国立国際美術館に行く。今日はB2Fの展示が無料なのだ。
まず、「慶応義塾をめぐる芸術家たち」
慶応義塾ゆかりの芸術家の作品を中心に展示。
慶応ゆかり、と言っても、慶応に別に興味もなかったので、今回の展示で、へえ、この人も慶応義塾ゆかりの人なのか、と認識した次第。
展示室は大きく3つにわかれていた。
1、西脇順三郎、瀧口修造、飯田善國
2、谷口吉郎とイサム・ノグチ
3、駒井哲郎
西脇は慶応義塾で英米文学の教鞭をとっており、西脇の影響を受けた瀧口と飯田、という関係。飯田は西脇との共作「クロマトポイエマ」で言語と色彩を関連づけている。
西脇の描いた絵画も展示されていた。
谷口吉郎は慶応義塾関連の建築を手がけており、大学内の教員サロンのデザインを彫刻家イサム・ノグチに依頼した。このサロン「新萬來舎」はノグチ・ルームとも呼ばれている。
駒井哲郎は銅版画家であり、『三田評論』にも挿絵を描いていた。
次に見たのが、やなぎみわの「婆々娘々」(ポーポーニャンニャン)
女性が50年後の自分に扮した写真作品「マイ・グランドマザーズ」のシリーズ。
グリムやアンデルセンなどのメルヘンをテーマに、少女に老婆の仮面をかぶせた写真作品「寓話」のシリーズ。
そして、付け乳房を振り乱して踊る女性の巨大なポートレート「ウィンドスウェプト・ウィメン」のシリーズ。これは今年の新作だ。感じはスリッツのジャケット写真。
ビデオ作品もあり、会場外にはマイ・グランドマザーズ・シリーズの撮影風景の映像も流れていた。
特殊メイクや仮面とは言え、老婆の写真を山ほど見せられたわけだが、見に来ているお客さんも、老婆が多かった。今、ルーヴル美術館展を同時開催しているせいだろう。
そこでわかったのは、作品中の老婆は写真ゆえに沈黙しているが、実際の老婆はおしゃべりだということだ。何も話題がないのに、とにかく何かを口から発していないと気がすまないようだった。作品見るたびに必ず感想を言ってみたり。
あと、この美術館に特有な現象なのか、それとも日本全体でそうなのか、展示室外で休憩している人が、ペットボトルでお茶を一瞬飲んだだけでも、それを見逃さず、つかつかと早足で近寄り「会場内では飲食はご遠慮ねがいます」(と、たぶん言ってる)とチェックをいれる姑のような監視係がいるのを目撃し、一気にイヤな気分になった。注意された人は、いかにも善良そうな人で、作品を汚したりしそうに絶対ない人だったし、注意しているときには、既にお茶は鞄の中にしまわれていたのである。人を見抜く目もないのか。このようなゲシュタポ管理を徹底しようとするところが、こういう美術館のどうしようもなくダメなところだな、と思った。作品や芸術家からこの監視婆たちは何を感じとっているのだろう。作品を見ているときも、常に「こいつは何かしでかしはしないか」と監視されているのだ。こんなガチガチに管理されたうえで「お芸術」をありがたく見せてもらっても、よほどこちらが広い心で目を開いていないと、何も感じ取れない。どうにかならないのか。あの監視婆たちの言動は芸術の妨げでしかなく、ノイズになっている。あえてノイズを楽しもうか、という気持でないと、せっかくの素晴らしい作品が台なしになる可能性もある。国立国際美術館では何か過去に作品を傷つけられるような事件でもあったのか?入るなり日傘は傘立てにいれてください、と強制的に傘立てに入れさせられていたし。
生國魂神社で第19回彦八まつり。
毎年行なわれている落語家さんのお祭り。
桂春之輔の「もう半分」で、どて焼きを食べ、森乃福郎の「本屋の善さん」で古本をチェック。満腹のため、林家そめすけのホルモンや、文枝一門の焼きうどんは今回パス。人が多かったのと、回りそうな気がしたので、丁稚カフェ(桂あやめ、月亭遊方、林家染雀)で柳蔭を飲むのもちょっとパス。体調万全で、財布に余裕があれば、もうちょっと楽しめただろうに。
読んだ本は小川洋子の『博士の愛した数式』
記憶が80分しか持たない数学者と、その身の回りを世話する家政婦さんとの心の交流。
映画は録画したきりでまだ見ていないが、本を読むかぎり、数学者の姿は宇野重吉を頭に思い描いていたから、映画のキャスティングもそんなに間違っていないように思える。見てみないとわからないけど。
毎日来るたびに、初対面の相手として扱われる寂しさなんて、アイドルとファンの関係みたいなもので、ファンはなんとか覚えてもらおうとして、涙ぐましいアピールをあれこれするのである。
小説では、80分どころか、新たな記憶ができない状態になって終わる。
記憶というのは面白いもので、ある女性などは、いや、僕もそうかな、昔のいろんなことを都合よく忘れて、今を生きている。これは新しい記憶によって古い都合の悪い記憶を排泄してしまうわけだ。とすれば、新しい記憶ができないこの小説の数学者は、ある意味、人間として生きることが困難になってしまったと言えるだろう。
忘れてしまうことは、寂しいけど、それで生きられる道も開く。
それに比べて、覚えられない、というのは、たいへんな地獄なんだろう。
まず、「慶応義塾をめぐる芸術家たち」
慶応義塾ゆかりの芸術家の作品を中心に展示。
慶応ゆかり、と言っても、慶応に別に興味もなかったので、今回の展示で、へえ、この人も慶応義塾ゆかりの人なのか、と認識した次第。
展示室は大きく3つにわかれていた。
1、西脇順三郎、瀧口修造、飯田善國
2、谷口吉郎とイサム・ノグチ
3、駒井哲郎
西脇は慶応義塾で英米文学の教鞭をとっており、西脇の影響を受けた瀧口と飯田、という関係。飯田は西脇との共作「クロマトポイエマ」で言語と色彩を関連づけている。
西脇の描いた絵画も展示されていた。
谷口吉郎は慶応義塾関連の建築を手がけており、大学内の教員サロンのデザインを彫刻家イサム・ノグチに依頼した。このサロン「新萬來舎」はノグチ・ルームとも呼ばれている。
駒井哲郎は銅版画家であり、『三田評論』にも挿絵を描いていた。
次に見たのが、やなぎみわの「婆々娘々」(ポーポーニャンニャン)
女性が50年後の自分に扮した写真作品「マイ・グランドマザーズ」のシリーズ。
グリムやアンデルセンなどのメルヘンをテーマに、少女に老婆の仮面をかぶせた写真作品「寓話」のシリーズ。
そして、付け乳房を振り乱して踊る女性の巨大なポートレート「ウィンドスウェプト・ウィメン」のシリーズ。これは今年の新作だ。感じはスリッツのジャケット写真。
ビデオ作品もあり、会場外にはマイ・グランドマザーズ・シリーズの撮影風景の映像も流れていた。
特殊メイクや仮面とは言え、老婆の写真を山ほど見せられたわけだが、見に来ているお客さんも、老婆が多かった。今、ルーヴル美術館展を同時開催しているせいだろう。
そこでわかったのは、作品中の老婆は写真ゆえに沈黙しているが、実際の老婆はおしゃべりだということだ。何も話題がないのに、とにかく何かを口から発していないと気がすまないようだった。作品見るたびに必ず感想を言ってみたり。
あと、この美術館に特有な現象なのか、それとも日本全体でそうなのか、展示室外で休憩している人が、ペットボトルでお茶を一瞬飲んだだけでも、それを見逃さず、つかつかと早足で近寄り「会場内では飲食はご遠慮ねがいます」(と、たぶん言ってる)とチェックをいれる姑のような監視係がいるのを目撃し、一気にイヤな気分になった。注意された人は、いかにも善良そうな人で、作品を汚したりしそうに絶対ない人だったし、注意しているときには、既にお茶は鞄の中にしまわれていたのである。人を見抜く目もないのか。このようなゲシュタポ管理を徹底しようとするところが、こういう美術館のどうしようもなくダメなところだな、と思った。作品や芸術家からこの監視婆たちは何を感じとっているのだろう。作品を見ているときも、常に「こいつは何かしでかしはしないか」と監視されているのだ。こんなガチガチに管理されたうえで「お芸術」をありがたく見せてもらっても、よほどこちらが広い心で目を開いていないと、何も感じ取れない。どうにかならないのか。あの監視婆たちの言動は芸術の妨げでしかなく、ノイズになっている。あえてノイズを楽しもうか、という気持でないと、せっかくの素晴らしい作品が台なしになる可能性もある。国立国際美術館では何か過去に作品を傷つけられるような事件でもあったのか?入るなり日傘は傘立てにいれてください、と強制的に傘立てに入れさせられていたし。
生國魂神社で第19回彦八まつり。
毎年行なわれている落語家さんのお祭り。
桂春之輔の「もう半分」で、どて焼きを食べ、森乃福郎の「本屋の善さん」で古本をチェック。満腹のため、林家そめすけのホルモンや、文枝一門の焼きうどんは今回パス。人が多かったのと、回りそうな気がしたので、丁稚カフェ(桂あやめ、月亭遊方、林家染雀)で柳蔭を飲むのもちょっとパス。体調万全で、財布に余裕があれば、もうちょっと楽しめただろうに。
読んだ本は小川洋子の『博士の愛した数式』
記憶が80分しか持たない数学者と、その身の回りを世話する家政婦さんとの心の交流。
映画は録画したきりでまだ見ていないが、本を読むかぎり、数学者の姿は宇野重吉を頭に思い描いていたから、映画のキャスティングもそんなに間違っていないように思える。見てみないとわからないけど。
毎日来るたびに、初対面の相手として扱われる寂しさなんて、アイドルとファンの関係みたいなもので、ファンはなんとか覚えてもらおうとして、涙ぐましいアピールをあれこれするのである。
小説では、80分どころか、新たな記憶ができない状態になって終わる。
記憶というのは面白いもので、ある女性などは、いや、僕もそうかな、昔のいろんなことを都合よく忘れて、今を生きている。これは新しい記憶によって古い都合の悪い記憶を排泄してしまうわけだ。とすれば、新しい記憶ができないこの小説の数学者は、ある意味、人間として生きることが困難になってしまったと言えるだろう。
忘れてしまうことは、寂しいけど、それで生きられる道も開く。
それに比べて、覚えられない、というのは、たいへんな地獄なんだろう。
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