ISBN:406149788X 新書 鈴木 謙介 講談社 2005/05/19 ¥735
HEPホールで梅佳代の写真展「男子」を開催している。今日は梅佳代とFM802の土井コマキによるトークショーもあるというので、見に行った。
文字通り、小学生の男子がいちびってる写真が多数展示してある。サブタイトルの「無敵!ミラクル!!アホパワー!!!」そのまんま。
被写体になったのは、大阪ミナミの小学生らしい。
どの写真もまったく他人とは思えない。自分のアルバムを見ているかのようだ。
イメージフォーラムフェスティバルからのテーマ「グッドバイ!スタイリッシュ」とも通じる展示で、僕的にもタイムリーだった。
会場では、「情熱大陸」のために撮影された映像をこの展覧会用に編集したものが流されていた。これもまた、楽しそうだった。
トークの内容も非常に肩の力の抜けた面白いもので、うっかりすると、どこかで梅佳代に会ったら、面識もないのに、「おう、うめかよ」と気軽に挨拶してしまいそうだ。
アムラーだったから、毎日カメラを持ち歩いていた、とか。
イチローと結婚したくてカメラマンを目指した、とか。
コミックヨシモトの板尾を撮影したのは私だ、とか。
笑いと下ネタと。
いや、しかし、トークショー会場の大半は若い女性だった。なんらかの親近感が湧くんだろうか。みんな、オモロイことが好きなわりに、ファッションがおとなしくて、だれからも後ろ指さされないような格好をしているのが、とても不満だ。そう言えば、展示を見てからトークショーまでじゃっかん時間があったので、キディランドに寄ったら、えらくカラフルで派手な人がいた。あっ、イロキチだ!と喜んで見たら、ヤンキーだった。センスなかった。
そうそう、梅佳代の作品で、ブランコに上半身裸で乗っていて、ポテトチップス持っている男子がうつっているのがある。この男子、公園で転んだときに服に犬のウンコがついたので、その後ずっと上半身裸だったという。いいエピソードだ。

鈴木謙介の『カ−ニヴァル化する社会』を読んだ。
ここで言うカーニヴァルは、2ちゃんねるなどで突発的に起こる祭を思い浮かべるとわかりやすい。
カーニヴァルという用語はジークムント・バウマンの言う「カーニヴァル型の近代」から援用されている。
バウマンが時代をどうとらえていたかについては、次のようにまとめてある。
「ソリッドなもの、大きな物語が志向された近代にかわって、流動的で個別的な事態に人々が直面する『リキッド・モダニティ』とでも呼ぶべき近代の新しい位相に、我々は突入している」(これは突入してくれてありがとう、と言いたい)
「共同体に帰属するかどうか、伝統に従うかどうかも、個人にとっての選択の対象」(えっ、僕の選択によっていいの?)
「後期近代においてもっとも困難であるのは、一貫性を維持すること」(これは時代がそうなんじゃなくて、僕個人の資質の問題だと思ってた。僕も時代の子なんだね)
以下、目次

はじめに−「祭り」の季節に
ふたつの「祭り」+1/お祭り化する日常
第1章 「やりたいこと」しかしたくない−液状化する労働観
1、フリーターやニートだけが問題なのか
フリーター化する「社会人」/若者は甘えているのか/『13歳のハローワーク』と『14歳の分岐点』
2、「やりたいこと」という貧困
自分探し世代の憂鬱/予期的社会化の困難/空転する意欲/親世代の二重の願望
3、ハイ・テンションな自己啓発
氾濫する自己診断/躁状態としての「分断される自己」

第2章 ずっと自分を見張っていたい−情報社会における監視
1、「監視国家」か「監視社会」か
進む防犯対策としての監視/民間主導による監視/監視の「脱カメラ化」/ゲイテッド・コミュニティ/「監視社会」とは何か
2、データが監視されるということ
見えなくなる「監視」/身体の消失/監視そのものを批判できるか/リスク社会における排除/監視社会の「善さ」を求めて
3、データベースとの往復運動
再−身体化する監視/私は何を欲望しているのか/「掟の門」をくぐれるか

第3章 「圏外」を逃れて−自分中毒としての携帯電話
1、携帯電話と再帰的近代
ケータイ=非行の原因?/情報社会の情報戦/増加する「ケータイ依存」/対人関係への共依存/「再帰的近代」と「純粋な関係性」/ケータイが繋ぐのは関係性か
2、「自己への嗜癖」とデータベース
データベース化する対人関係/<繋がりうること>としての友達/「個人化」の新たな段階/自己への嗜癖と「脱−社会化」

終章 カーニヴァル化するモダニティ
1、カーニヴァル化と再帰性
日常がカーニヴァル化する/共同性としての祝祭/「反省」と「再帰」の違い/再帰的な運動としての宗教/スピリチュアリティの興隆と「再魔術化」/カーニヴァル化する政治・経済
2、革命か、宿命か−カーニヴァルの時代を生きる
再帰的カーニヴァルとデータベースのパラノイア/分断される自己イメージ/宿命論からの軟着陸

終章冒頭に、それまでのまとめがあるので、引用しておこう。

就業問題と監視社会問題を架橋させながら、第1章と第2章で論じたのは、大きな物語、すなわち最終的に目指すべき目標や理念を欠いた現代において、監視社会のデータベースとの相互審問の中から、その都度その都度、自己の欲望すべきものが立ち上がってくるというメカニズムだった。そして、こうした自己とデータベースとの往復運動の結果生じるのが、社会学的には「個人化」と呼ばれる、自己に対する統合的な反省の視点が欠如した−あるいはそうした「アイデンティティ」への問いをやり過ごすことのできるような−自己モデルを生きる若者たちなのだというのが、第3章の議論だった。

さらに。

本書で扱ってきた様々な現象は、一方で根元的な理由や目標を欠いた、自己目的的な「カーニヴァル」が、現在において生じつつあること、他方でそうしたカーニヴァルを支えるのは、データベースへの問い合わせにあることを指摘してきた。このカーニヴァルとデータベースの共犯関係こそが、私たちを支える社会を記述する枠組みになりうるのではないか

そして、それが幸せかどうかは、人それぞれの内面の問題になるが、反省的視点を欠いたままでは、求めても求めても幸せにたどりつけない嗜癖的な状態に陥る、と。

大きく語ると、まあそういうことだ。
第1章で面白かったのは、若者の躁鬱について語ったところ。ハイテンションな自己啓発でウワーっと盛り上がったかと思うと、しゅ〜んと落ち込む。その繰り返し。ワールドカップだ!阪神優勝!イナバウアー!なんとか王子!と盛り上がったかと思うと、興味がなくなってさ〜っとひいていく。
モーニング娘。に代表されるハロープロジェクトで、そういうことをたまに感じることがある。
最近、ハロープロジェクトのメンバーが三面記事をにぎわすようになると、「ああ、もうハロプロは終わった。いや、もうとっくに終わってる」と言い出す元ファン(?)がいる。自分の興味からはずれたのなら、おとなしくしていればいいのに。さらに、最初から祭りに乗っかってハロプロに関わっただけの人たちが、「もう終わった」もないものだ、と思う。反省的視点を欠いた状態ってやつだ。もっと熱くなれるものを求めて、幸せにたどりつけない。そんな奴らは勝手に嘆いて鬱になってればいい。他人を巻き込まないでもらいたい。
でも、一方で、後でどんなに泥をかけられようが、一度でも祭りになれば勝ち、という気もする。祭りを経験せずに一度も認知されずに消えていくことに比べたら、祭りで消費される方がよっぽどいい。
祭りのあとって、風情あるしね。

そして、こんなことも。
そうした人々は単なる快/不快原則で選択していることを、人間的な原理に従って生きているんだ、と思いこんでいる、と。
もっともらしい言動こそ疑ってかかるべきなのだ。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索