『九夏前夜』

2011年7月4日 読書
『九夏前夜』
佐々木中の『九夏前夜』を読んだ。
三十路の男性が、祖父の残した別荘で夏を過ごす。
と、いう物語だというのが、表向き。
まず、この小説の冒頭部分を、ちょこっとだけ引用してみよう。
お前の魂の空白のなかで、にがい錫の月がむごく光る。痛がゆく洽く眩ませる。軋めいて痺れさせる。僅かに摘んだ花々も今は踏みにじられた花綵となって赤ぐろい。

なんだ、これは!
すわ、「なぞなぞ小説」か、と僕ひとり色めきたって、読みすすめることにした。
その結果、この物語は、実はこういう話なのではないか、という推論が出た。

主人公はすっかりぼけてしまった老人。
一家を惨殺したあげくに、自分のことを三十路の息子だと思い込んでいる。

おそらく、この本を読んだ人も、似たような結論に到達したんじゃないか、と思う。
こう考えることで、なぜ主人公がひとりぼっちなのかもわかるし、周囲を気にしながら庭に墓穴を掘る理由もわかるのである。
こういう「なぞなぞ小説」だと思ったきっかけは単純で、作中、目立つのが、「主体の混乱」と「記憶のあいまい」なのだ。
名前も氏素性も明らかにされない主人公、というか、話者は、とくに他のだれかと会話するわけでもなく、「私」という人称すらほとんど出てこない。しかも、あろうことか、冒頭の文章を見ればわかるように、話者は「お前」なのである。
これは、クーンツの某作品のように、同一の主体をもつ複数の人物が存在しているのか、あるいは、スレイドの某作品のように、複数の主体をもつ1人の人物がいるだけなのか、という仕掛けがあるものと考えられた。
鏡にうつる自分を、まるで他人のように描写するページが続いたり、記憶がないことをえんえんと語るシーンがある。
ほとんどのエピソードは、それが話者である人物についてのものであるという確証もない。
また、こういう文章もあった。
誰も、誰も居ない、誰一人としてこのおそろしい光から護らぬ無益な大日傘の林立のなかをゆっくりと頼りなく縫うようにして。ぶつかる、またぶつかる、

このシーン自体が、ボケ老人の行動だとも言えるが、パラソルのことを「大日傘」などと言う三十男など、どこに存在するのだろう。これは、話者がかなりの老人であることをあらわしている。話者が文学として文章を書いているのなら話しは別だが、普通の思考として、「大日傘」など、すらっと出てくる三十男はいない。
いや、待てよ。この物語の時代が現代でないとしたらどうだ。
ひょっとしたら、これは19世紀の話なのかもしれない。(あるいは鎌倉時代か、とも疑ったが、作中、唯一出てくる家電製品が冷蔵庫なので、少なくとも冷蔵庫が存在している時代にはちがいない。)
いやいや、作中にピアスやら、カレンダーやら、アスファルトという言葉も出てくる。それらは、すべて、現代のものである・・・・のか?古代から耳に孔をあけて装飾品をつけたり、暦を作ったりしていただろうし、アスファルトだって天然のアスファルトなら、現代の産物を意味しない。うむ。わからなくなってきた。
コンピュータもテレビも携帯電話もエアコンも登場しない物語なので、現代のストーリーである証拠はどこにもない。
さらに言えば、この舞台が地球である証拠もないし、だとすれば「夏」は日本で考える四季のうちの夏とは意味合いが違う可能性もある。
うむ。
こういった推理を重ねながら、もっともありそうな落しどころとして行き着いたのが、先に書いた、ボケ老人が家族を殺して、心から息子になりきっている、という状況なのだ。さもなければ、冒頭の「お前」の意味がわからない。
このように複数の主体が入れ替わっている、という仕掛けがある、と結論づけてみてみると、作者のペンネームに大きなヒントがあったことがわかる。
「佐々木中」は、判じ物としては、「佐々木」の「中」だから、答えは「々」。主人公は単独の三十男なのではなくて、ダブルだったのである。

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