DVD ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン 2007/10/11 ¥1,500
アラン・パーカー監督の「ザ・ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」を見た。
死刑廃止論者が死刑に処される皮肉。
ただし、現場の状況からある事柄が判明した。
何者かが、犯行の一部始終を撮影していた!
死刑囚デビッド・ゲイルの記事を書くために最後の3日間、面会した雑誌記者のケイト・ウィンスレットに、1本のビデオが届く。
それは、これが殺人事件ではなく、自殺であり、別人が見届けたものであることを映し出していた。
だが、もう時間がない!
死刑までに間に合うのか?
走れ、ケイト・ウィンスレット!タイタニックよりも速く!
と、いうわけで、この映画は冤罪による死刑は取り返しがつかないという内容で、死刑廃止をテーマにした社会派なのかな、と最初思ったけど、映画を見ているうちに、どうやらそうではないことがわかってきた。
事件の真相は何なのか、というサスペンスにこそ主眼があり、死刑廃止とかはストーリーを面白くするためのお膳立てなんだな、と思えてきたのだ。
ケビンスペイシー演じるデビッド・ゲイルが、単位取得のためなら体も提供する女学生の誘いを断ったことから逆恨みされ、レイプの噂をたてられて失職してしまうドジさや、アル中になってたちなおれなくなる情けなさが、デビッド・ゲイルへの共感をさまたげているんだろう。
僕自身は死刑反対の立場なので、この映画を見終わってもぜんぜん死刑反対に共感しそうにない展開だったのが、残念だった。
娯楽作品で、見終わると、すぐに忘れてしまうようなタイプ。

ピエール・ブルジャッドの『マン・レイとの対話』を読んだ。
1970年、マン・レイ80才のときの対談と、いくつかのテクストが収められている。
テクストは次のとおり。引用とかしてみる。

光の時代/『写真集』からの抜粋1920-1934
「誰しも臆病さゆえに超えることのできない限界というものがある。それ以上進むと制裁を受けるのである。専心努力して自らこの限界を押し拡げたものは、すでに万人に認められ自発的な努力を何ら必要としない人々の反感を呼び起こすことになる。こうした敵意は通常、嘲笑、批判、さもなくば迫害といった形をとる。だが礼儀作法とか審美主義に容認された怪物的な慣習にはこうした目立った侵害も良い薬である」

社会の中の芸術/ラジオ放送による即興講演1940
自伝/展覧会カタログより抜粋1944
人知れず続けるために/1948
シェークスピア方程式に関する覚え書き/1948
未発表資料/1951
私は何者か/展覧会カタログより抜粋1959
予告/展覧会カタログ序文1972

あとで書き足します。

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