相対して宗教的儀式めいた機械的労働で時間をつぶすのだ。
また、パチンコ店のオーナーが通常朝鮮人であり、「パチンコは日本人による長期的かつ悲惨な朝鮮半島支配に対する復讐であるとも言われる」なんて、まことしやかに書いているのが、これまた人を喰っている。
8.ケータイ電話
「ケータイを使う人を見よ。あるいはそれは逆で、ケータイが彼を使っているのだろうか。人は常にその機械に話しかけているか、あるいはそれを見つめているか、注意深く調べている−メールが来たかどうか、そして、自分たちが、個性的でありつつ、孤独ではないことを確認している」
「寸暇を見ては、ポケットや鞄から電話を出す。奇妙なほど真剣な表情で。これは単なるコミュニケーションの機械ではない。それは導師(グル)であり、高次の権威なのである」
9.コスプレ
「服装によって個人が規定される日本では、他人になることがコスプレの最大の魅力である」
10.ニセ外人
日本人離れをめざし、ミニ導師を見つけてバービー化し、ニセ外人としてアイデンティティを求める日本人。
原書が2003年に発表されているため、厚底靴だのカリスマ店員などの懐かしい言葉も出てくるが、たかが3年でこれらの風俗が懐かしく思えてしまう、ファッションの飽きられ方の早さも実感できた。
ドナルド・リチーは、この本が出たとき79才。日本の若者を面白がって観察している様子が手に取るようにわかる、なんだかほのぼのとした1冊だった。
存分に茶化しの入った日本文化論。
以下、各章ごとの面白スポット。
1.イメージ産業
日本でイメージ産業が特異な成功を収めていることについて書かれている。
ロバート・マクニールのアメリカ文化論を援用して、TVと漫画について、こう語る。
「咀嚼のし易さこそが最も重要なのであり、複雑さは忌避すべきもので、微細なニュアンスは重要ではなく、洗練は単純なメッセージを妨げ、視覚的刺激が思考の代替物となり、言葉の厳密さなどはアナクロニズムとなる」
「TVは懐柔的雰囲気を好み、如何なるものであれ内容を和らげることを得意とする」
この引用部分は、まあ、そうかな、と思わせるものだが、リチーがそれに続ける文章が、ひとを喰っている。
「これはまた、日本においてTVが速やかに受け入れられ、かつそれに依存するようになったもうひとつの理由であろう。日本は懐柔を国是としているような国だからである」
2.ファッションの言語
この章では輸入ファッションに対する日本人の文盲ぶりがこれでもかと述べられる。
たとえば、ジーンズは本来ラディカルで革命的なメッセージをもつものだった。(われわれは着飾ることをしない、エリート主義打倒、文明打倒など)
それが日本に入ると社会的宥和のメッセージに変わる。(われわれは体制に従う、われわれは波風を立てたりしない、など)
日本人が西洋のファッションを誤解して身に纏い、同時にそれにまったく満足せずにすぐに飽きてしまう現状を紹介したうえで、リチーはこう言う。
「日本人が完全に慣れ親しみ、自然に着ることができるようになった唯一の洋服は、制服である」
そして、こう結論づける。
「日本人が洋服を着て本当に寛ぐことができるのは、それが何らかの意味で制服的である場合だけなのだ」
強制と検閲を受けたとしても、自分が定義されることを望むのである。
3.カワイイ−愛らしさの王国
可愛らしさの氾濫について書かれる。
愚鈍で無害で、没コミュニケーションで子供っぽい日本人が描かれる。
サンリオがかつてこんなレポートを出しているそうだ。
「日本で5歳から既婚女性にまで売れている商品は、アメリカなら4歳から7歳までの幼女にしか売れないだろう」
4.セックス・バザール
日本の性産業が他国に比較して効率的な商売として成立していることが語られる。
セックス産業の25%がラブホテル(セックスする場所の提供)で占められている日本独自の傾向も明らかになる。
5.娯楽の選択肢
日本では負の時間とされていた非労働時間をいかに使うかに苦心する日本人。
休みにかえって疲労を蓄積させてしまう日本人特有の現象が語られる。
その原因として、休日をいかに消費するかを自分で決断せねばならない消耗的課題としてとらえているせいだと言ってる。
6.マンガ・カルチュア
漫画人気の背後にある文盲性をつく。
日本人の識字率は高いというが、その基準はきわめて低く、高校を出た者でもたった数千字の漢字しか読めず、三島由紀夫の本などには歯が立たない、と。
7.パチンコ
戦後、日本は多くの点で目覚ましく発展したが、例外があった。
人々の存立の基盤にあった確かなものが失われ、戦後世界はそれの代替物を用意できなかったのだ。
かくして、19世紀の最悪の工場を想起させる騒音と空気の悪さと人間どうしのコミュニケーションのないパチンコ店に人々は集まり、原色の曼陀羅(パチンコ台)に相対して宗教的儀式めいた機械的労働で時間をつぶすのだ。
また、パチンコ店のオーナーが通常朝鮮人であり、「パチンコは日本人による長期的かつ悲惨な朝鮮半島支配に対する復讐であるとも言われる」なんて、まことしやかに書いているのが、これまた人を喰っている。
8.ケータイ電話
「ケータイを使う人を見よ。あるいはそれは逆で、ケータイが彼を使っているのだろうか。人は常にその機械に話しかけているか、あるいはそれを見つめているか、注意深く調べている−メールが来たかどうか、そして、自分たちが、個性的でありつつ、孤独ではないことを確認している」
「寸暇を見ては、ポケットや鞄から電話を出す。奇妙なほど真剣な表情で。これは単なるコミュニケーションの機械ではない。それは導師(グル)であり、高次の権威なのである」
9.コスプレ
「服装によって個人が規定される日本では、他人になることがコスプレの最大の魅力である」
10.ニセ外人
日本人離れをめざし、ミニ導師を見つけてバービー化し、ニセ外人としてアイデンティティを求める日本人。
原書が2003年に発表されているため、厚底靴だのカリスマ店員などの懐かしい言葉も出てくるが、たかが3年でこれらの風俗が懐かしく思えてしまう、ファッションの飽きられ方の早さも実感できた。
ドナルド・リチーは、この本が出たとき79才。日本の若者を面白がって観察している様子が手に取るようにわかる、なんだかほのぼのとした1冊だった。
制服向上委員会生誕14年祭
2006年9月24日 アイドルこまばエミナースで、制服向上委員会の生誕14年祭。
この日は、同時に制服向上委員会自身の卒業式でもあった。
つまり、この日をもって、制服向上委員会の活動に終止符が打たれるのだ。
以下、後日。
この日は、同時に制服向上委員会自身の卒業式でもあった。
つまり、この日をもって、制服向上委員会の活動に終止符が打たれるのだ。
以下、後日。
ミオ写真奨励賞2006
2006年9月23日 趣味天王寺のMIOホールで、ミオ写真奨励賞2006入賞者作品展が開催されている。
初日の今日は審査員ギャラリートークと授賞式が行われた。
なんとグランプリをとったのは、以前、僕のライブにも出演してもらったことのある高西知泰くんだった。
海外からの応募者も多数あるなかでのグランプリは快挙というしかない。
モノクロームの作品がやはり目立った。
光と影で成立している写真芸術だけに、テーマがより鮮明になるせいか。
僕が見るところ、モノクロームの写真は、現実を映しているようで、現実でない、何やら夢のような、寓意を含んだ世界に見えてしまう。
これはひょっとしたら、幼いときに白黒テレビを見ていた世代の感覚なのかもしれない。
生まれたときからカラーテレビとカラー写真で育った世代に、モノクロームがどのような位置付けにあるのか、ちょっと興味がある。長じて後、先人のモノクローム作品によって「文化」化されでもしないと、そもそもモノクロームの発想そのものが出てきにくいんじゃないか、と思うからだ。
さて。
初日の今日は審査員ギャラリートークと授賞式が行われた。
なんとグランプリをとったのは、以前、僕のライブにも出演してもらったことのある高西知泰くんだった。
海外からの応募者も多数あるなかでのグランプリは快挙というしかない。
モノクロームの作品がやはり目立った。
光と影で成立している写真芸術だけに、テーマがより鮮明になるせいか。
僕が見るところ、モノクロームの写真は、現実を映しているようで、現実でない、何やら夢のような、寓意を含んだ世界に見えてしまう。
これはひょっとしたら、幼いときに白黒テレビを見ていた世代の感覚なのかもしれない。
生まれたときからカラーテレビとカラー写真で育った世代に、モノクロームがどのような位置付けにあるのか、ちょっと興味がある。長じて後、先人のモノクローム作品によって「文化」化されでもしないと、そもそもモノクロームの発想そのものが出てきにくいんじゃないか、と思うからだ。
さて。
中世英語版 薔薇物語
2006年9月22日 読書
『薔薇物語』3日めは、ジェフリー・チョーサーの『中世英語版・薔薇物語』
ギヨーム・ド・ロリスとジャン・ド・マンによる原書を中期英語で翻訳したもの(を、日本語に翻訳したもの)。
以下、翻訳者瀬谷幸男による小見出し。
前編(ギヨーム・ド・ロリス)
「断片A」
1.詩人の夢
2.詩人は彫像のある庭園の城壁に来る
3.詩人は「悦楽」の園に入る
4.詩人と「悦楽」の園の仲間との出会い
5.「愛の神」の追跡
6.詩人は「ナルキッソス物語」をかたる
7.詩人は「薔薇」との恋に陥る
「断片B」
8.「愛人」は「愛の神」と臣従の誓いを立てる
9.「愛人」は「愛の神」の掟を知る
10.「愛人」は恋の苦しみを知る
11.「愛人」は恋の苦しみを癒す術を知る
12.「歓待」が「愛人」を励ます
13.「拒絶」が「愛人」を脅し「歓待」を遠ざける
14.「理性」が「愛人」に「愛の神」を避ける忠告をする
15.「愛人」は「友人」を得る
16.「典雅」と「同情」が「愛人」のため仲裁に入る
17.「愛人」は「薔薇の蕾」との接吻に成功する
18.「悪口」が「嫉妬」を起こし「愛人」を攻撃させる
19.「嫉妬」は城を建て「歓待」と「薔薇」を幽閉する
後編(ジャン・ド・マン)
20.「愛人」は絶望する
21.「理性」が再び「愛人」を訪ねる
22.「理性」が「青春」と「老年」の比較をする
23.「理性」が友情を定義する
24.「理性」は「運命の車輪」についてかたる
25.「理性」が真の幸福とは何かを説く
「断片C」
26.「愛の神」の直臣たちが総攻撃を企てる
27.「愛の神」は欺瞞の手管を説く「見せ掛け」の奉仕を受ける
28.「見せ掛け」は托鉢僧が司祭を出し抜く次第を説く
29.「見せ掛け」は自らの策略を説き托鉢生活を糾弾する
30.「見せ掛け」は許される托鉢生活を説き、自らの本性を明かす
31.「見せ掛け」と「強制禁欲」が使者として「悪口」を訪ねる
以上。
後編のジャン・ド・マンの部分は大幅な抄訳になっていて、例の「きんたま論争」のくだりはカットされている。
チョーサーが前編の騎士道的な女性崇拝と愛の形を重視していたことがちょっと意外だった。
『カンタベリ−物語』をちゃんと読んでなくて、映画でしか知らない僕の偏見なのだろうが、チョーサーはむしろ後編のジャン・ド・マンの描く赤裸々な恋愛の形、批判精神に満ちた描写を好むような気がしていたからだ。
この日本語訳も、篠田バージョンと同様に、詩の形をとっておらず、散文になっている。
篠田氏は、翻訳では韻もふめず、原詩の1行をそのまま日本語での1行におさめるのも困難かつ無意味として、散文での翻訳をした旨、あとがきで書いていた。
よくわかる。
だが、つまらない。
『薔薇物語』は詩作品だ。チョーサーも韻文で英訳しており、そこが詩人の腕のみせどころになっている。散文訳では、その面白さが伝わってこないのではないだろうか。
『奥の細道』を詩や俳句の形を採用せず、だらだらと散文で書き直したものを想定すればよくわかる。「何を言っているか」を正しく伝えられても、それは『奥の細道』の面白さをまったく伝えていない。
『鉄腕アトム』を文章だけで表現しても、それは『鉄腕アトム』そのものの面白さを伝えられない。
(だから、オタクの人がノヴェライズ読んで実際にアニメ見ずに「ガンダム」語ろうとするような心情が僕にはまったく理解できないのだ。とても不思議だ)
篠田版の『薔薇物語』が『薔薇物語』の世界をより正しく、より深く知ることができるとしても、読んだときの面白さでは、見目版の方が圧倒的に上だった。見目誠氏が、自身詩人であるせいだろう。
篠田版は『薔薇物語』というよりも『薔薇物語事典』なのだ、と僕は思った。
で、僕のような研究者でも学生でもなく、ただ面白い本を読みたい一般の読者にとっては、見目版の『薔薇物語』を断然おすすめしたい。そして、『薔薇物語』の面白さを堪能してから、興味が湧けば篠田版事典でいろいろ補ったりするのがいいと思う。さもなければ、篠田版から読みはじめても、おそらくは読了できないのではないか、と思われる。
先日読んだ『闇を讃えて』の「序」でボルヘスはこう書いている。
「詩行の印刷上の形態は、リズムの彼方で、読者に伝えようとするのが情報でも論証でもなく、詩的感情なのだと表明しているのだ」
かえすがえすも、篠田版の『薔薇物語』が詩でなかったことを悔やんでしまう。
ギヨーム・ド・ロリスとジャン・ド・マンによる原書を中期英語で翻訳したもの(を、日本語に翻訳したもの)。
以下、翻訳者瀬谷幸男による小見出し。
前編(ギヨーム・ド・ロリス)
「断片A」
1.詩人の夢
2.詩人は彫像のある庭園の城壁に来る
3.詩人は「悦楽」の園に入る
4.詩人と「悦楽」の園の仲間との出会い
5.「愛の神」の追跡
6.詩人は「ナルキッソス物語」をかたる
7.詩人は「薔薇」との恋に陥る
「断片B」
8.「愛人」は「愛の神」と臣従の誓いを立てる
9.「愛人」は「愛の神」の掟を知る
10.「愛人」は恋の苦しみを知る
11.「愛人」は恋の苦しみを癒す術を知る
12.「歓待」が「愛人」を励ます
13.「拒絶」が「愛人」を脅し「歓待」を遠ざける
14.「理性」が「愛人」に「愛の神」を避ける忠告をする
15.「愛人」は「友人」を得る
16.「典雅」と「同情」が「愛人」のため仲裁に入る
17.「愛人」は「薔薇の蕾」との接吻に成功する
18.「悪口」が「嫉妬」を起こし「愛人」を攻撃させる
19.「嫉妬」は城を建て「歓待」と「薔薇」を幽閉する
後編(ジャン・ド・マン)
20.「愛人」は絶望する
21.「理性」が再び「愛人」を訪ねる
22.「理性」が「青春」と「老年」の比較をする
23.「理性」が友情を定義する
24.「理性」は「運命の車輪」についてかたる
25.「理性」が真の幸福とは何かを説く
「断片C」
26.「愛の神」の直臣たちが総攻撃を企てる
27.「愛の神」は欺瞞の手管を説く「見せ掛け」の奉仕を受ける
28.「見せ掛け」は托鉢僧が司祭を出し抜く次第を説く
29.「見せ掛け」は自らの策略を説き托鉢生活を糾弾する
30.「見せ掛け」は許される托鉢生活を説き、自らの本性を明かす
31.「見せ掛け」と「強制禁欲」が使者として「悪口」を訪ねる
以上。
後編のジャン・ド・マンの部分は大幅な抄訳になっていて、例の「きんたま論争」のくだりはカットされている。
チョーサーが前編の騎士道的な女性崇拝と愛の形を重視していたことがちょっと意外だった。
『カンタベリ−物語』をちゃんと読んでなくて、映画でしか知らない僕の偏見なのだろうが、チョーサーはむしろ後編のジャン・ド・マンの描く赤裸々な恋愛の形、批判精神に満ちた描写を好むような気がしていたからだ。
この日本語訳も、篠田バージョンと同様に、詩の形をとっておらず、散文になっている。
篠田氏は、翻訳では韻もふめず、原詩の1行をそのまま日本語での1行におさめるのも困難かつ無意味として、散文での翻訳をした旨、あとがきで書いていた。
よくわかる。
だが、つまらない。
『薔薇物語』は詩作品だ。チョーサーも韻文で英訳しており、そこが詩人の腕のみせどころになっている。散文訳では、その面白さが伝わってこないのではないだろうか。
『奥の細道』を詩や俳句の形を採用せず、だらだらと散文で書き直したものを想定すればよくわかる。「何を言っているか」を正しく伝えられても、それは『奥の細道』の面白さをまったく伝えていない。
『鉄腕アトム』を文章だけで表現しても、それは『鉄腕アトム』そのものの面白さを伝えられない。
(だから、オタクの人がノヴェライズ読んで実際にアニメ見ずに「ガンダム」語ろうとするような心情が僕にはまったく理解できないのだ。とても不思議だ)
篠田版の『薔薇物語』が『薔薇物語』の世界をより正しく、より深く知ることができるとしても、読んだときの面白さでは、見目版の方が圧倒的に上だった。見目誠氏が、自身詩人であるせいだろう。
篠田版は『薔薇物語』というよりも『薔薇物語事典』なのだ、と僕は思った。
で、僕のような研究者でも学生でもなく、ただ面白い本を読みたい一般の読者にとっては、見目版の『薔薇物語』を断然おすすめしたい。そして、『薔薇物語』の面白さを堪能してから、興味が湧けば篠田版事典でいろいろ補ったりするのがいいと思う。さもなければ、篠田版から読みはじめても、おそらくは読了できないのではないか、と思われる。
先日読んだ『闇を讃えて』の「序」でボルヘスはこう書いている。
「詩行の印刷上の形態は、リズムの彼方で、読者に伝えようとするのが情報でも論証でもなく、詩的感情なのだと表明しているのだ」
かえすがえすも、篠田版の『薔薇物語』が詩でなかったことを悔やんでしまう。
ギヨーム・ド・ロリスとジャン・ド・マンによる『薔薇物語』篠田勝英訳バージョンを読んだ。
見目誠版の1年後に出版されている。篠田版は、カラー口絵にフランス語写本からの図版が多数使われており、訳注も2段組で100ページ以上、巻末には索引と書誌がつけられている。(見目版の翻訳については全く触れられていない)解説も40ページ以上あり、『薔薇物語』研究に関しては、こっちの方が役に立ちそうだ。
原書にも見目版にもついていなかった章立てを書き留めておこう。
読んでいる最中、あまりの長広舌で、誰が何をしゃべっているのか頭がボーッとなってわからなくなることが多々あったので、これは便利。なお、括弧の中は、僕が勝手に書いた補足。
前篇
1、「悦楽」の園
夢と現実−わたしの夢
五月の朝
壁の肖像
「憎悪」と「悪意」
「下賤」
「貪婪」
「強欲」
「羨望」
「悲哀」
「老い」
「偽信心」
「貧困」
壁のなかの庭園
「閑暇」
「悦楽」の園
庭園のなかへ
カロールを踊る人々
「歓喜」
「礼節」、「悦楽」と「歓喜」
「愛の神」
「優しい姿」−二本の弓と十六本の矢
「美」
「富」
「鷹揚」
「気高さ」
「礼節」
「閑暇」
「若さ」
2、ナルシスの泉−「愛の神」の教え
庭園の奥へ
ナルシスの泉
二顆の水晶
薔薇の蕾
矢を放つ「愛の神」
降伏−臣下の誓い
心の鍵
「愛の神」の掟
第一の掟(下賤を遠ざけろ)
第二の掟(他人について黙っていた方がよいことはしゃべるな)
第三の掟(自分から挨拶しろ)
第四の掟(汚い言葉使いをするな)
第五の掟(あらゆる女性を敬い、奉仕せよ)
第六の掟(高慢をいましめよ)
第七の掟(優雅であれ。手を洗え、歯をみがけ、男は化粧するな)
第八の掟(楽しみや気晴らしに専念せよ)
第九の掟(気前よくしろ)
第十の掟(心を愛に集中させろ)
愛の苦しみ
「愛の神」の贈物
3、薔薇の蕾をめぐって
「歓待」登場
「拒絶」登場
「理性」の説得
「友」の忠告
「気高さ」と「憐憫」
「歓待」との再会
「ウェヌス」の力
接吻
急展開
「中傷」
「羞恥」
「嫉妬」
「羞恥」と「小心」、「拒絶」を叱責
「嫉妬」の城
城の防備
塔のなかの「歓待」と「老婆」
恋する人の嘆き
後篇
4、「理性」の勧告
恋する人の嘆き(承前)
「理性」の教え
「愛」とは何か
「わたし」の反論
「愛」の定義−自然の奸計
「若さ」と「老い」
愛・快楽・金銭
「わたし」の反問
さまざまな愛
「友情」
うわべだけの愛
「運命」について
富と貧困
「わたし」の反論
「愛」と「正義」
アッピウスとウェルギニア
愛の放棄・憎しみ
『わたしを愛せよ』
「運命」の住処
「運命」の本性−ネロの例
「運命」の恵み
運命に弄ばれる人々−ネロの例
運命に弄ばれる人々−クロイソスの例
運命に弄ばれる人々−シチリア王マンフレディの例
ホメロスの教え
「言葉と物」論争
5、「友」の忠告
「友」
「中傷」
「老婆」と「嫉妬」
付け届け、泣き落とし
嘆願
「歓待」との接し方
「わたし」の抗議
もうひとつの道−「富」と「貧困」
「友」の体験
贈物の効能
黄金時代(愛が誠実かつ純粋で、貪欲や横取りとは無縁だった時代を語っている)
嫉妬深い夫
結婚の不幸
美の虚しさ
女の狡さ、貪欲
主従関係
黄金時代(隷属も束縛もない自由で平和な時代を語っている)
富と貧困−人類の堕落
女性との付き合い方
6、「愛の神」の軍勢−「見せかけ」の弁明
「富」の守る道
「愛の神」再登場−叱責
「愛」の軍勢の結集
ギヨーム・ド・ロリス
ジャン・ド・マン
攻城計画
「見せかけ」の参加
「見せかけ」の演説−偽善と托鉢修道会
衣服と中身
貧困と生きる糧
物乞いについて
物乞いの禁止
物乞いをめぐる論争
蓄財の実際
「見せかけ」のたくらみ
『永遠の福音書』事件
この世を支配するもの
攻撃準備
「見せかけ」「強制禁欲」VS「中傷」
「禁欲」の説教
「見せかけ」の説教
「中傷」の告解−殺害
7、「老婆」の忠告
「老婆」登場
「見せかけ」の独白
「歓待」への贈物
「老婆」の半生−悔恨
「老婆」の忠告
男の裏切り
女のたしなみ、手練手管
女の自由
牡と牝、男と女
駆け引きの実際
わたしの恋人
「歓待」の心境
「歓待」の決心
8、攻撃開始
「老婆」の手引き
「歓待」との再会
「拒絶」再登場−「歓待」再幽閉
「わたし」の嘆願
「愛」の軍勢の進撃
読者への呼びかけ(作者が、女性蔑視の内容について、自分の考えじゃなくて、全部古典からの引用なんだよ、と、言い訳してる)
総攻撃
「ウェヌス」とアドニス
「ウェヌス」出陣
「ウェヌス」と「愛」の誓約
9、「自然」の告解
「自然」の鍛冶場−種の存続
「死」の追跡
フェニックス
「技芸」の働き
錬金術
「自然」の肖像
ただひとつの過ち
聴罪司祭「ゲニウス」
「ゲニウス」の慰め
秘密保持の大切さ
「自然」の告解
黄金の鎖
天体の運行
天体・体液・運命
運命と自由意志
自由意志と神の予知
運命と天体
偶然と意志
肉体と魂
宿命と自由意志
悟性について
天体と気象
虹と光学
鏡について
幻影について
夢について
彗星について
気高さについて
天体について
「自然」に従うものたち
「自然」に逆らう唯一のもの
「自然」の嘆き
「愛の神」への共感
10、「ゲニウス」の説教
「ゲニウス」、「愛の神」の軍勢のもとへ
「ゲニウス」の説教
家系の存続
悪徳との闘い
「美しい庭園」−群を導く仔羊
ユピテルのしたこと
もうひとつの庭園
ふたつの庭園
「自然」を敬え
11、総攻撃−巡礼
「ウェヌス」の指揮
ピュグマリオンの挿話
巡礼の誓い
「ウェヌス」の松明
巡礼の旅
年取った女との愛
巡礼の成就
以上。
なんだ、なんだ。目次だけでめちゃくちゃ長い。
訳者自身、「通読しにくい」「途中で放り出したくなるかもしれない」とか書いている!
百科全書的な意味合いもある本書は、目次から興味をひいた部分だけを拾い読みしてもかまわないと思う。
僕の興味は、前日にも書いた「きんたま」論争で、本書では「『言葉と物』論争」の項にあたる。篠田バージョンではこんな感じ。
「睾丸(きんたま)」は立派な言葉ですし、わたしは好きです。「睾丸(きんたま)」も「男根(ちんぽこ)」もまったく同様です。これ以上立派な言葉は誰も見たことがありますまい。
と、別の言い方などせず、はっきりと本来の名で呼ぶことを、聖オメールの肉体にかけて言う。ここで引っ張り出された「聖オメール」は、本書が詩なので、韻をふむために使われたようだ。
訳注に、写本によってはこんな文章が付け加えられてある、と翻訳がされている。
これが傑作。
もしわたしが「聖遺物」を「睾丸」と名付けるのを耳にしたら、おまえはこの言葉をとても美しいと思い、讃美するあまりに、いたるところで「睾丸」を拝んで、教会では金銀を嵌め込んだそれに接吻していたことでしょう。
『薔薇物語』の旅は、明日も続く。
今日の日記読んで、『薔薇物語』は未知谷よりも平凡社読んだ方がいいのかな、と思った人もあろうが、僕はちょっと違う意見を持っているのだ。
見目誠版の1年後に出版されている。篠田版は、カラー口絵にフランス語写本からの図版が多数使われており、訳注も2段組で100ページ以上、巻末には索引と書誌がつけられている。(見目版の翻訳については全く触れられていない)解説も40ページ以上あり、『薔薇物語』研究に関しては、こっちの方が役に立ちそうだ。
原書にも見目版にもついていなかった章立てを書き留めておこう。
読んでいる最中、あまりの長広舌で、誰が何をしゃべっているのか頭がボーッとなってわからなくなることが多々あったので、これは便利。なお、括弧の中は、僕が勝手に書いた補足。
前篇
1、「悦楽」の園
夢と現実−わたしの夢
五月の朝
壁の肖像
「憎悪」と「悪意」
「下賤」
「貪婪」
「強欲」
「羨望」
「悲哀」
「老い」
「偽信心」
「貧困」
壁のなかの庭園
「閑暇」
「悦楽」の園
庭園のなかへ
カロールを踊る人々
「歓喜」
「礼節」、「悦楽」と「歓喜」
「愛の神」
「優しい姿」−二本の弓と十六本の矢
「美」
「富」
「鷹揚」
「気高さ」
「礼節」
「閑暇」
「若さ」
2、ナルシスの泉−「愛の神」の教え
庭園の奥へ
ナルシスの泉
二顆の水晶
薔薇の蕾
矢を放つ「愛の神」
降伏−臣下の誓い
心の鍵
「愛の神」の掟
第一の掟(下賤を遠ざけろ)
第二の掟(他人について黙っていた方がよいことはしゃべるな)
第三の掟(自分から挨拶しろ)
第四の掟(汚い言葉使いをするな)
第五の掟(あらゆる女性を敬い、奉仕せよ)
第六の掟(高慢をいましめよ)
第七の掟(優雅であれ。手を洗え、歯をみがけ、男は化粧するな)
第八の掟(楽しみや気晴らしに専念せよ)
第九の掟(気前よくしろ)
第十の掟(心を愛に集中させろ)
愛の苦しみ
「愛の神」の贈物
3、薔薇の蕾をめぐって
「歓待」登場
「拒絶」登場
「理性」の説得
「友」の忠告
「気高さ」と「憐憫」
「歓待」との再会
「ウェヌス」の力
接吻
急展開
「中傷」
「羞恥」
「嫉妬」
「羞恥」と「小心」、「拒絶」を叱責
「嫉妬」の城
城の防備
塔のなかの「歓待」と「老婆」
恋する人の嘆き
後篇
4、「理性」の勧告
恋する人の嘆き(承前)
「理性」の教え
「愛」とは何か
「わたし」の反論
「愛」の定義−自然の奸計
「若さ」と「老い」
愛・快楽・金銭
「わたし」の反問
さまざまな愛
「友情」
うわべだけの愛
「運命」について
富と貧困
「わたし」の反論
「愛」と「正義」
アッピウスとウェルギニア
愛の放棄・憎しみ
『わたしを愛せよ』
「運命」の住処
「運命」の本性−ネロの例
「運命」の恵み
運命に弄ばれる人々−ネロの例
運命に弄ばれる人々−クロイソスの例
運命に弄ばれる人々−シチリア王マンフレディの例
ホメロスの教え
「言葉と物」論争
5、「友」の忠告
「友」
「中傷」
「老婆」と「嫉妬」
付け届け、泣き落とし
嘆願
「歓待」との接し方
「わたし」の抗議
もうひとつの道−「富」と「貧困」
「友」の体験
贈物の効能
黄金時代(愛が誠実かつ純粋で、貪欲や横取りとは無縁だった時代を語っている)
嫉妬深い夫
結婚の不幸
美の虚しさ
女の狡さ、貪欲
主従関係
黄金時代(隷属も束縛もない自由で平和な時代を語っている)
富と貧困−人類の堕落
女性との付き合い方
6、「愛の神」の軍勢−「見せかけ」の弁明
「富」の守る道
「愛の神」再登場−叱責
「愛」の軍勢の結集
ギヨーム・ド・ロリス
ジャン・ド・マン
攻城計画
「見せかけ」の参加
「見せかけ」の演説−偽善と托鉢修道会
衣服と中身
貧困と生きる糧
物乞いについて
物乞いの禁止
物乞いをめぐる論争
蓄財の実際
「見せかけ」のたくらみ
『永遠の福音書』事件
この世を支配するもの
攻撃準備
「見せかけ」「強制禁欲」VS「中傷」
「禁欲」の説教
「見せかけ」の説教
「中傷」の告解−殺害
7、「老婆」の忠告
「老婆」登場
「見せかけ」の独白
「歓待」への贈物
「老婆」の半生−悔恨
「老婆」の忠告
男の裏切り
女のたしなみ、手練手管
女の自由
牡と牝、男と女
駆け引きの実際
わたしの恋人
「歓待」の心境
「歓待」の決心
8、攻撃開始
「老婆」の手引き
「歓待」との再会
「拒絶」再登場−「歓待」再幽閉
「わたし」の嘆願
「愛」の軍勢の進撃
読者への呼びかけ(作者が、女性蔑視の内容について、自分の考えじゃなくて、全部古典からの引用なんだよ、と、言い訳してる)
総攻撃
「ウェヌス」とアドニス
「ウェヌス」出陣
「ウェヌス」と「愛」の誓約
9、「自然」の告解
「自然」の鍛冶場−種の存続
「死」の追跡
フェニックス
「技芸」の働き
錬金術
「自然」の肖像
ただひとつの過ち
聴罪司祭「ゲニウス」
「ゲニウス」の慰め
秘密保持の大切さ
「自然」の告解
黄金の鎖
天体の運行
天体・体液・運命
運命と自由意志
自由意志と神の予知
運命と天体
偶然と意志
肉体と魂
宿命と自由意志
悟性について
天体と気象
虹と光学
鏡について
幻影について
夢について
彗星について
気高さについて
天体について
「自然」に従うものたち
「自然」に逆らう唯一のもの
「自然」の嘆き
「愛の神」への共感
10、「ゲニウス」の説教
「ゲニウス」、「愛の神」の軍勢のもとへ
「ゲニウス」の説教
家系の存続
悪徳との闘い
「美しい庭園」−群を導く仔羊
ユピテルのしたこと
もうひとつの庭園
ふたつの庭園
「自然」を敬え
11、総攻撃−巡礼
「ウェヌス」の指揮
ピュグマリオンの挿話
巡礼の誓い
「ウェヌス」の松明
巡礼の旅
年取った女との愛
巡礼の成就
以上。
なんだ、なんだ。目次だけでめちゃくちゃ長い。
訳者自身、「通読しにくい」「途中で放り出したくなるかもしれない」とか書いている!
百科全書的な意味合いもある本書は、目次から興味をひいた部分だけを拾い読みしてもかまわないと思う。
僕の興味は、前日にも書いた「きんたま」論争で、本書では「『言葉と物』論争」の項にあたる。篠田バージョンではこんな感じ。
「睾丸(きんたま)」は立派な言葉ですし、わたしは好きです。「睾丸(きんたま)」も「男根(ちんぽこ)」もまったく同様です。これ以上立派な言葉は誰も見たことがありますまい。
と、別の言い方などせず、はっきりと本来の名で呼ぶことを、聖オメールの肉体にかけて言う。ここで引っ張り出された「聖オメール」は、本書が詩なので、韻をふむために使われたようだ。
訳注に、写本によってはこんな文章が付け加えられてある、と翻訳がされている。
これが傑作。
もしわたしが「聖遺物」を「睾丸」と名付けるのを耳にしたら、おまえはこの言葉をとても美しいと思い、讃美するあまりに、いたるところで「睾丸」を拝んで、教会では金銀を嵌め込んだそれに接吻していたことでしょう。
『薔薇物語』の旅は、明日も続く。
今日の日記読んで、『薔薇物語』は未知谷よりも平凡社読んだ方がいいのかな、と思った人もあろうが、僕はちょっと違う意見を持っているのだ。
13世紀の中世フランス文学『薔薇物語』を読んだ。未知谷から出た見目誠翻訳バージョン。
これはギヨーム・ド・ロリスによる正篇と、ジャン・ド・マンによって50年後に書かれた続篇から成る、膨大な書物だ。
若者が薔薇の花を手に入れるまでの話で、それまでに多くの難関があったり、えんえんと説教を聞かされたりする。
まずは、正篇。
主人公は、愛神が放つ5本の矢に心臓を射られる。
「美」「純朴」「慇懃」「愛玩」「美しい外見」の5本だ。
これにより主人公は愛神に服従する。
愛神による説教。
「吝嗇とは縁を切れ」
「言ってはならぬことを他人に話すのは充分に心せよ」
「思慮深くそして相手が大人にせよ子供にせよ話題にあって快く優しく穏当な交際をせよ」
「道を行くときは人々に先んじて挨拶をする習慣をつけよ」
などなど。
ここまでいろいろ並べられると、あれも出てくるかな、と思ったら、やっぱり出て来た。
「手を洗い、歯をみがけ」
全員集合だ!
いちばん納得できたのは「喜びや楽しみに没頭せよ」という教えで、これはうれしい。
その後、恋をしたらどうなるか、ということをえんえんと教えてくれる。
それは「戦いであり、焼け付くような痛みであり、常に厳しい戦闘なのだ」
「恋人は望んでいるものを決して手に入れられず、いつも擦り抜けて平穏を味わうことはないであろう」
「床に就くとき楽しみはほとんどないだろう。自分で眠っていると思うとき、お前は震え、おののき、動揺しはじめるからだ」
と、恋愛の苦しみをえんえんと列挙する。
だが、愛神は大きな安らぎをもたらす4つの宝をくれる。
「希望」「甘美な想念」「甘美な言葉」「甘美な視線」だ。
主人公は、彼の心と憧れが託されている薔薇の蕾を手に入れようとする。
「歓待」が薔薇のところまで案内してくれるが、薔薇を守る4人の者がいた。
「危惧」「悪口」「羞恥」「恐怖」だ。
それらに襲われて主人公は逃げる。
その様子を上から見ていた「理性」が、主人公にえんえんと忠告する。
恋なんて狂気の沙汰だ。恋なんて忘れなさい、と。
主人公はそんな説教、聞く耳もたない。
「友」のアドバイスと、神様からつかわされた「誠実」と「憐憫」のおかげで、第一関門の「危惧」をクリア。
しかし、強硬な「嫉妬」が、主人公をここまで連れてきた「歓待」を牢獄にとじこめ、ほだされていた「危惧」に根性を注入し、堀、囲い、壁を築いて薔薇を守る。
難攻不落!
以上、正篇はここで中断している。
(作者不詳のむりやり解決篇も載っているが、これがまた、シャーマンキングも真っ青のいきなり結果だけの展開)
さて、本番はこの後の「続篇」だ。
おしゃべりはさらにヒートアップ!
「歓待」が囚われている「嫉妬」の館を打ち倒すため「愛神」が呼んだ騎士たちは次のとおり。
「閑暇」「高貴」「裕福」「誠実」「憐憫」「鷹揚」「大胆」「名誉」「慇懃」「快楽」「純朴」「愛玩」「確信」「愉悦」「快活」「美」「青春」「謙虚」「忍耐」「隠匿」「偽りの外見」「不自然な禁欲」
現代では「ツンデレ」「猫耳」「メイド」「妹」などの属性で極端にキャラクター化された登場人物たちが活躍する作品が流行しているが、そんなものは中世にさらに極端な形で成立してたのだ。
作戦は次のとおり。
「偽りの外見」と「不自然な禁欲」が、裏門を守っている「悪口」「ノルマン人」をやっつける。
「慇懃」と「鷹揚」が、「歓待」を支配下においている老婆をやっつける。
「快楽」と「隠匿」が「羞恥」をやっつける。
「大胆」と「確信」が「恐怖」をやっつける。
「誠実」と「憐憫」が「危惧」をやっつける。
そうした本筋とは別に、脱線、逸脱、しゃべりほうだいの描写が続く。
なかでもおしゃべりが過ぎるのが「理性」だ。
「理性」は官能的快楽はあらゆる悪の根源だと若者をさとす。
「もし長生きをして恋から開放された自分を見たならば、失われた時間を嘆き悲しむでしょう」
「知性も時間も財産も肉体も魂も評判も失う」
なんて、非常に説教くさい。実際に説教しているし。
でも、「自分の身を守ることができる時に些細なことで絶望したり喜んだりする者は完全に頭がおかしいのです」なんて言葉は、覚えておこう、と思った。
こんなふうに、「理性」が若者に対して、「愛神」と「運命」と縁を切るように、と忠告するくだりが、いつ果てるともなく続く。
「理性」の長広舌が終わって、若者は思わぬ観点から反論する。
「理性」はギリシア神話や歴史などの知識を織りまぜながら説教していたなかで、つい、こんな事も言ってたのだ。
主権がサターンにあった時代、「正義」が君臨していました。
ジュピターが彼の睾丸をソーセージのように切り落としました。
彼がその睾丸を海へ投げると女神ヴィーナスが生まれました。
このくだりの言葉尻をとらえて、若者は反撃する。
あなたを初め他の何物とも薔薇を取り替えるつもりはありません。
考えの行きつく先はここなのです。
それに私の前で「きんたま」などという言葉を口にするあなたを
慇懃とは私には思えません。
慇懃な若い女性が口にすべき言葉ではありません。
時ならず勃発する「きんたま」論争!
若者は「聡明で美しい女性がどうしてそのような言葉を口にされるのか」
「元気一杯で愚かな乳母たちでさえ、別の言い方で言います」
と、攻めれば、「理性」は受けてたつ。
いいえ、私は不評を被らずにぴったりした言葉でそのものずばりの言い方で
快適なことだけを名指すことができるのです。
罪深いことに関わらなければ、何ら恥ずかしくはないからです。
神様が素晴らしい意向によって
種を常に絶やさないために
きんたまと男根に生殖の力を与えたのは
熟慮の末のことで、云々
と、またもや平気で「きんたま」「男根」と口に出す。
若者は厳しくつっこむ。
奔放な話し方によって、あなたが気の狂った娼婦だということが
私にはだんだんわかってきました。
神様が様々なものを創ったにせよ
少なくとも神様は卑猥このうえない言葉を創ったわけではないのです。
「理性」は長いながい反論のなかで、ついにこう言う。
きんたまという名称は美しくて私は好きです。
睾丸、ペニスについても勿論同様です。
これ以上美しいものを誰も見たことはありません。
言い過ぎでは?
この、物語とは直接関係のない「きんたま」論争が、長く続く。
脱線であることは間違いないが、この本のおそろしいところは、内容の大半は、こうした脱線で占められているのだ。
「理性」の長広舌が終わったかと思うと、次は老婆の説教がまた長く続く。
老婆が語るのは、すべての女性への忠告で、女とはどういうものか著者がどう考えていたかを知ることもできる。
「要するに、全ての男は女を騙し、ぺてんにかけ、ろくでなしで、至る所にはびこっています。ですから、同じように彼らを騙し、心を一人に執着させないようにしなければなりません。男を安住させる女は気がふれているとしか言えません。否、女は複数の恋人を持ち、もし可能ならば、男を辛く苦しい目に合わせあらゆる点で自分が満足するようにすべきです」
おいおい、何をアドバイスしてる!
「全ての女は好きな時に涙を流す習慣を持っています。しかし、男というものは、そうした涙を見て心を動かされるものではありません」
「女の涙は罠以外の何物でもありません。ですから探しても苦しみの原因はないのです!」
僕は勘違いしていた。
僕は女性の涙が大嫌いで、普通に語っておれば承諾できることでも、涙を流されると「一生、泣いてろ!」と態度を硬化させてしまうことが多々あった。これはまったく、僕の未熟さを証明するようなものだった。
男はみんな女の涙が嘘っぱちだと知っていたのだ。
そんなことはわかっていながら、騙されたふりをして、いかに自分に有利にことを運ぼうかと考えていたのだ。
「男は女の涙に弱い」という嘘の情報を流して、男は主導権を陰で確保しようとしていたのだ。そのニセの情報を僕自身も信じて、「どうしてあんなものに男は騙されるのか」と憤っていたのだ。今後、僕にも女の涙は通用することを宣伝しておかねばなるまい。
きんたま論争や、女性蔑視はさておき、一応、本筋らしきものがあるので、書き留めておこう。
一見、たいした仕事をしそうにない「偽りの外見」が、大活躍するのが痛快だ。
「偽りの外見」の述べる率直な意見は、小気味いい。
「善良な人々は悪事を働くことを避け、自分たちが持っているものに全く忠実に暮らし、神様の命令に従って振るまい、明日のパンを探すのにたいへんな苦労をしています。私に言わせれば、これ以上不快な生活はないぐらいです」
「何にせよ私を非難する者は嫌いですし評価しません。私は誰にせよ非難するのは好きですが、彼らの非難は一切聞きたくありません。叱責するのは私であって彼らの叱責は一切要らないのです」
おっと、これも本筋からはなれた議論か?
結局、嫉妬の城を撃ち破り、主人公は素敵なステッキであちこち突きまくり、薔薇の花をさんざんまさぐって、長い夢から目覚める。
この夢の最後は、どう考えてみても、淫夢だ。
多くの人に読みつがれてきた秘訣は、こういう官能描写にもあったのだと思った。
これはギヨーム・ド・ロリスによる正篇と、ジャン・ド・マンによって50年後に書かれた続篇から成る、膨大な書物だ。
若者が薔薇の花を手に入れるまでの話で、それまでに多くの難関があったり、えんえんと説教を聞かされたりする。
まずは、正篇。
主人公は、愛神が放つ5本の矢に心臓を射られる。
「美」「純朴」「慇懃」「愛玩」「美しい外見」の5本だ。
これにより主人公は愛神に服従する。
愛神による説教。
「吝嗇とは縁を切れ」
「言ってはならぬことを他人に話すのは充分に心せよ」
「思慮深くそして相手が大人にせよ子供にせよ話題にあって快く優しく穏当な交際をせよ」
「道を行くときは人々に先んじて挨拶をする習慣をつけよ」
などなど。
ここまでいろいろ並べられると、あれも出てくるかな、と思ったら、やっぱり出て来た。
「手を洗い、歯をみがけ」
全員集合だ!
いちばん納得できたのは「喜びや楽しみに没頭せよ」という教えで、これはうれしい。
その後、恋をしたらどうなるか、ということをえんえんと教えてくれる。
それは「戦いであり、焼け付くような痛みであり、常に厳しい戦闘なのだ」
「恋人は望んでいるものを決して手に入れられず、いつも擦り抜けて平穏を味わうことはないであろう」
「床に就くとき楽しみはほとんどないだろう。自分で眠っていると思うとき、お前は震え、おののき、動揺しはじめるからだ」
と、恋愛の苦しみをえんえんと列挙する。
だが、愛神は大きな安らぎをもたらす4つの宝をくれる。
「希望」「甘美な想念」「甘美な言葉」「甘美な視線」だ。
主人公は、彼の心と憧れが託されている薔薇の蕾を手に入れようとする。
「歓待」が薔薇のところまで案内してくれるが、薔薇を守る4人の者がいた。
「危惧」「悪口」「羞恥」「恐怖」だ。
それらに襲われて主人公は逃げる。
その様子を上から見ていた「理性」が、主人公にえんえんと忠告する。
恋なんて狂気の沙汰だ。恋なんて忘れなさい、と。
主人公はそんな説教、聞く耳もたない。
「友」のアドバイスと、神様からつかわされた「誠実」と「憐憫」のおかげで、第一関門の「危惧」をクリア。
しかし、強硬な「嫉妬」が、主人公をここまで連れてきた「歓待」を牢獄にとじこめ、ほだされていた「危惧」に根性を注入し、堀、囲い、壁を築いて薔薇を守る。
難攻不落!
以上、正篇はここで中断している。
(作者不詳のむりやり解決篇も載っているが、これがまた、シャーマンキングも真っ青のいきなり結果だけの展開)
さて、本番はこの後の「続篇」だ。
おしゃべりはさらにヒートアップ!
「歓待」が囚われている「嫉妬」の館を打ち倒すため「愛神」が呼んだ騎士たちは次のとおり。
「閑暇」「高貴」「裕福」「誠実」「憐憫」「鷹揚」「大胆」「名誉」「慇懃」「快楽」「純朴」「愛玩」「確信」「愉悦」「快活」「美」「青春」「謙虚」「忍耐」「隠匿」「偽りの外見」「不自然な禁欲」
現代では「ツンデレ」「猫耳」「メイド」「妹」などの属性で極端にキャラクター化された登場人物たちが活躍する作品が流行しているが、そんなものは中世にさらに極端な形で成立してたのだ。
作戦は次のとおり。
「偽りの外見」と「不自然な禁欲」が、裏門を守っている「悪口」「ノルマン人」をやっつける。
「慇懃」と「鷹揚」が、「歓待」を支配下においている老婆をやっつける。
「快楽」と「隠匿」が「羞恥」をやっつける。
「大胆」と「確信」が「恐怖」をやっつける。
「誠実」と「憐憫」が「危惧」をやっつける。
そうした本筋とは別に、脱線、逸脱、しゃべりほうだいの描写が続く。
なかでもおしゃべりが過ぎるのが「理性」だ。
「理性」は官能的快楽はあらゆる悪の根源だと若者をさとす。
「もし長生きをして恋から開放された自分を見たならば、失われた時間を嘆き悲しむでしょう」
「知性も時間も財産も肉体も魂も評判も失う」
なんて、非常に説教くさい。実際に説教しているし。
でも、「自分の身を守ることができる時に些細なことで絶望したり喜んだりする者は完全に頭がおかしいのです」なんて言葉は、覚えておこう、と思った。
こんなふうに、「理性」が若者に対して、「愛神」と「運命」と縁を切るように、と忠告するくだりが、いつ果てるともなく続く。
「理性」の長広舌が終わって、若者は思わぬ観点から反論する。
「理性」はギリシア神話や歴史などの知識を織りまぜながら説教していたなかで、つい、こんな事も言ってたのだ。
主権がサターンにあった時代、「正義」が君臨していました。
ジュピターが彼の睾丸をソーセージのように切り落としました。
彼がその睾丸を海へ投げると女神ヴィーナスが生まれました。
このくだりの言葉尻をとらえて、若者は反撃する。
あなたを初め他の何物とも薔薇を取り替えるつもりはありません。
考えの行きつく先はここなのです。
それに私の前で「きんたま」などという言葉を口にするあなたを
慇懃とは私には思えません。
慇懃な若い女性が口にすべき言葉ではありません。
時ならず勃発する「きんたま」論争!
若者は「聡明で美しい女性がどうしてそのような言葉を口にされるのか」
「元気一杯で愚かな乳母たちでさえ、別の言い方で言います」
と、攻めれば、「理性」は受けてたつ。
いいえ、私は不評を被らずにぴったりした言葉でそのものずばりの言い方で
快適なことだけを名指すことができるのです。
罪深いことに関わらなければ、何ら恥ずかしくはないからです。
神様が素晴らしい意向によって
種を常に絶やさないために
きんたまと男根に生殖の力を与えたのは
熟慮の末のことで、云々
と、またもや平気で「きんたま」「男根」と口に出す。
若者は厳しくつっこむ。
奔放な話し方によって、あなたが気の狂った娼婦だということが
私にはだんだんわかってきました。
神様が様々なものを創ったにせよ
少なくとも神様は卑猥このうえない言葉を創ったわけではないのです。
「理性」は長いながい反論のなかで、ついにこう言う。
きんたまという名称は美しくて私は好きです。
睾丸、ペニスについても勿論同様です。
これ以上美しいものを誰も見たことはありません。
言い過ぎでは?
この、物語とは直接関係のない「きんたま」論争が、長く続く。
脱線であることは間違いないが、この本のおそろしいところは、内容の大半は、こうした脱線で占められているのだ。
「理性」の長広舌が終わったかと思うと、次は老婆の説教がまた長く続く。
老婆が語るのは、すべての女性への忠告で、女とはどういうものか著者がどう考えていたかを知ることもできる。
「要するに、全ての男は女を騙し、ぺてんにかけ、ろくでなしで、至る所にはびこっています。ですから、同じように彼らを騙し、心を一人に執着させないようにしなければなりません。男を安住させる女は気がふれているとしか言えません。否、女は複数の恋人を持ち、もし可能ならば、男を辛く苦しい目に合わせあらゆる点で自分が満足するようにすべきです」
おいおい、何をアドバイスしてる!
「全ての女は好きな時に涙を流す習慣を持っています。しかし、男というものは、そうした涙を見て心を動かされるものではありません」
「女の涙は罠以外の何物でもありません。ですから探しても苦しみの原因はないのです!」
僕は勘違いしていた。
僕は女性の涙が大嫌いで、普通に語っておれば承諾できることでも、涙を流されると「一生、泣いてろ!」と態度を硬化させてしまうことが多々あった。これはまったく、僕の未熟さを証明するようなものだった。
男はみんな女の涙が嘘っぱちだと知っていたのだ。
そんなことはわかっていながら、騙されたふりをして、いかに自分に有利にことを運ぼうかと考えていたのだ。
「男は女の涙に弱い」という嘘の情報を流して、男は主導権を陰で確保しようとしていたのだ。そのニセの情報を僕自身も信じて、「どうしてあんなものに男は騙されるのか」と憤っていたのだ。今後、僕にも女の涙は通用することを宣伝しておかねばなるまい。
きんたま論争や、女性蔑視はさておき、一応、本筋らしきものがあるので、書き留めておこう。
一見、たいした仕事をしそうにない「偽りの外見」が、大活躍するのが痛快だ。
「偽りの外見」の述べる率直な意見は、小気味いい。
「善良な人々は悪事を働くことを避け、自分たちが持っているものに全く忠実に暮らし、神様の命令に従って振るまい、明日のパンを探すのにたいへんな苦労をしています。私に言わせれば、これ以上不快な生活はないぐらいです」
「何にせよ私を非難する者は嫌いですし評価しません。私は誰にせよ非難するのは好きですが、彼らの非難は一切聞きたくありません。叱責するのは私であって彼らの叱責は一切要らないのです」
おっと、これも本筋からはなれた議論か?
結局、嫉妬の城を撃ち破り、主人公は素敵なステッキであちこち突きまくり、薔薇の花をさんざんまさぐって、長い夢から目覚める。
この夢の最後は、どう考えてみても、淫夢だ。
多くの人に読みつがれてきた秘訣は、こういう官能描写にもあったのだと思った。
ボルヘスの『闇を讃えて』を読んだ。
1969年刊行の5冊目の詩集。
「序」でボルヘスがこんなこと書いていて面白い。
この本はわたしの5番目の詩集だ。他の詩集より良くも悪くもないとみるのが妥当だろう。もう諦め顔の読者が予想しているに違いない、鏡や迷宮や剣の他に新しいテーマが加わった−老年と倫理だ。
巻末に訳されたギジェルモ・スクレによる評論「闇を讃えるボルヘス」を引用すると、本書で反復されるボルヘスの「いつものテーマ」は、次のとおり。
迷宮、鍵、孤独、愛、時間、歴史、記憶、先祖たち、先立った友人たち、ガウチョ、ならず者、ブエノスアイレス、英国、聖書、ホイットマン、ド・クウィンシー、図書館、旅、盲目。
つまりは、ボルヘスの集大成がこの1冊にあるといってもいいだろう。
ボルヘス自身が新たに加わったテーマとしてあげた「倫理」があらわされた詩に「福音書外典断簡」がある。これが面白くて、膝をうつフレーズがいくつもあった。
そのなかから、部分的に引用すると。
十八、なべて人間の行為は地獄の炎にも天国の栄光にも値いせず。
二十七、われ復讐にも許しにも触れざるは、忘却こそは唯一の復讐にして許しなればなり。
四十一、石の上に建つものはなく、なべては砂上に建てり、されどわれらが務めは砂もて石のごとくに建つるにあり。
おっと、倫理とはあまり関係ないところを引用してしまった。
あと、「ブエノスアイレス」という詩にすっかり感心してしまった。
ブエノスアイレスとは何か−ではじまる詩句はもうどれもこれも素敵で、心を揺さぶられた。
ブエノスアイレスにまつわるボルヘスの記憶の挿話が1つ1つ短い詩であるかのように並べられる。これらすべてがイメージの喚起力を持っている。そして、これらは個人的なものなので、もうやめよう、といったん休止符を入れたあとに、「ブエノスアイレスとは」と、ボルヘス自身が体験しなかった記憶が怒涛のごとく並べられるのだ。まいった!
これ、朗読したら、感動を呼び起こすこと間違いなし。
1969年刊行の5冊目の詩集。
「序」でボルヘスがこんなこと書いていて面白い。
この本はわたしの5番目の詩集だ。他の詩集より良くも悪くもないとみるのが妥当だろう。もう諦め顔の読者が予想しているに違いない、鏡や迷宮や剣の他に新しいテーマが加わった−老年と倫理だ。
巻末に訳されたギジェルモ・スクレによる評論「闇を讃えるボルヘス」を引用すると、本書で反復されるボルヘスの「いつものテーマ」は、次のとおり。
迷宮、鍵、孤独、愛、時間、歴史、記憶、先祖たち、先立った友人たち、ガウチョ、ならず者、ブエノスアイレス、英国、聖書、ホイットマン、ド・クウィンシー、図書館、旅、盲目。
つまりは、ボルヘスの集大成がこの1冊にあるといってもいいだろう。
ボルヘス自身が新たに加わったテーマとしてあげた「倫理」があらわされた詩に「福音書外典断簡」がある。これが面白くて、膝をうつフレーズがいくつもあった。
そのなかから、部分的に引用すると。
十八、なべて人間の行為は地獄の炎にも天国の栄光にも値いせず。
二十七、われ復讐にも許しにも触れざるは、忘却こそは唯一の復讐にして許しなればなり。
四十一、石の上に建つものはなく、なべては砂上に建てり、されどわれらが務めは砂もて石のごとくに建つるにあり。
おっと、倫理とはあまり関係ないところを引用してしまった。
あと、「ブエノスアイレス」という詩にすっかり感心してしまった。
ブエノスアイレスとは何か−ではじまる詩句はもうどれもこれも素敵で、心を揺さぶられた。
ブエノスアイレスにまつわるボルヘスの記憶の挿話が1つ1つ短い詩であるかのように並べられる。これらすべてがイメージの喚起力を持っている。そして、これらは個人的なものなので、もうやめよう、といったん休止符を入れたあとに、「ブエノスアイレスとは」と、ボルヘス自身が体験しなかった記憶が怒涛のごとく並べられるのだ。まいった!
これ、朗読したら、感動を呼び起こすこと間違いなし。
小さな紳士淑女の音楽会&ミニフォーマルファッションショー
2006年9月17日 趣味近鉄百貨店あべの店のイベント。
まずはフォーマルファッションショーから。
ファッションショーはプロのモデルさんが出てくるのではなく、お客さんがモデルとして出てくるものだった。
と、いうことは、ポーズをちゃんと決めることができる子や、可愛い子が、それ以外の普通の子に比べて格段に目立ってしまうので、ある意味、残酷なイベントである。
2歳から9歳までのこどもたちが身に纏ったファッションは、
ポンポネット、メゾピアノ、ベベ、こどもフォーマル、ダックスリトル、ソニアリキエル、シャーリーテンプル。
最初はポンポネットもなかなか可愛いなあ、と見ていたが、シャーリーテンプルには及ばない、という感じだった。
出てくるモデルさんも倍ほどおり、他のツメの甘いフォーマルウェアが完全に引き立て役になってしまっていた。
さすが、シャーリーテンプル。
ただし、モデルとして出て来た女児はポンポネットの子が一番清楚で可愛く、姿勢もちゃんとしていた。モリモトリカちゃんだった、と思う。
休憩をはさんで、音楽会。
ヴァイオリンを弾く男の子が1人いたけれど、あとは全部ピアノで、ピアノの発表会を見ているような気分だった。
姉弟で連弾している子もいた。
「将来はアイドルになりたい」という女児
「将来はプリキュアになりたい」という女児
なかには、不思議なエピソードを持つ女児もいた。
ぜんそく気味で、生活発表会で演奏しなくてはならないピアニカがうまく練習できず、ピアノを買ってもらったのが、そもそもピアノをはじめたきっかけだった、という。
このエピソードのどこが不思議かというと、以上のエピソードを司会のおねえさんが「これこれこんなきっかけで、ピアノはじめたそうですね」と言うと、女児は首をひねり、そんなエピソードは知らないと言いたげ。
さらに、客席にいた母親も首を横にふる。
どこから湧いて出たエピソードなのか!
ファッションショーと音楽会で、半日ほど使った。
予想以上に充実していたイベントだった。
ポンポネットの女児が音楽会のときに、ピアノをひく友人を応援するために、前の方の席に坐り、笑顔で見ていたが、この子の笑顔は千金に価する、と思わせた。
このまま、ひねくれることなく育っていってほしいものだ。
まずはフォーマルファッションショーから。
ファッションショーはプロのモデルさんが出てくるのではなく、お客さんがモデルとして出てくるものだった。
と、いうことは、ポーズをちゃんと決めることができる子や、可愛い子が、それ以外の普通の子に比べて格段に目立ってしまうので、ある意味、残酷なイベントである。
2歳から9歳までのこどもたちが身に纏ったファッションは、
ポンポネット、メゾピアノ、ベベ、こどもフォーマル、ダックスリトル、ソニアリキエル、シャーリーテンプル。
最初はポンポネットもなかなか可愛いなあ、と見ていたが、シャーリーテンプルには及ばない、という感じだった。
出てくるモデルさんも倍ほどおり、他のツメの甘いフォーマルウェアが完全に引き立て役になってしまっていた。
さすが、シャーリーテンプル。
ただし、モデルとして出て来た女児はポンポネットの子が一番清楚で可愛く、姿勢もちゃんとしていた。モリモトリカちゃんだった、と思う。
休憩をはさんで、音楽会。
ヴァイオリンを弾く男の子が1人いたけれど、あとは全部ピアノで、ピアノの発表会を見ているような気分だった。
姉弟で連弾している子もいた。
「将来はアイドルになりたい」という女児
「将来はプリキュアになりたい」という女児
なかには、不思議なエピソードを持つ女児もいた。
ぜんそく気味で、生活発表会で演奏しなくてはならないピアニカがうまく練習できず、ピアノを買ってもらったのが、そもそもピアノをはじめたきっかけだった、という。
このエピソードのどこが不思議かというと、以上のエピソードを司会のおねえさんが「これこれこんなきっかけで、ピアノはじめたそうですね」と言うと、女児は首をひねり、そんなエピソードは知らないと言いたげ。
さらに、客席にいた母親も首を横にふる。
どこから湧いて出たエピソードなのか!
ファッションショーと音楽会で、半日ほど使った。
予想以上に充実していたイベントだった。
ポンポネットの女児が音楽会のときに、ピアノをひく友人を応援するために、前の方の席に坐り、笑顔で見ていたが、この子の笑顔は千金に価する、と思わせた。
このまま、ひねくれることなく育っていってほしいものだ。
月蝕歌劇団詩劇ライブ「凍りつくアドレス」
2006年9月16日 演劇
月蝕歌劇団詩劇ライブ「凍りつくアドレス」〜『プレイメイト戦士登場』〜を見に行った。
一心寺シアター倶楽で午後5時15分から。
大阪で月蝕歌劇団が公演するなんて、いったい何年ぶりなんだろう。
そしてなんと、来年にも月蝕歌劇団大阪公演があるという。
今回は「静かなるドン・魔界天翔篇」をひっさげての公演だったが、1回こっきりの詩劇ライブの方を選んだ。
寸劇なども交えながら、歌と踊りと朗読で綴る月蝕歌劇団の世界が堪能できる。
作・演出は高取英、音楽はJ・A・シーザー。
以下、演目。演者はソロのみ記載。
1.人里離れた
2.魔の知る夜明け
3.ベリアル、バフォメット/有村深羽
4.人魚姫/美弥乃静
5.さよならみんな/美弥乃静
6.新宿ダダ
7.紫のバラ/姫宮みちり
8.恋のバッキン
9.紅つばめ/木塚咲
10.勇者よ眠れ/三坂知絵子
11.東京がなんぼのもんや
12.魔女の鏡/合沢萌
13.ひとつぶの麦〜新宿ダダ
14.赤い糸車/藤田実加
15.月よりの使者/笹生愛美
16.夏のクリスマス/一ノ瀬めぐみ
17.孤独の叫び(朗読)/スギウラユカ
18.哀しみの向こうに
芝居の内容は、「ベリアル、バフォメット」を歌う有村深羽(ありむら・みう)と、「人魚姫・さよならみんな」を歌う美弥乃静(みやの・しず)が誘拐される。少女探偵団が修学旅行で不在のため、プレイメイト戦士が彼女たちを奪還するといったもの。
「東京がなんぼのもんや」でも保鳴美凛(ほなみ・りん)が東京からの爽やかな転校生を演じる寸劇になっていた。
スギウラユカの朗読は寺山修司の「書を捨てよ、町に出よう」から、「コカコーラの壜の中のトカゲ」っていう例のやつで、「おまえに壜を割って出てくる力なんかあるまい、そうだろう、日本!」のくだりは何度聞いてもしびれる。
なお、公演前に劇団員手書きのおみくじを売り歩くのが恒例になっており、僕が買ったのは、プレイメイト戦士のひとり、小嶋小鳥の書いたもので、「凶」だった。これはうれしい。
芝居で誘拐された2人は「萌え燃え隊」というユニットでも活動しているようで、東京におれば見に行っているだろう。
このライブを見ると、本編の演劇ではどうなのかわからないが、主役は完全に美弥乃静が握っていた。彼女が今の月蝕歌劇団のエースなのだろうか。一ノ瀬めぐみが歌では活躍できないゆえの僕の勘違いかもしれないけど。
一心寺シアター倶楽で午後5時15分から。
大阪で月蝕歌劇団が公演するなんて、いったい何年ぶりなんだろう。
そしてなんと、来年にも月蝕歌劇団大阪公演があるという。
今回は「静かなるドン・魔界天翔篇」をひっさげての公演だったが、1回こっきりの詩劇ライブの方を選んだ。
寸劇なども交えながら、歌と踊りと朗読で綴る月蝕歌劇団の世界が堪能できる。
作・演出は高取英、音楽はJ・A・シーザー。
以下、演目。演者はソロのみ記載。
1.人里離れた
2.魔の知る夜明け
3.ベリアル、バフォメット/有村深羽
4.人魚姫/美弥乃静
5.さよならみんな/美弥乃静
6.新宿ダダ
7.紫のバラ/姫宮みちり
8.恋のバッキン
9.紅つばめ/木塚咲
10.勇者よ眠れ/三坂知絵子
11.東京がなんぼのもんや
12.魔女の鏡/合沢萌
13.ひとつぶの麦〜新宿ダダ
14.赤い糸車/藤田実加
15.月よりの使者/笹生愛美
16.夏のクリスマス/一ノ瀬めぐみ
17.孤独の叫び(朗読)/スギウラユカ
18.哀しみの向こうに
芝居の内容は、「ベリアル、バフォメット」を歌う有村深羽(ありむら・みう)と、「人魚姫・さよならみんな」を歌う美弥乃静(みやの・しず)が誘拐される。少女探偵団が修学旅行で不在のため、プレイメイト戦士が彼女たちを奪還するといったもの。
「東京がなんぼのもんや」でも保鳴美凛(ほなみ・りん)が東京からの爽やかな転校生を演じる寸劇になっていた。
スギウラユカの朗読は寺山修司の「書を捨てよ、町に出よう」から、「コカコーラの壜の中のトカゲ」っていう例のやつで、「おまえに壜を割って出てくる力なんかあるまい、そうだろう、日本!」のくだりは何度聞いてもしびれる。
なお、公演前に劇団員手書きのおみくじを売り歩くのが恒例になっており、僕が買ったのは、プレイメイト戦士のひとり、小嶋小鳥の書いたもので、「凶」だった。これはうれしい。
芝居で誘拐された2人は「萌え燃え隊」というユニットでも活動しているようで、東京におれば見に行っているだろう。
このライブを見ると、本編の演劇ではどうなのかわからないが、主役は完全に美弥乃静が握っていた。彼女が今の月蝕歌劇団のエースなのだろうか。一ノ瀬めぐみが歌では活躍できないゆえの僕の勘違いかもしれないけど。
ISBN:4336042446 単行本 倉阪 鬼一郎 国書刊行会 2001/11 ¥2,310
これも後日。
倉阪さんは、翻訳。作者はヒュー・ウォルポールなのだ。
『オトラント城』のホレス・ウォルポールの係累で、この短編集は、神経症的な妄想がみごとに描かれていた。
詳しくは、後日。
これも後日。
倉阪さんは、翻訳。作者はヒュー・ウォルポールなのだ。
『オトラント城』のホレス・ウォルポールの係累で、この短編集は、神経症的な妄想がみごとに描かれていた。
詳しくは、後日。
スー・チー in ミスター・パーフェクト
2006年9月12日 映画
リンゴ・ラム監督の「スー・チーinミスター・パーフェクト」を見た。
映画のタイトルで「だれそれinナントカ」ってついていると、たいていの場合、「だれそれ」は傍役でしかない。この映画もそんな感じで、スー・チーは一応主役のうちの1人ではあるが、活躍はあまりしない。
スー・チーは刑事。だけど、物語にはあんまり関係ない。
スー・チーは友人のイザベル・チャンがCM撮影でマレーシアに行くのに付き添っていく。
スー・チーは夢に出てくる完璧な彼氏を求めている。彼女にアプローチしている男は複数いるのだが、気乗りしない。
こういうラブコメディ的設定に、犯罪が絡む。
イザベル・チャンの所属する会社の偉いさんは、杉作J太郎を彷佛とさせるエロ親父。J太郎は、死の商人でもあった。ミサイルシステムの取引の情報を得て、これを極秘裡に調査しようとしているのが、この映画の主人公アンディ・オンと、その先輩(上司?)ホイ・シウオン。
それに常にドジふんで邪魔ばかりして関わってくるスリの男が、いらんことばかりして、アクションが展開する。このスリは情けないやつで、出てくるたびに「死んでしまえ!」と呪ったものだ。
追いかけあいのシーンでは、お約束どおり、バーベキューパーティーに突っ込んで無茶苦茶にしたり、結婚式の行列に突っ込んで無茶苦茶にしたり。これが、お決まりのパターンすぎて、ワクワクしてくる。王道や!
バスーカ砲使えば、お約束どおりに前後逆に発射するし。
面白かったのが、格闘シーン。香港映画なので、コミカルなカンフーはお手のものなのだが、敵のサイモン・ヤムがダンスしながら闘う。これが馬鹿馬鹿しくて笑える。
タップダンスだかフラメンコだかの調子にあわせて、ときにはタンゴを踊りながら、けっこうちゃんとしたカンフーシーンを繰り広げる。クライマックスでは傘を持ってミュージカルっぽいダンスをする。
サイモン・ヤムの強烈なキャラクターは見もので、指パッチンでなんでも済ませてしまう癖が、指を痛めて音が出なくなると、とたんに敗色が濃くなるとか、奇矯なファッションセンスとか、はっきり言えば気違いである。
この映画は夏休みのマレ−シア観光映画としても成功しており、ウキウキする気分がずっと続いた。
観光客相手の民族舞踊とか、海の遊びとか。
あと、格闘シーンで、なぜか鉢植えのひまわりが笑ったり、身をすくめたり、とか、全く無意味にパンツをずらされてしまう男とか、無意味の深淵をかいまみせてくれる。
さて、恋愛模様は、スー・チーは主人公アンディ・オンとくっつき、イザベル・チャンはこれはと思った相手がホモだった失敗を経て、スー・チーに迫っていた1人との恋に目覚める。
まあ、勝手にやってくれ、という感じだ。
悪者のサイモン・ヤムは、格闘の末に操縦者のいないパラセールで空を飛び続ける。
この結末は、最近見たアニメ「スクールランブル2学期」の凧でえんえんと飛んでいるシーンと似ており、「意味のある偶然」を感じさせた。
最近の映画なのに、まるで中学生のときに見た映画のような印象をもたらす、ノスタルジーあふれるお約束映画だった。
映画のタイトルで「だれそれinナントカ」ってついていると、たいていの場合、「だれそれ」は傍役でしかない。この映画もそんな感じで、スー・チーは一応主役のうちの1人ではあるが、活躍はあまりしない。
スー・チーは刑事。だけど、物語にはあんまり関係ない。
スー・チーは友人のイザベル・チャンがCM撮影でマレーシアに行くのに付き添っていく。
スー・チーは夢に出てくる完璧な彼氏を求めている。彼女にアプローチしている男は複数いるのだが、気乗りしない。
こういうラブコメディ的設定に、犯罪が絡む。
イザベル・チャンの所属する会社の偉いさんは、杉作J太郎を彷佛とさせるエロ親父。J太郎は、死の商人でもあった。ミサイルシステムの取引の情報を得て、これを極秘裡に調査しようとしているのが、この映画の主人公アンディ・オンと、その先輩(上司?)ホイ・シウオン。
それに常にドジふんで邪魔ばかりして関わってくるスリの男が、いらんことばかりして、アクションが展開する。このスリは情けないやつで、出てくるたびに「死んでしまえ!」と呪ったものだ。
追いかけあいのシーンでは、お約束どおり、バーベキューパーティーに突っ込んで無茶苦茶にしたり、結婚式の行列に突っ込んで無茶苦茶にしたり。これが、お決まりのパターンすぎて、ワクワクしてくる。王道や!
バスーカ砲使えば、お約束どおりに前後逆に発射するし。
面白かったのが、格闘シーン。香港映画なので、コミカルなカンフーはお手のものなのだが、敵のサイモン・ヤムがダンスしながら闘う。これが馬鹿馬鹿しくて笑える。
タップダンスだかフラメンコだかの調子にあわせて、ときにはタンゴを踊りながら、けっこうちゃんとしたカンフーシーンを繰り広げる。クライマックスでは傘を持ってミュージカルっぽいダンスをする。
サイモン・ヤムの強烈なキャラクターは見もので、指パッチンでなんでも済ませてしまう癖が、指を痛めて音が出なくなると、とたんに敗色が濃くなるとか、奇矯なファッションセンスとか、はっきり言えば気違いである。
この映画は夏休みのマレ−シア観光映画としても成功しており、ウキウキする気分がずっと続いた。
観光客相手の民族舞踊とか、海の遊びとか。
あと、格闘シーンで、なぜか鉢植えのひまわりが笑ったり、身をすくめたり、とか、全く無意味にパンツをずらされてしまう男とか、無意味の深淵をかいまみせてくれる。
さて、恋愛模様は、スー・チーは主人公アンディ・オンとくっつき、イザベル・チャンはこれはと思った相手がホモだった失敗を経て、スー・チーに迫っていた1人との恋に目覚める。
まあ、勝手にやってくれ、という感じだ。
悪者のサイモン・ヤムは、格闘の末に操縦者のいないパラセールで空を飛び続ける。
この結末は、最近見たアニメ「スクールランブル2学期」の凧でえんえんと飛んでいるシーンと似ており、「意味のある偶然」を感じさせた。
最近の映画なのに、まるで中学生のときに見た映画のような印象をもたらす、ノスタルジーあふれるお約束映画だった。