小朝正蔵いっ平三人の会@松竹座〜『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』
午後2時から松竹座で「小朝正蔵いっ平三人の会」
子ほめ/林家はな平
親子酒/林家たこ平
悋気の独楽/林家いっ平
西行鼓ケ滝/林家正蔵
仲入り
太神楽曲芸/翁家勝丸
お札はがし/春風亭小朝
(お囃子/内海英華)

開場時間に到着したら、あまりにも観客の年齢層が高くて驚いた。全員の髪の毛を抜いて並べたら、全体として白く見えたに違いない。火曜日の午後2時に見に来れるのは老人だけだ、と言われればそうなのかもしれないが。
二等席で見たせいか、マイクを通して響く声はなんだか聞き取りにくくて、しかも天井から高座を見下ろしているような気分。いっ平あたりからやっと慣れて見ることができた。
それぞれ面白くて、見に来た価値はあったと思うが、仲入りまでは、ちょっとどうかな、と首をひねっていた。たこ平の酔っぱらい演技に客席から拍手が起こっていたが、まるで拍手を求めているかのような演技で、すごく違和感があった。上方であれば、拍手が起こりそうなときにはそれを回避して笑いにつなげるだろうと思った。それが上方と江戸の違いなのか、と僕は思ったのだが、さて。
いっ平は期待していなかった分だけ、面白く見れた。マクラでは東京の落語家さんの話などですっかり気分がほぐれた。演目も今まで上方で聞いていた噺とは微妙に設定が違っていて、「ほほう」と思った。体当たりの演出は、それはそれでありなんじゃないか、と満足。
それとは対照的だったのは正蔵で、テレビではたよりないけど高座ではさぞ本格的なんだろう、と期待していた。まあ、期待はずれとはいかないまでも、まあ、う〜んと、まあ、普通と言っておこうか。笑わせてもらったんだけど。
名人芸を見せてもらったのは仲入り後で、これは堪能した。
ちなみに、僕の席の周辺は当然ながらお年寄りばかりが坐っていたが、小朝の熱演(何分したんだろう。30分以上はやってたかな)のときは、既に疲れ果てて寝ている人がちらほら。

スラヴォイ・ジジェクの『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』を読んだ。
以下、目次
1、毛沢東−無秩序のマルクス主義的君主
2、バディウ−世界の論理
3、ロベスピエール−恐怖(テロル)という「神的暴力」
幕間1−「たら…れば」歴史論の反転
4、バートルビー
 壱、グローバル金融の竹篦返しー「スターウォーズ」3の陥穽
 弐、…しないことが好き−バートルビーの政治
幕間2−頽廃と偽善
 壱、『24』
 弐、偽善への訴答−二つの死
5、非常事態

ジジェク節が冴え渡る。内容についてはだれかが書いている要約を読むか、本書にあたってください。訳者の悪ノリぶりが、ジジェクが感染したようにみえて、逆算してジジェクの毒を感じさせる。
本書では、他の思想家などの概念や言葉を借用して、持論を展開していくやり方が多用されている。まあ、これは珍しいことではなく、新約聖書読んでいたって、たとえ話で何事かを了解させる手続きが多くとられている。いわば編集作業のようなものなのだが、こういうことをされると、わかったような気になるのが面白い。真正な理解を求めるよりも、僕はわかったような気になりたい、あるいは、そっちの方が面白い、と思っちゃうんだから、しかたない。
いくつか、本文より引用しておこう。

「これをスターリニストの業界用語(ジャーゴン)で言い換えれば、不動の『全体』は、じつは『全体』ではなく、諸要素の集塊にすぎない、ということである」(p33)

「マルクスが看過したことは、要するに、月並みに解釈されたデリダ的表現を用いて言えば、生産力の充全な配備の『不可能性の条件』であるこの内在的な障碍/矛盾が、同時に、『可能性の条件』でもあるという点である」(p42)

「出来事のこうした自己抹消は、ベンヤミンの口吻を藉りて、憂鬱の左翼主義的政治とでも呼んでみたくなるような領域の可能性を開いている」(p102)

「ラカンの表現を藉りてレーニンの立場を表現すれば、『革命ハ自ラノ権威ニノミ依拠スル(革命ハ自ラヲノミ恃みトスル)』と言うことができるが、これが認められねばならない。言い換えれば、『他者』による庇護を求めることなく革命的行為を引き受けねばならない」(p148)

「国家は、その制度的側面から言えば、巨大な存在(プレゼンス)であり、それは諸利害の代理(リプレゼンテーション)といった表現では説明できない。そしてそれが可能だと主張することが、民主主義の錯認なのだ。この過剰を、バディウは、民主主義が表象−代理(リプレゼント)するものを超える国家の再−現前(表象)(リ−プレゼンテーション)とう過剰として、概念化する。ベンヤミンの表現を用いてこう言ってもよい。民主主義は、制定された暴力を大なり小なり取り除くことができるが、依然として制定する暴力に依存し続けねばならない、と」(p151)

「アウシュビッツで起こったことについての説得的な虚構的描写を制作するよりも、アウシュビッツで起こったことについてのドキュメンタリー作品を観るほうが楽なのは、なぜだろう?なぜショアーについての傑作のすべてが喜劇なのだろうか?ここではアドルノを匡さねばならない。アウシュビッツ以後に不可能になったのは詩ではない。むしろ散文が不可能になったのだ」(p210)

「いわゆる『原理主義者』の場合、信が『他者』へ置き換えられるというイデオロギーの『正常』な機能は、直接的な信−彼らは『それをマジで信じている』−の暴力的な回帰によって、攪乱される。この回帰の第一の帰結は、ラカンがマルキ・ド・サドに事寄せて論じたように、原理主義者がファンタジーと自分自身を即座に同一化してしまうことで、自分のファンタジーに服って(まつらって)しまうことである」(p211)

「ここで同時にわれわれは、ベンヤミンを敷衍して言えば、あらゆる文明の衝突はその底流にある野蛮同士の衝突であることの証左もまた、手にしているのである」(p260)

昔、よく名言集というのを読んでいた。その名言を自分の状況にあてはめて、なにごとかわかった気になったり、打開されたような気になっていたものだが、こうした名言を飛び渡っていって編まれた1つの流れは、名言の威光もあって、それらしく見えるものである。言うまでもなく、僕は、それらしく見えていれば、それもよし、と思っているのだ。

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