乾くるみの『イニシエーション・ラブ』を読んだ。80年代の風俗をとりいれながら描く、男女のういういしい恋愛物語。(以下、未読の人は、ネタバレするので、注意)なのだが、ストーリーに仕掛けがあり、最後の1ページで、今まで読んでいた世界が全く違った風に見えてくるようになっている。
この本、「今年最大の問題作かもしれません。ぜひ2度読まれることをお勧めします」とか「目次から仕掛けられた大胆な罠、全編にわたる絶妙な伏線、そして最後に明かされる真相」とか、帯に要らぬ惹句が書いてある。はっきりと、この本は叙述のトリックで楽しむ本ですよ、と言っているのだ。そう言われると、読んでいる最中に、「あーじゃないか、こーじゃないか」といろいろ考えながら読むことになる。本作の仕掛けよりも大がかりな大ドンデン返しだって予想しながらだから、最後の驚きが、「あれ、この程度のことなんだ」と思う事が多い。『イニシエ−ション・ラブ』の場合は、規模としては小規模の逆転で、そこで明かされる意外な事実も、恋愛における女性のしたたかさ、程度のものなので、恋愛小説としての結構を保っており、面白く読むことができた。
作品の主人公は「僕(鈴木)」(あだ名が「たっくん」で、これは僕の妹の子供と同じ呼び名だ)の一人称で書かれている。しかし、最後の2行くらいで明かされる事実で、本当の主人公は、恋人の「マユ」だったことがわかるのだ。
目次が2章にわかれており、それだけで、「きっと1章と2章はつながっていないんだろうな」と予測がつく。また、名前やあだ名が指している人物が1章と2章では別人なのだろう。また、時制も狂わされているにちがいない、と思いながら読んだ。1章では「僕」と「マユ」の恋愛が描かれる。2章に入っても、同様に「僕」と「マユ」の恋愛話なのだが、ここに何か仕掛けがある。僕のたてた1つの予想は、1章と2章のあいだにはかなりの年月がたっており、2章の「僕」は1章の「僕」と「マユ」のあいだに生まれた子供なのではないか、というものだった。この読み方だと、最後に、男女の恋愛だと思っていた描写は全部、近親相姦の描写だったことになる。あるいは、「マユ」は既に死んでおり、2章は僕の妄想だったんじゃないか、とか。こんなことを考えるのは、昨日読んだ『狂気の王国』の影響か。
どちらにしても、せっかく読みやすくて面白い本だったのだから、素直にびっくりしたかったというのが本音だ。『葉桜』だって叙述トリックがあると予想されるので、読むのをためらっているのだ。ネタバレの宣伝なんかするなー!

24日のなんばベアーズ「丼ちゃん騒ぎ」が迫って来た。午後6時半開演。
そろそろ何をやるか、考えないといけないなー。

狂気の王国

2004年9月21日 読書
フリードリヒ・グラウザーの『狂気の王国』を読んだ。1930年代にドイツで発表された犯罪小説で、精神病院を舞台に正常と異常が大混乱の不思議な世界が展開される。精神病院の院長が殺され、患者が失踪する。その後、乗り込んできた刑事が薬で眠らされたり、看護士が自殺したり。地の文と会話が入り乱れ、死人は笑うし、4本腕の人物が出てくるし、説明不能の車に乗って患者たちが通り過ぎるし。事件の様相も何が何なんだかさっぱりわからない。作中の言葉で言えば、ここに集まっているのはみんな「頭に鳥を飼っている」者ばかりで、しかも、精神病は感染する、というのだ。ところが、終章に至って、何の前触れもなく刑事による怒涛のごとき謎ときがはじまる。そこでやっと推理小説らしさが顔を出すのだが、それでも一風変わっている。なんと刑事は犯人からかなり早い段階で自白されていたことが、唐突に明かされるのだ。そんなの聞いてないよー!しかも、その告白から事件を組み立てて説明した刑事に対して、刑事の対話者(医者)はこともなげに言ってのける。「そんなん、知ってるよ。わしも同じ告白されたし。え?あんた、あれ、信じたんかいな!あんなん真に受けたらあかんがな!あいつ、精神病やで!」(意訳)もー、何が何やら。それでも、事件はいつのまにか一件落着してしまうのだ。刑事の敗北として。
作者フリードリヒ・グラウザーは若い頃にダダ詩人だったが、経歴(?)がすごい。精神病院に監禁、脱走、逮捕されて刑務所暮らし、外人部隊で戦争。これを繰り返す。
この作品が発表された頃、まだ精神分析は一般的でなかったが、作者自らいちはやく精神分析を受けたこともあり、精神分析の描写が取り入れられている。なにせ、精神病院に何度も監禁されていた作者だけに、精神病関連の描写は説得力がある。スケッチ風に書けばよかったのかも知れないが、それを小説にねじまげてしまうことで、異様な迫力が出ているようだ。

海洋堂ホビーロビーの2階展示室でアフタヌーンの「げんしけん」などを読んだ。
あと、秋から来年にかけての海洋堂の新作をチェック。
ミュシャのシリーズのシークレットは、なんと装飾に本物のダイヤが使われたゴージャスバ−ジョンらしい。
それと、expo70の食玩も出るらしい。太陽の塔とお祭り広場、いろんなパビリオン、月の石などが予定されている。写真を見たところ、期待できそうだ。
つくば万博など、どんなパビリオンがあったか覚えていないのに、70年万博はいろいろ覚えている。つくば万博も大阪花博も、キャラクターを覚えているだけだ。コスモ星丸と、花ずきんちゃん。あっ、花博は、開幕2日めに脱線事故を起こしたウォーターライドとかあったなあ。事故の場面をフィギュアにしてほしいなあ。

誕生会

2004年9月20日 日常
今日の予定。
千里中央のセルシー広場でキッズダンスのライブ。ダンススクールのこどもたちが次々と登場してダンスを披露。めったに見られない未知のスクールの発表会。これは必見。
京都ダイヤモンドシティ・ハナでミューズのライブと、パーソンズガールのファッションショーなど。登場する大倉梓ちゃんは、ESSEダンスコンテストでコスチューム賞もらったチェリーエンジェルの子。タカミープロジェクトでもお馴染み。これも必見である。
さて、予定どおり行ったかな?
まずセルシー広場に行き、ダンスを見た。オリジナルの楽曲はなく、特に衣裳に凝るわけでもなかったが、あまり見たことのないスクールの子たちだったので、新鮮だった。「愛のために」や「世界で一つだけの花」など歌も披露していた。
ところが2時間くらいのステージだと思うが、30分ほどで切り上げた。
京都のダイヤモンドシティ・ハナにも行かず。
連れの調子が悪くて、急遽中止にしたのだ。人間、体力が不可欠ですね。

帰宅途中、道の真中で大声で喧嘩している人たちがいた。電車の中では子供が泣いていた。帰宅してみると、猫が緊張に満ちた表情で僕の顔色をうかがっていた。
今日はどうも不穏な空気が支配しているようだ。
こんな日は、うっかり憂鬱な気分になって、大切なものを失ったりしてしまうのだ。
僕もすっかり気分が落ち込んで、車に体当たりして跳ねとばしたくなったり、屋上から空中を歩いて別のビルに移動したくなったり、要するに自暴自棄な試みをしたくなってきた。
危ない。
夕刻から梅田のキリストンカフェでヘルメッツの勝さんの誕生会。自分BOXのマイちゃん、オッチー夫妻、サウンドア−チスト安井くん、有線放送田中くんが集った。
いつもいつも楽しい。
すっかり鬱な気分で一言もしゃべらず、目に涙を浮かべていた僕(嘘)もすっかり救われた。
この場にはいなかったけど、鶴岡法斎くんは今日、9月20日生まれらしい。『マンガロン』にそう書いてあった。
今日は岸和田カンカンオーシャンサーカスでODAカーニバルのイベントがあった。
海をバックに、いつもよりも曲数も多く、また充実したステージを見せてくれた。はっきり言ってODAカーニバルは消化不良気味のイベントが続いていて、もう追い掛ける必要はないかな、とあきらめかけていたときの、この大躍進ぶりには目を見張った。
ダンスのうまい先輩たちが大挙して出場したのも刺激になったのだろう。
まず、ステージは、そのお姉様方のダンスからはじまった。
あと登場したのはKaja、チャチャッ娘、Ajaの佑香、奈千葉などなど。チャチャッ娘の宇野あゆみちゃんが欠席でチャチャッ娘は3人バージョンだったが、そのかわり別の曲のときに鮎美ちゃんが出ていた。同じ「あゆみ」でここは御勘弁、と言うところか(違)。なお、誰も聞きたくはないだろうが、僕のイチオシはチャチャッ娘の西田真優ちゃん(92年4月4日生まれ)だ。
Kajaは「ステイ」や「ジャンボ」等で快調に歌い踊ったし、チャチャッ娘は「ぴったりしたいX’mas」や「ボンボヤージュ」など元気に歌う。ラストの「ノーリミット」まで全13曲。いやー、今日は合格点をつけてあげよう!楽しかった。

今日のNHK-FM「現代の音楽」は「日本のオーケストラ作品の系譜」をテーマに、2曲セレクトされていた。水野修孝作曲の「オーケストラ1966」は人の声(歌声ではない)も楽器の一部として取り入れた作品。いかにも現代音楽らしい、ホラー映画めいた神経を逆撫でするような音楽だった。水野修孝は今年70才。87年に3時間、演奏家700人の大作を完成させている。図書館に行けばCDがあるらしい。来月には新作の交響曲第4番の演奏が東京芸術劇場で決定しているらしい。ナベサダに師事し、ジャズに接近した作品も作っている。この「オーケストラ1966」は1966年に完成、73年に演奏されたものを放送していた。
もう1曲、平吉穀州作曲の「交響変奏曲」。彼は「お化けが出てくるような音楽は嫌だ」と旧来の現代音楽への批判精神を持っており、「ストーリー性のある音楽を作りたい」と抱負を述べていた。たしかに、「交響変奏曲」は単なるショッカーのBGMではなくて、物語を感じさせた。平吉穀州は合唱をやったことのある人なら、1回は聞いたことのある名前だろう。たとえば、やなせたかし作詞の「てのひらのうえのかなしみ」に曲をつけたりしている。これがホラーっぽい音楽だったら、画期的すぎて学生はついていけない。

昨日、今日のテレビ番組録画分をチェック。
シンクロナイズドスイミングの番組でフランスのビルジニー・デデューを見た。鳥肌立った。競技は日本を勝たせるための出来レースっぽかったが、デデューを見られただけで価値のある番組だった。デデューは人魚だ!他の選手の顔が全員、お稲荷さんのキツネにしか見えなくなった。
ETV特集で、こどもの心の闇に迫る番組を、少しだけ見る。なぜ、少しだけかと言うと、途中で馬鹿馬鹿しくて見ていられなくなったのだ。ちゃんと全編見れば違う感想も受けたのかもしれないが、もうダメ、ギブアップ!という感じでビデオを止めた。だって、「現代のこどもはコンピュータやアニメやゲーム、つまり機械に取り囲まれていて、現実と非現実の境界があいまいだ。機械相手なので子供はいつまでも万能感を持っており、人と接したときに自分の思い通りにならない事態に直面し、キレルのだ」など、明らかに「それは違うだろ」とツッコミ入れたくなるようなことを真面目に言っているのだ。何か事件があったら漫画やゲームやテレビのせいにしてきた愚をここでもまた繰り返そうとしている。こんなことを言う奴ら、それを鵜呑みにして信じる奴らが、かつては戦争を起こし、人種差別をし、根拠のない恐怖をまき散らしてきたのだ。別の観点からも、上記の意見の大間違いぶりが指摘できる。「現実と非現実の境界があいまい」なのをまるで悪いことや、病理のように専門家は言うが、それは大馬鹿な間違いだ。現実と非現実の境界はあいまいなのだ。現実の定義もあいまいだし、恣意的なのだ。それをはっきりと境界があって分かれていると思い込んでいる奴らこそ、何もわかっていない思考停止状態の生ける屍なのだ。そんな間違った考えから子供たちを教育しなおそうとするくらいなら、一刻も早く切腹してくれ、と言いたい。(今、勢いにまかせて言った)

さて、ここまで書いて、音楽レビューでCDを検索したのだが、現代音楽はヒットしなかった。ちょっとビジュアルがほしいので、読んだ漫画のレビューを付け加える。
槙ようこの『愛してるぜベイベ』を5巻まで読んだ。アニマックスでアニメ放映されていたそうだが、僕はアニメについて全くの無知なので、見ていない。
親に見放された5才の女の子「ゆずゆ」を育てることになった軽い男子高校生と、彼の恋人などの物語。エピソードも面白くて、人間関係もよく考えてあるように思えた。
一番いいのは、ストーカーや意地悪な奴や、子供を虐待する親や、リストカッター(作品中では触れられていないが、明らかにそうとわかるのだ)や、親のいない子を差別する大人たちや、暴力で女をものにしようとする馬鹿男など、腹の立つキャラクターが次々出てくるのだが、作者はその困ったやつらにもちゃんと愛情を注いでいることだ。話を面白くするために嫌な奴を登場させている、というありがちなドラマ的発想ではなく、彼らも主人公の1人として、きちんと扱われているのだ。こういう漫画を読むと、自分の人間としての出来がまだまだ不完全だということが思い知らされ、精進しなくちゃ、と思う。
昨日テレビ放送していた「たけしの誰でもピカソ」は金子國義の特集だった。予約録画しておいたはずなので見ようとしたが、入っていない。調べてみると、予約の日にちを1年間違えていた。2005年の今月今夜、いったいこのビデオは何を僕に見せてくれるのか。

午前11時からジュンク堂前で缶コーヒー「ワンダ」のキャンペーンをやっていたので、のぞきに行く。無料でコーヒーを配っていたので、ありがたくいただく。うろうろしていると、また1本もらう。さらにうろうろしていたら、また1本。これで、成人男子にとって必要な1日のコーヒー分は確保できた。
キャンペーンではステージでモーニングフィーバーズがチアダンスを披露していた。待っていたらコブクロでも来たのかも知れないが、今日は別件で動かねばならない。
まず、吉本の花月食堂で、新メニューの「筋肉モリモリ丼」を食べる。なかやまきんに君の筋肉解説ステッカーとりんごジュースつきで600円。焼肉と卵、ミートボールがのった丼だった。僕が好きな「芸人の玉子丼」はメニューから消えていた。残念。

ル・シエル学園前で創叡のユニットライブ。ルシフェルかと思った。午後1時30分と3時の2回公演。このル・シエル学園前は近鉄学園前駅すぐのビルで、3階には創叡のダンススクール奈良校もある。
まずはタッチ「イフ・ユー・ワー・ヒア」(タイトル間違っているかも)、2曲目は「ファラウェイ」で、歌もしっかり歌っていた。タッチの中での僕のイチオシは伊藤貴恵ちゃん(95年5月1日生まれ)まだメインを取ってないけど、かなり有望。
次はAKI&RISAKOで「カメレオンアーミー」
ミニバブ「BOYS」モーニングフィーバーズの本格的チアを見たあとでは違うジャンルのダンスのように思えたが、僕のイチオシ宮之前綾乃ちゃん(92年7月3日生まれ)のダイナミックなダンスはいつ見ても素晴らしい。
プリッツ、プチプリン、ミニミニクラブ「ミッキーマウスマーチ」パラパラなので通りすがりの女子高生が音楽にあわせて一緒に踊りかけたりしていて、面白かった。
ミューズ「ちょっとだけMY LOVE」「ニセモノダイヤモンド」イチオシの(こればっかり)山口満里奈ちゃん(91年4月25日生まれ)は今や堂々のメインだ。アイドルとしての風格すら感じられる。ラズベリーズで桃香が歌っていた名曲「ちょっと背伸びしたい」は満里奈が歌うとちょうどいいんじゃないか、と思う。
MAY BE MAX「熱い予感〜クリムゾンスター〜」9月25日にメジャーデビュー。
以上。2回目のライブも曲は同じ。ミューズは衣裳を替えて出て来た。
控えの楽屋がわりに、3階のスクールが使われていたが、ダンススクールなので、全面ガラスばりで、中の様子がわかる。なんと、プリッツが本編では踊らなかった「いただきキッズ」を踊っていた。最近見ていないので、ちゃんと見たかったなあ。

帰りに立ち寄った店はトイショップ「サイケデリア」(この店はブライスが格安だ。新作のマドモアゼル・ローズ・バドもフレンチ・トレンチも7千円以下!香川雅彦のヴィネットを見に行ったのだが、あまり置いていなかった。店内BGMがいつもブリティッシュロックとか流れているのでよく行く店だ)
コミックショップ「わんだーらんど」(『何の雑誌』の立ち飲み号を発見。僕も原稿を頼まれていたのだが、立ち飲み立ち食いの店にほとんど行ったことがなくて、書けなかった。次号は何か書かせてください、って、ここで言って伝わるのかな?その他、ほとんど漫画を読まない僕には未知の宇宙が広がっている。なんとか攻略していきたいものだ)
海洋堂ホビーロビー(ここの2階は展示ホールになっている。雑誌も読み放題だ。秋にはミュシャやサンリオのフィギュアが出るらしい。これはえらいところにチャレンジしたものだ。キキララなどをあのアンティーク趣味の村田明玄が担当している!つい先日、海洋堂はディズニーやサンリオとは別路線を行ってるのかな、と思っていたが、あれは2年前の本を読んでの感想なので、今は事情が違うってことか。ミュシャは海洋堂っぽくてアタリかも)

「愛情イッポン」最終回は人格改造新宗教っぽいクライマックスだった。
さて、今日読んだ漫画はこしばてつやの『リモート』全10巻。原作は天樹征丸。2002年に堂本光一とフカキョンでドラマ化されたそうだが、ドラマが苦手な僕は当然見ていない。引きこもりの天才警視と、彼にリモートコントロールされる婦人警官。この設定はジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムのシリーズをそのままパクッたようだ。ミステリーの体裁はきちんとしているので、深くつっこまずに読めば楽しめる作品だと思う。しかし、設定自体が借り物なことでもわかるように、どこかで読んだような話が多い。第9巻と10巻に渡って展開される最終話「マラソンガール」も「これはデジャブなのか?」と調べてみると、島田荘司の『確率2/2の死』だった。せっかく原作者がついているのに、こしばてつやも盗作すれすれの作品を描かされてはたまらないだろう。
ベロック・ローンズの『リジー・ボーデン事件』を読んだ。「リジー・ボーデン」と聞いて、大半の人はアイスクリームかヘヴィーメタルバンドを頭に思い浮かべたことだろう。本作はさにあらず、読みやすい女流サスペンスだ。リジー・ボーデンというのはアメリカで起きた迷宮入り事件の容疑者だ。両親を斧で殺した罪で逮捕されたが、証拠不十分で釈放されたのだ。それなのに、なぜか犯人はリジー・ボーデンだとみんな思っているのが、面白い。父親はケチで厳格。母親はまま母で、子供たちに家長たる父には服従するようしつける。リジーはもうとっくに成人したいい大人なのだが、いつまでも家に縛られ、父をこわがっている。普通に恋愛したくても、親が反対するのだ。事件が1892年、日本では明治時代だ。まだ古い家族観が残っていたのだろう。物語を読むかぎり、こんな親なら誰でも斧の1つや2つ降りおろすだろう、と同情できる。きっと、そのような情状酌量があって、リジーは無罪放免となったのではないか。
さて、この小説(翻訳者の仁賀克雄によると、事実と虚構をあわせた「ファクション」なんだって!爺くさいセンス!)、リジー・ボーデン事件について何か新しい仮説を組み立てるとか、犯人は別にいた、という趣向があるわけではない。殺人に至るきっかけとして、恋愛の衝動があった、とするのが新機軸なのか。なんだか実録事件ものを読んだような感じだ。すらすら読めるので、2時間サスペンスっぽくもある。なお、仁賀克雄はリジー・ボーデン事件についての本を近々出すそうだ。切り裂きジャックの本はいっぱいあるのに、リジー・ボーデン事件の本はほとんど無かったので、これは楽しみ。

今日は夜勤明けでノーマイカーフリーチケットを使って、市立図書館と府立図書館とレンタルコミック店をまわった。重い本はその場で読むだけで、次借りることにして、軽い本ばかり借りて来た。ここで言う重い軽いは、内容ではなく、重量です。漫画で影響受けたのは三田紀房の『ドラゴン桜』で、落ちこぼれ学生を東大合格させようとする話。読んでいると、自分も大学受験したくなってくる。受験から20年以上たっているので、そのときの苦しさを忘れているのかもしれないが、どうもちゃんと受験勉強した記憶がないのだ。
マクドナルドのハッピーセットでエンジェルブルーのおもちゃを買い、早速リュックにつけた。背負っているあいだ、自分では見ることができないのが難だ。
宮脇修一『造型集団海洋堂の発想』を読んだ。海洋堂は優れた造型作家を宮脇親子がぐいぐい引っ張っているのだ、ということがよくわかった。ボークスやフルタ製菓との確執など、歯に衣着せず語っている。こうして海洋堂側の主張なり歴史を読んでいると、ついつい海洋堂に肩入れしたくなってくる。根が単純なのだ。
もともと海洋堂のフィギュアはゴテゴテし過ぎていて、無条件で評価できるものではない。海洋堂と袂を分かってからフルタが出したアリスのシリーズは大好きだ。チョコベーダーなんて最高だ。フルタが出したディズニーのシリーズも好きだ。キンダーサプライズの良さをみんな、何故わからないのか、と地団駄ふんでいる。職人芸なんて知ったことか。そう感じるのは、僕がプラモデルや機械、車などに何の興味もないのが影響しているのだろう。精密であることは素晴らしいとは思うが、それに無条件では価値を認めていないのだ。むしろ、精密さ、正確さ、確実さより、ひらめきや面白さに価値をおいている。精密であっても、それ以外の、それに頼らない価値を見てしまう。と、いうか、精密さなんて、頭がザルの僕にはよくわからない。
でも、海洋堂の作品の質が高いことくらいは、僕でもわかる。やっぱり欲しい。
造型作家で、美少女フィギュアの「ボーメ」(いつも帽子とメガネ姿なのでこのあだ名がついた)や、チョコエッグで動物作って大当たりさせた松村しのぶ、ワールドタンクミュージアムの谷明、アリスの村田明玄など、多士済々、梁山泊の態をなしているが、僕が興味を持ったのは、香川雅彦だ。香川雅彦は「リボンの騎士」「三つ目がとおる」等、僕の好きな手塚漫画でエレガントな作品を作っている。精神の病を抱えているのもポイントが高い。
この夏、香川雅彦の本も出たので(中味はまだ見ていない)、彼だけは追いかけてもいいかな、と思っている。

と、言いながら今日買った食玩は、キティちゃんが探検隊の格好しているボトルキャップがついたキャンディーだ。海洋堂の本ではディズニーやサンリオのことをほとんど相手にしていないが、客としては、動物も戦車もキキララもニモも同じ土俵の上に立っているのだ。海洋堂の今後の展開が注目される。家から近いから、ホビーロビーには週1くらいのペースで行ってるし。
一昨日に引き続き、江崎実生監督、小林旭主演「続・女の警察」を見た。主題歌は「女の警察」と同じく青江三奈の「酒場人形」
この続編では、銀座を舞台にホステス引き抜きやレジャービル建設などを描いている。やはり金を儲けようと悪事をはたらく奴等が小林旭に成敗されるのだ。
前作で美人局のせこい「松田」という役だった藤竜也が、今回は事件を追う立場の「早崎」という役だった。シリーズの中で、役者が違う役を演ずるのを見るのは面白い。銭形平次シリーズでも、かつて八五郎を演じていた「佐々木小二郎」という役者が、「夜のえんま帳」では「熊八」というチョイ役に左遷(?)されていたこともある。
この映画で面白かったのは、若手のホステス(長谷川照子)が「はっぱふみふみ」のギャグをとばすシーンだ。巨泉は「みじかびのきゃぷりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ」と確か詠んでいたが、この長谷川照子は「さけのびのさけのびすればすぎちょびれのびすぎすらのぽんぽんするする」と詠んでいた。ヒアリングがちゃんと出来ていないので、雰囲気で味わってください。
また、女たちが揃いもそろって小林旭に対して体で恩を返そうとするのがまるで「テンドン」(繰り返しの笑い)で、官能的なシーンのはずなのに、笑ってしまった。

今日は本も読み終えた。
津原泰水の『ルピナス探偵団の当惑』だ。3つの話が収録されている。犯人が殺人の後、被害者の残したピザを食べる「冷えたピザはいかが」(なぜ、犯人はとっとと逃げずに、ピザを食べたのか、というところから推理がはじまり、犯人を特定するのだ)、ダイイングメッセージが裏返しの文字になっており、しかもルビまでふってあった事件「ようこそ雪の館へ」、舞台上で死んだ女優の手がなぜか切り取られていた話「大女優の右手」(死体の移動するルートが面白く、「見えない人」の新トリックもあった)
本格推理としてきちんとしていて感心した。登場人物に「謎の老人」というのが出て来て、これは言うまでもなく「隅の老人」をほうふつとさせるのだが、3つめの話を読んでいるときに、ひらめいたことがあった。「そうか!しまった1まんまと作者の罠にひっかかったぞ!この謎の老人というのは、きっとアレに違いない!そうだ!きっとそうだ!」と勝手に興奮したのだが、読み終えてみると、特にそんな趣向はなかった。いずれ形を変えて、自分で作品にしてみようかと思った。

読み終えた本がもう1冊。高田崇史の『鬼神伝〜神の巻〜』平安時代にタイムスリップしてのファンタジー冒険もの。鬼と呼ばれていた者たちが、実は朝廷に逆らう先住民等であったとする歴史的立場から、主人公たちは鬼の側について、「人」と闘う。出てくるのは平安京を守る四天王や阿修羅、帝釈天、烏天狗などなど。すべてを破壊する「弥勒」を呼び出そうとする「人」たちの陰謀を阻止しようとする「鬼」たちが描かれる。いろは歌を使った暗号や、鬼の中にまぎれこんだスパイの正体など、言葉遊び的トリックが仕掛けてあって、新本格的愉しみもある。
それはいいとして、気になったのは、ストーリーそのものの大時代性とでもいうんだろうか、主人公たちは、自分のチームのためには自己犠牲を厭わず、味方の死に対して「かたきをとってやる!」と誓うのだ。これがせめて昭和の時代に書かれたものなら、そういうのもアリだろうが、今年発表されたこの本、作者の年齢も僕と対して変わらない、となれば、あまりにも感性が古すぎないか。作者がこの本で描いたような感性こそが今まで抗争、紛争、戦争を招いてきた諸悪の根源だったように思うのだ。少なくとも我々はその反省をしたうえで、若い世代に対して小説を書かねばならない。心配せずとも、このような古臭い考えは読者によって淘汰されていくのかもしれないが。せっかく歴史上、「鬼」とされていたものが、時の政権によって名付けられたものでしかない、という設定なのに、結局敵と味方という二元論で話を進めているのがどうにも歯がゆいのだ。

さて、今日はHMVにソニンが来ていたが、とうてい見れる状況じゃないだろう、と思い、パス。前回見に行ったとき、人が多すぎて何も見えなかったのだ。
先般「小説は読むが小説論を読むことは少ない」と書いたが、その空隙を埋めようと思い、『ミステリよりもおもしろいベスト・ミステリ論18』(小森収編)を読んだ。法月綸太郎の「『わが子は殺人者』解説」や、北上次郎の『冒険小説論』から2編、中条省平の「夢野久作『瓶詰地獄』書簡体を用いる」、石上三登志の『男たちのための寓話』から1編、若島正の「古典探訪」から1編など、本格から冒険小説、サスペンス、エスピオナージュ、ハードボイルド等にいたる名論考が並んでいる。
中には、北村薫(『謎物語』から)、都筑道夫(『黄色い部屋はいかに改装されたか』から)、瀬戸川猛資(『世界ミステリ全集月報』から)、丸谷才一(『深夜の散歩』から)、各務三郎(『赤い鰊のいる海』から)と、既読のものもあったが、例によって、何も覚えていなかったので、「ほほーっ」と感心しながら読めた。
意外なことに、ミステリにおける「男女」の問題が深いものだという説が多かった。しかし、それはいずれも論考としては20年以上前のものであり、現代ではどうなのか。かつてはヒーローも名探偵も男性のためのものだったが、今ではヒーローも名探偵も女性のためのものなのではないか。男性読者はヒーローも名探偵も望んでいないような気がするのだが、どうだろう。
この本の中にはミステリを読むにあたっての新たな視点を得た文章が多々あり、ミステリを読みたくなってきた。近々、読み逃している古典などを集中的に読むつもりだ。その際はこのblogに書くかどうかは未定だが、もしも書けばまさに「旬じゃない話題」が連日続くことになろう。

柴田ヨクサルの『エアマスター』22巻を読んだ。格闘はえんえんと続いている。とても面白いのだが、もともと『エアマスター』を面白いと思ったのは、ガチガチの格闘がソフトな理由で勝負がついたりする、ほのぼのとした作風だった。今ではそのおもかげもないが、かろうじて、単行本のおまけでついている「その頃誰それは」のエピソードで救われる。ドラゴンボール風の最強レベルの無限上昇じゃなくて、「おい、爆弾当たっても平気な奴が、くすぐられてギブアップなのかよ!」的展開がほしいところだ。かつての『エアマスター』にはそれがあったんだけどね。
昨日に引き続き銭形映画を見た。森一生監督、長谷川一夫主演「銭形平次捕物控 地獄の門」(1952年)由比正雪の軍資金が眠る蔵をあける5つの鍵をめぐって、殺人事件が起こる。この物語でも、密室内での殺人があったり、平次が鍵を意外な場所に隠したり、と推理小説的趣向が横溢している(どちらもポーの応用)。「天」を名乗る悪党たちが結局徳川打倒など考えておらず、私利私欲のために動いていたのがわかる趣向は、「ダイハード」を思わせる。また、蔵や鍵の謎を解くのに、悪党が平次を利用するのもうまい。事件の鍵を握る(文字通り鍵を握っていたが)女が、独身時代の平次をお静(女房)と取り合ったいわくつきの役柄なのも話を面白くしていた。結末は多くの冒険小説で体験したとおりの定番の幕切れだった。
羅門光三郎は今回比較的重要な浪人役で出ていた。最後には突然悪党を裏切って平次の味方をしたりするのだ。八五郎役はアチャコだった。思うに、銭形平次映画の楽しみは、歴代八五郎の披露する芸にもあるんじゃないだろうか。この「地獄の門」のアチャコはおなじみのギャグを連発し、踊りも見せる。昨日見た「夜のえんま帳」のハナ肇はドラムを熱演、「雪女の足跡」の八五郎は船越英二だったが、のそきからくりの口上をしていた。後の作品を調べてみると、エノケンや堺俊二など、芸達者が揃っている。これは楽しみだ。今までに銭形平次の映画は何本も見たはずだが、ストーリーも含めて何も覚えていないので、もう1回見てもいいかもしれない。

続いてケーブルテレビで見たのが「女の警察」だ。
梶山らしく、水商売の女の失踪から山陽新幹線(映画では「西日本新幹線」)に絡む裏の利権に通じる事件を扱っている。
この作品は原作を読んでいた。わりと原作に添って映画化されているように思えた。
で、気になったのは、作中、「女をさがせ」と主人公に命じる老人の口から出た「河童じめ」だ。老人が女に執着するのは、金目のものを持ち逃げされたからではなく、女が名器の持ち主だったからなのだ。どんな名器かというと、「河童じめ」。
原作に当たってみると、そこは「ミミズ千匹」になっていた。ミミズ千匹がどのような名器かと言うと、梶山季之の原作によるとこうだ。
「彼を驚喜させたのは、丹羽章子が何万人に一人といわれる、俗称『ミミズ千匹』という名器の持ち主で、その上、とめどもなく体液を流す女性であったことである」
と、まず前置きした上で、
「ミミズ千匹とは、小さいミミズを千匹集めた容器に、男性を挿入させた形を想像していただくより説明の方法もないが、とにかく逸品中の逸品なのである」
と、説明を半ば放棄しているが、続く描写も凄い。
「だが、大川が満足したのは、彼女の毛深さであった。彼は密かに、アリューシャン列島と名付けたが、それは陰毛が臍の下あたりで、細長く密生しているからに他ならなかった」
もちろん、映画ではこのあたりは省略されている。では、映画で言われた名器「河童じめ」とはいかなるものなのか。僕は寡聞にして知らない。近いうちに調べてみよう。
この映画での創作なのかもしれない。
ご存じの方は教えてください。
NHK-FMの「現代の音楽」を聞く。今日のラインナップは2曲。望月京(モチヅキ・ミサト)作曲「クラウド・ナイン」とジェームズ・マクミラン作曲「イゾベル・ゴーディーの告白」NHK交響楽団。今年7月の「ミュージック・トゥモロー2004」(東京オペラシティ)での演奏だ。指揮はジェームズ・マクミランなので、「イゾベル・ゴーディーの告白」は自作自演になる。
「クラウド・ナイン」はこのコンサートが初演で、あっちこっちから音が聞こえてくる不思議な音楽。望月京は「この曲は○○に似ている」なんて言わせない作品を作り続けているらしい。流行歌とは真逆の作曲方法だ。ハーバル・エクスタシーのクラウド9と関係あるのかどうかは不明。
「イゾベル・ゴーディーの告白」は1990年の作品だが、日本ではこれが初演。イゾベル・ゴーディーは17世紀スコットランドの魔女で、イゾベル・ガウディーとも表記する。この曲は魔女狩りをテーマにしているらしい。それらしい劇的な音楽ではある。あいにくと魔女のことは何も知らないので、ゴーディーが如何なる魔女であるのかわからない。ゴーディーと聞けば、プロレスラーのテリー・ゴディがまっ先に頭に浮かんでくるのだ。

昨日の「HELP!」の打ち上げで、「カリオストロの城」の話題で盛り上がった。たまたま最近アニメ論などを読んでいたので、大塚英志や唐沢俊一の批評がうろ覚えに頭に入っていたのだ。そのときに、「カリオストロの城」を何回見たか、というような話題になった。僕は1回か2回しか見ていなかったが、好きな人は何十回と見ているようだ。記憶力がない方なので、きっと今見ても初めて見るように楽しめるだろう。しかし、僕は記憶力が無いだけでなく、興味が散漫なのだ。「カリオストロの城」の話題に触発されて今日見たのは、ルパン三世ではなく、銭形平次の映画(かなり前に録画してあった)だった。
で、加戸敏監督の「銭形平次捕物控 雪女の足跡」(1958)を見た。平次は長谷川一夫。謎の連続殺人事件が起こる。被害者は怪盗団花蝙蝠をつかまえるのに手柄をたてた者たちなのだ。花蝙蝠が盗んだ3万両の行方も不明だ。雪女まで目撃され、謎は謎を呼ぶ。さて。
銭形平次の推理はホームズみたいに冴えている。一見切腹自殺したかに見える浪人の現場から、他殺だと見抜いたり、雪の足跡トリックを結末でこともなげに解いたりするのだ。この映画の面白いところは、こういう、近代的な楽しみが満載なところだ。花髑髏と捕り手が刑事ものみたいに銃撃戦を演じたり、曲者がカンフー映画なみのアクロバットで逃げたり、瓦版売りの楠トシエがミュージカルっぽく明るい歌を披露したりする。住職の殺害に関して平次が捜査からはずされる筋立てはまるで「踊る大捜査線」で所轄がつんぼ桟敷に置かれるのと同じだ。時代劇お約束の、橋の上での格闘で悪者が投げられて水しぶきをあげるシーンも何度も登場する。クライマックスでは3万両を見つけた平次が、いつもの投げ銭じゃなく、小判を投げて悪党どもを退治する!娯楽映画を見ましたー!という満足感にひたった。キャストの中に羅門光三郎の名前もあった。中島らもの「らも」の由来になった役者だ。悪党の役だった。
さらに、ビデオに入っていたコマーシャルを見て、最近コマーシャルで寿司をサイコキネシスで浮かび上がらせる老人が、かつては「実はわしは黒飴マンなんじゃ」と変身していた前歴も判明した。

続けて探し出して見たのは同じく長谷川一夫主演、渡辺邦男監督の「銭形平次捕物控 夜のえんま帳」(1961)だ。「雪女の足跡」はカラーだったが、これは白黒。邪教ものだ。クレージーキャッツが出演している。作中、「太鼓の音が聞こえた」と言う証人を前にして八五郎のハナ肇が大小さまざまな太鼓を並べて、「おまえが聞いたのは、こんな太鼓の音か?」と確かめるシーンがある。お察しの通り、太鼓はいつしかドラムソロの演奏になり、ばち(スティック)をくるくる回したりしながら、えんえんと熱演が続く。全体に真面目な時代劇なのだが、このシーンは笑った。
長谷川一夫の銭形平次は全部で18本だったと思うが、この作品は17本め。若い頃の殺陣に比べて遜色ない銭の投げっぷりだとは思うが、そろそろしんどかったのか?
空堀商店街で、創叡のユニットライブがあった。
出演したユニットは、ミューズ、ラズベリーズ、ペトラキッズの3組。
2回公演まずは1回目、12時30分から。
ミューズ「ちょっとだけMY LOVE」
ミューズ&ラズベリーズ「イントロダクション」
ラズベリーズ「リトルバード」
ペトラキッズ「ラブリー・フレンドシップ」
ミューズ「ニセモノダイヤモンド」
ラズベリーズ「エブリデイ・ビー・ウィズ・ユー」
ミューズ&ラズベリーズ「アニメメドレー」
以上。
途中で半端じゃない雨が降り出し、びしょ濡れになりながらのダンスはとても魅力的だった。
2回目は雨のために少し時間が遅れて2時18分から。
衣裳を替えてのライブだ。
曲目は同じだが、最後に全員登場の「ショータイム」がかかる。
やはり、このライブの楽しみは、ユニットのライブもさることながら、他のユニットがライブ中にも、ステージに立っていないペトラキッズ(平均7才)たちが、一緒に踊っている姿が可愛い。ダンスが本当に好きなんだろう。
2回のライブの後、防犯のイベントもあり、ミューズがお手伝いしていた。僕もちゃんと自転車の前カゴにかけるカバーをミューズのメンバーから手渡しでもらった。

今日は芦原橋のウィングホールで秘蔵VTRショーの「HELP!」だ。
コスプレアイドルのゆっきいちゃんの卒業式からはじまり、主に創叡について、思いのたけをぶつけてきた。
と、だけ書いていると、普通のイベントに思えるのだが、実際に来場してくださった人にはおわかりの通り、これはテロに匹敵するすごいイベントだった。内容は一切他言無用の秘密なので、ここにも書かないし、個人的に聞かれても、答えないつもりだ。来たお客さんの中で口の軽そうなのをつかまえて問いただしてくれ、とでも言っておく。

打ち上げの後、異端な祝祭というオールナイトイベントに寄るつもりだったが、「HELP!」で完全燃焼してしまった。重い荷物を置きに戻ったあと、クラブに行くだけの余力が残っていなかったのだ。
これは、昨日の夜遅くに、僕をたずねて不審者が家に来たことに影響されてもいる。
「遊びに来ました」と、僕を呼び出して、家に入ろうとした輩がいたのだ。
その不審者は自分が誰なのかも名乗らず、僕とどういう知り合いなのかも、応対に出た家人に向かって「そのようなことをあなたに言わねばならない理由はない」とつっぱねたというのだ。「約束していたのですか」と家人が尋ねると「それはあなたに言う必要はない。連絡先の電話番号も知らないので、直接会いにきたのだ。いいから、早く本人を出してくれ」と強い口調で言ったという。
僕はあいにくとその不審者をのぞき穴からものぞいていないので、本当に不審者なのか、礼儀を知らないだけの友人なのか、判断できない。もしも、僕と遊びたかったのに、門前払いを食わせていたのだとしたら、申し訳ない。僕はそのとき、君とは遊べなかったんだよ。
でも、本当に不審者なら、オールナイトで家を開けていたら、また同様のやりとりがあり、無理矢理侵入してきてはたいへんだ。片付けていないので、ゆっくりとしてもらえるスペースもない。飾ってあるフィギュアを倒されるのも腹立たしい。
不審者がまたやってきてもいいように、玄関口に金づちを置いておいた。頭蓋骨の1つでも割れれば、きっと思い知るんじゃないだろうか。保山は無礼を許さない、ってことをね。
今日は、明日のイベント「HELP!」のためのビデオ選び。
ビデオの整理を全然していないので、何が出てくるかわからないビデオをえんえんと見たりしている。
前回がキツイ映像ばかりだったので、今回はアイドルの良さをあらわす映像を持っていきたいのだが。

そんなこんなで、今日は読み終えた本無し。映画も見に行けず、イベントにも行けず、ギャラリーにも寄れず。
かろうじて紹介できるのは、読んだ漫画だけ。
読んだのは猿渡哲也の『異形人おに若丸』全4巻だ。
この前見に行った映画「ヴァン・ヘルシング」は怪物たちがオールスターで出ていて楽しませてくれた。この漫画も山田風太郎っぽいオールスターの登場人物たちで楽しませてくれる。
主人公は、事故で死んだ500人の意志を受け継いで命を得た新生児である。500人の死体のまだ使える内臓を寄せ集め、それをつなぎとめる魂として、封印が解けた鬼の魂を用いた。主人公の心身は人間と鬼が共存しているのだ。
で、この主人公が世界を闇で支配しようとする闇空法師と対決するのだが、闇空法師の正体はなんと安倍晴明。桃太郎を甦らせて、主人公(鬼)退治をしようとしたりする。一方、主人公側は、鬼と同じ幼名「鬼若丸」を持つ弁慶を仲間につけ、その力を宿した刀を持つ。また、鬼を封印し、また封印から解いた張本人たる空海が、晴明打倒側につく。
要するに、空海VS安倍晴明のオカルト大決戦が繰り広げられるのだ。
えらい風呂敷をひろげたものだ。手塚治虫ならいざ知らず、この物語が4巻で終わるわけはない。案の定、あらすじを読んだような印象しか残らない。きっと連載時の人気がなくて毎回山場を作ったけど結局盛り上がらずに、終わってしまったんじゃないか、と思わせる。
「HELP!」も似たような展開に終わらないように祈る。
歌野晶午の『ジェシカが駆け抜けた七年間について』を読んだ。女子マラソンを題材にとり、カントクのために選手生命を奪われ自殺した女性と、その女性のためにカントクを殺そうとする女性の物語。
以下、ネタバレするので、読む予定の人は、ここまで。
この小説は、新本格おなじみの、時制の混乱をトリックに使っている。
日本での話だと思ってたら、外国だった、とか、ここで話題になっているオリンピックはソウルオリンピックではなく、東京オリンピックなのだ、とか、子供の話だと思わせておいて、実は親の話だったとか、午後だと思わせているが、実際は午前とか、いろいろバリエーションのある時間トリックだ。
ここでは、エチオピア時間、エチオピア暦による錯覚を読者に呼び起こさせて、最後にどんでん返しを狙っている。
で、その試みがどうだったかというと、これは押井守の本の感想のときに書いた、ジャンル内作品の域を出ていないと思える。新本格大好きな人間でないと、なかなか認められない作品とみた。
なぜか。
「こうだと思っていたら、実はああだった」という錯覚は、「実は」の後がなじみ深いものであってはじめて成立する感情だ。西暦じゃなくてエチオピア暦だった。なんて言われても、何のためにそんなことを?と思うしかない。
しかも、話を近未来に設定することで、エチオピア暦や時間だけでは説明しきれない事柄に修正をはかる。たとえば、マラソン競技が夜に開催される、とか。
現在(実際)にはない事柄を設定して話のつじつまをあわせるのなら、なにもエチオピア暦など持ち出す必要はない。事件の後、西暦は廃止され、新たな暦が作られたと設定してもいいわけだ。「その暦は1年が150日で、1日は36時間である。マラソンの定義も変わって、砲丸を遠くに投げる競技のことを指すようになった」と言ってしまってもかまわない。
「21世紀ではこうだったが、この事件の起こった30世紀ではまるで意味が違ったのだ」と書いてもいいわけだ。読者が納得できるかどうかを無視すれば。
そんなことはまあいい。
読者の勘違いが解けたとき、物語としてその小説は面白いのかどうかだ。
たとえば『殺戮にいたる病』も読者の勘違いを解いて、新たな様相を提示し、感動を呼んだ作品だ。これは、ただ「だまされた!」「やられた!」だけじゃなく、勘違いが解けた後に、事件の実態が明らかになったとき、その実態の恐さに読者は鳥肌をたてたのだ。あるいは、作品全体に周到に仕組まれた罠の技術に拍手を送ったのだ。
残念ながら『ジェシカが駆け抜けた七年間について』はどんでん返しも決まらず、ストーリーとしても心に届かなかった。なによりも、真相がわかって、ちっとも悔しく思わなかったのが本作が凡作だということを証していないか。
ただ、僕は歌野晶午の代表作たる『葉桜の季節に君を想うということ』をまだ読んでいない。それを読んだ後では印象も変わるかもしれない。
バリー・グラスナーの『アメリカは恐怖に踊る』を読んだ。「ボウリング・フォー・コロンバイン」にも影響を与えたとかいう本だ。この本はアメリカの恐怖カタログである。ハロウィンのお菓子に毒や剃刀を仕込まれたり、豊胸手術のシリコンインプラントが身体を冒すような都市伝説的恐怖や、エボラや飛行機事故などの誤った危機感などを取り上げている。これら恐怖は偏見のカタログでもあり、メディアによって大きく取り上げられるが実態が伴っていない、根拠のない偏見なのである。たとえば、ワクチン接種によって畸形になった子供をメディアは大々的に取り上げる。「ワクチンはむしろ有害だ!」と。この宣伝が今は鎮静化しているのは、ワクチン有害キャンペーンによってワクチンを作る会社が少なくなり、結果としてワクチンが不足、病気で死ぬ子供が大幅に増えたからなのだ。その数は、ワクチンによる被害の数とは比べ物にならないという。また、性的犯罪をおかすのはいい年をしてまだ独身である男性だとメディアは大声で言う。しかし、実際に女性に性犯罪をはたらくのは、圧倒的な比率で、既婚男性なのである。小児ポルノ、サイバーポルノ、ティーンマザー、黒人、湾岸戦争シンドローム、ロードレージ(キれたドライバーの起こす事故)、クラックベビーなどなど、日本で言えばワイドショーや女性週刊誌で取り上げられるネタが、いかに根拠のないものであるかがすっぱぬかれる。そして、科学的な実証データによる反論が感情的な叫びによってかき消される経緯が書かれている。
日本でも少年犯罪の若年化や、北朝鮮、テロ、新しい宗教などに対する無根拠で感情的な偏見と恐怖が取り沙汰されることが多い。
ワイドショーとは、その名のとおり、針小棒大、些細なことをおおげさに、ワイドにして伝えるショー(見世物)なのだ。普通の理性の持ち主なら、ワイドショーで言っていることなど真に受けたりしないはずなのだが、なぜか、世間とはそうではないらしい。ここで言う「世間」は、僕が思うに、自分の頭でものを考えない人たちのことであり、多数につきたがる人のことであり、読書の習慣がない人なのだと思う。
恐怖を商売にする人たちがいるのだ。
タイミングよく、クローズアップ現代で、テロ後のニューヨークで不安が消えていないことをテーマにしていた。
懲りないなあ。
さて、この本『アメリカは恐怖に踊る』だが、これもまた鵜呑みにするわけにいかない。データの読み方は、どの立場にたつかによって如何様にも解釈可能だからだ。また、メディアの持つ卑しい性格、「正しいことよりも面白い方を取る」のは、僕のスタンスと一緒なのだ。なんだ。僕はメディア批判をしたいんじゃなくて、自らメディアになりたいだけなのか。これからは、僕は自分のことを「王子メディア」と称することにしよう。
鯨統一郎の『ハッとしてトリック』を読んだ。鯨統一郎の本はどれも読みやすくて面白いので、内容も確認せず、とにかく全部読むことにしている。
今回はサッカーを題材にとった長篇推理小説。Jリーグのスター選手が、楠木正成像の馬にまたがって、爆死する。自殺かと思われたが、同じくサッカー選手が密室の中でボウガンに射たれて死ぬ。部屋の中から隙間という隙間に全部粘土をくっつけてある、完全密室だ。さらに、ビルの7階から飛び下りたはずの選手が、消えてしまう事件まで起こる。
この3人の事件は新興宗教の教祖による預言の見立てだということが判明したり、密室殺人の被害者が「70才」という謎のダイイングメッセージを残していたり。
ミステリー的要素はたっぷりあって、二階堂黎人が同じ題材で書けば、古風なおどろおどろしい通俗的推理小説を書きそうである。しかし、鯨統一郎はそんな童貞くさい書き方はしない。
ふだんなら、その力を抜いた書き方が長所として出るのだが、この本に関してはどうだろう。すべてのミステリー的お膳立てが、いかにも適当にこなした感じでしか読者には伝わってこない。この本はサッカーに関する描写が多く、サッカーに興味のない僕にとってはどうでもいいページが多かったことも関係しているのだろうが、このネタなら長篇じゃなくて、ぜいぜいが中編か短編にまとめるべきじゃないか、と思った。
以下、覚え書きのためのネタバレ。読んだら読むな、読むなら読むな。
粘土密室はユダの窓トリック。ノブでなく換気扇。
「70才」は「クロキ」。クロキノリエという名前は逆から読んで「エリの記録」を意味していた。

押井守の『これが僕の回答である』を読んだ。攻殻機動隊からアヴァロン、イノセンスに至る時期の押井守のコラムで、映画に関する文章が並んでいる。
ここでは押井守のオタク感がうかがえて興味深い。すなわちそれは、消費者として重要な存在だが、クリエイターにはなれない、というものだ。オタクはアニメ内アニメを再生産するだけなのだ。まあ、突飛じゃない、普通の意見だ。ジャンルにあぐらをかいた再生産作品はアニメに限らず、どれもたいした物ではない。
全体に普通のことしか書いていないのだが、面白く読めるのは、押井守が好きだからなのだろう。でも、コミケなどで得た感触から言えば、押井守は興味深いが、押井守ファンはなんだか、鬱陶しい。クリエイターじゃないからか。
映画「ヴァン・ヘルシング」を見て来た。数日前に招待券を懸賞で当てたのだ!バンザーイ!そのおかげで、推理クイズもドラキュラが犯人の話を書くきっかけになった。
スティーブン・ソマーズ監督。ヒュー・ジャックマン、ケート・ベッキンセール、リチャード・ロクスバーグ。
ネタバレするので、この映画を見に行く予定の人は、注意。
モンスターハンターのヴァン・ヘルシングがドラキュラを退治する話。
この映画にはドラキュラだけでなく、ジキル博士とハイド氏、狼男、フランケンシュタインの怪物が出てくる。ハイド氏はヴァン・ヘルシングが退治する最初のシーンに出てくるだけだが、後の登場モンスターは有機的にからみあっている。
悪の大将はドラキュラで、ドラキュラは自分の子供たちに永遠の命を与えようとしている。その子供たちは、どろーっとした繭の中に入っていて、まるでエイリアンだ。今までは孵化してもすぐに死んでいたが、フランケンシュタイン博士の研究成果を利用して、子供たち(生まれたらグリフォンみたいな空飛ぶコウモリ怪物になる)に生命を付与しようとする。
フランケンシュタイン誕生のときみたいに、人を寝かせておき、雷で電気をバリバリと通し、その生命力を繭に移すのだ。普通の人間の生命力では足りなかった。狼男の生命力でもダメだった。最後の望みはフランケンシュタインの怪物で、こいつの生命力を使えば、きっとドラキュラの子供たち(その数、数千!)は永遠の生命を得るのだ。
さて、ヴァン・ヘルシングは狼男と闘った際に、噛まれて、次の満月に狼男になってしまう!なぜか狼男になるのを止める薬をドラキュラが持っているので、それを奪いに行かねば!よく考えると、なぜドラキュラが狼男解毒薬を持っているのか?それがこの映画のポイントなのだ。このドラキュラはまさに最強で、十字架も銀の杭もまったく効き目がない。じゃあ、どうやって退治すればいいのか?ヴァン・ヘルシングは、推理し、結論に至る。ドラキュラを倒すことが出来るのは、狼男だけなのだ。だから、狼男が攻めてきたときに、狼男解毒薬を使って、対抗しようとしていたのだ。ほほーっ。ヴァン・ヘルシングは自ら狼男になって、ドラキュラを倒すのである。フランケンシュタインの怪物の生命力で生まれたドラキュラの子供たちも、ドラキュラの死とともに滅びた。
これは面白い映画だった。もともと映画館で見る映画に飢えていたので、なんでも大歓迎だったが、退屈せずに見ることができてラッキーだった。

昨日は地震情報をテレビでずっと見ていたので、録画した番組などをろくに見ることもできなかった。で、高橋睦郎のギュスターブ・モロー解説とか、ロシア国民楽派の音楽とか、Wとベリーズ工房のライブで買ったDVDパンフレットなどを見た。
一番面白かったのは、DVDパンフレットだ。ライブでは桃子が欠席で、2トップの片割れたる菅谷が目立つのかな、と思っていたら、夏焼のひとり天下だった。そのすごさにばかり意識が行き、あんなに好きだったWの魅力がイマイチ伝わってこなかった。ところが、このDVDパンフレットの辻の超越ぶりを見て、また好きになった。以前買ったハロプロコンサートのDVDパンフレットと見比べてみて、その差に驚いた。ハロプロのパンフレットはシナリオがあって、それをこなしている、という雰囲気だったのだが、Wのは、えんえんとWが勝手に遊んでいるだけの映像が続くのだ。段取りもまとまりもへったくれもない。それがむちゃくちゃ面白い!
ATCで創叡のライブがあったので、見に行った。午後1時と3時の2回公演。
まず、1回目から。うっかり遅刻して、最初のヨサコイ選抜を見逃し、2番目のフレーズは新曲をやっていたが、タイトルをど忘れしてしまった。
2、フレーズ「(新曲)」
3、ブラックベリーズ「EVER&EVER」
4、マシェリ「お誂え向きのデスティニー」
5、タッチ「ファーアウェイ」
6、ミューズ「ちょっとだけMY LOVE」
7、ミューズ、AKI&RISAKO「イントロダクション」
8、AKI&RISAKO「カメレオンアーミー」
9、ラズベリーズ「エブリデイ・ビー・ウィズ・ユー」
10、ミニバブ「BOYS」
11、ペトラキッズ「ラブリー・フレンドシップ」
12、クランベリーズ「恋してるって感じ」
13、MAY BE MAX「熱い予感 クリムゾンスター」
14、いちごっ娘「おまつり」
15、スリーピークス「夢のトビラ」
2回目は順番は同じ。衣裳を替えるユニットが多かった。1回目と曲目が違ったのは次の通り。
1、バリ島選抜「お祭り忍者」
2、フレーズ「ダンシング・ジャンク」
3、ブラックベリーズ「恋がはじまるゥ」
5、タッチ「ウイ・ウィア・ヒア」(?)
6、ミューズ「ニセモノダイヤモンド」
8、AKI&RISAKO「サウスポー」
9、ラズベリーズ「リトルバード」
15、スリーピークス「200倍の夢」
2回目のライブ終了と同時に、にわか雨がサアーッと降った。まるで演出のようだった。
MAY BE MAXの「熱い予感 クリムゾンスター」は赤星選手の応援歌としてCDリリースが決まっているそうだ。クリムゾンスターで、赤星か。なるほど。曲調は、往年の特撮ヒーローものみたいだった。この曲で盛り上がれるのかどうかは、微妙。

NHK-FM「現代の音楽」は伊福部昭の卒寿コンサートから「交響頌偈(じゅげ)釈迦」を放送していた。ちょっと聞いただけで、明らかに「伊福部昭だ!」とわかる音楽。90才の今も作曲を続けており、50年前と変わらぬテイストを保っているのは、見事だ。僕は現代音楽のことは全く知らない門外漢だが、伊福部昭はエピゴーネンの跳梁を許さぬオンリーワンなのではないか、と思った。「いや、違う、たとえばこれを聞いてみな」と言う人はぜひ教えてください。

帰宅してから、録画しておいた「ニコモノ」のドラマを見たが、ブレアウィッチ・プロジェクトみたいでかなり恐かった。謎の「人蟲」とは、いったい?来週に続く。いやしかし、ニコモノもうすぐ最終回なのか。

大きな地震が2回あった。うちの猫はおびえてベランダの隅でうずくまったままだった。
棚にあったものは全部下に落ちており、トイレは水びたし。僕は「いつ死んでも不思議じゃないんだな」との思いを強くした。楽しいことは後まわしにせず、今楽しまねば、と思った。今、やりたいことを我慢して努力して、後に結果が出るような悠長なことはやってられない。明日にでも死ぬかもしれないのだ。
この考え方は、今回の地震ではじめて思ったことではなく、もともと僕はこんな考え方の持ち主なんだけど。
上方落語のお祭り「彦八まつり」に足を運んだ。落語家さんたちが店を出し、会場の生國魂神社はあっちを見てもこっちを見ても落語家さんばかり。今回はさんまも来るらしいので、例年以上の賑わいだ。オープニングは鶴瓶の司会でESSEハッピーキッズライブ。
沙耶華の挨拶をまじえながら、PINKY-D CLUSHが「愛のために」を歌い、「ラッキーチャチャチャ」など全部で7曲を歌い踊る。
最後はいつもの「COME ON〜Do You Dance Now」だが、途中で音が止まってしまい、また最初からやりなおすハプニングも。
彦八まつりは、境内とステージの催しは無料で楽しめるが、奉納落語会だけは2千円以上の入場志納金が必要だ。そのシステムはもう上方落語ファンにはおなじみだと思ってたのだが、「無料なんとちゃうんか!」と大声で怒っているおじさんがいた。会場の入口で係員に怒るなら話はわかるが、離れた場所で、不特定多数の単なるお客さんに対して怒りをぶちまけているのだ。
今日出会った愉快な登場人物を紹介してみた。

千里中央の北広場に「街角コンサート」を見に行く。登場したのは「歌E隊」イエローキャブウエストの女の子たちだ。「アブラカダブラ」「め組のひと」「チューチュートレイン」「郷メドレー」を歌った。MCをとっていたのは藤本仁以奈で、元プチドル隊。今や堂々たる貫禄だ。ライブが進むにつれてGジャンの前は全開になって、全員色違いのビキニを披露していた。途中から、わんわん共和国から謎の着ぐるみ(狸?あらいぐま?)が登場して、一緒に踊っていた。(『わんわん共和国』と言えば、ロス疑惑の三浦氏が万引きしたことで有名な本のタイトルだが、この着ぐるみとの関係は不明)
帰りの電車に、電車好きの20代の大きな男の子が乗って来て、隣に坐った。
彼は窓をたたいて「あーあーあー」と叫んでいたかと思うと、いきなり旅行のパンフレットを熱心に読みだし、また大声で何か叫んでいた。彼の腕はいかなる悪性の毒虫に刺されたのか、チョコボールを数個くっつけたような腫れがあり、黒くくすんでいた。
今日出会った愉快な登場人物第2号を紹介してみた。

大阪国際会議場で「Wスタンバイ!ダブルユー&ベリーズ工房」コンサートを見て来た。なんと、ベリーズ工房の嗣永桃子が学校行事のため欠席だった。
1、あなたなしでは生きてゆけない
2、ファイティングポーズはダテじゃない!(この後、W登場して全員で挨拶。加護は桃子が欠席しているのに、その人数を減らさずに「今日はこの10人で」と言っていた)
3、ハピネス〜幸福歓迎!〜
4、蝉(この後Berrys工房の自己紹介。キャプテンの清水は人数を間違えなかった)
5、ピリリと行こう!
6、恋のバカンス
7、センチメタルボーイ(この振り付けはツボだった)
8、サウスポー(この後清水、熊井、徳永、辻、加護による水戸黄門風コント)
9、ミニモニ。じゃんけんぴょん(辻、菅谷、夏焼、石村)
10、GET UP ラッパー!(加護、清水、熊井、須藤、徳永)
11、LOVEマシーン(全員)
12、友情、純情Oh青春(クローバーズの冒険の主題歌!)
Wによる長めのトーク。オフの日にどうやって過ごしたかをお互いに報告しあう。辻は紺野と遊んでいたらしい。アカペラで「待つわ」を歌う。
13、渚の「・・・・・」
14、淋しい熱帯魚
15、ちょこっとLOVE
以上、本編終了。以下アンコール
16、あぁ、いいな!
17、でっかい宇宙に愛がある
さて、ライブの感想だが、ほのぼのした感じがあって、好印象だった。ただし、音響がひどかったし、メインで歌っている子にスポットライトが当たっていなかったり、スタッフに改善してほしいところが多々あった。また、帰りの道が細いエスカレーターだけ、という会場そのものの欠点もあった。よく将棋倒しで事故にならなかったものだ。おまけに、物販の列がまだ長く並んでいるのに、「閉館します!」と客を追い出そうとするのも気になった。これはスタッフの悪いところではなく、大阪国際会議場そのものが持つ致命的な欠陥だと思えた。ライブに使うホールでありながら、「ジャンピング禁止」ってどういうつもりなのか。
できれば次からはこんな会場を使わないでほしいと思った。駅からも遠いし。(徒歩で15分くらい)まあ、そんな悪い環境の中で、Wとベリ−ズ工房は善戦していたと思う。
帰りの道で、近所の路上に住んでいるおじさんに逢った。いつものように、誰もいない空間に向かって「ガオッ!ガオッ!」と吼えていた。
今日出会った愉快な登場人物第3号を紹介してみた。
たまに推理クイズを書く。
決められたテーマにそって、1週間ないし2週間のあいだに問題編を書き、1週間後に解決編を出すというサイクルだ。ミステリーとは離れていたので、あまり問題編を書けなかったのだが、天城一やミステリー論の本を読んだことで、推理小説向けの頭になっていたので、今回は問題を書くことができた。
ところが、とっくに問題編アップの期限を越えていた。でも、せっかく思い付いたんだから、と提出した。幸いにも、アイディアが湧いた次の日には作品が完成していた。要するに深みもなく、複雑でもない。読んで5分後には解決できてそうな作品だ。推理の時間が足りなかったというクレームはつきそうにない。ただ、解決に向けて頭をひねってくれる人の数が圧倒的に足りない。簡単な問題でも、あーだこーだといろんな推理を出してわざとボケたりしてほしいものだ。
それだけの価値のある作品なのかと問われると、うーん、自信はない。
月曜には解決編をアップするが、何かの縁でこの日記を読んだ方も、一度読んで、頭をひねってみてください。
http://bbs1.parks.jp/20/answer/bbs.cgi

今日は読んだ漫画を書いておこう。加藤元浩の『ロケットマン』だ。月刊マガジンに連載中で、あと3回でいよいよ完結というクライマックスにさしかかっている。
この物語は、少年の冒険ものなのだが、国際政治や時事問題が絡んでいたり、密室犯罪が描かれていたり、知的な応酬があったりして、かなり面白い。各章のタイトルが有名なSFからとられているのも、マニア心をかすかにくすぐる。
ロケット開発と、失われた少年の記憶と、国際的な謎の組織。
深刻に描けばいくらでも深刻に描けそうな題材を爽やかにこなしている。
この日記は自分の記憶のためにつけているので、いくつかのキーワードを残しておこう。
密室はピンセットが解錠のフェイク。
組織はベルリンの壁崩壊後の諜報活動をになう。
あとはえーっと、忘れた。これだから、ちゃんと書いておかないと。
例によって、雑誌を読む習慣がないので、コミックスで1巻からまとめて読んだのだが、不思議と雑誌掲載時はほとんど読みとばしているのに、コミックスになるとじっくり読んでしまうのは何故なのか。雑誌は読み捨て、本は熟読、という固定観念が僕にはあるのか。

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