ISBN:4787210408 単行本 小倉 正史 青弓社 2007/03 ¥2,100
ジャン=リュック・ナンシーの『遠くの都市』を読んだ。
第1部 遠くの都市
第1章 遠くのロサンゼルス/ジャン=リュック・ナンシー
第2章 遠くの都市/ジャン=リュック・ナンシー
第3章 場所の彼方の都市/ジャン=クリストフ・バイイ
第2部 都市のゆくえ
建築に表出する病理の行方/坂牛卓
CIVITASではなく、SUBURBUMからの思考−ジャン=リュック・ナンシーの都市論の古典性と正統性をめぐって/若林幹夫
例によって、本書のことを知りたい人は実際に読むか、他のサイトですませてください。ここにはほとんど『遠くの都市』についての言及はありません。
第1章のロサンゼルス論を読んでいるあいだ、僕の頭にあったのは、「こんなのは都市じゃない」だった。それにあまりに囚われすぎて、読んでいるうちにナンシー自身が、ロサンゼルスがいかに都市から遠いのか(それがタイトルのゆえん)を語っているのに気づき、「しまった。ナンシーの描写にまんまとのせられた!」と地団駄ふんだ。
ナンシーによると「すべての都市はいきどまり」であり、それにはうんうんとうなずいたが、ロサンゼルスはそうではないのだ。
車に乗って行き過ぎる場所、それがロサンゼルスだ。
僕が思うに、この一点から既に二重の意味でロサンゼルスの非−都市性は明らかだ。
1、ナンシーが言うように、都市はいきどまりだ。滞留こそが都市のありようだ。
2、車なんてものは、田舎に住んでいる者がどこに行くにも不便だから使う乗り物だ。都市は手ぶらで歩いて行くところなんだ。車で都市に乗りつけるのは、そこが都市である証拠にはなるかもしれないが、車が示すのは田舎であって、都市のシンボルにはなりえない。観光バスが古都のシンボルになりえないのと同じだ。
第1章は80年代末に書かれ、第2章は90年代末に書かれている。
第2章でナンシーは都市について多くの単語を並べる。
散水機、ブラッシング機、蛍光色の制服を着た道路管理職員、瓶、チューインガム、食べ残しのサンドイッチ、コンドーム、注射器、犬の糞、傷んだ野菜、破れた容器、包装紙、ファストフード、ドネル・ケバブ、ホットドッグ、ピザ、カップヌードル、フライドポテト、薄暗がりの隠れ場、銅と木材のカウンター、煙とジュークボックス、赤線地帯と放浪者、取引と麻薬のコーナー、落ちこぼれのコーナー、腐敗したクラブ、電線とパイプ、雑音と喧噪、流体と記号、ダクトなどなど。
で、ナンシーがどんなことを言っているかというと
「都市は散乱した全体である」
「私生活と雑居生活に至るまで、都市は自らにとって異質なものを集めて集中する」
「絶えざる運動のなかで、都市は自らが設置したすべてを不安定なものにする」
「落ち着きのない混雑が、いなかに根ざしていた近接に代わるのだ」
確かにそうなのかもしれないが、僕は主に「都市」というと自分の暮らしている大阪日本橋を頭に描いており、それこそが都市のひな形だと思っているので、いろんなところで、違和感も覚える。
例えばこんな描写がある。
「夜間、大都市に着陸する航空機のアプローチ。照明されたリボンが長く伸び、輪になり、束ねられ、重なり合って消失するかあるいは拡散する。緑色や黄色、あるいは」
ちょっと待った、ナンシーさん。大都市に航空機なんか着陸しませんヨ!飛行場があるのは田舎と決まってますヨ!
なんて、ツッコんでしまうわけだ。
「夜明け、車が、最初の納品車、最初の集荷車が動きだし、」
ちょっと待った、ナンシーさん。都市は24時間動いているんですヨ!最初の納品車なんてありませんって!
とかね。
一方、これは納得、と膝を打った描写もあった。
「都市は大食である。通行する人の誰にでも合うように食べ物の幅を広げる。食べるものを陳列し、そのリズムを速める。至るところで、そして速やかに食べなければならない。しゃべりながら食べ、歩きながら食べ、仕事をしながら食べなければならない」
最近、公共広告機構が、電車の中で食事することについて、なんとマナーの悪いことか、と言っているが、都市ではこういう主張は成り立たない。
もともと列車の中で食事することは、駅弁をホームで売っていたりする時代には、当たり前だった。それが、都市のマナーとして「電車の中では迷惑になるから食事をしない」という時代を経て、現代では、車中の食事が普通になっている。移動中にしか食事の時間がないからだ。都市においては、電車の中での食事をとがめるのは、「おまえはものを食うな」と言ってるに等しい。都市のルールを知らない田舎の人以外、誰もそんな無茶なことは言わない。もっとも「食事」と言った場合、通常、都市ではドラッグストアフードが主食である。次善手としてファストフードがあり、弁当なんて食べているのは、場違いか、よっぽど他になかったというケースだから、車中の人々は「迷惑だ」「マナーがなってない」と憤慨せずに「かわいそうに、ドラッグストアがなかったんだな」と同情するのである。
そうそう、そもそも、都市は滞留するものなんだから、基本、電車に乗る必要もないはず。
第2部は、ナンシーのテクストをもとにして、都市論を展開している。
「建築に表出する病理の行方」はグーグルアースやボルヘスの『アレフ』を例に出して、こんなことを言う。
「多くの線的な都市体験は点的なものに変わりつつある。さらに早い高速交通手段はメガリポリスを飛び越えて地球規模での点的な都市の連鎖体験をも生み出している。つまり空間をワープしながら地理的距離を捨象するような体験である。そして、ネット上では事実そうしたことがすでに起こっている」
坂牛氏は、このあと、『アレフ』とフーコーに影響を受けたポストモダン地理学のエドワード・ソジャの話に突入していく。
「都市体験とは、終わりなき連なりが同時的に受容されるものであり、時間的経過のなかに歴史的に並べられるものではない」と。
これって、昨日読んだヴィリリオともつながっているように思う。
若林幹夫氏は何冊か読む予定があるので、そのときにでも感想をまとめてみたい。
実は、本書を読んでいると、ナンシーが何を言わんとしているのか、ということよりも、そこで描かれたロサンゼルスのあまりの非−都市性(スーパー非−都市くんと呼ぼう)に影響されて、自分なりの都市論みたいなものを考えさせられた。主にそれは「展開」をキーワードにしていたのだが、たまたま本書のあとに読んでいる本に、似たような論調のものを見つけてしまった。いずれちゃんと読んだらまた感想書くとして、自分の都市論に関しては、いったん封印だ。
ジャン=リュック・ナンシーの『遠くの都市』を読んだ。
第1部 遠くの都市
第1章 遠くのロサンゼルス/ジャン=リュック・ナンシー
第2章 遠くの都市/ジャン=リュック・ナンシー
第3章 場所の彼方の都市/ジャン=クリストフ・バイイ
第2部 都市のゆくえ
建築に表出する病理の行方/坂牛卓
CIVITASではなく、SUBURBUMからの思考−ジャン=リュック・ナンシーの都市論の古典性と正統性をめぐって/若林幹夫
例によって、本書のことを知りたい人は実際に読むか、他のサイトですませてください。ここにはほとんど『遠くの都市』についての言及はありません。
第1章のロサンゼルス論を読んでいるあいだ、僕の頭にあったのは、「こんなのは都市じゃない」だった。それにあまりに囚われすぎて、読んでいるうちにナンシー自身が、ロサンゼルスがいかに都市から遠いのか(それがタイトルのゆえん)を語っているのに気づき、「しまった。ナンシーの描写にまんまとのせられた!」と地団駄ふんだ。
ナンシーによると「すべての都市はいきどまり」であり、それにはうんうんとうなずいたが、ロサンゼルスはそうではないのだ。
車に乗って行き過ぎる場所、それがロサンゼルスだ。
僕が思うに、この一点から既に二重の意味でロサンゼルスの非−都市性は明らかだ。
1、ナンシーが言うように、都市はいきどまりだ。滞留こそが都市のありようだ。
2、車なんてものは、田舎に住んでいる者がどこに行くにも不便だから使う乗り物だ。都市は手ぶらで歩いて行くところなんだ。車で都市に乗りつけるのは、そこが都市である証拠にはなるかもしれないが、車が示すのは田舎であって、都市のシンボルにはなりえない。観光バスが古都のシンボルになりえないのと同じだ。
第1章は80年代末に書かれ、第2章は90年代末に書かれている。
第2章でナンシーは都市について多くの単語を並べる。
散水機、ブラッシング機、蛍光色の制服を着た道路管理職員、瓶、チューインガム、食べ残しのサンドイッチ、コンドーム、注射器、犬の糞、傷んだ野菜、破れた容器、包装紙、ファストフード、ドネル・ケバブ、ホットドッグ、ピザ、カップヌードル、フライドポテト、薄暗がりの隠れ場、銅と木材のカウンター、煙とジュークボックス、赤線地帯と放浪者、取引と麻薬のコーナー、落ちこぼれのコーナー、腐敗したクラブ、電線とパイプ、雑音と喧噪、流体と記号、ダクトなどなど。
で、ナンシーがどんなことを言っているかというと
「都市は散乱した全体である」
「私生活と雑居生活に至るまで、都市は自らにとって異質なものを集めて集中する」
「絶えざる運動のなかで、都市は自らが設置したすべてを不安定なものにする」
「落ち着きのない混雑が、いなかに根ざしていた近接に代わるのだ」
確かにそうなのかもしれないが、僕は主に「都市」というと自分の暮らしている大阪日本橋を頭に描いており、それこそが都市のひな形だと思っているので、いろんなところで、違和感も覚える。
例えばこんな描写がある。
「夜間、大都市に着陸する航空機のアプローチ。照明されたリボンが長く伸び、輪になり、束ねられ、重なり合って消失するかあるいは拡散する。緑色や黄色、あるいは」
ちょっと待った、ナンシーさん。大都市に航空機なんか着陸しませんヨ!飛行場があるのは田舎と決まってますヨ!
なんて、ツッコんでしまうわけだ。
「夜明け、車が、最初の納品車、最初の集荷車が動きだし、」
ちょっと待った、ナンシーさん。都市は24時間動いているんですヨ!最初の納品車なんてありませんって!
とかね。
一方、これは納得、と膝を打った描写もあった。
「都市は大食である。通行する人の誰にでも合うように食べ物の幅を広げる。食べるものを陳列し、そのリズムを速める。至るところで、そして速やかに食べなければならない。しゃべりながら食べ、歩きながら食べ、仕事をしながら食べなければならない」
最近、公共広告機構が、電車の中で食事することについて、なんとマナーの悪いことか、と言っているが、都市ではこういう主張は成り立たない。
もともと列車の中で食事することは、駅弁をホームで売っていたりする時代には、当たり前だった。それが、都市のマナーとして「電車の中では迷惑になるから食事をしない」という時代を経て、現代では、車中の食事が普通になっている。移動中にしか食事の時間がないからだ。都市においては、電車の中での食事をとがめるのは、「おまえはものを食うな」と言ってるに等しい。都市のルールを知らない田舎の人以外、誰もそんな無茶なことは言わない。もっとも「食事」と言った場合、通常、都市ではドラッグストアフードが主食である。次善手としてファストフードがあり、弁当なんて食べているのは、場違いか、よっぽど他になかったというケースだから、車中の人々は「迷惑だ」「マナーがなってない」と憤慨せずに「かわいそうに、ドラッグストアがなかったんだな」と同情するのである。
そうそう、そもそも、都市は滞留するものなんだから、基本、電車に乗る必要もないはず。
第2部は、ナンシーのテクストをもとにして、都市論を展開している。
「建築に表出する病理の行方」はグーグルアースやボルヘスの『アレフ』を例に出して、こんなことを言う。
「多くの線的な都市体験は点的なものに変わりつつある。さらに早い高速交通手段はメガリポリスを飛び越えて地球規模での点的な都市の連鎖体験をも生み出している。つまり空間をワープしながら地理的距離を捨象するような体験である。そして、ネット上では事実そうしたことがすでに起こっている」
坂牛氏は、このあと、『アレフ』とフーコーに影響を受けたポストモダン地理学のエドワード・ソジャの話に突入していく。
「都市体験とは、終わりなき連なりが同時的に受容されるものであり、時間的経過のなかに歴史的に並べられるものではない」と。
これって、昨日読んだヴィリリオともつながっているように思う。
若林幹夫氏は何冊か読む予定があるので、そのときにでも感想をまとめてみたい。
実は、本書を読んでいると、ナンシーが何を言わんとしているのか、ということよりも、そこで描かれたロサンゼルスのあまりの非−都市性(スーパー非−都市くんと呼ぼう)に影響されて、自分なりの都市論みたいなものを考えさせられた。主にそれは「展開」をキーワードにしていたのだが、たまたま本書のあとに読んでいる本に、似たような論調のものを見つけてしまった。いずれちゃんと読んだらまた感想書くとして、自分の都市論に関しては、いったん封印だ。
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