唯幻論物語

2006年8月1日 読書
岸田秀の『唯幻論物語』を読んだ。
著者自身の神経症の由来を綴るエッセイ。
著者の強迫神経症は、フロイドに触れて分析してみると、母親との人間関係が原因であったことがわかった。
母親は自分に服従する奴隷を欲していたのであり、それを「愛」の名でごまかして押し付けていたのだ。母も子も、この欺瞞を無意識にとじこめているので、表立って反発もできず、神経症になるのだ。この人間関係が後に、成就するなり逃げ出すインチキ恋愛の繰り返しや、相手に自分を侮辱させる行動などになって再現される。
以前読んだクラフト=エビングの著作では、サディズム、マゾヒズムを器質的異常で解釈していた。19世紀の本で、ロンブロゾーの説がまだ信じられていた時代だから、それもいたしかたない。サディズムなどに走る人間は体を見ればわかる、それは人間としては退化した動物に近い存在で、バクネヤングとかワールドイズマインのモンみたいな容貌の人物だ、ということか。う〜ん、あてはまってるような気がする。しかし、岸田秀のこの本では、文中「マゾヒズムもサディズムも、人類に特有な親子関係の形に起因するものであって、性本能とか攻撃本能とかの問題ではない」「当然、生物学的、体質的基盤はない」と言い切っている。
岸田秀は前から飄々とした文体で楽しませてくれていたが、近年、年をとってますます不思議な味わいが出て来た。柳に風、というか、格闘技大会に出て来た老師みたいな風情がある。今までの著作に比べて、特に目新しいことを書いているわけでもないのだが、ここまでくると、古典芸能の一種だ。唯幻論のかたりを楽しくきける。
この本を読んで、面白いなあと思ったところを書き残しておこう。
まず、ラカンについて。
「同じようなことをわざわざ別の枠組みに入れて難しく説明する不思議な人たちの一人」
「独自の専門用語をたくさん作り、それに特別な意味を込めているため、また、論理の展開が回りくどかったり、逆に直観的に飛躍していたりしていて、何を言いたいのかなかなか掴めなかった」
「言語学とかを理論の枠組みとして使っているのを別にすれば、フロイドと大して違わないことしか言っていないとしか思えなかった。ラカンは独自の用語をたくさん作ったが、独自の見解は見当たらなかった」
「ラカンは、自説を高く評価させるために、わざわざ難しくわかりにくくし、彼を理解しようとする読者に多大の努力を要求する」
ボロクソだ。僕もラカンを何冊か読んで、頭が「?」のまま放ってあるけど、ここまで言われると、再挑戦してみようか、という気になるから不思議だ。
また、「精神とは論理構造である」とした章では、神経症についてこう書いている。
「間違った前提から出発して正しい論理の筋道を通って間違った結論に達しているのが、神経症的症状なのである」
これは、神経症だけでなく、ミステリーの根本でもあるなあ、と思った。
不可解な状況を説明するのに、論理の筋道は正しくたどり、間違った前提を暴き出すのが、ミステリーの醍醐味のひとつなのだ。
あと、「精神分析が記述しているような精神現象のほとんどは、とっくの昔に諺や箴言のなかで言及されている」として、いくつか例があげてある。
これが愉快。
「下司の勘ぐり」(投影)、「歴史は繰り返す」(反復強迫)、「己惚れと瘡気のない奴はいない」(ナルチシズム)「可愛さ余って憎さ百倍」(アンビヴァレンス)、「頭隠して尻隠さず」(抑圧)、「泥棒にも三分の道理」(合理化)、「江戸の仇を長崎で討つ」(すりかえ)、「一事が万事」(転移)などなど、これでもかというまで並べてある。
以前読んだ『性的唯幻論序説』では、ある主張をするたびに、それに対する反論をあらかじめ先回りしてフォローする書き方が目立った。
この本では、何か言ったあと、たとえば「理論をどう解釈しようが、それは解釈する人の勝手であると言えないこともないが…」など、「…」を多用して、反論に対するフォローをしているのが目立った。
それと、「〜だろうか」「〜だろうか」と多くの疑問文を重ねて、自分が本当に言いたいことをかなりキツイ形で紛れ込ませている書き方が多かった。
たとえば、この本は、小谷野敦の岸田秀批判にこたえる形で書かれているが、その史的唯幻論批判に対して、こんな文章がこれでもかと並ぶ。
「小谷野は〜としか考えられないのだろうか」
「小谷野は〜ではなかろうか」
「小谷野の考えでは〜その矛盾を突いたつもりなのであろうか」
「小谷野は〜区別がつかないのであろうか」
「小谷野は〜別の根拠を提示すべきではなかろうか」
これがえんえんと続く。
傍で見ているぶんには、面白い!

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