宮下英樹の『ヤマト猛る!』を読んだ。全6巻。
高校生相撲漫画。主人公は体重が60キロしかないソップ力士。
最初は拳法の掌底を「突っ張りケンポー」と名付けて大型力士に対するが、ストーリーが進行するにしたがい、まっとうな相撲とりになっていく。
この漫画、めちゃくちゃ男臭い。
女性が出て来て花を添えているのは最初のうちだけで、中盤あたりから、恋愛もなければサービスカットもない、男だらけの相撲大会になる。
こういう格闘漫画は、倒したらまたさらに強い奴が出て来て、無限に続くようなトラップに陥りがちだが、この『ヤマト猛る!』はインターハイで話が終わっており、とりあえずはまとまっている。
そのぶん、こじんまりとしすぎていると言えるかもしれない。
でも、これ以上、話が続くと、相撲の域を超えて行きそうだった。
ただ、ラストあたり、手首を痛めながら優勝しちゃう結果っていうのは、あんまりだ、と思った。それじゃまじで強すぎる。
痛みに堪えて頑張った。感動した!とは言えなかった。
僕も将来は相撲とりになりたい、と思っており、ためになる漫画だった。
迫力だけで触れもせずに相手を負かしてしまう「にらみ出し」という技が気に入ったので、それを得意技にできるように、オーラを練り上げたい。
21日のライブのために、いろいろ考えたり、練習してみたり、当日販売する小説集『反射ノベル』をつらつらと書いては推敲したりして過ごす。
本番はあっというまに終わってしまうんだけど。
高校生相撲漫画。主人公は体重が60キロしかないソップ力士。
最初は拳法の掌底を「突っ張りケンポー」と名付けて大型力士に対するが、ストーリーが進行するにしたがい、まっとうな相撲とりになっていく。
この漫画、めちゃくちゃ男臭い。
女性が出て来て花を添えているのは最初のうちだけで、中盤あたりから、恋愛もなければサービスカットもない、男だらけの相撲大会になる。
こういう格闘漫画は、倒したらまたさらに強い奴が出て来て、無限に続くようなトラップに陥りがちだが、この『ヤマト猛る!』はインターハイで話が終わっており、とりあえずはまとまっている。
そのぶん、こじんまりとしすぎていると言えるかもしれない。
でも、これ以上、話が続くと、相撲の域を超えて行きそうだった。
ただ、ラストあたり、手首を痛めながら優勝しちゃう結果っていうのは、あんまりだ、と思った。それじゃまじで強すぎる。
痛みに堪えて頑張った。感動した!とは言えなかった。
僕も将来は相撲とりになりたい、と思っており、ためになる漫画だった。
迫力だけで触れもせずに相手を負かしてしまう「にらみ出し」という技が気に入ったので、それを得意技にできるように、オーラを練り上げたい。
21日のライブのために、いろいろ考えたり、練習してみたり、当日販売する小説集『反射ノベル』をつらつらと書いては推敲したりして過ごす。
本番はあっというまに終わってしまうんだけど。
黒門市場の会議室で、テレビ番組のコメント収録。
う〜む、頭が働かない。
もっと面白くふるまうことが出来るはずだ、と思うが、僕は一素人として出演しているのだ。
タレントに求められる行動を基準に考える必要もあるまい、と思い直した。
放送は3月9日らしい。
土田世紀の『編集王』を読んだ。小学館のビッグコミックスワイドで全4巻。
漫画雑誌の編集の物語。
これ、かなり面白かった。
あしたのジョーに憧れてボクサーになったものの、網膜剥離で引退、雑誌社の編集部の仕事についた男が主人公。
売れることが第一の世界で壁にぶつかり挫折、変節していく理想。
そんな中で人はどう生きて行くか、なんて、かなりシビアな話が綴られている。
大御所になり惰性で作品を作る漫画家、女性だというだけで仕事を評価されない編集、低迷する文芸誌の編集、などなど、初期の志が金儲けや生活や、周囲のおだてなど、いろんな要素で失われてしまう話が多い。
そういう状況からの脱出は、現実的には、金儲けのレールからはずれる以外にない。
漫画家も編集も惰性で動く世界に、この主人公は率直なものの見方で切り込んでいく。
言わば、裸の王様を「裸だ」と看破する少年の役割を担うのだ。
良質な漫画を描くものは恵まれず、編集の言いなりに作家性を捨てるものだけが人気を集める。結局、漫画で人気が出るには「エロ」と「ケンカ」だ、なんて、ペシミスティックな展開に、この主人公はどう対峙していくのかが、見どころになっている。
『NANA』や『BECK』に見られる、メジャーな成功を喜ばしいものとする田舎ものの価値観は、この『編集王』で語られる「私は売れる作品よりも残る作品を書きたい」という思いには遥か遠く及ばない。
土田世紀のこの作品では、登場人物の多くが、実在の俳優などをモデルにして絵が描かれている。スターシステムなのか、と思わせるほどで、これが漫画の面白さに付加価値を与えているようだ。
西田敏行そっくりの漫画家が出てきたり、田村正和そっくりの編集が出て来たり。
でも、僕はなんだか違和感を覚えるのだ。どうにもこの描き方は、イメージを限定するようであまり好きになれない。
漫画はヴィジュアルの娯楽だから、イメージが絵に描かれたとおりに決定してしまうのは宿命である。
そんなことはわかっているのだが、たとえば小説がドラマ化されたとき、イメージどおりの配役でないことに違和感を覚えるように、漫画でもストーリーの内容と、それに配された役者のそっくりさんとのあいだにズレを感じることがある。
また、この『編集王』では、手塚治虫をモデルにしたと思われる「好塚」という大物漫画家が出て来る。(顔はモデルにされていなかったが、エピソードが手塚にそっくり)
この「好塚」は昔はいい漫画をいっぱい描いていたが、今や全然面白くない漫画しか描けず、アルコ−ル中毒でペンを持つのもたいへん、ほとんどがアシスタントまかせである。
僕は手塚治虫が好きだったのに「え〜、手塚って、アル中で、ほとんどアシスタントに描かせていたんだ!」なんて幻滅してしまった。
いや、アル中なのは「好塚」なんだとわかっていても、イメージがそうねじ曲げられる。
作者もあんまりだと思ったのか、最終話では好塚が駆け出しの頃のエピソードが挿入される。好塚のもとに、突然「漫画の神様」と呼ばれたこれぞ手塚治虫をモデルにした登場人物があらわれる。好塚は手塚じゃありませんよ、という作者のエクスキューズなのだ。
ストーリーが面白かっただけに、このモデルがあからさまな人物造型が惜しくてならない。
こういうのこそ、「エロ」や「ケンカ」に通じる、お手軽なその場かぎりの面白さじゃないか、と感じるのだ。
う〜む、頭が働かない。
もっと面白くふるまうことが出来るはずだ、と思うが、僕は一素人として出演しているのだ。
タレントに求められる行動を基準に考える必要もあるまい、と思い直した。
放送は3月9日らしい。
土田世紀の『編集王』を読んだ。小学館のビッグコミックスワイドで全4巻。
漫画雑誌の編集の物語。
これ、かなり面白かった。
あしたのジョーに憧れてボクサーになったものの、網膜剥離で引退、雑誌社の編集部の仕事についた男が主人公。
売れることが第一の世界で壁にぶつかり挫折、変節していく理想。
そんな中で人はどう生きて行くか、なんて、かなりシビアな話が綴られている。
大御所になり惰性で作品を作る漫画家、女性だというだけで仕事を評価されない編集、低迷する文芸誌の編集、などなど、初期の志が金儲けや生活や、周囲のおだてなど、いろんな要素で失われてしまう話が多い。
そういう状況からの脱出は、現実的には、金儲けのレールからはずれる以外にない。
漫画家も編集も惰性で動く世界に、この主人公は率直なものの見方で切り込んでいく。
言わば、裸の王様を「裸だ」と看破する少年の役割を担うのだ。
良質な漫画を描くものは恵まれず、編集の言いなりに作家性を捨てるものだけが人気を集める。結局、漫画で人気が出るには「エロ」と「ケンカ」だ、なんて、ペシミスティックな展開に、この主人公はどう対峙していくのかが、見どころになっている。
『NANA』や『BECK』に見られる、メジャーな成功を喜ばしいものとする田舎ものの価値観は、この『編集王』で語られる「私は売れる作品よりも残る作品を書きたい」という思いには遥か遠く及ばない。
土田世紀のこの作品では、登場人物の多くが、実在の俳優などをモデルにして絵が描かれている。スターシステムなのか、と思わせるほどで、これが漫画の面白さに付加価値を与えているようだ。
西田敏行そっくりの漫画家が出てきたり、田村正和そっくりの編集が出て来たり。
でも、僕はなんだか違和感を覚えるのだ。どうにもこの描き方は、イメージを限定するようであまり好きになれない。
漫画はヴィジュアルの娯楽だから、イメージが絵に描かれたとおりに決定してしまうのは宿命である。
そんなことはわかっているのだが、たとえば小説がドラマ化されたとき、イメージどおりの配役でないことに違和感を覚えるように、漫画でもストーリーの内容と、それに配された役者のそっくりさんとのあいだにズレを感じることがある。
また、この『編集王』では、手塚治虫をモデルにしたと思われる「好塚」という大物漫画家が出て来る。(顔はモデルにされていなかったが、エピソードが手塚にそっくり)
この「好塚」は昔はいい漫画をいっぱい描いていたが、今や全然面白くない漫画しか描けず、アルコ−ル中毒でペンを持つのもたいへん、ほとんどがアシスタントまかせである。
僕は手塚治虫が好きだったのに「え〜、手塚って、アル中で、ほとんどアシスタントに描かせていたんだ!」なんて幻滅してしまった。
いや、アル中なのは「好塚」なんだとわかっていても、イメージがそうねじ曲げられる。
作者もあんまりだと思ったのか、最終話では好塚が駆け出しの頃のエピソードが挿入される。好塚のもとに、突然「漫画の神様」と呼ばれたこれぞ手塚治虫をモデルにした登場人物があらわれる。好塚は手塚じゃありませんよ、という作者のエクスキューズなのだ。
ストーリーが面白かっただけに、このモデルがあからさまな人物造型が惜しくてならない。
こういうのこそ、「エロ」や「ケンカ」に通じる、お手軽なその場かぎりの面白さじゃないか、と感じるのだ。
旭太郎作、大城のぼる画の『火星探険』を読んだ。
1940年発刊のオールカラーSF科学漫画。
僕が読んだのは、オールカラー版ではなかったが、表紙などから、その美麗さが想像できる。
旭太郎は詩人小熊秀雄のペンネーム。
火星に生物はいるかどうか、という地球上での論争からはじまり、空想たっぷりの火星冒険(夢)、めざめて後、火星に関する科学的知識のレクチャー。
夢の部分の火星が面白い。火星人の姿がどこかで見たことあるなあ、と思ってたら、ピクミンだ!火星人がトマトを主食にしているところも「赤」つながりで納得しやすい。そのトマトは超美味なのだが、種も一緒に食べる普通の食べ方ではおなかの中でトマトが生えてきて、病気になってしまうところなど、愉快。
重力の関係で、火星では空中をふわふわと歩いて移動するのもきもちよさそうだ。
主人公たちを助けるマッチ棒みたいな火星人の看護婦さんが別れを惜しんで泣くシーンも可愛い。
主人公の少年がトンガリ帽子をかぶっているのはこれまた何故なのか。
以前、大城のぼるの『愉快な鉄工所』を読んだことがあるが、鉄工所が愉快なはずもなく、ほんわかしているが真面目なムードが抜けなかった。この『火星探険』は主人公の少年以外の登場人物、ひげをひっぱりあう博士や、ネコやイヌまで、チャーミングで、ユーモアたっぷり、真面目な部分以外に見どころがあって楽しかった。
この本には「火星探険への扉」と題するエッセイ、評論が巻末に集めてある。
「火星探険と昭和の漫画」小松左京、松本零士、司会:日高敏
「旭太郎の夢」木島始
「大城のぼると戦前のSF漫画」日高敏
「OH!漫画 鼎談 戦争まで」大城のぼる、手塚治虫、松本零士
「火星探険と小熊秀雄のマンガ原作」小野耕世
「誇り高き作風−大城のぼる『火星探険』の主人公・テン太郎」高橋康雄
「漫画の1930年代、建築の1930年代−大城のぼると土浦亀城」植田実
「火星探険−戦火に咲いたSFの花」いしかわじゅん
これらを読んで、あらためて手塚治虫の偉大さを実感した。手塚治虫が加わった鼎談では、松本零士(彼のコレクションから大城のぼる作品目録も作られている。それほどのコレクターで、大城のぼるについて詳しい)と、作者大城のぼる自身と語り合っている。ところが、手塚治虫の博覧強記の前では、松本零士はたまに質問する以外に発言することもできず、大城のぼる本人の発言も手塚治虫のツッコミで何度も修正させられていた。中央から発信される漫画の歴史には、この「火星探険」のようなナカムラマンガあたりはすっぽりと抜け落ちており、小松左京も手塚とともに、自分たちが子供の頃に読んでいた面白い漫画が全然漫画の歴史としてあがってこないことを嘆いていた。1940年は手塚治虫12才だから、漫画に詳しくてもおかしくない年齢だが、それを記録して残したり復刻したりする試みはどれほど為されているのだろう。こういう記憶の持ち主を次々と失って、歴史の闇に葬られていく素敵なものがどれだけあるのか、と思うと残念に思う。
1940年発刊のオールカラーSF科学漫画。
僕が読んだのは、オールカラー版ではなかったが、表紙などから、その美麗さが想像できる。
旭太郎は詩人小熊秀雄のペンネーム。
火星に生物はいるかどうか、という地球上での論争からはじまり、空想たっぷりの火星冒険(夢)、めざめて後、火星に関する科学的知識のレクチャー。
夢の部分の火星が面白い。火星人の姿がどこかで見たことあるなあ、と思ってたら、ピクミンだ!火星人がトマトを主食にしているところも「赤」つながりで納得しやすい。そのトマトは超美味なのだが、種も一緒に食べる普通の食べ方ではおなかの中でトマトが生えてきて、病気になってしまうところなど、愉快。
重力の関係で、火星では空中をふわふわと歩いて移動するのもきもちよさそうだ。
主人公たちを助けるマッチ棒みたいな火星人の看護婦さんが別れを惜しんで泣くシーンも可愛い。
主人公の少年がトンガリ帽子をかぶっているのはこれまた何故なのか。
以前、大城のぼるの『愉快な鉄工所』を読んだことがあるが、鉄工所が愉快なはずもなく、ほんわかしているが真面目なムードが抜けなかった。この『火星探険』は主人公の少年以外の登場人物、ひげをひっぱりあう博士や、ネコやイヌまで、チャーミングで、ユーモアたっぷり、真面目な部分以外に見どころがあって楽しかった。
この本には「火星探険への扉」と題するエッセイ、評論が巻末に集めてある。
「火星探険と昭和の漫画」小松左京、松本零士、司会:日高敏
「旭太郎の夢」木島始
「大城のぼると戦前のSF漫画」日高敏
「OH!漫画 鼎談 戦争まで」大城のぼる、手塚治虫、松本零士
「火星探険と小熊秀雄のマンガ原作」小野耕世
「誇り高き作風−大城のぼる『火星探険』の主人公・テン太郎」高橋康雄
「漫画の1930年代、建築の1930年代−大城のぼると土浦亀城」植田実
「火星探険−戦火に咲いたSFの花」いしかわじゅん
これらを読んで、あらためて手塚治虫の偉大さを実感した。手塚治虫が加わった鼎談では、松本零士(彼のコレクションから大城のぼる作品目録も作られている。それほどのコレクターで、大城のぼるについて詳しい)と、作者大城のぼる自身と語り合っている。ところが、手塚治虫の博覧強記の前では、松本零士はたまに質問する以外に発言することもできず、大城のぼる本人の発言も手塚治虫のツッコミで何度も修正させられていた。中央から発信される漫画の歴史には、この「火星探険」のようなナカムラマンガあたりはすっぽりと抜け落ちており、小松左京も手塚とともに、自分たちが子供の頃に読んでいた面白い漫画が全然漫画の歴史としてあがってこないことを嘆いていた。1940年は手塚治虫12才だから、漫画に詳しくてもおかしくない年齢だが、それを記録して残したり復刻したりする試みはどれほど為されているのだろう。こういう記憶の持ち主を次々と失って、歴史の闇に葬られていく素敵なものがどれだけあるのか、と思うと残念に思う。
日本橋ヨヲコの『G戦場ヘヴンズドア』全3巻を読んだ。
これもまた前向きな話。
漫画家の話なのだが、作中、決めぜりふというか、名言が大文字でバシッと決まる。
「自分から読み手を選ぶとは、思い上がりも甚だしい。そのプライドがある限り、お前は先へと進めんよ。オナニーは布団の中だけにしとくんだな」
第1巻で主人公の1人、堺田町蔵が父親(漫画家)から言われるプライドについての言葉。
これが最終巻になると、絵をほとんど描けなくなった鉄男のかわりに、みんなで漫画を代筆しようとする際、ある1人が漏らす「プライドないのか、君達は」の言葉に堺田町蔵がこう答えることになる。
「プライド?ありますよ。そんなもん。あるからこそどんな汚い手段使っても完成させますよ」
2つのプライドのいかに距離が隔たっていることか。
日本橋ヨヲコの作品は今回はじめて読んだ。
他の作品がどうなのかは知らないが、この作品には、名言癖とも言えるような作風が感じ取られる。かつて三島由紀夫を読んだときに、同じような印象を受けた。
この作品読んで、かなり感激したので、それらの言葉を覚え書きとして残しておくことにする。作品を読んでないと、特に名言とは思えないだろうが、作品の中では、ピシッと決まっているのだ。
「お前は天才かもしれねえ。けどそれだけだ。(中略)いいか、オレと組むなら手加減すんな。もしお前がもう一度、オレを震えさせてくれるのなら、この世界で、一緒に汚れてやる」
「わかりあおうと努力しなければならない友達ごっこなどもう終わりにしろ。お前に必要なのは、…なんだっけ」
(手品を見て、タネさえわかりゃ、誰でもできっじゃん。と言う堺田に、久美子が言う)「黙って見てな。深く考えないでさ、夢見せてもらいなよ」
(映画の終わりのエンディングクレジットロール中に私語する若者に対して、阿久田編集長が言う)「上映中の私語はすべての作品への冒涜行為だ。死ね」
(鉄男と堺田が漫画を合作することになり、鉄男を愛する久美子がその関係に嫉妬したとき、堺田が言う)「お前、要るよ。捨てられもしねーうちから勝手に拗ねんな。ふざけんな」
(愛人から父親の離婚を伝えられ「ふーん」と反応する堺田。愛人が「それだけ?」と聞いたときに、堺田が爆発する)「女なんて何言っても納得しねえじゃねえか。いちいち人の言葉に期待してんじゃねーよ」
(堺田が漫画にめざめて、愛人に言う)「セックスより面白いことを知ってしまいました。オレはもうそっちには戻れません。今まで相手してくれてありがとう」
(愛人が堺田に言う)「男が化ける瞬間て、たまんないのよ。やっと見れた」
「読者はあんたのファンじゃないのよ。がんばって読んでくれるなんて思わないことね。誰にでもわかるように作るのが、一番難しいのよ」
「本当に面白いマンガはね、心が健康じゃないと描けないんだよ」
「いい?これは仕事。本気でうそをつく仕事なのよ。あなたの描くうそは、誰かがお金を払ってでも騙されたいものかしら」
「君は、作品の一般的なイメージで、読んだつもりになってるんじゃないの?」
「漫画家に必要なものって、何スか?才能じゃなかったら、何なんスか?本物との差を決定的に分ける一線って、いったい何なんですか」「人格だよ」
「人はどんなに交わっても、本当はみんなひとりぼっちなんだよ」
この言葉を幼いときに聞いて理解できなかった堺田は、長じて意味を理解し、久美子に上記台詞に続けてこう言う。
「だから、お前は、長谷川鉄男の彼女でもなく、誰かのものじゃない、お前になれ。オレもちゃんと、堺田町蔵になる」
そして上記台詞を言ったときに父親が穏やかに笑っていたわけを知る。
「それは、寂しいことじゃないからだ」
「お前に鉄男のことはわからない。絶対にわからない。横であいつの彼女ヅラしてても、本当のことは何ひとつわからない。あいつの傷はお前では癒されない。でも、それでいいんだ」
まだまだいろいろあったけど、羅列はここまで。
なにか創作活動に携わる人にとっては、勇気づけられることの多い作品だと思う。少なくとも、僕はそうだった。逡巡などしている余裕はない。
これもまた前向きな話。
漫画家の話なのだが、作中、決めぜりふというか、名言が大文字でバシッと決まる。
「自分から読み手を選ぶとは、思い上がりも甚だしい。そのプライドがある限り、お前は先へと進めんよ。オナニーは布団の中だけにしとくんだな」
第1巻で主人公の1人、堺田町蔵が父親(漫画家)から言われるプライドについての言葉。
これが最終巻になると、絵をほとんど描けなくなった鉄男のかわりに、みんなで漫画を代筆しようとする際、ある1人が漏らす「プライドないのか、君達は」の言葉に堺田町蔵がこう答えることになる。
「プライド?ありますよ。そんなもん。あるからこそどんな汚い手段使っても完成させますよ」
2つのプライドのいかに距離が隔たっていることか。
日本橋ヨヲコの作品は今回はじめて読んだ。
他の作品がどうなのかは知らないが、この作品には、名言癖とも言えるような作風が感じ取られる。かつて三島由紀夫を読んだときに、同じような印象を受けた。
この作品読んで、かなり感激したので、それらの言葉を覚え書きとして残しておくことにする。作品を読んでないと、特に名言とは思えないだろうが、作品の中では、ピシッと決まっているのだ。
「お前は天才かもしれねえ。けどそれだけだ。(中略)いいか、オレと組むなら手加減すんな。もしお前がもう一度、オレを震えさせてくれるのなら、この世界で、一緒に汚れてやる」
「わかりあおうと努力しなければならない友達ごっこなどもう終わりにしろ。お前に必要なのは、…なんだっけ」
(手品を見て、タネさえわかりゃ、誰でもできっじゃん。と言う堺田に、久美子が言う)「黙って見てな。深く考えないでさ、夢見せてもらいなよ」
(映画の終わりのエンディングクレジットロール中に私語する若者に対して、阿久田編集長が言う)「上映中の私語はすべての作品への冒涜行為だ。死ね」
(鉄男と堺田が漫画を合作することになり、鉄男を愛する久美子がその関係に嫉妬したとき、堺田が言う)「お前、要るよ。捨てられもしねーうちから勝手に拗ねんな。ふざけんな」
(愛人から父親の離婚を伝えられ「ふーん」と反応する堺田。愛人が「それだけ?」と聞いたときに、堺田が爆発する)「女なんて何言っても納得しねえじゃねえか。いちいち人の言葉に期待してんじゃねーよ」
(堺田が漫画にめざめて、愛人に言う)「セックスより面白いことを知ってしまいました。オレはもうそっちには戻れません。今まで相手してくれてありがとう」
(愛人が堺田に言う)「男が化ける瞬間て、たまんないのよ。やっと見れた」
「読者はあんたのファンじゃないのよ。がんばって読んでくれるなんて思わないことね。誰にでもわかるように作るのが、一番難しいのよ」
「本当に面白いマンガはね、心が健康じゃないと描けないんだよ」
「いい?これは仕事。本気でうそをつく仕事なのよ。あなたの描くうそは、誰かがお金を払ってでも騙されたいものかしら」
「君は、作品の一般的なイメージで、読んだつもりになってるんじゃないの?」
「漫画家に必要なものって、何スか?才能じゃなかったら、何なんスか?本物との差を決定的に分ける一線って、いったい何なんですか」「人格だよ」
「人はどんなに交わっても、本当はみんなひとりぼっちなんだよ」
この言葉を幼いときに聞いて理解できなかった堺田は、長じて意味を理解し、久美子に上記台詞に続けてこう言う。
「だから、お前は、長谷川鉄男の彼女でもなく、誰かのものじゃない、お前になれ。オレもちゃんと、堺田町蔵になる」
そして上記台詞を言ったときに父親が穏やかに笑っていたわけを知る。
「それは、寂しいことじゃないからだ」
「お前に鉄男のことはわからない。絶対にわからない。横であいつの彼女ヅラしてても、本当のことは何ひとつわからない。あいつの傷はお前では癒されない。でも、それでいいんだ」
まだまだいろいろあったけど、羅列はここまで。
なにか創作活動に携わる人にとっては、勇気づけられることの多い作品だと思う。少なくとも、僕はそうだった。逡巡などしている余裕はない。
オデッセイ1966~2003―岡田史子作品集
2006年2月7日 アニメ・マンガ
岡田史子作品集『オデッセイ1966〜2003ガラス玉』と同じく『ピグマリオン』を読んだ。
サンコミックス版で岡田史子の漫画は読んでいたが、未発表作も収録されているとあって、再読してみたのだ。
ほとんどが60年代の作品で、自分の小学生時代とかぶっている。作品も小学生時代に読む世界の文学を思わせて、60年代の追体験としては理想的な再会だったと言えるだろう。
実際には僕は小学生どころか大学卒業するくらいまで、まったく文学を読まなかったのだが、嘘の経験を刷り込むにはピッタリだ。
ギリシア神話や演劇や、詩など、僕にとっての60年代を塗り替えてくれた気分だ。
これは、現代の漫画家がいくら頑張って文学的世界を築こうとしても不可能な気がする。
『ガラス玉』
ガラス玉
サンルームのひるさがり
黄色のジャン・川辺のポエム
フライハイトと白い骨
ポーヴレト
赤と青
天国の花
春のふしぎ
トッコ・さみしい心
オルペとユリデ
いずみよいずみ
私の絵本
イマジネイション
夢の中の宮殿
『ピグマリオン』
墓地へゆく道
太陽と骸骨のような少年
夏
ピグマリオン
死んでしまった手首−阿修羅王(前・後編)
耳なしホッホ
火焔−ひがもえる
火焔
Kaen
海の底の日よう日
邪悪のジャック
胸をいだき首をかしげるヘルマプロディトス
赤い蔓草(PART1・2)
また、岡田史子による「自分史を語る」(エッセイ)と監修者青島広志による「青島広志のスケッチブックより」(スケッチ)が巻末に分載されている。
『ピグマリオン』には1970年のインタビューも再録されており、これもまた、当時の世相を伝えている。
楽しい読書体験だった。一番好きだった「ガラス玉」はあいかわらず面白かった。
ガラス玉を失って分身を死なせてしまった少年が、ガラス玉を求めて「アトラクシア」という国に向かう。置き去りにされて「ガラス玉ってなんなのよ、レドのばか!」と泣く女。
女は、当初、少年レド・アールの尻をたたいて一緒にガラス玉探しにおもむくのだが、いざ、アトラクシアに行けばガラス玉が得られるとわかると、こう言い出す。
「だめよレド・アール!いっちゃだめ」
「へんだわよ。はじめからおわりまで奇妙だわ…およそ現実ばなれしたはなしだわ」
そのとおり。ガラス玉は精神と置き換えてもいいもので、工場で働きだして、ヴェイユよろしく精神を失ってしまったレド・アールは、アタラクシアをめざすのだ。即物的なガラス玉探しには乗り気だった女は、こうした精神の問題にはついていけない。
アタラクシア(平穏な快)をアトラクシアと書いているのは、そこに「アトラクト」という意味を付け加えたのかもしれないし、「タ」を「ト」に、「A」を「O」に変えることで、少年愛の肛門的快より言葉(文学)の快を求める作者の立場を表明したのかもしれない。
「タ」と「ト」で「外」という文字を分裂させることで、外部の亀裂を示した、という解釈は、「なんのこっちゃ」の言い過ぎだろうが、そんなことまで考えさせられる。
サンコミックス版で岡田史子の漫画は読んでいたが、未発表作も収録されているとあって、再読してみたのだ。
ほとんどが60年代の作品で、自分の小学生時代とかぶっている。作品も小学生時代に読む世界の文学を思わせて、60年代の追体験としては理想的な再会だったと言えるだろう。
実際には僕は小学生どころか大学卒業するくらいまで、まったく文学を読まなかったのだが、嘘の経験を刷り込むにはピッタリだ。
ギリシア神話や演劇や、詩など、僕にとっての60年代を塗り替えてくれた気分だ。
これは、現代の漫画家がいくら頑張って文学的世界を築こうとしても不可能な気がする。
『ガラス玉』
ガラス玉
サンルームのひるさがり
黄色のジャン・川辺のポエム
フライハイトと白い骨
ポーヴレト
赤と青
天国の花
春のふしぎ
トッコ・さみしい心
オルペとユリデ
いずみよいずみ
私の絵本
イマジネイション
夢の中の宮殿
『ピグマリオン』
墓地へゆく道
太陽と骸骨のような少年
夏
ピグマリオン
死んでしまった手首−阿修羅王(前・後編)
耳なしホッホ
火焔−ひがもえる
火焔
Kaen
海の底の日よう日
邪悪のジャック
胸をいだき首をかしげるヘルマプロディトス
赤い蔓草(PART1・2)
また、岡田史子による「自分史を語る」(エッセイ)と監修者青島広志による「青島広志のスケッチブックより」(スケッチ)が巻末に分載されている。
『ピグマリオン』には1970年のインタビューも再録されており、これもまた、当時の世相を伝えている。
楽しい読書体験だった。一番好きだった「ガラス玉」はあいかわらず面白かった。
ガラス玉を失って分身を死なせてしまった少年が、ガラス玉を求めて「アトラクシア」という国に向かう。置き去りにされて「ガラス玉ってなんなのよ、レドのばか!」と泣く女。
女は、当初、少年レド・アールの尻をたたいて一緒にガラス玉探しにおもむくのだが、いざ、アトラクシアに行けばガラス玉が得られるとわかると、こう言い出す。
「だめよレド・アール!いっちゃだめ」
「へんだわよ。はじめからおわりまで奇妙だわ…およそ現実ばなれしたはなしだわ」
そのとおり。ガラス玉は精神と置き換えてもいいもので、工場で働きだして、ヴェイユよろしく精神を失ってしまったレド・アールは、アタラクシアをめざすのだ。即物的なガラス玉探しには乗り気だった女は、こうした精神の問題にはついていけない。
アタラクシア(平穏な快)をアトラクシアと書いているのは、そこに「アトラクト」という意味を付け加えたのかもしれないし、「タ」を「ト」に、「A」を「O」に変えることで、少年愛の肛門的快より言葉(文学)の快を求める作者の立場を表明したのかもしれない。
「タ」と「ト」で「外」という文字を分裂させることで、外部の亀裂を示した、という解釈は、「なんのこっちゃ」の言い過ぎだろうが、そんなことまで考えさせられる。
あふがにすタン、極めてかもしだ
2006年2月2日 アニメ・マンガ
ちまきingの『あふがにすタン』を読んだ。
あふがにすタンは、アフガニスタンを擬人化したキャラクター。
萌え系と呼ばれる絵柄で、アフガニスタンの歴史を元ネタに4コマ漫画が描かれている。
あふがにすタンは、口数の少ない、いじめられっ子。
その他の国も同様にキャラクター化されている。
「ぱきすタン」は、あふがにすタンと仲良くなりたいのに、へそ曲がりで、なかなか素直になれない子。
「うずべきすタン」は背伸びしてお嬢様ぶっているお転婆、負けず嫌いで仕切りたがり。
「たじきすタン」は、お小遣いが少ないけど元気な江戸っ子娘。喧嘩っぱやい。
「きるぎすタン」は時々ぽろっと毒舌を吐く。
「とるくめにすタン」はマイペースでいつもぼーっとしている娘。
「かざふすタン」は読書家で苦労症、自尊心が高く、融通がきかない。
「めりけん」は金持ちで、ケンカが強い。
「ぶりてん」は社長令嬢。最近は景気が悪い。
「ろしあん」は名家のお嬢様。
「ひのもと」は巫女さんの格好。めりけんの言いなり。
全部で30の話が収録されており、19世紀のグレートゲーム(イギリスとロシアの外交駆け引き)から、ソ連のアフガニスタン侵攻、アメリカのアフガニスタン空爆、2004年のカルザイ政権までを描いている。
児童向けの学習漫画とは違って、これはターゲットがオタクたちに向いている。
それがいい。
漫画の内容はほんわかしているが、最近の4コマに比べて、まだ起承転結がある部類だと思える。
一番面白かったのは、「鮮烈の赤」と題したイラストで、数人のキャラクターの並び方が、そのまま世界地図の国の配置に相当しているのだ。
この伝でいくと、日本国内の都道府県をキャラクター化しても漫画が書けそうだ。
既にある?
念のために書いておくが、「大阪」は大阪府のキャラクタ−化ではないからね!(あずまんが大王)
さて、この本を読んでアフガニスタンをわかったつもりになるのは間違いだろう。
それは『嫌韓流』読んで、韓国のことをわかった気になるのが駄目なのと同様、そもそも、1冊本を読んだり、テレビ番組見ただけで、何かをわかったつもりになるのは早とちりというものだ。
でも、本書15話「見放された国」にあるように、アフガニスタンにまったく関心を持たない現状を考えると、ちょっとでもアフガニスタンに目を向けさせただけで、じゅうぶんな気がする。
世界の関心をひくために、タリバンはバーミヤンの磨崖仏をぶっ壊したのだ。
この漫画が磨崖仏爆破と同等の効果があったなら、快挙ではないか。
さて、今日はこの本以外に、山本直樹の『極めてかもしだ』全6巻を読んだ。
主人公の「かもしだ」は肉欲にまみれた自己中心的な人物で、ちびでおかっぱ頭の三白眼。
沖津要という女性と無理やり同居し、レイプまがいの毎日を送り、先生の情事を目撃してゆする。
僕は「かもしだ」のような奴が大嫌いなので、1、2巻あたりは、心の中で何度も「かもしだ」を血祭りにあげていた。
でも、中盤はかもしだが旅に出たり、後半は成績別クラス編成に反対して学校と対決したりして、最初のドタバタが薄れる。これがまた、つまらない。イライラしながら読んでいた最初のあたりがまだよかった、と思えるくらいだ。たまにかもしだがいいことを言ったりするのが、腹がたってしかたがない。
当時の読者は、よくあんな最低な男の傍若無人を許していたものだ。
ありゃ、コメディというよりも性犯罪だ。
こんなに嫌うのは、ひょっとして、どんなに嫌われても迫り続けるかもしだのセクシャルバイタリティがうらやましいのかもしれない。あそこまで男根の欲望のみに生きることができれば、幸せなのかもしれない。動物みたいで。
あふがにすタンは、アフガニスタンを擬人化したキャラクター。
萌え系と呼ばれる絵柄で、アフガニスタンの歴史を元ネタに4コマ漫画が描かれている。
あふがにすタンは、口数の少ない、いじめられっ子。
その他の国も同様にキャラクター化されている。
「ぱきすタン」は、あふがにすタンと仲良くなりたいのに、へそ曲がりで、なかなか素直になれない子。
「うずべきすタン」は背伸びしてお嬢様ぶっているお転婆、負けず嫌いで仕切りたがり。
「たじきすタン」は、お小遣いが少ないけど元気な江戸っ子娘。喧嘩っぱやい。
「きるぎすタン」は時々ぽろっと毒舌を吐く。
「とるくめにすタン」はマイペースでいつもぼーっとしている娘。
「かざふすタン」は読書家で苦労症、自尊心が高く、融通がきかない。
「めりけん」は金持ちで、ケンカが強い。
「ぶりてん」は社長令嬢。最近は景気が悪い。
「ろしあん」は名家のお嬢様。
「ひのもと」は巫女さんの格好。めりけんの言いなり。
全部で30の話が収録されており、19世紀のグレートゲーム(イギリスとロシアの外交駆け引き)から、ソ連のアフガニスタン侵攻、アメリカのアフガニスタン空爆、2004年のカルザイ政権までを描いている。
児童向けの学習漫画とは違って、これはターゲットがオタクたちに向いている。
それがいい。
漫画の内容はほんわかしているが、最近の4コマに比べて、まだ起承転結がある部類だと思える。
一番面白かったのは、「鮮烈の赤」と題したイラストで、数人のキャラクターの並び方が、そのまま世界地図の国の配置に相当しているのだ。
この伝でいくと、日本国内の都道府県をキャラクター化しても漫画が書けそうだ。
既にある?
念のために書いておくが、「大阪」は大阪府のキャラクタ−化ではないからね!(あずまんが大王)
さて、この本を読んでアフガニスタンをわかったつもりになるのは間違いだろう。
それは『嫌韓流』読んで、韓国のことをわかった気になるのが駄目なのと同様、そもそも、1冊本を読んだり、テレビ番組見ただけで、何かをわかったつもりになるのは早とちりというものだ。
でも、本書15話「見放された国」にあるように、アフガニスタンにまったく関心を持たない現状を考えると、ちょっとでもアフガニスタンに目を向けさせただけで、じゅうぶんな気がする。
世界の関心をひくために、タリバンはバーミヤンの磨崖仏をぶっ壊したのだ。
この漫画が磨崖仏爆破と同等の効果があったなら、快挙ではないか。
さて、今日はこの本以外に、山本直樹の『極めてかもしだ』全6巻を読んだ。
主人公の「かもしだ」は肉欲にまみれた自己中心的な人物で、ちびでおかっぱ頭の三白眼。
沖津要という女性と無理やり同居し、レイプまがいの毎日を送り、先生の情事を目撃してゆする。
僕は「かもしだ」のような奴が大嫌いなので、1、2巻あたりは、心の中で何度も「かもしだ」を血祭りにあげていた。
でも、中盤はかもしだが旅に出たり、後半は成績別クラス編成に反対して学校と対決したりして、最初のドタバタが薄れる。これがまた、つまらない。イライラしながら読んでいた最初のあたりがまだよかった、と思えるくらいだ。たまにかもしだがいいことを言ったりするのが、腹がたってしかたがない。
当時の読者は、よくあんな最低な男の傍若無人を許していたものだ。
ありゃ、コメディというよりも性犯罪だ。
こんなに嫌うのは、ひょっとして、どんなに嫌われても迫り続けるかもしだのセクシャルバイタリティがうらやましいのかもしれない。あそこまで男根の欲望のみに生きることができれば、幸せなのかもしれない。動物みたいで。
高橋しんの『最終兵器彼女』全7巻を読んだ。
かなり前に途中まで読んで放っておいたのを、映画化を機に読み直してみたのだ。
やはり、第1巻の面白さはダントツだ。
せつない恋愛物語で、戦争中なので、次々と人が死んで行く。
お涙ちょうだい的感動にはこと欠かないので、これは卑怯とさえ思った。
しかし、この漫画を読んでるあいだ、恋愛についていろいろ考えさせられた。
僕の基本的な考えは、恋愛は楽しいものなのだから、恋愛することで苦しんだり、悩んだりするくらいなら、やめてしまった方がましだ、というものだ。
そんなことはわかっているけど、人を好きになってしまう感情はおさえられない、とか、わかっているけど、悩んでしまう、なんていう「しかたない」という思い込みは、逃げにしか思えない。本当に悩まずに済むような努力を何かしたのだろうか。「こればっかりは感情の問題だから、どうしようもない」と最初から決めつけていないか。僕に言わせれば、感情の問題ほど、自分でどうにでもできる問題はないのだ。「お金がなくて困る」という問題を例にとれば、実際にお金を作ることは無理でも、お金がない状態で平気でいることは可能なのではないか。「自分はこういう性格だから」と言うのも、逃げだ。本当に性格を変えたいのなら、変わる。性格が変わらないのは、変えたくないからだ。感情がおさえられないのは、おさえたくないからだ。
第3巻に、ちせのこんなモノローグがある。
「シュウちゃん、ただのクラスメイトにもどろう」
「あの頃の二人に」
「恋人になる前の二人に」
「恋人にならなければ、こんな二人になることは、なかった」
「こんなに辛くなることもなかった」
「人を疑う気持ちなんて知りたくなかった」
「恋をすると自分が、どんなにヒドイ人間になるかなんて知りたくなかった」
「こんなに…こんなに切ない気持ちなんて知りたくなかった」
「恋人になる前の二人にもどろう」
「そしたら」
「あたしは、シュウちゃんに憧れているだけのあたしにもどるの」
「ただのクラスメイトに」
「明日、学校で会ったら、なんだか照れくさいね」
一方、シュウちゃんも、こんなことを思っている。
恋は人を変えてしまう、
人を、こんなに弱く切ないものに変えてしまう恋というものが、
ぼくは怖かったのかもしれない。
歯がゆい考えで、恋愛の一面しか見ていない視野の狭さに気が気じゃないのだが、これぞ思春期なのだ。自分が思春期を繰り返すつもりはさらさらないが、人の思春期ならではの愚行は愛おしくて、苦しまずにすむ方向に導いてあげたり、見守ってあげたりしたくなる。
そんな処方箋に目もくれないのが思春期の視野の狭さでもあるので、アドバイスを素直に聞き入れてくれないことなど最初からわかった上でのことなのだが。
親とか先生は「おまえのためを思って」といろいろ忠告したりするが、そんなもん、聞く耳持たないのはお互いさまなのがわかっていない。
おそらく正解である選択肢を教えてあげたあとは、本人の自由にまかせるしかないのだ。
なにが正解なのか、については、僕の答えはこう。
恋愛は楽しいものなのだから、それによって苦しんだりするのは、間違っている。
解決するのに、恋愛をやめるのは間違い。
あんな楽しいものをなぜ、やめねばならないのか!
かなり前に途中まで読んで放っておいたのを、映画化を機に読み直してみたのだ。
やはり、第1巻の面白さはダントツだ。
せつない恋愛物語で、戦争中なので、次々と人が死んで行く。
お涙ちょうだい的感動にはこと欠かないので、これは卑怯とさえ思った。
しかし、この漫画を読んでるあいだ、恋愛についていろいろ考えさせられた。
僕の基本的な考えは、恋愛は楽しいものなのだから、恋愛することで苦しんだり、悩んだりするくらいなら、やめてしまった方がましだ、というものだ。
そんなことはわかっているけど、人を好きになってしまう感情はおさえられない、とか、わかっているけど、悩んでしまう、なんていう「しかたない」という思い込みは、逃げにしか思えない。本当に悩まずに済むような努力を何かしたのだろうか。「こればっかりは感情の問題だから、どうしようもない」と最初から決めつけていないか。僕に言わせれば、感情の問題ほど、自分でどうにでもできる問題はないのだ。「お金がなくて困る」という問題を例にとれば、実際にお金を作ることは無理でも、お金がない状態で平気でいることは可能なのではないか。「自分はこういう性格だから」と言うのも、逃げだ。本当に性格を変えたいのなら、変わる。性格が変わらないのは、変えたくないからだ。感情がおさえられないのは、おさえたくないからだ。
第3巻に、ちせのこんなモノローグがある。
「シュウちゃん、ただのクラスメイトにもどろう」
「あの頃の二人に」
「恋人になる前の二人に」
「恋人にならなければ、こんな二人になることは、なかった」
「こんなに辛くなることもなかった」
「人を疑う気持ちなんて知りたくなかった」
「恋をすると自分が、どんなにヒドイ人間になるかなんて知りたくなかった」
「こんなに…こんなに切ない気持ちなんて知りたくなかった」
「恋人になる前の二人にもどろう」
「そしたら」
「あたしは、シュウちゃんに憧れているだけのあたしにもどるの」
「ただのクラスメイトに」
「明日、学校で会ったら、なんだか照れくさいね」
一方、シュウちゃんも、こんなことを思っている。
恋は人を変えてしまう、
人を、こんなに弱く切ないものに変えてしまう恋というものが、
ぼくは怖かったのかもしれない。
歯がゆい考えで、恋愛の一面しか見ていない視野の狭さに気が気じゃないのだが、これぞ思春期なのだ。自分が思春期を繰り返すつもりはさらさらないが、人の思春期ならではの愚行は愛おしくて、苦しまずにすむ方向に導いてあげたり、見守ってあげたりしたくなる。
そんな処方箋に目もくれないのが思春期の視野の狭さでもあるので、アドバイスを素直に聞き入れてくれないことなど最初からわかった上でのことなのだが。
親とか先生は「おまえのためを思って」といろいろ忠告したりするが、そんなもん、聞く耳持たないのはお互いさまなのがわかっていない。
おそらく正解である選択肢を教えてあげたあとは、本人の自由にまかせるしかないのだ。
なにが正解なのか、については、僕の答えはこう。
恋愛は楽しいものなのだから、それによって苦しんだりするのは、間違っている。
解決するのに、恋愛をやめるのは間違い。
あんな楽しいものをなぜ、やめねばならないのか!
一色まことの『出直しといで!』全6巻を読んだ。
高校学園コメディ。
茜という真っ正直な女の子と、優等生の土屋との恋愛を主軸にしているものの、多くの登場人物がそれぞれに悩みを抱えていて、それを真っ当に乗り越えていて、清清しい。
天然パーマに悩む子がいたり、茜のことが大好きな幼な馴染みがいたり、土屋のことを大好きな女の子がいたり、勉強にしか取り柄がないと思い込んでいるブスな子がいたり。
それら少年少女たちが、それぞれ欠点や弱点を抱えたまま成長していく姿が愛おしい。
ここでそれを言っちゃダメでしょ!みたいな発言もついついしてしまうのだ。
思えば、自分の現実にしても、どこで遊んでも、たいてい年少の友達ばかりなので、いきおい、悩みなどを聞く役にまわることが多い。
自分も同じくらい若ければ、きっと聞き逃すはずもない失言や暴言も、この年齢に達すると、フィルターをとおして対処することが可能だ。
僕ほど短気で神経質な人間もいないのだが、短気も神経質も、人のことを気にするのも、うぬぼれるのも、虚勢をはるのも、みんな抹消したい自分の醜い面だと思っているので、極力そんなものは無いことにしている。
自信だって、全然ないけど、他人を頼りにするのはさらにあてにならない、と思っている。
ただ、僕は交友関係に非常にめぐまれていて、僕自身はちっとも甘える気がないのに、まわりの友人たちが、支えてくれたり、援助してくれるのだ。ありがたい。
たとえば、今、僕は極端な貧乏で職場への電車賃もないほどなのだが、きっと、友人たちは、僕がちっとも「助けて」と言ってないのに、助けてくれるにちがいないのだ。
ね!みなさん。
僕はちっとも頼んでいないのに、なぜか、おこづかいくれる人が出てくるにちがいないのだ。
僕は全然頼んでいないのに、(しつこい!)
僕には何の悩みもない、と公言しているが、それは僕が自分で解決できない悩みなら、他の誰が考えても解決できるわけがない、と思っているからなのだ。
つまり、僕には悩みを抱くことが禁じられているのだ。
な〜んて、書いてみたが、たいていの問題は悩むまでもなく解決できるし、実際に悩みはないのだ。
あっ、1つだけ悩んでいたことがあって、この前録画した「最終兵器彼女」のビデオがどこに行ったのかわからない、というのがそれだったが。無事に発見できた。「アイドルアカデミー」の続きで録画されていたのだ。これで、たった1つの悩みも消えた。
こんな悩みしかない人生なんて、それこそ、「出直しといで!」なのかもしれない。
このところ、一色まことの作品ばかり読んでいるのは、読んでいていや〜な気持にならないのが保証されているからかもしれない。
渡る世間に鬼はない、と思っている。鬼がいるなら、鬼とも友達になるつもりだ。
高校学園コメディ。
茜という真っ正直な女の子と、優等生の土屋との恋愛を主軸にしているものの、多くの登場人物がそれぞれに悩みを抱えていて、それを真っ当に乗り越えていて、清清しい。
天然パーマに悩む子がいたり、茜のことが大好きな幼な馴染みがいたり、土屋のことを大好きな女の子がいたり、勉強にしか取り柄がないと思い込んでいるブスな子がいたり。
それら少年少女たちが、それぞれ欠点や弱点を抱えたまま成長していく姿が愛おしい。
ここでそれを言っちゃダメでしょ!みたいな発言もついついしてしまうのだ。
思えば、自分の現実にしても、どこで遊んでも、たいてい年少の友達ばかりなので、いきおい、悩みなどを聞く役にまわることが多い。
自分も同じくらい若ければ、きっと聞き逃すはずもない失言や暴言も、この年齢に達すると、フィルターをとおして対処することが可能だ。
僕ほど短気で神経質な人間もいないのだが、短気も神経質も、人のことを気にするのも、うぬぼれるのも、虚勢をはるのも、みんな抹消したい自分の醜い面だと思っているので、極力そんなものは無いことにしている。
自信だって、全然ないけど、他人を頼りにするのはさらにあてにならない、と思っている。
ただ、僕は交友関係に非常にめぐまれていて、僕自身はちっとも甘える気がないのに、まわりの友人たちが、支えてくれたり、援助してくれるのだ。ありがたい。
たとえば、今、僕は極端な貧乏で職場への電車賃もないほどなのだが、きっと、友人たちは、僕がちっとも「助けて」と言ってないのに、助けてくれるにちがいないのだ。
ね!みなさん。
僕はちっとも頼んでいないのに、なぜか、おこづかいくれる人が出てくるにちがいないのだ。
僕は全然頼んでいないのに、(しつこい!)
僕には何の悩みもない、と公言しているが、それは僕が自分で解決できない悩みなら、他の誰が考えても解決できるわけがない、と思っているからなのだ。
つまり、僕には悩みを抱くことが禁じられているのだ。
な〜んて、書いてみたが、たいていの問題は悩むまでもなく解決できるし、実際に悩みはないのだ。
あっ、1つだけ悩んでいたことがあって、この前録画した「最終兵器彼女」のビデオがどこに行ったのかわからない、というのがそれだったが。無事に発見できた。「アイドルアカデミー」の続きで録画されていたのだ。これで、たった1つの悩みも消えた。
こんな悩みしかない人生なんて、それこそ、「出直しといで!」なのかもしれない。
このところ、一色まことの作品ばかり読んでいるのは、読んでいていや〜な気持にならないのが保証されているからかもしれない。
渡る世間に鬼はない、と思っている。鬼がいるなら、鬼とも友達になるつもりだ。
一色まことの『ハッスル』全6巻を読んだ。
祇園の舞妓、りん太(リンダ)が女子プロレスラーになる物語。
カムバックした憧れの女子プロレスラーの新団体のオーディションを受け、旗揚げ試合に挑む。
ガイアジャパンに取材してるのが丸わかりで、どう見ても長与千種のレスラーが出てくるし、幼な馴染みのライバルはダイナマイト関西(?)、敵は井上貴子(?)
一色まことはどこにでもいる普通のぶさいくな女子を描かせたら超一流で、この漫画はわりとましな方だと思うけど、主人公のリンダは可愛いが、一緒に頑張るメンバーが、すごいことになっている。それはもう、思想を感じるほどだ。
リンダが前向きで頑張るところ、そしてそれをやり遂げてしまうところなど、読んでいて励まされること大。
練習の後、へとへとになってから、気持良く入浴するシーンに影響されて、この漫画読んでるあいだ、何度ツレ風呂したかしれない。
思い出しただけで、また入浴したくなってきた。
今日はエクチュアというチョコレート専門店で窓からの日ざし浴びながらホットチョコレート飲んだり、日本橋の純喫茶「バロック」でスタイリスティックス聞きながらホットケ−キ食べたり、ほっこりした1日だった。
帰宅してからも「現代の音楽」で林光聞いたり、「ハッスル」読んだりして、まさに入浴日和。
祇園の舞妓、りん太(リンダ)が女子プロレスラーになる物語。
カムバックした憧れの女子プロレスラーの新団体のオーディションを受け、旗揚げ試合に挑む。
ガイアジャパンに取材してるのが丸わかりで、どう見ても長与千種のレスラーが出てくるし、幼な馴染みのライバルはダイナマイト関西(?)、敵は井上貴子(?)
一色まことはどこにでもいる普通のぶさいくな女子を描かせたら超一流で、この漫画はわりとましな方だと思うけど、主人公のリンダは可愛いが、一緒に頑張るメンバーが、すごいことになっている。それはもう、思想を感じるほどだ。
リンダが前向きで頑張るところ、そしてそれをやり遂げてしまうところなど、読んでいて励まされること大。
練習の後、へとへとになってから、気持良く入浴するシーンに影響されて、この漫画読んでるあいだ、何度ツレ風呂したかしれない。
思い出しただけで、また入浴したくなってきた。
今日はエクチュアというチョコレート専門店で窓からの日ざし浴びながらホットチョコレート飲んだり、日本橋の純喫茶「バロック」でスタイリスティックス聞きながらホットケ−キ食べたり、ほっこりした1日だった。
帰宅してからも「現代の音楽」で林光聞いたり、「ハッスル」読んだりして、まさに入浴日和。
安達哲の『さくらの唄』全3巻を読んだ。
大荒れの思春期ストーリー。
どう大荒れかというと、金春夫妻という醜い現実のエージェントが、同居してきて、普通の学生なら脳内ですべて終わっている思春期の嵐が、現実の中で吹き荒れてしまうのだ。
主人公の自意識過剰っぷりや、精神の脆弱さは、思春期特有のもので、懐かしくて愛しいが、断固として撲滅すべきものである。
一方、金春夫妻がつきつける現実の醜さも、いくらでも代案があるもので、主人公が逃げ場を失っているように思うのは、まったくの錯覚なのだ。
現実は醜いというのが金春夫妻の主張だが、そうとはかぎらないことを、思春期を過ぎた者なら、だれでも知っている。「現実とはこうだ」と思い込んでいる金春夫妻もまた、思春期同様の視野の狭さをもっているのだ。
これは、視野の狭いもの同士の物語なのだ。
クライマックスでは現実の醜さはもう破れかぶれでファンタジー的様相を呈してくる。
そして、ラストでは、すべての鬱屈や悩みが「苦しんだだけ損でした」的ハッピーエンドを迎える。
ラストシーンで、この漫画のマドンナ役の仲村真理が言う。
「最初から自分信用してやればよかったのよ」
まさにその通り。
悩んだり、苦しんだりするのも、勉強のうち、経験のうち、なんておためごかしを言う人もいるが、悩みや苦しみはない方がいいに決まっている。
それでも悩んでしまう、それでも苦しみはつきまとう、と思っている人は、悩みや苦しみ無しではアイデンティティーを保てない性格なんじゃなかろうか。
でもなあ、思春期のあいだは、こんな簡単なことも、なかなかわからないんだなあ。
僕も思春期のあいだは、わからなかったもんなあ。
人生の中では、こんな大馬鹿な季節はほんの一瞬のことだが、それを描いた作品だから、「さくらの唄」とタイトルがつけられたんだろうか。
大荒れの思春期ストーリー。
どう大荒れかというと、金春夫妻という醜い現実のエージェントが、同居してきて、普通の学生なら脳内ですべて終わっている思春期の嵐が、現実の中で吹き荒れてしまうのだ。
主人公の自意識過剰っぷりや、精神の脆弱さは、思春期特有のもので、懐かしくて愛しいが、断固として撲滅すべきものである。
一方、金春夫妻がつきつける現実の醜さも、いくらでも代案があるもので、主人公が逃げ場を失っているように思うのは、まったくの錯覚なのだ。
現実は醜いというのが金春夫妻の主張だが、そうとはかぎらないことを、思春期を過ぎた者なら、だれでも知っている。「現実とはこうだ」と思い込んでいる金春夫妻もまた、思春期同様の視野の狭さをもっているのだ。
これは、視野の狭いもの同士の物語なのだ。
クライマックスでは現実の醜さはもう破れかぶれでファンタジー的様相を呈してくる。
そして、ラストでは、すべての鬱屈や悩みが「苦しんだだけ損でした」的ハッピーエンドを迎える。
ラストシーンで、この漫画のマドンナ役の仲村真理が言う。
「最初から自分信用してやればよかったのよ」
まさにその通り。
悩んだり、苦しんだりするのも、勉強のうち、経験のうち、なんておためごかしを言う人もいるが、悩みや苦しみはない方がいいに決まっている。
それでも悩んでしまう、それでも苦しみはつきまとう、と思っている人は、悩みや苦しみ無しではアイデンティティーを保てない性格なんじゃなかろうか。
でもなあ、思春期のあいだは、こんな簡単なことも、なかなかわからないんだなあ。
僕も思春期のあいだは、わからなかったもんなあ。
人生の中では、こんな大馬鹿な季節はほんの一瞬のことだが、それを描いた作品だから、「さくらの唄」とタイトルがつけられたんだろうか。
まいまいしい、花田少年史
2006年1月13日 アニメ・マンガ
京都造形芸術大学情報デザインコースの学生たちによる「まいまいしい」展を見て来た。
「まいまいしい」には「廻しい」に似た文字をあてている。
フライヤーにはカタツムリのイラストレーションがあり、「24人のアーティスト集団によるお化け屋敷」「誘い込まれる渦の中、そこは真冬の白昼夢」とか書いてある。
内容は、フライヤーどおり、お化け屋敷仕立てで、あしもとはギシギシと音の鳴る板。
這いつくばって蝸牛の殻の中を入って行ってみる影絵。
ニキの子宮にも似た入口を持つドームの中に待ち受ける包卵のオブジェ。
見上げるプラネタリウム式アニメーション。
のぞき穴から見る、日常生活の中に侵入した蝸牛たち。
おそらくは「ZOO」あたりにインスピレーションを受け、後発のガロ系漫画を製作として昇華させた趣きがあった。
ひとことで言えば、懐かしのサイケデリック風味があるのだ。
こどもが「こわい!」と叫んでおじけづいていたのが、面白かった。
見る者の参加によって展示が成立する、という方向性は大好きだ。
客がこれだけ動かされるのだから、もっと展示物、あるいは、展示会場も動くなり、変化するなりする工夫があれば、眩暈の度合も大きくなったのだろうが、学生の展示としては、じゅうぶん及第点をとっているだろう。
意味なく、単なる静物画とか風景画を展示するパビリオンが中に混在していても面白かったかもしれない。
ビックリハウスになっていてもよかった。
要するに、僕は遊園地でただ遊びたいのか。
一色まことの『花田少年史』4巻までを読んだ。
成仏できない霊を見ることができる少年。
霊たちは、この世に残した思いを少年によって何とか果たしてもらいたくて、少年に接近してくる。
一歩間違えば、幽遊白書にもなったかという設定だが、こちらの方は、主人公がハゲ丸だ。クリリンだ。ダサダサだ。
幽遊白書にならなくてよかった。
テレビアニメ化されたらしいが、1回も見ていない。
NHKあたりでアニメ化しそうな、健全でしっかりしたストーリーで、これは「やおい」だの「萌え」だのとは無縁なフィールドで存在することができた幸せな漫画だといえるだろう。
なお、この4巻までで、本編は完結しており、どうやら番外編の第5巻もあるらしい。読んで損のない物語なので、見つけたらまた読もう。
「まいまいしい」には「廻しい」に似た文字をあてている。
フライヤーにはカタツムリのイラストレーションがあり、「24人のアーティスト集団によるお化け屋敷」「誘い込まれる渦の中、そこは真冬の白昼夢」とか書いてある。
内容は、フライヤーどおり、お化け屋敷仕立てで、あしもとはギシギシと音の鳴る板。
這いつくばって蝸牛の殻の中を入って行ってみる影絵。
ニキの子宮にも似た入口を持つドームの中に待ち受ける包卵のオブジェ。
見上げるプラネタリウム式アニメーション。
のぞき穴から見る、日常生活の中に侵入した蝸牛たち。
おそらくは「ZOO」あたりにインスピレーションを受け、後発のガロ系漫画を製作として昇華させた趣きがあった。
ひとことで言えば、懐かしのサイケデリック風味があるのだ。
こどもが「こわい!」と叫んでおじけづいていたのが、面白かった。
見る者の参加によって展示が成立する、という方向性は大好きだ。
客がこれだけ動かされるのだから、もっと展示物、あるいは、展示会場も動くなり、変化するなりする工夫があれば、眩暈の度合も大きくなったのだろうが、学生の展示としては、じゅうぶん及第点をとっているだろう。
意味なく、単なる静物画とか風景画を展示するパビリオンが中に混在していても面白かったかもしれない。
ビックリハウスになっていてもよかった。
要するに、僕は遊園地でただ遊びたいのか。
一色まことの『花田少年史』4巻までを読んだ。
成仏できない霊を見ることができる少年。
霊たちは、この世に残した思いを少年によって何とか果たしてもらいたくて、少年に接近してくる。
一歩間違えば、幽遊白書にもなったかという設定だが、こちらの方は、主人公がハゲ丸だ。クリリンだ。ダサダサだ。
幽遊白書にならなくてよかった。
テレビアニメ化されたらしいが、1回も見ていない。
NHKあたりでアニメ化しそうな、健全でしっかりしたストーリーで、これは「やおい」だの「萌え」だのとは無縁なフィールドで存在することができた幸せな漫画だといえるだろう。
なお、この4巻までで、本編は完結しており、どうやら番外編の第5巻もあるらしい。読んで損のない物語なので、見つけたらまた読もう。
諸星大二郎の『西遊妖猿伝』双葉社バージョン全9巻を読んだ。この9冊で、第1部「大唐編」が完結する。
登場人物やストーリーのおおまかな設定は「西遊記」をベースにしているのだが、これは中国を舞台にしたまったく違う物語になっている。史実ともからんで、独特の伝奇の味わいが出ている。諸星流のとぼけたギャグもあったが、少ない、少ない。
第8巻と9巻の刊行は数年のあきがあった。
僕みたいに、後でまとめて読む者にはなんでもないが、リアルタイムで読んでいた人にはつらかっただろう。
この物語にはまだまだ続きがある。先が楽しみだ。
登場人物やストーリーのおおまかな設定は「西遊記」をベースにしているのだが、これは中国を舞台にしたまったく違う物語になっている。史実ともからんで、独特の伝奇の味わいが出ている。諸星流のとぼけたギャグもあったが、少ない、少ない。
第8巻と9巻の刊行は数年のあきがあった。
僕みたいに、後でまとめて読む者にはなんでもないが、リアルタイムで読んでいた人にはつらかっただろう。
この物語にはまだまだ続きがある。先が楽しみだ。
アイアン・ジャイアント、NINKU
2006年1月5日 アニメ・マンガ
ブラッド・バード監督の「アイアン・ジャイアント」を見た。1999年。
ブラッド・バードは「シンプソンズ」を手がけた人なので、センスの良さは最初から保証されたも同然だった。しかし、気になるのは、このアニメ映画を見た人が「泣く」「泣いた」「号泣した」なんて感想を並べていることで、そういうのは一番嫌な部類の映画にあたる。
空から落下してきた兵器ロボットが少年と出会う話。
と、いうと、たちまちに「フランケンシュタイン」か?「キングコング」か?「E.T.」か?と頭に浮かび、実際に見てみると、それらが間違いではないこともわかる。手塚治虫の「魔神ガロン」にも似ていた。
なーんだ、おなじみのパターン映画なのか、で済ますはずが、それがそういうわけには行かなかった。泣く。泣いた。号泣した。
パターンなのかもしれない。でも、あざとさが感じられなかった。なぜなんだろう。
ジョー・ジョンストンがデザインした巨大ロボットがよかったのか。ロケッティアの人だけあって、映画の時代設定、ちょっと昔のノスタルジックなムードをうまく出していた。どこかで見たような気がしてくるのだ。
製作総指揮にザ・フーのピート・タウンゼントの名前があるのも、ノスタルジックに拍車をかける。
ところで、「攻殻機動隊S.A.C.」や「BLOOD+」のProduction I.Gって、アイアン・ジャイアントの頭文字なのか!?と思い付いた。そうでなければ、イノキ・ジャイアントで、最強のプロレスラーを意味するのか?なんて考えてるまに調べたら、やっぱり違っていた。設立メンバーの石川光久(当社代表取締役)と後藤隆幸(当社取締役)の頭文字のIとGとをとって、”I.G”なんだって!
録画しておいてまだ見ていなかった劇場版「NINKU 忍空」も見た。
これもまた番外編としての定番路線王道を走っていた。
ニセ忍空に、ニセ用心棒。西部劇や時代劇の定番中の定番。
キャラクターだけ変えて同じストーリーが何回反復されたことか。
不思議なことに、アイアン・ジャイアントとは違って、この「忍空」は、好感も嫌悪もなく、サラッと流れていってしまった。
登場人物を空欄にして、いろんなキャラクターを代入しただけみたいな、やっつけ仕事を見せられたような感想しか湧かなかった。
どこがどう違うというのか。
確かに、現代性もなければ、メッセージもない「忍空」だったけど。
ブラッド・バードは「シンプソンズ」を手がけた人なので、センスの良さは最初から保証されたも同然だった。しかし、気になるのは、このアニメ映画を見た人が「泣く」「泣いた」「号泣した」なんて感想を並べていることで、そういうのは一番嫌な部類の映画にあたる。
空から落下してきた兵器ロボットが少年と出会う話。
と、いうと、たちまちに「フランケンシュタイン」か?「キングコング」か?「E.T.」か?と頭に浮かび、実際に見てみると、それらが間違いではないこともわかる。手塚治虫の「魔神ガロン」にも似ていた。
なーんだ、おなじみのパターン映画なのか、で済ますはずが、それがそういうわけには行かなかった。泣く。泣いた。号泣した。
パターンなのかもしれない。でも、あざとさが感じられなかった。なぜなんだろう。
ジョー・ジョンストンがデザインした巨大ロボットがよかったのか。ロケッティアの人だけあって、映画の時代設定、ちょっと昔のノスタルジックなムードをうまく出していた。どこかで見たような気がしてくるのだ。
製作総指揮にザ・フーのピート・タウンゼントの名前があるのも、ノスタルジックに拍車をかける。
ところで、「攻殻機動隊S.A.C.」や「BLOOD+」のProduction I.Gって、アイアン・ジャイアントの頭文字なのか!?と思い付いた。そうでなければ、イノキ・ジャイアントで、最強のプロレスラーを意味するのか?なんて考えてるまに調べたら、やっぱり違っていた。設立メンバーの石川光久(当社代表取締役)と後藤隆幸(当社取締役)の頭文字のIとGとをとって、”I.G”なんだって!
録画しておいてまだ見ていなかった劇場版「NINKU 忍空」も見た。
これもまた番外編としての定番路線王道を走っていた。
ニセ忍空に、ニセ用心棒。西部劇や時代劇の定番中の定番。
キャラクターだけ変えて同じストーリーが何回反復されたことか。
不思議なことに、アイアン・ジャイアントとは違って、この「忍空」は、好感も嫌悪もなく、サラッと流れていってしまった。
登場人物を空欄にして、いろんなキャラクターを代入しただけみたいな、やっつけ仕事を見せられたような感想しか湧かなかった。
どこがどう違うというのか。
確かに、現代性もなければ、メッセージもない「忍空」だったけど。
曽田正人の『め組の大吾』全20巻を読んだ。
テレビドラマ化されているが、そっちの方はまったく見ていない。
消防士の物語で、ドラマチックなヒーローもの、作者の言葉で言えば、「かっこいい」ストーリーが展開する。
前向きな話なので、読んでいて、何度衿をただしたことやらしれない。
消防士や警察の話だと、規則をきっちりと守って、優等生として振舞っていてもドラマは生まれない。
はみだした人物が、その行動への支障をクリアしながら、成果をあげるところに醍醐味がある。
この漫画でも、一歩間違えると大惨事になっていたケースを、主人公の持つ強運と、カリスマ性によって切り抜けていく。
こうしてみると、どんな仕事でも、あるいは、暇つぶしでも、それに一所懸命に没頭すれば、ヒーローになりうるんだな、と思えてくる。
好きなことは加減を考えたりせずに、思いっきりやりたいものだ。
この前読んだスタージョンの「成熟」という中編で、「ほどを知るのが成熟」という締めの言葉があった。ならば、成熟なんてつまらない。スタージョンの作品も、成熟したゆえに滅んでしまった人間を描いている。成熟とは後戻り可能な力を持ち、前進よりは後戻りする智恵をもつことだと思う。成熟には要注意だ。
テレビドラマ化されているが、そっちの方はまったく見ていない。
消防士の物語で、ドラマチックなヒーローもの、作者の言葉で言えば、「かっこいい」ストーリーが展開する。
前向きな話なので、読んでいて、何度衿をただしたことやらしれない。
消防士や警察の話だと、規則をきっちりと守って、優等生として振舞っていてもドラマは生まれない。
はみだした人物が、その行動への支障をクリアしながら、成果をあげるところに醍醐味がある。
この漫画でも、一歩間違えると大惨事になっていたケースを、主人公の持つ強運と、カリスマ性によって切り抜けていく。
こうしてみると、どんな仕事でも、あるいは、暇つぶしでも、それに一所懸命に没頭すれば、ヒーローになりうるんだな、と思えてくる。
好きなことは加減を考えたりせずに、思いっきりやりたいものだ。
この前読んだスタージョンの「成熟」という中編で、「ほどを知るのが成熟」という締めの言葉があった。ならば、成熟なんてつまらない。スタージョンの作品も、成熟したゆえに滅んでしまった人間を描いている。成熟とは後戻り可能な力を持ち、前進よりは後戻りする智恵をもつことだと思う。成熟には要注意だ。
ジム・ウードリング展
2005年12月18日 アニメ・マンガ京都のトランスポップギャラリーに行ってきた。
http://www.trancepop.jp/
ジム・ウードリングの原画展をしているのだが、この日は、アニメーションDVD発売を記念して、上映会も開かれていたのだ。
アニメーションは、ジム・ウードリングのコミックを原作に、いろんな手法で作られている。
布山タルト、ヨシムラエリ、art unit COCOA、タマプロ・ドロップ、内藤昌樹、川口華奈子、永田ナヲミ等、ジム自身によるオープニングアニメ以外は、日本人の作家による作品で、DVDにおさめられた全作品と、DVD未収録の2作品(あしたのんき、山登恭子)が上映された。
また、オリジナルバージョンとは別に、国内外のミュージシャンが音楽をつけたバージョンもDVDには収録されていて、ビル・フリーゼルとか、キセルなどが音をつけている。
さて、上映会だが、サイケデリックな魅力が反映されていた作品は楽しく見れた。
川口華奈子作品は人形アニメでテンポがゆっくりとしているのだが、これは原作の内容に合致していて(「死に感謝します」のエピソード)、苦にならず、見た作品中、1、2を争う出来だったように思う。
http://www.jimwoodring.com/
http://www.trancepop.jp/
ジム・ウードリングの原画展をしているのだが、この日は、アニメーションDVD発売を記念して、上映会も開かれていたのだ。
アニメーションは、ジム・ウードリングのコミックを原作に、いろんな手法で作られている。
布山タルト、ヨシムラエリ、art unit COCOA、タマプロ・ドロップ、内藤昌樹、川口華奈子、永田ナヲミ等、ジム自身によるオープニングアニメ以外は、日本人の作家による作品で、DVDにおさめられた全作品と、DVD未収録の2作品(あしたのんき、山登恭子)が上映された。
また、オリジナルバージョンとは別に、国内外のミュージシャンが音楽をつけたバージョンもDVDには収録されていて、ビル・フリーゼルとか、キセルなどが音をつけている。
さて、上映会だが、サイケデリックな魅力が反映されていた作品は楽しく見れた。
川口華奈子作品は人形アニメでテンポがゆっくりとしているのだが、これは原作の内容に合致していて(「死に感謝します」のエピソード)、苦にならず、見た作品中、1、2を争う出来だったように思う。
http://www.jimwoodring.com/
安達哲の『幸せのひこうき雲』を読んだ。
田舎に転校してきた小学生の少年が女教師の性奴隷になる。
親が喧嘩していて、田舎にあずけられる少年。
生徒の人権など知ったこっちゃない先生たち。
芸能界失格の女教師。
こんなトラウマ必至の少年時代を経て、ラストで安達哲は成長した少年を登場させ、そんなトラウマなんて、ないよ!と肩すかしをくらわせている。
確かに、幼少期のトラウマが長じての性格に影響を与えるという言説は流布しているのだが、それを格好の言い訳にしてしまう風潮もある。
安達哲は、自分の今の人生を、過去の責任に押し付けないルートを示しているようだ。
自分について、どんな物語を設定するのも、自分の自由で、自分の裁量にまかされている。
トラウマで言い訳するのは最終的な手段でしかないのだ。
ところで、この『幸せのひこうき雲』というタイトルだが、これにどういう意味があるのかを考えてみた。
これは、幸せなんてひこうき雲みたいに、すぐ消えてしまう、ということなのだろうか。
僕にはそうは思えない。
普通の雲だって、流れて形を変えて消えてしまうことには変わりはないからだ。
それに、飛行機雲の特徴は、消えやすいことにあるのではなく、飛行機が通るきっかけによって、大空に出現するところにある。
消えることよりも、あらわれることに、僕たちは飛行機雲の不思議さや面白さを発見していたはずだ。
そういう点からいうと、幸せは何か1つのきっかけで、あらわれる、という意味にとれる。
だが、ストーリーとこの解釈とは直接の関わりはなさそうだ。
解釈するなら、次のとおりだろう。
ひこうき雲は、飛行機が通ることでできる。
飛行機は幼少期にあった出来事にちがいない。
その影響はひこうき雲として刻印される。
その出現は先にも書いたように、インパクトが大きい。
ただし、ひこうき雲は、なんなく消えてしまうのだ。
トラウマだってちゃんと消える、というストーリーなのだから、こっちが正解だろう。
田舎に転校してきた小学生の少年が女教師の性奴隷になる。
親が喧嘩していて、田舎にあずけられる少年。
生徒の人権など知ったこっちゃない先生たち。
芸能界失格の女教師。
こんなトラウマ必至の少年時代を経て、ラストで安達哲は成長した少年を登場させ、そんなトラウマなんて、ないよ!と肩すかしをくらわせている。
確かに、幼少期のトラウマが長じての性格に影響を与えるという言説は流布しているのだが、それを格好の言い訳にしてしまう風潮もある。
安達哲は、自分の今の人生を、過去の責任に押し付けないルートを示しているようだ。
自分について、どんな物語を設定するのも、自分の自由で、自分の裁量にまかされている。
トラウマで言い訳するのは最終的な手段でしかないのだ。
ところで、この『幸せのひこうき雲』というタイトルだが、これにどういう意味があるのかを考えてみた。
これは、幸せなんてひこうき雲みたいに、すぐ消えてしまう、ということなのだろうか。
僕にはそうは思えない。
普通の雲だって、流れて形を変えて消えてしまうことには変わりはないからだ。
それに、飛行機雲の特徴は、消えやすいことにあるのではなく、飛行機が通るきっかけによって、大空に出現するところにある。
消えることよりも、あらわれることに、僕たちは飛行機雲の不思議さや面白さを発見していたはずだ。
そういう点からいうと、幸せは何か1つのきっかけで、あらわれる、という意味にとれる。
だが、ストーリーとこの解釈とは直接の関わりはなさそうだ。
解釈するなら、次のとおりだろう。
ひこうき雲は、飛行機が通ることでできる。
飛行機は幼少期にあった出来事にちがいない。
その影響はひこうき雲として刻印される。
その出現は先にも書いたように、インパクトが大きい。
ただし、ひこうき雲は、なんなく消えてしまうのだ。
トラウマだってちゃんと消える、というストーリーなのだから、こっちが正解だろう。
冨樫義博の『幽☆遊☆白書』全19巻を読んだ。
90年代の少年ジャンプの人気作品。
ヤンキー学園ものから霊界探偵、バトルトーナメントと、ジャンプの王道を行く作品で、読んでいてたいへん面白かった。
ところが、気になるところがひとつ。
暗黒武術会というバトルトーナメントではお約束の路線を進めていたが、魔界の王を決めるトーナメントでは、バトルの詳細が省かれている。結果だけが報告されて済まされているのだ。
これは『シャーマンキング』と同様に、お約束路線に苦痛を感じていたんじゃないか、と思える。
作者はゲームやパズルが好きなようで、作中にそのようなバトルが盛り込まれたりしている。
そして、各人の強さもゲーム同様、数値化されるのだが、敗因はそこにあると見た。
数値の差があれば、それを覆すことは不可能なのだ。
怒りによって数値が急激に上がる、というお約束もありきたりすぎて、つまらない。
数値をあげるために特訓する、というお約束も、つまらない。
そんなことすれば、まさに何でもアリなので、数値の意味がなくなってしまうからだ。
もともと数値を盛り込んだりするから駄目なのだ。
数値を盛り込むなら、数値の低い者がそのままの数値でいかに数値の高い者に勝てるかを探らねばならない。
そして、その試みは、数値の高いものが勝つ、という最初の前提からして、不可能なのである。
グーがグーのままでジャンケンのルールを変えずにパーに勝とうとするようなものだ。
この作品では途中から、各人の特殊能力というパズル的面白さを導入しているが、その路線で行けば、なんとかなったのかもしれない。
でも、これも失敗している。
たとえば、コピーとオリジナルを見抜くにはどうすればいいか、という謎が出されたとき、冨樫義博はその謎に答えずに解決してしまう。
グーのままパーに勝つには、そのグーでジャンケンの相手を殴り殺せばいい、というような乱暴な解決をとって、平然としているのが、歯がゆい。
とにかく、数値化というゲ−ム的路線では『ドラゴンボール』に完成度も面白さも及ばず、能力というパズル路線では『ジョジョの奇妙な冒険』に完成度も面白さも及ばなかった、という感想を抱いた。
でも、推理小説は読むのがかったるいけど、『名探偵コナン』なら楽しく読める、という読者層も存在するように、二番煎じのお子様向け作品としては、キャラクター萌えな部分もあり、ファンを大きく獲得できるだけの要素満載だと思った。
90年代の少年ジャンプの人気作品。
ヤンキー学園ものから霊界探偵、バトルトーナメントと、ジャンプの王道を行く作品で、読んでいてたいへん面白かった。
ところが、気になるところがひとつ。
暗黒武術会というバトルトーナメントではお約束の路線を進めていたが、魔界の王を決めるトーナメントでは、バトルの詳細が省かれている。結果だけが報告されて済まされているのだ。
これは『シャーマンキング』と同様に、お約束路線に苦痛を感じていたんじゃないか、と思える。
作者はゲームやパズルが好きなようで、作中にそのようなバトルが盛り込まれたりしている。
そして、各人の強さもゲーム同様、数値化されるのだが、敗因はそこにあると見た。
数値の差があれば、それを覆すことは不可能なのだ。
怒りによって数値が急激に上がる、というお約束もありきたりすぎて、つまらない。
数値をあげるために特訓する、というお約束も、つまらない。
そんなことすれば、まさに何でもアリなので、数値の意味がなくなってしまうからだ。
もともと数値を盛り込んだりするから駄目なのだ。
数値を盛り込むなら、数値の低い者がそのままの数値でいかに数値の高い者に勝てるかを探らねばならない。
そして、その試みは、数値の高いものが勝つ、という最初の前提からして、不可能なのである。
グーがグーのままでジャンケンのルールを変えずにパーに勝とうとするようなものだ。
この作品では途中から、各人の特殊能力というパズル的面白さを導入しているが、その路線で行けば、なんとかなったのかもしれない。
でも、これも失敗している。
たとえば、コピーとオリジナルを見抜くにはどうすればいいか、という謎が出されたとき、冨樫義博はその謎に答えずに解決してしまう。
グーのままパーに勝つには、そのグーでジャンケンの相手を殴り殺せばいい、というような乱暴な解決をとって、平然としているのが、歯がゆい。
とにかく、数値化というゲ−ム的路線では『ドラゴンボール』に完成度も面白さも及ばず、能力というパズル路線では『ジョジョの奇妙な冒険』に完成度も面白さも及ばなかった、という感想を抱いた。
でも、推理小説は読むのがかったるいけど、『名探偵コナン』なら楽しく読める、という読者層も存在するように、二番煎じのお子様向け作品としては、キャラクター萌えな部分もあり、ファンを大きく獲得できるだけの要素満載だと思った。
るろうに剣心―明治剣客浪漫譚
2005年12月2日 アニメ・マンガ
和月伸宏の『るろうに剣心』全28巻を読んだ。
連載時から名前は知っていたが、1ページも読んでなくて、アニメも見たことがなく、まったく予備知識がないまま読んだ。
優男がむちゃくちゃ強くて、腐女子のかっこうの獲物で、ジャンプの王道を行く話なんだろうな、と勝手に思い込んで読んだのだが、これはなかなかいい物語だった。
『シャーマンキング』『キューティーハニー』と破綻した話を読んだ後では、『るろうに剣心』は丹念に織り上げられた名作の味わいさえある。
いきなりのエンディングもないし、迷走もないし、発狂もない。
特に感心したのは、コミックスに収録するにあたり、書き下ろされた著者のフリートークのページだ。
キャラクターのモチーフとか、裏話とか、いわばメイキングが語られており、これが興味深い。新撰組とか幕末の人物をモデルにしているのはわかりやすいが、そのファッションや外見は多くがアメコミからとられていた。あと、ゲームと。
そして、圧巻なのが、読者との葛藤だ。
こだわりの新撰組ファン、美形好きの女性読者、単細胞な少年読者からの抗議の手紙を受け止めながら、自分の書きたいものをどれだけ書いていけるか、という戦いがすさまじい。
プロってのはこういうのをいうのだ。
連載時から名前は知っていたが、1ページも読んでなくて、アニメも見たことがなく、まったく予備知識がないまま読んだ。
優男がむちゃくちゃ強くて、腐女子のかっこうの獲物で、ジャンプの王道を行く話なんだろうな、と勝手に思い込んで読んだのだが、これはなかなかいい物語だった。
『シャーマンキング』『キューティーハニー』と破綻した話を読んだ後では、『るろうに剣心』は丹念に織り上げられた名作の味わいさえある。
いきなりのエンディングもないし、迷走もないし、発狂もない。
特に感心したのは、コミックスに収録するにあたり、書き下ろされた著者のフリートークのページだ。
キャラクターのモチーフとか、裏話とか、いわばメイキングが語られており、これが興味深い。新撰組とか幕末の人物をモデルにしているのはわかりやすいが、そのファッションや外見は多くがアメコミからとられていた。あと、ゲームと。
そして、圧巻なのが、読者との葛藤だ。
こだわりの新撰組ファン、美形好きの女性読者、単細胞な少年読者からの抗議の手紙を受け止めながら、自分の書きたいものをどれだけ書いていけるか、という戦いがすさまじい。
プロってのはこういうのをいうのだ。
永井豪の『キューティーハニー』を読んだ。
中公愛蔵版の『キューティーハニー』(週刊少年チャンピオン1973年10月1日号〜1974年4月1日号)
扶桑社版『Cutieハニー』(週刊spa!1992年7月8日号〜1993年4月7日号、コミックス化にあたり、1エピソード2回分16ページ割愛、オープニング描きおろし、エンディング変更、『Q-teyハニー』改題)
以上の2冊。
如月博士によって作られたアンドロイド、キューティーハニーは体内に内蔵した空中元素固定装置で、七変化できる。ハニーの身体は如月博士の超発明の集積なので、悪人はそれを狙ってくる。目をつけたのは、犯罪結社豹の爪(パンサークロー)だ。パンサークローは特殊能力を持つ女性サイボーグで組織された犯罪組織なのだ。パンサークローの幹部、シスター・ジルがとりあえずのボスなのだが、チャンピオン連載分では、ジルが倒され、首領のパンサー・ゾラが「つぎなる相手はわたしだぞ!」と宣言し、その後、ハニーがアニメの主題歌を裸で歌って終わっている。
SPA!版では、シスター・ジルが復活し、「パンサークローを操る異次元界の邪神ゾラー」が登場する。神であるゾラーは人間自身の滅亡待望によって地球壊滅をはかっている。(人間の歴史は戦争の歴史だとか、環境破壊など、おなじみのくだりが出て来る!)
チャンピオン版のジルが宝石とか美しいものが好きで、空中元素固定装置で宝を生み出そうとしているのとは違って、ゾラーは地球に隕石や小惑星をふらせてぶっ壊してしまおうとしている。目的からすると、正反対な気がする。ジルはこの世界において富と美を獲得したいように思えるのだ。なぜジルがゾラーの思想に賛同するようになったのか不明である。なにかしらの理由があるのだろう。
ラストはSPA!版でもジルを倒して、一件落着になっている。ゾラーは手つかずだ。
さて、この『キューティーハニー』はもともと東映アニメからの要請によって作られた作品なので、漫画の方は影が薄い。
作者としても肩の力を抜いて、遊びで作っているような感じがした。
でも、石森ゴレンジャーほどではなくて、ちゃんとまとまった作品として読むことができるのはもちろん。
チャンピオン版ではあばしり一家のキャラクターが出てきたり、SPA!版ではけっこう仮面が出てきたり、デビルマンの台詞使ってたり、ファンサービスもあった。
とは言え、おそらくは作者のライフワークと推定される『バイオレンスジャク』にもキューティーハニー編があると聞いては(未読)、ちょっと心配だ。肩に力が入った作品になってるんじゃないか、と。
僕は70年代の永井豪が大好きで(特に、目の描き方とか)、最近の作品はあまりピンとこなかったのだが、どうなんだろう。90年代のこの『Cutieハニー』は、そこそこ楽しめたので、ちょっと読んでみてもいいかな、という気になってきた。
ちなみに、ハニーの七変化で名前が出て来たのは、チャンピオン版では
キューティーハニー(人間の数倍の戦闘能力をもつスーパーアンドロイド)
ハリケーンハニー(バイクに乗ってる)
あと、鎧を着たり、黄金の仏像になったり、ターザンになったり、公園の彫像になったりしてるけど、名前はわからず。
SPA!版では、新七変化と銘打たれ、
エンゼルハニー(盾と槍、翼があり、頭には輪)
コンバットハニー(軍服着てる)
トップレスハニー(と、轟刑事に呼ばれただけなので、そんな名称ではないかも)
アーマーナイトハニー(秘所のスイッチ押してハイパーチェンジして変身)
中公愛蔵版の『キューティーハニー』(週刊少年チャンピオン1973年10月1日号〜1974年4月1日号)
扶桑社版『Cutieハニー』(週刊spa!1992年7月8日号〜1993年4月7日号、コミックス化にあたり、1エピソード2回分16ページ割愛、オープニング描きおろし、エンディング変更、『Q-teyハニー』改題)
以上の2冊。
如月博士によって作られたアンドロイド、キューティーハニーは体内に内蔵した空中元素固定装置で、七変化できる。ハニーの身体は如月博士の超発明の集積なので、悪人はそれを狙ってくる。目をつけたのは、犯罪結社豹の爪(パンサークロー)だ。パンサークローは特殊能力を持つ女性サイボーグで組織された犯罪組織なのだ。パンサークローの幹部、シスター・ジルがとりあえずのボスなのだが、チャンピオン連載分では、ジルが倒され、首領のパンサー・ゾラが「つぎなる相手はわたしだぞ!」と宣言し、その後、ハニーがアニメの主題歌を裸で歌って終わっている。
SPA!版では、シスター・ジルが復活し、「パンサークローを操る異次元界の邪神ゾラー」が登場する。神であるゾラーは人間自身の滅亡待望によって地球壊滅をはかっている。(人間の歴史は戦争の歴史だとか、環境破壊など、おなじみのくだりが出て来る!)
チャンピオン版のジルが宝石とか美しいものが好きで、空中元素固定装置で宝を生み出そうとしているのとは違って、ゾラーは地球に隕石や小惑星をふらせてぶっ壊してしまおうとしている。目的からすると、正反対な気がする。ジルはこの世界において富と美を獲得したいように思えるのだ。なぜジルがゾラーの思想に賛同するようになったのか不明である。なにかしらの理由があるのだろう。
ラストはSPA!版でもジルを倒して、一件落着になっている。ゾラーは手つかずだ。
さて、この『キューティーハニー』はもともと東映アニメからの要請によって作られた作品なので、漫画の方は影が薄い。
作者としても肩の力を抜いて、遊びで作っているような感じがした。
でも、石森ゴレンジャーほどではなくて、ちゃんとまとまった作品として読むことができるのはもちろん。
チャンピオン版ではあばしり一家のキャラクターが出てきたり、SPA!版ではけっこう仮面が出てきたり、デビルマンの台詞使ってたり、ファンサービスもあった。
とは言え、おそらくは作者のライフワークと推定される『バイオレンスジャク』にもキューティーハニー編があると聞いては(未読)、ちょっと心配だ。肩に力が入った作品になってるんじゃないか、と。
僕は70年代の永井豪が大好きで(特に、目の描き方とか)、最近の作品はあまりピンとこなかったのだが、どうなんだろう。90年代のこの『Cutieハニー』は、そこそこ楽しめたので、ちょっと読んでみてもいいかな、という気になってきた。
ちなみに、ハニーの七変化で名前が出て来たのは、チャンピオン版では
キューティーハニー(人間の数倍の戦闘能力をもつスーパーアンドロイド)
ハリケーンハニー(バイクに乗ってる)
あと、鎧を着たり、黄金の仏像になったり、ターザンになったり、公園の彫像になったりしてるけど、名前はわからず。
SPA!版では、新七変化と銘打たれ、
エンゼルハニー(盾と槍、翼があり、頭には輪)
コンバットハニー(軍服着てる)
トップレスハニー(と、轟刑事に呼ばれただけなので、そんな名称ではないかも)
アーマーナイトハニー(秘所のスイッチ押してハイパーチェンジして変身)
完全復刻版 ゲゲゲの鬼太郎
2005年11月30日 アニメ・マンガ講談社KCコミックスの『完全復刻版ゲゲゲの鬼太郎』を6巻まで読んだ。(全9巻)
文庫とか、他のコミックスとかでも重複して読んでいるのだが、水木しげるの作品は何度も繰り返して読まれるべき作品だと思っている。
でも、ザルの脳みその僕は、ひとつひとつの話をある程度記憶しておきたい。で、今回は各話の中で頭に残ったフレーズなどを書き残しておこうと思う。
第1巻
「大海獣」
きみの手にふれたものなんかうけとれるかい!
「夜叉」
ふきんのおけらややもりが鬼太郎をはげましているのだ
「手」
五目ならべでもして手のことなんかわすれよう
「ゆうれい電車」
『臨終』という駅をすぎて『火葬場』という駅を通過するころになると、車掌が乗車券をしらべにきた
「地獄流し」
いくらスポーツカーでもここからさきへはいけねえぜ
「おばけナイター」
負けたらおまえたちはあの世行きだぜ
「吸血木」
親は子が木になっても生きていればうれしいものだ
「猫仙人」
大阪から三味線屋をよんで三味線の皮にさせたらどんなものかな
第2巻
「吸血鬼エリート」
すばらしいみりきの音…
「妖怪大戦争」
(妖怪大募集の新聞広告で集まった妖怪の中にオバQがまじってる)
「だるま」
4階
「水虎」
(新一くん風呂に逆さづけ)
「鏡爺」
美少女を見るとたちのわるいいたずらをするのが鏡爺のむかしからの趣味なんです
第3巻
「妖怪獣」
たいへんだ、ふんどしが生きかえった!
「見上げ入道」
くるくるぱーっ
「猫娘とねずみ男」
どこかに内藤洋子みたいな娘はいないかな
「さら小僧」
あちゃちゃちゃぱちゃちゃちゃ
「峠の妖怪」
くらげの干物みたいな味がする
第4巻
「妖怪城」
わしゃ広島に原爆が落ちてもおどろかなんだが妖怪の手紙にはおどろいた!
「ぬらりひょん」
金持ちの山田さんの前でふざけるんじゃない
「おどろおどろ」
父は毛はえ薬の研究に熱心なあまりみずから実験台になったのです
「磯女」
そのときだれにも気づかれずに1ぴきの船虫が歩き出していた
「まくら返し」
うわー塩だ!
「白山坊」
ぼく女の人にたのまれるととても勇気がわくたちですから安心してください
「笠地蔵」
これを知っているのは台所のすみやごみ箱の中にいる虫たちだけなのです
「毛羽毛現」
どうだおどろいたろう、おどろきついでににわとりのふんでもかけてやるかな
「海座頭」
あまりいじめないでください、わたし一介のサラリーマンにすぎないのですから
「ダイヤモンド妖怪」
(ねずみ男)金持ちになれば働かなくてもいいし…
(鬼太郎)おめえはいまでも働いていないじゃないか
「電気妖怪」
評論家みたいなこといわずにだまって鬼太郎のいうことを聞いたらどう
第5巻
「朝鮮魔法」
どういうわけか生まれながらにすがたが見えないうえに体が大きいのです
「鏡合戦」
それ以来わたしはイタイイタイ病になりからだじゅうが痛むのです
「悪魔ベリアル」
ホットケーキ!
「モウリョウ」
けいべつ?よく世の中を知らない少年のいうことばだ
「妖怪軍団」
日本で脇役をやらしたら宇野重吉かねずみ男かと世間ではもっぱらの評判じゃったがのう
「コマ妖怪」
これでおれも足の皮が食べられるというもんだ
「手の目」
こいつ!弱いくせに強がりいうんじゃない
「妖花」
約束の場所にいくと大きなはまぐりがあるだけだった
「さざえ鬼」
カラーテレビでも買おうと思って人魚の子を売り歩いてんだ
「おりたたみ入道」
いひひひひひ、あそこのかずのこおいしかったなあ
第6巻
「血戦小笠原」
アササボンサンはぬりかべにつかまりからだの中にぬりこめられた
「天邪鬼」
なんでもくんせいにしておくといちばんなんだ
「妖怪大統領」
みるみる三十このあんパンをたいらげさらに食パンを
「姑獲鳥」
こどもに寝小便させるわたしの趣味
「穴ぐら入道」
いまは妖怪ブームだがやくざは下火だ
「雪ん子」
たましいのアイスキャンディー
「妖怪ラリー」
片手にハンドル片手に毛沢東語録をたずさえております
「オベベ沼の妖怪」
まあふなでもやいていいにおいを出してみよう
「ひでり神」
妖怪パンツ
以上。7巻以降はもってないので読めません。
さて、これらのフレーズが記憶の鍵になって、たとえば「ホットケーキ!」といえば
「ああ、悪魔ベリアルの話だな!」と思い出せるようになるのかな?
文庫とか、他のコミックスとかでも重複して読んでいるのだが、水木しげるの作品は何度も繰り返して読まれるべき作品だと思っている。
でも、ザルの脳みその僕は、ひとつひとつの話をある程度記憶しておきたい。で、今回は各話の中で頭に残ったフレーズなどを書き残しておこうと思う。
第1巻
「大海獣」
きみの手にふれたものなんかうけとれるかい!
「夜叉」
ふきんのおけらややもりが鬼太郎をはげましているのだ
「手」
五目ならべでもして手のことなんかわすれよう
「ゆうれい電車」
『臨終』という駅をすぎて『火葬場』という駅を通過するころになると、車掌が乗車券をしらべにきた
「地獄流し」
いくらスポーツカーでもここからさきへはいけねえぜ
「おばけナイター」
負けたらおまえたちはあの世行きだぜ
「吸血木」
親は子が木になっても生きていればうれしいものだ
「猫仙人」
大阪から三味線屋をよんで三味線の皮にさせたらどんなものかな
第2巻
「吸血鬼エリート」
すばらしいみりきの音…
「妖怪大戦争」
(妖怪大募集の新聞広告で集まった妖怪の中にオバQがまじってる)
「だるま」
4階
「水虎」
(新一くん風呂に逆さづけ)
「鏡爺」
美少女を見るとたちのわるいいたずらをするのが鏡爺のむかしからの趣味なんです
第3巻
「妖怪獣」
たいへんだ、ふんどしが生きかえった!
「見上げ入道」
くるくるぱーっ
「猫娘とねずみ男」
どこかに内藤洋子みたいな娘はいないかな
「さら小僧」
あちゃちゃちゃぱちゃちゃちゃ
「峠の妖怪」
くらげの干物みたいな味がする
第4巻
「妖怪城」
わしゃ広島に原爆が落ちてもおどろかなんだが妖怪の手紙にはおどろいた!
「ぬらりひょん」
金持ちの山田さんの前でふざけるんじゃない
「おどろおどろ」
父は毛はえ薬の研究に熱心なあまりみずから実験台になったのです
「磯女」
そのときだれにも気づかれずに1ぴきの船虫が歩き出していた
「まくら返し」
うわー塩だ!
「白山坊」
ぼく女の人にたのまれるととても勇気がわくたちですから安心してください
「笠地蔵」
これを知っているのは台所のすみやごみ箱の中にいる虫たちだけなのです
「毛羽毛現」
どうだおどろいたろう、おどろきついでににわとりのふんでもかけてやるかな
「海座頭」
あまりいじめないでください、わたし一介のサラリーマンにすぎないのですから
「ダイヤモンド妖怪」
(ねずみ男)金持ちになれば働かなくてもいいし…
(鬼太郎)おめえはいまでも働いていないじゃないか
「電気妖怪」
評論家みたいなこといわずにだまって鬼太郎のいうことを聞いたらどう
第5巻
「朝鮮魔法」
どういうわけか生まれながらにすがたが見えないうえに体が大きいのです
「鏡合戦」
それ以来わたしはイタイイタイ病になりからだじゅうが痛むのです
「悪魔ベリアル」
ホットケーキ!
「モウリョウ」
けいべつ?よく世の中を知らない少年のいうことばだ
「妖怪軍団」
日本で脇役をやらしたら宇野重吉かねずみ男かと世間ではもっぱらの評判じゃったがのう
「コマ妖怪」
これでおれも足の皮が食べられるというもんだ
「手の目」
こいつ!弱いくせに強がりいうんじゃない
「妖花」
約束の場所にいくと大きなはまぐりがあるだけだった
「さざえ鬼」
カラーテレビでも買おうと思って人魚の子を売り歩いてんだ
「おりたたみ入道」
いひひひひひ、あそこのかずのこおいしかったなあ
第6巻
「血戦小笠原」
アササボンサンはぬりかべにつかまりからだの中にぬりこめられた
「天邪鬼」
なんでもくんせいにしておくといちばんなんだ
「妖怪大統領」
みるみる三十このあんパンをたいらげさらに食パンを
「姑獲鳥」
こどもに寝小便させるわたしの趣味
「穴ぐら入道」
いまは妖怪ブームだがやくざは下火だ
「雪ん子」
たましいのアイスキャンディー
「妖怪ラリー」
片手にハンドル片手に毛沢東語録をたずさえております
「オベベ沼の妖怪」
まあふなでもやいていいにおいを出してみよう
「ひでり神」
妖怪パンツ
以上。7巻以降はもってないので読めません。
さて、これらのフレーズが記憶の鍵になって、たとえば「ホットケーキ!」といえば
「ああ、悪魔ベリアルの話だな!」と思い出せるようになるのかな?