ジュンク堂大阪本店でアントニオ・ネグリとマイケル・ハート著『ディオニュソスの労働〜国家形態批判』出版記念トークセッション「労働の拒否と生きた労働〜資本の支配を生き抜くために〜」が開かれた。
翻訳者のうちから酒井隆史(社会思想史)と崎山政毅(ラテンアメリカ研究)の2人がパネラーとなってトークを行った。
トークセッションの広告には、こんなふうに書いてある。
「ネオリベラリズムに抗する主体としてのマルチチュードの可能性はどこから発するのか。アウトノミアの思想家、アントニオ・ネグリの思考の源泉から『帝国』『マルチチュード』の意味をあらためて問い直す」
さあ、困った。
この『ディオニュソスの労働』は『帝国』『マルチチュード』に先立つ本である。
『ディオニュソスの労働』の構成を第1章「批判としてのコミュニズム」の「道程−経路」から抜粋してみると、
本書の第1部の第2章(ケインズと国家の資本主義的理論)および第3章(憲法における労働)は、1960年代にアントニオ・ネグリによって書かれた。ネグリは、著名な資本主義的な経済学や法理論の理論家たちの読解をとおして、近代的な国家−形態の主たる諸要素と、そのうえに国家がそびえたつ資本と労働の弁証法的な関係性を規定しようとする。
第2部の諸章は、1970年代にアントニオ・ネグリによって書かれたものである。そこで彼は、とくに公的支出という立論構制に関わる正当性と蓄積を担う国家のメカニズムという視点から、近代国家の危機の本質に接近している。これらの論文は、さまざまなマルクス主義者やコミュニストにおける国家解釈と、国家に対する実践的批判を提出する社会運動に焦点を当てている。
第3部は、過去3年間にわたって二人の著者によって協働的に書かれた。これら最後の諸章はそれらが描く道筋総体によって本書に概観を与えるという作業に当てられる。その内容は、第一にポストモダンな資本主義国家を規定する論理と構造について詳述し、第二にこの新たな領野に立ち現れる国家の枠組の外部における社会的表現を担う潜勢力のオルタナティヴな諸形態について分析を加える、という二つの作業から成り立っている。
よし、これで本書の見取り図は入手できた。ところが、あいにくとまだ読了できていなくて、それどころか、なんだかよくわからなくなってきて、一から読み直しだ、と思っていた矢先のトークセッションだった。ちなみに、僕は第1部途中で迷宮に入り、すっとばして第3部から読んだりしていた。
さて、トークセッション。
酒井氏は「序」から「本書の狙いは悦びの実践の提起にある」という一文をひき、崎山氏は、本書のわかりにくさは、結論が書かれていないところにある、と説明する(本書のあとがきでも崎山氏は同様のことを書かれている)。配られたコピーで山崎カヲルの書評を読むと、「これは議論に向かって開かれた本なのだ」としめくくってある。
つまり、これは自分の日常や労働にひきつけて読むべき本なのだ、ということだった。トークはざっくりとしたものだったが、細かいことに囚われて滞留していた読みの詰まりが取れたような気がした。停滞しているのが馬鹿らしくなってきた、というか。とは言え、読み終わるのはまだまだ先のことになりそうだ。
読書中より、このトークセッションの方が面白い、と思えてしまうあたりに、僕の読解力の限界があるようにも感じた。
と、言うわけで、今日読んだのは上村一夫の『一葉裏日誌』
一葉裏日誌
「たけくらべの頃」
「花ごもりの頃」
「にごりえの頃」
うたまる
帯の男(全6話)
最近、日本の文化に興味が湧いている。
それは、パトレイバー見て急に再燃した落語のマイブームがもとになっているんだろうけど、こういう「和」への傾倒はひょっとしてナショナリズムなんじゃないか、と思う節もあって、注意しておかねばならない。オリンピックが近づいていることともあいまって、まんまとマスコミの術中にはまっているのかもしれないからだ。あと、マルチニーク島在住の孫(小6)が夏休みを利用して日本に帰ってきていることも関係しているのかもしれない。フランス語をしゃべる孫は伝統的な日本文化からポケモン、ガンダムまで、日本を味わいつくしてやろう、と毎日飛び歩いているのである。
この『一葉裏日誌』では、置屋、おはぐろ溝、鉄道馬車、白熱ガス灯、絵師、間男結び、手鎖り結び、竹人形、稲穂のかんざし、顔師、荒縄結び、といった日本的なものがふんだんに出てくる。
どの話もよく出来たミステリになっていて、そっちの興味からも、たいへん面白い1冊だった。
翻訳者のうちから酒井隆史(社会思想史)と崎山政毅(ラテンアメリカ研究)の2人がパネラーとなってトークを行った。
トークセッションの広告には、こんなふうに書いてある。
「ネオリベラリズムに抗する主体としてのマルチチュードの可能性はどこから発するのか。アウトノミアの思想家、アントニオ・ネグリの思考の源泉から『帝国』『マルチチュード』の意味をあらためて問い直す」
さあ、困った。
この『ディオニュソスの労働』は『帝国』『マルチチュード』に先立つ本である。
『ディオニュソスの労働』の構成を第1章「批判としてのコミュニズム」の「道程−経路」から抜粋してみると、
本書の第1部の第2章(ケインズと国家の資本主義的理論)および第3章(憲法における労働)は、1960年代にアントニオ・ネグリによって書かれた。ネグリは、著名な資本主義的な経済学や法理論の理論家たちの読解をとおして、近代的な国家−形態の主たる諸要素と、そのうえに国家がそびえたつ資本と労働の弁証法的な関係性を規定しようとする。
第2部の諸章は、1970年代にアントニオ・ネグリによって書かれたものである。そこで彼は、とくに公的支出という立論構制に関わる正当性と蓄積を担う国家のメカニズムという視点から、近代国家の危機の本質に接近している。これらの論文は、さまざまなマルクス主義者やコミュニストにおける国家解釈と、国家に対する実践的批判を提出する社会運動に焦点を当てている。
第3部は、過去3年間にわたって二人の著者によって協働的に書かれた。これら最後の諸章はそれらが描く道筋総体によって本書に概観を与えるという作業に当てられる。その内容は、第一にポストモダンな資本主義国家を規定する論理と構造について詳述し、第二にこの新たな領野に立ち現れる国家の枠組の外部における社会的表現を担う潜勢力のオルタナティヴな諸形態について分析を加える、という二つの作業から成り立っている。
よし、これで本書の見取り図は入手できた。ところが、あいにくとまだ読了できていなくて、それどころか、なんだかよくわからなくなってきて、一から読み直しだ、と思っていた矢先のトークセッションだった。ちなみに、僕は第1部途中で迷宮に入り、すっとばして第3部から読んだりしていた。
さて、トークセッション。
酒井氏は「序」から「本書の狙いは悦びの実践の提起にある」という一文をひき、崎山氏は、本書のわかりにくさは、結論が書かれていないところにある、と説明する(本書のあとがきでも崎山氏は同様のことを書かれている)。配られたコピーで山崎カヲルの書評を読むと、「これは議論に向かって開かれた本なのだ」としめくくってある。
つまり、これは自分の日常や労働にひきつけて読むべき本なのだ、ということだった。トークはざっくりとしたものだったが、細かいことに囚われて滞留していた読みの詰まりが取れたような気がした。停滞しているのが馬鹿らしくなってきた、というか。とは言え、読み終わるのはまだまだ先のことになりそうだ。
読書中より、このトークセッションの方が面白い、と思えてしまうあたりに、僕の読解力の限界があるようにも感じた。
と、言うわけで、今日読んだのは上村一夫の『一葉裏日誌』
一葉裏日誌
「たけくらべの頃」
「花ごもりの頃」
「にごりえの頃」
うたまる
帯の男(全6話)
最近、日本の文化に興味が湧いている。
それは、パトレイバー見て急に再燃した落語のマイブームがもとになっているんだろうけど、こういう「和」への傾倒はひょっとしてナショナリズムなんじゃないか、と思う節もあって、注意しておかねばならない。オリンピックが近づいていることともあいまって、まんまとマスコミの術中にはまっているのかもしれないからだ。あと、マルチニーク島在住の孫(小6)が夏休みを利用して日本に帰ってきていることも関係しているのかもしれない。フランス語をしゃべる孫は伝統的な日本文化からポケモン、ガンダムまで、日本を味わいつくしてやろう、と毎日飛び歩いているのである。
この『一葉裏日誌』では、置屋、おはぐろ溝、鉄道馬車、白熱ガス灯、絵師、間男結び、手鎖り結び、竹人形、稲穂のかんざし、顔師、荒縄結び、といった日本的なものがふんだんに出てくる。
どの話もよく出来たミステリになっていて、そっちの興味からも、たいへん面白い1冊だった。
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