赤い糸

2008年11月18日 日常
日本の話芸で笑福亭仁鶴の「崇徳院」
困った顔をするときの仁鶴は、まさに絶品。
ネタに笑う以上に、仁鶴という人間に笑わされてしまう。

ケータイ小説「赤い糸」を読んだ。「赤い糸-destiny-」「赤い糸-precious-」と続編があるが、とりあえず最初のこれだけ。
主人公の女の子、芽衣の中学2年〜高校1年までの波乱万丈の日常を描く。
どう波乱万丈かと言うと、中学のときから酒、煙草、エスケープはもちろん、レイプ、輪姦、復讐、警察沙汰、自分は捨て子と判明、実父はヤクザ、実母は自殺、育ての両親は離婚、自殺未遂、ドラッグ、裏切り、親友が飛び降り〜記憶喪失、愛の証しのタトゥー、彼氏が受験失敗、デートDV。
と、まあ百花繚乱なヤンキーのどれあい生活なわけだが、これらが事件を形成せず、あくまでも日常のレベルでおさまっているのがすごい。文学であれば、花のひとそよぎにも何かを感じ取ってしまう感受性が存在するが、ここには爆弾が破裂しても日常はびくとも揺るがない鈍さがある。とことん鈍いのである。あらすじを読んで出てくる単語に眩惑されて、いったいいかなるスペクタクルが用意されているか、あるいは、どんな精神の深化がみられるか、と思っていたが、見事にはずされた。主人公はどんな目にあっても何も変化しない。成長という言葉は肉体の膨張以外の意味で使われない。彼女の日常も変わらない。精神の欠片も見あたらなければ、物語も綴られない。これはいったい何なのか?
ヒントは、この「赤い糸」を読んだときの印象が、動物を見ているときと同様だったことにありそうだ。ときおり、動物のドキュメンタリーを見ていて「人間にも通じるところがあるなあ」と思う瞬間がある。オランウータンの子育てシーンとか。この「赤い糸」でも、ときどき、「人間にもそんなところがあるよ」とうなずくところがあった。ひょっとして、この「赤い糸」は叙述のトリックが使われていて、登場人物たちは実は人間ではなく、動物だったというオチなんじゃないか。全員動物だと考えれば、IQも偏差値も低いキャラクターばかりが登場してきて、いっさい知的な行動をとらない謎も解けるのである。愛のないセックスが当たり前なのもうなずける。と、すれば、これが三部作になっているのは、新しいアゴタ・クリストフの『悪童日記』をめざしているものと考えてよかろう。きっと「destiny」を読んだ読者は、「えっ、前作はそんな話だったの?」と大どんでん返しを食らわされるに違いないのだ。「赤い糸」が人気を博しているのは、一般世間が動物好きだからに相違ない。主人公メイは人間同士では考えられない短いサイクルで次々とご主人様(作中では恋人と言っている)を替える。メイが渇望する運命の「赤い糸」とは、自分の首輪をひっぱるヒモのことなのである。

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