バーナード・ベケットの『創世の島』を読んだ。
本についてたあらすじを書いてしまうと。
この後に続く、驚天動地の云々という惹句は、はっきり言って、言いすぎなので、とりあえずストーリー部分だけ。
全編が、この口頭試問のやりとりと、アナックスが用意した再現映像(ホログラム)と、試験官側が見せる、実際に何が起こったかの映像で構成されている。
口頭試問のやりとりは、まるですべてがFになるの冒頭みたいな緊張感があるし、映像で展開される、「人間と人工知性」の問題は非常にスリリング。
全体を通して、推理小説の謎ときの部分だけで出来上がった作品みたいなものなので、これは興奮して読んだ。
いくつか引用を。
人工知能アートと、人間アダムの会話。
アダムのうまい主張に、それを切り返すさらにうまいアートの応酬。
しかし、ここでアダムが展開した「おまえは人間じゃなくて機械!」の理屈を見ていると、いわゆるネットの住人や、一般人の世論が人工の部類に近いように思えてならない。
人工知能アートの言葉
う~む。考えさせられる~。
本についてたあらすじを書いてしまうと。
時は21世紀末。世界大戦と疫病により人類は死滅した。世界の片隅の島に大富豪プラトンが建設した「共和国」だけを残して。彼は海上に高い隔壁を作り、外の世界からこの国を物理的に隔離することで、疫病の脅威から逃れたのだ。同時に彼は、労働者、戦士、技術者、特権階級である哲学者で構成する社会を築き上げる。唯一生き残ったこの島は、人類の新たなる創世をもたらすと思われた。アダム・フォードという兵士が、漂流者の少女を助けるまでは・・・。
そしていま、ひとりの少女がアカデミーの入学試験として、4時間にわたる口頭試問に挑もうとしていた。彼女の名はアナクシマンドロス。通称アナックス。試験のテーマは「アダム・フォード」。無感情な3人の試験官の前で、彼女は「共和国」建国の経緯や、その社会構造、歴史、AI(人工知性)の問題をつぎつぎに解き明かしてゆく。
この後に続く、驚天動地の云々という惹句は、はっきり言って、言いすぎなので、とりあえずストーリー部分だけ。
全編が、この口頭試問のやりとりと、アナックスが用意した再現映像(ホログラム)と、試験官側が見せる、実際に何が起こったかの映像で構成されている。
口頭試問のやりとりは、まるですべてがFになるの冒頭みたいな緊張感があるし、映像で展開される、「人間と人工知性」の問題は非常にスリリング。
全体を通して、推理小説の謎ときの部分だけで出来上がった作品みたいなものなので、これは興奮して読んだ。
いくつか引用を。
人工知能アートと、人間アダムの会話。
「人工の意識なんてものは存在しない」
「わたしには意識があります」
「おまえには意識なんかない」アダムの目には強い確信の炎が燃えている。「おまえはただの複雑な電気のスイッチの集まりだ。俺が音をだすと、それがおまえのデータバンクに入って、記録されている言葉と照合される。そしておまえのプログラムがオートメ化された反応を選ぶ。だからなんだ?俺が話しかけると、おまえは音をだす。俺が壁を蹴ると、壁は音をだす。どこがちがうんだ?壁にも意識があるとでもいうつもりか?」
「壁に意識があるかどうかは知りません」アートは答えた。「きいてみたらどうですか?」
アダムのうまい主張に、それを切り返すさらにうまいアートの応酬。
しかし、ここでアダムが展開した「おまえは人間じゃなくて機械!」の理屈を見ていると、いわゆるネットの住人や、一般人の世論が人工の部類に近いように思えてならない。
「俺は、賢い金属のかたまりより、愚かな人間のほうがいいね」アダムはいった。
「あなたはよくそういいますね。なぜか金属のほうが劣っているようないいかたをする」
「使い途によるな」
「わたしの目的にはぴったりです」
「だな」
「でもおまえはただの珪素(シリコン)だ」
「あなたはただの炭素です」アートはめげていない。「いつから周期表が差別の基準になったのですか?」
「俺の偏見は正当化できると思うけどね」
人工知能アートの言葉
あなたたちは“思考”をもっていることを自慢します。まるで自分がつくったものであるかのようにね。しかし、“思考”は寄生体なのです。なぜ、進化は物質的なものにだけ起こると考えるのですか?進化は媒体を選びません。どちらが最初なのでしょうか、心ですか、それとも心という“思考”ですか?
「そのちがいは、やっぱり考えてしゃべっているかどうか、意図的に言葉を選んでいるかどうかだ。だから、おまえは俺とはちがうんだ。おまえのよく動くくちびるは、俺の脈打つ心臓とおなじさ。機械だ。ある目的があってつくられてはいるが、意思はない」
アダムの視線をうけとめていたアートの顔に、ゆっくりと笑みがひろがっていった。
「この議論の問題点は」とアートはアダムに語りかけた。「あなたの立場から見ればそう見えるといっているにすぎない、という点です」
「話をもっと単純化したらどうなる?たとえば俺が写真みたいに正確な記憶のもち主で、何千もの完璧なフレーズを暗記しているとしたら?もしそうなら、俺が知らない言葉で話しかけられても、適切なフレーズを選んで返事できる。その場合はどうなんだ?」アダムはふりむいて、答えを待った。
アートはゆっくりとアダムのほうに進んでいった。「わたしはそういう存在だと思っているのですか?よくできたフレーズ帳だと?」
「そう思ったってかまわないだろ?」
「ではなぜ、これまであなたが会った人たちが、みんなそれとおなじ仕組みを使っているとは思わないのですか?」
う~む。考えさせられる~。
渡辺邦男演出(監督)の「愛の宣言」を見た。1946年。
戦後まもなく、男女の対等な恋愛を貫こうとする上原謙と花柳小菊、それに対して、パトロンになって遊び用の女を囲ったり、てごめにしようとする昔ながらの男、進藤英太郎の対立を描いている。
男女の新しい関係を肯定する内容ではあるが、その茨の道と、古風な花柳小菊の性格に、ジリジリする。
花柳小菊は戦前から活躍していた、時代劇でおなじみの女優だが、これは現代女性を演じている。今年お亡くなりになり、何か追悼で見ようと思って月日だけが流れていたのだ。
この映画見ると、やっぱり花柳小菊は時代劇映画がしっくりくるように思えた。
野村芳太郎監督の「亡命記」を見た。1955年。
日本人女性役の岸恵子と中国人男性役の佐田啓二。
日中のカップルが、戦争によって翻弄される物語。
戦争ではなればなれになった2人が、戦後、約束の神戸駅で会おうとするが、なかなか実現しない。毎日同じ時間に駅で待つ岸恵子は、パンパンだと思われて、連行されたりする。娘(シリア・ポール)をかかえて女手ひとつでもみくちゃにされる岸恵子と、終戦後に漢奸としてつかまり銃殺されそうになる佐田。
で、いろいろあって、ついに神戸駅で再会するシーンでハッピーエンドにならないのが、すさまじい。
2人は神戸駅で再会するが、それからの物語がすごい。
中国から亡命した佐田は高野山の寺に厄介になりながら、また厄介者扱いもされながら、働き口を探そうとするが、なかなかなくて、貧窮を強いられる。
そして、岸恵子は病気に。
佐田は、岸恵子の反対をおしきって、やばい仕事をしている伊藤雄之助に働き口を打診しようとする。以前、佐田は彼のもとで、麻薬の仕事をしていたり、運び屋のあっせんも受けていたのだ。(その運び屋の仕事は、アジアの政変にからむもので、中国で漢奸扱いされた佐田は、平和な家庭生活を全うしたくて、もう政治には関わりたくない、と断る。その際に、伊藤雄之助が口説く言葉が、含蓄がある。「個人の幸福もいいけど、政治と関係のない個人生活など夢みたいな話じゃないか」)
伊藤雄之助のところに行くと、まさに伊藤は検挙された直後で、やばい仕事の関係者として、つかまってしまう。
残された岸恵子とシリア・ポールは食べるものにも困って、着ているものを売って数個のパンをわけてもらおうとする。
まあ、結局、佐田は釈放され、仕事も決まって、母娘のもとに帰るわけだが、それまでの困窮がはげしいので、ハッピーエンドになって本当によかった、と涙が出た。
この映画の最大のみどころは、子役のシリア・ポールだ。
とくに感情をむき出しにする演技はせず、どんなにつらいことがあっても、どんなに飢えていても、じっと我慢するのが健気で不憫でならない。
佐田が中国でつかまり、おそらく銃殺されたんじゃないか、と知った岸恵子が、茫然自失としてフラフラ歩く後を、シリア・ポールは「お母さん!」と泣きながらついていくのが、最大の感情の爆発シーンだ。これも、そのまま死んでしまいかねない岸恵子を泣いてひきとめている姿に見えた。(岸恵子の支えになってくれていた女性も、子供を連れていかれて絶望し、薬で自殺していたのだ)
また、他の子供たちが人形で遊んでいるのを羨んで、自分も人形がほしい、とダダをこねるのが、唯一のわがままだった。
ラストシーンでは、佐田は娘のために人形を買って、高野山のケーブルカーに乗り、迎えにきている母娘のもとに行く。
この人形というのが、当時、みんなこれで遊んでいたんじゃないか、と思われる、文化人形だった。この映画見た後は、文化人形見る目がまったく変わってしまうことは確実で、不憫なシリア・ポールのことを常に思い出してしまうにちがいない。
たぶん、当時シリア・ポールは今の芦田愛菜ちゃんと同じくらいの年齢だったんじゃないかな、と思う。
午後6時からは、NHK-FMで「現代の音楽」
ホラー映画のサントラみたいなのが多いのはなぜなのか。
猿谷紀郎
- “第21回芥川作曲賞選考演奏会”から -(1)
「オーケストラのための“トカール・イ・ルチャール”」
藤倉大・作曲
(12分17秒)
「“ドゥブル・カレ”オーケストラのための」 田上英江・作曲
(11分38秒)
「アンサンブルのための“三十六角柱の表面にある宇宙”」
清水卓也・作曲
(9分10秒)
(管弦楽)新日本フィルハーモニー交響楽団
(指揮)大井剛史
~東京・サントリーホールで収録~
<2011/8/28>
午後7時からはWOWOWの無料放送で、YMOのサンフランシスコ公演をやっていた。YMOが全盛の頃は、ニューウェイブやテクノポップが好きな人からすれば、YMOは必ずしも最先端の音楽ではなくて(それは、今考えても確かにそうだ)、聞いていることを知られると、恥ずかしいくらいのものだった。(今、アイドルファンが、AKBやももクロを最大に評価していたり、ブレイクした後からPerfumeを追いかけたりするような感じの、ぬるさがあった)
しかし、30年以上たって今、YMOを聞くと、たとえばビートルズを聴いていいと思えるくらいには、こだわりとひけめがなくなってきた。
要するに、音楽を評価するにあたって、それが最先端であったり、新しい音楽である必要がなくなったのだ。これは、僕の老化の問題なのか。
戦後まもなく、男女の対等な恋愛を貫こうとする上原謙と花柳小菊、それに対して、パトロンになって遊び用の女を囲ったり、てごめにしようとする昔ながらの男、進藤英太郎の対立を描いている。
男女の新しい関係を肯定する内容ではあるが、その茨の道と、古風な花柳小菊の性格に、ジリジリする。
花柳小菊は戦前から活躍していた、時代劇でおなじみの女優だが、これは現代女性を演じている。今年お亡くなりになり、何か追悼で見ようと思って月日だけが流れていたのだ。
この映画見ると、やっぱり花柳小菊は時代劇映画がしっくりくるように思えた。
野村芳太郎監督の「亡命記」を見た。1955年。
日本人女性役の岸恵子と中国人男性役の佐田啓二。
日中のカップルが、戦争によって翻弄される物語。
戦争ではなればなれになった2人が、戦後、約束の神戸駅で会おうとするが、なかなか実現しない。毎日同じ時間に駅で待つ岸恵子は、パンパンだと思われて、連行されたりする。娘(シリア・ポール)をかかえて女手ひとつでもみくちゃにされる岸恵子と、終戦後に漢奸としてつかまり銃殺されそうになる佐田。
で、いろいろあって、ついに神戸駅で再会するシーンでハッピーエンドにならないのが、すさまじい。
2人は神戸駅で再会するが、それからの物語がすごい。
中国から亡命した佐田は高野山の寺に厄介になりながら、また厄介者扱いもされながら、働き口を探そうとするが、なかなかなくて、貧窮を強いられる。
そして、岸恵子は病気に。
佐田は、岸恵子の反対をおしきって、やばい仕事をしている伊藤雄之助に働き口を打診しようとする。以前、佐田は彼のもとで、麻薬の仕事をしていたり、運び屋のあっせんも受けていたのだ。(その運び屋の仕事は、アジアの政変にからむもので、中国で漢奸扱いされた佐田は、平和な家庭生活を全うしたくて、もう政治には関わりたくない、と断る。その際に、伊藤雄之助が口説く言葉が、含蓄がある。「個人の幸福もいいけど、政治と関係のない個人生活など夢みたいな話じゃないか」)
伊藤雄之助のところに行くと、まさに伊藤は検挙された直後で、やばい仕事の関係者として、つかまってしまう。
残された岸恵子とシリア・ポールは食べるものにも困って、着ているものを売って数個のパンをわけてもらおうとする。
まあ、結局、佐田は釈放され、仕事も決まって、母娘のもとに帰るわけだが、それまでの困窮がはげしいので、ハッピーエンドになって本当によかった、と涙が出た。
この映画の最大のみどころは、子役のシリア・ポールだ。
とくに感情をむき出しにする演技はせず、どんなにつらいことがあっても、どんなに飢えていても、じっと我慢するのが健気で不憫でならない。
佐田が中国でつかまり、おそらく銃殺されたんじゃないか、と知った岸恵子が、茫然自失としてフラフラ歩く後を、シリア・ポールは「お母さん!」と泣きながらついていくのが、最大の感情の爆発シーンだ。これも、そのまま死んでしまいかねない岸恵子を泣いてひきとめている姿に見えた。(岸恵子の支えになってくれていた女性も、子供を連れていかれて絶望し、薬で自殺していたのだ)
また、他の子供たちが人形で遊んでいるのを羨んで、自分も人形がほしい、とダダをこねるのが、唯一のわがままだった。
ラストシーンでは、佐田は娘のために人形を買って、高野山のケーブルカーに乗り、迎えにきている母娘のもとに行く。
この人形というのが、当時、みんなこれで遊んでいたんじゃないか、と思われる、文化人形だった。この映画見た後は、文化人形見る目がまったく変わってしまうことは確実で、不憫なシリア・ポールのことを常に思い出してしまうにちがいない。
たぶん、当時シリア・ポールは今の芦田愛菜ちゃんと同じくらいの年齢だったんじゃないかな、と思う。
午後6時からは、NHK-FMで「現代の音楽」
ホラー映画のサントラみたいなのが多いのはなぜなのか。
猿谷紀郎
- “第21回芥川作曲賞選考演奏会”から -(1)
「オーケストラのための“トカール・イ・ルチャール”」
藤倉大・作曲
(12分17秒)
「“ドゥブル・カレ”オーケストラのための」 田上英江・作曲
(11分38秒)
「アンサンブルのための“三十六角柱の表面にある宇宙”」
清水卓也・作曲
(9分10秒)
(管弦楽)新日本フィルハーモニー交響楽団
(指揮)大井剛史
~東京・サントリーホールで収録~
<2011/8/28>
午後7時からはWOWOWの無料放送で、YMOのサンフランシスコ公演をやっていた。YMOが全盛の頃は、ニューウェイブやテクノポップが好きな人からすれば、YMOは必ずしも最先端の音楽ではなくて(それは、今考えても確かにそうだ)、聞いていることを知られると、恥ずかしいくらいのものだった。(今、アイドルファンが、AKBやももクロを最大に評価していたり、ブレイクした後からPerfumeを追いかけたりするような感じの、ぬるさがあった)
しかし、30年以上たって今、YMOを聞くと、たとえばビートルズを聴いていいと思えるくらいには、こだわりとひけめがなくなってきた。
要するに、音楽を評価するにあたって、それが最先端であったり、新しい音楽である必要がなくなったのだ。これは、僕の老化の問題なのか。
10minutes@難波BEARS
2011年10月1日 アイドルなんばBEARSで10minutes。
(opening)
今関あきよし
(entry)
TKTR
まりん&ぷりん
リンリン
めばちっ娘クラブ
貴姫
マジカルエミちゃん
愛華
(SPwkwk)
荻野アサミ
茉里
(UST)
野中ひゆ
夢野さくら
( guest live)
にょロボてぃくす
(審査員)
安斎レオ(玩具P)
西泰幸
KKラングレー(ULTRAFUCKERS)
渚稜
(司会)
保山ひャン
Bカシワギ
BUGって花井(オープニングのみ)
(フランクフルト)
深夜喫茶銭ゲバ
http://www.ustream.tv/channel/fbidol10minutes
http://ameblo.jp/fbidol/
18:00start
AD\1500/door\2000
Namba BEARS
〒556-0011大阪市浪速区難波中3-14-5新日本難波ビルB1
tel&fax: 06-6649-5564URL: http://home.att.ne.jp/orange/bears/
と、いうわけで、今回はBUGって花井の酔っ払い司会から、アイドル映画界の第一人者、今関あきよし監督のトークにはじまる、カオスな回になった。
渚稜さんによる本イベントのためのオリジナル曲紹介もあり、盛り沢山。
はっきり言って、誰が予選を通過してもおかしくない、レベルの高い戦いだった。
予選を通過したのは、
めばちっ娘クラブ
マジカルエミちゃん
の2組。
強烈である。
次は10月31日のハロウィンSP(これは、普通にアイドルイベント)
11月28日に、また予選会が開催される。
既に何組かエントリー申し込みが来ており、ありがたいかぎりだ。
(opening)
今関あきよし
(entry)
TKTR
まりん&ぷりん
リンリン
めばちっ娘クラブ
貴姫
マジカルエミちゃん
愛華
(SPwkwk)
荻野アサミ
茉里
(UST)
野中ひゆ
夢野さくら
( guest live)
にょロボてぃくす
(審査員)
安斎レオ(玩具P)
西泰幸
KKラングレー(ULTRAFUCKERS)
渚稜
(司会)
保山ひャン
Bカシワギ
BUGって花井(オープニングのみ)
(フランクフルト)
深夜喫茶銭ゲバ
http://www.ustream.tv/channel/fbidol10minutes
http://ameblo.jp/fbidol/
18:00start
AD\1500/door\2000
Namba BEARS
〒556-0011大阪市浪速区難波中3-14-5新日本難波ビルB1
tel&fax: 06-6649-5564URL: http://home.att.ne.jp/orange/bears/
と、いうわけで、今回はBUGって花井の酔っ払い司会から、アイドル映画界の第一人者、今関あきよし監督のトークにはじまる、カオスな回になった。
渚稜さんによる本イベントのためのオリジナル曲紹介もあり、盛り沢山。
はっきり言って、誰が予選を通過してもおかしくない、レベルの高い戦いだった。
予選を通過したのは、
めばちっ娘クラブ
マジカルエミちゃん
の2組。
強烈である。
次は10月31日のハロウィンSP(これは、普通にアイドルイベント)
11月28日に、また予選会が開催される。
既に何組かエントリー申し込みが来ており、ありがたいかぎりだ。
南海電車で天見駅。
今関あきよし監督をお迎えして、丼野M美を被写体に写真撮影…しているのを、映像におさめて、来るべき12月4日の10minutes映画祭にドキュメンタリー映画として作品に仕上げる作業。
いわば、メイキングビデオ的なもの。
今関監督は腰の低い、気さくな方で、山のものとも海のものとも知れぬ(たぶん、どっちでもないけど)僕などにも優しく接してくださる。
ありがたすぎて、何かのドッキリではないか、と思った。
田畑があるような片田舎で撮りたい、という監督の希望があったので、事前にロケーション地のハンティングをしたのだが、この天見駅周辺が、非常にいい場所だったので、迷わず決めることができた。
写真撮影後、駅の近くの甘党の店で一服。
身も心も癒されるひととき。
ゴールドブレンド。
今関あきよし監督をお迎えして、丼野M美を被写体に写真撮影…しているのを、映像におさめて、来るべき12月4日の10minutes映画祭にドキュメンタリー映画として作品に仕上げる作業。
いわば、メイキングビデオ的なもの。
今関監督は腰の低い、気さくな方で、山のものとも海のものとも知れぬ(たぶん、どっちでもないけど)僕などにも優しく接してくださる。
ありがたすぎて、何かのドッキリではないか、と思った。
田畑があるような片田舎で撮りたい、という監督の希望があったので、事前にロケーション地のハンティングをしたのだが、この天見駅周辺が、非常にいい場所だったので、迷わず決めることができた。
写真撮影後、駅の近くの甘党の店で一服。
身も心も癒されるひととき。
ゴールドブレンド。
コント55号 宇宙大冒険
2011年9月29日 映画
福田純監督の「コント55号 宇宙大冒険」を見た。1969年
時は幕末。新撰組の芹沢角(坂上二郎)と、その目の敵にする坂本桂馬(萩本欽一)は、芸者の小菊(高橋紀子)とともに、宇宙人ドグマ(川口浩)にさらわれる。
ドグマの星のパラド星人たちには生来、闘争本能が備わっておらず、他からの侵略に抵抗するすべを持たないのである。闘争本能たっぷりの地球人を拉致して研究しようというのだ。
本筋を追うと、その後、コント55号の闘争本能を脳みそから抽出し、それを複製してパラド星人に配給するが、その結果、核戦争を起こして滅んでしまう。
円盤で地球に戻ったコント55号と小菊だったが、到着した地球は、学生運動はなやかなりし現代(1969年)。パラド星を滅亡させた核戦争が、地球でも勃発しそうだ、と知ったコント55号は、アメリカ大使館、ソ連大使館の前で「核戦争はやめてください」と嘆願する。
あげく、精神病院に入院させられるのである。
コント55号の2人は芸者小菊を取り合っていたが、闘争本能をなくした2人は、小菊を共有することにしたらしく、円盤から現代の地球におりてきたとき、それぞれ子供を連れていた。
入院したコント55号を見舞った小菊は、2人の子供が住める世界はないのか、と嘆く。
てな話。
脚本はジェームス三木で、全体にコメディではあるが、相当社会批判を含んだ過激な内容だ。
コント55号のもじった役名どおり、坂上二郎は将棋の駒の角行のように斜めにひょいひょいと歩き、萩本欽一は桂馬のようにぴょんぴょんと飛ぶ。
なんと、映画の最初から最後まで、歩くときは常にこの移動の仕方をするのだ。これには笑った。
また、途中で、再生した世界の美女5人が円盤に乗り込むが、それは
中国の楊貴妃(応蘭芳)
エジプトのクレオパトラ(杉本エマ)
アメリカのマリリン・モンロー(本田由香子)
日本の小野小町(沢井桂子)
フランスのジャンヌ・ダルク(カルーセル麻紀)
というのも、時代を感じさせて、いい。
円盤から、コカコーラ型の人工衛星が見えて、コカコーラのCMソングを行進曲にアレンジしたのが流れるのも面白い。
また、ところどころに、「やったぜ、ベイビー」だの「帰り道は遠かった、来たときよりも遠かった」などの当時を思い出させる言葉が出てきて、楽しかった。
時は幕末。新撰組の芹沢角(坂上二郎)と、その目の敵にする坂本桂馬(萩本欽一)は、芸者の小菊(高橋紀子)とともに、宇宙人ドグマ(川口浩)にさらわれる。
ドグマの星のパラド星人たちには生来、闘争本能が備わっておらず、他からの侵略に抵抗するすべを持たないのである。闘争本能たっぷりの地球人を拉致して研究しようというのだ。
本筋を追うと、その後、コント55号の闘争本能を脳みそから抽出し、それを複製してパラド星人に配給するが、その結果、核戦争を起こして滅んでしまう。
円盤で地球に戻ったコント55号と小菊だったが、到着した地球は、学生運動はなやかなりし現代(1969年)。パラド星を滅亡させた核戦争が、地球でも勃発しそうだ、と知ったコント55号は、アメリカ大使館、ソ連大使館の前で「核戦争はやめてください」と嘆願する。
あげく、精神病院に入院させられるのである。
コント55号の2人は芸者小菊を取り合っていたが、闘争本能をなくした2人は、小菊を共有することにしたらしく、円盤から現代の地球におりてきたとき、それぞれ子供を連れていた。
入院したコント55号を見舞った小菊は、2人の子供が住める世界はないのか、と嘆く。
てな話。
脚本はジェームス三木で、全体にコメディではあるが、相当社会批判を含んだ過激な内容だ。
コント55号のもじった役名どおり、坂上二郎は将棋の駒の角行のように斜めにひょいひょいと歩き、萩本欽一は桂馬のようにぴょんぴょんと飛ぶ。
なんと、映画の最初から最後まで、歩くときは常にこの移動の仕方をするのだ。これには笑った。
また、途中で、再生した世界の美女5人が円盤に乗り込むが、それは
中国の楊貴妃(応蘭芳)
エジプトのクレオパトラ(杉本エマ)
アメリカのマリリン・モンロー(本田由香子)
日本の小野小町(沢井桂子)
フランスのジャンヌ・ダルク(カルーセル麻紀)
というのも、時代を感じさせて、いい。
円盤から、コカコーラ型の人工衛星が見えて、コカコーラのCMソングを行進曲にアレンジしたのが流れるのも面白い。
また、ところどころに、「やったぜ、ベイビー」だの「帰り道は遠かった、来たときよりも遠かった」などの当時を思い出させる言葉が出てきて、楽しかった。
『青い外套を着た女』
2011年9月28日 読書
横溝正史の『青い外套を着た女』を読んだ。
以下、収録作品。
「白い恋人」(オール読物、昭和12年5月増刊)
「青い外套を着た女」(サンデー毎日、昭和12年7月1日)
「クリスマスの酒場」(サンデー毎日、昭和13年、1月1日)
「木乃伊の花嫁」(富士、昭和13年2月増刊)
木乃伊の口紅/したたる血潮/屋根裏の鬼/湖畔の怪/白髪の紳士/洞窟での出来事/恐ろしき真相
「花嫁富籤」(婦人倶楽部、昭和13年3月)
「仮面舞踏会」(オール読物、昭和13年6月増刊)
「佝僂(せむし)の樹」(サンデー毎日、昭和13年6月5日)
ことづけ/花かんざし/怪しのもの/狂える呪詛(のろい)/瘤のある桜/人食い桜
「飾窓の中の姫君」(モダン日本、昭和13年8月)
「覗機械倫敦綺譚(のぞきからくりろんどんきだん)」(新青年、昭和10年2月増刊。昭和10年『鬼火』初版に収録)
1、相乗車は地獄と極楽境界のこと
2、灯に焦がす翼は蛾の無分別
3、片棒を担ぐ女に蟻の一穴
4、子に迷う親の心は六道の闇
雑誌発表後、はじめて本に収録された作品集。(昭和53年当時。最後の1つを除く)
埋もれるべくして埋もれていた作品、というわけでもなく、今読んでもじゅうぶんに面白くて、横溝正史は多作だからこれらの作品が口にのぼることも少ないが、寡作な作家の作品だったら、代表作になっていてもおかしくないレベルである。これはすごいことだ。因縁話みたいなものが多いのは時代を思わせて、興味深い。
また、意外な真相やどんでん返しが、それを見破るとかわかったとかいうことを抜きにして、物語の面白みになっている。
以下、収録作品。
「白い恋人」(オール読物、昭和12年5月増刊)
「青い外套を着た女」(サンデー毎日、昭和12年7月1日)
「クリスマスの酒場」(サンデー毎日、昭和13年、1月1日)
「木乃伊の花嫁」(富士、昭和13年2月増刊)
木乃伊の口紅/したたる血潮/屋根裏の鬼/湖畔の怪/白髪の紳士/洞窟での出来事/恐ろしき真相
「花嫁富籤」(婦人倶楽部、昭和13年3月)
「仮面舞踏会」(オール読物、昭和13年6月増刊)
「佝僂(せむし)の樹」(サンデー毎日、昭和13年6月5日)
ことづけ/花かんざし/怪しのもの/狂える呪詛(のろい)/瘤のある桜/人食い桜
「飾窓の中の姫君」(モダン日本、昭和13年8月)
「覗機械倫敦綺譚(のぞきからくりろんどんきだん)」(新青年、昭和10年2月増刊。昭和10年『鬼火』初版に収録)
1、相乗車は地獄と極楽境界のこと
2、灯に焦がす翼は蛾の無分別
3、片棒を担ぐ女に蟻の一穴
4、子に迷う親の心は六道の闇
雑誌発表後、はじめて本に収録された作品集。(昭和53年当時。最後の1つを除く)
埋もれるべくして埋もれていた作品、というわけでもなく、今読んでもじゅうぶんに面白くて、横溝正史は多作だからこれらの作品が口にのぼることも少ないが、寡作な作家の作品だったら、代表作になっていてもおかしくないレベルである。これはすごいことだ。因縁話みたいなものが多いのは時代を思わせて、興味深い。
また、意外な真相やどんでん返しが、それを見破るとかわかったとかいうことを抜きにして、物語の面白みになっている。
『盤上の海、詩の宇宙』
2011年9月27日 読書
羽生善治と吉増剛造による『盤上の海、詩の宇宙』を読んだ。
以下、目次。
はじめに=羽生善治
第1局 将棋のコスモロジー(1996年9月)
盤面を見つめる楽しみ/さまざまな時間の流れ/白い時間、灰色の時間/盤面に大海原を感じるとき/将棋の大きさ/相手によって変化する棋風/過去の棋譜のとらえ方/古典をどう超えるか/将棋は表裏に言葉を背負っている/「角」は牛の角のイメージ/チェスと将棋の違い/文学と遊びの世界/アイルトン・セナへの共感/駒のスピード、効率、展開/視線が180度変わる/不思議な深さをもつ遊びの場/将棋はやはり「指す」もの/「歩」にひとつの原点があった/旅するときの持ち物/歩きながら書く/なんで「駒」と呼ぶのか/「棋譜」と「詩譜」/閃きとジャスト・ミート/対局に近い頭脳の動きで話す/先が見過ごせる場所/極限まで柔らかい粘土/朗読は無限の読み直し/忘れることの大事さ/文字を打ち込む/
第2局 われらシジフォスのように(1996年12月)
初めて将棋を指したとき/初めて詩を書いたとき/盤に向かって潜る/心が静かになるのを待つ/原初の心の状態に戻す/「経験」を積むことの意味/対座することの喜び/心にまっすぐ訴えかけてくる言葉/詩の宇宙の向こう側で/「歩」は将棋の「皮膚」/夢の痕跡を取りかえす/将棋は奥深い「書物」を読むこと/愛着を不断に捨てていくこと/相手の視線で見てようやくわかること/シジフォスの喜びの瞬間/「反復」からだけ得られるもの/時間のもっている不思議/漠然とした不安と狂気/狂気の可能性を逃げつつ受け入れる/日本語の多層性、大文明の血脈/時間の非可逆性/なぜ詩を書くのか、誰に向かって書くのか/イメージを喚起する力/詩が生成する過程/言葉は時代の断裂面をかかえる/不安の層が堆積する/言葉に対する根源的不安/セナ-加速していく世界の極限を見たひと/駒が笑う/未完の作品が理想/ほんとうに書きたい作品/「言葉に負ける」とは/言葉の自立的な運動と詩の言葉/詩の壮大な戦略/歴史=定跡を覆す力/将棋はどこへ行くのか/ふたたび“反復”について/先が見えない不安と思考の反復/螺旋状に考える/古代の井戸で/献詩による結び/
羽生さんへの手紙=吉増剛造
通訳あとがき=柳瀬尚紀
タイトルにもあるように、羽生の語る将棋観が、ハチワンダイバーのもとになったんじゃないか、と思う。
「なんというんですかね、盤に向かって潜っていくというか、のめり込んで考えていくというか、ほんとうになにか海の中に潜っていくというような感じになります。その潜っていくような感じが深ければ深いほど、時間の流れもあっという間に流れていくというか、意識というものがなくなっていくというか、そういうことはあります」
将棋を指す人にとっては、盤に潜る、という感覚は特別奇矯なものではないが、こうして語れる棋士は数少ないと思う。
以下、目次。
はじめに=羽生善治
第1局 将棋のコスモロジー(1996年9月)
盤面を見つめる楽しみ/さまざまな時間の流れ/白い時間、灰色の時間/盤面に大海原を感じるとき/将棋の大きさ/相手によって変化する棋風/過去の棋譜のとらえ方/古典をどう超えるか/将棋は表裏に言葉を背負っている/「角」は牛の角のイメージ/チェスと将棋の違い/文学と遊びの世界/アイルトン・セナへの共感/駒のスピード、効率、展開/視線が180度変わる/不思議な深さをもつ遊びの場/将棋はやはり「指す」もの/「歩」にひとつの原点があった/旅するときの持ち物/歩きながら書く/なんで「駒」と呼ぶのか/「棋譜」と「詩譜」/閃きとジャスト・ミート/対局に近い頭脳の動きで話す/先が見過ごせる場所/極限まで柔らかい粘土/朗読は無限の読み直し/忘れることの大事さ/文字を打ち込む/
第2局 われらシジフォスのように(1996年12月)
初めて将棋を指したとき/初めて詩を書いたとき/盤に向かって潜る/心が静かになるのを待つ/原初の心の状態に戻す/「経験」を積むことの意味/対座することの喜び/心にまっすぐ訴えかけてくる言葉/詩の宇宙の向こう側で/「歩」は将棋の「皮膚」/夢の痕跡を取りかえす/将棋は奥深い「書物」を読むこと/愛着を不断に捨てていくこと/相手の視線で見てようやくわかること/シジフォスの喜びの瞬間/「反復」からだけ得られるもの/時間のもっている不思議/漠然とした不安と狂気/狂気の可能性を逃げつつ受け入れる/日本語の多層性、大文明の血脈/時間の非可逆性/なぜ詩を書くのか、誰に向かって書くのか/イメージを喚起する力/詩が生成する過程/言葉は時代の断裂面をかかえる/不安の層が堆積する/言葉に対する根源的不安/セナ-加速していく世界の極限を見たひと/駒が笑う/未完の作品が理想/ほんとうに書きたい作品/「言葉に負ける」とは/言葉の自立的な運動と詩の言葉/詩の壮大な戦略/歴史=定跡を覆す力/将棋はどこへ行くのか/ふたたび“反復”について/先が見えない不安と思考の反復/螺旋状に考える/古代の井戸で/献詩による結び/
羽生さんへの手紙=吉増剛造
通訳あとがき=柳瀬尚紀
タイトルにもあるように、羽生の語る将棋観が、ハチワンダイバーのもとになったんじゃないか、と思う。
「なんというんですかね、盤に向かって潜っていくというか、のめり込んで考えていくというか、ほんとうになにか海の中に潜っていくというような感じになります。その潜っていくような感じが深ければ深いほど、時間の流れもあっという間に流れていくというか、意識というものがなくなっていくというか、そういうことはあります」
将棋を指す人にとっては、盤に潜る、という感覚は特別奇矯なものではないが、こうして語れる棋士は数少ないと思う。
今日は、自然に恵まれた某場所を散策&探索。
いずれ、その詳細については、報告することもあるだろう。
白土三平の『風魔』を読んだ。小学館文庫の二分冊本。(写真は別バージョン)
忍者の権利を守る風魔のシリーズ。
今までの作品に出てきた登場人物が出てきたりもするが、その都度説明があって、シリーズものによくあるような、さっぱり話が見えない、てなことはない。
以下、目次。
1
二階堂乱舞の巻
プロローグ
第1章・神かくし
第2章・亡霊復活
第3章・多面武蔵
第4章・異変二階堂流
第5章・二階堂乱舞
2
シジマ無情の巻
第6章・猿風
第7章・月影
第8章・螢火狂乱
第9章・竜煙
第10章・飢牙作戦
第11章・シジマ無情
身体を瞬間的に視界から消す「一本ヤグラ」
空を駆ける「天足通」
など、忍術がそのからくりとともにストーリーの要となるのが面白い。
からくり、といえば、二階堂流秘術「心の一方」は、まるでジョジョに出てくるディオのスタンド「ザ・ワールド」を思わせた。
とじこめたはずの者が、いつのまにやら抜け出ていて、背後から襲う、みたいな技。きっと、この「心の一方」を読んでいて、「ザ・ワールド」を思いついたんじゃないか、と思えるほど。
いずれ、その詳細については、報告することもあるだろう。
白土三平の『風魔』を読んだ。小学館文庫の二分冊本。(写真は別バージョン)
忍者の権利を守る風魔のシリーズ。
今までの作品に出てきた登場人物が出てきたりもするが、その都度説明があって、シリーズものによくあるような、さっぱり話が見えない、てなことはない。
以下、目次。
1
二階堂乱舞の巻
プロローグ
第1章・神かくし
第2章・亡霊復活
第3章・多面武蔵
第4章・異変二階堂流
第5章・二階堂乱舞
2
シジマ無情の巻
第6章・猿風
第7章・月影
第8章・螢火狂乱
第9章・竜煙
第10章・飢牙作戦
第11章・シジマ無情
身体を瞬間的に視界から消す「一本ヤグラ」
空を駆ける「天足通」
など、忍術がそのからくりとともにストーリーの要となるのが面白い。
からくり、といえば、二階堂流秘術「心の一方」は、まるでジョジョに出てくるディオのスタンド「ザ・ワールド」を思わせた。
とじこめたはずの者が、いつのまにやら抜け出ていて、背後から襲う、みたいな技。きっと、この「心の一方」を読んでいて、「ザ・ワールド」を思いついたんじゃないか、と思えるほど。
天王寺のBar Greeen2階で、川崎あっこ個展「はじめまし展」
「ちちんぷいぷい」などのテレビ番組にも関わっているアーチストさん。
実験アキレスのイベントでプロトタイプを見た作品などもあり、興味深い。
最終日だったせいもあり、川崎あっこさんがいらっしゃり、おしゃべりもさせていただいた。ユーモアたっぷりの作品に囲まれ、飲み物などもいただき、ソファーもあり、非常に居心地のいい時間を過ごした。
ユニバーサル・シティ・ウォークの屋外イベントSong Whiz Fantasyで、
L.u.v
葉月
Mari7
こういうオープンスペースのアイドルイベントの面白さは、一般の方がオタ芸を見て大喜びする様子が見られることだ。
一般の方は、「オタ芸を見た!」と大笑いして写メールや動画を撮影するわけだが、一方アイドルファンは、一般の方の過剰な反応を見て面白がる。お互いが楽しいのだから万々歳、なのであるが、この関係のなかで本来主人公であるはずのアイドル歌手が取り残されてしまうのが、アイドルファンとしては微妙なところだ。
まるで盆踊りのやぐらの上でかわるがわる河内音頭を歌う歌手みたいに、アイドル歌手はオタクを踊らせる触媒の役割しか持たなくなる。それもアイドルの楽しさなのだが、オープンスペースならではの楽しみであることは確か。
午後6時からNHK-FMで「現代の音楽」
猿谷紀郎
- 音の現在(いま)~エサ・ペッカ・サロネン -(2)
「フラッフ」 エサ・ペッカ・サロネン作曲
(9分37秒)
(ソプラノ)アヌ・コスミ
(アンサンブル)アヴァンティ!室内管弦楽団員
<FINLANDIA WCPS10210/1>
「マニア」 エサ・ペッカ・サロネン作曲
(16分58秒)
(チェロ)アンシ・カルットゥネン
(アンサンブル)ロンドン・シンフォニエッタ
<ソニー・ミュージックエンタテインメント SICC18>
「ディコトミー」 エサ・ペッカ・サロネン作曲
(17分36秒)
(ピアノ)イェフィム・ブロンフマン
<Deutsche Grammophon
UCCG-1450>
テレビの「アカン警察」にファンタピースが出ていた。
千原ジュニアの照れっぷりが面白かった。
ジュニアさんとは、昔、道頓堀のお店で御一緒したことがあったのだが、お互いにほとんどしゃべらなかったのが、今思い出すと、むちゃくちゃ面白い。
「ちちんぷいぷい」などのテレビ番組にも関わっているアーチストさん。
実験アキレスのイベントでプロトタイプを見た作品などもあり、興味深い。
最終日だったせいもあり、川崎あっこさんがいらっしゃり、おしゃべりもさせていただいた。ユーモアたっぷりの作品に囲まれ、飲み物などもいただき、ソファーもあり、非常に居心地のいい時間を過ごした。
ユニバーサル・シティ・ウォークの屋外イベントSong Whiz Fantasyで、
L.u.v
葉月
Mari7
こういうオープンスペースのアイドルイベントの面白さは、一般の方がオタ芸を見て大喜びする様子が見られることだ。
一般の方は、「オタ芸を見た!」と大笑いして写メールや動画を撮影するわけだが、一方アイドルファンは、一般の方の過剰な反応を見て面白がる。お互いが楽しいのだから万々歳、なのであるが、この関係のなかで本来主人公であるはずのアイドル歌手が取り残されてしまうのが、アイドルファンとしては微妙なところだ。
まるで盆踊りのやぐらの上でかわるがわる河内音頭を歌う歌手みたいに、アイドル歌手はオタクを踊らせる触媒の役割しか持たなくなる。それもアイドルの楽しさなのだが、オープンスペースならではの楽しみであることは確か。
午後6時からNHK-FMで「現代の音楽」
猿谷紀郎
- 音の現在(いま)~エサ・ペッカ・サロネン -(2)
「フラッフ」 エサ・ペッカ・サロネン作曲
(9分37秒)
(ソプラノ)アヌ・コスミ
(アンサンブル)アヴァンティ!室内管弦楽団員
<FINLANDIA WCPS10210/1>
「マニア」 エサ・ペッカ・サロネン作曲
(16分58秒)
(チェロ)アンシ・カルットゥネン
(アンサンブル)ロンドン・シンフォニエッタ
<ソニー・ミュージックエンタテインメント SICC18>
「ディコトミー」 エサ・ペッカ・サロネン作曲
(17分36秒)
(ピアノ)イェフィム・ブロンフマン
<Deutsche Grammophon
UCCG-1450>
テレビの「アカン警察」にファンタピースが出ていた。
千原ジュニアの照れっぷりが面白かった。
ジュニアさんとは、昔、道頓堀のお店で御一緒したことがあったのだが、お互いにほとんどしゃべらなかったのが、今思い出すと、むちゃくちゃ面白い。
町屋寄席@大阪くらしの今昔館~紙屑洗礼@SoHo Art Gallery
2011年9月24日 落語
午後2時から、大阪市立住まいのミュージアム・大阪くらしの今昔館で「町屋寄席」
桂鯛蔵「代脈」
桂出丸「青菜」
桂鯛蔵は師匠の都丸(とまる)が塩鯛を襲名したのにあわせて、さん都から鯛蔵を襲名した。師匠の襲名にあわせて、一門が名前を変えるのは、珍しいんじゃないのかな。
出丸の「青菜」では、「鞍馬から牛若丸が出でまして名も九郎判官」をどう聞き間違えるか、に工夫があって面白かった。「名も」ではなく、出丸は「名を」と言ってた。「を」バージョンはあまり聞いたことないけど、これもありか。毎年、彦八まつりで、この「青菜」に出てくる「柳蔭」(これも落語家によって出てこない場合がある)を飲むのが楽しみだったけど、今年は台風と大雨で、彦八まつりに行けず、まだ飲んでいない。とか言ううちに夏も終わり、柳蔭の季節は過ぎてしまうのであった。でも、冬でも飲みたくなるときがあるなあ。
http://www.hakusenshuzou.jp/index.html
谷町九丁目のSoHo Art Galleryで、グループ展「紙屑洗礼」
石橋秀美、野中ひゆ、古荘桃野、ほっぱふき子、サルバトヲル、野中ひゆ、小串遼太郎、イトカワエミコ。
テーマは「死」らしい。
野中ひゆちゃんの特殊メイクで顔を腫らしたり、腕から骨が飛び出ていたりする人がいる中、楽しく鑑賞。
ほっぺふき子さんの作品では、美女の切断された片足フィギュアスケート靴で作品の手をリストカットした。血液ドロドロでなかなか血が吹き出るにいたらないのは、食生活を改善したほうがいいですよ、とアドバイスしたくなった。
石橋秀美さんのインパクトの強い作品は、11月の個展でもまた見ることができるので、楽しみ。
http://web.mac.com/celio_barreto/iWeb/SoHo/Welcome.html
桂鯛蔵「代脈」
桂出丸「青菜」
桂鯛蔵は師匠の都丸(とまる)が塩鯛を襲名したのにあわせて、さん都から鯛蔵を襲名した。師匠の襲名にあわせて、一門が名前を変えるのは、珍しいんじゃないのかな。
出丸の「青菜」では、「鞍馬から牛若丸が出でまして名も九郎判官」をどう聞き間違えるか、に工夫があって面白かった。「名も」ではなく、出丸は「名を」と言ってた。「を」バージョンはあまり聞いたことないけど、これもありか。毎年、彦八まつりで、この「青菜」に出てくる「柳蔭」(これも落語家によって出てこない場合がある)を飲むのが楽しみだったけど、今年は台風と大雨で、彦八まつりに行けず、まだ飲んでいない。とか言ううちに夏も終わり、柳蔭の季節は過ぎてしまうのであった。でも、冬でも飲みたくなるときがあるなあ。
http://www.hakusenshuzou.jp/index.html
谷町九丁目のSoHo Art Galleryで、グループ展「紙屑洗礼」
石橋秀美、野中ひゆ、古荘桃野、ほっぱふき子、サルバトヲル、野中ひゆ、小串遼太郎、イトカワエミコ。
テーマは「死」らしい。
野中ひゆちゃんの特殊メイクで顔を腫らしたり、腕から骨が飛び出ていたりする人がいる中、楽しく鑑賞。
ほっぺふき子さんの作品では、美女の切断された片足フィギュアスケート靴で作品の手をリストカットした。血液ドロドロでなかなか血が吹き出るにいたらないのは、食生活を改善したほうがいいですよ、とアドバイスしたくなった。
石橋秀美さんのインパクトの強い作品は、11月の個展でもまた見ることができるので、楽しみ。
http://web.mac.com/celio_barreto/iWeb/SoHo/Welcome.html
『欲望の思考-ルネ・シェレール入門』
2011年9月23日 読書
マキシム・フェルステルの『欲望の思考-ルネ・シェレール入門』を読んだ。
ルネ・シェレールは映画監督エリック・ロメールの実弟で、フーリエの研究者で知られる。僕の知るかぎり、まだ3冊しか翻訳はなく、オッカンガムとの共著『コ-イーレ』とか、もう読みたくてしかたがない。
以下、目次。
序 ある業績が表舞台に現われる
第1章 現象学とコミュニケーション
第2章 狂宴とユートピアの間で-フーリエ新発見
第3章 幼年期を考える
第4章 ドゥルーズとフーコーの陰で
第5章 最も重要な対 ギィー・オッカンガム
第6章 歓待のエロティーク
第7章 再来せしグノーシス
第8章 親縁なる者たち
結語 生きる術としての倒錯
同性愛者シェレールの思想を解説する1冊。たとえば、どういう解説がなされるかというと。
「エピモダン」という用語で、モダンでもポストモダンでもない「モダン-外」を扱う。問題外ではない。モダン外だ。この脱臼のさせ方は、昨日読んだスピノザとか、最近読んでいるトッドと通じるものがある。
「相互滲入」という言葉で、師/生徒、能動的/受動的、友人/恋人、子供/大人のエロティークな歓待のコミュニケーションを説く。この思想は個人的に僕にはしっくりくる。
近年の日本の動きと重なって見えたのは、いわゆる「コーラル事件」にシェレールが巻き込まれるくだり。コーラル事件の詳細は、まだよく調べていないのだが、本書によると、「ある大臣を落選させんがためにでっち上げられた小児性愛スキャンダル」とある。シェレールは、この大臣の友人だったため、無実であるにもかかわらず、暴力的リンチにあった、というのだ。たとえば、社会的に抹殺したい人物がいた場合に、その人物が痴漢を働いたとか、未成年と肉体関係をもったとか、スキャンダルを仕掛ける、というのが日本でも大流行だ。マスコミやネットによって、誤った情報を流されて、それが広まってしまう。そういうスキャンダルにまんまとのせられてしまう一般大衆もどうかと思うが、スピノザが言うように、民衆の心を変えることはできないのである。とにかく、「コーラル事件」について調べてみたい。
本書は、性倒錯とか、そういうことに重点が置かれすぎているような気もするが、(出てくる登場人物はみんな同性愛のフィルターがかかっているように読めてくる)、そこを避けて通ることができないのが、シェレールたるゆえんなのかもしれない。
ルネ・シェレールは映画監督エリック・ロメールの実弟で、フーリエの研究者で知られる。僕の知るかぎり、まだ3冊しか翻訳はなく、オッカンガムとの共著『コ-イーレ』とか、もう読みたくてしかたがない。
以下、目次。
序 ある業績が表舞台に現われる
第1章 現象学とコミュニケーション
第2章 狂宴とユートピアの間で-フーリエ新発見
第3章 幼年期を考える
第4章 ドゥルーズとフーコーの陰で
第5章 最も重要な対 ギィー・オッカンガム
第6章 歓待のエロティーク
第7章 再来せしグノーシス
第8章 親縁なる者たち
結語 生きる術としての倒錯
同性愛者シェレールの思想を解説する1冊。たとえば、どういう解説がなされるかというと。
「エピモダン」という用語で、モダンでもポストモダンでもない「モダン-外」を扱う。問題外ではない。モダン外だ。この脱臼のさせ方は、昨日読んだスピノザとか、最近読んでいるトッドと通じるものがある。
「相互滲入」という言葉で、師/生徒、能動的/受動的、友人/恋人、子供/大人のエロティークな歓待のコミュニケーションを説く。この思想は個人的に僕にはしっくりくる。
近年の日本の動きと重なって見えたのは、いわゆる「コーラル事件」にシェレールが巻き込まれるくだり。コーラル事件の詳細は、まだよく調べていないのだが、本書によると、「ある大臣を落選させんがためにでっち上げられた小児性愛スキャンダル」とある。シェレールは、この大臣の友人だったため、無実であるにもかかわらず、暴力的リンチにあった、というのだ。たとえば、社会的に抹殺したい人物がいた場合に、その人物が痴漢を働いたとか、未成年と肉体関係をもったとか、スキャンダルを仕掛ける、というのが日本でも大流行だ。マスコミやネットによって、誤った情報を流されて、それが広まってしまう。そういうスキャンダルにまんまとのせられてしまう一般大衆もどうかと思うが、スピノザが言うように、民衆の心を変えることはできないのである。とにかく、「コーラル事件」について調べてみたい。
本書は、性倒錯とか、そういうことに重点が置かれすぎているような気もするが、(出てくる登場人物はみんな同性愛のフィルターがかかっているように読めてくる)、そこを避けて通ることができないのが、シェレールたるゆえんなのかもしれない。
『スピノザ―「無神論者」は宗教を肯定できるか』
2011年9月22日 読書
上野修の『スピノザ―「無神論者」は宗教を肯定できるか』を読んだ。
第1章 『神学・政治論』は何をめぐっているのか
オランダ共和国
デカルト主義者たちの不安
不敬虔という問題
第2章 敬虔の文法
解釈の狂気
真理条件から主張可能性条件へ
預言者の語り得たこと
普遍的信仰の教義
神学と哲学の分離―無関係の関係
第3章 文法とその外部
神学から政治論へ
最高権力の「最高」を構成する
敬虔の政治論的な文法
文法の外部
自由の擁護
第4章 『神学・政治論』の孤独
偽装された無神論?
三大詐欺師?
奇蹟と迷信
有徳の無神論者というパラドックス
以前読んだ『スピノザの世界』では『エチカ』を中心に解説されていたが、それを補完するような形で、『神学・政治論』『国家論』を中心に、スピノザと宗教の問題をきわめて明快に解説している。
スピノザは当時(今でも?)無神論者とみなされていた。
しかし、その著作において、あからさまにキリスト教を批判などしていたわけではない。ただ、神や聖書を語り、肯定するやりかたが、どうにも、普通じゃないのである。まるで、異星人が人類と神の関係を素描しているかのような印象がある。きわめて客観的で、論理的なすすめかたで、どこが間違っているか指摘できないのに、何だか違うものを見ているような。
こういう感覚、どこかで最近感じた、と思っていたら、エマニュエル・トッドだ!
エマニュエル・トッドの主張は、「おもいこみ」「こじつけ」の批判をついしたくなる内容なのに、それは人口学、統計的データをもとにしているので、反論する側の偏見を逆に照射することになる。トッドの「とんでもない議論」感は、視点の違い、発想の違いへの驚きを、何と表現していいかわからずに逃げ込んでしまう感想なのだ。スピノザも、論の進め方はいちいち飛躍がなくて、神や聖書をちっとも否定していないのに、「でも、きみ、無神論者だろ」とツッコミたくなる気分になるのである。
あと、スピノザが、ちっとも民衆を啓蒙する気がないところに共感を覚えるものがあった。民衆の頑迷な思考は、哲学者がどれだけ正しい理屈で説いても、変えられるものではないのだ。うむ。これも誤解されそうな議論で、要するに、スピノザは一般大衆の誤解をうみやすいのである。
第1章 『神学・政治論』は何をめぐっているのか
オランダ共和国
デカルト主義者たちの不安
不敬虔という問題
第2章 敬虔の文法
解釈の狂気
真理条件から主張可能性条件へ
預言者の語り得たこと
普遍的信仰の教義
神学と哲学の分離―無関係の関係
第3章 文法とその外部
神学から政治論へ
最高権力の「最高」を構成する
敬虔の政治論的な文法
文法の外部
自由の擁護
第4章 『神学・政治論』の孤独
偽装された無神論?
三大詐欺師?
奇蹟と迷信
有徳の無神論者というパラドックス
以前読んだ『スピノザの世界』では『エチカ』を中心に解説されていたが、それを補完するような形で、『神学・政治論』『国家論』を中心に、スピノザと宗教の問題をきわめて明快に解説している。
スピノザは当時(今でも?)無神論者とみなされていた。
しかし、その著作において、あからさまにキリスト教を批判などしていたわけではない。ただ、神や聖書を語り、肯定するやりかたが、どうにも、普通じゃないのである。まるで、異星人が人類と神の関係を素描しているかのような印象がある。きわめて客観的で、論理的なすすめかたで、どこが間違っているか指摘できないのに、何だか違うものを見ているような。
こういう感覚、どこかで最近感じた、と思っていたら、エマニュエル・トッドだ!
エマニュエル・トッドの主張は、「おもいこみ」「こじつけ」の批判をついしたくなる内容なのに、それは人口学、統計的データをもとにしているので、反論する側の偏見を逆に照射することになる。トッドの「とんでもない議論」感は、視点の違い、発想の違いへの驚きを、何と表現していいかわからずに逃げ込んでしまう感想なのだ。スピノザも、論の進め方はいちいち飛躍がなくて、神や聖書をちっとも否定していないのに、「でも、きみ、無神論者だろ」とツッコミたくなる気分になるのである。
あと、スピノザが、ちっとも民衆を啓蒙する気がないところに共感を覚えるものがあった。民衆の頑迷な思考は、哲学者がどれだけ正しい理屈で説いても、変えられるものではないのだ。うむ。これも誤解されそうな議論で、要するに、スピノザは一般大衆の誤解をうみやすいのである。
『文明の接近-「イスラームVS西洋」の虚構』
2011年9月21日 読書
エマニュエル・トッドとユセフ・クルパージュによる『文明の接近-「イスラームVS西洋」の虚構』を読んだ。
ハンチントンの『文明の衝突』を真っ向から批判した1冊。
人口学の実証データをもとに、展開されるおなじみの理論。
近代化は、識字化、脱キリスト教化、出生率の低下という道筋をたどり、その際に宗教別の各地域の差異を際立たせるが、その後、収斂に向かうとされる。
そうした観点から見ると、イスラーム圏は現在近代性への移行の最中であって、文明の衝突のような事態には至らないのである。イスラームの特殊性は変数としては、識字化、父系制、少数派集団の対抗行動、石油などの地下資源収入などに比べて、ほとんど無視するに足る小ささなのである。
そして言う。欧米のイスラーム恐怖症は、イスラームそのものとは無関係な、西洋自身の問題なのだ、と。(サルトルの「アメリカには黒人問題はない。あるのは白人問題だ」にひきつけた展開)
以下、目次。
日本の読者へ
序 章 文明の衝突か、 普遍的世界史か
第1章 歴史の動きの中におけるイスラーム諸国
識字化と出生率の低下/イスラームにおける 「世界の脱魔術化」 か
第2章 移行期危機
識字化、 出生調節、 革命/イスラーム諸国の移行期危機/イスラーム主義と未来予測/イデオロギー的内容の問題
第3章 アラブ家族と移行期危機
父系と夫方居住/シーア派の相続法/内婚制/内婚制の心理的・イデオロギー的帰結/近代化の衝撃
第4章 非アラブ圏のイスラーム女性 ―東アジアとサハラ以南のアフリカ
マレーシア・インドネシアの妻方居住/サハラ以南アフリカの大衆的一夫多妻制/これまでとは異なる移行期危機となるか?
第5章 イスラーム世界の核心、 アラブ圏
予期せざる、 遅れて始まった移行期 ―識字化と石油収入/マグレブでの移行期の加速化とフランス/シリアの遅れと分断 ―スンニ派とアラウイ派/アラビア半島の異種混合性/レバノンはヨーロッパの国か?/パレスチナ人 ―占領と戦争と出生率
第6章 アラブ圏以外の大中東圏
トルコとイラン/国家の不確かな役割/人口学的移行と国民国家/宗教、 人口動態、 民主主義/パキスタンの人口爆発/人口動態の正常さと政治的脅威/アフガニスタンにも触れておこう/バングラデシュ ―人口過密と出生率の低下
第7章 共産主義以後
識字化の加速/中絶 ―イスラーム的ならざる出生調節/そして幼児死亡率/バルカンにおけるムスリムの多様化
第8章 妻方居住のアジア
正常な移行、 停止す/マレーシア ―イスラーム教よりはナショナリズム
第9章 サハラ以南のアフリカ
出生率の地域格差 ―民族と宗教/ムスリム女子の死亡率の低さ
結 論
〈附〉インタビュー 「平和にとって、アメリカ合衆国はイランより危険である。」
原 注
図表一覧
訳者解説
本書で展開される議論について、それに対する読者の反応を先回りして、著者自身がこう書いている(第6章)
「人口動態とは客観的なものであり、それゆえにわれわれは時として、お決まりの考えや習慣が退けるよう仕向けている現実も、受入れざるを得なくなる」
そして、第5章では、パレスチナを例にあげて、近代化がいやおうなく進行していることを説明する。パレスチナでは、イスラエルの脅威に対抗する手段として、出生率の上昇をもってした。
「ヤセル・アラファトは、彼女たちの腹の中に生物兵器が眠っていたのを発見し、一人が子供を十二人持つことを女性に説き勧めた。二人は自分自身のために、一〇人は闘争のために、というわけである」
たしかに第一次インティファーダの際には出生率は上昇したが、第二次になると、出生率の下落傾向を示したのだ。
あと、日本は、外婚制で、それが当たり前のように思っているけど、世界には内婚制の国や地域もあり、そのメリットはどこにあるんだろう、と個人的に考えていたのだが、本書第3章に、わかりやすく書いてあった。
「ロシアや中国の家族(外婚制)においては、親子関係、夫と妻の関係は、恒常的な心理的暴力の雰囲気に浸っているように見える。近代化の局面に入ると、これらの家族システムは急速に瓦解したが、それはおそらく、住民自身が自分たちの生活様式を加害的なものだと感じ取っていたからなのだ。アラブ家族には、そんなところはこれっぱかりもない。内婚は、大家族システムが誘発する複雑な人間関係のとげとげしさを和らげてくれる。」
ここからが面白い!
「嫁とは、姑に迫害される余所者の女(あらゆる外婚モデルに共通)でも、舅に強姦される余所者の女(ロシア・モデル)でもなく、生まれた時から親族の中にいる、舅姑の姪というステータスを持って結婚生活を始めるのである。
したがって内婚制は、人が想像しがちなところとは逆に、女性にとって保護者的な役割を果たす。父系外婚システムがしばしば引き起こす災厄の一つは、女性嬰児の殺害である。男と男の結合で構築されるシステムの中では、女子には大して価値がない。他の家族集団の再生産を確実にするために家を出るというのが、女子の定めなのだ」
なーるほど!
ハンチントンの『文明の衝突』を真っ向から批判した1冊。
人口学の実証データをもとに、展開されるおなじみの理論。
近代化は、識字化、脱キリスト教化、出生率の低下という道筋をたどり、その際に宗教別の各地域の差異を際立たせるが、その後、収斂に向かうとされる。
そうした観点から見ると、イスラーム圏は現在近代性への移行の最中であって、文明の衝突のような事態には至らないのである。イスラームの特殊性は変数としては、識字化、父系制、少数派集団の対抗行動、石油などの地下資源収入などに比べて、ほとんど無視するに足る小ささなのである。
そして言う。欧米のイスラーム恐怖症は、イスラームそのものとは無関係な、西洋自身の問題なのだ、と。(サルトルの「アメリカには黒人問題はない。あるのは白人問題だ」にひきつけた展開)
以下、目次。
日本の読者へ
序 章 文明の衝突か、 普遍的世界史か
第1章 歴史の動きの中におけるイスラーム諸国
識字化と出生率の低下/イスラームにおける 「世界の脱魔術化」 か
第2章 移行期危機
識字化、 出生調節、 革命/イスラーム諸国の移行期危機/イスラーム主義と未来予測/イデオロギー的内容の問題
第3章 アラブ家族と移行期危機
父系と夫方居住/シーア派の相続法/内婚制/内婚制の心理的・イデオロギー的帰結/近代化の衝撃
第4章 非アラブ圏のイスラーム女性 ―東アジアとサハラ以南のアフリカ
マレーシア・インドネシアの妻方居住/サハラ以南アフリカの大衆的一夫多妻制/これまでとは異なる移行期危機となるか?
第5章 イスラーム世界の核心、 アラブ圏
予期せざる、 遅れて始まった移行期 ―識字化と石油収入/マグレブでの移行期の加速化とフランス/シリアの遅れと分断 ―スンニ派とアラウイ派/アラビア半島の異種混合性/レバノンはヨーロッパの国か?/パレスチナ人 ―占領と戦争と出生率
第6章 アラブ圏以外の大中東圏
トルコとイラン/国家の不確かな役割/人口学的移行と国民国家/宗教、 人口動態、 民主主義/パキスタンの人口爆発/人口動態の正常さと政治的脅威/アフガニスタンにも触れておこう/バングラデシュ ―人口過密と出生率の低下
第7章 共産主義以後
識字化の加速/中絶 ―イスラーム的ならざる出生調節/そして幼児死亡率/バルカンにおけるムスリムの多様化
第8章 妻方居住のアジア
正常な移行、 停止す/マレーシア ―イスラーム教よりはナショナリズム
第9章 サハラ以南のアフリカ
出生率の地域格差 ―民族と宗教/ムスリム女子の死亡率の低さ
結 論
〈附〉インタビュー 「平和にとって、アメリカ合衆国はイランより危険である。」
原 注
図表一覧
訳者解説
本書で展開される議論について、それに対する読者の反応を先回りして、著者自身がこう書いている(第6章)
「人口動態とは客観的なものであり、それゆえにわれわれは時として、お決まりの考えや習慣が退けるよう仕向けている現実も、受入れざるを得なくなる」
そして、第5章では、パレスチナを例にあげて、近代化がいやおうなく進行していることを説明する。パレスチナでは、イスラエルの脅威に対抗する手段として、出生率の上昇をもってした。
「ヤセル・アラファトは、彼女たちの腹の中に生物兵器が眠っていたのを発見し、一人が子供を十二人持つことを女性に説き勧めた。二人は自分自身のために、一〇人は闘争のために、というわけである」
たしかに第一次インティファーダの際には出生率は上昇したが、第二次になると、出生率の下落傾向を示したのだ。
あと、日本は、外婚制で、それが当たり前のように思っているけど、世界には内婚制の国や地域もあり、そのメリットはどこにあるんだろう、と個人的に考えていたのだが、本書第3章に、わかりやすく書いてあった。
「ロシアや中国の家族(外婚制)においては、親子関係、夫と妻の関係は、恒常的な心理的暴力の雰囲気に浸っているように見える。近代化の局面に入ると、これらの家族システムは急速に瓦解したが、それはおそらく、住民自身が自分たちの生活様式を加害的なものだと感じ取っていたからなのだ。アラブ家族には、そんなところはこれっぱかりもない。内婚は、大家族システムが誘発する複雑な人間関係のとげとげしさを和らげてくれる。」
ここからが面白い!
「嫁とは、姑に迫害される余所者の女(あらゆる外婚モデルに共通)でも、舅に強姦される余所者の女(ロシア・モデル)でもなく、生まれた時から親族の中にいる、舅姑の姪というステータスを持って結婚生活を始めるのである。
したがって内婚制は、人が想像しがちなところとは逆に、女性にとって保護者的な役割を果たす。父系外婚システムがしばしば引き起こす災厄の一つは、女性嬰児の殺害である。男と男の結合で構築されるシステムの中では、女子には大して価値がない。他の家族集団の再生産を確実にするために家を出るというのが、女子の定めなのだ」
なーるほど!
『タイムマシンのなぞ』
2011年9月20日 読書
ジョルジュ=ショーレの少女名探偵ファントメット『タイムマシンのなぞ』を読んだ。
作者による「はじめに」の文章は次のとおり。
以下、目次。
第1章 骨とう屋
第2章 貨物自動車
第3章 じょうずな見張り
第4章 フィセル、つぼをさがす
第5章 ゆめのような旅
第6章 二度めの実験
第7章 タイムマシンのトリック
第8章 あやしい小姓
第9章 侯爵夫人フィセル
第10章 パルシィ=パルラの夕べ
第11章 ル=フュレ勝つ
第12章 決闘
第13章 エピローグ
ル=フュレという悪党詐欺師が、「ルイ14世から爵位をもらいたい」と夢を抱いている金持ちをだまそうとする話。タイムマシンで過去にさかのぼり、ルイ14世に会おうとするのだ。
この作品でも、フランス人ならきっと基礎知識のうちのフランス史がちらちら出てきて、興味深い。
たとえば。
とか。
とか。
とか。
とか!
物語は金持ちのドターユ氏の夢をこわさないように気遣う内容で終わっていて、やさしさを感じた。(きちがい扱いはされるけど)
また、詐欺師ル=フュレがまきあげようとした大金を、おバカなフィセルは、「どうせつまらないことに金をつかってしまうに決まっている。自分なら有意義に金を使う」と、買いたいもののリストをあげる。これがまた、超有意義というか、素晴らしい。
「わたし、必要なもののリストを作ったんだ。陶器でできたブルドッグ、中国の帽子、嗅ぎタバコ入れ、パリの北駅の写真、セネガルの旗、馬蹄、すずのパイプかけ、軍艦の作り方が書いてある本、ブラジルのマテ茶をのむための、ほうろうの小さいポット、以上」
このリストは、ほぼ、ボルヘスである。
作者による「はじめに」の文章は次のとおり。
時間の旅行をして、何百年か前、王さまがフランスを治めていた時代にもどれると、みなさんは、思いますか?
ファントメットは、この奇想天外な冒険に足をつっこんだばかりに、たいへんな危険においこまれます。つまりつるぎで決闘ということになってしまいましたから。
さて、読者のみなさんも、仮面の少女とともに、フランスは十七世紀の貴族たちや、国王の宮殿に、信じられないような旅行をすることになるでしょう。
以下、目次。
第1章 骨とう屋
第2章 貨物自動車
第3章 じょうずな見張り
第4章 フィセル、つぼをさがす
第5章 ゆめのような旅
第6章 二度めの実験
第7章 タイムマシンのトリック
第8章 あやしい小姓
第9章 侯爵夫人フィセル
第10章 パルシィ=パルラの夕べ
第11章 ル=フュレ勝つ
第12章 決闘
第13章 エピローグ
ル=フュレという悪党詐欺師が、「ルイ14世から爵位をもらいたい」と夢を抱いている金持ちをだまそうとする話。タイムマシンで過去にさかのぼり、ルイ14世に会おうとするのだ。
この作品でも、フランス人ならきっと基礎知識のうちのフランス史がちらちら出てきて、興味深い。
たとえば。
「さーてと、どんな衣裳にしようかなあ。公爵夫人のかっこうにしよう」
フィセルは髪の毛をかきむしって考えこんでいましたが、やっと考えがまとまったようです。
「公爵夫人なら、なんでもいいってわけにはいかないな。マリー=アントワネット風のかつらをつけた、高貴な公爵夫人がいいわ」
フランソワーズは、首をふりました。
「だめよ。それじゃ、ルイ14世時代のモードってことにならないから」
「ええっ!それじゃ、マリー=アントワネットは、いつの人?」
「ルイ16世の時代」
とか。
フランソワーズは、映画『太陽王ルイ14世』のグラビア写真をたくさんみつけました。フィセルは、モンテスパン侯爵夫人の写真を見て、喜びの声をあげました。
「あらっ!わたしのさがしていた衣裳は、まさしくこれよ。なんてきれいな服!」
フランソワーズは、ぷーっとふきだして、いいました。
「ド=モンテスパン夫人は、公爵夫人ではなくて、侯爵夫人なの」
とか。
「ル=フュレは、ルイ14世が直接サインした親書を、ピエール=ドターユ氏にわたしたっていってたでしょ」
「うん」
「あなた、あのタイムマシンに、なん年って書いてあったかおぼえてる?」
「えーと、1673年」
「そう、ところが1673年に、ルイ14世は、ベルサイユ宮殿にはいなかったの。オランダと戦争してたんですもの」
とか。
「ドターユ氏が、だまされても、わたし、あまりおどろかないわ。1870年に、むかしのえらい人の手紙や原稿をあつめていたシャスルっていう、有名な数学者がいたの。その人ったら、ジャンヌ=ダークの原稿とか、モリエール、シェークスピア、シャルルマーニュ大帝、コロンブスの手紙なんかをうりつけられたんだけど、ぜんぶにせものだったの」
とか!
物語は金持ちのドターユ氏の夢をこわさないように気遣う内容で終わっていて、やさしさを感じた。(きちがい扱いはされるけど)
また、詐欺師ル=フュレがまきあげようとした大金を、おバカなフィセルは、「どうせつまらないことに金をつかってしまうに決まっている。自分なら有意義に金を使う」と、買いたいもののリストをあげる。これがまた、超有意義というか、素晴らしい。
「わたし、必要なもののリストを作ったんだ。陶器でできたブルドッグ、中国の帽子、嗅ぎタバコ入れ、パリの北駅の写真、セネガルの旗、馬蹄、すずのパイプかけ、軍艦の作り方が書いてある本、ブラジルのマテ茶をのむための、ほうろうの小さいポット、以上」
このリストは、ほぼ、ボルヘスである。
『秘密のふくろう団』
2011年9月19日 読書
ジョルジュ=ショーレの少女名探偵ファントメットシリーズ『秘密のふくろう団』を読んだ。
作者による「はじめに」の文章は、次のとおり。
以下、目次。
第1章 三人の少女
第2章 こまった事件
第3章 ショーウィンドウのたる
第4章 探偵クラブ
第5章 夜の冒険
第6章 ピクニック
第7章 ふくろう団
第8章 十時十七分のゾウ
第9章 ふうとう
第10章 ふくろうのつめ
第11章 ふくろうたちの最期
第12章 エピローグ
静かなフランボワジーの町に起こる不愉快な事件たち。
食料品店の車がこわされたり、農家が火事になったり、肉屋の肉に革ひもが入っていたり、上映直前に映画のフィルムが盗まれたり、トラックが落としたドラム缶が電器店のテレビを壊したり、果樹園の木が切り倒されたり。
犯行を声明のようなふくろうマークが残されているところから、ふくろう団の存在があぶりだされた。
フランボワジーに暮らす3人の小学生女子が、探偵クラブを作って、ふくろう団の悪事をあばこうとする。
3人の少女とは、のっぽでおバカノのフィセル、くいしんぼうのブーロット、そして、頭がよくてクラスで何でも一番のスーパー小学生フランソワーズ。
3人が作った探偵団は、「フランボワジー探偵クラブ」(Framboisy Limiers Club)略して「FLIC」
フィセルは、鳥を見たら何でも「ナイチンゲール」だと思っているし、ブーロットは探偵そっちのけで食欲に忠実。また、フランソワーズは、なぜか肝腎のときに、いつもいない。
さて、このフランボワジーの町には、仮面で正体を隠した正義の女性、ファントメットがいた。
FLICが独自でふくろう団を追い詰めようとして、危険なめにあいそうになると、ファントメットが助けてくれる。
事件の謎を追うのはもちろん面白いのだが、少女たちが遊ぶ、また学校で学ぶ描写が楽しい。ところどころに、「チョークが酸にふれると泡が出ます。この泡は何だと思いますか」とか、「500リットルの水がはいる風呂桶に、1時間に1500リットル出る水道の水を入れるとする。しかし、風呂桶の穴から、1時間800リットルの水が流出するとして、この風呂桶を満たすには何時間かかるだろうか」とか、モリエールの『守銭奴』を読んだり、など学校のシーンが、自分の小中学生時代にタイムスリップさせるリアルさを持っている。
ふくろう団は悪事を働くのだが、その首領の正体は、いかにも悪い奴で、花咲かじいさん的な説得力があった。
ジョルジュ=ショーレはこのファントメットのシリーズを1961年から1年に1冊か2冊のペースで50冊以上書いている。(なぜか90年代は書いていないけど、いったんシリーズを打ち切るつもりだったのが、また再開した、ということか?)アニメにもテレビ番組にもなっていて、フランスでは、まあ知らぬ者のないキャラクターなんだろう。僕に語学の素養があれば、バリバリ読みたいところなのになあ。日本での翻訳は、70年代に5冊だけ。しかも、その本も今やなかなか入手しにくい。ファントメット、危機一髪!
本の画像は、海外版。日本の翻訳は、「四月バキュア」ブログのほうに載せる予定。
今日は親戚の三十五日&四十九日だった。
なんだか、あっさりしたものだな、というのが素直な印象だ。
法事といえば一大イベントだと感じていたのは、自分が幼いときのインパクト(ダメージ?)の思い出によるものなのかもしれない。
作者による「はじめに」の文章は、次のとおり。
ふくろうという鳥は、ひるまはおとなしくねむっているけれど、あたりがねしずまった夜になると活動をはじめます。
ところが、ファントメットがやっつけようとしているふくろうは、ふくろうでも鳥ではありません。はるかに危険なものなのです。
まっ赤な血をたたえたうす!列車襲撃計画!
つぎつぎとおこるおそろしい事件-。
みなさんも、ファントメットといっしょに、このなぞめいたふくろうの正体をみやぶってください。
以下、目次。
第1章 三人の少女
第2章 こまった事件
第3章 ショーウィンドウのたる
第4章 探偵クラブ
第5章 夜の冒険
第6章 ピクニック
第7章 ふくろう団
第8章 十時十七分のゾウ
第9章 ふうとう
第10章 ふくろうのつめ
第11章 ふくろうたちの最期
第12章 エピローグ
静かなフランボワジーの町に起こる不愉快な事件たち。
食料品店の車がこわされたり、農家が火事になったり、肉屋の肉に革ひもが入っていたり、上映直前に映画のフィルムが盗まれたり、トラックが落としたドラム缶が電器店のテレビを壊したり、果樹園の木が切り倒されたり。
犯行を声明のようなふくろうマークが残されているところから、ふくろう団の存在があぶりだされた。
フランボワジーに暮らす3人の小学生女子が、探偵クラブを作って、ふくろう団の悪事をあばこうとする。
3人の少女とは、のっぽでおバカノのフィセル、くいしんぼうのブーロット、そして、頭がよくてクラスで何でも一番のスーパー小学生フランソワーズ。
3人が作った探偵団は、「フランボワジー探偵クラブ」(Framboisy Limiers Club)略して「FLIC」
フィセルは、鳥を見たら何でも「ナイチンゲール」だと思っているし、ブーロットは探偵そっちのけで食欲に忠実。また、フランソワーズは、なぜか肝腎のときに、いつもいない。
さて、このフランボワジーの町には、仮面で正体を隠した正義の女性、ファントメットがいた。
FLICが独自でふくろう団を追い詰めようとして、危険なめにあいそうになると、ファントメットが助けてくれる。
事件の謎を追うのはもちろん面白いのだが、少女たちが遊ぶ、また学校で学ぶ描写が楽しい。ところどころに、「チョークが酸にふれると泡が出ます。この泡は何だと思いますか」とか、「500リットルの水がはいる風呂桶に、1時間に1500リットル出る水道の水を入れるとする。しかし、風呂桶の穴から、1時間800リットルの水が流出するとして、この風呂桶を満たすには何時間かかるだろうか」とか、モリエールの『守銭奴』を読んだり、など学校のシーンが、自分の小中学生時代にタイムスリップさせるリアルさを持っている。
ふくろう団は悪事を働くのだが、その首領の正体は、いかにも悪い奴で、花咲かじいさん的な説得力があった。
ジョルジュ=ショーレはこのファントメットのシリーズを1961年から1年に1冊か2冊のペースで50冊以上書いている。(なぜか90年代は書いていないけど、いったんシリーズを打ち切るつもりだったのが、また再開した、ということか?)アニメにもテレビ番組にもなっていて、フランスでは、まあ知らぬ者のないキャラクターなんだろう。僕に語学の素養があれば、バリバリ読みたいところなのになあ。日本での翻訳は、70年代に5冊だけ。しかも、その本も今やなかなか入手しにくい。ファントメット、危機一髪!
本の画像は、海外版。日本の翻訳は、「四月バキュア」ブログのほうに載せる予定。
今日は親戚の三十五日&四十九日だった。
なんだか、あっさりしたものだな、というのが素直な印象だ。
法事といえば一大イベントだと感じていたのは、自分が幼いときのインパクト(ダメージ?)の思い出によるものなのかもしれない。
なんば紅鶴で、「カセ部」でした。
午後11時過ぎから、明け方午前5時過ぎまで。
今回はゲストを呼ばずに、ひとりで自由にやらせてもらいました。
自由すぎて、最後の2時間は、すっかりワンマンリサイタル状態。
いちおう、カセットテープDJしてるつもりだったのに、ほとんどかけっぱなしで、おおあばれ。
たまには、いいかな。
午後11時過ぎから、明け方午前5時過ぎまで。
今回はゲストを呼ばずに、ひとりで自由にやらせてもらいました。
自由すぎて、最後の2時間は、すっかりワンマンリサイタル状態。
いちおう、カセットテープDJしてるつもりだったのに、ほとんどかけっぱなしで、おおあばれ。
たまには、いいかな。
この9月末で閉館しちゃう高槻セレクトシネマで、今関あきよし監督の「カリーナの林檎~チェルノブイリの森~」を見てきた。
11月には梅田ガーデンシネマでもロードショー公開が予定されているが、その前に、1回だけ先行上映。
チェルノブイリをテーマにした映画だから、怒りに満ちた社会派ドキュメンタリーかと思いきや、ロシアを舞台にした民話の味わいすら覚えるストーリーだった。
少女カリーナは、まわりに毒をまきちらす悪魔の城(チェルノブイリ)に単身おもむいて、悪魔を説得、対決しようとするのだ。
こうしたメルヘン的な結構も、下手な映画なら、それを全面に押し出してヒロイック・ファンタジーに仕立ててしまったり、このテーマでの少女の起用にあざとさを感じさせたりするものだが、さすがに今関監督は違った。
原子力に関するテーマへの真摯な思いはもちろん十分に伝わるのだが、それ以上に、この作品は、りっぱな「今関映画」になっていたのだ。
少女が楽しそうに水遊びをし、果実をとりいれているシーンや、8ミリや写真を使ったシーンなど、たまらない場面の連続で、少女のファッションの可愛さもツボだった。なんだか「美少女日記」を見ているような気分になった。
今は言い訳を用意しておかないと、好きなこともやりにくい、つまらない時代だけど、今回の作品を見て、僕は、作風など全然違うのだが、石井輝男監督と共通するスピリットを感じた。これは何だろう。そんなこと、今まで考えたこともなかったのに。
劇場には今関あきよし監督と、三留まゆみさんがゲストで来られており、上映終了後にトークもあった。
いい映画だったので、梅田で上映される際には、また見に行くことになりそうだ。
(追記)
上映前、ロビーで開場を待っていたら、いきなり今関監督が僕のところに来て、「あいかわらずの格好ですね!」と挨拶されたのには驚いた!
http://kalina-movie.com/top.html
映画が終わり、今関監督や三留まゆみさん、駆けつけた石田アキラ監督などとしばらくおしゃべりしてから、12月に紅鶴で開催の「10minutes映画祭」に出品する作品を劇場前で撮影した。
主演は、ちやじ。
タイトルは、ちやじには「ザ・デジタル」と、近くのポスターからひろった単語を言ってもらったが、変更する可能性大。
帰りに梅田の阪急百貨店で、ブライスのチャリティ・オークション展示。
百貨店に入っている各店がそれぞれ自分の店のファッションをブライスにまとわせている。
イングス館ではキッズ・ブランドの展示が。
ぱっと見たときにはシャーリー・テンプルのが可愛いのか、と思ったが、そこは面白いもので、ネット画像や写真で見るのと、実物を見るのとでは、ずいぶんと違っていた。
実際に婦人服売り場で販売されているファッションを着ているせいか、全体におとなしい印象だったが、シャーリー・テンプルは逆に過剰な感じだったかな。
http://www.hankyu-dept.jp/honten/charity_blythe/index.html
11月には梅田ガーデンシネマでもロードショー公開が予定されているが、その前に、1回だけ先行上映。
チェルノブイリをテーマにした映画だから、怒りに満ちた社会派ドキュメンタリーかと思いきや、ロシアを舞台にした民話の味わいすら覚えるストーリーだった。
少女カリーナは、まわりに毒をまきちらす悪魔の城(チェルノブイリ)に単身おもむいて、悪魔を説得、対決しようとするのだ。
こうしたメルヘン的な結構も、下手な映画なら、それを全面に押し出してヒロイック・ファンタジーに仕立ててしまったり、このテーマでの少女の起用にあざとさを感じさせたりするものだが、さすがに今関監督は違った。
原子力に関するテーマへの真摯な思いはもちろん十分に伝わるのだが、それ以上に、この作品は、りっぱな「今関映画」になっていたのだ。
少女が楽しそうに水遊びをし、果実をとりいれているシーンや、8ミリや写真を使ったシーンなど、たまらない場面の連続で、少女のファッションの可愛さもツボだった。なんだか「美少女日記」を見ているような気分になった。
今は言い訳を用意しておかないと、好きなこともやりにくい、つまらない時代だけど、今回の作品を見て、僕は、作風など全然違うのだが、石井輝男監督と共通するスピリットを感じた。これは何だろう。そんなこと、今まで考えたこともなかったのに。
劇場には今関あきよし監督と、三留まゆみさんがゲストで来られており、上映終了後にトークもあった。
いい映画だったので、梅田で上映される際には、また見に行くことになりそうだ。
(追記)
上映前、ロビーで開場を待っていたら、いきなり今関監督が僕のところに来て、「あいかわらずの格好ですね!」と挨拶されたのには驚いた!
http://kalina-movie.com/top.html
映画が終わり、今関監督や三留まゆみさん、駆けつけた石田アキラ監督などとしばらくおしゃべりしてから、12月に紅鶴で開催の「10minutes映画祭」に出品する作品を劇場前で撮影した。
主演は、ちやじ。
タイトルは、ちやじには「ザ・デジタル」と、近くのポスターからひろった単語を言ってもらったが、変更する可能性大。
帰りに梅田の阪急百貨店で、ブライスのチャリティ・オークション展示。
百貨店に入っている各店がそれぞれ自分の店のファッションをブライスにまとわせている。
イングス館ではキッズ・ブランドの展示が。
ぱっと見たときにはシャーリー・テンプルのが可愛いのか、と思ったが、そこは面白いもので、ネット画像や写真で見るのと、実物を見るのとでは、ずいぶんと違っていた。
実際に婦人服売り場で販売されているファッションを着ているせいか、全体におとなしい印象だったが、シャーリー・テンプルは逆に過剰な感じだったかな。
http://www.hankyu-dept.jp/honten/charity_blythe/index.html
岩合光昭写真展「ねこ」@大丸心斎橋イベントホール
2011年9月16日 ペット
大丸心斎橋店で、岩合光昭写真展「ねこ」を、
見に行こうとしたが、あまりの人の多さに、入場を断念した。
しかし、販売コーナーや、一般の人から募集した猫の膨大な写真は見ることができて、それだけでもかなり猫好きにはたまらない催しになっていた。
猫は、ただ猫であるというだけで、可愛くて癒されるのは、いったい、いかなる要素によるものなのだろうか。
同じ日に、サンリオギャラリーの前に、ベタ~っと、たれぱんだみたいにべったりしていて、引っ張っても自分からは動こうとしない犬がいた。
この犬の可愛さは、その仕草が可愛いのだ、とはっきりわかるわけだが、猫は、何をしていても可愛いのだ。
でも、僕がすきなのは、猫よりも、野良猫なのだ。
飼い猫の何が悪いのかというと、それは飼い主に大半の責任があるわけだが、まるで、犬みたいに、服を着せてもらったり、鍋のなかに寝かせたり、というような、人間の手が加わった状態で可愛さを演出されると、たちまちに醒めてしまうのだ。
まあ、どうでもいいことだ。
どうでもいいことに、つい、のめりこんでしまう。
見に行こうとしたが、あまりの人の多さに、入場を断念した。
しかし、販売コーナーや、一般の人から募集した猫の膨大な写真は見ることができて、それだけでもかなり猫好きにはたまらない催しになっていた。
猫は、ただ猫であるというだけで、可愛くて癒されるのは、いったい、いかなる要素によるものなのだろうか。
同じ日に、サンリオギャラリーの前に、ベタ~っと、たれぱんだみたいにべったりしていて、引っ張っても自分からは動こうとしない犬がいた。
この犬の可愛さは、その仕草が可愛いのだ、とはっきりわかるわけだが、猫は、何をしていても可愛いのだ。
でも、僕がすきなのは、猫よりも、野良猫なのだ。
飼い猫の何が悪いのかというと、それは飼い主に大半の責任があるわけだが、まるで、犬みたいに、服を着せてもらったり、鍋のなかに寝かせたり、というような、人間の手が加わった状態で可愛さを演出されると、たちまちに醒めてしまうのだ。
まあ、どうでもいいことだ。
どうでもいいことに、つい、のめりこんでしまう。
吉増剛造のエッセイ&対談集『静かなアメリカ』を読んだ。2009年。
内容がぎっしりと充実しているうえに、守備範囲の広さにも驚かされた。
お気に入りのフレーズを何度も反復して使用してくれているおかげで、それぞれの引用句などの滋味も伝わってくるような気がした。
詩にみられるような、読者に覚悟を強いるような文章ではなかったので、読みやすくもあり、謙遜を感じる部分が味わえるのは、違った意味で楽しかった。
以下、目次。
対話 静かなアメリカ (堀内正規とともに)
啄木ローマ字日記の古畳―アイオワにて
ニューヨークで中也の手紙を考えていた
赤馬、静かに(be quiet please)アメリカ
パウル・クレーの赤い火の道(大きく弧を描く坂道。…)―「日記」を読みつゝ二〇〇一年九月十三~二十三日、台湾で
ひとり倒るる―芥川龍之介
東京の詩人は芥川龍之介しかいない
吉本隆明ノート―『日時計』
鶴の言葉―海を掬い尽せ
海を掬い尽せ―高銀氏に
妖精言語ハングルと「春遊び」
南方熊楠の庭
オータ・ショーゴさんが教えてくれた、中也の「飴売爺々と、仲よしになり」は、戦後の「コールタール」そして、おもい、しじま(蹙)のなみの舟だった、…
キーツからベケットへ
石川九楊氏の制作の脇の隠された瞳の巣のようなところから氏の書を見詰めていたことがあった
対話 筆蝕が切り開く宇宙 (石川九楊とともに)
おそらくまだ誰もしたことがないような映画作りの軌跡=奇蹟を、吉田喜重監督は辿っている、
アイルランド、刹那の眼―吉田文憲さんに
対話 世界のみずみずしい凹み、詩の働く場所 (大岡信とともに)
「ごろごろ」という名ノ詩篇を書いた
詩(シ)ノ汐(シオノ)-穴(アナ)
棘が人生の小川をぎっしりと流れている
「光の棘」の感触伝えた人―島尾ミホさん
マヤさんの八月が逝った
萩原朔太郎は、古い泉(出水、…)で、きっと、ある、
対話 ベンヤミンという〈経験〉をめぐって (多木浩二とともに)
デクノボー
四畳半
坂部恵氏の思考の道の傍(かたわら、…)に
鏡花フィルム
「アメリカ文学会」にて。二〇〇八年十二月十三日、慶應義塾大学三田、―。
天上の傷―Nicolaに
声にならない声の刺青『おぱらぱん』
対話 言葉の湯気に耳そばだてて (唐十郎とともに)
ストラスブール紀行―唐十郎さんとの出逢い
ガンジス河デ、横田基地ハ、アッタノデハ、ナカッタノカ、…唐十郎さんに
あとがき
初出紙誌一覧
内容がぎっしりと充実しているうえに、守備範囲の広さにも驚かされた。
お気に入りのフレーズを何度も反復して使用してくれているおかげで、それぞれの引用句などの滋味も伝わってくるような気がした。
詩にみられるような、読者に覚悟を強いるような文章ではなかったので、読みやすくもあり、謙遜を感じる部分が味わえるのは、違った意味で楽しかった。
以下、目次。
対話 静かなアメリカ (堀内正規とともに)
啄木ローマ字日記の古畳―アイオワにて
ニューヨークで中也の手紙を考えていた
赤馬、静かに(be quiet please)アメリカ
パウル・クレーの赤い火の道(大きく弧を描く坂道。…)―「日記」を読みつゝ二〇〇一年九月十三~二十三日、台湾で
ひとり倒るる―芥川龍之介
東京の詩人は芥川龍之介しかいない
吉本隆明ノート―『日時計』
鶴の言葉―海を掬い尽せ
海を掬い尽せ―高銀氏に
妖精言語ハングルと「春遊び」
南方熊楠の庭
オータ・ショーゴさんが教えてくれた、中也の「飴売爺々と、仲よしになり」は、戦後の「コールタール」そして、おもい、しじま(蹙)のなみの舟だった、…
キーツからベケットへ
石川九楊氏の制作の脇の隠された瞳の巣のようなところから氏の書を見詰めていたことがあった
対話 筆蝕が切り開く宇宙 (石川九楊とともに)
おそらくまだ誰もしたことがないような映画作りの軌跡=奇蹟を、吉田喜重監督は辿っている、
アイルランド、刹那の眼―吉田文憲さんに
対話 世界のみずみずしい凹み、詩の働く場所 (大岡信とともに)
「ごろごろ」という名ノ詩篇を書いた
詩(シ)ノ汐(シオノ)-穴(アナ)
棘が人生の小川をぎっしりと流れている
「光の棘」の感触伝えた人―島尾ミホさん
マヤさんの八月が逝った
萩原朔太郎は、古い泉(出水、…)で、きっと、ある、
対話 ベンヤミンという〈経験〉をめぐって (多木浩二とともに)
デクノボー
四畳半
坂部恵氏の思考の道の傍(かたわら、…)に
鏡花フィルム
「アメリカ文学会」にて。二〇〇八年十二月十三日、慶應義塾大学三田、―。
天上の傷―Nicolaに
声にならない声の刺青『おぱらぱん』
対話 言葉の湯気に耳そばだてて (唐十郎とともに)
ストラスブール紀行―唐十郎さんとの出逢い
ガンジス河デ、横田基地ハ、アッタノデハ、ナカッタノカ、…唐十郎さんに
あとがき
初出紙誌一覧