バイロン卿の諷刺叙事詩『ドン・ジュアン』(上・下)を読んだ。
第17歌の途中まで書かれているが、バイロンの死によって中断している。
下巻の巻末に献辞、第1、2歌への序、第6、7、8歌への序、年譜、解説がまとめられている。
いわゆるドンファンの物語だが、女たらしのイメージはなく、彼自身の魅力によって女は魅せられるが、ジュアンは応じなかったり、色事以外のストーリーが展開したりする。
それと、この大部の物語詩の大半はバイロン自身の世相漫談で占められており、後世、数々の名言を生んだのも、この漫談の部分になる。ストーリーの部分も荒唐無稽な冒険物語で、楽しく読みすすめることができた。
以下、順に簡単なメモ。
第1歌
ドン・ジュアンとジュリアのスリリングな色事の顛末。
ジュリアはイネス(ジュアンの母)とかつて恋敵だった女性で、年上の人妻。
情事の現場に夫ドン・アルフォンソが踏み込むが、ジュアンはうまく隠れてやりすごそうとする。
部屋中探しても見つからないジュアンはどこに隠れていたのか?
なんと、ベッドの中!盲点!
ジュアンが発見できないとみて、ジュリアは嫉妬深い夫に対して抗議を開始。これが歌でいうと13節分、時間にして約30分にわたりえんえんと続くのだ。
だが、ジュアンが脱いだ靴が見つかり、ことは露見。ジュアンはほうほうの態で逃げる。
この歌で、気になる部分は、年齢に関する次のような記述。

そして最後にドン・アルフォンソの
50の齢を考えた。
せめてこれが思い浮かばねば
よかったのに残念だ、
なにせこの数で物が引き立つ
ことはめったにないからだ、
雪国だろうと、陽の焦がす
国々だろうと、何処だろうと、
これは恋では不吉にひびく

50才で悪かったな!

第2歌
情事がばれたジュリアは尼寺に行き、ジュアンはスペイン行きの船にのって航海する。
途中、嵐に遭って難破。
サメの餌食になったり、餓死したり、人肉を食べて狂い死にしたりしてバタバタとみんな死んでいき、ジュアン1人だけが陸地にたどりつく。
ジュアンを救ったのは、17才の乙女、海賊の娘ハイディ。
2人は愛しあう。
この歌のなかには、こんな部分がある。

人間は、馬鹿でないかぎり
酔わないわけにはまいらない。
人生の最善なるものは、
ただ酩酊にこそあるのである。

第3歌
ハイディの父、海賊のランブローが島に帰ってみると、自分が死んだという虚報を信じて、みんなが宴を開いている真っ最中だった。
この歌ではギリシアの讃歌が語られたりする。
そろそろ脱線が過ぎるのが目立つようになってきた。
こんな記述もある。

しかし物語にもどるとしよう。
正直に申しあげるが、もしわたしに
欠点があるとすれば、それは
脇道にそれるということだ。

第4歌
ランブローはジュアンをとらえてガレー船に監禁する。
仲を引き裂かれたハイディは狂ったあげくに衰弱死する。
ジュアンは奴隷として売られるのか

第5歌
奴隷の身分のジュアンは、なぜか女装コスプレをさせられる。

第6歌
ジュアンは女として一夫多妻制の主人のもとに買われる。
回教王妃ガルベヤーズは、ジュアンを連れてこい、という。
ガルベヤーズはジュアンをどうしようというのか。
この歌には女性に対するこんな歌も。

女の顔に「生あるもののうち
いちばん醜いもの」を見つけるのが
女性というものの習い性なのだが
云々。

第7歌
ロシアVSトルコの戦争。イズマイル攻囲。
ロシア軍のもとにジュアン到着。
巻末に載せられた「序」を読むと、このイズマイル攻囲の顛末はフランスで書かれた『新ロシア史』から取られている。

第8歌
戦場で「五月のように美しい」10才の少女を救うジュアン。
これはド・リシュリュウが実際に行なったことらしい。

第9歌
ペテルブルグのジュアン。
エカテリーナ女帝に謁見し、たちまち惹かれあう。
ここでも脱線の言い訳。

そこでわたしはぶらぶらして
ときどき物語ることもあれば、
思索に耽ったりもする

第10歌
エカテリーナの寵愛。
ジュアン発病し、エカテリーナのもとを去る。
10才のリーラの後見人の話。
この叙事詩はユーモア満載で、金に関するこんな部分も。

ああ、支払いとは何によらず
いかにも苦痛大きいものか
命取っても女房取っても、
何取ってもいい、財布のほかは

第11歌
イングランドでのジュアン。
ジュアンは追い剥ぎを正当防衛で殺してしまうが、外交使節として遇される。
ここでは当時の詩人、文壇へのあてこすりが歌われる。
とくに、青鞜派(ブルーストキングス)と呼ばれる、文学趣味を衒っていた女性たちへのからかいは顕著で、たとえば、次のごとし。

青鞜派という、あのやさしい
女族は、十四行詩に吐息つき、
近頃出た評論雑誌の
ページによって、その頭の、
ないしはそこに載せるボンネットの、
内側に詰めものするのだが

青鞜派の女性の言うことが、評論雑誌の受け売りばかりだ、ということをからかっているのだ。

第12歌
ここまでは「ほんのファンファーレ、序曲にすぎぬ」と書いてある。
どれだけ大長編に仕立てる気なのか。
ここでは愛について、少女リーラの後見人候補について歌われる。
脱線部では、逆境について、戦争、嵐と同列に「女の激怒」をあげたりしている。

第13歌
社交界の人々。

第14歌
社交界の花形となるジュアン。
ジュアンの若気の至りを見るにみかねて、アデライン夫人がジュアンの魂を救うために接近する。
漫談部ではこんなところが共感を呼ぶ。

身の毛よだつほど忌わしい
災いの声音数あるなかで、
梟の唄や真夜中の
突風よりも悲しいのは、
「だから言ったじゃないか」という
もったいぶった文句であるが、
これ口にするのは、過去の予言者たる
友人諸君であり、彼らは
きみが今どうしたらよいかは
いっこう口にしてくれず、
きみが早晩しくじるのは
目に見えていたのだと言い、
きみが少しばかり「善行」から
逸れたのを、もろもろの
昔話の長々とした
覚え書で慰めるのだ

あと、この『ドン・ジュアン』は一般では「事実は小説より奇なり」という言葉の原典として知られている。主に雑学マニアがひけらかしたくなる豆知識だ。ミステリ好きの人なら全員が、「事実は小説より奇なり」という言葉の浅はかさを佐野洋の『推理日記』でたたきこまれており、バイロンともあろう人がどうしてこんなくだらないことを言ったのか、と思って読んでいたが、その言葉どおりの詩行はなかった。たぶん、この第14歌の次のくだりがそれにあたるんだと思う。

奇妙なことだが、真実だ、
真実は常に奇妙であり、
作り事よりも奇妙だから

これは、アデライン夫人とジュアンがこれから罪をおかせば二人の破滅になる、と書いた後、「しかし大事というものは/小さな事から起こってくる」「男と女とを/破滅の瀬戸際に追い込んだ/危険な情熱が」「ほんの些細な場合から、/起こってきたということ」「事のすべては罪のない/玉突きゲームに始まった」に続いて歌われる。
つまり、フィクションを「絵空事で現実味に乏しい」などと切り捨てる態度に釘をさすための言葉であって、「事実は小説より奇なり」という言葉の使われ方とはまるっきり違うニュアンスをもっているのだ。第11歌にも、バイロンが真実と嘘について書いた一節がある。

嘘とはいったい何だろう?
それは仮装した真実に
ほかならぬではないか。

そして「すべての嘘吐きとすべての嘘よ、/称えられてあれ!」とも言う。
『ドン・ジュアン』を読んだ人なら誰しもが、「事実は小説より奇なり」がバイロンの言葉だと言われることに違和感を覚えるはずであり、原典を探すなら、『ドン・ジュアン』の上の一節を「事実は小説より奇なり」と言い換えた人をこそ探すべきである。

第15歌
アデラインはジュアンに身をかためるように持ちかける。
しかし、候補としてあがった美しきオーローラにアデラインは不満を覚える。
ここではジュアンの魅力が歌われる。

穏やかにして、たしなみあり、
陽気であったが騒がしくない。
取り入ろうとする気がないのに
巧みに人に取り入っている。

女たち相手となると彼は
女たちのなしたいもの、
望みのものになった。

また、第14歌で「事実は小説より奇なり」について記したが、この第15歌にもフィクションについてバイロンがどう考えていたかがわかる一節がある。

寓話だの、作り話だの、
詩だの、比喩話だのは
偽りだが、耕作に
適した土地にそれを蒔く
人たちの手によっては、また
真実にもされうるのだ。
不思議なことだが、作り話が
やってのけられぬものはない!

それでこそ、バイロン!

第16歌
幽霊を目撃して、ジュアン放心。

第17歌
1823年に起稿されているが、翌年のバイロンの死によって14連で中断している。
バイロンの構想が奈辺にあったかはわからないが、第12歌で「序曲」と言い放ったくらいだから、少なくとも、まだ前半のはず。享年36才は早すぎる。


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