『神仏のかたち』

2012年12月12日 読書
『神仏のかたち』
梅原猛「神と仏」対論集第1巻『神仏のかたち』を読んだ。
以下、目次

1、神となる、仏となる-日本人の「あの世」観
 山折哲雄

 二つの記憶-「梅原猛」という人
 『思想の科学』を越えて-「笑い」と「仏像」
 時代の怨念-『隠された十字架』『水底の歌』
 怨霊史観-タタリは鎮められたか
 アイヌの発見-日向神話の真実
 「あの世」の問題-二度死んだ?
 ヤクザな血-「センター設立」と戦う
 再びアイヌ、そして沖縄-縄魂弥才から縄魂弥魂へ
 再び弥生-長江文明
 縄魂弥魂-天皇の田植え、皇后の養蚕
 「あの世」観、往復の思想-「仏」になろう

2、「円空」霊木化現-神仏を生む樹
 長谷川公茂

 なぜ円空か-行基、泰澄…白山信仰
 まつばり子-私生児・円空
 円空初期像-神像から始まる
 修験・円空-修行、作歌・作仏
 恐山へ-鎮魂の呪師・円空
 十一面観音・来迎観音-水の神、海の神
 鉈薬師、具象と抽象-円空曼陀羅
 護法神、「女人仏」-母の供養
 弥勒信仰-円空入定
 円空と木喰-微笑の中の怒り

3、奥山の動物は神-賢治の宇宙
 河合雅雄
 
 病弱な子供時代-夢は元気に駆けて
 「卒論」を楽しむ-ウサギと“時”
 梅原哲学の特殊性-フィールドワーク
 サルが見ている-人間が好き、サルが好き
 『少年動物誌』-河合雅雄の文学
 我輩はムツゴロウである-平和と“性”と戦争
 宮沢賢治-動物・人間・自然
 賢治の動物-カモシカが登場しないわけ
 『なめとこ山の熊』-環境の思想

印象的だった発言を引用しておこう。
梅原:本当は著書を残す奴は二流なんや。僕はもう初めから二流だと思ってる。一番偉い人は残さんのや。行動が立派だから。僕は行動にやましいところがあるから、物を書いているんだ。
釈迦にしても、孔子にしても、イエス・キリストにしても、ソクラテスにしても、自らはものを書いていない。

河合:ローレンツが面白いことを言ってるんですよ。人間世界の平和というものは、異星人からの攻撃によってしかもたらされないやろうと。その時初めて人類が皆、多分一つになると。でなかったら内輪争いばっかり。今もそうですね日本人は戦争体験もしてきたわけですけど、まだ戦争の本当の恐ろしさを自覚していない。

このくだりは、手塚治虫の漫画とか、映画「アイアン・スカイ」でも描かれるとおり。

『砂漠と鼠とあんかけ蕎麦 神さまについての話』
山折哲雄と五味太郎の対談を収めた『砂漠と鼠とあんかけ蕎麦 神さまについての話』を読んだ。
以下、目次

宗教/近代/砂漠/自覚/祟り/記号/戦略/無常/共存/海/風土/湿度/理解/零/呼吸/間/黄金律/無原則/円環/鼠/闇/交信/中断/一神教/記録/隠/血/支配/原型/死/葬/覚悟/輪廻/生活/我/散歩/対話/多聞/距離/而…

タイトルの由来は、対談中に出てきた、一神教を生んだ「砂漠」、「鼠」はル・クレジオの『調書』から、恐怖ににげまどい命乞いする鼠に人間を見いだした、というくだり。あとの「あんかけ蕎麦」は、山折氏が蕎麦屋で食べたメニューで、話の中身には無関係。
本のなかで、印象的だった文章を引用しておこう。
山折:本来の日本の神道は、「教祖、教義、儀礼、伝道」という四要素を持っていなかった。そういうものを持たないときの神道というのは素晴らしい。

山折:「世の中全体、永遠なるものは一つもない」「形あるものは必ず滅する」「人は必ず死ぬ」。これを僕は無常の三原則だと言っているんです。

山折:21世紀は夏目漱石の時代から宮沢賢治の文学の時代へと移る、今、境目にきているかなという感じですね。

山折:日本の代表的な宗教家は、海によって精神的に成長している。

山折:朝はデカルトの時間、午前はイエスの時間、午後はブッダの時間、夜は臨終の時間

『乙女の密告』

2012年12月10日 読書
『乙女の密告』
赤染晶子の『乙女の密告』を読んだ。
芥川賞。ふむ。芥川賞もなんだか気さくなものになったような気がする。
学園もの、と言っていんだろうか。アンネの日記の朗読コンテストと、教授と女子学生の噂とか。
きわめて学校の中で起こりそうな物語だけに、こういう物語世界にあまり接することなく過ごしてしまった怠惰な自らの学園生活が悔やまれる。
いったん卒業してしまうと、学生時代のことは忘れてしまいがちだが、現代でも、学校の中では一種止まった時間が流れていて、こういう古色蒼然たる雰囲気は、学校の中ではじゅうぶんありうるのだろう。僕はつい先日まで女子学園で勤務していた経験上、大正時代からの少女小説の世界とほとんど変わらない不思議な時空が女子学園には流れているのを実感している。
そして、一般の小市民や、この作品では「乙女」が噂や、妬みや、密告、といった、どうしようもなく醜い世界の居心地のよさに負けて、ほうっておけばその場所に安住してしまうのを、救おうとするのが、外国人の教授だ、というのも思わせぶりだ。
面白い!
午後2時からアリオ八尾でハッピータイム祭。
ポップコーン
1.ママがサンタにキッスした
2.かわいいひとよ
3.小さな世界

Yuican.CY
唯ちゃんのダンス。ダンサー2人とともに。

大阪春夏秋冬
1.ずっとそばに
2.学園天国
3.ハルウタ
4.みんなでイエス
「ずっとそばに」は万葉シャオニャン時代の歌。

ミルキーハット
1.ウィンターラブ
2.ダンデライオン
3.はじまりの一歩
4.ハッピーメリークリスマス
「ウィンターラブ」は昨冬の、「ハッピーメリークリスマス」は今冬のアリオ八尾のイメージソング。

午後4時30分から、あべのHOOPでDream5のライブ。
1.クレイジーゴナクレイジー
2.シェキメキ
3.ドレミファソライロ
4.寒い夜だから
5.Come on

午後7時15分から、新梅田シティのドイツクリスマスマーケットで、JK21のステージ。
1.ア・イ・シ・テ
2.GO & GO
3.天使と悪魔
4.涙目ピースサイン
5.ア・イ・シ・テ
ソーセージや甘いお菓子食べて、寒さをしのぐ。


タワーレコード難波店で、高杉みなみとOSAKA BB WAVEのライブ。
高杉みなみ
1、南風
2、世界に感謝MAX
OSAKA BB WAVE
1、We are
2、ソラテレ

アリオ鳳でDream5のライブ
1、シェキメキ
2、レディゴー
3、ドレミファソライロ
4、寒い夜だから
5、Come on

うめだ阪急で「世界にひとつだけのブライス」
各店舗のファッションを身に纏うブライス。
キッズブランドの圧倒的な可愛さに、こんなにも違うものかと再認識する。

阪急うめだギャラリーで名和晃平の個展「TRANS」
次のようなカテゴリーによる作品を集めてあった。
括弧内は、適当な説明。

DIRECTION(15度の角度)
TRANS(3Dデジタルモニタリング)
VILLUS(灰汁への膨張)
BEADS(ビーズ細胞)
VEIL(ベールで隠れないもの)
SWELL(ふくれてる)
MANIFOLD(不定形の多様体)

創作現場の映像もあった。
形は生きている。
なんば紅鶴で、10minutes文化祭。
不眠、
マジカルエミちゃん、
うてなゆき、
大阪瞳、
丼野M美、
野中ひゆ

ひゆちゃんの特殊メイク料理
マジカルエミちゃんの将棋(邪王院弘との熱戦!邪王院は幻の反則勝ちの局面もあったが、最終的にはマジカルエミちゃんの勝利)
不眠さんのライティングパフォーマンス
丼野M美の無料サブカルフリーマーケット
10minutesアイドルをネタにした同人誌は、うてなゆきがギリギリまで作っていて、遅れて到着。ギリギリ、遅れる、というのが、きわめて同人誌的で面白い!
などなど。

『キモメン探偵、謎を解く 限界アイドル危機一髪』
鯨統一郎の『キモメン探偵、謎を解く 限界アイドル危機一髪』を読んだ。
アイドルが、所属する社長殺しの容疑者として逮捕された。
アイドルオタクたちが、アイドルを救うため、真犯人を探す。
手掛かりは、死体のまわりに並べられたウサギと、ダイイングメッセージ「天」の意味。
以下、目次

キモメンって誰ですか?
社長を殺したのは誰ですか?
容疑を晴らせるのは誰ですか?
動機があるのは誰ですか?
死刑になるのは誰ですか?
真犯人は誰ですか?

『ファイナル・オペラ』を読んだあとでは、そのスカスカぶりが一段ときわだつ。この1冊分の読み応えと、『ファイナル・オペラ』の1ページ分の読み応えが、ほぼ同じくらい、かな。まあ、鯨統一郎の場合は、もはや新作にあまり期待してなくて、たまに「お!」と思う一文があればよしとしてしまうところがある。

『ファイナル・オペラ』
今日は、仕事明けで健康診断。
以前よりも視力がよくなっていた。

山田正紀の『ファイナル・オペラ』を読んだ。
黙忌一郎のオペラシリーズ、『ミステリ・オペラ』は未読だが、『マヂック・オペラ』は読んでいる。未読なのは、面白いに決まっている本なので、後にとっているのである。
冒頭、こんな独白があって、いきなり不安になる。
「どうかぼくの言葉を、記憶を信じないで欲しい。どうかどうか疑って欲しい」
これって、新本格以降、よくある、記憶の欠落というか、見ているのに見えていない、精神というか神経の罠なんじゃないのか、それなら、もうすっかり食傷している、と思って、読み進めた。
ところが、なんの、なんの。
こりゃ、今年読んだ日本のミステリーのなかで、文句なしにトップだ。

以下、目次。

前場 逆神
中入り 『隅田川』
後場 『長柄橋』
終の段

ついでに、途中までの登場人物表。
明比 花科(あさひな・はなしな)…ぼく。明比家の三男
   杜若(とじゃく)…血の気の多い長兄
   芒穂(のぎほ)…頭脳明晰な次兄
   櫻珞(ようらく)…同い年の私生児
   降雪(こうせつ)…皇国史観の父
   俊徳(としのり)…男色研究家の祖父
燦水(さんずい)…いたはずの男児?
青磁 環(せいじ たまき)…降雪の同僚である淳三の一人娘
枢 冬鼠(くるる とうざん)…叔父。降雪の弟
梅波 三郎(うめなみ さぶろう)…異能の能役者
筐 爛漫(かたみ らんまん)…艶やかな妖女
山岸 卓二(やまぎし たくじ)…特高

黙忌一郎の「検閲図書館」については、作中、こんなことを言われる。
「じつは『長良神社』は古代より我が『検閲図書館』と浅からぬ因縁があったようです。どちらも国家権力を監視、浄化する役職を授かっていた。ぼくはここ」黙忌一郎は頭を人さし指で突いて「記憶力と洞察力で…あなたがた明比一族は『物狂い』の特殊能力で」


本作で問題になる秘能「長柄橋」というのは、どんな能かと、いうと、これも作中にこうある。かなり話が進んでからの言い方になるが、
もちろん『長柄橋』は母親・花御前が子供・梅若丸の無念を晴らすために仏道に帰依し得度しようとする人買い・信夫藤太をそれにもかかわらず殺害しようとする-そしてそのために本来、仏教界に属していない仁王の力を籍りて念仏会の結界を突破する-物語ではあるが、その裏側に子供を橋の人柱に捧げる『長柄の橋』の物語が秘められているのはまぎれもない事実なのだ。


長柄橋の人柱の話、というのは、南方熊楠からの孫引きになるが、和漢三才図会に記されているらしい。大阪である。
この能は、衆人環視のなかでの殺人が描かれ、それが実際に起こるわけだが、本作の謎は、それだけではない。
輪廻転生する人の魂が変化したものだという言い伝えがあるアオムラサキ
アオムラサキを国蝶に指定するのを阻む謎
桜紙に口紅で書かれた「このなかにこどもあやめしひとがいる」
鏡に書かれた「1/2 + 1/2 + 1/2 = 1」の謎
阿吽入れ替わっていた仁王像
ううむ。まだまだあるぞ。
物語の後半は壮大な謎解きがえんえんと続く、といってもいい内容だし、その謎解きにしてからが、重層する謎解きになっている。
また、物語のかなり早い段階で行われる推理合戦など、虚無への供物に匹敵するようなシーンも、テーマ含めて、存在している。
僕は、この『ファイナル・オペラ』こそ、平成の『虚無への供物』なんじゃないか、と思う。新本格の人々が『虚無への供物』にあこがれて、似たような大長編を書いてみたりしたがとうとう到達できなかった境地に、この『ファイナル・オペラ』は達している、と思うのだ。

(おまけ)
ギリシア棺 + どろろ + 虚無への供物 + 涼宮ハルヒ = ファイナルオペラ
アートスペース亜蛮人で「紗希ちゃんと遊ぼう。」
舞踏家の森田紗希をテーマにして作品を寄せたグループ展。
1、2日にはダンスパフォーマンスもあったのだが、時間の都合がつかず、見にこれなかった。
いろんな作品があったが、未見の森田紗希のダンスはきっとこれら作品を遥かに越えているんじゃないか、と思わせるような、オマージュぶりだった。

アリオ八尾で大阪春夏秋冬のソロライブ。
1.イッツオーライト
2.ハルウタ
3.学園天国
4.ワンタイム
5.みんなでイエス
学園天国のときの自己紹介は、各メンバーの指サイン。
自己紹介でどれだけ時間をとったように見えても、ぴったし歌いだしで終わるのは、神業。
HICK ルリ13歳の旅、ボス その男シヴァージ
HICK ルリ13歳の旅、ボス その男シヴァージ
デリック・マルティーニ監督の「HICK ルリ13歳の旅」を見た。2011年。
クロエ・グレース・モレッツ主演。
ひとくちで言うと、田舎の少女が最悪のダメ男と逃避行するが、その男と離れて、都会に出て行く、というような話。
このダメ男が、とことんダメな奴で、どうしてそんな男と一緒に少女が行動を共にしなくちゃならないのか、理解に苦しむが、田舎から出るためには、それしかなかったのだと思うと、これはもう悲劇である。
それにしても、いくらなんでも飲み物にあんなに尿を入れたら、飲めばわかりそうなものだ。

シャンカール監督の「ボス その男シヴァージ」を見た。2007年。
ラジニカーント主演。映画の冒頭で、「スーパースター」と紹介されて、ああ、これから楽しいインド映画を見るんだ、とワクワクする。
学費無料の大学、医療費ゼロの病院を建てようとした大金持ちのラジニカーント。高い学費と治療費で裕福な生活を送っていた男が、それを阻止する。
挙げ句の果てには、ラジニカーントは大学も病院も作れず、1枚のコイン以外、一文無しになってしまう。
ここまでが前半。
後半は、ラジニカーントが強引に逆襲する話。
アクション、ダンス、もう、てんこもり。
復讐の話に、恋愛の要素をいれて息抜きするのも絶妙。
この映画の後に作られた「ロボット」は、この「ボス」以上に興行記録を伸ばしたそうだが、完全版を見ていないせいか、遥かにこの「ボス」のほうが面白く思えた。
プリペアド・トレイン-失われた沈黙を求めて 音を巡る。ケージ音楽小旅行~円盤のレコード寄席~動物編~@蒼月書房
プリペアド・トレイン-失われた沈黙を求めて 音を巡る。ケージ音楽小旅行~円盤のレコード寄席~動物編~@蒼月書房
鉄道芸術祭Vol.2やなぎみわプロデュース「駅の劇場」イベント、
「プリペアド・トレイン-失われた沈黙を求めて 音を巡る。ケージ音楽小旅行」
京阪電車の中之島駅出発の貸切電車で、樟葉駅に行き、なにわ橋駅に戻ってくる音楽の旅。
パート1 中之島駅ホームにて
John Cage作曲/FOUR
John Cage作曲/EIGHT
John Cage作曲/ARIA2
(荒本康代:トランペット、秋山はるか:トロンボーン、今村達紀:チューバ、武田佳恵:ホルン、大川内豊:フルート、酒井弘:クラリネット、斉藤哲:バスーン、山本みちる:オーボエ、四方暢夫:鳴り物)

電車が動きはじめると、車両のいろんな場所で音楽的事件が勃発する。
じっと坐って楽しむもよし、各車両を渡り歩くもよし。

パート2 往路にて(中之島~樟葉)
案内嬢合唱団/「兵隊さんの汽車」「花嫁」
フォルマント兄弟/「夢のワルツ」
ニシジマアツシ/サウンドパフォーマンス
重森三果/新内演奏
森美和子/篠笛演奏
功刀武弘/アイリッシュフィドル演奏
古味寛康/John Cage作曲:cComposed Improvisations 他
北村千絵/えいごのうた+こえの即興
中川裕貴/サウンドパフォーマンス
福森ちえみ/ダンス

引込み線にいったん入って、なにわ橋駅に向かう。電車の扉は一度も開かずに往復する。

パート3 復路にて(樟葉~なにわ橋)
John Cage作曲/Winter Music
John Cage作曲/One3=4’33"(0’00")+∮
停車駅の環境音録音(吹田哲二郎、奥田ケン、中川裕貴)

駅のスタンプラリーもあり、音楽ファンにも鉄道ファンにも目配せがきいていた。
なにわ橋で下車後、アートエリアB1でアフタートークが約1時間。
やなぎみわ、フォルマント兄弟の他に、細川周平も加わってのトーク。
イベントはすごく楽しかった。京阪電車の協力あってはじめて実現できた、なかなかないイベントなのだろうが、この楽しさは、なんらかの形で継続していけば、面白いんじゃないか、と思った。

蒼月書房で「円盤のレコード寄席~動物編~」
動物に関するレコードを紹介するイベント。
案内人は円盤の田口史人、幕間ライブはJon(犬)
昼間はジョン(ケージ)、夜はジョン(犬)
田口氏は、まずパンダのレコードを大挙紹介。
パンダの声がせつなく、動物的本能むきだしなのが面白い。
ライブでJon(犬)は足踏みオルガンで、独自の世界を紡ぎ出す。
いつ聴いても、いいね!
後半のレコード紹介は、エリマキトカゲやらウーパールーパーやら。
あんまり面白かったので、円盤が持ってきたCDRとか買ってしまった。
テーマは「ヘタクソ」
帰って聴いてみたら、そのままイベントできるような内容だった。

その夜の侍、ROVOリリースツアー@梅田シャングリラ
その夜の侍、ROVOリリースツアー@梅田シャングリラ
映画の日。
赤堀雅秋監督の「その夜の侍」を見た。堺雅人、山田孝之。
ネタバレするので、要注意。
妻をひき逃げで殺された夫が、ひき逃げ犯に殺害予告。
このひきにげ犯、というのが、とことんどうしようもない奴で、殺されたってかまわないようなキャラクターなのだが、ついに夫はひきにげ犯に向かって言い放つ。君には無関係な話だった、と。
この映画を見て、最初に感じたのは、食べ物、あるいは食べるということが、象徴的に使われているな、ということだった。
夫は身体を気遣う妻によって、プリンを食べることを禁じられていたが、夫は目を盗んではプリンを食べていた。
妻による「プリン食べちゃだめよ」というメッセージを留守番電話に残したまま、妻は死に、夫は何度もそのメッセージを再生して、食べることの忠告を反復して受け続ける。そして、夫はやはりプリンを食べ続けるのだ。
一方、ひきにげ犯のほうは、コンビニで出来合いの食事をとる日々を続けており、最終的に妻を殺された夫によって、ストーキングで入手した食生活のリストを読み上げられて、「ここに君の人生すべてがある!」「君はなんとなく生きているよ!」と暴露されるのだ。現に、ひきにげ犯は便秘らしく、トイレに行っても「屁しか出ねえ」と口癖のように言うシーンが繰り返される。ひきにげ犯にとっては食べること(=生きること)は無意味なことで、それが証拠に、警備員の女に命じて作らせた食事を、そんなこと頼んだのも忘れて、出て行ってしまうのだ。
ラストシーンは、ひきにげ犯はやはり無意味な生を生きることを続け、夫は留守番電話のメッセージを消して、プリンを食べずにすます選択をして、生きはじめるのである。
てなことを考えてみたが、今、映画を振り返ってみて、強烈に思い起こされるのは、先ほども書いた、夫がひきにげ犯に向かって言う「君には関係のないことだった」という言葉だ。ひきにげ犯は人間のクズみたいな奴で、友人でも平気で半殺しのめにあわす。だがしかし、その被害者たちは、ひきにげ犯に対して復讐しようとは思いつきもせず、むしろ、どんな形ででもつながっていたい、とさえ思わせる態度で、関係を持ち続ける。被害者がぶちきれるのは、自分が殺されかけたことについてではなく、妹を殺されたこと、妻を殺されたこと、によってだ。だからこそ、被害者(遺族)たる夫は、ひきにげ犯(加害者)に言うのだ。「君にはまったく関係がなかった」と。当事者本人は、加害者を最初から許している。許さないでいるのは、遺族つまり、本人以外の人間だけなのだ。その怒りがどこまで有効なのか、というと、夫が最後に思い知るように、まったく関係がない、無効な怒りなのである。加害者がいかに人間のクズであろうと、反省していようと、被害者本人の怒りでないのであるから、関係がないのである。
と、いうようなことを考えてみた。推敲なし。

梅田シャングリラでROVO「PHASE」リリースツアー。
Harp On Mouth Sextet、オオルタイチ、ROVO
3組ともに凄かった。
なんとなく、最前列でライブを見ることになったが、楽しかった。
ジャーマン・ロックみたいな音楽も超好み。
電球を使った照明は、前回のライブでも見て、なるほど、繊細な効果をあげているな、と思った。が、次は違うものを見たい。
ブルーノ以降の流れ。
祇園精舎の鐘の声。
(前回までのあらすじ)
かわいそうだよヘルメス3は。
サバを読んだがバレて~ら。(適当)

さて、つづき。

第20章 ジョルダーノ・ブルーノとトンマーゾ・カンパネッラ

ブルーノを継ぐ者
「カンパネッラは、その人生の第一幕において、ブルーノの足跡を忠実に辿っていた。そのことをわたしは確信しているしかしそれにもかかわらず、彼はブルーノの運命を回避することに成功した。それは彼が一種の世渡りの知恵、つまりある種の狡知を備えていたからだが、まさにこうした世間知がブルーノには全く欠如していたのだった」

カラブリア反乱
「とはいえ事実として、このカラブリア反乱は、ブルーノの改革計画を実地に行動に移したもののように思えるのであり、企図と実行の類似性は一目瞭然である」

『太陽の都市』
「カンパネッラの理想都市は、ルネサンス期の宗教的ヘルメティズムという伝統が生み出した、非常に豊かな、またさまざまな形態をとる文化的営為の中に位置づけられるべきものである。それは確かに、極端に魔術的なタイプの宗教的ヘルメティズムを本質とするものである。しかしまたカンパネッラは、ヘルメス教文献のキリスト教化が非常に一般化していたために、<太陽の都市>の「天然自然な」宗教と法律はキリスト教に近いものだと信ずることもできたのだった。つまりその宗教は、キリスト教の聖餐で完成され得るものであり、キリストを<魔術師>として尊崇するならば、新しい普遍的な宗教と倫理を形成することができるのである。そしてカンパネッラは、世界がまさにこの新しい宗教倫理を待ちわびてしることを確信していたのだった」

教皇のための魔術儀式
「彼は同じ種類の魔術儀式を自身の死の寸前にも行っている。その年1639年にも食が起き、カンパネッラはそれが自分の死を告げるものであることを怖れた。そこでこの『占星術』に描かれた魔術儀式を、自分自身の厄除けのために、サントノレ通りにあったドメニコ会修道院の寄宿室で行ったのだった。
この儀式で演奏された音楽について言えば、これはウォーカーも指摘するように、<食>のために悪い状態に陥った現実の天体の代わりに、人工の、幸運をもたらす天体を造り出すことを目指していたのだろう」

カンパネッラの〈神学大全〉
「本書で研究してきたルネサンス魔術の歴史では、まずフィチーノが、究極的にはヘルメス教に遡行する<魔術>の観念を一般化し、それにピコ・デッラ・ミランドラがカバラを付加補足したのだった。この補足は、カバラに内在する力によって、<魔術>と天使の世界の連続性が再度強化されたことを意味する」

カンパネッラの自然哲学
「ブルーノとカンパネッラは、一つの連続する流れの中で捉えねばならない。われわれが本書で試みてきたこともこの連続性の検証であった。フィチーノはヘルメス教的魔術を復興するに際して、それがキリスト教と両立可能だと弁明し、護符の使用を正当化するためにトマス・アクィナスの権威を援用しようとした。ピコ・デッラ・ミランドラは魔術とカバラが、キリストの神性を証明していると考えた。教皇アレクサンデル六世は、ヴァティカンにエジプト主義のモティーフを山盛りにしたフレスコ画を描かせ、<魔術>の擁護者としての名を残した。こうした傾向の元々の起こりはと言えば、ラクタンティウスがヘルメス・トリスメギストスを教会制度内に受け入れたことにある」

カンパネッラの政治思想
「カンパネッラは、このように、決して一個の自由主義的革命思想家などではなかった。彼が理想とした国家は、かつてのエジプトがそうであったような、絶大な権力を持つ神権国家である。その権力は、科学的魔術によって天上界の感応霊力を十二分に統御するほど絶大であり、それによって住民すべての生命をも統括することになる」

教皇庁との関係
「カンパネッラが一過性のものにせよ、ともかく実際にローマである程度の成功を収めかけたということは、似たような試みの結果火刑台に果てたジョルダーノ・ブルーノの先例を想起すれば、まさに驚くべきことである。ブルーノもフランクフルトで全世界を一つの宗教にするための計画を「占星術化」して示し、伝道の使命に燃え、教皇に献呈する予定の自著を携えて、イタリアに帰国したのだった」

フランス王国への接近
「この波瀾万丈のカンパネッラの生涯において、われわれは果たして<太陽の都市>という一つの象徴的観念自体が持ったしぶとい持続力に驚くべきなのか、それともむしろカンパネッラという個人が、この象徴的観念を自在に変容させ、出発点の全面的敗北を名誉ある勝利へと導いてみせたその劇的天界に感嘆するべきなのか、ほとんど決めかねてしまう」

ブルーノとカンパネッラの対比
「カンパネッラとブルーノの人生の共通点が、はっきり右左に分岐していく地点が存在する。カンパネッラは、ブルーノのようにプロテスタントの国々で暮らしたこともなければ、その異端の国々の君主崇拝に参加したこともない」

最後の〈魔術師〉
「このようにほとんどすべての点で、ブルーノとカンパネッラは、その気質や性格は異なるものの、非常に近い縁戚関係にある二人の人物のように見える。その人生行路は変化やさまざまな運命の違いを伴いつつも、お互いに重なり合い、反復している。彼らは20年の間隔を置いて、共に大いなる力に駆り立てられるようにして、宗教的ヘルメティズムを極端に魔術的な形態に変容させ、その思想を世界の中に解き放つ」

第21章 ヘルメス・トリスメギストスの年代同定以降

ヘルメス文献への死刑宣告
「イザーク・カゾボンが1614年に、ヘルメス文献は、非常に古い時代に生きた一人のエジプト神官の真作ではなく、キリスト生誕後の時代に書かれたものだという年代同定を行った時、それがまさにルネサンスと近代を分かつ分水嶺となったのである」

復古的ヘルメス主義者――ロバート・フラッド
「フラッドは『両宇宙誌』においても、また他の浩瀚な数々の著作においても、この新しい年代同定を完全に無視した。つまり彼は、カゾボンがあたかも全く生まれてもいないかの如くに、宗教的ヘルメティズムの経験世界に生き、この経験世界固有の、太古のエジプト人、ヘルメス・トリスメギストスに対する深甚なる尊崇の念を持ち続けたのである」

復古的ヘルメス主義者――薔薇十字団
「薔薇十字団の構想する世界の全面的改革は、おそらく神秘的かつ魔術的な過程を辿ることになり、ブルーノが歓呼の声と共に迎えた昇り行く魔術的改革の太陽と似たものになるだろう」

復古的ヘルメス主義者――アタナシウス・キルヒャー
「ジョルダーノ・ブルーノのエジプト主義は、神霊的なものであり、革命的なものであった。それはエジプト的-ヘルメス的宗教の完全なる復活を求めるものだったからである。イエズス会士であったキルヒャーのエジプト主義は、確かに悪霊的魔術を厳しく排斥するし、キリスト教を至高のものと位置づけはするものの、そこにおいてはエジプトとエジプトの十字架がキリスト教の背景でふと津の役割を果たしてもいる。この立場の歴史的根拠は、ある意味で、あのヘルメス・トリスメギストスの教会内への侵入という重大な事件であったと言うことができる」

ケンブリッジ・プラトン派とカゾボンによる〈ヘルメス文書〉の年代同定
「よく知られているように、ケンブリッジ・プラトン派として括られているイギリスの思想家たちは、17世紀においても、ルネサンス・プラトニズムの観念と伝統の多くを継承していた。この学派の代表格はヘンリー・モアとラツフ・カドワースである。しかしこの二人は、フラッドやキルヒャーとは違って、<ヘルメス文書>に対するカゾボンの文献批判を知っていたし、またそれを受け入れてもいた。この近代的認識によって、彼らはヘルメス・トリスメギストスをもはや<始源の神学者>と見做すことができなくなった」

第22章 ヘルメス・トリスメギストスとフラッド論争

メルセンヌのルネサンス魔術批判
「われわれは厳密科学の知見が、このわれわれの生きる20世紀に長足の進歩を遂げた現状に目を眩まされて、それがその出発点においていかにひ弱なものだったか、自然現象の唯一の説明方式であることを自負していた魔術的自然観の蔓延に対して、メルセンヌが攻撃を加えた際に身に纏った科学的な鎧兜一式がいかに軽装のものだったか、という事実を忘れてしまいがちである」

フラッドの反撃
「フィチーノ以来、ヘルメティズムは時代思潮の方向をその核心において決定してきた。しかしもはやその支配的な位置を維持することはできなくなった。そして「薔薇十字のヘルメティズム的夢想」を代表とする秘教的な地下集団へと潜行していくことになったのである」

フラッド対ケプラー
「フラッドの数学的操作は、本当は「普遍学」であり、「空しい幾何図形もどき」である。なぜなら彼は数学を「化学」及び「ヘルメス学」と完全に混同してしまっているからである。ケプラーが目指しているのは、「ピュタゴラス教徒たちんぽ設定する目的」ではなく、事物それ自体である」

薔薇十字団の影
「メルセンヌは、ブルーノの哲学体系の背景に「伝道的使命」が隠されていることを見抜いた」

ヘルメティズムと科学革命
「「ヘルメス・トリスメギストス」の統治の時代は、年表的な正確さを伴っている。それが始まったのは、フィチーノが新しく発見された『ヘルメス選集』をラテン語訳した15世紀末である。そしてそれはカゾボンがその文献の誤認を暴露した17世紀初頭に終わる。この両端に挟まれたヘルメスの君臨する時代に、やがて近代科学の抬頭を生むことになる新しい世界観、新しい視座、新しい動機の蠢動が見られるのである」

ジョルダーノ・ブルーノの真実
「ドメニコ・ベルティがブルーノを英雄として祭り上げて以来、ブルーノに対する正しい理解は阻害されてきた。彼の解釈に拠れば、ブルーノはコペルニクスの理論が真実であることを否認するよりは死を選んだ科学的確信の英雄であり、近代科学の殉教者であり、中世的アリストテレス主義の束縛を破って近代世界の到来を告知した先駆者である。通俗的なブルーノ像というものは、いまだに概ねこのベルティのブルーノ観に規定されている。もしわたしがこのブルーノ観の根本的な誤りを最終的に証明できなかったとすれば、本書は全く無駄だったことになる」

ヘルメティズム的法悦としての〈デカルトの夢〉
「ではどうしてデカルトはそれほどまでに、精神を軽蔑し、もしこう言ってよければ、それを怖れたのだろうか。そしてそれを機械論的な宇宙と数学から取りのけるために、それ自体としてのみ自立するような場所に置いたのだろうか。これはあるいは彼の世界、彼が全身全霊で確立しようとする新しい世界像が「ヘルメス・トリスメギストス」との葛藤の裡から誕生したということを意味しているのではないだろうか」

原註
訳注
解説 ルネサンス的均衡における魔術の内化  前野佳彦

『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』2
『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』
つづき。

ジョルダーノ・ブルーノの哲学がどんなものだったのかを本人がまとめた発言がある。火あぶりになる前に、本人がとうとうと、自らの哲学をまくしたてるのが記録として残っているのだ。
以下、そのくだり。本書に載っている。

宇宙は無限である。なぜなら神的な力が無限である以上、有限の世界を生み出すはずはないからである。地球も月や他の惑星同様に、一つの星である。ピュタゴラスもそう述べている。さらに星々はそれが一つの世界であって、その数は無数である。この宇宙の中には普遍的な摂理が存在し、その摂理の恩恵によって、宇宙の中のすべての存在物は生命を吹き込まれ運動している。この宇宙の万物の本性は、神性の、つまり<神>の影ないし<面影>であって、この<神>の本質は言葉で言い表すことも説明することもできない。自分はしかしこの神性の本質的属性が全き<一者>性であることを-神学者たちや偉大なる哲学者たちと同じく-了解している。神性の三つの属性、<力>、<叡智>、<知性>、<愛>と同一のものである。
こうしたことを哲学の見地からではなく信仰の見地から見るならば、叡智つまり<精神>の子は、哲学者たちには<知性>と呼ばれ、神学者たちには<言葉>と呼ばれている。それは人間の肉体の形を取ったのだと信じなけらばならないとされてきた。しかし自分は、いつもこの点には疑いを感じてきた。それは疑問の余地があると思ったので、確信的な信仰を持つには至らなかったのである。神的な聖霊に関しては、自分はピュタゴラス教徒たちと同一の見解を持っている。つまりソロモンが言うように、「<主>の聖霊が大地に充ち満ちている。そしてこれが万物を支え保っているのだ」という見方、あるいはウェルギリウスが、
霊気が裡なるすべてを、その各部に浸透しつつ養い育て、
精神は渾沌たる巨魁を衝き動かす
と述べるその見方を自分も正しいと思っている、と彼は述べた。


さて、前回のつづき。ジョルダーノ・ブルーノ満を持して登場。


第11章 ジョルダーノ・ブルーノ――最初のパリ滞在

前提としての古典的記憶術
「ローマの弁論家たちはある種の記憶法を用いていた。この記憶法については『ヘレンニウスへ』に纏まった記述があり、キケロとクインティリアヌスもそれに言及している。まず一つの建物を選び、その一連の場所を記憶する。次に論題を想起するための影像を作り、それをこの記憶した場所に割り振る。弁論家たちは演説を行う際に、想像の空間の中でこのあらかじめ記憶してある場所を通り過ぎながら、そこに割り振ってある影像を拾い集める」

『イデアの影について』
「魔法使いマーリンのものだとされている叡智の詩の一つは、色々な動物たちにはそれぞれ苦手なことがあるということを謎々の形で述べている。例えば豚はその本性からして空を飛ぶには適していない。それゆえ読者はもしこの眼前の書物にふさわしい力を自分が備えているという自信が持てないなら、読むのはやめるべきだと警告しておこう。この著作の道しるべとして置かれた冒頭のこの詩の雰囲気、つまり神秘めかしながらも大言壮語するこの調子は本論に入ってからも一貫して持続している」

『キルケーの呪文』
「この作品の呪文の典拠は、『イデアの影について』の天上的図像の出所と同じように、コルネリウス・アグリッパの『オカルト哲学について』である」

ブルーノのイギリス訪問と隠された使命
「ブルーノは、イギリスで出版されたこれらの著作のあちこちで、厳しい検閲と監視が当たり前のこの時代、土地の人間ならばまず発言を許されるはずのないことを述べている」

第12章 ジョルダーノ・ブルーノのイギリス滞在――ヘルメス教的改革

オックスフォード大学にて
「(ジョージ・アボットの『誤って正統信仰という名を得た、教皇制度を支持するヒル博士の根拠-根拠薄弱であることを暴露され、目的遂行にはあまりに不十分であることが検討の結果明らかとなった、その姿』からの引用)
彼はやたらに多くの説を並べて見せたが、その中にコペルニクスの意見もあってそれを説き始めた。あの地球は回っており、天界はじっと止まっておるという愚説だ。本当のところ回っておったのはこの男の頭の中身の方だった」

『勝ち誇る野獣の追放』
「ブルーノの『勝ち誇る野獣の追放』(1584年)の基本的なテーマは、エジプト人の魔術的宗教の讃美である。彼らの崇拝の内実は「事物に宿る<神>」の崇拝であったとされる」

ブルーノのエジプト主義
「ジョルダーノ・ブルーノはここで一体何をしているのだろうか。答えは簡単である。彼は、少しばかり無害な魔術に手を染め、その主たる拠り処である『アスクレピウス』の魔術については黙っておくといったフィチーノ流の弱々しい試みを完全に捨て去り、ルネサンス魔術をその異教の源泉へと連れ戻しているのである」
「エジプト人たちの驚嘆すべき魔術的宗教は戻ってくるだろう。彼らの道徳律が今の時代の渾沌に取って代わり、<悲嘆>の予言は成就するだろう。そしてこの現在の暗黒を追放すべきエジプトの光の回帰を告げる天上の徴こそが、コペルニクスの観た太陽なのである」

『宇宙の乙女』
「(ストパイオスの詞華集採録の断簡『宇宙の乙女』より)<悪口する蛇遣い座>、<傲慢な鷲座>、<肉欲のイルカ座>、<短気な馬座>、<情欲の海蛇座>を追い出そう。<大食の鯨座>、<残忍なオリオン座>、<贅沢なエリダヌス座>、<無知蒙昧なゴルゴン座>、<臆病な兎座>をすべて遠のけよう。<貪欲なアルゴー座>、<不節制な酒杯座>、<不正な天秤座>、<鈍重な蟹座>、<欺瞞の山羊座>、これらすべてを胸の奥底に秘めておくことをもうやめよう。」

星座に結びつけられた美徳と悪徳
「天上界を見回してみてもそこに見える48の星座は、醜い動物の姿をした星座、例えばぶざまな奇形の熊つまり大熊座や、牡羊座や牡牛座といった動物の形をした黄道十二宮の星座や、神々の恥ずべき行為を想い起こさせる図像、例えばメルクリウスの盗みを憶えている琴座や、ユピテル自身の私生児であるヘラクレスやペルセウスの姿といったものばかりである」

パリンゲニウスからの影響
「ブルーノが「エジプト的」改革の内実とする道徳的教説は、禁欲的なものではなく、その一部はエピクロス主義的なものである。この道徳観は、おそらくパリンゲニウスのヘルメティズムとエピクロス主義の融合という独創的な試みによって準備されたのであろう。パリンゲニウスもまた、自然主義的-エピクロス的な倫理観を基盤として、修道士や司祭の自然に悖る生活や道徳的頽廃に対する諷刺を展開しているのである」

星座のヘルメス教的改革
「<カシオペア座>が検討の対象になると、他の神々が彼女をどうするか決める前に、いきなり火星が飛び出してきて、カシオペアの性格はスペイン人に非常に似ているから断固天界にその図像を残すべきである、と激しい口調で要求する」

宗教的ヘルメティスト、ブルーノ
「しかし今日ではカトリックになりたくないと望む者は、誰でも懲罰と責め苦を耐え忍ばなければならない。というのも愛ではなく暴力が用いられているからである」

ブルーノ、〈太陽の都市〉、〈ユートピア〉
「いずれにせよブルーノの魔術的ヘルメティズムは、エリザベス朝の半ばカトリックの信条を懐く者たち、不満を感じるインテリゲンツィアたち、また他の密かな不平不満を懐く社会分子に対して、彼らの秘められた願望に対するある種のはけ口を与えたのだった。それは彼らも憎悪していたスペインのカトリシズムが与える騒擾への使嗾とは全く別の解放感だった」


第13章 ジョルダーノ・ブルーノのイギリス滞在――ヘルメス教的哲学

コペルニクス的宇宙と魔術的上昇
「このような男、ブルーノのような男を、オックスフォードの学者たちはどう理解のしようがあっただろうか。いやそもそも誰がこのような人物を理解できるだろうか。魔術師の誇大妄想が、唖然とするほどの激しさで詩的熱狂と融合している。狂人、恋する男、そして詩人が、ジョルダーノ・ブルーノにおけるほど緊密に一体化した例は、いかに空想を逞しくしたとしても思い描くことすらできない」

ヒエログリフとしてのコペルニクス的宇宙
「真相を言ってしまえば、ブルーノにとってコペルニクスの図は一種のヒエログリフ、つまり力強い神的な神秘を背景に秘めたヘルメス教的な封印の一種なのだった」

「ブルーノは、コペルニクスが地球の運動を仮説として呈示した、その「単に数学的」な論証を遥かに越えて、それがヘルメス・トリスメギストスとコルネリウス・アグリッパの主張を実証していると考えた。つまり他の言葉で言うならば、宇宙の生動という魔術的哲学の証左をそこに見たのだった」

無限の宇宙、無数の世界
「ブルーノの言うところに従えば、最初の<叡智の神殿>はエジプト人とカルデア人によって建立された。第二のそれはペルシアの祭司(マギ)とゾロアスターによって、第三のそれはインドの裸形苦行僧たちによって、第四のそれはトラキアにおいてオルフェウスによって、第五のそれはギリシア人、つまりタレース及び他の賢者たちによって、第六のそれはイタリア人、とりわけルクレティウスによって、第七のそれはドイツ人たち、つまりアルベルトゥス・マグヌス、クサーヌス、コペルニクス、そしてパリンゲニウスによってそれぞれ建設された。わたしには、この系譜は、彼のコペルニクス主義の解釈と等質のものに思える。彼がコペルニクス主義を「エジプト主義」の回帰を告げる先駆けとして捉えたように、ルクレティウスの宇宙像もまた彼にとっては、拡張された形でのエジプト的叡智の一種に見えていたのではないだろうか。ブルーノはこの見地からルクレティウスの無限の宇宙と無数の世界の観念を採用し、そしてそれを自身のコペルニクス主義に融合させたのではないだろうか。コペルニクス主義自体、彼の場合にはすでに拡張された形でのヘルメス教的幻視と一体化しているのである」

習合の信奉と衒学の嫌悪
「とはいえしかしブルーノの最大の敵、彼の強迫観念であり悪夢は「文法屋の衒学者ども」であった。このタイプの衒学は、アリストテレス主義的な衒学とも結びつき得る。しかし文法家本来の衒学は、偏狭な哲学体系という姿をとるだけではない。そもそもの哲学的研究そのものを衒学者は軽蔑するのである。彼はラテン文体、単語や言い回しの辞書といった細かなことに注意を集中し、それと引き替えに哲学は捨ててしまう」

宗教的和解の心象画
「(『原因、原理と一者について』)目の見えないモグラのように振る舞う者たちもいるでしょう。彼らは自分の頭上に広々とした天界への眺めが啓けたと感じるやいなや、慌てて土を掘り、地下に潜り込み、そのまま馴染みの暗闇の中にいつまでも居続けようとするのです。また夜鳥に似た者たちもいます。彼らは視力が利かず、東の空に日輪の先駆けである茜色の帯が明け染めるのを見ただけで、慌てて薄暗いねぐらに潜り込むのです」

第14章 ジョルダーノ・ブルーノとカバラ

『天馬ペガソスのカバラ』
「ブルーノの魔術の典拠は元々かなり貧弱なものだったのかもしれない。というのも彼は不思議なほど、アグリッパの独創性のない受け売りの寄せ集めに熱中し、それに頼りきっているからである」

ブルーノの魔術研究
「もし人がヘルメス教的な体験を経ることで、かくも大いなる諸力を獲得できるのならば、どうしてキリストもまた、このような方法によってこそ彼の大いなる力を獲得したのだと考えてはならないのだろうか」

「天然自然」な活用
「ブルーノの見地からして最も本質的なことは、衒学的な知ったかぶりによって神的な自然との交流の手段が損なわれてしまった、その亀裂を癒す手段を発見することである。その手段が、生きた<声>、徴、図像、封印であった。この交流の生きた手段がいつ発見されるか(あるいはある種の神懸り的忘我の境地で、それが内的意識の上に刻印されるか)ということを彼は問題にし続ける。もしそれが可能となるならば、それによって統合された宇宙は心性の内面に反照され、<魔術師>(マグス)は力を獲得してエジプトの神官の如き生活を送り、自然と魔術的な交流に入るのである」

『三○の封印』
「ブルーノの構想の全体の中で、ルネサンス的<魔術師>のそのキリスト教的側面はどうなってしまったのだろうか。それは消えてしまった、というのが答えだろう」

エジプト主義とフリーメイソンの前史
「フリーメイソン前史というテーマが、非常に曖昧模糊とした領域に属するものであることは認めなければならない。ここでは暗闇の中で手探りで進むしかない。そしてその暗闇の中にはさまざまな神秘が待ち受けている。しかしこうした手探り状態において、当時のイギリスで霊的な充足を味わえずにいた人々を心に思い描く時、そうした彼らにとってこそ、このブルーノの「エジプト風の」伝道は、ある種<魔笛>が初めて重苦しい大気の上を軽やかに馳せたかの如き慰めに満ちた暗示を与えたのかもしれない」


第15章 ジョルダーノ・ブルーノ――英雄的狂信家またはエリザベス朝の宮廷人

『英雄的熱狂』
「シドニーへの献辞の中でブルーノは、自分のペトラルカ模倣は、婦人に向けられた愛を詠う通例のそれではなく、魂の知的領域に連関したより高次の詩的営為である、と説明している」

神性に捧げる恋愛詩
「手短に言うなら、『英雄的熱狂』が現実に目指している宗教経験は、ヘルメティズム的な世界認識(グノーシス)だとわたしは思う。それは<魔術師>(マグス)としての人間を描く神秘的な恋愛詩であり、彼が元々神的なものとして創造され、神的な力を備え、この神的な力を備え、この神的な力によって再び神性と合体する途上にあるその過程を描くのである」

〈聖なる愛〉の啓示体験
「16世紀のキリスト教徒はカトリックであれプロテスタントであれ、宗教的ヘルメティズムを熱烈に支持したし、その傾向はブルーノの時代まで続いていた。彼らは宗教の名においてなされる犯罪と戦争の惨禍に疲労困憊し、寛容と統合の道を捜し求めていた」

エリザベス女王崇拝への参加
「『英雄的熱狂』はまた、騎士道精神との関わりにおける女王崇拝を反映したものである。騎士道は、エリザベス女王統治下で大いなる復興を遂げた」

第16章 ジョルダーノ・ブルーノ――二度目のパリ滞在

〈カトリック同盟〉支配下のパリへ
「ブルーノの第二のパリ滞在中に起きた驚くべき事件は、ファブリツィオ・モルデンテの発明した新型のコンパスを廻っている」
「ブルーノは当時パリにいたモルデンテと知り合いになり、この新案コンパスの非常な感銘を受けた。彼は自分の話を熱心に聴いてくれるあのサン=ヴィクトル修道院の司書にそのことを語り、モルデンテは「幾何学の神様」のような存在だと述べている。そしてモルデンテはラテン語ができないようだから、自分がその発明の解説書をラテン語訳してあげてもよいと思っている、と付け加えた。彼はこの言葉以上のことを実行してみせた。つまりモルデンテのコンパスについての対話篇を4篇も仕上げ、その中で発明者自身はその神の如き発明の素晴らしさをまだ十分に理解したとは言えない、と庇護者よろしく一席ぶってみせたのである。もちろん彼、ブルーノはその意味をしっかりと理解したというわけだった。あまり不自然とは言えない話だが、コルピネッリの書簡の証言により、モルデンテは「われを忘れて怒り狂った」ことが分かっている。この結果、彼は出版されたこの対話篇初版を全部買い占めて破棄してしまった」

コレージュ・ド・カンブレでの公開討論会
「司書コタンの記録によれば、この演説が終わった時、ブルーノは席から立ち上がって、誰でもアリストテレスを擁護するなり、彼を批判するなり随意にされるがよい、と述べたそうである。誰も何も言わなかった。そこでブルーノは同じ言葉をもっと大声で、あたかも勝利を収めた者の如くに叫んだ。その時、「ロドルフス・カレリウス」と名乗る一人の若い論客が立ち上がって、ブルーノの中傷的な非難からアリストテレスを擁護すべく長々と演説を始めた。彼はまず開口一番、今まで<王立教授団>が沈黙を保っていたのは、ブルーノの発言が答える価値がないほどにひどいものに思えたからだ、と切り口上で始めた。彼は自分の弁論を終えるとブルーノに答弁するよう要求したが、ブルーノは黙ったままその場を立ち去ろうとした。討論会場に来ていた学生たちはこれを許さずブルーノを捕えて、彼がアリストテレスに対する非難中傷を取り消さない限りは立ち去ることはならない、と言った。ブルーノは翌日この批判演説に答弁することを条件にして、ようやく彼らの手を逃れることができた。演説をした男は掲示板にブルーノが翌日また討論会場に姿を見せるだろうことを告示した。翌日になるとこの「ロドルフス・カレリウス」は議長の席に着き、ブルーノの自惚れと詐欺的な論弁に対し、非常なる優雅さをもって、アリストテレスの弁護を行い、再度彼に答弁を要求した。「しかしブルーノは会場に姿を見せなかった。それどころかそれ以来この町そのものから逐電してしまったのである」


カトリック再改宗の試み
「このアリストテレスの<想像力論>(『アリストテレスの自然学講義における想像力論』1586年パリで上梓)はブルーノの全著作でも最も難解なものの一つである-これはいささか語るに落ちた月並みなコメントだが、ともかくその難解さは徹底している」
「これらは<普遍学>やありとあらゆる天才的な思いつきと組み合わされて、ほとんど狂気の沙汰としか言いようのない複雑さを呈している」
「しかしわたしには、ブルーノはけっして打算によって行動する人物ではなかったように思えてならない。打算は彼の本性の裡にはない行動形態なのである。彼の人生のすべての行動は唐突であり、自発的である」
「だからわたしは、この時期彼がパリでカトリック教会に帰還しようとしたことは、全く彼らしい、また真剣なものであったと考える」

第17章 ジョルダーノ・ブルーノのドイツ滞在

ヴィッテンベルク大学にて
「ブルーノはヴィッテンベルクに滞在中相当量の仕事をしているが、その大半は大学での講義が基になっている」

「これら(『ルルスの結合法による光明』『論理学によって狩り立てられたる進歩と光明』『熟達の熱弁』)はすべてブルーノの研究者にとっては重要な著作であり、特に彼とルルス主義の関係を考える際には欠かせない資料である。しかしその反面、イギリスで書かれたものに比べるとはっきりと退屈なものである」

「ブルーノは形態を造型することが不可能な三つの「形を持ち得ないものたち」を列挙している。それは<混沌>、<冥府>そして<夜>である」

フランクフルトでの出版
「エジプトの宗教は彼が信奉するものであり、それは万民法と普遍的な愛の掟を破壊するようなことはしない。ところが狂信的な党派、例えば「アリストテレス主義者たち」はまさにそうした非道の行いに走り、自身の偏見を他人に押しつけようとする」

「しかしまた、『巨大さ、無数なるもの、形なきものについて』『三重に最小なるものと尺度について』そして『モナド、数、及び図形について』といった作品を、最初から最後まで通して読むには、英雄的と言わねばならない熱意を必要とすることも確かである」

ブルーノの〈普遍学〉
「わたしはブルーノの著作を飾るこれらの気狂いじみた図案こそが、彼の言う<普遍学>なのだと考える。『30の封印』でブルーノは宗教の四つの指針として<愛>、<魔術>、<技芸>、<普遍学>を挙げていたことを想い起こさなければならない」

第18章 ジョルダーノ・ブルーノ――最後の刊行本

『図像、記号、イデアの構成について』
「想起しておくべき点は、この記憶体系が150の魔術的ないし護符的な図像を基盤として構築されるものだということである。これらの図像は、エジプトのデカン神霊たち、惑星の図像、また他のこうした架空の図像から成っていた」

魔術的図像による宇宙の内面化
「『図像の構成について』には狂乱ないし<狂気>を論じた言葉や章句も散見する。<狂気>と共に真理に没頭する者は、神的なものの面影を追い求める。この主張は『英雄的熱狂』での<狂気>を論じた章句に似通っている。ここではしかしブルーノは、詩と絵画と哲学は同一の営みだというあの命題に別の形式を与える。つまり彼はこの三つ組にもう一つ音楽を加えるのである。「真の哲学は音楽、詩、ないしは絵画である。真の絵画は詩、音楽、そして哲学である。真の詩ないし音楽は、神的な叡智であり絵画である」」

第19章 ジョルダーノ・ブルーノ――イタリア帰国

ヴェネツィアでの投獄
「まだブルーノがノラの幼い子供だった頃、非常に古めかしい感じのする一匹の巨大な蛇が家の壁の裂け目から姿を現した。幼少時、揺り籠の傍に姿を見せる蛇は、ヘラクレスの物語から分かるように、英雄的運命を告げる予兆である。ブルーノが自身を一人の<救世主>だと考えていたことにはほとんど疑いの余地がない」

ナヴァール王アンリへの期待
「フィルポはまた同時に、ブルーノの性格と気質がこうした困難で繊細な感覚を必須とする危険な課題に立ち向かうには全く向いていなかったことを鋭く指摘している。実際ブルーノは苛立ちやすく、喧嘩早く-というよりは病的な憤怒の発作に見舞われ易く、そうなるとあたりかまわず怖ろしい言葉で罵り続け、まわりの人々をぞっとさせるのだった。彼は結局あれほど探し求めていた魔術的な魅力に富む人格というものを持ち合わせてはいなかった。そして自分の大切な提言をこの異常な発作で台なしにすることになったのである」

異端審問始まる
「反自由主義的なヴェネツィア名門の出であるモチェニゴとしては、ナヴァール王の登場により彼の町にも自由の風が吹き始めることを望むはずはなかった。したがって彼は反ナヴァール王の立場だったはずである。それに加えてブルーノは、モチェニゴの家に寄寓中にひどい怒りの発作に襲われてそれを押さえることができなかったらしい」

異端判決の根拠
「もし地動説がブルーノの有罪判決の一つの事由であったとしても、それはガリレオの事例とは全く異なっている。ガリレオは地球が動いているという彼の主張を撤回するように強制されたわけだし、またその主張自体、真正の数学と力学に基づいたものであった。彼はジョルダーノ・ブルーノとは異なった精神風土に生きた人間であり、その世界においてはもはや「ピュタゴラス教徒的な企図」も「ヘルメス教的封印」もなんの意味も持ってはいなかった。科学者としての彼は真正に科学的な根拠に基づいて彼の結論に到達したのである。対してブルーノの哲学は、彼の宗教から分離することはできない。彼が無限の宇宙と無数の世界という拡張された形式の<世界認識>(グノーシス)の裡に見たものは、まさに彼の宗教、つまり<此岸的世界を廻る宗教>そのものだったからである。そしてそれは<神>の「面影」が顕す新しい神性の啓示でもあった。彼にあっては、コペルニクス主義はこの新しい啓示の一つの象徴であり、その啓示はエジプト人の信奉した自然宗教とその魔術への回帰と同義であるべきものでもあった。そして非常に奇妙なことではあるのだが、この回帰を彼は、カトリックの基本枠の中で行い得ると考えていたのである。
このようなわけで、ブルーノが哲学的思想家として迫害され、無数の世界の存在や地球の運動の主張といった大胆の理論のために火刑に処されたのだとする伝説に追随することはもはや不可能である

シェイクスピア、ガリレオへの影響
「ブルーノがコペルニクス説を活用してみせたそのやり方が、異端審問官たちにある種の印象を残したことは間違いない。したがってガリレオがまたしても地動説を支持した時に、その背景にそれ以上のものがあるのではないかという疑惑を、異端審問官たちの心に掻き立ててしまったのではないか、と考えてみることはできそうである」

次回は、最終回
『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』
フランセス・イエイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』を読んだ。1964年に出版された、イエイツの原点とも呼ばれている本。
何が書かれているかと言えば、次のとおり。
本書が目指しているのは、表題に示した通りのこと、すなわちブルーノをヘルメティズムの伝統の中に置くということ、それだけである。
(序)
構成の中心をジョルダーノ・ブルーノに置き、彼に至る流れ、彼以降の展開を追った
(序)
ではあるが、先走った予告がときどき挿まれて、否が応でもブルーノの章までぐいぐいと引っ張っていく。たとえば、こんな調子。
ブルーノの哲学は基本的にヘルメス教的なものであった。そして彼は最も急進的なタイプのヘルメス的<魔術師>として魔術的ー宗教的使命感に満たされていた。コペルニクス説はその使命感の一つの徴表だったのである。こうした命題はしかし後の方の章でより詳しく論じられることになるだろう
(第9章)

本書でとりあげられる「ヘルメス・トリスメギストス」の「トリスメギストス」は「三重の」と言った意味で、何が三重かというと、本書第3章では、「司祭、哲学者、そして王または立法者という三重の資格を有していた」とするフィチーノによる説明をあげている。

以下、目次と、ごく一部引用。必ずしも論旨のポイントに関わる部分を引用していなくて、面白いな、と思ったところ中心なので、全体の内容を知りたい人は、一読をおすすめしておく。
長くなりそうなので、この項では、まず、前半部分。






第1章 ヘルメス・トリスメギストス

古代エジプトへの回帰とヘルメス文献
ルネサンスの大いなる進歩は、その活力、情念的な推進力のすべてを過去の想起から得ていた。

エジプトの神トートは、神々の書記であり叡智の化身としての神である。ギリシア人たちはこのトート神を自分たちのヘルメス神と同一視し、時折「三倍も偉大な」(トリスメギストス)という称号を付け加えた

厖大な量のギリシア語文献がヘルメス・トリスメギストスに仮託されつつ産み出されていった。それらのテクストの主題は占星術とオカルト神秘学である


ラクタンティウスによるヘルメス・トリスメギストス評価
ラクタンティウスは、ヘルメス・トリスメギストスが<神の子>と<言葉>について語ったがゆえに、キリストの福音の到来を予見し予言した異教徒たちの中でも最重要の一人であると考えていた


アウグスティヌスにおるヘルメス・トリスメギストス批判
アウグスティヌスはまたエジプト人たちをその魔術のゆえに称讃したという廉でヘルメス・トリスメギストスを非難する

しかしアウグスティヌスはまたこう続ける。「このヘルメスは<神>について多くの真実を語っています」。確かにヘルメスはエジプトの偶像崇拝を盲目的に礼讃したし、またその偶像崇拝が終焉に向かうだろうという預言は悪魔から得たものではあったけれども、逆にまた彼はイザヤの如き預言者の言葉をも引用している。そうアウグスティヌスは指摘する。そしてそのイザヤはこう言ったのだった。「主の御前に、エジプトの偶像はよろめきエジプト人の勇気は、全く失われる」


ヘルメス文献のラテン語訳
<始源の神学>の系譜は、フィチーノの考えでは、ヘルメスに叡智の伝統の「源泉にして根源」としての極めて重要な位置を必然的に与え、そしてその系譜は途切れることなくプラトンにまで至ったのだとされる


ルネサンス期の魔術再興
中世には教会が魔術を追放した

これに対しルネサンスの魔術は、改革された学識ある魔術であって、古めかしい、無知の、邪悪な黒魔術とのいかなる関係をも否認するのを恒とした。ルネサンス的哲人にとっては、魔術はしばしば一つの尊崇に値する随伴的能力だった


第2章 フィチーノの『ピマンデル』と『アスクレピウス』

ヘルメス文献の概要
この最古のエジプトの著者は、フィチーノにとっては、モーセ的真理、それどころかキリスト教的真理をも神秘的なやり方でまざまざと啓示してくれる存在であった

「ヘルメス・トリスメギストスの著した「神々しい書物」はフィチーノにとっては二冊あった。その一つは<神の力と叡智について>(『ピマンデル』の全14篇)、もう一つは<神的な意志について>(つまり『アスクレピウス』)である」
創世記との類似点
「(フィチーノは)『プラトン神学』の中では結局のところヘルメス・トリスメギストスはモーセその人だったのではないだろうか、と大胆な憶測を試みてすらいる」
『アスクレピウス』の名誉回復
「『ヘルメス選集』の発見による『アスクレピウス』の名誉回復は、ルネサンスにおける魔術の復興を推進した主たる要因の一つではないかとわたしは思う」

第3章 ヘルメス・トリスメギストスと魔術

ヘルメス文書の魔術的側面
「要約して言えば、オカルト的共感や護符を扱ったこうしたタイプの文献においては、ヘルメス・トリスメギストスという名そのものが呪文のような働きをしているのである」

魔術マニュアル『ピカトリクス』
「『ピカトリクス』の著者は最初の二書で護符とその製作法について詳しく述べた後、第三書では宝石、植物、動物等々と惑星、宮等々の照応関係の詳細な一覧を与え、さらにまた、身体のどの部分がどの宮に照応しているのか、惑星の色、惑星の名前や力に呼びかけながらその霊気を招き寄せる方法、等々について論じている。第四書は同様の事柄やまた香料の用い方について論じ、惑星に向けた讃辞で結ばれている」

フィチーノと魔術
「むしろわれわれが関心を持つのは、マルシーリオ・フィチーノが、プラトンやネオプラトニズムの復興運動に際してキリスト教との調和にあれほど腐心したにもかかわらず、魔術という脇道に逸れ、それが復興運動の核心に侵入することを許したという事実である」

異教的反動とエジプト趣味
「ラクタンティウスとアウグスティヌスの時代の間には異教側からの反発が、背教者ユリアヌス帝の治世という形をとって顕在化している。その背教は哲学的な「世界を礼拝する宗教」への回帰、また秘儀的祭祀への復帰を通じてキリスト教という新しい成り上がり宗教を追放しようとする志向を内実としていた」


第4章 フィチーノの自然魔術

星辰魔術とネオプラトニズム
「このようにしてプロティノスの主張に対するフィチーノの註釈は、回り道をしながら、護符の使用、そして『アスクレピウス』に描かれた魔術を正当化するものとなる。その正当化の根拠はネオプラトニズム的なものである。つまりは古の賢人たち、また護符を用いる現代人たちは悪魔たちを呼び出しておるわけではなく、<万有>の本性を深く理解し、神的なイデアがこの下方世界に反照してくるその度合いについて知悉しているのだとされるのである」

フィチーノのプロティノス解釈
「彼(フィチーノ)はトマス・アクィナスが『アスクレピウス』中の魔術をはっきりと悪魔的なものだと非難したその見解に賛同していた。しかしプロティノスの註解を読んで以来、確かにエジプトの神官たちの中には悪魔的魔術を用いていた悪しき者もいたけれども、ヘルメス・トリスメギストスは彼らの一人ではなかったということを理解した」

霊気理論と護符魔術
「病気を治すためには以下の図像の使用をフィチーノは勧めている。「玉座に就いた一人の王。黄色い衣服を纏っている。それに一羽のカラスと太陽の形を加える」」

ボッティチェッリの《春》
「フィチーノはオルフェウス教の唱歌を歌う習慣があった。おそらく自ら古式のヴィオラを弾いて伴奏したのだろう。曲は単純な単旋律の音楽で、フィチーノは天球の動く天上から発する音楽を反響していると信じていた。つまりピュタゴラスが語っているあの天界の音楽のことである」

中世魔術とルネサンス魔術の連続性
「この太陽に呼びかける『ピカトリクス』中の呪文のたわごとめいた響きは、フィチーノのあの「自然の」天体唱歌となんとかけ離れていることだろうか!」

第5章 ピコ・デッラ・ミランドラとカバラ的魔術

ヘルメス・トリスメギストスとカバラ
「ピコがルネサンス魔術史で重要な存在であるその主たる理由は、彼が自然魔術を補完すべきもう一つ別の範疇の魔術を付け加えたことによっている。ピコがルネサンス魔術師の素養に加えたこの別の種類の魔術とは実践的カバラないしカバラの魔術である」
「ピコが創始しほとんど煽ったとすら言いたくなるヘルメス教とカバラの融合は、重大な帰結をもたらすこととなった」

自然魔術とカバラ的魔術
「実際に催されることはなかった<結論集>を討論する会議のための冒頭演説草稿<人間の尊厳について>の中で、ピコは魔術に関する主張の主要なものを繰り返している。魔術には二つあり、その一つは悪霊たちの働きによるものだが、他の一つは一種の自然哲学であること、善き魔術は<共感>によって、つまりすべての自然を貫く相互的信頼関係を知悉することによって働くこと、そうした主張である」

カバラの理論的基盤
「ヘブライ語のアルファベットは、カバラ主義者にとって、<神>の<名>ないし<諸々の名>を含んだものである」

自然魔術のカバラ的超越
「ピコはカバラを二つの主たる部門に分けていることになる。一つは<結合の術>(アルス・コンビナンディ)であり、おそらくはアブラハム・アブラフィアの文字ー結合を廻る神秘主義に由来するものである」
「ピコのカバラの第二のもの、つまり「より高次の事物の諸力を捕捉する一つの手法であり、その同じ目的を追求する別の手法が自然魔術であるような」学問、また「自然魔術の最高の部門」であるようなカバラ」

〈セフィロト〉と神秘的な昇天
「ルネサンス期において実力ある<魔術師>とはつまり芸術家たちのことであった」

魔術とキリスト教
「魔術とカバラがそれほどまでに威力あるものならば、キリストがその奇跡に満ちた業をなし遂げた時にも、それらの手段に頼ったのではないだろうか。いや絶対にそのようなことはない、とピコは力を込めて否定する。しかし彼より後代の魔術師たちはこの危険な思想を再び取り上げることになるだろう」

ヘルメス教とカバラ
「ピコは彼の『結論集』において、カバラ主義に関する結論を提示する直前で、ヘルメス・トリスメギストスの10の命題を援用している。ヘルメス教に関するこれらの結論の第9命題は以下の如くである。
10の懲罰を一つずつ列挙すると以下の如くになる。無知。憂い。気まぐれ。欲望。不正。奢侈。妬み。偽り。怒り。悪意。以上である。」

異端者ピコ
「ピコの命題のいくつかについてローマの神学者たちの間では深刻な異端の噂が広まった。それを顧慮した教皇インノケンティウス八世は事情を調査するべく委員会を組織せざるを得なくなった」

教皇アレクサンデル六世による擁護
「わたしは教皇アレクサンデル六世がその前任者インノケンティウス八世の治世を逆転させようとする意図をはっきりと宣告したかったからではないかと思う。つまりピコ・デッラ・ミランドラの主張する<魔術>とカバラを宗教の支えだというプランを採用することによって、その前任者の宗教政策との根本的な差異を顕示したかったのだと考えてみたいのである」


第6章 偽ディオニュシウスとキリスト教魔術の神学

偽ディオニュシウス的神秘主義
「フィチーノは位階間の関係を述べる際に、ほとんど占星術的に響く要素を導入し、それによって諸位階と天圏との連続性を強化している。位階はそれぞれ<三位一体>からの感応霊気を「飲み干す」と言われている」

天使たちの世界と否定の神学
「偽ディオニシウスがルネサンス的総合にとって非常に重要なものとなったもう一つの理由は、彼に一貫する<否定の神学>の観念にある」

ルネサンス期の宗教と魔術の関係
「「なぜ<愛>は<魔術師>と呼ばれているのか」とフィチーノは『饗宴』への註解の中で自問する。「それは魔術のすべての力の本源は<愛>だからである」」

第7章 コルネリウス・アグリッパのルネサンス魔術総覧

アグリッパの通俗的魔術概説書
「アグリッパはこの著作(『オカルト哲学について』)を1510年以前に完成していた。しかしそのまま1533年までは出版しなかった。その出版の年には、彼のもう一つの著作『諸学の空しさについて』が上梓されてすでに数年を経ていた。この著作では、オカルト的な学問も含めて、すべての学問は空しいものだということが主張されている。しかしアグリッパの主たる関心事は、その生涯の終わりに至るまで、疑問の余地なくオカルト的な諸学問にあった。したがってそうした学問分野に関する概説書である『オカルト哲学について』を出版する前に、その領域の学問は空しいということをテーマとする書物を公刊するということは、一種の予防策だったと見做し得る」

第一書/自然魔術
「アグリッパが目指しているのは『アスクレピウス』のタイプの魔術で、神霊たちの力を最大限活用しようとする。それは前の数章で記述したあのフィチーノの穏やかにネオプラトニズム化された魔術とは大きく異なるものである」

第二書/天上的魔術
「魔術で最も必要なものは数学の知識である。自然界に存在する力によって成し遂げられることは、数、重さ、そして尺度に支配されているからである」

第三書/儀典的ないし宗教的魔術
「フィチーノの魔術は穏やかで芸術家肌のものであり、主観的でどこか精神科医を連想させる趣きがあった。ピコの魔術は求心的に敬虔なものであり、瞑想的であった。両者は共にアグリッパの魔術に特徴的な、怖ろしく強力な力の共示というものをいまだに知らない。しかしこの魁偉な建造物の基礎を築いたのはやはりフィチーノとピコの両人なのである」

アグリッパと神官的魔術
「要約して言うなら、アグリッパの魔術によって到達された地点とは、ヘルメス文献『アスクレピウス』中でわれわれがすでに出会った、あの理想のエジプト的社会ないしエジプト風に演出された社会に非常に似たものであり、その制度的本質は神官たちによって統治される神権支配である。彼らは魔術的宗教の秘密を知悉し、それによって全社会を統率する」
「中世は、全体として見れば、アウグスティヌスの見解を従順に踏襲し、『アスクレピウス』に含まれる偶像崇拝を追放してきた。ヘルメス・トリスメギストスを教会に招き入れたのはラクタンティウスとフィチーノ、またピコである(そしてこのピコは教皇アレクサンデル六世によって強く支持された)。したがって魔術と宗教の関係はもはや単純に中世的なテーマであるとはいえなくなる。それはむしろ非常に複雑な現象であり、必然的に「教会制度に内在する魔術のその基盤とはなんなのか」あるいは「<魔術>とカバラは宗教の支えとして受け入れられるべきなのか、それとも拒絶されるべきなのか」といった本質的な問いを誘発するのである。この後者の問いは、「魔術の盛行は宗教上の改革を助けるものなのか」という形に変えて提出することもできるだろう。この問いに対する一つの解答が強い否定形として現れたのかもしれない。つまり「すべての魔術を取り除き、すべての図像を壊してしまおうではないか!」というスローガンがそれである」


第8章 ルネサンス魔術と科学

ルネサンス期における〈人間〉像の変化
「トリテミウスは、この天使たちのネットワークを非常に実用的な目的のために活用しようとする。つまりそれをある種のテレパシーとして使い、遠く離れたところにいる人々にメッセージを伝える手段として用いようとするのである。彼はまたこのネットワークによって「世界中で起こっていることについて」知ることができるのではないかと期待している」

ルネサンス魔術における「数」の重要性
「ディーとケリーはアグリッパのオカルト哲学を熱心に研究していた。アグリッパの著書の第三書には天使たちの招喚のために用いられるべき数値とアルファベットの詳細な一覧表が掲載してある。それをディーとケリーは彼らの降霊儀式に使用したのだった。その魔術的儀式では、ミカエル、ガブリエル、ラファエルと他の天使たち、また精霊たちが見霊の水晶球の中に顕れ、ケリーの口を借りてディーに語りかけたが、ディー自身は天使たちの姿を見ることはなかった。つまりケリーは詐欺師であり、信心深い師匠をだましたのだが、この詐欺の性質そのものが、まさに彼ら二人がいかにルネサンス魔術に通じていたかということをよく示している」

ヘルメス教的カバラ主義者
「フランチェスコ会の修道士であったヴェネチア人、フランチェスコ・ジョルジョないしジョルジの著作『世界の調和』は、ヘルメス教的カバラ主義者のあらゆるタイプに内在している一つのテーマを十全に展開している。それは宇宙的調和のテーマ、すなわちミクロコスモスとしての人間と、より大きな世界である宇宙、マクロコスモスとの間の調和的関係である」

中心としての太陽
「コペルニクスはヘルメティズムの神秘主義的太陽観の影響を受けなかったわけではないが、その数学的操作においてはヘルメス教とは無縁だった。ブルーノはしかし、コペルニクスの科学的業績を前科学的な段階、つまりヘルメス教の世界へと遡らせ、コペルニクスの呈示する宇宙図を神的な秘教のヒエログリフとして解釈するのである」

科学的実践への解放
「ルネサンス<魔術師>が近代という時代において果たした真の機能とは、彼が意志そのものを変容させたという事実に存するのである(という風にわたしは考える)。いまや実践的操作の営為は人間にとって品位ある重要な活動となったのである。いまや人間が、この一個の大いなる奇跡が、彼の力を十全に発揮することは宗教的な営為であり、<神>の意志に反することではないことが明らかになったのである。この意志の新たなる方向付け、この基本的かつ心理的な再定位こそが、もはやその精神において、ギリシア的でも中世的でもない彼方へと意志を解放し、すべての重要な帰結を産むその端緒となったのである。
この新しい定位の姿勢の根源となった情念的な要因とはなんだったのだろうか。それは<ヘルメス文書>とそのお供の<魔術>の再発見がもたらした宗教的な高揚感に源泉を持つ情念であったと指摘し得る」

第9章 魔術批判 [1]神学的異議 [2]人文主義的伝統

[1]神学的異議
「魔術に対するカトリックの側からの公式見解はイエズス会士のマルティン・デル・リオが1599年-1600年に出版した大部の著作の中で重々しく宣告されている。デル・リオは自然魔術のいくつかは認めようとしているし、フィチーノに対しても全く反感と嫌悪の塊だというわけではない。しかし彼は護符の使用は断固として糾弾する。またヘブライ語が何か特別な力を持っているということも否定する。かくしてフィチーノの<魔術>もピコの実践的カバラも二つながら拒絶されることになる」

[2]人文主義者の伝統
「エラスムスの礼讃者が彼を<三倍も偉大な方>と呼んで称えたことがあった。ところが彼は非常に苛立ちを示したのである。ジョージ・クラットンは、このお追従でしかないはずの異名に対してエラスムスが訳の分からない怒りを見せたのは、おそらくは<三倍も偉大な方>という褒め言葉が<三倍も偉大なヘルメス>(ヘルメス・トリスメギストス)を暗示していたからだろうと指摘している」

宗教改革と魔術
「形而上学や数学的研究に対して人文主義者たちは嫌悪感を懐いていた。この嫌悪感は宗教改革の時期に至ると、過去の時代とそこで行われていた魔術一般に対する憎悪へと変容するのである」
「エラスムス主義的な改革を経たプロテスタントの国であるイギリスで、魔術的な哲学を標榜することはすでに狂気の沙汰であった。その同じ哲学がブルーノを対抗宗教改革のローマまで、その火刑の柱まで、導くことになったのである」


第10章 十六世紀の宗教的ヘルメティズム

フランスのヘルメティズム受容
「リヨンのサンフォリアン・シャンピエはフランスにおけるネオプラトニズムの指導的な信奉者であり、またフィチーノの崇拝者だった」
「またシャンピエは、『アスクレピウス』の魔術を描いた章句は聖なるヘルメスが書いたものではないという、<ヘルメス文書>の信奉者を安心させてくれる見解を初めて公にした人物でもある。つまりそれは邪悪な魔術師、マダウロスのアプレイウスがこの著作をラテン語訳する時にこっそり付け加えたものだ、というわけである」

魔術ぬきのヘルメティズム
「つまり当時フランス宮廷の中心には、かつてフィチーノとピコの学術を支援し、彼らの魔術研究をも止めようとはしなかった大いなるフィレンツェの名家、メディチ家の出である<皇太后>カトリーヌ・ド・メディシスが君臨していたからである。カトリーヌは護符に熱中し、魔術師や占星術師を好んで支援したことで悪名が高かった。彼女が中心となって催した宮廷祝祭の背景になんらかの魔術的な意図が隠されていなかったとは考えにくい」

プロテスタント的ヘルメティズム
「この世紀(16世紀)も後半に入ると、宗教改革とカトリック的反動の間で繰り広げられた争いが怖ろしい戦争と迫害の嵐を巻き起こし、ヨーロッパは荒廃の危機に瀕していた。モルネ(フィリップ・デュ・プレン・モルネ)はそうした時代にヘルメティズム的な宗教性に救済を求めた人々の典型例である。世界の此岸性を内実とするこの宗教性は、同時代の泥沼から距離を取り、両陣営の狂信が生む暴力の苦悶から脱出する可能性を示してくれた」

宗教的寛容とヘルメティズム
「わたしがこの論文(「ジョルダーノ・ブルーノの宗教政策」)で提起したのは、1582年にブルーノがパリからイギリスに渡った時、彼はアンリ三世からある種の政治的使命を託されていた、という仮説である。パリ滞在中にブルーノはアンリ三世からある程度の支援を受けていたし、イギリスに渡ったのは、国王アンリの平和的で宗教的な意図をスペインの軍事的野心との対照において際立たせ広めるためでもあった」
「わたしはまたブルーノの哲学は宗教的な背景を持っており、したがって彼のイギリス行きは、プロテスタントの国に対するカトリック側からのある種の和解を目指すという使命をも帯びたものであったということをその論文で示唆しておいた」

パトリッツィの〈新しい哲学〉
「『普遍哲学新論』の中で呈示されたパトリッツィの<新哲学>は、魔術を用心深く避けようとしたフランスの伝統に根ざすものというよりは、フィチーノとピコに遡行するイタリアのヘルメティズムの伝統を背景としたものである」

イギリスにおける宗教的ヘルメティズム
「16世紀のヨーロッパ大陸部での宗教的ヘルメティズムに対する関心は、求心的な没頭を特徴としていた。それに比べると同時期のイギリスは奇妙に孤立した位置にある。その原因はこの国が近い過去において宗教的な激動の時代を経ていたためだった
『岡本太郎 神秘』
岡本敏子・内藤正敏共編による『岡本太郎 神秘』を読んだ。
岡本太郎が撮影した写真に、岡本太郎の文章を添えたもの。プリントは内藤正敏が行っている。
文章は、岡本太郎の『日本再発見-芸術風土記』『神秘日本』『美の呪力』『沖縄文化論』『岡本太郎の本1 呪術誕生』からとられている。
そして、貴重なのは写真群で、日本再発見のために東北をまわったときなどの記録で、公開するつもりがなかったものが、こうして本になったのだ。
東北や沖縄、といったいかにも「神秘」な土地と並んで、大阪の写真もあった。
住所が、大阪の河原町、とあるから、今だと難波、ミナミあたりだ。
大阪のページにあった『日本再発見』からとった文章を引用しておこう。写真は1957年に撮影されたものだ。
この町の雰囲気ぐらい非芸術的であり、それが徹底しているところはない。
趣味性なんてものも、どこにあるというのか。
しかしここには、逆にそんなものをふきとばす活気というか、
熱気のようなものがあふれている。
それがこの町特有の雑多な悪趣味からたちのぼってくるのだ

芸術、教養なんて、
おつにすましたものは、鼻もひっかけない。
そういうかっこよさがここにある。
同じ上方文化の中心である京都とは真反対だ

色、匂い、すべてがどぎつく、肌にふれてくる。
トッ拍子もない見当ちがい
だがこれはまた魅力でもある

芸術は芸術から生れない。
非芸術からこそ生れるのだ

『アダムスファミリー全集』
H・ケヴィン・ミゼロッキ編によるチャールズ・アダムスの『アダムス・ファミリー全集』を読んだ。
キャラクターの解説と、そのキャラクターが登場する作品を集めたもので、未発表作品も含めて紹介してあり、面白かった。
以下、目次。
まえがき
ファミリー
モーティシア
ゴメス
ウェンズデーと少年パグズリー
執事のラーチ
フランプおばあちゃん
フェスターおじさん
お化け
親戚と家族の友人
超絶にすてきな屋敷

『もうひとつの内藤ルネ』
増田セバスチャン監修の『もうひとつの内藤ルネ』を読んだ。

はじめに/増田セバスチャン
アヴァンギャルド
特別対談 宇野亜喜良、増田セバスチャン
ルネの友人たち
ファッショナブル
フェアリーテイル
特別対談 水森亜土 増田セバスチャン
内藤ルネ年譜
セクシャリティ
『もうひとつの内藤ルネ』刊行に寄せて/本間義春

『数学的にありえない』上・下
アダム・ファウアーの『数学的にありえない』上・下を読んだ。
ネタバレするので、要注意。

確率論。
主人公は確率を使った能力で危難を乗り越えていく。
作中では、物事が芳しくない方向に進んだときに、「巻戻し」して、やりなおす能力として描かれる。
どういうことか、というと、一言でいえば、リセット能力だ。
ゲームで失敗したときにリセットするように、何度でもやりなおして、うまく行った未来を選び取ることができるのだ。確率がどんなに低い事柄でも、ゼロじゃないかぎり、それは達成されるのである。
また、同じく確率を駆使した力を使うが、それは「風が吹けば桶屋が儲かる」方式だ。
作中では、ラプラスの魔や、不確定性理論などがわかりやすく解説もされている。
一読したとき、まるで漫画みたいだ、と思ったが、これは漫画の快楽、ゲームの快楽を一挙に味わえる、得がたいエンタテインメントだった。
タイトルも記憶に残りやすくて、いい。
フォルマント兄弟パフォーマンス&トーク@アートエリアB1~EXPG@扇町公園
京阪電車なにわ橋駅のアートエリアB1で開催中の「鉄道芸術祭Vol.2 やなぎみわプロデュース駅の劇場」のイベントで、午後2時から「フォルマント兄弟 パフォーマンス&トークイベント」
1.フォルマント兄弟「声と鉄道」
スクリーン越しに声、鉄道、機械についてレクチャー。

2.「夢のワルツ(大阪編)」を人工音声で演奏(歌唱?)。
人工音声を奏でるアコーディオンの奏者は長坂憲道。

3.前川修准教授によるパノラマの講義

4.やなぎみわ、フォルマント兄弟ゲストに迎え、トークショー。

イベント終わりで、扇町公園に行き、EXPGのダンスを見る。
もうちょっと早く来れたら、まいむろいどを見れたのに、と残念。

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