ジャン=リュック・ナンシーとフェデリコ・フェラーリの共著による『作者の図像学』を読んだ。
何人かの小説家の肖像を紹介し、解説するように依頼されたことをきっかけにして生まれた本。第二部がその解説部分にあたり、第一部では、「それだけじゃダメだ!」とどうしても言っておきたかった論考を付加した構成。
以下、目次。
第二部の各章のあとに、とりあげられた作家の名前を付け加えておいた。
序文
第一部 作者自身の肖像
第二部 十四の肖像
作者の幽霊(バルザック、ランドルフィ)
写真、シャク蛾 (ジュナ・バーンズ)
幼年期 (トーマス・ベルンハルト)
「“言葉”の深い統一」 (ホルヘ・ルイス・ボルヘス)
いらだつエクリチュール (ギュスタヴ・フローベール)
移行 (カルロ・エミリオ・ガッダとピエル・パオロ・パゾリーニ)
書斎の中の仮面 (アンドレ・ジッド)
不安定な均衡 (ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)
銘=登録なきエクリチュール (川端康成)
ジャンルのパロディ (アレッサンドロ・マンツォーニ)
人生と小説 (ドラ・マウロ)
文を見る (マルセル・プルースト)
女性の眼差し (ジョルジュ・サンド、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、インゲボルグ・バッハマン)
ひじ掛け椅子の中で (ヴァージニア・ウルフ)
川端康成の写真は、書をしたためているところが写っていて、作者たちは、漢字、書道といったものと、エクリチュールについて考察している。
これってつまり、日本においてエクリチュールを考えるときは、フレンチセオリーの面々とは扱いが違っていて当然なんじゃないのか、と思えた。
また、序文には、こうある。
なるほど。
めんどくさいな、というのが偽らざる心境。
何人かの小説家の肖像を紹介し、解説するように依頼されたことをきっかけにして生まれた本。第二部がその解説部分にあたり、第一部では、「それだけじゃダメだ!」とどうしても言っておきたかった論考を付加した構成。
以下、目次。
第二部の各章のあとに、とりあげられた作家の名前を付け加えておいた。
序文
第一部 作者自身の肖像
第二部 十四の肖像
作者の幽霊(バルザック、ランドルフィ)
写真、シャク蛾 (ジュナ・バーンズ)
幼年期 (トーマス・ベルンハルト)
「“言葉”の深い統一」 (ホルヘ・ルイス・ボルヘス)
いらだつエクリチュール (ギュスタヴ・フローベール)
移行 (カルロ・エミリオ・ガッダとピエル・パオロ・パゾリーニ)
書斎の中の仮面 (アンドレ・ジッド)
不安定な均衡 (ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)
銘=登録なきエクリチュール (川端康成)
ジャンルのパロディ (アレッサンドロ・マンツォーニ)
人生と小説 (ドラ・マウロ)
文を見る (マルセル・プルースト)
女性の眼差し (ジョルジュ・サンド、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、インゲボルグ・バッハマン)
ひじ掛け椅子の中で (ヴァージニア・ウルフ)
川端康成の写真は、書をしたためているところが写っていて、作者たちは、漢字、書道といったものと、エクリチュールについて考察している。
これってつまり、日本においてエクリチュールを考えるときは、フレンチセオリーの面々とは扱いが違っていて当然なんじゃないのか、と思えた。
また、序文には、こうある。
以下に続く二部の内、第二部が最初に作られたものである。作家の肖像を描き出そうとする一種の試みであるが、その試みが、場合に応じて、あるいはまたさまざまなヴァリエーションによって、前提としたり、認めたり、再認したりしているのは、その肖像が私たちに作者を表わしているということ、あるいはもっと正確に、もっと控え目に言うならば、その肖像が、不可視の作者に帰されるような何かを私たちに見させてくれるということである。
次いでこの実践と絡み合うことになった事柄から-この実践の避けがたく、不当だと見なされたところ、危険だったり、無鉄砲だったところ、いずれにせよ完成不可能だったところから-第一部とこの序文が生じた
なるほど。
めんどくさいな、というのが偽らざる心境。
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