10月から、仕事を増やして、多いときにはかけもちで1日に20時間働いたりしている。
労働に時間をとられると、ついつい感性が消耗していくが、それ以上に、かなり前向きに働こうという勤務意欲をかきたてないと、「あ〜、めんどくさいな〜」「休んじゃおっかな〜」「体調悪いような気がするな〜」と、逃げることなかり頭に浮かんでしまう。
そこで、前向きな漫画を読むことにした。
『昂〜すばる』曽田正人。1巻〜11巻まで。
誘われてバレエをはじめた「すばる」ちゃんのダンス漫画。
彼女はダンスの天才で、コンクールに出れば優勝しちゃうし、第一線のダンサーには目をつけられるし、ストリートダンスのダンスバトルも何の予備知識もなく同等に対抗できる。
かっこいい。
驚いたことに、この「すばる」という主人公は、実は宇宙人らしいのだ。なにげなく読んでいたときは気づかなかったが、確かにそうとしか思えない伏線がいっぱい張ってあった。
まず、すばるはバレエにおいて滞空時間が異常に長いジャンプを実現する。それは、滞空時間と名付けるのもおこがましいほどで、まさに空中に浮かび続けることができるのだ。
何の経験もないダンスをいきなり会得する能力も人間離れしているし、彼女のダンスを見ていると、ダンスにまったく興味のない囚人たちまでもが、ダンスにひきこまれ、強い感情をひきおこし、あわや暴動まで起こしてしまうのだ。
人間には不可能なわざである。
宇宙人だとはっきり示したエピソードは、ボレロ編全体で語られる。
ダンス界のトップで並ぶものなど誰もいないダンサーがライバル(?)としてあらわれる。
彼女のダンスはまさに神業で、彼女自身、自分は宇宙人とコミュニケーションをとるためにダンスする、と豪語しているのだ。つまり、もしも地球に宇宙人がやってきたとき、言葉よりもダンスの方が、彼らとコミュニケートできるんじゃないか、ということで、その域の超絶ダンスを既に彼女は獲得しているのだという。
その彼女が踊るボレロで誰にオカルト的接触を果たしたかというと、他ならぬ「すばる」なのだ!
また、FBIの不思議な能力を持った男性とのエピソードでも、すばるのオカルト的、というか宇宙人的能力が披露される。
たとえば、すばるが好き勝手に飲食しまくった後、FBIの男性が無造作に置いて行ったお金を数えると、なんと、飲食代ぴったりだった、というエピソードがある。
これは、一見、すばるがどれだけ飲食するのかをFBIの男性が予知して、お金をおいていった話に思えるが、逆には考えられないだろうか。
すなわち、すばるは、FBIの男性が置いて行ったお金を数えもせずに、ちょうどその分だけ飲食したのだ。
不思議な能力を発揮したのは、すばるの側だったのである。
そういう「すばる=宇宙人」を裏付けるエピソードに満ちた作品だが、もとより、名前の「昂」が宇宙人であることを明らかに示していたことは言うまでもない。
労働に時間をとられると、ついつい感性が消耗していくが、それ以上に、かなり前向きに働こうという勤務意欲をかきたてないと、「あ〜、めんどくさいな〜」「休んじゃおっかな〜」「体調悪いような気がするな〜」と、逃げることなかり頭に浮かんでしまう。
そこで、前向きな漫画を読むことにした。
『昂〜すばる』曽田正人。1巻〜11巻まで。
誘われてバレエをはじめた「すばる」ちゃんのダンス漫画。
彼女はダンスの天才で、コンクールに出れば優勝しちゃうし、第一線のダンサーには目をつけられるし、ストリートダンスのダンスバトルも何の予備知識もなく同等に対抗できる。
かっこいい。
驚いたことに、この「すばる」という主人公は、実は宇宙人らしいのだ。なにげなく読んでいたときは気づかなかったが、確かにそうとしか思えない伏線がいっぱい張ってあった。
まず、すばるはバレエにおいて滞空時間が異常に長いジャンプを実現する。それは、滞空時間と名付けるのもおこがましいほどで、まさに空中に浮かび続けることができるのだ。
何の経験もないダンスをいきなり会得する能力も人間離れしているし、彼女のダンスを見ていると、ダンスにまったく興味のない囚人たちまでもが、ダンスにひきこまれ、強い感情をひきおこし、あわや暴動まで起こしてしまうのだ。
人間には不可能なわざである。
宇宙人だとはっきり示したエピソードは、ボレロ編全体で語られる。
ダンス界のトップで並ぶものなど誰もいないダンサーがライバル(?)としてあらわれる。
彼女のダンスはまさに神業で、彼女自身、自分は宇宙人とコミュニケーションをとるためにダンスする、と豪語しているのだ。つまり、もしも地球に宇宙人がやってきたとき、言葉よりもダンスの方が、彼らとコミュニケートできるんじゃないか、ということで、その域の超絶ダンスを既に彼女は獲得しているのだという。
その彼女が踊るボレロで誰にオカルト的接触を果たしたかというと、他ならぬ「すばる」なのだ!
また、FBIの不思議な能力を持った男性とのエピソードでも、すばるのオカルト的、というか宇宙人的能力が披露される。
たとえば、すばるが好き勝手に飲食しまくった後、FBIの男性が無造作に置いて行ったお金を数えると、なんと、飲食代ぴったりだった、というエピソードがある。
これは、一見、すばるがどれだけ飲食するのかをFBIの男性が予知して、お金をおいていった話に思えるが、逆には考えられないだろうか。
すなわち、すばるは、FBIの男性が置いて行ったお金を数えもせずに、ちょうどその分だけ飲食したのだ。
不思議な能力を発揮したのは、すばるの側だったのである。
そういう「すばる=宇宙人」を裏付けるエピソードに満ちた作品だが、もとより、名前の「昂」が宇宙人であることを明らかに示していたことは言うまでもない。
バキ全31巻、バキ特別編SAGA
2006年10月21日 アニメ・マンガ
ISBN:4253145167 コミック 板垣 恵介 秋田書店 ¥580
板垣恵介の『バキ』を読んだ。全31巻。
『グラップラー刃牙』の続編。
主なストーリーは3つある。
「最凶死刑囚編」5人の脱獄死刑囚と、地下闘技場の闘士たちが戦う。
「大擂台賽編」中国の武術大会。
「マホメド・アライJr編」天才ボクサーの息子。
バキは童貞を捨て、また柳龍光の毒手によって衰弱した肉体を再生させてさらに強くなる。
なのだが、バキが中心でストーリーが進むとはかぎらず、多くの登場人物の中で、「地下闘技場チャンピオンになった軽量の少年」という役どころを演じている。
このスタンスはよかった。主人公として振る舞われると、バキの強さを信じるための根拠が必要になってくるが、その重荷をとりあえずおろしているように思えた。
で、なるほど、これは面白いなあ、と興奮した。
最凶死刑囚は、ジャックハンマーや範馬刃牙や範馬勇次郎と同様に実在の格闘技を代表しているわけでもなく、漫画的な設定の闘士たちだ。これでこそ、戦いは五分になる。半殺しの目にあってるのに一瞬後に回復していたって、違和感がない。漫画的キャラクターだから。「こんなことはありえない!」と思いもせず、また、そう思ったとしても、マンガだからありなのだ、と納得できる。
「大擂台賽編」では一応中国の武術の達人たちを集めて、ゲスト扱いで参加していた中国人以外との5VS5の戦いという体裁をとっている。でも、描かれているのは、どの格闘技が強い、というテーマからははずれている。
「マホメド・アライJr.編」では天才ボクサーの息子が父の格闘技を完成させたと豪語し、ボクシングの強みを(まるで今までの穴を埋めるかのように)綴る展開をみせる。
結局このジュニアは地下闘技場の面々に敗北を続け、父との闘いにも敗れてしまう。
ここは、バキと勇次郎では描けなかった父子関係を描いたおもむきが強い。
最後には、いよいよバキが勇次郎を射程にとらえたかのような描写で終わっている。
この『バキ』を読んで感じたのは、勇次郎の人間的な部分が描かれることが増えて、その分、勇次郎の圧倒的な強さが緩和されている。野獣のような人間かと思っていたら、ちゃんと人間であり、話のわかる父親でもある、というふうに。
野獣というか、あくまでも動物として行動しているのは、ここではバキの方になる。
父を超えたいという余人には理解不能なこだわりに固執するバキは、肉体を鍛え、技を磨く以前に、自らの強迫神経症を分析できるだけの知性を持てばよかったのである。
多くの格闘家が出て来て、彼らそれぞれの凄みが描かれ、と同時に彼らを攻略するにはどうすればいいのかが考察されるこの漫画で、バキだけがその対象になっていないのが不思議である。
バキがなぜ強いのかを敵はちゃんと分析しようとしているはずであり、その分析のなかで、バキの弱点も見えてくるはずだが、バキだけは「とにかく強くて勝つ」以外の情報がないのだ。
バキの闘いのつまらなさはそこにある。
バキ以外の闘いはどれもこれも面白くて熱中するのに、バキの闘いは「いろいろやっても結局理由もなく勝つんだろうな」としらけてしまうのだ。
まあ、いろいろ書いたけど、漫画はめちゃくちゃ面白い。
この『バキ』に関していえば、ストーリーに一貫性がなくて、バラバラな気もするが、もう全編が番外編なのかもしれない。
しかし、バキの顔がすっかり変わってしまって、モデルになったと思しき格闘家とは離れてしまったのは、何よりだった。
『バキ特別編SAGA』を読んだ。バキの童貞喪失を描いた1冊。
バキは全体に過剰さを描いた漫画で、読んでいて爆笑することが多い。
この特別編などとくに大笑いさせてもらった。
童貞が読んでも、はじめてのセックスってこんなふうなのか、と勘違いする余地がないくらいに大袈裟で、ありえない過剰さに満ち満ちている。
日常生活のすべてについてバキには過剰に行動してほしい。
次の特別編ではバキが過剰な思いと行動でお菓子を食べるのに1冊使ってほしいし、「バキ特別編脱糞編」とか「バキ特別編針の穴に糸を通す編」とか書いてほしい。
こういう発想は、おそらく同人誌では実現しているのかもしれないが、板垣恵介が描かないとこれは意味がない。
板垣恵介の『バキ』を読んだ。全31巻。
『グラップラー刃牙』の続編。
主なストーリーは3つある。
「最凶死刑囚編」5人の脱獄死刑囚と、地下闘技場の闘士たちが戦う。
「大擂台賽編」中国の武術大会。
「マホメド・アライJr編」天才ボクサーの息子。
バキは童貞を捨て、また柳龍光の毒手によって衰弱した肉体を再生させてさらに強くなる。
なのだが、バキが中心でストーリーが進むとはかぎらず、多くの登場人物の中で、「地下闘技場チャンピオンになった軽量の少年」という役どころを演じている。
このスタンスはよかった。主人公として振る舞われると、バキの強さを信じるための根拠が必要になってくるが、その重荷をとりあえずおろしているように思えた。
で、なるほど、これは面白いなあ、と興奮した。
最凶死刑囚は、ジャックハンマーや範馬刃牙や範馬勇次郎と同様に実在の格闘技を代表しているわけでもなく、漫画的な設定の闘士たちだ。これでこそ、戦いは五分になる。半殺しの目にあってるのに一瞬後に回復していたって、違和感がない。漫画的キャラクターだから。「こんなことはありえない!」と思いもせず、また、そう思ったとしても、マンガだからありなのだ、と納得できる。
「大擂台賽編」では一応中国の武術の達人たちを集めて、ゲスト扱いで参加していた中国人以外との5VS5の戦いという体裁をとっている。でも、描かれているのは、どの格闘技が強い、というテーマからははずれている。
「マホメド・アライJr.編」では天才ボクサーの息子が父の格闘技を完成させたと豪語し、ボクシングの強みを(まるで今までの穴を埋めるかのように)綴る展開をみせる。
結局このジュニアは地下闘技場の面々に敗北を続け、父との闘いにも敗れてしまう。
ここは、バキと勇次郎では描けなかった父子関係を描いたおもむきが強い。
最後には、いよいよバキが勇次郎を射程にとらえたかのような描写で終わっている。
この『バキ』を読んで感じたのは、勇次郎の人間的な部分が描かれることが増えて、その分、勇次郎の圧倒的な強さが緩和されている。野獣のような人間かと思っていたら、ちゃんと人間であり、話のわかる父親でもある、というふうに。
野獣というか、あくまでも動物として行動しているのは、ここではバキの方になる。
父を超えたいという余人には理解不能なこだわりに固執するバキは、肉体を鍛え、技を磨く以前に、自らの強迫神経症を分析できるだけの知性を持てばよかったのである。
多くの格闘家が出て来て、彼らそれぞれの凄みが描かれ、と同時に彼らを攻略するにはどうすればいいのかが考察されるこの漫画で、バキだけがその対象になっていないのが不思議である。
バキがなぜ強いのかを敵はちゃんと分析しようとしているはずであり、その分析のなかで、バキの弱点も見えてくるはずだが、バキだけは「とにかく強くて勝つ」以外の情報がないのだ。
バキの闘いのつまらなさはそこにある。
バキ以外の闘いはどれもこれも面白くて熱中するのに、バキの闘いは「いろいろやっても結局理由もなく勝つんだろうな」としらけてしまうのだ。
まあ、いろいろ書いたけど、漫画はめちゃくちゃ面白い。
この『バキ』に関していえば、ストーリーに一貫性がなくて、バラバラな気もするが、もう全編が番外編なのかもしれない。
しかし、バキの顔がすっかり変わってしまって、モデルになったと思しき格闘家とは離れてしまったのは、何よりだった。
『バキ特別編SAGA』を読んだ。バキの童貞喪失を描いた1冊。
バキは全体に過剰さを描いた漫画で、読んでいて爆笑することが多い。
この特別編などとくに大笑いさせてもらった。
童貞が読んでも、はじめてのセックスってこんなふうなのか、と勘違いする余地がないくらいに大袈裟で、ありえない過剰さに満ち満ちている。
日常生活のすべてについてバキには過剰に行動してほしい。
次の特別編ではバキが過剰な思いと行動でお菓子を食べるのに1冊使ってほしいし、「バキ特別編脱糞編」とか「バキ特別編針の穴に糸を通す編」とか書いてほしい。
こういう発想は、おそらく同人誌では実現しているのかもしれないが、板垣恵介が描かないとこれは意味がない。
ISBN:4253053114 新書 板垣 恵介 秋田書店 ¥410
全42巻&外伝。
グラップラー刃牙は今までなぜか読まずにいた。
理由は簡単。
刃牙のモデルとなったとおぼしき格闘家、平直行がそんなに好きではないからだ。
平〜山本kid〜亀田の「やんちゃ軽量」の系譜があまり好きではない。
軽い体重の人間がいくら最強を誇っても、結局ヒョードルには勝てないんじゃないか、というような感じ。
3歳児最強の人間がいたとして、僕はそいつに負ける気がしない。なのに身の程知らずに大口叩いていたら、そいつは馬鹿だ。
この『グラップラー刃牙』には大きくわけて3つの話が収録されている。
バキが地下闘技場の王者であるところからはじまる話。
親子関係を中心にした幼年編。
世界の格闘家が集まる「最大トーナメント」編。
バキの物語を理解するために必要なのは、おそらく父と母とバキを描く幼年編なのだが、面白いのは断然「最大トーナメント」だ。
何故面白いのかといえば、多くの格闘家が出場するため、そのぶんバキの出番が少なくなるからだ。
先日読んだ森達也の本を待つまでもなく、格闘技はある意味、説得力の勝負だ。
バキが強い理由を、僕は最後まで理解できなかった。
体重が軽い、というだけで不利なのだから、それを補ってあまりある強みがどこかにないと、バキが勝てる道はないはずだ。
特別の必殺技があるとか、誰にも真似できない体質的な特徴があるとか。
でも、ない。
あるとしたら、地上最強の父親の血をひいている、というくらいだ。
もしそれだけなら、バキは父を超えることは一生できない。
バキは、「なぜか勝つ」のだ。
その強さはSF的で、バキはまさに人間ではない。
こういうバキみたいな「とにかく強い」奴が、敵として出てくるのはかまわないが、主人公としてはどうなのか。
読者はバキに感情移入したくても不可能だ。
どんなにボロボロにやられていても、バキは一瞬後にはまったくダメージなしに立ち上がり、闘うことができるのだ。これでは応援しようがない。
だから、バキの闘うシーンは、1つ1つの経過を追っても意味がない。オカルト的にとにかく勝ってしまうからだ。そこに理由も必然性もない。なぜバキは勝てたのかと言えば「バキだから」しか答えはなく、そんなことは最初から聞かなくてもわかっており、ならば闘う場面を見る意味もないのだ。
最大トーナメントでは多くの格闘家が、それぞれの看板を背負って闘う。一方、バキは「父を超えたい」というどうでもいい理由で闘っており、その動機のどうでもよさを見ても、闘いに賭ける必然性も薄い。
結局、トーナメントは、バキとその兄、というSFどうしの決勝になる。格闘技も漫画にはかなわない、ということか。
全42巻&外伝。
グラップラー刃牙は今までなぜか読まずにいた。
理由は簡単。
刃牙のモデルとなったとおぼしき格闘家、平直行がそんなに好きではないからだ。
平〜山本kid〜亀田の「やんちゃ軽量」の系譜があまり好きではない。
軽い体重の人間がいくら最強を誇っても、結局ヒョードルには勝てないんじゃないか、というような感じ。
3歳児最強の人間がいたとして、僕はそいつに負ける気がしない。なのに身の程知らずに大口叩いていたら、そいつは馬鹿だ。
この『グラップラー刃牙』には大きくわけて3つの話が収録されている。
バキが地下闘技場の王者であるところからはじまる話。
親子関係を中心にした幼年編。
世界の格闘家が集まる「最大トーナメント」編。
バキの物語を理解するために必要なのは、おそらく父と母とバキを描く幼年編なのだが、面白いのは断然「最大トーナメント」だ。
何故面白いのかといえば、多くの格闘家が出場するため、そのぶんバキの出番が少なくなるからだ。
先日読んだ森達也の本を待つまでもなく、格闘技はある意味、説得力の勝負だ。
バキが強い理由を、僕は最後まで理解できなかった。
体重が軽い、というだけで不利なのだから、それを補ってあまりある強みがどこかにないと、バキが勝てる道はないはずだ。
特別の必殺技があるとか、誰にも真似できない体質的な特徴があるとか。
でも、ない。
あるとしたら、地上最強の父親の血をひいている、というくらいだ。
もしそれだけなら、バキは父を超えることは一生できない。
バキは、「なぜか勝つ」のだ。
その強さはSF的で、バキはまさに人間ではない。
こういうバキみたいな「とにかく強い」奴が、敵として出てくるのはかまわないが、主人公としてはどうなのか。
読者はバキに感情移入したくても不可能だ。
どんなにボロボロにやられていても、バキは一瞬後にはまったくダメージなしに立ち上がり、闘うことができるのだ。これでは応援しようがない。
だから、バキの闘うシーンは、1つ1つの経過を追っても意味がない。オカルト的にとにかく勝ってしまうからだ。そこに理由も必然性もない。なぜバキは勝てたのかと言えば「バキだから」しか答えはなく、そんなことは最初から聞かなくてもわかっており、ならば闘う場面を見る意味もないのだ。
最大トーナメントでは多くの格闘家が、それぞれの看板を背負って闘う。一方、バキは「父を超えたい」というどうでもいい理由で闘っており、その動機のどうでもよさを見ても、闘いに賭ける必然性も薄い。
結局、トーナメントは、バキとその兄、というSFどうしの決勝になる。格闘技も漫画にはかなわない、ということか。
火打箱・しっかり者の錫の兵隊―アンデルゼン漫画物語
2006年9月1日 アニメ・マンガ
アンデルセン:原作、小熊秀雄:台本、渡辺加三:絵による『火打ち箱・しっかり者の錫の兵隊」を読んだ。1940年。
創風社から出ている小熊秀雄漫画傑作集の3冊めにあたる。
当時は「アンデルセン」を「アンデルゼン」と読んでいたようだ。
「火打ち箱」は魔法の力で金持ちになり、一国の王様にまでなってしまう、むしのいい話。
「しっかり者の錫の兵隊」はトイストーリーの元ネタ。小鬼のおもちゃに、一本足の錫の兵隊は窓から落とされ、魚に飲み込まれる。挙げ句の果にはストーブに投げ込まれて、踊子の人形もともに焼けてとけてしまう。
これ、こどもが特にわけもなくストーブに放り込んでしまうのだが、なぜか「小鬼のしわざ」だとされている。
この兵隊が聞く歌の怖いこと怖いこと。
さよなら
さよなら
兵隊さん
あなたは死なねば
ならないの
悪夢だ!
こどものときにこの漫画読んでたら、絶対うなされてた!
創風社から出ている小熊秀雄漫画傑作集の3冊めにあたる。
当時は「アンデルセン」を「アンデルゼン」と読んでいたようだ。
「火打ち箱」は魔法の力で金持ちになり、一国の王様にまでなってしまう、むしのいい話。
「しっかり者の錫の兵隊」はトイストーリーの元ネタ。小鬼のおもちゃに、一本足の錫の兵隊は窓から落とされ、魚に飲み込まれる。挙げ句の果にはストーブに投げ込まれて、踊子の人形もともに焼けてとけてしまう。
これ、こどもが特にわけもなくストーブに放り込んでしまうのだが、なぜか「小鬼のしわざ」だとされている。
この兵隊が聞く歌の怖いこと怖いこと。
さよなら
さよなら
兵隊さん
あなたは死なねば
ならないの
悪夢だ!
こどものときにこの漫画読んでたら、絶対うなされてた!
柊あおいの『星の瞳のシルエット』を読んだ。全10巻。
沢渡香澄は幼いときに星のかけらをくれた少年を想う内気な少女。
以下、番外篇の『ENGAGE』にあったあらすじによると
「香澄の宝物「星のかけら」をくれた初恋の少年は久住だった。
行き違いになりながらもやがて二人は互いの気持ちを確かめあい結ばれる」
まあ、そういうことだ。
久住はきれいな石を星のかけらだと言ってみたり、天文学部に進学したりする、宇宙好きな少年。
香澄は久住が好きで、本当は両思いのくせに、友人が久住に恋してたりして、身をひこう、存在を消そうとしている。
でも、最後には結ばれて、最後の最後にキスシーンまで。
これを並べると、
クスミは、
コスミックに興味がある。
カスミは、友人の気持を考えて、身を消そうとする。つまり、
ケスミ(消す身)。でも、最後には
キス・ミー
(本当は久住は「くずみ」だけど)
さて、この漫画、読んでいて、じれったいというか、イライラするところが多くて、いかにも女の子が好きそうなドラマだった。
いろんな恋愛関係を並べてみると、こうなる。
沢渡香澄と久住智史
お互いに好き同士。こいつらが普通にくっついておれば、諸々のトラブルは生じなかった。
沢渡香澄と二階堂平助
二階堂の片思い。あっさりふられる。香澄は二階堂がどんな人間なのか知ろうともしない。
白石司と泉沙樹
白石の初恋の相手こそ沙樹だった。しかし沙樹は「あんたなんか頼まれたってつきあうもんですか!」と拒絶。その後、沙樹は白石に恋するが、1回ふっておいて、簡単に相手に振り向いてもらおうとしても無理な話。沙樹はもはや白石からは恋愛対象として見られなくなるが、自業自得というものだ。沙樹の気持に気づいた白石は沙樹にチャンスを与えるが、沙樹は意地をはっていて、素直に告白できない。こんな女は苦しんで死んでしまえばいいと思ってたら、最後に白石とくっついてしまった。甘過ぎる。
白石司と沢渡香澄
白石は香澄に恋している。あんなうじうじした女のどこがいいのか。香澄は白石のことなど眼中になし。
久住智史と森下真理子
真理子が一方的に久住に片思い。でも、香澄がはっきりしないので、久住は真理子とつきあう。香澄は真理子の思いを知り、友情を壊したくなくて、久住に自分の思いを出せないのだ。嫉妬深くて、自己中心的なこんな女とまともにつきあう男の気がしれない。それに、こんな大馬鹿女との友情を大切に思うような香澄の輪をかけたバカさにもあきれる。
森下真理子と日野くん
日野くんが一方的に片思い。真理子も最後には日野のよさを認めるが、はっきり言って、あんなバカ女にはもったいない、いい奴である。
日野くんの名前は何でしょう。日野ヒデシ君?日野マコト君?日野ジドウシャ君?
こたえ:日野誠。これホント!
吉祥寺啓子と久住智史
おケイは思ったことをそのまま実行するストレートな女で久住を狙っている。久住はおケイなど問題外だが、香澄よりもいい女だ。気づけ!久住!
ああ、もうじれったい。
何か重要なことを言おうとしたときに必ず邪魔が入るシチュエーションの繰り返しとか、自分の気持ちを素直に出せない人々とか。この漫画読んでたら、感情を素直に出す方が悪者のように見えてくる。
あれだけウジウジしていた愚かな香澄が、番外篇では久住との遠距離恋愛をこなしているが、いったいどんな精神修養をしたというのか。遠距離恋愛は精神的に強くないと不可能なわざだ。香澄には不可能なはずだ。
女の子たちはこの物語をどんな気持ちで読んでいたのか、とても興味がある。
そう考えてタイトルを見てみると「星の瞳のシルエット」って、すごく遠回りで直接的じゃないことをあらわしているように思えてきた。
それと、『耳をすませば』の主人公が「月島雫」だったので、きらりんレボリューションの「月島きらり」みたいだな、と思ってたら、この『星の瞳のシルエット』の主人公の1人が「久住」。モーニング娘。の久住小春つながりは暗合として何かを示しているかのようだ。
沢渡香澄は幼いときに星のかけらをくれた少年を想う内気な少女。
以下、番外篇の『ENGAGE』にあったあらすじによると
「香澄の宝物「星のかけら」をくれた初恋の少年は久住だった。
行き違いになりながらもやがて二人は互いの気持ちを確かめあい結ばれる」
まあ、そういうことだ。
久住はきれいな石を星のかけらだと言ってみたり、天文学部に進学したりする、宇宙好きな少年。
香澄は久住が好きで、本当は両思いのくせに、友人が久住に恋してたりして、身をひこう、存在を消そうとしている。
でも、最後には結ばれて、最後の最後にキスシーンまで。
これを並べると、
クスミは、
コスミックに興味がある。
カスミは、友人の気持を考えて、身を消そうとする。つまり、
ケスミ(消す身)。でも、最後には
キス・ミー
(本当は久住は「くずみ」だけど)
さて、この漫画、読んでいて、じれったいというか、イライラするところが多くて、いかにも女の子が好きそうなドラマだった。
いろんな恋愛関係を並べてみると、こうなる。
沢渡香澄と久住智史
お互いに好き同士。こいつらが普通にくっついておれば、諸々のトラブルは生じなかった。
沢渡香澄と二階堂平助
二階堂の片思い。あっさりふられる。香澄は二階堂がどんな人間なのか知ろうともしない。
白石司と泉沙樹
白石の初恋の相手こそ沙樹だった。しかし沙樹は「あんたなんか頼まれたってつきあうもんですか!」と拒絶。その後、沙樹は白石に恋するが、1回ふっておいて、簡単に相手に振り向いてもらおうとしても無理な話。沙樹はもはや白石からは恋愛対象として見られなくなるが、自業自得というものだ。沙樹の気持に気づいた白石は沙樹にチャンスを与えるが、沙樹は意地をはっていて、素直に告白できない。こんな女は苦しんで死んでしまえばいいと思ってたら、最後に白石とくっついてしまった。甘過ぎる。
白石司と沢渡香澄
白石は香澄に恋している。あんなうじうじした女のどこがいいのか。香澄は白石のことなど眼中になし。
久住智史と森下真理子
真理子が一方的に久住に片思い。でも、香澄がはっきりしないので、久住は真理子とつきあう。香澄は真理子の思いを知り、友情を壊したくなくて、久住に自分の思いを出せないのだ。嫉妬深くて、自己中心的なこんな女とまともにつきあう男の気がしれない。それに、こんな大馬鹿女との友情を大切に思うような香澄の輪をかけたバカさにもあきれる。
森下真理子と日野くん
日野くんが一方的に片思い。真理子も最後には日野のよさを認めるが、はっきり言って、あんなバカ女にはもったいない、いい奴である。
日野くんの名前は何でしょう。日野ヒデシ君?日野マコト君?日野ジドウシャ君?
こたえ:日野誠。これホント!
吉祥寺啓子と久住智史
おケイは思ったことをそのまま実行するストレートな女で久住を狙っている。久住はおケイなど問題外だが、香澄よりもいい女だ。気づけ!久住!
ああ、もうじれったい。
何か重要なことを言おうとしたときに必ず邪魔が入るシチュエーションの繰り返しとか、自分の気持ちを素直に出せない人々とか。この漫画読んでたら、感情を素直に出す方が悪者のように見えてくる。
あれだけウジウジしていた愚かな香澄が、番外篇では久住との遠距離恋愛をこなしているが、いったいどんな精神修養をしたというのか。遠距離恋愛は精神的に強くないと不可能なわざだ。香澄には不可能なはずだ。
女の子たちはこの物語をどんな気持ちで読んでいたのか、とても興味がある。
そう考えてタイトルを見てみると「星の瞳のシルエット」って、すごく遠回りで直接的じゃないことをあらわしているように思えてきた。
それと、『耳をすませば』の主人公が「月島雫」だったので、きらりんレボリューションの「月島きらり」みたいだな、と思ってたら、この『星の瞳のシルエット』の主人公の1人が「久住」。モーニング娘。の久住小春つながりは暗合として何かを示しているかのようだ。
ジョジョの奇妙な冒険 第5部
2006年8月18日 アニメ・マンガ
ちょっと興味の湧く事情があって、荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』第5部を読み返した。その事情については、いずれ明かしましょう。第5部というと、イタリアを舞台にした、ジョルノ・ジョバァーナ(ジョジョ)編。コミックスでいうと、第46巻最後から第63巻にあたる。
今さらながらだけど、ジョルノは15歳で、大活躍するチームのボス、ブチャラティが20歳。一方、敵のボス、ディアボロは33歳。若者たちが、三十路のボスを倒す物語だったんだなあ、と再確認。そう考えて読むと、だいたい、若い者が年長の者を倒す話になっているなあ、と思った。唯一、ストーリーの最後の方で、第3部に登場してきたキャラクター(ポルナレフ)が重要な役どころで再登場する。味方側では彼だけが年をくっているか。まあ、第3部に関して言えば、年よりのジョセフ・ジョースターが出てきていたが。
さて、第5部。
はっきり言って、最初読んだとき、最終決戦のあたりの攻防が僕にはあんまりついていけなくて、何がどうなってこうなったのかちゃんと理解できていなかった。
そもそも、ボス、ディアボロのスタンド「キング・クリムゾン」の能力が、「時間をすっとばして、その結果だけが実現する。とばした時間内は、ボスだけが動くことができる」というもので、ややこしい。未来を予知することができ、まさに無敵。時間に関するスタンド能力を持っていたかつての強敵、ディオに匹敵するか。
こういうスタンドの戦いは、山田風太郎の忍法帖シリーズを現代に甦らせているので、僕のようなオールドファンにも血湧き肉躍るものがあるのだ。
ジョジョ第5部では、さらに「レクイエム」というスタンドがあらわれて、まったくわけがわからない不思議な状況になる。
魂が入れ替わって、おれがあいつであいつがおれになるのだ。
このレクイエムが持っている矢を奪おうとディアボロもジョジョ側も競うのだが、これがまた難問。レクイエムは矢を守るために特化した能力を発揮しており、うっかり矢を奪おうとしたら、奪おうとした本人のスタンドが自分自身を攻撃して、矢を守るのだ。
このレクイエムの正体を影の動きから見抜く際のディアボロの推理は、まさに鳥肌もので、感心した。
感心した、ということは、以前読んだときのことを、まったく覚えていなかった、ということだ。
まるで、僕自身がスタンド攻撃を受けているかのようであった。
今さらながらだけど、ジョルノは15歳で、大活躍するチームのボス、ブチャラティが20歳。一方、敵のボス、ディアボロは33歳。若者たちが、三十路のボスを倒す物語だったんだなあ、と再確認。そう考えて読むと、だいたい、若い者が年長の者を倒す話になっているなあ、と思った。唯一、ストーリーの最後の方で、第3部に登場してきたキャラクター(ポルナレフ)が重要な役どころで再登場する。味方側では彼だけが年をくっているか。まあ、第3部に関して言えば、年よりのジョセフ・ジョースターが出てきていたが。
さて、第5部。
はっきり言って、最初読んだとき、最終決戦のあたりの攻防が僕にはあんまりついていけなくて、何がどうなってこうなったのかちゃんと理解できていなかった。
そもそも、ボス、ディアボロのスタンド「キング・クリムゾン」の能力が、「時間をすっとばして、その結果だけが実現する。とばした時間内は、ボスだけが動くことができる」というもので、ややこしい。未来を予知することができ、まさに無敵。時間に関するスタンド能力を持っていたかつての強敵、ディオに匹敵するか。
こういうスタンドの戦いは、山田風太郎の忍法帖シリーズを現代に甦らせているので、僕のようなオールドファンにも血湧き肉躍るものがあるのだ。
ジョジョ第5部では、さらに「レクイエム」というスタンドがあらわれて、まったくわけがわからない不思議な状況になる。
魂が入れ替わって、おれがあいつであいつがおれになるのだ。
このレクイエムが持っている矢を奪おうとディアボロもジョジョ側も競うのだが、これがまた難問。レクイエムは矢を守るために特化した能力を発揮しており、うっかり矢を奪おうとしたら、奪おうとした本人のスタンドが自分自身を攻撃して、矢を守るのだ。
このレクイエムの正体を影の動きから見抜く際のディアボロの推理は、まさに鳥肌もので、感心した。
感心した、ということは、以前読んだときのことを、まったく覚えていなかった、ということだ。
まるで、僕自身がスタンド攻撃を受けているかのようであった。
吾妻ひでおの『失踪日記』を読んだ。
漫画家吾妻ひでおが仕事を放り出しての日々。
自殺未遂編(死ぬ理由なし!)
ホームレス編(自宅があるのに!)
配管工編(漫画家という職があるのに!)
漫画家生活編(今はどうなんだ?)
アル中編(これはまあ、しかたがない)
普通考えたら、必死で漫画描いていてもどこからも注文がない漫画家だってごまんといるはずだ。
その原稿をほうりだして失踪するとはぜいたくな話だ。
また、月々の家賃に四苦八苦している人も、その日暮らしの人もおり、そういう状況から脱却したくてたまらない人がいるなか、あえて路上生活をするのも、ぜいたく。
つまり、この本は吾妻ひでおの情けなさを告白したものにほかならない。
でも、これが面白くてたまらない。
アル中体験を綴ったり、ホームレス生活を書き留めたりする本は数々あるが、内容も装幀も真面目くさっていてつまらない。この本はエンタテインメントとしてきっちり成立しているのが、素晴らしいのだ。
と、ほめておいて何なのだが、こういう体験を本にした漫画よりも、僕は実話じゃないSFパロディとかギャグ漫画をもっと描いてほしいし、読みたい。本人はギャグはやめた、とか言ってるらしいけど、個性というのはおさえようとしてもにじみでてきてしまうもの。そのつもりなくても、ギャグ漫画になってしまうと思うので、とにかく、フィクションをもっと描いてほしいな、と思う。
間違っても、ぐだぐだで、アル中で、うつと不安に襲われて、失踪して、という体験を正当化しては駄目なのだ。
この本のなかで、漫画家生活をふりかえるくだりでは、作者が自作にどういう思いを抱いているかが書かれていて、興味深かった。『ふたりと5人』はたしかに連載当時、読み飛ばしていたけど、『やけくそ天使』は面白かった。作者のやけくそぶりが伝わってきたからだろう。自由演技というか。
とりあえず、10月に出るという『便利屋みみちゃん』に期待しよう。
漫画家吾妻ひでおが仕事を放り出しての日々。
自殺未遂編(死ぬ理由なし!)
ホームレス編(自宅があるのに!)
配管工編(漫画家という職があるのに!)
漫画家生活編(今はどうなんだ?)
アル中編(これはまあ、しかたがない)
普通考えたら、必死で漫画描いていてもどこからも注文がない漫画家だってごまんといるはずだ。
その原稿をほうりだして失踪するとはぜいたくな話だ。
また、月々の家賃に四苦八苦している人も、その日暮らしの人もおり、そういう状況から脱却したくてたまらない人がいるなか、あえて路上生活をするのも、ぜいたく。
つまり、この本は吾妻ひでおの情けなさを告白したものにほかならない。
でも、これが面白くてたまらない。
アル中体験を綴ったり、ホームレス生活を書き留めたりする本は数々あるが、内容も装幀も真面目くさっていてつまらない。この本はエンタテインメントとしてきっちり成立しているのが、素晴らしいのだ。
と、ほめておいて何なのだが、こういう体験を本にした漫画よりも、僕は実話じゃないSFパロディとかギャグ漫画をもっと描いてほしいし、読みたい。本人はギャグはやめた、とか言ってるらしいけど、個性というのはおさえようとしてもにじみでてきてしまうもの。そのつもりなくても、ギャグ漫画になってしまうと思うので、とにかく、フィクションをもっと描いてほしいな、と思う。
間違っても、ぐだぐだで、アル中で、うつと不安に襲われて、失踪して、という体験を正当化しては駄目なのだ。
この本のなかで、漫画家生活をふりかえるくだりでは、作者が自作にどういう思いを抱いているかが書かれていて、興味深かった。『ふたりと5人』はたしかに連載当時、読み飛ばしていたけど、『やけくそ天使』は面白かった。作者のやけくそぶりが伝わってきたからだろう。自由演技というか。
とりあえず、10月に出るという『便利屋みみちゃん』に期待しよう。
バロン、耳をすませば、幸せな時間、ユメノ街
2006年8月8日 アニメ・マンガ
柊あおいの『バロン-猫の男爵』『耳をすませば』『耳をすませば-幸せな時間』『ユメノ街-猫の男爵』を読んだ。「猫の恩返し」の原作と、そのシリーズもの。
シリーズというのは、「耳をすませば」の月島雫(きらりんレボリューションじゃないよ!)のシリーズではなくて、地球屋の猫の男爵、フンベルト・フォン・ジッキンゲンのシリーズ。
『バロン』は映画とほぼ同じ流れだが、迷路を抜けるアイディアは、映画版の方が間抜けでわかりやすかった。
『耳をすませば』は図書室の貸し出しカードで、常に見る名前からはじまる恋物語で、最近の図書室だと、きっとコンピュータ化されていて、こんなロマンスも生まれないのかと思うと、夢がなくなったなあ、と思った。
『幸せな時間』はその2人の後日談。卒業してお互いの進路が違ってしまったら、恋愛も終わってしまうんじゃないか、とかいう学生ならではの問題に答えを出している。
と、いうか、進路が違う、つまり同じ場所にいなくなると恋愛は終わる、という発想が僕には不思議でならない。遠距離恋愛は無理、とか。
確かにセックスフレンドならば離れていては成立しないけど、恋愛はじゅうぶん成立するんじゃないのか。
『ユメノ街』は一転して、ファンタジー。運命の2人が出会って恋愛を成就させる、というお決まりのパターンかと思わせておいて、けっこう怖い話を書いている。
世界から犬が絶滅し、今、犬に見えているのは、心を失った人なのだ、とかいう話。
こうしてシリーズをまとめて読んでみると、主人公の未熟な少女を、バロンが導く、というお話なのだ、とわかる。「猫の恩返し」見たとき、バロンの存在理由がよくわからなかったけど、今なら明らかだ。これら作品に出てくる少女は、自分の力だけでは成長できなかったのだ。バロンがいたからといって、成長したわけでもない主人公もいるが、少なくとも、悪い方向にはいかなかったのだから、よしとするか。
で、一番面白かったのは『耳をすませば』だった。
童話好きの男の子と女の子が、お互いに好きになっておさまるべきところにおさまる話。
この2人がイマイチ冴えないのが、いい。
最初から好き同士の2人が両思いになるのは微笑ましいが、別にうらやましくもなく、勝手に2人くっついとけば、というスタンスでおれるのだ。
そして、図書館に行って、アーサー・ランサムでも借りて読みたくなってきたのが、収穫。
こっちはウサギ号じゃなくて、ツバメ号だけど。
シリーズというのは、「耳をすませば」の月島雫(きらりんレボリューションじゃないよ!)のシリーズではなくて、地球屋の猫の男爵、フンベルト・フォン・ジッキンゲンのシリーズ。
『バロン』は映画とほぼ同じ流れだが、迷路を抜けるアイディアは、映画版の方が間抜けでわかりやすかった。
『耳をすませば』は図書室の貸し出しカードで、常に見る名前からはじまる恋物語で、最近の図書室だと、きっとコンピュータ化されていて、こんなロマンスも生まれないのかと思うと、夢がなくなったなあ、と思った。
『幸せな時間』はその2人の後日談。卒業してお互いの進路が違ってしまったら、恋愛も終わってしまうんじゃないか、とかいう学生ならではの問題に答えを出している。
と、いうか、進路が違う、つまり同じ場所にいなくなると恋愛は終わる、という発想が僕には不思議でならない。遠距離恋愛は無理、とか。
確かにセックスフレンドならば離れていては成立しないけど、恋愛はじゅうぶん成立するんじゃないのか。
『ユメノ街』は一転して、ファンタジー。運命の2人が出会って恋愛を成就させる、というお決まりのパターンかと思わせておいて、けっこう怖い話を書いている。
世界から犬が絶滅し、今、犬に見えているのは、心を失った人なのだ、とかいう話。
こうしてシリーズをまとめて読んでみると、主人公の未熟な少女を、バロンが導く、というお話なのだ、とわかる。「猫の恩返し」見たとき、バロンの存在理由がよくわからなかったけど、今なら明らかだ。これら作品に出てくる少女は、自分の力だけでは成長できなかったのだ。バロンがいたからといって、成長したわけでもない主人公もいるが、少なくとも、悪い方向にはいかなかったのだから、よしとするか。
で、一番面白かったのは『耳をすませば』だった。
童話好きの男の子と女の子が、お互いに好きになっておさまるべきところにおさまる話。
この2人がイマイチ冴えないのが、いい。
最初から好き同士の2人が両思いになるのは微笑ましいが、別にうらやましくもなく、勝手に2人くっついとけば、というスタンスでおれるのだ。
そして、図書館に行って、アーサー・ランサムでも借りて読みたくなってきたのが、収穫。
こっちはウサギ号じゃなくて、ツバメ号だけど。
映画ドラえもん のび太のワンニャン時空伝
2006年8月7日 アニメ・マンガ コメント (4)
芝山努監督の「ドラえもん〜のび太のワンニャン時空伝」を見た。2004年
(追記)
この映画を好きな人が見たら、僕のこの日記の内容に怒る、と指摘いただきました。詳しくはコメント欄を読んでいただけるといいのですが、そういうわけで、この映画のファンの方は、この先、読まないようにしてください。
これもテレビ放送の録画分を発掘してきて見たもので、CMに入る前に声優陣が思い出などを語っている。ちょうど声優が若い人たちに一新される直前に作られた映画だったのだ。旧声優陣の顔を見ていると、こりゃ、どう転んでも子供たちの声を担わせるわけにはいかない、という気がしてくる。僕にとって大山のぶ代はその代表格で、あの老婆の声をどうやってドラえもんの声だと信じ、ありがたがる人がいるのか、理解に苦しむ。すこし不思議だ。ドラえもんがヨーダのごとき姿形であれば違和感もなかったろうが。
さて、ストーリー。
捨て犬イチを飼いきれなくなったのび太がタイムマシンで、人間のいない大昔にイチを連れていく。ペットを捨てる人間の身勝手さにすりかえているが、要するにのび太が責任をもって飼えなかったのがすべての悲劇のはじまりだったのだ。
ここまでの所業でも、のび太の愚かさはきわだっているのだが、まだまだだ。
無料フード製造機をちゃんと操作させるために、進化退化光線銃でイチを進化させ、二本足で直立し、脳を発達させる。
のび太は翌日もイチのめんどうを見に行こうとするが、タイムマシンの具合によって、犬猫が人間並みに進化し文明を発達させた時代にたどりつく。
その後は、地球に巨大隕石が衝突する話になり、最終的にのび太とイチの別れ。
直立してしゃべり、文化を持つ犬を現代日本に存在させることは歴史が許さないのだ。
そんなことは、最初からわかっていた。
文化を持つ犬が現代に存在していない以上、それは過去において全滅したか地球から去って行ったに決まっているのだ。
のび太の愚かさが、いらぬ悲劇を呼んだ。
犬は犬として生きていくのがよかったのではないのか。進化、つまり人間化することが幸せだと思い込んだ人間至上主義の傲慢な思想の持ち主、のび太は責められるべき愚者だ。ペットを捨てる人間よりも罪は深い。
ドラえもんは、未来のテクノロジーでのび太を助けたりせず、むしろ、ターミネーターとしてのび太を殺戮し、その情けなくも大馬鹿な遺伝子を未来に蔓延させる危険を回避すべきではなかったか。
この映画に流れる「のび太中心主義」は醜悪だが、ドラえもんが出してくるひみつ道具は面白い。名刀電光丸など、よそ見していても勝手にチャンバラをしてくれるすぐれものだ。つい最近、それを持つ人間の技倆でなく、剣そのものの力で戦うシーンを見た気がしたが、何だったかなあ。忘れた!
(追記)
この映画を好きな人が見たら、僕のこの日記の内容に怒る、と指摘いただきました。詳しくはコメント欄を読んでいただけるといいのですが、そういうわけで、この映画のファンの方は、この先、読まないようにしてください。
これもテレビ放送の録画分を発掘してきて見たもので、CMに入る前に声優陣が思い出などを語っている。ちょうど声優が若い人たちに一新される直前に作られた映画だったのだ。旧声優陣の顔を見ていると、こりゃ、どう転んでも子供たちの声を担わせるわけにはいかない、という気がしてくる。僕にとって大山のぶ代はその代表格で、あの老婆の声をどうやってドラえもんの声だと信じ、ありがたがる人がいるのか、理解に苦しむ。すこし不思議だ。ドラえもんがヨーダのごとき姿形であれば違和感もなかったろうが。
さて、ストーリー。
捨て犬イチを飼いきれなくなったのび太がタイムマシンで、人間のいない大昔にイチを連れていく。ペットを捨てる人間の身勝手さにすりかえているが、要するにのび太が責任をもって飼えなかったのがすべての悲劇のはじまりだったのだ。
ここまでの所業でも、のび太の愚かさはきわだっているのだが、まだまだだ。
無料フード製造機をちゃんと操作させるために、進化退化光線銃でイチを進化させ、二本足で直立し、脳を発達させる。
のび太は翌日もイチのめんどうを見に行こうとするが、タイムマシンの具合によって、犬猫が人間並みに進化し文明を発達させた時代にたどりつく。
その後は、地球に巨大隕石が衝突する話になり、最終的にのび太とイチの別れ。
直立してしゃべり、文化を持つ犬を現代日本に存在させることは歴史が許さないのだ。
そんなことは、最初からわかっていた。
文化を持つ犬が現代に存在していない以上、それは過去において全滅したか地球から去って行ったに決まっているのだ。
のび太の愚かさが、いらぬ悲劇を呼んだ。
犬は犬として生きていくのがよかったのではないのか。進化、つまり人間化することが幸せだと思い込んだ人間至上主義の傲慢な思想の持ち主、のび太は責められるべき愚者だ。ペットを捨てる人間よりも罪は深い。
ドラえもんは、未来のテクノロジーでのび太を助けたりせず、むしろ、ターミネーターとしてのび太を殺戮し、その情けなくも大馬鹿な遺伝子を未来に蔓延させる危険を回避すべきではなかったか。
この映画に流れる「のび太中心主義」は醜悪だが、ドラえもんが出してくるひみつ道具は面白い。名刀電光丸など、よそ見していても勝手にチャンバラをしてくれるすぐれものだ。つい最近、それを持つ人間の技倆でなく、剣そのものの力で戦うシーンを見た気がしたが、何だったかなあ。忘れた!
森田宏幸監督の「猫の恩返し」を見た。スタジオジブリ。2002年
これもまたテレビ放送の録画を見つけて見たもので、まず、石川梨華と田中れいながナビゲーションで出て来た。ジブリ作品で声をあてている我修院達也も。
まず、スタジオジブリの短編作品が放送された。
「そらいろのたね」全3話。1992年。絵本
「なんだろう」1992年。日本テレビのキャラクター
「On Your Mark」1995年。チャゲ&飛鳥
さて、本編。
これもまた、少女が猫の国という異界に行って、戻ってくる話。
狸御殿みたいな話なのだが、なぜ狸でなく猫なのか、に答える必然性は1ケ所。猫王の行列で二本足で立ち、前足を曲げる猫の姿は狸では出せない可愛さがあった、と思う。それだけ?それで十分!
一方、猫が軍隊みたいなのを組織したりするのは、イメージにあわなかった。ああいう主従関係とか支配関係はイヌ族にまかせておけばいいのだ。猫が恩返しする、という発想も違和感があった。猫は恩知らずで、そこが魅力なのに。はっきり言って、こいつら、猫じゃない。猫をかぶった別の生物だ。そうか。どこかで見たことある、と思ってたら、これ「耳をすませば」のバロンだったのか!それで猫なのか。「耳をすませば」は10年以上前に劇場で見ただけなので、ストーリーとか全然覚えていなかった。でも、この「猫の恩返し」では、バロン別に出て来なくてもよかったのにな、と思った。特別出演扱いですか。そうですか。
楽しかったシーンは、ラストで上空高くから落下し、鳥の大群が作ったらせん階段をおりるところ。これが爽快。
昨日見た「千と千尋の神隠し」にくらべると、異界を通過して戻ってきた少女が、大きな変化をしていないのがよかった。少女にとって、猫の国での冒険は、ひと夏のエピソード程度の重みしかないようで、それでこそ少女じゃないか、と共感したのだ。
なお、この映画、猫のナトルの声を濱田マリちゃんがあてている。
マリちゃんが声をやっている、とまったく意識せずに見終わってから、巻き戻して聞き直し、「あっ、本当にマリちゃんだ!」とわかった次第。あんなに声に特徴あるのに、役柄になりきっていて、マリちゃんを感じさせなかったのは、さすがのひとこと。
これもまたテレビ放送の録画を見つけて見たもので、まず、石川梨華と田中れいながナビゲーションで出て来た。ジブリ作品で声をあてている我修院達也も。
まず、スタジオジブリの短編作品が放送された。
「そらいろのたね」全3話。1992年。絵本
「なんだろう」1992年。日本テレビのキャラクター
「On Your Mark」1995年。チャゲ&飛鳥
さて、本編。
これもまた、少女が猫の国という異界に行って、戻ってくる話。
狸御殿みたいな話なのだが、なぜ狸でなく猫なのか、に答える必然性は1ケ所。猫王の行列で二本足で立ち、前足を曲げる猫の姿は狸では出せない可愛さがあった、と思う。それだけ?それで十分!
一方、猫が軍隊みたいなのを組織したりするのは、イメージにあわなかった。ああいう主従関係とか支配関係はイヌ族にまかせておけばいいのだ。猫が恩返しする、という発想も違和感があった。猫は恩知らずで、そこが魅力なのに。はっきり言って、こいつら、猫じゃない。猫をかぶった別の生物だ。そうか。どこかで見たことある、と思ってたら、これ「耳をすませば」のバロンだったのか!それで猫なのか。「耳をすませば」は10年以上前に劇場で見ただけなので、ストーリーとか全然覚えていなかった。でも、この「猫の恩返し」では、バロン別に出て来なくてもよかったのにな、と思った。特別出演扱いですか。そうですか。
楽しかったシーンは、ラストで上空高くから落下し、鳥の大群が作ったらせん階段をおりるところ。これが爽快。
昨日見た「千と千尋の神隠し」にくらべると、異界を通過して戻ってきた少女が、大きな変化をしていないのがよかった。少女にとって、猫の国での冒険は、ひと夏のエピソード程度の重みしかないようで、それでこそ少女じゃないか、と共感したのだ。
なお、この映画、猫のナトルの声を濱田マリちゃんがあてている。
マリちゃんが声をやっている、とまったく意識せずに見終わってから、巻き戻して聞き直し、「あっ、本当にマリちゃんだ!」とわかった次第。あんなに声に特徴あるのに、役柄になりきっていて、マリちゃんを感じさせなかったのは、さすがのひとこと。
ジャパニメーションがどうたら本の影響で、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を見た。2001年。宮崎駿が原作、脚本も兼ねている。以前テレビ放送してたのを録画していたのを、やっと探し当てて見たものだ。本編に入る前に、「ハウルの動く城」の原作者が出てきて、ハウルのテーマは「愛情こそ魔法」だとか、年をとっているからこそできることがあるとか、言っていた。「ハウルの動く城」を見たときに感じた「戦争が愛だの恋だので丸くおさまってしまう」「老いは呪いなのか」という疑問は、これで解消したと言える。愛によって戦争が終わってもそれは魔法だからであり、老いは呪いではなかったのだ。荒れ地の魔女が、老いによって愛だの恋だのの世界から引退させようとした策略は、魔女の浅はかな考えから来たものだったのだ。浅はかな考えとは、愛だの恋だのに必要な要素は若さだ、という思い込み。若さは愛だの恋だのの結果として来るもので、それ自身を武器にすることは出来ない。
さて、本編。スタッフ、あらすじについては有名らしいので、どこかで参照してもらうとして、感想だけ記しておこう。
この映画に批判的な人もいるらしいが、じゃあ、なぜ見たんだろう、と疑問に思う。世の中にはいっぱい映画があって、見切れないのだ。最初から見なければよかったんじゃないのか。それに、たかが宮崎アニメに対して、いったい何を期待していたのか、と要求水準を疑いたくもなる。
面白かった!
なにより、湯屋の物語ゆえ、見ているだけで気持良い。くされ神に湯をかけてどろどろを洗い流すシーンは最高!
同様に、カオナシがゲロゲロ吐いてすっきりするシーンも気持良い。
千尋の両親が勝手に食事をはじめて豚に変えられてしまうシーンとあわせて、大食の罪、なんてことまで考えた。
カオナシの姿はマヤ・デレンの「午後の網目」を思い出させた。
こうしたキャラクターの面白さ以外に気になったのは、随所に見られる説教臭さ。
少女が異界を通過(儀礼)することで成長する話なので、しかたないとは言え、どうにかならなかったのか。ルイス・キャロルのアリスは不思議の国や鏡の国を通過しても、ちっとも変わらない。それこそが少女のリアルってもんじゃないのか。
他のアニメに比べて、少女の体型など、リアルな少女っぽくて好感が持てただけに、成長したりしっかりしたり向上することを良いことだと思い込むありきたりの大人に仕立て上げようとする陰謀にあっさりと乗ってほしくなかった、と思う。
湯屋で働くことになった千尋が、名前を奪われて「千」と呼ばれるようになる。
支配されるということは、名前を奪われるということなのだ。
人間性を剥奪して、支配する際に名前を奪って番号でおきかえられるのは、囚人、軍人、学生を考えれば一目瞭然だろう。
「ちひろ」という名は「千」という数字、番号に置き換えられたのだ。
千尋は名前を取り戻すことで人間性剥奪の異界から抜け出すことが出来るが、抜け出した先が「一人前の大人」への道だとしたら、これはまたつまらないのである。
勝手に店のものを食べるような両親の「狭さ」が彼らを豚に変える原因だった。
千尋は両親と再会したときに「あなたたちのような大人にはならない」とでも言ってやればよかったのだ。両親を捨てて、ハク(白竜)といた方がよかったんじゃないのか?
クライマックスで湯婆婆が多くの豚を並べて、「この中から両親を間違えずに選べ」と謎をかける。
千尋が出した正解は「この中には両親はいない」だった。
これは、湯婆婆の策略を読んだせいでもなく、親子の情によって見分けがついたのでもない。
豚に変えられるようなぶざまで醜い奴は両親でも何でもない、ということなのだ。
どれかを選んで、豚から変身するような親などほしくない、ということなのではなかろうか。
少女にとっては親は倒して否定すべき存在であって、間違っても救出すべきものではない。
これは千尋ひとりに限らず、すべての「親子」を名乗る人々にとって事情は同じだろう。
だから「この中に」だけでなく、人間にとって「親」を名乗る資格を持つものはどこにもいない、という少女なりの洞察だったのではないか。
あと、海を走る電車のシーンはとても良くて、いい気分だった。
この気持良さがどこから来るのか、考えてみたが、そのひとつが、電車がすいていて、すぐに坐ることが出来たことにも由っている、と思った。そんな些細なことで!
さて、本編。スタッフ、あらすじについては有名らしいので、どこかで参照してもらうとして、感想だけ記しておこう。
この映画に批判的な人もいるらしいが、じゃあ、なぜ見たんだろう、と疑問に思う。世の中にはいっぱい映画があって、見切れないのだ。最初から見なければよかったんじゃないのか。それに、たかが宮崎アニメに対して、いったい何を期待していたのか、と要求水準を疑いたくもなる。
面白かった!
なにより、湯屋の物語ゆえ、見ているだけで気持良い。くされ神に湯をかけてどろどろを洗い流すシーンは最高!
同様に、カオナシがゲロゲロ吐いてすっきりするシーンも気持良い。
千尋の両親が勝手に食事をはじめて豚に変えられてしまうシーンとあわせて、大食の罪、なんてことまで考えた。
カオナシの姿はマヤ・デレンの「午後の網目」を思い出させた。
こうしたキャラクターの面白さ以外に気になったのは、随所に見られる説教臭さ。
少女が異界を通過(儀礼)することで成長する話なので、しかたないとは言え、どうにかならなかったのか。ルイス・キャロルのアリスは不思議の国や鏡の国を通過しても、ちっとも変わらない。それこそが少女のリアルってもんじゃないのか。
他のアニメに比べて、少女の体型など、リアルな少女っぽくて好感が持てただけに、成長したりしっかりしたり向上することを良いことだと思い込むありきたりの大人に仕立て上げようとする陰謀にあっさりと乗ってほしくなかった、と思う。
湯屋で働くことになった千尋が、名前を奪われて「千」と呼ばれるようになる。
支配されるということは、名前を奪われるということなのだ。
人間性を剥奪して、支配する際に名前を奪って番号でおきかえられるのは、囚人、軍人、学生を考えれば一目瞭然だろう。
「ちひろ」という名は「千」という数字、番号に置き換えられたのだ。
千尋は名前を取り戻すことで人間性剥奪の異界から抜け出すことが出来るが、抜け出した先が「一人前の大人」への道だとしたら、これはまたつまらないのである。
勝手に店のものを食べるような両親の「狭さ」が彼らを豚に変える原因だった。
千尋は両親と再会したときに「あなたたちのような大人にはならない」とでも言ってやればよかったのだ。両親を捨てて、ハク(白竜)といた方がよかったんじゃないのか?
クライマックスで湯婆婆が多くの豚を並べて、「この中から両親を間違えずに選べ」と謎をかける。
千尋が出した正解は「この中には両親はいない」だった。
これは、湯婆婆の策略を読んだせいでもなく、親子の情によって見分けがついたのでもない。
豚に変えられるようなぶざまで醜い奴は両親でも何でもない、ということなのだ。
どれかを選んで、豚から変身するような親などほしくない、ということなのではなかろうか。
少女にとっては親は倒して否定すべき存在であって、間違っても救出すべきものではない。
これは千尋ひとりに限らず、すべての「親子」を名乗る人々にとって事情は同じだろう。
だから「この中に」だけでなく、人間にとって「親」を名乗る資格を持つものはどこにもいない、という少女なりの洞察だったのではないか。
あと、海を走る電車のシーンはとても良くて、いい気分だった。
この気持良さがどこから来るのか、考えてみたが、そのひとつが、電車がすいていて、すぐに坐ることが出来たことにも由っている、と思った。そんな些細なことで!
ジャパニメーションがどうとか言う本を読んだ影響で、ムトウユージ監督の「劇場版クレヨンしんちゃん/伝説を呼ぶブリブリ3分ポッキリ大進撃」を見た。(2005年)
このシリーズの目玉のひとつは、声の出演で旬のゲストが起用されているところ。
この作品では、波田陽区が怪獣役で出ていた。まさに、旬!IZAM級。
今回、野原一家は、時空のゆがみをなおし、世界を滅亡から救うため、変身して怪獣たちと闘う。
掛け軸の裏からバイパス世界に行き、そこで自分の想像力どおりのヒーローに変身し、怪獣と闘うのだ。怪獣は時空の歪みから生じるエネルギー体なので、怪獣を倒して回収することで、時空の歪みを修正することができるのだ。また、闘うのがバイパス世界なので、怪獣との闘いを終えて元の世界に戻れば、怪獣出現そのものが起こらなかったことになるのだ。ただし、怪獣退治のための制限時間は3分。
頻々と発生する怪獣退治イベントに、野原一家は夢中になる。家事も仕事もそっちのけで、怪獣出現を待ちわびるようになる。そのときだけ、自分は好きなように変身ができるのだ。たとえば、みさえはプリティミサエスやセクシーミサエX、マーメイドミサエリアスなど。
だが、ラスボス近くになると、怪獣も強くなってきて、簡単には倒せなくなる。
クライマックスの怪獣ゴロドロは、ドロドロした形で、すべての攻撃をかわしてしまう。
自衛隊も歯がたたない。
アクション仮面、カンタム・ロボ、ぶりぶりざえもんの助けを借りて、ゴロドロの弱点が臭いにあると気づいたしんちゃんは、ひろしの靴下や、しんちゃんのおならによって、退治する。面白いのは、紙に描かれたぶりぶりざえもんが紙のまま巨大化することで、せりふはすべて紙の上のフキダシで書かれており、声は出さない。望んだとおりに変身できるバイパス世界なのだから、ぶりぶりざえもんの声をあてていた、故・塩沢兼人(2000年没)の声を編集して使ってみるのもよかったんじゃないか、と思った。
しんちゃんはピンチに陥ったとき、自分がイケメンでモテモテのはずの未来を破壊してなるものか、と立ち上がり、怪獣を退治する。こういう不純な動機は大好き。
ただ、一家が一丸となって闘う際に、ひろしもみさえも変身したヒーローの姿じゃない普段着であらわれる。そのときに世界を守るのはヒーローじゃなくて、一家の母であり父であり、家族である、みたいなごたくを並べるのはつまらない。変身ヒーローの方がいいに決まっている。劇場版ならではのまっとうなテーマを無理やり入れた感じだ。
そのわりに、全体としてお子様向けで、テレビの2時間スペシャルで十分なんじゃないか、と思った。
以下、出現したクリーチャーたち。
クリラ
カトリーヌ3世
2960(巨大フクロウ)
キリキリマイ
ポチタマタロミケ(キングギドラみたいな四頭が犬と猫)
ラドンおんせん
ギュー・ドン
ババンバ・バン
ファ・イヤーン
ラビビーン関根
カマデ
ピースくん(蟹の怪獣)
サベシオ
タナ・シ
波田陽区
ゴロドロ
ニセしんのすけマン
「ラドンおんせん」とか「ポチタマタロミケ」はよかったなあ。
このシリーズの目玉のひとつは、声の出演で旬のゲストが起用されているところ。
この作品では、波田陽区が怪獣役で出ていた。まさに、旬!IZAM級。
今回、野原一家は、時空のゆがみをなおし、世界を滅亡から救うため、変身して怪獣たちと闘う。
掛け軸の裏からバイパス世界に行き、そこで自分の想像力どおりのヒーローに変身し、怪獣と闘うのだ。怪獣は時空の歪みから生じるエネルギー体なので、怪獣を倒して回収することで、時空の歪みを修正することができるのだ。また、闘うのがバイパス世界なので、怪獣との闘いを終えて元の世界に戻れば、怪獣出現そのものが起こらなかったことになるのだ。ただし、怪獣退治のための制限時間は3分。
頻々と発生する怪獣退治イベントに、野原一家は夢中になる。家事も仕事もそっちのけで、怪獣出現を待ちわびるようになる。そのときだけ、自分は好きなように変身ができるのだ。たとえば、みさえはプリティミサエスやセクシーミサエX、マーメイドミサエリアスなど。
だが、ラスボス近くになると、怪獣も強くなってきて、簡単には倒せなくなる。
クライマックスの怪獣ゴロドロは、ドロドロした形で、すべての攻撃をかわしてしまう。
自衛隊も歯がたたない。
アクション仮面、カンタム・ロボ、ぶりぶりざえもんの助けを借りて、ゴロドロの弱点が臭いにあると気づいたしんちゃんは、ひろしの靴下や、しんちゃんのおならによって、退治する。面白いのは、紙に描かれたぶりぶりざえもんが紙のまま巨大化することで、せりふはすべて紙の上のフキダシで書かれており、声は出さない。望んだとおりに変身できるバイパス世界なのだから、ぶりぶりざえもんの声をあてていた、故・塩沢兼人(2000年没)の声を編集して使ってみるのもよかったんじゃないか、と思った。
しんちゃんはピンチに陥ったとき、自分がイケメンでモテモテのはずの未来を破壊してなるものか、と立ち上がり、怪獣を退治する。こういう不純な動機は大好き。
ただ、一家が一丸となって闘う際に、ひろしもみさえも変身したヒーローの姿じゃない普段着であらわれる。そのときに世界を守るのはヒーローじゃなくて、一家の母であり父であり、家族である、みたいなごたくを並べるのはつまらない。変身ヒーローの方がいいに決まっている。劇場版ならではのまっとうなテーマを無理やり入れた感じだ。
そのわりに、全体としてお子様向けで、テレビの2時間スペシャルで十分なんじゃないか、と思った。
以下、出現したクリーチャーたち。
クリラ
カトリーヌ3世
2960(巨大フクロウ)
キリキリマイ
ポチタマタロミケ(キングギドラみたいな四頭が犬と猫)
ラドンおんせん
ギュー・ドン
ババンバ・バン
ファ・イヤーン
ラビビーン関根
カマデ
ピースくん(蟹の怪獣)
サベシオ
タナ・シ
波田陽区
ゴロドロ
ニセしんのすけマン
「ラドンおんせん」とか「ポチタマタロミケ」はよかったなあ。
先日ジャパニメーションの本を読んだので、大島渚監督の「忍者武芸帳」を見ることにした。1967年。
白土三平の漫画『忍者武芸帳』のコマをそのままアップで映して、声や若干の動きをあてて、長編映画に仕立て上げた。アニメかどうかはよくわからないが、少なくとも、「まんが映画」ではある。カラーでもなく、大量のセル画を使って動きを滑らかに見せているわけでもない。紙芝居みたいな作品だが、2時間以上、まったく飽きずに見ることができた。漫画そのものが、もともと滅法面白かった、というのもある。
漫画の方は高校3年だか卒業後に、親友の田畑くんに借りて読んだ。彼は京都大学の理系の学部に進んだ秀才で、バケツの水に洗剤をまぜるときにも、サラサラと微分方程式を書いて計算していたのを覚えている。彼はその頃マルクス主義に傾倒していた。僕も同様にマルクスやエンゲルスの本をちんぷんかんぷんながらも読んでいた。今、忍者武芸帳をこうして映画ででも振り返ってみると、彼がこの漫画を必読だと言っていた意味がよくわかる気がした。
織田信長の時代。主人公の影丸は、全国の一揆を指導し、階級社会の転覆を狙っている。
影一族は、1つの主義を貫こうとする者の集まりで、8人おれば、それぞれが影丸本体でもあり、全員が影武者でもある。影丸を1人殺しても、別の誰かが影丸になるだけ。つまり、影丸は死なないのだ。これを白土三平は「八本しめじ」の術と表現した。
最後に残った「影丸」は「蔵六」と呼ばれる男で、首を体内に縮めることができる。この特殊な体質を術として、首を斬られたはずの影丸が首無しの姿で歩いてみせて、その不死身性をアピールしたりできたのだ。ちなみに「蔵六」は中国で「亀」のことを指している。「蔵六の奇病」という漫画で、ラストに蔵六が亀に変身したのは、言葉どおりの約束だったのだ。今で言うなら、「亀田三兄弟」が最後に、亀がたわわに実る田んぼに変身するようなものだ(ありえない)。
一向一揆は敗れ去り、信長も本能寺で死んだ。
ラストシーンで、影丸の言葉がナレーションとともにババーンと画面に大写しになる。
「わしが死ねばその後を継ぐ者が必ず出る。破れても人々は目的に向かい、多くの人が平等に幸せになる日までたたかうのだ」
この映画が作られてから、40年がたつ。
多くの人が平等に幸せになる日はまだ来ていない!
白土三平の漫画『忍者武芸帳』のコマをそのままアップで映して、声や若干の動きをあてて、長編映画に仕立て上げた。アニメかどうかはよくわからないが、少なくとも、「まんが映画」ではある。カラーでもなく、大量のセル画を使って動きを滑らかに見せているわけでもない。紙芝居みたいな作品だが、2時間以上、まったく飽きずに見ることができた。漫画そのものが、もともと滅法面白かった、というのもある。
漫画の方は高校3年だか卒業後に、親友の田畑くんに借りて読んだ。彼は京都大学の理系の学部に進んだ秀才で、バケツの水に洗剤をまぜるときにも、サラサラと微分方程式を書いて計算していたのを覚えている。彼はその頃マルクス主義に傾倒していた。僕も同様にマルクスやエンゲルスの本をちんぷんかんぷんながらも読んでいた。今、忍者武芸帳をこうして映画ででも振り返ってみると、彼がこの漫画を必読だと言っていた意味がよくわかる気がした。
織田信長の時代。主人公の影丸は、全国の一揆を指導し、階級社会の転覆を狙っている。
影一族は、1つの主義を貫こうとする者の集まりで、8人おれば、それぞれが影丸本体でもあり、全員が影武者でもある。影丸を1人殺しても、別の誰かが影丸になるだけ。つまり、影丸は死なないのだ。これを白土三平は「八本しめじ」の術と表現した。
最後に残った「影丸」は「蔵六」と呼ばれる男で、首を体内に縮めることができる。この特殊な体質を術として、首を斬られたはずの影丸が首無しの姿で歩いてみせて、その不死身性をアピールしたりできたのだ。ちなみに「蔵六」は中国で「亀」のことを指している。「蔵六の奇病」という漫画で、ラストに蔵六が亀に変身したのは、言葉どおりの約束だったのだ。今で言うなら、「亀田三兄弟」が最後に、亀がたわわに実る田んぼに変身するようなものだ(ありえない)。
一向一揆は敗れ去り、信長も本能寺で死んだ。
ラストシーンで、影丸の言葉がナレーションとともにババーンと画面に大写しになる。
「わしが死ねばその後を継ぐ者が必ず出る。破れても人々は目的に向かい、多くの人が平等に幸せになる日までたたかうのだ」
この映画が作られてから、40年がたつ。
多くの人が平等に幸せになる日はまだ来ていない!
パリ‐東京、さくら並木、バンビ、ピノキオ、ぼくらの燈台、五少年漂流記
2006年7月20日 アニメ・マンガ
高橋真琴の『パリ〜東京』『さくら並木』を読んだ。
どちらも父親不在の母子家庭での少女漫画、復刻版。
『パリ〜東京』は、作家の吉屋花子(!)に見い出されて人気挿絵家になった母と、花売りのバイトをする娘の物語。歌が大好き。
ウソの情報によって、父と母は引き裂かれていたことが判明、ハッピーエンド。
作中、フランス語で会話するシーンなどもあり、単語も紹介されていて、簡単なフランス語会話の手ほどきにもなっている。
『さくら並木』は学園もの。エス。
卓球の試合の決勝でおねえさまと接戦の末、破れた主人公に対して、「あれはわざと負けたのよ」「そんなにまでして、気をひきたいのかしら」とやっかんで噂するクラスメートたち。
二人の間柄はギクシャクするが、再度試合を申し込み、善戦するがまた敗れ、自分が手加減したわけではないことを自分でも納得、二人が心ない噂に翻弄されていたことに気づき、仲直り。
途中、バレエ「白鳥の死」のシーンが1ページ1コマ、2コマほどの大きな画面でえんえんと紹介される。
どちらの話も、人からの情報を鵜のみにするとろくでもないことになる、という教訓を僕は得た!
この復刻版には付録に「読本」がついており、高橋真琴へのインタビュー、嶽本野ばら、藤本由香里のエッセイ、松本零士へのインタビューが掲載されている(本書の復刻は、松本零士の所有する本からなされた)。
読んでいて面白いのは、断然、野ばら君のエッセイ。読者は蘊蓄よりも本質について知りたいんだよな、と強く思った。
しかし、まあ、こんな漫画読んで育ったら、女の子は乙女になっちゃうよなあ、と感心した。
貸本時代、大阪から飛行機代出しても原稿がほしいと東京の出版社から思われていたのが、この高橋真琴と手塚治虫だった、と読本に書かれていた。(この復刻版には、当時の高橋真琴の住所がそのまま載っている。大阪市旭区、とあった)
その双璧の片割れ、手塚治虫の復刻版も2冊読んだ。ディズニ−映画の漫画化。
『バンビ』
手塚治虫が百回くらい見た、という「バンビ」の漫画化。
言わずとしれた『ジャングル大帝』の元ネタだ。
ディズニー映画で見たり、またディズニー絵本で読むよりも、この手塚版がなんだかしっくりくるのは何故なんだろう。
『ピノキオ』
言わずと知れた『鉄腕アトム』の元ネタ。
実際の映画での絵柄を今、確認できないのが残念なのだが、ピノキオに命をふきこむ妖精の顔だちが、映画女優っぽい。
ピノキオは、怠けたり、浅はかな行動に出たりして、まったくバカなガキなのだ。
人間になりたい、という夢にしたって、その愚かさからくる願望のように思えた。
人形は人間が描いた理想の形だと思う。人形が人間になりたい、とか、思うはずがない。それはあまりにも、人間をいいものだと思い込みすぎている。
これは、ローゼンメイデンにも言えることだ。
人形が完璧な少女アリスを目指して闘うなんて、笑止千万。実際は、少女が人形を目指しているのだ。第2シリーズの「トロイメント」になって、人形たちが表情や感情を豊かに表現しだしたことに違和感を覚えたのは、そこだ。
さて、読本でのインタビューで、高橋真琴は愛読していた漫画を2つあげている。手塚治虫の『リボンの騎士』と芳賀たかしの『燈台島の冒険』だ。
この『燈台島の冒険』は戦後復刻されたときのタイトルで、最初に刊行されたときは『ぼくらの燈台』だった。
で、その芳賀たかしの漫画を読んだ。
芳賀たかし漫画傑作集『ぼくらの燈台/五少年漂流記』。中村書店の漫画復刻版。
まず、『ぼくらの燈台』
船の巻、ぼくらの燈台、暴風雨の巻と、章立てされている。
燈台にたどりつくまでに山道を6キロも行かねばならない。
こどもたちは、苛酷な山登りをしたり、土用波にさらわれたり、海燕の群れに襲われたり、暴風雨のなか船を救助したり、けっこう大冒険をするのだ。『燈台島の冒険』と改題したくなる気持もよくわかる。
この漫画のモデルになった燈台は金華山灯台と言われており、木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾年月」でも取り上げられている。
ちょっと前に、航空管制官のスリリングな映画が流行したことがあるが、この漫画もそれと同様、海上交通の安全を守るため、スリリングな展開をみせている。
中村書店らしく、浮標の種類や、灯台の仕組みなどの学習要素も忘れない。
次に『五少年漂流記』
漂流、無人島、マレー半島、と章立て。吹出しを使わず、絵物語になっている。
日本人2人、フランス人、シナ、安南の多国籍5人少年がボートで漂流する。
無人島でサバイバル生活を送り、舟を作ってマレー半島までたどりつく。
意外なことに、『ぼくらの燈台』の方が冒険スペクタクルの場面が印象に残った。
この『五少年漂流記』の面白さは、「無人島」の章での、少年5人による建設的な生活にある。少年はこんなふうに秘密基地とか、アジトとか作りたがるのだ。何もないところから徐々に作り上げていく楽しさは、冒険ダン吉読んだときの面白さを思い出した。
それでも少年たちは家に帰りたいようで、マレー半島のサカイ族に助けられて、ジャングルを抜けていく。サカイ族は文明を嫌う種族なのだが、少年たちをなぜか助けるのだ。
ずっと無人島で暮らしていれば楽しかったのに!
なんだなんだ、昔の漫画ばっかり読んでしまった。
『ぼくらの燈台』芳賀たかし(1940)
『五少年漂流記』芳賀たかし(1942)
『バンビ』手塚治虫(1951)
『ピノキオ』手塚治虫(1952)
『パリ〜東京』高橋真琴(1956)
『さくら並木』高橋真琴(1957)
全部、僕が生まれる前の出版だった。
(追記)
『パリ〜東京』でラストのクライマックスで、愛する夫が生きていることが判明し、涙にくれる母親をバックに、主人公の女の子が、こんな台詞を言う。
「今は過去のすべてを忘れ喜びにむせぶママン」
なに?この説明的なナレーションは?
どこに向かって言ってるのやら!
どちらも父親不在の母子家庭での少女漫画、復刻版。
『パリ〜東京』は、作家の吉屋花子(!)に見い出されて人気挿絵家になった母と、花売りのバイトをする娘の物語。歌が大好き。
ウソの情報によって、父と母は引き裂かれていたことが判明、ハッピーエンド。
作中、フランス語で会話するシーンなどもあり、単語も紹介されていて、簡単なフランス語会話の手ほどきにもなっている。
『さくら並木』は学園もの。エス。
卓球の試合の決勝でおねえさまと接戦の末、破れた主人公に対して、「あれはわざと負けたのよ」「そんなにまでして、気をひきたいのかしら」とやっかんで噂するクラスメートたち。
二人の間柄はギクシャクするが、再度試合を申し込み、善戦するがまた敗れ、自分が手加減したわけではないことを自分でも納得、二人が心ない噂に翻弄されていたことに気づき、仲直り。
途中、バレエ「白鳥の死」のシーンが1ページ1コマ、2コマほどの大きな画面でえんえんと紹介される。
どちらの話も、人からの情報を鵜のみにするとろくでもないことになる、という教訓を僕は得た!
この復刻版には付録に「読本」がついており、高橋真琴へのインタビュー、嶽本野ばら、藤本由香里のエッセイ、松本零士へのインタビューが掲載されている(本書の復刻は、松本零士の所有する本からなされた)。
読んでいて面白いのは、断然、野ばら君のエッセイ。読者は蘊蓄よりも本質について知りたいんだよな、と強く思った。
しかし、まあ、こんな漫画読んで育ったら、女の子は乙女になっちゃうよなあ、と感心した。
貸本時代、大阪から飛行機代出しても原稿がほしいと東京の出版社から思われていたのが、この高橋真琴と手塚治虫だった、と読本に書かれていた。(この復刻版には、当時の高橋真琴の住所がそのまま載っている。大阪市旭区、とあった)
その双璧の片割れ、手塚治虫の復刻版も2冊読んだ。ディズニ−映画の漫画化。
『バンビ』
手塚治虫が百回くらい見た、という「バンビ」の漫画化。
言わずとしれた『ジャングル大帝』の元ネタだ。
ディズニー映画で見たり、またディズニー絵本で読むよりも、この手塚版がなんだかしっくりくるのは何故なんだろう。
『ピノキオ』
言わずと知れた『鉄腕アトム』の元ネタ。
実際の映画での絵柄を今、確認できないのが残念なのだが、ピノキオに命をふきこむ妖精の顔だちが、映画女優っぽい。
ピノキオは、怠けたり、浅はかな行動に出たりして、まったくバカなガキなのだ。
人間になりたい、という夢にしたって、その愚かさからくる願望のように思えた。
人形は人間が描いた理想の形だと思う。人形が人間になりたい、とか、思うはずがない。それはあまりにも、人間をいいものだと思い込みすぎている。
これは、ローゼンメイデンにも言えることだ。
人形が完璧な少女アリスを目指して闘うなんて、笑止千万。実際は、少女が人形を目指しているのだ。第2シリーズの「トロイメント」になって、人形たちが表情や感情を豊かに表現しだしたことに違和感を覚えたのは、そこだ。
さて、読本でのインタビューで、高橋真琴は愛読していた漫画を2つあげている。手塚治虫の『リボンの騎士』と芳賀たかしの『燈台島の冒険』だ。
この『燈台島の冒険』は戦後復刻されたときのタイトルで、最初に刊行されたときは『ぼくらの燈台』だった。
で、その芳賀たかしの漫画を読んだ。
芳賀たかし漫画傑作集『ぼくらの燈台/五少年漂流記』。中村書店の漫画復刻版。
まず、『ぼくらの燈台』
船の巻、ぼくらの燈台、暴風雨の巻と、章立てされている。
燈台にたどりつくまでに山道を6キロも行かねばならない。
こどもたちは、苛酷な山登りをしたり、土用波にさらわれたり、海燕の群れに襲われたり、暴風雨のなか船を救助したり、けっこう大冒険をするのだ。『燈台島の冒険』と改題したくなる気持もよくわかる。
この漫画のモデルになった燈台は金華山灯台と言われており、木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾年月」でも取り上げられている。
ちょっと前に、航空管制官のスリリングな映画が流行したことがあるが、この漫画もそれと同様、海上交通の安全を守るため、スリリングな展開をみせている。
中村書店らしく、浮標の種類や、灯台の仕組みなどの学習要素も忘れない。
次に『五少年漂流記』
漂流、無人島、マレー半島、と章立て。吹出しを使わず、絵物語になっている。
日本人2人、フランス人、シナ、安南の多国籍5人少年がボートで漂流する。
無人島でサバイバル生活を送り、舟を作ってマレー半島までたどりつく。
意外なことに、『ぼくらの燈台』の方が冒険スペクタクルの場面が印象に残った。
この『五少年漂流記』の面白さは、「無人島」の章での、少年5人による建設的な生活にある。少年はこんなふうに秘密基地とか、アジトとか作りたがるのだ。何もないところから徐々に作り上げていく楽しさは、冒険ダン吉読んだときの面白さを思い出した。
それでも少年たちは家に帰りたいようで、マレー半島のサカイ族に助けられて、ジャングルを抜けていく。サカイ族は文明を嫌う種族なのだが、少年たちをなぜか助けるのだ。
ずっと無人島で暮らしていれば楽しかったのに!
なんだなんだ、昔の漫画ばっかり読んでしまった。
『ぼくらの燈台』芳賀たかし(1940)
『五少年漂流記』芳賀たかし(1942)
『バンビ』手塚治虫(1951)
『ピノキオ』手塚治虫(1952)
『パリ〜東京』高橋真琴(1956)
『さくら並木』高橋真琴(1957)
全部、僕が生まれる前の出版だった。
(追記)
『パリ〜東京』でラストのクライマックスで、愛する夫が生きていることが判明し、涙にくれる母親をバックに、主人公の女の子が、こんな台詞を言う。
「今は過去のすべてを忘れ喜びにむせぶママン」
なに?この説明的なナレーションは?
どこに向かって言ってるのやら!
『萌え萌えジャパン』でインタビューを読んで、にわかに興味が出て来たので、赤松健の『ラブひな』を読んだ。全14巻。
浦島景太郎は東大をめざす浪人生。成りゆきで女子寮「ひなた荘」の管理人になる。
景太郎をめぐる女子たちは、たとえば、こんな風。
成瀬川なる:東大をめざす受験生。景太郎とはお互い惹かれあっているが、気持をハッキリさせないため、ストーリーが展開していく。
前原しのぶ:中学生。料理が得意。景太郎が大好き。
紺野みつね:19歳、関西人。景太郎を誘惑する。
青山素子:ルパン三世の五右衛門みたいな存在。景太郎に魅かれて、東大をめざすようになる。
乙姫むつみ:おっとりとした天然ボケ。景太郎が好き。
カオラ・スゥ:秘密兵器などを作る。こどもっぽい中学生だけど、満月のときは大人っぽく変身して、景太郎を誘惑したりする。
浦島可奈子:景太郎とは血のつながっていない妹。景太郎を熱愛している。
ああ、もういいかげんにしてほしい。
景太郎ばかりが何故モテる?
毎話、入浴シーンや、景太郎がヘマをして女の子の着替え中に部屋に入ったり、着ているものをはずみで脱がせてしまうシーンなどが盛り込まれる。(なるほど、商業主義だ!)
そのつど、景太郎は女の子に殴られたり、泣かれたりするが、これは税金みたいなもんだ。
ストーリーとしては、9巻あたりまでの東大受験までがテンションが途切れずに面白かった。東大に合格してから、景太郎は考古学の道に進もうと目標を持ったりするのだが、肝心の大学生活がまったくといっていいほど、描かれない。
やっと東大に合格したかと思ったら、景太郎は骨折していきなり休学。
骨折がなおって大学に行ったら、夏期休暇。
さらには、東大ならぬトーダイという地で、インディ・ジョーンズのような活劇がはじまる。
ひなた荘の住人内での物語に終始するのは、仕方ないこととは言え、とても不自然。まるで、ひなた荘を中心とした世界が、景太郎の脳内で編み出された仮想世界ででもあるかのようだ。大学生活って、とても楽しいのに。ひょっとすると、赤松健は楽しい大学生活を送らなかったんじゃなかろうか。だから、大学生活で「いやなことがまったく起こらない」物語を綴ることができなかったんじゃないか。(憶測)
ヒロインの成瀬川なるが、いつまでたっても景太郎の愛にこたえようとしないのは、非常にイライラする設定で、何度本を壁に叩きつけたくなったかしれない。受験生どうしのあいだならいざ知らず、大学生にもなって、幼稚な恋愛してるんじゃねえ!と憤った。
とは言え、最終巻で逃げまくっていた恋の行方がピタッとはまったときは、感動を覚えた。
単行本刊行時にアニメ化もされ、7巻には「なる」役の堀江由衣、9巻には「浦島はるか」役の林原めぐみとの対談も掲載されている。僕は声優さんに関する知識も興味も皆無だったので、アニメ「スクールランブル」で堀江由衣が主題歌歌ってたときも、何とも思わなかったのだが、この7巻の堀江由衣は、可愛い、と思った。7巻は2000年に刊行されている。この頃に戻って、堀江由衣をおいかけなおしたい。
浦島景太郎は東大をめざす浪人生。成りゆきで女子寮「ひなた荘」の管理人になる。
景太郎をめぐる女子たちは、たとえば、こんな風。
成瀬川なる:東大をめざす受験生。景太郎とはお互い惹かれあっているが、気持をハッキリさせないため、ストーリーが展開していく。
前原しのぶ:中学生。料理が得意。景太郎が大好き。
紺野みつね:19歳、関西人。景太郎を誘惑する。
青山素子:ルパン三世の五右衛門みたいな存在。景太郎に魅かれて、東大をめざすようになる。
乙姫むつみ:おっとりとした天然ボケ。景太郎が好き。
カオラ・スゥ:秘密兵器などを作る。こどもっぽい中学生だけど、満月のときは大人っぽく変身して、景太郎を誘惑したりする。
浦島可奈子:景太郎とは血のつながっていない妹。景太郎を熱愛している。
ああ、もういいかげんにしてほしい。
景太郎ばかりが何故モテる?
毎話、入浴シーンや、景太郎がヘマをして女の子の着替え中に部屋に入ったり、着ているものをはずみで脱がせてしまうシーンなどが盛り込まれる。(なるほど、商業主義だ!)
そのつど、景太郎は女の子に殴られたり、泣かれたりするが、これは税金みたいなもんだ。
ストーリーとしては、9巻あたりまでの東大受験までがテンションが途切れずに面白かった。東大に合格してから、景太郎は考古学の道に進もうと目標を持ったりするのだが、肝心の大学生活がまったくといっていいほど、描かれない。
やっと東大に合格したかと思ったら、景太郎は骨折していきなり休学。
骨折がなおって大学に行ったら、夏期休暇。
さらには、東大ならぬトーダイという地で、インディ・ジョーンズのような活劇がはじまる。
ひなた荘の住人内での物語に終始するのは、仕方ないこととは言え、とても不自然。まるで、ひなた荘を中心とした世界が、景太郎の脳内で編み出された仮想世界ででもあるかのようだ。大学生活って、とても楽しいのに。ひょっとすると、赤松健は楽しい大学生活を送らなかったんじゃなかろうか。だから、大学生活で「いやなことがまったく起こらない」物語を綴ることができなかったんじゃないか。(憶測)
ヒロインの成瀬川なるが、いつまでたっても景太郎の愛にこたえようとしないのは、非常にイライラする設定で、何度本を壁に叩きつけたくなったかしれない。受験生どうしのあいだならいざ知らず、大学生にもなって、幼稚な恋愛してるんじゃねえ!と憤った。
とは言え、最終巻で逃げまくっていた恋の行方がピタッとはまったときは、感動を覚えた。
単行本刊行時にアニメ化もされ、7巻には「なる」役の堀江由衣、9巻には「浦島はるか」役の林原めぐみとの対談も掲載されている。僕は声優さんに関する知識も興味も皆無だったので、アニメ「スクールランブル」で堀江由衣が主題歌歌ってたときも、何とも思わなかったのだが、この7巻の堀江由衣は、可愛い、と思った。7巻は2000年に刊行されている。この頃に戻って、堀江由衣をおいかけなおしたい。
不思議な国印度の旅、勇士イリヤ、コドモ新聞社
2006年7月3日 アニメ・マンガ
創風社から出ている『小熊秀雄漫画傑作集』を読んだ。現在のところ、2巻までが刊行されている。いずれも中村書店の漫画。
小熊秀雄は詩人で、漫画台本も書いている。
有名なところでは大城のぼるの『火星探検』(旭太郎名義)。
小熊秀雄の年譜を見ると、1939年頃に中村書店の編集顧問になり、漫画台本を提供したが、翌1940年には亡くなっている。自分が台本を書いた漫画が出版されたのは、死後のことになるのだ。小熊秀雄は1901年生まれ。若死にだ!
第1巻は『不思議な国 印度の旅』(1941)と『勇士イリヤ』(1942)の2本立て。
『不思議な国 印度の旅』(絵:渡辺加三)
「威張る神牛 カルカッタの街」
「ダージリンの町 ヒマラヤ連邦」
「夜明けの美観 タイガー・ヒル」
「お猿の大軍 プリーの海水浴場」
「埋められた塔 ブタガヤの聖地」
「猿寺と牛寺 聖都ベナレス」
「愉快な河下り ガンジス見物」
「タジ・マハール 古都アグラ市」
「アジャンタ洞窟 ジャルガオン駅」
「朝方の大さわぎ ボンベイ見物」
「沈黙の塔 パーシーの葬場」
「象狩りの王様 マイソール」
「踊る毒蛇 貿易港マドラス」
一郎、次郎の兄弟と、そのおじさんによるインド旅行記。
夏服と冬服を用意しなければならないほどインドの気候が変わることから、物乞い、ヒンズー教と回教の対立、イギリスの支配などが描かれている。
解説に、手塚治虫の『ふしぎ旅行記』に影響を与えた、と書いてあったので、早速、引っぱり出してきて、読んでみた。
たしかに!
『ふしぎ旅行記』は肉体をなくして幽霊になったケン一少年が、世界をめぐる話で、中国からインド、エジプト、イタリア、フランス、アメリカを旅する。(1950)
インドを旅する「インド珍道中」の章を見ると、天井のむしろを外から引っ張って風を送る「風扇」に驚いたり、釘の上にすわる苦行、牛臭さに閉口するところ、コブラ使いにだまされるところなど、そっくりなシーンが続出した。
手塚治虫は1928年生まれなので、この『不思議な国印度の旅』出版時、13才くらいだ。強烈な印象を残していたとしても不思議はない。
『ロシヤ古代伝説 勇士イリヤ・ムウロメツ』(絵:謝花凡太郎)
「大暴風雨の日に農夫の子供が生まれた」
「不思議な老人が三人で戸を叩いた」
「門出の仕度 馬も鎧も手に入った」
「巨人スウヤトゴルと義兄弟の約束を結んだ」
「イリヤの初奮戦 チェルニーゴフの町」
「怪賊ソロウェイ キエフ行きの近路」
「ウラジーミル王の臣下となったイリヤ」
「裾長の幽霊 ダッタン人とたたかう」
「乞食の知らせ キエフでは大騒ぎ」
「白眼の化物 イリヤに退治られる」
「乗っ取られた城 イリヤかけつける」
ロシヤの英雄叙事詩ブィリーナの国民的ヒーロー、イリヤの物語。
生まれつき片輪で足が萎えているイリヤが、30才になって、3人の不具の老人がたずねてきて、いきなり足も立ち、身体に力がみなぎる。半日で半年分の農作業をこなし、10人がかりでも持ち上げられない槍を自在にあやつる勇士になって悪のバスルマン軍を打ち破り、魔法使いの盗賊ソロウェイを捕らえ、国境でダッタン人を蹴散らし、白眼の化け物の両目を射抜き、キエフで城を乗っ取ったイドリシチエを退治する。
この物語は筒井康隆の書いた『イリヤ・ムウロメツ』で一度読んだことがあったのだが、ほとんど忘れていたので、これもまた引っぱり出してきて、読みなおした。
筒井版の『イリヤ・ムウロメツ』には手塚治虫の絵が添えてある。
奇しくも手塚治虫関連の本をまたも読み返すことになった。
この謝花凡太郎版の『イリヤ』はイドリシチエ退治後、元老に推挙されるが、それを断り、国境で国を守る一生を過ごすことを選んで終わっている。
一方、筒井版『イリヤ』には続きがある。
イリヤのはたらきで城を取り戻したウラジーミル公は、宴をもよおすが、肝心のイリヤを招くのを忘れる。怒ったイリヤは教会の黄金の丸屋根と十字架を射ぬいて壊し、それを金にかえて貧しい民衆に酒をふるまう。
また、謀反を起こそうとする若い勇士とイリヤは一戦まじえるが、この若き勇士は、イリヤがあやまちでこさえた我が息子だった。
最後は、ママイの軍団を打ち破ったイリヤ軍の兵が自分たちのことを「最強」だと自惚れたとたん、天軍があらわれ、イリヤ軍に襲いかかる。
イリヤは神に許しを乞い、天軍はひきあげるが、イリヤは石と化すのだ。
こう並べてみると、筒井版の続き部分は、イリヤの弱い部分が描かれている。
自尊心が傷つけられて反抗してみたり、若い頃のあやまちが暴露されたり、うぬぼれてみたり。
本書巻末には、小熊秀雄の「子供漫画論」が載せられている。
低俗、俗悪、卑俗な漫画に対して、浄化運動が起こっていた頃の話だ。
小熊秀雄は、子供の情操を養う、良心的な漫画を世に出そうとしていた。
イリヤの活躍は、あの部分までがちょうどよかったか。
第2巻は『コドモ新聞社』(1940)絵:渡辺太刀雄
「御殿山の相談会」
(村へ帰ってきた正夫クン、新しくなったお化け屋敷、子供たちの相談、伝書鳩のポッポさん、給仕のチョロちゃん)
「コドモ記者の活動」
(機械ハマワル、怪しい箱、大事件と小事件)
「親切な消防夫」
(花子さんの猫、コドモ新聞第1号、村の迷信〜お婆さんの喧嘩、井戸桶さわぎ、コドモ新聞第2号)
「三里穴の幽霊探険隊」
(にぎり飯の怪、コドモ新聞第3号)
夏休み、こどもたちが新聞を作る。
何も起こりそうにない村の1日でも、ニュースはころがっているのだ。
「正夫さん、悲観してしまいましたよ。さっぱり書くことがなくて」と嘆くこどもが取材してきた事柄を、年長の正夫くんは「こう書いてごらん」とりっぱな記事にしてみせる。
最後の「三里穴の幽霊探険隊」は、誰かが残したにぎり飯に白いカビがはえて、それがフワフワと風に漂って幽霊に見えるという、ちょっとした探偵読み物になっていた。
この小熊秀雄漫画傑作集は、近いうちに第3巻が出るようだ。これは楽しみ。
小熊秀雄は詩人で、漫画台本も書いている。
有名なところでは大城のぼるの『火星探検』(旭太郎名義)。
小熊秀雄の年譜を見ると、1939年頃に中村書店の編集顧問になり、漫画台本を提供したが、翌1940年には亡くなっている。自分が台本を書いた漫画が出版されたのは、死後のことになるのだ。小熊秀雄は1901年生まれ。若死にだ!
第1巻は『不思議な国 印度の旅』(1941)と『勇士イリヤ』(1942)の2本立て。
『不思議な国 印度の旅』(絵:渡辺加三)
「威張る神牛 カルカッタの街」
「ダージリンの町 ヒマラヤ連邦」
「夜明けの美観 タイガー・ヒル」
「お猿の大軍 プリーの海水浴場」
「埋められた塔 ブタガヤの聖地」
「猿寺と牛寺 聖都ベナレス」
「愉快な河下り ガンジス見物」
「タジ・マハール 古都アグラ市」
「アジャンタ洞窟 ジャルガオン駅」
「朝方の大さわぎ ボンベイ見物」
「沈黙の塔 パーシーの葬場」
「象狩りの王様 マイソール」
「踊る毒蛇 貿易港マドラス」
一郎、次郎の兄弟と、そのおじさんによるインド旅行記。
夏服と冬服を用意しなければならないほどインドの気候が変わることから、物乞い、ヒンズー教と回教の対立、イギリスの支配などが描かれている。
解説に、手塚治虫の『ふしぎ旅行記』に影響を与えた、と書いてあったので、早速、引っぱり出してきて、読んでみた。
たしかに!
『ふしぎ旅行記』は肉体をなくして幽霊になったケン一少年が、世界をめぐる話で、中国からインド、エジプト、イタリア、フランス、アメリカを旅する。(1950)
インドを旅する「インド珍道中」の章を見ると、天井のむしろを外から引っ張って風を送る「風扇」に驚いたり、釘の上にすわる苦行、牛臭さに閉口するところ、コブラ使いにだまされるところなど、そっくりなシーンが続出した。
手塚治虫は1928年生まれなので、この『不思議な国印度の旅』出版時、13才くらいだ。強烈な印象を残していたとしても不思議はない。
『ロシヤ古代伝説 勇士イリヤ・ムウロメツ』(絵:謝花凡太郎)
「大暴風雨の日に農夫の子供が生まれた」
「不思議な老人が三人で戸を叩いた」
「門出の仕度 馬も鎧も手に入った」
「巨人スウヤトゴルと義兄弟の約束を結んだ」
「イリヤの初奮戦 チェルニーゴフの町」
「怪賊ソロウェイ キエフ行きの近路」
「ウラジーミル王の臣下となったイリヤ」
「裾長の幽霊 ダッタン人とたたかう」
「乞食の知らせ キエフでは大騒ぎ」
「白眼の化物 イリヤに退治られる」
「乗っ取られた城 イリヤかけつける」
ロシヤの英雄叙事詩ブィリーナの国民的ヒーロー、イリヤの物語。
生まれつき片輪で足が萎えているイリヤが、30才になって、3人の不具の老人がたずねてきて、いきなり足も立ち、身体に力がみなぎる。半日で半年分の農作業をこなし、10人がかりでも持ち上げられない槍を自在にあやつる勇士になって悪のバスルマン軍を打ち破り、魔法使いの盗賊ソロウェイを捕らえ、国境でダッタン人を蹴散らし、白眼の化け物の両目を射抜き、キエフで城を乗っ取ったイドリシチエを退治する。
この物語は筒井康隆の書いた『イリヤ・ムウロメツ』で一度読んだことがあったのだが、ほとんど忘れていたので、これもまた引っぱり出してきて、読みなおした。
筒井版の『イリヤ・ムウロメツ』には手塚治虫の絵が添えてある。
奇しくも手塚治虫関連の本をまたも読み返すことになった。
この謝花凡太郎版の『イリヤ』はイドリシチエ退治後、元老に推挙されるが、それを断り、国境で国を守る一生を過ごすことを選んで終わっている。
一方、筒井版『イリヤ』には続きがある。
イリヤのはたらきで城を取り戻したウラジーミル公は、宴をもよおすが、肝心のイリヤを招くのを忘れる。怒ったイリヤは教会の黄金の丸屋根と十字架を射ぬいて壊し、それを金にかえて貧しい民衆に酒をふるまう。
また、謀反を起こそうとする若い勇士とイリヤは一戦まじえるが、この若き勇士は、イリヤがあやまちでこさえた我が息子だった。
最後は、ママイの軍団を打ち破ったイリヤ軍の兵が自分たちのことを「最強」だと自惚れたとたん、天軍があらわれ、イリヤ軍に襲いかかる。
イリヤは神に許しを乞い、天軍はひきあげるが、イリヤは石と化すのだ。
こう並べてみると、筒井版の続き部分は、イリヤの弱い部分が描かれている。
自尊心が傷つけられて反抗してみたり、若い頃のあやまちが暴露されたり、うぬぼれてみたり。
本書巻末には、小熊秀雄の「子供漫画論」が載せられている。
低俗、俗悪、卑俗な漫画に対して、浄化運動が起こっていた頃の話だ。
小熊秀雄は、子供の情操を養う、良心的な漫画を世に出そうとしていた。
イリヤの活躍は、あの部分までがちょうどよかったか。
第2巻は『コドモ新聞社』(1940)絵:渡辺太刀雄
「御殿山の相談会」
(村へ帰ってきた正夫クン、新しくなったお化け屋敷、子供たちの相談、伝書鳩のポッポさん、給仕のチョロちゃん)
「コドモ記者の活動」
(機械ハマワル、怪しい箱、大事件と小事件)
「親切な消防夫」
(花子さんの猫、コドモ新聞第1号、村の迷信〜お婆さんの喧嘩、井戸桶さわぎ、コドモ新聞第2号)
「三里穴の幽霊探険隊」
(にぎり飯の怪、コドモ新聞第3号)
夏休み、こどもたちが新聞を作る。
何も起こりそうにない村の1日でも、ニュースはころがっているのだ。
「正夫さん、悲観してしまいましたよ。さっぱり書くことがなくて」と嘆くこどもが取材してきた事柄を、年長の正夫くんは「こう書いてごらん」とりっぱな記事にしてみせる。
最後の「三里穴の幽霊探険隊」は、誰かが残したにぎり飯に白いカビがはえて、それがフワフワと風に漂って幽霊に見えるという、ちょっとした探偵読み物になっていた。
この小熊秀雄漫画傑作集は、近いうちに第3巻が出るようだ。これは楽しみ。
エンゼルマーク、捨てがたき人々
2006年7月1日 アニメ・マンガ
松永豊和の『エンゼルマーク』を読んだ。
第1話「車輪達」
おばあさんの群れが世界を貫く
第2話「夢宙蒲団」
落ちる夢、浮いている蒲団
第3話「幻蟲姫」
女体虫。サイケなイメージ
第4話「愛童神」
おまじない
第5話「天使迷妄」
ベルリン天使の詩
第6話「監査天使」
上からみおろす天使
繊細な絵で綴られる、ちょっと不思議な話。
『バクネヤング』に見られた毒は、ほとんど見られない。
「天使」というテーマの選び方といい、まるで宗教的転回をしたんじゃないか、と思わせる。
いちばん面白かったのは、「幻蟲姫」で、性欲の処理に自分をもてあましていた中学生時代の淫夢を思わせた。ドラッグなどサイケデリックな体験を好む人は、きっと、中学時代のこういった目眩を何度でも体験したい人なんだろうな、と思った。一種の退行現象か。
『バクネヤング』の暴力性も思春期くさかったし、松永豊和は、青くさい思春期パワーを描くときに、最も魅力を発揮するんだと思う。
さもなければ、絵の綺麗さや技術でお茶を濁すような絵本作家に堕してしまう危うさがある。
もっと、悶々としてもらって、作品に八つ当たりしてほしい。
宗教と漫画、といえば。
ジョージ秋山の『捨てがたき人々』を読んだ。全5巻。
狸穴勇介は三白眼で頭が薄くなりかけた、セックスのことばかり考えている男。
ツラも悪ければ、頭も悪く、品性も卑しい。
「なんか時々よ、生きてんの飽きちゃうんだよなあ」
「人はみな誰もが夢について語るが、心の底で考えていることは、金と食べ物と、セックスのことだけだ」
「オチンチンに感謝しなくっちゃな。俺の性器が丈夫でなかったら、俺はどうなったかねえ。俺も立派な男なんだなあと思えるときは、勃起した時だけだもんねえ」
「好かれることしたって嫌われるんだからよ、だから、嫌われることを初めっからしちゃったほうがなんかいいのよね。満足するつうかさ。ゾッ、ゾーとするの見るとざまあみろつーんで、満足するのよねえ」
「女はよ、ヤッテもらって、ヤラセテあげて。それにヤラレちゃったに値打ちがあるんだからよ」
岡辺京子は新興宗教「神我の湖」の熱心な信者。
10人以上の人を救済してカルマを燃焼させ、解脱することを目指して修行中のブス。
勇介は、「京子はブスだから『神我の湖』に行ってんだろうなあ。いい女には宗教はいらねえもんなあ」って思ってる。
京子は狸穴に強姦されるが、関係を断ち切らず狸穴の子を生み、結婚して夫婦生活を営むにいたる。
勇介の弟、草太も出てくるが、これが勇介に輪をかけてひどい人間。
勇介の母親は草太とは、近親相姦的に甘えた関係にあり、一緒に父親を殺害している。
勇介と京子のあいだに生まれてきた子ども、正義(まさよし)は、父親の勇介に殺されかけたりして、動物虐待するようなこどもに育っていく。
勇介は何年たっても女を性欲のはけ口としてしか見ないし、妻以外との情交も日常的だ。
京子も「神我の湖」の幹部と不倫関係にはいる。
まったく、どいつもこいつも、「救いがたき人々」だ。
こういう醜くも愚かな人々に対して、関係を断ち、絶交し、忌み嫌うのが普通の感情なのかもしれない。捨て去るべき人々なのかもしれない。
しかし、ジョージ秋山は彼らを「捨てがたき人々」と呼ぶ。
彼ら自身は自分が陋劣であることを自覚しながら、そんな自分を捨てることができない。
自分で自分を捨てることができないくらいだから、神はなおさら、彼らを捨てたりしないのだ。
時折、勇介が宗教的啓示を受けるシーンが出てくる。
彼らがきわめて宗教的存在であることを暗示するシーンだ。
何かを捨てた人間は、捨てられたものと同じ存在に堕してしまう。
連載していた「ビッグゴールド」休刊で中断したこの漫画、この後どんな展開を見せたのか、読みたかった。スペクタクルもカタルシスもなかったにちがいないが、まだまだ読み足りない。
第1話「車輪達」
おばあさんの群れが世界を貫く
第2話「夢宙蒲団」
落ちる夢、浮いている蒲団
第3話「幻蟲姫」
女体虫。サイケなイメージ
第4話「愛童神」
おまじない
第5話「天使迷妄」
ベルリン天使の詩
第6話「監査天使」
上からみおろす天使
繊細な絵で綴られる、ちょっと不思議な話。
『バクネヤング』に見られた毒は、ほとんど見られない。
「天使」というテーマの選び方といい、まるで宗教的転回をしたんじゃないか、と思わせる。
いちばん面白かったのは、「幻蟲姫」で、性欲の処理に自分をもてあましていた中学生時代の淫夢を思わせた。ドラッグなどサイケデリックな体験を好む人は、きっと、中学時代のこういった目眩を何度でも体験したい人なんだろうな、と思った。一種の退行現象か。
『バクネヤング』の暴力性も思春期くさかったし、松永豊和は、青くさい思春期パワーを描くときに、最も魅力を発揮するんだと思う。
さもなければ、絵の綺麗さや技術でお茶を濁すような絵本作家に堕してしまう危うさがある。
もっと、悶々としてもらって、作品に八つ当たりしてほしい。
宗教と漫画、といえば。
ジョージ秋山の『捨てがたき人々』を読んだ。全5巻。
狸穴勇介は三白眼で頭が薄くなりかけた、セックスのことばかり考えている男。
ツラも悪ければ、頭も悪く、品性も卑しい。
「なんか時々よ、生きてんの飽きちゃうんだよなあ」
「人はみな誰もが夢について語るが、心の底で考えていることは、金と食べ物と、セックスのことだけだ」
「オチンチンに感謝しなくっちゃな。俺の性器が丈夫でなかったら、俺はどうなったかねえ。俺も立派な男なんだなあと思えるときは、勃起した時だけだもんねえ」
「好かれることしたって嫌われるんだからよ、だから、嫌われることを初めっからしちゃったほうがなんかいいのよね。満足するつうかさ。ゾッ、ゾーとするの見るとざまあみろつーんで、満足するのよねえ」
「女はよ、ヤッテもらって、ヤラセテあげて。それにヤラレちゃったに値打ちがあるんだからよ」
岡辺京子は新興宗教「神我の湖」の熱心な信者。
10人以上の人を救済してカルマを燃焼させ、解脱することを目指して修行中のブス。
勇介は、「京子はブスだから『神我の湖』に行ってんだろうなあ。いい女には宗教はいらねえもんなあ」って思ってる。
京子は狸穴に強姦されるが、関係を断ち切らず狸穴の子を生み、結婚して夫婦生活を営むにいたる。
勇介の弟、草太も出てくるが、これが勇介に輪をかけてひどい人間。
勇介の母親は草太とは、近親相姦的に甘えた関係にあり、一緒に父親を殺害している。
勇介と京子のあいだに生まれてきた子ども、正義(まさよし)は、父親の勇介に殺されかけたりして、動物虐待するようなこどもに育っていく。
勇介は何年たっても女を性欲のはけ口としてしか見ないし、妻以外との情交も日常的だ。
京子も「神我の湖」の幹部と不倫関係にはいる。
まったく、どいつもこいつも、「救いがたき人々」だ。
こういう醜くも愚かな人々に対して、関係を断ち、絶交し、忌み嫌うのが普通の感情なのかもしれない。捨て去るべき人々なのかもしれない。
しかし、ジョージ秋山は彼らを「捨てがたき人々」と呼ぶ。
彼ら自身は自分が陋劣であることを自覚しながら、そんな自分を捨てることができない。
自分で自分を捨てることができないくらいだから、神はなおさら、彼らを捨てたりしないのだ。
時折、勇介が宗教的啓示を受けるシーンが出てくる。
彼らがきわめて宗教的存在であることを暗示するシーンだ。
何かを捨てた人間は、捨てられたものと同じ存在に堕してしまう。
連載していた「ビッグゴールド」休刊で中断したこの漫画、この後どんな展開を見せたのか、読みたかった。スペクタクルもカタルシスもなかったにちがいないが、まだまだ読み足りない。
浦安鉄筋家族
2006年6月15日 アニメ・マンガ コメント (118)
浜岡賢次の『浦安鉄筋家族』を読んだ。全31巻。
大沢木家の家族とご近所さん、主人公の大沢木小鉄の友人たちによる、ギャグ漫画。
キートンなどの無声映画を彷佛とさせるギャグが多く見られ、楽屋落ち的な笑いはほとんどない。作者も「がきデカ」や「できんぼーい」が大好きらしい。ギャグ漫画ってのは、こういうのを言うのだ。ウンコや貧乏、暴力など、小学生からお年寄りにまでわかりやすいファミリーお下劣ギャグが満載。
ひきこもりなんて無縁の世界だ。主人公の小鉄は、休みの日でも必ず学校に行くのを日課にしているくらい。
登場人物には明らかにモデルがある者もいる。
10年以上前に連載がはじまった漫画なので、時代を感じさせるキャラクターもあるが、それでなくても、旬の人というより、誰でも知っているスタンダードな人物をチョイスしているのはさすがだ。
松五郎は、自宅に象やサイやワニや虎などを飼っていて、松五郎王国と自称している。
105発目「ベンジーガンジー」の話では、投げたフリスビーが松五郎の頭に落ちて、虎が松五郎を頭からガブガブとやり、新聞沙汰に。近所の人への好感度をアップさせようとサーカスを開き、バナナの皮を踏んでこける象などを見せるが、最終的には、ワニに上半身を丸のみされたあかねちゃんが町を走る。
(こたえ:ムツゴロウ)
大巨人はリコーダーで呼ばれたら、たとえバイト中でも、小鉄のところにパンツ一丁で駆け付けて、命令をきく。語尾に必ず「ババ」とつける。
121発目「もも」の話では、大巨人は0才児の裕太の子守りを命令される。裕太は
怖くて逃げまくる。大巨人は裕太を追い掛けて結果として家を破壊する。
(こたえ:ジャイアント馬場)
不二矢ペロちゃんは、甘いもの好き。
161発目「気持ちの悪い小学生」の話では、バレンタインデーにペロちゃんが町中のチョコレートを食べてしまう。ツーテールに結んだリボンがカランだかスイッチだかになっていて、ラストではペロちゃんは食べたチョコを吐きもどし、洪水が起こる。
(こたえ:不二屋のペコちゃん)
国会議員は、とにかく大グソ。エレベーターで漏らしたらエレベ−タ−を破壊、屋形舟ですれば沈没、デパートの屋上ですればデパート破壊。本人はウンコのジェット噴射でエクアドルまで飛んでいく。
185発目「最後の噴火」では、飛行機内で大沢木家は国会議員がトイレに入るのを目撃する。絶対に墜落するぞ!とパニックになる機内。案の定、機内はあふれるウンコで満たされ、不時着。
(こたえ:アントニオ猪木)
梅星涙は正確なコントロールで投球する小学生。
77発目の「梅星」では、コインを投げて50メートル先の自動販売機にお金を入れ、石を投げてボタンを押す。消しゴムをフォークボールで投げて筆箱にきっちりとおさめる。
(こたえ:星飛雄馬)
角田弁慶はカドベンと呼ばれるスラッガー。
150発目「便乗太郎」では、梅星が投げたコインを打ち返し、あかねちゃんの財布にすっぽりと収める。梅星があみだしたむちゃくちゃな魔球(ボールが4つに分身して炎に包まれ、消える)を、手足に手錠をして目隠しし、袋に詰められて鎖でグルグル巻きにされた状態から打ち返す。
(こたえ:ドカベン)
170発目「める」での2人の対決は、犬の散歩中に発生。梅星の投げた小犬は4匹に分身し、炎に包まれて消える。カドベンは犬を見事に打ち返すが、トラックに跳ねられる。見舞いのフルーツをホームランで打ち返すカドベン。
イタリア長介はバナナ踏んでこけるとか、ベタなギャグで生徒を笑わせることに命を賭けている教頭先生。
210発目「ずんどこ」では笑いをとろうとして、机で腹を強打し、内臓を飛び出させる。恐怖のあまり逃げまくる生徒たち。
(こたえ:いかりや長介)
好きなキャラクターベスト3は
担任の春巻龍(ブルース・リー)
怪奇漫画家・十三階段ベム
大金持ちのあかね
ってとこかな。
さて、僕が何を思っていきなりこの漫画を読んだのかと言うと。
つい先日、電車内での女子中学生の会話を小耳にはさんだ。
その子は『浦安鉄筋家族』を全巻持っているらしく、読んだことがないという友達に「ほんだら、面白い話の分をセレクトして持っていくわ」と言っていたのだ。
女子中学生をこんなにも夢中にさせた漫画って一体?と思ったのがきっかけ。
で、実際読んでみたら古典的というか、安心できるギャグ漫画ですっかりハマってしまったというわけだ。
続編も出ているので、読むか。
大沢木家の家族とご近所さん、主人公の大沢木小鉄の友人たちによる、ギャグ漫画。
キートンなどの無声映画を彷佛とさせるギャグが多く見られ、楽屋落ち的な笑いはほとんどない。作者も「がきデカ」や「できんぼーい」が大好きらしい。ギャグ漫画ってのは、こういうのを言うのだ。ウンコや貧乏、暴力など、小学生からお年寄りにまでわかりやすいファミリーお下劣ギャグが満載。
ひきこもりなんて無縁の世界だ。主人公の小鉄は、休みの日でも必ず学校に行くのを日課にしているくらい。
登場人物には明らかにモデルがある者もいる。
10年以上前に連載がはじまった漫画なので、時代を感じさせるキャラクターもあるが、それでなくても、旬の人というより、誰でも知っているスタンダードな人物をチョイスしているのはさすがだ。
松五郎は、自宅に象やサイやワニや虎などを飼っていて、松五郎王国と自称している。
105発目「ベンジーガンジー」の話では、投げたフリスビーが松五郎の頭に落ちて、虎が松五郎を頭からガブガブとやり、新聞沙汰に。近所の人への好感度をアップさせようとサーカスを開き、バナナの皮を踏んでこける象などを見せるが、最終的には、ワニに上半身を丸のみされたあかねちゃんが町を走る。
(こたえ:ムツゴロウ)
大巨人はリコーダーで呼ばれたら、たとえバイト中でも、小鉄のところにパンツ一丁で駆け付けて、命令をきく。語尾に必ず「ババ」とつける。
121発目「もも」の話では、大巨人は0才児の裕太の子守りを命令される。裕太は
怖くて逃げまくる。大巨人は裕太を追い掛けて結果として家を破壊する。
(こたえ:ジャイアント馬場)
不二矢ペロちゃんは、甘いもの好き。
161発目「気持ちの悪い小学生」の話では、バレンタインデーにペロちゃんが町中のチョコレートを食べてしまう。ツーテールに結んだリボンがカランだかスイッチだかになっていて、ラストではペロちゃんは食べたチョコを吐きもどし、洪水が起こる。
(こたえ:不二屋のペコちゃん)
国会議員は、とにかく大グソ。エレベーターで漏らしたらエレベ−タ−を破壊、屋形舟ですれば沈没、デパートの屋上ですればデパート破壊。本人はウンコのジェット噴射でエクアドルまで飛んでいく。
185発目「最後の噴火」では、飛行機内で大沢木家は国会議員がトイレに入るのを目撃する。絶対に墜落するぞ!とパニックになる機内。案の定、機内はあふれるウンコで満たされ、不時着。
(こたえ:アントニオ猪木)
梅星涙は正確なコントロールで投球する小学生。
77発目の「梅星」では、コインを投げて50メートル先の自動販売機にお金を入れ、石を投げてボタンを押す。消しゴムをフォークボールで投げて筆箱にきっちりとおさめる。
(こたえ:星飛雄馬)
角田弁慶はカドベンと呼ばれるスラッガー。
150発目「便乗太郎」では、梅星が投げたコインを打ち返し、あかねちゃんの財布にすっぽりと収める。梅星があみだしたむちゃくちゃな魔球(ボールが4つに分身して炎に包まれ、消える)を、手足に手錠をして目隠しし、袋に詰められて鎖でグルグル巻きにされた状態から打ち返す。
(こたえ:ドカベン)
170発目「める」での2人の対決は、犬の散歩中に発生。梅星の投げた小犬は4匹に分身し、炎に包まれて消える。カドベンは犬を見事に打ち返すが、トラックに跳ねられる。見舞いのフルーツをホームランで打ち返すカドベン。
イタリア長介はバナナ踏んでこけるとか、ベタなギャグで生徒を笑わせることに命を賭けている教頭先生。
210発目「ずんどこ」では笑いをとろうとして、机で腹を強打し、内臓を飛び出させる。恐怖のあまり逃げまくる生徒たち。
(こたえ:いかりや長介)
好きなキャラクターベスト3は
担任の春巻龍(ブルース・リー)
怪奇漫画家・十三階段ベム
大金持ちのあかね
ってとこかな。
さて、僕が何を思っていきなりこの漫画を読んだのかと言うと。
つい先日、電車内での女子中学生の会話を小耳にはさんだ。
その子は『浦安鉄筋家族』を全巻持っているらしく、読んだことがないという友達に「ほんだら、面白い話の分をセレクトして持っていくわ」と言っていたのだ。
女子中学生をこんなにも夢中にさせた漫画って一体?と思ったのがきっかけ。
で、実際読んでみたら古典的というか、安心できるギャグ漫画ですっかりハマってしまったというわけだ。
続編も出ているので、読むか。
営業、営業、営業、営業、営業〜!
土下座、土下座、土下座、土下座、土下座〜!
居酒屋、居酒屋、居酒屋、居酒屋、居酒屋〜!
坊主、坊主、坊主、坊主、坊主〜!
出産、出産、出産、出産、出産、出産〜!
熱いにもホドがある〜〜、ゆうねん。
土下座、土下座、土下座、土下座、土下座〜!
居酒屋、居酒屋、居酒屋、居酒屋、居酒屋〜!
坊主、坊主、坊主、坊主、坊主〜!
出産、出産、出産、出産、出産、出産〜!
熱いにもホドがある〜〜、ゆうねん。