ダニーは世界チャンピオン
2006年12月4日 読書ヨーロッパのキリスト教美術―12世紀から18世紀まで (上)(下)
2006年11月30日 読書武満徹―Visions in Time
2006年11月19日 読書
ISBN:4872951026 単行本 武満 徹 Esquire Magazine Japan ¥2,520
東京オペラシティアートギャラリーで今年の4月から6月にかけて、武満徹没後10年特別企画として「Visions in Time」展が開催されていた。
実験工房と草月ア−トセンタ−(楽譜や、瀧口修造、ポスター関係)
御代田にて(楽譜や帽子やケンダマなど)
美術家との交感(ルドンやミロなど)
画家(武満徹の作品)
映画・テレビ・ラジオ(ポスター、台本)
著述(雑誌、本、原稿)
プロデューサー(Music Todayなどのポスター)
時間の園丁・武満徹(楽譜や、現代作家の作品など)
この展覧会にあわせて出版されたのが『武満徹/Visions in Time』で、多くの図版と、武満徹の著作から引用された文章がたっぷり並べられている。
必ずしも展示との照応がされているわけではなく、これはこれで独立した1冊の本として楽しめる。
僕はあいにくと展示は見に行けなかったが、この本は楽しかった。
五線譜によらない楽譜に、黛敏郎の「楽譜」の写真(五線譜書いた水槽にオタマジャクシを泳がせて、それを見ながら演奏)、巻末の池辺晋一郎によると「ヴィブラフォンを弓で弾く、タムタムをスーパーボールでこする、ティムパニに仏壇用のリンを乗せてペダルを上下させることにより余韻のうねりを生じさせる、ゴングなどを叩いてすぐに水につけて音程を変化させる、トランペットのハーモン・ミュートの二段構造の内側を抜いて装着させて吹く、ハープの下方を弾く『スラ・タヴォラ』や爪で弾く奏法の多用、弦のみならず木管などにもハーモニックスを頻繁に使う」
さらには、「アメリカにはたった8人なんだけど、1人1人が2つの声を出せる合唱団があるんだ」とヨタをとばすこともあったらしい。
こういうところが、現代音楽の面白いところなんだ、と僕は思っている。
本書でデヴィッド・シルヴィアンが寄せた原稿にあるように、「武満さんは、しばしばクラシックの聴衆の狭い世界を嘆いていました」と、若い作家や幅広い世界に目を向けている視線が共感できるところだ。
でも、話はクラシックにかぎるものではなく、1つのジャンルの趣味に特化して、そこから出ようとしない傾向は、「最近の若い者」にも往々にして見られるんじゃないか、と思っている。いわゆるタコツボ化っていうやつだ。
送り手側としての立場から、武満徹が感じたことが次のように記されている。
「現代音楽は、大衆の生活とは無縁のところにある。
では、なぜ今日の音楽は孤立してしまったのだろうか?」
「ぼくがその頃考えていた音楽は、たしかに人々と何もかかわりはなかった。人々はたがいに孤立しあっていた」
これは「ぼくの方法」という原稿からで、こういう思いを抱いたのは、1948年のことだ。(以下、考察が続いて、ミュージックコンクレートの着想にいたる)
音楽にノイズを入れるのは、「自由だ〜!」
「音楽イズ・フリーダム〜」
あと興味深かったのは、この武満徹をして融通無礙ぶりで感心させたのが他ならぬジョン・ケージだということ。そりゃ、ジョン・ケージ(キノコ好き)には叶わない。そういえば、武満徹の本棚の写真があったけど、ちゃんと「キノコ」の図鑑もあったな。
あとは、水の輪の着想を語る原稿がいくつか載せられている。
僕がかつて展開していた「水道」(武道とか茶道みたいに、水を道としてきわめる)の活動の際に、武満徹をカバーしていなかったのが残念だ。
東京オペラシティアートギャラリーで今年の4月から6月にかけて、武満徹没後10年特別企画として「Visions in Time」展が開催されていた。
実験工房と草月ア−トセンタ−(楽譜や、瀧口修造、ポスター関係)
御代田にて(楽譜や帽子やケンダマなど)
美術家との交感(ルドンやミロなど)
画家(武満徹の作品)
映画・テレビ・ラジオ(ポスター、台本)
著述(雑誌、本、原稿)
プロデューサー(Music Todayなどのポスター)
時間の園丁・武満徹(楽譜や、現代作家の作品など)
この展覧会にあわせて出版されたのが『武満徹/Visions in Time』で、多くの図版と、武満徹の著作から引用された文章がたっぷり並べられている。
必ずしも展示との照応がされているわけではなく、これはこれで独立した1冊の本として楽しめる。
僕はあいにくと展示は見に行けなかったが、この本は楽しかった。
五線譜によらない楽譜に、黛敏郎の「楽譜」の写真(五線譜書いた水槽にオタマジャクシを泳がせて、それを見ながら演奏)、巻末の池辺晋一郎によると「ヴィブラフォンを弓で弾く、タムタムをスーパーボールでこする、ティムパニに仏壇用のリンを乗せてペダルを上下させることにより余韻のうねりを生じさせる、ゴングなどを叩いてすぐに水につけて音程を変化させる、トランペットのハーモン・ミュートの二段構造の内側を抜いて装着させて吹く、ハープの下方を弾く『スラ・タヴォラ』や爪で弾く奏法の多用、弦のみならず木管などにもハーモニックスを頻繁に使う」
さらには、「アメリカにはたった8人なんだけど、1人1人が2つの声を出せる合唱団があるんだ」とヨタをとばすこともあったらしい。
こういうところが、現代音楽の面白いところなんだ、と僕は思っている。
本書でデヴィッド・シルヴィアンが寄せた原稿にあるように、「武満さんは、しばしばクラシックの聴衆の狭い世界を嘆いていました」と、若い作家や幅広い世界に目を向けている視線が共感できるところだ。
でも、話はクラシックにかぎるものではなく、1つのジャンルの趣味に特化して、そこから出ようとしない傾向は、「最近の若い者」にも往々にして見られるんじゃないか、と思っている。いわゆるタコツボ化っていうやつだ。
送り手側としての立場から、武満徹が感じたことが次のように記されている。
「現代音楽は、大衆の生活とは無縁のところにある。
では、なぜ今日の音楽は孤立してしまったのだろうか?」
「ぼくがその頃考えていた音楽は、たしかに人々と何もかかわりはなかった。人々はたがいに孤立しあっていた」
これは「ぼくの方法」という原稿からで、こういう思いを抱いたのは、1948年のことだ。(以下、考察が続いて、ミュージックコンクレートの着想にいたる)
音楽にノイズを入れるのは、「自由だ〜!」
「音楽イズ・フリーダム〜」
あと興味深かったのは、この武満徹をして融通無礙ぶりで感心させたのが他ならぬジョン・ケージだということ。そりゃ、ジョン・ケージ(キノコ好き)には叶わない。そういえば、武満徹の本棚の写真があったけど、ちゃんと「キノコ」の図鑑もあったな。
あとは、水の輪の着想を語る原稿がいくつか載せられている。
僕がかつて展開していた「水道」(武道とか茶道みたいに、水を道としてきわめる)の活動の際に、武満徹をカバーしていなかったのが残念だ。
2006年に読んだ本ベスト10
2006年11月18日 読書諸事情により読書がはかどらない。
今日もこれから録画しておいた格闘技の番組を5時間かけて見る。(S-CUPと修斗)
本は、まあ、読まない。
と、いうわけで、2006年に読んだ本の中で、印象的だったベスト10を選んでみた。
先年はミュノーナの『スフィンクスケーキ』とか、嬉しい出会いがあったが、さて、今年は?
『狂えるオルランド』アリオスト
(前編)
http://diarynote.jp/d/49497/20060904.html
(後編)
http://diarynote.jp/d/49497/20060905.html
『悪戯の愉しみ』アルフォンス・アレー
http://diarynote.jp/d/49497/20060713.html
『タイムスリップ釈迦如来』鯨統一郎
http://diarynote.jp/d/49497/20060405.html
『未来少女アリス』ジェフ・ヌーン
http://diarynote.jp/d/49497/20060413.html
『ヨットクラブ』デイヴィッド・イーリイ
http://diarynote.jp/d/49497/20060711.html
『象徴の貧困』ベルナール・スティグレール
http://diarynote.jp/d/49497/20060623.html
『最後の一壜』スタンリイエリン
http://diarynote.jp/d/49497/20060406.html
『薔薇物語』ギヨーム・ド・ロリス/ジャン・ド・マン
(見目誠訳)
http://diarynote.jp/d/49497/20060920.html
(篠田勝英訳)
http://diarynote.jp/d/49497/20060921.html
(チョーサー版)
http://diarynote.jp/d/49497/20060922.html
『イリヤの空、UFOの夏』秋山瑞人
http://diarynote.jp/d/49497/20060317.html
三橋一夫ふしぎ小説集成
『腹話術師』
http://diarynote.jp/d/49497/20060316.html
『鬼の末裔』
http://diarynote.jp/d/49497/20060823.html
『黒の血統』
http://diarynote.jp/d/49497/20060317.html
『銀の仮面』も面白かった記憶があるが、怠けて日記をつけずにいたら、もう思い出せなくなっていた。こんなこっちゃだめだ。
『象徴の貧困』以外は全部フィクション。僕はやっぱり小説とか好きなんだな、と思った。
1位の『狂えるオルランド』は詩だけどね。
問題は、今年刊行された新刊をあまり読んでいないこと。
きっとめちゃくちゃ面白い本が刊行されてるんだろうなあ。
読めた人がうらやましいなあ。
今日もこれから録画しておいた格闘技の番組を5時間かけて見る。(S-CUPと修斗)
本は、まあ、読まない。
と、いうわけで、2006年に読んだ本の中で、印象的だったベスト10を選んでみた。
先年はミュノーナの『スフィンクスケーキ』とか、嬉しい出会いがあったが、さて、今年は?
『狂えるオルランド』アリオスト
(前編)
http://diarynote.jp/d/49497/20060904.html
(後編)
http://diarynote.jp/d/49497/20060905.html
『悪戯の愉しみ』アルフォンス・アレー
http://diarynote.jp/d/49497/20060713.html
『タイムスリップ釈迦如来』鯨統一郎
http://diarynote.jp/d/49497/20060405.html
『未来少女アリス』ジェフ・ヌーン
http://diarynote.jp/d/49497/20060413.html
『ヨットクラブ』デイヴィッド・イーリイ
http://diarynote.jp/d/49497/20060711.html
『象徴の貧困』ベルナール・スティグレール
http://diarynote.jp/d/49497/20060623.html
『最後の一壜』スタンリイエリン
http://diarynote.jp/d/49497/20060406.html
『薔薇物語』ギヨーム・ド・ロリス/ジャン・ド・マン
(見目誠訳)
http://diarynote.jp/d/49497/20060920.html
(篠田勝英訳)
http://diarynote.jp/d/49497/20060921.html
(チョーサー版)
http://diarynote.jp/d/49497/20060922.html
『イリヤの空、UFOの夏』秋山瑞人
http://diarynote.jp/d/49497/20060317.html
三橋一夫ふしぎ小説集成
『腹話術師』
http://diarynote.jp/d/49497/20060316.html
『鬼の末裔』
http://diarynote.jp/d/49497/20060823.html
『黒の血統』
http://diarynote.jp/d/49497/20060317.html
『銀の仮面』も面白かった記憶があるが、怠けて日記をつけずにいたら、もう思い出せなくなっていた。こんなこっちゃだめだ。
『象徴の貧困』以外は全部フィクション。僕はやっぱり小説とか好きなんだな、と思った。
1位の『狂えるオルランド』は詩だけどね。
問題は、今年刊行された新刊をあまり読んでいないこと。
きっとめちゃくちゃ面白い本が刊行されてるんだろうなあ。
読めた人がうらやましいなあ。
「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論
2006年11月14日 読書
ISBN:4121501748 新書 斎藤 環 中央公論新社 ¥798
齋藤環の『「負けた」教の信者たち』を読んだ。
以下目次
はじめに−なぜあなたは「負けた」と思いこむのか
第1章 メディアから自由になる日
1、メディアという幻想が覆い隠すもの
2、「電波少年」打ち切りにみる一つの感性の終焉
第2章 「ひきこもり」の比較文化論
1、「社会的ひきこもり」100万人の時代に
2、「ひきこもり」にみる日韓の家族
3、ひきこもり対策は「予防」から「対応」へ
4、韓国の「隠遁型ひとりぼっち」と日本の「ひきこもり」
5、「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇
6、「ひきこもり高齢化社会」という未来
第3章 ネット・コミュニケーションの死角
1、ネットがいざなう匿名の死
2、ネット上に「影武者」をばらまけ
3、「子ども」はいま最も疎外された存在である
4、ネット・コミュニケーションの危険性を子どもに伝えよ
5、韓国のネット依存者たちに学ぶ
第4章 虐待する側、される側の心理
1、長崎幼児殺人事件の教訓
2、「主張する弱者」にも寛容さを
3、虐待と「世間」は共犯関係か
4、刑務所にも構造改革を
第5章 政治と司法がなすべきこと
1、青少年保護育成条例強化に断固抵抗する
2、護憲派最大のジレンマ
3、「有害なわいせつ性」という社会通年こそ有害である
4、触法精神障害者の処遇についてタブーなき議論を
第6章 ニートたちはなぜ成熟できないのか
1、全共闘・新人類・団塊ジュニア−三つの世代を規定するそれぞれの転向
2、社会の成熟が奪う個人の成熟
3、若者に蔓延する「確固たる自信のなさ」
4、「ニート」対策はいかになされるべきか
5、「ニート」は世間の目が怖い(玄田有史氏との対談)−働くことも学ぶことも放棄した若者40万人の実情
おわりに
本書は『中央公論』連載の『時評』を中心に、『児童心理』『文藝春秋』『VOICE』に掲載された文章と、「はじめに」「おわりに」の書き下ろしで構成されている。
タイトルのあざとさとは対照的に、その内容はしっかりしている。
目次をざっと見たときに覚える、「おっ、これは何だ」と僕自身が思った部分について、覚え書きを残しておこう。
「『電波少年』打ち切りにみる一つの感性の終焉」とは。
バラエティ番組のドキュメンタリー化、虚構が現実を取り込む手法は、80年代の「楽屋落ち」手法にルーツがある。虚構と現実のギャップを楽しむ80年代手法に、90年代は楽屋落ちに笑いや感動を求める手法が加わる。虚構と現実の区別はもう問題にされなくなる。「やらせ」が問題になるのは、テレビのなかに真実があると信じられているかぎりにおいてであり、現代では「やらせ」上等で番組を楽しむのだ。
と、著者はだいたいこんなことを言っているが、その後が、興味深い。
こういう態度は、まさに「シニカルな主体」の問題だという。
出ました!「シニカル」!現代を解き明かすキーワード!
これはジジェクがよく取り上げる事柄らしい。近代的な主体は、たとえば、あるイデオロギーに対して、それが馬鹿馬鹿しいものであることを知っていても、いや、知っているがゆえに、それを深く信じることができる、というのだ。
テレビは「表現された事柄にはすべて楽屋裏がある」ことを人々に知らしめた。
ただし、こういうシニシズムによって維持されていた倫理が、正当な倫理だと思いこんでしまったときに、「ベタ」で「シャレにならない」事態に陥ってしまう。
このあたりの距離の取り方についての最大の啓蒙家は、齋藤環によるとナンシー関だったという。
ナンシー関!
僕は「ツッコミ芸」をあんまり評価していなかった。オタクのみなさんの会話が、ほとんどツッコミに終始していて、辟易していたせいだ。小説や映画やアニメや、ニュースなどについて、ツッコミばかりしていて、自分では何も創造しないのは、うんざりするほど蔓延してるし、もういい、と思ってた。その仲間の1人として、ナンシー関もちゃんと読んできていなかった。でも、昨日読んだ本とか、本書でナンシー関に高い評価を与えているのを見ると、僕の読み方の浅さが暴露された形だ。いずれ、ちゃんと読もう。
「護憲派最大のジレンマ」とは。
憲法9条を維持したまま、まともな危機意識を持つことは難しい。
これがジレンマ。
「全共闘・新人類・団塊ジュニア−三つの世代を規定するそれぞれの転向」について
おおざっぱな括りではあるが、こんなことが書かれている。
「全共闘世代は何でもできるが何も知らない。新人類世代は、なんでも知っているが何もできない。団塊ジュニア世代はなんでも知っていて、何でもできるが、何もしたくない」
このあと、著者は「転向」をキーワードにして世代を語ってみようと試みる。
転向というとおおげさだが、アナログレコードをやめてCDを聞くようになったとき、マックをやめてウィンドウズにのりかえたとき、などの場面でも感じる「転向」だ。
それによると、次のとおり。
全共闘世代は政治的転向(価値的欲望。社会性への固執。超越的他者への欲望)
新人類世代は感性的転向(感性的欲望。超越論的他者への欲望)
団塊ジュニア世代は転向なし(超越論的否認)
ところで、なぜ若者たちは負けたと思いこむのかといえば、著者はこう書いている。
「彼らは負けたと思いこむことにおいて、自らのプライドを温存しているのではないか」
「負けたと思いこむこともナルシシズムの産物なのだ」
「負けた」教の信者とは、「自傷的自己愛にしかすがることのできない若者たち」をさしているのだ、という。
そう書いたあとの著者の語りかけが、共感できる。
ひきこもりやニートなど、ここで言う「負けた」教の信者を相手にしたとき、
「あなたに彼らを愛する自信がないのなら、どうかせめて、無関心のままでいてはくれまいか。若者の非社会性などという似非論壇めいた問題意識は、どうか忘れてはくれまいか。それは、あなたに直接害を加えない他者への、最低限の礼儀というものなのだ」
まったく!そのとーり!
齋藤環の『「負けた」教の信者たち』を読んだ。
以下目次
はじめに−なぜあなたは「負けた」と思いこむのか
第1章 メディアから自由になる日
1、メディアという幻想が覆い隠すもの
2、「電波少年」打ち切りにみる一つの感性の終焉
第2章 「ひきこもり」の比較文化論
1、「社会的ひきこもり」100万人の時代に
2、「ひきこもり」にみる日韓の家族
3、ひきこもり対策は「予防」から「対応」へ
4、韓国の「隠遁型ひとりぼっち」と日本の「ひきこもり」
5、「ひきこもり」がもたらす構造的悲劇
6、「ひきこもり高齢化社会」という未来
第3章 ネット・コミュニケーションの死角
1、ネットがいざなう匿名の死
2、ネット上に「影武者」をばらまけ
3、「子ども」はいま最も疎外された存在である
4、ネット・コミュニケーションの危険性を子どもに伝えよ
5、韓国のネット依存者たちに学ぶ
第4章 虐待する側、される側の心理
1、長崎幼児殺人事件の教訓
2、「主張する弱者」にも寛容さを
3、虐待と「世間」は共犯関係か
4、刑務所にも構造改革を
第5章 政治と司法がなすべきこと
1、青少年保護育成条例強化に断固抵抗する
2、護憲派最大のジレンマ
3、「有害なわいせつ性」という社会通年こそ有害である
4、触法精神障害者の処遇についてタブーなき議論を
第6章 ニートたちはなぜ成熟できないのか
1、全共闘・新人類・団塊ジュニア−三つの世代を規定するそれぞれの転向
2、社会の成熟が奪う個人の成熟
3、若者に蔓延する「確固たる自信のなさ」
4、「ニート」対策はいかになされるべきか
5、「ニート」は世間の目が怖い(玄田有史氏との対談)−働くことも学ぶことも放棄した若者40万人の実情
おわりに
本書は『中央公論』連載の『時評』を中心に、『児童心理』『文藝春秋』『VOICE』に掲載された文章と、「はじめに」「おわりに」の書き下ろしで構成されている。
タイトルのあざとさとは対照的に、その内容はしっかりしている。
目次をざっと見たときに覚える、「おっ、これは何だ」と僕自身が思った部分について、覚え書きを残しておこう。
「『電波少年』打ち切りにみる一つの感性の終焉」とは。
バラエティ番組のドキュメンタリー化、虚構が現実を取り込む手法は、80年代の「楽屋落ち」手法にルーツがある。虚構と現実のギャップを楽しむ80年代手法に、90年代は楽屋落ちに笑いや感動を求める手法が加わる。虚構と現実の区別はもう問題にされなくなる。「やらせ」が問題になるのは、テレビのなかに真実があると信じられているかぎりにおいてであり、現代では「やらせ」上等で番組を楽しむのだ。
と、著者はだいたいこんなことを言っているが、その後が、興味深い。
こういう態度は、まさに「シニカルな主体」の問題だという。
出ました!「シニカル」!現代を解き明かすキーワード!
これはジジェクがよく取り上げる事柄らしい。近代的な主体は、たとえば、あるイデオロギーに対して、それが馬鹿馬鹿しいものであることを知っていても、いや、知っているがゆえに、それを深く信じることができる、というのだ。
テレビは「表現された事柄にはすべて楽屋裏がある」ことを人々に知らしめた。
ただし、こういうシニシズムによって維持されていた倫理が、正当な倫理だと思いこんでしまったときに、「ベタ」で「シャレにならない」事態に陥ってしまう。
このあたりの距離の取り方についての最大の啓蒙家は、齋藤環によるとナンシー関だったという。
ナンシー関!
僕は「ツッコミ芸」をあんまり評価していなかった。オタクのみなさんの会話が、ほとんどツッコミに終始していて、辟易していたせいだ。小説や映画やアニメや、ニュースなどについて、ツッコミばかりしていて、自分では何も創造しないのは、うんざりするほど蔓延してるし、もういい、と思ってた。その仲間の1人として、ナンシー関もちゃんと読んできていなかった。でも、昨日読んだ本とか、本書でナンシー関に高い評価を与えているのを見ると、僕の読み方の浅さが暴露された形だ。いずれ、ちゃんと読もう。
「護憲派最大のジレンマ」とは。
憲法9条を維持したまま、まともな危機意識を持つことは難しい。
これがジレンマ。
「全共闘・新人類・団塊ジュニア−三つの世代を規定するそれぞれの転向」について
おおざっぱな括りではあるが、こんなことが書かれている。
「全共闘世代は何でもできるが何も知らない。新人類世代は、なんでも知っているが何もできない。団塊ジュニア世代はなんでも知っていて、何でもできるが、何もしたくない」
このあと、著者は「転向」をキーワードにして世代を語ってみようと試みる。
転向というとおおげさだが、アナログレコードをやめてCDを聞くようになったとき、マックをやめてウィンドウズにのりかえたとき、などの場面でも感じる「転向」だ。
それによると、次のとおり。
全共闘世代は政治的転向(価値的欲望。社会性への固執。超越的他者への欲望)
新人類世代は感性的転向(感性的欲望。超越論的他者への欲望)
団塊ジュニア世代は転向なし(超越論的否認)
ところで、なぜ若者たちは負けたと思いこむのかといえば、著者はこう書いている。
「彼らは負けたと思いこむことにおいて、自らのプライドを温存しているのではないか」
「負けたと思いこむこともナルシシズムの産物なのだ」
「負けた」教の信者とは、「自傷的自己愛にしかすがることのできない若者たち」をさしているのだ、という。
そう書いたあとの著者の語りかけが、共感できる。
ひきこもりやニートなど、ここで言う「負けた」教の信者を相手にしたとき、
「あなたに彼らを愛する自信がないのなら、どうかせめて、無関心のままでいてはくれまいか。若者の非社会性などという似非論壇めいた問題意識は、どうか忘れてはくれまいか。それは、あなたに直接害を加えない他者への、最低限の礼儀というものなのだ」
まったく!そのとーり!
嗤う日本の「ナショナリズム」
2006年11月13日 読書
ISBN:4140910240 単行本 北田 暁大 日本放送出版協会 ¥1,071
北田暁大の『嗤う日本のナショナリズム』を読んだ。
序章 『電車男』と憂国の徒−「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」
第1章 ゾンビたちの連合赤軍−総括と「60年代的なるもの」
1、「総括」とは何だったのか
2、方法としての反省
3、反省の極限へ−ゾンビとしての兵士たち
4、「60年代的なるもの」の終焉
第2章 コピーライターの思想とメタ広告−消費社会的アイロニズム
1、抵抗としての無反省−糸井重里の立ち位置
2、「メディア論」の萌芽−伝達様式への拘泥
3、消費社会的アイロニズムの展開−メタ広告の隆盛
4、新人類化とオタク化−消費社会的アイロニズムの転態
第3章 パロディの終焉と純粋テレビ−消費社会的シニシズム
1、(抵抗としての)無反省−田中康夫のパフォーマンス(括弧内の文字抹消線)
2、無反省という反省−川崎徹と80年代
3、消費社会のゾンビたち
第4章 ポスト80年代のゾンビたち−ロマン主義的シニシズム
1、シニシズムの変容とナンシー関
2、繋がりの社会性−2ちゃんねるにみるシニシズムとロマン主義
3、シニシストの実存主義
終章 スノッブの帝国−総括と補遺
60年代から現代に至るまでの、反省の歴史が描出されている。
60年代は自己否定(総括)
70年代は抵抗としての無反省
80年代は「抵抗としての」が抜け落ちた無反省
90年代は80年代への抵抗としての反省
これは、シニシズムの変化も伴っている。どうやらシニシズムというのは、現代を考えるうえでのキーワードらしく思えてきた。
著者が言うには本書の議論は、
「ベタな感情とアイロニカルな感性の共存、世界と『この私』との短絡−この二つのアンチノミーの来歴を探るべくはじめられた」
「アイロニー」もキーワードだな。うむうむ。
現代の2ちゃんねる的なナショナリズムは、政治思想のナショナリズムの文脈でとらえるべきものではなく、「人間」が死に、「歴史」が失われた地平からのロマン主義的シニシズムのなかから湧き上がってきたものだ。
つまりは根が無いので、問題にするに足りないともとれるが、だからこそ危険なのだとも言える。
なるほど。
この本は、60年代から現代まで、多くの素材を扱っている。
クボヅカ、電車男、糸井重里(西武のコピー)、津村喬、『なんとなく、クリスタル』、『ビックリハウス』、元気が出るテレビ、『サラダ記念日』、ナンシー関などなど。
それぞれが時代を代表するものだが、なぜだろう、読んでいて、とても恥ずかしかった。
昔の自分の写真や作文をみんなの前で公表されるような恥ずかしさを感じた。
要するに、ここで描写され、分析されているのは、他ならぬ自分自身の来歴なのだ、という意識が、恥として認識されたのだ。
スローターダイクの『シニカル理性批判』とコジェーヴのスノッブ論をひきあいに出して論をすすめているのも、なんとなく、恥ずかしい。
あまり研がれていない鈍い刃で切られているような気持悪さがあるのだ。
この感情がどこからくるのかは、また考えてみよう。
北田暁大の『嗤う日本のナショナリズム』を読んだ。
序章 『電車男』と憂国の徒−「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」
第1章 ゾンビたちの連合赤軍−総括と「60年代的なるもの」
1、「総括」とは何だったのか
2、方法としての反省
3、反省の極限へ−ゾンビとしての兵士たち
4、「60年代的なるもの」の終焉
第2章 コピーライターの思想とメタ広告−消費社会的アイロニズム
1、抵抗としての無反省−糸井重里の立ち位置
2、「メディア論」の萌芽−伝達様式への拘泥
3、消費社会的アイロニズムの展開−メタ広告の隆盛
4、新人類化とオタク化−消費社会的アイロニズムの転態
第3章 パロディの終焉と純粋テレビ−消費社会的シニシズム
1、(抵抗としての)無反省−田中康夫のパフォーマンス(括弧内の文字抹消線)
2、無反省という反省−川崎徹と80年代
3、消費社会のゾンビたち
第4章 ポスト80年代のゾンビたち−ロマン主義的シニシズム
1、シニシズムの変容とナンシー関
2、繋がりの社会性−2ちゃんねるにみるシニシズムとロマン主義
3、シニシストの実存主義
終章 スノッブの帝国−総括と補遺
60年代から現代に至るまでの、反省の歴史が描出されている。
60年代は自己否定(総括)
70年代は抵抗としての無反省
80年代は「抵抗としての」が抜け落ちた無反省
90年代は80年代への抵抗としての反省
これは、シニシズムの変化も伴っている。どうやらシニシズムというのは、現代を考えるうえでのキーワードらしく思えてきた。
著者が言うには本書の議論は、
「ベタな感情とアイロニカルな感性の共存、世界と『この私』との短絡−この二つのアンチノミーの来歴を探るべくはじめられた」
「アイロニー」もキーワードだな。うむうむ。
現代の2ちゃんねる的なナショナリズムは、政治思想のナショナリズムの文脈でとらえるべきものではなく、「人間」が死に、「歴史」が失われた地平からのロマン主義的シニシズムのなかから湧き上がってきたものだ。
つまりは根が無いので、問題にするに足りないともとれるが、だからこそ危険なのだとも言える。
なるほど。
この本は、60年代から現代まで、多くの素材を扱っている。
クボヅカ、電車男、糸井重里(西武のコピー)、津村喬、『なんとなく、クリスタル』、『ビックリハウス』、元気が出るテレビ、『サラダ記念日』、ナンシー関などなど。
それぞれが時代を代表するものだが、なぜだろう、読んでいて、とても恥ずかしかった。
昔の自分の写真や作文をみんなの前で公表されるような恥ずかしさを感じた。
要するに、ここで描写され、分析されているのは、他ならぬ自分自身の来歴なのだ、という意識が、恥として認識されたのだ。
スローターダイクの『シニカル理性批判』とコジェーヴのスノッブ論をひきあいに出して論をすすめているのも、なんとなく、恥ずかしい。
あまり研がれていない鈍い刃で切られているような気持悪さがあるのだ。
この感情がどこからくるのかは、また考えてみよう。
楽しき没落―種村季弘の綺想の映画館
2006年11月8日 読書
ISBN:4846004872 単行本 種村 季弘 論創社 ¥2,100
種村季弘の『楽しき没落』を読んだ。
サブタイトルに「種村季弘の綺想の映画館」とあるとおり、自選の映画エッセイ集。
以下、目次と、主にとりあげられている監督や作品など。
1(海外映画)
楽しき没落(ビリー・ワイルダー「お熱い夜をあなたに」)
物質の喜劇からの逃亡(ジョン・フランケンハイマー「影なき狙撃者」「大列車作戦」)
管理社会のなかの永久革命者(ロマン・ポランスキー「水の中のナイフ」)
映像死滅理論の魔笛奏者(フェデリコ・フェリーニ「81/2」)
仮面劇の復活(トニー・リチャードソン「ラヴド・ワン」)
終わりのない夜に旅立ったふたり(イングマル・ベルイマン「第七の封印」「沈黙」ロジェ・ヴァディム「血とバラ」)
キング・コングの図像学(メリアン・C・クーパー&アーネスト・B・シェードザック「キング・コング」)
魔女変身(ブルネロ・ロンディ「悪魔つき」)
スキャンダリストの栄光(ルイス・ブニュエル「昼顔」)
子供部屋のブニュエル(ルイス・ブニュエル「自由の幻想」)
運命の輪 格子の牢獄(ルイス・ブニュエル「ビリディアナ」)
ある双斧伝説(ダニエル・シュミット「デ・ジャ・ヴュ」)
ベラスケスの構図を見た(ビクトル・エリセ「マルメロの陽光」)
2(日本映画)
死にそこないの美学(鈴木清順「陽炎座」)
鏡が死児を育てる(吉田喜重「情炎」)
天邪鬼精神の健在(若松孝二「犯された白衣」「腹貸し女」)
アンチ・エロティカーの世界(三隅研次、イングマル・ベルイマン「野いちご」)
大衆映画は旧態を墨守せよ(五社英雄「丹下左膳 飛燕居合い斬り」)
怪奇映画の早すぎた埋葬(中川信夫「東海道四谷怪談」)
3(インタビュー)
綺想の映画館
単行本未収録のエッセイと、『怪物のユートピア』『夢の覗き箱』『死にそこないの美学』収録のエッセイを集めてあるが、すべてに加筆修正がなされている。
30年以上前のエッセイもあり、その文章は60年代、あるいは70年代の空気を反映し、著者自身の若さもあって、アグレッシブなものを感じる。
この本には、映画を見に行くことは、視覚と聴覚の楽しみだけでなく、映画館の雰囲気やら、そこにたどりつくまでの行程や、嗅覚、触覚などいろんな体験をすることだ、というようなことが書かれている。種村季弘の時代では、座席にナンキンムシがいて、坐ると痛いことも含めて、映画の体験だったのだ。
思えば、アングラ演劇を見に行ったり、ニューウェイヴのライブを見に行くときは、単なる観客でいるわけにはいかず、客も一緒になってその場を成立させていたように記憶している。
最近、自分が観客に徹していることが多く、これは時代のせいなのか、老いのせいなのか、と考えてみると、ちょっと寂しい。
種村季弘の『楽しき没落』を読んだ。
サブタイトルに「種村季弘の綺想の映画館」とあるとおり、自選の映画エッセイ集。
以下、目次と、主にとりあげられている監督や作品など。
1(海外映画)
楽しき没落(ビリー・ワイルダー「お熱い夜をあなたに」)
物質の喜劇からの逃亡(ジョン・フランケンハイマー「影なき狙撃者」「大列車作戦」)
管理社会のなかの永久革命者(ロマン・ポランスキー「水の中のナイフ」)
映像死滅理論の魔笛奏者(フェデリコ・フェリーニ「81/2」)
仮面劇の復活(トニー・リチャードソン「ラヴド・ワン」)
終わりのない夜に旅立ったふたり(イングマル・ベルイマン「第七の封印」「沈黙」ロジェ・ヴァディム「血とバラ」)
キング・コングの図像学(メリアン・C・クーパー&アーネスト・B・シェードザック「キング・コング」)
魔女変身(ブルネロ・ロンディ「悪魔つき」)
スキャンダリストの栄光(ルイス・ブニュエル「昼顔」)
子供部屋のブニュエル(ルイス・ブニュエル「自由の幻想」)
運命の輪 格子の牢獄(ルイス・ブニュエル「ビリディアナ」)
ある双斧伝説(ダニエル・シュミット「デ・ジャ・ヴュ」)
ベラスケスの構図を見た(ビクトル・エリセ「マルメロの陽光」)
2(日本映画)
死にそこないの美学(鈴木清順「陽炎座」)
鏡が死児を育てる(吉田喜重「情炎」)
天邪鬼精神の健在(若松孝二「犯された白衣」「腹貸し女」)
アンチ・エロティカーの世界(三隅研次、イングマル・ベルイマン「野いちご」)
大衆映画は旧態を墨守せよ(五社英雄「丹下左膳 飛燕居合い斬り」)
怪奇映画の早すぎた埋葬(中川信夫「東海道四谷怪談」)
3(インタビュー)
綺想の映画館
単行本未収録のエッセイと、『怪物のユートピア』『夢の覗き箱』『死にそこないの美学』収録のエッセイを集めてあるが、すべてに加筆修正がなされている。
30年以上前のエッセイもあり、その文章は60年代、あるいは70年代の空気を反映し、著者自身の若さもあって、アグレッシブなものを感じる。
この本には、映画を見に行くことは、視覚と聴覚の楽しみだけでなく、映画館の雰囲気やら、そこにたどりつくまでの行程や、嗅覚、触覚などいろんな体験をすることだ、というようなことが書かれている。種村季弘の時代では、座席にナンキンムシがいて、坐ると痛いことも含めて、映画の体験だったのだ。
思えば、アングラ演劇を見に行ったり、ニューウェイヴのライブを見に行くときは、単なる観客でいるわけにはいかず、客も一緒になってその場を成立させていたように記憶している。
最近、自分が観客に徹していることが多く、これは時代のせいなのか、老いのせいなのか、と考えてみると、ちょっと寂しい。
ISBN:4003203410 文庫 駒田 信二 岩波書店 ¥693
平凡社の中国古典文学大系版に加筆訂正をしたバ−ジョン。
1211年、南宋の桂万栄(ケイバンエイ)が編纂した裁判実話集。全部で144の章にわかれている。
こどもを引っ張りあって実の母親をつきとめる大岡政談の元ネタがあったりする。
いくつか例をひいておこう。
「絹布の切断」
我こそは絹の持ち主だと言い合う2人を前にして、役人は絹をまっぷたつに切ってそれぞれに分け与える。
その後を尾けて、かたや「この絹は太守さまからのいただきものだ」と大切にし、かたや「ひどいめにあった」とプンプン。
この態度の違いで、絹の持ち主をつきとめる。
「井中の死体」
井戸の中で夫が死んでいると泣く女。
近所の者にもあらためさせると「暗くてよくわかりません。ひきあげて確認しましょう」と。
それを聞いてひらめく。
暗くて確認できないのに、なぜ、夫だとわかったのか!
犯人の偽装工作をあばいた例や、犯人をおびきよせるために囮を使ったり、真相を言わせるために別件でつかまえてみたり。
それにしても、当時の中国で囮と拷問が横行していたのが驚きだ。
いや、現在の日本でもその実情は同じなのかもしれない。
普通なら逮捕されてもシラをきりとおせばいいものを、なぜかいったんつかまった容疑者たちはベラベラと自供をはじめるではないか。
精神的に何かされないかぎり、非常に不自然な話だ。
平凡社の中国古典文学大系版に加筆訂正をしたバ−ジョン。
1211年、南宋の桂万栄(ケイバンエイ)が編纂した裁判実話集。全部で144の章にわかれている。
こどもを引っ張りあって実の母親をつきとめる大岡政談の元ネタがあったりする。
いくつか例をひいておこう。
「絹布の切断」
我こそは絹の持ち主だと言い合う2人を前にして、役人は絹をまっぷたつに切ってそれぞれに分け与える。
その後を尾けて、かたや「この絹は太守さまからのいただきものだ」と大切にし、かたや「ひどいめにあった」とプンプン。
この態度の違いで、絹の持ち主をつきとめる。
「井中の死体」
井戸の中で夫が死んでいると泣く女。
近所の者にもあらためさせると「暗くてよくわかりません。ひきあげて確認しましょう」と。
それを聞いてひらめく。
暗くて確認できないのに、なぜ、夫だとわかったのか!
犯人の偽装工作をあばいた例や、犯人をおびきよせるために囮を使ったり、真相を言わせるために別件でつかまえてみたり。
それにしても、当時の中国で囮と拷問が横行していたのが驚きだ。
いや、現在の日本でもその実情は同じなのかもしれない。
普通なら逮捕されてもシラをきりとおせばいいものを、なぜかいったんつかまった容疑者たちはベラベラと自供をはじめるではないか。
精神的に何かされないかぎり、非常に不自然な話だ。
ジャスミンを銃口に―重信房子歌集
2006年11月6日 読書
ISBN:4344010159 単行本 重信 房子 幻冬舎 ¥1,470
日本赤軍の重信房子の短歌をおさめた本。
獄中から寄せられた短歌3500あまりの作品から選ばれている。
冬の夜を会いたい人の靴音はきっと今でも聞きわけられる
逆光に光るうぶ毛が踊るよう笑いころげた君のまぶしさ
な〜んて「赤軍」「獄中」とは無縁の抒情をうたったものもあれば、
もう二度と会えぬと思いし無期刑の友に証言台で会えた喜び
独房の唯一の居場所座布団のへこみに日々の重なりを知る
など、獄中のことがらを綴ったこと、
友の死を「見捨てたわけではないのだから」号泣する君の肩をゆさぶる
一行も書かない自伝を胸に秘め壮大な絵を君は描いた
Gジャンに口笛吹いてあらわれた軽やかな君今日が命日
などなど同志たちを描いた歌。
世界中敵になってもお前には我々が居ると父の文あり
わがために辛苦を受けし母なれど母ゆえにこそそれを語らず
など家族について。
泣かせるのは、巻末に載せられた姉からの手紙で、そこには重信房子の家族に対するマスコミや小市民たちの嫌がらせについて書いてある。
「死んで詫びろ」と言ってきた電話に、父親はこう答えたという。
「二十歳を過ぎた娘が自分の考えで行動していることを親がいちいち謝らんといかんのでしょうか。それは娘に対しても失礼です」
うむ。毅然としている。
先日読んだ香山リカの本でも、自己責任の問題で、本人のしでかしたことに対して、家族にバッシングがいくため、マスコミや小市民対策なのか、ひたすら謝りつづけている光景に違和感をとなえていた。
まったく。
重信房子はパレスチナにおいては、英雄である。
そして、彼女が問われている罪は、PFLPの作戦の「共謀」である。共謀したとされる関係者はアラブの地にいるか、あるいは既に死亡している。現実に何が起こったのか立証できないことで筋書きを書かれている。
パレスチナから呼ばれて来た証人は、裁判長に「彼女には罰ではなく、褒賞を与えてください!」と訴えたという。
この本にはあえておさめられなかったという、イデオロギーをよんだ膨大な数の短歌もぜひとも読んでみたいものだ。
誰だったか忘れてしまったが、英雄的な一面をもつ重信房子を、たった1つのエピソードで転落させてしまったコメンテーターがいて、そのイメージの喚起力に驚いたことがある。
それは、「彼女は歯槽のう漏なんですよ」というものだった。
栄光も一気に瓦解しちゃうんじゃないかな。
思想は歯槽のう漏に勝てないのか?
日本赤軍の重信房子の短歌をおさめた本。
獄中から寄せられた短歌3500あまりの作品から選ばれている。
冬の夜を会いたい人の靴音はきっと今でも聞きわけられる
逆光に光るうぶ毛が踊るよう笑いころげた君のまぶしさ
な〜んて「赤軍」「獄中」とは無縁の抒情をうたったものもあれば、
もう二度と会えぬと思いし無期刑の友に証言台で会えた喜び
独房の唯一の居場所座布団のへこみに日々の重なりを知る
など、獄中のことがらを綴ったこと、
友の死を「見捨てたわけではないのだから」号泣する君の肩をゆさぶる
一行も書かない自伝を胸に秘め壮大な絵を君は描いた
Gジャンに口笛吹いてあらわれた軽やかな君今日が命日
などなど同志たちを描いた歌。
世界中敵になってもお前には我々が居ると父の文あり
わがために辛苦を受けし母なれど母ゆえにこそそれを語らず
など家族について。
泣かせるのは、巻末に載せられた姉からの手紙で、そこには重信房子の家族に対するマスコミや小市民たちの嫌がらせについて書いてある。
「死んで詫びろ」と言ってきた電話に、父親はこう答えたという。
「二十歳を過ぎた娘が自分の考えで行動していることを親がいちいち謝らんといかんのでしょうか。それは娘に対しても失礼です」
うむ。毅然としている。
先日読んだ香山リカの本でも、自己責任の問題で、本人のしでかしたことに対して、家族にバッシングがいくため、マスコミや小市民対策なのか、ひたすら謝りつづけている光景に違和感をとなえていた。
まったく。
重信房子はパレスチナにおいては、英雄である。
そして、彼女が問われている罪は、PFLPの作戦の「共謀」である。共謀したとされる関係者はアラブの地にいるか、あるいは既に死亡している。現実に何が起こったのか立証できないことで筋書きを書かれている。
パレスチナから呼ばれて来た証人は、裁判長に「彼女には罰ではなく、褒賞を与えてください!」と訴えたという。
この本にはあえておさめられなかったという、イデオロギーをよんだ膨大な数の短歌もぜひとも読んでみたいものだ。
誰だったか忘れてしまったが、英雄的な一面をもつ重信房子を、たった1つのエピソードで転落させてしまったコメンテーターがいて、そのイメージの喚起力に驚いたことがある。
それは、「彼女は歯槽のう漏なんですよ」というものだった。
栄光も一気に瓦解しちゃうんじゃないかな。
思想は歯槽のう漏に勝てないのか?
うつし世の乱歩 父・江戸川乱歩の憶い出
2006年11月5日 読書
ISBN:4309017630 単行本 平井 隆太郎 河出書房新社 ¥1,890
家族としての乱歩の記録だけではない。
著者が1965年に書いた乱歩エッセイから、現在にいたるまでの、文章の進歩もみてとれる!
1、父の憶い出
父・乱歩の憶い出
亡父回顧
亡父の一面
2、父のことあれこれ
父・乱歩のことあれこれ
亡父乱歩の古い友人
父と少年小説
漫画オタクだった乱歩
父と終戦
亡父乱歩とユーモア
乱歩と机
もう一人の「江戸川乱歩」
3、父のいあ風景
亡父乱歩のいた光景
亡父随想
心理学的見地から見た明智対黒蜥蜴
怪人二十面相−怪盗から怪人へ
「常識」を超能力に変える術−「電人M」解説
理屈に合った「不思議な話」ー「透明怪人」解説
記録魔だった江戸川乱歩
4、父を語る−インタビュー、座談、講演
回想の江戸川乱歩
座談会 ミステリーの父・江戸川乱歩(中島河太郎、山村正夫、藤田昌司)
父、江戸川乱歩を語る
5、夫の魔力−乱歩夫人・平井隆
二様の性格
夫を語る
夫の魔力
あとがき 父に替わって/平井憲太郎
解説 乱歩の空/本多正一
乱歩は名張に生まれて、守口や門真に住んでいる時期が長かった。
夜遅くに「何ぞ食うもんないか」と家族の前にあらわれる思い出とか、「ビフテキ」のことをステーキなんだから「ビステキ」と呼んでいたエピソードなど、どうでもいいような思い出が、親近感をよんで、面白かった。
家族としての乱歩の記録だけではない。
著者が1965年に書いた乱歩エッセイから、現在にいたるまでの、文章の進歩もみてとれる!
1、父の憶い出
父・乱歩の憶い出
亡父回顧
亡父の一面
2、父のことあれこれ
父・乱歩のことあれこれ
亡父乱歩の古い友人
父と少年小説
漫画オタクだった乱歩
父と終戦
亡父乱歩とユーモア
乱歩と机
もう一人の「江戸川乱歩」
3、父のいあ風景
亡父乱歩のいた光景
亡父随想
心理学的見地から見た明智対黒蜥蜴
怪人二十面相−怪盗から怪人へ
「常識」を超能力に変える術−「電人M」解説
理屈に合った「不思議な話」ー「透明怪人」解説
記録魔だった江戸川乱歩
4、父を語る−インタビュー、座談、講演
回想の江戸川乱歩
座談会 ミステリーの父・江戸川乱歩(中島河太郎、山村正夫、藤田昌司)
父、江戸川乱歩を語る
5、夫の魔力−乱歩夫人・平井隆
二様の性格
夫を語る
夫の魔力
あとがき 父に替わって/平井憲太郎
解説 乱歩の空/本多正一
乱歩は名張に生まれて、守口や門真に住んでいる時期が長かった。
夜遅くに「何ぞ食うもんないか」と家族の前にあらわれる思い出とか、「ビフテキ」のことをステーキなんだから「ビステキ」と呼んでいたエピソードなど、どうでもいいような思い出が、親近感をよんで、面白かった。
ISBN:410542601X 単行本 栩木 玲子 新潮社 ¥1,260
エヴェリン・マクドネルの『ビョークが行く』を読んだ。
著者はポップミュージックの評論家。
出版されたのが2001年で、「ダンサーインザダーク」でアカデミ−賞会場で歌ったところまで。伝記ではなく、インタビューなどによって、著者がいかにしてビョークのファンになっていったのかをたどるような道筋になっている。
僕はシュガーキューブスが好きで、もちろんビョークも大好きだ。
いっとき、1時間ビョークばかり聞いて通勤していたことがある。
日本とは違って、アメリカでは、妖精のイメージはマイナスにしかならない。こどもっぽさは嫌われる。ビョークはそんなわけで、アメリカ人の著者には最初敬遠されているが、ビョークにずぶずぶとはまりこんでいく。
この本を読んだあとには、いくつかのエピソードが、きらめいていた。
●インタビューに答えて「このインタビューがアイスランド語だったら自分を恥じるわね。これは英語だからできるのよ。英語はチープな話題のための言葉だから」
●「私はなんでも好きなことを好きなようにすることができた。束縛されたことは一度もなかった。キルトの掛け布団をかぶったまま学校へ行ったこともあるのよ」
●「母は信号機のてっぺんにのぼって幽体離脱をしちゃうような、そんな人だった。頭がよくて、誇り高くて」
●アイスランドの人はパーティー狂だ。夜明けまでパーティーを楽しむ。ところが夜明けまでは数カ月かかる。
●「人生で最高なのは、赤ワインが1本あって友だちがいて、草の上で寝そべっているか、海に飛び込んでいるときね」
●「アメリカのロックンロール業界はアイスランドの電気工組合に比べてもずっと保守的。電気職人はとにかく適応が大事。毎年新しい器具が出てきて、新しい動きについていくためにいつもいつも研修を受けに行かなきゃならない。でもアメリカのロックンロール業界だけは別で、あの人たちはいつまでもジーンズはいて黒の革ジャン着てギターソロかなんかを聴いているのよ」
●「声は酸素を祝福する。これは体の中の大事なネットワークね。それから神経に相当するストリングス。最後のビートはパルスよ。血液と心臓。パルスは、楽しい曲は1分間にだいたい120ビート、これは私たちがハッピーなときの心拍数といっしょ。アグレッシヴな曲は1分で160ビートで、これはドラム&ベース。気持ちを鎮めたいときは1分間に60くらいまで落とせるかな」
●ビョークはアイスランド語で「白樺」の意味。
●ビョークがはじめて買ったレコードはスパークスの「キモノ・マイ・ハウス」
●「11才のときにレコードを出して、それがアイスランドで大ヒットして私はしりごみした。〜それから14才でパンクバンドはじめて〜それもやめてアインシュトゥルツェンデ・ノイボ−テン・バンドというテロリスト的なカルト実験アナーキー集団を始めて〜」
ふむ。ビョークが白鳥の衣装でアカデミー賞会場で歌ったときの映像って見たいな。
エヴェリン・マクドネルの『ビョークが行く』を読んだ。
著者はポップミュージックの評論家。
出版されたのが2001年で、「ダンサーインザダーク」でアカデミ−賞会場で歌ったところまで。伝記ではなく、インタビューなどによって、著者がいかにしてビョークのファンになっていったのかをたどるような道筋になっている。
僕はシュガーキューブスが好きで、もちろんビョークも大好きだ。
いっとき、1時間ビョークばかり聞いて通勤していたことがある。
日本とは違って、アメリカでは、妖精のイメージはマイナスにしかならない。こどもっぽさは嫌われる。ビョークはそんなわけで、アメリカ人の著者には最初敬遠されているが、ビョークにずぶずぶとはまりこんでいく。
この本を読んだあとには、いくつかのエピソードが、きらめいていた。
●インタビューに答えて「このインタビューがアイスランド語だったら自分を恥じるわね。これは英語だからできるのよ。英語はチープな話題のための言葉だから」
●「私はなんでも好きなことを好きなようにすることができた。束縛されたことは一度もなかった。キルトの掛け布団をかぶったまま学校へ行ったこともあるのよ」
●「母は信号機のてっぺんにのぼって幽体離脱をしちゃうような、そんな人だった。頭がよくて、誇り高くて」
●アイスランドの人はパーティー狂だ。夜明けまでパーティーを楽しむ。ところが夜明けまでは数カ月かかる。
●「人生で最高なのは、赤ワインが1本あって友だちがいて、草の上で寝そべっているか、海に飛び込んでいるときね」
●「アメリカのロックンロール業界はアイスランドの電気工組合に比べてもずっと保守的。電気職人はとにかく適応が大事。毎年新しい器具が出てきて、新しい動きについていくためにいつもいつも研修を受けに行かなきゃならない。でもアメリカのロックンロール業界だけは別で、あの人たちはいつまでもジーンズはいて黒の革ジャン着てギターソロかなんかを聴いているのよ」
●「声は酸素を祝福する。これは体の中の大事なネットワークね。それから神経に相当するストリングス。最後のビートはパルスよ。血液と心臓。パルスは、楽しい曲は1分間にだいたい120ビート、これは私たちがハッピーなときの心拍数といっしょ。アグレッシヴな曲は1分で160ビートで、これはドラム&ベース。気持ちを鎮めたいときは1分間に60くらいまで落とせるかな」
●ビョークはアイスランド語で「白樺」の意味。
●ビョークがはじめて買ったレコードはスパークスの「キモノ・マイ・ハウス」
●「11才のときにレコードを出して、それがアイスランドで大ヒットして私はしりごみした。〜それから14才でパンクバンドはじめて〜それもやめてアインシュトゥルツェンデ・ノイボ−テン・バンドというテロリスト的なカルト実験アナーキー集団を始めて〜」
ふむ。ビョークが白鳥の衣装でアカデミー賞会場で歌ったときの映像って見たいな。
七人のネコとトロンボーン
2006年10月23日 読書
ISBN:4643950943 単行本 谷 啓 読売新聞社 ¥1,427
谷啓の『七人のネコとトロンボーン』を読んだ。
1994年末から1995年7月にかけて『週刊読売』に連載された自伝エッセイ。
クレージーキャッツのリーダー、ハナ肇が死んでから1年たった後に書かれている。
石橋エータローも後を追うかのように胃癌で死んだ。
2人を欠いたクレージーキャッツではあるが、谷啓はこんなことを書いている。
ハナ肇の葬儀で、植木等が興奮のあまり「クレージーキャッツはきょう限り解散します」とマスコミに向けて言ったのを受けて。
「改めて解散することもないし、もちろんハナ肇亡き後解散式などもしていない」
「クレージーキャッツというものがあった以上、ご破算にしてしまうのは寂しい。いままで通りでいいのだ。植木等が思わず『解散だ』といった気持も十分に理解できるが、まあこのままでいいのじゃないか。解散しないクレージーキャッツを残しておこうよ」
クレージーキャッツのストーリーを追っていると、頭に思い浮かぶのはどうしてもモダンチョキチョキズのことになってしまう。曲を聞いても全然連想しないのに。
この本は今も現役で活躍している谷啓が書いているため、読み終えても寂しさが残らないのがいい。
谷啓はかなり変な人間なんだな、と改めて思い知らされる。
鬱々としている自分を鼓舞するために「JAPAN」の縫い取りをしたトレーナーを作って着、家の中をオリンピックにみたてて奮起する、とか。
ブレーキがきかなかったり、右折できなくなったりするボロの車で植木等を命の危険にさらしたり。
駅員さんの指さし確認にハマって、家の中でも常に動くときは指さし確認したり。
なかでも感心したのは、「ガチョーンの極意」
「ガチョーン」は麻雀で牌をひくときに「ビローン」とか「ピシッ」「ムヒュー」「クチョッ」など毎回違うかけ声をかける中から生まれた。
谷啓によるとガチョ−ンの極意は
「万物生きとし生けるものすべてを引きずり込み、一瞬、真空状態にしてガチョーンと引き抜くとバランスが崩れて周りの人たちが皆、なだれ落ちる」
という深いギャグなのだそうだ。ジョジョに出てくるスタンド顔負けだ。
クレージーキャッツがテレビ番組で横縞の紙を揺らしてうつし、画像が乱れていると視聴者に勘違いさせたエピソードが書いてあった。
アンディ・カウフマンの先取りだ!
かなり前、「笑う犬の冒険」で谷啓がレギュラーで出ていたとき、谷啓の笑いは時代遅れだと感じた。でも、こうして谷啓単体で見ると、めちゃくちゃ面白い。
クレージーキャッツ以外の場所では谷啓は場違いを実践しているかのようだ。
この本でも、欽ちゃんの番組に出ていたときの違和感を正直に書いている。
「ぼくは悩んだ。この目の前にいるナマの観客にウケればいいのか、それともテレビカメラの向こう側にいる一般のお茶の間の人にウケればいのか」なーんて。
比較的最近の「ウルルン」でガラスのトロンボーン作ったときのエピソードや、「釣りバカ日誌」のことなども書かれている。
今につながってる!
谷啓の『七人のネコとトロンボーン』を読んだ。
1994年末から1995年7月にかけて『週刊読売』に連載された自伝エッセイ。
クレージーキャッツのリーダー、ハナ肇が死んでから1年たった後に書かれている。
石橋エータローも後を追うかのように胃癌で死んだ。
2人を欠いたクレージーキャッツではあるが、谷啓はこんなことを書いている。
ハナ肇の葬儀で、植木等が興奮のあまり「クレージーキャッツはきょう限り解散します」とマスコミに向けて言ったのを受けて。
「改めて解散することもないし、もちろんハナ肇亡き後解散式などもしていない」
「クレージーキャッツというものがあった以上、ご破算にしてしまうのは寂しい。いままで通りでいいのだ。植木等が思わず『解散だ』といった気持も十分に理解できるが、まあこのままでいいのじゃないか。解散しないクレージーキャッツを残しておこうよ」
クレージーキャッツのストーリーを追っていると、頭に思い浮かぶのはどうしてもモダンチョキチョキズのことになってしまう。曲を聞いても全然連想しないのに。
この本は今も現役で活躍している谷啓が書いているため、読み終えても寂しさが残らないのがいい。
谷啓はかなり変な人間なんだな、と改めて思い知らされる。
鬱々としている自分を鼓舞するために「JAPAN」の縫い取りをしたトレーナーを作って着、家の中をオリンピックにみたてて奮起する、とか。
ブレーキがきかなかったり、右折できなくなったりするボロの車で植木等を命の危険にさらしたり。
駅員さんの指さし確認にハマって、家の中でも常に動くときは指さし確認したり。
なかでも感心したのは、「ガチョーンの極意」
「ガチョーン」は麻雀で牌をひくときに「ビローン」とか「ピシッ」「ムヒュー」「クチョッ」など毎回違うかけ声をかける中から生まれた。
谷啓によるとガチョ−ンの極意は
「万物生きとし生けるものすべてを引きずり込み、一瞬、真空状態にしてガチョーンと引き抜くとバランスが崩れて周りの人たちが皆、なだれ落ちる」
という深いギャグなのだそうだ。ジョジョに出てくるスタンド顔負けだ。
クレージーキャッツがテレビ番組で横縞の紙を揺らしてうつし、画像が乱れていると視聴者に勘違いさせたエピソードが書いてあった。
アンディ・カウフマンの先取りだ!
かなり前、「笑う犬の冒険」で谷啓がレギュラーで出ていたとき、谷啓の笑いは時代遅れだと感じた。でも、こうして谷啓単体で見ると、めちゃくちゃ面白い。
クレージーキャッツ以外の場所では谷啓は場違いを実践しているかのようだ。
この本でも、欽ちゃんの番組に出ていたときの違和感を正直に書いている。
「ぼくは悩んだ。この目の前にいるナマの観客にウケればいいのか、それともテレビカメラの向こう側にいる一般のお茶の間の人にウケればいのか」なーんて。
比較的最近の「ウルルン」でガラスのトロンボーン作ったときのエピソードや、「釣りバカ日誌」のことなども書かれている。
今につながってる!
ISBN:456050881X 新書 加藤 隆 白水社 ¥999
エティエンヌ・トロクメの『聖パウロ』を読んだ。
パウロは英語読みすると「ポール」だから、「聖パウロ」は「サンポール」と読めるのだ。
そのせいか、パウロというと、なんとなく、俗人のイメージがあった。(どこから類推してるのか!)しかも、押しが強くてちょっと迷惑な俗人。
そんな根拠のないイメージから逃れるために、パウロの評伝を読んでみた。多くの研究のうえに書かれた評伝なので、現代のパウロ像を知るには格好の書物のはずだ。
以下、目次。
1.パウロの生涯についての資料−その枠組と年代
2.初期のパウロ
3.エルサレムとの断絶
4.独立した伝道者
5.教会指導者
6.和解を求めて
7.敗北して
8.パウロの思想
9.遺産
パウロは最初は国粋主義グループ「ゼロテ」の一員であったと言われている。
使途行伝第8章で「サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った」と書かれている「サウロ」こそ、パウロのことだ。第9章には「サウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら云々」とある。キリスト教の敵だったのだ。
このサウロが天からさした光に照らされて主を幻視し、めくらになってしまう。
主の弟子アナニヤにより、「サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼はバプテスマを受け云々」、「目からウロコが落ちる」という慣用句の語源となるエピソードを体験。その後はキリスト教の布教、教会設立に生涯を捧げるのだ。キリスト教の信者になってからは、サウロはパウロの名をもつようになる。
ようするにパウロは自分の身に起こった超常現象によって、キリストを信ずるようになったのだ。ここがパウロの俗っぽさと感じるところで、納得いかない部分なのだ。
イエスは多くの人の病を癒した。そうした奇跡を目にして信仰に入る道筋は順当に見えるが、そうとも言い切れない。たまたまイエスが病気を癒したからキリスト教信者になったけど、それが別の誰かであれば、別の信仰に入ったということでもあるからだ。目の前にあるものに飛びついているだけだ。
ましてやサウロの場合は、いったん盲目にしておいてマッチポンプ的に視力を回復させているのだ。神もやることがあざとい。
以上は、本書を読む前の、僕のパウロ観だ。信仰に入るまでのエピソードだけでイメージを作ってしまっていた。
この本を読んで、パウロの思想や影響を知るにつけ、「俗っぽくて迷惑」という印象自体は変わらないものの、興味をひくことも出て来た。
第3章に「エルサレムとの断絶」とある。パウロはユダヤ人とそれ以外の異邦人とが同じ権利を持つものと考えていた。一方、エルサレム側では、モーセの律法が与えられたイスラエル人には選びの特権があるとし、異邦人を一段低くみたのだ。
パウロが示した「キリスト教徒にとっての義の唯一の源泉は信仰にある」とする思想は、16世紀のマルチン・ルター、ジャン・カルヴァンに、20世紀に入ってカール・バルトの神学に影響を与えている。
こうしてモーセの律法から全面的に解放されることになった信者たちのスローガンは「何をしてもいい」になったのだ。ここが面白い。
何をしたっていいのだが、まだそこまで解放されていない者を気遣ってやれ、というようなことを「ローマ人への手紙」で書いている。
第14章に、こうある。
「信仰の弱い者を受け入れなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない」
ユダヤ人の特権を認めず、異邦人を同等にみて、結果、モーセを軽視するに至るパウロの思想は自由度が高いように思われる。
ところが、パウロはガチガチの保守的人物でもあって、一夫一婦制を信奉、同性愛を認めず、奴隷制を認めている。
このあたりのバランスがまだ僕にはよくわからない。
もう少しパウロに関する本でも読んでから考えてみよう。
なお、本書ではじめて知ったのだが、キリスト教徒を呼ぶ言葉「クリスティアノス」は、油を注がれた者「クリストス」と、政治指導者につける語尾「イアヌス」を合成したものらしい。
(信者に対して政治指導者の語尾をつけたのは、それだけ党派性があり、皮肉が含まれていたからだ。キリスト教徒は皮肉めいた呼び名を自ら進んで取り入れて、その内容を実質的に書き換えたのだ)
トロクメは、「クリスティアヌス」に対して「ポマードを頭にぬりたくった者の党派」という解釈を示している。「あぶら代官」!「ポマード先生」!橋本内閣時代にこの本を読んでいたら、さぞかし愉快だったろう。
エティエンヌ・トロクメの『聖パウロ』を読んだ。
パウロは英語読みすると「ポール」だから、「聖パウロ」は「サンポール」と読めるのだ。
そのせいか、パウロというと、なんとなく、俗人のイメージがあった。(どこから類推してるのか!)しかも、押しが強くてちょっと迷惑な俗人。
そんな根拠のないイメージから逃れるために、パウロの評伝を読んでみた。多くの研究のうえに書かれた評伝なので、現代のパウロ像を知るには格好の書物のはずだ。
以下、目次。
1.パウロの生涯についての資料−その枠組と年代
2.初期のパウロ
3.エルサレムとの断絶
4.独立した伝道者
5.教会指導者
6.和解を求めて
7.敗北して
8.パウロの思想
9.遺産
パウロは最初は国粋主義グループ「ゼロテ」の一員であったと言われている。
使途行伝第8章で「サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った」と書かれている「サウロ」こそ、パウロのことだ。第9章には「サウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら云々」とある。キリスト教の敵だったのだ。
このサウロが天からさした光に照らされて主を幻視し、めくらになってしまう。
主の弟子アナニヤにより、「サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼はバプテスマを受け云々」、「目からウロコが落ちる」という慣用句の語源となるエピソードを体験。その後はキリスト教の布教、教会設立に生涯を捧げるのだ。キリスト教の信者になってからは、サウロはパウロの名をもつようになる。
ようするにパウロは自分の身に起こった超常現象によって、キリストを信ずるようになったのだ。ここがパウロの俗っぽさと感じるところで、納得いかない部分なのだ。
イエスは多くの人の病を癒した。そうした奇跡を目にして信仰に入る道筋は順当に見えるが、そうとも言い切れない。たまたまイエスが病気を癒したからキリスト教信者になったけど、それが別の誰かであれば、別の信仰に入ったということでもあるからだ。目の前にあるものに飛びついているだけだ。
ましてやサウロの場合は、いったん盲目にしておいてマッチポンプ的に視力を回復させているのだ。神もやることがあざとい。
以上は、本書を読む前の、僕のパウロ観だ。信仰に入るまでのエピソードだけでイメージを作ってしまっていた。
この本を読んで、パウロの思想や影響を知るにつけ、「俗っぽくて迷惑」という印象自体は変わらないものの、興味をひくことも出て来た。
第3章に「エルサレムとの断絶」とある。パウロはユダヤ人とそれ以外の異邦人とが同じ権利を持つものと考えていた。一方、エルサレム側では、モーセの律法が与えられたイスラエル人には選びの特権があるとし、異邦人を一段低くみたのだ。
パウロが示した「キリスト教徒にとっての義の唯一の源泉は信仰にある」とする思想は、16世紀のマルチン・ルター、ジャン・カルヴァンに、20世紀に入ってカール・バルトの神学に影響を与えている。
こうしてモーセの律法から全面的に解放されることになった信者たちのスローガンは「何をしてもいい」になったのだ。ここが面白い。
何をしたっていいのだが、まだそこまで解放されていない者を気遣ってやれ、というようなことを「ローマ人への手紙」で書いている。
第14章に、こうある。
「信仰の弱い者を受け入れなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない」
ユダヤ人の特権を認めず、異邦人を同等にみて、結果、モーセを軽視するに至るパウロの思想は自由度が高いように思われる。
ところが、パウロはガチガチの保守的人物でもあって、一夫一婦制を信奉、同性愛を認めず、奴隷制を認めている。
このあたりのバランスがまだ僕にはよくわからない。
もう少しパウロに関する本でも読んでから考えてみよう。
なお、本書ではじめて知ったのだが、キリスト教徒を呼ぶ言葉「クリスティアノス」は、油を注がれた者「クリストス」と、政治指導者につける語尾「イアヌス」を合成したものらしい。
(信者に対して政治指導者の語尾をつけたのは、それだけ党派性があり、皮肉が含まれていたからだ。キリスト教徒は皮肉めいた呼び名を自ら進んで取り入れて、その内容を実質的に書き換えたのだ)
トロクメは、「クリスティアヌス」に対して「ポマードを頭にぬりたくった者の党派」という解釈を示している。「あぶら代官」!「ポマード先生」!橋本内閣時代にこの本を読んでいたら、さぞかし愉快だったろう。
寺山修司−過激なる疾走
2006年10月17日 読書
ISBN:4582853315 新書 高取 英 平凡社 ¥819
高取英の『寺山修司−過激なる疾走』を読んだ。
寺山の近くにおり実態を知る著者が、多くの寺山関連の本を参考にし、また、それら著作の真偽も含めてまとめあげた評伝の決定版だと思う。
寺山の身近にいた者の本は、その人しか知らない証言も聞けて興味深いのだが、あまりにも些細なプライベートすぎてつまらなかったり、思い込みが強かったり、結局、その人との関わり以上の描写を越えないうらみがあった。
以下、目次。
第1章 父の戦病死と二人の「母」−寺山修司の生い立ち
第2章 孤独な少年は石川啄木にあこがれる−映画と俳句の関係
第3章 学生歌人の光と陰−『短歌研究』の特選と「模倣問題」
第4章 大学での初めての体験−恋愛とネフローゼと
第5章 シナリオ執筆で才能開花−1960年を生きる
第6章 エロスのアナキストへ−『乾いた湖』と60年安保闘争の関係
第7章 結婚と『家出のすすめ』−寺山修司の思想的背景
第8章 ライバルは三島由紀夫−サブカルチャーの先駆者として
第9章 「価値紊乱の時代」の煽動者−60年代後半のアングラ文化
第10章 映画と演劇における「私の解体」−『田園に死す』『星の王子さま』『青ひげ公の城』など
第11章 天井桟敷の実験とその疾走−「演劇の革命」を求めて
終章 私の墓は私のことば−「不完全な死体」から「完全な死体」へ
この本では寺山が好きでよく使っていた「去り行く一切は比喩にすぎない」というシュペングラーの言葉は、実はゲーテの『ファウスト』からの引用だった、などの指摘も時折はさまれており、面白い。
寺山修司享年47歳。
僕と同い年だ。
「寺山に比べて、自分が何をしてきたのか」なんて常套句は使わない。
過去は書き換え可能で、自分は物語の主人公なのである。何も自分を寺山の物語の傍役におとしめることもあるまい。
評伝だから当たり前なのだが、本を読んで終章に近付くにつれ、寺山の死がちかづいてくるのが、どうにもやりきれなくて、寂しかった。
「邪宗門」はかつて公演されたときには、客席からは野次や罵倒が飛び、黒子と観客が乱闘をはじめる一幕もあったという。つい先年、「邪宗門」を見に行ったときに、そのような騒然としたスキャンダラスな事件は起きなかった。寺山の過去の演劇は芸術の枠におさまってしまったかのようだ。寺山はやはりもっと長く生きて、今のこの時代の挑発者でもあるべきだった。死んだのはチョンボだ。
高取英の『寺山修司−過激なる疾走』を読んだ。
寺山の近くにおり実態を知る著者が、多くの寺山関連の本を参考にし、また、それら著作の真偽も含めてまとめあげた評伝の決定版だと思う。
寺山の身近にいた者の本は、その人しか知らない証言も聞けて興味深いのだが、あまりにも些細なプライベートすぎてつまらなかったり、思い込みが強かったり、結局、その人との関わり以上の描写を越えないうらみがあった。
以下、目次。
第1章 父の戦病死と二人の「母」−寺山修司の生い立ち
第2章 孤独な少年は石川啄木にあこがれる−映画と俳句の関係
第3章 学生歌人の光と陰−『短歌研究』の特選と「模倣問題」
第4章 大学での初めての体験−恋愛とネフローゼと
第5章 シナリオ執筆で才能開花−1960年を生きる
第6章 エロスのアナキストへ−『乾いた湖』と60年安保闘争の関係
第7章 結婚と『家出のすすめ』−寺山修司の思想的背景
第8章 ライバルは三島由紀夫−サブカルチャーの先駆者として
第9章 「価値紊乱の時代」の煽動者−60年代後半のアングラ文化
第10章 映画と演劇における「私の解体」−『田園に死す』『星の王子さま』『青ひげ公の城』など
第11章 天井桟敷の実験とその疾走−「演劇の革命」を求めて
終章 私の墓は私のことば−「不完全な死体」から「完全な死体」へ
この本では寺山が好きでよく使っていた「去り行く一切は比喩にすぎない」というシュペングラーの言葉は、実はゲーテの『ファウスト』からの引用だった、などの指摘も時折はさまれており、面白い。
寺山修司享年47歳。
僕と同い年だ。
「寺山に比べて、自分が何をしてきたのか」なんて常套句は使わない。
過去は書き換え可能で、自分は物語の主人公なのである。何も自分を寺山の物語の傍役におとしめることもあるまい。
評伝だから当たり前なのだが、本を読んで終章に近付くにつれ、寺山の死がちかづいてくるのが、どうにもやりきれなくて、寂しかった。
「邪宗門」はかつて公演されたときには、客席からは野次や罵倒が飛び、黒子と観客が乱闘をはじめる一幕もあったという。つい先年、「邪宗門」を見に行ったときに、そのような騒然としたスキャンダラスな事件は起きなかった。寺山の過去の演劇は芸術の枠におさまってしまったかのようだ。寺山はやはりもっと長く生きて、今のこの時代の挑発者でもあるべきだった。死んだのはチョンボだ。
ISBN:4791760263 単行本 高橋 啓 青土社 ¥1,995
ディディエ・デナンクスの『カニバル(食人種)』を読んだ。
1931年フランスで開催された植民地博覧会での物語。
この植民地博覧会には、ニューカレドニアから連れて来た食人種が展示されていた。
そこで「食人種」たちは、女も男も上半身裸で腰簑だけまとい、女は踊り、男は丸太を彫る。柱にのぼったり、走ったり、這ったり、槍を投げたり、矢を放ったりする約束になっていた。
「そして、5分ごとに仲間の誰かが前に進み出て、歯をむき出しにして大声を張り上げ、野次馬を脅かすことになっている」
もちろん、彼らは展示内容に記された一夫多妻でもなく、ふだんはちゃんと衣服を着た、ごく普通のクリスチャンたちで、当然、人食いでもない。
観客は、彼らを見て、餌を投げ込んだり、からかったりして楽しむのである。
この博覧会で展示されるはずのワニたちが、餌があわずに大量に死んでしまうところから、物語ははじまる。
急遽、ドイツのサーカスからワニをレンタルすることになるが、その見返りとして、彼ら食人種の一部が交換でサーカスの見世物としてピックアップされる。
拉致された女性を救出しようとして、残された先住民青年が博覧会を脱走して都会を冒険するのが、この小説の中身だ。
鉄道を使いたくても、文字も読めないし、システムもわからない。
地下は死者が眠る場所だというので、地下鉄に乗れない。
など、望んだわけでもない強制珍道中が展開する。
ここで描かれたフランスの植民地博覧会や、ドイツのサーカス団の鰐との交換は、実話に基づいている。
博覧会にかぎらず、マスコミで見る「〜の実態」がいかに実態からほどとおいものであるかは、実際に見聞きしてみればすぐわかる。テレビが入るとみんなヤラセになってしまうと考えた方がいいだろう。
僕自身も、かつてアイドルオタクとしてテレビに出たことがあるが、そのとき、エキセントリックなオタクの姿を期待されているのが痛いほど感じ取れた。
また、モダンチョキチョキズのとき、ふだんの僕をテレビで追った映像は、全部「こんなことをしていたら面白いだろうな」と考えた創作だった。あまりにも無茶苦茶なことばかりしていたので、まさかあれが実態だとは誰も思わないだろうが、うっかり信じてしまう人もあったかもしれない。
さて、小説に戻ると。
警官たちが、脱走した彼ら先住民を射殺しようとしたとき、通りすがりの男性が彼らを助ける。
「武器を持たない無防備の人間を撃つ権利はないぞ。彼が何をしたのか知らないが、そんなことをすれば殺人だ」
この男もつかまって護送されてしまう。
護送車の中で、この男が言う。
「人は行動を起こす前にあれこれ考える。それがいざというときに何もしない格好の口実になってしまう」
このひとことは重い!
最近、タクシーの運転手が殺害された事件があったが、かなりあとになってから「そういえば、助けてくれーと大声で叫んでクラクションを鳴らしまくっているタクシーがありました」と目撃証言が出てきた。そのときに何とかしてやれ!
ディディエ・デナンクスの『カニバル(食人種)』を読んだ。
1931年フランスで開催された植民地博覧会での物語。
この植民地博覧会には、ニューカレドニアから連れて来た食人種が展示されていた。
そこで「食人種」たちは、女も男も上半身裸で腰簑だけまとい、女は踊り、男は丸太を彫る。柱にのぼったり、走ったり、這ったり、槍を投げたり、矢を放ったりする約束になっていた。
「そして、5分ごとに仲間の誰かが前に進み出て、歯をむき出しにして大声を張り上げ、野次馬を脅かすことになっている」
もちろん、彼らは展示内容に記された一夫多妻でもなく、ふだんはちゃんと衣服を着た、ごく普通のクリスチャンたちで、当然、人食いでもない。
観客は、彼らを見て、餌を投げ込んだり、からかったりして楽しむのである。
この博覧会で展示されるはずのワニたちが、餌があわずに大量に死んでしまうところから、物語ははじまる。
急遽、ドイツのサーカスからワニをレンタルすることになるが、その見返りとして、彼ら食人種の一部が交換でサーカスの見世物としてピックアップされる。
拉致された女性を救出しようとして、残された先住民青年が博覧会を脱走して都会を冒険するのが、この小説の中身だ。
鉄道を使いたくても、文字も読めないし、システムもわからない。
地下は死者が眠る場所だというので、地下鉄に乗れない。
など、望んだわけでもない強制珍道中が展開する。
ここで描かれたフランスの植民地博覧会や、ドイツのサーカス団の鰐との交換は、実話に基づいている。
博覧会にかぎらず、マスコミで見る「〜の実態」がいかに実態からほどとおいものであるかは、実際に見聞きしてみればすぐわかる。テレビが入るとみんなヤラセになってしまうと考えた方がいいだろう。
僕自身も、かつてアイドルオタクとしてテレビに出たことがあるが、そのとき、エキセントリックなオタクの姿を期待されているのが痛いほど感じ取れた。
また、モダンチョキチョキズのとき、ふだんの僕をテレビで追った映像は、全部「こんなことをしていたら面白いだろうな」と考えた創作だった。あまりにも無茶苦茶なことばかりしていたので、まさかあれが実態だとは誰も思わないだろうが、うっかり信じてしまう人もあったかもしれない。
さて、小説に戻ると。
警官たちが、脱走した彼ら先住民を射殺しようとしたとき、通りすがりの男性が彼らを助ける。
「武器を持たない無防備の人間を撃つ権利はないぞ。彼が何をしたのか知らないが、そんなことをすれば殺人だ」
この男もつかまって護送されてしまう。
護送車の中で、この男が言う。
「人は行動を起こす前にあれこれ考える。それがいざというときに何もしない格好の口実になってしまう」
このひとことは重い!
最近、タクシーの運転手が殺害された事件があったが、かなりあとになってから「そういえば、助けてくれーと大声で叫んでクラクションを鳴らしまくっているタクシーがありました」と目撃証言が出てきた。そのときに何とかしてやれ!
ISBN:4896948238 単行本 藤代 幸一 八坂書房 ¥2,940
中世、ドイツ語圏の「死の舞踏」についての本。
「死の舞踏」は中世後期、宗教改革以前のローマカトリックの支配していたヨーロッパでの現象のこと。
それは絵画と詩の側面からは文化現象、ペストと死の側面からは社会現象ともとれる。
骸骨のような「死」がすべての階級の人に平等におとずれて、彼らの手をとり、踊りにいざなう。
各階級、職業のものは、死ぬことに抵抗するが、死はそれぞれに裁きをくだして、死の輪舞にまきこむのだ。
1424年、パリのフランシスコ修道院、聖イノサンの墓地の壁画にはじまるとされているが、『パリ一市民の日記』によってそれがわかるだけで、壁画そのものは失われている。
死の舞踏の成立には、キリスト教的死生観に基づき、ペストと梅毒と宗教戦争で死が身近にあったことと切り離せない。
以下、目次。
序章
リューベックの章
エアフルトの章
パリの章
バーゼルの章
死についての書二点
ヴュルツブルグの章
ベルリンの章1、2
終章
この本ではフランスでの死の舞踏に数十年遅れてまきおこったドイツ語圏の「死の舞踏」のあとをめぐっている。
タイトルに「旅」とあるように、実際にその地を訪れての紀行文的おもむきもある。
途中、15世紀に書かれたヨハネス・フォン・テープルの『ボヘミアのアッカーマン』とガイラー・フォン・カイザースベルグのドイツ語版『往生術』をもとりあげて中世ヨーロッパの死生観を掘り下げている。また、「ヴュルツブルグの死の舞踏」「ベルリンの死の舞踏」が訳出されており、これは貴重。
「ヴュルツブルグの死の舞踏」は「上部ドイツの死の舞踏」とも呼ばれてきたもので、イノサン墓地に先立つ1350年頃に書かれており、H・ローゼンフェルトによれば最古のテキストになるが、あいにくと、韻文詩のみで、絵がない。
ドイツにおける死の舞踏の成立をなんでもかんでもペストに関連づけようとするローゼンフェルトの説をいなし、また死を主題にした宗教劇からの成立説も留保し、著者はその起源を説教にあるとみる。
この本で翻訳された「ヴュルツブルグの死の舞踏」に顕著な、「プロロークの説教〜死と聖俗の人々との対話〜エピロークの説教」という構造、および、説教壇からはじまる構成などから、それがみてとれるという。
ペストを待つまでもなく、中世ドイツは寒冷地で飢饉が多く、寿命は平均35歳だった。死に対する心がまえを説く説教を人々は渇望しており、それが「死の舞踏」を成立させたという説は、説得力がある。
その心性は、なんだか日本人に近いものがあるように思えるが、逆に、日本的な心性を中世ドイツにあてはめているんじゃないか、という懸念もある。
この本を読んで、はじめて知る事柄が多かったが、なかでも目からウロコだったのは、ホルバインのこと。
「死の舞踏」といえばまっ先にホルバインの絵が思い浮かぶが、ホルバインの描く「死の舞踏」は、中世伝統の「死の舞踏」からの逸脱であり、芸術的表現の観点からは大傑作なのだが、「死の舞踏」本来の意図するところからは、離れているのだ。
ふむふむ。
中世、ドイツ語圏の「死の舞踏」についての本。
「死の舞踏」は中世後期、宗教改革以前のローマカトリックの支配していたヨーロッパでの現象のこと。
それは絵画と詩の側面からは文化現象、ペストと死の側面からは社会現象ともとれる。
骸骨のような「死」がすべての階級の人に平等におとずれて、彼らの手をとり、踊りにいざなう。
各階級、職業のものは、死ぬことに抵抗するが、死はそれぞれに裁きをくだして、死の輪舞にまきこむのだ。
1424年、パリのフランシスコ修道院、聖イノサンの墓地の壁画にはじまるとされているが、『パリ一市民の日記』によってそれがわかるだけで、壁画そのものは失われている。
死の舞踏の成立には、キリスト教的死生観に基づき、ペストと梅毒と宗教戦争で死が身近にあったことと切り離せない。
以下、目次。
序章
リューベックの章
エアフルトの章
パリの章
バーゼルの章
死についての書二点
ヴュルツブルグの章
ベルリンの章1、2
終章
この本ではフランスでの死の舞踏に数十年遅れてまきおこったドイツ語圏の「死の舞踏」のあとをめぐっている。
タイトルに「旅」とあるように、実際にその地を訪れての紀行文的おもむきもある。
途中、15世紀に書かれたヨハネス・フォン・テープルの『ボヘミアのアッカーマン』とガイラー・フォン・カイザースベルグのドイツ語版『往生術』をもとりあげて中世ヨーロッパの死生観を掘り下げている。また、「ヴュルツブルグの死の舞踏」「ベルリンの死の舞踏」が訳出されており、これは貴重。
「ヴュルツブルグの死の舞踏」は「上部ドイツの死の舞踏」とも呼ばれてきたもので、イノサン墓地に先立つ1350年頃に書かれており、H・ローゼンフェルトによれば最古のテキストになるが、あいにくと、韻文詩のみで、絵がない。
ドイツにおける死の舞踏の成立をなんでもかんでもペストに関連づけようとするローゼンフェルトの説をいなし、また死を主題にした宗教劇からの成立説も留保し、著者はその起源を説教にあるとみる。
この本で翻訳された「ヴュルツブルグの死の舞踏」に顕著な、「プロロークの説教〜死と聖俗の人々との対話〜エピロークの説教」という構造、および、説教壇からはじまる構成などから、それがみてとれるという。
ペストを待つまでもなく、中世ドイツは寒冷地で飢饉が多く、寿命は平均35歳だった。死に対する心がまえを説く説教を人々は渇望しており、それが「死の舞踏」を成立させたという説は、説得力がある。
その心性は、なんだか日本人に近いものがあるように思えるが、逆に、日本的な心性を中世ドイツにあてはめているんじゃないか、という懸念もある。
この本を読んで、はじめて知る事柄が多かったが、なかでも目からウロコだったのは、ホルバインのこと。
「死の舞踏」といえばまっ先にホルバインの絵が思い浮かぶが、ホルバインの描く「死の舞踏」は、中世伝統の「死の舞踏」からの逸脱であり、芸術的表現の観点からは大傑作なのだが、「死の舞踏」本来の意図するところからは、離れているのだ。
ふむふむ。
そして、憲法九条は。
2006年10月11日 読書
ISBN:4794966962 単行本 吉田 司 晶文社 ¥1,995
小泉圧勝政権のまとめから、戦後60年の総括。
第1章 いま直面していることは
1、戦後民主主義のグラウンドゼロ
2、無力なものが独裁者を愛する
第2章 何が変わってしまったのか
3、国のストックを民営化で奪い合う
4、聖なるものを与える天皇の存在
第3章 これまでの60年は何だったのか
5、戦後の出発点をどこに置くか
6、戦後日本の転換点79年
7、バブルが築いた民道楽土
第4章 われわれはどこに行こうとしているのか
8、バブル崩壊からオウム、北朝鮮へ
9、日本のネオコンが想定した朝鮮有事
10、そして、憲法9条は。
姜尚中は日本と北朝鮮の関係をいいものにしたいと以前からずっと言い続けている。
吉田司は満州を視野にいれた戦後論を展開する。
時間も空間も目先だけにとらわれず、大きく長い視点からの考えを推しているのだ。
出版は今年の2月だが、対談は去年のもので、今読むと予言の当たりはずれがわかって面白い。
当時は小泉内閣だったが、安倍晋三についても語っている部分がある。
安倍は2002年早稲田大学の講演で
「憲法上は原子爆弾だって問題ではないですからね。小型であれば」
と発言しているらしい。(サンデ−毎日2002年6月2日号)
そして
「現実的に日本は世界最大量のプルトニウムを備蓄していますね。それから濃縮ウラン」
「日本ほどの技術力があって、大量のプルトニウムと濃縮ウランを持っていれば、いつでも核に転用できる」
と論をすすめて、たとえば米中関係が敵対的になった場合には、アメリカが日本が核を持つことにオーケーを出すだろう、と予測する。
「それこそ非核三原則がどうなるかによるでしょうけど」
「安倍晋三さんの政権になったらわかりませんよ(笑)」
なーんて言ってる。ゾゾー。
さらに、こんなことも。
「いま北朝鮮ばかりが問題になっていますが、じつはIAEAの核査察のかなりのエネルギーは日本に注がれています」
そりゃそうだろう。
つい最近、してもいないのに号外で北朝鮮が核実験したと誤報が飛んだ。
既に有事扱いする論調も形成されつつある。
人の命をなんだと思っているのか。
小泉圧勝政権のまとめから、戦後60年の総括。
第1章 いま直面していることは
1、戦後民主主義のグラウンドゼロ
2、無力なものが独裁者を愛する
第2章 何が変わってしまったのか
3、国のストックを民営化で奪い合う
4、聖なるものを与える天皇の存在
第3章 これまでの60年は何だったのか
5、戦後の出発点をどこに置くか
6、戦後日本の転換点79年
7、バブルが築いた民道楽土
第4章 われわれはどこに行こうとしているのか
8、バブル崩壊からオウム、北朝鮮へ
9、日本のネオコンが想定した朝鮮有事
10、そして、憲法9条は。
姜尚中は日本と北朝鮮の関係をいいものにしたいと以前からずっと言い続けている。
吉田司は満州を視野にいれた戦後論を展開する。
時間も空間も目先だけにとらわれず、大きく長い視点からの考えを推しているのだ。
出版は今年の2月だが、対談は去年のもので、今読むと予言の当たりはずれがわかって面白い。
当時は小泉内閣だったが、安倍晋三についても語っている部分がある。
安倍は2002年早稲田大学の講演で
「憲法上は原子爆弾だって問題ではないですからね。小型であれば」
と発言しているらしい。(サンデ−毎日2002年6月2日号)
そして
「現実的に日本は世界最大量のプルトニウムを備蓄していますね。それから濃縮ウラン」
「日本ほどの技術力があって、大量のプルトニウムと濃縮ウランを持っていれば、いつでも核に転用できる」
と論をすすめて、たとえば米中関係が敵対的になった場合には、アメリカが日本が核を持つことにオーケーを出すだろう、と予測する。
「それこそ非核三原則がどうなるかによるでしょうけど」
「安倍晋三さんの政権になったらわかりませんよ(笑)」
なーんて言ってる。ゾゾー。
さらに、こんなことも。
「いま北朝鮮ばかりが問題になっていますが、じつはIAEAの核査察のかなりのエネルギーは日本に注がれています」
そりゃそうだろう。
つい最近、してもいないのに号外で北朝鮮が核実験したと誤報が飛んだ。
既に有事扱いする論調も形成されつつある。
人の命をなんだと思っているのか。