ISBN:4791762401 単行本 鈴木 謙介 青土社 2005/11 ¥1,680
信長書店で「もっとペロキャン!ワンコインぷちライブ」
今日も白い恋人あゆ欠席で、3人のステージになった。
1.Pa-La-La
2.あんぶれら
3.ギャグ100回分愛してください(あかり、かな)
4.スカートひらり
5.ねぇ、わかんない?
衣装はバスローブ。湯上がりのリラックスした雰囲気が、いい感じ。
今回のライブは、いろんなところにみどころあり。
まず、いきなりカナ吉がマイクで下唇あたりを痛打し、歌やダンスに急ブレーキ。
他メンバーから、「カナ吉はよく口から血を流している」と不思議なツッコミが入る。
「ギャグ100回分」は昨日いきなりDVD渡されて徹夜で練習したというが、カナ吉は満足に踊れずに悔やんでいた。
カナ吉の話題ばっかりだが、それもそのはず。3曲目終わりで3分間撮影タイムがあり、そのあとはゲームコーナーだったのだが、そのときに、6月18日に15才になったばかりのカナ吉にバースデイケーキのサプライズ!メンバーからは色紙にメッセージのプレゼント。
そして、ゲームの内容は、カナ吉クイズ。
「レゲエが好きである」(答えはYES。先輩の影響らしい)
「今の髪型が気に入っているか」(答えはNO。髪を切ったときに、みんなに「何してん?」とツッコまれたらしい)
「プライベートではスカートをはかない」(答えはYES。いつもパンツルックなのは、スカートよりもパンツの方が布地が多くて得だからだそうだ)
などなど、カナ吉についての問題をお客さんが答えて、正解と比較して、イメージと実際の差に驚いたり、理由聞いて納得したり。
ここで妙な存在感を出していたのが、小悪魔あすぴだ。
カナ吉クイズで「乙女である」というべきところ、「こう見えて」と勝手につけ加えて出題したり、「ギャグ100回分」のあとカナ吉が「あすぴが睨んでるから呼ぶわ」と言うと、「睨んでないって」とあすぴ御得意のリアクションしたり。
さらに、今回一番面白かったのは「ねぇ、わかんない?」の最初のせりふを、「頭がおかしくなっちんぐ」と言うべきところ、何回も笑って言えず、やりなおしてたところ。このイベント以降、「頭がおかしくなっちんぐ」は、僕のあいだでは大流行だ。
ペロペロキャンディーズは、24時間TVに募金を持っていく予定で、受付カウンターに募金箱が置いてあった。帰りに小銭を入れておいた。24時間TVでライブしたり、募金の受付する側にいればいいのに。

読んだ本は対談集『波状言論S改』
序文−社会学と批評のあいだで/東浩紀
第1章 脱政治化から再政治化へ/宮台真司、鈴木謙介、東浩紀
 1、政治的転回をめぐって
 2、強度ある世界のために
第2章 リベラリズムと動物化のあいだで/北田暁大、鈴木謙介、東浩紀
 1、80年代から遠く離れて
 2、インターネットと応答責任
第3章 再び「自由を考える」/大澤真幸、鈴木謙介、東浩紀
 1、現象学的身体と環境管理
 2、動物は自由か

以前、「網状言論F改」って本も読んだけど、この「F改」はきっと「深い」と読むんだろう。(不快か?)
この『波状言論S改』の「S改」は「スカイ」なのか?
トークの内容について、今後詳述すべき問題点については、いずれ各著者が本にまとめるだろう。いくつかのテーマや問題点をめぐって、考え抜いた答からその場しのぎの回答まで混じっているため、1つ1つの発言に対して「言質をとった」としないのが、賢明だろう。
ここでは、読んでいて面白かった部分を断片的に記録しておく。

第1章
「ネタ」が「ベタ」になったことについて、言い換えれば「あえて」やっているのと、たんにわかってないのとについて語るところで。
宮台「厳密に言えば、年長世代と年少世代の落差だね。たとえば『エヴァンゲリオン』を「引用の嵐だ」というふうに読む年長世代の読み方と、碇シンジくんの自意識をめぐる物語として読む年少世代の読み方の落差です」
これに東は反論する。
東「宮台さんの整理では、一方に制作者あるいは制作者と同世代の元ネタ読解があり、それはそれで1つのコミュニティになっていた。他方ではもっと若い世代がいて、これはネタをネタと知らずにベタに消費して、「シンジくんは僕だ」とか言って泣いていた」
東「いま宮台さんがおっしゃろうとしたことは、元ネタもわからずシンジくんに感情移入するベタな消費者が増えてきた、という話ですよね」
と、整理したあと、
東「『エヴァンゲリオン』のブームを支えたのは、物語も元ネタも関係なく、二次制作の海(データベース)の中でただただキャラクターを消費したいという「萌え」な連中ですよね」
東「大事なのはそれが堕落かどうかでなく、ある世代の制作者の意図を超えていたということです。これはネタかベタかという対立には収らない。受け手がバカになったという話とも違う」
宮台真司はこれに「そのとおりだよ」と肯定して論を進めていき、ことは紛糾。
トークの流れとしては面白いが、どうにもひっかかる。
ネタとベタの話は、なるほど、と思わせられるものがあり、このエヴァンゲリオンについても有効だと思う。二次制作としてキャラクターを消費する「萌え」な連中にしたって、それをネタとして受け止めるのとベタに受け止める二分法が有効なんじゃないか、と思うけど、これって単に僕が年長だから思うことなのか?今の「萌え」な連中ってのは、たとえばエヴァンゲリオンを「受け止めずに消費」できるのか?だとすると、ここで語られているのは、「いかに受け止められたか」が問題なんだから、受け止めていない連中について語っても仕方がないんじゃないか。ブームになった云々は、どうでもいいことのように思う。ブームにならないアニメや漫画に関しても、ネタとベタの受け止めはなされているからだ。

また、「作り手が何を意図したのか」という問題とは別に、受け手にとって「どんなものとして機能しているのか」という問題意識を持たねばならない、との主張で、『世界の中心で、愛を叫ぶ』について触れている。
鈴木「これはちまたで認識されているような「恋人が死んで悲しい」から泣ける本だというものではありません。なぜなら、死は最初から暗示されているからです。この本では、おじいちゃんがキーとして出てきて、おじいちゃんと「僕」の喪失に対するスタンスの違いが問題となります」
なるほど。僕はベストセラーだとか、話題になっているから、という動機で本を読むことはまずないので、この『世界の中心で』も読もうとしたことがない(読んだ人が酷評しているのを聞いたことはある)。でも、本書を読んで、『世界の中心で』も読んでみようか、と思い直した。タイトルのあまりの大馬鹿ぶりに、ちょっと手が出なかったんだけど。

第2章
消費者が今なぜ「感動」を求めるのか、について。
東「僕たちが生きているこの社会が、そもそもあまりにメタメタで(笑)「これがおもしろい」と言ったところで「別の視線もあるでしょう」という多数の反論可能性に満ちているからです。だからこそ、そういうノイズをシャットアウトしてくれるものを求めざるをえなくなっている」
東「感動をほかのコミュニケーションから区別する特徴は、反駁不可能性」だから。

また、この章では「オタクの欲望はどんなものなのか、という心理学的な問いよりも、オタクはどうして自分たちの欲望を実体化したいと思っているのか、というメタレベルの問い」を問題提起している。
東「オタクなんて集団は、実際にはここ30年間の消費社会がつくりあげたものにすぎない。にもかかわらず、そこでつくりあげられた一定の消費者像が、人格的・実体的なものだと錯覚したがっている」
なるほど。これはもう問題を思い付いたことが即、答えみたいなものだ。と、いうか、これは問題ではなく、分析すべき課題、という感じかな。

第3章
東「どうのこうの言っても人間は社会的動物です。しかし、そのときに作られる社会性が、2ちゃんねるのオフ会とか、はてなダイアリーのコメントやmixiメッセージにまで縮減しはじめたとき、その本質はやはり変わってくると思う」
ふむ。これは分析したのをいろいろ読んでみたい。

本書は第1章の宮台氏の問題提起をずっとひきずっているようだ。
それは「ネタ」「あえて」「アイロニカルな没入」と言葉を変えて、同じことを何度も論じなおしていることでよくわかる。世代論にしてしまうのはほとんど判断停止だとは思うけど、ついつい世代のせいにしたくなってくる。

なお、本書中で取り上げられた、ある書物が、僕が考えていた都市論をかなり前に先取りしていて、それについて考えをすすめるのをいったん止めたのは、先の日記で書いたとおり。その本は森川嘉一郎の『趣都の誕生』で秋葉原のことを取り上げているらしい。僕にとって都市とは日本橋のことだから、納得。まだ読んでない本なので、いずれ読んでみよう。要するに、僕が「都市論」だと思っていたのは、単なるオタクの町の特徴でしかなかった、ということだ。もっとちゃんと考えろ!僕の脳髄よ!

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

日記内を検索