ウンコな議論

2006年7月29日 読書
ハリー・G・フランクファートの『ウンコな議論』を読んだ。
ウンコな議論というのは、嘘には到らないながら、まやかしであり、ふかし、はったり、ごまかし、はぐらかし、その場しのぎの発言のことをさしている。
「ウンコ議論が本質的に歪曲するのは、それが言及する事物の状態でもなければ、その事物の状態をめぐる話者の信念でもない」(要するに、嘘じゃない、てこと)
「かの人物が必然的にごまかそうとするのは、そこで語るという己の行為そのものについてである」
その場を切り抜けるために、物事の実際の状態がどうであるか、真実は何であるかを見ずに、ベラベラと語られるのが、ウンコな議論なのだ。
屁理屈やウンコ議論は、知りもしないことについて発言せざるを得ぬ状況に置かれたときには避けがたいもので、公的な場や、民主主義の世の中ではどんなことにでも自分なりの意見を持っていなくてはならないと思い込んでいる場合に、発動されやすい。
原題は「On Bullshit」
フム。こう訳しましたか!
訳者の山形浩生によると、文化相対主義や反知性主義がはびこっていた70年代に、この本の原形となる文章が書かれたそうだ。
知性や学問を無意味だと言ったり、愚者の発言に真理があると思い込んだり、不確定性原理や不完全性定理を持ち出して、客観的な真実なんてない、と居直る風潮を山形浩生は「アホダラ経」と言う言葉でまとめている。
アホダラ経全盛の時代に書かれた「ウンコな議論」は、そうした風潮に待ったをかける文書だったのだろう。
この本の表紙を見て、面白いことにすぐ気づく。
著者であるフランクファートより、訳者の山形浩生のほうが大きな文字で印刷されている。
さらに、本文と同量の「訳者解説」がついているのだ。ここまでくると、共著だ。翻訳の奔放さを考えれば、山形浩生のアレンジ作品と言えるかもしれない。
先にも書いたように、フランクファートは、現代においてウンコな議論がはびこっているのは、誰もがいろんなことに意見を持っていなくてはならない、という強迫観念にとらわれていて、また、いろんな意見を聞かれる機会が多くなったからだ、と説明している。
山形浩生はそれだけじゃない、と付け加える。聞かれもしないのに、新聞の投書欄やネット掲示板、ブログなどでウンコ議論を量産する人々がいるのだ。(また、なぜか専門家の書いたものを読まずに、この手の素人の発言を追いかけたり信じる人も多い!)これらのウンコ議論量産家は、どこからか圧力がかかって言わされているわけではないので、「その場しのぎ」以外の要素がありそうだ。
山形浩生は、今後の研究に待ちたいとは言っているが、仮説をあげている。
ウンコな議論がはびこれば、人は1人の人物から聞いたことを鵜のみにせず、複数の人から聞いて自分で判断するようになるだろう。メディア・リテラシーみたいな考えだ。
また、あまりにもデタラメな話でも多少の土地鑑があればそのデタラメさが判別できる。
ウンコ議論によってヨソ者を判定できるのだ。
人を喰った仮説だ。
ウンコ議論が出る原因の話だけに、喰うのは自然な流れなのかもしれない。

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