長くなったので、読書した分は、こっちにわけて書きます。
ジャン=リュック・ナンシーの『哲学的クロニクル』を読んだ。
ナンシーがラジオ番組で11回に渡って語った内容を1冊の本にまとめてある。
それぞれの内容と、簡単なメモ。

1、「神の死」のあとの哲学
神々の世界のなかで与えられていた制約が退引して哲学は誕生した。
世界の諸々の根拠が退引して哲学は誕生した。
「神の死」が明らかにするのは、最終の制約は存在せず、起源をなすような無制約的なものも存在しない、ということだ。
そして今や、あらゆる起源が無制約的なるものを要請している。
理性は理性的なるもの以上のものを欲し、真理は意味の彼方に存在する。
えーと、最初に書いたように、これ、ラジオ番組でナンシーが一般の人に向けて語ったものなんですよ。僕にはまったくちんぷんかんぷんである。

2、自己中心的経済の乗り越え
資本主義経済に率いられた社会は、もはや当の社会自身を信じていない。
「法治国家」「人権」「民主主義」は信頼を失っている。
人々はここぞとばかりに偶像をふりかざす。
偶像とは粗雑な表現に格下げされてしまった諸々の観念で、「神の意志」と「人間の自由」を指す。
自己満足の自律性の生の形式は老熟しきっている。われわれはこの自律性の文化の老熟を洞察することによって、他なる若さの表徴をどの方面で待ち構るべきかを想像させてくれるだろう。
できるのは、それだけ?

3、哲学と生の関係
哲学は宗教と体験のあいだにあって、また政治、学問、芸術も位置する空間にあって、一方と他方とを間隔化する責任を負う。
文明全体を切り裂く妥協を知らぬ鋭利な刃。
哲学侍。「残念!哲学斬り!」

4、一神教の問い
人間は今や単独であり、神を欠いている。
有神論も無神論も無効になり、単独な実存者のアナーキズム的な態勢が優位に立つ。
これをナンシーは「不在神論」と名付ける。
一神教の動員作業を考察するには、一神教を廃棄するのでなく、脱構築するのがよかろう。

5、政治とは何か
「ポリティック」という言葉を使うときは、それが何について語っているのかを明確にする努力を怠ってはならない。
「ポリティック」という言葉の曖昧とした全体主義的な観念こそが、まさに政治的効果を生み出しているのだから。

6、「ハイデガー事件」
ハイデガーは歴史の近代的転回については敏感であった。
ファシズムが歴史を新たに切り開かなかったこともハイデガーはすぐに気づいていた。
なのに、最初の着想を延長するなかで頑迷に思考することをやめなかった理由を考える必要があるだろう。
歴史はファシズム以来、どこに行ってしまったのか。
われわれの前に!なおも破砕しつつ、新たに到来している。

7、日常性とは何か
ハイデガーは日常性との差異を際立たせることで、歴史への要請を打ち立てた。
それを批判的に受け止めるなら、日常性を評価しなくてはならないのだが、日常性ってやつは平凡で凡庸で俗悪で無意味なものだ。ほめてまつりあげると、日常性でなくなってしまう。
ナンシーは日常性の「非出現性」に着目する。

8、イラク戦争
アメリカによるイラク虐殺に対し、憤激の増幅が見られる。
この憤激は人々を欺きかねない錯覚として働く危険もあることを注意せねばならない。
同様に、アメリカの絶対悪をテンガロンハットをかぶったサタンの出現と名指す「告発」も錯覚を起こしかねない。
民主主義のような語も概念もすべて作り直して考えねばならず、意味作用によって保障された平和の基盤に立って戦争を弾劾できるなんて思い込まないでおこう。

9、死・否定性の問題
われわれの今日の文化では、否定性の取扱い方に苦慮している。
死、戦争、沈黙、不在、空虚、孤独、常軌の逸脱、無限。
肯定作用(前向きの発想)と否定作用(否定的発想)はともに一面的だ。
ヘーゲルの弁証法では否定性の十全な使用がなされたが、それ以降の進展やいかに?

10、現代芸術とは何か
人間の諸実践のなかには、その意味がカテゴリー化されないある実践が存在する。
そしてその感覚的な現実性は還元不可能なくらい多種多様であるとともに、常に強迫的なまでに必然的なものである。
いかなる意味も満たすことのないような真理、またいかなる一体性にも昇華されないような真理に則しつつわれわれ自身を感受したいという欲望をわれわれはもっている。
この章は非常にわかりやすかった。
芸術に突破口を見い出した学者が確か他にもいたはずだったけど、誰だったかなあ。

11、視覚の彼方
太陽中心主義(ヘリオサントリズム)=地動説の呪縛が西洋にはある。
太陽が正面から見れないように、自明性は正面から凝視できず、あらゆる正面は恐るべき、また、驚異に満ちた眩暈なのである。

全体に、言葉の使い方が難解なのだが、言わんとするところはわかりやすい。
難解なのは、日本語がこなれていないからでもある。
1つの単語に複数の日本語を「=」で結んだ訳をつけてある。ナンシーの言わんとするところを正確に訳したいからなのだろうが、これが読みにくさにつながっている。
1ページに1つ以上必ずあり、ひどいのになると、1つの文章中にいくつもの「=」が使われているものもある。あんまりひどいから、「メルロ=ポンティ」が出て来たときも「またか!」と思ったほどだ。
鶴見はなぽーとブロッサムでダンシングBANANA。
司会は、吉岡由佳梨。
最近のダンシングBANANAのブロッサムライブでは、「〜をお届けしました!」と両手をパッと出すアクションをしなくなった。
それと、カメラ、ビデオの撮影について、禁止はしないが、撮影せずに手拍子などで応援してほしい、というアナウンスが目立ってきた。
ステージに立っている側としては、じっと坐っていたり、カメラをのぞいているよりも、手拍子なりなんらかのアクションをしてくれている方が燃えるのは確かだ。客の表情が見えないライブは、やってる側としてはつまらない。だが、毎回しつこい程言うのはいったいどういうわけか。1回ステージに立って、客席がどう見えるのか見てみたい。あっ、ここのステージ、バックに客席が鏡のように映っている。今度確認してみよう。
午後2時の回
1.Diving to Love
2.シノブ(ダンス)
3.世界が一つになるまで
4.軌跡
5.大航海ランドスケープ

午後4時の回
1.Scream(ダンス)
2.軌跡
3.Dandelion
4.大航海ランドスケープ
5.Diving to Love

ライブ後には小さいお友達限定の握手会、物販。今日の目玉は「クジ引き」で、1200円でCDとかサインした小物や、プリクラ貼った小物、DVDなどが入った袋が当たる。
テーブルの上は、まるでバザーだ。

湊町リバープレイスのK-SAPでおかめふく。
今回は、いや、今回もおかめふくはトリをとる。
おかめふくまでの時間、読書して過ごす。
午後8時23分から30分のライブ。
おかめふくソング、FLY!!、いいお天気、ハッピーラッキーデイのオリジナル群と、バラード。
今日のおかめふくの衣装はツナギだった。
「亀」「福」の漢字がまるでドラゴンボールみたい。
ポイントは2人が頭に装着した耳。
なおちゃんは先日はじめて行ったというディズニ−ランドで購入したミニーの耳をつけていた。
今日は雨が降るかも、と思っていたが、天気ももって、格好のライブ日和だった。
おかめふくはちょっとおとなしいかな、と思ってたが、最後の「ハッピーラッキーデイ」で一気にヒートアップした。
おとなしいと思ったのは、主に、僕自身の体調が芳しくなかったからだ。
いったん帰宅してから「すきすきエレポ」に行こうと思ったが、まさに家を出ようというときに、腹痛が再発。残念ながら見送ることにした。今日はチャンキーやトーストガールのライブもあったので、行こうと思ってたが、これも見送り。

川島雄三監督の「夢を召しませ」を見た。1950年
松竹歌劇団のスターたちが出演するレビュー映画。
原作は菊田一夫。劇中歌は「夢を召しませ」(渡辺はま子)と「春はキャベックで」。
主人公は劇場の案内係、春海渚(曙ゆりが演じている)。
渚はスタ−のミッキイ(秋月恵美子)とタッピイ(芦原千津子)にあこがれている。
このタッピイが、「少女崇拝」の指地図子ちゃんに似ていて、面白かった。ミッキイとタッピイのタップダンスは見事。
自分がスターとして舞台に立っている、と故郷にウソの手紙を書いていたが、故郷から、いいなずけが出てきたから、さあ、たいへん。
このいいなずけは小月冴子が演じている。(男装)
追い詰められた渚が見た夢が、映画の大半を占める。
そこでは、渚はナーギイと呼ばれ、スタ−扱いされている。ウソの手紙の効力だ。
渚のことをよく知る衣装係の翠(津島恵子)が、大事にならないうちに帰ろう、と促すが、渚は聞き入れない。
ウソがばれて、渚は逃げることに。
逃げ込んだところが、「南蛮山お化け寺」
そこでは、デブの獏々和尚(岸井明)とその手下、陰知己(望月美恵子)、頓知己(殿山泰司)、変知己(高屋朗)が渚をとらえ、影法師を奪って食べようとする。この4人の演技がそれぞれ個性があって面白い。ヘンチキなんて、口にチャックがついていて、それをしめられるとしゃべれなくなるのだ。ヤッターマンの三悪人に匹敵する。
影法師をなくした人々は牢獄に囚われている。
そのメンツがすごい。
プラーグの大学生、ドリアン・グレイ、金色夜叉のお宮、ジキル博士とハイド氏、カリガリ博士と眠り男ツェザーレ、虞美人草の藤尾、森の石松、愉快なのは「二十の扉」の影の声の本人も囚われている。
さて、お化け寺の悪人は退治され、渚は現実の世界に戻ってくる。
いいなずけは、渚のウソを許す。
スターになれなかったかもしれないけど、渚には結婚という別の未来が開いていたのだ。
まあ、ストーリーは、どうでもいい。
みどころは、レビューのシーンで、一糸乱れぬラインダンス(足の上がり方は比較的低め)もあった。
僕はあいにくと、少女歌劇団のステージをあまり見に行ったことがない。
男装の女性とか、不思議な演技などの特徴は、たとえば、歌舞伎を見に行くときみたいな感覚でおれば、違和感も覚えないのかな、と今では思っている。
先日、N響アワーで有馬稲子が宝塚時代をふりかえり、1年でいろんなことを詰め込まれるから、女優になって主演をはるようになった後に、民藝に入団し演技を一から学びなおしたと、言っていた。トイレ掃除からやった、とか言ってた。
宝塚は憧れの存在だが、ゴールじゃない、というのをよく示しているエピソードだ。
渚の場合は、宝塚じゃなくて松竹だが、事情は同じだ。と、すれば、スターになれなかったから、結婚、と言ったって、その「結婚」だってゴールではないはずなのだ。
ベルナール・スティグレールの『象徴の貧困』を読んだ。
スティグレールはポンピドゥーセンターの文化開発ディレクター。
経歴を見ると、面白い。
IRCAM(音響、音楽研究所)所長、INA(国立視聴覚研究所)副所長であったこともある。本書にみられる映画からの考察は、得意の手法なのかもしれない。
五月革命のときに学業を放棄し、共産党員にもなり、どういう転落ぶりか、銀行強盗で逮捕され、投獄される。獄中に、哲学と出会い、以後、デリダに師事して思想を深めていく。
元銀行強盗の哲学者って、すごいな。
以下、各章ごとに、簡単なメモ。

第1章 象徴の貧困、情動のコントロール、そしてそれらがもたらす恥の感情について
象徴(シンボル)とは知的な生の成果(概念、思想、定理、知識)と、感覚的な生の成果(芸術、熟練、風俗)を指していう。象徴の貧困とは、このシンボル双方の生産に参加できなくなったことに由来する個体化の衰退を意味している。
別の言い方をすると、「個(自分)」がなくなっていくことをスティグレールは象徴の貧困と呼んでいる。象徴の貧困は精神の貧困につながり、あらゆる希望が失われ愚鈍さが極まる。
私とは私の持ち物との関わりであり、そうであるのはその関わり方が特異なものである限りにおいてなのだ。しかし、大量生産された工業製品というそもそも規格統一されたものと消費者との関係は以後プロファイル化され、特徴別にカテゴリ−化されてしまう。そこでは、特異なものが特殊なもの(ある特徴を持つもの)に変えられてしまう。
何か買ったら「この商品を買った人は、こんな商品も買っています」とかすすめられるのもその1つ。
ナンバー1になれないどころか、オンリー1にもなれないのだ。

第2章 あたかも「われわれ」が欠けているかのようにあるいは武器をアラン・レネの「みんなその歌を知っている」からいかに求めるか
アラン・レネの映画は日本では「恋するシャンソン」というタイトルで上映されている。
ストーリーは、現代人の生きにくさを描いているが、登場人物のせりふは、ヒット曲の歌詞をそのまま使っている。歌をオリジナルのまま流し、役者はそれに口をあわせる。
これはプレイバックとカラオケの中間の形態だ。プレイバックは、歌手本人があらかじめ歌ったのを録音しておいてステージで流し、歌手が口パクするやり方。
一方、カラオケはスティグレールによると「象徴の貧困」の典型らしい。
ここでは、「みんな知っている」の「みんな」が問題だ。
個としての「わたし」がしっかりとあり、それの集まりとしての「われわれ」なんていうものは衰退している。いまや、誰のことを指すのか、その範囲も不明な「みんな」の時代が到来している。
「みんながこう言ってる」とか「みんなが噂している」「みんなが知っている」なんて安易に「みんな」を使うのは御法度だ。
僕はよく「みんなが言ってた」と聞くと、「えっ!世界中の人類全員が言ってたのか!」と驚いてみせたものだ。

第3章 蟻塚の寓話、ハイパーインダストリアル時代における個体化
ハイパーインダストリアル社会とは自己破壊的になってしまった資本主義のこと。
個のリビドーをつかまえて、馬鹿げた、しかも依存症を招くような消費活動を展開させることで、リビドーの昇華をさまたげ、心的基盤となる本源的ナルシシズムを破壊してしまう。
現代では、もはや「個」はなく、あるのは群集的、部族的な「部分」で、昆虫のような群生組織であり、それらが蟻のように生産するのは、もはやシンボルではなく、デジタル的なフェロモンなのだ。

第4章 ティレシアスと時間戦争、ベルトラン・ボネの映画をめぐって
あらゆる映画につねにすでに住み着いている権力としてのテレビのことを、映画によって批判し、映画とテレビが組み合うことが必要。

本書で言わんとしていることは、とても興味深くて、興奮した。
本書はスティグレールの単著としては最初の本になる。この本にも続編があるそうなので、翻訳を待ちたい。
スティグレールは、何度か来日もしており、その際、オタクやひきこもりの現象に興味をもったようだ。近いうちに、スティグレールは、なぜオタクは廃人になりやすいのか、なぜひきこもりはキレやすいのか、ということについて、書いてくれるはずだ。
ジャン=リュック・ナンシーの『侵入者〜いま<生命>はどこに?』を読んだ。
50歳のときに心臓移植手術をしたナンシーが、その手術前後のことと考えを記した文章が中心になっている。
侵入者(ナンシー)
ナンシー、他者の心臓(インタビュー)
ワンダーランドからの声−『侵入者』の余白に(西谷修)
不死の時代(西谷修)
西谷修は本書の翻訳者。
「侵入者」は雑誌「デダル」の「よそ者の訪れ」をテーマにした号に掲載された。
よそ者とは、主に外国人のことを指しているのだが、ナンシーは自らの約10年前の心臓移植手術を語っていくのだ。
「移植には空虚を通過するというイメージがつきまとう。いっさいの固有性とかいっさいの内密性とかを抜き取られた空間に出るというイメージが。あるいは逆にわたしの内にこの空間が、管やクリップ、縫い糸やゾンデが侵入するというイメージが」
なんて書いている。
移植手術後がたいへんで、拒絶反応を起こさないようにするため、免役力を低下させることで、さまざまな症状が発症する。
よそものを排除する(拒絶反応)と、自分は死んでしまうのだ。
移植された心臓と自分との関係については、こんな記述もある。
「わたしの心臓はわたしより20才も若く、その他のわたしの体はわたしより12倍は年とっている。そんなふうに若返ると同時に年老いて、わたしにはもはや固有の年齢はなく、またいうところの年齢というものがないのだ。
同様にわたしには、言うところの職業はなく、わたしにはあるべきはずの(夫であり、父であり、祖父であり、友人である)何ものもなく、もし何かだとすれば侵入者である」
最後は次のように綺麗にしめくくる。
「侵入者とはわたし自身、そして人間それ自身と違う誰かではない。研ぎ澄まされると同時に汲み尽され、剥き出しにされるとともに過剰装備になり、いつまでも変質することをやめない同じもの。自己自身の内部へのそして世界への侵入者。不安を誘う異様なものの高まり、無限に過剰増大しようとするコナトゥス」
コナトゥスはスピノザが言う「自己保存力」のこと。
最後の最後に「コナトゥス」なんて馴染みのない言葉が出て来て終わるのは、落語の「たらちね」での「恐惶謹言」「よってくだんのごとし」みたいな「いきなり、それか!」効果がある。
本書は脳死の問題について主に後半、書かれている。
僕がこの本を読んだのは、激しい下痢が続いて寝込んでいる真っ最中だった。
ナンシーは他者の心臓を移植したが、僕は自分の中に取り込みたい食物や栄養を、侵入者としてせっせと追い出していたのだ。
「食べた米はわたしよりも若く、その他のわたしの体は(衰弱して)わたしより年とっている。そんなふうに若返ると同時に年老いて、わたしにはもはや年齢はないのだ」と言いたくなった。
何を思ったか、インドネシア・ジャワ島地震救済のため寄付する。
日曜日から体調を悪化させて、寝込んでいた。
全身が寒く、顔だけが熱い。
めまいがして、歩いていても夢の中を雲の上をゼリーの中を歩いているかのようだ。
25日の銭ゲバでの「HELP!」のために味園ビルに足を運んだりしたが、ゆっくりと動かないとたちまち目眩を起こす。まるで酔っぱらっているかのようだ。
ひどいのは、腹痛をともなう下痢が激しくなってきたことだ。
しかも1日中寝ていると、腰や背中が痛くなってくる。
ふだんは睡眠をあまりとらないが、3日間ほどはしばらく起きていると、すぐに睡魔に襲われ、2時間ほど眠るとまた起きて、ボーッとテレビ見てはまた睡魔に襲われ、という連続だった。
そんなひどい状態でも、仕事には何が何でも行かねばならないので、下痢止めの薬をガンガン飲んでいく。
で、水曜日。
かなり体調も回復し、もうそろそろいいだろう、と思って、イベントに行く。
九条商店街のペンギン堂店頭で、ミューズのイベント。
ミューズはこの21日に、CDを発売したのだ。
ペンギン堂に着くと、既に曲がはじまっていた。
完全に聞けたのは、その後の1曲のみ。たぶん、2曲のライブだった、と思う。
「ちょっとだけMY LOVE」(作詞/二村信一、作曲/玉麻尚一、編曲/朝井泰生)
1989年に佐藤忍が歌ってた曲。ミューズの定番中の定番。
「満月の夜に迎えに来て」(作詞・作曲/本田美奈子、編曲/小西貴雄)
故本田美奈子の未発表曲。小西貴雄はモーニング娘。の曲でおなじみ。
CD購入者には、サイン入りポスターと、握手の特典があった。
お客さんの中には、いちごっ娘やTOUCHのメンバーが普通に私服で見に来ており、微笑ましかった。
ただし、僕の体調は完全回復とはいかず、夜中、まさに仕事の真っ最中に、ぶり返す。
「血圧上がるわよ 乳酸菌摂ってる?」
(「ローゼンメイデン」より)
「バカばっか」
(機動戦艦ナデシコ より)

山本タカト展

2006年6月17日 趣味
心斎橋アセンスで山本タカト展。
つい最近では問題になった『誰のための綾織』の表紙を描いていたのが、この人。
この本はもう書店では見られないが、絵の方はこの展覧会で展示してあった。
その他にも、山本タカトの絵は廣済堂文庫の山田風太郎の本などで、お馴染みだったが、こうして展示されているのを見るのは今回がはじめてだ。
ゆっくり見ると、山本タカトの絵が、バイロスの作品に見えて来る。
きっと影響受けているのだろう。
なお、この人を「山本タカト氏」と呼ぶのは、ちょっと紛らわしい。
僕の友人に「山本尊敏」(ヤマモトタカトシ)という名の人物がいるからだ。
この日、帰ってから、体調が悪化。
新世界フェスティバルゲートのBRIDGEで、レクチャーライブ「映画の謎解き〜映画音楽に秘められたあけっぴろげな真実(2)」
講師は宇都宮泰氏。
今回とりあげる映画は「オーメン」
最近リメイクされたものではなく、1976年に公開された「オーメン」(リチャード・ドナー監督)、1978年「オーメン2/ダミアン」(ドン・テイラー監督)、1981年「オーメン/最後の闘争」(グラハム・ベーカー監督)までの三部作をとりあげる。音楽担当はジェリー・ゴールドスミス。
このイベントのフライヤーは、『ヨハネの黙示録』の獣の数字「666」の真中の6を消して「1」に書き換え、「神」の訂正印がおされた意匠を用いている。6月16日に開催されるということと引っ掛けたものだ。
ところが、この「666」だが、エジプトのオクシリンクスで発掘された最古の『ヨハネの黙示録』写本を見ると、数字が「616」と書かれているらしい。つい去年の発見だ。神は既に過去に遡って、616に改竄を果たしていた!「オーメン」とは「予兆」という意味だから、6月16日の開催が決定したことが、予兆だったのかもしれない。
さて、「オーメン」はアンチキリストを描いた映画である。
音楽を担当したジェリー・ゴールドスミスもアンチキリスト映画につけるべく、その仕様に則った音楽を作曲している。
作中使われている音楽を楽譜におこして視覚化してみたとき、その意図は歴然とする。
重要なシーンでの楽譜には、その音符の連なりを鏡像としてたどるアンチメロディが存在していた。キリスト教的二元論がそこには暗示されており、神に対する悪魔のハーモニーは必然的に不協和音を奏でているのだ。
また、「オーメン」では主人公のダミアンはまだ少年だったが、「オーメン2」で成長すると、山犬の化身たるダミアンに関する音楽は、前作には聞かれなかった疾走感を帯びることになる。山犬なのだ。走らずにはおれない。
と、まあ、こんな感じのことを前半、宇都宮氏は語った。
睡眠不足の僕の頭には、なかなかストンと落ちてこない。「へえ、そうなのか。オーメンといえば、西川のりおのギャグを思い出すなあ」程度に、違うことを考えたりしていた。
ところが、後半に入って、宇都宮節が炸裂する。もはや脇見の余地はない。
要所要所で川向白玉楽団による演奏があり、理解を助ける。
新たに渡された「オーメン3」からの楽譜は、人智を越えた8分の11拍子(すなわち、神をあらわす)でまず綴られている。この秘数はカバラのセフィロトから逆算されたものだ。楽譜は、わかりやすく耳につく外声部分と、人間の意識には届かない内声部分で構成されている。この内声部分に神の独言が隠れていると宇都宮氏は言う。神の言葉ゆえ、何を言っているのかは、よくわからない。
次に、例外的に8分の12拍子で描かれる余分の1拍は、神が「さあ、行くか!」と気合いを入れた瞬間に充てられている。気合いを入れて何をするのかと言えば。神は波動エネルギーを放出し、ダミアンを断続して襲うのだ。これはたまらん。悪魔の混沌は神の秩序にあれよあれよというまに飲み込まれていき、ダミアンは完膚なきまでに叩きのめされ、調和(神の勝利)が訪れるのである。楽譜が絵巻物になった瞬間だ。
「Gloria!」と題された楽譜は「Throne(玉座)」「Advent(降臨)」「Eden(エデン)」再び「Advent」「ground」のパートにわかれている。ここでは音高をそのまま高度のものさしとして援用できる仕組みになっており、位相幾何的表現によって音楽音階は螺旋を描き、地表から天界に通ずるエレベーターを現出する。「Eden」と「ground」だけが人間に理解可能な音楽としてつくられているが、それは踊り場みたいなもので、神はそこで一服し、ダミアンは可動の限界を示す。ダミアンと神とでは悲しいまでにレベルが違うことが一目瞭然だ。
素晴らしい!&何のこっちゃ!
こんなことを考える方も考える方だが、分析する方も分析する方だ。さらには、それを聞いて、理解する方も理解する方だ。
「オーメン」は当初より三部作の予定で製作された映画だ。「オーメン3」の未解決だらけの結末を見ると、本来描かれるはずの内容が、諸事情によりカットされ、未完成のまま公開されたのだ、と考えられる。映像として「オーメン」の語られるべきストーリーが欠けていたとしても、こうして音楽を分析していけば、あらかじめ失われた物語を補完することもできるのである。
次回のレクチャーは、宇都宮氏自身の作品から行われるようだ。
今までの2回は他人の作った映画音楽の分析だったが、次回は、自作の製作意図などが明かされるのだろう。
これは、取り様によっては、自らの陰謀を公開する懺悔の場とも解釈できるが、予言しておこう。きっと、客はまた煙に巻かれるのだ。
浜岡賢次の『浦安鉄筋家族』を読んだ。全31巻。
大沢木家の家族とご近所さん、主人公の大沢木小鉄の友人たちによる、ギャグ漫画。
キートンなどの無声映画を彷佛とさせるギャグが多く見られ、楽屋落ち的な笑いはほとんどない。作者も「がきデカ」や「できんぼーい」が大好きらしい。ギャグ漫画ってのは、こういうのを言うのだ。ウンコや貧乏、暴力など、小学生からお年寄りにまでわかりやすいファミリーお下劣ギャグが満載。
ひきこもりなんて無縁の世界だ。主人公の小鉄は、休みの日でも必ず学校に行くのを日課にしているくらい。
登場人物には明らかにモデルがある者もいる。
10年以上前に連載がはじまった漫画なので、時代を感じさせるキャラクターもあるが、それでなくても、旬の人というより、誰でも知っているスタンダードな人物をチョイスしているのはさすがだ。

松五郎は、自宅に象やサイやワニや虎などを飼っていて、松五郎王国と自称している。
105発目「ベンジーガンジー」の話では、投げたフリスビーが松五郎の頭に落ちて、虎が松五郎を頭からガブガブとやり、新聞沙汰に。近所の人への好感度をアップさせようとサーカスを開き、バナナの皮を踏んでこける象などを見せるが、最終的には、ワニに上半身を丸のみされたあかねちゃんが町を走る。
(こたえ:ムツゴロウ)

大巨人はリコーダーで呼ばれたら、たとえバイト中でも、小鉄のところにパンツ一丁で駆け付けて、命令をきく。語尾に必ず「ババ」とつける。
121発目「もも」の話では、大巨人は0才児の裕太の子守りを命令される。裕太は
怖くて逃げまくる。大巨人は裕太を追い掛けて結果として家を破壊する。
(こたえ:ジャイアント馬場)

不二矢ペロちゃんは、甘いもの好き。
161発目「気持ちの悪い小学生」の話では、バレンタインデーにペロちゃんが町中のチョコレートを食べてしまう。ツーテールに結んだリボンがカランだかスイッチだかになっていて、ラストではペロちゃんは食べたチョコを吐きもどし、洪水が起こる。
(こたえ:不二屋のペコちゃん)

国会議員は、とにかく大グソ。エレベーターで漏らしたらエレベ−タ−を破壊、屋形舟ですれば沈没、デパートの屋上ですればデパート破壊。本人はウンコのジェット噴射でエクアドルまで飛んでいく。
185発目「最後の噴火」では、飛行機内で大沢木家は国会議員がトイレに入るのを目撃する。絶対に墜落するぞ!とパニックになる機内。案の定、機内はあふれるウンコで満たされ、不時着。
(こたえ:アントニオ猪木)

梅星涙は正確なコントロールで投球する小学生。
77発目の「梅星」では、コインを投げて50メートル先の自動販売機にお金を入れ、石を投げてボタンを押す。消しゴムをフォークボールで投げて筆箱にきっちりとおさめる。
(こたえ:星飛雄馬)

角田弁慶はカドベンと呼ばれるスラッガー。
150発目「便乗太郎」では、梅星が投げたコインを打ち返し、あかねちゃんの財布にすっぽりと収める。梅星があみだしたむちゃくちゃな魔球(ボールが4つに分身して炎に包まれ、消える)を、手足に手錠をして目隠しし、袋に詰められて鎖でグルグル巻きにされた状態から打ち返す。
(こたえ:ドカベン)
170発目「める」での2人の対決は、犬の散歩中に発生。梅星の投げた小犬は4匹に分身し、炎に包まれて消える。カドベンは犬を見事に打ち返すが、トラックに跳ねられる。見舞いのフルーツをホームランで打ち返すカドベン。

イタリア長介はバナナ踏んでこけるとか、ベタなギャグで生徒を笑わせることに命を賭けている教頭先生。
210発目「ずんどこ」では笑いをとろうとして、机で腹を強打し、内臓を飛び出させる。恐怖のあまり逃げまくる生徒たち。
(こたえ:いかりや長介)

好きなキャラクターベスト3は
担任の春巻龍(ブルース・リー)
怪奇漫画家・十三階段ベム
大金持ちのあかね
ってとこかな。
さて、僕が何を思っていきなりこの漫画を読んだのかと言うと。
つい先日、電車内での女子中学生の会話を小耳にはさんだ。
その子は『浦安鉄筋家族』を全巻持っているらしく、読んだことがないという友達に「ほんだら、面白い話の分をセレクトして持っていくわ」と言っていたのだ。
女子中学生をこんなにも夢中にさせた漫画って一体?と思ったのがきっかけ。
で、実際読んでみたら古典的というか、安心できるギャグ漫画ですっかりハマってしまったというわけだ。
続編も出ているので、読むか。
ニール・ジョーダン監督の「ブッチャー・ボーイ」を見た。1997年。
時代は1960年代。悪ガキ、フランシー(イーモン・オーウェンズ)の半生。
最初は単なるガキ大将かな、と思ってたら、いじめっこになり、キレやすい問題児になり、サイコにまで成り果てる。それが、エスカレートして、という印象ではなく、淡々とそんなふうになっていくのだ。
悪ガキを「イーモン」(良い者)が演じるなんて、不思議な皮肉。
テレビでは「ローンレンジャー」や「逃亡者」が放送され、読む漫画は「グリーン・ランターン」、ターザンとジェニーの顔出し看板が立っている。部屋には聖母マリアの絵とケネディ大統領の写真が飾られている。そんな時代を少年はグロテスクなまでに極端に体現していく。
町に越してきたニュージェント夫人を、よそものとして、徹底的に排除しようとする。
道を歩いていれば、とおせんぼして通行料を請求する。
窓からニュージェント夫人の家に忍び込み、中をぐちゃぐちゃにする。
少年にとって、よそものや、エイリアンや共産主義者は撲滅せねばならないものなのだ。
暴力的な少年はキリスト教に基づいた更正施設に放り込まれるが、神父におもちゃにされかけるスキャンダルにより、施設を追い出される。
ニュ−ジェント夫人はすっかり町になじんでいるが、少年にはそれが侵略に見える。
少年はニュージェント夫人を殺して死体をバラバラにし、家の中を血で落書きなどで汚しまくる。
自分の家に火をつける。
もうむちゃくちゃ。
話だけだと、とても陰惨で残酷な展開だ。
ところが、映画はごく普通の青春映画っぽいユーモラスな味わいをずっと保ち続ける。
悪ガキが、町にいる少年にニュージェント夫人の死体の隠し場所を教えるシーンがある。何千本ものキャンディバーが隠されている場所がある、と。少年たちは腐った野菜の山を掘り起こして、生首を発見するが、ギャーギャー騒ぐ少年もいるが、「キャンディバーはどこ?」と逃げ出さない子もいる。
キレやすい少年にはなぜか聖母マリアの姿が見える。映画のラストで、成長した悪ガキが、マリアに尋ねる。「なぜ、僕にだけ姿を見せる?」
マリアは「神は人間みんなを愛しているのよ」と予想どおりに答えるが、「特にあなたには目をかけているの」とも言う。
悪人に目をかけるのは、宗教の1つの特徴といっていいだろう。
神経を病んだ母に死なれ、酒びたりの父に死なれ、親友には絶交される悪ガキだが、聖母マリアだけは見捨てない。
マリアがついているのなら、殺人犯す前になんとかしてやれよ、と思うが、宗教とはそんなものではないのだ。悪ガキの悪行を未然にくいとめる力を持っているくらいなら、もともとキリストだって磔にならずに済んでいたはずなのだから。
ニュージェント夫人を演じているのがフィオナ・ショウ。最近ではハリー・ポッターシリーズに出演しているそうなので、またまとめて見てみよう。好演!
悪ガキを演じたイーモンは、本当にふでぶてしくて、張り倒したくなるような、可愛げのない子供で、これは名演といっていいだろう。
他にどんな映画に出ているのか調べてみたが、あんまり見つけられなかった。98年の「ジェネラル天国は血の匂い」で主人公の少年時代を回想シーンで演じていたり、2002年の「マグダレンの祈り」に出ていたりする。この「ブッチャー・ボーイ」とは違った演技を見てみたい。
ただ、このイーモン、ボブチャンチンとシュルトを足してつぶしたみたいな悪い顔をしており、日本ではウケないだろうなあ、と思った。
なお、更正施設では奉仕のための肉体労働をするが、そのとき、芝を刈っていた男が神父にこき使われることに反発して、「俺はマイケル・コリンズの同志だ」と愚痴るシーンがある。神父の前では従順な態度を見せるが。
このマイケル・コリンズはアイルランド独立の闘士だが、彼を描いた映画「マイケル・コリンズ」はニール・ジョーダンが監督している。こんな楽屋落ちとか、いろいろ、コメディタッチで観客を笑わせながら、内容はエグイ。こりゃ、一筋縄ではいかない映画ですわ。
(おまけ)
この映画中、「The Brain from Planet Arous」(惑星アラウスから来た脳みそ)というSF映画が引用される。脳味噌がヒョロヒョロ〜ンとした宇宙人の姿になっており、かなり笑えた。
この映画は見ていないが、あらすじを読むと、宇宙から2つの脳味噌がやってきて、1つは悪、1つは善。悪い脳は人間に寄生し、善い脳は犬に寄生する。って、何じゃそりゃ?ガイガーカウンターで50キロも先の放射能を検知したりするツッコミどころも満載みたいなので、もし見つかったら、見てみよう。

午後の五時

2006年6月13日 映画
サミラ・マフマルバフ監督の「午後の五時」を見た。2003年。
先日見たハナ・マフマルバフの「ハナのアフガンノート」はこの映画撮影時のドキュメンタリーだった。
「午後の五時」を見ると、「ハナのアフガンノート」で見た市井の人々の言葉が、映画に生かされているのがよくわかる。
主人公の女性は、将来大統領になって、戦争のない世界を築こうと考えている。
しかし、アフガニスタンの現状は、女性に教育など必要ない、というような言辞が堂々とまかりとおっており、壁となってたちふさがっている。
雫の音をたよりにいつまでも水を探し求める主人公、破壊された建物に布1枚の間仕切りでいくつもの家族が勝手に住み着き、ストレスはたまる一方。
ラストでは沙漠のまんなかで、首都をめざす老人とすれちがう。老人は指導者に会って、苦境を訴えるとともに、応援のエールを送りたいのだ。だが、彼もロバも何日も飲み食いしておらず、疲れ果てて動けない。また、ラジオも持たぬ老人には、既に首都がアメリカの爆撃によって壊滅状態だという情報も入っていない。たどりついても焼け野原しかない。八方ふさがりだ。
この映画は3年前の作品だが、現在にいたるも、状況は改善されたとは言い難い。
普通に生活していては、アフガニスタンの現状なんて、これっぽっちも入ってこない。イラク戦争がはじまった頃には、もうアフガニスタンの話題なんて、古い話題になってしまった感がある。遺跡の爆破とかテロや虐殺でもないと、アフガニスタンは再び忘れ去られていくのか。
タイトルの「午後の五時」は、ガルシア・ロルカの詩「イグナシオ・サンチェス・メヒーアスへの哀悼歌」からとられている。
死のイメージが強烈な詩で、映画でうつしだされたアフガニスタンの現状をあらわしている。一部引用しておこう。(訳:小海永二)
午後の五時。
午後のきっかり五時だった。
一人の子どもが白いシーツを持ってきた。
午後の五時。
石炭が一籠 もう用意され
午後の五時。
あとは死を 死を待つだけになっていた。
(中略)
午後の五時。
骨とフルートとが彼の耳の中で鳴り響く
午後の五時。
雄牛がすでに彼の額で鳴いていた
午後の五時。
部屋は末期の苦悶で虹色に光っていた
午後の五時。
すでに遠くに壊疽がやって来ている
午後の五時。
緑の腿のつけ根には百合のラッパが
午後の五時。
傷が太陽のように燃えていた
午後の五時。
そして 群衆が窓という窓を割っていた
午後の五時。
午後の五時。
アーイ なんという無惨な午後の五時!
あらゆる時計が五時だった!
午後の影も五時だった!

ロルカの詩には、「死」を題材にしたものが多い。
「別れ」という詩の冒頭はこんな風。

わたしが死んだら
露台は開けたままにしておいて

これ、いろいろ引用されてたりして、かなり有名。
ガルシア・ロルカは今年で没後70年になる。
ロルカが詩で描いた死と、スペイン内乱で38歳の命を失ったロルカ自身の死と、アフガニスタンの死のイメージを重ね合わせて、時計を見たら、まさに午後5時。 

2006年6月12日 映画
小林正樹監督の「泉」を見た。1956年。
これはバトル映画だった。
都会と農村、男と女。いろいろと考えさせられた。
類型におさまらない登場人物たちは、誰もが自分をしっかりと持ち、誰に対しても感情移入が可能である。
なかでも有馬稲子の格闘は十番勝負を見ているようなスリリングな興奮を味わった。
映画の表向きの主人公は佐田啓二。
佐田啓二は右腕が不自由な植物学者。
先日見た小林監督の「この広い空のどこかに」でも、高峰秀子がちんばの役を演じていた。
どこかに障害のある人が出て来るのが特徴なのだろうか。
なぜ、佐田啓二の片腕が不自由だという設定にしたのか、ラストシーンで明らかになるのだが、その前に、まず、この映画がどんなストーリーの映画なのかと言うと。
田舎に別荘がいくつも建ち、ホテルの建設計画まで持ち上がる。水源地を購入している会社側と、水を奪われて農業ができなくなった農村とのあつれき。
タイトルの泉は、この水源地のことをさしている。
佐田は、植物分布から、新しい水源地を予想できるんじゃないか、と考える。
専門外のことで、そんなことに首をつっこむ必要はないのではないか、と有馬稲子が言うと、佐田は熱くこう答える。
「必要があるからやるんじゃありません。僕はこの仕事に情熱を感じたからやってみたいんです。自分の生き方の問題です」かっこいー。
この映画、面白すぎて興奮したので、いつもよりちょっと長い書き込みになるかも。
さて、この映画の中で闘われたいくつかのバトルからいくつかをチョイスして覚え書きしておこう。

有馬稲子VS佐分利信
有馬は老実業家佐分利の秘書をつとめる才色兼備の女性。
佐分利は有馬の魅力に参っているが、有馬の本心を掴むことができず翻弄されている。
佐分利は「僕を絶対に信用すると言ったね。じゃあ、扉の鍵をかけて、僕のベッドで寝てみたまえ」と有馬の反応をさぐる手に出るが、有馬はそれに従い、ひるむ様子もない。
有馬は常に優勢に勝負を組み立てる。
佐分利は有馬の魅力に負けてしまいそうになる。それは、別居している妻への愛を裏切ることにもなり、また、自尊心が打ち砕かれることを意味する。
佐分利は有馬の前でひざまづき、「僕は乞食だ」とまで言うが、有馬は、はぐらかすだけ。
佐分利は鉄砲で自殺する。

有馬稲子VS桂木洋子
桂木は一度会ったことのある佐田啓二を2年の長きに渡って恋い慕っている。
だが、佐田は有馬に恋をしている。
桂木は有馬を見て、その美貌にうちのめされ、あきらめる決心をつける。
秒殺だ。

有馬稲子VS加東大介
佐分利亡きあと、有馬は加東の会社で秘書をつとめる。
加東は有馬を二号にしようと企てる。
海千山千の古狸、加東は有馬を世間知らずのお嬢さん扱いして心理攻撃をかけるが、有馬は一歩もひかない。
「長いことは望まん。少年時代の苦学、管理生活、戦略結婚、こどもの教育、放蕩、企業欲、そして少しばかりの蓄財、と、ここまできてあと何が残る。男の一生はこれだけかね。僕はじつに寂しいんだよ」と加東が泣き落としにかかると、有馬はひとこと「もう帰りましょう」
ラストバトルでは、叩けばほこりの出る加東が、佐田啓二の攻撃に屈することになるが、それは、有馬のロジカルなサポートがあってのことで、佐田は有馬の代理戦争を闘った形になる。

有馬稲子VS渡辺文雄
渡辺は佐分利や有馬の下で働く百姓。
ここでは上下関係が成立している。
有馬は佐田啓二に「野性美の渡辺がいい」だの「わたしが渡辺と恋愛するのは、わたしの勝手だわ」と言ってのけた後、渡辺を誘惑にかかる。
渡辺は細かいかけひきに乗ってこず、「男と女は、惚れたかどうかが勝負だ!」と直接的行動あるのみ、という態度に出て、有馬をしりぞける。
頭脳プレイの有馬が、野生のパワーに負けた瞬間だ。
ホーストがサップに負けたときを思い出した。

有馬稲子VS佐田啓二
佐田は有馬にぞっこんだ。
だが、恋愛経験の乏しい佐田は、有馬に太刀打ちできない。
自分の思ったとおりに進まない関係に、佐田は有馬に逆ギレ状態。
このバトルは最初は佐田のボロ負けだった。
佐田とのごく普段の会話でも、有馬の論理的な発言に佐田は勝てない。
だが、有馬が佐田にひかれるにつれて、いい勝負を演ずるようになる。
有馬は加東粉砕のときに、佐田の特攻精神を利用するが、突っ込んでいける佐田をうらやましくも思っているのだ。

佐田を愛する桂木洋子の描写も、脇役ながら、見るべきものが多かった。
桂木は短歌に託して心情を綴る。
まずは恋情を綴ったのが「君知るや ここに女(おみな)あり二年(ふたとせ)の想いに痩せて死に果てんとす」うわー、重い!
有馬をあきらめた佐田が、桂木洋子にふらっとなびきかけると、桂木は西行の歌に託して手紙を書く。
「波よする しららの濱のからす貝 拾いやすくもおもいゆるかな」
有馬とうまく行かなくなったからと言って、自分を拾いやすいからす貝だと扱われることをよしとしなかったのである。
せつない!

ラストシーン、佐田は有馬と歩いている。
佐田が見つけた珍しいトリカブトを、有馬は危険をおかして取りに行く。
佐田は片手が不自由なので、うまく山の斜面をのぼれないのだ。
転がり落ちた有馬は、しっかりとトリカブトを手にしており、佐田に渡す。
「いい思い出になったわ。さよなら」
そうか。有馬稲子はいろんな男の秘書を渡り歩いたが、最後に、佐田啓二の文字通りの右腕となることが出来たのである。
リチャード・ゴルゾウスキ監督のクレイアニメ、「となかいロビー 炎のランナー」を見た。「とかないオビ」と間違ってはいけない。
怠け者のとなかいロビーが、一念発起してサンタのそりをひくレギュラーに選ばれるべく陸上競技大会で頑張る。
なんといっても、ロビーの強い武器は、その鼻。
ビヨヨヨヨ〜ンとバネみたいにジャンプすることができるのだ。
最終的に、レースは鼻の差で、決着する。
ゴルゾウスキ監督は、「ウォレスとグルミット」のアードマン・アニメーションズ社の監督。とぼけた味わいは、まさにその眷属であることを証している。
音楽をマーク・ノップラーが担当しているのがいい感じ。

「となかいロビー 伝説の勇者」を見た。
となかいにヘッドギアつけてコントロールし、となかいランドで大儲けしようとするレジャー企業。ロビーは伝説のバイキングを探し出して、彼らの力で、となかいランドにつかまった仲間たちを助けようと企てる。
ところが、今生き延びているバイキングは、勇猛果敢なバイキングたちがお互いに殺しあって自滅したとき、隠れたり逃げたりした臆病者たちの末裔だったのだ。
これはとなかいテーマパークがキッチュで面白い。
もともと人形アニメなのに、作り物のロボットになってしまうとなかいを描くなんて、一周まわってて愉快。
音楽はマークノップラーじゃなかった。ノリノリのダンスミュージックだった。

LOVERS

2006年6月11日 映画
チャン・イーモウ監督の「LOVERS」を見た。
唐時代の中国。アンディ・ラウは政府の役人。叛乱勢力「飛刀門」の首領の娘、盲目の踊子チャン・ツィーをつかまえる。金城武はチャン・ツィーを助けて、逃がす。金城はアンディ・ラウの友人で、チャン・ツィーの側につくことで組織に潜入しようとしていたのだ。
さて、この映画、金城はチャン・ツィーを助けるが、実は政府側の人間だった、というどんでん返しがまず前提にあるが、話が進むにつれて、「〜だと思っていたら、実は」みたいなどんでん返しが、これでもか、というほど出て来る。
金城はチャン・ツィーと仲良くなるが、それは組織に近付くためのフェイクだった。
金城はまんまと「飛刀門」の首領に会うことができるが、実は、首領は本物ではなく、影武者だった。
また、チャン・ツィーは首領の娘などではなく、単なる戦闘員の1人だった。
盲目だというのも演技で、実は両目ともにバッチリ見えていた。
アンディ・ラウは実は「飛刀門」の人間で、政府内に潜入していたスパイだった。
敵味方に見えて、実はアンディ・ラウとチャン・ツィーは昔からの恋仲だった。
そして、アンディ・ラウと何年も恋愛を育み、使命のために離れていたチャン・ツィーは、実は金城に恋をしてしまっていた。
そして、演技で仲良くなったはずの金城も、チャン・ツィーを実は愛していたのである。
これだけ逆転があっても、ストーリーそのものは単純なので、こんがらがることはない。
見どころは舞のようなバトルシーン。と、いうか、バトルと見せかけて、観客は舞を見せられているのだ、と感じた。
政府だの叛乱だの、という国を動かすテーマでありながら、けっきょく、この話は、三角関係のいざこざで決着がつく。
アンディ・ラウと金城武がチャン・ツィーをめぐって、最終的にバトルを演じる。
そして、金城に勝っても、チャン・ツィーの心を取り戻すことができないことを悟ったアンディ・ラウは、金城を攻撃するふりをして、実はチャン・ツィーの命を奪うのだ。(チャン・ツィーの胸に刺さったナイフを、金城を助けるために抜かせて、チャン・ツィーの失血を誘う)
恋のためなら、国をも自分の命をも裏切る、というのが、チャン・ツィー。
それに比べて、男2人は、自分から積極的に裏切るつもりはない、という立場をつらぬいている。
弱くてずるいのは、いつも男の方なのだ。
『バルテュスの優雅な生活』を読んだ。
バルテュスは大好きな画家だ。去年にこんな本が出ているとはチェックできていなかった。
さて、内容。
第1部「バルテュスがバルテュスになるまで」芸術新潮編集部
1908年バルテュス誕生から修業、画壇デビュー、結婚。
中部フランスの田舎、シャシーの古い城館に暮らすに至る歩みを作品とともに振り返る。
パリを離れてシャシーに移り住んだのが1953年。
そこまでが前半生。
スキャンダラスな名画が生まれたのは、このパリ時代になる。

第2部「愛した館、慈しんだもの」夏目典子(取材)
後半生のバルテュスは廃墟の城館や旧い屋敷を修復して住んだ。
中部フランスのシャシーの城
ローマのメディチ家ゆかりの建物、
エトルリアの城、モンテカルヴェッロ、
スイスの由緒ある木造建築の旅籠グラン・シャレ
シャシーの城の壁面にはバルテュスの描いた美少女フレデリックの肖像が残っている。

第3部「バルテュス交遊録」
写真や手紙などでバルテュスの友人たちを紹介。
詩人リルケからアルトー、アンリ・カルティエ=ブレッソン、フェリーニ、U2のボノ、勝新太郎まで。
バルテュスはときどき座頭市の物真似をしていたというから、驚きだ。

第4部「音楽のように、空気のように 夫バルテュスとの40年間」節子・クロソフスカ・ド・ローラ
家族からのバルテュス証言。
節子夫人は20才のときにバルテュスと知り合う。バルテュスこのとき54歳。
2001年、バルテュスの死までを節子夫人が語る。

この本で面白かったのは、歴代モデルをつとめた少女が写真で確認できるところだ。
ナタリー・ド・ノワイユはツーテールの少女。
シャシーで共に隠遁したフレデリック。ピエール・クロソフスキーの妻の連れ子で、レジスタンスの父の血をひく。15才から21才まで城館で同棲。
ヴィラ・メディチの職員の娘、カティア、ミケリーナ姉妹の、ミニスカート、立てひざの写真。
晩年のバルテュスのミューズとなったのはアンナ。8歳から17歳までモデルをつとめる。このアンナがアリスめいていて、可愛い。
ただ一つ気になったのは、バルテュスの絵がナボコフの『ロリータ』の表紙に使われていたことで、バルテュスは誤解と非難をあびた、とか書いてある部分。
少女が好きで何が悪いのか。
少女を描きつづけたことで、誤解を受け続けた、って、いったいどんな誤解なのか。
バルテュスの言葉として「私は一度たりとて、作品で自分を表現しようとしたことはない」という一文が引用されている。バルテュスの言い訳炸裂だ。あるいは、自分で自分のことが謎だったのだろうか。
タイトルにある「バルテュスの優雅な生活」は、スキャンダラスな物言いから逃げ出して、過敏な神経の持ち主がお城でひきこもりをしていただけなんじゃないか、という気がしてくる。
なぜ、この本を編んだ人々は、バルテュスを無害化して受け入れてもらおうと媚びているんだろう。
何かの作戦?

踊るツインズ

2006年6月11日 映画
デビッド・ダウン監督のインド映画「踊るツインズ」を見た。1997年
サルマン・カーン、カリシュマ・カプール。
腕っぷしが強く、荒っぽいラジャとアメリカで育った上品なプレム。
2人は双生児だが、赤ん坊のときに生き別れになる。
映画の冒頭は、死刑の判決が下った犯人が逃げて、銃撃戦が起こる、ハードなムード。
犯人は双生児の1人を抱えて逃げ、警官もバタバタ撃たれて死ぬ。
結局、犯人は死んでしまい、その息子、タイガーが親の仇をとることを心に誓う。
犯人の家は爆発し、赤ん坊は死んだものと思われる。
さて、双生児が大人になってからは、一転してバカ映画に早変わり。
双生児ゆえ、片方が痛みを覚えるときは、もう片方も痛い。
「フリークス」でのシャム双生児片割れのキスシーンを思い出させる。
そこまではいい。
片方が腕を上げたら、もう片方も腕をあげる。
そんなアホな。
そう言えば、この双生児、赤ん坊のとき、片方が線路の上に寝かされている。列車が迫ってきて、「危ない!」という寸前に、もう片方の赤ん坊が寝返りをうって、同じ行動をとったレールの上の赤ん坊も間一髪で助かるシーンにかぶせて、タイトルが仰々しく出て来た。
こんな設定ゆえ、最後にタイガーと弱々しいプレムが闘うとき、その外で、喧嘩の強いラジャが友人の「どもりマン」をボコボコにすることで、プレムはタイガーを叩きのめすことができるのだ。
双生児が入れ替わってトンチンカンなことをする、お約束のシーンも満載。
こういうインド映画は、ストーリーと関係あるのかないのか理解に苦しむようなダンスシーンがふんだんに盛り込まれている。
ところが、この映画、長丁場のダンスシーンは少なかった。
察するに、放送枠内におさめるため、筋と関係ないダンスシーンを2曲ほど削ったんじゃなかろうか。2曲だけ削っても、30分くらいの短縮にはなるはずだ。
どこか懐かしい、ベタベタなギャグ、ど派手なアクションシーンはインド映画そのもの。
とくに格闘のシーンで、殴った相手がガラスを割って転がる殺陣は、これでもか、というほど出て来た。壁にぶつかっても、たまたまそこが掲示板でガラスがはってあったりするのだ。そこまでしてガラスを割ることにこだわらなくても、と思って、笑った。
ラジャの癖が女の尻を叩くこと、という設定も何のためにあるのかよくわからなくて、笑った。
あんなに重々しくて、社会派なのかと思わせてはじまった映画は、双生児のダブル結婚式で夫が妻の尻を叩いて終わるのだ。なんじゃ、そりゃ。
最後のクレジットで、NGシーンなどが流れていた。
双生児のシーンを撮影するのに、サルマン・カーンのスタンドインが頭に青い袋をかぶって演技しているのも映っていた。
思い出したが、この映画、最初に「最愛の妻の墓前に捧げる」とか書いてなかっただろうか。死んだ妻に、こんなバカ映画を捧げるなんて!
舞洲スポーツアイランドでドレスアップミーティング。(ドレミ、と略すそうだ)
ダンロップのキャンペーンガール、DIGICCOのステージがあるというので、行ってみた。
ところが、僕が寝坊してしまったために、最後のディスコメドレーしか聞けなかった。
しかも、非情に遠くで。
11時からのライブだと聞いていたが、どこのバス停留所でおりればいいのかもわからなくて、まごまごしているうちに、ライブは終わってしまったのだ。
終わったのは11時20分。
物販コーナーでDIGICCOを間近で見て、会話や握手はしてもらったのだが、めったに見れないライブを見逃したのは痛い。
なお、このステージ、メンバーの体調がすぐれず、満足なステージはできなかったみたいなのだ。
それでも、見たかった。
僕は、自分のこのたるんだ精神を許すことができない。
家に帰って、読書やビデオ鑑賞に励んで、DIGICCOを見れなかったのを取り返そうとした。
でも、あとで調べてみると、大阪城公園ではキャレスの城天があり、O-CATではダンスのコンテストがあった。
もうちょっとお金の使い道を考えておけば、大好きな原田桜怜ちゃんのイベントにも行けたのだ。
僕は自分のこの迂闊さを許すわけにはいかない。
罰として、寝ずに読書とビデオ鑑賞の刑を処することにした。
以下は、その記録である。
STSのスタジオライブ。
今回はメンバー異動などがあり、特別なライブだったように思う。
今日はお客さんの数も異様に多かった。
以下、プログラム。
1.オープニング/ジュニアスペシャルダンスチーム
2.ペコリナイト/ステッパーズ(新レパートリー)
3.Keep the Faith/ラズベリーズ(このメンバ−では、これが最後になるのかな?)
4.プリティ・ヴォイス/トレード(あれ?4人だ.。髪の長い太田朱音ちゃんは何処)
5.I BELIEVE/ナオセレクト
6.浪漫/プリティーズ
7.Baby My Heart/マシェリー
8.Growing Of My Heart/ペトラキッズ
9.めざせポケモンマスター/ポケモン選抜(ぼろぼろに劣化したパンツは新しいものに替えられていた。シャボン玉の演出あり)
10.恋のビクトリー/チックス(新レパートリー)
11.PUMP IT/Super Bubblez
短い休憩をはさんで、第2部。
1.SENSEI/ミュージカル選抜
2.Just Lovin’ You/桐生彩加
3.ジェラシー/ミニミニclub
4.Love like candy floss/TOUCH(抜けた遥を埋めたのは、なんとRISAKO!)
5.IF YOU WERE HERE/TOUCH&いちごっ娘
6.ちょっとだけMY LOVE/ミューズ(6月21日デビューに向けての挨拶あり。CDジャケットとポスターを披露した)
7.King & Queen/プリッツ
8.Your Song/いちごっ娘
9.sexy,naughty,bitcy/ブラックベリーズ(先月の1位はブラックベリーズ。強い)
ライブ最後には、ユニットのメンバーの異動について報告があった。
ブラックベリーズには、ラズベリーズの中川かすみが入る。今回中川かすみはラズベリーズとして出て来ていた。かすみちゃんはエキゾチックな顔だちの子だ。ブラックベリーズのかっこいい洋楽寄り路線を強化してくれると思われる。
TOUCHから広瀬遥が抜け、RISAKO&REINAの森浦莉紗子が入った。これはライブで今回5人が歌い踊るのを見ているので、心配なし、と思った。ハルカの筋力ダンスが見られないのは残念だが、リサコのダイナミックなダンスは新たな魅力を出してくれるだろう。
ファッションズにはペトラキッズの吉田愛来(あいな)が入り、「3人で頑張る」と言ってたので、ファッションズは岩永優華、有山空、吉田愛来の3人編成となるのだろう。
ペトラキッズは吉田愛来がファッションズ加入のため抜け、岸本華和とイヌイサラが入る。
ラズベリーズには4人が加入。柳瀬蓉(ステッパーズ)、西口里穂、飯山美紗、ヨネザワエリカ。宮之前綾乃と吉見恵梨沙とで6人編成になるのか。
(なお、新しく加入したメンバー名については、ヒアリングがうまく出来ていなくて、間違っている可能性大。創叡のホームページの更新を待てばいいのでしょうが、面倒なので、このまま載せちゃいます!)
今回、僕がベスト3に選んだのは、TOUCH、プリッツ、マシェリーだった。
特にイチオシのユニットがあるわけではないので、その日の出来とかタイミングでベスト3が変動するのだ。
小林正樹監督の「この広い空のどこかに」を見た。1954年。
佐田啓二と久我美子は恋愛結婚した夫婦で、酒屋を営んでいる。
佐田啓二の母親は浦辺粂子で、どこにでもいる愚かな母親を好演している。
結婚した久我美子を結婚前から慕っていた男性が内田良平。普通なら三角関係とか、不倫になりそうなものだが、お互いに善人で、そんな展開にはならない。ならないけれど、それを疑うねじけた根性の持ち主がちゃんといる。
佐田啓二の妹、高峰秀子だ。
この映画のツボは高峰秀子にある、と言ってもいいほどだ。愚直で単純でおひとよしで単細胞な人たちばかり出て来るこの映画の中で、ひとり高峰秀子だけが屈折しまくっている。
屈折するのにはわけがある。
高峰秀子は、戦争のときに足を悪くしており、結婚できずにいる。本人は、28才にもなったこんなちんばの女を嫁にもらってくれる家なんてない、死んでしまえばよかった、とか言うのだ。縁談があったかと思ったら、相手の男も戦争で指をなくしていたりして、高峰秀子は、片輪者どうしをくっつけようとする縁談にふてくされる。典型的な自意識過剰なひがみ根性の持ち主なのだ。行かず後家とはこういう人物のことを言うのだろう。現代では、不具であることで何らかの差別を行うような想像力の乏しい人間は、ほぼ撲滅されているが、戦後まもない頃だと、まだそんな感情が残っていたのだろう。
久我美子の郷里から内田良平が訪ねてきても、高峰秀子は「おかしい」「あやしい」と内田良平を歓迎しない。
母親の浦辺粂子は自分では何も判断できないので、高峰秀子がそんな態度に出たら、あっさりそれに乗って、結果、嫁の久我美子の居場所が狭められていくことになる。
一方、まるで神の視点からものを見ているかのように、事の理非をわかっている登場人物がいる。
佐田啓二、高峰秀子の弟、石浜朗だ。
彼は常に物事を公平に見て、しかもプラス思考でとらえる。善人だ。
ものごとが事実もはっきりしないのにネガティブな方へ流れだすと、彼が出て来て、「何やってるんだよ!」と軌道修正してくれるのだ。
この映画のツボは石浜朗にある、と言ってもいいほどだ。タイトルの「この広い空のどこかに」は、彼の言葉で、その後「自分を愛してくれる人がいる」という意味の言葉が続く。
常に可能性を信じる彼の考え方は、佐田、久我夫妻にも伝染する。
物干台で、この夫婦は架空のボールを町中に放り投げる。
魔法のボールを投げて、それに当たった人が、幸せになればいいのに、と思い付き、町の人々に空気でこさえたボールを何回も投げるのだ。
「仕事のない人に当たれ〜!」
「金のない人に当たれ〜!」
「恋人のいない人に当たれ〜!」
「病気の人に当たれ〜!」
「特に保山宗明玉に当たれ〜!」
と、佐田啓二と久我美子は投げつづける。善人だ。
結局、高峰秀子は不具の足のことなど全く気にしない男性の登場で、結婚を考えるに至る。
不具なのは足ではなく、高峰秀子の根性だったのだ。
ネガティブな考えで押しつぶされそうになっていた青年は、石浜朗を訪ねてきて、「僕も今日から、空を見て暮らすことにするよ」と前途に何があろうと可能性を信じ続けることを宣言して、この映画は終わる。
なんてすがすがしい映画なのか。
最初はねじくれていたものが、すべてきれいになって終わる。
現実はこんなふうじゃない、と言いたがる悲観的な現実主義者もいるだろう。
それは、その人にとっての現実だ。
現実を嘆く人には、嘆かわしい現実しか与えられないのである。

< 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 >

 

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索