萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造
2006年7月4日 読書
堀田純司の『萌え萌えジャパン』を読んだ。
「萌え」「オタク」に関するルポ。なのだが、タイトルの恥ずかしさったら!
第1章「メイドカフェ」
第2章「抱き枕」
第3章「等身大フィギュア」
第4章「アイドル」
(小倉優子にインタビュー)
第5章「美少女ゲーム」
(メイド.Netの関口久也、ねこみみ屋の宮園誠人、TYPE-MOONの武内崇にインタビュー)
第6章「声優」
(清水愛、赤松健にインタビュー)
メイドカフェには何度か行ったことがあるし、アイドルも普通に好きだ。
でも、その他の抱き枕、等身大フィギュア、美少女ゲーム、声優については、ほとんど踏み込んだことがない。だからそれぞれの紹介記事を読む、というスタンスで読んだのだが、さて。
以下、読んでいて興味をひいた部分を引用など。
鶴巻和哉は『フリクリズム フリクリデザインワーク2』で、萌えとは何かについてこう答えている。
「特定のキャラクターに関する不十分な情報を個人的に補う行為」なるほど。
さらに、こんなことを。
「最初の頃にあった萌えという現象は補う行為だったと思うんです。作品の中に萌えが描かれているわけじゃないだろうと。萌えは受け手の中で勝手に芽生える衝動だと思うんです」
な〜るほど。この発言は、一方現在、萌えは作品の中に「萌え要素」としてあらかじめ用意されている、ということにつながっていく。想像力あるいは妄想力の範疇だったものが、商業主義に回収されているのが現在の状況だ、ということだ。
赤松健のインタビューで、自作について「商業主義」と言っている。
ヒットした漫画なら、それはまったくその通りなのだろう。
このインタビューで面白かったのは、『ネギま!』でキャラクターがやたらいっぱい出てくるのは、モーニング娘。にヒントを受けたものだと言っていることだ。
赤松健によるとモーニング娘。は「区別つかないんだけど、楽しいことをやってる」ものとして映ったのだ。モーニング娘。で「区別つかない」とか言っているようでは、『ネギま!』なんてまったく判別不能じゃないか!
また、日本におけるアイドルの歴史は、江戸時代の笠森お仙にはじまるという。
この笠森お仙(1751生まれ)は水茶屋で働く少女で、単なる看板娘の域を越えて、鈴木春信が錦絵に描いたり(今で言えばグラビアやブロマイド!)、狂言になり、絵双紙になり、双六や手ぬぐいなどのグッズまで出たらしいのだ。
大田南畝の『半日閑話』にお仙の人気について書かれているそうなので、また近いうちに探してみよう。
あと、アイドルの章で、こんなことが書いてあった。
漫画やアニメのキャラクターのファンは「この世にいない」という空隙を埋めるために自分の部屋にキャラクターグッズを並べる。
アイドルのファンは「自分の側にいない」という現実を超えるために、イベントや公開収録などを追いかけ、やっぱりグッズを買う。
「自分の手で決して触れられないものを追いかける行為はどこか切ない」って。
外から見ると、そうなのか。
アイドルファンの僕は「アイドルが自分の側にいない」なんてちっとも思っていなかった。
『週刊わたしのおにいちゃん』発売特報のコピーは、こうだったらしい。
「これはもはや凶器っ
しかも戦略核級の…!
死ぬのか?ここで萌え死ぬのか…!?
伝説に参加するために必要なのは…勇気。
そう。これを手にしてレジに進む覚悟…!」
これに絡めて、こう述べている。
日本の萌え文化は「美少女がほしいから集める」という単純な楽しみ方ではない。
「こんなのを集めちゃっているダメ人間のおのれ」をエンターテインメントとして燃焼する多重構造を持った楽しさなのである。
って。
この本は2005年に出たものだが、今、問題になっているのは、こうした多重構造を持たないオタクたちが出現していることにあるんじゃないか。
開き直りというか、単細胞というか、硬直というか、右傾化というか。
そこに、『嫌オタク流』が出版される契機があったのだと思う。
かつては心の狭い一般人がオタクを差別していたが、今や心の狭いオタクが一般人を差別しているのが問題化しているのである。
ともあれ、この『萌え萌えジャパン』は、古きよきオタク、萌えについてのルポであり、しめくくりの表記の控えめな態度が、とてもいい。
「萌え萌えする気分を大切にせよ、などと言うことはできないが、それを面白がるぐらいの想像力は心に抱きたいものである」
「萌え」「オタク」に関するルポ。なのだが、タイトルの恥ずかしさったら!
第1章「メイドカフェ」
第2章「抱き枕」
第3章「等身大フィギュア」
第4章「アイドル」
(小倉優子にインタビュー)
第5章「美少女ゲーム」
(メイド.Netの関口久也、ねこみみ屋の宮園誠人、TYPE-MOONの武内崇にインタビュー)
第6章「声優」
(清水愛、赤松健にインタビュー)
メイドカフェには何度か行ったことがあるし、アイドルも普通に好きだ。
でも、その他の抱き枕、等身大フィギュア、美少女ゲーム、声優については、ほとんど踏み込んだことがない。だからそれぞれの紹介記事を読む、というスタンスで読んだのだが、さて。
以下、読んでいて興味をひいた部分を引用など。
鶴巻和哉は『フリクリズム フリクリデザインワーク2』で、萌えとは何かについてこう答えている。
「特定のキャラクターに関する不十分な情報を個人的に補う行為」なるほど。
さらに、こんなことを。
「最初の頃にあった萌えという現象は補う行為だったと思うんです。作品の中に萌えが描かれているわけじゃないだろうと。萌えは受け手の中で勝手に芽生える衝動だと思うんです」
な〜るほど。この発言は、一方現在、萌えは作品の中に「萌え要素」としてあらかじめ用意されている、ということにつながっていく。想像力あるいは妄想力の範疇だったものが、商業主義に回収されているのが現在の状況だ、ということだ。
赤松健のインタビューで、自作について「商業主義」と言っている。
ヒットした漫画なら、それはまったくその通りなのだろう。
このインタビューで面白かったのは、『ネギま!』でキャラクターがやたらいっぱい出てくるのは、モーニング娘。にヒントを受けたものだと言っていることだ。
赤松健によるとモーニング娘。は「区別つかないんだけど、楽しいことをやってる」ものとして映ったのだ。モーニング娘。で「区別つかない」とか言っているようでは、『ネギま!』なんてまったく判別不能じゃないか!
また、日本におけるアイドルの歴史は、江戸時代の笠森お仙にはじまるという。
この笠森お仙(1751生まれ)は水茶屋で働く少女で、単なる看板娘の域を越えて、鈴木春信が錦絵に描いたり(今で言えばグラビアやブロマイド!)、狂言になり、絵双紙になり、双六や手ぬぐいなどのグッズまで出たらしいのだ。
大田南畝の『半日閑話』にお仙の人気について書かれているそうなので、また近いうちに探してみよう。
あと、アイドルの章で、こんなことが書いてあった。
漫画やアニメのキャラクターのファンは「この世にいない」という空隙を埋めるために自分の部屋にキャラクターグッズを並べる。
アイドルのファンは「自分の側にいない」という現実を超えるために、イベントや公開収録などを追いかけ、やっぱりグッズを買う。
「自分の手で決して触れられないものを追いかける行為はどこか切ない」って。
外から見ると、そうなのか。
アイドルファンの僕は「アイドルが自分の側にいない」なんてちっとも思っていなかった。
『週刊わたしのおにいちゃん』発売特報のコピーは、こうだったらしい。
「これはもはや凶器っ
しかも戦略核級の…!
死ぬのか?ここで萌え死ぬのか…!?
伝説に参加するために必要なのは…勇気。
そう。これを手にしてレジに進む覚悟…!」
これに絡めて、こう述べている。
日本の萌え文化は「美少女がほしいから集める」という単純な楽しみ方ではない。
「こんなのを集めちゃっているダメ人間のおのれ」をエンターテインメントとして燃焼する多重構造を持った楽しさなのである。
って。
この本は2005年に出たものだが、今、問題になっているのは、こうした多重構造を持たないオタクたちが出現していることにあるんじゃないか。
開き直りというか、単細胞というか、硬直というか、右傾化というか。
そこに、『嫌オタク流』が出版される契機があったのだと思う。
かつては心の狭い一般人がオタクを差別していたが、今や心の狭いオタクが一般人を差別しているのが問題化しているのである。
ともあれ、この『萌え萌えジャパン』は、古きよきオタク、萌えについてのルポであり、しめくくりの表記の控えめな態度が、とてもいい。
「萌え萌えする気分を大切にせよ、などと言うことはできないが、それを面白がるぐらいの想像力は心に抱きたいものである」
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