ISBN:4061824775 新書 古野 まほろ 講談社 2007/01/12 ¥1,680
古野まほろの『天帝のはしたなき果実』を読んだ。
高校の吹奏楽部のアンサンブルコンテストを中心にして起こる殺人事件。
いやはや、これはとてつもなく過剰なパロディ小説だった。
何が過剰と言って、無駄話が過剰なのだ。ミステリーの部分は全体の半分にも満たない。
あとはただただ無駄話に興じる高校生たちが描かれている。
194ページめになって、やっと死体があらわれて、ミステリーっぽくなる(全体で817ページ)。
いろいろ言いたいことはあるが、まずミステリーの部分から。
後半に、虚無への供物をほうふつとさせるような推理合戦がある。これが、どの推理も無駄な推理としか言い様がなくて面白い。なぜなら、明らかにダイイングメッセージっぽい書き付けがあって、はっきりと犯人の名前が書かれている(図でしっかり示されている)のに、そのことには誰も触れずに、違う観点からそれぞれ推理を展開するのだ。被害者が犯人の名前を間違えていた、というポイントも「伏線」ではなく、あからさまだ。
最後に明かされる暗号だって、あまりにも恣意的で、読者には絶対にわからない暗号になっており、解明されても「それでいいのか?」と思わせるようなものだ。
つまり、謎解きという面では、簡単な推理クイズレベルなのに、全員がそれに気づくことなく、うんちくたっぷりに推理を展開するのだ。読者は全員真相がわかっているのに、作中人物だけが遠回りをし続ける。
「志村、うしろ!」
さらに、犯人があきらかになってから、まだ100ページ以上も残されている。
そこで、読者は、とんでもない展開に身をさらすことになる。なんと、この小説が大仰なSF伝奇だったことがわかるのだ。
この作品は、華族や軍が存在するパラレルな日本を舞台にしているが、そのわりに、今の日本の文物などをそのまま登場させていて、違う世界だという設定を失念させるミスディレクションも行われている。
この小説は、なかなかの曲者なのだ。
通常の作家なら、本筋に関係のない描写は削る美意識を持っているが、古野まほろは違う。明らかに無関係な、参考書丸写しの記述をこれでもか、と書き続ける。それはまさに垂れ流すと言っていいだだ漏れぶりだ。
高校生たちの駆使するうんちくは、「ペダントリー」と呼ぶにはあまりにも高校生的で、せいぜいがネットで検索すれば手に入る程度の浅い知識でしかない。巻末の参考文献見ても、ずらっと「〜辞典」とかマニュアル本が並んでいる。それら受験勉強の延長のような知識が、作品に有機的にからんでいるのかと言えば、そうとも言えない。不必要なルビの多用、センスのない言葉遊びの連発、駄弁に無関係な描写の数々。
「こんなところで油食むリンカーンコンチネンタルしてる場合じゃないわ」
だが、これら、作品全体を覆っている「浅さ」「無駄」が、田舎の吹奏楽部の高校生たちの青春を描くのに、ぴったりなのである。僕もこの作品読んで、自分の高校時代を懐かしく思い出した。ああ、こんな感じだったな〜、と。無為と無駄と浪費と背伸びと妙なこだわりと、うぬぼれと、おおげさと。これぞ、青春。
自分が思春期に書いた自意識過剰な日記を読まされているようで、とても愛しいが、恥ずかしい。これぞ、青春。
断言する。この本は青春小説の大傑作だ。

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