『偶有からの哲学−技術と記憶と意識の話』
2010年7月23日 読書
ベルナール・スティグレールの『偶有からの哲学−技術と記憶と意識の話』を読んだ。
フランスの公共ラジオ局「フランス・キュルチュール」の番組「生の声で」でのエリー・デュリングとの対談をもとにした1冊。
以下、目次。
第1章 哲学者と技術
技術との出会い、哲学との出会い
哲学的対象としての技術
哲学の起源と技術の抑圧
ヒュポムネーシスとアナムネーシス
第2章 記憶としての技術
プラトン著『メノン』−ヒュポムネーシスをめぐる思索の出発点
エピメテウス−補綴性の神話
ヒト化=生存手段の外在化
「第三の記憶」としての後成的系統発生(エピフィロジュネーズ)
図、文字−推論の前提条件
内在化の前提条件としての外在化
第3章 インダストリアルな時間的対象の時代における意識
技術(テクニック)と記憶技術(ムネモテクニック)
アルファベット−オルトテティックな記憶技術
記憶技術がもたらすもの−時間の物質的把持
アナログ的綜合のテクノロジー−ヒュポムネーシスの突然変異
「時間的対象」−三つの過去把持
視聴覚メディアの登場と記憶の産業化
シンクロニゼーションとディアクロニゼーション
「特異」と「特殊」、あるいは「市民」と「消費者」
第4章 意識、無意識、無知
マーケティングによるリビドー枯渇
シンクロニゼーションの二つの側面
象徴(シンボル)の衰退−「私」と「われわれ」の解体
「意識」の再考−象徴の政治のために
科学のステータス変化−不動の「イデア」から可能的な「フィクション」へ
二項対立を超えて
スティグレールの思索を初期の研究から、未訳(未刊)の「技術と時間」にいたるまで、わかりやすくたどった本。
なのだが、哲学にありがちなことだが、造語が多すぎて、解説が必要だ。
(哲学を技術の問題だと言い切るスティグレールに、デュリングが、じゃあ、どうしてこんなに哲学的造語を駆使して論じるのか、とツッコむ一幕もあった)
と、いうことで、メモがわりに用語の説明を並べておこう。
「補綴性」
補綴物なしでは生きられない人間の性質、より正確には、人間を人間たらしめる条件が補綴物の利用にあることを指す。
補綴物は人間が生存のために必要とする人工物のことで、道具や言語などを指している。
スティグレールの考えでは、帰結がすでに起源の中にあるわけではなく、偶有性のプロセスが存在しており、この偶有性を考えることこそ、哲学ができなければならないことなのだ。スティグレールが言う「技術」の第一の意味こそがこの「偶有性」であり、それはしばしば「補綴性」とも呼んでいるのである。
「ヒュポムネーシス」
人工的な記憶。技術的な記憶。
「アナムネーシス」
想起。プラトンの『メノン』で、いわゆるメノンのパラドクスに対してソクラテスが応えたなかで出てくる。一種の再認識。
「オルトテティック」
正確に措定する。造語。
「過去把持」
フッサールによると、第一次過去把持は現在の内に属し、第二次過去把持は日常的に記憶と呼ばれるもので、過去に属する。音楽がバラバラの音でなく音楽として知覚されるのは、現前している音に、先行する音が留置されているからで、そうした過去把持のありかたを、第一次過去把持と呼んだ。
同一の対象が複数回あらわれる技術的対象である場合を、スティグレールは第三次過去把持と呼ぶ。
「ディアボル」
シンボルの対概念。造語。悪魔的というニュアンスも含む。
スティグレールがシンクロニゼーションとディアクロニゼーションについて語る部分は、毎回のことながら、熱くなる。
こんな文章。
現在の傾向として、人びとの意識はシンクロし、同じ時間性を取り入れ、したがって各々の特異(唯一)性を失おうとしています。ところが、自由とは本来的な意識による行為であるという意味において、意識は本質的に特異(唯一)性です。本来の意味における意識、つまり意識の現勢化とは、思索の自由です。換言すれば、意識のシンクロニゼーション・プロセスによって脅かされ、組織的に阻害されているのは、あらゆる意識が持つ哲学への潜在性です。哲学とは本質的に、どのような意識にも備わる思索の自由を肯定することです。意識がそれ自体としてディアクロニックであり、その意味で特異(唯一的)なものである限り。意識はこういうわけで、潜在的に哲学するものなのです。シンクロニゼーションが圧殺しようとするのが、万人のものであるこの哲学するための潜在性であり、そしてとりわけもちろん、この万人に共通する潜在性が、特に集団的思索と政治行動として現勢化する可能性です。このような圧殺がなぜ起こり得るのかといえば、どのような意識の奥底にも、このような圧殺ばかりを望む根深い愚かさがあるからです。思索とはこの愚かさに対する闘いです。この愚かさが支配する時、あらゆる意識がその根源的な愚かさゆえに傾く怠惰が勝利します。考えるとは、己の怠惰と闘うことなのです。そしてこの闘いがますます困難になっているのは、マスメディアが逆に組織的にこの怠惰につけ込み、これを助長しているからです。
う〜。長い引用だったけど、最後の方とか、熱いですよね!
「思索とは圧殺を望む愚かさに対する闘い」とか「考えるとは、己の怠惰と闘うこと」(同じことだけど)、など、座右の銘にしたい!
フランスの公共ラジオ局「フランス・キュルチュール」の番組「生の声で」でのエリー・デュリングとの対談をもとにした1冊。
以下、目次。
第1章 哲学者と技術
技術との出会い、哲学との出会い
哲学的対象としての技術
哲学の起源と技術の抑圧
ヒュポムネーシスとアナムネーシス
第2章 記憶としての技術
プラトン著『メノン』−ヒュポムネーシスをめぐる思索の出発点
エピメテウス−補綴性の神話
ヒト化=生存手段の外在化
「第三の記憶」としての後成的系統発生(エピフィロジュネーズ)
図、文字−推論の前提条件
内在化の前提条件としての外在化
第3章 インダストリアルな時間的対象の時代における意識
技術(テクニック)と記憶技術(ムネモテクニック)
アルファベット−オルトテティックな記憶技術
記憶技術がもたらすもの−時間の物質的把持
アナログ的綜合のテクノロジー−ヒュポムネーシスの突然変異
「時間的対象」−三つの過去把持
視聴覚メディアの登場と記憶の産業化
シンクロニゼーションとディアクロニゼーション
「特異」と「特殊」、あるいは「市民」と「消費者」
第4章 意識、無意識、無知
マーケティングによるリビドー枯渇
シンクロニゼーションの二つの側面
象徴(シンボル)の衰退−「私」と「われわれ」の解体
「意識」の再考−象徴の政治のために
科学のステータス変化−不動の「イデア」から可能的な「フィクション」へ
二項対立を超えて
スティグレールの思索を初期の研究から、未訳(未刊)の「技術と時間」にいたるまで、わかりやすくたどった本。
なのだが、哲学にありがちなことだが、造語が多すぎて、解説が必要だ。
(哲学を技術の問題だと言い切るスティグレールに、デュリングが、じゃあ、どうしてこんなに哲学的造語を駆使して論じるのか、とツッコむ一幕もあった)
と、いうことで、メモがわりに用語の説明を並べておこう。
「補綴性」
補綴物なしでは生きられない人間の性質、より正確には、人間を人間たらしめる条件が補綴物の利用にあることを指す。
補綴物は人間が生存のために必要とする人工物のことで、道具や言語などを指している。
スティグレールの考えでは、帰結がすでに起源の中にあるわけではなく、偶有性のプロセスが存在しており、この偶有性を考えることこそ、哲学ができなければならないことなのだ。スティグレールが言う「技術」の第一の意味こそがこの「偶有性」であり、それはしばしば「補綴性」とも呼んでいるのである。
「ヒュポムネーシス」
人工的な記憶。技術的な記憶。
「アナムネーシス」
想起。プラトンの『メノン』で、いわゆるメノンのパラドクスに対してソクラテスが応えたなかで出てくる。一種の再認識。
「オルトテティック」
正確に措定する。造語。
「過去把持」
フッサールによると、第一次過去把持は現在の内に属し、第二次過去把持は日常的に記憶と呼ばれるもので、過去に属する。音楽がバラバラの音でなく音楽として知覚されるのは、現前している音に、先行する音が留置されているからで、そうした過去把持のありかたを、第一次過去把持と呼んだ。
同一の対象が複数回あらわれる技術的対象である場合を、スティグレールは第三次過去把持と呼ぶ。
「ディアボル」
シンボルの対概念。造語。悪魔的というニュアンスも含む。
スティグレールがシンクロニゼーションとディアクロニゼーションについて語る部分は、毎回のことながら、熱くなる。
こんな文章。
現在の傾向として、人びとの意識はシンクロし、同じ時間性を取り入れ、したがって各々の特異(唯一)性を失おうとしています。ところが、自由とは本来的な意識による行為であるという意味において、意識は本質的に特異(唯一)性です。本来の意味における意識、つまり意識の現勢化とは、思索の自由です。換言すれば、意識のシンクロニゼーション・プロセスによって脅かされ、組織的に阻害されているのは、あらゆる意識が持つ哲学への潜在性です。哲学とは本質的に、どのような意識にも備わる思索の自由を肯定することです。意識がそれ自体としてディアクロニックであり、その意味で特異(唯一的)なものである限り。意識はこういうわけで、潜在的に哲学するものなのです。シンクロニゼーションが圧殺しようとするのが、万人のものであるこの哲学するための潜在性であり、そしてとりわけもちろん、この万人に共通する潜在性が、特に集団的思索と政治行動として現勢化する可能性です。このような圧殺がなぜ起こり得るのかといえば、どのような意識の奥底にも、このような圧殺ばかりを望む根深い愚かさがあるからです。思索とはこの愚かさに対する闘いです。この愚かさが支配する時、あらゆる意識がその根源的な愚かさゆえに傾く怠惰が勝利します。考えるとは、己の怠惰と闘うことなのです。そしてこの闘いがますます困難になっているのは、マスメディアが逆に組織的にこの怠惰につけ込み、これを助長しているからです。
う〜。長い引用だったけど、最後の方とか、熱いですよね!
「思索とは圧殺を望む愚かさに対する闘い」とか「考えるとは、己の怠惰と闘うこと」(同じことだけど)、など、座右の銘にしたい!
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