ジャパニメーションがどうとか言う本を読んだ影響で、ムトウユージ監督の「劇場版クレヨンしんちゃん/伝説を呼ぶブリブリ3分ポッキリ大進撃」を見た。(2005年)
このシリーズの目玉のひとつは、声の出演で旬のゲストが起用されているところ。
この作品では、波田陽区が怪獣役で出ていた。まさに、旬!IZAM級。
今回、野原一家は、時空のゆがみをなおし、世界を滅亡から救うため、変身して怪獣たちと闘う。
掛け軸の裏からバイパス世界に行き、そこで自分の想像力どおりのヒーローに変身し、怪獣と闘うのだ。怪獣は時空の歪みから生じるエネルギー体なので、怪獣を倒して回収することで、時空の歪みを修正することができるのだ。また、闘うのがバイパス世界なので、怪獣との闘いを終えて元の世界に戻れば、怪獣出現そのものが起こらなかったことになるのだ。ただし、怪獣退治のための制限時間は3分。
頻々と発生する怪獣退治イベントに、野原一家は夢中になる。家事も仕事もそっちのけで、怪獣出現を待ちわびるようになる。そのときだけ、自分は好きなように変身ができるのだ。たとえば、みさえはプリティミサエスやセクシーミサエX、マーメイドミサエリアスなど。
だが、ラスボス近くになると、怪獣も強くなってきて、簡単には倒せなくなる。
クライマックスの怪獣ゴロドロは、ドロドロした形で、すべての攻撃をかわしてしまう。
自衛隊も歯がたたない。
アクション仮面、カンタム・ロボ、ぶりぶりざえもんの助けを借りて、ゴロドロの弱点が臭いにあると気づいたしんちゃんは、ひろしの靴下や、しんちゃんのおならによって、退治する。面白いのは、紙に描かれたぶりぶりざえもんが紙のまま巨大化することで、せりふはすべて紙の上のフキダシで書かれており、声は出さない。望んだとおりに変身できるバイパス世界なのだから、ぶりぶりざえもんの声をあてていた、故・塩沢兼人(2000年没)の声を編集して使ってみるのもよかったんじゃないか、と思った。
しんちゃんはピンチに陥ったとき、自分がイケメンでモテモテのはずの未来を破壊してなるものか、と立ち上がり、怪獣を退治する。こういう不純な動機は大好き。
ただ、一家が一丸となって闘う際に、ひろしもみさえも変身したヒーローの姿じゃない普段着であらわれる。そのときに世界を守るのはヒーローじゃなくて、一家の母であり父であり、家族である、みたいなごたくを並べるのはつまらない。変身ヒーローの方がいいに決まっている。劇場版ならではのまっとうなテーマを無理やり入れた感じだ。
そのわりに、全体としてお子様向けで、テレビの2時間スペシャルで十分なんじゃないか、と思った。
以下、出現したクリーチャーたち。
クリラ
カトリーヌ3世
2960(巨大フクロウ)
キリキリマイ
ポチタマタロミケ(キングギドラみたいな四頭が犬と猫)
ラドンおんせん
ギュー・ドン
ババンバ・バン
ファ・イヤーン
ラビビーン関根
カマデ
ピースくん(蟹の怪獣)
サベシオ
タナ・シ
波田陽区
ゴロドロ
ニセしんのすけマン
「ラドンおんせん」とか「ポチタマタロミケ」はよかったなあ。
このシリーズの目玉のひとつは、声の出演で旬のゲストが起用されているところ。
この作品では、波田陽区が怪獣役で出ていた。まさに、旬!IZAM級。
今回、野原一家は、時空のゆがみをなおし、世界を滅亡から救うため、変身して怪獣たちと闘う。
掛け軸の裏からバイパス世界に行き、そこで自分の想像力どおりのヒーローに変身し、怪獣と闘うのだ。怪獣は時空の歪みから生じるエネルギー体なので、怪獣を倒して回収することで、時空の歪みを修正することができるのだ。また、闘うのがバイパス世界なので、怪獣との闘いを終えて元の世界に戻れば、怪獣出現そのものが起こらなかったことになるのだ。ただし、怪獣退治のための制限時間は3分。
頻々と発生する怪獣退治イベントに、野原一家は夢中になる。家事も仕事もそっちのけで、怪獣出現を待ちわびるようになる。そのときだけ、自分は好きなように変身ができるのだ。たとえば、みさえはプリティミサエスやセクシーミサエX、マーメイドミサエリアスなど。
だが、ラスボス近くになると、怪獣も強くなってきて、簡単には倒せなくなる。
クライマックスの怪獣ゴロドロは、ドロドロした形で、すべての攻撃をかわしてしまう。
自衛隊も歯がたたない。
アクション仮面、カンタム・ロボ、ぶりぶりざえもんの助けを借りて、ゴロドロの弱点が臭いにあると気づいたしんちゃんは、ひろしの靴下や、しんちゃんのおならによって、退治する。面白いのは、紙に描かれたぶりぶりざえもんが紙のまま巨大化することで、せりふはすべて紙の上のフキダシで書かれており、声は出さない。望んだとおりに変身できるバイパス世界なのだから、ぶりぶりざえもんの声をあてていた、故・塩沢兼人(2000年没)の声を編集して使ってみるのもよかったんじゃないか、と思った。
しんちゃんはピンチに陥ったとき、自分がイケメンでモテモテのはずの未来を破壊してなるものか、と立ち上がり、怪獣を退治する。こういう不純な動機は大好き。
ただ、一家が一丸となって闘う際に、ひろしもみさえも変身したヒーローの姿じゃない普段着であらわれる。そのときに世界を守るのはヒーローじゃなくて、一家の母であり父であり、家族である、みたいなごたくを並べるのはつまらない。変身ヒーローの方がいいに決まっている。劇場版ならではのまっとうなテーマを無理やり入れた感じだ。
そのわりに、全体としてお子様向けで、テレビの2時間スペシャルで十分なんじゃないか、と思った。
以下、出現したクリーチャーたち。
クリラ
カトリーヌ3世
2960(巨大フクロウ)
キリキリマイ
ポチタマタロミケ(キングギドラみたいな四頭が犬と猫)
ラドンおんせん
ギュー・ドン
ババンバ・バン
ファ・イヤーン
ラビビーン関根
カマデ
ピースくん(蟹の怪獣)
サベシオ
タナ・シ
波田陽区
ゴロドロ
ニセしんのすけマン
「ラドンおんせん」とか「ポチタマタロミケ」はよかったなあ。
岸田秀の『唯幻論物語』を読んだ。
著者自身の神経症の由来を綴るエッセイ。
著者の強迫神経症は、フロイドに触れて分析してみると、母親との人間関係が原因であったことがわかった。
母親は自分に服従する奴隷を欲していたのであり、それを「愛」の名でごまかして押し付けていたのだ。母も子も、この欺瞞を無意識にとじこめているので、表立って反発もできず、神経症になるのだ。この人間関係が後に、成就するなり逃げ出すインチキ恋愛の繰り返しや、相手に自分を侮辱させる行動などになって再現される。
以前読んだクラフト=エビングの著作では、サディズム、マゾヒズムを器質的異常で解釈していた。19世紀の本で、ロンブロゾーの説がまだ信じられていた時代だから、それもいたしかたない。サディズムなどに走る人間は体を見ればわかる、それは人間としては退化した動物に近い存在で、バクネヤングとかワールドイズマインのモンみたいな容貌の人物だ、ということか。う〜ん、あてはまってるような気がする。しかし、岸田秀のこの本では、文中「マゾヒズムもサディズムも、人類に特有な親子関係の形に起因するものであって、性本能とか攻撃本能とかの問題ではない」「当然、生物学的、体質的基盤はない」と言い切っている。
岸田秀は前から飄々とした文体で楽しませてくれていたが、近年、年をとってますます不思議な味わいが出て来た。柳に風、というか、格闘技大会に出て来た老師みたいな風情がある。今までの著作に比べて、特に目新しいことを書いているわけでもないのだが、ここまでくると、古典芸能の一種だ。唯幻論のかたりを楽しくきける。
この本を読んで、面白いなあと思ったところを書き残しておこう。
まず、ラカンについて。
「同じようなことをわざわざ別の枠組みに入れて難しく説明する不思議な人たちの一人」
「独自の専門用語をたくさん作り、それに特別な意味を込めているため、また、論理の展開が回りくどかったり、逆に直観的に飛躍していたりしていて、何を言いたいのかなかなか掴めなかった」
「言語学とかを理論の枠組みとして使っているのを別にすれば、フロイドと大して違わないことしか言っていないとしか思えなかった。ラカンは独自の用語をたくさん作ったが、独自の見解は見当たらなかった」
「ラカンは、自説を高く評価させるために、わざわざ難しくわかりにくくし、彼を理解しようとする読者に多大の努力を要求する」
ボロクソだ。僕もラカンを何冊か読んで、頭が「?」のまま放ってあるけど、ここまで言われると、再挑戦してみようか、という気になるから不思議だ。
また、「精神とは論理構造である」とした章では、神経症についてこう書いている。
「間違った前提から出発して正しい論理の筋道を通って間違った結論に達しているのが、神経症的症状なのである」
これは、神経症だけでなく、ミステリーの根本でもあるなあ、と思った。
不可解な状況を説明するのに、論理の筋道は正しくたどり、間違った前提を暴き出すのが、ミステリーの醍醐味のひとつなのだ。
あと、「精神分析が記述しているような精神現象のほとんどは、とっくの昔に諺や箴言のなかで言及されている」として、いくつか例があげてある。
これが愉快。
「下司の勘ぐり」(投影)、「歴史は繰り返す」(反復強迫)、「己惚れと瘡気のない奴はいない」(ナルチシズム)「可愛さ余って憎さ百倍」(アンビヴァレンス)、「頭隠して尻隠さず」(抑圧)、「泥棒にも三分の道理」(合理化)、「江戸の仇を長崎で討つ」(すりかえ)、「一事が万事」(転移)などなど、これでもかというまで並べてある。
以前読んだ『性的唯幻論序説』では、ある主張をするたびに、それに対する反論をあらかじめ先回りしてフォローする書き方が目立った。
この本では、何か言ったあと、たとえば「理論をどう解釈しようが、それは解釈する人の勝手であると言えないこともないが…」など、「…」を多用して、反論に対するフォローをしているのが目立った。
それと、「〜だろうか」「〜だろうか」と多くの疑問文を重ねて、自分が本当に言いたいことをかなりキツイ形で紛れ込ませている書き方が多かった。
たとえば、この本は、小谷野敦の岸田秀批判にこたえる形で書かれているが、その史的唯幻論批判に対して、こんな文章がこれでもかと並ぶ。
「小谷野は〜としか考えられないのだろうか」
「小谷野は〜ではなかろうか」
「小谷野の考えでは〜その矛盾を突いたつもりなのであろうか」
「小谷野は〜区別がつかないのであろうか」
「小谷野は〜別の根拠を提示すべきではなかろうか」
これがえんえんと続く。
傍で見ているぶんには、面白い!
著者自身の神経症の由来を綴るエッセイ。
著者の強迫神経症は、フロイドに触れて分析してみると、母親との人間関係が原因であったことがわかった。
母親は自分に服従する奴隷を欲していたのであり、それを「愛」の名でごまかして押し付けていたのだ。母も子も、この欺瞞を無意識にとじこめているので、表立って反発もできず、神経症になるのだ。この人間関係が後に、成就するなり逃げ出すインチキ恋愛の繰り返しや、相手に自分を侮辱させる行動などになって再現される。
以前読んだクラフト=エビングの著作では、サディズム、マゾヒズムを器質的異常で解釈していた。19世紀の本で、ロンブロゾーの説がまだ信じられていた時代だから、それもいたしかたない。サディズムなどに走る人間は体を見ればわかる、それは人間としては退化した動物に近い存在で、バクネヤングとかワールドイズマインのモンみたいな容貌の人物だ、ということか。う〜ん、あてはまってるような気がする。しかし、岸田秀のこの本では、文中「マゾヒズムもサディズムも、人類に特有な親子関係の形に起因するものであって、性本能とか攻撃本能とかの問題ではない」「当然、生物学的、体質的基盤はない」と言い切っている。
岸田秀は前から飄々とした文体で楽しませてくれていたが、近年、年をとってますます不思議な味わいが出て来た。柳に風、というか、格闘技大会に出て来た老師みたいな風情がある。今までの著作に比べて、特に目新しいことを書いているわけでもないのだが、ここまでくると、古典芸能の一種だ。唯幻論のかたりを楽しくきける。
この本を読んで、面白いなあと思ったところを書き残しておこう。
まず、ラカンについて。
「同じようなことをわざわざ別の枠組みに入れて難しく説明する不思議な人たちの一人」
「独自の専門用語をたくさん作り、それに特別な意味を込めているため、また、論理の展開が回りくどかったり、逆に直観的に飛躍していたりしていて、何を言いたいのかなかなか掴めなかった」
「言語学とかを理論の枠組みとして使っているのを別にすれば、フロイドと大して違わないことしか言っていないとしか思えなかった。ラカンは独自の用語をたくさん作ったが、独自の見解は見当たらなかった」
「ラカンは、自説を高く評価させるために、わざわざ難しくわかりにくくし、彼を理解しようとする読者に多大の努力を要求する」
ボロクソだ。僕もラカンを何冊か読んで、頭が「?」のまま放ってあるけど、ここまで言われると、再挑戦してみようか、という気になるから不思議だ。
また、「精神とは論理構造である」とした章では、神経症についてこう書いている。
「間違った前提から出発して正しい論理の筋道を通って間違った結論に達しているのが、神経症的症状なのである」
これは、神経症だけでなく、ミステリーの根本でもあるなあ、と思った。
不可解な状況を説明するのに、論理の筋道は正しくたどり、間違った前提を暴き出すのが、ミステリーの醍醐味のひとつなのだ。
あと、「精神分析が記述しているような精神現象のほとんどは、とっくの昔に諺や箴言のなかで言及されている」として、いくつか例があげてある。
これが愉快。
「下司の勘ぐり」(投影)、「歴史は繰り返す」(反復強迫)、「己惚れと瘡気のない奴はいない」(ナルチシズム)「可愛さ余って憎さ百倍」(アンビヴァレンス)、「頭隠して尻隠さず」(抑圧)、「泥棒にも三分の道理」(合理化)、「江戸の仇を長崎で討つ」(すりかえ)、「一事が万事」(転移)などなど、これでもかというまで並べてある。
以前読んだ『性的唯幻論序説』では、ある主張をするたびに、それに対する反論をあらかじめ先回りしてフォローする書き方が目立った。
この本では、何か言ったあと、たとえば「理論をどう解釈しようが、それは解釈する人の勝手であると言えないこともないが…」など、「…」を多用して、反論に対するフォローをしているのが目立った。
それと、「〜だろうか」「〜だろうか」と多くの疑問文を重ねて、自分が本当に言いたいことをかなりキツイ形で紛れ込ませている書き方が多かった。
たとえば、この本は、小谷野敦の岸田秀批判にこたえる形で書かれているが、その史的唯幻論批判に対して、こんな文章がこれでもかと並ぶ。
「小谷野は〜としか考えられないのだろうか」
「小谷野は〜ではなかろうか」
「小谷野の考えでは〜その矛盾を突いたつもりなのであろうか」
「小谷野は〜区別がつかないのであろうか」
「小谷野は〜別の根拠を提示すべきではなかろうか」
これがえんえんと続く。
傍で見ているぶんには、面白い!
先日ジャパニメーションの本を読んだので、大島渚監督の「忍者武芸帳」を見ることにした。1967年。
白土三平の漫画『忍者武芸帳』のコマをそのままアップで映して、声や若干の動きをあてて、長編映画に仕立て上げた。アニメかどうかはよくわからないが、少なくとも、「まんが映画」ではある。カラーでもなく、大量のセル画を使って動きを滑らかに見せているわけでもない。紙芝居みたいな作品だが、2時間以上、まったく飽きずに見ることができた。漫画そのものが、もともと滅法面白かった、というのもある。
漫画の方は高校3年だか卒業後に、親友の田畑くんに借りて読んだ。彼は京都大学の理系の学部に進んだ秀才で、バケツの水に洗剤をまぜるときにも、サラサラと微分方程式を書いて計算していたのを覚えている。彼はその頃マルクス主義に傾倒していた。僕も同様にマルクスやエンゲルスの本をちんぷんかんぷんながらも読んでいた。今、忍者武芸帳をこうして映画ででも振り返ってみると、彼がこの漫画を必読だと言っていた意味がよくわかる気がした。
織田信長の時代。主人公の影丸は、全国の一揆を指導し、階級社会の転覆を狙っている。
影一族は、1つの主義を貫こうとする者の集まりで、8人おれば、それぞれが影丸本体でもあり、全員が影武者でもある。影丸を1人殺しても、別の誰かが影丸になるだけ。つまり、影丸は死なないのだ。これを白土三平は「八本しめじ」の術と表現した。
最後に残った「影丸」は「蔵六」と呼ばれる男で、首を体内に縮めることができる。この特殊な体質を術として、首を斬られたはずの影丸が首無しの姿で歩いてみせて、その不死身性をアピールしたりできたのだ。ちなみに「蔵六」は中国で「亀」のことを指している。「蔵六の奇病」という漫画で、ラストに蔵六が亀に変身したのは、言葉どおりの約束だったのだ。今で言うなら、「亀田三兄弟」が最後に、亀がたわわに実る田んぼに変身するようなものだ(ありえない)。
一向一揆は敗れ去り、信長も本能寺で死んだ。
ラストシーンで、影丸の言葉がナレーションとともにババーンと画面に大写しになる。
「わしが死ねばその後を継ぐ者が必ず出る。破れても人々は目的に向かい、多くの人が平等に幸せになる日までたたかうのだ」
この映画が作られてから、40年がたつ。
多くの人が平等に幸せになる日はまだ来ていない!
白土三平の漫画『忍者武芸帳』のコマをそのままアップで映して、声や若干の動きをあてて、長編映画に仕立て上げた。アニメかどうかはよくわからないが、少なくとも、「まんが映画」ではある。カラーでもなく、大量のセル画を使って動きを滑らかに見せているわけでもない。紙芝居みたいな作品だが、2時間以上、まったく飽きずに見ることができた。漫画そのものが、もともと滅法面白かった、というのもある。
漫画の方は高校3年だか卒業後に、親友の田畑くんに借りて読んだ。彼は京都大学の理系の学部に進んだ秀才で、バケツの水に洗剤をまぜるときにも、サラサラと微分方程式を書いて計算していたのを覚えている。彼はその頃マルクス主義に傾倒していた。僕も同様にマルクスやエンゲルスの本をちんぷんかんぷんながらも読んでいた。今、忍者武芸帳をこうして映画ででも振り返ってみると、彼がこの漫画を必読だと言っていた意味がよくわかる気がした。
織田信長の時代。主人公の影丸は、全国の一揆を指導し、階級社会の転覆を狙っている。
影一族は、1つの主義を貫こうとする者の集まりで、8人おれば、それぞれが影丸本体でもあり、全員が影武者でもある。影丸を1人殺しても、別の誰かが影丸になるだけ。つまり、影丸は死なないのだ。これを白土三平は「八本しめじ」の術と表現した。
最後に残った「影丸」は「蔵六」と呼ばれる男で、首を体内に縮めることができる。この特殊な体質を術として、首を斬られたはずの影丸が首無しの姿で歩いてみせて、その不死身性をアピールしたりできたのだ。ちなみに「蔵六」は中国で「亀」のことを指している。「蔵六の奇病」という漫画で、ラストに蔵六が亀に変身したのは、言葉どおりの約束だったのだ。今で言うなら、「亀田三兄弟」が最後に、亀がたわわに実る田んぼに変身するようなものだ(ありえない)。
一向一揆は敗れ去り、信長も本能寺で死んだ。
ラストシーンで、影丸の言葉がナレーションとともにババーンと画面に大写しになる。
「わしが死ねばその後を継ぐ者が必ず出る。破れても人々は目的に向かい、多くの人が平等に幸せになる日までたたかうのだ」
この映画が作られてから、40年がたつ。
多くの人が平等に幸せになる日はまだ来ていない!
正午よりOAPでジュニアダンスコンテスト「FLY HIGH」
全23組で競う。
以下、参加チームと、人数。
1.D’shine(2)
2.MANTEN(4)
3.The West(9)
4.E.K.Clew(5)
5.PEPPER MINT(8)
6.RAGA NATS(2)
7.Pushy Clips(3)
8.E-Lockers(6)
9.Powerfull Rabbits(7)
10.wodey(4)
11.La Brea(5)
12.ダンスリ−プ(3)
13.CORSICAN MINT(9)
14.エス・キューブ(4)
15.?LINK?(2)
16.MU-?(4)
17.APPLE MINT(9)
18.ステッカーキッズ(3)
19.CrackA-J(5)
20.プリ・プリ・Girls(5)
21.Tiger Lily(2)
22.SE-RA(4)
23.COOL MINT(9)
審査結果を待つあいだ、ESSEアカデミーのライブが約30分間にわたって繰り広げられた。
エキスポの発表会に行けなかったので、ESSEアカデミーライブは久々。
川上未帆ちゃんが司会をしてた。
PINKY D・CRUSHって、成長したなあ。歌もダンスも、楽しい。
さて、入賞は。
優勝:COOL MINT
準優勝:LINK
3位:CORSICAN MINT
4位:wodey
5位:APPLE MINT
ベストパフォーマンス賞:Tiger Lily
審査員特別賞:Powerfull Rabbits
審査員特別賞:D’shine
5位までにMINT勢が3組も入っている。それだけじゃない。審査結果の得点を見たら、次点はPEPPER MINTだった。去年のFLY HIGHでもMINT勢が入賞しまくってたので、このコンテストと相性がいいのかもしれない。普通に客として見ていても、ひょっとしたら上位入賞は全部ミントになるんじゃなかろうか、と危惧したほど、ダンスのレベルが高かった。
なお、30日はATCのダンスコンテストの決勝も行われており、ミント勢が入賞したとき、メンバーの姿がなかったのは、そっちに向かったからだと思われる。
とにかく、COOL MINTのぶっちぎりの優勝だったような気がするが、なんと、ATCのダンスコンテストでは、COOL MINTは準優勝だったらしい。
COOL MINTをおさえて優勝したチームって、すごい!
ああ、体が2つあればなあ!
先日、ジャパニメーションの本を読んだせいか、アニメ映画を見たくなって、「劇場版ポケットモンスター/ミュウと波導の勇者ルカリオ」を見た。2005年。
世界のはじまりの樹までピカチュウをさがしに行くサトシ。
ルカリオは100年の封印をとかれたポケモン。
ルカリオは時間の奇跡により、裏切られたと思っていたことが、実は誤解だったことを知る。
誤解と言えば。
この映画で、ミュウが出て来て、いろんなものに化けるのだが、それで、僕はある勘違いをしてしまった。最初、ピチュウに化けるのだが、僕は逆に、ピチュウがミュウに化けたのだ、と思い込んでしまったのだ。
「ピチュウ、こんな技もってたんだ!」
その後、登場人物たちが「ミュウを見た!」と騒いでいても、「ふふふ。あれは本当はピチュウなんだよ」と思っていたのだ。
途中で、勘違いに気づいたが、まったく恥ずかしい。
ポケモン映画は面白いのだが、ゲームのほうが何倍も面白いなあ、と思わせてしまうのが、損をしている、と思う。
全23組で競う。
以下、参加チームと、人数。
1.D’shine(2)
2.MANTEN(4)
3.The West(9)
4.E.K.Clew(5)
5.PEPPER MINT(8)
6.RAGA NATS(2)
7.Pushy Clips(3)
8.E-Lockers(6)
9.Powerfull Rabbits(7)
10.wodey(4)
11.La Brea(5)
12.ダンスリ−プ(3)
13.CORSICAN MINT(9)
14.エス・キューブ(4)
15.?LINK?(2)
16.MU-?(4)
17.APPLE MINT(9)
18.ステッカーキッズ(3)
19.CrackA-J(5)
20.プリ・プリ・Girls(5)
21.Tiger Lily(2)
22.SE-RA(4)
23.COOL MINT(9)
審査結果を待つあいだ、ESSEアカデミーのライブが約30分間にわたって繰り広げられた。
エキスポの発表会に行けなかったので、ESSEアカデミーライブは久々。
川上未帆ちゃんが司会をしてた。
PINKY D・CRUSHって、成長したなあ。歌もダンスも、楽しい。
さて、入賞は。
優勝:COOL MINT
準優勝:LINK
3位:CORSICAN MINT
4位:wodey
5位:APPLE MINT
ベストパフォーマンス賞:Tiger Lily
審査員特別賞:Powerfull Rabbits
審査員特別賞:D’shine
5位までにMINT勢が3組も入っている。それだけじゃない。審査結果の得点を見たら、次点はPEPPER MINTだった。去年のFLY HIGHでもMINT勢が入賞しまくってたので、このコンテストと相性がいいのかもしれない。普通に客として見ていても、ひょっとしたら上位入賞は全部ミントになるんじゃなかろうか、と危惧したほど、ダンスのレベルが高かった。
なお、30日はATCのダンスコンテストの決勝も行われており、ミント勢が入賞したとき、メンバーの姿がなかったのは、そっちに向かったからだと思われる。
とにかく、COOL MINTのぶっちぎりの優勝だったような気がするが、なんと、ATCのダンスコンテストでは、COOL MINTは準優勝だったらしい。
COOL MINTをおさえて優勝したチームって、すごい!
ああ、体が2つあればなあ!
先日、ジャパニメーションの本を読んだせいか、アニメ映画を見たくなって、「劇場版ポケットモンスター/ミュウと波導の勇者ルカリオ」を見た。2005年。
世界のはじまりの樹までピカチュウをさがしに行くサトシ。
ルカリオは100年の封印をとかれたポケモン。
ルカリオは時間の奇跡により、裏切られたと思っていたことが、実は誤解だったことを知る。
誤解と言えば。
この映画で、ミュウが出て来て、いろんなものに化けるのだが、それで、僕はある勘違いをしてしまった。最初、ピチュウに化けるのだが、僕は逆に、ピチュウがミュウに化けたのだ、と思い込んでしまったのだ。
「ピチュウ、こんな技もってたんだ!」
その後、登場人物たちが「ミュウを見た!」と騒いでいても、「ふふふ。あれは本当はピチュウなんだよ」と思っていたのだ。
途中で、勘違いに気づいたが、まったく恥ずかしい。
ポケモン映画は面白いのだが、ゲームのほうが何倍も面白いなあ、と思わせてしまうのが、損をしている、と思う。
ハリー・G・フランクファートの『ウンコな議論』を読んだ。
ウンコな議論というのは、嘘には到らないながら、まやかしであり、ふかし、はったり、ごまかし、はぐらかし、その場しのぎの発言のことをさしている。
「ウンコ議論が本質的に歪曲するのは、それが言及する事物の状態でもなければ、その事物の状態をめぐる話者の信念でもない」(要するに、嘘じゃない、てこと)
「かの人物が必然的にごまかそうとするのは、そこで語るという己の行為そのものについてである」
その場を切り抜けるために、物事の実際の状態がどうであるか、真実は何であるかを見ずに、ベラベラと語られるのが、ウンコな議論なのだ。
屁理屈やウンコ議論は、知りもしないことについて発言せざるを得ぬ状況に置かれたときには避けがたいもので、公的な場や、民主主義の世の中ではどんなことにでも自分なりの意見を持っていなくてはならないと思い込んでいる場合に、発動されやすい。
原題は「On Bullshit」
フム。こう訳しましたか!
訳者の山形浩生によると、文化相対主義や反知性主義がはびこっていた70年代に、この本の原形となる文章が書かれたそうだ。
知性や学問を無意味だと言ったり、愚者の発言に真理があると思い込んだり、不確定性原理や不完全性定理を持ち出して、客観的な真実なんてない、と居直る風潮を山形浩生は「アホダラ経」と言う言葉でまとめている。
アホダラ経全盛の時代に書かれた「ウンコな議論」は、そうした風潮に待ったをかける文書だったのだろう。
この本の表紙を見て、面白いことにすぐ気づく。
著者であるフランクファートより、訳者の山形浩生のほうが大きな文字で印刷されている。
さらに、本文と同量の「訳者解説」がついているのだ。ここまでくると、共著だ。翻訳の奔放さを考えれば、山形浩生のアレンジ作品と言えるかもしれない。
先にも書いたように、フランクファートは、現代においてウンコな議論がはびこっているのは、誰もがいろんなことに意見を持っていなくてはならない、という強迫観念にとらわれていて、また、いろんな意見を聞かれる機会が多くなったからだ、と説明している。
山形浩生はそれだけじゃない、と付け加える。聞かれもしないのに、新聞の投書欄やネット掲示板、ブログなどでウンコ議論を量産する人々がいるのだ。(また、なぜか専門家の書いたものを読まずに、この手の素人の発言を追いかけたり信じる人も多い!)これらのウンコ議論量産家は、どこからか圧力がかかって言わされているわけではないので、「その場しのぎ」以外の要素がありそうだ。
山形浩生は、今後の研究に待ちたいとは言っているが、仮説をあげている。
ウンコな議論がはびこれば、人は1人の人物から聞いたことを鵜のみにせず、複数の人から聞いて自分で判断するようになるだろう。メディア・リテラシーみたいな考えだ。
また、あまりにもデタラメな話でも多少の土地鑑があればそのデタラメさが判別できる。
ウンコ議論によってヨソ者を判定できるのだ。
人を喰った仮説だ。
ウンコ議論が出る原因の話だけに、喰うのは自然な流れなのかもしれない。
ウンコな議論というのは、嘘には到らないながら、まやかしであり、ふかし、はったり、ごまかし、はぐらかし、その場しのぎの発言のことをさしている。
「ウンコ議論が本質的に歪曲するのは、それが言及する事物の状態でもなければ、その事物の状態をめぐる話者の信念でもない」(要するに、嘘じゃない、てこと)
「かの人物が必然的にごまかそうとするのは、そこで語るという己の行為そのものについてである」
その場を切り抜けるために、物事の実際の状態がどうであるか、真実は何であるかを見ずに、ベラベラと語られるのが、ウンコな議論なのだ。
屁理屈やウンコ議論は、知りもしないことについて発言せざるを得ぬ状況に置かれたときには避けがたいもので、公的な場や、民主主義の世の中ではどんなことにでも自分なりの意見を持っていなくてはならないと思い込んでいる場合に、発動されやすい。
原題は「On Bullshit」
フム。こう訳しましたか!
訳者の山形浩生によると、文化相対主義や反知性主義がはびこっていた70年代に、この本の原形となる文章が書かれたそうだ。
知性や学問を無意味だと言ったり、愚者の発言に真理があると思い込んだり、不確定性原理や不完全性定理を持ち出して、客観的な真実なんてない、と居直る風潮を山形浩生は「アホダラ経」と言う言葉でまとめている。
アホダラ経全盛の時代に書かれた「ウンコな議論」は、そうした風潮に待ったをかける文書だったのだろう。
この本の表紙を見て、面白いことにすぐ気づく。
著者であるフランクファートより、訳者の山形浩生のほうが大きな文字で印刷されている。
さらに、本文と同量の「訳者解説」がついているのだ。ここまでくると、共著だ。翻訳の奔放さを考えれば、山形浩生のアレンジ作品と言えるかもしれない。
先にも書いたように、フランクファートは、現代においてウンコな議論がはびこっているのは、誰もがいろんなことに意見を持っていなくてはならない、という強迫観念にとらわれていて、また、いろんな意見を聞かれる機会が多くなったからだ、と説明している。
山形浩生はそれだけじゃない、と付け加える。聞かれもしないのに、新聞の投書欄やネット掲示板、ブログなどでウンコ議論を量産する人々がいるのだ。(また、なぜか専門家の書いたものを読まずに、この手の素人の発言を追いかけたり信じる人も多い!)これらのウンコ議論量産家は、どこからか圧力がかかって言わされているわけではないので、「その場しのぎ」以外の要素がありそうだ。
山形浩生は、今後の研究に待ちたいとは言っているが、仮説をあげている。
ウンコな議論がはびこれば、人は1人の人物から聞いたことを鵜のみにせず、複数の人から聞いて自分で判断するようになるだろう。メディア・リテラシーみたいな考えだ。
また、あまりにもデタラメな話でも多少の土地鑑があればそのデタラメさが判別できる。
ウンコ議論によってヨソ者を判定できるのだ。
人を喰った仮説だ。
ウンコ議論が出る原因の話だけに、喰うのは自然な流れなのかもしれない。
ヴォーカルクイーンストリートライブ、宇都宮の世界制覇計画の歩み
2006年7月28日 音楽
弁天町ORC200で定期的に開催されているヴォーカルクイーンストリートライブを見て来た。午後6時過ぎに開演。
以下、出演順にメモ。
佐竹紘菜
(AIの「Believe」、加藤ミリヤの「ジョウネツ」を歌う。おしゃべりも達者)
増井万帆
(島谷ひとみの「シャンテ」、MISIAの「名前のない空を見上げて」この子には美人の血が流れている。客席に綺麗なお姉さんも。)
田頭沙希&河野真子
(2人で髪型や衣装をあわせてきた。それぞれのソロ1曲ずつを含む7曲?の構成は、ライブの醍醐味を満喫できた。2人ともに歌って踊れるからね。田頭沙希ちゃんの大きく見せるダンスはさすが。真子ちゃんはなんだか不機嫌そうだった。僕の気のせい?)
黒田真衣
(アンジェラ・アキの「This Love」、BONNIE PINKの「A Perfect Sky」うまい!)
池真衣
(キューティーハニーと、猫に風船を歌う。キューティーハニー好きなんだね。靴ずれしてバンドエイド貼ったのが最近のトピックス!イケマイ、おもろい)
河野真実
(オリジナルを含む3曲歌う。2曲めには田頭沙希、河野真子がバックダンサーとして登場。真実、真子姉妹は「仲が悪い」と真実ちゃんは言うけど)
松永奈央
(オリジナルの「花火」など2曲。浴衣姿が可愛い)
Siia
(2曲。2年前の第8回ORC200のヴォーカルクイーンコンテストレディース部門でグランプリとった山下昌恵。活動再開とのこと)
以上。思うのは、シンガー以上に毎回変わる司会者のこと。達者な人もいるけど、見ててハラハラする司会者も多い。
フェスティバルゲートのブリッジに行き、宇都宮泰氏の音楽の謎シリーズ「宇都宮の世界制覇計画の歩み」。午後7時スタートだったが、到着したのは8時頃だった。
76年から90年までの宇都宮作品について、その秘められた陰謀(?)の解説とともに、ふりかえる。
コンクールに出品し入賞した作品、九州、沖縄地方でしか流れなかったというコマーシャルソング(納税のすすめ、みたいな)とか、映画音楽、プロデュースした音楽など、多岐にわたる宇都宮氏の歩みが紹介された。
宇都宮氏プロデュースによる少年ナイフの作品については詳しくは明かされなかったが、世界制覇計画の企みがギッシリと詰め込まれているそうである。UCLAのチャートをにぎわせたいくつかの曲のことだ。1つ明かしてくれたのは、「サマータイムブギー」と「ロケットに乗って」は本来メドレーとして作り上げたが、それを無理やり2曲に割られたのだそうだ。フムフム。
今回は紹介されなかったが、ダッピやカジモドの名前も出た。
うわー、聞きたい。そして、そこに何を詰め込んであったのか、謎解きを聞きたい。
でも、あいにくと、次回のレクチャーの予定はまだ無いそうなのだ。おあずけか。
レクチャーの最後は、アフターディナーの曲が白玉楽団によって演奏され、歌われたが、宇都宮氏一流の仕掛け満載で聞くことが出来た。正直、鳥肌がたった。アフターディナーのコピーバンドが不可能だったのは、宇都宮氏の陰謀までコピーできる人物が存在しなかったからだと思い知らされた。
宇都宮氏は今、音楽の謎を説明するための「作場論」執筆を構想しているという。
本の形で出るのかどうか、どれだけ膨大なものになるのか、その深謀遠慮はいかばかりか、まったく不明だが、期待して待ちたい。
宇都宮泰氏の不幸は、彼の理論なり「世界制覇計画」なりを理解し、伝える人材を欠いていることだと思う。それは理論なのか、とか、計画なのかという根本的な問題をも含めてだ。
「作場論」が完成しても、大きな謎が1つ増えるだけなのかもしれないが、謎は必ず解かれるために存在する。そのとき世界は確実に大きく揺れ動くことだろう。
以下、出演順にメモ。
佐竹紘菜
(AIの「Believe」、加藤ミリヤの「ジョウネツ」を歌う。おしゃべりも達者)
増井万帆
(島谷ひとみの「シャンテ」、MISIAの「名前のない空を見上げて」この子には美人の血が流れている。客席に綺麗なお姉さんも。)
田頭沙希&河野真子
(2人で髪型や衣装をあわせてきた。それぞれのソロ1曲ずつを含む7曲?の構成は、ライブの醍醐味を満喫できた。2人ともに歌って踊れるからね。田頭沙希ちゃんの大きく見せるダンスはさすが。真子ちゃんはなんだか不機嫌そうだった。僕の気のせい?)
黒田真衣
(アンジェラ・アキの「This Love」、BONNIE PINKの「A Perfect Sky」うまい!)
池真衣
(キューティーハニーと、猫に風船を歌う。キューティーハニー好きなんだね。靴ずれしてバンドエイド貼ったのが最近のトピックス!イケマイ、おもろい)
河野真実
(オリジナルを含む3曲歌う。2曲めには田頭沙希、河野真子がバックダンサーとして登場。真実、真子姉妹は「仲が悪い」と真実ちゃんは言うけど)
松永奈央
(オリジナルの「花火」など2曲。浴衣姿が可愛い)
Siia
(2曲。2年前の第8回ORC200のヴォーカルクイーンコンテストレディース部門でグランプリとった山下昌恵。活動再開とのこと)
以上。思うのは、シンガー以上に毎回変わる司会者のこと。達者な人もいるけど、見ててハラハラする司会者も多い。
フェスティバルゲートのブリッジに行き、宇都宮泰氏の音楽の謎シリーズ「宇都宮の世界制覇計画の歩み」。午後7時スタートだったが、到着したのは8時頃だった。
76年から90年までの宇都宮作品について、その秘められた陰謀(?)の解説とともに、ふりかえる。
コンクールに出品し入賞した作品、九州、沖縄地方でしか流れなかったというコマーシャルソング(納税のすすめ、みたいな)とか、映画音楽、プロデュースした音楽など、多岐にわたる宇都宮氏の歩みが紹介された。
宇都宮氏プロデュースによる少年ナイフの作品については詳しくは明かされなかったが、世界制覇計画の企みがギッシリと詰め込まれているそうである。UCLAのチャートをにぎわせたいくつかの曲のことだ。1つ明かしてくれたのは、「サマータイムブギー」と「ロケットに乗って」は本来メドレーとして作り上げたが、それを無理やり2曲に割られたのだそうだ。フムフム。
今回は紹介されなかったが、ダッピやカジモドの名前も出た。
うわー、聞きたい。そして、そこに何を詰め込んであったのか、謎解きを聞きたい。
でも、あいにくと、次回のレクチャーの予定はまだ無いそうなのだ。おあずけか。
レクチャーの最後は、アフターディナーの曲が白玉楽団によって演奏され、歌われたが、宇都宮氏一流の仕掛け満載で聞くことが出来た。正直、鳥肌がたった。アフターディナーのコピーバンドが不可能だったのは、宇都宮氏の陰謀までコピーできる人物が存在しなかったからだと思い知らされた。
宇都宮氏は今、音楽の謎を説明するための「作場論」執筆を構想しているという。
本の形で出るのかどうか、どれだけ膨大なものになるのか、その深謀遠慮はいかばかりか、まったく不明だが、期待して待ちたい。
宇都宮泰氏の不幸は、彼の理論なり「世界制覇計画」なりを理解し、伝える人材を欠いていることだと思う。それは理論なのか、とか、計画なのかという根本的な問題をも含めてだ。
「作場論」が完成しても、大きな謎が1つ増えるだけなのかもしれないが、謎は必ず解かれるために存在する。そのとき世界は確実に大きく揺れ動くことだろう。
「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか
2006年7月27日 読書
ヴェネチア映画祭のコンペティション部門に、日本から2作品が参加するという。
大友克洋監督の「蟲師」(漫画の実写映画化)と、今敏監督の「パプリカ」(筒井康隆原作のSFのアニメ化)
大友!漫画!筒井!SF!アニメ!サブカルチャーの洪水だ!
そんなニュースを目にしながら読み終わった本がある。
大塚英志、大澤信亮共著による『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』だ。
第1部まんが/アニメから「ジャパニメーション」へ
1、日本のまんが/アニメは何処から来たのか
2、戦後/手塚/手塚の継承者たち
第2部国策の中のジャパニメーション
1、市場規模から見るジャパニメーション
2、産業構造から見るジャパニメーション
3、ナショナリズムから見るジャパニメーション
本書はまんが/アニメーションにとっては決してプラスになるとは思えない「ジャパニメーション」をめぐる「国策」化の動きが、いかに無効であり根拠を欠くものかを第1部ではまんが/アニメ史の視点から、第2部では実際に「国策」として示されたものを検証することで徹底して批判するものである。
以上、「あとがき」から、まんま引用した。
第1部では、最近のジャパニメーションの議論が、いかに歴史的な視点を欠いたものであるかが明らかにされている。
まんがの起源というと、すぐに「鳥獣戯画」が持ち出され、いかにも日本の伝統文化のなかから発生し、成長してきたもののように主張されている。
しかし、実際は、日本のまんがはハリウッド産のアニメーションの二次創作として始まっている。
そして、戦争によって日本のまんがは「兵器的なリアリズム」が導入され、キャラクター的なリアリズムとの共存に矛盾が生じる。手塚治虫はキャラクター的絵柄(記号)を捨てないままに、キャラクターに「死」などのリアリズム的な身体性を持たせることになる。これが戦後まんがの最大の特徴になる。
こんなふうに、ハリウッド(ディズニー)、戦争を経て形成された戦後まんがについて、無邪気に鳥獣戯画から説き起こす、日本人としてのアイデンティティを求めるような議論は、あまりにまんがの歴史を見ていないんじゃないか、と大塚は言う。
まんがが簡単に体制側に利用されてきた歴史も書かれている。
ジャパニメーションが国策とされているのを、多くのアニメファンは「勘違いしてるあいだが花だ」と受け止めていたんじゃないか、と思っていたが、実際は違うんだろうか。
ヴェネチア映画祭の話題を聞いても、やっぱり日本が今世界に誇れる映画は漫画やアニメ絡みのものしかないんじゃないか、と思えてくる。実際、僕が今日本映画のベスト10を選んでみれば、大半はアニメや漫画関係になるはずだ。
ジャパニメーションの根は案外と根深いのかもしれない。
第2部では、「ジャパニメーション」と騒いでいるけど、売り上げに関しては、マイナー映画並みでしかなく(日本での韓流ブーム以下)、技術に関しても「マトリックス」以降、ハリウッドに回収済みだと議論は展開される。世界において、ジャパニメーションが熱狂的に受け入れられる部分もある。でも、それは、海外にもオタクがいる、という程度のことでしかないのだ。
この本に載っていた資料(Box office mojo)を見てびっくりしたのは、アメリカで公開された日本のアニメ映画で、最大の興業収入をあげたのは「ポケモン/ミュウツーの逆襲」だというのは納得できるとして、「攻殻機動隊」が公開されたのが、アメリカ国内で、わずか1館だけ、という事実だ。「アキラ」は、たったの2館。「スチームボーイ」は頑張って46。「イノセンス」は大健闘で55。「もののけ姫」は驚異的な129。ハリウッドのアニメ映画だと、たとえば「アイスエイジ」なら3345館。ケタが違った!
さてさて、映画祭出品の2作品は、海外でどう評価されるのだろうか。
世界の評価とは関係なく、僕が今、見たいのは、井口昇監督の「猫目小僧」かな。「まだらの少女」も面白かったし。大阪では夏休み明けの9月にやっと上映される。
大友克洋監督の「蟲師」(漫画の実写映画化)と、今敏監督の「パプリカ」(筒井康隆原作のSFのアニメ化)
大友!漫画!筒井!SF!アニメ!サブカルチャーの洪水だ!
そんなニュースを目にしながら読み終わった本がある。
大塚英志、大澤信亮共著による『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』だ。
第1部まんが/アニメから「ジャパニメーション」へ
1、日本のまんが/アニメは何処から来たのか
2、戦後/手塚/手塚の継承者たち
第2部国策の中のジャパニメーション
1、市場規模から見るジャパニメーション
2、産業構造から見るジャパニメーション
3、ナショナリズムから見るジャパニメーション
本書はまんが/アニメーションにとっては決してプラスになるとは思えない「ジャパニメーション」をめぐる「国策」化の動きが、いかに無効であり根拠を欠くものかを第1部ではまんが/アニメ史の視点から、第2部では実際に「国策」として示されたものを検証することで徹底して批判するものである。
以上、「あとがき」から、まんま引用した。
第1部では、最近のジャパニメーションの議論が、いかに歴史的な視点を欠いたものであるかが明らかにされている。
まんがの起源というと、すぐに「鳥獣戯画」が持ち出され、いかにも日本の伝統文化のなかから発生し、成長してきたもののように主張されている。
しかし、実際は、日本のまんがはハリウッド産のアニメーションの二次創作として始まっている。
そして、戦争によって日本のまんがは「兵器的なリアリズム」が導入され、キャラクター的なリアリズムとの共存に矛盾が生じる。手塚治虫はキャラクター的絵柄(記号)を捨てないままに、キャラクターに「死」などのリアリズム的な身体性を持たせることになる。これが戦後まんがの最大の特徴になる。
こんなふうに、ハリウッド(ディズニー)、戦争を経て形成された戦後まんがについて、無邪気に鳥獣戯画から説き起こす、日本人としてのアイデンティティを求めるような議論は、あまりにまんがの歴史を見ていないんじゃないか、と大塚は言う。
まんがが簡単に体制側に利用されてきた歴史も書かれている。
ジャパニメーションが国策とされているのを、多くのアニメファンは「勘違いしてるあいだが花だ」と受け止めていたんじゃないか、と思っていたが、実際は違うんだろうか。
ヴェネチア映画祭の話題を聞いても、やっぱり日本が今世界に誇れる映画は漫画やアニメ絡みのものしかないんじゃないか、と思えてくる。実際、僕が今日本映画のベスト10を選んでみれば、大半はアニメや漫画関係になるはずだ。
ジャパニメーションの根は案外と根深いのかもしれない。
第2部では、「ジャパニメーション」と騒いでいるけど、売り上げに関しては、マイナー映画並みでしかなく(日本での韓流ブーム以下)、技術に関しても「マトリックス」以降、ハリウッドに回収済みだと議論は展開される。世界において、ジャパニメーションが熱狂的に受け入れられる部分もある。でも、それは、海外にもオタクがいる、という程度のことでしかないのだ。
この本に載っていた資料(Box office mojo)を見てびっくりしたのは、アメリカで公開された日本のアニメ映画で、最大の興業収入をあげたのは「ポケモン/ミュウツーの逆襲」だというのは納得できるとして、「攻殻機動隊」が公開されたのが、アメリカ国内で、わずか1館だけ、という事実だ。「アキラ」は、たったの2館。「スチームボーイ」は頑張って46。「イノセンス」は大健闘で55。「もののけ姫」は驚異的な129。ハリウッドのアニメ映画だと、たとえば「アイスエイジ」なら3345館。ケタが違った!
さてさて、映画祭出品の2作品は、海外でどう評価されるのだろうか。
世界の評価とは関係なく、僕が今、見たいのは、井口昇監督の「猫目小僧」かな。「まだらの少女」も面白かったし。大阪では夏休み明けの9月にやっと上映される。
ボルヘスの『七つの夜』を読んだ。ジラーチの話ではない。
1977年にボルヘスがブエノスアイレスのコリセオ劇場で行った講演をまとめた本。
第1夜「神曲」
第2夜「悪夢」
第3夜「千一夜物語」
第4夜「仏教」
第5夜「詩について」
第6夜「カバラ」
第7夜「盲目について」
順番にメモ。
(1)姦通の罪で処刑されたパオロとフランチェスカに、ダンテは問いかける。二人はいかにして愛しあうようになったのか、二人は自分たちが愛しあっていることをどのようにして知ったのか。
二人は愛しあい、その結果、地獄にいる。
ダンテはフランチェスカの愛を得ることができず、地獄にいる二人をむしろうらやましがっている。
愛のためなら、地獄も厭わない二人のいる場所は、本当に地獄なのか?
(2)『オデュッセイア』に、角の門と象牙の門についての一節がある。
象牙の門を通ってくるのは偽りの夢。
角の門を通ってくるのは真のあるいは予言的な夢。
角は黙しているからか?
(3)「千一夜物語」はなぜ「千一」か。偶数は不吉だから。そして、終わりのない物語だということをあらわしている。
バ−ジョン違い、翻訳などで、千一夜物語は変化し、成長している。
原語版には「アラジンと魔法のランプ」の話は無い。
また、ド・クインシイが自伝で語った「千一夜物語」のエピソードは、どのテキストにも見当たらない。物語が今も成長しているのだ。
この章を読んで、「永遠と一日」という言い方が「千一夜物語」のプラス1に通じているのを知った。なるほど。
(4)他の宗教は、信者に軽信を要求する。しかし、仏教は、良き仏教徒でありながらブッダが存在したことを否定することができる。
重要なのは歴史的事実ではなく、教義なのだ。
(5)ケベードとエンリケ・バンクスの詩をとりあげる。
この章でボルヘスは「私にとってフランス語の音は快いものではありません。他のラテン系言語のもつ響きが欠けていると思うのです」「仮に言語をひとつだけ選ばなければならないとすれば、私にとってその言語はドイツ語でしょう。ドイツ語は複合語を形成する可能性を備え、開母音を持ち、素晴らしく音楽的です」と、言っている。
ドイツ語を馬の言葉だと言って蔑んでいたのは誰だっただろう。フランス語を綺麗だと思うのは、「おフランス」趣味なのか。
(6)言葉について、歴史的にまず「音」があり、その後に「文字」が出来たと西洋人は考えているが、カバラでは逆だ。神が道具として必要としたのは文字なのだ。
(7)ホメーロスは存在しなかった。しかし、ギリシア人は詩が何よりもまず音楽であり、何よりもまず竪琴であるという事実、視覚的な要素は詩人の中にあってもなくてもかまわないということを主張するために、盲目のホメーロスを好んで想像した。
ボルヘス読んでいると、古典をちゃんと読まねばならないな〜と宿題を与えられたような気分になる。夏休みの宿題として、古典を読んでみるか!
1977年にボルヘスがブエノスアイレスのコリセオ劇場で行った講演をまとめた本。
第1夜「神曲」
第2夜「悪夢」
第3夜「千一夜物語」
第4夜「仏教」
第5夜「詩について」
第6夜「カバラ」
第7夜「盲目について」
順番にメモ。
(1)姦通の罪で処刑されたパオロとフランチェスカに、ダンテは問いかける。二人はいかにして愛しあうようになったのか、二人は自分たちが愛しあっていることをどのようにして知ったのか。
二人は愛しあい、その結果、地獄にいる。
ダンテはフランチェスカの愛を得ることができず、地獄にいる二人をむしろうらやましがっている。
愛のためなら、地獄も厭わない二人のいる場所は、本当に地獄なのか?
(2)『オデュッセイア』に、角の門と象牙の門についての一節がある。
象牙の門を通ってくるのは偽りの夢。
角の門を通ってくるのは真のあるいは予言的な夢。
角は黙しているからか?
(3)「千一夜物語」はなぜ「千一」か。偶数は不吉だから。そして、終わりのない物語だということをあらわしている。
バ−ジョン違い、翻訳などで、千一夜物語は変化し、成長している。
原語版には「アラジンと魔法のランプ」の話は無い。
また、ド・クインシイが自伝で語った「千一夜物語」のエピソードは、どのテキストにも見当たらない。物語が今も成長しているのだ。
この章を読んで、「永遠と一日」という言い方が「千一夜物語」のプラス1に通じているのを知った。なるほど。
(4)他の宗教は、信者に軽信を要求する。しかし、仏教は、良き仏教徒でありながらブッダが存在したことを否定することができる。
重要なのは歴史的事実ではなく、教義なのだ。
(5)ケベードとエンリケ・バンクスの詩をとりあげる。
この章でボルヘスは「私にとってフランス語の音は快いものではありません。他のラテン系言語のもつ響きが欠けていると思うのです」「仮に言語をひとつだけ選ばなければならないとすれば、私にとってその言語はドイツ語でしょう。ドイツ語は複合語を形成する可能性を備え、開母音を持ち、素晴らしく音楽的です」と、言っている。
ドイツ語を馬の言葉だと言って蔑んでいたのは誰だっただろう。フランス語を綺麗だと思うのは、「おフランス」趣味なのか。
(6)言葉について、歴史的にまず「音」があり、その後に「文字」が出来たと西洋人は考えているが、カバラでは逆だ。神が道具として必要としたのは文字なのだ。
(7)ホメーロスは存在しなかった。しかし、ギリシア人は詩が何よりもまず音楽であり、何よりもまず竪琴であるという事実、視覚的な要素は詩人の中にあってもなくてもかまわないということを主張するために、盲目のホメーロスを好んで想像した。
ボルヘス読んでいると、古典をちゃんと読まねばならないな〜と宿題を与えられたような気分になる。夏休みの宿題として、古典を読んでみるか!
内藤ルネ自伝 すべてを失くして―転落のあとに
2006年7月25日 読書
内藤ルネ自伝『すべてを失くして』を読んだ。
なんだ、この悲しげなタイトルは!
まえがきには「刀折れ矢尽きしのちの幾山河−内藤ルネ」とある。
なんだ、なんだ!
2002年、弥生美術館での「内藤ルネ展」で再びルネ人気が再燃したことが書かれている。
先回りして、あとがきを紹介すると、こんな文章に出会う。
「生活費もなく生きる意欲も消え、失ったものに比し、残ったものはあまりに小さく情けない。それは私にはすべてを失ったのと同じなのだ。いままでの人生はなんだったのだろうということになる」
内藤ルネの人生に何があったのか?
以下、目次。
序章 70歳の大ブレイク
第1章 唯我独尊の幼少期、迷える思春期
第2章 神田神保町の「ラ・ヴィ・アン・ローズ」−ルネの産声
第3章 ”男の子”登場
第4章 もっと夢色ショックを!?−ルネのクリエイティブ・ワールド
第5章 私は”クローゼット・クイーン”−恋の話、愛の話、「私たち」の話
第6章 『私の部屋』−リビングデザイナー・ルネ
第7章 地獄の10年
第8章 修善寺での新たな生活
最終章 夢見ること、それが人生
『ひまわり』『それいゆ』の中原淳一のひまわり社に飛び込んで楽しく仕事をするところや、いろんな付録やグッズを作り、『薔薇の小部屋』を創刊するなど、大活躍のくだりは、とても楽しい。おひとよしゆえに、版権をとっておれば大金持ちになっていたチャンスを逃していた、としてもだ。
ルネは自分のことを「三低」だという。
低い身長、低い鼻、低い気持。
気持が低い、というのは「引っ込み思案」や「疎い」というようなことで、これがもとで、地獄の日々を送ることになる。
ルネは自分のデザインやアイディアを大手企業に盗まれまくり、バブル末期には詐欺にあい、7億円もの土地や財産を失う。無一文の家なし状態。さらには死の危険もある病気。本書の言葉どおり「あまりにも出来過ぎの安ドラマ」的展開が襲いかかる。
この時期のことをルネはこう詠んでいる。
「薄氷を踏むおもいにて十とせ過ぎぬ転落の果て−」
つらいのは、その窮状がいつのまにか広く知られ、あまり親しくない人にまで「大変だったんだって?」なんて言われるくだり。他人の不幸は楽しいけれど、笑いの種にされるのは耐えられない。
うう。このあたりの展開は、読んでいて身につまされるものがある。ひとごとじゃない。
この本の読みどころは、ルネのゲイとしての生き方が綴られているところにもある。
ひまわり社に入社したての本間少年に一目惚れして、生涯のパートナーになる。オフィスラブだ。その噂を聞いた中原淳一は、
「ルネくんの好みはいま、あの人に決まったのね」
と言い、ルネは
「そのとき、ようやくです、先生のお気持がはっきりと見えたのは」
と綴る。中原淳一との間に何があったかについては
「先生とはじつはそれまでにいろいろとあって…。ご家族がまだご存命でいらっしゃるので、ここではどうしても書けませんけれど…」
と濁す。そこまで書けば、言ったも同然だけど。本間氏は後に『薔薇族』の編集主筆を経てルネのマネージャーになる。
また、四谷に住んでいた金子國義、四谷シモン、近藤晃次らを中心とした「四谷婦人会」の集まりも楽しい。
コシノジュンコ、江波杏子、宇野亜喜良、高橋睦郎、状況劇場の人たちなども集まり、バカ話したり、大騒ぎしたり。
彼らが仮装パーティをしたときの写真が載っている。
ルネは「魔女」になったつもりだったが、人は「禿(かむろ)」だと思ったらしい。顔を真っ白に塗って、前髪を切りそろえた日本髪にして、真っ赤な着物に黒い羽織、唐傘をさしていたのだから、そりゃ、「かむろ」でしょう。
四谷シモンは仮装用に超ハイヒールをあつらえ、宇野亜喜良は奥さんそっくりの女装。
何度も開かれたこういうパーティは「ハリウッドと動物園がごちゃまぜになったよう」だったらしい。今だとゲイイベントとか、味園周辺のアングライベントに名残りをとどめていて、親近感が湧いた。自分だっていつでもこういう狂騒に参加できる環境があるのだ。
さて、ルネの目下の夢は「素敵な男の子写真集」の出版だそうだ。ルネは唐沢寿明や妻夫木聡にハマっており、切り抜きでアイコラ三昧。入院中には、病院の先生に恋をしたという。
人柄ゆえか、悲惨な部分よりも、楽しかったところが心に残る。やりたいことを常に持ち、好きなアイドルがおり、恋をする。経済的なことはさておき、こういう生き方を貫きたいものだ。(「さておき」の部分をもっと真剣に考えないといけないんだけどね)
なんだ、この悲しげなタイトルは!
まえがきには「刀折れ矢尽きしのちの幾山河−内藤ルネ」とある。
なんだ、なんだ!
2002年、弥生美術館での「内藤ルネ展」で再びルネ人気が再燃したことが書かれている。
先回りして、あとがきを紹介すると、こんな文章に出会う。
「生活費もなく生きる意欲も消え、失ったものに比し、残ったものはあまりに小さく情けない。それは私にはすべてを失ったのと同じなのだ。いままでの人生はなんだったのだろうということになる」
内藤ルネの人生に何があったのか?
以下、目次。
序章 70歳の大ブレイク
第1章 唯我独尊の幼少期、迷える思春期
第2章 神田神保町の「ラ・ヴィ・アン・ローズ」−ルネの産声
第3章 ”男の子”登場
第4章 もっと夢色ショックを!?−ルネのクリエイティブ・ワールド
第5章 私は”クローゼット・クイーン”−恋の話、愛の話、「私たち」の話
第6章 『私の部屋』−リビングデザイナー・ルネ
第7章 地獄の10年
第8章 修善寺での新たな生活
最終章 夢見ること、それが人生
『ひまわり』『それいゆ』の中原淳一のひまわり社に飛び込んで楽しく仕事をするところや、いろんな付録やグッズを作り、『薔薇の小部屋』を創刊するなど、大活躍のくだりは、とても楽しい。おひとよしゆえに、版権をとっておれば大金持ちになっていたチャンスを逃していた、としてもだ。
ルネは自分のことを「三低」だという。
低い身長、低い鼻、低い気持。
気持が低い、というのは「引っ込み思案」や「疎い」というようなことで、これがもとで、地獄の日々を送ることになる。
ルネは自分のデザインやアイディアを大手企業に盗まれまくり、バブル末期には詐欺にあい、7億円もの土地や財産を失う。無一文の家なし状態。さらには死の危険もある病気。本書の言葉どおり「あまりにも出来過ぎの安ドラマ」的展開が襲いかかる。
この時期のことをルネはこう詠んでいる。
「薄氷を踏むおもいにて十とせ過ぎぬ転落の果て−」
つらいのは、その窮状がいつのまにか広く知られ、あまり親しくない人にまで「大変だったんだって?」なんて言われるくだり。他人の不幸は楽しいけれど、笑いの種にされるのは耐えられない。
うう。このあたりの展開は、読んでいて身につまされるものがある。ひとごとじゃない。
この本の読みどころは、ルネのゲイとしての生き方が綴られているところにもある。
ひまわり社に入社したての本間少年に一目惚れして、生涯のパートナーになる。オフィスラブだ。その噂を聞いた中原淳一は、
「ルネくんの好みはいま、あの人に決まったのね」
と言い、ルネは
「そのとき、ようやくです、先生のお気持がはっきりと見えたのは」
と綴る。中原淳一との間に何があったかについては
「先生とはじつはそれまでにいろいろとあって…。ご家族がまだご存命でいらっしゃるので、ここではどうしても書けませんけれど…」
と濁す。そこまで書けば、言ったも同然だけど。本間氏は後に『薔薇族』の編集主筆を経てルネのマネージャーになる。
また、四谷に住んでいた金子國義、四谷シモン、近藤晃次らを中心とした「四谷婦人会」の集まりも楽しい。
コシノジュンコ、江波杏子、宇野亜喜良、高橋睦郎、状況劇場の人たちなども集まり、バカ話したり、大騒ぎしたり。
彼らが仮装パーティをしたときの写真が載っている。
ルネは「魔女」になったつもりだったが、人は「禿(かむろ)」だと思ったらしい。顔を真っ白に塗って、前髪を切りそろえた日本髪にして、真っ赤な着物に黒い羽織、唐傘をさしていたのだから、そりゃ、「かむろ」でしょう。
四谷シモンは仮装用に超ハイヒールをあつらえ、宇野亜喜良は奥さんそっくりの女装。
何度も開かれたこういうパーティは「ハリウッドと動物園がごちゃまぜになったよう」だったらしい。今だとゲイイベントとか、味園周辺のアングライベントに名残りをとどめていて、親近感が湧いた。自分だっていつでもこういう狂騒に参加できる環境があるのだ。
さて、ルネの目下の夢は「素敵な男の子写真集」の出版だそうだ。ルネは唐沢寿明や妻夫木聡にハマっており、切り抜きでアイコラ三昧。入院中には、病院の先生に恋をしたという。
人柄ゆえか、悲惨な部分よりも、楽しかったところが心に残る。やりたいことを常に持ち、好きなアイドルがおり、恋をする。経済的なことはさておき、こういう生き方を貫きたいものだ。(「さておき」の部分をもっと真剣に考えないといけないんだけどね)
わくわくマイメロ夏まつり、ミューズうちわ配付
2006年7月24日 アイドル
ツイン21で「わくわくマイメロ夏まつり!」
「おねがいマイメロディ〜くるくるシャッフル!」のイベント。
午後1時と4時に、ステージがあった。
黒木マリナが登場し、主題歌「コイ・クル」を歌った。
思いのほかダンスがしっかりしていて、歌もうまかった。
それもそのはず。黒木マリナは「ミュージカル美少女戦士セーラームーン」で4代目セーラームーン役を4年間務めていた子なのだ。
昼過ぎに現地に到着したとき、私服の彼女をすぐ近くで見ることが出来、リハーサル風景も見たが、リアル高校3年生だった。
着ぐるみのマイメロディにクロミが登場して、寸劇。
次に登場したのが、夢野歌ちゃんの声をあてていた片岡あづさ。
夢防衛少女隊が歌っていた「ドリーム!ドリーム!ドリーム!」を歌う。
これは口パクの疑いが。
振り付けはアイドルっぽくてちゃんとダンスしてた。
次にクロミの声をあてている竹内順子と、バクの前田登が出て来てトーク。
抽選大会ではマイメロディグッズが当たるのだが、これがまあ、1割以上の確率で当たるお得な抽選だった。なんでもいいからグッズを買った人に抽選券が配られたのだ。
以上、アニメのイベントとしてはなかなか充実していたと思うのだが、いわゆるオタクとか追っかけはあんまり来ていなかった。大半が親子。
アニメもキャラクターもアイドルも好きな僕にとっては天国のようなイベントだった。
午後4時からの回も同じ流れ。
歌ちゃんの「ドリーム!ドリーム!ドリーム!」まで聞いて京橋に向かう。
今日は午後4時頃から京橋駅界隈でSTSのミューズが天神祭のうちわを配付していたので、それを見に行ったのだ。
浴衣姿のミューズだけでなく、私服で応援に駆け付けたいちごっ娘のメンバーも集まっていた。
うちわの配付は早々に終了し、いつのまにか撮影大会になっていた。
ファンサービスの丁寧さには頭が下がる思いだ。
「おねがいマイメロディ〜くるくるシャッフル!」のイベント。
午後1時と4時に、ステージがあった。
黒木マリナが登場し、主題歌「コイ・クル」を歌った。
思いのほかダンスがしっかりしていて、歌もうまかった。
それもそのはず。黒木マリナは「ミュージカル美少女戦士セーラームーン」で4代目セーラームーン役を4年間務めていた子なのだ。
昼過ぎに現地に到着したとき、私服の彼女をすぐ近くで見ることが出来、リハーサル風景も見たが、リアル高校3年生だった。
着ぐるみのマイメロディにクロミが登場して、寸劇。
次に登場したのが、夢野歌ちゃんの声をあてていた片岡あづさ。
夢防衛少女隊が歌っていた「ドリーム!ドリーム!ドリーム!」を歌う。
これは口パクの疑いが。
振り付けはアイドルっぽくてちゃんとダンスしてた。
次にクロミの声をあてている竹内順子と、バクの前田登が出て来てトーク。
抽選大会ではマイメロディグッズが当たるのだが、これがまあ、1割以上の確率で当たるお得な抽選だった。なんでもいいからグッズを買った人に抽選券が配られたのだ。
以上、アニメのイベントとしてはなかなか充実していたと思うのだが、いわゆるオタクとか追っかけはあんまり来ていなかった。大半が親子。
アニメもキャラクターもアイドルも好きな僕にとっては天国のようなイベントだった。
午後4時からの回も同じ流れ。
歌ちゃんの「ドリーム!ドリーム!ドリーム!」まで聞いて京橋に向かう。
今日は午後4時頃から京橋駅界隈でSTSのミューズが天神祭のうちわを配付していたので、それを見に行ったのだ。
浴衣姿のミューズだけでなく、私服で応援に駆け付けたいちごっ娘のメンバーも集まっていた。
うちわの配付は早々に終了し、いつのまにか撮影大会になっていた。
ファンサービスの丁寧さには頭が下がる思いだ。
ハウルの動く城、晴子の応援団長
2006年7月23日 映画
スタジオジブリの「ハウルの動く城」を見た。
キャストやストーリーはご承知のとおり。
不思議に思ったことが2つある。
ラストで、戦争がどういう風の吹き回しか、あっさりと和平に進むこと。
また、若い娘がお婆さんに呪いで変身しちゃうけど、「老い」は呪いなのか、ということ。
僕なら、若者に変身させられた方が、つらいことが増える、と思ってしまう。
この2つの不思議な点を考えてみると、「なんだ、結局は若い男女の恋だの愛だのの話なのか」とむやみに結論を不時着させたくなる。
どうなんだろう。
若いハウルの争奪戦をただやっていて、荒れ地の魔女は嫉妬から「老い」を呪いとしてかけ、主人公の娘とハウルがハッピーエンドを迎えるのが不可避だと悟って、戦争も意味を失うんじゃないのか。
ところが、一方、僕の目から見ると、ハウルがちっとも魅力的に見えない。
特に、ハウルの情けないドロドロの弱さは、まったく子供っぽくてイライラした。
あんな人間的に出来ていない奴は、ドロドロとけてなくなってしまえばいいんだ、と思って見ていた。
つくづく、女々しい話である。
一方、感心したのは、色の多さ。
最近、映画をほとんど見に行かず、テレビアニメばっかり見ていた僕には、画面の綺麗さが目にしみた。
話題になっていたであろう、声優が誰であるとか、そういうことに気をとられるようであれば、こういう映画は声優失格だと僕は思っている。ところが案外、キャラクターに没頭できたので、これは収穫。
映画はとても面白く見ることができたが、ストーリー上、納得できないところがある。
原作にあたってみるか。
酒井欣也監督の「晴子の応援団長」を見た。(1962年)
鰐淵晴子は鑑別所の少女と、お嬢さんの1人2役。
瓜ふたつの2人は、お互いの利害が一致して、入れ替わりをする。
と、いっても、映画で描かれるのはお嬢さんに変身した不良少女の方で、お嬢さんの方は鑑別所で居心地悪そうだった。
家族のない不良少女がつかのま味わう家庭の味。
うじうじどっちつかずのお嬢さんだったのが、急にテキパキ、サクサクしだして野球場ではいきなりチアガールまでつとめ、周囲は驚き、恋まで。
女囚たちがタバコの吸い殻見つけて「モクだ!」と殺到するとか、入れ替わってから食事のマナーがなってないことで違和感が出るなど、お約束のオンパレードで、安心して見ていられる。
そっくりの二人が入れ替わる映画は古今東西、山ほどあるだろう。
それを網羅して論じている本とかないかなあ。
急に興味が湧いて来た。
キャストやストーリーはご承知のとおり。
不思議に思ったことが2つある。
ラストで、戦争がどういう風の吹き回しか、あっさりと和平に進むこと。
また、若い娘がお婆さんに呪いで変身しちゃうけど、「老い」は呪いなのか、ということ。
僕なら、若者に変身させられた方が、つらいことが増える、と思ってしまう。
この2つの不思議な点を考えてみると、「なんだ、結局は若い男女の恋だの愛だのの話なのか」とむやみに結論を不時着させたくなる。
どうなんだろう。
若いハウルの争奪戦をただやっていて、荒れ地の魔女は嫉妬から「老い」を呪いとしてかけ、主人公の娘とハウルがハッピーエンドを迎えるのが不可避だと悟って、戦争も意味を失うんじゃないのか。
ところが、一方、僕の目から見ると、ハウルがちっとも魅力的に見えない。
特に、ハウルの情けないドロドロの弱さは、まったく子供っぽくてイライラした。
あんな人間的に出来ていない奴は、ドロドロとけてなくなってしまえばいいんだ、と思って見ていた。
つくづく、女々しい話である。
一方、感心したのは、色の多さ。
最近、映画をほとんど見に行かず、テレビアニメばっかり見ていた僕には、画面の綺麗さが目にしみた。
話題になっていたであろう、声優が誰であるとか、そういうことに気をとられるようであれば、こういう映画は声優失格だと僕は思っている。ところが案外、キャラクターに没頭できたので、これは収穫。
映画はとても面白く見ることができたが、ストーリー上、納得できないところがある。
原作にあたってみるか。
酒井欣也監督の「晴子の応援団長」を見た。(1962年)
鰐淵晴子は鑑別所の少女と、お嬢さんの1人2役。
瓜ふたつの2人は、お互いの利害が一致して、入れ替わりをする。
と、いっても、映画で描かれるのはお嬢さんに変身した不良少女の方で、お嬢さんの方は鑑別所で居心地悪そうだった。
家族のない不良少女がつかのま味わう家庭の味。
うじうじどっちつかずのお嬢さんだったのが、急にテキパキ、サクサクしだして野球場ではいきなりチアガールまでつとめ、周囲は驚き、恋まで。
女囚たちがタバコの吸い殻見つけて「モクだ!」と殺到するとか、入れ替わってから食事のマナーがなってないことで違和感が出るなど、お約束のオンパレードで、安心して見ていられる。
そっくりの二人が入れ替わる映画は古今東西、山ほどあるだろう。
それを網羅して論じている本とかないかなあ。
急に興味が湧いて来た。
ミューズ&いちごっ娘@ブロッサム
2006年7月22日 アイドル
鶴見はなぽーとブロッサムでミューズ&いちごっ娘ライブ。
到着時、リハーサルをしており、私服でのステージも見ることができた。汗だくになったりしないのか?
午後2時の回
1.アニパラキッズ(キューティーハニー〜花の子ルンルン〜すきすきソング〜キューティーハニー)/muse
2.瞳は元気なブルースカイ/muse
3.Get Your Groove/いちごっ娘
4.Your Song/いちごっ娘
5.満月の夜に迎えに来て/muse
6.ちょっとだけMY LOVE/muse
ミューズはいつもの白いひらひら衣装。いちごっ娘は黄色と赤色。
「ちょっとだけMY LOVE」はミューズが結成当初から歌っている曲、と、まりなのMC。僕が創叡のイベントを見だした頃から思うと、クランベリーズは活動休止中だし、ブラックベリーズは路線変更、ラズベリーズも路線変更後、新メンバーでの活動を待っている状態。ジュエルもステージに出なくなったし、バブルズももうない。アーミーズはあんまり出てこないし、フレーズも路線変更、プリッツだって路線変更、クーも停止中、いちごっ娘はブットラソを歌わない。昔から同じ歌を歌っていて、ユニットのイメージも変わらないのは、ミューズだけなのか!
午後4時の回
1.anybody’s game/muse
2.kitto…/muse
3.Uki Uki Baby/いちごっ娘
4.Your Song/いちごっ娘
5.満月の夜に迎えに来て/muse
6.ちょっとだけMY LOVE/muse
ミューズはピンク衣装、いちごっ娘は白でハット
このステージでの影の主役はミューズの橋本梨世だった。
MCのとき、リーダーのまりなが両手をパッと広げたとき、梨世を水平チョップ!まりながうろたえて謝るシーン。そして、ライブ中に梨世がマイクを取り落とす。ダンスしながら回収したが、マイクのスローイングは道重を思わせた(ハローモーニングのスタジオライブでマイクをアンダースローし、マイクを持っているふりして歌っていた)。天女の集団ミューズだが、梨世はアナーキーの女神なのかもしれない。
ライブ終了後、ミューズはCDとキーホルダー、いちごっ娘はキーホルダーの販売があった。販売所はいつしか撮影大会になり、最後にはステージにユニットが上がり、急遽撮影タイムになった。スタジオSTSのチラシを、TOUCHのメンバーがお客さんに配っていた。僕のことを怖がってなかなかチラシをくれなかったが、なんとか、みなっちからGETした。僕みたいに異様な風体をした人物にも気軽に挨拶してくれるのは、こわいもの知らずのまりなだけである。
到着時、リハーサルをしており、私服でのステージも見ることができた。汗だくになったりしないのか?
午後2時の回
1.アニパラキッズ(キューティーハニー〜花の子ルンルン〜すきすきソング〜キューティーハニー)/muse
2.瞳は元気なブルースカイ/muse
3.Get Your Groove/いちごっ娘
4.Your Song/いちごっ娘
5.満月の夜に迎えに来て/muse
6.ちょっとだけMY LOVE/muse
ミューズはいつもの白いひらひら衣装。いちごっ娘は黄色と赤色。
「ちょっとだけMY LOVE」はミューズが結成当初から歌っている曲、と、まりなのMC。僕が創叡のイベントを見だした頃から思うと、クランベリーズは活動休止中だし、ブラックベリーズは路線変更、ラズベリーズも路線変更後、新メンバーでの活動を待っている状態。ジュエルもステージに出なくなったし、バブルズももうない。アーミーズはあんまり出てこないし、フレーズも路線変更、プリッツだって路線変更、クーも停止中、いちごっ娘はブットラソを歌わない。昔から同じ歌を歌っていて、ユニットのイメージも変わらないのは、ミューズだけなのか!
午後4時の回
1.anybody’s game/muse
2.kitto…/muse
3.Uki Uki Baby/いちごっ娘
4.Your Song/いちごっ娘
5.満月の夜に迎えに来て/muse
6.ちょっとだけMY LOVE/muse
ミューズはピンク衣装、いちごっ娘は白でハット
このステージでの影の主役はミューズの橋本梨世だった。
MCのとき、リーダーのまりなが両手をパッと広げたとき、梨世を水平チョップ!まりながうろたえて謝るシーン。そして、ライブ中に梨世がマイクを取り落とす。ダンスしながら回収したが、マイクのスローイングは道重を思わせた(ハローモーニングのスタジオライブでマイクをアンダースローし、マイクを持っているふりして歌っていた)。天女の集団ミューズだが、梨世はアナーキーの女神なのかもしれない。
ライブ終了後、ミューズはCDとキーホルダー、いちごっ娘はキーホルダーの販売があった。販売所はいつしか撮影大会になり、最後にはステージにユニットが上がり、急遽撮影タイムになった。スタジオSTSのチラシを、TOUCHのメンバーがお客さんに配っていた。僕のことを怖がってなかなかチラシをくれなかったが、なんとか、みなっちからGETした。僕みたいに異様な風体をした人物にも気軽に挨拶してくれるのは、こわいもの知らずのまりなだけである。
オヤジ国憲法でいこう!
2006年7月21日 読書
しりあがり寿&祖父江慎の『オヤジ国憲法でいこう!』を読んだ。
このお二方には、モダンチョキチョキズの時代にたいへんお世話になった。
アルバム「くまちゃん」のときに祖父江さんと一緒に仕事させてもらって、生きることの達人というか、まあ、この本に見られるような、うまい息の抜き方をみせていただき、感銘をうけた。いろいろとよくしていただいて、まったく足を向けて眠れない。
しりあがり寿さんには、宍戸留美ちゃんのライブを企画したときのお土産グッズで、お手をわずらわせた。感謝感激ここに極まり、まったく足を向けて眠れない。
大阪に住む僕は、お二人の暮らす関東の方に足を向けて眠れないのである。
以下、目次と、カッコ内は適当な引用。
オヤジ国憲法前文
(オヤジは底抜けに自由である)
第1条 個性ハ必要ナシ
第1項 「自分忘れ」のススメ
(なにかにうっとりして我を忘れることのススメ)
第2項 個性は捨てるためにあるものである
(自分と他人とはそもそも違っていて当たり前)
第3項 自分の傷は、これを無視する
(自分の不安や自信の無さ、傷を癒すには、自分にとって興味のあることをやり続けること)
第2条 友達ハ大切ナモノニアラズ
第4項 友達となじめないのはあたりまえである
(学校時代の友達は、そもそもの成立が、不自然なものなのである)
第5項 友達とは、寂しさを補うだけのものである
(学生時代は「世の中にはいろんな人間がいる」と知る期間)
第6項 友達は、楽しく利用しあえばよい存在である
(友達は親の発明品かもしれない)
第3条 恋愛ハロクナモノデナシ
第7項 顔は、意外と問題の本質ではない
(キミのすごさは、ほんとうは「ぜんぜん平均値じゃないところ」にあるのだ)
第8項 モテることは異常事態である
(恋愛の本質はハプニング&アクシデント)
第9項 「愛」なんていいかげんな言葉にふりまわされるべからず
(「愛」は「芸術」なんかと同様に「説明できないけど、良さそうな感じ」を表わすときに使われる言葉)
第4条 真理ヤ理想ハ幻想ナリ
第10項 「幸せ」は、これを勘違いしている
(幸せな状態というのは、この世にはない。世の中にはただ、幸せな瞬間ばかりがあるのである)
第11項 「若さ」は、これを勘違いしている
(オヤジは、若い頃に比べたら体力がなくなっているだけが残念というだけで、オヤジになってからこそ楽しさの地平が広がるといったことなど、山のようにあるのである)
第12項 「正しさ」と「悪」は、これも勘違いしている
(自分の理解の外側にも世界がある)
第5条 ヤングノ敵ハ隣室ニアリ
第13項 あまり気にしなくても、親はすでに死んでいるのです
(親が言ってる内容にはあんまりピントは合わさずに。ソフトフォーカスで聞いておくのがよいだろう)
第14項 過保護からの逃れ方
(親元を離れるのがいちばん)
第15項 お父さんは家族を守れません
(あらゆるものはすべて、終わったり、解散したり、新しくなったり、ひとつの形には、とどまっていないのである)
オヤジ国憲法補則
(ヤングよ。キミらは、生きているだけでもう、すごいのである)
この本は思春期を迎えたヤングに向けて書かれているが、僕のまわりには、いつまでも思春期のままのような友人たちがうようよしている。
うむ。彼らにも、この本は有効だ!
僕だって半分オヤジ、半分思春期の未熟なミックスなのだ。有効だった。
このお二方には、モダンチョキチョキズの時代にたいへんお世話になった。
アルバム「くまちゃん」のときに祖父江さんと一緒に仕事させてもらって、生きることの達人というか、まあ、この本に見られるような、うまい息の抜き方をみせていただき、感銘をうけた。いろいろとよくしていただいて、まったく足を向けて眠れない。
しりあがり寿さんには、宍戸留美ちゃんのライブを企画したときのお土産グッズで、お手をわずらわせた。感謝感激ここに極まり、まったく足を向けて眠れない。
大阪に住む僕は、お二人の暮らす関東の方に足を向けて眠れないのである。
以下、目次と、カッコ内は適当な引用。
オヤジ国憲法前文
(オヤジは底抜けに自由である)
第1条 個性ハ必要ナシ
第1項 「自分忘れ」のススメ
(なにかにうっとりして我を忘れることのススメ)
第2項 個性は捨てるためにあるものである
(自分と他人とはそもそも違っていて当たり前)
第3項 自分の傷は、これを無視する
(自分の不安や自信の無さ、傷を癒すには、自分にとって興味のあることをやり続けること)
第2条 友達ハ大切ナモノニアラズ
第4項 友達となじめないのはあたりまえである
(学校時代の友達は、そもそもの成立が、不自然なものなのである)
第5項 友達とは、寂しさを補うだけのものである
(学生時代は「世の中にはいろんな人間がいる」と知る期間)
第6項 友達は、楽しく利用しあえばよい存在である
(友達は親の発明品かもしれない)
第3条 恋愛ハロクナモノデナシ
第7項 顔は、意外と問題の本質ではない
(キミのすごさは、ほんとうは「ぜんぜん平均値じゃないところ」にあるのだ)
第8項 モテることは異常事態である
(恋愛の本質はハプニング&アクシデント)
第9項 「愛」なんていいかげんな言葉にふりまわされるべからず
(「愛」は「芸術」なんかと同様に「説明できないけど、良さそうな感じ」を表わすときに使われる言葉)
第4条 真理ヤ理想ハ幻想ナリ
第10項 「幸せ」は、これを勘違いしている
(幸せな状態というのは、この世にはない。世の中にはただ、幸せな瞬間ばかりがあるのである)
第11項 「若さ」は、これを勘違いしている
(オヤジは、若い頃に比べたら体力がなくなっているだけが残念というだけで、オヤジになってからこそ楽しさの地平が広がるといったことなど、山のようにあるのである)
第12項 「正しさ」と「悪」は、これも勘違いしている
(自分の理解の外側にも世界がある)
第5条 ヤングノ敵ハ隣室ニアリ
第13項 あまり気にしなくても、親はすでに死んでいるのです
(親が言ってる内容にはあんまりピントは合わさずに。ソフトフォーカスで聞いておくのがよいだろう)
第14項 過保護からの逃れ方
(親元を離れるのがいちばん)
第15項 お父さんは家族を守れません
(あらゆるものはすべて、終わったり、解散したり、新しくなったり、ひとつの形には、とどまっていないのである)
オヤジ国憲法補則
(ヤングよ。キミらは、生きているだけでもう、すごいのである)
この本は思春期を迎えたヤングに向けて書かれているが、僕のまわりには、いつまでも思春期のままのような友人たちがうようよしている。
うむ。彼らにも、この本は有効だ!
僕だって半分オヤジ、半分思春期の未熟なミックスなのだ。有効だった。
パリ‐東京、さくら並木、バンビ、ピノキオ、ぼくらの燈台、五少年漂流記
2006年7月20日 アニメ・マンガ
高橋真琴の『パリ〜東京』『さくら並木』を読んだ。
どちらも父親不在の母子家庭での少女漫画、復刻版。
『パリ〜東京』は、作家の吉屋花子(!)に見い出されて人気挿絵家になった母と、花売りのバイトをする娘の物語。歌が大好き。
ウソの情報によって、父と母は引き裂かれていたことが判明、ハッピーエンド。
作中、フランス語で会話するシーンなどもあり、単語も紹介されていて、簡単なフランス語会話の手ほどきにもなっている。
『さくら並木』は学園もの。エス。
卓球の試合の決勝でおねえさまと接戦の末、破れた主人公に対して、「あれはわざと負けたのよ」「そんなにまでして、気をひきたいのかしら」とやっかんで噂するクラスメートたち。
二人の間柄はギクシャクするが、再度試合を申し込み、善戦するがまた敗れ、自分が手加減したわけではないことを自分でも納得、二人が心ない噂に翻弄されていたことに気づき、仲直り。
途中、バレエ「白鳥の死」のシーンが1ページ1コマ、2コマほどの大きな画面でえんえんと紹介される。
どちらの話も、人からの情報を鵜のみにするとろくでもないことになる、という教訓を僕は得た!
この復刻版には付録に「読本」がついており、高橋真琴へのインタビュー、嶽本野ばら、藤本由香里のエッセイ、松本零士へのインタビューが掲載されている(本書の復刻は、松本零士の所有する本からなされた)。
読んでいて面白いのは、断然、野ばら君のエッセイ。読者は蘊蓄よりも本質について知りたいんだよな、と強く思った。
しかし、まあ、こんな漫画読んで育ったら、女の子は乙女になっちゃうよなあ、と感心した。
貸本時代、大阪から飛行機代出しても原稿がほしいと東京の出版社から思われていたのが、この高橋真琴と手塚治虫だった、と読本に書かれていた。(この復刻版には、当時の高橋真琴の住所がそのまま載っている。大阪市旭区、とあった)
その双璧の片割れ、手塚治虫の復刻版も2冊読んだ。ディズニ−映画の漫画化。
『バンビ』
手塚治虫が百回くらい見た、という「バンビ」の漫画化。
言わずとしれた『ジャングル大帝』の元ネタだ。
ディズニー映画で見たり、またディズニー絵本で読むよりも、この手塚版がなんだかしっくりくるのは何故なんだろう。
『ピノキオ』
言わずと知れた『鉄腕アトム』の元ネタ。
実際の映画での絵柄を今、確認できないのが残念なのだが、ピノキオに命をふきこむ妖精の顔だちが、映画女優っぽい。
ピノキオは、怠けたり、浅はかな行動に出たりして、まったくバカなガキなのだ。
人間になりたい、という夢にしたって、その愚かさからくる願望のように思えた。
人形は人間が描いた理想の形だと思う。人形が人間になりたい、とか、思うはずがない。それはあまりにも、人間をいいものだと思い込みすぎている。
これは、ローゼンメイデンにも言えることだ。
人形が完璧な少女アリスを目指して闘うなんて、笑止千万。実際は、少女が人形を目指しているのだ。第2シリーズの「トロイメント」になって、人形たちが表情や感情を豊かに表現しだしたことに違和感を覚えたのは、そこだ。
さて、読本でのインタビューで、高橋真琴は愛読していた漫画を2つあげている。手塚治虫の『リボンの騎士』と芳賀たかしの『燈台島の冒険』だ。
この『燈台島の冒険』は戦後復刻されたときのタイトルで、最初に刊行されたときは『ぼくらの燈台』だった。
で、その芳賀たかしの漫画を読んだ。
芳賀たかし漫画傑作集『ぼくらの燈台/五少年漂流記』。中村書店の漫画復刻版。
まず、『ぼくらの燈台』
船の巻、ぼくらの燈台、暴風雨の巻と、章立てされている。
燈台にたどりつくまでに山道を6キロも行かねばならない。
こどもたちは、苛酷な山登りをしたり、土用波にさらわれたり、海燕の群れに襲われたり、暴風雨のなか船を救助したり、けっこう大冒険をするのだ。『燈台島の冒険』と改題したくなる気持もよくわかる。
この漫画のモデルになった燈台は金華山灯台と言われており、木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾年月」でも取り上げられている。
ちょっと前に、航空管制官のスリリングな映画が流行したことがあるが、この漫画もそれと同様、海上交通の安全を守るため、スリリングな展開をみせている。
中村書店らしく、浮標の種類や、灯台の仕組みなどの学習要素も忘れない。
次に『五少年漂流記』
漂流、無人島、マレー半島、と章立て。吹出しを使わず、絵物語になっている。
日本人2人、フランス人、シナ、安南の多国籍5人少年がボートで漂流する。
無人島でサバイバル生活を送り、舟を作ってマレー半島までたどりつく。
意外なことに、『ぼくらの燈台』の方が冒険スペクタクルの場面が印象に残った。
この『五少年漂流記』の面白さは、「無人島」の章での、少年5人による建設的な生活にある。少年はこんなふうに秘密基地とか、アジトとか作りたがるのだ。何もないところから徐々に作り上げていく楽しさは、冒険ダン吉読んだときの面白さを思い出した。
それでも少年たちは家に帰りたいようで、マレー半島のサカイ族に助けられて、ジャングルを抜けていく。サカイ族は文明を嫌う種族なのだが、少年たちをなぜか助けるのだ。
ずっと無人島で暮らしていれば楽しかったのに!
なんだなんだ、昔の漫画ばっかり読んでしまった。
『ぼくらの燈台』芳賀たかし(1940)
『五少年漂流記』芳賀たかし(1942)
『バンビ』手塚治虫(1951)
『ピノキオ』手塚治虫(1952)
『パリ〜東京』高橋真琴(1956)
『さくら並木』高橋真琴(1957)
全部、僕が生まれる前の出版だった。
(追記)
『パリ〜東京』でラストのクライマックスで、愛する夫が生きていることが判明し、涙にくれる母親をバックに、主人公の女の子が、こんな台詞を言う。
「今は過去のすべてを忘れ喜びにむせぶママン」
なに?この説明的なナレーションは?
どこに向かって言ってるのやら!
どちらも父親不在の母子家庭での少女漫画、復刻版。
『パリ〜東京』は、作家の吉屋花子(!)に見い出されて人気挿絵家になった母と、花売りのバイトをする娘の物語。歌が大好き。
ウソの情報によって、父と母は引き裂かれていたことが判明、ハッピーエンド。
作中、フランス語で会話するシーンなどもあり、単語も紹介されていて、簡単なフランス語会話の手ほどきにもなっている。
『さくら並木』は学園もの。エス。
卓球の試合の決勝でおねえさまと接戦の末、破れた主人公に対して、「あれはわざと負けたのよ」「そんなにまでして、気をひきたいのかしら」とやっかんで噂するクラスメートたち。
二人の間柄はギクシャクするが、再度試合を申し込み、善戦するがまた敗れ、自分が手加減したわけではないことを自分でも納得、二人が心ない噂に翻弄されていたことに気づき、仲直り。
途中、バレエ「白鳥の死」のシーンが1ページ1コマ、2コマほどの大きな画面でえんえんと紹介される。
どちらの話も、人からの情報を鵜のみにするとろくでもないことになる、という教訓を僕は得た!
この復刻版には付録に「読本」がついており、高橋真琴へのインタビュー、嶽本野ばら、藤本由香里のエッセイ、松本零士へのインタビューが掲載されている(本書の復刻は、松本零士の所有する本からなされた)。
読んでいて面白いのは、断然、野ばら君のエッセイ。読者は蘊蓄よりも本質について知りたいんだよな、と強く思った。
しかし、まあ、こんな漫画読んで育ったら、女の子は乙女になっちゃうよなあ、と感心した。
貸本時代、大阪から飛行機代出しても原稿がほしいと東京の出版社から思われていたのが、この高橋真琴と手塚治虫だった、と読本に書かれていた。(この復刻版には、当時の高橋真琴の住所がそのまま載っている。大阪市旭区、とあった)
その双璧の片割れ、手塚治虫の復刻版も2冊読んだ。ディズニ−映画の漫画化。
『バンビ』
手塚治虫が百回くらい見た、という「バンビ」の漫画化。
言わずとしれた『ジャングル大帝』の元ネタだ。
ディズニー映画で見たり、またディズニー絵本で読むよりも、この手塚版がなんだかしっくりくるのは何故なんだろう。
『ピノキオ』
言わずと知れた『鉄腕アトム』の元ネタ。
実際の映画での絵柄を今、確認できないのが残念なのだが、ピノキオに命をふきこむ妖精の顔だちが、映画女優っぽい。
ピノキオは、怠けたり、浅はかな行動に出たりして、まったくバカなガキなのだ。
人間になりたい、という夢にしたって、その愚かさからくる願望のように思えた。
人形は人間が描いた理想の形だと思う。人形が人間になりたい、とか、思うはずがない。それはあまりにも、人間をいいものだと思い込みすぎている。
これは、ローゼンメイデンにも言えることだ。
人形が完璧な少女アリスを目指して闘うなんて、笑止千万。実際は、少女が人形を目指しているのだ。第2シリーズの「トロイメント」になって、人形たちが表情や感情を豊かに表現しだしたことに違和感を覚えたのは、そこだ。
さて、読本でのインタビューで、高橋真琴は愛読していた漫画を2つあげている。手塚治虫の『リボンの騎士』と芳賀たかしの『燈台島の冒険』だ。
この『燈台島の冒険』は戦後復刻されたときのタイトルで、最初に刊行されたときは『ぼくらの燈台』だった。
で、その芳賀たかしの漫画を読んだ。
芳賀たかし漫画傑作集『ぼくらの燈台/五少年漂流記』。中村書店の漫画復刻版。
まず、『ぼくらの燈台』
船の巻、ぼくらの燈台、暴風雨の巻と、章立てされている。
燈台にたどりつくまでに山道を6キロも行かねばならない。
こどもたちは、苛酷な山登りをしたり、土用波にさらわれたり、海燕の群れに襲われたり、暴風雨のなか船を救助したり、けっこう大冒険をするのだ。『燈台島の冒険』と改題したくなる気持もよくわかる。
この漫画のモデルになった燈台は金華山灯台と言われており、木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾年月」でも取り上げられている。
ちょっと前に、航空管制官のスリリングな映画が流行したことがあるが、この漫画もそれと同様、海上交通の安全を守るため、スリリングな展開をみせている。
中村書店らしく、浮標の種類や、灯台の仕組みなどの学習要素も忘れない。
次に『五少年漂流記』
漂流、無人島、マレー半島、と章立て。吹出しを使わず、絵物語になっている。
日本人2人、フランス人、シナ、安南の多国籍5人少年がボートで漂流する。
無人島でサバイバル生活を送り、舟を作ってマレー半島までたどりつく。
意外なことに、『ぼくらの燈台』の方が冒険スペクタクルの場面が印象に残った。
この『五少年漂流記』の面白さは、「無人島」の章での、少年5人による建設的な生活にある。少年はこんなふうに秘密基地とか、アジトとか作りたがるのだ。何もないところから徐々に作り上げていく楽しさは、冒険ダン吉読んだときの面白さを思い出した。
それでも少年たちは家に帰りたいようで、マレー半島のサカイ族に助けられて、ジャングルを抜けていく。サカイ族は文明を嫌う種族なのだが、少年たちをなぜか助けるのだ。
ずっと無人島で暮らしていれば楽しかったのに!
なんだなんだ、昔の漫画ばっかり読んでしまった。
『ぼくらの燈台』芳賀たかし(1940)
『五少年漂流記』芳賀たかし(1942)
『バンビ』手塚治虫(1951)
『ピノキオ』手塚治虫(1952)
『パリ〜東京』高橋真琴(1956)
『さくら並木』高橋真琴(1957)
全部、僕が生まれる前の出版だった。
(追記)
『パリ〜東京』でラストのクライマックスで、愛する夫が生きていることが判明し、涙にくれる母親をバックに、主人公の女の子が、こんな台詞を言う。
「今は過去のすべてを忘れ喜びにむせぶママン」
なに?この説明的なナレーションは?
どこに向かって言ってるのやら!
エル・オトロ、エル・ミスモ
2006年7月19日 読書
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『エル・オトロ、エル・ミスモ』を読んだ。
訳すと『他者、自身』となるか。
1930年代から1960年代にわたる詩を集めた1冊。
やはり、歴史や文学からインスピレーションを受けた作品が多い。
「ヨーク・ミンスターの剣に」という詩ではこんな一節がある。
「過ぎ去ったものだけが真実だ」
こういうフレーズこそ、僕がボルヘスに抱いていたイメージに合致するものだった。
ボルヘス、というと、その肖像写真の印象から、また書物だの盲目だのという関連事項から、老人の印象があった。まったく勝手なイメージだ。しかし、ボルヘスは1899年生まれ。1930年代の作品は、今の自分よりも若い年齢でものした勘定になる。昨日読んだ『神曲講義』を読むと、ダンテとベアトリーチェの扱いなど、ロマンチックというか、情熱的というか、愛だの恋だのというか、とにかく、老人とはほど遠い印象を受けた。ボルヘスをちゃんと読んでおれば、間違いようもない印象だったのかもしれないが、1980年代にボルヘスを読んだときは、自分の若さがボルヘスを必要以上に老けて印象づけたようだ。
この『エル・オトロ、エル・ミスモ』を読んで感じたのも、その若さだ。
たとえば、「マタイによる福音書25章30節」という詩は、訳者の解説によると、フラれた直後の作品なのだそうだ。最後の審判到来の内容だが、こんなふうに詩はしめくくられる。
「恋と恋の予感 そして耐えられぬ記憶
むなしくおまえは歳月を浪費し、歳月はおまえを消耗した
まだ詩を書いていないのだ おまえは」
失恋して詩を書く若さ。さらに、その失恋の痛手に最後の審判まで引きずり出してくる青臭さ。
「1964年」という詩にはこんなフレーズがある。
「魔法が解けた世界におまえは独りだ
空しく繰り返す−所有しないもの
所有したことのないものを 失うはずがないと
だが 明るく振る舞ってはみても
忘却の術を思いのままにできはしない」
若い!
本書巻末に翻訳者による各詩の解説「マルジナリア」が丁寧で、とても役立った。
いきなり「フニンの勝者スアレス大佐を記念するページ」とか「バルタサル・グラシアン」「ヘンギスト王」「スノッリ・ストゥルソン」なんてタイトルで詩を書かれても、何のことやらちんぷんかんぷんだったろう。
一方、最も若い頃に書かれた詩は「不眠」で、これはわかりやすい!
また「スペイン」という1964年に書かれた詩は、
「モンタナの夕陽の草原で
刃物やライフルで死ぬ運命の
野牛のスペインよ」
「ユリシーズが黄泉の国へと降り立ったスペインよ」
「イスラムの、カバラの
『魂の暗い夜』のスペインよ」
と、「〜のスペインよ」を繰り返す作品で、寺山修司の「〜のアメリカよ」を反復した作品を思い出して、興味深かった。
思い出した。
僕はもともと寺山修司の影響でボルヘスを読みだしたのだった。
訳すと『他者、自身』となるか。
1930年代から1960年代にわたる詩を集めた1冊。
やはり、歴史や文学からインスピレーションを受けた作品が多い。
「ヨーク・ミンスターの剣に」という詩ではこんな一節がある。
「過ぎ去ったものだけが真実だ」
こういうフレーズこそ、僕がボルヘスに抱いていたイメージに合致するものだった。
ボルヘス、というと、その肖像写真の印象から、また書物だの盲目だのという関連事項から、老人の印象があった。まったく勝手なイメージだ。しかし、ボルヘスは1899年生まれ。1930年代の作品は、今の自分よりも若い年齢でものした勘定になる。昨日読んだ『神曲講義』を読むと、ダンテとベアトリーチェの扱いなど、ロマンチックというか、情熱的というか、愛だの恋だのというか、とにかく、老人とはほど遠い印象を受けた。ボルヘスをちゃんと読んでおれば、間違いようもない印象だったのかもしれないが、1980年代にボルヘスを読んだときは、自分の若さがボルヘスを必要以上に老けて印象づけたようだ。
この『エル・オトロ、エル・ミスモ』を読んで感じたのも、その若さだ。
たとえば、「マタイによる福音書25章30節」という詩は、訳者の解説によると、フラれた直後の作品なのだそうだ。最後の審判到来の内容だが、こんなふうに詩はしめくくられる。
「恋と恋の予感 そして耐えられぬ記憶
むなしくおまえは歳月を浪費し、歳月はおまえを消耗した
まだ詩を書いていないのだ おまえは」
失恋して詩を書く若さ。さらに、その失恋の痛手に最後の審判まで引きずり出してくる青臭さ。
「1964年」という詩にはこんなフレーズがある。
「魔法が解けた世界におまえは独りだ
空しく繰り返す−所有しないもの
所有したことのないものを 失うはずがないと
だが 明るく振る舞ってはみても
忘却の術を思いのままにできはしない」
若い!
本書巻末に翻訳者による各詩の解説「マルジナリア」が丁寧で、とても役立った。
いきなり「フニンの勝者スアレス大佐を記念するページ」とか「バルタサル・グラシアン」「ヘンギスト王」「スノッリ・ストゥルソン」なんてタイトルで詩を書かれても、何のことやらちんぷんかんぷんだったろう。
一方、最も若い頃に書かれた詩は「不眠」で、これはわかりやすい!
また「スペイン」という1964年に書かれた詩は、
「モンタナの夕陽の草原で
刃物やライフルで死ぬ運命の
野牛のスペインよ」
「ユリシーズが黄泉の国へと降り立ったスペインよ」
「イスラムの、カバラの
『魂の暗い夜』のスペインよ」
と、「〜のスペインよ」を繰り返す作品で、寺山修司の「〜のアメリカよ」を反復した作品を思い出して、興味深かった。
思い出した。
僕はもともと寺山修司の影響でボルヘスを読みだしたのだった。
ボルヘスの「神曲」講義
2006年7月18日 読書
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『ボルヘスの「神曲」講義』を読んだ。
ダンテの『神曲』に関してボルヘスが書いた文章を集めたもの。
ボルヘスは『神曲』を「あらゆる文学の頂点に立つ」作品と評価しており、「『神曲』は私たちの誰もが読むべき本です。これを読まないというのは、文学が私たちに与えうる最高の贈り物を遠慮することであり、奇妙な禁欲主義に身を委ねることを意味します」(『七つの夜』)とまで言っている。
本書の9つのエッセイについて、覚書を記しておこう。
「第四歌の高貴な城」
第四歌の恐ろしさを募らせているのは、登場人物が黙っているから。
登場人物はキリスト教成立以前の異教徒などだが、彼らが芸術の実践を行っているにもかかわらず、地獄にいるのは、ベアトリーチェに忘れられているからなのだ。
「ウゴリーノをめぐる贋の問題」
ウゴリーノは、息子たちと牢に閉じ込められたとき、悪夢を見て、あまりの悲痛さに自分の腕を噛む。それを見た息子たちは、飢えのためにそんなことをしたと思い、自分たちの肉体を提供しようとする。人食いだ。ウェルカム、腕噛む、どこ噛むねん!だ。
ダンテは、ウゴリーノが人肉を食べたかどうかについて、そう思わせようとしたわけじゃないが、疑いを抱くことは望む、不明瞭さをあえて選んでいる。
「オデュッセウスの最後の旅」
オデュッセウスがテニスンやメルヴィルに影響を与えている。
「慈悲深い死刑執行人」
政略結婚の後、夫の弟と関係をもったフランチェスカが地獄にいる。彼女は地獄にいるが、その過ちの物語は限りない同情をもって聞かれる。この矛盾をどう説明するのか。
人間の行為は必然的で、過ちは避けられなかったが、それらの行為が結果としてもたらす至福なり破滅なりの永生は不可欠。
「ダンテとアングロ・サクソン人の幻視者たち」
ベーダ(673〜735)の『イギリス教会史』に、『神曲』に似たくだりがある。
「『煉獄篇』第一歌13行」
「東方のサファイアの優美な色合い」の詩句について。明け方の東の空の比喩として使われているが、サファイアの色合いが既に東の空をあらわしているのに、そこに「東方の」とつけている。そして、そのサファイアは「東方のサファイア」なのだ。相互の映しあいが無限に繰り返される。
「スィーモルグと鷲」
『神曲』では、幾千という正義の王が鷲を構成する。
それより1世紀も前、スーフィズムのファリード・ウッディーン・アッタールがスィーモルグ(30羽の鳥)を着想していた。
「夢の中の出会い」
ベアトリーチェがダンテを糾弾。キビシー
「ベアトリーチェの最後の微笑」
ロマンチックか
本書には、ブレイクによる挿絵もあり、イメージの補助になる。
ベアトリーチェについて、これを何かの象徴であるとする立場を、ボルヘスはとらない。
何かの象徴である解釈が間違っているからではなく、それでは冷たすぎる、要するに、実在したベアトリーチェのことと考えた方が、面白いと言うのだ。
神の愛などの崇高とも壮大とも言えるテーマが、不在の女性ベアトリーチェとダンテの物語となると、こりゃまた未練たらたらのお話に思えてくる。
「ダンテ、しょうがないじゃない」と歌でもうたいたくなる。
これは『神曲』を読み直して、自分の印象に問いかけてみるしかあるまい。
ダンテの『神曲』に関してボルヘスが書いた文章を集めたもの。
ボルヘスは『神曲』を「あらゆる文学の頂点に立つ」作品と評価しており、「『神曲』は私たちの誰もが読むべき本です。これを読まないというのは、文学が私たちに与えうる最高の贈り物を遠慮することであり、奇妙な禁欲主義に身を委ねることを意味します」(『七つの夜』)とまで言っている。
本書の9つのエッセイについて、覚書を記しておこう。
「第四歌の高貴な城」
第四歌の恐ろしさを募らせているのは、登場人物が黙っているから。
登場人物はキリスト教成立以前の異教徒などだが、彼らが芸術の実践を行っているにもかかわらず、地獄にいるのは、ベアトリーチェに忘れられているからなのだ。
「ウゴリーノをめぐる贋の問題」
ウゴリーノは、息子たちと牢に閉じ込められたとき、悪夢を見て、あまりの悲痛さに自分の腕を噛む。それを見た息子たちは、飢えのためにそんなことをしたと思い、自分たちの肉体を提供しようとする。人食いだ。ウェルカム、腕噛む、どこ噛むねん!だ。
ダンテは、ウゴリーノが人肉を食べたかどうかについて、そう思わせようとしたわけじゃないが、疑いを抱くことは望む、不明瞭さをあえて選んでいる。
「オデュッセウスの最後の旅」
オデュッセウスがテニスンやメルヴィルに影響を与えている。
「慈悲深い死刑執行人」
政略結婚の後、夫の弟と関係をもったフランチェスカが地獄にいる。彼女は地獄にいるが、その過ちの物語は限りない同情をもって聞かれる。この矛盾をどう説明するのか。
人間の行為は必然的で、過ちは避けられなかったが、それらの行為が結果としてもたらす至福なり破滅なりの永生は不可欠。
「ダンテとアングロ・サクソン人の幻視者たち」
ベーダ(673〜735)の『イギリス教会史』に、『神曲』に似たくだりがある。
「『煉獄篇』第一歌13行」
「東方のサファイアの優美な色合い」の詩句について。明け方の東の空の比喩として使われているが、サファイアの色合いが既に東の空をあらわしているのに、そこに「東方の」とつけている。そして、そのサファイアは「東方のサファイア」なのだ。相互の映しあいが無限に繰り返される。
「スィーモルグと鷲」
『神曲』では、幾千という正義の王が鷲を構成する。
それより1世紀も前、スーフィズムのファリード・ウッディーン・アッタールがスィーモルグ(30羽の鳥)を着想していた。
「夢の中の出会い」
ベアトリーチェがダンテを糾弾。キビシー
「ベアトリーチェの最後の微笑」
ロマンチックか
本書には、ブレイクによる挿絵もあり、イメージの補助になる。
ベアトリーチェについて、これを何かの象徴であるとする立場を、ボルヘスはとらない。
何かの象徴である解釈が間違っているからではなく、それでは冷たすぎる、要するに、実在したベアトリーチェのことと考えた方が、面白いと言うのだ。
神の愛などの崇高とも壮大とも言えるテーマが、不在の女性ベアトリーチェとダンテの物語となると、こりゃまた未練たらたらのお話に思えてくる。
「ダンテ、しょうがないじゃない」と歌でもうたいたくなる。
これは『神曲』を読み直して、自分の印象に問いかけてみるしかあるまい。
ワンダフルハーツランド
2006年7月17日 アイドル
大阪城ホールでハロープロジェクトのお祭り、「ワンダフルハーツランド」午後3時の回を見に行った。
以下、曲目と出演者。
ハロプロエッグははじめて見るので、誰が誰だかわからなかった。
それと、全員ちゃんと判別できたとはかぎらず、名前の並びが後の方にあるのは、怪しい、と思ってください。
1.ALL FOR ONE & ONE FOR ALL!(全員)
2.SEXY BOY〜そよ風に寄り添って〜(全員)
MC(矢口&まこと)
3.大きな愛でもてなして(℃-ute)
4.即 抱きしめて(℃-ute)
5.初めてのハッピーバースデイ!(新垣、亀井)ダンサーにエッグ4人
6.恋☆カナ(月島きらり)ダンサーに新垣、亀井
7.好きすぎて バカみたい(田中、夏焼、村上、矢島)
8.ブギートレイン’03(藤本)ダンサ−に徳永、中島、須藤、有原
MC(矢口&まこと)ここからはサマーソング特集!
9.サマーれげぇ!レインボー(道重、岡田、萩原、夏焼)
10.さぁ!恋人になろう(辻、石川、清水、鈴木、熊井、三好)
11.すき焼き(モーニング娘。、Berryz工房)
12.ピリリと行こう!(全員)藤本、ダンス間違えて苦笑い
13.GOOD BYE 夏男(高橋、鈴木、菅谷)
14.おおきに、道端から
15.スッペシャル ジェネレ〜ション(モーニング娘。、辻、美勇伝)
MC(新垣、菅谷、萩原)この夏どうする、の質問に「ファッションに磨きをかける」(新垣)、「花火大会に行く」(菅谷)、「オニヤンマじゃなくてアカトンボだよ〜」(萩原)
16.印象派 ルノアールのように(吉澤、三好、熊井、矢島)
17.うわさのSEXY GUY(辻)ダンサーに村上、鈴木、中島、エッグ6人、あ〜、あと1人確認できず。
18.笑っちゃおうよ BOYFRIEND(Berryz工房)
19.一切合切 あなたにあ・げ・る♪(美勇伝)ダンサーにエッグ
20.唇から愛をちょうだい(美勇伝)ダンサーに℃-ute
21.Ambitious!野心的でいいじゃん(モーニング娘。)
MC(紺野、小川)卒業のこととか
22.好きな先輩(紺野、小川 。2番から高橋、新垣も加わる)
23.本気で熱いテーマソング(モ−ニング娘。)
24.恋愛レボリューション21(モーニング娘。)
25.Go Girl〜恋のヴィクトリー〜(Berryz工房、℃-ute)
26.メドレー「SEXY BOY 〜そよ風に寄り添って〜/ハピネス 〜幸福歓迎!〜/大阪ラプソディ/わっきゃない(Z)/カッチョイイゼ!JAPAN/ザ☆ピース!」
MC(全員)
27.SHIP!TO THE FUTURE(全員)
終了後は、スポーツフェスティバルの後みたいに、メンバー全員が2回ほどステージをまわって、お客さんに手をふる。
席は、ファミリー席の最前列で、メンバーがもう手を伸ばせばそこにいる状態。
表情の1つ1つがはっきりと見える。だって、2メートルくらいしか離れていないし。
こりゃファン感謝祭といってもいいようなサ−ビス満点ぶりで、感激した。
22曲めの「好きな先輩」は卒業する紺野、小川が新メンバーとして加入したときに与えられた楽曲で、感動も一入。
ところが、このコンサート、あまり卒業がどうこういうイメージは強くなかった。
僕の興味も卒業にはなかった。はじめて見るエッグの子たちのレベルの高さに驚き、ずっとサングラスかけたままの萩原の可愛さにぶっとび(背中のシミまでよく見えた!)、村上と清水が並んで踊る奇跡の瞬間にしびれ、藤本の顔の小ささに腰が抜け、道重のときおり見せる逸脱したダンスに顎がはずれ、完全燃焼してクタクタの須藤に沸騰した。
Berryz工房とモーニング娘。の色が薄いような内容だったが、もう大満足。
ただ、このメンツで行くと、美勇伝が浮いていたような気がする。
エルダーチームの住人のように思えた。
このライブ、まさに奇跡のライブだったので、もう1回と言わず、2度3度と見たかった。
帰りに寄ったIMPの入口の自動ドアにぶつかって、ありもろこしのような中年女性がコテ〜ンと転んでいた。全身が硬直した状態で転んだので、後頭部を打つ「ゴツン」という音が響いた。身体を柔らかく、せめてしりもちつくように曲げることができれば、頭打たずに済んだのに、と思っていたら、そのありもろこしは、立った瞬間に今度は遅れて上半身を曲げたため、カタカナの「フ」状で「おっとっと」とステップを踏んでいた。
大事にいたらずに済んでよかった。
IMPを出るときに、同じ自動ドアで、今度は中年男性がぶつかっていた。
コツでもあるのか?
以下、曲目と出演者。
ハロプロエッグははじめて見るので、誰が誰だかわからなかった。
それと、全員ちゃんと判別できたとはかぎらず、名前の並びが後の方にあるのは、怪しい、と思ってください。
1.ALL FOR ONE & ONE FOR ALL!(全員)
2.SEXY BOY〜そよ風に寄り添って〜(全員)
MC(矢口&まこと)
3.大きな愛でもてなして(℃-ute)
4.即 抱きしめて(℃-ute)
5.初めてのハッピーバースデイ!(新垣、亀井)ダンサーにエッグ4人
6.恋☆カナ(月島きらり)ダンサーに新垣、亀井
7.好きすぎて バカみたい(田中、夏焼、村上、矢島)
8.ブギートレイン’03(藤本)ダンサ−に徳永、中島、須藤、有原
MC(矢口&まこと)ここからはサマーソング特集!
9.サマーれげぇ!レインボー(道重、岡田、萩原、夏焼)
10.さぁ!恋人になろう(辻、石川、清水、鈴木、熊井、三好)
11.すき焼き(モーニング娘。、Berryz工房)
12.ピリリと行こう!(全員)藤本、ダンス間違えて苦笑い
13.GOOD BYE 夏男(高橋、鈴木、菅谷)
14.おおきに、道端から
15.スッペシャル ジェネレ〜ション(モーニング娘。、辻、美勇伝)
MC(新垣、菅谷、萩原)この夏どうする、の質問に「ファッションに磨きをかける」(新垣)、「花火大会に行く」(菅谷)、「オニヤンマじゃなくてアカトンボだよ〜」(萩原)
16.印象派 ルノアールのように(吉澤、三好、熊井、矢島)
17.うわさのSEXY GUY(辻)ダンサーに村上、鈴木、中島、エッグ6人、あ〜、あと1人確認できず。
18.笑っちゃおうよ BOYFRIEND(Berryz工房)
19.一切合切 あなたにあ・げ・る♪(美勇伝)ダンサーにエッグ
20.唇から愛をちょうだい(美勇伝)ダンサーに℃-ute
21.Ambitious!野心的でいいじゃん(モーニング娘。)
MC(紺野、小川)卒業のこととか
22.好きな先輩(紺野、小川 。2番から高橋、新垣も加わる)
23.本気で熱いテーマソング(モ−ニング娘。)
24.恋愛レボリューション21(モーニング娘。)
25.Go Girl〜恋のヴィクトリー〜(Berryz工房、℃-ute)
26.メドレー「SEXY BOY 〜そよ風に寄り添って〜/ハピネス 〜幸福歓迎!〜/大阪ラプソディ/わっきゃない(Z)/カッチョイイゼ!JAPAN/ザ☆ピース!」
MC(全員)
27.SHIP!TO THE FUTURE(全員)
終了後は、スポーツフェスティバルの後みたいに、メンバー全員が2回ほどステージをまわって、お客さんに手をふる。
席は、ファミリー席の最前列で、メンバーがもう手を伸ばせばそこにいる状態。
表情の1つ1つがはっきりと見える。だって、2メートルくらいしか離れていないし。
こりゃファン感謝祭といってもいいようなサ−ビス満点ぶりで、感激した。
22曲めの「好きな先輩」は卒業する紺野、小川が新メンバーとして加入したときに与えられた楽曲で、感動も一入。
ところが、このコンサート、あまり卒業がどうこういうイメージは強くなかった。
僕の興味も卒業にはなかった。はじめて見るエッグの子たちのレベルの高さに驚き、ずっとサングラスかけたままの萩原の可愛さにぶっとび(背中のシミまでよく見えた!)、村上と清水が並んで踊る奇跡の瞬間にしびれ、藤本の顔の小ささに腰が抜け、道重のときおり見せる逸脱したダンスに顎がはずれ、完全燃焼してクタクタの須藤に沸騰した。
Berryz工房とモーニング娘。の色が薄いような内容だったが、もう大満足。
ただ、このメンツで行くと、美勇伝が浮いていたような気がする。
エルダーチームの住人のように思えた。
このライブ、まさに奇跡のライブだったので、もう1回と言わず、2度3度と見たかった。
帰りに寄ったIMPの入口の自動ドアにぶつかって、ありもろこしのような中年女性がコテ〜ンと転んでいた。全身が硬直した状態で転んだので、後頭部を打つ「ゴツン」という音が響いた。身体を柔らかく、せめてしりもちつくように曲げることができれば、頭打たずに済んだのに、と思っていたら、そのありもろこしは、立った瞬間に今度は遅れて上半身を曲げたため、カタカナの「フ」状で「おっとっと」とステップを踏んでいた。
大事にいたらずに済んでよかった。
IMPを出るときに、同じ自動ドアで、今度は中年男性がぶつかっていた。
コツでもあるのか?
アトムと寅さん 壮大な夢の正体
2006年7月16日 読書
草森紳一と四方田犬彦による『アトムと寅さん〜壮大な夢の正体』を読んだ。
鉄腕アトム、手塚治虫について語る第1部、男はつらいよについて語る第2部。
草森紳一がサブカルチャー論を読むのはかなり久しぶりだ。よくぞ引っぱりだしてきてくれた。
表紙はタイガー立石。
手塚治虫の漫画は1965年の『W3』からつまらなくなってきた、と語る四方田氏の発言にみられるように、後期の作品はもう漫画として役割を終えている、という見解が示されている。『火の鳥』だって失敗作だ、と。(短編ですむ話を無理矢理長編にしてる、とか)
普通に漫画を読んでいた僕と、その印象は重なっているように思える。
僕の場合は、1970年の『やけっぱちのマリア』とか、『ミクロイドS』など、既にあんまり読まない漫画だったし、『三つ目がとおる』もとばして読まなかった。
後期の作品を面白く読むようになったのは、すっかり大人になってからだ。
晩年の作品なんか、面白くてしかたがない。
あと、第1部で四方田が問題にしていたのは、手塚治虫の歴史認識の甘さについて。
『アドルフに告ぐ』のエピローグで、ソロルド・ディキンスン監督のイスラエルのプロパガンダ映画「丘陵24応答せず」(1955年)を鵜のみにして綴られたと思しきエピソードが出てくるという。ナチスのユダヤ虐殺とパレスチナ問題に絡む下りらしいが、あいにくと、僕はこの映画を見ていない。
2人ともに手塚漫画が大好きなあまりか、批判的な発言が多いが、例の黒人差別問題については、漫画はもともと黒と白で表現されるしかないものだし、話の内容からも決して差別ではない、との見解を示していた。
第2部の「男はつらいよ」については、僕がちゃんと映画館で見出したのは80年代に入ってからで、全48作のうち、半分くらいしか見ていないんじゃないか、と思う。
あんまり見ていないせいか、読んでいて面白かったのは、この第2部の方だった。
山田洋次のこととか、松竹のこととか。寅さんが「ありがた迷惑」ならぬ「迷惑ありがとう」な存在であるとか。
映画での馬鹿の系譜が語られていた。阪妻から三船、三國、勝新の「無法松」の系譜と、阪妻からハナ、渥美の「道化」の系譜。この2つの系譜が三國連太郎(釣りバカ日誌)で統合されようとしている、という。釣りバカ日誌も全作見ているわけではないので、見逃している分を見ようかな、と思ったが、どれを見て、どれを見ていないのやらさっぱりわからない。
第2部でも、手塚と同様、差別の問題がクローズアップされる。
「車」姓は非人の頭目、乞胸頭の「車善七」からきているのではないか、という。この名前は「カムイ伝」でも「車弾七」という名で援用されている。
なるほど。
もっとお気楽なところでは、佐藤蛾次郎演じる源公について「知的障害かなんか分からないんだけど、寺にゴロゴロしている人で、寒山拾得みたいな感じがする」と言ってた。
第1部、第2部ともに、既に時代の役割は終えた、という認識で語られていて、「えっ、アトムのそんな読み方も出来るんだ!」「今こそ男はつらいよを全部見直せ」とかいう新しい視点はなかった。2人の語りを聞くのはとても楽しいけれど、なんだか考古学みたいだった。話題があっちこっちに飛んでいるわりに、まとまりすぎている。放談ってこういうことなのかな。
第3部でいきなり「ローゼンメイデン」とか語ってくれていたら、よかったのに。
鉄腕アトム、手塚治虫について語る第1部、男はつらいよについて語る第2部。
草森紳一がサブカルチャー論を読むのはかなり久しぶりだ。よくぞ引っぱりだしてきてくれた。
表紙はタイガー立石。
手塚治虫の漫画は1965年の『W3』からつまらなくなってきた、と語る四方田氏の発言にみられるように、後期の作品はもう漫画として役割を終えている、という見解が示されている。『火の鳥』だって失敗作だ、と。(短編ですむ話を無理矢理長編にしてる、とか)
普通に漫画を読んでいた僕と、その印象は重なっているように思える。
僕の場合は、1970年の『やけっぱちのマリア』とか、『ミクロイドS』など、既にあんまり読まない漫画だったし、『三つ目がとおる』もとばして読まなかった。
後期の作品を面白く読むようになったのは、すっかり大人になってからだ。
晩年の作品なんか、面白くてしかたがない。
あと、第1部で四方田が問題にしていたのは、手塚治虫の歴史認識の甘さについて。
『アドルフに告ぐ』のエピローグで、ソロルド・ディキンスン監督のイスラエルのプロパガンダ映画「丘陵24応答せず」(1955年)を鵜のみにして綴られたと思しきエピソードが出てくるという。ナチスのユダヤ虐殺とパレスチナ問題に絡む下りらしいが、あいにくと、僕はこの映画を見ていない。
2人ともに手塚漫画が大好きなあまりか、批判的な発言が多いが、例の黒人差別問題については、漫画はもともと黒と白で表現されるしかないものだし、話の内容からも決して差別ではない、との見解を示していた。
第2部の「男はつらいよ」については、僕がちゃんと映画館で見出したのは80年代に入ってからで、全48作のうち、半分くらいしか見ていないんじゃないか、と思う。
あんまり見ていないせいか、読んでいて面白かったのは、この第2部の方だった。
山田洋次のこととか、松竹のこととか。寅さんが「ありがた迷惑」ならぬ「迷惑ありがとう」な存在であるとか。
映画での馬鹿の系譜が語られていた。阪妻から三船、三國、勝新の「無法松」の系譜と、阪妻からハナ、渥美の「道化」の系譜。この2つの系譜が三國連太郎(釣りバカ日誌)で統合されようとしている、という。釣りバカ日誌も全作見ているわけではないので、見逃している分を見ようかな、と思ったが、どれを見て、どれを見ていないのやらさっぱりわからない。
第2部でも、手塚と同様、差別の問題がクローズアップされる。
「車」姓は非人の頭目、乞胸頭の「車善七」からきているのではないか、という。この名前は「カムイ伝」でも「車弾七」という名で援用されている。
なるほど。
もっとお気楽なところでは、佐藤蛾次郎演じる源公について「知的障害かなんか分からないんだけど、寺にゴロゴロしている人で、寒山拾得みたいな感じがする」と言ってた。
第1部、第2部ともに、既に時代の役割は終えた、という認識で語られていて、「えっ、アトムのそんな読み方も出来るんだ!」「今こそ男はつらいよを全部見直せ」とかいう新しい視点はなかった。2人の語りを聞くのはとても楽しいけれど、なんだか考古学みたいだった。話題があっちこっちに飛んでいるわりに、まとまりすぎている。放談ってこういうことなのかな。
第3部でいきなり「ローゼンメイデン」とか語ってくれていたら、よかったのに。
今日はイベント目白押し。
まず、千里セルシーで℃-uteの「ハロプロやねん」公開録音。
まずは歌「即抱きしめて」
村上愛のダンスのうまさに唸る。
メンバー紹介後、学校での係や委員について。
梅田(声の調子が悪くて、大ウケ)は、去年に引き続いて「やかん係」新たに「石油係」にもなったとか。村上は卒業生に送辞をいう大役を担うとかで、しっかりした子は違うなあ。
続いて、℃-ute連想ゲーム。
お題をもとに、古今東西。
「国」では中島が「中華人民共和国」と長い国名を言ってウケる。梅田は「中国」と答えて、ダブッてアウト。
「教室にあるもの」では、梅田が「やかん」と答えて万雷の拍手。有原が「プール」と答えてアウト。有原は常にテンパったキャラで押し通した。
「関西」では、ほめ言葉を言えばオーケーと思ってるちゃっかりしたメンバーもいた。梅田が「こどものくに」と答えてアウト。セルシーの施設を答えたのだが、関西とは無関係。
次のコーナーは、番組でおなじみ「℃-uteの部屋」
メンバーの誰について語っているのかを当てるクイズ。
「チョコレート」だの「日焼け止めを塗っても塗っても日焼けする」など、一目瞭然のヒントが出る。
最後は歌「大きな愛でもてなして」
こういうイベントがないと、℃-uteのことはさっぱりわからないので、貴重だった。
梅田と岡井、という℃-uteの中でも1、2を争う「どうでもいいメンバー」が、個性があって面白く、また可愛いということがわかり、一気に好感度アップした。
昨日の「ハロプロやねん」聞いていても、梅田は面白い、こいつ、何か仕出かすぞ、と感じさせただけに、もっともっと関西で℃-uteに接する機会があればなあ、と思った。
村上、中島の僕の中での2トップは、やはり光っており、言うことなし。
森ノ宮青少年会館に移動して、ジャズダンススタジオハルタの発表会。
午後3時30分から開演で、約10分遅れて到着。
3部構成になっており、第3部はリーダーがステージをつとめていた。
小さい子はバレエのチュチュを着て踊る演目が多かった。
そうかと思えば、プリキュアで踊るのもあり、さやえんどうあり、エーデルワイスあり、ステップバイステップあり、また妖艶なミニーザムーチャーあり、と。
いたいけな幼女から、キャバレーまで、女カタログを見せられているかのようだった。
1部のラストはカジャ、チャチャッ娘、jiemeiとユニット名で紹介されていた。
アイドルイベントで見たことのあるこれらユニットの子や、特に野田愛乃などを目で追いかけたが、アイドルイベントのときより、生き生きとしていた。
と、いうか最近あんまりイベントなかったので、その間にダンスの実力が向上したのだろうか。
それぞれの演目についてコメントしたいのだが、あいにくと、僕のようなダンス教室の部外者にはプログラムは渡されなかった。どこの教室の関係の人かと受付で聞かれ、ホームページを見て来たことを告げると、誰かに相談に行き、やっと入場することができた。その後も歩いているだけで係の人があわてて走ってきて「何かお探しですか!」とすっかり不審者扱いで、うれしくなってきた。
しかたない。いつものファッションをしていた僕が不安感を与えてしまったのだろう。
一応、聞き取れる範囲で曲目などをメモに書き留めたが、誰かプログラムを入手した人が、ブログでもつけていてくれるのを期待しよう。
ダンスがうまいなあ、と思える子もいたが、そんなわけで、誰なのかは不明。
発表会終了後、蒲生4丁目に向かう。
若宮八幡大神宮のお祭りで、ミューズがライブ。午後7時を少し過ぎたくらいにはじまる。
衣装が白いシースルーで、帯、となると、これは巫女さんか、天女か。
神社の境内前でライブがあり、まさにこれは奉納ライブ。
1.アニメメドレー(キューティーハニー〜花の子ルンルン〜ひみつのアッコちゃん〜キューティーハニー)いつものアニパラキッズ
2.瞳は元気なブルースカイ
3.kitto…
4.満月の夜に迎えに来て
5.ちょっとだけMY LOVE(新振り付けバージョン)
神社に向かう途中に降っていた雨も、ライブのときにはやんでいた。
神社で歌うということで、絵的にもとても面白く、梨由がだんじりやってたとか、話も引き出しが増えてきて、好感がもてた。
買物などをすませていったん帰宅してから、向かったのは、堂山のdista。
今日は映画イベントcamp!の日なのだ。
午後11時30分に到着。
寺田さんとシモーヌの解説。
第1部は、1950年代から1990年代までの洋画の男優をcamp的におさらい。
「ベンハー」のチャールトン・ヘストンから、マーロン・ブランド、ジェームス・ディーン、トロイ・ドナヒュー、ジャン・マレー、ウォーレン・ビーティー、ロバート・レッドフォード、ジャン・ポール・ベルモンド、フランコ・ネロ、トム・セレック、キアヌ・リーブス、ブラッド・ピット、レオナルド・ディカプリオ、ジョージ・クルーニーなどなど。
ほとんどウルトライントロ、ドン!の世界だった。幸いなことに、紹介された映画はひととおり見ていたが、いつものことで、記憶しているものは少ない。それでも、映像がうつると、「あっ、この映画は!」とタイトルがわかってしまうのだから、いくら脳みそがザルだといっても、多少の記憶力はあったのだと安心した。
番外編として、「潮騒」の三浦友和、インド映画のサルマン・カーン。
第2部はルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」1960年。
アラン・ドロン主演。パトリシア・ハイスミス原作。
ヒロイン(?)はマリー・ラフォレ、ほんのチョイ役でロミー・シュナイダーも出ていたが、ほとんどアラン・ドロンとモーリス・ロネの話。
この頃の映画は、音楽が要所要所に使われていて、非常に効果的。ニーノ・ロータが音楽を担当している。「兄さんのローター」ではない。
後にマット・デイモン主役でリメイクされた「リプリー」の方が原作に忠実だったと記憶しているが、映画の面白さでは、「太陽がいっぱい」に軍配が上がる。地味で田舎者のマット・デイモンか、いじめられっこで下品なアラン・ドロンか、どっちにしてもリプリーは小者で、嫌な奴なのだ。小賢しいドロンの方が、リプリーっぽいのかもしれない。ハイスミスの作品は何だかいや〜な感じがひっかかることが多いが、「太陽がいっぱい」はそんな残尿感がなかった。意外なラストでしめくくっているあたりが、カタルシスになっているのだ。
「リプリー」は映画館で見たくせに、どんなラストシーンだったか、まったく思い出せない。「太陽がいっぱい」は子供の頃にテレビで1回見ただけなのに、ラストあたりはよく覚えていた。名シーンのゆえんだ。
まず、千里セルシーで℃-uteの「ハロプロやねん」公開録音。
まずは歌「即抱きしめて」
村上愛のダンスのうまさに唸る。
メンバー紹介後、学校での係や委員について。
梅田(声の調子が悪くて、大ウケ)は、去年に引き続いて「やかん係」新たに「石油係」にもなったとか。村上は卒業生に送辞をいう大役を担うとかで、しっかりした子は違うなあ。
続いて、℃-ute連想ゲーム。
お題をもとに、古今東西。
「国」では中島が「中華人民共和国」と長い国名を言ってウケる。梅田は「中国」と答えて、ダブッてアウト。
「教室にあるもの」では、梅田が「やかん」と答えて万雷の拍手。有原が「プール」と答えてアウト。有原は常にテンパったキャラで押し通した。
「関西」では、ほめ言葉を言えばオーケーと思ってるちゃっかりしたメンバーもいた。梅田が「こどものくに」と答えてアウト。セルシーの施設を答えたのだが、関西とは無関係。
次のコーナーは、番組でおなじみ「℃-uteの部屋」
メンバーの誰について語っているのかを当てるクイズ。
「チョコレート」だの「日焼け止めを塗っても塗っても日焼けする」など、一目瞭然のヒントが出る。
最後は歌「大きな愛でもてなして」
こういうイベントがないと、℃-uteのことはさっぱりわからないので、貴重だった。
梅田と岡井、という℃-uteの中でも1、2を争う「どうでもいいメンバー」が、個性があって面白く、また可愛いということがわかり、一気に好感度アップした。
昨日の「ハロプロやねん」聞いていても、梅田は面白い、こいつ、何か仕出かすぞ、と感じさせただけに、もっともっと関西で℃-uteに接する機会があればなあ、と思った。
村上、中島の僕の中での2トップは、やはり光っており、言うことなし。
森ノ宮青少年会館に移動して、ジャズダンススタジオハルタの発表会。
午後3時30分から開演で、約10分遅れて到着。
3部構成になっており、第3部はリーダーがステージをつとめていた。
小さい子はバレエのチュチュを着て踊る演目が多かった。
そうかと思えば、プリキュアで踊るのもあり、さやえんどうあり、エーデルワイスあり、ステップバイステップあり、また妖艶なミニーザムーチャーあり、と。
いたいけな幼女から、キャバレーまで、女カタログを見せられているかのようだった。
1部のラストはカジャ、チャチャッ娘、jiemeiとユニット名で紹介されていた。
アイドルイベントで見たことのあるこれらユニットの子や、特に野田愛乃などを目で追いかけたが、アイドルイベントのときより、生き生きとしていた。
と、いうか最近あんまりイベントなかったので、その間にダンスの実力が向上したのだろうか。
それぞれの演目についてコメントしたいのだが、あいにくと、僕のようなダンス教室の部外者にはプログラムは渡されなかった。どこの教室の関係の人かと受付で聞かれ、ホームページを見て来たことを告げると、誰かに相談に行き、やっと入場することができた。その後も歩いているだけで係の人があわてて走ってきて「何かお探しですか!」とすっかり不審者扱いで、うれしくなってきた。
しかたない。いつものファッションをしていた僕が不安感を与えてしまったのだろう。
一応、聞き取れる範囲で曲目などをメモに書き留めたが、誰かプログラムを入手した人が、ブログでもつけていてくれるのを期待しよう。
ダンスがうまいなあ、と思える子もいたが、そんなわけで、誰なのかは不明。
発表会終了後、蒲生4丁目に向かう。
若宮八幡大神宮のお祭りで、ミューズがライブ。午後7時を少し過ぎたくらいにはじまる。
衣装が白いシースルーで、帯、となると、これは巫女さんか、天女か。
神社の境内前でライブがあり、まさにこれは奉納ライブ。
1.アニメメドレー(キューティーハニー〜花の子ルンルン〜ひみつのアッコちゃん〜キューティーハニー)いつものアニパラキッズ
2.瞳は元気なブルースカイ
3.kitto…
4.満月の夜に迎えに来て
5.ちょっとだけMY LOVE(新振り付けバージョン)
神社に向かう途中に降っていた雨も、ライブのときにはやんでいた。
神社で歌うということで、絵的にもとても面白く、梨由がだんじりやってたとか、話も引き出しが増えてきて、好感がもてた。
買物などをすませていったん帰宅してから、向かったのは、堂山のdista。
今日は映画イベントcamp!の日なのだ。
午後11時30分に到着。
寺田さんとシモーヌの解説。
第1部は、1950年代から1990年代までの洋画の男優をcamp的におさらい。
「ベンハー」のチャールトン・ヘストンから、マーロン・ブランド、ジェームス・ディーン、トロイ・ドナヒュー、ジャン・マレー、ウォーレン・ビーティー、ロバート・レッドフォード、ジャン・ポール・ベルモンド、フランコ・ネロ、トム・セレック、キアヌ・リーブス、ブラッド・ピット、レオナルド・ディカプリオ、ジョージ・クルーニーなどなど。
ほとんどウルトライントロ、ドン!の世界だった。幸いなことに、紹介された映画はひととおり見ていたが、いつものことで、記憶しているものは少ない。それでも、映像がうつると、「あっ、この映画は!」とタイトルがわかってしまうのだから、いくら脳みそがザルだといっても、多少の記憶力はあったのだと安心した。
番外編として、「潮騒」の三浦友和、インド映画のサルマン・カーン。
第2部はルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」1960年。
アラン・ドロン主演。パトリシア・ハイスミス原作。
ヒロイン(?)はマリー・ラフォレ、ほんのチョイ役でロミー・シュナイダーも出ていたが、ほとんどアラン・ドロンとモーリス・ロネの話。
この頃の映画は、音楽が要所要所に使われていて、非常に効果的。ニーノ・ロータが音楽を担当している。「兄さんのローター」ではない。
後にマット・デイモン主役でリメイクされた「リプリー」の方が原作に忠実だったと記憶しているが、映画の面白さでは、「太陽がいっぱい」に軍配が上がる。地味で田舎者のマット・デイモンか、いじめられっこで下品なアラン・ドロンか、どっちにしてもリプリーは小者で、嫌な奴なのだ。小賢しいドロンの方が、リプリーっぽいのかもしれない。ハイスミスの作品は何だかいや〜な感じがひっかかることが多いが、「太陽がいっぱい」はそんな残尿感がなかった。意外なラストでしめくくっているあたりが、カタルシスになっているのだ。
「リプリー」は映画館で見たくせに、どんなラストシーンだったか、まったく思い出せない。「太陽がいっぱい」は子供の頃にテレビで1回見ただけなのに、ラストあたりはよく覚えていた。名シーンのゆえんだ。
洞窟の偶像、おかめふくナオちゃん誕生祝いライブ
2006年7月14日 アイドル
昨日読んだアルフォンス・アレについての文章がある、というので、澁澤龍彦の『洞窟の偶像』を読んだ。てっきり読んだことがある本だと思っていて、自分の本棚を探したが、無かった。読んでいなかった!
この本は、何かテーマがあって書かれたものではなく、連載をまとめたものでもない。いろんなところに書いたエッセイや批評、推薦文などを集めた1冊だ。
以下、目次。括弧内はメモ。
地獄絵と地獄観念(人間は、オドン・ド・クリュニー「汚物袋」源信「汚物の瓶」)
御伽草子の魅力について(遊行、京をめざすもの主人公。中世は大移動の時代)
奇怪な花、とりかへばや物語(デカダンス期の観念小説)
東と西の地獄絵(厭離穢土の信仰が支配した地獄絵の中世は鎌倉時代まで)
三島由紀夫覚書(三島由紀夫の蟹嫌い)
三島由紀夫の手紙(「小生は23歳のころ禁欲による狂人でしたが、38歳のこのころは、別の種類の狂人、しょっちゅう健康に留意して鍛練を怠らない大喰らいの狂人になったようです」)
『サド侯爵夫人』の思い出(「サドが実生活では実に罪のないことしかやっていないのを知り、愕きました」)
難解ではない『死霊』について(子供の生産に対する全否定)
足穂アラベスク(破局のポエジー)
星の王さま、タルホ(なにもしないことの晴朗な禁欲主義)
オーブリ・ビアズレーについて(ケイト・グリーナウェイの『窓の下で』がお気に入り)
ピエール・ド・マンディアルグについて(イメージの渉猟)
ネルヴァルと幻想文学(ドーマル曰く「昼盲症者」)
ヴィリエ・ド・リラダンについて(知的な冷たさに徹するポー、狂熱、理想、憤怒のリラダン)
バルベー管見(客観描写というよりは主観的な語り)
カゾットの駱駝(ユダヤ教の伝統の中にある駱駝と同一視された蛇)
ニーチェ雑感(発狂前年の多幸症)
魔術師フロイト(心を装置として見たフロイトと、20世紀のメカニズム時代がシンクロ)
ゴンゴラとコクトー(コクトーの使う奇矯な暗喩は16世紀のゴンゴラに影響を受けたもの)
映画『恐るべき子供たち』を見て(ダルジュロスはもっと男っぽく、ポールは年いきすぎ)
私のシュルレアリスム(スキャンダルの種だった作品が様式の中におさまった)
シュルレアリスムと屍体解剖(美術館やアカデミーに閉じ込められたシュルレアリスム)
マックス・エルンストを悼む(汎ヨーロッパ的な巨人)
エルンスト展に寄せて(メカニック、森、動植物のモチーフ)
プラトニックな蝶−ナボコフについて(過去の思い出を蒐集)
『ティマイオス』−プラトンにおける神話(宇宙の工匠としての神)
『O嬢の物語』について(ソンタグ曰く「Oはセックスと口とアヌス」)
「表現の自由」ではなく「自由な表現」を(牢獄の中にあっても自由でいられる)
文庫本(フーリエ『四運動の理論』/ネルヴァル『暁の女王と精霊の王の物語』/J・G・バラード『結晶世界』/シラノ・ド・ベルジュラック『日月両世界旅行記』/セルジュ・ユタン『錬金術』/『アンデルセン童話集』)
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(大航海時代の大監禁)
アルヴァレズ『自殺の研究』(人間にスイッチがついていて、苦しまずにすぐ死ねたら、誰もが自殺するだろう)
鷲巣繁男『詩の栄誉』(へり下りを経て真の詩人の営為は進む)
高橋睦郎『私』(独創性は独創性を殺すという操作の中からしか生まれない)
中田耕治『ルクレツィア・ボルジア』(兄チェーザレとの不思議な愛情の謎)
松田政男『薔薇と無名者』(機動隊に立ち向かうのにはじめてヘルメットかぶった)
『球体感覚』以前(あんまり当たり前すぎて可笑しい)
巌谷國士『シュルレアリスムと芸術』『幻視者たち』(シュールという無意味な言葉)
飯田善国について(女をおいてふらりとドイツへ行き十年帰ってこない)
推薦文(ラヴクラフト傑作集/アルフォンス・アレ『悪戯の愉しみ』/ジョイス・マンスール『充ち足りた死者たち』/ヴィリエ・ド・リラダン全集/ネルヴァル全集/メリメ全集/小説のシュルレアリスム/ヘルメス叢書/齋藤磯雄『近代ふらんす秀詩鈔』/倉橋由美子全作品/稲垣足穂作品集/池田満寿夫『美の王国の入口で』/岸田秀『ものぐさ精神分析』/多田智満子『鏡のテオーリア』/花田清輝全集)
と、いうわけで、アレについて書かれていたのは、推薦文のほんの5行だけだった。
「黒いユーモア」と呼ぶにふさわしい、とか。
いやー、しかし、この本読んでたら、読みたい本が山ほど出て来た。
『洞窟の偶像』は1977年に出版されている。本書で紹介された本をちゃんと読んでいないなんて、僕はこの30年間、何をしてきたんだろう。
さて、今日は千日前のクラブウォーターで「みんなでハモろう!おかめふくpresents NAOのはっぴ〜ば〜すで〜」
どうやら午後6時から開演だったようだ。7時過ぎからはじまるものと勘違いしており、うっかり家で「きらりんレボリューション」なんか見てしまっていた。
入場してすぐにナオちゃんに「おかめふく今終わったで」と言われて愕然とした。
見ることが出来たのは、その後の「マウスター」「HETARECCA」「ダイナマイトC」そして、再登場の「おかめふく」
司会は奥村かおり。
マウスターはりさちゃんがボーカルをとる小林武史色のバンド。
おかめふくの時とはまた全然違う雰囲気で、これが同じ人だろうか、と目も耳も疑った。
気持良く歌っていて、いい感じ。
ヘタレカは、アニメタル。
ダイナマイトCはいつもどおりの老若男女ポップ。
おかめふくは、
1.てんきゅっ
2.FLY!!
3.ミッドナイト・ラブラブ・ハイウェイ
4.ムーンライト伝説(ヘタレカと合体、おかメタルに)
5.キューティーハニー(瀬RA美EEにダイナマイトCに、大勢ステージに上がって、にぎやかに)
6.はっぴ〜らっきで〜
みんなで楽しく、ナオちゃんの誕生祝いをした。
ケ−キ食べ放題だったし、おかめふくCD「あこ亀福」ももらったし、キャンディー腕輪ももらったし。なんなんだ、このサービス精神の豊富さは。
ナオちゃんの誕生祝いの寄せ書きにメッセージを書き、おめでとうを言って、会場を後にする。
サウンドアルチザンの安井献氏と、さやか嬢に会場で会った。
安井氏とはライブ終了後、珈琲館で一服。
何をしゃべったのかほとんど覚えていないが、何だか音楽理論のことが話題に出ていたと記憶している。まあまあ、浮き世離れした2人ですこと!
この本は、何かテーマがあって書かれたものではなく、連載をまとめたものでもない。いろんなところに書いたエッセイや批評、推薦文などを集めた1冊だ。
以下、目次。括弧内はメモ。
地獄絵と地獄観念(人間は、オドン・ド・クリュニー「汚物袋」源信「汚物の瓶」)
御伽草子の魅力について(遊行、京をめざすもの主人公。中世は大移動の時代)
奇怪な花、とりかへばや物語(デカダンス期の観念小説)
東と西の地獄絵(厭離穢土の信仰が支配した地獄絵の中世は鎌倉時代まで)
三島由紀夫覚書(三島由紀夫の蟹嫌い)
三島由紀夫の手紙(「小生は23歳のころ禁欲による狂人でしたが、38歳のこのころは、別の種類の狂人、しょっちゅう健康に留意して鍛練を怠らない大喰らいの狂人になったようです」)
『サド侯爵夫人』の思い出(「サドが実生活では実に罪のないことしかやっていないのを知り、愕きました」)
難解ではない『死霊』について(子供の生産に対する全否定)
足穂アラベスク(破局のポエジー)
星の王さま、タルホ(なにもしないことの晴朗な禁欲主義)
オーブリ・ビアズレーについて(ケイト・グリーナウェイの『窓の下で』がお気に入り)
ピエール・ド・マンディアルグについて(イメージの渉猟)
ネルヴァルと幻想文学(ドーマル曰く「昼盲症者」)
ヴィリエ・ド・リラダンについて(知的な冷たさに徹するポー、狂熱、理想、憤怒のリラダン)
バルベー管見(客観描写というよりは主観的な語り)
カゾットの駱駝(ユダヤ教の伝統の中にある駱駝と同一視された蛇)
ニーチェ雑感(発狂前年の多幸症)
魔術師フロイト(心を装置として見たフロイトと、20世紀のメカニズム時代がシンクロ)
ゴンゴラとコクトー(コクトーの使う奇矯な暗喩は16世紀のゴンゴラに影響を受けたもの)
映画『恐るべき子供たち』を見て(ダルジュロスはもっと男っぽく、ポールは年いきすぎ)
私のシュルレアリスム(スキャンダルの種だった作品が様式の中におさまった)
シュルレアリスムと屍体解剖(美術館やアカデミーに閉じ込められたシュルレアリスム)
マックス・エルンストを悼む(汎ヨーロッパ的な巨人)
エルンスト展に寄せて(メカニック、森、動植物のモチーフ)
プラトニックな蝶−ナボコフについて(過去の思い出を蒐集)
『ティマイオス』−プラトンにおける神話(宇宙の工匠としての神)
『O嬢の物語』について(ソンタグ曰く「Oはセックスと口とアヌス」)
「表現の自由」ではなく「自由な表現」を(牢獄の中にあっても自由でいられる)
文庫本(フーリエ『四運動の理論』/ネルヴァル『暁の女王と精霊の王の物語』/J・G・バラード『結晶世界』/シラノ・ド・ベルジュラック『日月両世界旅行記』/セルジュ・ユタン『錬金術』/『アンデルセン童話集』)
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(大航海時代の大監禁)
アルヴァレズ『自殺の研究』(人間にスイッチがついていて、苦しまずにすぐ死ねたら、誰もが自殺するだろう)
鷲巣繁男『詩の栄誉』(へり下りを経て真の詩人の営為は進む)
高橋睦郎『私』(独創性は独創性を殺すという操作の中からしか生まれない)
中田耕治『ルクレツィア・ボルジア』(兄チェーザレとの不思議な愛情の謎)
松田政男『薔薇と無名者』(機動隊に立ち向かうのにはじめてヘルメットかぶった)
『球体感覚』以前(あんまり当たり前すぎて可笑しい)
巌谷國士『シュルレアリスムと芸術』『幻視者たち』(シュールという無意味な言葉)
飯田善国について(女をおいてふらりとドイツへ行き十年帰ってこない)
推薦文(ラヴクラフト傑作集/アルフォンス・アレ『悪戯の愉しみ』/ジョイス・マンスール『充ち足りた死者たち』/ヴィリエ・ド・リラダン全集/ネルヴァル全集/メリメ全集/小説のシュルレアリスム/ヘルメス叢書/齋藤磯雄『近代ふらんす秀詩鈔』/倉橋由美子全作品/稲垣足穂作品集/池田満寿夫『美の王国の入口で』/岸田秀『ものぐさ精神分析』/多田智満子『鏡のテオーリア』/花田清輝全集)
と、いうわけで、アレについて書かれていたのは、推薦文のほんの5行だけだった。
「黒いユーモア」と呼ぶにふさわしい、とか。
いやー、しかし、この本読んでたら、読みたい本が山ほど出て来た。
『洞窟の偶像』は1977年に出版されている。本書で紹介された本をちゃんと読んでいないなんて、僕はこの30年間、何をしてきたんだろう。
さて、今日は千日前のクラブウォーターで「みんなでハモろう!おかめふくpresents NAOのはっぴ〜ば〜すで〜」
どうやら午後6時から開演だったようだ。7時過ぎからはじまるものと勘違いしており、うっかり家で「きらりんレボリューション」なんか見てしまっていた。
入場してすぐにナオちゃんに「おかめふく今終わったで」と言われて愕然とした。
見ることが出来たのは、その後の「マウスター」「HETARECCA」「ダイナマイトC」そして、再登場の「おかめふく」
司会は奥村かおり。
マウスターはりさちゃんがボーカルをとる小林武史色のバンド。
おかめふくの時とはまた全然違う雰囲気で、これが同じ人だろうか、と目も耳も疑った。
気持良く歌っていて、いい感じ。
ヘタレカは、アニメタル。
ダイナマイトCはいつもどおりの老若男女ポップ。
おかめふくは、
1.てんきゅっ
2.FLY!!
3.ミッドナイト・ラブラブ・ハイウェイ
4.ムーンライト伝説(ヘタレカと合体、おかメタルに)
5.キューティーハニー(瀬RA美EEにダイナマイトCに、大勢ステージに上がって、にぎやかに)
6.はっぴ〜らっきで〜
みんなで楽しく、ナオちゃんの誕生祝いをした。
ケ−キ食べ放題だったし、おかめふくCD「あこ亀福」ももらったし、キャンディー腕輪ももらったし。なんなんだ、このサービス精神の豊富さは。
ナオちゃんの誕生祝いの寄せ書きにメッセージを書き、おめでとうを言って、会場を後にする。
サウンドアルチザンの安井献氏と、さやか嬢に会場で会った。
安井氏とはライブ終了後、珈琲館で一服。
何をしゃべったのかほとんど覚えていないが、何だか音楽理論のことが話題に出ていたと記憶している。まあまあ、浮き世離れした2人ですこと!