ベルナール・スティグレールの『象徴の貧困』を読んだ。
スティグレールはポンピドゥーセンターの文化開発ディレクター。
経歴を見ると、面白い。
IRCAM(音響、音楽研究所)所長、INA(国立視聴覚研究所)副所長であったこともある。本書にみられる映画からの考察は、得意の手法なのかもしれない。
五月革命のときに学業を放棄し、共産党員にもなり、どういう転落ぶりか、銀行強盗で逮捕され、投獄される。獄中に、哲学と出会い、以後、デリダに師事して思想を深めていく。
元銀行強盗の哲学者って、すごいな。
以下、各章ごとに、簡単なメモ。

第1章 象徴の貧困、情動のコントロール、そしてそれらがもたらす恥の感情について
象徴(シンボル)とは知的な生の成果(概念、思想、定理、知識)と、感覚的な生の成果(芸術、熟練、風俗)を指していう。象徴の貧困とは、このシンボル双方の生産に参加できなくなったことに由来する個体化の衰退を意味している。
別の言い方をすると、「個(自分)」がなくなっていくことをスティグレールは象徴の貧困と呼んでいる。象徴の貧困は精神の貧困につながり、あらゆる希望が失われ愚鈍さが極まる。
私とは私の持ち物との関わりであり、そうであるのはその関わり方が特異なものである限りにおいてなのだ。しかし、大量生産された工業製品というそもそも規格統一されたものと消費者との関係は以後プロファイル化され、特徴別にカテゴリ−化されてしまう。そこでは、特異なものが特殊なもの(ある特徴を持つもの)に変えられてしまう。
何か買ったら「この商品を買った人は、こんな商品も買っています」とかすすめられるのもその1つ。
ナンバー1になれないどころか、オンリー1にもなれないのだ。

第2章 あたかも「われわれ」が欠けているかのようにあるいは武器をアラン・レネの「みんなその歌を知っている」からいかに求めるか
アラン・レネの映画は日本では「恋するシャンソン」というタイトルで上映されている。
ストーリーは、現代人の生きにくさを描いているが、登場人物のせりふは、ヒット曲の歌詞をそのまま使っている。歌をオリジナルのまま流し、役者はそれに口をあわせる。
これはプレイバックとカラオケの中間の形態だ。プレイバックは、歌手本人があらかじめ歌ったのを録音しておいてステージで流し、歌手が口パクするやり方。
一方、カラオケはスティグレールによると「象徴の貧困」の典型らしい。
ここでは、「みんな知っている」の「みんな」が問題だ。
個としての「わたし」がしっかりとあり、それの集まりとしての「われわれ」なんていうものは衰退している。いまや、誰のことを指すのか、その範囲も不明な「みんな」の時代が到来している。
「みんながこう言ってる」とか「みんなが噂している」「みんなが知っている」なんて安易に「みんな」を使うのは御法度だ。
僕はよく「みんなが言ってた」と聞くと、「えっ!世界中の人類全員が言ってたのか!」と驚いてみせたものだ。

第3章 蟻塚の寓話、ハイパーインダストリアル時代における個体化
ハイパーインダストリアル社会とは自己破壊的になってしまった資本主義のこと。
個のリビドーをつかまえて、馬鹿げた、しかも依存症を招くような消費活動を展開させることで、リビドーの昇華をさまたげ、心的基盤となる本源的ナルシシズムを破壊してしまう。
現代では、もはや「個」はなく、あるのは群集的、部族的な「部分」で、昆虫のような群生組織であり、それらが蟻のように生産するのは、もはやシンボルではなく、デジタル的なフェロモンなのだ。

第4章 ティレシアスと時間戦争、ベルトラン・ボネの映画をめぐって
あらゆる映画につねにすでに住み着いている権力としてのテレビのことを、映画によって批判し、映画とテレビが組み合うことが必要。

本書で言わんとしていることは、とても興味深くて、興奮した。
本書はスティグレールの単著としては最初の本になる。この本にも続編があるそうなので、翻訳を待ちたい。
スティグレールは、何度か来日もしており、その際、オタクやひきこもりの現象に興味をもったようだ。近いうちに、スティグレールは、なぜオタクは廃人になりやすいのか、なぜひきこもりはキレやすいのか、ということについて、書いてくれるはずだ。

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