『薔薇物語』3日めは、ジェフリー・チョーサーの『中世英語版・薔薇物語』
ギヨーム・ド・ロリスとジャン・ド・マンによる原書を中期英語で翻訳したもの(を、日本語に翻訳したもの)。
以下、翻訳者瀬谷幸男による小見出し。

前編(ギヨーム・ド・ロリス)
「断片A」
1.詩人の夢
2.詩人は彫像のある庭園の城壁に来る
3.詩人は「悦楽」の園に入る
4.詩人と「悦楽」の園の仲間との出会い
5.「愛の神」の追跡
6.詩人は「ナルキッソス物語」をかたる
7.詩人は「薔薇」との恋に陥る
「断片B」
8.「愛人」は「愛の神」と臣従の誓いを立てる
9.「愛人」は「愛の神」の掟を知る
10.「愛人」は恋の苦しみを知る
11.「愛人」は恋の苦しみを癒す術を知る
12.「歓待」が「愛人」を励ます
13.「拒絶」が「愛人」を脅し「歓待」を遠ざける
14.「理性」が「愛人」に「愛の神」を避ける忠告をする
15.「愛人」は「友人」を得る
16.「典雅」と「同情」が「愛人」のため仲裁に入る
17.「愛人」は「薔薇の蕾」との接吻に成功する
18.「悪口」が「嫉妬」を起こし「愛人」を攻撃させる
19.「嫉妬」は城を建て「歓待」と「薔薇」を幽閉する

後編(ジャン・ド・マン)
20.「愛人」は絶望する
21.「理性」が再び「愛人」を訪ねる
22.「理性」が「青春」と「老年」の比較をする
23.「理性」が友情を定義する
24.「理性」は「運命の車輪」についてかたる
25.「理性」が真の幸福とは何かを説く
「断片C」
26.「愛の神」の直臣たちが総攻撃を企てる
27.「愛の神」は欺瞞の手管を説く「見せ掛け」の奉仕を受ける
28.「見せ掛け」は托鉢僧が司祭を出し抜く次第を説く
29.「見せ掛け」は自らの策略を説き托鉢生活を糾弾する
30.「見せ掛け」は許される托鉢生活を説き、自らの本性を明かす
31.「見せ掛け」と「強制禁欲」が使者として「悪口」を訪ねる

以上。
後編のジャン・ド・マンの部分は大幅な抄訳になっていて、例の「きんたま論争」のくだりはカットされている。
チョーサーが前編の騎士道的な女性崇拝と愛の形を重視していたことがちょっと意外だった。
『カンタベリ−物語』をちゃんと読んでなくて、映画でしか知らない僕の偏見なのだろうが、チョーサーはむしろ後編のジャン・ド・マンの描く赤裸々な恋愛の形、批判精神に満ちた描写を好むような気がしていたからだ。
この日本語訳も、篠田バージョンと同様に、詩の形をとっておらず、散文になっている。
篠田氏は、翻訳では韻もふめず、原詩の1行をそのまま日本語での1行におさめるのも困難かつ無意味として、散文での翻訳をした旨、あとがきで書いていた。
よくわかる。
だが、つまらない。
『薔薇物語』は詩作品だ。チョーサーも韻文で英訳しており、そこが詩人の腕のみせどころになっている。散文訳では、その面白さが伝わってこないのではないだろうか。
『奥の細道』を詩や俳句の形を採用せず、だらだらと散文で書き直したものを想定すればよくわかる。「何を言っているか」を正しく伝えられても、それは『奥の細道』の面白さをまったく伝えていない。
『鉄腕アトム』を文章だけで表現しても、それは『鉄腕アトム』そのものの面白さを伝えられない。
(だから、オタクの人がノヴェライズ読んで実際にアニメ見ずに「ガンダム」語ろうとするような心情が僕にはまったく理解できないのだ。とても不思議だ)
篠田版の『薔薇物語』が『薔薇物語』の世界をより正しく、より深く知ることができるとしても、読んだときの面白さでは、見目版の方が圧倒的に上だった。見目誠氏が、自身詩人であるせいだろう。
篠田版は『薔薇物語』というよりも『薔薇物語事典』なのだ、と僕は思った。
で、僕のような研究者でも学生でもなく、ただ面白い本を読みたい一般の読者にとっては、見目版の『薔薇物語』を断然おすすめしたい。そして、『薔薇物語』の面白さを堪能してから、興味が湧けば篠田版事典でいろいろ補ったりするのがいいと思う。さもなければ、篠田版から読みはじめても、おそらくは読了できないのではないか、と思われる。
先日読んだ『闇を讃えて』の「序」でボルヘスはこう書いている。

「詩行の印刷上の形態は、リズムの彼方で、読者に伝えようとするのが情報でも論証でもなく、詩的感情なのだと表明しているのだ」

かえすがえすも、篠田版の『薔薇物語』が詩でなかったことを悔やんでしまう。

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