『関係する女、所有する男』
2010年9月2日 読書
父方の祖母の五十回忌の回向のため、朝から一心寺に行ってきた。
まあ、平日だというのに、人の多いこと、多いこと。
これが単に「仏教」でなく新宗教だったら、たちまち霊感商法とかカルトのにおいがぷんぷんとする光景になるのにな、とちょっと残念に感じた。
全財産をなくした関係で区役所にも諸々の手続きに行く。
写真を用意したり、再発行するだけのお金もなくしてしまっているので、とりあえず、全部、停止する。
斎藤環の『関係する女、所有する男』を読んだ。
ああ、ついに斎藤環もこんな男女の違いを説く俗な本を出すのか、と思いながら読んだが、内容はちょっと違っていた。
まず、目次。
はじめに
第1章 「ジェンダー・センシティブ」とは何か
ジェンダーについて語るということ/「ジェンダー・フリー」をめぐって/バックラッシュのひとつの本質/ジェンダーは人間の本質なのか?/ジェンダー・センシティブ
第2章 男女格差本はなぜトンデモ化するのか
倫理観や価値観は脳には還元できない/性差の脳科学のでたらめぶり/差異を再確認したがる欲望/「脳の性差」は証明されていない/ホルモンの力とは?/女性はY染色体が欠けている「足りない性」?/ジェンダーは進化する?
第3章 すべての結婚はなぜ不幸なのか
非婚化はなぜ進行したか/結婚生活における根源的なすれ違い/ジョークに見るすれ違い
第4章 食べ過ぎる女、ひきこもる男
ジェンダー・センシティブな医療/”男性脳”で肉体は女性/精神疾患とホルモンの関係/「ひきこもり」の性差/摂食障害/「自傷行為」と「自己嫌悪」/「ヒステリー」は何を問うか
第5章 「おたく」のジェンダー格差
なぜ「おたく」なのか?/おたくとは誰のことか?/「やおい」文化の特異性/ビジュアル偏重の男性おたく/おたくにおける「立場」とは/「カップリング」の謎
第6章 男と女の「愛のかたち」
性差になにを求めるか/ポルノグラフィー/男は顔、女は声/おとこソファー
終章 「ジェンダー」の精神分析
はじめに「去勢」ありき/「倒錯」について/「女になる」ということ/女は存在しない?/ファルスの享楽、他者の享楽/女性だけが身体を持っている/母がつくる娘の身体/「女らしさ」の分裂/女性の空虚感/欲望の二大原理/「共感」と「システム化」/空間と時間/ジェンダーと感情/ジェンダーと言語/ヴァイニンガーの間違い/ラカンによるフェミニズム/もう「ジェンダー」はいらない?
おわりに
斎藤氏はジェンダーについて説明するにあたって、「性差」「性別」という女性と男性の二元論を連想させる言葉よりも「性のありよう」という言い方で取扱おうとする。
また、俗流の男女格差論、とくに脳(右脳、左脳とか、脳梁の太さとか)から説明する男女差のトンデモぶりを解説したりする。
と、いうことは、俗な男女格差を批判、否定する方向で論がすすむのかと思えば、必ずしもそうではない。
もとより、新書でこんなタイトルつけてしまった以上、読者が望んでいるのは、どんなに科学的におかしくても男女の違いをいろいろ並べてくれて、それらしい説明をつけてくれる娯楽なのだから、それにこたえなくてはならない運命を背負っている。たとえば『3月生まれの人の性格』という本を出したとして、その内容が「人それぞれ」「いちがいにはいえない」「生まれた日で性格は必ずしも決まらない」だとしたら、読者は怒るだろう、というのと同じだ。
僕が読んだところ、著者の狙いは、男女格差論のトンデモぶりをあばき、それでもなお男女格差やオタク(さらには腐女子)への言及をするという娯楽読書を前面におしだして(餌にして)、主眼は精神分析の考え方を紹介するところにあったんじゃないか、と思う。
新書で、こんなタイトルで、というところから、気楽に読み飛ばせるはずの本を書く予定だったのだろうが、斎藤氏の真面目さが災いして、それはうまくいっていないように思える。男女の二元論を結局語ってしまうのなら、いっそのことトンデモに走ればいいものを、そこまではいかない。あえてフェミニストや内田樹ファンや茂木ファンやオタクや腐女子から「著者は何もわかっていない」と批判されるのを承知のうえで、と言うか、わざと餌としてばらまき、自分が粗雑な論理で文章を進めている、ということもじゅうぶんにわかっていながら、面白い本を書こうとしているのだが、その努力ばかりが目についてしまうのが惜しい。まあ、ある意味、面白い。
まあ、平日だというのに、人の多いこと、多いこと。
これが単に「仏教」でなく新宗教だったら、たちまち霊感商法とかカルトのにおいがぷんぷんとする光景になるのにな、とちょっと残念に感じた。
全財産をなくした関係で区役所にも諸々の手続きに行く。
写真を用意したり、再発行するだけのお金もなくしてしまっているので、とりあえず、全部、停止する。
斎藤環の『関係する女、所有する男』を読んだ。
ああ、ついに斎藤環もこんな男女の違いを説く俗な本を出すのか、と思いながら読んだが、内容はちょっと違っていた。
まず、目次。
はじめに
第1章 「ジェンダー・センシティブ」とは何か
ジェンダーについて語るということ/「ジェンダー・フリー」をめぐって/バックラッシュのひとつの本質/ジェンダーは人間の本質なのか?/ジェンダー・センシティブ
第2章 男女格差本はなぜトンデモ化するのか
倫理観や価値観は脳には還元できない/性差の脳科学のでたらめぶり/差異を再確認したがる欲望/「脳の性差」は証明されていない/ホルモンの力とは?/女性はY染色体が欠けている「足りない性」?/ジェンダーは進化する?
第3章 すべての結婚はなぜ不幸なのか
非婚化はなぜ進行したか/結婚生活における根源的なすれ違い/ジョークに見るすれ違い
第4章 食べ過ぎる女、ひきこもる男
ジェンダー・センシティブな医療/”男性脳”で肉体は女性/精神疾患とホルモンの関係/「ひきこもり」の性差/摂食障害/「自傷行為」と「自己嫌悪」/「ヒステリー」は何を問うか
第5章 「おたく」のジェンダー格差
なぜ「おたく」なのか?/おたくとは誰のことか?/「やおい」文化の特異性/ビジュアル偏重の男性おたく/おたくにおける「立場」とは/「カップリング」の謎
第6章 男と女の「愛のかたち」
性差になにを求めるか/ポルノグラフィー/男は顔、女は声/おとこソファー
終章 「ジェンダー」の精神分析
はじめに「去勢」ありき/「倒錯」について/「女になる」ということ/女は存在しない?/ファルスの享楽、他者の享楽/女性だけが身体を持っている/母がつくる娘の身体/「女らしさ」の分裂/女性の空虚感/欲望の二大原理/「共感」と「システム化」/空間と時間/ジェンダーと感情/ジェンダーと言語/ヴァイニンガーの間違い/ラカンによるフェミニズム/もう「ジェンダー」はいらない?
おわりに
斎藤氏はジェンダーについて説明するにあたって、「性差」「性別」という女性と男性の二元論を連想させる言葉よりも「性のありよう」という言い方で取扱おうとする。
また、俗流の男女格差論、とくに脳(右脳、左脳とか、脳梁の太さとか)から説明する男女差のトンデモぶりを解説したりする。
と、いうことは、俗な男女格差を批判、否定する方向で論がすすむのかと思えば、必ずしもそうではない。
もとより、新書でこんなタイトルつけてしまった以上、読者が望んでいるのは、どんなに科学的におかしくても男女の違いをいろいろ並べてくれて、それらしい説明をつけてくれる娯楽なのだから、それにこたえなくてはならない運命を背負っている。たとえば『3月生まれの人の性格』という本を出したとして、その内容が「人それぞれ」「いちがいにはいえない」「生まれた日で性格は必ずしも決まらない」だとしたら、読者は怒るだろう、というのと同じだ。
僕が読んだところ、著者の狙いは、男女格差論のトンデモぶりをあばき、それでもなお男女格差やオタク(さらには腐女子)への言及をするという娯楽読書を前面におしだして(餌にして)、主眼は精神分析の考え方を紹介するところにあったんじゃないか、と思う。
新書で、こんなタイトルで、というところから、気楽に読み飛ばせるはずの本を書く予定だったのだろうが、斎藤氏の真面目さが災いして、それはうまくいっていないように思える。男女の二元論を結局語ってしまうのなら、いっそのことトンデモに走ればいいものを、そこまではいかない。あえてフェミニストや内田樹ファンや茂木ファンやオタクや腐女子から「著者は何もわかっていない」と批判されるのを承知のうえで、と言うか、わざと餌としてばらまき、自分が粗雑な論理で文章を進めている、ということもじゅうぶんにわかっていながら、面白い本を書こうとしているのだが、その努力ばかりが目についてしまうのが惜しい。まあ、ある意味、面白い。
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